2019年03月20日

スパイダーマン:スパイダーバース/ある日、とっても大事でおかしなことがおきた

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2020年目前の最新型サイケデリアは、エアジョーダン1が解き放った重力とスプレー缶の蛍光色が織りなす解放宣言の打ち上げ花火にも思え、少しだけ大人にならなければならないぼくたちのお遊びはここまでにしようと言ったサム・ライミの目配せに、大人にならなければならないのは大人の方だよね、ぼくたちはぼくたちのやり方でやれるけど、と走り出し飛び出していく自由の証明に不意打ちを食らって、覚めてたつもりの目がさらに醒めた気がした。少年マガジンとか少年ジャンプを貪るように読んでいたころの画と吹きだしを映像として呑み込みんでは高速で斜め読みしつつページをめくっていく恍惚と、ブラウン管ににじむ三原色のゆらぎのような、躁病的にモダンでありながらどこか懐かしさすら感じさせる手ざわりはそれを漏れなく伝える言葉が見当たらないにおいて、何を見ても何かに見える昨今ではめったにお目にかかれないブレイクスルーであったと言うしかないのだろう。言うしかないのだろう、などど書くとなんだか悔し紛れに聞こえるかもしれないけれどそれはまったくの逆であって、まだこんな風に発見される新天地があることやそれに立ち会えたことへの幸運と光栄の響きと捉えてもらえれば幸いといったところである。劇中でキーワードとなるディケンズの「大いなる遺産」がやはり墓場から始まる物語であったことを思い出してみると、マイルス・モラレス(シャメイク・ムーア)が墓場で助けた(わけではないけれど)ピーター・B・パーカー(ジェイク・ジョンソン)との関係や、そのつながりにおいてマイルスが何者かになることに手を貸してくれた仲間を元いた場所に送り返すための奮闘、自分の唯一のバックアップだと思っていたアーロンおじさん(マハーシャラ・アリ)の予期せぬ正体、といったスパイダーマン版「大いなる遺産」を経たのち、ドア越しに語りかける父(ブライアン・タイリー・ヘンリー)の言葉によって、グラフィティで描いたNo ExpectationsからGreat Expectationsへ、Expectationのダブルミーニングが「大きすぎる期待」から「大いなる遺産」=父から子への無償の愛に書き換えられることで、マイルスはそれに応えるべき自分をついに見出すこととなり、それこそは「困っている人がいたら迷わず手を差し伸べるのがヒーローだ」というゆるぎのない命題であることに他ならないし、それを今までに知ったことのない現時点で最良かつ最上のやり方で伝えることをしたこの作品をどうすればすべての人々の目に逆ルドヴィコ療法のごとく焼き付けることができるのか、それが叶わないことがストレスになりつつあるのが悩ましい。
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2019年03月17日

ウトヤ島、7月22日/永遠まで72分

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殺し方や殺され方は描ける。なぜ殺されたかについて言えば形而下としては描けるけれど、なぜ殺したかについては現場の再現のうちに描くことは困難に近い。それを描こうとするには『エレファント』のように犠牲者側を背景とするしかないし、それとて結局は形而上を装った形而下的な処理に過ぎない。ヴィルヌーヴ『静かなる叫び』は両側から攻めようとした好例ではあるけれど、事件の細密な再現がポルノ化しないよう着せた服がややスタイリッシュに過ぎて余白ですらがコントロールされた気もしてしまう。犯行再現ものの根底にあるのは本音で言えばスリルとサスペンスの間借りであって、断罪や鎮魂を掲げるのがある種のアリバイのようなものだとすれば、無い袖を振って虻蜂取らずになるよりは被害者のメランコリーを叩き鍛えることでレクイエムの強度を増す手法を確立したのがピーター・バーグで、実録ものであるにも関わらず事実を再解釈/再構築する狂言回しとして架空のキャラクターすらを動き回らせる潔さ/あざとさは、俺が鎮めようとしているのは犠牲者やその家族はもちろんのことすべてのアメリカ国民なのだという確信をてらいなくぶち上げていて、好みの問題はともかくこのジャンルでの豪腕に現状で並ぶ者がいないのは確かだろう。してみると、カヤ(アンドレア・ベルンツェン)という架空のキャラクターをしつらえて自己犠牲と混乱と絶望をつづれ織りにすることで、あの日あの島で起きた悲劇の犠牲者とその家族や友人たちを第一義に鎮めてみせようとする手法にピーター・バーグ的なケレンを見たのは確かであるし、マグナス(アレクサンデル・ホルメン)がカヤとかわす「家に帰れたらケバブ食べに行こうぜ、うまい店知ってるんだ、約束な」あたりのいかにもな死亡フラグの脚色に張りつめた時間が緩んだこともあり、その後に訪れる死が不条理を手放してしまっていた気もしたのである。悲劇をもたらす側については、ほとんど発砲音のみの存在と化してただ一度だけそのシルエットがロングショットで映されるにとどまり、ピーター・バーグの上をいくさらに徹底的な記号化が推し進められている。カヤが森の中で出会った瀕死の少女の顔色が次第に土気色へと変わっていくあたりはデジタル処理の恩恵なのだろうけれど、そういったポスト・プロダクションの気配によって72分間ワンカットという現場処理の肉体性がもたらす熱気や血気が冷めてしまう気もしたし、実際のサプライズショットであったらしい一匹の蚊によるポエジーですらもどこかしら作り物めいてみえてしまう自分を窮屈に感じてしまうのも確かなのだった。予期せぬ撮れ高への昂奮は理解するけれどあのズームは余計だったと思う。ちなみに7月22日はワタシの誕生日でもある。
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2019年03月14日

ROMA/キュアロンのローマ

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犬の糞を洗い流す水に映る飛行機が、あれに乗る自分を思ってみる術すらないクレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)そのものであったとすれば、海辺の記憶が沁み込んだ洗濯物を抱えて屋上へと向った彼女がラストで見上げるであろう空を幾度となく横切っていく飛行機は、ここではないどこかへと気持ちをめぐらすことのできる今のクレオの広がりにも思えたのだ。自分がどこから来てどこへ行く存在なのか、生と死の間にいる自分を意識し理解する物語へメメント・モリがクレオを連れ出していくのは、ペペ(マルコ・グラフ)の遊びにつきあって屋上で死んだふりをした始まりに見てとれて、新生児室のクレオを襲う地震、山火事や白人たちの銃といった脅威の気配が彼女につかず離れずしつつ、通りで巻き起こった死が家具店の中になだれこんできた瞬間、ついにそれに捉えられたクレオは暴力的な喪失を余儀なくされることとなる。しかし、冒頭で流れ続ける水から始まり、身を清めるような朝のシャワー、フェルミン(ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ)を追ってバスを下りた地の水たまり、山火事にぶちまけられる水、白人たちが射撃に興じる時の水辺、砕けたカップに残る酒、破水してクレオの足を伝う羊水、といったように絶えずクレオから離れない水のイメージが最後にはどこでいかに収束するのか、それは自身を翻弄する運命に水のように流されるばかりであったクレオが、生と死の淵に砕ける破壊的な波に抗うことで手にする再生の瞬間であり喪失への贖罪へと導く流れであったように思うのだ。海からの帰り途、車中でみせるクレオの表情に浮かぶのは自身の人生に対する責任を識ったものの軽やかな不安と緊張の色にも見えて、既に彼女が新しい世界へと踏み出したことを密やかに宣言してみせている。してみれば、家の外のことしか頭にない男たちに見切りをつけた祖母、実母、乳母の3人の女性たちに守られる子どもたちと家の記憶を紡ぐ物語として読み込むことを求められはするものの、年齢も誕生日も知られることのない乳母クレオと“雇用主”ソフィア(マリーナ・デ・タビラ)を串刺しにすることで共闘の証とするには、その捧げる犠牲の重さも踏み出す一歩の距離も異なるように思うわけで(『グリーンブック』のことが頭に浮かぶ)、キュアロンはそのアンバランスを気がかりとしたからこそ、終始佇むばかりであったカメラは最後の最後でクレオだけを追って空を見上げることでいくばくかの祝福としたようにも思うのだ。人間の営為の息づかいをハイパーリアリズムの人工的な艶めかしさでいろどったモノクロームはいつしか聖性すら帯びて、クレオの所作の一つ一つが儀式の遂行のように映り始める。ならばその祭壇とも言えるあの家の開放と閉塞の絶妙はまるで一人の俳優のように脈打っていたし、これが少年キュアロンの記憶の物語であるならば、クレオに寄り添うような位置で静かに漂い続けるカメラはまさにその小さな神様の視点にほかならないということになるのだろう。まるで洗礼のようにクレオを試し問いただすあの波の、禍々しいまでに砕け踊る水の粒と轟音はほとんど催眠的ですらあるのだけれど、これを映画館のスクリーンとサウンドシステムで体験できないとなると果たしてワタシは何を持ち帰れたのか、何よりそれはこの「映画」にとって不幸である気がしてならないのだ。常により良い製作のシステムを追求する姿勢は言わずもがなにしろ、最終的にはスクリーンで出会うのが本意であり総意であって欲しいと思う。できることなら、確認ではなく体験をワタシは望みたい。
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2019年03月13日

運び屋/罪を憎んで俺を憎まず

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朝鮮戦争の復員兵が一日だけ咲く花にいかにして取り憑かれていったのか、などといったアール・ストーン(クリント・イーストウッド)のプロファイルも、さらさらと流れ続ける物語のたたえる水面の透明と静謐にあってはそれを乱す澱みでしかないのだろうし、『ハドソン川の奇跡』以降さらによどみの消えた語り口の最初から最後まで一糸乱れることのない歩幅と息継ぎもあって、まるで一筆書きのような116分にも思えたのである。ではそれがもたらすのが恬淡と枯れた味わいであったかというとそうたやすいものであるはずもなく、すべての登場人物が否応なくアールの後ろをそぞろ歩きしてついて回る羽目になることもあり、ブラッドリー・クーパー、マイケル・ペーニャ、ローレンス・フィッシュバーン、ダイアン・ウィースト、アンディ・ガルシアといったそれなりに手練な面々のパートですらが、ハーモニーというよりはユニゾンで奏でられるせいなのかすべてが均等に無効化されていたかのようで、『15時17分、パリ行き』を経たことで役者と演技という命題について何かおそろしい極北にクリント・イーストウッドは到達してしまった気がしないでもなく、それもこれもすべては、パンクして道端で立ち往生する黒人の家族に気さくに手を貸しつつ彼らを軽やかに二グロと呼び、メキシコ人のお目付け役をタコス野郎と呼んで白人御用達の店に連れ込みつつここのポークサンドは中西部一だから食ってみろとふるまうアールの両義性をすりつぶして全体性へと均すための参照物でしかないという割り切りの要請であり、おかげでアール以外のほとんど誰もが木偶に映らざるを得ないおだやかに異様な演出となっている。せいぜいがダイナーでの捜査官(ブラッドリー・クーパー)との絡みが唯一立体的な交錯となったくらいで、黙ってにやにやしていた以外のローレンス・フィッシュバーンをワタシは覚えていないし、妻メアリー(ダイアン・ウィースト)との最期までドライな熱量に終止するシークエンスも、アールのニヒリズム寸前のノンシャランへと呑み込まれていたように思うのだ。それらすべてはアールという男の人生の道具立てでしかないことは、ラストで舞台の左袖へと退場していくアールをとらえ続けるカメラの長回しが物語っていたし、携帯電話やインターネットに毒づきゴージャスな娼婦を両脇にはべらせ、誰にも使われずにおまえ自身の人生を楽しめと悪党に説教し、すべての不義理を笑って許してもらうアールの漂白する軽みこそが、いつしかGo ahead, Make my dayの薄笑いにつながっていく気がしたのである。そういえば、北野武もメソッドを嫌う早撮りの人で埒外の俳優を好んで起用したことや、台詞と台詞の間で一瞬だけ間をあけてその場で足踏みをするよう演出したバストアップのショットが、フレーム内では見事に感情のゆらぎや溜めとなって映し出されていたという市川崑のエピソードなども思い出してみれば、演技は現象でしかないという透徹した認識の極北がここにある気がしたのであった。
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2019年03月10日

ノーザン・ソウル/その気になれば死ぬこともできた

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デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズであるとかヴィック・ゴダードであるとかオレンジ・ジュースであるとか、いちいちバンド名を挙げていたらきりがないにしろ、イギリスでパンクの蹴破ったドアから現れた若きミュージシャンたちが様々なグラデーションでまとっていた「黒さ」がその音楽に一面的ではない陰影を与えていたのは言うまでもなく、そのいくつか前の世代のブルースベースのロックとは明らかに異なるリズムの熱気とメロディへの憧憬はいかなるDNAによるものなのか、海のこちらで音源と二次情報にすがるしかない身には知るよしもなかったのだけれど、70年代のイギリスで彼や彼女たち若者が鈍色に倦んだ毎日へのキックとして摂取していたのがその「黒さ」に他ならなかったことをこの映画は一発回答で教えてくれたように思うのだ。ザ・ジャムでデビューしてイギリスを席巻したポール・ウェラーが手ぐすね引いた音楽メディアに貼りつけられた懐古主義者のレッテルに「いったい20の若者がどうして懐古主義者になんかなれるんだよ」と唾をとばしたことなども思い出してみても、後にカーティス・メイフィールドをカヴァーしつつザ・スタイル・カウンシルへと舵を切るそのスタイルの源泉もようやく瞭然になった気がしたのである。そんな風な個人的なミッシング・リンクとしての感銘はともかく、イギリスのユース・カルチャーの通奏低音とも言える、怒れる若者たち(Angry Young Men)の知られざるステイトメントをその土曜の夜と日曜の朝として描いたこの映画は、すべてがあるのに何もない泣きながら笑って踊るダンスフロアの刹那を暗闇の閃光のように燃やしつつ、しかし新たな土曜の夜を予感させて終わるラストが、その後のセカンド・サマー・オブ・ラブからマッドチェスターへと連なるノスタルジーではない血流の再確認を促したようにも思ったし、何より劇中でそれを先導するジョン(エリオット・ジェームズ・ラングリッジ)とマット(ジョシュ・ホワイトハウス)が身体ひとつでのたうちまわる青春の彷徨と失敗が夜明け前の匂うような漆黒を引きずり出して、なぜ自分はイギリスに生まれなかったのかという我が10代の呪詛が亡霊のように甦ったりもしたのだ。そしてここイギリスでも、持たざる者の守護神ブルース・リーがそのアイディアとスタイルを、君たちの好きなように使えとどんづまりのボンクラどもに貸し与えていたのであった。
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2019年03月05日

グリーンブック/世界はおれより複雑っぽい

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アーミッシュをおちょくり肥満女性をルッキズムで切り刻み、シャム双生児をシャム双生児ゆえに笑い飛ばしたりと、露悪な当たり屋として名をはせてきたファレリー兄弟がそれでもキャリアを永らえてきたのは、おちょくる側にもなんらかの欠落や欠損を持たせる被虐と自虐のバランス(シャム双生児は一人二役でそれをこなしさえする)によって水平かやや低目からの視点でわけへだてなくいじり倒してきたからで、今作は兄弟名義ではなくピーター・ファレリーのソロ作ではあるけれど、黒人差別という厄介で強大な相手を前にしても、黒人であるドクター・ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)をストリートに引きずりだして肩を組む役目を担う白人トニー・“リップ”・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)を白人は白人でもWASPではなくイタリア系移民とする巧妙かつ絶妙なずらしによって“ニガー”と“イタ公”のバディものという自家薬籠中の物に落とし込む手口は相変わらず手慣れたものだなあと思ったのだ。ただ、トニーにとってのゴールが「(ドンを)ニガーとか言うな」と親類をはねつけるシーンであった一方で、自身の人間性を奪い取った世界への屈託から人間性なるものを拒絶したドンがもう一度世界を信じてみようと一歩を踏み出すゴールに、トニーのそれに比べてかなりのドラスティックを強いたにしては、これがあくまでトニーの物語であり続けた点でその収支のバランスの悪さに少しばかりもやもやしたのも確かだったのだ。とはいえあれだけ際どいところをすりぬけてきた監督のコントロールを牧歌的な額面通りに受け取っていいものなのかどうか、さらに額面通りに受け取るならもう移民と棄民だけで手をつないで自称白い人たちはほったらかしにしとけば?ともとってしまえるわけで、大量のフライドチキンと茹でトウモロコシが晩餐会のテーブルに運び込まれるシーンなど、いささか記号的に過ぎるとはいえ自称白い人たちの下等な生き物としての扱いは、そもそもドンの南部ツアーそれ自体がミンストレルショーのグロテスクな再現であることを思い出してみれば、そこに集う着飾った自称白い人たちにまとめて唾を吐く魂胆にも透けて見えたのは確かにしろ、そうやって自明なことを再燃させたとしてそれが現在にどう接続されるのか、アメリカがもう少し若かった頃のやんちゃなノスタルジーとして消費されてしまうことはないのか、という殴られ続けてきた側からの異論や反論は至極当然なものにも思える。それでもこの題材を2018年に生き返らせたかったのであれば、やはりマハーシャラ・アリが主演男優賞にノミネートされる物語に再構築すべきだったのではなかろうか。はからずも『ROMA』の防波堤にされたことでステージの前面に押し出されてしまっただけで映画に罪はないのは言うまでもないのだけれど、罪はなくても映画が人質にされる時代なのは確かであって、そういう覚悟がない者にはこのステージに上がる資格がないことをスパイク・リーは怒っていたのだろうと思っている。大人気のあるスパイク・リーなどスパイク・リーではないとは言え、さすがにあれは大人気がなさ過ぎたけれども。
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2019年03月04日

THE GUILTY/ギルティ〜見えないおれを照らしてくれ

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予期せぬ叙述トリックによる奈落への反転によって、アスガー(ヤコブ・セーダーグレン)の枷が外れる。白と黒のあいだで灰色に塗れて清濁を併せのむことなど、たやすいどころかこれがおれの天職だとすら思ったこともある。ただ、ひとたびそこに足を踏み入れてみるとこの世界は想像が追いつかないくらい灰色で塗りつぶされていて、いったいどれが清くてどれが濁っているのか視界はほとんどゼロに近いままだし、白いところから灰色や黒いところに息をひそめて出かけて行っては窒息寸前で戻っていくことにもそのうち倦んでしまって、ならばもう帰ることなどやめてそこで灰色や黒い息の継ぎ方を覚えた方がよっぽど楽なことに気づいてしまう。それに気づくということは妻や友人たちのいる白いところでどんな風に息を継いでいたか忘れてしまうということだけれど、忘れたことが哀しいというよりは思い出すことが怖ろしくなっていくのはなぜなのか。それはその境目にあるものが居て、思い出そうとするたびに酷くつらい痛みを与えてくるからで、それをなだめてやるためにおれは狂ったような怒りを蓄えてはそいつに喰わせてやっている。すると痛くするのを一瞬やめてくれるのだ。ラシード(オマール・シャガウィー)が底なしに酔うのも、おそらくそうやってそれをなだめているにちがいない。だからイーベン(イェシカ・ディナウエ)が蛇のことを言い出した時には、ああ、あそこにいつもいておれを痛くするのは蛇だったのかと天啓にすら思えたし、明日は無理でもいつの日かノット・ギルティではないイノセンスを手に入れるには、もう誰もあの蛇に殺させてはならないことも分かったのだ、瞬時に。弾はあと一発だけある。今までこれくらい分が悪かったこともないはずだけれど、運が良ければ相討ちくらいにはなるだろう。そうすればラシードも解放してやれるにちがいない。だからおれは告白する。そして蛇を殺す。
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2019年03月01日

ビール・ストリートの恋人たち/生きのびるための私

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「心の準備はできている?」と正面から目を見つめてたずねるティッシュ(キキ・レイン)に「いつだってこの心が揺らぐことはない」とファニー(ステファン・ジェームズ)が答える恋人たちの会話がひそやかな悲壮感に締めつけられているのは、おそらくそれが収監されるファニーとそれを見送るティッシュに残された2人だけのひと時だったからで、かつてはファニーが問いかけてティッシュが答えたその同じ会話が反転するまでの物語がここからファニーの回想によって綴られていくこととなる。しかし、最愛の人であると同時にお腹の赤ん坊の父親であるファニーに無実の罪を着せた白人警官ベル(エド・スクライン)や、その非道にいきり立つも結局はファニーを救えない白人弁護士ヘイワード(フィン・ウィットロック)は極めて記号的に悪い白人と良い白人として描かれるにとどまり、彼らがティッシュの世界を彩る感情の一筋となることはないまま憎しみや怒りやあきらめといったスパイク・リー的な外部との構図については無頓着とすら言ってもよく、旧友ダニエル(ブライアン・タイリー・ヘンリー)との再会とまるでその後の呪いを示唆するかのようなファニーとの不吉な会話に耳をそばだて、ファニーを救う費用を捻出するため悪事に手を染め始めるティッシュの父ジョセフ(コールマン・ドミンゴ)とファニーの父フランク(マイケル・ビーチ)の姿を醒めた視線で語るティッシュと、世界の現実を渡り合うためにまずは自分自身がしなやかで強靭な現実であり続けねばならないことを娘たちに背中で告げる母シャロン(レジーナ・キング)こそがビール・ストリートの声(”If Beale Street Could Talk”)そのものであることをバリー・ジェンキンスはジェームス・ボールドウィンのコアとして抽出したのだろうし、そしてそれは、藤本和子氏が「塩を食う女たち」においてたどりついた“わたしたちがこの狂気(黒人の北アメリカにおける歴史的体験)を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う”という黒人女性作家の言葉と深く静かに共鳴したように感じたのだ。ヴィクトリア(エミリー・リオス)にアプローチを烈しく拒絶され「しくじった!」と自らを罵るシャロンの誤算は、彼女もまた自分たち黒人女性と同じサヴァイヴァーにちがいないと考えて切り込むように共闘を迫ったところにあるのだろう。黒人として追い詰められ、女性としてさらに追い詰められ、そこを生き抜くために孤独な闘いを続けなければならなかった北アメリカの黒人女性の孤絶が図らずも浮かび上がる、この映画で最も哀しみに満ちたシーンとなったようにワタシは思う。ぼくは家に帰る、そして大きなテーブルを作ってそこでみんなで食事をしよう、とガラスの向こうから思いつめた笑顔で語ったファニーの言葉が刑務所の面会室に据え付けられたテーブルで実現されるラストシーンは、冒頭で始まったティッシュの回想が現実に追いついた瞬間でもあるのだけれど、私たちはここから始めるしかないのだというあきらめでも怒りでもない自明の理とでもいえる現在地の静けさこそは、自分はこれまでもこれからもここから目に映る光景を撮ることしかするつもりはないのだという、バリー・ジェンキンスによるしめやかな闘争宣言だったのではなかろうか。そして、ファニーが彫刻に向かいつつくゆらす陶然とした紫煙にあらためて思うのは、煙草という空間と時間に感情がたゆたうツールを現代の映画が失ったその損失で、チャゼルも新作でクレア・フォイを鎧のような紫煙に包んでいたことなど思い出す。ピエトロ(ペドロ・パスカル)は、そのたびに正面のシャロンから顔をそむけては宙に煙を吐いていて、彼がそうした男であったことはその時すでに語られていたのだ。


「塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性」藤本和子
女性たちが語る体験や記憶とその考えや感情、その純度を貶さぬまま藤本氏の言葉として著される文章の美しさとしなやかさと力強さに圧倒される一冊なので、ぜひとも一読を。
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2019年02月26日

アリータ:バトル・エンジェル/甘くて酸っぱいあなたのために

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そもそも天真爛漫即断即決の人ロバート・ロドリゲスの撮る映画にアイデンティティクライシスに陥る主人公がいた試しなどあるはずもなく、キリングマシーンでスピードスターなアリータ(ローラ・サラザール)が全部あたしにまかせとけばだいじょうぶ、なんならこの心臓をあげたっていいとヒューゴ(キーアン・ジョンソン)を見上げる上目づかいに隙あらば屈服したがるキャメロンの残滓がうかがえはするものの、『スパイキッズ・トリロジー』なんなら『シャークボーイ&マグマガール 3-D』までもひっくるめた稚気の爆走にやつしたキャリアの回収をこんな形で果たすとは思ってもみなかったのである。出方によってはピグマリオンコンプレックスが漏れ出すか、それを回避したとてレプリカントの実存殺伐な手垢にまみれて一敗地に塗れるのを誰もが手ぐすね引いて待っていたところを、いやいやアタシはあんた達の誰よりも強くて速いからそんなもんにはつかまりっこないし!とミリ単位の精密とゼロコンマのスピードですり抜けた残像にサブテキストが追いつかない颯爽と痛快に『アクアマン』が止まって見えたのであった。既に責任の所在すらかすむ190億もの製作費ともなれば、キャラクター内外の汚れや穢れはそれなりにデオドラントされて万人が与しやすくはなっているのだろうし、原作未読ながらダイソン・イド(クリストフ・ヴァルツ)の記号的な物分かりのよさが物語の中核から陰影を払ってしまっていることなどそれとなくうかがえはするものの、それよりはすべての重力をあざ笑うアリータを追走する悦楽を選んだということになるのだろう。とはいえ、それが人間でさえなければレイティングは手出しできないはずだという、ハンターウォリアー相手の切り株ショーやアリータ自らのダルマ化、あるいはバーホーベンもかくやというチレン(ジェニファー・コネリー)の哀しい変態など、時おりみせる想像以上の踏み込みがこの映画を躾けられた超大作のくびきから解放していたように思えるし、してみれば弱者や敗者のジャンヌダルクではないあくまで自身の青春に激突するアリータのピーキーが愛おしくも思えたのである。アイアンシティの猥雑をカラフルでヴィヴィッドに描くことで、空中都市ザレムが覆いつくすディストピアをことさら強調しなかったのもその反映だろう。アリータの大きな瞳を人間並みにアレンジしなかったことで、誰にも似ていない誰のものでないアリータの運命的な孤絶の徴としたキャメロンの慧眼をロバート・ロドリゲスの起用と併せて讃えておきたい。キャメロンのメガホンであればイドとアリータの詮無い親子プレイにあと20分は費やしてダレ場になっていたのは確かだろう。ほとんどブレイドにしか見えないサングラス姿のマハーシャラ・アリの何ともエレガントな無駄づかいもまた一興。
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2019年02月24日

ジュリアン/コドモハワカッテクレナイ

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自分たちを見つめるその視線こそが自分とジュリアン(トマ・ジオリア)の生命を救ったことを知らないミリアム(レア・ドリュッケール)が、まるで傍観者を睨めつけるように返す視線の寄る辺のない冷やかさに身じろぎ一つできなかったのだ。夫婦であるとか親子であるとかいった人間の営為それ自体が呼び寄せるその恐怖は、ワタシたちの不完全さが引き起こすヒューマンエラーによって、かつての夫だったもの、父親だったものが外見だけはそのまま似ても似つかない別の何かに変容してしまうまるでボディスナッチャーのようなホラーの成立を可能にしてしまうわけで、夫として父として世界を支配せねばならぬというその強迫観念に精神を喰いつくされたアントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)が、一番弱い相手としてジュリアンを選びそこからディフェンスを破壊していく狡猾のおぞましさや、次第にそれすらもかなぐり捨てて感情を暴力で伝えることしかできなくなっていく精神の退化には、すでに人間でなくなった一匹の動物への憐れみすら漂い始めた気もしたのである。しかし、この映画がさらに怖ろしいのはアントワーヌという怪物が息をする世界のグロテスクであって、危険な共同親権を認めてしまう法のシステムや、息子の怪物性を知ってか知らずかジュリアンとミリアム、姉ジョゼフィーヌ(マチルド・オヌブー)が隠れて暮らす新居の場所を特定する手がかりを世間話のように話してしまうアントワーヌの母親、崩壊した家族の混沌の最中、誰からも祝福されない新しい生命を無軌道に授かるジョゼフィーヌ(完全な機能不全に陥っている家族の茫漠を延々と垂れ流すパーティーシーンでの凍てつくようなその貌!)、ジュリアンを人身御供として差し出す一方で自分はドアの裏側に閉じこもるミリアム、といった光景は、アントワーヌという怪物がそれら善悪の混沌を生んだのか、その混沌がアントワーヌという怪物を生んだのか、アントワーヌの最後の絶叫は果たして彼の奥底が発したものなのか、それらすべての後では、アントワーヌの蹴破ったドアの彼我でかわされる視線の交錯は、お前たちも皆とっくにこの市街戦の中へ放り込まれているのだという呪いでしかなかったのように思うのだ。『クレイマー、クレイマー』から40年かけて、ワタシたちはアントワーヌという名前の怪物を造り上げてしまった。
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2019年02月21日

女王陛下のお気に入り/オンリー・ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン

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機能不全という機能、というトートロジーに捉まりかけた前作の自省なのか、コーナーに追い詰めては血尿が出るまで腎臓をめった打ちするような試合運びをここでのヨルゴス・ランティモスは巧妙に避けていて、倒されかけた者が他の誰かに寄りかかることでダウンをさせない三すくみのダンスを、人が互いの感情を人質にして生きることの本質的な不健康と不具合の証としてきた愛を奏ですらして踊らせてみせたのである。「これでわかった?メタファーだよ、象徴的だろ?」と半分やけくそのようなセリフすら吐いた前作のメタファー地獄からすると、今作ではその意匠からこぼれ落ちるそれを愛と呼んだとしてもそれはそれでかまわないのかもしれないという甘噛みがいつになく色艶を重ねると同時に、生ものとしてのそれが変質していく時間のメランコリーがストーリーを相応に倦怠させもしたわけで、かつての病理学者のように怜悧で冷徹な視線よりはストーリーテラーの発熱をはらむことを自らに課したように思えたのは、これまでの精緻な観察者のフィクスからは打って変わった歪んだ広角の中でせわしないカメラの窃視者のパンにも明らかだったのではなかろうか。ピカレスクの種を抱えて屋敷に乗り込んだであろうアビゲイル(エマ・ストーン)がアン女王(オリヴィア・コールマン)に示した親愛は、打算というよりは存在が正当に扱われることのないその境遇への共感がまずはそうさせたのだろうし、サラ(レイチェル・ワイズ)の鉄面皮が揺らいだのはいずれその共感が共闘へと姿を変えることをその抜け目のない嗅覚でいち早く察知したからで、この映画がヨルゴス・ランティモス作品としてフレッシュだったのは、アビゲイルという高貴と下賤の境界を越えてきた者ゆえの揺らぎが、望むと望まざるに関わらずアン女王とサラをコルセットのくびきから解き放つことによる人間性の回復へとつながっていく点にあったように思うのである。もちろん回復された人間性が善いものであるとは限らないどころか露悪の純度を上げる格好の理由であったのは言うまでもなく、剥奪された人間性の生み出す露悪も取り戻した人間性が垂れ流すそれも結局のところ変わらないことを知って、やはり人間というものはこの世の果てで立ち尽くすばかりの生き物であったよという述懐が、サラのいない三者によるラストのオーヴァーラップだったように思うのだ。そして何より、前々作から前作へキャリアが進むにつれ、その激突と流血のユーモアを手放しつつある点を懸念していたこともあって、切り刻む諧謔と撫で回す残酷の絢爛がひるがえす映画の裾がいっそう麗しく感じられたのだった。われらが正気は民草に狂気、民草の正気はわれらに狂気。世界はかくも耐え難い。そして黄泉のモノトーンに身を包むベラスケスの愉悦。
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2019年02月18日

バーニング 劇場版/そこに私たちがいないことを忘れればいい

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「メタファーってなあに?」と尋ねるヘミ(チョン・ジョンソ)に答えることなくジョンス(ユ・アイン)はベン(スティーヴン・ユアン)の家のトイレを探す。そして、原作にはないこのセリフに対する答えをジョンスが見つけるまで、要するに世界を語る言葉をジョンスが手に入れるまでをこの物語はたどっていくことになる。それはそのままイ・チャンドンによる原作および村上春樹の解題にもなっていくわけで、こちらは原作にも名前の挙がる2人の作家、フィッツジェラルドとフォークナーがその道標となることで、共にロスト・ジェネレーションの作家としてモダニズムを標榜しつつ、アメリカの繁栄と転落の間に囚われた都市生活者の倦怠と憂鬱を培養したフィッツジェラルドと、南部アメリカにかけられた自己破壊の呪いに愛と怒りのつづれ織りを捧げるフォークナーの両極にして全体が、ジョンスという作家志望の青年を衝き動かしていくように思えたのである。してみれば、劇中でも語られるようにフィッツジェラルド的な陰影としてのベンを見出すことがたやすい以上、ジョンスがフォークナー的な解放と抑圧の人として歩むことになるのは言うまでもなく、韓国社会における都市と周辺の断絶に横たわる深淵へとみ込まれていくヘミを生贄にしてついにジョンスが自身のメタファーを手に入れることで、イ・チャンドンは村上春樹がかけた鍵を外して扉をあけ、その奥の漆黒に足を踏み入れようとしたのではなかろうか。イ・チャンドンのオリジナルストーリーとして、その分岐点とすべく非常に分かりやすいショットでインサートされたあるシーンからエンディングに至るまでの疼くような痛みと哀しみは、その殺人と放火の刻印など含め、フォークナー「八月の光」で主人公ジョー・クリスマスが彷徨した永遠のデラシネとでもいう軌道の儚さにも似て、イ・チャンドンが村上春樹に託した喪失と再生の正体がそこに透けて見えたように思ったのである。ジョンスの家の前庭でマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」が低く静かに流れる中、国境の山並みを夕陽があぶり出すマジックアワーの刻を過ぎて3人が闇に包まれていく体感的には長回しのようなシークエンスの、メタファーとはこういうことだとでもいう濃厚な機能が支配するその時間だけでもう他はどうでもいい気分にすらなった。もちろん、パトリック・ベイトマンまで呼び覚ますメタファー地獄のそれは全くどうでもよくなどなかったのだけれど。
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2019年02月15日

アクアマン/金魚はおやつに入りますか?

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ジェームズ・ワンのホラーにおいて、怖がらせる相手はあくまで登場人物でしかなく観客はその状況を見せつけられることによって怖がるのであり、観客への直接的なアタックはいつかインフレを起こさざるを得ないしそもそも粋ではないのだという品性こそが清潔な殺意とでもいう独特の緊張を呼ぶわけで、ここでのアーサー・カリー(ジェイソン・モモア)は自らの出自や運命を呪って溜めこんだ屈託の解放でブーストするでもなく、人生を笑顔で謳歌してスイングする人として登場したままアーサーがハッピーならみんなハッピーという万事快調なノンシャランだけを維持するために、ジェームズ・ワンはメリハリのハリだけをオーヴァードーズにならないような生殺しの配分で射ち込み続けたのである。したがって全編は酩酊したような甘噛みの多幸感に彩られ、誰も彼もワタシたちも何も省みることなく苛まれることもなく阿片窟のように寝転がって目で光を追っていればよかったのだ。かつて『アイアンマン』がMCUのマニフェストとなってそこからすべてが始まったように、今作のファナティックな祝福を知るにつけこれが新たなDCEUのブースターとなるのだろうことを勝手に予想していたものだから、まあここは一発決めて悪い夢は忘れようぜとでもいうピースフル・イージー・フィーリングのブラック・サバスに対するカラパナ的なうっちゃりに、でもこの手は二度と使えないよねと心配顔のふりなどしてみたのだけれど、『スーサイド・スクワッド2』のメガホンをジェームズ・ガンに任せるらしきニュースなど耳に入ってきたこともあり、ああそれはそれであちらも腹はくくってはみたのだなと、今作の露払いとしての役割にそれなりの合点がいったのである。ただ一人、メリを徹底的にオミットされたことでどうにもペラッペラな復讐心しか許してもらえなかったブラックマンタさん(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)だけが割りを食ってしまった感じなのだけれど、続篇があるとすれば『ピンクパンサー』におけるケイトーのような役回りを目指すことにより新たなヴィラン像をものにする絶好のチャンスではあるので、シン博士(ランドール・パーク)共々ぜひとも精進していただきたいと思う。ワタシはむしろそちらに期待している。
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2019年02月12日

ファースト・マン/生者には何もやるな

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この仄暗い粒子の粗さは、フィルムというよりはLIFE Magazineのカヴァーストーリーに添えられた記録写真のようで、チャゼルはアメリカの光差す記憶の上澄みに手を突っ込んでかき回しては人知れず沈殿した記憶を舞いあげることで、アメリカという国が常にたずさえるイノセンスと呪いという両義性の象徴としてのアポロ計画を、さらにその全体の象徴ともいえるニール・アームストロングという人間に照射してみせたように思ったのだ。冒頭、ほとんど棺桶と化したX-15のコクピットで実験結果の一つとしてあらかじめ織り込まれた死の数値を制御しつつ成層圏にアタックするニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、死を観念の状態ではない轟音と横揺れの世界として捉えていて、そこには今の自分の延長もしくは代替えとしての自分が存在しないことを認識している。そして、死という結果のでなかった日のニールは棺桶から這い出て車に乗って家に帰り、ただいまと言って家族と過ごすのだ。そうした生と死の二重生活はニールにとってみれば労働倫理の実践として許容されるべきものだったのだろうけれど、では愛娘カレンの死は、彼女はニールの知る轟音と横揺れの世界に消えてなくなってしまったのか、彼女の死に際し劇中でただ一度感情を決壊させ慟哭したニールは、カレンを轟音が吹きすさび横揺れが爆発する世界から取り戻すことでしか彼女の死を我がものとできないという結論にたどり着いたのだろう。宇宙飛行士として選抜されヒューストンに移り住んで以降、彼岸としてしつらえられたサバービアとより凶悪な棺桶との間を行き来するニールが死と死者にのみ反応と感情を顕すばかりとなるのは、かつては事象にすぎなかった死に囚われたというよりは、カレンとの絆としてのそれを見出したからなのではなかろうか。そうやって生者を二の次にしてまでカレンの死に拘泥するのは、かつての自分が死をコントロールしたつもりで行き来を重ねたことへの代償としてカレンが奪われたのではないかという罪悪感がそうさせるのかと、生者に目を伏せるばかりの自分に感情を爆発させた妻ジャネット(クレア・フォイ)にすら視線を交わさないニールの、仮死した諦念といってもいい蒼白な光の宿る瞳孔に思ったのである。それまでの爆発的な横揺れの支配する世界とは打って変わって美しくしめやかな手続きのように行われるアポロ11号の道行きから月面の荒れ狂うような無音の世界、月に降り立って以降は月面の風景をそこに反射させるばかりだったヘルメットのバイザーをあげてその貌をようやくのぞかせたニールの果たした喪の仕事までの一連は、フロンティアスピリッツの高揚と辺境でおり重なったおびただしい死との静謐なハーモニーの奏でるレクイエムにも思え、轟音と横揺れの先で純化された死をカレンに捧げたニールは果たして生きている人なのか死んでいる人なのか、それを確かめるべくニールに向き合うジャネットは、アメリカの囚人となった夫に面会する妻の面持ちにも見えたのである。妻とも息子とも誰とも分かち合うことのできない世界でたった一人ニールだけが知る(バズは例のノンシャランを鎧にした気がする)孤独の質を抱えたまま、彼はジャネットを愛することができるのか、ラストショットはまるでエドワード・ホッパーの筆のようにも思えたのだ。「ガラスのある部屋」というタイトルで。チャゼルは完全に抜けたように思う。
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2019年02月05日

天才作家の妻/コール・ミー・バイ・マイ・ネーム

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劇中に関する限り、ぼくがノーベル賞を獲った!ぼくがノーベル賞を獲った!とジョゼフ(ジョナサン・プライス)がベッドの上で跳びはねた瞬間に時限装置のスイッチは起動していたわけで、のちに回想されるあるシーンでは“ぼくたち”だったそれが“ぼく”へと変わっていく年月にジョーン(グレン・クローズ)が奪い取られたもの、それはJoan ArcherからJoan CastlemanとなりついにはWifeへと至る、彼女の名前だったように思うのである。そうやってジョーンの名前を奪ったものたちが無邪気にも彼女の地雷原に足を踏み入れてはそれを片っ端から炸裂させ、その度に怒りで傷ついた眼差しをジョーンはワタシたち観客だけに目配せしてみせるわけで、その矛先はジョゼフのみならず、殿方はこちらで重要なお仕事を、奥様方はお買い物とエステをいかが?と慇懃無礼に差別的なノーベル財団の俗物にまでも向けられて、となればワタシたちは爆発したジョーンが切っ先鋭く立てた中指で自分を踏みにじった輩を串刺しにする瞬間を心待ちにしてしまうのだけれど、この物語が単なる復讐譚に終結しないのは、被害者としてではなく共犯者としての自身を全うすることを文学に誓っているその矜持こそがジョーンを支えているからで、ジョゼフの晩餐会でのスピーチがジョーンを決壊させたのは、主犯を気取るジョゼフがジョーンの贖罪までも果たしたかのようなその振る舞いにこそあったのだろうし、自分たちの罪深さこそが作品を実らせてきたことに最後まで思い至ることのないジョゼフに対する心底の軽蔑と絶望が彼女をああした行動に駆り立てたように思うのだ。したがって、その後で起きたことは彼女にとって避けがたいオマケのようなもので、あの涙はいつか流すべき涙として1958年からずっと彼女が溜めてきたそれであったように思うし、家路についた機内で、何も書かれていないノートのページを静かに撫でながらジョーンがみせる穏やかで満ち足りていながらひんやりとした緊張感の差し込むその表情は、私は私の手に入れたこの新たな罪深さをもって物語を前に進めることができるだろうという希望と確信に後押しされたJoan Archerの貌にも見えて、その瞬間、ついに彼女は彼女の名前を取り戻したようにも見えたのである。鼻もちならない扇動者でありながら図らずもジョーンの理解者となるナサニエル・ボーンを演じたクリスチャン・スレーターの、声の大きな人たらしが絶妙な手つきで攪拌することで生み出したグロテスクなユーモアの入り込む余地のおかげで、一方的に苛まれる悲劇からこの物語がその身をかわすことに奏功したようにも思え、そしてそれこそはジョーンが望んだ筋書きであったことは言うまでもないだろう。
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2019年02月03日

マイル22/やめられない止まらない

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トム・クルーズ&クリストファー・マッカリーの向こうを張るかのようなソウルメイトっぷりを見せつけるこの2人が、さすがに実録ものもネタ切れになったところでぶっ込んできたのは、ハイパーアクティヴなCIAエージェント、ジェームズ・シルヴァ(マーク・ウォルバーグ)による『ソーシャル・ネットワーク』ミーツ『ボーダーライン』とかいう、ウナギと梅干し、もしくはスイカと天ぷらレベルの食い合わせに悶絶しながら早口言葉のきりもみ状態で敵陣を突破していくという、誰も観たことのないというよりは常識的には誰かの目に止まる前に抹殺されるべきアイディアの奇跡といってもいい実現だったのである。手首のゴムバンドをエンジンブレーキ代わりにパチパチ弾いてはクロックダウンするシルヴァの、そんなピーキーな指揮官に現場と命を預ける隊員もまたプロフェッショナルの流儀というよりはスリルジャンキーの矜持で狂気を正気に偽装している節があり、そんな風な“まともな奴は一人もいねえぜ((c)忌野清志郎)”という座組みで行われる肉体言語による情報神経戦であるだけに、知恵熱で朦朧としたピーター・バーグが酩酊した足取りで踏み抜いていく底から透けるさらなる底まで気が回るはずなどないことは百も承知だし、それら目眩ましとして投入されたはきだめの鶴としてのイコ・ウワイスが予想を超えてうっとりと舞ったこともあり、たびたびの良きに計らえと言いたげな目くばせに応えることにも全くやぶさかではなかったのだ。非常にせわしなくつんのめるようなカットのリズムはおそらくシルヴァの病質(ADHD)への恭順にも思え、崩れ落ちる寸前に立て直してはまた崩れ落ちる寸前に立て直すという負荷のかけ方によって最先端の市街戦がはらむ神経症的なファンタジーがねじ込まれていく気もしたわけで、それらが果たしてどれくらい意識的な達成であったのかワタシは言い切れないでいるけれど、現時点で明らかに界隈の更新が成されたのは間違いがないように思うのである。シルヴァのクロックをコントロールするのに手一杯で、当然それもミッションのうちであったであろうリー・ノア(イコ・ウワイス)がなぜシルヴァを生かしたまま機上の人となったのか、2人の間に生まれたはずの共闘と共感の浪花節にまで手が届かなかったのはいささか残念だった気がしないでもないけれど、ドライでもクールでもなく、極北のフラットで情動をたたんで合理を敷きつめていくシルヴァの造形が生み出すサスペンスに思いがけず絆されてしまったので、ぜひとも続篇をものにすることを切望する。それなりに愉しい色艶を持ちながら、いささかキャラクターが被っていたマルコヴィッチがあっけなくオミットされるのもその布石だと考えたい。
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2019年01月31日

サスペリア/最悪は終われない

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ツァイトガイストな目つきにどっぷりと終始するこの劇中で、マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)の指揮するダンスがまさに「民族」という演目であったとなれば、分断されたベルリンの暴力と混沌こそをヘーゲルばりに民族の精神と唱えるこの内ゲバの物語が、恐怖というよりは罪と恥辱にまみれなければならなかったのは必然ということになり、したがってマザー・サスピリオルムによるアウゲイアスの牛舎掃除には、アーミッシュはリベラルになり過ぎたとうそぶくメノナイト育ちのスージー(ダコタ・ジョンソン)が備える攻撃的で潔癖な野心が必要だったのだろう。クレンペラー博士(ティルダ・スウィントン)はそうしたストーリーの対称性を維持するための存在として投入され、あなたは十分に苦しんだのだから、この先はもう罪や恥を感じる必要はないという赦しをもってあらたな人生を与えられることになるのだけれど、しかしこの先博士は本棚の写真を見てもいったいそれが誰なのか、なぜその写真が飾ってあるのか不可思議に思いながら生きていかねばならないことを思うと、世界で一番忘れてほしくない人に永遠に忘れ去られたアンケ(ジェシカ・ハーパー)こそが、愛と哀しみの分かち難い時代を生きねばならなかったすべての人の悲劇としてあり続けることになるのだろうし、本篇の最後で光の中に昏睡していくショットこそはこの映画をすべてのあらかじめ失われた恋人たちに捧げた監督の渾身だったようにも思うのだ。今作も含め『へレディタリー』に象徴される最近のポスト・モダンホラー(何ならもう一つポストを付けてもいい)に顕著な恐怖の変質について、乱暴に言ってしまえば恐怖の源泉が“死にたくない”から“死んでしまいたい”へ変質したことがその理由であるような気がしているわけで、地下の集会場で不埒な者たちを片っ端から屠ったマザー・サスピリオルムがパトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)、オルガ(エレナ・フォキーナ)、サラ(ミア・ゴス)に1人ずつ望みを尋ねていく時、彼女たちはみな口をそろえて「死にたい」と願ってはそれを与えられていくわけで、この瞬間を生き延びたとしても果たして私はどこに行けるのだろうかという生き地獄は、死んでしまうことではなく生き続けることこそが恐怖となるこの世界を、炭鉱のカナリアとしてのホラーが身をもって示したその反映ということになるのだろう。してみると、かつてのスージーだった者が何かに心奪われたような面持ちで佇むポストクレジットシーンでは、絶望にあふれる時代にあっては破壊すらが希望を生み出すことをマザー・サスピリオルムとしての自身に更新していたように思うわけで、それは嘆きの母が暗闇の救世主として再生したその宣言ということになるのだろう。そうした諸々の役割上、揺るぎなく支配的でいることを求められたダコタ・ジョンソンよりは、リンダ・ブレアとオルネラ・ムーティを足して割ったようなミア・ゴスにホラー・プリンセスの王冠が輝いたのはやむなしというところか。サラだったか、誰かの部屋でボウイのポスターを見かけたように思ったのだけれど、この1977年の夏にベルリンのハンザスタジオでレコーディングされた「ヒーローズ」は、その年の10月、すなわちにスージーがオハイオからベルリンにやってきたまさにそのタイミングでリリースされていて、バーダー・マインホフの爆風と銃撃に蒼ざめたベルリンの街で、壁に寄り添う恋人たちを歌ったボウイと魔女がつかの間すれ違ったのは、少なくともルカ・グァダニーノにとっては偶然ではないように思っている。
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2019年01月27日

ミスター・ガラス/Destroy All Monsters

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「バランスを保ち、秩序を維持する」ために息をするすべての存在が敵なのだ、とシャマランは言い切った。なぜ、どこかの誰かのおためごかしでしかない「バランス」や「秩序」のために、キミはかけがえのないキミだけの「乱調」や「混沌」を差し出してしまうのか。しかしそう唱えることが、正しいとか正しくないとか善いとか邪まとかいう教条的な話に誤解されないために、シャマランは大量破壊殺戮者としてのミスター・ガラス=イライジャ・プライス(サミュエル・L・ジャクソン)を語り手と生み出したのだろうし、では犯した罪によって彼の輝きは消えてしまうものなのか、実際のところどうだい?消えてしまったように思うかい?と相変わらず悪戯めいた顔つきでシャマランは問いかけてくるのである。シャマランの映画にたたずむ登場人物がまとっているうつむいた哀しみは、世界の法則を知ってしまったもののそれが自分以外の人にとって必ずしも幸福をもたらすわけではないことまでも知らされた苦痛がもたらすように思えるわけで、そんな風にいつ死んでしまってもおかしくないようなペシミズムに首までつかったシャマランの主人公たちが、とはいえこれまでのところ常に生き延びてきたことを思えばこのラストが悲劇一色に染まってしまってもおかしくはないのに、なぜこうまで爽快といってもいい風が吹いたのか、それはミスター・ガラスが口にしたようにこれが新たなアウトサイダーの誕生を呼びさます咆哮のような映画であったからにちがいない。そうした埒外の幸福に対するロマンチックといってもいい感情はかつて『レディ・イン・ザ・ウォーター』で滔々と吐露された憧憬であったことは言うまでもないだろう。シャマランがずっと言っているのは信じる者は救われる、という至極シンプルなただそれだけなのだけれど、でもそれは世界でたった一人きりになっても命がけで狂ったように信じることができればの話だけれどもね、とばかりミセス・プライス(シャーレイン・ウッダード)とジョセフ・ダン(スペンサー・トリート・クラーク)、そしてケイシー・クック(アニャ・テイラー=ジョイ)の3人がもはや神話と化したこのトリロジーのエンディングを受け持つ名誉を与えられることになる。冒頭、ケビン・ウェンデル・クラム(ジェームズ・マカヴォイ)がしつらえた「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のMVのようなチアリーダーを見た瞬間、既に勝利は確信していたものの、病院の前庭でゆっくりと右にパンをしたカメラが仁王立ちするデヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)の姿をとらえたとき、ああこの瞬間ワタシたちは世界に勝っていると思わなかっただろうか。ワタシは沸き立った血が暴れて逆流する音が聴こえた気もしたよ。魂の自由を愛する人が、媚びるという言葉すら知らずに撮った映画は、自分もそんな風に生きていることを束の間錯覚させてくれる。
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2019年01月19日

クリード 炎の宿敵/バック・イン・ザ・U.S.S.R.

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現役の世界チャンプに課せられた7年間の懲役は実質的に選手生命を閉ざしたに等しく、そんな彼がまだ幼い息子にしてやれるのは、世界チャンピオンとしての勇姿をその記憶に焼き付けることのほかに何があろうかという悲痛な決意のもと彼はラストファイトのリングに上がり、フルラウンドの死闘の末にチャンピオンベルトと息子をリングで抱きしめるのだった。というリッキー・コンランのストーリーにこそ絆された前作を踏襲するかのように、今作においても、三歩進んで二歩下がる成長と覚醒で歩み続けるアドニス(マイケル・B・ジョーダン)はむしろ狂言回しとして、復讐の父子鷹と化したイワン(ドルフ・ラングレン)とヴィクター(フローリアン・ムンテアヌ)のドラゴ親子のサンドバッグとなって揺れ続けるのであった。ことあるごとに母親メアリーアン(フィリシア・ラシャド)、妻ビアンカ(テッサ・トンプソン)、そしてロッキー・バルボア(シルヴェスター・スタローン)が総出でケアをするアドニスはほうっておいても誰かが起こしてやるにちがいなく、しかもこの映画はその手つきを実に細やかで繊細かつ鷹揚に描いてみせるものだから、いざゴングが鳴らされたとしてもそのファイトが何だか他人事のように思えてしまうわけで、となれば痛みだけを確かなものとして世界がこちらを向くまでただひたすら殴り続けるしかないヴィクターの哀切に持ち金を賭けてしまうのもやむを得ないところではあるだろう。とは言え、鍛えあげた人間の意識を10秒間飛ばすにはどうすればいいかという合理の洗練とその手段として相手を殴るという蛮性の同居が強制されるボクシングというスポーツの特異性ゆえ、その合理と蛮性の振幅を人生の両端に例えてしまう誘惑がボクシング映画というジャンルを成り立たせていることを思う時、ジョイス・キャロル・オーツの言う「人生は、多くの不安定な点で、ボクシングに似ている。だが、ボクシングは、ボクシングにしか似ていない。」という文章を同時に思い出してみれば、共に父の呪いを受けたもの同士でありながら人生にスタイルを決定されてしまったヴィクターはそれゆえに、スタイル=メタファーの虜囚になり得なかったアドニスに敗れたとも言えるわけで、事あるごとにロッキーがアドニスに言う「俺のようになるな」という言葉は、ボクシングに人生を喰わせた者だけが知る核心でもあったのだろう。だからこそアドニスはリングの上で合理の人となってみせる必要があったと思うのだけれど、せいぜいがスウェイバックやウィービングとダッキングを派手にしてみせる程度で、「肉を切らせて骨を断て」というロッキーの指示がでた時には、ボディ打ちを誘ってガードの空いたところに左フックを叩き込むとかいう必殺ブロウを期待したりもしたのだけれど、結果としてアドニスが見せたのは単に根性でボディ打ちを耐えるだけという肩透かしなのであった。ヘヴィー級という粗の目立ちにくい階級であるからこそ成立してきたこのシリーズのド突き合いファイトにいまさらケチをつけても詮無い話なのは承知の上で、せいぜいがクルーザー級の肉体にとどまるアドニスがいかにヘヴィー級のファイトを可能にするのか、たとえばロイ・ジョーンズ・ジュニアとクリチコ兄弟との仮想ファイトといったファンタジーを一瞬でも夢見たワタシのが懲りなさ加減こそがいかがなものかということになるのだろう。とは言え、今にして思えばあれはアメコミ映画だったと整理はつくにしろ、これだからアメリカ人てやつは!と呆れ顔を誘った『ロッキー4炎の友情』でアポロを葬ることがなければこのサーガの命運も尽きていたわけだし、当時はと言えば敵役でしかなかった黒人のボクサーが主役を演じてアップデートされるとなれば、世界も少しは変わることがあるのだなあとあらためて識らされた気分の清新については間違いがない。スティーヴン・ケープル・Jr.という監督のシルキーでメロウなタッチがアドニスのノンシャランな倦怠にマッチし過ぎた点でボクシング映画の剣呑を削いでしまった気がしないでもないけれど、たおやかで静かな余韻を銃後の物語につかまえてみせた手腕においてその爪跡は文句がないように思う。
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2019年01月14日

蜘蛛の巣を払う女/急いで鼻で吸え

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ノオミ・ラパスを湯煎してアク抜きし、ルーニー・マーラに鉄分を補給したクレア・フォイのリスベット・サランデルは、普及版の親しみやすさと口当たりの良さは手に入れたものの、まるで鍛冶でもするかのように世界の歪みをたたきなおしてきた彼女の破壊的なハッキングは、それが彼女の世界とのつながり方でもあるのだけれど、ストーリーをジャンプさせるために仕込まれたマジックとして割といいように使われるものだから、ならばこれがリスベットである必要はあったのかと思い始めてしまう。バルデル(スティーヴン・マーチャント)の保護されたセーフハウスをそのために監視しているにもかかわらず、わざわざリスベットに目を離させることによって起きる殺し屋の侵入であるとか、アウグスト(クリストファー・コンベリー)のスマートフォンからあっさり位置を特定されたりであるとか、彼女のエラーによってサスペンスを発生維持するイージーもリスベットの普段使い感に拍車をかけることとなっていて、リスベットは完全にストーリーの奴隷へと成り下がってしまっている。本来、世界に一匹しかいないリスベット・サランデルという孤絶した生き物を観察することがテーマであるこの物語において、そうまで脚色して映画にしなければならなかった意図も意志もワタシにはまったく掴みかねたままだったのである。カミラ・サランデル(シルヴィア・フークス)にしたところで、グリッドデータ化された屋敷がカザレス(キース・スタンフィールド)による対物ライフルの狙撃を受けて形勢が逆転した時のあきらかに慌てふためいた表情は、感情の極北で生きるはずの彼女に似つかわしくない醜態にも思えたし、最期にリスベットと繰り広げる愁嘆場も当然何らかのトラップかと思いきや、あれで死んでいなかったとしてもPCを捨ててしまうのは往生際が良すぎるだろう、額面通り悲嘆に暮れるばかりの結末には、スティーヴン・ナイトがいったいどこまでメインで関わったのか疑わしくすら思えたのだ。クレア・フォイに罪はないとはいえジャンクフードとタバコを主食に生きる不健康なミニマルのBPMは光年の彼方に消えてしまったし、そしてなにより3代目ににして初めてオッパイを見せないリスベットを選んだ点に、マニュアルによる神経症的なギアチェンジを棄ててオートマのアクセルワークで走り抜けようとしたこの映画の、負け戦であることの分別とあきらめが透けて見えた気がしたのだった。カミラの策略に追い込まれたリスベットが、押し寄せる手下の男たちをたった1人で迎え撃つもその圧力に次第に押し込まれていくシーンは、リスベットがずっと唾を吐いてきた「大きなもの」に屈していく切なさが出色に思えたものだから、やはり監督はもう一枚映画を「脱がす」べきではなかったかと正式にケチはつけておきたい。
posted by orr_dg at 19:45 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする