2017年02月09日

ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男/神様、もう脱ぎません

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ニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)に備わったはずの血肉はオープニングのシークエンスを最高潮に、物語が進むに連れ事態の狂言回しとなってどんどんと透けていくように思われる。オレは大義に殉じるのだと妻セリーナ(ケリー・ラッセル)と幼いわが子を狂信めいたあっけらかんで放りだし、その後は2人の消息を特に気に留めることもないまま、ある時思い出したようにかつての我が家を訪ねては、当たり前のように空っぽになった家から持ち帰るのは1冊の綴り方読本でそれとてレイチェル(ググ・ンバータ=ロー)との新しい関係を築くツールに過ぎず、何より驚かされたのはその後ようやく再会したセリーナと息子を前に涙の一滴も流さないどころか、2人の面倒を見ることが何か寛大さの現れでもあるかのように描かれていたところで、あてにならない夫を見限って家を出たのはどういうわけかレイチェルの失策とされていたのである。それともう一つ、沼地で逃亡奴隷モーゼス(マハーシャラ・アリ)たちと過ごすに日々にかつての僚友ジャスパー(クリストファー・ベリー)ら白人が合流してコミューンが拡大していく中、その活況につれモーゼスたち黒人が隅に追いやられてくことにまったく映画は無頓着で、自分を立て直す手助けをしてくれた彼らに払うべき敬意をニュートンがいつ白人の新参者たちに告げるのかワタシは気をもんでいたのだけれど、それがようやくなされるのが食べ物をめぐる小競り合いの仲裁というわかったようなわからないようなエピソードだったことにも少なからず落胆したのである。そんな風にしてマシュー・マコノヒーのチャームを頼りにするばかりのステレオタイプに、もちろんここで初めて知る事実と歴史については好奇心と敬意が止むことはないけれど、教会でフッド大佐(トーマス・フランシス・マーフィー)がニュートンに向かって言う「お前のオヤジを知ってるぞ」という台詞が気になって調べてみれば、彼の父ではなく祖父がかつてジョーンズ郡で最大の奴隷所有者の一人であったことなどけっこうな驚きと共に知るわけで、140分を費やしておきながら彼の動機の最も重要な陰影となる事実をなぜオミットしてしまうのかまったく理解しかねたのである。ここで描かれている戦いが終戦などしていないことなど誰もが知るところなのに、それを念押しするかのようなフラッシュフォワードに割く中途半端な時間があるならば、なぜ彼が妻子を捨ててまで地べたに近い方に立つ人だったのかを描くべきだったのではなかろうか。オープニングでの先祖返りしたオマハビーチのような戦闘シーンや切り株が呻く野戦病院、葬儀の場を一転して壮絶な銃撃戦に変転させる黒衣の女性によるヘッドショットなど、切り出されたボディには終始胸を弾まされただけに、それを駆動するエンジンの馬力が足りなかったのがどうにも悔やまれる。マシュー・マコノヒーは何かノブリス・オブリージュ的な行いとして恵まれない企画に身を投じているのかわからないけれど、それも手伝ってか、ビタースイートを半身のグラマラスでかわす綱渡りが『インターステラー』以来影を潜めているのがとても気にかかる。ストーナーコメディらしいハーモニー・コリンの新作を待ちたい。
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2017年02月06日

ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち/スメルズ・ライク・ティム・スピリット

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ぼくと世界はどんな風にすれちがってしまっているのか、その時世界はどんな風にぼくを悲しませたのか、かつてのティム・バートンはその蒼い苦渋をガソリンに点火していたはずなのだけれど、ジェイク(エイサ・バターフィールド)のそれはオープニングでほんの数分だけとってつけたようなスクールカーストの残滓として描かれるだけで、ジェイクが抱える屈託とそれをなだめるために彼が育てるバランスは放っておかれたままだったように思うのである。したがってこの映画でなにがしかの反発がおこなわれることはないわけで、これが他人の筆による原作脚色であるにしろ、もう自分はレベルな時期を過ぎてしまったから昔のように思春の異議申し立てを代弁することはできないんだという、それは果たして誠実なのかあきらめなのか、しかし大人になるとはこういうことなんだよという訳知り顔だけはすまいとするその決意だけで、何とかティム・バートンは撮りきっていたように思うのだ。だから、その反映とも言えるジェイクのピーターパン的な最終選択も、彼が棄て去った時間の重みが感じられなかったことで通過儀礼のメランコリーが今ひとつ染まらないままということになってしまう。未だにこんなないものねだりを垂れ流すワタシのような客はティム・バートンにとって迷惑なのは重々承知しているけれど『PLANET OF THE APES 猿の惑星』で外にある大きな世界との対決に臨んで無残にも一敗地に塗れたティム・バートンは、それまで勝ち続けたその戦い方ゆえ、その敗け方ですらこちらに傷を残したわけで、言ってみればあの時ティム・バートンはワタシたちを代表して敗けたと思っているからこそ、その後のティム・バートンがたどった世界への服従と時折の密かなリハビリを追い続けざるをえないのだ。そうした意味においてここには服従もリハビリも見当たらず、だからといってティム・バートンがようやく新たな語り口にたどり着いたのかと言えばそういうわけでもなく、アルゴリズムに沿って人工知能が描いたティム・バートンのダーク・ジュヴナイル・ファンタジーとでもいう手続きの産物に思えたわけで、『フランケンウィニー』『ビッグ・アイズ』と続けた後のこの無表情が寛解の終わりとならないことを祈るしかないように思っている。モンスターというよりはモダンホラー的なクリーチャーでしかないホローのデザインにもそれを憂いている。
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2017年02月05日

マギーズ・プラン/しくじるなよ、マギー

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出だしというかきっかけは「ガープの世界」あたりを思わせるのだけれど、マギー(グレタ・ガーウィグ)のそれはフェミニズム的な変奏というよりは、男性と継続的なパートナーシップを築けない事情による非常手段であって、ではなぜマギーはいつもそうなってしまうのか皆さんにお見せしましょうというお話の、その余禄または必然としてマギーに転ばされるスノッブたちのドタバタを笑うことになるわけで、観賞前は贅沢にもジュリアン・ムーアとイーサン・ホークを配したマンブルコア的な展開を思っていたのだけれど、手ざわりとしてはどちらかといえばシットコム的に記号化された配置に近い。いかにもなNYスノッブのジョーゼット(ジュリアン・ムーア)とジョン(イーサン・ホーク)がからかいと笑いの対象となるからと言ってマギーが正解者であるかというとまったくそういうわけでもなく、みんな一人一人がそれぞれのシャボン玉の中に入って生きてるのよ、と愛娘に語りかけるマギーは、でもあなたはお母さんと一緒のシャボン玉の中にいるけどねとは言わないわけで、それを都市生活者の透明で密やかな孤独として染めてしまわないためにわざわざマギーにクエーカー教徒(それぞれに内なる光を求めよ)の設定を与えているし、シングルマザーであった母との生活を想い出して懐かしさに涙ぐむあたり、彼女は自身の生活においてそれを再現しようとしているだけなのかもしれないという考えが頭をよぎった瞬間、実はマギーの闇が一番深くて厄介なのではなかろうかと笑いの質が少しばかり変わったように思えたし、したがって、新しい計画を思いついてほころんだマギーの顔で締めるラストも、ハッピーエンドというよりはどちらかといえば新たな犠牲者ガイ(トラヴィス・フィメル)への同情にも似た作り笑いで見送ってしまうのである。それにしてもである。ジョーゼットに、あなたは純粋だけれどもちょっとバカよねと一刀両断されるがごとく、総身に知恵がまわりかねるかのように曖昧な時間差で動き生きるマギーを演じるグレタ・ガーウィグの、これはほとんど彼女のアテ書きだろうというナチュラルな憑依はさすがにジュリアン・ムーアとイーサン・ホークを刺身のつまとするだけのことはある、その磨きのかかった無垢と無意識のコメディエンヌっぷりに一人遊びをする犬を見るような慈しみが自然にと湧いてきてしまうのは、今後果たして彼女のレッテルと枷になってしまわないのかどうなのか。所詮「ダンシン・イン・ザ・ダーク」を歌い踊る夫婦だもの、お里が知れるわと「ルーディたちへのメッセージ」のダンディ・リヴィングストン版オリジナルでマギーを一人踊らせるレベッカ・ミラーのたちも相当に悪い。
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2017年02月02日

マグニフィセント・セブン/イングロリアス・エイト

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監督フークアがデンゼル・ワシントンを扇の要に据えた時点で、晴れ渡った青空に小さく笑いながら自爆する60年版のセンチメントを再現する気など毛頭ないことは自明だし、内戦によって分断されたアメリカの憎悪を手管に市井を蹂躙する外道な資本家に唾する男たちの闘いにおいて、正義の遂行者ですらが憎悪と復讐の暗黒連鎖に堕ちていくのを絶ちきったのが一人の女性であったこと、そしてこの聖戦において生き残ったのが黒人とメキシコ人と先住民族であったという、まるで2017年のアメリカを見通していたかのようなフークアの選択に少なからず驚かされたのである。そうした意味で、この映画はタランティーノによってジャンルを換骨奪胎されたいくつかのレヴェル・ムーヴィーの構造に非常に近い。従って、復讐の寡婦エマ(ヘイリー・ベネット)に雇われた7人は個々のストーリーというよりはその関係性によって立体性を保ち、それについては必ずしもすべてが上手く行ったとは思わないけれど、大陸横断鉄道敷設に投入された苦力の影を匂わすビリー・ロックス(イ・ビョンホン)とデラシネの屈託を共有するグッドナイト・ロビショー(イーサン・ホーク)、マンハンターであるジャック・ホーン(ヴィンセント・ドノフリオ)と先住民族レッド・ハーベスト(マーティン・センスマイヤー)、グリンゴとしてのジョシュ・ファラデー(クリス・プラット)とメキシコ人ヴァスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)といったところの関係が、サム・チザム(デンゼル・ワシントン)とバーソロミュー・ボーグ(ピーター・サースガード)の血で血を洗う因縁を下支えすることになるわけで、タランティーノであれば言うまでもなくこの構築に160分を要求したであろうことを考えると、そのつづれ織りの目が粗いのはある程度致し方ない気もして、現代の風向きにおいて分の悪い西部劇という足場をアメリカの原風景とあえて選んだその意図と意思と志だけでまずは十分すぎるくらいだし、殺戮の現場としての西部がガンファイトの過剰な致死性で描かれる昂奮は近年類を見ないのではなかろうか。このヘイリー・ベネットをみていると、やはり肉体の激情こそが理性を心底から慟哭させるのだなと、ナタリー・ポートマンとあの映画に欠けていたものの正体を図らずも浮かび上がらせてしまっていたようにも思え、それくらいヘイリー・ベネットの骨と肉は、誰よりも暴力的にそびえ立っていた。
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2017年02月01日

ドクター・ストレンジ/魔法にかけられ過ぎて

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スコット・デリクソンという人は、中盤あたりまでをトップギアに恐怖をはりつけ緊張をはりめぐらして、その麻痺と疲弊とでおぼつかなくなった足取りとうわずった赤い目の充血でエンディングに這っていく姿にうっとりするところがあるので、例えば『地球が静止する日』のようにコースの決まったオペレーション仕事ではなかなか本領を発揮しづらいこともあるからそれなりに危惧はしていたのだけれど、しかしこれが、屈託を必要としない主人公が屈託につかまりそれを手なづける話であった点で下手の考え休むに似たりを裏返した真面目な顔のバカ話に思いのほか歩調が合っていたように思って、他人事ながら何だかほっとしたのである。内ゲバが悪を呼び込むというMCUの手癖自体は少々うんざりなのだけれど、どちらかというと前述したようなバカ話をやりたいがためにここでは枠だけ借りて知らんふりをしたといった方がふさわしく、諧謔で動くことのできる俳優としてベネディクト・カンバーバッチをキャスティングしたのも、ロケンロールとしてのMCUで端緒を開いたロバート・ダウニー・Jrをロールモデルにしたところがあったからなのだろう。ドクター・ストレンジとエンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)およびカエシリウス(マッツ・ミケルセン)による、ノンシャランとプラグマティストと原理主義者のポジショントークも最後まであさっての方向を向いたままであって、しかしそれがいい具合の目眩ましになったというべきなのか、最近のMCUで飽和気味の内省する鏡像の自己破壊ドラマからの解放と、まあとにかく今回は映像を観て帰ってよという製作陣のニヤニヤがすべてであった気もするのだ。そのトリップショットも『2001年宇宙の旅』的ポストモダンではなく『ミクロの決死圏』的サイケデリックの、超人でもミュータントでもない魔法使いといういっそうの荒唐無稽にふさわしいこけおどしに満ち満ちて、どうせなら今自分が観ているのは何の映画なのか分からなくなるまで放り込んでおいて欲しかったとも思ったわけで、となれば、キミはサウロンかとつっこまざるを得ないドーマムゥの顔かたちはいささか野暮が過ぎたようにも感じてしまうのだけれど、その脱力バトルも含め最後の最後までバカを貫いた気概はやはり買うべきだろう。取り沙汰されたティルダ・スウィントンのキャスティングは、彼女のゆうに2倍はあるベネディクト・カンバーバッチの顔面との対比でパースを狂わせて不安定を誘うためであったことも理解した。慧眼である。傷んだ肉体の微に入り細に入る描写はスコット・デリクソンのフェティッシュか。
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2017年01月29日

トッド・ソロンズの子犬物語/クスリとスリルと腹痛

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ウィンナーみたいだからウィナードッグ(原題”WIENER-DOG”)とあまりに身もふたもない呼ばれ方をしてしまう(ことを初めて知った)ダックスフントが、戦火の馬ならぬ戦火の犬としてアメリカ市井のコンバットゾーンをよたよたヘナヘナと走り回っていく。オープニングの2カット目で犬の視点からケージ越しの空を捉える以外は犬を擬人化したアクションは一切ないまま、犬はただそこにいる犬として人間様の都合でいいようにあしらわれては、犬がいなくても起きたであろう出来事について、スイカに塩をかけると甘味が増して感じられるように、そこに犬の愛嬌があることでよりいっそう寂寥感を増すはたらきとなっている。どうして犬を撫でる優しい手つきで世の中をかき分けて行けないのか、どうして犬を呼ぶ優しい声で世の中に呼びかけないのか、根っから悪いやつなんてアントン・シガー以外そうそういないわけで、自分の内と外の分断や断絶にはまって身動きがとれなくなっていく人たちの悲哀を、少なくとも僕だけは看取ってあげるよとトッド・ソロンズは肩を抱きながら背中を押すのであり、ナナ(エレン・バースティン)ならずとも自分の最期の時があんな風に総括されたらたまったものではないわけで、こんなのイヤ!と叫んだその身代わりとしていったい犬がどんな目に遭ったか、ナナからゾーイに渡った1万ドルはファンタジーによってあのラストのために費やされたのか、だとしたらナナはあのまま旅立った方が幸福ではなかったのか、死ぬよりマシか死んだ方がマシか、トッド・ソロンズの生き地獄である。幸福に手がかかったかに思えるドーン・ウィナー(グレタ・ガーウィグ)にしたところでブランドン(キーラン・カルキン)の左腕にまだ新しい注射痕を見ているわけで、ドーンとブランドンによるその後のドールハウスの物語にしたところで、既にこのカップルが生き地獄のとば口に立っているのは言うまでもない。そもそもが下痢と癌とで円環するような映画である。
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2017年01月26日

沈黙 −サイレンス− /アイ・アム・ノット・ユア・ファザー

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殉教から遁走し続けるキチジロー(窪塚洋介)は神のために死ねない自分を弱いと泣く。それはもちろん、死ねばパライソ(天国)で自身の苦しみから解放されると信じて死んでゆくのは果たして殉教といえるのだろうかという自問の末でないにしろ、デウスは大日なのだと看破せざるを得なかったフェレイラ(リーアム・ニーソン)の言葉を借りるでもなく、パライソ信仰はよりオールマイティな浄土信仰ではないのかという疑問とつかず離れずしてしまうのも確かなのである。しかし、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)が最終的に直面する、眼前で苦しむ教え正しいとは言えぬ潜在的異教の人を救済するために己の信仰はどこまで有効かという信仰の極北を乗り越えたのは、キチジローという存在がまるで神の恩寵でもあるかのようにロドリゴの保つべき正気の合わせ鏡となっていたからなのだろうし、最後にロドリゴからキチジローに向けられる原作にない言葉はその現れということになるのだろう。そして、ロドリゴが最後に掌中にするのが自身のクロスではなくモキチ(塚本晋也)が作り託したそれであったことからも、沈黙の声とは自ら境界を超えていくことでしか耳にすることは叶わないのだというスコセッシのたどり着いた答えがうかがえるように思うのだ。これほど原作に喰らいつくように映像化されてしまうと映画の感想なのか原作の感想なのか自分でも曖昧になってしまうのだけれど、スコセッシが獲得して託した答えはその同時代性において否が応でも突き刺さってくるし、ワタシたち観客がそれをロドリゴの旅の仲間として共に喜び怖れ打ち震える体験を可能にした映像のデモニッシュな美しさと幻想的な寄る辺の無さは、それと引き換えにスコセッシが差し出したであろう魂の息づかいを思わせてやむことがない。井上筑後守(イッセー尾形)については、通辞(浅野忠信)がロドリゴに言う「井上様は現実的なお方であって、ただ残酷というわけではない」("He is only a practical man, Padre, he is not a cruel one.")という台詞における "practical" のモンスターとして少々戯画化して描いてはいるのだけれど、トモギ村でイチゾウ(笈田ヨシ)、モキチ、キチジローたちが戦略的に踏み絵をしてみせた時とキチジローがクロスに唾した時に見せる彼の表情は、後にロドリゴに告げる「日本とはそういう国だ。どうにもならぬ」という言葉に潜む彼の徒労もうかがわせ、絶対悪を据えてしまうことで構造が矮小化することを回避しようとするスコセッシの演出にはため息とともに唸らされてしまう。 常々思うことだけれど映画の洋邦で目につく差はやはり「黒」の階層で、時間、要するにお金をかければかけるほど「黒」はそれが絢爛な漆黒であっても殺伐の闇であっても魔法のように美しくなることを目の当たりにした映画でもあったし、生きたまま人が燃やされ、十字を切る間もなく斬首される瞬間へ一瞬の隙なく踏み込むカメラの獰猛は、やはり紛うことなきスコセッシの映画だなあとどうにも昂奮してしまう。 当初日本人俳優の情報が入ってきた時は、てっきり塚本晋也がキチジローだと思っていたのだけれど、キチジローをロドリゴにとっての救済者とするために穢れの奥にも無辜の光をたたえる目をスコセッシは窪塚洋介に欲したのだろうし、そのヴィジョンを十全に理解した彼によってもたらされた清冽がこの映画自体の救いとなっている。
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2017年01月23日

ザ・コンサルタント/お前はもう監査されている

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顧客の農場に闖入した殺し屋2人を返り討ちにし、それを呆然と見守る農場主夫婦の前から立ち去りかけて、あ、忘れてたとばかり小さく手を上げて別れの挨拶をするクリスチャン・ウルフ(ベン・アフレック)の可笑しみにひそむ、俺は挨拶をしなけりゃならない時としなくてもいいだろう時の判断がうまくつかないから、だったらいつもすることに決めておけば少なくとも失礼はないだろうと考えている、とする経験則的な知恵に漂うどこかしらの哀しみは、俺は生まれた時から世界ってやつにドアを閉められちゃってて、でもそのドアに寄りかかってないと転んじゃうんだよねという目は笑っていない苦笑いによっている気もして、だとしたらそんな風に歯を食いしばった朴念仁のメランコリーを踏みにじってキックにする話はあまり愉しそうではないなあと思って身構えていたものだから、終盤になってどたばたと底の抜けていく展開も、だってもともと彼には足元の確かな底なんて与えられてないんだから関係ないよね!と何とも晴れやかで涼やかな気分のままいられたのである。そしてそれは、かつて自分を門前払いした世界を逆恨みしないどころかその行動の動機が種々の友情によっていることも手伝っているのだろうし、それはすなわちクリスチャンにとっての善きことに対する切ないまでの忠誠とも言えて、デイナ・カミングス(アナ・ケンドリック)との予期せぬ交歓もほとんど騎士道といってもいいフェアネスの遂行がロマンスを寸止めしてしまうのである。結果としてクリスチャンを中心とするネットワークを構成することになるデイナ、レイモンド・キング(J・K・シモンズ)、メリーベス・メディナ(シンシア・アダイ=ロビンソン)といった人たちがみなそれぞれに痛みを知る人たちであること、そしてクリスチャンがコンマ単位の躊躇も見せず排除するのが痛みを与える人たちであることも、単なる勧善懲悪ではないこの映画ならではの風通しを誘っているのだろう。完全なネタバレになるのである2人の名前については伏せておくけれど、その関わりと顛末はちょっとした奇蹟を見るような気分であって、まさかこれだけ綺麗な気持ちで劇場を後にするとは思わなかったし、クリスチャンが宝物とするアレが、ベン・アフレックが自身の資質を照合して役者としての突破口を見つけたあの作品に繋がっていることも含め、予期せぬ血の通い方に胸のざわつきが止むことのない映画だったのである。だってあそこで弟が笑うんだもんな。
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2017年01月18日

ネオン・デーモン/ブラックハニープラムパッションピーチーキーン

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※展開に触れています

アタシに股開く度胸もないくせに「ママはあたしを危険な子って言うわ」とか中二ってるんじゃないわよ、ムカつくわこいつ!と怒髪天を衝いたルビー(ジェナ・マローン)を実質的な主役に、彼女と彼女のゆかいな仲間たちのバビロンな日常をヘネシーのCMにおいて更にあからさまなケネス・アンガーへの偏愛と崇拝の証として描いてみせては、ペダンチック?なにそれ喰えるの?とニヤニヤしながらホントに喰ってしまったものだから、ならばこれは『オンリー・ゴッド』を観て心中を宣言したワタシへのご褒美かと恭しくいただいておいた次第である。冒頭のメイクルームからして、フィクスのままフォーカスの切り替えで会話ショットを切り返すこれみよがしが走り出し、ジェシー(エル・ファニング)にはなかなか拭えない血糊をルビーはさっと拭き取ってしまうあたりの初球のコントロールから始まって、◯(月)から△(ネオン)、そしてルビーの描く×への移ろいはそのままジェシーのカウントダウンとなり、ルビーが月に向かって血を捧げる満願成就への一本道は、言いたいことは特にない幻視家レフンがようやく『ドライヴ』の呪縛から抜け出した証であるようにも思ったのである。したがって、ハンク(キアヌ・リーブス)に呼ばれたマイキー(チャールズ・ベイカー)がバット片手に部屋の奥から現れて階段を昇っていく時の疼くような昂揚、ジェシー襲撃において最初に突っ込んでいくサラ(アビー・リー)が繰り出すパンチの角度および、プールサイドでジェシーを追う彼女のまるで『エクソシスト3』の横切りのような死神の早足、眼前で腹にハサミを突き立てて果てるジジ(ベラ・ヒースコート)をあっけにとられるように凝視するサラの半開きの口の端で歪んだ数ミリの虚無、といった忘れがたいいくつかはやはりダイアログとは無縁の瞬間ということになり、16歳のレクイエムやら審美の王国などと言ったレフンがまことしやかに明かすサブテキストを手探ってみてもどのみち寸足らずに終わるのは目に見えているわけで、結局のところニコラス・ウィンディング・レフンという人は、世界はあまりにも自由で人は暴れざるを得ないという認識をもとに、その“を得ない”と書かれたページの挿絵を描き続けているように思うのだ。リンチが名づけた "Wild at Heart" とおそらく底はつながっている。
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2017年01月13日

人魚姫/チャウ・シンチー・イズ

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広川太一郎の吹き替えを思わず脳内変換するような蒸し暑い香港ギャグを塗りたくったオープングのシークエンスがいったいラストのどんな場面で回収されたか、それ一つ取ってみても、笑いながら暴れる人チャウ・シンチーの緊張と緩和、すなわちゲロと笑顔をいちどきにぶちこんでいく手並みはほとんどウルトラバロックといってもいい過剰の果ての洗練にすらあるように思うのである。前述したオープニングの脱力を経て、シャンシャン(ジェリー・リン)、リウ(ダン・チャオ)、ルオラン(キティ・チャン)の3人が順次なごやかに顔見せを済ませた後で、人魚族の棲み家へ戻ったシャンシャンはリウの会社による環境破壊で傷を負った少年の人魚に薬を与えるのだけれど、全身に負ったその損傷がコメディ映画で何もそこまでやらなくてもというくらいリアルでえげつなく描写されていて、しかしこれもまたチャウ・シンチーにとっては喜怒哀楽の爆風で客の首根っこをつかんでふりまわし、余白から日常が透けて見えるような興ざめなど恥と思えというサービス精神に相違ないわけで、もう後は推して知るべしという百花繚乱であり、武装チームによる人魚族への、排除でも捕獲でもないもはや殺戮としかいえない暴力の噴出も、人魚族長老による逆襲の一撃で壁にボロ雑巾のように壁に叩きつけられる彼らの死に様も、破れたハートで目に涙を浮かべながら水中銃でリウを貫く(しかも3発)ルオランの暴走する純情も、銛を撃ち込まれバズーカが直撃し美しい尾ひれは裂けなめらかな肌も切り刻まれた瀕死のシャンシャンがその力ない視線の先にいったい何を見たのかも、すべてはチャウ・シンチーがお客様のために精魂込めて手配したサービスに過ぎず、しかも全体としては現代中国の深刻な環境破壊への警鐘を鳴らす素振りのうちにあるという狂い咲きだったのである。それはすなわち『ツイン・ピークス』『エイリアン』『ブレードランナー』という前世紀の亡霊がいまだ待望される2017年の、永遠に更新されることのない終わらない日常をほんの100分足らずでも忘れさせてくれるのは狂気と言う名の正気であったという正論に他ならず、そんな映画をIMAX3Dで観ることが叶わない身の不幸を正月から嘆いたりもしたのである。いつの日かチャウ・シンチーとトム・クルーズがタッグを組んでくれないものだろうか。
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2017年01月09日

ピートと秘密の友達/セイントたちのいるところ

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アメリカのイノセンスは孤独を知った魂に宿る、とデヴィッド・ロウリーが再び宣言してみせる。そしてその魂が共鳴する響きこそがアメリカのグッドネスなのだという語りかけが、インディペンデントなクライム・ムーヴィーから、緑色をしたCGのドラゴンが空を舞うディズニー映画へと続く一本の道をあたりまえのようにつなげたことに何だか胸のつまるような疼きをおぼえたのであって、ピート(オークス・フェグリー)を探して夜の空を息せき切って舞うエリオットが、灯りのともった窓の向こうで見知らぬ人間に囲まれて微笑むピートを見つけて目を伏せる姿に、思わずあの夜のケイシー・アフレックを重ねてみたりもしたのである。そして黄金の陽光に向かう逆光のショットは世界を世界たらしめるものへの畏敬を込めたアメリカの原風景となり、リベラルであるとか保守であるとかいった分岐の上流へ向かう懐古というよりは回帰の自然な足取りに思え、おそらくそれはテレンス・マリックがかつて歩んでいながら見失ってしまった道筋のようにも思えるのだ。『セインツ』に続き監督とタッグを組んだダニエル・ハートのストリングスとブルーグラスのスコアも恩寵の調べのような荘厳とたおやかさを寄り添わせ、ボニー・プリンス・ビリーからレナード・コーエンまでをコンパイルした挿入歌のハイセンスにも唸らされる。その中でSt.ヴィンセントがカヴァーしたディノ・ヴァレンティの "Something On Your Mind" についてはやはりカレン・ダルトンのヴァージョンがとっさに耳に忍び込んでくるのを拒めず、となると失われたアメリカーナの歌姫カレン・ダルトンの物語をいつの日か誰かに紡いでほしいという願いがまたしても頭をもたげてくるわけで、ルーニー・マーラ、あるいはジェニファー・ローレンス(『ハンガー・ゲーム』の歌は素晴らしかった)をカレン役に据えたデヴィッド・ロウリー監督作を夢見ることにしたいと思うのだ。大きな笑顔と小さなメランコリーをまきちらすピート役のオークス・フェグリーとナタリー役のウーナ・ローレンスの子役2人がとりわけキラキラとして忘れがたく、特に『サウスポー』でギレンホールの娘役を演じたウーナ・ローレンスの、どこかしらケヴィン・ベーコンを思わせる風情に思わず顔がほころぶ。ディズニーのドラゴン映画ということでスルーを決め込んでしまうのはほんとうにもったいないし、とりわけ『セインツ−約束の果て−』に撃ち抜かれた人であれば絶対に観ておいた方がいいと思う。

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2017年01月07日

ワイルド わたしの中の獣/主に鳴いてます

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アニア(リリト・シュタンゲンベルク)のラストショットに、ああこれは断裁工場からの帰り途、ボリス(ゲオルク・フリードリヒ)の運転するヴァンの助手席で、窓を開けて風を受けながら目を閉じるアニアの見た一炊の夢だったのではなかろうかと、ふだんなら鼻白むであろう夢落ちをむしろ積極的に受け入れる気分になっていたわけで、それくらいこの映画には、ここではないどこか、ここにはいない誰かへの切実な夢想が、夢判断なら舌なめずりしそうなセックスのオブセッションとして溢れかえっていたように思うのである。そのあたりは「赤ずきん」における狼を引き合いにだすまでもなく、そのどちらかと言えば類型的な関係性と、潜在的な抑圧者としての祖父(は「赤ずきん」で言えば狩人か。射撃も祖父に手ほどきされたことをうかがわせる)とその死による解放が彼女の内面を放つことによる承認欲求の復讐といったストーリーが、アニアがダイヴした狂気を整理してしまう気もするわけで、それよりは、ホテルの部屋に閉じこもった2人が精神も肉体も頽廃していく『愛の嵐』の変質を、あの荒涼としたマンションの部屋で狼とともに選んで欲しかったなどと思ってしまう。アニアが現実のくびきから離れていくに連れ、映画が神経症的なミニマルから怠惰な長息を露わにしていく変更には時おりうっとりとさせられはするものの、暴力とセックスの投げやりがなだれ込んでこないのは、たとえば匂いが臭いになかなか書き換えられてかないあたり、監督は奥底でフェティッシュの人ではないのだろうなという清潔な精神が、アニアを新しい人とする妨げになっていた気がしてしまうのだ。むずかる狼の首に縄をつけてマンションの廊下を引きずる姿の、アニアにとっては恋人たちの逃走というロマンスも端から見れば底の抜けた狂気の沙汰なのだというおかしみをふりまいて、ああ、そもそもこれは『クリーピー』的な拉致監禁スリラーとして観るべきだったかと一瞬後悔したりもしたわけで、してみれば「まだまだ行くぞ〜」と彼岸を幻視するアニアのラストも存外に腑に落ちたかもしれないのだった。
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2017年01月03日

アイ・イン・ザ・スカイ/ドローンは踊る

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結局この戦いにおいて西側が戦うのは宗教や民族ではなく自分たちのシステムにほかならないという徒労と絶望は、紛うことなく『4デイズ』の既視感につながっている。生命は地獄の底までも等価であるべきだと謳う世界を目指す戦いにおいて、その合理は生命の軽重を計算することでリファインされるという皮肉なマッチポンプというか自家中毒というか、それに蝕まれていくパイロットの姿を描いたのが『ドローン・オブ・ウォー』であったことを思い出してみても、これが終わらない戦いであるどころか永遠の負け戦であることすらを前提にシステム化されている気がしてくるのである。この映画に時折漂うどこかしら底の抜けた苦笑いは、視えない戦争の洗練が進むにつれ当事者ですらそれが視えなくなってしまっているディック的な悪夢のスラップスティックによるものなのか、そういう醒めきった俯瞰がメランコリーにまみれた『ドローン・オブ・ウォー』と対照的なのは、これが南ア出身の監督による非アメリカ映画というポジションということもあるのだろう。しかし最後にフランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)は、軍人は視るのが仕事であって視えていないのはおまえたち文民の方だと斬って捨てるわけで、彼にナイロビの少女と同じ年頃の子供がいることを告げながら作戦遂行の意志を微動だにしないその姿は、どれだけデオドラントされようがお前たち文民が始めたこれは殺戮によって歩を進める戦争であって、俺たちみんな戦時体制に首まで浸かっていることをお前らはもう一度よく考えてみるべきだろうとする通牒であったように思うし、作戦が成功したにも関わらずネヴァダとロンドンで流された涙は、既に決定的に変質して元に戻ることはない世界への絶望的な思慕であったのは言うまでもないだろう。そんな風にして戦場には泣かない者と泣けない者が残されて、それが新たな合理を生み出していくに違いないのである。個人がどのような思想を持とうがそれを否定するいわれはないけれど、ヘレン・ミレンについて言えば自身でもこの役柄には存外にフィットしたのではなかろうかと考える。トランプにとって最大最高となるオバマの置き土産はドローン戦争のシステムであったことはおそらく間違いないだろう。『4デイズ』で日和ったエンディング(寄る辺なきヴァージョンは日本公開版のみ)を採用した北米の腰抜けをせせら笑う黒くて硬いガッツに溢れた傑作。
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2017年01月01日

あけましておめでとうございます

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新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今年もなんとか、いろいろなあれこれから逃げきれますように。
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2016年12月30日

2016年ワタシのベストテン映画

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イット・フォローズ
キャロル
コップ・カー
SHARING
或る終焉
クリーピー 偽りの隣人
淵に立つ
エブリバディ・ウォンツ・サム!!
最後の家族
ドント・ブリーズ

すなわち、わけのわからぬ言葉は理解できないというのが、言葉の本質なのだ。それは人間の知性の自己防衛である。ところが、ある光景はたとえはっきりと説明はつかなくても、明瞭であり、理解することができる。そしてそのことが我々の髪の毛を逆立たせるのである。
− ベラ・バラージュ


とでもいう映画が10本。並びは観た順。それにしてもいつにもましてメメント・モリな映画ばかりが揃ってしまったなあという感じ。本来映画はそういうツールだと言えばその通りだけれども、とうに人生の折り返しを過ぎた無意識がそうさせるのだとしたら抗っても仕方がなかろうということで、日々映画によってそれを仮想し予行し粛々と備えていけば、たぶんハッピーエンドが待っているにちがいない。では皆様、良いお年を。
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2016年12月27日

MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間/ウィ・ウォント・チードル

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マイルス・デイヴィスという人が、例えばチャーリー・パーカーやチェット・ベイカーのような破滅型ではないどころか、むしろ凡人を寄せつけない超高圧の理性によってすべてを可能にしてきたことはワタシごときの聞きっかじりがいまさら言うまでもなく、そうしてみると天賦の才を獅子身中の虫と悶え苦しませるべく凡人が天才を自分の陣地に引きずりおろすドラマなど本来マイルスに関してはあてにできないわけで、ならばと隠遁期の空白をいいことに、チェットの映画同様“そうあって欲しいマイルス”を凡人にも理解可能な下世話なハンドルさばきでドン・チードルがドライヴしてみせたわけである。『ブルーに生まれついて』が“そうあって欲しいチェット”を可能にするためにジェーンという女性を作成したように、ここでは音楽ジャーナリストのデイブ・ブレイデン(ユアン・マクレガー)と若きトランペッターであるジュニア(キース・スタンスフィールド)をマイルスの人生に付け加えている。特にジャーナリストであるデイブについてはナット・ヘントフ的なジャズの崇拝者の役割を与えるどころか、自叙伝の中で「オレの物書きへの不信感は、会ったほとんどの連中が気に入らなかったこともあるし、特にでたらめな嘘ばかり書きやがった連中へのそれは強い。言うまでもないことだが、そのほとんどが白人だった」と書いてあることへのジョークのようにも思える薄っぺらの山師としていて、要するに伝記映画でありながらこの映画には信頼できる語り部が存在しないということになるわけで、そこまでしてタガを外さなければならなかったのは、どれだけどん底にいようと、なお我々には及びもつかない現人神マイルスのウルトラさ加減はこうでもしないとわかるまいというドン・チードルの妄執に近い思いがあったからなのだろう。確かにすべての先駆者であったマイルスが、ギャングスタ抗争についても先駆けていたことはわかったのだけれど、それ以上に忘れがたいのはフィッツカラルドにも似たドン・チードルのマイルス愛という狂気で、黒塗りした大泉洋にも似たドン・チードルが身も心もマイルスになりきって演じるその姿は次第にワタシの苦笑いすらを封じ込めていき、ラストシーンのステージでついに現実世界に躍り出てウェイン・ショーターとハービー・ハンコックを従えるに至っては、思わず神をも畏れぬ不届き者と呟いて、おそらくはポール・ハギスに『クラッシュ』で貼りつけられた“途方に暮れた善良な仮面”がようやく剥がれ落ちたように思ったし、「目や手なんかと一緒で、トランペットはオレの身体の一部だった。だから、いつでもその気になりさえすれば、再び吹けることはわかっていた」と言うマイルスがあそこまで惨めに吹けなくなった自身の描写を見たら怒髪天を衝いたにちがいないわけで、それを真顔で演出した監督ドン・チードルおよび真顔で演じたドン・チードルを心底恐るべしと思ったのである。ところであのオルガン・テープは "GET UP WITH IT" ってことでいいのかな。時系列的には遡っちゃうけども。
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2016年12月24日

ドント・ブリーズ/デトロイト最終出口

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「神の不在さえ受け入れれば、人は何だってできる」この箴言とでもいうフレーズはこの夜の闘いで生き残った者において実証され、それが繰り広げられたのが神に見棄てられた街デトロイトであったことでさらに寄る辺なく補強されることになる。盲人(スティーヴン・ラング)とロッキー(ジェーン・レヴィ)による激突の、神の不在を受け入れた者=正当な絶望者はこの世を縛る理性のくびきから既に自由であるというイーヴンが次第に被害者と加害者の関係を曖昧に溶かしはじめ、どれだけ銃声が響き渡りマズルフラッシュが輝こうと誰一人それを知る由もない漆黒のサバービアで繰り広げられるサヴァイヴァルは、奪われた者どうしが互いを引っぺがす内ゲバの陰惨とそれがたどり着いた極北にほのかに聖性すらを宿す始末だったのである。監督のフェデ・アルバレスは『死霊のはらわた』リメイク時に、「(リメイクの理由は)オリジナルの映画が完璧ではなかったから」「現代社会の中に潜む恐怖の要素を入れようと思ったのさ。麻薬の要素を入れたのも、それが理由だ」といった発言をかましたあげく、このジャンルでは0点よりも始末が悪いジャスト50点としかいいようのない凡庸なリメイクを仕上げていたこともあってまったく記憶の彼方の人であったのだけれど、やはりこの人は背景や動機づけからはじめてきちんと設計図を引くタイプであって、『死霊のはらわた』のようにとりとめのないジャムセッションの生み出すフレーズとグルーヴに身を任せるタイプではなかったのだろう。ただ、その前作において唯一刮目したバスルーム戦は計算された不随意が炸裂する忘れがたいシークエンスだったのだけれど、言ってしまえば今作ではそれが全篇に渡って展開されていたわけで、一軒家という空間をフルに利用した高低と奥行きが煽るサスペンスとしては、私的傑作である『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』を思い出させて秀逸だし、盲人が聴覚を頼りに距離を詰めていく感覚の予測できない不穏と不安に、犬による直線的なアタックのコンビネーションをミックスしたアイディアにもまんまと唸らされる。中盤以降、突如隕石のように激突するケッチャム的鬼畜とキング的知恵比べについては口をつぐむけれど、『イット・フォローズ』といいこれといいなぜデトロイトにアメリカは恐怖するのか、ついにはサバービアが転落のフロントラインとなりつつあるその衝撃によっているのだとしたら、ではいったいその先のどこへ逃げればいいのか、これはその混乱と絶望による阿鼻叫喚の遅すぎた始まりである気もするのである。そしてそのすべてを88分におさめたフェデ・アルバレスにはあらためて土下座をしておきたい。ようやくゴースト・ハウス・ピクチャーズにサム・ライミ以外の果実が実ったのではなかろうか。
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2016年12月19日

ローグ・ワン/渚にて

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情報提供者を無表情に屠ったのはともかく、ジェダ・シティの市街戦で帝国軍と抗戦するゲレラの兵であろうと状況のためには躊躇なく撃ち殺すキャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)をみて、サーガ屈指のメメント・モリがたちこめるこの作品の実質的な主役に彼を追うこととしたのである。熟慮の末に選択したわけではない、自身が口にしたようにたまたま6歳の少年が出くわしたに過ぎない大義をよすがに暗闇で両の手を血に染めてきた彼が、ついにその大義を鮮明な旗幟と掲げて燦々と降りそそぐ光の中へ殉じていくその姿に、ジン(フェリシティ・ジョーンズ)よりは彼の物語としてその墓碑銘が刻まれたように思うのだ。そんな風にしてこの映画は、というかギャレス・エドワーズは、帝国と反乱軍の戦いを大義の光が届かない殺し合いと諒解した上で未来に手を伸ばすための踏み台が屍の山でできていることを告げようとしていて、ソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)の死をローグの導火線に、ゲイレン・アーソ(マッツ・ミケルセン)、K-2SO(アラン・テュディック)、ボーディー・ルック(リズ・アーメッド)、チアルート・イムウェ(ドニー・イェン)、ベイズ・マルバス(チアン・ウェン)と繋ぐ死屍累々のリレーはそれがゴールにたどり着くまではと、足を止めて嘆くメランコリーすらワタシ達に許そうとはせず、たとえば爆風に吹き飛んだゲイレンの体はジンとの愁嘆場にふさわしくしめやかに横たわっていたかと言えば、神経が途切れたその体の手は縮こまり足はねじれて転がっていたわけで、そうした溜めのない死からするとチアルートとベイズの死はどこかしら特別扱いに思えてしまったのである。そうやってスター・ウォーズの表舞台ではオミットされてきた寄る辺のなさは、今までずっと不思議だった帝国の巨大建造物や巨大戦艦を可能にする資源と労働力についてもその一端を明かしていて、鉱山やそこに投入される労働資源としての強制労働収容所の存在を垣間見せてもいる。物足りなさがあるとすれば、それはクレニック(ベン・メンデルソーン)がまみれた屈託が燻らなかったことで、正直に言ってしまうとワタシは主人公としてのジンにさほど魅力を感じておらず、それよりはキャシアンとクレニックの反共鳴を見たかったなどと思ってしまうのだ。巷間あれこれ囁かれているけれど、あの終末の恋人たちとでもいう最期はギャレス・エドワーズのロマンチシズムそのものだったと思いたい。ところで、チアルートがトルーパーに向かって言う「彼らを通してやれ」がマインドトリックネタのギャグだったのかどうなのか、いまだにわからないのだけれどどうなんだろう。
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2016年12月17日

誰のせいでもない/Nobody's Fault but Mine

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自身にとって呪いの象徴となったフォークナーのペーパーバックを、そのページを破っては暖炉にくべながら「あなたはフォークナーは好き?」と訊ねるケイト(シャルロット・ゲンズブール)にトマス(ジェームズ・フランコ)は「好きでもきらいでもない、他の作家には興味がない」と答えるのだけれど、かつてヨーロッパ的独我論の彷徨から抜け出すためにアメリカを目指したヴェンダースが『パレルモ・シューティング』での写真家に続いて今作では作家という、普遍性を担保するにはいささか近道をしたような設定と造形に、アメリカ期のヴェンダースであったなら好きかきらいか主人公にはっきり答えさせたのではなかろうか、ああ、またこの霧の中から始めるのかと少しばかり面倒な気分になったのが正直なところだったのである。とは言え、独善と偽善を霧散させるのではなくそれらをままに俯瞰することで道を歩きだすトマスの変形そのものは興味深く、ある人物によるその正体/実像を暴かんとするサスペンスが不穏を煽るあたりはハネケやエゴヤンへの舵を一瞬思わせたりもするのだけれど、ヴェンダースが世界を修復しないはずはないのであって、非常にぎごちなくはあるけれどそれは果たされたように見えるのである。しかし、ある不幸な出来事によって半ば強制的に深淵をのぞき込まされ、それによって新たに変形した精神の奥行きを手に入れるという筋立てだけを取ってみれば『永い言い訳』を思い浮かべたりもするのだけれど、あの映画で幸夫と大宮一家が過ごした時間をこの映画はトマスとクリストファーが語り明かした一晩に凝縮させつつ、そこで語られたことについては明かされないままなのである。そもそもトマスは、特に事故の後では肝心なことについて時には不誠実とも思える態度で押し黙ってしまい、おそらくそれは失われた生命への贖罪というよりも、その出来事によって変形したことで新たにつながったシナプスが手に入れた思考をふりかざす作家としての欲求と、その入手元に対する呵責の板挟みによっているのだろうし、サインを求めてクリストファーが差し出す自著のうち ”Nowhere Man” と ”Lucky” のタイトルだけがこれみよがしに映されることで、クリストファーもそれに気づいていることを告げていたことを考えると、あの夜をトマスにとっての告解と理解するのが自然ではあるのだろう。ただ、憑き物が落ちたような翌朝の表情からは、その夜を経ることでトマスが作家として手放したものと一人の人間として手に入れたものの収支は判別できないままではあるにしろ、それをジェームズ・フランコという俳優が醸す誠実から背を向けるのもまたひとつの生き方なのだという佇まいがざわっと揺らすことで呼び込んだ不思議な清冽に、やはりヴェンダースは正直を譲れない人なのだなあとあらためて感じ入ったのである。現象ではなく感情の奥行きを増幅する装置としての3Dが“隔てられた向こう”の幻視を拡張していて何度か小さくため息が出た。そしてやはりのエドワード・ホッパー・ショット。とは言えRealDはやはり絶望的に暗すぎて、そのことがいっそうのメランコリーを誘っていたのでなければいいのだけれどと思う。
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2016年12月12日

最後の家族/世界の終わりとハードボイルド・ポーランド

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ポーランド映画祭2016

18歳にしてMITの正教授となりアンドリュー・ゴロタ(ポーランドの狂犬的ヘビー級ボクサー)と空手黒帯の強さを同時に兼ね備えたアリシア・シルヴァーストーンに、腹を蹴り上げられ頭に2時間ほどまたがられて顎を締め上げられた後、腕と足をへし折られてはその都度絶頂に達し、最後には痙攣して絶命するメタ・リアリティのヴィジョンを嬉々として語っては、分厚いハンバーガーにかぶりつく75歳。それがズジスワフ・ベクシンスキーという画家のまとうなんらかの特異性の一端であるとするならば、劇中で自身が言及したゆるぎない恒常性がそれに該当することになるのだろう。それは内部と外部、あるいは空想と衝動の完全な調和と同居とでもいえばいいのか、彼は一切の外部ドーピングを必要とすることなくあの損壊と決壊の痕跡が結晶化したマニエリスムを日常のありふれた作業として作品化して過ごしていて、闇と光が互いに侵食する前線にのたうち回ることであの心象を生み出しているわけではまったくないのである。この映画はそのベクシンスキーを家長としたホームドラマなのだけれど、前述したように完璧な恒常性をたたえたベクシンスキーが自らのアーティストエゴでヒステリックに家族をなぎ倒すシーンなどこれっぽちもないどころか、良き父、良き夫、良き子として、精神の不安定な息子トメク、最愛の妻ゾフィア、同居の実母と義母に対して献身的といってもいい日々を淡々と送り続けるのである。しかし、たった一度だけその家庭内のバランスがクラッシュする瞬間があって、母ゾフィアが掃除したばかりの息子トメクの部屋を何やら癇癪を起こしたトメクが完膚無きまでに滅茶苦茶にしてしまうシーンで、例えば机の上を掃除するにしても、そこに載っているすべてのあれこれをどかして綺麗に拭いた上で以前の配置を精確に再現し直す神経症的な段取りに、この家庭ではトメクの引き起こす緊張が日常に収れんされていることがうかがえるのだけれど、この時、そうした厄介な掃除を終えて一人煙草をくゆらすその目の前でトメクによってその成果を壊滅させられたゾフィアは、それまでに見せていたすべては起こるべくして起こったことだから仕方がないといった顔を捨てて、初めて怒りを顕わにしながら倒れた家具を引き起こし復旧につとめるのである。その時ベクシンスキーは何をしているのかと言うと、入手して以降、記録魔のように片時も手放すことのないヴィデオカメラでそれを撮影し続けているわけで、しかしそのことを咎め立てするでもないゾフィアは彼のメタ・リアリティに自分たちが存在していないことをおそらく知っていて、一方のベクシンスキーはといえば自分以外の人間に生じるリアリティとメタ・リアリティの内輪差を興味深く意識することはあってもそれを自身に顧みることをしないのは、その内輪差を自身に認めたことがないからなのだろう。義母、実母、妻、息子とまわりの人間が命を落としていなくなっても、彼はその恒常性によって瞬時に自律し取り乱すそぶりさえ見せないわけで、もちろんそれら諸々をもって彼を精神の怪物と糾弾し非難するいわれはこれっぽっちもなく、彼の作品(=メタ・リアリティ)に頻出する最後の世界における最後の一人への願望がリアリティを呼び込んでいく孤絶のメランコリーがとてつもなく哀しいと同時に、にこやかにそして飄々と地雷原を歩いて行く姿にはどこかしらのおかしみを感じたりもしたのである。彼の結末については悲劇的なアクシデントとして知ってはいたけれど、この道行きの果てに訪れた出来事として考えてみると、すべての家族を失った彼がやはり恒常性の鎧で守られようとした瞬間、ではこういうリアリティはどうだね?と差し出される何かしらの采配であった気もしてしまうわけで、めった刺しされるナイフを力なく避けようとかざされる彼の腕のはかなさと頼りなさをリアリティと生きるしかないワタシたちの凡庸と滑稽をあらためて突きつけられた気もしたのである。エンドロールで流れるThis Mortal Coil "Song to the Siren" の 'Did I dream you dreamed about me?' というフレーズが残響し続ける有終の傑作。
posted by orr_dg at 22:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする