2021年08月11日

明日に向かって笑え!/気分はもう闘争

heroic_losers_02.jpg
オフィシャルサイト

フェルミン(リカルド・ダン)が感情の発火装置としてある一方、生まれついてのアナキストを自称するアントニオ(ルイス・ブランドーニ)は「われわれはこうしてアナキズムの父ミハイル・バクーニンの夢を追いかけている。個人は国家とその制度を超越するのだ」と、これが復讐ではなく正当な闘争であることを絶えず謳い続け、ファン・ペロンの時代にひととき労働者の楽園を夢見たロロ(ダニエル・アラオス)は飼いならし続けた屈託をペロン主義への憧憬として静かに解き放ち、そもそもの発端が農家の保護と雇用の創出を目的とした農協の再建であったことを思い出してみれば、政府の下部組織としてではない独立した共同体の再構築に伴う闘争の物語として、トーンは違えど『バクラウ 地図から消された村』に通じる“無政府主義の季節”が見て取れた気もしたのだ。もちろんここに『バクラウ』の血なまぐささはないけれど、最小限に止めるはずだった発電所の爆破が、雑ででたらめな作戦のため発電所のすべてを吹き飛ばしてしまっていて、嵐の夜に市中の全域を復旧不可能な停電に陥れた結果として予期せぬ不幸に堕ちた人間は果たしてどこへ消えたのか、この集団がいつしか纏ったのかもしれない薄っすらとした狂気も含め笑い飛ばすのが、特にアントニオにおけるマナーではあったのだろうし、物騒な手段に訴えるのは問題外として、アティテュードとしてのアナーキズムで自衛すべき時代の只中にいることを実感させられてばかりの世の中にあっては、それが健康的にすら思えてしまうのだ。とはいえアントニオがバールを振り回す代わりにいったい何をしたか、あれはこちらのそんな物騒を見透かした上でのクールダウンだったのだろう。俺の敵は国家でも政府でもない、あんたら益体もない大人たちだよ、とエルナン(マルコ・アントニオ・カポニ)が冷ややかに見舞う正義と悪のうっすらと苦い中和がカウンターで効いている。
posted by orr_dg at 22:23 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月05日

返校 言葉が消えた日/バック・トゥ・ザ・トーチャー

detention_03.jpg
オフィシャルサイト

過去を語ることを怖れるあまりそれを亡きものとしようとする時、葬られんとする過去がそうはさせじと現在を道連れにする。そんな時代と精神の暗闘が生み出す恐怖の在りかをえぐり出す必然をホラーというジャンルに託した野心と、なによりその当事者性こその哀切と痛切と使命感に傍観者の胸の奥が揺さぶられる。地政学上の継子として翻弄されてきた台湾を想う時、この白色テロの時代が日本の統治から連なるうねりの先にあることは言うまでもなく、その悲劇とワタシたちとの距離をいったいどう掴めばいいのか、その時代に生きた人たちが未来や希望を求めては打ちひしがれていく作品を見るたび、傍観者としてのワタシはことさら心が乱れてしまう。自由の闘士として曇りなく描かれる読書会のメンバーに心ならずも引鉄を引いてしまうファン・レイシン(ワン・ジン)だけが彼女を覆う鬱屈の背景をその家庭に描かれていて、社会に石を投げる前に自分と闘わなければならない18歳ですらが否応なしに巻き込まれていく政治の季節がいかに容赦がなかったか、殉教の蒼い恍惚すら知らないまま贖罪を果たさねばならなかったファンの屠られた青春がそこかしこに打ち棄てられていた時代を新たに語り継ぎその鎮魂としたことで、永遠に一人で目をさまし続ける放課後の教室からファンを解き放ったラストに、ひと時とはいえワタシまでもが救われる。原作のゲームをプレイしてないのでその構造はわからないけれど、ここではファンが囚われた煉獄を学校に置き換えて視覚化し、その中を彷徨する彼女に立ち昇るフラッシュバックをゲーム内の実写ムーヴィーとしてちりばめながら、それをファンが串刺して時間軸の再構成をすることでサスペンスを抜き差しならない角度へと尖らせていく寄る辺のなさにおいて、ゲーム原作の実写化としては『サイレントヒル』の達成を思い浮かべたりもした。『怪怪怪怪物!』がそうであったように、恐怖=テラーは社会の忌まわしい反映であるという大前提を死守しつつ、そこに巣食う深淵の怪物を繊細かつ匂い立つ露悪で娯楽に幻視する確信と志の高さにおいて台湾ホラーが開拓しつつある未知がワタシは眩しくて仕方がない。
posted by orr_dg at 02:27 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月30日

最後にして最初の人類/星が継ぐもの

last_and_first_men_03.jpg
オフィシャルサイト

未来から過去へ向かって放たれるメランコリーの在り処を、『メッセージ/Arrival』の一卵性双生児としての今作に探して見つけた気がしてしまう。最後の人類として、既に人間としての個別の感情を超えた存在であるはずが、それをワタシたち最初の人類に伝えようと意識を翻訳していく中で次第にこみ上げてこぼれ落ちる喪失への悲嘆は、最終的にワタシたちは存在を運命づけられた生命であることの独白でもあったように思える。石化した結晶のように映るスポメニックは果てしなく巨大な宇宙船の遺骸のようでもあり、そうしたミクロとマクロの交錯によって意識の正規化が真空の静けさのうちに行われていく。ヨハン・ヨハンソンの手がけるサウンドトラックが、感情の増幅ではなくそれを結晶化してその内部に共振する揺らぎでショットを覚醒していたことを考えると、この作品世界こそが彼の原風景であったようにも思え、ユートピアよりはこの宇宙に終焉があることを想像するのだというヨハン・ヨハンソンの幻視ならぬ幻音の永遠なる欠損が、この世界のバランスを少し狂わせたのだとティルダ・スウィントンが囁いた気がしてならないのだった。
posted by orr_dg at 02:34 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月23日

プロミシング・ヤング・ウーマン/たったひとつの冴えたXXかた

promising_young_woman_01.jpg
オフィシャルサイト

※未見の方スルーを強く推奨

ポール・カージーでもハーレイ・クインでもない、カサンドラ/キャシー・トーマス(キャリー・マリガン)は“極めて前途有望な若者”だったからこそ、キャシーをキャシーたらしめるその豊かな知性と細やかな感情が、傾いだ世界の矯正係として送り狼を狩りたてるハンターへと彼女を仕立てたのだろう。しかし、復讐の呪いと狂気の快楽の間を危うく行き来しながらそのどちらにも喰われてしまうことなく、内部の激情を倦怠に隠しながら綱渡りするキャシーのメランコリーは、ほとんど崇拝といってもいいニナへの思慕というよりはサヴァイヴァーズ・ギルトのそれにも思われて、自罰の証明としての実質的な自殺とそれによってアル・モンロー(クリス・ローウェル)をニナへの供物とする究極のトラップをキャシーに発動させたのが、一度は彼女を救済するかに思えたライアン(ボー・バーナム)にすらぬぐえない男性性の歪みであったことを考えてみた時、むしろキャシーにとってそれはグリーン弁護士が言うところの啓示だったのではないかと、山奥でたった一人灰となって土に還ったキャシーにそよぐ風の静謐が、ようやく訪れた彼女の安寧を祝福した気もしたのだ。しかしこの物語は、カサンドラ・トーマスというかつて前途有望だった一人の若い女性がなぜああして人生の幕を閉じねばならなかったのか、その最期の日々を描いたのはもちろんのこと、それを追うことで施される呪いの話でもあるわけで、ダンスフロアで男たちが踊りくるうオープニング、カメラはその男たちがチノパンに隠す下半身を執拗にクロースアップし続けて、これはお前らとお前らがそこに隠すそれにまつわる物語であってできればあたしはそのすべてを無効化したいと考える、というキャシーの宣戦布告であったことが時を追うに連れ忘れがたく付いて回ることとなる。そしてキャシーの最期を見届けた今、ワタシたち男に刻印されたのは、自称いいやつ(I am a nice guy)はわるいやつ(a bad guy)というシンプルにして強力な呪いであり、その無自覚で無邪気な傲慢によって自身をa nice guyにロンダリングし続ける男たちの罪深さを知れば知るほど、キャシーが放ったこの呪いが彼らの悪性を晒していくのだろうことを考える。エメラルド・フェネルが手がけた『キリング・イヴ』のシーズン3とケイト・ショートランドによる『ブラック・ウィドウ』が共に放蕩娘の帰還と過去の清算であったことを思ってみれば、世界の自浄をあてにしない勢力が既に破壊から再構築に向けた新しいフェーズに足を踏み入れた気もして、この風が追い払った雲の向こうに広がる光景の輝度と硬度をワタシは待ちわびようと思うのだ。この映画の鏡像として『狩人の夜』を映しこむ目配せも芳しく、おぉとなって息を少し深く吸った。
posted by orr_dg at 14:59 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月17日

ライトハウス/ケロシン&シガレッツ

The_Lighthouse_01.jpg
オフィシャルサイト

※ネタバレといえばネタバレな記述があります

わしがお前の想像の産物だとは考えないのか。わしもこの島も、カナダの森で膝まで雪に埋もれて凍えながら吹雪の中を彷徨い歩くお前の頭の中の想像の産物だとは考えないのか。とトーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)ががなりたてては、これを胡蝶の夢などと愛でるつもりの勢力に先回りして冷や水をぶっかけるとともに、おれの名前はトーマス・ウェイクだ、トムと呼んでくれと独りごちた瞬間、むさくるしい髭がふちどる異形の相貌とあいまってトム・ウェイクをトム・ウェイツと空耳したこともあって、イーフレイム・ウィンズロー/トーマス・ハワード(ロバート・パティンソン)と二人してくり広げる狂気に関する禅問答のようなやりとりが、ゴシックホラー版『コーヒー&シガレッツ』とでもいうニューロティックなオフビートコメディとして懐に落ちていく気がしたのだ。閉所恐怖症的なフレームの仕掛けよりほか、ここにはこちらを脅かし蝕む実存の深刻はさほど見当たらず、ただひたすら狂気のプロフェッショナルがアマチュアを弄び甘噛みする露悪のスラップスティックを光と影の悪魔的な移ろいが催眠していくばかりで、それを高みの見物とばかり桟敷席で酩酊する居心地が悪かろうはずがないのである。屹立した燈台は言うまでもなくセリフにちりばめられた男性器に関する卑語や隠語が指し示すのは、イーフレイムを捉えて離さないオブセッション、それは彼のホモセクシャルというよりはより直截的なソドミーへの渇望と嫌悪にも思え、イーフレイムは何ゆえ本物のイーフレイム・ウィンズローを殺さねばならなかったのか、そのフラッシュバックにおいて美しい光の中で煌めくように描かれる彼の殺したイーフレイムの姿には深夜の告白が明かさない理由が潜む気もしたし、人魚の妄執を手助けにイーフレイムが発散させ続けねばならなかったリビドーの正体はたった一度ウェイクとのニアミスとして描かれて、彼を生き埋めにすることでそれを封じ込めはするものの、他に見咎めるものもいなくなったことでついにそびえ立つ灯台のてっぺんに昇ってしまったイーフレイムは、まるで宇宙の深淵からほとばしるかのような光の精に貫かれて目を焼かれ半死半生で恍惚と岩場に横たわり、それが本懐でもあったかのように片目のカモメとその群れがついばむにまかせるように肉体を差し出してみせるのだ。ただ、あのラストショットに悲痛や悲惨の影が差さないのは、理性と野生、自然と文明の境目がまだまだ荒削りで、うっかりそこに立つとこの世の真理が超高速で頭をかすめていく時代だったからこそ、イーフレイムですらが薄汚れたイカロスとしてたった20メートルとはいえ墜落の栄誉にあずかったように思ったからで、まあそういうことってあるよね、と思わず象さんのポットを真似てみたりもしたのだった。生き埋めにされるウェイクが次第に顔面が土に埋もれつつ長広舌の長回しでイーフレイムにプロメテウスの呪いを吐き続けるシーン、口の中にあとからあとから土が入りながらそれをもぐもぐと咀嚼すらしながら朗々とセリフは澱みなく、実はあのクロースアップで顔にかけられるのは微細に砕いて土くれに固めたチョコレートか何かではないのかとあたりをつけながら観てみればウィレム・デフォーの顔が心なしか嬉しげで、ああこの土がチョコレートだったならと心を飛ばすその益体のなさこそがいつしか人を灯台に昇らせるのではなかろうかと、それだけは確かに理解した。
posted by orr_dg at 00:41 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月09日

ゴジラvsコング/ただちに東京を破壊せよ

godzilla_vs_kong_03.jpg
オフィシャルサイト

“最後にラドンがみせるあのしぐさをギリギリのラインにとどめて欲しいのが正直なところではあって、その巨大さと破壊の力に神々しさを宿らせておくためにも人間臭さなるものは可能な限り排除してもらいたいと考える”などと前作につけおいた注文が開口一番笑い飛ばされてはいるものの、しかしそれは、こんな底の抜けた便所の落書きみたいなシナリオでケツを拭かなきゃならないのであれば、手っ取り早い擬人化でドラマをショートカットして逃げ切るしかないと判断して私は今ここに立っています、というアダム・ウィンガードの誠実なマニフェストでもあったわけで、既に今季は「ゴジラS.P」で滋養あふれるゴジラ成分を摂取した余裕の身とあらば、かまわぬ良きにはからえといった気分でそれに手を叩くことも厭わないのである。それでもアダム・ウィンガードの爪痕を見つけるとするならばネオンカラーで彩った香港摩天楼と、あの子が乗っていやしないかと船内をのぞいて確認した後にHEAVEをぐしゃっと潰すコング、そして白目をむいてプルプルと震える小栗旬といったあたりで、人間ドラマは主役2人にまかせてあとは全員モブでいこう、といった低予算映画的な刈り込みがモンスターバース最短の113分というランタイムにも現れて、ジャンルへのノンシャランが絶妙な軽さと爽快を誘った点で、三池崇史が怪獣映画を撮ったらこんなだろうなとそのアルティザン的なドシャメシャに思いがけず肌が合ったのだ。それにしても、レジェンダリー案件ゆえなのか日本とアメリカの間をとってのことなのか、最終決戦の場が香港であったこと、そしてその摩天楼が壊滅的に破壊されるのをこの目で視ることの胸のざわつきは、ワタシたちは好むと好まざるとにかかわらず社会的な生き物で、その結果として政治から逃れることは困難であるという現実を不意打ちされたせいだったのだろうし、あそこで暴れているのが核と黒人奴隷の歴史が産み落としたイドの怪物であることを思い出してみれば、彼らが共闘して滅ぼしたあの不細工な金属の塊はワタシたちそのものだったに違いないのである。それよりは、主人の顔色をうかがって風向きを読むことに長け、涼しい顔で遁走に羽ばたき姿すら見せぬラドンこそがワタシたちにふさわしいのかもしれないけれど。
posted by orr_dg at 23:14 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月06日

スーパーノヴァ/誰がきみを一番愛してくれるのかわからない

supernova_01.jpg
オフィシャルサイト

「なくなってしまうのが悲しいのなら、それは善いものだったということだ」「年老いた星は最期に巨大な花火のように爆発して粉々に散り、長い長い時間をかけて宇宙を旅したその星の欠片が私たちを形づくっていく」というタスカー(スタンリー・トゥッチ)のセリフと、残り数分にしてようやくスクリーンにあらわれる“SUPERNOVA”のタイトルがこの物語の公式な感情を伝えつつ、美しい光を放って夜空に輝くあの星が既に存在しないことをぼくは知っているけれど、それが輝く限りその光と欠片を集めてはぼくだけの星を押し頂いて生きていくのだというサム(コリン・ファース)の悲愴な決意は、「いまや僕は(人生の)乗客であって乗客ではない、なぜならその行先はぼくが行きたい場所ではないからだ」と冷静に知覚するタスカーの声にどこかしら耳をふさいだようにも思え、「愛の挨拶」を弾くラストシーンのサムは世界でたった一人タスカーのためだけにその旋律を紡ぎつつ、果たしてその時のタスカーにサムの音色やタッチが届くことがあるのかどうか、ほとばしる感情を倦んだ眼差しで押し殺すサムもまた彼岸の彼方を歩んでいるように映ったのだ。もうそこには君がいないとしても、ぼくには息をする君が在りさえすればいいのだとすべてをかなぐり捨てて懇願するサムのわななきは、かつて最愛の人を失って「ネクタイはウインザーノットで」と遺書までもしたためたある男が憑かれた孤独(シングル)のオブセッションを知ればこその狂気じみた切実であった気もするし、サムへの愛ゆえ尊厳を棄て文字通りの我が身を差し出すことを受け入れたタスカーの決断もまた新たな極北にあって、さっと冷ややかにうなじを撫でられる。そうしてみると、この映画がどこかしら起伏を失っているのはこれがサムとタスカーの死出の旅、すなわち二人で世界から消えてしまおうかという心中の道行きであったからなのだろうと、彷徨の果てにNYの片隅に消えたカレン・ダルトンの歌声がレクイエムのように誘いかけた瞬間に確信し、あとはもう生き霊のように透けていくばかりの二人なのだった。
posted by orr_dg at 02:55 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月29日

グリード ファストファッション帝国の真実/ボノの歌を聴け

greed_03.jpg
オフィシャルサイト

グローバリズムと名乗る搾取の構造について言えば、ここで語られるのは誰もが知った気でいるその内実とさして変わらない念押しに過ぎず、とうことはおそらくこうした実態で間違いはないのだろうし、そこにあらためての新鮮味が見つかることはない。たとえばダニー・ボイルであれば、その下降するらせんのてっぺんとどん詰まりをポップな露悪で衝突させるマニックで病質を絞り出してぶちまけたかもしれず、しかし今さらそれをしたところでスコセッシ(『ウルフ・オブ・ウォールストリート』)の二番煎じでしかなかろうよと目端をきかせて手を出すことをしないそのテーマに、マイケル・ウィンターボトムはなぜ愚直と言ってもいい構えで斬りつけていったのか。そしてポップな露悪で衝突させるマニックをなぜ不発のままにしてみせたのか、それはこの物語が最終的にてっぺんのリチャード・マクリディ(スティーヴ・クーガン)の世界とどんづまりのアマンダ(ディニータ・ゴーヒル)の世界が揺るぎなく継続することを告げるラストに見てとれた気もして、ではその2つの世界の間で揺るぎ続けることで物語を推進させたのは誰だったのかを考えてみた時、監督が真の主役に据えたのはライターのニック(デビッド・ミッチェル)であったことに思い至りさえすれば、この物語の煮え切らなさと露悪に由来しない居心地の悪さの理由が腑に落ちる気もしたのだ。マクリディの伝記をまとめるライターとして彼の虚像を仕上げることに手を貸す一方、その偽善と搾取のシステムの直接的な被害者であるアマンダへの思いやりを失うことはなく、しかしその思いやりがマクリディと彼の世界への怒りに変換されることのないまま、俺は魂を売ったかもしれないが魂を売ったと言うことを知っている俺は本当に魂を売ったわけではないし、俺は手を汚して闘うことはしないけれど手を汚した人の秘密を黙っていることで俺も闘ったことになると考えたい、と安全地帯から目つきだけを変えてみせるニックこそは、揺るがぬてっぺんとどん詰まりの間で揺るぎつづけることでその2つの激突を吸収しながら支え続けるワタシたちそのものであることを監督は告げたのではなかったか。てっぺんのやつらが心を入れ替えることも、どん詰まりの人たちにそれをひっくり返す力などないこともよくわかっただろう、だからもしこのシステムを転覆させる可能性があるとしたら、それは無自覚の共犯者であるあなたたちにしかないのだと毎日が知った風な顔と口ぶりのワタシたちに突きつけながら、とはいえ自分もまたこの世界のニックたちの一人に過ぎないけれどというブーメランが誘う負け戦のメランコリーにマイケル・ウィンターボトムの黄昏を見るワタシもまた、いつからかその黄昏に包まれて気がつけば途方にくれている。
posted by orr_dg at 15:32 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月24日

クワイエット・プレイス 破られた沈黙/ものすごくうるさくて、ありえないほど優しい

A_Quiet-Place2_04.jpg
オフィシャルサイト

アヴァンタイトルのDAY1シークエンス、ドラッグストアの棚におかれたスペースシャトルの玩具が前作のアヴァンとの残酷な対比をなすことで、リーガン(ミリセント・シモンズ)の塞がらない傷口に塩をすりこむその痛みをワタシたちにすら呼び覚まし、それは取りも直さず彼女がシークエルの牽引者であることを新たな沈黙のうちに告げることとなる。この世界では何がセーフで何がアウトなのか、冷徹なはずのホラーサヴァイヴァルをドラマの熱情で恣意的に解凍する腰高にいささか鼻白んだ前作からしてみれば、弟を自らの過失(とリーガンは考えつづける)によって失い父は自分を守って命を散らし、ならばそうやって生き延びている自分にできることは何なのか、ホラーはあくまで発火装置としてセットしつつ喪失の呪いを贖うためにわが身を投げだすリーガンと、その同じ呪いに囚われたエメット(キリアン・マーフィー)を投入することで、運命に逆流する血のたぎりへと針を振り切ったジョン・クラシンスキーの渾身が胸を焦がす。そのリーガンとエメットのコンビネーションとて、擬似父娘としてしまえばたやすく発火できるところをあくまで対等なパートナーもしくはエメットをリーガンの従者とすることで(キリアン・マーフィーの青い目にかしずく者のメランコリーを見てとったキャスティングは慧眼と言える)、困難と無秩序の世界でアパシーと獣性に陥った大人たちに理性と知性こそが希望をつなぐことをつきつけるリーガンを烈しくそして健やかに掲げてみせている。そしてついに監督が物語への点火を解き放つラストシークエンス、海をはさんだむこうとこちらでリーガンとマーカス(ノア・ジュープ)の姉弟が繰り広げる死闘を串刺す火の吹きでるようなクロスカッティングは、まるでピンボールマシンの2つのバンパーの間を猛烈に行き来するボールが叩きつけるようにハイスコアを獲得して世界を更新する熱狂と覚醒の瞬間を捉えて離すことがない。不条理かつ暴力的に音を奪われた世界、それはリーガンが生きる世界そのものであったに違いないのだけれど、自分より他のすべての人たちにその奪われた音を取り戻すこと、それを成し遂げることでリーガン自身が世界の拠りどころとしての”A Quiet Place(静謐な場所)”となることを予感させて、ジョン・クラシンスキーの構想するトリロジーとしてこの物語が完結するとしたら、次なるシークエルでリーガンは喪失の呪縛を解き放った証として裸足を捨てて靴を履くのだろうと考えている。メクサムファッキンノイズ。
posted by orr_dg at 02:39 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月18日

Mr.ノーバディ/殺るか殺られないか

nobody_03.jpg
オフィシャルサイト

「この素晴らしき世界/What A Wonderful World」が流れ始めた中盤、正直言って食傷気味なインサートだなあと思っていたら、普通なら最初の2つの有名なVerseで切り上げるところが、そのまま“空にかかった素敵な虹の色が、道行く人たちの顔にもあふれているよ”と始まるBridgeまでこの反戦歌は流れつづけ、それを歌うルイ・アームストロングの声を聴きながらカメラは虹ではなく真夜中の月を見上げてみせて、寄る辺なき修羅の世界を生き抜いてきたハッチ・マンセル(ボブ・オデンカーク)にとって美しい月明かりだけが彼の世界を照らしていたことをそっと告げた気がしたのだ。とはいえ、普通の幸福を手に入れて愛する人たちと普通の人生を過ごす日々は確かに愛おしいけれど、俺が一番上手く踊れるのは底抜けに気のふれた悪党を相手にした時なんだよと、次第にハッチの方こそがユリアン・クズネツォフ(アクレイセイ・セレブリャコフ)に執着していくその姿に見つかるのは、かつてウェットワークに手を汚した自身への悔恨というよりもそうした過去ゆえに陥る歪んだミッドライフ・クライシスを打破するためのスリルジャンキー的な渇望で、そうした狂気の徴があればこそハッチは暴力の理由としてのメランコリーに喰われることなく逃げ切ることが可能だったのだろうし、バスでひと暴れして帰って来た夜、なんだか昔を思い出さないかとささやくハッチの脇腹に開いたナイフの刺し傷を接着剤を使って慣れた手つきでふさぐベッカ(コニー・ニールセン)もまた、地に足のつかない過去の激情を内部に飼う人間であることをうかがわせて、そのまなざしは流血する世界を優しく寛容に見つめる術を知っているかのように見えたりもしたのだ。身も蓋もなく言ってしまえば一人の男のオーヴァーキルな気晴らしにすぎないこの話を、俺には血も涙もあるけれど、そうした叙情よりは暴力の叙事にこそ平等と品性をみつけてしまうのだと、洗練のガンさばきとハンドルさばきで血と涙を振り切るダンディズムのそれに書き換えてしらを切れるのはボブ・オデンカークの逆流するペーソスのノンシャランあってこそで、それゆえか、これがコメディであることをガイダンスする役割を負った父デビッド(クリストファー・ロイド)の造型を少しばかりうるさく感じてしまうのが悔やまれることとなって、あえてタイプキャストを外したマイケル・アイアンサイドの持ち腐れを考えると、この2人が入れ替わったキャスティングを思い浮かべてみたりもしてしまう。カーチェイスシーンでチョイスされるパット・べネターが、全力で叩き出されるイージーの真骨頂となって血が頭に沸き昇る。
posted by orr_dg at 20:18 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月08日

アメリカン・ユートピア/天国に行けないあなたに

american_utopia_01.jpg
オフィシャルサイト

「リメイン・イン・ライト」リリース時に渋谷陽一が張った植民地主義的なかっぱらいの論陣をおよそ30年前のロッキングオン読者は懐かしく想い出しもするのだけれど、そもそもロックが黒人音楽からどれだけのかっぱらいを働いてきたのかを冷静に考えてみれば、どちらかといえば渋谷陽一の批判は運命共同体としてのバンド幻想、あくまで自分たちのバンドのギタリストやベーシスト、ドラマーが手に入れたグルーヴこそを掲げるべきで、そうやってロックは突破してきたのではないかという苛立ちだったことがうかがえるし、その後たどったバンドの足取りを知ってみれば、決して民主的な運営が為されていたわけではないトーキング・ヘッズというバンドの楽曲を、いまや無敵のコスモポリタンとしてのデヴィッド・バーンが歌い上げる姿に何周かした後の皮肉をうっすらと感じたりもしたのである。都市生活者の憂鬱をスノッブ上等と痙攣して自虐するポストモダンが、アメリカの囚われ人としての上着を脱ぎ棄てるために必要とした裸足のポストコロニアルが世界を巡って帰還したアメリカでユートピア幻想を歌うその足元に、それはもうお見事としかいいようがなかったのだ。そして唯一手持ちに欠けた時代性をスパイク・リーとジャネール・モネイにあけっぴろげで頼る屈託のない完璧な風通しにはぐうの音も出ないわけで、これはもう皮肉でもなんでもなく、周到かつ綿密な戦略で遂行しなおかつそうと悟られない闊達をまとうスマートの凄味にひれ伏したのは言うまでもない。しかし、デヴィッド・バーンとスパイク・リーの共犯がもっとも辛辣かつ容赦なく行われるのはそのラストで、デヴィッド・バーンを先頭に客席を練り歩く楽隊に歓声をあげる、けっしてたやすくは入手はできないであろうチケットを手に詰めかけた白人客たちの自分たちは完全にデヴィッド・バーンの側にいることを信じて疑わない多幸感に包まれた表情は(もちろんスクリーンのこちらのワタシとてそこに接続されている)、ジャネール・モネイのカヴァーである「hell you talmbout」演奏時にインサートされる犠牲者たちの遺影と悪趣味とすら言える残酷な対比をなしていて、今ぼくがキミたちを連れ出したこの場所この瞬間こそがアメリカン・ユートピアなんだよねと笑わない目でにこやかに踊るデヴィッド・バーンがハーメルンの笛吹にも見えたのだった。
posted by orr_dg at 23:24 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月02日

ファーザー/私は誰だった

the_father_01.jpg
オフィシャルサイト

見当識を失えば失うほど腕時計とフラットへの執着が妄執と化していくアンソニー(アンソニー・ホプキンス)に、時間と場所という座標軸を失った人間がいかにして寄る辺なき存在になっていくのか、認知症は死の恐怖を緩和する麻酔薬であるといった言説に否定や肯定を下す術など持たない自分ではあったものの、いつ終わるとも知れぬ走馬灯の暴走に蹂躙されるその間は死を怖れることすらままならないという点において有効な考えではあったことを、おそるべき彼方から知らされたように思ったのだ。父のことを想うアン(オリヴィア・コールマン)が現実に介入すればするほどアンソニーの記憶はさらなるシャッフルとカットアップに切り刻まれて氾濫するモザイクと化し、しかしアンは自分が波紋となって父が囚われるヴィジョンやサウンドの一切を識ることが叶わないという断絶が、これまでであればアンの哀しみと困惑の視点で描かれた物語の向こう側にアンソニーが彷徨する漆黒の宇宙空間の恐怖と混乱が存在する構造を成り立たせ、オープニングに代表されるアンの一人称と、フラットを漂うアンソニーの一人称が切り分け不能に思えるのは、その2つがたとえば『インターステラー』の並行世界のように互いを串刺ししていたからで、かつて父に注がれたアンの愛情は時空を超えてアンソニーを包み続け、彼が特異点へと向かう後ろ姿を見守り続けたのではなかったか。最期に自分が誰の名を呼んで家に帰りたいと泣くのか、それを知る術がないことに悔いは残るけれど、一片となって虚空に消えていくラストがああして訪れてくれるのならばそれだけでありがたいと考えている。ワタシの一番好きな色もブルー。
posted by orr_dg at 23:14 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月25日

MORTAL モータル/マイティ・ソーの解剖

mortal_02.jpg
wowow視聴

これまでトロールや魔女を、超自然というよりはワタシたちが暮らす世界の理=バランスに接続される存在として描くことで新種の驚異/脅威を産み落としてきたアンドレ・ウーヴレダルが、今度は北欧神話の雷神トール(いうまでもなくソーである)を現代のノルウェーへと放り込んでみせはするものの、そこに描かれるのはあくまでトールの力の原初的な絶対値に過ぎず、エリック(ナット・ウルフ)に宿ったその力は神の気まぐれですらない破壊と奇跡を背中合わせに世界を貫いていくばかりで、『マイティー・ソー』をあざ笑うかのような混沌として途方に暮れたプロトタイプの強烈なメランコリーだけがここに記されている。本当に神の力を持った者が現れたらキリスト教やイスラム教のシステムが崩壊する、そしてアメリカはそのような事態を受け入れることはしないという決断が誘った悲劇に、神となることを拒否して世界に力を解き放ったエリックはテロリストとして追われ、そして彼を祀るカルトの誕生を伝えるラストのMCUでは決して描かれることのない這いずるような現実の照射は、これがウーヴレダルがアメリカに招かれて撮った『スケアリーストーリーズ 怖い本』の次作として本国ノルウェーで撮った作品であることを考えてみれば、これまでそれをチャームとしてきたジャンルムーヴィーへの真摯な偏愛がもたらす上気したまなざしを手放した上で寂寥と荒涼の荒野に踏み出す変質をウーヴレダルの成熟と考えてみた時、一切のクリーチャーもモンスターも現れることのないままヒーローが誰とも闘うことのない物語は、さらに重心を低く足腰を鍛えるため自らに課した斤量であったようにも思ったのだ。そしてそれは、いつの日かワタシたちがスクリーンで目にするであろうリチャード・バックマン=スティーヴン・キング「死のロングウォーク」のためのトレーニングなのだろうと考えている。
posted by orr_dg at 22:12 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月22日

ブラインドスポッティング/ラストホワイトマン・イン・オークランド

blindspotting_01.jpg
オフィシャルサイト ※wowow視聴

レイダース(=侵入者、掠奪者)と名乗るアメリカンフットボールチームを擁する街オークランドに進行するジェントリフィケーションを、その地に根付いていたコミュニティの破壊と主権の簒奪、すなわち植民地化の新たなヴァリエーションとしつつ、その蹂躙に対抗するアイデンティティーの先鋭化と暴力化を、土地っ子の黒人コリン(ダヴィード・ディグス)と白人マイルズ(ラファエル・カザル)を縦糸と横糸とすることで、その避けがたい怒りと哀しみをアメリカの普遍につづれ織っていく。しかし、その普遍にまだ幾ばくかの「正気」を嗅ぎ取れるのはこれが2018年時点での普遍だからで、生まれ育った街でありながら白人であるがゆえ“名誉ニガー”のそしりを振り払えないマイルズの苦悩ばかりか、黒人を射殺した白人警官(イーサン・エンブリー)の崩壊しつつある家庭と人生までも、ブラインドスポット=盲点という一面的な視点から自由になれないワタシたちの不幸の証として描くその「正気」こそは、2020年5月のフロイド氏殺害以降さらに一点突破の運動へと変質したBLMが手放すことを余儀なくされた在り方の大きな一つであったようにも思え、ジェントリフィケーションや銃とアイデンティティーが錯綜する世界はこの作品世界の2018年から引き続き有効であるにしろ、あの白人警官のサイドストーリーをもう一つの感情の余地として匂わす可能性と説得力を2021年において示すことの困難にこそ思いを馳せてしまう。拳銃を武器として携行する人間に訪れる自業自得とは決定的に異なる家庭内の誤射という悲劇がどのようにして起きるのか、それはこの物語の中で最も恐怖にみちた瞬間であったに違いなく、それまでオフビートなコメディとして刻まれたステップは突如オンビートでのめり気味にふらつき始め、もうそれまでの自分のまま生きていくことが不可能になったこと、すなわちアメリカで、そしてオークランドで生きていくことそれ自体が政治的でありそこから逃げることはできないと知ったコリンとマイルズに見つける希望と共感の、しかしそこに危うさと脆さが勝ってしまうのはこれを見ているワタシが2021年の住人だからなのだろう。この物語の先に接続されるTVシリーズではマイルズが投獄されるところから始まるらしい。
posted by orr_dg at 01:22 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月06日

象は静かに座っている/その気になれば泣くこともできた

Elephant-Sitting-Still_01.jpg
オフィシャルサイト ※wowow視聴

「おれの人生はゴミ箱だ。いくらきれいにしてもすぐにゴミがたまる。」ユー・チェン(チャン・ユー)はそれを嘆くでも自嘲するでもなく、しかし一度はそれに抗って敗れた絶望に餌を与えて飼い続ける忠誠心が彼を駆動させていて、その軌道が自分を世界から遠ざけ続けることを不思議そうな目で他人事のように眺めながら彷徨い続けている。ウェイ・ブー(ポン・ユーチャン)、ファン・リン(ワン・ユーウェン)、ワン・ジン(リー・ツォンシー)の3人はチェンの彷徨う軌道の住人で、劇中で彼らが口にして語る満洲里の象はその世界のマイルストーンのような存在として座り続けていて、かつて『欲望の翼』でレスリー・チャンがテネシー・ウィリアムズから引用した脚のない鳥の一節を想い出させたりもする。その最終形を知ることはなかったとはいえ香港の『欲望の翼』と、台湾の『牯嶺街少年殺人事件』という「総合小説」の表現を目指して達成した先達がどれだけフー・ボーの頭にあったのか今となっては知る由もないけれど、その2作にあって、というよりはウォン・カーウァイとエドワード・ヤンにあってフー・ボーが持ち得なかったものこそがこの作品を4時間弱のあいだ推進していたように思うのだ。そしてそれは、ウォン・カーウァイとエドワード・ヤンが作品に託した美しい時代の美しい時間とその喪失がもたらした強烈なペシミズムの決定的な不在であったに違いなく、今この瞬間が永遠に続けばいいのにと請う時間はこの234分の間ラストに至るまで一瞬たりとも存在することがないまま、最期の最期にようやく天啓のような瞬間が訪れるのだけれど、中国第六世代の著名な監督にして今作のプロデューサーをつとめたワン・シャオシュアイ(『在りし日の歌』)とのラストをめぐる意見の決定的な相違を知ってみると、資本主義と物質主義が食い散らかした残飯の捨てられたゴミ箱の時代のみを知るフー・ボーが最期に求めた仄かな救いにリアリズムを嗅ぎとれなかったワン・シャオシュアイへの、あなたたちが持ちうる時代の感傷もメランコリーも自分たちには存在しないのだ、そしてそのことを描くために撮ったこの映画をついにあなたは理解しなかったという断絶がフー・ボーを追い詰めたことも、その夭折の顛末を知ってみると想像に難くないように思ってしまうのだ。すべてがワンシーン・ワンショットのみで構成されるスタイルもまた、カットによる省略や誘導を作為として排除する潔癖のあらわれに思えはするものの、永遠に終わることのない日常を相手に逆流する血の契約をすることで、泥のような倦怠と意識の遠のく窒息を手に入れたのだろうと考える。おれはすべての他人が嫌いだし、弟も嫌いだとうそぶくユー・チェンが、弟殺しの犯人ブーと邂逅していくつかの言葉をかわすうち、もしかしたらあったかもしれない弟への感情をブーの中にみとめて知らず微笑んでしまう瞬間から先、暮れていく夜に灯る街の明かりがそれまで蒼白だったこの物語にうっすらと血を通わせて、ここがどんなゴミ溜めだろうと自分たちはここから始めていくしかないことをフー・ボーは宣言したのではなかったか。世界が刑務所なのだとしたら脱獄を勧めよう。
posted by orr_dg at 02:57 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月26日

クリシャ/チキンを落としただけなのに

KRISHA_01.jpg
オフィシャルサイト

クリシャ(クリシャ・フェアチャイルド)が乗りつけた薄汚れたピックアップトラックの運転席側のドアからはドレスの裾がはみ出していて、全体として彼女が“そういう人”であることを開口一番告げている。しかし、車から降りたクリシャは、「ちゃんと呼吸をして、だいじょうぶ、だいじょうぶ、ちゃんとやれる、落ち着くのよ」と自分に言い聞かせながら戦場にでも赴くかのような目つきで呼び鈴を押し、10年ぶりに再開した一族の妹やら義弟やら甥やら姪やら何やら血の繋がりがあるものないものたちとハグをかわしては「汗臭くてごめんなさい」と謝り続け、ここまでワンカットで描かれるアヴァンタイトルの最後、トレイ(トレイ・エドワード・シュルツ)とハグをしてこちらに向き直ったクリシャに浮かぶ希望や怖れ、緊張と倦怠がないまぜになったクロースアップから、そのすべての感情を失ったラストショットのクロースアップへと円環するまでの80分間、クリシャがいかにしてそれらを手放したか、もしくはそうせざるを得なかったか、その自暴と自棄の事情が薄皮を剥いで滲んだ血の文様で浮かび上がっていくこととなる。何とか自分を成り立たせておくための薬を飲んでは服用の記録をノートにしたためるクリシャに闖入者の不埒はないどころか、むしろ社交と礼儀を失すまいと懸命に細いロープを渡ってどこかへたどり着こうとするように思えるのだけれど、既に青年の年齢であるはずの甥たちが繰り広げるバカ騒ぎの嬌声や、義弟はじめ男親たちのところ構わぬ思いつきによる微細な秩序の崩壊がもたらす精神的なノイズがクリシャの自制と集中を静かに容赦なくそぎ落としていく。そうやって内部のアンサンブルを乱した最中、おそらくはクリシャにとってこの帰郷の目的の一つだったのだろう、ある事情から妹夫婦が彼女にかわって育ててきた実子トレイとの関係修復を決定的にしくじってしまうことで、それまで何とかクリシャをクリシャたらしめていたギプスは弾けとび(ある欠落を覆い続けた右手人差し指の包帯にそれが託される)、かつてクリシャだった何かが感謝祭のフェアチャイルド家を蹂躙し始めるのだ。しかしクリシャをモンスター化して語ることにさほど積極的になれないのは、それまでずっと自分に対してなんとかファイティングポーズを取り続けるようと苦闘するクリシャの姿を見ていたからに他ならず、いつしか思い浮かべずにはいられなかったメイベル(『こわれゆく女』)にあってクリシャになかったのが彼女の無私なる味方(メイベルにとってのニックと彼女の子供たち)であったことを考えれば、それを引き寄せたのもまた彼女であったとはいえ、誰も手を差し伸べないままクリシャが蟻地獄のように沈んでいく血のわだちこそがフェアチャイルド家にとり憑いた恐怖の根源であったように思ったのだ。クリシャが酒を飲もうが飲むまいがいずれ彼女はそこに沈められたにちがいなく、そうやって人間を停止させられた者の貌がスクリーンいっぱいに拡がるラストに、人間がホラー映画を撮り続けそれを見続ける理由が一瞬よぎった気もしたのだ。自分の人間にいい加減うんざりした者の心を、この貌は洗ってくれる。
posted by orr_dg at 23:15 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月22日

パーム・スプリングス/なんだかずっと眠いんだ

palm_springs_01.jpg
オフィシャルサイト

※結末に触れています

「すみません、どこかでお目にかかってましたか?」というナイルズ(アンディ・サムバーグ)の返事に、サラ(クリスティン・ミリオティ)の計画がうまくいったことを知ったロイ(J・K・シモンズ)が小さく微笑むアフタークレジットシーン、ループに入らなかった場合、もしくは入る前のナイルズには、ワタシたちの知る傍若無人すれすれのあけっぴろげも人懐こさもないどころかむしろ真逆な結婚式のゲストとしての真っ当さをスーツとネクタイにまとっていて、このナイルスがアロハシャツに短パンで結婚式に乱入することを屁とも思わぬナイルスに変貌するまでの道のりにまずは想いを馳せてしまう。限定的とはいえ永遠の命と永遠の無罪を手に入れたことを知った人間がいつしか繰り広げる善いことと善くないことのTOP100リストと、それを制覇することで突き抜ける善悪の彼岸で得た明鏡止水が俗世にあっては得も言われぬオフビートを誘うわけで、それを愉しんだワタシたちからすれば11月10日をプールで迎えるあのエンディングでも十分だったところが、わざわざ使用前のナイルズを見せる種明かしで冷や水とは言わないまでも日なた水のプールに突き落としてみせるあたり、うっすらと意地が悪くてなおのこと好ましく思ったのだ。とはいえ、このシーンがもたらす最大の呪いがロイであることは言うまでもなく、愛憎半ばするとはいえたったひとり「話」の通じる人間だったナイルズのいなくなったあの世界で、永遠に繰り返される11月9日の牢獄にたった一人で耐えきれるのか、サラがどれだけ詳細な方法を彼に伝えたのかはわからないながら、ある夜全身にプラスチック爆弾を巻きつけて砂漠を歩くロイの姿を思い浮かべるのは容易いことのように思えはするものの、J・K・シモンズの一線を越えた笑顔が妻と子供たちを洞窟に誘う最悪がよぎったことも否定できないのだ。もちろん11月10日を迎えたナイルズとサラの2人が吊り橋理論を確認するにとどまる未来もまた気怠げに横たわっているわけで、そんな風にメランコリーとペシミズムは後味にまわして躁転の時間だけを徹底的に90分間抽出した知能犯と愉快犯の、マックス・バーバコウとアンディ・シアラという名前を覚えて追い回そうかと思っている。
posted by orr_dg at 22:09 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月19日

21ブリッジ/街で聖者になるのはたいへんだ

21bridges_02.jpg
オフィシャルサイト

アンドレ・デイヴィス刑事(チャドウィック・ボーズマン)によるマンハッタンのロックダウン、マンハッタン島に通じるすべての橋と鉄道を完全に封鎖すべしという桁外れな要請が拍子抜けするほどたやすく認められた理由が、ラストシークエンスでのマット・マッケナ警部(J・K・シモンズ)の長広舌からやがて浮かび上がってくる。命がけの仕事に精神をすり減らし狂ったバランスが自身および家庭生活をその犠牲に飲み込んでいく警官たちの不幸を解決するために、お前にとっては汚職でありお前以外にとっては互助となるシステムを私たちは現実的なビジネスとして機能させたのだというマッチポンプのプレイヤーにとって、閉鎖され密室と化したマンハッタンを丸ごとブラックボックスとする以外、致命的な自家中毒の夜を乗り切る術がなかったに違いなく、ひとつだけ彼らに誤算があったとするならば、アンドレがあらかじめ幸福を失った男でありかつその奪回への幻想を持ち合わせない男であったことだろう。製作陣の中にルッソ兄弟の名前を見るとき、ある一つの図式に思いが至るのを避けられないわけで、善悪を無効化することで還流するグローバリズムによって肥え太るアメリカに抱く拒絶と憂鬱こそがアベンジャーズを駆動させたことを思う時、ここで描かれたNY市警の醜悪なマッチポンプもまたそのミクロなアメリカとしてあったとも言えて、善悪の彼岸を超えた場所から彼らに鉄槌を下すアンドレの姿には自己犠牲を突き抜けたアベンジャーズの虚無が重なった気がしたし、アフガニスタンからの退役軍人であるレイ・ジャクソン(テイラー・キッチュ)とマイケル・トルヒーヨ(ステファン・ジェームス)をウィンター・ソルジャーになぞらえてみた時、警官殺しのはずの彼らに寄せるアンドレの憎しみ以外の感情にもそれが見て取れた気がしたのだ。アンドレとレイの攻防に巻き込まれて撃たれ横たわるホテルの従業員を一顧だにしない冷やかさが、ここには善と悪も正義と悪徳も存在しない、敵の視えない世界であることを告げていて、単なるエネルギーの交換として描かれる徹底してソリッドな銃撃戦がそれを饒舌に代弁している。『セルピコ』のナイーヴも『プリンス・オブ・シティ』の苦悩ももはや存しない昏睡した殲滅戦の終りなき水平を、すべてに通じる男アディ(アレクサンダー・シディグ)はたった一言 "coolhand" と名づけていた。
posted by orr_dg at 16:06 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月15日

ザ・スイッチ/振るか拭くかがちがうだけ

freaky_01.jpg
オフィシャルサイト

2人だけになったロッカールームで、獲物を品定めするブッチャーの目つきをミリー(キャスリン・ニュートン)のモーションと受け止めて、ほんの一瞬たじろぎながらも「あら、あなたがそうならわたしはかまわないわよ」とそれまでの高慢ちきなガードを緩めるライラー(メリッサ・コラーゾ)や、いきなりジョシュ(ミシャ・オシェロヴィッチ)にキスをしては黙ってろよとすごむジョックなど、いずれブッチャー/ミリーに血祭りにあげられるとはいえアルファなスクールカーストの抱える憂鬱をさらり匂わせつつ、ジョシュやナイラ(セレステ・オコナー)をもはやマイノリティの揺らぎを一切必要としないキャラクターと据えることで、ミリーを含めた白人こそを寄る辺のないモブとする構図を組み立てた2020年の最新型によるストレスフリーの清々しさが、ある種ミリーの復讐譚ともいえる下剋上の痛快を蹴り上げながら駆け抜けていく。ブッチャー(ヴィンス・ヴォーン)が帰還するラストシークエンスで彼の言う「お前の体に入ってみて、なんでそんなにお前がみじめで弱っちいのかよくわかったよ」というセリフによって、ブッチャー/ミリーが血祭りにあげる相手が必ずしも手当り次第ではなくミリーの天敵リストの上位ランカーであったその理由が、ミリーの潜在意識の為せる業であったことは言うまでもないのに加え「死んだオヤジの思い出にしがみついてるせいでお前はそんなに惨めったらしいんだろ?酔っぱらいの母親のいいなりでお前の人生もどうしようもねえもんだな、まあいいさオレが叩き直してやる」とブッチャーが続けた瞬間、ケスラー家のキッチンではブッチャーを父親とする疑似家族が束の間できあがることとなり、ならばとミリーと母コーラ(ケイティ・フィナーラン)、姉シャーリーン(ダナ・ドロリ)が力を合わせてブッチャーを撃退することで、ケスラー家の女性たちは亡き父親の呪縛をようやく解いてみせたように思ったのだ。と書いてみると何やら再生と自立の光差す物語のように映りはするものの、冒頭から金持ちの坊っちゃん嬢ちゃんが切り刻まれるポップなゴアは、ミリーを虐めることに生きがいを燃やす木工教師(アラン・ラック)とブッチャー/ミリーの対戦における、スピリットはスラッシャーながら肉体は脆弱なままのブッチャー/ミリーが不敵なガッツで教師を血祭りにあげるその姿に喝采を叫ぶ瞬間をピークに、どうせブッチャーのやったこととして処理されるなら、片っ端から漏れなく殺っちまいなと肩入れするそのテンションでスラッシュするリフが最後まで煽りつづける、お仕着せでないラストガールの後ろ姿にはディアブロ・コディの『ジェニファーズ・ボディ』を思い出したりもしたのだ。黄金期がない代わりにシルヴァーとブロンズを鈍色に飾り立てるヴィンス・ヴォーンが、お望みとあらばとにこやかなサンドバッグになって新しいやり方をバックアップしている。
posted by orr_dg at 14:07 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月11日

水を抱く女/溺れたいのに

UNDINE_04.jpg
オフィシャルサイト

冒頭、別れを切り出したヨハネス(ヤコブ・マッチェンツ)に「行っちゃだめ、あなたを殺すはめになる」と、脅すというよりは諭すようにウンディーネ(パウラ・ベーア)が告げたオープンカフェのテーブルをその数分後に隣の建物から見下ろすとき、彼女がそこで待つようにと言ったテーブルと一人そこに座るヨハネスはまるごと、先ほどよりも建物の壁際へと何食わぬ顔で移動していて、それではヨハネスの左側、すなわちウンディーネの右側から2人を捉えていたカメラはどこにいたのかと、ワタシの場合ここから位相がずれ始める。そんな風に運命のさざなみに気もそぞろなウンディーネのはずが、ガイドとしてベルリンの歴史をレクチャーする都市開発住宅局の見学者ツアーでは、“ベルリン”がかつて沼地であったことがその都市名の由来であることや、本来は西のはずれにあった王宮が都市エリアの発展に伴いいつしかそこが中心部となったこと、東ドイツ時代の都市計画とその建築物への濃密な共感の記憶などを、そこにいてすべて自分の目で視てきた者の感傷と郷愁の饒舌で繰り広げ、あなたを殺すと囁いたばかりの女が語るベルリンの都市論に、さらに位相がずれていくわけで、この後で起きるクリストフ(フランツ・ロゴフスキ)との出会いの時点で自分がどこにいるのか既に覚束なくなっている。人間の姿を借りた水の精ウンディーネは、クリストフとの出会いによって己の運命に倦んでいる自分を知り、最終的にはその運命に屈したとはいえ、束の間でもそれに抗ってみせた時間を新たな記憶に刻んだことを告げるのがあのラストであったということになるのだろうし、それはベルリンという未来に目を伏せ過去を継ぎ接ぎした歴史都市に憑いて離れることのできないウンディーネの、静かな諦念を揺らす希望のさざ波であったようにも思ったのだ。ウンディーネとクリストフが出会って以降の、水没したベルリンの水中に恋人たちを追うような重力と空間を曖昧に消失した酩酊はえら呼吸をする生き物のそれであった気もして、ヨハネスはそれに魅せられてしかし恐怖したのかもしれないと、最後には少しだけ彼の不憫を感じたりもした。水の中では何でも起こるのに視えない。
posted by orr_dg at 23:47 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする