2016年08月08日

アンフレンデッド/わたしのためなら死ねるはず

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図らずもブレア(シェリー・ヘニッグ)視点による83分間のワンシーンワンカット・ムーヴィーを達成している。図らずもというのは、あくまでそれは余禄に過ぎないからで、マルチカメラによる同時線形とでも言えばいいのか、カットをつなぐのではなく敷き詰めることで、目まぐるしく変わる登場人物の関係性のさざ波のような伝播を、ネットの暴力的な水平性の醍醐味として活き造りにしている。したがって、ローラ・バーンズ(ヘザー・ソッサマン)の復讐一つ一つについてはチャプターを区切るような段取り感が生まれてしまうこともあり、正直言ってスラッシャーとしての妙味はいささか退行してしまっているのだけれど、掃き溜めに捨てられたどす黒い孤独がイドの怪物と化して互いを食い尽くしていく様は、まさにSTAND ALONE COMPLEXが供給する幻想としての全体性に中毒した者の断末魔であったわけで、しかしそのプラットフォームから外れて生きることもまた恐怖であるとするならば、行くも地獄行かぬも地獄という現代の青春の蹉跌それ自体をホラーとして幻視したとしても何の不思議もないのである。ラストについては、あの動画がアップロードされたことで生殺しという選択がなされるかと思ったこともあり、ならばそこから永遠に解放されたブレアにとってはむしろハッピーエンドだったのではなかろうかとすら思ったわけで、これもまた、あらかじめオンラインされた世代にとっての新たな生き地獄との闘いということになるのだろう。この映画に関してはその特性としてPCモニター上(できればノートブック)でひとり観賞するのが最適な臨場感を生むのは間違いないにしろ、それゆえ好事家の方々はこの新たなブレイクスルーをあえて劇場で目撃しておくことが肝要なのは言うまでもないし、サーバーを漂流する永遠に消えない記憶が責め立てる、一度吐いた唾を呑めない世界に自分を人質に差し出すことで参加する最新型のチキンレースが撒き散らす躁病的なデカダンスに、知らず自分も巻き込まれていることを知っておいて損することはないはずである。
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2016年08月07日

ロスト・バケーション/生きて帰るまでが遠足

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『ジョーズ』のファースト・ヴィクティムとなるクリッシーが生き残るとしたら彼女がどんな人間で何が必要だったかとでもいう、どちらかと言うと動物パニックものというよりはソリッド・シチュエーション・スリラーに近く、なおかつ『老人と海』的な人生の寓話もまぶしてみせてジャウマ・コレット=セラらしいスマートな小品に仕上がっている。スリップストリームな題材を主戦場とするセラだけれども、最終的には心理的な采配で勝負をつける人なので、直截的に痛覚を刺激するようなアクの強い描写を尖らせてきていないこともあって、麗しきブロンドがサメに食いつかれ岩礁を裸足でふみ抜き毒クラゲに刺される姿の苦痛と苦悶を舌なめずりするフェティシズムがないのが物足りないと言えば言えないこともなかったのである。縫合のシーンはアプローチがスムース過ぎてアイディアの遂行にとどまってしまったのが何とももったいなく、肉と神経の反作用をもっとえぐってほしかったけれどセラの品の良さはそうしたグロをあてにしないのだろう。ただ一つ、かつてフジロックの初日に会場で買ったかちかちのカンパーニュを無造作に噛みちぎった瞬間前歯の一部を持って行かれ、残りの会期中を大変な不便で過ごした身としては、以後その種の食べ物に対する病的な及び腰につかまっていることもあって、ナンシー(ブレイク・ライブリー)がウェットスーツを事もあろうに歯で引き裂くショットに思わずうなじがぞわっと逆立ったのである。クジラの死骸がまとう禍々しさが捨ておけなかっただけに、できれば岩礁ではなくあの上に乗って漂流するナンシーが、飢えに苛まれてクジラの腐肉を口にしては嘔吐に耐えて悶絶するシーンなどをどうしても夢想してしまうのだ。それもこれも、最後まで医学生には見えなかったことはともかく、美しいボロ雑巾としての一人芝居に耐えうるブレイク・ライブリーの肉体言語が饒舌であったからなのは言うまでもないし、それはおそらく、出がらしのようなリメイク企画にパリス・ヒルトンをあてがわれたデビュー作でさえ、誠実にアイディアを注ぎつつ丹念な演出でパリスを生かしてみせたセラの映画製作に対する根性を、彼女が深いところで理解したことによっているのだろう。役者といい采配といい、なんとも小股の切れ上がった86分であった。
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2016年08月04日

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男/パパ グレてるゥ!

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「学校にお弁当を持って来られない子がいたらおまえはどうする?」「わけてあげる」「自分で働けとは言わないで?」「言わない」「お金を貸してあげるとも言わないで?」「言わない」「じゃあお前も立派な共産主義者だね」娘ニコラ(幼少期=マディソン・ウルフ)にパパやママは共産主義者なの?と聞かれたトランボ(ブライアン・クランストン)のやりとりに、ん?となったのはご多分に漏れずで、それが富の再分配の比喩であったのかといえば、『ヘイル、シーザー!』のカリカチュアを思い出してみても、知識層の認識がせいぜい社会主義と共産主義のいいとこ取りあるいはノブレス・オブリージュ的な施しにしか思えないわけで、そういったこの映画の「甘さ」、脇の甘さやビタースウィートのスウィート的な部分は、これが醜悪で殺伐とした魔女狩りの時代を描くというよりは、ダルトン・トランボという人間のチャームを描くことを掲げていたことによっているのだろう。そんな風に資本主義のアンチテーゼに端を発した苦難であるからなのか「お金」が随所で袖を引く物語でもあるわけで、スタジオのスタッフの賃金問題支援や、エドワード・G・ロビンソン(マイケル・スタールバーグ)による裁判費用カンパのための所蔵のゴッホ売却、もちろんトランボ家の生計を支えるためのゴーストライトは言うまでもなく、ルイス・C・K(アーレン・ハード)の遺児への思いやりが借金の棒引きにこれみよがしだった点では、実際のところはどうだったのかはともかく、ルイスの病状への無関心や今後の子供たちの生活に対する憂慮の言葉すらなかった点で、その後エドワード・G・ロビンソンからトランボに浴びせられる辛辣な言葉に彼が返す言葉などなかったのも当然であったし、名を捨てて匿名のひとりとして埋没しギャラを再分配する日々こそが彼の欲した共産主義的な献身ではなかったのかと、最後に名前を取り戻して終わる物語にいささかの皮肉を感じたりもしたのである。したがってこれはあくまでもトランボ家の物語として評価されるべきであって、ダルトン・トランボという男の物語としてはやや気分が良すぎるものだから、授賞式のスピーチ会場で独り涙をにじませるエドワード・G・ロビンソンの苦渋が何となく上の空になってしまうのを惜しむことにもなってしまう。ダイアン・レインは歯を食いしばって笑顔で燦々と立つ大きなアメリカの母親になった。
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2016年08月02日

シン・ゴジラ/会議は小躍る

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そういえばかなり昔の2ちゃんねるに「押井守がゴジラを撮ったら?」とかいうスレッドがあったなあと思ってキャッシュを探してみれば、案の定、実存としてのゴジラをメタ構造的に描くみたいなレスが続く中、2011年3月21日(月)に“押井とは関係ないが、今回の原発事故がまさにゴジラ退治だった”という書き込みがあって、このレスを書いた人はどんな気分で今作を観たのかなあと少しばかり遠い目などしてみたわけである。ただ、このレスが慧眼であったというよりは、このタイミングでゴジラを再び立ち上がらせるとすればそこを避けて通れないのは自明であって、もちろんギャレゴジとてそこを通過していたのは言うまでもないけれど、やはり我々には精神的にも物理的にも取り除きようのないフッテージが組み込まれているわけだし、それを当事者としての責任とクリエイターとしての仄暗い昂揚とによって新たなモニュメントを築いた点で、勝ち負けに意味はないとしても新作ゴジラとしてギャレゴジを圧倒したのは確かだろう。“押井とは関係ないが”の部分については、劇中で語られるスクラップ&ビルドのスクラップの意味合いが2011年以降決定的かつ永遠に変わってしまった点で、お台場は一度沈んだ方がいいと言い放った「都市」と「破壊」という押井的命題が無効化されてしまったのはやむをえないところではあるにしろ(2020年東京オリンピックによる再開発にどこかしら他人事な気分が漂うこともその一端ではなかろうか)、都市の存亡に踊るシヴィリアン活劇としてのフレームは特に劇場版パトレイバー1&2からの引用において明らかに思え、牧博士=帆場暎一であるとか、ほとんど符合と化したテクニカルタームの奔流で叙事を武装する手立てはともかく、『機動警察パトレイバー the movie』における久保商店2階シゲさんの下宿部屋は『ガメラ2レギオン襲来』では水野美紀の実家薬局の2階に引き継がれ、未曾有の危機における梁山泊としてのそれを今作において巨災対(=巨大不明生物特設災害対策本部)として花開かせたのは、今作で破壊されるランドマークが終着地としての東京駅であったことなど踏まえてみれば、東京を破壊するにあたっての庵野監督による押井守への仁義と敬意にあふれた引導であったようにも思えるわけで、ワタシはエヴァとそれに派生するもろもろと完全にすれ違ってきた人間ということもあり、主に庵野監督による兄殺しとしてこの映画を愉しんだくちである。とはいえこの映画の決定的な発明はゴジラ第二形態であって、直立歩行する生物に対する擬人的な同調と感情移入をノイズとして完全に断ち切るための方法としては思いも寄らない奇策であったし、そこに何が映っているのか考えるだけでおぞましいあの目には何か根源的な忌避や嫌悪があって、その人を人とも思わぬ災厄と狂気の嬉々とした行進には何かクトゥルフ的な神々しさすら宿っていたように思ったのである。それともうひとつ、ここのところの鶴見真吾が漂わせていた既視感の正体がイーサン・ホークであったことが腑に落ちてすっきりした。
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2016年07月31日

ブルックリン/私は克己心の強い女

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「忘れてたわ、ここがそういう町だってことを。あなたは何もわかってないだろうから教えといてあげる。わたしの名前はエイリシュ・フィオレロ。ブルックリンの女よ。」最後の一言はワタシの勝手だけれど、しびれるような啖呵である。ただその一言が「やっと気がついたわ」ではなく「忘れてたわ」であるように、この映画は単なるビルドゥングスロマンにとどまっているわけではない。あらかじめ世界の絶対性と闘う聡明なファイターとして登場するエイリシュ(シアーシャ・ローナン)が、自身の未熟さや愚かさによって人生の奥行きを知るドラマというよりは、正面を見据えあごを上げて行くべき道を闊歩する姿を活写するスリルを映画の輝度とすることで、性差や人種を超えたところで生まれるアメリカの理想的なダイナミズムを移民であるエイリシュに投影していたように思うのである。フィオレロ家に招かれたディナーの席でトニー(エモリー・コーエン)がふと口にした“俺たちの子供”という言葉に抱いたかすかな懸念と戸惑いの正体に、エイリシュならずともワタシたちは女性の背負う家庭とキャリアの問題を嗅ぎとるのだけれど、エイリシュにとってその両立と自立は背中合わせの自明であるとでも言うかのように、自身にある人生への野心に対してトニーがどれだけ誠実でいてくれるか、それさえ確認できればその他のオプションはさして問題ではないという豪胆は、もしかしたらデラシネとしての自分への倫理的な恐怖の裏返しだったのかもしれず、そうしてみるとまったく同じ時代の物語ながらアメリカのデラシネへと向かった『キャロル』との交錯が興味深いのだけれど、共に世界の絶対性から自身を奪還し相対化を試みる女性の物語としてみれば、その鏡像として互いがより鮮明に映し出されるように思うのである。ニック・ホーンビィの脚色はエイリシュを光とすることでそこに生まれる影も細やかに描き出していて、洗面所でのエイリシュとの会話の後でひとり鏡を見つめるシーラ(ノラ=ジェーン・ヌーン)を捉えるメランコリーや、冒頭のエイリシュの啖呵の後で寄る辺なさにつかまるケリー(ブリッド・ブレナン)の姿が、エイリシュとこの映画が楽観主義の産物と捉えられることに首を振っているのは言うまでもない。シアーシャ・ローナンは、何だか若い頃のヒラリー・クリントンにも通じるフリークとしての優等生の凄みも手に入れたかのようで、美少女からの脱出に肝っ玉を選択したのが完全に吉と出た。登場するたびに胸がざわついたのはエイリシュの上司となるフロアマネージャーを演じたジェシカ・パレで、エイリシュのメンターとして水着選びまでもプロフェッショナルにこなすクールな姉御肌にやはり『キャロル』を夢想したりもした。
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2016年07月29日

FUJI ROCK FESTIVAL'16@苗場/7.24 Sun

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1日でWILCOとTORTOISEとSQUAREPUSHERを見た昨日が今年のメインだったので、今日はベビメタ余波でグラスパーさんを心配するくらいしかないこともあり気楽なもんである。ところで、美しい音楽に聴き惚れる人間の心も美しいかというとそうでもないことをいろいろと目の当たりにするのは今に始まったことではないけれど、暑かったり疲れたりすると本性はいとも簡単に顔を出すことを自戒しときたい。

BO NINGEN @WHITE
まったくの初見。勝手にエクスペリメンタルなサイケデリアを予想してたものだから、時折のCOALTAR OF THE DEEPERS的な疾走感はかなり意外だったけれど、ハイプ上等な開かれたメジャー感も含めバンドのフォーカスはやたらとクリアなのでさほど鼻白むこともない。皮肉でもなんでもなく、戦略としてはRIJとかの方がいいんじゃないか。

dCprG @ FIELD OF HEAVEN
このバンドもROVOと共にフジロック奥地系の屋台骨となっていて、解釈と批評のアウトボクシングでブルファイターを倒す快感もなじみながら、今回はかなりブルファイトを仕掛けたなあという印象。ノーメイクの大村氏にベビメタの黒T着たお客さんが熱視線なのもフェスならでは。

このあと諸事情ではちみつぱいをチラ見で済ませたのが悔やまれる。オレンジカフェでしばし休憩したのち、在日ファンクすらを従えたケロポンズを確認し、既にパンパンに膨れ上がりつつあるホワイトにビビり、グラスパーさんで規制がかかったら洒落にならないと前倒しでホワイトに向かう。

ROBERT GLASPER EXPERIMENT @WHITE
実際のところマーク・コレンバーグのドラミングだけ見ていたといってもいいわけで、非常に細かく割ったビートを高速で連ねることによりほとんどシルキーといっても波を生み出し、そこに寄せては返すようなロバート・グラスパーの旋律とのインタープレイは神の気まぐれとでもいう天啓にすら思えたのである。あれがあの世ならあの世に行きたい。

BABYMETAL @WHITE
彼女たちがメタルの原理主義と無縁だろうとかまわないではないか。彼女たちは自分が角兵衛獅子であることを承知しているし、その上で何を成し遂げられるかについてどれだけ真摯でいるかはショー・マスト・ゴー・オンなステージを見ればわかりそうなものだろう。彼女らの歩くニヒルの淵もまたロックではないのか。

KAMASI WAHINGTON @ FIELD OF HEAVEN
かつてグリル・マーカスはギャング・オブ・フォーのライヴをみて、これがロックの未来なら僕は未来を待ちきれない、と言ったけれど、そうした意味でこれがジャズの未来なら、その未来は思いのほか自分と近しいところを走っていることに気づかされるような、精神の感応と肉体の快感のバランスをあわせもった、かといってそれは中庸ということではまったくなく、そのために巨大化された外枠のサイズにまずは圧倒されるわけで、その前置きや手続きを必要としない話の早さからすれば、ロバート・グラスパーのスロットと逆であったならなおのことジャズの布教が痛快かつ爽快になされたのではなかろうかと思ったりしたのである。"Henrietta Our Hero" の噛みしめるようなメロウに、泣いたらいいのか微笑んだらいいのか混乱してぐちゃぐちゃになった。

電気グルーヴ @GREEN
ふと大写しになった卓球の笑顔の隙間や、笑顔だけは貼りつけたまま次第に動きが鈍っていく瀧に、彼ら自身が背負ってきた20年という時間への倦怠をにじませつつ、その本心の動機など明かすつもりなどないにしろ、俺達には俺達なりの責任があるんだよとそれを茶化すこともせずに望まれたことをきっちり倍返しする偏執にこそあらためて恐れいったし、5時の鐘がなっても家に帰りたくないなら俺達と踊ってろという宣言のてらいのなさに男気すらを見た気がしたのである。もう来年からクロージングはずっと彼らに締めてもらうしかないのではなかろうか。満面の笑みで、まだまだいけるぞフジロックと歌ったのはキミらなのだから

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2016年07月28日

FUJI ROCK FESTIVAL'16@苗場/7.23 Sat

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SQUAREPUSHER @WHITE

午前中は目ぼしいステージがないのでドラゴンドラで天上へと向かう。草上をたゆたう人々をソフトクリームをなめつつレストハウスの窓ごしに眺めていると、あまり飛ぶ気のない蜂だかなんだかが窓枠のところで脚をガラスに叩きつけては延々もがいているのを見て、ああ、ガラスの向こうが見えているのにどうしてあちらに行けないのかわからないのだろうな、とそのうち蜂を我が身に置き換えそうな予感に世知辛くなったので、これはいかんと下界に向かったのであった。

jan and Naomi @GYPSY AVALON
青い空に強い日差しと乾いた風。陽炎みたいなサイケデリアには絶好のロケーションの中で朝霧シチューを昼食に呆ける。そういえばjanが坊主頭になっていた。

ROVO @ FIELD OF HEAVEN
ROVOもまた結成20周年とのことで、勝井祐二、山本精一、芳垣安洋といった面々がBOREDOMSや渋さ知らズなどなどの一員でもあったことを考えてみれば、このバンドが陰になり日向になりフジロックのジャパンオルタナティブの屋台骨を支えてきたといっても過言ではないわけで、古参の参加者にしてみれば彼らの生み出す祝祭空間こそがフジロックの空気感のいくばくかであると言い切ってしまいたいのである。そんな言わずもがなを鼻で笑うかのようにヘヴンへと集まった客が踊り狂って舞い上げる砂埃がまるでスモークのようにステージを演出していたよ。

CON BRIO @ FIELD OF HEAVEN
とっても愉しいんだけどその愉しさはパーティバンドのそれで、にしてもスチャダラ言うところの“夏のせい”的な一期一会のやり逃げとしては高性能高機能。

WILCO @GREEN
前半はアルバム「Star Wars」の曲を中心にニュアンスよりはノリで飛ばし、中盤以降はセットリストではお馴染みのWILCO的ルーツオルタナティブを連打したあげく、ラストは "Impossible Germany" のトリプルギターで胸をしめつける。5年前のような「Being There」3連発を多少は期待してはいたのだけれど今回の60分強と短いステージではやむを得ずか。それにしても、みな外に出したシャツ丈の絶妙な短さが思いのほかの洒落っぷりであった。そしてはっきりとしたのは、もうジェフは痩せないということである。

TORTOISE @WHITE
サウンドチェックで "Thunder Road" のイントロが一瞬鳴らされて既に盛り上がる。定番曲が外されていたのは新譜にあったどこかしら泳がせた感じがバンドの今の気分ということなのだろうし、"Yonder Blue" のヴォーカルなしヴァージョンにそれが最も顕著だったようにも思え、アメリカのおっさん5人がピーピーガーガードスドスバタバタと合奏する音が時には官能すらまとう不思議を今回も堪能したのだった。

SQUAREPUSHER @WHITE
フェンシングのスーツだか養蜂家の仕事着だかに見える、おそらくはプロジェクションマッピング用のスーツにマスクをつけて登場したジェンキンソン氏は、いまキミらが感じてる時間の流れはまやかしに過ぎない。ここはひとつボクがそれをひっぺがしてみせてあげようと、ドーピングして狂躁する時間の奔流を光と音の暗号に変換しては、さあこのスピードのままにそれを読み取りたまえ、読み取れないキミはどうにも不幸だねと言わんばかりにもはやビートとは言えない無数の音の粒を浴びせぶつけては、どうだ苦しいだろう、時間は苦しいのだともはや狂人の理論を振りかざしながら機嫌良さそうにどこまでも追いかけてくる。マスクを脱いでベースギターを抱えたアンコールでは、いやいやさっきのはドッキリだから気にしないでと取り繕ってみせはするものの、もはや騙されるはずなどないのである。ジェンキンス氏はちょっとどうかしている。
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2016年07月27日

FUJI ROCK FESTIVAL'16@苗場/7.22 Fri

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SIGUR RÓS @GREEN

豊洲からの皆勤なので今年で19回目、苗場は18回目となるハタチのフジロック。成人はめでたいながら、その分こちらも確実に年をとったのは言うまでもなく、外すタガすら錆びついたとなれば狂騒よりは恬淡と歩きまわることで馴染みの世界の生存確認などできれば幸いである、と好好爺の気分で越後湯沢の駅に降り立ったところが、新潟県警の粋なお出迎えになおのこと心もなごんだ次第である。

新潟県警謹製ティッシュ
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BOREDOMS @GREEN
ボアのサウンド・マントラを20周年の所信表明とする粋な計らいである。祝祭にあふれた開幕宣言を期待してグリーンに集まった人々が次第に所在なさ気になっていくのを後ろから見てニヤニヤしていると、俺はなにしろ高をくくられることが大っ嫌いなんだよというオーガナイザーのニヤニヤも容易に頭に浮んで何とも清々しい。

TRASHCAN SINATRAS @RED MARQUEE
世界の翳りに焦がれた青いネオアコが、年齢を重ねリアルな翳りに包まれた時にどう答えを出すのか、それにきちんと向きあった人たちにはこうやって淡く優しい光が差してくるわけである。ネオアコは死なず。

LÅPSLEY @RED MARQUEE
スタジオ音源の忠実な再生といった風で、パフォーマンスとして何を足して捨てたかの面白みには届かずか。全曲ピアノ弾き語りくらいでもよかったのに。

UA @FIELD OF HEAVEN
この人のいつも自分を持て余す焦燥が段々と息苦しくなって来た頃から離れたままだったのだけれど、久しぶりに見たステージにはその決着がついたかのような晴れやかさがあって、よくも悪くもあがりの人になったのだなあと、ある事情から開演が押しに押したON AIR EASTでのファーストライブの待ちぼうけなど思い出したりもしたのであった。

ROUTE 17 Rock'n' Roll ORCHESTRA @GREEN
ボウイの追悼映像がスクリーンに流れるとともに "The Jean Genie" の演奏が始まって、この場でこの曲を歌ってしまえる神をも畏れぬ輩は誰だと思った瞬間、スクリーンに大映しになるクリス・ペプラーに、お前が歌うんかいっ!と爆笑したのがこのステージのピーク。八代亜紀さんの唱法だと野外はちょっとアウェイかなと思ってしまった。ワタシのいた場所だと音が風に流されてただけかもしれないけど。

LEE "SCRATCH" PERRY @ FIELD OF HEAVEN
5年前のホワイトでは、入りを間違えてやり直したり次のトラックをいちいちMAD PROFESSORに確かめたりしてたものだから、正直言って今回で見納めのつもりだった80歳がどうしたことか、腕っこきを揃えたバンドを従えて縦横にトースティングし宙に向けてパンチを放ち蹴りを入れつつ60分強を全面的に支配し続けた驚愕。ドーピングがうまいこといったのか?そんなにSAKEが気に入ったのか?相変わらずこの世はわからないことだらけだ。

SIGUR RÓS @GREEN
とにかく寒くて寒くて、けれど同行者はわりかし平然としていたのでワタシだけが寒さに取り憑かれていたのだろうか。仕方がないのでこれはアイスランドの原野で遭難し八甲田山状態になった中でやってくる幻聴と幻覚なのだと思って寒々しさに身を委ねて歯を食いしばっていたら、いつしかヨンシーの声が彼岸の呼び声にも聴こえてきて軽いトリップに成功したのはもうけものであった。そして熱したニクロム線のように赤いライティングの禍々しさに、ギターを弓でギコギコ弾きまくるヨンシーの仄暗いシルエットがスクリーンに映されるたび頭に浮かぶレザーフェイスが拍車をかけて、シガー・ロスについてまわるそこはかとない奇形性の正体がようやく見えた気もしたのであった。
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2016年07月19日

シング・ストリート/ロックよ、愚かに流れよ

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背伸びした分だけ伸びていくコナー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)の背筋と髪と歌声は確かに眩しくて煌めいているのだけれど、観ていて抜き差しならなくなったのは「ロックンロールはリスクだ!」という蠱惑に囚われたブレンダン(ジャック・レイナー)であって、すべてを見通していたつもりがその一歩を踏み出すほどにはリスクに殉教しきれなかった世界中のブレンダンの亡霊に、今さら成仏を迫るような役どころはなかなか酷に思えたのである。主人公の脳天気な弾き語りから始まるあたりは『FRANK』など思い浮かべたりするのだけれど、そこでのジョンとFRANKの関係にあった現実的な痛みは、デペッシュもジョイ・ディヴィジョンも知らないおぼこなコナーとロック原理主義者ブレンダンとの関係において清々しいほどに反転していて、ボスキャラとして必要なバクスター神父(ドン・ウィチャリー)より他は祝福されたバンドに立ちふさがるものはなく、地元の英雄であっただろうU2のUの字もないままアイデンティティの相克は極力手控えられファンタジーが維持され続けることで、あのラストからかつてアントワーヌのラストショットに立ちこめた悲痛や悲愴を取り除くことに見事成功している。青春が夢見がちでいったいなにが悪いんだ?という開き直りというよりは闘争宣言の強度を高めるためであったにしろ、ブレンダンがコナーにぶつける屈託の苛烈はそれが大人気なければないほどブレンダンの悔恨とジレンマにえぐられるようで、そのどこかしらの他人事でなさは、コナーのファンタジーへの反作用にとどまらずいくばくかのノイズになりかけたほどである。そしてそれは、暴力をふるうアル中の父を持ち、いつだって一人だものねと母親に揶揄され、ロンドンでレコードの契約とって俺たちをこの掃き溜めから連れ出してくれよと笑わない目で告げるエイモン(マーク・マッケンナ)へのやるせない共感にもつながっていくわけで、しかしロックンロールが斃れた屍の上を転がっていく音楽である以上そうやって流れ去っていく風景が新たなリズムとメロディを生み出していくのは言うまでもなく、兄と別れバンドを振り切り、おそらくはラフィーナ(ルーシー・ボーイントン)とも離れ離れになるであろうコナーの正しさはすなわちロックの正しさであるはずで、なぜなら浅井健一が歌ったように、どれほど自然に/真剣に誰かを愛しても、僕たちは永遠に一人きりだということを知るのがロックの解だからなのである。ところで、当時ジョー・ジャクソンとザ・ジャムとザ・キュアーの愛聴者がホール&オーツを聴いていた記憶になじみがないものだから、フィル・コリンズを聴いてるような男を好きになる女なんていない!と言い切ったブレンダンが「マンイーター」をチョイスするのはありなのかと?が浮かんだのだけれど、今になってみればそういうセクト主義が自分で自分を生きづらくしていたことに容易に思い至ったりもすると同時に、85年と言えばタイガースが日本一になって代々木でスプリングスティーンをみた年であったにもかかわらず何だかその頃は下ばかり見て歩いていた記憶しかなくて、そんなこんなをいまだにノスタルジーで済ませることが叶わない自分にいい加減うんざりしているのも正直なところで、そんなつもりもなく観たこともあって何だか奇襲をくらった気分である。敵はどこにもいないのに。
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2016年07月18日

FUJI ROCK FESTIVAL '16展望

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こんなに晴れなくてもいいから、Don't Rain On My Parade

7.22 Fri
BOREDOMS
THE END
TRASHCAN SINATRAS
UA
ROUTE 17 Rock’n Roll ORCHESTRA
JUMP WITH JOEY
LEE “SCRATCH” PERRY
SIGUR RÓS
THE NEW MASTERSOUNDS
DISCLOSURE

7.23 Sat
THE COLLECTORS
MARK ERNESTUS’ NDAGGA
THE ALBUM LEAF
jan and naomi
ROVO
CON BRIO
WILCO
TORTOISE
SQUAREPUSHER

7.24 Sun
BO NINGEN
dCprG
DEAFHEAVEN
はちみつぱい
ケロポンズ
LEON BRIDGES
THE AVALANCHES
ROBERT GLASPER EXPERIMENT
ERNEST RANGLIN & FRIENDS
KAMASI WASHINGTON
BATTLES
電気グルーヴ

今年は身を裂かれるようなカブりも特になく、懸念があるとすれば日曜WHITEベビメタ前のグラスパーさんで、THE AVALANCHESをチラ見した後でどれだけおっとり刀で駆けつける必要があるのかということおよび、ベビメタ地蔵がエクスペリメンタルジャズにどう立ち向かうつもりなのかといったあたり。それにしても2016年とは思えない三つ子の魂だらけである。
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2016年07月16日

疑惑のチャンピオン/ジェシーよ銃をとれ

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フロイド・ランディス役のジェシー・プレモンスが『ブラック・スキャンダル』につづき無心の共犯者を演じていて、その無心ゆえに主犯者を告発することになる運命や共に実在の人物に準拠する物語である点など構造は非常に似通っている。そしてまた、その無心を罪に染めることでしか示せない忠誠が尽きた時、我が身の明日なき虚ろを知った青春の捨て身が主人の大罪と刺し違える復讐と浄化の物語を待ち望みつつ、それがついに果たされることのなかった悔いこそが作品の印象となってしまう点でも似通ってしまったように思うのである。ジョニー・デップがそうであったようにここでのベン・フォスターも、ランス・アームストロングはそうしたのだろう、あるいはランス・アームストロングならそうしたのだろうというその輪郭を超える解釈を目的としなかったこともあり、共感にしろ拒絶にしろの奥行きに欠けるのは否めないところで、だからこそ並走する共犯者としてのジェシー・プレモンスが口寄せしたザ・ライズ・アンド・フォール・オブ・ランス・アームストロングを観てみたかったと思ってしまうわけで、『フォックスキャッチャー』が図抜けていたのはチャニング・テイタムとマーク・ラファロを口寄せとすることでスティーヴ・カレルの異形の輪郭を口述していたからなのは言うまでもない。ランスについてはガンとの闘病の如何にかかわらずどのみちドーピングに突き進んでいったであろうことを疑いなく描いていて、いつしか肉体的なトレーニングと分かちがたく融合していくドーピングのプログラムそれ自体に人生を捧げるかのような手段と目的の逆転はある種のアディクトにも思えるほどで、鬼気迫るその姿の奥底に潜むものの正体がほんの一瞬あらわになるのが、カムバック後の現実を突きつけられ“3位だってよ”と自嘲気味に笑うシーンで、第四の壁気味にこちらを見据えて笑うと言うよりは崩れるように変形する顔の異様はほとんどホラーであって、スーパースターの栄光と引き換えに餌を与えてきたモンスターにその内部を喰い尽くされていることを断罪した怖ろしいカットであったとしかいいようがない。とはいえそれ以外は良く言えばジャーナリスティック、言い換えれば分別くさい視線のままなものだから、前述したフロイド・ランディスが介入する時のモンスターとすれ違う危うさが宝の持ち腐れに思えてしまうのは仕方のない事だし、もはや人外と言ってもいいあの笑顔を観たあとではいっそピカレスク仕立てでもよかったのではないかとすら思ってしまっている。どうせ射殺されるのであれば好きなだけ暴れさせてやればよいではないか。マット・デイモンがいる限り永遠の共犯者でありつづけるジェシー・プレモンスを当てはめたように、それを気兼ねなくするためのベン・フォスターではなかったのか。
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2016年07月13日

死霊館 エンフィールド事件/愛という名の悪霊

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ホラー映画のやさしさというのは、つまるところ人は死なないためなら何でもするという身も蓋もなさを諸手を挙げて受け入れてくれるところにあるのだろうなとあらためて思ってみたりもしたのである。それは柳下毅一郎氏の言う「広義には、すべての映画はセックス映画だとも言える」にも通じる人間の根っこのところにある欲望というか本能の追認でもあるのだろうけれど、それが“夫婦愛、親子愛、姉妹愛を一筆書きのように描けてしまえるホラーというジャンルの奥深さ(前作鑑賞時のメモ)”を可能にしているのは言うまでもない上に、少々そのことに拘泥しすぎたのかもしれないなと自省した監督がそれを『インシディアス』のデモニッシュなファンタジーでバックアップしたことによって、全方位への攻撃と防御をほぼ可能にしたホラー無双に開いた口がふさがらなかった次第である。クラシックなホラースタイルのアップデートを目指した『死霊館』シリーズでは、恐怖を与える直截的な対象はあくまでも登場人物であり観客を直接いじるドンガラドンのさらなる更新は『インシディアス』に任せてこちらでは切り札にしないというスタンスであったのが、今作ではまるで自身が開拓したホラーマナーを総括でもするような縦横無尽をみせていて、数年前に監督が公言した、もうホラー映画は撮らないよという宣言が頭をよぎってしまうほどの集大成に思えたのである。ドンガラドンの打ち上げ花火的な強度に拮抗させるためなのだろう、同一ショットですべてが起こるためのフレーム設計はさらに磨きがかかり、特にジャネット(マディソン・ウルフ)をめぐるショットでの彼女のぽつねんとした置き方とその空間の忌まわしさはジャネットの絶望を哀切に呼び続けていたし、『エクソシスト3』に端を発すると思われる横切り芸については『インシディアス』経由の積み上げがなかったのは残念だけれども、その代わりに一斉に家を飛び出したホジソン家が道を横切ってノッティンガム家に駆け込むショットの奇妙な祝祭感を見つけられたのは幸いだったのではなかろうか。(この際よその子のことなんかどうでもいいから)お願い行かないで!と泣き叫ぶロレイン(ベラ・ファミーガ)に、ごめん、後悔したくないから行かなけりゃならないんだ!と応えるエド(パトリック・ウィルソン)とのドア越しのシーンは、愛こそが恐怖を生むことを知らしめてロマンチストたるジェイムズ・ワンの面目躍如であったのは間違いない。それにしても、おもちゃの消防車が走ってくるだけでなぜあれだけ禍々しく鳥肌が立つのか、映画を映画たらしめるのはストーリーではなくストーリーテリングであることの格好の証となる名シーンだったのではなかろうか。エドのもみ上げが何に由来するのかまでタネ明かしされてしまうと、もしかしたら監督の脱ホラー宣言がいまだ有効なのかとそれだけが心配で心配で仕方がない。どこかしらジャック・ワイルド風なマディソン・ウルフ嬢がアメリカ娘であったのはちょっと意外な気もしたけれど、噛み締めた奥歯で涙をせき止めた彼女が実質的なMVPであったことは揺るぎがないのであった。
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2016年07月09日

ウォークラフト/汝、星くずの守護者となりて

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こんなカッコいいグリフォンは『シンドバッド黄金の航海』以来だなあとか、ほとんど伝統芸と化したベン・フォスターの転向クンっぷりとか、ぶっ潰してたたっ切る鉈のような重量の白兵戦とか、何だか意外とグルダン嫌いになれないなとか、ローサー(トラヴィス・フィメル)の喰ってる肉おいしそうだなとか、おお、そこで◯◯をぶっ殺しちゃうなんて豪気だな!とか、自家中毒みたいな内省や葛藤でドラマを偽装するよりは、こうやって騎士道の矜持が連れてくるプライドと尊厳の物語にした方が闘わざるをえない者たちの追い風としては健やかだなあとか、そもそもハイ・ファンタジーに現実の反映による共感とか持ち込むのは野暮だろとか、全米がコケた的な喧伝にそれなりの?はついたわけである。とはいえ、あらかじめトリロジーが約束されていたLOTRに比べると、スタートダッシュでタイムを稼いでおかなければ次のランナーにバトンを渡せないという足かせがあったことで少しばかり駆け足が過ぎたのは確かなところだし、特にガローナ(ポーラ・パットン)の人間とオークに引き裂かれた過去の陰影を十分に浸透させないままアゼロス側に寄り添わせたことで、続篇があるならば明らかに彼女が物語の主役を担うであろうことを考えた場合、彼女の苦渋の決断と偽りの女王としての葛藤(おそらくタリアとの対称となるはずである)がそれにふさわしい重荷となるには彫り込みが浅いままであったように思えてしまうのは否めない。そして、精神性も行動もその重荷を受け止めるためにあるのかと思われたデュロタンを退場させたのはシナリオ上のブースターとしては有効ながら、彼とローサーが種族を超えた絆を紡ぐまでには至っていなかったこともあってローサーの仕上がりは一面的なままだし、生き残った者たちが果たしてどれだけの恩讐を紡ぐことができるのかと言うと少々心許ない気がしてしまうのが正直なところなのである。ただ、撮影期間中の監督の父親と妻をめぐるタフなプライベートのことを思うと、絶対的な悪や闇といった存在を手近に置きたくなかったのではなかろうかという推測は可能だし、その細やかで柔らかいあくまでパーソナルな物言いにはブロックバスターで筆が荒れるのではないかという危惧とも無縁だったことに安堵はしているのである。荒んでいるのは生け贄が血を流すストーリーを欲しがってしかたのない客の方なのではなかろうか。
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2016年07月08日

葛城事件/愛はなくとも家は建つ

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いったい俺は何をしてきたのだと見回した焼け野原に愕然としながら、しかし自分の手にあるのはくすぶるマッチの燃えさしであることに気づきつつ、それを手のひらに握りしめ隠してみてはその熱さと痛みにうめいてみせる父性の、と書いてみれば何やら『セールスマンの死』とでもいう敗残の物語が沁みるようでありながら、ほんの少しだけ脇をくすぐってやればクスクス笑いだして『松ヶ根乱射事件』に転がってしまいそうな気がするのは、三浦友和と新井浩文による負け癖の父子再びという既視感はともかく、葛城清(三浦友和)によるマッチポンプの滑稽を押し殺すように現れる入れ替わり立ち替わりが次々に底を踏み抜いていく様がスラップスティックですらあったからで、しかしそれを正統に笑い飛ばせるのは次男の稔(若葉竜也)ただ一人だけであるというオチがすべてを台無しにする底意地の悪さによって、清はウィリィ・ローマンになるチャンスをあっけなく奪われてしまうのである。その徹底ぶりは清に弁明の場を一切与えることもしないわけで、たとえばこの映画では清の父と母が言及されることはほとんどないまま、かろうじて彼が父の金物屋を継いだというたった一度のセリフきりだし、回想シーンにおいても念願のマイホームに招かれているのは両親ではないのである。清は父から継いだ金物屋を家業として息子に継がせるつもりは一切ないどころかむしろそれを断ち切ろうとしていることから、彼の思い描いた人生は町の金物屋の親父ではなかったであろう屈託はにじみ出ているし、それが彼をことさら偏狭な人間にしたことは、例えば父がいつも座る店先から表の通りを見た保(新井浩文)の目に映るその世界の窒息しそうなほどの狭苦しさが残酷に告げているわけで、そうやって自分を偽って過ごした人生であるにも関わらず家を建て子供を育て上げたという自負が、清を自己否定と自己肯定に引き裂かれた惨めで哀しい妄執の怪物へと育て上げてしまったのだろう。したがって彼が自分以外の人間に求めるのは自分に対する全面的な肯定であり、それをより強固にするために世界は常に否定されるべき存在としてなければならないわけで、保や稔、妻伸子(南果歩)が著しくバランスを欠くことになるのは清によるそうした精神と感情の搾取によっているのは言うまでもない。しかしそうやって保や稔、康子が屠られた生け贄としての定型に収まってしまう一方、稔と獄中結婚した星野順子(田中麗奈)もまた自身の背景を閉じこめたまま現れてきては葛城家における愛の不在を一方的に糾弾するのだけれど、稔との最後の面会時に自身の愛に関する無垢な想い出を語っては一人で浄化を果たしたように泣き濡れる姿に、彼女もまた愛に躓いている人であることが語られて、結局ここに登場する人たちは皆が皆、誰かを愛したいのではなく愛されたいという欲望の肥大に押し潰された人たちであることが浮かび上がってくるように思うのである。幸か不幸か生き延びてしまった清と順子が立ち尽くすラスト、3人殺せば俺の家族になってくれるのか、要するに俺にも愛をよこせと迫る清に頭がおかしいんじゃないの!と怒鳴りつける順子の図は、2時間をかけてたどり着いたのが結局はここであるという点で呆れ果てはするものの、その馬鹿さ加減にどこかしら心安らいだのも確かであって、すべての問題は愛に関する需要と供給のバランスを欠いていることによるのだなあとしたり顔などしてみるものの、人類が歴史を綴ってこの方そもそも愛が足りたためしなどあったのだろうかと、したり顔のまま思案顔などしてみればそれは何となく笑い顔になっている気もして、とろろ蕎麦をすする音に夏の訪れなどを感じたのであった。通り魔誕生のメカニズムを暴く話ではないです。
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2016年07月04日

裸足の季節/ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・サン

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囲いの中に捕えられた野生の馬(”MUSTANG”)が、人間を乗せるように、というよりはまさに字義のごとく男たちを乗せるよう調教されていくグロテスクの(競りのお披露目すらある)、しかしそれは『エコール』のように寓話めいたファンタジーであるどころか、それを習わしとして形作られる世界で5人の少女が一人ずつ屠られていく日々を誰が生き延びることができるのかという監禁ホラーですらあったといってもいい。オープニングから息苦しいほどに活写される、奔馬として生まれた者たちが世界に求める分け前が正当であればあるほど、それを奪われ続けることで緩慢に死んでいく彼女たちへの仕打ちはもはや殺人に近く、終盤の異様に張り詰めたサスペンスを生んでいるのは冤罪で死刑を宣告された少女たちによる脱獄の物語にほかならず、そこにあるのは『ヴァージン・スーサイズ』が告げたような実存の危機どころか既に生命の危機ですらあったことで、こちらまでが首を絞められるような強迫に苛まれることになる。とはいえこれが、差別や隷属のイズムは表出のパターンに過ぎないといってもいい悲劇的に入り組んだ問題であるのは、祖母(ニハール・G・コルダシュ)のように悪意のない善人や叔父エロル(アイベルク・ペキジャン)のような悪意を悪意と知ることのない罪人、要するに世界には中心があると考えてそこに躊躇なく依存する者と、それぞれを無数の中心にして繋がることで世界は在ると考える者の断絶によっているからで、最終的には同性への連帯よりも世界にかしずいてしまう祖母のような女性や、長髪=ゲイ扱いされる社会で髪をなびかせトラックを運転するヤシンや、密かに事情を汲んでくれる産婦人科の医師のように少女たちを援護する男性の配置にそれは端的に象徴されている。しかし最後にラーレ(ギュネシ・シェンソイ)がその胸に飛び込んだのがそうした垂直と水平の交錯について先鋭であろうディレク先生であったことによりこの一瞬のハッピーエンドが一気に現実の解を求めはじめることで、笑顔もガッツポーツも宙に浮いたままこわばってしまうのを止められないように思うのだ。その割り切れなさは、この断絶が人種も宗教も超えてイギリスやアメリカのシビルウォーの根底にあるものと共通するようにも思えるからで、したがってこの映画を評する補助線としてMMFRを用いるのは、その昂ぶりは理解するものの監督や作品に向かう歩みを止めてしまうようにも思えてしまい、少しばかりわだかまりを感じてしまうのが正直なところである。ルーレや彼女の戦友に肩を貸すように包み込むウォーレン・エリスとニック・ケイヴによるスコアは常に凛として優しいのだけれど、いつしかそれがレクイエムのように聴こえてきてしまうのがこの映画の抱えるハードな状況のどうにも避けがたい反映なのだろう。『コップ・カー』の疾走から百万光年離れた衝突に少しだけ泣きそうになった。
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2016年07月03日

日本で一番悪い奴ら/エース・オブ・ススキノストリート

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『ヒメノア〜ル』やら『クリーピー』の観客が喧しい底の抜けた警察描写もこの映画を観ればさもありなんとうなずくような馬鹿の動物園っぷりが、今さら善悪の彼岸や権力の腐敗にメスを入れて勝った気になって負けるよりは指差して笑っといた方がなんぼか生産的だろうという一点突破に蹴り上げられて、何と言っても自分の不手際のような何かをいっさい反省する気がない点で頭を垂れて信用したのである。反省する気がないということは、そもそも自分が社会からどのようにはみ出してしまっている人間かをまったく分かってないということで、主人公諸星要一を演じるのが例えば山田孝之であったなら分かっていてあえて踏み越えてしまう人間の陰影がついてしまうところを、まったく何もわかっていないからこそ行くところまで行けてしまう鉄砲玉というよりはパチンコ玉を演じるには、綾野剛の浮ついた腰高としゃちほこばった背骨の硬さが呼ぶキレッキレのノンシャランが必要だったのだろう。それだからこそ、何の覚悟も持ち合わせていないハッタリだけの人間が考えなしに手を出したシャブのもつ絶対的な極北に激突した衝撃がああまで言語道断に激烈だったわけで、オーバードーズの境界を猛スピードで行き来する鼻水まみれの綾野剛がいったい何を参考にしたのかわからないけれど、それはそれは珠玉の顔芸だったのである。意外とあっさり離脱する村井(ピエール瀧)の昭和グルーヴィを残念に思ったりもしたのだけれど、たとえば『トレーニング デイ』のデンゼル・ワシントンのようにメンターとして諸星要一を支配しにかかると、馬鹿が戦車でやって来る底抜けがチャームで武器の諸星に余計な知恵がついてしまうことを考えれば物語の要請としてその退場は仕方なくはあったのだろう。とはいえスーツを着たピエール瀧のマイケル・マドセン感は予告篇をみて思い描いたとおりで何とも贅沢な使い捨てだなあなどと思ってしまうくらい、果たして瀧がこれほど順風満帆で着実でいいのだろうかと若干訝しんだりもするわけで、来年あたり調子に乗って「おじいさん先生 ザ・ムービー」などぶっ放すことで盛大にすっころぶ姿など期待しておきたい。猥雑で無責任で天に唾する泣き笑いは東映エクスプロイテーションへのオマージュなのは言うまでもなく、とにかくセリフではなく動くことでリズムを叩き出そうとするあたりも、往事の作品など観るととにかく役者がみなバネ人形のようにはじけ飛ぶ(健さんもキレッキレである)アクション(=演技)への、まずはそこから始めねばという決意によっているのだろうし、白石監督におかれては事実ベースの実録風エクスキューズで遊ぶやんちゃとオッパイの路線をぜひともこのまま邁進していただきたい。そして今作をご覧になった関係各位は、両者合意の濡れ場においてはオッパイを隠さないことでどれだけ奥行きが生まれるか今さらながら痛感されたのではなかろうか。もちろんそれはオッパイを見なければ死んでしまうからではなく、各種フェティッシュを除いては人間がコトに及んで正対すればオッパイが映り込むカットが至極自然であるからに他ならず、かつて艱難辛苦の時を経て浴びるシャワーで生の実感を取り戻す生命力に溢れたシーンですら、ジュリアン・ムーアがその肉体で歓喜をあらわしたその陰で何かそれが罰でもあるかのように乳房を隠し続けた某女優のことなど思い出してみれば、その不自然が後ろ指すら誘うノイズとなりうることなど百も承知のはずであろう。そもそもオッパイを綺麗でカッコ良く撮れない監督など何を撮ったってロクなことになるはずがないのは言うまでもないにしろである。
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2016年07月01日

帰ってきたヒトラー/待たせたな

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もっとパイソンズ的なコメディかと思っていたらある種の社会実験みたいな生真面目さもあって、タイムスリップものにお約束のカルチャーギャップで笑わせたりはするものの(質は良くないけど)、どちらかというとどれだけ眉をひそめるかで観客のアレルギーテストをしているような不愉快というよりは不快を隠そうとしないところに、おためごかしのあざとさはさほど感じなかったのである。したがってヒトラー(オリヴァー・マスッチ)その人についてはトリックスターとしての記号のまま特に新解釈もアップデートもないのは当然で、女性TV局長カッチャ・ベリーニ(カッチャ・リーマン)をヒトラーがレニ・リーフェンシュタールに喩えたように、ポピュリズムの片棒をかつぐメディアの愚かさとそれにやすやすと踊らされる民衆の滑稽を数珠つなぎにすることでヒトラーのいう「いいかね、私を選んだのは普通の人々だったのだよ」という衆愚のシステムを再現してみせて、それはどうしたってアーレントの言う“悪の凡庸”に行き着くことになってしまうのではなかろうか。劇中でヒトラーへの嫌悪を顕わにするのはドイツ人の年配者が主で、移民とおぼしき人たちや若者は完全にポップアイコンとして愛情すら示しているわけで、特にドキュメンタリー部分のそうした意図的な編集は製作陣が感じた違和感を増幅した結果であるのだろうし、フランツィスカの祖母がみせる至極正当な怒りがことさら過剰で苛烈に映るのもそうした断絶の象徴だったのだろう。メディアが欲望に淫してはいけないという自戒と自嘲、そして何よりもメディアを丸呑みする者は阿呆だという突きつけに、コメディの質をうんぬんする以前になかなか笑う気分になれなかったのが正直なところで、それもこれもイギリスとアメリカで起きたことや起きている現実がやすやすとこの映画を凌駕してしまっていることと無縁ではないように思うのである。何度も同じ間違いを繰り返すのはワタシ達が馬鹿だからなのだろうし、となれば馬鹿にできることといえば馬鹿なりに愚直に自分の頭で考えることしかないのではなかろうか。耳に心地良い言葉を聞いたなら、ではなぜそれが今まで達成できなかったのかを考えてみればいいし、そうしてみればそれがハッタリや甘言であることに気づくかもしれず、おそらくそれはポピュリストがもっとも嫌がることのはずである。それにしても、そのハードコアな自然回帰主義に優生学の香りをかいで緑の党に共感するヒトラーなど党関係者は笑うに笑えなかっただろう。ボリス・ベッカーもけっこう間抜けなタイミングで名前を出されてたけど彼の国ではそういうポジションの人なんだろうか。彼の国の事情などそんな程度にしか知らないながらなかなか正面切って笑い飛ばせないのは、これが足元に埋もれたヒトラーの地下壕の上に生きる国ゆえの、それを踏み抜いてみたいという欲望と誘惑をつついてさらけ出したポルノグラフィーにも思えるからなのかもしれない。
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2016年06月26日

貞子 vs 伽椰子/あの人、バケモノじゃありません。

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とりわけ貞子が、人間風情の浅知恵で駒あつかいされるのは何だか切ないなあと思っていたのだけれど、そこはミスカトニック大学卒の白石監督だけあって我々賤民は支配されてなんぼというわきまえが被虐の歓喜にうち震えるラストを捧げていたのである。そもそも常盤経蔵(安藤政信)のプランAがゴジラ対エビラ、プランBがエクソシストというボンクラファンタジー全開なわけで、湿気を抜いたJホラーのオカルトポップな昂揚感は期待通りに期待を裏切った上に、抑えきれない衝動としてのナイアルラトホテップ的意匠でとどめを刺すあたりのドサクサに、思わず正解っ!と内心で叫んだ次第である。とは言えラストガール候補として気丈にふるまってきた有里(山本美月)の、己が運命を悟って井戸の底で流す走馬灯の涙はあくまで切なくて美しく、いったい誰にとってのハッピーエンドなのかをダメ押しするそのカットがあればこそ、その後で開く地獄の門が神々しくすら映ったのではなかろうか。森繁先生(甲本雅裕)の全身ガッツポーズには思わずイリーナ・スパルコの「ぜんぶ知りたいの!何もかも!」など思い出したものだから、あのあまりにもあまりな非業に切なさと苦笑が十倍増しであったし、そんな具合に愛情とか善性などといった人の因果などおかまいなしに片っぱしから蹴散らされていく点で監督の筋が一切ぶれることがないのは、監督もまた人間以外の存在に焦がれ奉仕する一人だからに違いなく、それはある意味『クリーピー』にも繋がるところがあるなあと、そう言えばあちらもまたバケモノにはバケモノをぶつけていたことに膝など打ったりしてみたわけで、となればやはりこの2本ははしごすべきだったかと軽く後悔などしているところである。夏美役の佐津川愛美(『ヒメノア〜ル』!)は小動物系のノイジーでポジションをぶんどっていく人かもしれない。次は『貞椰子(さやこ)vs悪夢探偵』が観たい。
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2016年06月24日

クリーピー 偽りの隣人/まだまだ行くの?

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冒頭、取調室の窓にはまった格子の隙間に「西島秀俊」「竹内結子」「香川照之」のクレジットが隙間一つに漢字一つといった按配ではめこまれていく端正と几帳面にうつつを抜かしかけた頃、「監督 黒沢清」のクレジットがまったく格子をはみ出してふっとあらわれる変調に心はざわめいてしまうわけで、そもそもが現実の面会室に即したセットを組むことなどいくらでも可能なところが、陽のさんさんと降り注ぐ開放的とすら言ってもいい空間を取調室と言い張る上に、野上(東出昌大)がオートマティックを取り出す保管庫はもはや廊下におかれた靴箱にしか見えず、黒沢作品では既になじみと言ってもいいこの“警察署のような何か”を続けざまに浴びせられた時点で既に気は遠くなっている。何より今作において明白なのは、ワタシ達がいつもながらにコレジャナイと呟いた世界の様相を涼やかに留保することなく、そう、世界はコレジャナイんだと返答していたことで、黒沢清の見立てた世界はこれほどまでに傾いでいて、しかしすべての主人公達はこれまでずっとその世界を必死になって時には命がけで立て直そうとしてきたことを、その答えが高倉康子(竹内結子)の世界を絶縁するような絶叫だったとしても、まったくあきらめることをしないからこそ地獄に堕ちる時ですら切なさを宿しているのだということを、だってそれ以外に人間ができることなどないじゃないかと問わず語りに告げていたように思うのだ。したがって、今作は傾いだ世界をいかに自明とするかという注力が清冽ですらあるわけで、草木はいつにもまして風向きの読めぬ風にねぶられ、仮初めの境界たるカーテンやビニールシートはいつになれば我が身が定まるものかといっそう烈しく身悶える一方で、ガラスの向こうで繰り広げられる音のない喧噪はこちら側こそが彼岸であることを映しているかのようである。「あれは鬼です。一見ふつうに見えるけど人の心は持ってないですよ」と高倉(西島秀俊)に告げ口する田中を背後から睨む西野家の門柱は一瞬憎悪に身じろぎすらしたように見えはしなかったか。その直截的なメタファーなど思い出してみれば、西野の差し出す拳銃の銃身を両手で慈しむように包み握りしめる康子の破滅的なエロティックは黒沢作品の更新ではないのか。「これがあんたの落とし穴だ」という高倉(西島秀俊)の捨てゼリフがまったく痛快も快哉も呼ぶことをしないのは、自身も含めた全員がとっくに穴の底へ落ちていることに気づいていないからだし、高倉が傾いだ世界の角度を見ぬいたつもりでいられるのは、自身もまた西野のように傾いだところのある人間だからに過ぎず、康子があきらめていたのはその傾いだ角度に自分を修正する試みであったことに他ならない。地下室における康子の背信はそのことにどこまで行っても気づくことがない高倉(「たまにいるんだよ、あんたみたいな人」)への愛と絶望の両極が仕向けた捨て身であったからこそ、クッキーを高倉の口元に運ぶ康子は一瞬とはいえ満ち足りたひとときを得たのではなかろうか。言うまでもなく黒沢作品において世界を立て直す試みに我が身を捧げるのは女性たちであり、康子もまたその闘争に殉じた一人なのは間違いがなく、ひとり結晶のような静謐に閉じこもった西野が去ったことで康子は声を取り戻したけれど、その声でいくら自分が叫んでもそれは傾いだ世界の漆黒にずれた隙間に消えたまま夫には届かないその絶望が絶叫を呼んで、少しくらい世界に悲鳴をあげさせないと君たちは自分の足下を確かめないだろう?と監督は少しだけ得意気に微笑んだように思うのである。それにしても藤野涼子である。幾度となく香川照之の直撃をくらって吹っ飛んだり立ち尽くしたりしつつ、出演2作目の16歳がそれにことごとく受け身をとっているのである。そしてこの女優は死体を真空パックすることの意味と都合を“わかって”動いている。しかもその作業に手慣れてしまった透明の哀しみすら漂わせてである。彼女のハードボイルドな資質は都市型の監督から今後もてはやされはずだし、遅かれ早かれ塚本晋也の作品に出ることにもなるのだろう。広瀬すずの圧政に苦しむかと思われた日々のまさにジャンヌダルクである。怪優モードを嬉々として遂行していた香川照之がラストのシークエンスで屋上から望遠鏡で次の獲物を物色するシーン、CGを使わずにあれほど人の顔は歪むのだという事実に感動すらおぼえたことも忘れず記しておきたい。謎の炒め物、謎のシチュー、謎のクッキーも最凶。
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2016年06月22日

10 クローバーフィールド・レーン/きみのためなら痩せる

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※別の映画を観に行ったらいきなり自分からネタバレしてくる映画など最早どうでもいいとは思うけれど、念のため観賞予定の方スルー推奨

日本版の予告篇がアレを見せてしまっていたことで、信頼できない語り部としてのハワード(ジョン・グッドマン)がある一点、とはいえ重要きわまりない一点だけは真実を述べていることを事前にバラしてしまっている不始末については100歩譲って大目に見るとして、ではその侵略者たちの足下で繰り広げられる監禁スリラーの神経戦がどうも今ひとつピンと来ないままだったのは、生殺与奪の権を握る男ハワードが果たして監禁者なのかサヴァイヴァーなのかというサスペンスを、実のところ彼は監禁者にしてサヴァイヴァーであったのだというどんでん返しにおとしこむにしては、ハワードという男をあらかじめグレイゾーンにとどめる手順に濃密なスリルを欠いていたことによるのではなかろうか。ジョン・グッドマンという不穏な善人のキャラクターを頼りにしすぎたせいで、本来であれば主人公ミシェル(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)の直感や行動によって明らかになっていく怪物性が意外性を欠いてしまうのに加え、プロットの穴埋めとして存在させたとしか思えないエメット(ジョン・ギャラガー・Jr)の曖昧な歩幅のせいで、彼がまみえることで生まれるはずの三角関係が緊張をもたらすどころか拡散させてしまっていたことも、怪物とサシで対峙することで覚醒するはずのミシェルの足を引っ張ってしまっている。『プリティ・イン・ピンク』を観ながらハワードはあの三角関係の中の誰に自身をなぞらえていたのか、エメットを葬った後で髭を剃りこざっぱりとしたシャツを着てにこやかにミシェルに語りかけるその笑顔の狂気こそを通奏低音にするべきだったのにと悔いは残るばかりである。男から逃げるために車を走らせていたミシェルが、今度は知らない誰かのために闘う道を選んで走っていく円環を『マッドマックスFR』的な成長譚と読む人がいたとしてもそれを否定するつもりはないけれど、だからこそミシェルの覚醒がより鮮烈であるためにシェルターの怪物は生き地獄そのものであって欲しかったと思うのだ。ちなみにシャマランなら、ハワードの正体を宇宙人とした上でVサイン出して地球を救っていたはずである。シャマランをあまりなめない方がいい。
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