2017年06月11日

夜に生きる/酔っても顔に出ないだけ

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※展開に触れています

原作未読。まず言ってしまうと、ベン・アフレック演じるジョー・コフリンの無粋な肩幅と、鉄面皮というよりは起き抜けのようなポーカーフェイスのせいもあって、彼には夜に生きる人の躁病的な倦怠が宿ることはなくむしろ睡眠が足りずボーっとしている人として終始しているし、ベン・アフレックの几帳面すぎる演出もあって、『L.A.ギャングストーリー』や『欲望のバージニア』と同様に淡々とエピソードを重ねていくシノプシス的な陥穽にはまっていないこともないのだけれど、その両者がコスチュームプレイに作家性の余白を塗りたくることに気を取られて躓いていたことを考えると、ベン・アフレックの愚直な攻めは当時のスピードとして存外にマッチしていたように思うのである。その結果、A型フォードのカーチェイスをモダンなアングルでとらえるスリルやトミーガンによるファナティックな銃撃戦はスクリーンサイズならでのは昂奮がずっしりと腹に響くし、1920年代フロリダにおけるギャングとKKKの激突やファンダメンタリストとの交錯はエルロイ的なノワールのカオスが垣間見えたりもして、禁酒法時代アメリカの歴史絵巻としては至極眼福だったのだ。時折エル・ファニングのようなイレギュラーにハッとさせられたりはしたものの、キャラクター自体は灰色に記号化されたボールとして予想通りにストライクゾーンを出し入れするにとどまっている。しかし、1930年代のギャング映画でジェームズ・キャグニーやハンフリー・ボガート、エドワード・G・ロビンソンたちがヴィヴィッドだったのはそれが同時代的なアクションを見せていたからで、そのメンタリティを忠実に再現すればするほど現代との差異が輪郭となって浮き上がってしまうのはしかたがないことなのだろうし、その点においてベン・アフレックのスクエアな演技プラン(だとすれば)自体は妥当なはずなのである。とは言えやはりベン・アフレックの適役はあくまで弁慶であって、『ザ・タウン』のグルーヴを生んでいたのは義経としてのジェレミー・レナーであったことを思い出してみれば、ベン・アフレックが義経を演じたこの映画がスウィングしなかったのは当然の結果ということになるのではなかろうか。また、演出として一つ致命的に思えたのは、精神の正常を失したアーヴィング・フィギス(クリス・クーパー)がコフリン宅を銃撃するシーンで、誰もが忘れていた過去の負債を突発的に支払わされるからこその悲劇であったはずなのに、わざわざその直前に錯乱したフィギスのカットをインサートして、皆さんお忘れかもしれないのでおさらいしておきますが、こういう男がいたことを思い出しておいてくださいね、ここ重要なのでテストに出ます、と念押ししてしまうのだ。実生活ではいろいろと底の抜けてしまう男が、いざ監督として映画を撮るとなるとこうやってしゃちほこばってしまうのは、ベン・アフレックの映画芸術に対する忠誠の証しであるのは間違いないにしろである。粋は血であって努力すればするほど逃げていく。哀しいけれど。
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2017年06月08日

LOGAN / ローガン&チャールズ・カム・アラウンド

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自覚なく高速道路を逆走する高齢者ドライヴァーのごときチャールズ(パトリック・スチュワート)と、彼を介護するために誇りを捨て意に添わぬ仕事で日銭を稼ぐローガン(ヒュー・ジャックマン)が夢見るのは、金を貯めクルーザーを手に入れて大海原に閉じこもる日の陽光であり、老いよりも何よりもまずはこの「酒とクスリの日々」の鈍色に塗りつぶされた姿に胸が衝かれてしまう。かつて、きみたちは「人間もどき」であると同時に「人間以上」だけれど、その何よりも前にまずは「人間」でなければならぬと説いたチャールズと、不死を呪いと受け止めたローガンの体に忍び寄る肉体と精神を共に覆う老いの変調はまさに人間そのものの宿命でありながら、ミュータントと人間の共存というチャールズの抱いた美しい野望が地に落ちた世界にあっては「人間もどき」には安らかな老いすら許されないのだという絶望的な終末感に、ああこの2人はおそらく死んでしまうのだろうと嗅ぎつけることで、次第に最終回ならではの奇妙な昂奮が宿り始める。あらたなミュータントの存在を感応してどこかしら狂気じみた光すら宿して昂奮するチャールズ、制御できずに暴走したメンタルブラストでなぎ倒した罪なき人々の中を、ああ私のせいなんだ、すまないすまない…、と泣きながら車椅子で走り抜けるチャールズ、自分たちが災厄を呼ぶ存在であることからふっと遠ざかりぬくもりを欲しがったことで「人間」の一家惨殺を引き寄せてしまうチャールズ、といった、すべてを始めた男への負債の突きつけ方は思いのほか容赦がない。しかしその手続きのおかげで、その後繰り広げられるローガンとローラ(ダフネ・キーン)による殺戮の道行きを浄化されたセンチメンタルで彩ることが赦されていたように思うのだ。今際のきわにローガンがローラに語りかける「もうおまえは戦わなくてもいいんだ、やつらの思い通りに生きる必要なんてない」という言葉は、ローガンがついぞ誰からも言ってもらえなかった言葉でもあったわけで、それはローガンが「そして父になる」ことで血の通った言葉として受け継がれることになるのだけれど、ワタシはその腑に落ち方よりはやはり、チャールズの物語としてユートピアの終焉を突きつける「ぼくたちの失敗」の取り返しのつかなさに心を揺さぶられてしまうのだ。それはすなわちローラに向けたローガンの言葉の不毛を裏打ちしてしまうことにもなるわけで、チャールズの“たったひとつの冴えたやりかた”が朽ちてしまった未来にあって、あの少年少女たちが誰も傷つけることなく生きのびていくことの困難さに思いを馳せてしまうのだけれど、森を過ぎ国境を越えて消えていく子供たちはミュータントというよりも真にマージナルな存在に思え、『シェーン』から引用することでローラに「一度人を殺した者はもう後戻りはできない。それが正しかったとしても、人殺しの烙印は消えることがない」とまるで自分たちへの戒めのように語らせておきつつも、チャールズもローガンも子供たちも誰もいなくなってしまったその後で、「不正をはたらく者には不正な者として、正しい行いをする者には正しい者として、心の汚れたものには汚れた者として、彼は映るのだ」とジョニー・キャッシュに歌わせることで、死んでいった者には鎮魂を、生ある者には救済を与えてみせて、ワタシは清冽な笑顔すらあふれる綺麗で気持ちのいい葬儀に参列した気分だったのだ。それだけに、最後に歌詞の字幕をケチったのが何とも残念に思えて仕方がない。
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2017年06月04日

皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ/そろそろ殴ってもいい頃

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※展開にふれています

ヒーローとヒロインが結ばれる場面とは到底思えない試着室での凍てついて荒んだセックスで感情は底を打つも、まだエンツォ(クラウディオ・サンタマリア)はそのことに気がつかない。ようやくにして自分が失い続けてきたものを彼が知るのは救った子供の母親に全身で抱きすくめられた瞬間で、人はみなそれぞれが誰かにとっての大切な手ざわりとなって生きていくのだと教えてくれたアレッシア(イレニア・パストレッリ)を失った慟哭が、彼を自己犠牲の獣へと変貌させるのであって、トロマもかくやというトキシック・ヒーローの右往左往に、まさかそんな風にしてザンパノとジェルソミーナの聖性が宿るとは思いも寄らなかったのだ。前述した試着室でのシーンを物語のターンとする寄る辺のなさは、今となってはアメリカのスーパーヒーローが容易には持ち得ない底辺からの視点によっていて、ヴィランたるジンガロ(ルカ・マリネッリ)の実存の狂気でも世界征服の野望でもない、俺様を蹴飛ばし続けてきたムカつく世界の転覆にただただ焦がれる切実にはある種の純粋さすらを感じたわけで、これが重苦しいビルドゥングスロマン一辺倒に沈まなかったのは、このピカレスク的痛快によるところが思いのほか大きい。自己犠牲など欺瞞に過ぎないのではないかという自家中毒を発症したアメリカのヒーローたちにとって、この映画は彼らの失われたイノセンスとして憧憬と郷愁を誘いすらするのではなかろうか。今作にしろ『マジカル・ガール』にしろの、サブカルチャーとしての衒学ではなく物語の強度を支える柱としてのアニメ(『マジカル・ガール』の場合は架空アニメだけれど)に託されたのは、物語を信じろ!という祈りにも似た叫びであり、それを誰よりも叫び続けているのがシャマランであることは言うまでもない。そしてラストで示される、物語を引き受けるゆるぎのない意志は『ダークナイト』にも匹敵し、もしくは彼が光と闇の一体化を突き抜けたにおいてそれを凌駕したようにすら思い一瞬血が逆流したのである。もはやつべこべ言わず正面から突破する時代であることをワタシたちは知らねばならぬ。
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2017年06月02日

映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ/共謀しようそうしよう

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自由になりたい、自由になれない、どうすれば自由になれる?東京で生きるっていうことはこのどれか、あるいはその全部に目をつむることだ。と書いてみる字面の青臭さをそのまま青臭いとは言わせない、その切羽づまった息づかいさえ伝わればもうそれでいいという潔さだった。デラシネと書くとそれなりだけれど、浮き草であり根なし草である。そうやってただ東京にしがみついているだけのお前らがなぜそんなに笑ってられるのかと罵倒する美香(石橋静河)の不機嫌と、あらかじめ半分しか視えない世界の残り半分を言葉で埋め尽くそうとする慎二(池松壮亮)の焦りとあきらめのないまぜが、泳ぎ続けなければ死んでしまうサメのように止まらない饒舌で絡み合っていくことで、日雇い人夫とガールズバーでバイトをする看護師の、キスやセックスの手を借りないまるで同志愛のようなラブストーリーがほとんど奇跡的に成立している。人の手が作る大量の弁当、レンジ食品が並ぶ家族の食卓。片隅で身を寄せ合うだけのコミューンがさらに片隅の誰かを追いつめる。そうやって記号化され無効化される温もり、のような言い訳。どれだけ有効求人倍率が上がろうと消費支出がマイナスなのは、強食すらいない弱肉弱食の見事なからくりのせい。それらを説明するのではなく、むしろ説明しないための言葉を宙に浮かせておく間の悪さは当然計算ずくだろう。それを綱渡りのように細やかな緊張で行ってみせるからこそ、あのストリートミュージシャンの歌う紋切りソングには落胆してしまうのだ。あの歌の「がんばれ」にまとわりつく自己弁護のようなナルシシズムは、必死の相対化によって世界からの流れ弾をかいくぐる美香と慎二の対極にあるものだし、だからこそ美香と慎二はあの人売れないよねと合意したのだろう。ワタシにはあれもまた記号化された温もりとしての「がんばれ」としか思えないからこそ、ストリートミュージシャンの一発逆転はむしろ美香と慎二に絶望を突きつける証左となるはずで、ならば2人の顔に浮かんだ救いのような明るさはそれにそぐわない気がしてならないし、ラストでのおはよういただきますに関するくだりも、それまで弾幕のように撃ち続けてきた言葉のアナーキーを一気に矮小化してしまう気がしたものだから、蛇足!と思ったのが正直なところで、美香と慎二のみならず映画もまた、自由になりたい、自由になれない、どうすれば自由になれる?とあがき続けていたのは間違いないにしろ、最後の最後で物語に頼ってしまったことでそれまでの酔いが醒めてしまった気もしたのだ。石橋静河は、怒り出しそうな、泣き出しそうな、笑い出しそうな、そういう助走の瞬間、いったんすべて同じ表情になる先の読めない緊張感が、言うまでもなく貶しているのではない、スリリングでずっと目を離せなかった。そして池松壮亮が初めてバカリズムに見えなかった。

都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。

きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい。


詩集から引用されるこうしたモノローグがガンさばきのように散りばめられる中で
「ワキ汗かいて気にして、わたし生きてる/目を逸らして、いつもの作り笑顔/みんな同じでしょ/ここは東京/でも頑張れ/頑張れ」
こういった自作の歌詞をしかもメルクマールとしてインサートしてしまう監督の意図はやはり理解しようがないけれど、それがアクシデントだったとしても想像を超えた立ち上がり方をしてしまうのが映画の面白いところなのだなあとあらためて思わされた次第。
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2017年05月29日

光をくれた人/西部戦線異状あり

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トッド・ヘインズで言えば『エデンより彼方へ』にあたるような舵の切り方をトライしてみたということになるのだろうか。しかしこの映画は、メロドラマのスタイルでアプローチすることによって隠された物語を届けるというよりは文字通りの泰西名画的なメロドラマのまま矛を収めてしまっているように思え、こちらはいったいどこに爪を立てて追いすがればいいのか最後までぼんやりとしたままだったのである。原作を読んでいないので、デレク・シアンフランスがどのような意図をもって脚色したのか、あるいはどの程度忠実であったのかがわからないのだけれど、最も苛烈な前線であった西部戦線からの帰還兵トム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)、2人の兄を戦争で失ったイザベル(アリシア・ヴィキャンデル)、そして、そもそも運命の糸がほつれ始めたのがハナ(レイチェル・ワイズ)の夫フランク(レオン・フォード)が戦争の敵国であるドイツ人であったからだとすれば、この物語を覆うのは人類最初の大量殺戮が行われた第一次世界大戦の影であって、未曾有の喪失と未来への再生の境界にあって両者を照らす光を象徴するのが灯台なのではなかろうかと考えてみるのだけれど、果たしてその灯台が劇中でどのように機能したかを考えてみても、すべてがトムとイザベルという夫婦の愛情の在りかに収れんしていくことを第一義に掲げるあまり、隠された物語は隠された物語のまま、美しく壮大な自然の中へ呑み込まれてしまっていたように思うのである。戦争神経症にも映る自罰の縛り上げるメランコリーに苛まれるトムと度重なる流産に見舞われるイザベルには同情こそするものの、あらかじめ規定された不幸の枠組みのせいなのか、わたしたち不自由で不完全な人間が身体を寄せて光を求める感情がそれを越えて流れ込んでこないのである。フィクションに対する野暮を承知で言うと、そもそも孤絶した島での出産、しかも前回の流産を経ての2度目ともなれば早めにイザベルを島から町に戻すといった対策をなぜ立てておかないのか理解に苦しむし、そのあたりの追い込み方が不幸のマッチポンプにすら思えてしまったのだ。ついでに言えば、本来トムが贖罪の場として選んだヤヌス島がどれだけ孤絶した島なのかがいまひとつ伝わらないことで、閉塞したエデンの悲劇性が運命をツイストしきれなかったように思うのである。そんな風にして、街で一番の金持ちにして有力者の娘であるハナが、フランクがドイツ人ということで誰からも祝福されないまますべてを捨てて愛を貫く物語でさえ、トムとイザベルがたどり着く赦しのための装置とされるわけで、邦題の『光をくれた人』というのが実はフランクその人に他ならないことを告げてみれば、ワタシが感じるわりと致命的な違和感が伝わるだろうか。ドイツ移民として偏見と憎しみにさらされながら、「赦すのはたった一度でいいんだよ、でも腹を立てたらそれを一日中、毎日、ずっとそうしていなきゃならないからね」と小さく微笑むフランクと、彼が宿している光を身分や出自にとらわれることなく見つけたハナの物語をワタシはもっと知りたいと思ったのだ。監督が臆面もなく「『光をくれた人』を撮ることで、僕は妻に“いつまでも一緒にいてほしい”というメッセージを届けたかったんだ。」と言い切っている以上、詮ない話であるにしろ、である。
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2017年05月26日

ジェーン・ドウの解剖/死んでるんだぜ

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結論から言ってしまうと傑作である。以下、特に気づかうつもりもなく内容に触れまくっているので、タイトルやキーヴィジュアル、予告篇にほんの少しでも気持ちがひっかかったなら迷うことなく映画館へ向かわれることをお薦めする。

或る夜の死体安置所で起きた怪異と、それに出くわした検視官親子が過ごすいつ明けるともしれぬ夜を、オカルトで道に迷わせ、ホラーで閉じ込めてはテラーで破壊するその確信に満ちた手さばきと地肩の強さには、やたらオブセッションを仮託したがるスタイルとしてのホラーには届き得ないゲームセットの感動すらがあったのだ。何と言っても、死体安置所というホームグラウンドで検視官という死体の専門家がプレイする言い訳のきかない設定に知らず昂奮も高まるわけで、形而下のプロフェッショナルが底知れぬ形而上の存在と対峙し、知識と技術というナイフで切り刻もうとするも、それによってさらなる闇に満ちた恐怖を引きずり出してしまう絶望のなんと滋養に満ちていることか。そうした職業人としての矜持は『トロール・ハンター』から通底したようにも思え、あくまで人間のドラマであることから離れない監督の腰の落とし方こそが、こらえが利かず走り出す下世話ではなく、一歩一歩を踏みしめるすり足の思慮深さを生み出しているのだろう。要するにバカがバカをしでかすことで生まれるサスペンスを最下等にみているということである。俺たちの武器は切って調べることだとばかりジェーン・ドウの身体を切り刻んでは、片っ端から情報を集め推測と仮説を組み立てていく。しかし彼らがその作業を精緻で的確に果たせば果たすほど、そのたどり着く先で待ち受ける漆黒の袋小路に彼らは堕ちていくわけで、そんな風にしてジェーン・ドウが語り出す暗黒のドラマ(なんとセーラムの魔女裁判にたどり着くのだ)を知った父トミー(ブライアン・コクストン)は、絶体絶命を切り抜けるためのプラグマティックな対処として「おれはお前の味方だ、お前を助けたい」と形而上の存在に向かって語りかけることすら躊躇しないのである。しかしこれでジェーン・ドウに宿る何かが絆されて鎮まるようであればワタシはこの映画を傑作としなかったのは言うまでもなく、その後の惨劇を経てほとんど自然災害的に人間の都合を吹き飛ばす結末に滲んだのは、まるで台風一過のような青空の倦怠であったのだ。映画のほとんどがブライアン・コクストン、エミール・ハーシュの二人芝居による密室劇であり、なんとボスキャラたるジェーン・ドウはある1点の変化を除いて最後まで身動きひとつしないこともあり、繰り広げられるアクションはほぼ2人の自爆によっている。演技派といっていい手練れの俳優2人が、親子という関係の丁々発止のコンビネーションでスイングしていくリズムの心地よさにいつしか取り込まれているため、それが致命的に破壊されていく時に共に味わう恐怖というよりは絶望がいっそう切なくてたまらないのである。このあたり、『トロール・ハンター』もそうだったけれど、怪異を結果としてではなくあくまで原因として描くことのできる視点の深度と強度が、アンドレ・ウーヴレダルを彼たらしめる強力な武器となっているのは間違いない。あえて言えば最後のアレは蛇足と言えないこともないけれど、ジャンルに忘れず仁義を切ったということなのだろう。それにしてもみんな本当にいい死体だった。
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2017年05月24日

メッセージ/明日にして君を離れ

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原作既読。喪失しながら再生されていく、あるいは再生しながら喪失されていくうつつにすべての過去と未来が溶け込んでひとつの「わたし」になっていく、自我が永遠に向かって美しい身投げをするようなストーリーは、映像の特性に対応して「あなたの人生の物語」から「わたしの人生の物語」へと周到に書き換えられている。そしてまた、過去から未来へと一方通行的に流れる時間(リニアタイム)の認識から自由になることで、わたしに関するすべての出来事はその誕生から死までがあらかじめ起きてしまっていてなお起き続けているという、円環する時間の認識へシフトしていくスリルに関して言えば、フェルマーの定理のくだりを完全に省いたことからもわかるようにこの映画は半ば穏やかにそれをあきらめてしまっていて、それはヘプタポッドからルイーズ(エイミー・アダムス)への "Louise sees future" というメッセージに明らかで、言うまでもなく "future" という概念はヘプタポッドがリニアタイムで思考するルイーズ向けに翻訳した言葉なわけである。この言葉もあって、その後でルイーズが突破口として見つけ出す方法は彼女が獲得したあらたな時間の認識によるというよりは、あたかも「未来」予知を可能にしたかのようにも映ってしまい、それに伴ってタイムパラドクス的なややこしさも連れてきてしまうことになるのだけれど、ヘプタポッドに "future" という言葉を使わせた時点で、ヴィルヌーヴにとってもうそれはそれでかまわないという認識だったのではなかろうか。それよりは、ヘプタポッドとの邂逅によって新たな世界の眺め方を身につけたルイーズが、それによって彼女の娘ハンナの祝福された生から残酷な死までも見渡してしまうことになった時に、果たしてどのように人生を選択するのかを伝える筆を凝らすことを選んだように思うのだ。その結果そこにあったのは運命論的な選択への諦念ではなく決定論に対する自由意志的な決断の疼きだったわけで、となれば原作も映画もたどり着いたのは同じ答えであったということになる。もう一つ、映画ではヘプタポッドの来訪目的が加えられていて、彼ら(雌雄などなかろうが劇中で与えられた呼称に準じたとして)と人類が存在するこの宇宙を維持するためには、現在の地球と人類の状況は由々しき事態にあり、その警鐘と解決のツールを伝達するために彼らはやってきたわけで、ヴィルヌーヴがこれまで描いてきた内面の跳躍が世界を震動させるストーリーへと展開する脚色こそがまずは評価されるべきだろう。これまでも、強烈に精神的な漂白がなされた光景や風景によってSF的な異化を誘ってきたヴィルヌーヴだからこそ、枷を外し異化そのものを描くとなった時の強靭なソリッドだけで既に眼福であり、ヨハン・ヨハンソンらによる内爆するミニマルのサウンドデザインと相まってクロームの艶には生々しい息づかいすらが芽吹いている。もちろん『渦』における巨大ダムや『複製された男』における高層ビル、といった巨大建造物へのフェティシズムが今作では思う存分炸裂しているのは言うまでもない。ただ、今回はSFというあらかじめ異化されたジャンルにあって、これまでのように境界を逸脱する時のスリルと混沌が控えめにならざるを得ず、そこに未だ知らぬ感情がほとばしったかという点での抑制と冷静がそのまま映画のトーンとなったことで、ワタシもこれまでのように息が乱れることはなかったのである。しかしそれによってあらためて浮かび上がったのは、ヴィルヌーヴがメランコリーに沈むことなく光を追い求めるロマンチシズムの人であることで、やはり過去と未来が交錯する母と子の物語でそれを叩きつけた『灼熱の魂』がヴィルヌーヴとの出会いであったことなど想い出したりもした。つづいてSFジャンルとなる『ブレードランナー2049』では前述した逸脱のスリルと混沌に加えて落涙のメランコリーをどれだけ滴らせることができるのか、今作とは真逆の脈動で息も絶え絶えに喘がせてもらえればなあと思っている。
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2017年05月20日

スプリット/さっきより強くなっている

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「きみはほかのやつらとは違う!喜べ!傷ついた者こそが進化するんだ!」と叫ぶビースト=ケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)に感応したかのように、ショットガンを構えたケイシー(アニヤ・テイラー=ジョイ)から溢れ出すのは忌まわしい過去を洗い流すための涙だったのか、シャマラン作品に通底する弱き者の存在証明がここまで高らかに謳われたことはなかったように思うのだ。自分たちの置かれた状況がまったく把握できない修羅場で、しかし暴力の忌まわしい気配をとっさに感じたケイシーがマルシア(ジェシカ・スーラ)に小声で伝えた、女子高生とは思えない合理的かつ直接的にドスの利いたアドバイスに一瞬あっけに取られるのだけれど、なぜ彼女にそれが可能だったのかというストーリーがケヴィンのストーリーのスプリットとして語られていくことになるわけで、そこであらわになるのは一人の少女にとって陰惨で救いのない運命なのだけれど、そこを生きのびたことによってケイシーは、さらにもう一度生きのびることを可能にするのである。ケヴィンの変質もまた生きのびるための文字通り身を裂くような選択の結果であり、ケヴィンが隠れ住んでいた場所が最後に明かされた時、彼が人間に絶望して見切りをつけることであのアイデンティティーを切望したことを知り少しだけ血の流れが荒くなる。もういい加減シャマランの映画にサプライズのカタルシスを求めるのは無益だと知るべきで、シャマランが告げているのは、目に映ったすべては確かにそこに存在することを信じろ、そして同時に、目に映ったものが全てではないことを想像しろ、今キミが追い込まれているのならなおそうしろという作戦であることは『レディ・イン・ザ・ウォーター』ではっきりと宣言したではないか。すべては徴(サイン)の下に、隔絶された場所(ヴィレッジ)の記憶を武器に闘うケイシー、『アンブレイカブル』と化したビースト、その迎撃を予感させる“ある男”、そしてこれらすべてが“あの男”の采配であることすら伺わせる次作タイトル。パトロールカーのバックシートで貼りつけた表情を見る限り、おそらくケイシーはビーストに添うだろう。そしてその頃、アニヤ・テイラー=ジョイは界隈を制圧していることだろう。ビースト化したケヴィンが壁を這った時、ほんの一瞬スクリーンが波打った気がしなかっただろうか。シャマランも世界の法則を回復しようとしているのだ。
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2017年05月18日

潜入者/帰る家をわすれた

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エミール・アブレヴ(ジョン・レグイザモ)が嬉々として汚れ仕事にケツまでつかってしまうせいで、しかもこれがオレの天職だとばかり目の前でアタマをぶち抜かれた密告屋の体液全般を顔面に浴びては恍惚としてしまうものだから、ロバート・メイザー(ブライアン・クランストン)が優雅な狂犬というよりはファミリーマンの憂鬱をふりまく担当にまわってしまうこともあり、同じ実録ものであっても『フェイク』のように骨の軋む相克にまで手は届いていない。したがって、ロバートの苦悩は主に自身のダブルライフが家庭を犠牲にしてしまうことによっているわけで、善悪と功罪の境界で揺らぐアイデンティティの流血は最小限に抑えられてしまったように思うのである。それもあって、この作戦の肝とも言える最高幹部ロベルト・アルケイノ(ベンジャミン・ブラット)の信頼と友情を勝ち取る経緯に血が逆流するような瞬間がなかなか生まれて来ず、わけても計算外ともいえる友情が知らず育まれてしまうシーンの希薄がアンダーカヴァーものの見せ場と言ってもいいアンビヴァレンツの妙をそいでしまっていたのではなかろうか。エミール、キャシー・アーツ(ダイアン・クルーガー)、ドミニク(ジョセフ・ギルガン)といったチームの面々がそれぞれにサスペンスフルで魅力的な造形であっただけに、どうしてもメイザーの生活者的な苦渋が陰影をぼやけさせた気がしてしまうのである。ところで、原作を脚色したエレン・ブラウン・ファーマンという女性を最初は監督のパートナーなのかと思っていたのだけれど、彼女は実は監督の母親であって、法廷弁護士から転じてのフィクションライターという経歴はあるにしろこれが初めての映画脚本ということになるらしく、製作にも名を連ねるブラッド・ファーマンがどういった経緯で彼女に映画の背骨とも言える脚本を任せたのかわからないけれど、ファミリーマンとしてのロバート・メイザーというプロットが彼女の視点によるのだとしたらその点については成功していたように思うのである。しかしたった一度のシーンを除いてブライアン・クランストンがセンチメンタルに囚われたままだった点については、かなり失敗したとワタシは思っている。ブライアン・クランストンにはウォルター・マッソーの後継として、狡猾とユーモアと人情を丸めて口に放り込んではくちゃくちゃと噛んで吐き棄ててもらわなくては困るのだ。この映画は悪い夢から醒めようと少し躍起になり過ぎた。レグイザモを除いては。
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2017年05月17日

マンチェスター・バイ・ザ・シー/容疑者ケイシー・アフレック

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笑顔で機嫌をうかがい、知らない誰かを褒めそやし、共感と理解を首からぶら下げ、赤の他人のために自分を殺し、そうやって生きている内に最後には犯した罪が赦されたふりをしてしまう。何よりリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)が許しがたいのはそうなってしまう自分であって、独房としか言いようのない部屋にたったひとり暮らし、マイナスをゼロにする仕事をひたすらこなす日々は、問われなかった罪の代わりに自らが与え続ける罰なのだろう。そうした中、兄ジョー(カイル・チャンドラー)の死によって促される帰郷はリーにとって一種の地獄めぐりの旅とも言えるわけで、甥であるジョーの息子パトリック(ルーカス・ヘッジス)を旅の連れにかつて自分が埋めた地雷を避けたり踏んだりしながら故郷の街を彷徨うこととなる。ただこれは、リーにとっての地獄巡りであると同時にパトリックにとっての喪の仕事でもあるわけで、子供を亡くしたリーと父を亡くしたパトリックを擬似親子とすることで互いの喪失と再生を補完するというよりは、共に精神的支柱とするジョーの血を引くがゆえのすれちがいとぶつかり合いによって殻を破っていくバディ・ムーヴィーとしての運動が、暗闇の道行きを照らし続ける仄かな灯りの源となっていたように思うのである。リーのフィルターを通さないパトリックのセックス、ホッケー&ロックンロールな日常が丁寧かつあけすけに描かれるのは、そのふるまいが日常を貫くことで喪失の哀しみを麻痺させようとする16才なりの試みであるのと同時に、彼の姿にかつてのリーにあったチャイルディッシュな傲慢と甘えをだぶらせているようにも思え、しかし大人びた少年と子供じみた大人2人の距離が詰まれば詰まるほどリーには呪われた父親としての影がのしかかるわけで、光差す場所に踏み出すほど目が眩んで顔を伏せてしまう男が、ならば自分は暗闇から何ができるのかを考え抜いて絞り出した答えであったからこそ、パトリックもそれに人生を委ねる気になったのだろう。積もった雪に照り返す陽光の刺々しさや、解けぬ緊張を誘う黒くて冷たい海のインサートがそこに生きる人々の吐く息になけなしのぬくもりを感じさせ、それは物語の都合で登場人物の感情を犠牲にしないというすべての登場人物に対するフェアネスにもよっていて、その結果全てがあるべきところにある「生活」という小さな宇宙の調和が完成したようにも思うのである。物語の手がかりとして感情移入を必要とする、あるいはそれを求めてくる映画ほど不自由に感じてしまうことを思えば、観ている自分の位置が消えてしまう不安すら感じるほどこの映画が自由であったことは言うまでもない。それにしてもケイシー・アフレックのエロキューションはほとんどそれが映画のトーンを決定してしまっているわけで、メランコリーに食われたアメリカのルーザーを演じる時はほぼこのスイッチが入るのだけれど、それを耳にするたび何とはなしに思い浮かべるのがチェット・ベイカーの歌声なのである。チェット・ベイカーの場合どう歌おうがああなってしまうのだけれど、そこに共通するのは失われたイノセンスへの感傷と憧憬とオブセッションであって、いよいよアメリカのイノセンスは白人最後の牙城になってきた。

Affleck allegedly joined Gorka in bed while she slept, wearing only "his underwear and a t-shirt ... He had his arm around her, was caressing her back, his face was within inches of hers and his breath reeked of alcohol."
これは2010年の事件の被告側からの証言だけれど、ミシェル・ウィリアムズとのシーンのト書きかと思ったよ。
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2017年05月15日

パーソナル・ショッパー/そこまで来ている

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いきなり他の映画を引き合いに出すけれど、冒頭でモウリーン(クリステン・スチュワート)が扉をあけて入った玄関のショットで、ああこれは『ダゲレオタイプの女』のあの家だと思いこんだのである。もちろん実際にそうであるはずはないのだけれど、空っぽではないでけれど何もない家、光は差すけれどあたたかみの届かぬ家、昼夜問わず暗闇の濃さが変わらぬ家、その中を一人うろつくモウリーンの探しているものが何なのか、家の方からワタシに教えてくれた気がしたのだ。しかし厳密に言えば、モウリーンは“在るもの”を探しているというよりは“或るもの”が“在るもの”になるのを待っているわけで、それはそのまま彼女の揺らぎとなって非常に危うい隙を生み出して、いつしか望まぬものにつけ込まれていく。パーソナル・ショッパーとしてのモウリーンの能力は、最終的には自身の奥底でのたうつ欲望を手がかりとしていて、しかしそれらは常にモウリーンを素通りするばかりで永遠に彼女の手に落ちることはなく、そんな風にして“或るもの”と“在るもの”がせめぎあう波頭にもまれて削られていくのが彼女の日々であるのだろう。前述した『ダゲレオタイプの女』、すなわち黒沢清監督作品との予期せぬ通底は、これら“或るもの”と“在るもの”が現実で交錯する瞬間への白熱と畏怖にあって、それこそがモウリーンの言う「扉が開く」という状態なのではなかろうか。心臓発作で亡くなった双子の兄ルイスと、霊媒という体質にくわえ先天的な心臓の疾患までも共有したモウリーンは、当然ながら死と現実の境目を意識しつつ生を費やすことを余儀なくされるわけで、こうした物語における霊媒としては珍しく、彼女はいまだ世界の様相を俯瞰し受容する準備が整わない者として登場し、亡き兄ルイスの家での見知らぬエクトプラズム体と遭遇し、キーラ(ノラ・フォン・ヴァルトシュテッテン)の殺害されたアパートで光と音にまみえ、ララ(シグリッド・ブアジズ)の家では兆しを死角に感じ、といったステップを段階的に経ることで、ついにはオマーンで決定的な兆しと向き合うことになるのである。しかしそれが果たして彼女の追い求めた兆しであったのかどうか映画がはっきりとうなずくことはないどころか、それまで折々にインサートされたブラックアウトから一転してホワイトアウトで閉じるラストは、彼女が開けた扉の先がいわゆる「白い部屋」であるかのような仄めかしにも思えたわけで、しかし唯一そこから彼女はこの世界へ帰還できるのだとワタシは考えたいし、そこにどのような変質があろうとそれはハッピーエンドに違いないのだ。彼岸への並木道、踊る光と暴れる音、デジタルフォントの邪悪、エレベーターと自動ドアの憂鬱、死には質量がある、幽霊がこちらを視ている、早く気づけと視ている、生きているのは死んでいるのと同じくらい不思議なことだと早く気づけ。やはり世界の法則を暴けるのはホラーだけなのかもしれない。
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2017年05月11日

ノー・エスケープ 自由への国境/汝の犬を愛せよ

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冒頭、トラックの荷台でアデラ(アロンドラ・イダルゴ)が声に出して読んでいるのは、かつて国境の砂漠地帯でみつかった身元不明の出稼ぎ労働者のポケットから見つかった祈りの言葉で、その遺体の身元を調べることで中南米から北へ向かう過酷な移民の実態を浮き彫りにするドキュメント『ダヤニ・クリスタルの謎』をガエル・ガルシア・ベルナルが製作したことによる、その連なりとしての引用なのだろう。そのガエル・ガルシア・ベルナル演じる修理工の名前がモイセス(Moises=モーセ)であることからも明らかなように、メキシコ人の視点からすればこの越境はエクソダス(=脱出)であって、銃弾や犬、蛇は彼らを襲う災厄として描かれることとなる。したがってトラックのアンテナに南軍旗をなびかせるサム(ジェフリー・ディーン・モーガン)には、たとえば『北国の帝王』におけるシャックの狂った労働倫理も、『ノーカントリー』におけるアントン・シガーの底知れぬ虚無もその一切が塗されることがなく、要するに彼の複層的な言い分ははなから認められることなく、ただひたすら皮相で卑俗な行いで災いをもたらす者としか描かれていないのである。したがってここにあるのはイデオロギーや人種の構造的な対立というよりもそれら絵に描いたような役回りが宗教映画のごとく伝える荒地における苦難と受難であって、2つに割れる海もなく干上がりきった荒地を、アデラを背負い約束の地へと歩みをすすめるモイセスの姿こそは、すべての越境する者たちにとっての守護者と映ったのではなかろうか。ならばここにいるワタシたちはこの映画のどこに象徴と投影を探ればいいのか。それはサムの手足となって越境者たちを追いつめるベルジアン・シェパードのトラッカーということになるのだろう。トラッカーの行いはひとえに飼い主への盲目的な忠誠のなせる業ということになるのだけれど、その結果として彼が奪った命と、その彼を待ち受ける最期をその業がもたらしたことは間違いがないわけで、そうした走狗の罪深さをワタシたちは知らずまとってはいまいかという突きつけをトラッカーに見出すべきなのではなかろうか。トラッカーの最期に、屠られた人々のそれを上回る凄惨をあえて与えたのはそうした意図の反映であったようにも思うのだ。少なくともワタシたちは飼い主を選べるはずである。

国境に横たわる絶望は合衆国大統領の戯言とは関係なくずっと放置されてきたわけで、それに対するアメリカの疲弊した内省については『正義のゆくえ I.C.E特別捜査官』あたりをあらためて参照するのも良い機会かもしれない。また、無辜の人を犬が追う話というと、脱獄した政治犯をかつて彼が殺した看守によって訓練された殺人犬がどこまでも執拗に追い続ける『ドッグチェイス』というスペイン映画の傑作を思い出したりもして、たとえどれほど救い難く酷い人間であってもその最後の友であり続ける犬が、最もシンプルなアナグラムで神となるのは果たして偶然なのかと、幾多の困難をかえりみずほとんど狂信的に走り続ける姿を観ては考えてみたりもするのである。前述の映画はいまだパッケージ化もされていないけれど、絶版(ハヤカワ文庫)になってしまった原作(「自由への逃亡」)もまた、犬視点を導入して描かれる冒険小説の傑作なので古本を漁っての一読をお薦めしたい。
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2017年05月09日

カフェ・ソサエティ/マンハッタンを見てから、死ね

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1930年代の風俗、わけてもハリウッドを踏み台にした上でのVIVA!ニューヨークを謳いたかっただけなのだろうなあと、特にハリウッド・パートにおけるボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)とヴォニー(クリステン・スチュワート)の恋の顛末をほとんど自身のナレーションで済ませてしまう手抜きっぷりに対し、舞台をニューヨークに移してからの噺し屋ジェシー・アイゼンバーグをフル回転させたグッドフェローズごっこの息のはずませ方など見るにつけ、その正統な権利と傑出した能力を有する81歳の老人が紡ぐノスタルジーに逆らえるものなどいないことを認めざるをえないのである。ただそういった前半のなげやりもあってボビーとヴォニーのロマンスは紋切りに留まり、せっかくしつらえたヴェロニカ(ブレイク・ライブリー)のフラッパー的なフリー&イージーがただの当て馬にとどまったのが何とももったいなく思えてしまう。それに対し裏通りの唯物論者たるボビーの叔父ベン(コリー・ストール)の思いがけない活躍がもたらした、彼をめぐるユダヤ教談義の冗談めかした自虐は監督の死生観のうっすらとした吐露なのかと思ってみれば、自身によるナレーションも含め最近になく私小説の体をなしていることに気づいたりもするし、最終的にはノスタルジーの余韻というよりも人生がさらにこんがらがる予感だけ残してさっと幕を閉じるあたり、人生は喜劇だよ、それを書いたのはサディスティックな喜劇作家だけどねとわざわざセリフに仕立てた食えなさが、どれだけ年齢や地位、名誉を重ねようと円味を帯びるはずなどなかったのである。死んだ後のことはきみらの神に訊くとして、死ぬまでは我らいろいろと生きねばならぬ、残念ながら。と嬉しそうに言っていて癪ではあるけれど、ヴィットリオ・ストラーロのライティング・ショーだけ観てもお釣りが来たからさほど問題ではない。
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2017年05月07日

フリー・ファイヤー/お一人様90分撃ち放題

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子供からお年寄りまで老若男女を問わず、引き金を引きさえすれば弾がとびでる銃という機械のまるで取りつく島のない平等性にあらためて思いを馳せたのと同時に、英語では「キチガイに刃物」をどんな風に言うのだろうと思って調べて時に知った ”like giving a kid a loaded gun” という言い回しなど思い出したりもしたわけで、実際このガンファイトの口火を切るのはガキの喧嘩なのである。この映画の間の抜けたおかしみは銃の持つ平等性が公平性を無効化していくところにあって、それは例えば、誰よりもスマートなはずのアーミー・ハマー(以下役者名ママ)がその資質の公平な反映によって果たして最後まで生き残れるかどうかということであり、結論として言ってしまえば、その先にあったのは無効化により進退窮まって芋虫のように這いずっては垂れ流される憎まれ口やうめき声が呪う、ただひたすらの泥仕合だったのである。1978年当時既に活動が衰退していた元ブラックパンサーのバボー・シーセイと活動のただ中にあったIRAのキリアン・マーフィー両者の欲にまみれた策略と仲間を想う行動の対比、ノンシャランのはずのアーミー・ハマーの軽やかな屈託、フェミニズムの潜在的な闘士/闘志をうかがわせるブリー・ラーソン、南ア出身のアイデンティティをかざすシャールト・コプリーといった設定を匂わせつつも、それに因って立つ深彫りが特になされないこともあって、自分のケツは自分で拭けるはずの大人たちが地べたに這いずって興じる死の雪合戦へと落下していく高低差がどうも曖昧に思えたわけで、となれば元より地べたを這いずりまわるしかないサム・ライリーとジャック・レイナーが水を得た魚のように生き生きとはしゃぎまわるのもむべなるかなだし、そこには犬死にの虚しさが漂うこともなかったように思うのだ。そうやってゼロで割ってしまうようなフラットが果たして狙ったオフビートであったのか、『ハイ・ライズ』を失敗させていた腰の軽い脚色など想い出してみるまでもなく、おそらくワタシはこの夫婦(監督&脚本家)の、曖昧なくせにこれみよがしな露悪と偽悪のひけらかしが性に合わないのだろう。とはいえ、どこかでエスタブリッシュ・ショットくらいは入れておくべきだったよね?というケチは好みの問題ではないと思うのだけれど。かつてカレン・ブラックがそうであったように、何だかわからないけれどやたら美女扱いされるブリー・ラーソンについては、正しく70年代のヒロインであったのは間違いないにしろである。
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2017年05月04日

ろくでなし/宇田川町で逢いましょう

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あんたもあたしも最低なんだよ!と優子(遠藤祐美)が啖呵を切ったように、最低とかクズとか、ろくでなしとか、自薦他薦を問わないそれらの者のブラウン運動を渋谷の街にとらえる試みに、バディ・ムーヴィーあるいははきだめのロマンスといった常套句をあてにすると少しばかり肩透かしをくらう気がする。クラブで大暴れして事務所に連れ込まれた一真(大西信満)と、落とし前をつけろと恫喝する遠山(大和田獏)、それを遠巻きに見守るひろし(渋川清彦)の間に何があったのかは一切語られないまま、直後のカットで一真は遠山の下で働いているわけで、常套であれば一真の中のクズを面白がったひろしが、オレが責任持って面倒見るんであずからせてもらえますかと遠山に切り出したりするところなのだけれど、そこはそれ、クズのとる行動などそうあっさり堅気に理解されてたまるかという突っぱりでもあったのか。そうやって含んだり匂わせたりと言った余白を削ぎ落とすというか描かないこともあって感情が連続しないこともあり、どちらかと言えばマッチポンプ的に収束してしまうシーンが多いのだけれど、それは見方を変えれば人並みであることに焦がれたクズが見よう見まねで愛の真似ごとを演じてみせたようにも映るわけで、一切の憐憫をあてにしない自己完結はそれゆえ不穏すら醸し始め、この映画の熱くも冷めてもいない平熱の生ぬるさは何なのかと言えば、だらだらと流れ出る血の温度であることに気づいたりもするのである。本人たちはいたって大真面目ながら、一真と優子の目をつむったまま黙って殴り合うようなやり取りにはドキドキではなくビクビクしてしまう。「金ならまだある」と言った瞬間、誰もが思い描く展開をあさっての彼方に投げ出してみせたシナリオにはピクピクしたけども。この映画で一番怖ろしいのは遠山でも一真でもひろしでもなく、優子の“知らず呼んでしまう”質であって、いささかのホラーを漂わせるラストはその証左に思える。暗渠の街としての渋谷映画。
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2017年05月01日

バーニング・オーシャン/我らをジョン・マルコヴィッチから救い給え

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無骨で無愛想で取りつく島のない実録風味なのかと思っていたら、マイク(マーク・ウォールバーグ)とフェリシア(ケイト・ハドソン)のいかにもな夫婦漫才で幕を明けていささか拍子抜けするものの、夫婦の賢い娘シドニーによる缶コーラを使ったちょっとしたお遊びがそのままこの大惨事のミニチュアとしてワタシたちを導入していくことになるわけで、『ハドソン川の奇跡』とは異なりこれが盛大な負け戦であることを観客の頭から消し去りつつ、しかしカタストロフィに向かってひたひたと歩んでいくマシュー・マイケル・カーナハンの脚本が揺るがぬベースラインとして腹に響く中、完全にメロディを捨て去ったピーター・バーグはそこに重厚でソリッドなリフを不協和音が共鳴するよう丹念に重ねていって、それに誰もが耐えきれなくなった瞬間すべてが中心から爆発するのである。感情の振り分けとしてはBP社のヴィドリン(ジョン・マルコヴィッチ)が諸悪の根源とされる以外、マイクにしたところで殊更ヒーローとして描かれるわけでもなく、それはジミー(カート・ラッセル)にしたところで同様なのだけれど、ではピーター・バーグは何を導火線にして観客に火を点けたのかと言えば、それは善行としての労働が謳う人間の矜持であったように思うのである。一見したところちゃらんぽらんに映るバルブ要員たちがその異常に際し誰一人持ち場から逃げ出すことなく捨て身でそれに対処する姿や、全身にガラスの破片が刺さったまま最後まで指揮を取り続けるジミー、立場や権限を超えて自分の為すべきことを為すアンドレア(ジーナ・ロドリゲス)といった人々がなぜそれを果たすのかと言えば、それをするために自分はここにいるという使命感によっているのだろうし、最後に生き残った者たち全員がひざまずいて唱える主の祈りはこれが労働倫理の崇高を焼き付ける物語であったことを告げているようにも思うのである。しかしそれはある特定の宗教性というよりは、彼や彼女が日々相手にする大自然への尊敬と畏怖の念がもたらす自然崇拝にも近い気がするわけで、したがってヴィドリンが持ち込んだ経済論理はそれを犯す災厄としてただただ忌避的に描かれることになる。そして思うのは、やはりこの映画はあの日あそこから帰ってこなかった11人とその家族へのレクイエムでもあるということで、あの場面でジミーがヴィドリンに怒りを爆発させることをしないのは、それが事実に即していることは当然として、この映画が一貫して保ち続ける気高さをそうした負の感情で汚すつもりがなかったからでもあるのだろう。『ローン・サバイバー』に比べた時の感情のタイトな抑え込みというか感傷の我慢強さは、多分に脚本の強靱さが奏功しているのだろうけれど、ここを抜けた後でピーター・バーグが何を手に入れて何を捨てたのかを知る意味でも、三度マーク・ウォールバーグと組んだ実録ドラマ『パトリオット・デイ』を観ないわけにはいかなくなってきたのである。それはもちろん、今のアメリカでこのラインをひた走ることの若干の危うさも含めてと言うことだけれども。
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2017年04月28日

スウィート17モンスター/いつかどこかで誰かのために

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グランジ(とっくに死語か)以降のアップデート版ジョン・ヒューズ・ムーヴィーなどと書こうものなら速攻でネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)の餌食になるに違いなく、ほんとうは誰が自分を一番愛してくれているのかを知ることで幸せを手に入れるジョン・ヒューズのヒロインなど、誰よりも自分を愛しているのはこの自分のはずなのにその自分を私は嫌い憎むことしかできないのだ、と“ナイフみたいにとがっては触るものみな傷つけた”ギザギザなネイディーンにしてみれば、不戦勝のイカサマ野郎と吐き捨ててみせるにちがいないのだ。したがってここにはことさらネイディーンを不幸に陥れるスクールカーストも無関心で無理解な大人たちも存在せず、彼女を取り巻く人々はそれぞれが自身に帆を張っては人生に漕ぎ出すのに忙しいわけで、ジョン・ヒューズ・ムーヴィーであれば金持ちのボンボンであってもおかしくないニック(アレクサンダー・カルヴァート)でさえ、ペットショップでバイトをして買ったのだろう中古車を走らせているのである。となれば彼女がすべきは外敵のデストロイではなく内なるモンスターを自身の手で葬ることに他ならないのだけれど、それがなかなか果たせない苛立ちに加え、ではモンスターを殺した後の自分にいったい何が残るのかという不安の背中あわせまでを求めた監督の残酷なファニーと、真夜中に爪あとを伝う涙でそれに応えたヘイリー・スタインフェルドの不機嫌な馬鹿力が、この映画を愛すべき青春の一人相撲としてあまたのレッテルから自由に放ったように思うのである。クリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)に放ったらかしにされたパーティで、アヤシイのはダメ、アヤシイのはダメ、でもなんでこうわたしは不格好になっちゃうんだろ、リラックスよ、リラックスして楽しめばいいのよ、さあ、行って誰かに話しかけるのよ、とバスルームで自身を叱咤激励するもあっという間に撃沈され、意気消沈したところで出くわした見知らぬ女の子との映画談義で盛り返すかと思いきや、相手が映画(『ツインズ』)を引き合いに出したのは華やかでイケてる兄ダリアン(ブレイク・ジェナー)と自分を似ても似つかない兄妹としてネタにするためだったことに気づいて再度撃沈されるわけで、このあたりの笑いながら刺してくるくだりを含め、監督&脚本のケリー・フレモン・クレイグがみせる、キャラクターに正当な痛みを与えることでヴィヴィッドな震えを生み出す話法にはリチャード・リンクレイターの好ましくて的確な影響がうかがえて、『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』に引き続きブレイク・ジェナーのマチズモフリーな魅力を重要な彩りとしたあたりなどむしろそれを嗅ぎ取ってくれることを望んでいるようにも思えるし、ワタシがリンクレイターの名前を出したのもケリー・フレモン・クレイグに対する賞賛の現れであることは言うまでもない。ネイディーンのメンターおよびライ麦畑のキャッチャーとして、いつものように小さく口をすぼめながら、静かに急かさず彼女を見守るウディ・ハレルソンの穏やかなリベラルがアメリカ映画の良心としてことさら沁みてくるように思うのは、気づかぬ内にワタシも昨今の荒んだ気分に染まってしまっているからなのだろうなと少しだけ錆が落ちた気もしたし、ヘイリー・スタインフェルドの麗しきキャリアアップと、ケリー・フレモン・クレイグという監督の祝福すべきデビューを確認するためにも「“あの頃”のリアルなイタさを描く愛すべき青春こじらせ映画!(オフィシャルサイトより)」などと言った紋切り型で高をくくって見逃してしまうのは少しばかりもったいないと思ってる。
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2017年04月25日

午後8時の訪問者/ドアをノックするのは私だ

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※展開に触れています

たった一度の、しかし取り返しのつかないノーを償うために、もうこれからは私からノーと言うことはしないのだと誓ったジェニー(アデル・エネル)は、それが真夜中に往診を求める電話であろうと、往診先ですすめられるコーヒーであろうと手作りのワッフルであろうとサンドイッチであろうと詰め合わせた菓子であろうと、差し出された手にはすべてイエスと言って自身の手を重ねていく。しかしそこに偽善の香りがまったくしないのは、NOと言わせた正体を自身に巣食うエゴと見定めることで、すべての行動と思考からエゴの落とす影を徹底的に取り除きそれを殺そうと企てているからに他ならず、失われた命が取り戻せないかわりに私は死者の尊厳を取り戻さねばならないのだと、死者の歩んだ道をたずねてまわるジェニーの、陽のあたる感情を押し殺した目つきと口元は次第にハードボイルドの寄る辺なさを語り出しさえするのである。かつて研修医ジュリアン(オリヴィエ・ボノー)を「患者の痛みに影響されすぎる」と非難した彼女のテクニカルな合理性は優秀な医師として兼ね備えるべき資質なのだろうし、実際彼女はその能力にふさわしい職場を一度は手にするのだけれど、その合理性で割り切れない究極としての死を本来それに立ち向かうはずの自らが招いてしまったことで、医師とは、少なくとも自分が考える医師とは、合理性の精度を追求することではなくその割り切れなさを共有し共感することを最善とせねばならないのだと、余白の内省ではなく前線をたった一人行動することで理解していく姿の透明な孤絶はやはりハードボイルドの情動そのものであったように思うのだ。だからこそ、いまの私はどうなのだろうか、少しは変わったのだろうかとおぼつかなく切り出す「抱きしめてもいい?」という問いかけと、おずおずと手を回しぎゅっと抱きしめるそのハグによって解放された愛情と共感こそが、割り切れなさの欠片がこれ以上飛び散ってしまわないよう繋ぎとめるために彼女が見つけた、唯一確かな手ざわりとしての答えだったのだろうし、あくまで彼女のアクション(行動)によって紡いできた物語の逃げも隠れもしない着地としても完全だったのではなかろうか。水辺で死んだ少女や閉ざされたドアが現実のどんな側面を意味していたかは承知した上で、観客としてのワタシはただただ幸福であったのだ。それにしても、終盤のあるシーンにおけるボタンをめぐる一連の底知れなさである。緊張と緩和の間にあってそのすべてとの関わりを断った瞬間とでも言うか、それはジェニファーが世界の全てに対してある種暴力的とも言えるフラットを獲得したことの証しなのか、その後で起きることに対するジェニファーのカウンターブロウを思ってみれば、この時のジェニファーには既に世界が止まって見えたのではなかろうかとすら思ってしまうのである。ここはちょっとばかりとんでもないことになった瞬間で、何かの禁忌にふれた感すらあった。
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2017年04月19日

T2 トレインスポッティング/未来を裏切れ

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インサートされるクラッシュは「ハマースミス宮殿の白人」だったけれど、この映画の夕暮れのような泣き笑いと突っぱりを慰めようとワタシの頭の中で流れていたのは「レベル・ワルツ」だったのである。俺たちは敗れてしまったけれど、かつて反乱のワルツだった調べはまだ聴こえている、いまはそれに合わせて踊っていようか、俺たちは敗れてしまったけれど、とジョー・ストラマーが切々と諭すように反逆の終焉を歌っていて、センチメンタルもメランコリーもすべて受け入れては家に帰れと解放してくれる。ではいったい家に帰った後で何をすればいいのか。レントンが躊躇も呵責もなく裏切って捨てたベグビーは彼なりの通過儀礼を今さらにして果たしてはみせたし、レントンにとってつねに庇護すべき対象だったスパッドは誰の助けも借りずに自分の足で立つ世界を見つけている。サイモンはとにもかくにもひとりきりでの敗け方と転がり方を知る男である。T1がレントンのナレーションで推移する物語であったことを思い出してみた時、ではその語り部はいったい何をどう敗けたのか。生家に戻ったレントンが例の壁紙もそのままの「子供部屋」に荷物を解き、40を超えて親と同居する日々に果たして沈むのか浮かぶのか、例のレコードの例の曲に針を落としてはやがて来るプライヴェートヘルに身震いするかのようにのけぞるラストの、まだお前は正式に敗けてすらいないよなという誰かの断罪は、例の曲がレントンをどこに連れ戻すのかを想い出してみた時に、果たしてそれはお前の20年をチャラにしてやってもいいぜ、なのかそれとも、お前の20年は無意味で空っぽでドブに捨てられたようなもんだぜ、という通告のいずれであったのか、どちらにしろ冷たい汗が背中を伝い続ける無限ループの寄る辺なさにT1の快哉は見当たらなかったのである。オレみたいな人間は目の前の人生を素手でつかみ取るしかないんだよ!とベグビーが爆発させる屈託はそのまま他の3人の胸の内でもあったはずで、したがってベグビーの病的とも言える怒りの大部分は自分がつかみとるはずであったそれをレントンに先回りされた悔しさが培養したには違いないのだけれど、スパッドが書いた物語の「ベグビーに良心が痛むことはなかった」のくだりをじっと読むベグビーのカットを添えることによって、ダニー・ボイルはほんの一瞬ベグビーの肩を持ったように思うのだ。だからこそレントン首吊りのシーンに至るむき出しの怒鳴り合いと、その後でレントンに引導を渡すべく抱きしめるベグビーの目つきがひとときソシオパスから自由になっていたように映るのではなかろうか。そんな色づけに思わず気を取られてしまうくらいダニー・ボイルはこの映画を醒めた責任と代償で律していて、しかしそれは道徳とか倫理とか言うよりは、かつてサイコロの目にスリルを見ては一喜一憂していた日々も、人生に流れる時間の中でその出目は次第に均質へと収束してしまうこの世界のことわりに対してであって、T1を様々にフラッシュバックさせてはそれを現在に対照させつつバランスシートをつきつけることで、観客にとっての20年までも総括するよう促していたようにすら思うのだ。レントンがヴェロニカ相手にまくしたてる長口上はそのインスタントな総括でもあるのだけれど、その先に待ち構えているのは、さて、お前は残り少ない未来に何を選ぶ?という逃れられない問いかけなのである。そして、いまだ答えを持たないレントンと他の3人との決定的な違いが彼をあの「子供部屋」に閉じ込めてしまうのではなかろうか。気がつけばワタシも流れ弾をくらっていた。


選べ、ブランド物の下着を。むなしくも愛の復活を願って。
バッグを選べ。ハイヒールを選べ。
カシミヤを選んで、ニセの幸せを感じろ。
過労死の女が作ったスマホを選び、
劣悪な工場で作られた上着に突っ込め。
フェイスブックやツイッター、インスタグラムを選び、
赤の他人に胆汁を吐き散らせ。
プロフ更新を選び、“誰か見て”と、
朝メシの中身を世界中に教えろ。
昔の恋人を検索し、自分の方が若いと信じ込め。
初オナニーから死まで、全部投稿しろ。
人の交流は、今や単なるデータ。
世界のニュースより、セレブの整形情報。
異論を排斥。
レイプを嘲笑。リベンジポルノ。
絶えぬ女性蔑視。
9.11はデマ。事実ならユダヤ人のせい。
非正規雇用と長時間通勤。
労働条件は悪化の一途。
子供を産んで後悔しろ。
あげくの果て、誰かの部屋で精製された、
粗悪なヤクで苦痛を紛らわせろ。
約束を果たさず、人生を後悔しろ。
過ちから学ぶな。
過去の繰り返しをただ眺め、
手にしたもので妥協しろ。
願ったものは高望み。不遇でも虚勢を張れ。
失意を選べ。愛する者を失え。
彼らと共に自分の心も死ぬ。
ある日気づくと、
少しずつ死んでた心は空っぽの抜け殻になってる。
未来を選べ。
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2017年04月17日

グレートウォール/プリティ・イン・人力パンク

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オフィシャルサイト

チャン・イーモウ率いるカラー・アーミーが天よりつかわされたお仕置きモンスター軍団と万里の長城を舞台に激突する、血湧き肉躍り笑いが漏れるレジェンダリー印の予期せぬ怪作。すべての局面において合理性よりはケレンのわが物顔が受け流され、通りすがりの名義貸しウィレム・デフォーは言うまでもなく、おそらくはチャン・イーモウまでが金を湯水のように使う愉悦にどこかしら正気を失ってしまっているように思えて、どこまでも行き先知らずの意気軒昂なのである。いったいそれが何の役に立つのか甚だ疑問ながらすべては燃えるか燃えないかの二択で決定され、見目麗しき長槍バンジージャンプ隊や戦慄のジョギリ・ショック装置といった、どれだけ言葉を尽くしてもその脱力と滾りのシェイクを語ることは不可能なアクションがつるべ打ちされることになるのである。唯一の良心マット・デーモンはと言えば、やるだけのことはやってやろうという決意の下、絶叫マシーンの乗客のような陶酔と解放に身を委ねた挙げ句アンディ・ラウとのツーショットですら冗談にしか映らない愛と幻想のエクスプロイテーションを実践し、そこに『緯度0大作戦』におけるジョゼフ・コットンの憂鬱は欠片もなかったように思うのである。言わずと知れた世界の七不思議である世界遺産を国策としてアピールする絶好の機会でありながら、いくら何でもアホすぎると当局が判断したのかどうか万里の長城での撮影がまったく許されなかったというエピソードも大変に好ましく、全力で間違った場合それは正解たりえるという映画の不思議をあらためて痛感したのである。これをチャン・イーモウの歴史スペクタクルだと思って観に行った客はバカにするなと怒るだろうし怒る気持ちもわからないではないけれど、それはかつての角川映画に対してマジメにやれと叫ぶ野暮と同じであることだけは理解していただきたいと思う。20年以上前のノスタルジーに汲々とした退行SFよりは、“目の前の人生を素手でつかむ(byフランシス・ベグビー)”狂騒にワタシは乗っかっていきたい。仕事人トニー・ギルロイの名すら見えていた。
posted by orr_dg at 16:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする