2018年04月16日

ラブレス/罪と罰?

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タイトルがあらたかたを語ってしまっていることで映画に裏切りはないにしろ、ほとんど軍隊並に組織された民間の捜索ボランティア団体のとりつくしまのないプロフェッショナル感は少しばかり異様に思え、一介のボランティアであるはずの女性が施錠された門扉の向こう側へと斥候の動きで入り込んでみたり、合理的かつ支配的な上意下達による有無を言わせぬ指揮系統など、あのレベルまで鍛えあげられるほどロシアでは失踪人の捜索が常態化しているのかと、それすらも薄ら寒かったのである。その薄ら寒さの「薄」は酷薄の「薄」でもあるわけで、愛情、思いやり、責任感といった社会の体温を決定するそれぞれがおそろしく「薄」である様を、血の気の「薄」い映像が引きずるように倦んだ足どりで冷ややかなため息と共に告発していく。ボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)がそれぞれ新しいパートナーとセックスに励んでいるまさにその頃、やはりセックスをすることで生まれてきたアレクセイはこの世界から独り彷徨い出してしまっているわけで、物質主義と即物性の刺激にしか反応しないパブロフの犬として2人を描く筆致の容赦の無さはこの元夫婦を現代ロシアの病巣として描くただそれだけを目的にしているようですらあり、自分教の教祖たる自身を偶像=アイコンとする供物であるかのようにセルフィーをアップロードし続ける姿にはセルフィーという行為に抱く監督の蔑みと憎悪すら感じられて、ボリスとジェーニャにかけられた永遠の呪いを示唆したラストは、もはや許すも許さないもないのだという穢れた世界に吐きかけられた唾のようにすら思えたのだ。しかしこれがロシア固有の状況や問題でないことくらいワタシ達の誰もが気づいているはずで、ワタシが最初にセルフィーという言葉を知った時はセルフィッシュからの派生かと思ったくらい一方的な自意識の新たな登場に思えたし、セルフィーに耽溺し執着する人間と以外の人間の断絶は様々な断絶のパターンに重なるような気すらするものだから、悪魔を憐れみながら悪魔に魂を売った人々の象徴的な行動として監督が選んだことは至極当然だったのではなかろうか。そういった風に徹頭徹尾が呪詛でしかないにも関わらず、鈍色の鉄塔のように繁る木々や正気だった世界の墓石のような廃墟のひっそりと孤絶した美しさのせいでクズの蠢きにどこかしら神性が宿っているかのようであるのも強烈な皮肉としていっそう罪深い。それにしても、その社会が経てきた歴史や主義思想と関係なく、たがが外れた人間の閾値はなぜこうも一定に収束していくのかその迷いのなさはいっそ清々しくもあり、おそらくはそこにある種の感銘を受けた監督による生き地獄上等にはハネケやファルハディにはない闊達さすらを感じて、さすがドストエフスキーを国民的アイドルと押し戴いた国の人であることよと、人なるものを研究者の手つきで小突き回し観察者の偏執的な視線で睨め回すその地肩の強さに感嘆しつづけたのである。実際のところはSelf Networking Serviceとも言うべきそれらSNSは、ナルシシズムにすら至らない空白に自分の形をしたドーナツの穴を作り続けているようにも思え、永遠に埋まらないその中心にアレクセイは消えていったのだろうとワタシは考える。
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2018年04月13日

ヴァレリアン 千の惑星の救世主/すました顔してバンバンバン

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この映画はこういう風に、ただただお互いがにっこりできるようなポップで転がっていきますよっていうオープニングと、「スペース・オディティ」のヴィヴィッドで必然性のあるインサートにボウイの歌声を思いがけず堪能して顔がほころんでしまう。それから約130分の間、ほころんだ顔のみけんにシワが寄ったりまぶたと顎が落ちたり瞬間もないままめでたしめでたしで幕を閉じたものだから、いったいどうしてこの映画がヨーロッパ・コープの屋台骨に蹴りを入れたのか皆目見当がつかないのである。確かにこの映画は父殺しの通過儀礼も骨肉の争いもポリティカル・コレクトネス的なメタファーのこれ見よがしな参照も見あたらない、一見したところはノンシャランな恋人たちのスペースオペラではあるけれど、冒頭で謳い上げる握手の歴史を足蹴にする者は許さないというただそれだけで十分な背骨ではあるし、ローレリーヌ(カーラ・デルヴィーニュ)とヴァレリアン(デイン・デハーン)の、「男勝り」や「女々しい」とか言った形容詞を溶かしていくユニセックスな双子のような関係それ自体が十分フレッシュな言い分に思えたのである。惑星ミュールはほとんど「ファンタスティック・プラネット」のアップデートに思えたし、マーケット自体をひとつのガジェット化するアイディアなど、何よりドラマではなくヴィジョンで前に進んでいく物語にスター・ウォーズが手放してしまったセンス・オブ・ワンダーを感じて、現実につかまらずにどこまで逃げ切れるかという逃げ足でははっきり言ってSW8など圧倒していたといってもいい。バブル(リアーナ)のパートは、その最期をきちんとした自己犠牲で閉じてあげさえすれば印象もまったく変わっただろうにとは思うものの、それくらいの湿気さえ嫌ってしまうのもベッソンらしいと言えばらしいわけで、言ってみれば今作はベッソンの目指したものが作品として寸足らずだったから失敗作とされたわけではなく、現在のマーケットに対して目配りを一切しなかったがゆえのすれ違いだったというべきで、現代はジャンル映画においてすらほぼ常套である家族愛や友情、あるいはその相克といったフレームを提供しなかったことが瑕疵とされてしまう不幸をくらったとしか言いようがなく思えてしまうのだ。したがって、今回に限ってはともすれば情動の奴隷を強いてくる世界への負け戦を挑んだベッソンに全面的な肩入れをしたいと思っている。ただジンクスとしては、『ジョン・カーター』の例もあることだし、今後馬鹿をやりたい監督は高速で突進する巨大なブルドッグを投入するのは控えたほうがいいかもしれない。
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2018年04月11日

ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書/うそがほんとにならないように

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権力を監視する第三者機関としてのマスコミが保つべき挟持の鼓舞と再確認は言うまでもないにしろ、エンディングで暗示される例の大事件の最中に「それを記事にしたらおたくの社主のケイティ・グラハムはかなりまずいことになると伝えておけ」と元司法長官に名指しで脅されるくらいの目の上のたんこぶへと至るキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)のライジング・ストーリーが、国民の視点、とりわけ女性たちの視点を切り開く闘いにも重ねられることでなお映画の体温が上昇した気がしたのである。「ペンタゴン・ペーパーズ」そのものをめぐる事件を史実的に追うのであればワシントン・ポストよりはニューヨーク・タイムズを主戦にするのがふさわしいわけで、いささか類型的に放課後ボーイズクラブのガキ大将のようなヒロイズムとマチズモで描かれるベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)が、主にキャサリンの当て馬としてあるのもそうした意図によるところが大きいのだろうし、単なるジャーナリスティックな反撃というよりは、銃後の女性としての怒りと勇気および責任感によってその一歩を踏み出したキャサリンの決断の重大さをベンに気づかせたのが彼の妻トニー(サラ・ポールソン)であったことなど、戦争ごっこが好きな動物としての男たちに対する女性たちがあげる声なき声の代弁者としてのキャサリンをこの時代と事件の象徴としたことは、最高裁判所から出てくる彼女を静かに微笑む女性たちが無言で迎えるショットにも雄弁だったように思うのである。戦場のタイプライターで打ち込まれたヴェトナムの記憶と記録が文書となることで実体化し、監禁された場所から連れ出され飛行機に乗って然るべき場所にやって来る一連は、まるでひとりの生き証人をめぐるサスペンスのようで、ここでスピルバーグはマクナマラ(ブルース・グリーンウッド)をして「ケネディもジョンソンも確かに手強くてしたたかだった。でもニクソンは、あいつは正真正銘のサノヴァビッチなんだ!」と絶叫させ、執拗に漆黒のシルエットと肉声を使いニクソンを悪の黒幕として容赦なく仕立て上げることで、生き証人としてのペンタゴン・ペーパーズを取り扱うその一つ一つの手続きに手の震えや小さなつまずきを塗してはポリティカルスリラーの蒼白までも呼び出している。最初にメッセンジャーボーイがタイムズ社屋に入るシーンを見せておいたことによって、その後でポストのインターンがタイムズの社屋に潜入するコースを観客に拡げておく段取りなど、些細なことではあるけれどそうした積み重ねの丁寧さがノイズやストレスを取り除いていくのだなあと、小さくため息なども出たのであった。ベンの子供じみた尊大さをやんわりとたしなめつつ、突然おしかけた来客たちの人数を瞬時にカウントしては、人数分のターキーとローストビーフのサンドイッチを作って差し出すトニーの万能も称賛されて然るべきだろう。ただ、そんな風にして少々キャラクターに依存したこともあって、往き来する映像の擦過による発熱が控え目だった点で、スピルバーグにしてはいささかローカロリーだったようには思うのである。悪に対する悪意を燃やすよりはキャサリンに光差す祝福をトーンにしたこともその理由なのだろうけれど、とどめは『大統領の陰謀』に任せるよという意味でのあのラストだったということになるのだろう。それが名場面であればあるほど、固定電話、とりわけ公衆電話が過去を強力にするための装置となってしまったことをあらためて実感した。ネットと携帯電話が街角のサスペンスを消していく。
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2018年04月09日

レッド・スパロー/なんでもお前の意のままに

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ホテルのバーでドミニカ(ジェニファー・ローレンス)がユスチノフ(コンラッド・クリストフ)に問わず語りした野心と自尊心の覚え書きこそは、実はこの物語でドミニカが吐露した唯一の本心であったようにも思え、冒頭の楽屋裏でそのユスチノフにむき出しの背中を撫でまわされながらもその表情をピクリともさせなかったドミニカは、その程度のことあるいはそれ以上のことも、野心の達成および自尊心を育ててくれた母親に報いるため、感情を殺して乗り越えてきたのだろうし、だからこそ自身からバレエを奪い取った2人への復讐が凄惨なオーヴァーキルであったように、愛する母親を人質にとることで自尊心を粉砕した国家と野郎どもへの復讐が、コルチノイ(ジェレミー・アイアンズ)をメンターに壊滅的な方法で為されていく将来を謀ったのだろう。寄る辺なきエスピオナージの世界ですらその御託にヒューマニズムを並べてみせるネイト(ジョエル・エドガートン)は著しくアメリカ代表であり、全体主義の権化としてのマトロン(シャーロット・ランプリング)や現大統領ワナビーとしてのワーニャ(マティアス・スーナールツ)はいかにもなロシア代表として代理戦争を行うわけで、その書き割りの図式の中で一切の思想信条を足蹴にするドミニカの孤独な闘いが真っ赤な血と怒りの色を帯び始めると共に、やはり鳥の名前をニックネームに持つカットニスという少女が、肉親の身代わりに自らを殺し合いの場に差し出しつつ最後には全体主義のシステムを打ち倒す物語のR指定変奏が奏でられていたことに気づかされるのである。とは言え、ポテンシャルが加速度的に開花しつつあるとは言えこの世界においてはアマチュアに過ぎないドミニカが、いかにして酷薄な手練たちと渡り合ったかといえば、それは肉を斬らせて骨を断ち血みどろで寝首をかく正面突破であり、ドミニカが自身の内部に眠る昏い衝動に気づくシャワー室でのカップル襲撃から既に、この映画はさらけ出された肉体がよじれて呻くその震えをもって余白をしたためてきたわけで、ことさらビルドアップされないドミニカとネイトの内臓のつまったズタ袋としての肉体がいかに雄弁であり続けたかは言うまでもないだろう。そのクライマックスはあの皮剥きの夜だったとしても、即座に破壊してしまわないようクッションをあてがっては破壊的な打擲をドミニカに放つ尋問の、共振による内部破壊で少しずつ精神にヒビを入れていく永遠とも思えるその悠長さがワタシは何より怖ろしかった。基本的には売られた喧嘩を買う話なので仕掛けを急くと冷めた料理を食べさせられることになるのだけれど、ロングレンジの得意な監督だけあってきちんと助走した上での遠投がよく伸びて、どのショットも肉体の全体性を十全に捉えている。『コンスタンティン』もあれで120分を要したことを考えてみれば、唯一あきらかな失敗だった『アイ・アム・レジェンド』の敗因がこの監督に100分しか与えなかった点にあるのは明らかで、なれば140分を確保した今作ではオープニングを運命のクロスカッティングでスタートするなどの野心も見せつつ、全体主義国家とシンメトリーの親和性を背景にウェイトの乗った重心の低いミドルキックを粛々と繰り出し続けるこの映画の、倦みきってどこへもいくつもりのない殺意に、こうした見返りのない無為を飼い慣らすことこそが本当の贅沢なのではなかろうかと、シャーロット・ランプリングとジェレミー・アイアンズのツーショットに心の中でそっと手を合わせてみたりもしたのであった。
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2018年04月07日

ザ・シークレットマン/大統領の凡庸

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『大統領の陰謀』を観る限りにおいて、ディープ・スロートはウッドワードにとってのメンターめいた水先案内人として、タイプライターの手ざわりと電話の息づかいが鼓舞し続ける事実と真実をめぐる闘いの中で、それを求める者の目にのみ映る象徴的な存在であり続けたように思えたものだから、その実体と正体が映画として描かれることで魔法が解けてしまうのはある程度しかたがないだろうなと覚悟はしていたのである。しかし、ここに描かれていたのは、自身にとってのアメリカそのものであるFBIという組織への忠誠と、その全身全霊がもたらす倦怠と屈託によって内部を食い尽くされんとしているほとんど幽鬼と化したマーク・フェルト(リーアム・ニーソン)というひとりの男の彷徨であって、素っ気ないと言ってもいいくらい物欲しげな素振りをしないピーター・ランデズマン監督(『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』)の黙りこくったモノローグのような語り口が地下駐車場の暗がりの中にディープ・スロートをいつまでも立ちつくさせていて、組織防衛や自身の処遇への鬱屈といった角度も残されてはいるものの、自由と独立の精神を侵したニクソンおよびその仲間たちと刺し違えた男の挟持を冠したという点で、『大統領の陰謀』の嫡子とも言える風向きは保ってみせたにしろ、ウッドワード&バーンスタインのそれがゼロから始まる明日への闘いだったのに対しフェルトのそれはゼロへと引きずり戻すための暗闘であって、編集部を煌々と照らす蛍光灯の光と地下駐車場の闇という対比はそのままこの作品の役割を示していたように思うのである。政権の息のかかった人物を中枢から役所のトップへ送り込むことで行政を政治の支配下におくという現在進行系の既視感には驚くというよりはいい加減うんざりしているのだけれど、これはもうどのような主義体制であっても普遍的に起きる図式なのだろうことを思えば、権力の外部からそれを監視し告発するシステムを我々は維持し鍛えておかねばならないという戒めを新たにすべきなのは言うまでもなく、それを衆愚に忘れさせないよう神はあちこちへ定期的に外道を送り込んでいるのではなかろうかとすら思えてくるのだ。妻錯乱(『クロエ』2009年)、妻喪失(『THE GREY 凍える太陽』2012年)、息子喪失&妻別居(『サード・パーソン』2013年)、娘死別&離婚(『フライト・ゲーム』2014年)、妻死別(『ラン・オールナイト』2015年)と、2009年に彼の人生を襲った悲劇以来、喪の仕事でもあるかのように家族の不幸に搦め取られる男を演じてきたリーアム・ニーソンもそろそろその仕事を終える頃合いかと思いきや、ラストのテロップが告げる苛烈すぎる事実に、彼はもう自分の最期までこれをやめるつもりがないどころか、むしろその哀しみが薄れ忘れてしまうことを恐れているのだろうとすら思えたのだ。私は不幸なのではない、幸福でないだけだというトートロジーが大きな背中にはりついている。
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2018年04月04日

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男/たった一日だけ僕たちは英雄になれる

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「ヒトラーから世界を救った男」とか「ダンケルクの戦いを制し」たとかいった惹句の脳天気なやり逃げに少々げんなりしつつあらかじめ眉に唾しておいたこともあり、動けるデブとして闊達に走り回ってはひとりローズヴェルトに泣きを入れる姿など、基本的には「愛すべき」という前置きでチャーチルという人間の聖と俗を忌憚なく活写することで、政治家はつらいよ、とでもいう愚痴と泣き言を非常に流麗かつドラマチックに語ってみせては、政治家としては毀誉褒貶烈しく、チェンバレンやハリファックス同様ヒトラードイツ台頭の責を免れるはずもないチャーチルを憂国の英雄として描く情動にポピュリズムの誕生を見た気もして、それはワタシ自身をも含め意外と容易いものではあるのだなとあらためて感じ入ったのだった。ともすればウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)がアップになる度、ほっぺたやあごの下のぷにゅぷにゅを擦り、ぽわぽわの髪の毛を撫でてみたいとそんなことばかり考えていたし、A・J・P・テイラーがハリファックスについて「第二次世界大戦の起源」の中で記述した“ハリファックスは特異な才能を持っていた ―いつも事件の中心にいながら、どういうわけか事件とは関係のないような印象を残すことが出来た。”“彼は何かというと否定ばかりしていた。彼の政策の目的は ―彼がもっていた限りでは― 時をかせぐことであった。もっとも、これをどう利用するかについては明確な考えはなかったのだが。”“ハリファックスは一貫してチェンバレンに忠実であったが、その忠誠のあり方は、チェンバレンが熱心にしようとしたことの責任をすべて彼に負わせるというものであった。”というあからさまな悪意を裏づけるような、遠くのヒトラーよりも近くのハリファックスとでもいう悪役としての描き方、チャーチルの精神的参謀としての妻クレメンティーン(クリスティン・スコット・トーマス)がしなやかにあやつる飴と鞭、英国王ジョージ6世(ベン・メンデルソーン)が一人くすぶらせる鈍色の屈託、といった虚実織り込んだ造型の行き交うジョー・ライト史観によって「ダンケルクの戦いを制し」「ヒトラーから世界を救った男」としてのゲイリー・オールドマン版チャーチルが新たに誕生したのは間違いがないところだろう。してみれば、やはり英国政治史に名を残す政治家の光と影を描いて主演とメイクアップでオスカーを受賞した『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を当然のように想い出したりもするのだけれど、あの映画がいささか都合の良い回想形式によるその功罪の免罪符的なファンタジーに妥協していたことからすれば、その人生最良の瞬間に吹いた風の最大風速を捉えるケレンにのみ注力したジョー・ライトの半ば開き直ったかのような演出が正鵠を射たのは間違いない。それにしても、ひとたび口にされた言葉が書記のペンによって記録されるか否か、それだけでサスペンスが成立するくらい言質(=人質とされた言葉)としての文書は絶対的な信が置かれる存在であるはずで、その約束が打ち捨てられた場所で意志決定がなされる昨今の、悪魔の所業にあらためて慄然とするばかりであった。
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2018年04月02日

ちはやふる −結び−/ひかりの子

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やはり神々の憂鬱を青春のニヒルとして描く視線の不平等がずっと心地よかったのだろう。今作では遅れてきた神としての真島太一(野村周平)を仕上げるメンターとして、青春の影ばかり見ているきみはその影を生み出す光を見つめることをまずはするべきだ、一瞬の光が永遠となる瞬間を知らなければ影に向き合う術を知ることもないのだから、と告げる周防久志(賀来賢人)が自身のメランコリーと刺し違えすらしてスリリングであったし、高みで生きるしかない倦怠と抗えぬ運命へのあきらめにつかまった自身を若き神に託す修練が帯びる発熱は、このジャンルの邦画ではついぞみかけない独善と傲慢の疼きにも思えたのである。月下の棋士でいう猖獗の映像化も見目麗しく、3人の神々の捨て石となる者たちのマゾヒスティックですらある泣き笑いといいこれくらいひたすら本能に忠実な物語が可能なことを知ってしまうと、今後は友情とか仲間とかいった共同幻想に安住するにしろ、新たに更新された手続きが求められることになるだろう。すべての叙情を叙事として刻んでしまう広瀬すずの装置としての達者はやがて自身の内部をも結晶化してしまうのではないかといらぬ危惧すらして、すべての役柄をアテ書きと思わせる精密な車幅感覚をレオパレスですらアジャストする能力は好嫌の彼岸を超えた怪物の眼差しにも思え、まるで鵜匠のようなアンサンブルで居る時の彼女のフレームにワタシは少し気持ちが張って落ちつかなくなってしまうものだから、彼女につながれていない松岡茉優がフレームに入ってくるとようやくホッとしたりもするのだった。美しく磨き抜かれたガラスを通過する光が照らす上気した白日夢のような映像は日常の息づかいをシャープに非現実化してみせて、このトリロジーが湛える透明な白熱が今後は青春のスタンダードとなっていけばいいなと思う。まるで月曜ドラマランドのような予告篇を劇場で立て続けに見せられたこともあって、この映画の孤軍奮闘が切なくすらあったものだから、なおさらそう願う。いちいち胸が詰まって仕方がない机くんを運命の瀬戸際で背中から捉えたカメラが、ワタシのベストショット。
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2018年03月30日

素敵なダイナマイトスキャンダル/ほとんどビョーキで超ゲージツ

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80年代(昭和55〜64年)、すなわち昭和の終焉とともに、何より日本から消えてなくなったのは劇中で末井昭(柄本佑)が何度か苦し紛れの存在証明として持ち出す「情念」であったことよと、ノスタルジーでもセンチメンタルでもなく再確認させられたのだった。高度経済成長の時代に無理やり社会的な生き物としてしつけられた日本人が、自分の内部で置き去りにされる未整理で未成熟な衝動のはけ口として弄んだのが「情念」というやつで、当時を生きた人間が他人事のように思い返してみた時、パンチの効いたとしか言いようのない昭和の文化はほとんどがこの「情念」をガソリンに燃やされていたように思うわけで、結果的に末井昭が突破口として見出したのは「情念」のポストモダン的再構築とでもいうセックスのアヴァン・ポップな意匠化で、やはり同時期に山本晋也が「トゥナイト」で展開した日本のセックス事情探訪と相まって、はからずもメディアミックス的に横断されることで浮力のついた日本のセックスは表現の動機に関する限り「情念」から追い出されていったように思うのである。などと能書きはたれてみたものの、「写真時代」の廃刊騒動がスルーされていることからも分かるように、そうした思想の変遷を読み込む映画というよりは、母親のダイナマイト心中が象徴する「情念」を都合よく操るトリックスターとして昭和の終わりを転がっていった末井昭の奇天烈な逃げ足を描くことで界隈の正史へと置き換える乱暴さそれ自体への憧憬(監督の世代からしてみれば)に溢れた、間に合わなかった青春への明るい怨念を綴ったラヴレターのような映画に思えたのである。となれば、アングラの鼻歌のように忍び寄ってくる劇伴がサブカルチャーのノンシャランを封じ込めていたのも当然か。尾野真千子、前田敦子、三浦透子といった女優陣がみな切羽づまった笑顔を忘れがたくふりまいて、冨永監督の女優指南は相変わらず鈍色に艶々としている。
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2018年03月27日

LUCKY ラッキー/モンタナ行き最終急行

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殺されてしまったり放っておかれたり、ただそこにいるだけだったりずっと疲れたままだったり、まったくラッキーとはいいがたい役柄をそれが当たり前であるかのような顔で風に吹かれるように演じてきたハリー・ディーン・スタントンだからといって、これは人生の上がりを目前にした男の飄々としたラッキーで転がっていく姿をそのフィルモグラフィと反語的に描いて座りのいい締めくくりとするような、あてがいぶちのタイトルロールなどではまったくない。それどころか、演じてきた役柄の男たちのセリフにすらならない内心の投影であるかのような、そっちの勝手で始めておいて終わらせるのもそっちの勝手かよ、と取り付く島も寄る辺もない人生にニヒルを覚えつつ、すべてを取り上げられたあとで一つだけできることがあるとすれば、それは自分の全存在を肯定して微笑んでみせることだよ、と今となってはまるで墓碑銘のように刻まれるハリー・ディーン・スタントンという在り方そのものがフィルムに焼き付けられていたのだ。場当たり的な気まぐれとは程遠い静かで淡々としたルーティーンによってラッキーの生活が営まれていることを伝えるオープニングから始まって、変わり映えのしない、というよりはさせないその日々の築き方は世界の虚無に対するラッキーなりの抵抗でもあったのだろう。しかし、ある日突然訪れた最大にして最強の虚無である「死」のサインに戦術の変更を余儀なくされたことで、ルーティーンが隠していた負けるが勝ちとでもいう新しい光景にラッキーの内部は更新されていくことになる。いつしか澱のようにたまっていた執着を捨てることの理解と確信を代弁するハワード(デヴィッド・リンチ)と彼の愛するリクガメのエピソードはビザールな味わいと慈しみにあふれたシナリオの忘れがたいピークの一つでもあるし、それを聞かされることでラッキーが自身の舵を切る契機となる太平洋戦争時の沖縄の少女のエピソードはハリー・ディーン・スタントンの当地への海軍従軍経験を織り込んでいることは言うまでもなく、そんな風にして観客がラッキーに役者本人を投影することを拒まない虚実の行き来にいつしかワタシはハリー・ディーン・スタントンその人と会話をしているような親密さの虜となって、もしも今ラッキーにタバコを勧められたら25年を超える禁煙をきっと解いてしまうだろうなと要らぬ心配をしていたのだった。誰かを演じるために存在する俳優が最期には自分自身を演じることの皮肉ではなく奇跡。その奇跡というのは、彼が選んだ自身の断面と色合いがワタシたち観客が長いことずっと彼に託してきたそれと寸分違わなかったことであり、それは彼がたどりついたすべての肯定がワタシにも許されたような気もしたものだから、なんだか感極まって笑うしかすることがなかったのである。撮れば撮るほどハリー・ディーン・スタントンがハリー・ディーン・スタントンになっていくのだから、ジョン・キャロル・リンチも撮っている間ずっとそんな風に笑っていたに違いないし、ほとんどすべてのシークエンスにハリー・ディーン・スタントンがいるにも関わらず、一人の人間の道行きがパーソナルというよりはスペクタクルの足取りと広がりに映るのはそうやって監督も一緒に解放され続けていたからなのだろう。そしてラッキーが「Volver Volver」をひとり静かに歌い出した瞬間から約2分半のあいだ、演じるということへの問いかけに対するハリー・ディーン・スタントンからの秘めやかで揺るぎない答えをワタシたちは目の当たりにすることになる。傑作。
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2018年03月23日

ハッピーエンド/海辺のアルバム

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かつて自らの内に潜らせた「死」によって内部が震え続ける老人と、「死」をこの世界のルール以上に実感しない少女とが、欺瞞と偽善でつづれ織った「生」に身を隠すことで「死」すらも手なずけた風な顔をして行き交う世界に中指を立てようと、ある晴れた日の海辺で二人だけの蜂起をする。庭で大きな鳥が小さな鳥を屠るのを見た時のことをエヴ(フォンティーヌ・アルドゥアン)に話すジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)の意図が自然の摂理に関する説諭などではなかったのは言うまでもなく、13才の孫娘を介錯人に仕立てるその企みをグロテスクとするか合理のきらめきとするか、エヴがある手段によって震えの訪れを回避するであろうその術を見越してのことだったとするならば、その成就はともかくとしてエヴはその期待に応えることとなる。ハネケの新作ということ以外、たいした情報も入れずに観たものだから、かつてジョルジュが重病の妻を窒息死させたことをエヴに告白するくだりで思わずのけぞったのだけれど、ここでは『愛、アムール』で妻の名前だったアンヌを娘(イザベル・ユペール)に、同様に娘を演じたイザベル・ユペールの役名エヴァを孫娘エヴへと似せてみては、もう私に愛は無理だと崩れ落ちたジョルジュの過去を変奏することにより、この家が愛を決定的に失ったことで無関心と不寛容を呼び寄せたことを示唆してみせるのである。してみると、この家系の最新型としてあらかじめ愛を失った存在で現れるエヴはジョルジュの隔世遺伝とも言えるわけで、エヴが父トマ(マチュー・カソヴィッツ)に対し執拗に愛の不在を問い詰めるのは、自身にかけられた呪いに対する彼女の怒りと恨みの顕れでもあったのだろう。結局のところ近代的自我などというものは他者の下支えによる精神的植民地主義によって成立しているにすぎないというハネケの嫌悪と喝破は、スマートフォンのカメラフレームやPCディスプレイを現実からの逃避と忌避のシェルターと捉えることで、SNSがその閉鎖性と独善性を煽ることを最新の付帯事項としている。そして、旧弊なリテラシー世代であるトマがその秘密をあらかじめすべてがある世代のエヴにあっけなく突破される滑稽と哀しみは、アンファン・テリブルでもバッドシードでもないネットの水平性が産み落とす集合知の怪物のような世代に対するハネケの俯瞰がなされている証しでもあるにしろ、わたしのママを捨てたようにいずれこの人は同じことをするだろうと父親のクズを見抜きつつも「パパが遠い」と涙を流すエヴには、ハネケなりの希望が託されていたように思うのだ。ラストにおいてはっきりと提示されるエヴ&ジョルジュ組vsアンヌ&トマ組の構図は、世界に疑いを抱いてしまったものとそこに貪るように浸り切るものとのさらなる闘いを予感させるのだけれど、それが闘いであることを知らないものが勝てるはずなどないことをハネケはハッピーエンドと締めくくっているのだろう。この、寓話にハンドルを切らないまま現実の壁に激突する総体としてのメタファーが鹿殺しには決定的に欠けている。いつものえぐるように厭味な長回しは若干控えめで、工事現場の土砂崩れとピエール(フランツ・ロゴフスキ)が殴打されるシーンがサービスショット。土砂崩れはもちろんCGだろうけど(実写なら実写で狂ってる)、何てことはない日常のフレームがいきなり異化される瞬間はJホラーのアタックに近い。
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2018年03月22日

リメンバー・ミー/天国の入り口、地獄の出口

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ビバ!メヒコ、あるいはアステカフォーエバー!といった祝祭のうちに語るメメント・モリを脱「悲しき熱帯」として描くという意味では、期せずして『ブラックパンサー』と足並みが揃ったという気もしていて、民族主義的なメッセージのことさらな強調よりは圧倒的な意匠そのものをメッセージとする点でも共鳴していたように思うし、地球上の全人類をマーケットと見据えるディズニーにしてみれば至極当然とも言える分断の気配に対する横断の目配りということになるのだろう。したがってこれはあくまで内部的な(ミゲルの家族の)物語ということであって仮想敵も物語の要請として登場するに過ぎず、現実の乱反射でこちらを刺しに来るノイズも巧妙に取り除かれることもあり、ただただ極彩色の洪水に巻かれながらハッピーエンドへ向かって流されていく快感に身を任せていれば、幸福な観客として求められた役割を文句なく全うすることになる。とは言え劇場が明るくなってから考えてみれば現世と死者の国の関係などそれなりに引っかかるところはあるわけで、死者の国に入ることすら叶わない死者のことを思えば、これはあくまで、それはヘクターでさえ、幸福な死者の物語ということで線を引いて観るべきなのだろうし、極楽浄土や天国のように一度リセットされた先の平安とは根本が異なる点でも、新たな死生観としてワタシがそれを識ればいいだけの話に過ぎないのだろう。そしてそれは、おそらく「リメンバー・ミー」と「フォゲット・ミー・ノット」の違いのような気もするわけで、いずれもが死者の傲慢だとしても、あなたの外にあるわたしを想い出すように告げることと、あなたの内部にわたしを忘れずにいるよう願うことでは呪いのかかり方は異なるだろうし、死は表裏ではなく隣人であるというメメント・モリとしてワタシは腑に落ちたように思うのである。いずれにしろ、想い出してほしいことも忘れないでほしいことも今のところ持ち合わせていないワタシは、あちら側のどこにも行けないまま幽霊にもなれずに消えていくのだろうなあと思っている。アレブリヘのペピータは「エルマーのぼうけん」のりゅうみたいで、なれるならあれになりたいと思った。
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2018年03月19日

悪女 AKUJO/泣きなさい、殺しなさい

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ギミック感満載のFPSショットを名刺代わりに幕開けするものだから、完全にそういう飛ばし方で置き去りにされるのだと思っていたところが、あくまでアクションはドラマに隷属すべきであるというわきまえがエンジンブレーキとなった気もして、アクション畑出身の監督ほどそうやってことさらドラマを欲しがるのは何かしらのコンプレックスでもあるのだろうかと、『アトミック・ブロンド』でも感じた不要の疲労感を覚えてしまったのが正直なところで、スクヒ(キム・オクビン)とジュンサン(シン・ハギュン)が愛憎の果てに不倶戴天の敵として血と涙の肉体言語で綴っていくラブストーリーだけを力任せに凝縮してみるだけでよかったのではなかろうかと思ってしまうのは、アクションを繰り出すエクスキューズとしてのヒョンス(ソンジュン)やセオン(チョ・ウンジ)の定型がさほどの陰影もないまま平板に重なっていくドラマにつきあって行くのが段々と面倒な気分になってしまうからで、本筋のドラマがようやく浮上して来たときには少々待ちくたびれてしまっていたのである。スクヒの娘を文字通りの起爆剤にする容赦のなさも、ヒョンスも含めそこに至る書割りの幸せに終始する味気なさも手伝って絶望が針を振り切ったようには映らないし、寄る辺なき世界の光と影としてスクヒに対照されるべきセオンに至っては完全な無駄死にとしかいいようがない。アクションとドラマが互いの反動で共振しては叫び続けるグリーングラスのボーンや、アクションからの緻密な逆算でドラマを隷属させるトム・クルーズのMIが優雅に狂っていられるのはやはり強靭なシナリオあってのことなのだなとあらためて思ったし、スクヒとジュンサンの凝視と対峙が叩き起こす圧倒的に狂ったアクションの他に何も覚えていないにしては、やはり120分は少しばかり長すぎた。
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2018年03月17日

聖なる鹿殺し/セカイはご機嫌ななめ

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聞き分けの悪いスティーヴン(コリン・ファレル)に向かってある実演をしてみせた後で「これでわかった?メタファーだよ、象徴的だろ?」と噛んで含めるように諭すマーティン(バリー・コーガン)の言葉を借りるまでもなく、今作に限らずランティモス作品がメタファー地獄、メタファー上等、メタファー絶唱な語り口で成り立っているのは言わずもがなだけれども、マーティンのセリフは果たして監督の自虐なのか自嘲なのか、少々自家中毒気味であった『ロブスター』の反動にも思える聞きわけの良いメタファーに終始していたように思うのである。あなたの過失のせいでぼくは父親を失ったからその代わりにあなたが父親になってくれ、それができないならぼくの家族が1人損ねられたようにあなたの家族の誰か1人をあなたの手で損ねて欲しい、それができないなら1人が2人、2人が3人と全滅していくよという、脅しと言うよりは世界のバランスを回復することをマーティンは望んでいるに過ぎず、そういうぼくをつかまえて人殺しとか言うのはおかしな話でさ、どちらが人殺しかと言えばあきらかにあなたなんだけどね、と無表情にしかし澱みなく解説するマーティンのヒプノティックな口上や、エドワード・ホッパー的な彼岸の日差しで染め上げたミニマルやキューブリック的なシンメトリックによる不穏のつるべうちもあって、ならばいっそのこと『赤い影』のニューロティックホラーにでも振り切ってしまえばお互い楽になりそうなものを、あくまでも近代的自我の機能不全をドーナツの穴のように描く欧州伝統芸への忠誠と殉教を棄てるつもりはないのだなあと、このままでは行き先が限られてしまいはしないかと少しばかりやきもきしたし、不協和音だけをひたすら重ねているうちにいつしか協和音になってしまうアベコベを回避する上でもひしゃげたユーモアによるブレイクは必須だと思うのだけれど、デビュー作から前作、前作から今作と、その激突と流血のユーモアを手放しつつある点でもその懸念を増してしまう。過去作で成立させた、境界の完全で完璧な中央に立ってそれからどちらに倒れ込むか一切の予断を許さないラストも今作ではやや不発に終わった感もあるし、前述したメタフィクション的な開き直りなど見るにつけ、次作ではそろそろスタイルを変えてくるような気がしないでもない。崩壊したルーティーンのとしてのスパゲティは『こわれゆく女』『ガンモ』の系譜として秀逸。
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2018年03月15日

ダウンサイズ/天遠く、地に近く

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高校の同窓会でポール(マット・デイモン)が何とはなしに見やった壁に貼られたバナーの言葉が気になって調べてみたところが、"The door to happiness opens outward"(幸せへの扉は外に向かって開く)と "The best way to find yourself is to lose yourself in service to others"(自らをよく知るには、他人への奉仕にその身を捧げてみることだ)というそれぞれキルケゴールとガンジーが遺した言葉であったようで、結局のところ、常に挫折する男ポールが何とかハッピーエンドにたどりつけたのも成り行きとは言えこの言葉を実践したからということであったのと同時に、それは手を替え品を替えではあるもののドゥシャン(クリストフ・ヴァルツ)の生き方に通じていたのも言うまでもなく、地下の方舟へと消えていくアスビョルンセン博士(ロルフ・ラスゴード)率いるコミューンに向かって「ありゃカルトだろ?」と一顧だにしないのも、ポールのメンター足り得るドゥシャンにしてみれば至極当然な吐き棄てに過ぎないのだろう。これまでアメリカの真空地帯に放り出されては立ちつくす中年男を描いてきたアレクサンダー・ペインの筆はここでもにこやかに容赦なく、このポールという男の無邪気な茫洋は自分が途方に暮れているのかいないのかすら明らかにできないわけで、ドゥシャンのパーティーできらびやかな音と光と女性に見とれて呆けるその顔はノルウェーのコミューンで即席のラヴ&ピースに感化され夕陽をみつめて呆けるその顔と何ら変わりがなく、事ここに至っても夢を見たがるポールがようやく我に返ったのが地下の方舟にたどり着くには11時間歩かねばならないことを知らされた瞬間であったという勤勉な愚者としてのギリギリのチャームは、これまでになく突飛な設定とのバランスが要求したカリカチュアでもあったのだろう。その分だけ真顔で身につまされる瞬間を手放しがちであったとは言え、ノク・ラン・トラン(ホン・チャウ)のアンバランスをポールのバランスが包んでいく愛あるファックのまとう清潔な官能はそれゆえに成立したともいえるわけで、新たな話法を模索したアレクサンダー・ペインが首尾よくそれを獲得したと捉えるべきなのだろう。それによって『サイドウェイ』『ファミリー・ツリー』『ネブラスカ』と続いてきた、立ち尽くしていた中年男性が血相変えて走り出すシーンも手放してしまうのかなと思っていたところが最後の最後でやはりポールは走り出すわけで、幸福とは走りだす理由がある人生ことのであるという何だか知ったような口調で締めくくってしまいたくなるような、気がつけば独り言が鼻歌へと変わっているいつものアレクサンダー・ペインなのであった。
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2018年03月11日

15時17分、パリ行き/あなたが人生の物語

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1人の男が駅の中を列車に向かうオープニングで、これが3人の若者の物語であることを知っていればこそ、そのたった1人の思いつめた足どりに暴力の予感をしのばせつつ、一転した映画は、走り抜けていくオープンカーの座席で爽快な表情を風に流すスペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラーの3人をアンソニーのナレーションで紹介し始めて、この物語が回想のスタイルで語られることを告げた勢いで一気に3人の少年時代へ遡っていく。学校に呼び出されたスペンサーとアレクの母親が担任と面談する時間が午後3時15分であったことがまず曖昧な符合として頭に残りつつ、3人の子供時代が描かれる中で時折インサートされるフラッシュフォワードは10年後の列車内なわけで、回想の中の未来という時制の目眩ましによる全ては同時に起きているという軽い酩酊に、ああ、もしかしたらヘプタポッド語によって紡がれる時間はこうした感覚の先にあるのかもしれないなあと考えたりもしたのだ。仮にテロリストの銃で弾詰まりが起きずスペンサーが命を落としたとしても彼の時間は変わらずそこに在るわけで、3人がただ笑いふざけながら過ごすローマ、ヴェネチア、ミュンヘン、アムステルダムの旅が不思議なくらい光に溢れた時間であり続けるのも、それが生と死の円環につながった全体性を獲得していたからであったように思えてならないのである。イーストウッドがいったい何をどんな風に確信した上でこんな風変わりとも言える時制の編集をしたのか分からないけれど、列車内のあの瞬間を消失点としてフィクショナルに崇めることでこぼれ落ちてしまう時間への懺悔、すなわち過去と未来をスイッチバックしていくその振幅にこそ真に語られるべき物語があるのではなかろうかと、おそらくは『ハドソン川の奇跡』を撮ることで生まれた問いへの回答を自ら示して見せたように思ったのである。そうした意味で近年まれに見るイーストウッドのエゴが炸裂した映画に仕上がっていて、正直に言ってしまえばポストヒロイズムの論であるとかよりは『メッセージ』あるいは『シルビアのいる街で』を引いてしまう誘惑にかまけているだけでワタシは言うことなく充分なのであった。
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2018年03月08日

シェイプ・オブ・ウォーター/近ごろ溺れる夢を見ない

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※展開にふれています

「男ってやつは信用できないねえ」と、にやつくイライザ(サリー・ホーキンス)の理由を知ったゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)が彼女を茶化すシーンで、ゼルダがどれだけ深いイライザの理解者であったとしても、イライザの「彼」に対する感情がシンパシーを超えた性愛を伴う恋愛感情へ進展していたことに1ミクロンほどの戸惑いも見せなかったゼルダに対し、さてゼルダにとっての「彼」の異形が溶かされるシーンがどこかにあっただろうかと逆に戸惑ってしまったのである。そこで気を取り直して、といっても既に終盤へと駆け込むあたりだったのだけれど、ああこれはどこかにB.R.P.D.(超常現象捜査防衛局)があるアメリカの物語なのだろう、だからネコを助けたヘルボーイの異形に腰を抜かすよりは拍手をするように、クリーチャーをひとつの人種として鼻先でシャッターを下ろしてしまったりはしない世界なのだ、とデル・トロが精緻に創り上げた箱庭の中に最初からいたことにようやく気がついたのである。その洗練された変奏と人間たちが手前で動き回るステージングに目眩ましされてはいたものの、アール・デコにスチームパンクをかけ合わせた美術も、切ない異種愛も、そしてはたまた水の中の青い人も、かつて心奪われたデル・トロの刻印にあまりにも間近で埋もれていたせいで、ずっと地上からつま先が浮いたままの遠近を見渡せていなかったのだろう。それは言ってしまえば、感情もあらかじめそのB.R.P.D.世界の仕様にデザインされていたということで、だからこそイライザが「彼」とセックスすることにゼルダが動じるはずなどないに決まっているのだ。となれば、エイブとヌアラの悲恋を繰り返すはずのないデル・トロだからこそ、イライザと「彼」の道行きもジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)の仄暗い夢想のとおりハッピーエンドで問題があるはずなどなく、むしろワタシはもう一人のモンスターであるストリックランド(マイケル・シャノン)の仁王立ちする憂鬱に気を取られ胸がざわつくばかりだったのである。1950年代のゴールデンエイジから冷戦期へ突入したアメリカを覆う、ベトナム戦争前夜の暗い影が産み落としたストリックランドは、マチズモの敗残兵でありサバービアの亡霊というウィリー・ローマンの怨念に突き動かされているわけで、美しい妻に可愛らしい子供が微笑むモダンな我が家にはもはや自分の黒く腐った屈託がいる場所などないのだと傷物のキャディラックの運転席にひとり沈み込む彼もまた、イライザやゼルダ、ジャイルズ、ホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)と同様にYou'll never knowな一人だったということになるのだろう。すべてが終わった後で(陸の上の)イライザ、ストリックランド、ホフステトラー博士は命を落とし、ゼルダはおそらく夫を棄て、ジャイルズは最良の隣人と最高の理解者を同時に失い、1人の未亡人と2人の父なし子が残されることになるわけで、生き残った者たちは皆さらなるYou'll never knowと向き合うことを余儀なくされることになり、果たして死は払うべき代償なのか、手に入れた解放なのか、慈悲なのか無慈悲なのか、その成就のためには血の酷薄を厭わないデル・トロの愛が実は畏しいまなざしに捉えられていることを久々に思い知らされた気がしたのである。こうして手癖の極北に到達した後で、これからいったいどこへ向かうのかいささか不安ではあるけれど。
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2018年03月06日

ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ/寝る子は育てる

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「だったらどうしてアメリカに来たんだよ」と、パキスタン式に生きることを譲らない両親に向かってクメイル(クメイル・ナンジアニ)は決定的な一言を吐いてしまうのだけれど、おそらくそれを言った瞬間クメイルは、その言葉がブーメランのように自分に突き刺さったことを自覚したに違いなく、彼にとってのビッグ・シックとも言えるその淵からはい上がるための通過儀礼はアメリカ映画の王道ともいえるわけで、今となっては笑い話だけどね、とそれぞれがくぐり抜けた死にそうな日々を笑い飛ばしてみせる点でコメディの体裁はまとっているものの、人種や文化の壁をブレイクしていく物語を非白人の視点で描くことを可能にした新鮮さに、こうした問題を語ることの成熟と新たな可能性を同時に感じたように思ったのである。エミリー(ゾーイ・カザン)が自分との関係をその別れにいたるまで、喜びも悲しみもふくめ自分の両親に話していたことは初対面の母ベス(ホリー・ハンター)が全てを知っていたことにうかがえて、エミリーのことを両親に隠したままでいたクメイルと対照的な関係であることが知らされると同時に、エミリーの母ベスと父テリー(レイ・ロマーノ)の結婚が必ずしも周囲に祝福されたわけではなかったことを、昏睡するエミリーを看病する日々を通した夫婦との交流でクメイルは知っていくわけで、移民として生きることの格差や偏見を当然のこととして、それを上手くやり過ごすのがスマートな処世術であるかのようにふるまうクメイルが、夫婦のてらいのないそれゆえ山も谷もあるあけすけな関係にこそアメリカに来た理由を再発見していく姿は、アメリカという国へのささやかなラブレターのように思えてくるのだ。とは言えそんな風に行って帰ってくる典型の物語がどうしてこうも息を弾ませ続けるのか、それはクメイルを取り巻く人々がお見合い相手の一人に至るまで、生きている人の証としてそれぞれの揺らぎを丁寧に描いているからであって、ドライブスルーのハンバーガーショップの店員ですらが見過ごせない佇まいでクメイルとすれ違ってみせるのである。とりわけエミリーの両親と過ごす時間の中で、クメイルは誰もがそれぞれの物語を持っていてそれが人と人とを結びつけることにあらためて気づかされていくわけで、NYに旅立つ日に父親に別れを告げるシーンのある会話によって、かつて両親も自分と同じ時間を過ごしたであろうことに想いを馳せては新たな記憶を内にとどめ、それを自分の物語に書き込んでいくのである。様々な問題をメタファーや寓話に投影する物語のマクロ的な機能性は日々洗練されていくけれど、あくまでそれは、誰もが持っている物語をミクロ的な直截で語ることで生まれる溌剌な息づかいが片方にあってのことだなあと、朝風呂にでも入ったように頭も身体も目が覚めた気分になったのであった。クメイルにはあえて冴えないをギャグあてがい、それをホリー・ハンターとレイ・ロマーノの夫婦漫才が蹴散らしていくシナリオの妙といい、オスカーノミニーを惹句にした都合とは言え、この時期の激戦区に埋もれさせてしまうのは本当にもったいないなと思う。
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2018年03月05日

ブラックパンサー/速く正しく騒がしく


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ああ、1992年から始まるんだと軽く肩透かしをくらってはみたものの、ほどなく登場するエリック・キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)の黒と青のいでたちや、遠目にはベレー帽でもかぶっているように見えないこともないその髪型に60年代ブラックパンサー党の投影を嗅ぐことはやぶさかではないし、10項目の党綱領の10番目「我々は、土地、パン、教育、住宅、衣服、正義、平和を欲する(We want land, bread, housing, education, clothing, justice and peace.)」が実現された理想郷こそがワカンガであったのは言うまでもない。ヴィランであったはずのエリックがティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)の腕の中で最期を看取られるのは、彼の存在に象徴されるかつて必要とされた思想と行動が役目を終えたことへの敬意であったのだろうし、ティ・チャラの2度目のハーブ巡礼で父である前国王を烈しく糾弾するのも、自らの手で引き起こすパラダイムシフトの激震へと向かう彼にとって必要な父殺しの儀式ということになるのだろう。この映画が手を伸ばしているのは、黒人の、黒人による黒人のための幸福の追求は可能だけれど、それが生み出す壁に激突死する世界の光景を絶やせないうちはその幸福を真に享受しているとは言えないのだというそれは、博愛というよりは不可知の合理性とでもいう新たな実験精神の提示であって、その象徴として知性を蛮性のエンジンとし蛮性で知性をクルーズするシュリ(レティーシャ・ライト)こそが、実はこの映画の主役だったのではなかろうかとワタシは思っている。したがってティ・チャラとエリックの煮え切らないそれよりは、過去や歴史の囚人として登場するエリックを完全に殺しにかかるシュリとのバトルにこそ昂奮したのも当然ということになるし、ポストクレジット・シーンで「知らなきゃならないことがあなたにはたくさんあるわ」とバッキーにささやく彼女の清冽とたおやかさこそがワタシは忘れがたいのだ。この映画にエラーがあったとすれば、ブラックパンサー=ティ・チャラの通過儀礼と覚醒のスピードが映画の確信に追いついていなかったことで、『クリード』でも顕著だった理詰めで可能性を拡げたり潰したりしていくアクションの愉悦に決定的に欠けるという点でも、ティ・チャラのパートにおける停滞を誘っていたように思うのである。それだけに新しい人としてのシュリが纏うリズムとスピードとまなざしが革新として映るわけで、将来的に彼女が自作のパワードスーツに身を包んだとしてもまったく驚かないし、むしろそうなって欲しいと願っている。
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2018年03月01日

The Beguiled /ビガイルド 欲望のめざめ〜誰も寝てはならぬ

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冒頭、シーゲル版ではエイミーに助けられたマクバニーが森で南軍の追っ手をやり過ごすシーンで、エイミーが彼らに声をかけないよう12才の少女の口にキスをして塞いでしまうのだけれど、年の離れた若い女性との恋愛というイーストウッド作品の潜在的なモチーフの萌芽としてはともかく、マクバニーという男が生き残るためには手段を選ばない男だということを一瞬で伝えることで ”The Beguiled” というタイトルの意図するところを早々に念押ししてみせている。続く劇中でも、マクバニーが女性達に自分は厭戦の者であって戦争の犠牲者なのだと告げるたび、それを打ち消すような彼の戦場での姿がフラッシュバックでインサートされ、彼の策略が進行していることによって発生するサスペンスを醸造していく。そうしたシーゲル版はあくまで男性視点による状況の解釈であるとしてソフィア・コッポラは新たな視点から解題していくわけで、前述したエイミーへのキスも真のマクバニーのフラッシュバックも見当たらないのは、必要なのはマクバニー(コリン・ファレル)の表層であって彼にビガイルドされたかどうかは問題ではないという解釈によっているからなのだろう。従って、女性達がマクバニーに懐柔される弱みとなりそうな要素はシーゲル版からきれいに取り除かれていて、校長マーサ(ニコール・キッドマン)は実兄との近親相姦の過去をオブセッションとはしていないし、エドウィナ(キルスティン・ダンスト)はマーサの庇護に依存するおぼこではなく、ここから出ていきたいという意志を早々に明らかにしてさえいる。それに加えて、南北戦争という背景を立体的にする役目を背負っていた黒人の召使いハリーまで取り除くことで、学園内の無垢と欺瞞という二重性すら消し去ってしまっている。そうやってマクバニーを根っからの悪人というわけではなく戦争という状況の生んだアクシデントの王子とすることで、自分たちは必ずしも一方的に籠絡されたわけではないのだという視点を獲得することを目指したことを否定はしないけれど、それによって肉体の蒸気と舌なめずりの目つきが館内に立ちこめる精神的肉弾戦のサスペンスがきれいにデオドラントされてしまった点で、特にシーゲル版の鑑賞者にとっては死とセックスという不可分が分断され去勢されてしまった後退のみが目についてならなかったのである。そして最期の毒キノコに至る様々な伏線も解除してしまうことで、互いをビガイルドしつつ絡まり合っていくはずのラストが、たった一度女性達が繰り出したビガイルドによって男性を打ち負かすという構図へと収束というよりは収縮してしまい、シーゲル版の101分に足りない8分間はただひたすら目をつぶりたかっただけの時間に思えてしまうのだ。そうやって切断のシークエンスですらが丸々オミットされる代わりに、エドウィナのドレスからはじけ飛ぶボタンは嬉々として追ってみせるわけで、手が汚れるのが嫌ならば手袋をするか何も触らなければいいのにと思ってしまうのだけれど、その手袋の繊細で美しい意匠を見せつけたかったのならばそれはそれで致し方ないのだろう。それにしても「欲望のめざめ」とかいうサブタイトルをソフィア・コッポラは知ってるんだろうか。
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2018年02月27日

早春/クール・イン・ザ・プール

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およそ映画が折り返す頃、客としてマイク(ジョン・モルダー・ブラウン)を訪ねてきた元同級生キャシーからことづかったチップをくすねたスーザン(ジェーン・アッシャー)が、それで買ったであろうコーヒーフロートのアイスクリームをなめながら、いつものように会計係(エリカ・ベール)をからかうべく通路をふらふらと現れた時、その背後にやおら現れたペンキ塗りが緑の壁を真っ赤なペンキで塗り始め、オープニングで滴らせた血の色を忘れていなかった向きへはお待ちかね、忘れてしまっていた向きにはお忘れなく、とばかり、この映画が今際の際に血を流すことをいささか得意気に予告してみせる。かつて『出発』において青春を殺すのはセックスであることを告げたスコリモフスキが、ここではより直接的な変奏によって思春のネクロフィリア絶唱を幻視することで、その罪と罰を永遠に猶予し続けるためにこの映画があることをあらためて告げてみせるのである。しかし、そのモラトリアムの水中をマイクと共に永遠に漂い続けるスーザンの罪は思春を弄び屠ったゆえなのかと考えてみれば、彼女は男たちの欺瞞と傲慢を知り尽くすことで逆襲的に生きる術を実践していたとも言えるわけで、体育教師(カール・マイケル・フォーグラー)を完膚無きまでに袈裟斬りする啖呵こそが彼女の本質であったのと同時に、ダイヤモンドを取り戻した後で立ち去ることも出来たにも関わらず、優しく身を横たえてマイクを抱きしめたのも彼女の本質だったのだろうし、ある一人の女性が時代の進取として持ち得たその振幅の烈しさゆえ彼女は綱渡りから転落したとも言えるように思うのだ。最初のうちは、背伸びして大人びた振る舞いをすればするほど子供じみてしまう滑稽と哀しみでマイクを慈しんでいればよかったところが、スーザンにペットとして翻弄され続けてノーガードの脳が揺れ続けることでいつしか少年の動物が大人の理性を足蹴にし始め、しかし有効な手管を持たない幼さゆえ檻の中をうろうろと行ったり来たりする動物のようにただやみくもな反復に感情をぶつけるしかないまま、スーザンと婚約者をクラブまでつけ回すシークエンスでは、なすすべもない焦燥で同じ建物へ出たり入ったりドアの開け閉めを繰り返し、あげくにそのループの中で同じ屋台のホットドッグを6個食べる羽目になるスラップスティックは、その先の地下鉄での狼藉によって既にマイクが子供でも大人でもないアウトサイダーと化したことを告げたあげく、深夜のプールにおけるネクロフィリアの予行演習へと歩を進めることとなる。さらに続く、自分がドロップアウトした学校のマラソンレースへの乱入からスーザンの婚約指輪のダイヤモンド紛失騒ぎの中、ほとんどブラウン運動的な躁病で転げ回るマイクが駐車場を走り抜けるシーンで、それが演出なのかアドリブなのか、特にそうしなければそこを通れないわけでもない停められた車の開いたドアを走りながらジャンプして蹴りつける後ろ姿の、社会性の未熟な回路がついに焼き切れたことによる解放の血走った高揚を見て、白も黒もグレーも知らぬ15才の狂気が混じり気の無い分だけなおさらグロテスクに思えて仕方なかったのである。それだけに、絶望的な未遂で一敗地に塗れたマイクが虚ろな目で「ママ...」と絞り出した瞬間、既にカタストロフの秒読みは開始されていたのだろうし、もはや青春の不発と言うよりは男性の不発とも言うべき女性不信のオブセッションはこの後『ザ・シャウト』や『ムーンライティング』でも主人公を蝕んで崩壊に導いていくことになるわけで、15才の少年をその鋭角で思い切り殴りつけて永遠に春を奪ったその物語に『早春』と名づける地獄のセンスにあらためて戦慄する。
posted by orr_dg at 20:39 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする