2018年03月08日

シェイプ・オブ・ウォーター/近ごろ溺れる夢を見ない

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※展開にふれています

「男ってやつは信用できないねえ」と、にやつくイライザ(サリー・ホーキンス)の理由を知ったゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)が彼女を茶化すシーンで、ゼルダがどれだけ深いイライザの理解者であったとしても、イライザの「彼」に対する感情がシンパシーを超えた性愛を伴う恋愛感情へ進展していたことに1ミクロンほどの戸惑いも見せなかったゼルダに対し、さてゼルダにとっての「彼」の異形が溶かされるシーンがどこかにあっただろうかと逆に戸惑ってしまったのである。そこで気を取り直して、といっても既に終盤へと駆け込むあたりだったのだけれど、ああこれはどこかにB.R.P.D.(超常現象捜査防衛局)があるアメリカの物語なのだろう、だからネコを助けたヘルボーイの異形に腰を抜かすよりは拍手をするように、クリーチャーをひとつの人種として鼻先でシャッターを下ろしてしまったりはしない世界なのだ、とデル・トロが精緻に創り上げた箱庭の中に最初からいたことにようやく気がついたのである。その洗練された変奏と人間たちが手前で動き回るステージングに目眩ましされてはいたものの、アール・デコにスチームパンクをかけ合わせた美術も、切ない異種愛も、そしてはたまた水の中の青い人も、かつて心奪われたデル・トロの刻印にあまりにも間近で埋もれていたせいで、ずっと地上からつま先が浮いたままの遠近を見渡せていなかったのだろう。それは言ってしまえば、感情もあらかじめそのB.R.P.D.世界の仕様にデザインされていたということで、だからこそイライザが「彼」とセックスすることにゼルダが動じるはずなどないに決まっているのだ。となれば、エイブとヌアラの悲恋を繰り返すはずのないデル・トロだからこそ、イライザと「彼」の道行きもジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)の仄暗い夢想のとおりハッピーエンドで問題があるはずなどなく、むしろワタシはもう一人のモンスターであるストリックランド(マイケル・シャノン)の仁王立ちする憂鬱に気を取られ胸がざわつくばかりだったのである。1950年代のゴールデンエイジから冷戦期へ突入したアメリカを覆う、ベトナム戦争前夜の暗い影が産み落としたストリックランドは、マチズモの敗残兵でありサバービアの亡霊というウィリー・ローマンの怨念に突き動かされているわけで、美しい妻に可愛らしい子供が微笑むモダンな我が家にはもはや自分の黒く腐った屈託がいる場所などないのだと傷物のキャディラックの運転席にひとり沈み込む彼もまた、イライザやゼルダ、ジャイルズ、ホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)と同様にYou'll never knowな一人だったということになるのだろう。すべてが終わった後で(陸の上の)イライザ、ストリックランド、ホフステトラー博士は命を落とし、ゼルダはおそらく夫を棄て、ジャイルズは最良の隣人と最高の理解者を同時に失い、1人の未亡人と2人の父なし子が残されることになるわけで、生き残った者たちは皆さらなるYou'll never knowと向き合うことを余儀なくされることになり、果たして死は払うべき代償なのか、手に入れた解放なのか、慈悲なのか無慈悲なのか、その成就のためには血の酷薄を厭わないデル・トロの愛が実は畏しいまなざしに捉えられていることを久々に思い知らされた気がしたのである。こうして手癖の極北に到達した後で、これからいったいどこへ向かうのかいささか不安ではあるけれど。
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2018年03月06日

ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ/寝る子は育てる

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「だったらどうしてアメリカに来たんだよ」と、パキスタン式に生きることを譲らない両親に向かってクメイル(クメイル・ナンジアニ)は決定的な一言を吐いてしまうのだけれど、おそらくそれを言った瞬間クメイルは、その言葉がブーメランのように自分に突き刺さったことを自覚したに違いなく、彼にとってのビッグ・シックとも言えるその淵からはい上がるための通過儀礼はアメリカ映画の王道ともいえるわけで、今となっては笑い話だけどね、とそれぞれがくぐり抜けた死にそうな日々を笑い飛ばしてみせる点でコメディの体裁はまとっているものの、人種や文化の壁をブレイクしていく物語を非白人の視点で描くことを可能にした新鮮さに、こうした問題を語ることの成熟と新たな可能性を同時に感じたように思ったのである。エミリー(ゾーイ・カザン)が自分との関係をその別れにいたるまで、喜びも悲しみもふくめ自分の両親に話していたことは初対面の母ベス(ホリー・ハンター)が全てを知っていたことにうかがえて、エミリーのことを両親に隠したままでいたクメイルと対照的な関係であることが知らされると同時に、エミリーの母ベスと父テリー(レイ・ロマーノ)の結婚が必ずしも周囲に祝福されたわけではなかったことを、昏睡するエミリーを看病する日々を通した夫婦との交流でクメイルは知っていくわけで、移民として生きることの格差や偏見を当然のこととして、それを上手くやり過ごすのがスマートな処世術であるかのようにふるまうクメイルが、夫婦のてらいのないそれゆえ山も谷もあるあけすけな関係にこそアメリカに来た理由を再発見していく姿は、アメリカという国へのささやかなラブレターのように思えてくるのだ。とは言えそんな風に行って帰ってくる典型の物語がどうしてこうも息を弾ませ続けるのか、それはクメイルを取り巻く人々がお見合い相手の一人に至るまで、生きている人の証としてそれぞれの揺らぎを丁寧に描いているからであって、ドライブスルーのハンバーガーショップの店員ですらが見過ごせない佇まいでクメイルとすれ違ってみせるのである。とりわけエミリーの両親と過ごす時間の中で、クメイルは誰もがそれぞれの物語を持っていてそれが人と人とを結びつけることにあらためて気づかされていくわけで、NYに旅立つ日に父親に別れを告げるシーンのある会話によって、かつて両親も自分と同じ時間を過ごしたであろうことに想いを馳せては新たな記憶を内にとどめ、それを自分の物語に書き込んでいくのである。様々な問題をメタファーや寓話に投影する物語のマクロ的な機能性は日々洗練されていくけれど、あくまでそれは、誰もが持っている物語をミクロ的な直截で語ることで生まれる溌剌な息づかいが片方にあってのことだなあと、朝風呂にでも入ったように頭も身体も目が覚めた気分になったのであった。クメイルにはあえて冴えないをギャグあてがい、それをホリー・ハンターとレイ・ロマーノの夫婦漫才が蹴散らしていくシナリオの妙といい、オスカーノミニーを惹句にした都合とは言え、この時期の激戦区に埋もれさせてしまうのは本当にもったいないなと思う。
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2018年03月05日

ブラックパンサー/速く正しく騒がしく


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ああ、1992年から始まるんだと軽く肩透かしをくらってはみたものの、ほどなく登場するエリック・キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)の黒と青のいでたちや、遠目にはベレー帽でもかぶっているように見えないこともないその髪型に60年代ブラックパンサー党の投影を嗅ぐことはやぶさかではないし、10項目の党綱領の10番目「我々は、土地、パン、教育、住宅、衣服、正義、平和を欲する(We want land, bread, housing, education, clothing, justice and peace.)」が実現された理想郷こそがワカンガであったのは言うまでもない。ヴィランであったはずのエリックがティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)の腕の中で最期を看取られるのは、彼の存在に象徴されるかつて必要とされた思想と行動が役目を終えたことへの敬意であったのだろうし、ティ・チャラの2度目のハーブ巡礼で父である前国王を烈しく糾弾するのも、自らの手で引き起こすパラダイムシフトの激震へと向かう彼にとって必要な父殺しの儀式ということになるのだろう。この映画が手を伸ばしているのは、黒人の、黒人による黒人のための幸福の追求は可能だけれど、それが生み出す壁に激突死する世界の光景を絶やせないうちはその幸福を真に享受しているとは言えないのだというそれは、博愛というよりは不可知の合理性とでもいう新たな実験精神の提示であって、その象徴として知性を蛮性のエンジンとし蛮性で知性をクルーズするシュリ(レティーシャ・ライト)こそが、実はこの映画の主役だったのではなかろうかとワタシは思っている。したがってティ・チャラとエリックの煮え切らないそれよりは、過去や歴史の囚人として登場するエリックを完全に殺しにかかるシュリとのバトルにこそ昂奮したのも当然ということになるし、ポストクレジット・シーンで「知らなきゃならないことがあなたにはたくさんあるわ」とバッキーにささやく彼女の清冽とたおやかさこそがワタシは忘れがたいのだ。この映画にエラーがあったとすれば、ブラックパンサー=ティ・チャラの通過儀礼と覚醒のスピードが映画の確信に追いついていなかったことで、『クリード』でも顕著だった理詰めで可能性を拡げたり潰したりしていくアクションの愉悦に決定的に欠けるという点でも、ティ・チャラのパートにおける停滞を誘っていたように思うのである。それだけに新しい人としてのシュリが纏うリズムとスピードとまなざしが革新として映るわけで、将来的に彼女が自作のパワードスーツに身を包んだとしてもまったく驚かないし、むしろそうなって欲しいと願っている。
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2018年03月01日

The Beguiled /ビガイルド 欲望のめざめ〜誰も寝てはならぬ

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冒頭、シーゲル版ではエイミーに助けられたマクバニーが森で南軍の追っ手をやり過ごすシーンで、エイミーが彼らに声をかけないよう12才の少女の口にキスをして塞いでしまうのだけれど、年の離れた若い女性との恋愛というイーストウッド作品の潜在的なモチーフの萌芽としてはともかく、マクバニーという男が生き残るためには手段を選ばない男だということを一瞬で伝えることで ”The Beguiled” というタイトルの意図するところを早々に念押ししてみせている。続く劇中でも、マクバニーが女性達に自分は厭戦の者であって戦争の犠牲者なのだと告げるたび、それを打ち消すような彼の戦場での姿がフラッシュバックでインサートされ、彼の策略が進行していることによって発生するサスペンスを醸造していく。そうしたシーゲル版はあくまで男性視点による状況の解釈であるとしてソフィア・コッポラは新たな視点から解題していくわけで、前述したエイミーへのキスも真のマクバニーのフラッシュバックも見当たらないのは、必要なのはマクバニー(コリン・ファレル)の表層であって彼にビガイルドされたかどうかは問題ではないという解釈によっているからなのだろう。従って、女性達がマクバニーに懐柔される弱みとなりそうな要素はシーゲル版からきれいに取り除かれていて、校長マーサ(ニコール・キッドマン)は実兄との近親相姦の過去をオブセッションとはしていないし、エドウィナ(キルスティン・ダンスト)はマーサの庇護に依存するおぼこではなく、ここから出ていきたいという意志を早々に明らかにしてさえいる。それに加えて、南北戦争という背景を立体的にする役目を背負っていた黒人の召使いハリーまで取り除くことで、学園内の無垢と欺瞞という二重性すら消し去ってしまっている。そうやってマクバニーを根っからの悪人というわけではなく戦争という状況の生んだアクシデントの王子とすることで、自分たちは必ずしも一方的に籠絡されたわけではないのだという視点を獲得することを目指したことを否定はしないけれど、それによって肉体の蒸気と舌なめずりの目つきが館内に立ちこめる精神的肉弾戦のサスペンスがきれいにデオドラントされてしまった点で、特にシーゲル版の鑑賞者にとっては死とセックスという不可分が分断され去勢されてしまった後退のみが目についてならなかったのである。そして最期の毒キノコに至る様々な伏線も解除してしまうことで、互いをビガイルドしつつ絡まり合っていくはずのラストが、たった一度女性達が繰り出したビガイルドによって男性を打ち負かすという構図へと収束というよりは収縮してしまい、シーゲル版の101分に足りない8分間はただひたすら目をつぶりたかっただけの時間に思えてしまうのだ。そうやって切断のシークエンスですらが丸々オミットされる代わりに、エドウィナのドレスからはじけ飛ぶボタンは嬉々として追ってみせるわけで、手が汚れるのが嫌ならば手袋をするか何も触らなければいいのにと思ってしまうのだけれど、その手袋の繊細で美しい意匠を見せつけたかったのならばそれはそれで致し方ないのだろう。それにしても「欲望のめざめ」とかいうサブタイトルをソフィア・コッポラは知ってるんだろうか。
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2018年02月27日

早春/クール・イン・ザ・プール

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およそ映画が折り返す頃、客としてマイク(ジョン・モルダー・ブラウン)を訪ねてきた元同級生キャシーからことづかったチップをくすねたスーザン(ジェーン・アッシャー)が、それで買ったであろうコーヒーフロートのアイスクリームをなめながら、いつものように会計係(エリカ・ベール)をからかうべく通路をふらふらと現れた時、その背後にやおら現れたペンキ塗りが緑の壁を真っ赤なペンキで塗り始め、オープニングで滴らせた血の色を忘れていなかった向きへはお待ちかね、忘れてしまっていた向きにはお忘れなく、とばかり、この映画が今際の際に血を流すことをいささか得意気に予告してみせる。かつて『出発』において青春を殺すのはセックスであることを告げたスコリモフスキが、ここではより直接的な変奏によって思春のネクロフィリア絶唱を幻視することで、その罪と罰を永遠に猶予し続けるためにこの映画があることをあらためて告げてみせるのである。しかし、そのモラトリアムの水中をマイクと共に永遠に漂い続けるスーザンの罪は思春を弄び屠ったゆえなのかと考えてみれば、彼女は男たちの欺瞞と傲慢を知り尽くすことで逆襲的に生きる術を実践していたとも言えるわけで、体育教師(カール・マイケル・フォーグラー)を完膚無きまでに袈裟斬りする啖呵こそが彼女の本質であったのと同時に、ダイヤモンドを取り戻した後で立ち去ることも出来たにも関わらず、優しく身を横たえてマイクを抱きしめたのも彼女の本質だったのだろうし、ある一人の女性が時代の進取として持ち得たその振幅の烈しさゆえ彼女は綱渡りから転落したとも言えるように思うのだ。最初のうちは、背伸びして大人びた振る舞いをすればするほど子供じみてしまう滑稽と哀しみでマイクを慈しんでいればよかったところが、スーザンにペットとして翻弄され続けてノーガードの脳が揺れ続けることでいつしか少年の動物が大人の理性を足蹴にし始め、しかし有効な手管を持たない幼さゆえ檻の中をうろうろと行ったり来たりする動物のようにただやみくもな反復に感情をぶつけるしかないまま、スーザンと婚約者をクラブまでつけ回すシークエンスでは、なすすべもない焦燥で同じ建物へ出たり入ったりドアの開け閉めを繰り返し、あげくにそのループの中で同じ屋台のホットドッグを6個食べる羽目になるスラップスティックは、その先の地下鉄での狼藉によって既にマイクが子供でも大人でもないアウトサイダーと化したことを告げたあげく、深夜のプールにおけるネクロフィリアの予行演習へと歩を進めることとなる。さらに続く、自分がドロップアウトした学校のマラソンレースへの乱入からスーザンの婚約指輪のダイヤモンド紛失騒ぎの中、ほとんどブラウン運動的な躁病で転げ回るマイクが駐車場を走り抜けるシーンで、それが演出なのかアドリブなのか、特にそうしなければそこを通れないわけでもない停められた車の開いたドアを走りながらジャンプして蹴りつける後ろ姿の、社会性の未熟な回路がついに焼き切れたことによる解放の血走った高揚を見て、白も黒もグレーも知らぬ15才の狂気が混じり気の無い分だけなおさらグロテスクに思えて仕方なかったのである。それだけに、絶望的な未遂で一敗地に塗れたマイクが虚ろな目で「ママ...」と絞り出した瞬間、既にカタストロフの秒読みは開始されていたのだろうし、もはや青春の不発と言うよりは男性の不発とも言うべき女性不信のオブセッションはこの後『ザ・シャウト』や『ムーンライティング』でも主人公を蝕んで崩壊に導いていくことになるわけで、15才の少年をその鋭角で思い切り殴りつけて永遠に春を奪ったその物語に『早春』と名づける地獄のセンスにあらためて戦慄する。
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2018年02月23日

羊の木/船の上ならおれが強いぜ

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原作既読。最低限の外枠だけで、登場人物および展開、結末などほとんどが脚色されている。ワタシたちがそうであるように、人殺したちにも唯物やら唯心やら腹の中の黒さやら白さやらグレーやら様々な濃淡の質があるだろうと考えてみた時、では人殺したちが日常で無作為に出くわしたなら、いったいどのような彼らなりの「社会性」が生まれるのか、そしてそれはその本性においてワタシたちとどうすれ違うのかという実験を娑婆の箱庭で行ったのが山上たつひこの醒めたグロテスクであり、そのあけすけによって暴力の気分が全体に均されていく群像劇がたどりついた、日々にかけられる薄暗い呪いによる諦念こそがワタシたちの本性なのだろうと思ったのである。というのはあくまで原作の話であって、ここでは宮腰(松田龍平)に向こう側の人間を代表させるために彼と同世代に若返らせた月末(錦戸亮)と対照させているのだけれど、それが『桐島、部活やめるってよ』での桐島と菊池、『紙の月』での梨花と隅といった、圧倒的に異化された他者への捻れた愛憎の構図にもみてとれるがゆえ、最終的には怪物の断末魔と共に手持ちの理解に収めてしまう几帳面さは『紙の月』でも感じたもどかしさでもあったのだけれど、その奥底で決定的に変質した日常にたゆたう倦怠で閉じるラストにおいて、前述した原作のかざした呪いと諦念へと手を伸ばしたようには思ったのだ。月末との対照によってあらかじめ壊れたものの哀しみをフォーカスすることで、見てはならぬ神様として畏怖される「のろろ様」に忌避される自分を重ねたのかもしれない宮腰の行く末は結果的に共同体へのあらたな呪いを更新することになりはしたものの、それよりは、お前らのように人を殺さずに生きていける人たちの断罪にしたがって罪は贖ってみたところで結局オレはオレでしかなかったよ、だから本当にオレが罪深いのかどうかお前らの神様に決めてもらおうじゃないか、と「のろろ様」に神託を乞うたと考えた方が、善悪問答の果ての無力感よりは変形のピカレスクとして退廃が深まるように思ったりもした。そのあたりの振り切れなさを先ほど几帳面としたわけで、いっそのこと宮腰が月末にとってのタイラー・ダーデンとなってもワタシはかまわなかったのだ。のろろ祭りは『ノロイ』の鬼祭以来の説得力を持つ奇祭描写だったこともあって、ならばもう少し原作寄りに装置として機能させればいいのにともったいなく思った。あのバンドでPILを引用したらキース・レヴィンにぶん殴られると思う。エヴリマンとしての錦戸亮のなで肩はとても虚ろで良いのだけれど、通じないものとしての松田龍平はそろそろお腹いっぱいな気がしないでもない。
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2018年02月21日

ぼくの名前はズッキーニ/きみの話をしよう

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「子供に意志なんてない」カミーユの叔母さんのこの捨てゼリフこそが、フォンテーヌ園の子供たちのみならず、愛されることをあきらめきれないすべての子供達に涙を流させているのだろう。だからこそ、大人たちがその意志を見誤り見過ごすことのないよう人形たちの目は大きく訴えかけるようこちらを見つめてくるのだろうし、それは子供たちの正面から話しかける大人たちとそれをしない大人たちという構図によってワタシたちへの問いかけとなっていたのではなかろうか。スキー場の夜にポール先生がDJをして子供たちと踊りまくるシーンの、子供も大人も一緒になって同じ愉しみに身を任せる姿にこそ胸が揺さぶられるわけで、何よりこれが子どもたちへの共感や憐憫を免罪符にするのではなく、大人たちが水平な視線と公平な愛情を自然で当たり前に持つことがどんな風に可能かを伝える映画であったからこそ、子供たちだけがひそやかに交わす優しさと強さを知ってそれに応える術をあなたは持ち得るかと突きつけられた気がしたのだ。おかあさんは空にいるというズッキーニのその口からこぼれ出る、僕はおかあさんを殺したという言葉の重たさや、どれだけ強がってみせようと眠った姿で親指を口にくわてしまう壊れものとしてのシモン、迎えに来たおかあさんに対するベアトリスの行動は、フォンテーヌ園で過ごしたことでおかあさんだけではいかんともし難い何かおそろしい(人種差別の)圧力が外の世界にあることを知ってしまったがゆえの拒絶だったのだろうし、そうやって子どもたちはワタシたちがそうであるように世界の二重性をかいくぐりながら生きているわけで、それは「子供に意志なんてない」という冒頭の言葉がいかに残酷で犯罪的であるかということの実証にほかならない。あなたが生きていて哀しいように子供たちも哀しいのだ、あなたが生きていて苦しいように子供たちも苦しいのだ、あなたが生きていてやりきれないように子供たちもやりきれないのだ、体が小さいからといってそういう気持ちが小さく取るに足らないことなどないのだ、とわずか1時間ほどのフィルムがどれだけ精一杯に語り続けたことか。この映画を観る子供たちはズッキーニとカミーユの希望を、大人たちはそれを見届けたシモンが自ら門を閉める孤独をそれぞれが我がものとしつつ、大人たちは子どもたちという存在の独立を知るために自らの独立を確かめ試されることになるのだろう。「凧を揚げてもいいぞ」とワタシも言えるように。
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2018年02月19日

ダークタワー/ぼくとクリスティーンとオーバールックホテルで

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角川版(第4部まで)のみ既読。言いたいことがいろいろ湧いてくるかなあと思いきや、わりとそうでもない。本来であれば『ロード・オブ・ザ・リング』レヴェルのプロダクションが投入されて然るべき、というかそうでもしなければ描ききれないキング畢生のハイ・ファンタジーではあるのだけれど、既に邦題からナカグロすらが抜けてしまっているように、こちらから何かお願いするなどもってのほかではありますが、一つだけ無礼をお許しいただけるのであれば、紛い物ではございませんが似て非なるものとしてご鑑賞いただければ幸いですというただそれだけをお伝えさせていただきたく存じます、という平身低頭を足蹴にするには親の躾が効きすぎているのであった。ナカグロがないどころか、そもそも尺が95分しかないなどとこれだけの白旗を掲げられれば誤射のしようもないわけだし、この1時間半を暗闇で共に過ごすことによってストックホルム症候群にも似た共感と好感に包まれていたことをワタシは否定しないのである。黒衣の男ウォルター(マシュー・マコノヒー)をフック船長、ガンスリンガーであるローランド(イドリス・エルバ)をピーター・パン、中間世界をネヴァーランドと夢想することで孤独な少年ジェイク(トム・テイラー)の喪失と再生と描いてみせたどころか、ローランドもまた父を喪った者であることを忘れなければ、ジェイクとローランドが父となり父とすることで父性が世界を更新する光差すキングの王道にすら手が届いていたのを忘れるべきではないだろう。しかもこの物語では中間世界をさまようジェイクが当たり前のように腹を空かせたあげく、その空腹を満たすシーンがきちんと描かれているのである。劇中で食物を摂るシーンが一切ないままアドレナリン全開で疾走し続けるでたらめな映画が溢れていることを考えてみれば、この誠実は賞賛されて然るべきだし、NYでジェイクがガンスリンガーにホットドッグを食べさせる対称まで描く周到には舌を巻く。いや、巻かないけれどどこかで巻かないことには映画が終わってしまうのである。何しろ95分しかないわけで、マイケル・ベイならジェイクはまだカウンセリングを受けている時間にちがいない。
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2018年02月18日

霊的ボルシェヴィキ/さあ、ご一緒に

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「結局一番怖いのは人間ってことなんじゃないんですか?」などと、したり顔で言い放った安藤(巴山祐樹)の額を鬼の形相の霊媒師宮路澄子(長宗我部陽子)がステッキで打擲した瞬間、「結局一番怖いのは死んだ人間ってことなんじゃないんですか?」と無言のうちに正された空気に、そうだったそうだった「幽霊は狂っているから怖い(黒沢清談)」んだった、そして人を狂わせるほどに死は怖ろしい(黒沢清談)のであって、幕開けの三田(伊藤洋三郎)の話はまさに生きたまま死の扉を開けたことのある人間が自らの死に恐怖する話であったことにあらためて戦慄したのである。それから後、この廃工場で何が行われて何が起きたのか、それこそは霊的ボルシェヴィキ、生きた人間にとっては狂気、しかしその成分は純然たる宇宙的全体の上澄みであり、それを絞り出すべく奮闘する唯物論的セクトの前衛ではあったものの、結局は幾多の先達が失敗したように生きている人間は死んだ人間の軍門に下るしかないという幽霊連勝記録がまた一つ伸ばされたのであった。しかしそれこそは人間のなすべき営為といってもよく、メメン・トモリ、死を想うことこそがすべての想像力の源となることを告げては、四角四面な喜怒哀楽のアウトサイダーたる恐怖こそがこの世の原資であることをあらためて謳ってみせるのである。顔を上げ振り向く瞬時に日が沈み、すり足で近寄る裸足の爪先は禁忌に震え、地底の哄笑が骨伝導で脳髄を揺らす。そうした濃密で超然とした太古の時間に間断なく浸けられた彼や彼女らが、死者に圧倒され屈服し生きている自分に絶望するのは自明の理であり、ならば我ら全員の総量と引き換えにこの世界を恐怖で照らし給えと願い、叶えられた祈りが裸足の子をひとり放つのであった。災厄であり救済であるその子に名前はまだないけれど、名状しがたき者というそれが名前になるはずである。『予兆 散歩する侵略者』で、椅子に座った東出昌大と夏帆がひりつく緊張と静寂に窒息しそうな空間の中で対峙する名シーン、そのオリジンはこちらであろう。待ち望んだ『悪夢探偵2』の韓ちゃん再びでワタシはたいへんに喜ばしい。
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2018年02月15日

THE PROMISE 君への誓い/ある放蕩息子の墓碑銘

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トルコ政府によるアルメニア人虐殺の歴史を訴えかける映画というとアトム・エゴヤン『アララトの聖母』を思い出したりはするものの、その虐殺にアルメニアとオスマン帝国との錯綜し愛憎渦巻く歴史を反映させるには映画の時間が舌足らずにならざるをえず、代弁者としてあらかじめデザインされた人物の投入で語られるドラマがややもすれば紋切り型に陥るのは仕方がないところなのだろう。今作においても、アルメニア人サイドにすれば今さら言うまでもないにしろ、虐殺が開始されるメカニズムは検証というよりも既に事実として描かれることもあり、何らかの形でドイツが関与しているのだろうなという類推こそしても、なぜ彼らが突然迫害され強制移住の道筋をたどるのか、残酷ショウに顔をしかめさせる上滑りの共感ではなくその痛みに寄り添って歩を進めるには、そこに駆け寄るための時間や手続きがいささか簡略化されてしまっていたように思うのだ。そこでその補助線として投入されるのがミカエル(オスカー・アイザック)、アナ(シャルロット・ルボン)、マイヤーズ(クリスチャン・ベイル)によるラブストーリーということになるのだけれど、本来がそうした装置でしかないだけに、なぜ彼でなければならないのか、なぜ彼女でなければならないのか、という交錯に今ひとつ陰影が乗らない三角関係よりは、トルコ人富裕層の子弟でありながら、軍隊とかマジでダサすぎだろ、というノンシャランを貫いたエムレ(マーワン・ケンザリ)に全力で共感と賛辞を送ってしまうし、自分がいま生きていることのすべてがエムレの死によっていることなど知るよしもないまま、愛した女を失って涙にくれるマイヤーズの脳天気に『アルゴ』におけるイラン人家政婦のことなど思い出し、ほんとアメリカ人ってやつは…、と鼻白んだのだった。それに加えて、イスタンブールに着いてアナを見た瞬間、君への誓い(THE PROMISE)をころっと忘れ去るミカエルの変わり身も実はそれなりにノイズとなって貼りついたまま、情に厚いプラグマティストという使い勝手の良い八方美人的な造型にオスカー・アイザックも空回り気味だったように思えてしまう。映画の体裁をかなぐり捨ててまで糾弾と断罪の刃で刺し違えることを選んだ『デトロイト』を観た後では、そうした時代であったとは言えこの漂泊のメロドラマは少しばかりクラッシーに過ぎて語り手が満ち足りていやしまいか。
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2018年02月14日

RAW〜少女のめざめ〜/ミート・イズ・ノット・マーダー

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真っ赤な”RAW”というタイトルをハネケやノエがそうするようにスクリーンへと貼りつけた時点では、実存がオブセッションを甘噛みするフェティッシュ殺伐を思ったりもしたのだけれど、それよりは塚本晋也的な精神と肉体の変容を思春のかぐわしい徴とでもするように上気した足取りが途切れることのないまま、しかしインモラルへの集中と凝視にもかかわらずジュスティーヌ(ギャランス・マリリエ)に終始疎外感がつきまとうことがないのは、これが彼女の羽化を見守る物語だったからなのだろうとラストで吹き抜けた風の存外の颯爽に彼女ならずとも心健やかな気分だったのである。「姉さんは悪くない。おまえも悪くない。」という父(ローラン・リュカ)の言葉に、うつむいた顔をあげたジュスティーヌの目に飛びこんだのは何だったか。いまだ色気よりは食い気が優るジュスティーヌに、お前がこれからするべきことは「私」を探すことだ、お前がアドリアン(ラバ・ナイト・ウフェラ)に答えた「深刻さ」の答えがこれなのだ、食ってばかりのうちはまだいい、やがてそれは理解と共鳴を求めるようになるし、それを愛と呼ぶとすればお前は目の前のこの愛の姿に臆してはいけないしそうする必要もない、お前がするべきことは「私という愛」を探すことだ、姉さんが不幸だったとすればそれは「私」がいなかったことなのだ、という父親の鼓舞がアウトサイダーの涙をそっとぬぐうわけで、あるシーンでジュスティーヌが「深刻な」失敗として食いちぎってしまう部位とラストでカメラが指差す父親の欠損を結びつけてみれば、母と父が自らの運命的なロマンス再びとあえてジュスティーヌの発現を促すような環境に放り込んだ切実といってもいい目論見がうかがえるようにも思う。劇中では語られないながら父はいかにして母の昏くて熱い欲望を手なづけているのか、いまだ母のイゴールとして仕えているのではなかろうかという想像すら可能な血族の物語によって、たとえば『ワイルド わたしの中の獣』のように世界のくびきを離れ幻想の荒野へと消えていくことを許さないリアルがこの姉妹の青春を甘く切ない苦痛で締めつけて、監督の誠実ゆえに避けがたい悪意をとても好ましく感じたし、切り落とされた指を拾って食べるジュスティーヌを見つめる姉アレックス(エラ・ルンプフ)が流す、やっぱりあんたもか、という安堵と哀しみの入り混じった涙のたった一滴で映画の血液を逆流させるメロウとクールネスに、できれば監督には流血する精神だけを撮り続けて欲しいと願わずにはいられなかったのである。その指を食べるシーンでパーカーのフードをかぶったまま下を向いてしまい、ずっとそのままでいた六本木の彼女は大丈夫だっただろうか。もう「食べる」シーンはないよと言ってあげられればよかったのだけど。「食べちゃった後」はともかくとして。
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2018年02月11日

スリー・ビルボード/善人はときどきいる

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ウィロビー(ウディ・ハレルソン)に向かって「あなたは自分の娘が殺されても、手詰まりでどうしようもないんだなんて言える?」とミルドレッド(フランシス・マクドーマン)は言わないし、アン(アビー・コーニッシュ)に向かって「でもあなたの娘はまだ2人も生きてるじゃない?」とも言わない。ディクソン(サム・ロックウェル)はミルドレッドに向かって「おれがビルボードを燃やしたと思ったんだろ?」とも言わないし、ロビー(ルーカス・ヘッジズ)はミルドレッドに向かって「母さんのせいで姉さんは死んだんだ」とも言わない。なぜ言わないのかといえば、それを自分が言うのはフェアではないと知っているからで、血と炎と暴力が句読点を打ち続けるこの物語がそれでも最終的な正気を失ってしまわないのはその矜持が最後の砦となって食い止めているからだし、性善ともちがうどこかしら浮世離れした愛と暴力の潔癖は監督が『セブン・サイコパス』でも描いていた光源だったようにも思うわけで、ないものねだりへの飽くなき共感を映画の目的とするならば、ワタシにとってはほぼそうでしかないけれど、ラストでくたびれたフォードの運転席に差し込む穏やかに倦んだ優しいあきらめの光は、そこでかわされる生きた人間の言葉をついには正解と祝福していたように思うし、それは愛と怒りを両翼にもつ天使のようだったウィロビーですらが世界との繋がりを断たなければ言えなかった言葉の獲得であり、ワタシたちの輪郭は言わないことと言えないことでできているのだとするその哀しみの共有でしか人は繋がれないという、ペシミズムを逆説的に肯定する強さこそを愛と呼べとする啓示のようでもあったのだ。それは折々で「なかなかいない善人」として現れるペネロープ(サマラ・ウィービング)が言葉を曇りなく信じる人であったことにもうかがえて、分断されるアメリカを解体し再構築するキューがもう一度自分の言葉で自分が何者かを語れという相互理解すら幻想しない提案であったのは、マーティン・マクドナーがアメリカを外から視るがゆえにかわした自家中毒のワクチンという気もしたのである。そして何より、自分だけが知る自分があるように誰もが自分だけの自分を抱えていることを知ること、そうやって語られない物語に思いを馳せてその糊しろで世界を貼り合わせていくこと、それには常に想像力の風を吹かせていること、という祈りにも似た筆使いによって、母への愛憎に顔をしかめながらも暴力をかざした元父チャーリー(ジョン・ホークス)の喉元へ瞬時にナイフをあてがったロビー、怒りにまかせてひっくり返したテーブルを自ら直す元父チャーリー、ディクソンの隠された屈託を知りつつそれをことさら狙わないママ(サンディ・マーティン)、そのママがテレビで見ている『赤い影』もまた娘を亡くした父親が世界から彷徨い出す物語であったこと、といった端々のつづれ織りが世界の全体性を獲得していたように思うのだ。そして行き着いた「あんまりそうでもない(Not really)」という永遠の寸止めこそが、今日よりは明日、明日よりは明後日と、生きることを固定されたワタシたちが誰にも明かすことのない奥底の本心なのではなかろうか、だからこそこれほどまでに懐かしくも切なく胸かきむしられるような想いでミルドレッドとディクソンを祝福してしまうのではなかろうかと震えてしまったのである。『断絶』のラストの先を走る映画がようやく撮られたのだと思う。ところで、レッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)が読んでいたオコナーは、ページの進み具合からして「人造黒人」あたりだろうか。
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2018年02月04日

ジュピターズ・ムーン/重力と恩寵

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アリアン(ゾンボル・ヤェーゲル)の重力をあやつる能力はそれを獲得したというよりは、ラズロ(ギェルギ・ツセルハルミ)の放った銃弾が、彼をというか人間をこの世界にしばりつけている重力の鎖を断ち切ったという方がふさわしいように思ったのである。前作『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』では地面を這う犬が世界を見上げる視線と、それら這うものを見下ろす人間の視線が交錯する瞬間に喪失と再生の希望を託していたのだけれど、今作における見下ろすものと見上げるものの逆転は、なお希望を失うばかりで光の気配を持たない世界に憐みを見出す物語へと、前作の犬たちが北風であったなら今作はアリアンを太陽と見上げるその眼差しに救いを見出すことを、憎悪の銃弾が啓示を呼び覚ます恩寵によって促していたようにも思うのだ。とは言えこれが届かぬ陽の光に手を伸ばし焦がれる人たちの物語であるだけに囚われた世界の下衆と苛烈はいっそう容赦がないばかりか、コーネル・ムンドルッツォ監督の深まる鬼才が主にその活写へと注ぎ込まれたこともあり、恐怖を塗布し神経を圧迫する緩急と跳躍の長回しに心奪われる瞬間がこの映画を説諭の口調から解き放っていて、その衒いのなさはあえてのSFというジャンル映画への拘泥というか、優れたSF映画が社会的な意匠を暗黙のうちにまとってしまうそちら側からの切込みにみてとれて、ワタシはうなじが熱っぽく疼きっぱなしであったのだ。冒頭の越境からの脱出シーンで森の中を地を這うように逃走するアリアンに、潜水のごとく息を止めたままどこまでも執拗に並走するカメラの横移動にこちらの息も続かなくなった果てで垂直に起きる秘蹟の禁忌にも近い衝撃や、終盤のカーチェイスにおけるまるで車の意志がカメラに乗り移ったかのように食らいつくカメラは、ある瞬間のちょっとした出来事によってドライヴァーの憎悪と悪意が車そのものと同化していることを告げてみせて、まだカーチェイスにこんな追い方が残されていたのかと座席で足を踏ん張ってしまっていた。3年前の前作では1匹の雑種犬が雑種であるがゆえに負わされる悲劇と受難を、その理由を国籍や、人種、宗教、ジェンダーといった言葉に置き換えて余白で語ることも何とか可能だったのが、今作ではもはや現実にメタファーが追いつけない事態に陥っていて、アリアンの浮遊の奇妙な生々しさは現実世界が既にSFもマジックリアリズムも喰い尽くしてしまったがゆえ、奇跡すらが後光もなく剥き出しに引きずり出される寄る辺のなさによっているのだろう。ラストでラズロがアリアンを撃ち落とせなかったのは、かつて自分が放った銃弾が目の前で宙に浮くアリアンを生み出したフラッシュバックによって、次の銃弾がいったいアリアンを何に変えてしまうのか恐怖させられたからなのだろう。自分が信じた者に殉じて死んだシュテルン(メラーブ・ニニッゼ)の法悦にも似た表情と、世界が信じ始めた者に背を向け畏れるしかないラズロの表情とがつきつける選択の直接性と性急は、届く人にだけ届けばいいというアートの傲慢をかなぐり棄てたメッセージでもあり、それはカウリスマキが最新作でも隠すことをしなかった追い立てられるような焦燥であったようにも思うのだ。考えているよりもほんとうにまずいことになっている現実にワタシは追いつけていない。

サブタイトルに書名を借りたので、あわせてシモーヌ・ヴェイユの重力に関する見解を。
重力。一般に、われわれが他者に期待するものは、自身のうちなる重力の作用により決定される。われわれが現実に受けとるものは、他者のうちなる重力の作用により決定される。ときに両者は(たまたま)一致するが、たいていは一致しない。
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2018年01月31日

デトロイト/アルジェの戦い

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一人の痩せて背の高い黒人が足もとの石を拾って商店のウィンドウにやおら投げつけた瞬間こそが号砲ということになり、文字通り彼が一石を投じたわけである。とは言えいつか起きるはずのことがこの夜に起きたというだけで、正気の黒人を狂気の白人が狩り立てるという図式自体に新たな解釈を見つけるわけでもなく、たとえばこれが一昨年あたりにアメリカのどこかで起きた事件をモチーフにしていたとしてもスクリーンにないのはスマホくらいなもので、ではキャスリン・ビグローが燃やした野心が何だったのかと言えば、もはや黒人の迫害があたりまえの日常と化して麻痺した酩酊の迎え酒として、さらに強烈な度数のアルコールを頭をおさえつけ口に突っ込んだ漏斗から注ぎ込む蛮行ともいえるショック療法をただひたすら施すことだったように思うのである。その装置として警官クラウス(ウィル・ポールター)は、まとった悪もいまだ稚拙で幼い見習いの悪魔として滑稽なまでに戯画化され、クラウスとその仲間たちの悪辣と非道と阿呆を際立たせるためなのか、同じデトロイト市警の殺人課刑事はレイシズムを憎むリベラルとして描かれる始末でにわかには信じがたい部分もあるのだけれど、この夜を境に運命をねじ曲げられていく黒人たちの時間が血と涙と吐き気とで丹念に彩られていくのに対し、監督は明確な悪意を持って白人を役立たずの木偶として描くにとどめ、この夜を彼らの欠席裁判とするためその発言をほとんど認めていないというか必要とすらしておらず、唯一認めたのはクラウスとその仲間たちが自分たちのしていることの違法性を終始認識していたことを明かす一点でしかない。したがってあの夜アルジェ・モーテルで何があったのかという検証と構築のドラマとしては客観性とバランスを欠いているし、ラリー(アルジー・スミス)の苦難と救済という筋以外は群像劇としてもまとまりを欠いたまま投げ出されてもいる。しかし監督は、かつて先住民を駆逐した白人によるマンハント=人間狩りの歴史の連なりとしてこの夜があることを告げさえすれば、そしてそれらアメリカの黒歴史がいまや正史として開き直りつつあることに唾を吐き中指を立てることの意志を告げさえすれば、その苛烈の切っ先を均さないためにはむしろ荒ぶった剥き出しのまま「映画の完成度」と刺し違えることを望んだのではなかろうか。この暴動の10日ほど前にこの世を去ったコルトレーンを、その才をヘロインによってスポイルしたと言ってラリーは憐れみと怒りとで語るのだけれど、そうやって彼が隠すことをしない黒人社会を構造的に蝕むドラッグへの嫌悪はその後彼が選び続ける行動の揺るぎない裏づけでもあるし、この映画が最後にしのばせる救済と恩寵の場に彼がいることこそが、光に向けて監督が唯一託したメッセージでもあったのだろう。白人にかけられた呪いを抱えたままその呪いの源に触れざるを得なかったことでディスミュークス(ジョン・ボイエガ)は自家中毒を起こし吐いてしまうのだけれど、その横断を常に黒人の側に頼らざるを得ない身勝手への嘆きはどこかしらオバマ時代への懺悔にも思えてならない。その名の由来を知らなけれど、アルジェ(Algeri)と聞いて思い浮かべるあの映画がスクリーンからとどろかせた爆風を精神的支柱に、キャサリン・ビグローはこの最前線のような映画を撮ったに違いないと考えている。
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2018年01月30日

ルイの9番目の人生/この世のものとは思えないあの世

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もちろん誰かしらは死んでいるものの、それら人間が死ぬ瞬間のストーリーを料金の内としてきたアジャにしてみればそれなりにチャレンジともいえる封印をしてみせて、状況としての生き地獄を活写するというよりは、よすがとしての生き地獄を蠱惑する嗜みは前作『ホーンズ』からさらに沖の方へと舵を切っていたように思うのである。『ベンジャミン・バトン』的なチャームを匂わせる予告篇を観て、アジャもそろそろお年頃かと知った風な気分になってはいたのだけれど、フタを開けたそこにあったのは主人公ルイ・ドラックス(エイダン・ロングワース)と母ナタリー・ドラックス(サラ・ガドン)がお互いをピアノ線のような絆で締め上げることでしかその結びつきを知ることのない命がけの根性試しだったわけで、生と死を幾度となくくぐり抜けることで神経を過剰な鋭敏で研ぎ澄ませたルイがいつしか母親の愛情と偏執の正体に気づいた時に受け入れた運命を、アジャはいまだ汚れを知らぬ透明な生き地獄として幻視してみせている。どんなに絶望的に底の抜けたグロテスクを描いてもアジャの映画から品格が失われないのは、それはピラニアに食い殺されるビキニのブロンドに至るまでキャラクターを安普請の憐憫で描くことなく常に敬意と忠誠を忘れないからだし、それによってルイの造型にヴィヴィッドな少年の浮力とシニカルな老成の沈鬱を口数少なく同居させることで、一見したところの残酷極まりない悲劇をルイにとってのハッピーエンドとするアクロバットにも成功したように思うのだ。ただそうやってルイという少年の空中散歩に夢中になるあまりなぜルイは崖から落ちたのかというそもそものミステリーが稀薄になっていくのは否めないにしろ、次第にルイの独白が奇想の輝きを放ち始めるに至り、これもまたアジャが反復するサヴァイヴァーの物語であることに気づかされていくわけで、『ホーンズ』を受け継ぐような異形の救済にたどり着いてみせたアジャにストーリーテラーとしての深化をうかがって舌を巻いたのである。生と死の波間を孤独を知った老人の笑顔で泳ぐ少年ルイを演じたエイダン・ロングワースをはじめ、彼岸のファム・ファタールとしてのサラ・ガドン、文字通り最期までルイを愛し続ける父ピーターを演じたアーロン・ポール、大きな子供の茶目っ気と洞察でルイに独白の言葉を与えるペレーズ医師を演じたオリヴァー・プラットなどなど俳優陣の配置も絶妙だったのだけれど、『キスト』で演じたたおやかなネクロフィリアがいまだ忘れがたいモリー・パーカーの尊顔に接することができたのが何より僥倖であった。最近はニュースも聞かなくなったけど、アジャにとっての『コブラ』がデル・トロにとっての『狂気の山脈にて』にならなければいいなあと思う。
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2018年01月25日

パディントン 2/善い熊はなかなかいない

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パディントン(ベン・ウィショー)の誰に対しても変わらぬ親切や礼儀正しさにどうして鼻白むことがないのかと言えば、それがあらかじめ備えたイノセンスの発揮や性善のひらめきに頼っているのではなく、たとえばルーシーおばさんの言葉としてたびたびパディントンが口にする「他人に親切にするとそれは自分に返ってくる」という教えにうかがえる戦略的ふるまい、すなわちマナーということになるのだけれど、それがルーシーおばさん(イメルダ・スタウントン)を先生として学習によって身につけた文明社会へのパスポートとして、身体ひとつで異国の地を生きる異邦人の切実なサヴァイヴァルツールにも思えるからなのだろう。そしてそれをある種の手続きと踏まえた上でパディントンは、でもそうやって世の中や他人の明るいところを見つけて生きた方が、「赦すのはたった一度でいいんだよ、でも腹を立てたらそれを一日中、毎日、ずっとそうしていなきゃならないからね」という某映画のセリフにもあったように、愉しくて快く毎日を過ごせる上だいいち誰も損をしないじゃないか、と告げてみせているのである。もちろんそれを言うのは容易いし、何よりその踏み出す第一歩の“無償”を誰が負うかというチキンレースこそが成熟しきった文明社会の倦んだ悪癖でもあるわけで、眼をキラキラさせながらその一歩を痛快に踏み出すパディントンに心を揺らされるばかりのワタシたちは、個人主義というよりはもはや孤立主義と言ってもいいその泥沼に足をとられていることにあらためて気づかされるのではなかろうか。そしてポール・キング監督は、その一歩に躊躇を感じさせて映画の気分がふさいでしまうことのないよう、顔がほころぶ程度に躁病的な多幸感を絶妙なさじ加減でふりまき続けてみせるわけで、とりわけグルーバーさん(ジム・ブロードベント)のお店でパディントンが飛び出す絵本を開いた時にかけられた魔法によって、これから先この映画では愉しいことも哀しいこともすべては善いこととして起こるに違いないことを確信させられてしまうのである。この魔法をスラップスティックなリズムで刻み続けるやり方についてはウェス・アンダーソンを師と仰いでいるのは言うまでもなく、本来であれば停滞しがちな刑務所のシークエンスにおいてそれはほとんど夢見心地に奏効している。してみると絶対的な悪という存在をなかなか描きづらい中、フェニックス・ブキャナン(ヒュー・グラント)の憎めない狡猾をヒュー・グラントその人を利用して戯画化しつつ、いつしかお人好しの子グマと狡いキツネの追いかけっこへとファンタジーを描き変えてみせることで罪とか罰とか言った興ざめをかわすやり方については、ブキャナンを善人へと改心させることなく着地するラストに見事だったように思うのである。とは言え、ゴジラと子グマとイーサン・ホークと半魚人に笑顔で渡りあうサリー・ホーキンスこそがやはり最強。
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2018年01月20日

目撃者 闇の中の瞳/Always Crashing in the Same Car

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※展開に触れています

割れたサイドミラーのひびの数だけびっしりと蠢く眼、眼、眼の、これが複眼の視座で語られる藪の中案件であることを告げるにしてはあまりに禍々しく忌まわしい厭らしさに、なんだそういうつもりの映画なのか!と初っぱなで身が引き締まったのである。したがって、ミステリーとして決してフェアとは言えない視点の乱立を瑕疵とするのは野暮というもので、最期には誰が死んで誰が生き残るのかを思い返してみればこれが一種の蠱毒としてあることに気づくはずだし、シャオチー(カイザー・チュアン)はサイドミラーの向こうに在るこの世ならざるものに見初められ、あの世がこの世を蹂躙する傀儡=くぐつとして契約するに足る者かを試されていたように思うのだ。それにシャオチーがどうやって抗いつつ最終的にはどんな音を響かせて心を折ったのか、折るべき心を持ち合わせないウェイ(メイソン・リー)のあっけない脱落と土壇場で勝ち抜けたシャオチーにあの世の真意がうかがえるわけで、この世で一番恐ろしいのは自分が人生をかけて信じたものにまったく意味も価値もないことを知らされることだけれども、今の自分はそれを世界に知らせる者として在る幸福を獲得したのだとするピカレスクをワタシは勇敢なハッピーエンドとして讃えたい。前述した藪の中の構成については、角度によってはこう視える、あるいはそう視ざるを得ないというよりは意図的な偽りを挿入している点で成立しているとは言い難いのだけれど、そうした独白以外の地の文においては、誰が何を視ていて何を視ていないのかといった視線の交錯を丹念かつ緻密に描くことで主人公シャオチーの知らない手がかりをきちんと観客に与えていることもあり、例えば序盤でマギー(シュー・ウェイニン)がシャオチーに向ける眼差しはその後ずっと喉に刺さり続ける小骨のようでもあるし、「目撃者」(原題ママ)というタイトルを常に意識してシャオチーが視たものと自分が視たものをつなげていくことで、謎解きのサスペンスというよりはシャオチーがあの世に見出されていく魂の変遷をスリラーとして体感できるのではなかろうか。あそこであんな美しいダルマを映してダメを押すような監督をワタシは信頼しないわけにはいかない。
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2018年01月13日

ブリムストーン/神がベッドで建てた国

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玉ねぎの皮を一枚一枚剥くようにして折り重なった時間を遡っていく手つきはそれなりにエレガントで目を引くわけである。しかし、すべての皮を剥き終えた時そこにあったものはといえば、それは空っぽ(empty)というよりは空(vacant)というべきで、空虚とか虚無とか言った失われた存在が生み落とした闇というよりは、単に何かを入れ忘れたかのようながらんどうだったように思うのだ。もちろんワタシが言っているのはこの物語の芯と祀られる牧師(ガイ・ピアース)のことであり、リズ(ダコタ・ファニング)が玉ねぎの皮を剥く存在にとどまってしまい彼女が彼女の物語を語り得なかった点でこの映画は行き場を失ってしまっている。“これは愛と暴力と信仰を巡る、壮絶な年代記(クロニクル)。”という惹句に照らしてみれば、その時代背景といいワタシはコーマック・マッカーシー「ブラッド・メリディアン」を重ねて観るべきかとすら思っていたのである。暴力も戦争も初めから我々と共に在ったものだ、言うなれば神がお造りになったものだ、それをお前たちは崇拝しないでいいのか、と言いつつすれ違いざまに世界の風景を一変させていく判事をガイ・ピアース演じる牧師に重ねて観るべきかとすら思っていたのである。あるいは『狩人の夜』においてすべてのイノセンスが見る悪夢として現世にさまよいでたロバート・ミッチャム演じる偽牧師を重ねてみるべきかとすら思っていたのである。してみれば「私は呪われた人間だ。救済も届かない。だから何も恐れるものはないのだ」と開き直ったペドフィリア&インセストの変態ダブルコンボでしかなかったこの牧師にワタシが抱く殺意はきわめて真っ当で正当であったといってかまわないだろう。もちろんリズが牧師に対して抱いたそれとは月とスッポンほど相容れないドス黒さであることは言うまでもない。そのリズにしたところで「彼女は戦士だった。その時代、生きのびるにはそうでなければならなかった」というオープニングのナレーション(この声が誰のものであったかについては展開上一応伏せておく)がどこかしら上滑りに感じてしまうのは、リズという女性が銃口を向けるのは女性たちを慰みものと忌むべきものとしか扱わぬ男たちの社会に向けてではなく単に窮鼠猫を噛む行動としてそうしているだけで、女性という運命の枷を断ち切って自由を手に入れるべく命を散らした戦士はむしろ娼婦仲間のエリザベス(カリラ・ユーリ)がその名にふさわしいように思うのだ。そうやって牧師に象徴される記号とクリシェでしつらえられた強者と弱者の絵日記において俄然監督の筆が走り出すのは女性が嬲られいたぶられ苛まれるシーンであって、リズが家を飛び出した日のベッドに忍び寄るカメラがシーツをクロースアップするうんざりするような卑近で愚直な説明ショットは、それをそう映したことで得られるものと失うものの均衡すら彼方に飛ばしつつこれを撮らないでどうすると凄む監督の狂気を照らしたホラーの瞬間であったように思うし、それは“そういう人間と獣の契る時代”を描きたかったからだという監督の飢えた情動が荒野を一人歩きする様はこれが『マンディンゴ』の系譜に連なるエクストリームショウであることを誰の目からも隠すことをしていないどころか、むしろ見せつけることに恍惚としていたとすら言っていい。ならばなおのこと、あまりにも雑なリズの縄抜けには落胆してしまうわけで、自分の身体で試してみればわかることだけれど自ら肩を外さない限りあの動きは不可能だし、それまで特にリズの肩関節に関する伏線もなかったこともあって、自分で自分の舌を切った過去も含め「痛み」に対する耐性を獲得しなければ生きられなかった彼女の象徴として行われる行為でもあるのかと思ったものだから、絶叫のあと両肩を外した状態での両手ぶらり戦法でいかに牧師と闘うのかワクワクしていたところが、なんと何事もなかったかのようにあっさりとライフルをかまえてぶっ放してしまうのである。その時のワタシの唖然茫然悄然がご想像いただけるだろうか。つまるところ反逆する生贄は監督の視野にないというそういう映画なのであった。避けたい人は避けた方がいい。無理する必要はまったくない。
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2018年01月11日

ジャコメッティ 最後の肖像/デッドラインでさようなら

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芸術家は何をもって最後の一筆として今回の試みはここに達成されたと宣言するのか、といった興味などあてにしつつ観ていたところが、それはもう洒脱というよりはあっけらかんと肩透かしをくらうわけである。他の芸術家はともかくジャコメッティ(ジェフリー・ラッシュ)について言えば、それは要するに私は対象を見切ったという傲慢の徴と言えるのではないのかね?自分も対象も日々うつろっていく人間である以上、その両者の間で決定され固定される関係など弱気で都合のいい幻想に過ぎないのではないのかね?とでもいった、生きている以上すべては不確定に未完成なままだし私のしていることはその点においてのみ意味があるというマニフェストをウィンクしながら宣言していたように思うのだ。だからといって彼は霞を喰う世捨て人というわけではなく、むしろ人生の手ざわりを謳歌しながらも人生を狩りの場とすることはしないキャッチ&リリースの眼差しが時に周囲の理解を阻んだりはするにしろ、スタンリー・トゥッチはそこにジャコメッティならではの人生に対する慈愛と畏怖を見つけることに成功しているし、人生にそう都合良くクライマックスなど訪れてはくれないのだという“外し方”は既に『シェフとギャルソン、リストランテの夜』でその終わらなさへの愛憎と共に語られていたとおりである。行きつけのカフェで、言わずともテーブルに運ばれるゆで卵とハムとパンをナイフとフォークでかちゃかちゃとやっつけながら赤ワインをぐいっとあおれば絶妙のタイミングでギャルソンがお代わりを注ぎ、これまた何も言わずとも2杯のカプチーノが運ばれてきて1杯はロード(アーミー・ハマー)の分なのかと思いきやその2杯を立て続けに飲み干し、ポケットからしわくちゃの札を出してテーブルにそっと置いて立ち上がるこのワンカットの滋味が人間ジャコメッティのヴィヴィッドに平坦な生を活写してみせて、ああ、今度も卵料理がカットを締めるんだなと『リストランテの夜』ではうつろう日々の中で数少なく確かに在るものの象徴として焼かれたオムレツなど思い出したりもしたのである。「きみの顔は正面から見ると凶悪犯に見えて、横から見ると変質者に見えるな。いずれにしろ、刑務所か精神病院行きだ。」といじられては「光栄です」とたおやかに返すロードを演じたアーミー・ハマーの、邪気のない背筋が控え目な補助線となることでこの映画の端正を保ち続け、やはりこの人はわざわざ汚れたり捻れたりしない方が静かで緊張感のある光が差すように思う。それはもうジェフリー・ラッシュとあっさり自然と拮抗するほどに。クレジットロールで見かけたスティーヴ・ブシェミの名前に、そう言えばこの音楽を手がけたエヴァン・ルーリーはブシェミの初監督作『トゥリーズ・ラウンジ』でもクレジットされていたことなど思い出し、実存の手がかりではない自由への憧憬としてのボヘミアン礼賛にニューヨーク・コネクションの目配せが滲んだりもしてこの贅沢で闊達な諧謔に一も二もなく組み伏せられてしまい、90分の短い夢が醒めてしまうのが少しばかり腹立たしくすらあった。愛人カロリーヌ(クレマンス・ポエジー)に買い与えた赤いBMWのカブリオレでジャコメッティとロードとカロリーヌの3人でドライヴするシーンに流れるフランス・ギャルの「ジャズ・ア・ゴー・ゴー」が、この映画にしのばされた目は笑っていないノンシャランにダメを押す。
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2018年01月07日

キングスマン:ゴールデン・サークル/バカが作るんだ、人間を

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あら?こうやって倒れてるだけでいいのかしら、涙みたいに血を流したり鼻や口から血がダダ漏れにならなくてもいいの?、ほら、あのエボラウイルスか何かの患者みたいにズタボロになるんでしょわたし、あら、そうなの、グチャドロのメイクでスチル撮ってもらっおうと思ってたのに、な〜んだ残念。とズバコ〜ンなジュリアン・ムーアなら嘆いたに違いないはずだし、カウンターの向こうを覗き込んだワタシもまったく同じように嘆いてみたりもしたのである。キャラクターによって軽重をつけない人死にがニヒルよりはポップを生むやり口は相変わらずながら、前作を駆動させた下克上を駆け上がるエグジー(タロン・エガートン)のスピードとリズムをあてにできないこともあって、わざわざ船頭を増やしてみせた上で船頭多くして船山に登ることのないよう片っぱしから船頭を殺していく子供じみたマッチポンプはいかにもマシュー・ヴォーンであったわけで、行って帰ってくる物語などはなから諦めたようなこの映画が最終的にどこへたどり着いたのかというと、それはマリワナ礼賛であったというどうにも底の抜けたノンシャランだったのである。ティルダ王女(ハンナ・アルストム)が吸うジョイントもリアム(トーマス・ターグース)がくゆらすパイプも劇中で映し出されるブツはすべてマリワナであって、(あなたみたいな糞野郎のために)日に20時間休みなく働いてればそりゃ薬も要るわよ、特に私みたいな善良な人間ならなおさらね!とエミリー・ワトソンに切らせた啖呵こそがこの映画で唯一マシュー・ヴォーンが挙手して述べた心情だったようにも思え、ポピー(ジュリアン・ムーア)がつきつけた完全な合法化による市場のコントロールという条件の持つどこかしら真顔な説得力の正体もそんなところからやって来ていたように思うのだ。したがって、夢うつつで遊んでは蝶々を視ていたハリー(コリン・ファース)が自身を素面に戻すのもそれはヤク中を救うための崇高な自己犠牲に他ならず、行って帰ってくる物語ということで言えば最後に用意されていたのは善良なるヤク中が無事に家へと帰っていく大団円であったわけで、言ってみればこれはマリワナ解禁に立ちふさがりつつあるトランプ政権に向けたマシュー・ヴォーンからのファックサインということになるのだろうし、へらへらとだらしなく脇の甘いところだらけで誰も聞く耳を持っていないようなのが哀しくはあるけれど、そうしたチーチ&チョン的側面からワタシはこれを支持したいと考える。そうしてみれば、ウィスキー(ペドロ・パスカル)の最期はいくらなんでもオーヴァーキルではないかという向きもあろうかと思うけれど、おそらくは原理主義者たるビジランテの象徴としての報いということになるのだろう。製作のタイミングからしてこれが前述したようなトランプ政権へのあてつけでないのはもちろん言うまでもないのだけれど、現実がすべてのカリカチュアを無効化してしまうという意味でやはり恐るべき状況にあることをあらためて痛感したのは事実だし、もはや『マーズ・アタック!』のジャック・ニコルソンも『デッド・ゾーン』のマーティン・シーンも『マチェーテ・キルズ』のチャーリー・シーンも現実の貧弱なパロディに過ぎないわけで、服なんか着るやつは阿呆だと得意げな相手に向かって、王様は裸だ!と叫ぶ敗北感を今ワタシたちは歴史上初めて味わっているのは間違いない。それにしても、これでPG12というのはなかなか画期的ではあるので、スクリーンいっぱいに映し出される生殖器官内部に目を凝らすなどして若い衆は豊かな情操を育んでいただきたいと思う。
posted by orr_dg at 19:57 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする