2018年08月15日

インクレディブル・ファミリー/つよくて大きいアメリカの赤ちゃん

IMG_2071.JPG
オフィシャルサイト

※内容にふれています

MCUで苛烈なまでに稼ぎまくるディズニーへヒーローなんぼのもんじゃいと立てた中指のみならず、あげくの果てにはスクリーンを捨てよ町へ出ようとアジりまくるスクリーンスレイヴァー=イヴリン(キャスリーン・キーナー)が鏡像的に反射するヴィランだったこともあって、そういうお前はどうなんだ、かく言う自分はどうなんだとブーメランが飛びかっているうちに雨降って地固まった世界の水平性を見晴らす視点はブラッド・バードが自身に課したリセットでもあったのだろうし、ジョン・ラセターの名前をクレジットロールに見つけた瞬間にその仕掛けが完成するという皮肉というよりは必然こそをこの作品が求めたということになるのだろう。ヒーローとはそもそもがマイナスをゼロに戻すための存在であって、果てなきプラスを幻想する人々とそれを否定しないヒーローたちに向けられるイヴリンの敵意と嫌悪が正気の沙汰であるのは言うまでもないし、その代表者とも言えるイヴリンの兄ウィンストン(ボブ・オデンカーク)のまとう無邪気な危うさは、実の妹が自分を裏切るヴィランであったことを知ってなお一顧だにしないラストの笑顔に象徴的で、実は彼こそが潜在的なヴィランであった気すらしてしまうのである。ヘレン=イラスティガールを初めて目の前にしたヴォイド(ソフィア・ブッシュ)が思わず口にしたヒーロー=異能者としてのX-MEN的な疎外感に、今回はそこへも踏み込むのかと期待と危惧が半々でいたのだけれど、結局は祝福されるスーパーパワーの象徴としてのジャック=ジャック(イーライ・フシール)の活躍がすべてをかき消してしまうことになるわけで、イヴリンとヴォイドの共闘に光と影の屈託が感応したわけでもなかったのは少しばかりもったいないなあと思ってしまった。各自がエゴを剥き出しにするパー家にあって、弟にして長男という板ばさみにもかかわらず、せいぜいがやんちゃ程度でぐれることもなく家族の下支えとして文字通り奔走するダッシュ(ハック・ミルナー)が巧妙なシナリオの発明となっていて、ワタシがヴィランなら真っ先にダッシュを無効化したにちがいないのであった。エンドクレジットシーンでなくゴージャスでファンキーでソウルフルなエンドクレジットソングだったのは思いがけないカーテンコールでちょっと新しいスタイルに耳からうろこ。
posted by orr_dg at 16:48 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月08日

ミッション:インポッシブル フォールアウト/世界を救うまで待っててベイビー

mifo_02.jpg
オフィシャルサイト

劇中で2度あった夢オチから抜け出せないまま、夢から覚める夢を見たとでもいうふわふわと足元の定まらないステップが、イーサン・ハント(トム・クルーズ)の薄ぼんやりとした寝起きのような頬のラインと相まって、なんだかワタシは夢とうつつの間でまどろむイーサンのレム睡眠を覗き込んでいる気がずっとしていたのである。これまでは状況の表面張力が限界となった瞬間、解き放たれるように飛びだし走り出していたアクションが、ここでは自分が再び眠って夢の中に堕ちてしまわないよう自分で自分の頬を張り続けるための作業であったようにも思え、爽快や痛快というよりはマイナスをゼロに戻す徒労をひたすら見守る閉塞に締めつけられる気もして、それは冒頭のベルリンにおける失策に端を発する敗戦処理の気分がこの映画を支配し続けるのと同時に、イーサン・ハントという稀代のエージェントに忍び寄るミッドライフクライシスにも似た精神の倦怠と沈澱との闘いがさらに拍車をかけていたように思うのである。ウォーカー(ヘンリー・カヴィル)の「彼は仕える相手にあれだけ何度も何度も裏切られてきた」という言葉が告げるように、抉るような裏切りがイーサンの動機と激情をキックし続けてきたことは言うまでもなく、その結果として生まれたのが狂気のノブレス・オブリージュ・マシンとしてのイーサン・ハントであったわけだし、ラストで3度めの夢から醒めるかのように目覚めたイーサンがジュリア(ミシェル・モナハン)に向って「許してくれ、すべてのことを許してくれ」と言う時、それはマシンであった自分の否定とそれが導く新たな人間宣言であったように思うのである。前作でイルサ(レベッカ・ファーガソン)をイーサンの鏡像とすることでローグ・ネイションの住人としてのメランコリーを投影してみせたように、今作ではウォーカーをその役にあてることでマシンvsビーストの構図によるスイングを狙ったのだろうけれど、存在自体がマクガフィンと化したソロモン・レーン(ショーン・ハリス)のまるで緊張感を欠いた介入もあってウォーカーが血の通ったキャラクターというよりはスマートなジョーズ(リチャード・キール)にしか映らなかった失敗は、やはり今作がイーサン・ハントのセルフ・カウンセリングに終始したことの功罪に依っているのは間違いがないところだろう。しかし、暴走するノブレス・オブリージュ・マシンとしてのイーサン・ハントを崇拝してきたワタシのような人間にしてみれば、人間宣言をしたイーサン・ハントが今後も常軌を逸したカリスマを保ち続けることが果たして可能なのか、出たとこ勝負で仕上げた(ように映る)今作のツケは存外に大きいものであった気がしてならないのである。ワタシが観たいのは躊躇なくヘリからパイロットを放り出して転落死させる洗練された合理的な運動としてのイーサン・ハントなのだけれど。
posted by orr_dg at 22:41 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月05日

ウインド・リバー/赤い雪のブルース

windriver_01.jpg
オフィシャルサイト

吸いこんだ空気で肺すら凍る酷寒の中を6マイル走り続けなければならなかったのもその6マイルを走り続けることができたのも、ウインド・リバーに生まれ落ちたナタリー(ケルシー・アスビル)の血と肉が呼び寄せた運命に他ならず、しかしその運命を決定しているのは、おまえたちはここからどこへも行くことはできないというアメリカのかけた呪いであり、動き続けることで自由を獲得してきた彼の国にあってそれはほとんど死さえ意味するに違いなく、そんな風にして生まれながらに死んでいるものたちの土地で繰り広げられる殺戮は、それは例えば時折吹き荒れる吹雪のような自然のひと触れとしてやってくるに過ぎない。したがって、この地に生きることを決めたコリー(ジェレミー・レナー)は死に対して従順であることを受け入れていて、その見返りとして彼にいっさいの衒いも迷いもない引き金を与えている。病院のベッドでジェーン(エリザベス・オルセン)の流す涙は、自分の属する「アメリカ」がかけた呪いに殺されかけた衝撃と罪深さが、それまで彼女の与り知ることのなかった自身の内部を激することでこぼれ落ちた感情の滴なのだろう。コリーがジェーンに「きみはよくやった」と言う時、それはよく生き延びたというよりはよく殺したという言外を持つにちがいなく、定型であれば反目し合う内に理解と愛情が育つ関係になるところがコリーは端からジェーンにバックアップの手を差し伸べていて、そのメンターとしての役割は『ボーダーライン』におけるケイトとアレハンドロの関係を容易に想起させるわけで、してみれば、テイラー・シェリダンが囚われているのは抹殺された現実の告発というよりも、境界を超えた者に訪れる永遠の変質であるように思うのである。真夜中に強装弾を仕込むコリーのところに、起きてきた息子のケイシーが近づいて悪い夢を見たんだと小さく告げるシーン、自分の膝の上にケイシーをのせて束の間それぞれの静かな屈託に浸る時間はこの土地に生きるもの同士が呪いの感応を確認する儀式のようでもあり、しかしそれを悲劇というよりは静謐な諦念と彩る筆使いで描くテイラー・シェリダンが幻視するのはアメリカの原罪を解剖するメスさばきそのものなのだろうと、昏れていくアメリカの寄る辺ない語り部があらたに生まれたことを心の底から喜んでいる。
posted by orr_dg at 16:06 | Comment(1) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月04日

FUJI ROCK FESTIVAL'18苗場7.29 Sun

frf180729_1.jpg

台風はとっくに逸れたものの、その置き土産なのか突発的な豪雨と強風にそれなりに心は削られていて、昨晩のFISHBONEのステージで土砂降りの中ヤケクソでがなった「EVERYDAY SUNSHINE」が既に笑えなくなっている。

THE FEVER 333@WHITE
というわけで今日もまた降り出したのである。しかしいつの間にかパンイチになったステージの3人にアジられる内にまたぞろヤケクソにはなるわけで、それなりに疲れもたまった最終日の午前中というなかなかキツめのスロットにあってほとんど初見の客をいかに騒ぎに巻き込むか、何ならあばらの一本くらいはくれてやるというほとんどjackass的な心意気こそがバカ正直な感動を生むのであった。

HINDS@RED MARQUEE
ふと外を見ると土砂降りである。しかしここには屋根がある。ステージはカラフルで朗らかである。午前中ホワイトでがんばったご褒美だろう。そういう風にできている。

ANDERSON .PAAK & THE FREE NATIONALS@GREEN
ファレルからお触れでも回ったのか、見たことないもん見せてやるから好き勝手に騒いどけとでもいうコミュニケーションブレイクダウンの回避が完全に奏功。ケンドリック・ラマーとは対照的に手の内をすべて晒した上でブレイクスルーをショウに翻訳して圧倒してしまう。ドラマーとしてリズムの芯を食った力点で回転する時のスリルはちょっと他に例えようがない。

KALI UCHIS@WHITE
ほとんど特攻服のような気合のシースルーでライヴヴァージョンとしての自分をトータルにデザインする術が実にスマート。見たきゃ見れば?とでもいう誘いかけもトラップのようなもので、鉄壁のバックバンドも含めたアンサンブルにじわじわと取り込まれていく。ホワイトの吹きっさらしにも関わらずここまで密室性の高いサウンドを可能にするコントロールの強靭さに痺れてしまう。

BOB DYLAN & HIS BAND
開演予定時刻の数分前にいきなり始まったのであった。常に現在の自分に忠実であることに努めてきた77歳のミュージシャンによる現在地としてのステージは、彼と一緒に自身を巡る旅をしてきた人にこそ測れるものなのだろう。来日すればほとんどの公演をフォロウする人に聞いた話では、ようやくシナトラのモードから解放されていた上に馴染みの曲も新鮮なアレンジで奏でられていて非常にフレッシュであったそうだ。チャリ坊などと呼んでいたチャーリー・セクストンのいぶし銀の佇まいなど見てみれば、そりゃあワタシもいい加減年を取るわけだと最後の曲だけでも一緒に口ずさんでみたのだった。

GREENSKY BLUEGRASS@FIELD OF HEAVEN
今年のベストステージ。懐古主義でも回帰主義でもなく、混沌を混沌として愛でるのでもなく、世界の水平性を規定するスタイルとして直結された無意識の肉体性。それはバンドスタイルを選択するヒップホップの潮流、ケンドリック・ラマーやアンダーソン・パークがそうであるように、と深層でリンクしているようにも思うのだけれど、それが批評として行われているわけではない健全さが親密なクラリティを彼らにもたらしていて、正気を保つためには音楽が絶対に欠かせないことおよび、やはりフジロックのマニフェストはヘヴンにあることを思い出させてくれるステージだった。これからは、毎年ヘヴンのクロージングは彼らでいいのではなかろうか。

流れていく時間と流れていかない自分とのズレ、と言ってしまうと良くないことのように響いてしまうけれど、その差異を一年に一回確認する場としてのフジロックを再発見したような気がしている。身に覚えのない小さな傷が手や足にいくつかあって、そういった鈍感の進行とも付き合っていかねばならないことも忘れてはならぬ。

frf180729_2.jpg
posted by orr_dg at 11:59 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月02日

FUJI ROCK FESTIVAL'18苗場7.28 Sat

frf_20180728.jpg
CARLA THOMAS開演前のFIELD OF HEAVENから見た夕焼け

午前中はドラゴンドラで天上へ。今まで十数回ほど乗ったけど、今回初めて眼下の木立に野性の動物を確認。こちらの一切に目もくれぬまま存在するものの神々しさを、うつむきながら斜面をヒョコヒョコと横切っていく小さなカモシカに見てしばし押し黙る。

木村草太@Gypsy Avalon
同行者が木村先生のファンなので一緒に話を聴いてみる。ワタシが知っているのは主にSession-22の木村先生だけれども、憲法に加えられた過剰な圧によって予期せぬバグが発見されている現在の状況を見つめる憲法学者としての自分の視線はマッドサイエンティストのそれに近いかもしれないという話が面白かった。憲法が悲鳴を上げれば上げるほどさらにメスを入れて奥底を探ってしまうということなのか。

JOY-POPS@FIELD OF HEAVEN
4月の渋谷クアトロとほぼ変わらぬ感触のステージで、その後こなしたそれなりのツアーにも関わらず惰性のような仕上がりのない超ヴェテランの瑞々しさにあらためて驚かされる。渋谷では演奏されなかった「風の強い日」が聴けたのはとてもうれしい。ハリーのガンさばきみたいなフレーズを聴けば聴くほど、できればバンドの強靱なビートの上で公平氏の艶やかなトーンと絡み合う音の粒を浴びたかったなあと思ってしまう。往時のキーと色艶のまま歌いあげるハリーのヴォーカルに、ないものねだりがそうやって加速する。

CARLA THOMAS & HI RHYTHM W/VERY SPECIAL GUEST VANEESE THOMAS@FIELD OF HEAVEN
FISHBONE@WHITE
KENDRICK LAMAR@GREEN
ブラックミュージックは優しい、というよりは優しくならざるを得なかったし、ワタシたちはそれに甘えたし甘えさせてくれた。そうした時間のせめぎあいの中で発見されたヒップホップは間違いなくモノリスであったし、世界を変える用意はある、ついてくるかどうかはキミらが決めろと一人睥睨するその姿に、ケンドリック・ラマーこそがスターチャイルドなのだろうと確信した。素晴らしいアーティストたちのステージをたて続けに見ることでそれが完全に繋がった気がしたら、知恵熱でも出たのか少し具合が悪くなった。
posted by orr_dg at 17:21 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月01日

FUJI ROCK FESTIVAL'18@苗場/7.27 Fri

20180727.jpg

ありえない進路をとり始めた台風12号に、苗場直撃はせずとも西に逸れたら逸れたで被災の地にさらなる嘆きが訪れるしと、若干の複雑な心境をいだきつつ越後湯沢の駅に降り立ってみれば、台風どこ吹く風といった穏やかな夕方に胸をなでおろすことを隠さない現金なレジャー客なのであった。

苗場開催20年を祝う謎の爆音DJタイムでビートルズジミヘンジャニス清志郎のトラックがGREEN STAGEの青空に溶けていく。ということでワタシも20回目の苗場。今年は苗場プリンスが確保できず越後湯沢組となったので、夜討ち朝駆けはあきらめてノロノロ過ごす。

LET'S EAT GRANDMA@RED MARQUEE
PSB的な確信犯と言ってしまうには不安や不穏のゆらぎを放り出して笑っているようなトラックが非常にチャーミングかつ洗練されていて、いまだどの文脈にもつかまっていないのがとてもフレッシュ。きちんと音源を聴いてみたい。

ROUTE 17 Rock’n’Roll ORCHESTRA@GREEN
相変わらずヤマジカズヒデがロン・ウッドのように一生懸命ギターを弾かされて働いていた。ご褒美に来年あたりdipで出させてあげればと思う。

PARQUET COURTS@WHITE
こういう、からっ風みたいな演歌度ゼロのジャギジャギしたBastro直系はWHITEの吹きっさらしによく映える。ワタシにとっては三つ子の魂的な音だけど、初日でガソリン満タンの客からすると縦ノリをすかして引き攣ったステップは少し持て余し気味かも。でもこれは苗場に絶対必要な音。

ALBERT HAMMOND JR@WHITE
この人のソロワークはまったく追ってなかったので、汗と笑顔の飛び散るドシャメシャなパワーポップのつるべうちにちょっとビックリした。こんなペルソナをかかえたまま、あんなふうな笑ってはいけないロックバンドの屋台骨を支える気苦労を思えば客が置いてきぼりにされるくらいの弾けっぷりにもうなずけるわけで、あなたが幸せならワタシたちも幸せです、という客のやわらかな視線が彼の浮遊を支えていたよ。

エレファントカシマシ@WHITE
88年の汐留PIT、渋公、89年ロマン劇場3DAYS、暮れのコマ劇場、90年の野音、96年パワステのスライダーズとの対バン、と折々のエレカシはすべて見ているはずで、エピックや宮本が抱いたそれぞれの不満はともかくワタシはあの頃のエレカシが充分に必要で大好きだったのだ。だからワタシは、宮本が「悪い奴らけちらし本当の自由取り戻す」ための闘い方を変えた時、これからの宮本は新しい人達と新しい闘い方をすればいいと思って離れたのだろうと、今にして考えてみたりもする。なので今さらどの面下げてという気がしないでもないのだけれど、世界にパンチが届くよう闘い方をゼロから変えてみせたあのバンドのことを思い出してみれば、ようこそぉ、フジロックベイベエと絶叫する宮本にあの人の姿を見るのは当然の帰結と言うか、今のこの世の中にエレカシがいてくれて本当に良かったなあと思ったのだ。宮本はパイプ椅子をあんな風に使うようになったんだな。

MARC RIBOT’S CERAMIC DOG@FIELD OF HEAVEN
ポエトリー・リーディングとかいうよりは檄文でアジりまくるマーク・リボーの、ここまでアグレッシヴな姿とサウンドは初めてかもしれない。しかしこんな風に人生これエクスペリメンタルなステージを見ちゃうと、やっぱりジョン・ルーリーのかくも長き不在が胸に沁みてしまう。このステージにいて引き攣るようなサックスでインタープレイを繰り広げていてもまったく不思議ではないわけで…。

ODESZA@WHITE
GREENでもよかったんじゃないかと思わせるくらい、ケレン味たっぷりのVJショウを含めた過剰な熱量の集中投下には移動の足も思わず止まるというものだし、とはいえカッティングエッジの洗練で客を圧倒し振り切ってしまわない絶妙ないなたさも相まって、極めて高性能な祭りの見世物としては文句なし。太鼓の達人が到達した極北。

N.E.R.D@GREEN
OPEN UP!と取り憑かれたように絶叫するファレルだけが記憶にこびりつき、ファレルだけが最後まで何かと闘っていた。言葉の通じないラッパーは翼の折れたエンジェル。
posted by orr_dg at 17:02 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月26日

FUJI ROCK FESTIVAL '18 展望

20180725.jpg

7.27 Fri
Upendra and friends plus Mr. Sunil and Tilasmi
LET'S EAT GRANDMA
PARQUET COURTS
GOMA & The Jungle Rhythm Section
ALBERT HAMMOND JR
THE TESKEY BROTHERS
エレファントカシマシ
MARC RIBOT'S CERAMIC DOG
N.E.R.D
POST MALONE

7.28 Sat
eastern youth
ESNE BELTZA
RANCHO APARTE
JOHNNY MARR
JOY-POPS
ユニコーン
CARLA THOMAS & HI RHYTHM
FISHBONE
KENDRICK LAMAR
NATHANIEL RATELIFF & THE NIGHT SWEATS

7.29 Sun
THE FEVER 333
ケロポンズ
WESTERN CARAVAN
HINDS
KACEY MUSGRAVES
ANDERSON .PAAK & THE FREE NATIONALS
KALI UCHIS
HOTHOUSE FLOWERS
BOB DYLAN & HIS BAND
GREENSKY BLUEGRASS
VAMPIRE WEEKEND

エレカシにユニコーンにスライダーズとかいった限りなくeZな2018年。台風来たらホテルで寝てます。
posted by orr_dg at 13:15 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

女と男の観覧車/わたしは頭痛が痛い女

wonder_wheel_01.jpg
オフィシャルサイト

雨の日の光に君はなおのこと美しい、とミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)が使い回す口説き文句を嘲笑うかのように、ミッキーの前に仁王立ちするジニー(ケイト・ウィンスレット)の顔面を殴るように照りつける西日の一閃が彼女の逆流する神経を剥き出しにしていくに連れ、既にカメラはミッキーへの切り返しをすることもないまま、ジニーが破壊的なメランコリーの流砂に呑まれていくのを復讐心のような執拗で捉え続けてみせる。いつまでたっても他人離れすることのできない子供じみたハンプティ(ジム・ベルーシ)も、自分もまた堂々巡りの観覧車に乗りこみつつあることに気づかないミッキーも、使命として世界の尻に火をつけて回るリッチー(ジャック・ゴア)も、無い袖は振れぬゆえある袖を振って生きることを実践するキャロライナ(ジュノー・テンプル)も、それぞれが問題としがらみを抱えた我が身のままに、共に生きる人としてのジニーを見つめているのだけれど、その中でジニーだけが誰も見ていないのである。彼女が見ているのは観覧車のゴンドラが一番上にあった時に見た(と思っている)記憶の光景とそこにいる自分だけで、それ以外の誰のことも彼女は見てないのである。にも関わらずジニーは、年を重ねることで間違いに対して寛容になれたわ、だから他人を許すこともできるようになったの、それがなかったらこの世界は冷酷にすぎるでしょう?と真顔で演説をぶってみせて、ここまでジニーを修復不能なモンスターと描いたアレンの意図に或る私怨以外の筆使いを見るのはさすがに困難ともいえるし、1930年代のNYにうっすらと死生観を湛えた前作『カフェ・ソサエティ』に続き1950年代のコニーアイランドを愛と幻想のアサイラムと描いた今作を観る限り、ここに来て何らかの私小説的なタガを再度外したようにも思えるわけで、これを許して焚きつけたAmazon Studiosはパトロンとしての責任を最期まで全うする義務があると考える。言うまでもなくケイト・ウィンスレットは生き腐れした肉体の絶望的な香りを含め、情状酌量の余地なくこわれゆく女を現して最凶。それを狂気の光と屈託の影で煽りまくるヴィットリオ・ストラーロの神経症的なまなざしはさらに最強。騒ぎでアレンは水を得た。
posted by orr_dg at 01:42 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月24日

REVENGE リベンジ/殺るのはあたしだ

revenge_01.jpg
オフィシャルサイト

いったい俺のどこが嫌いなんだ?と言い寄るスタン(ヴァンサン・コロンブ)に「背の低いところ」と応えるジェニファー(マチルダ・ルッツ)の、あんたたちアタシのこと何も知らずに顔とかおっぱいとかお尻とかそういうフォルムにいきり立ってるだけだよね、アタシもリチャード(ケヴィン・ヤンセンス)がハンサムで背が高い筋肉野郎だからここに来たわけで、リチャードがOKであんたがNGなのはまあそんなこんなでお互い様ってところよね、とか言った詰め方にぐうの音も出なくなったスタンがお約束の卑劣な肉体言語に及んだことが引き金となって、そういうことならば了解しましたとばかり、ペヨーテの力を借りたジェニファーは不死鳥のごときスーパーサイヤ人と化すに至るのである。ただ、そうやってジェニファーが3人のクズを片っ端からぶち殺すだけの映画にしては意外にも108分の長さを要していて、どちらかと言えばこの映画はその目の詰まり方こそが喧伝されるべきなのではなかろうかとも思うわけで、デヴィッド・リンチもかくやという超クロースアップが対象の情報を停止して絶対値を描くことである種の神々しさを宿す瞬間、ワタシ達はみな糞のつまった袋にすぎないという認識のもとでジェニファーによって浄化されていく気すらしたのである。串刺しになったジェニファーから滴る血の一滴が、地面にへばりつく一匹の蟻にとっては迫撃砲のごとき脅威と化す様を捉えるシーンから始まるジェニファー復活の儀式についてはペヨーテ無双を含めた底の抜け具合(なぜあれは反転しないのかetc)を含め、これはワタシの妄想が走り気味ではあるけれど、気がつく範囲では不随意運動としての瞬きをジェニファーは行っていないことなどもマジックリアリズムへの接近と呑み込めば、物語の神話性もいや増すというものではなかろうか。ジェニファーの覚醒以降は前述したクロースアップから一転するロングショットの多用が神の目を思わせると共に、終盤の室内戦では長回しが緊張をさらに圧縮しつつFPSショットのカメラが追うものと追われるものの絶望と恐怖に喘ぎながら走り回り、局面によって最適なショットをスマートにチューニングする監督のヴィジョンは、これがデビュー作だとしたらその一閃は鮮やか過ぎるだろうと少しばかり驚嘆したのである。血の粘度も彩度も非常に好みで、ガラス片のシーンはその魔術的な赤の幻惑に頭がクラクラし始めた。衝撃をくらって聴覚が飛んでしまうシーンやラップフィルムの戦術的使用など微に入り細を穿つ描写がさらなるエクストリームを誘い、ジャンル・ムーヴィーの矜持と陶酔を高らかに謳う傑作であった。レイプシーンはあえて直截的には描かれていないので、そういったシーンが苦手で忌避する必要がないのもサービス精神の顕れといっていいだろう。コラリー・ファルジャという監督の次作が本当に楽しみになった。
posted by orr_dg at 16:11 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月20日

ジュラシック・ワールド 炎の王国/喰われるように眠りたい

jwfk_01.jpg
オフィシャルサイト

閉まりきらない水中ゲートの隙間を巨体をくねらせて外洋へとすりぬけていくモササウルスを、その数分後には自動ドアの隙間をすり抜けるクレア(ブライス・ダラス・ハワード)にトレースさせるJ・A・バヨナのウィアードな執着は、最期にイアン・マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)が宣言する「ジュラシック・ワールドにようこそ」という『ウェストワールド』的な反乱への密かな疼きがその正体であった気もして、仮にバヨナがストーリーを含めたクリエイティヴを完全掌握していたら、洋館で出会ったブルーとメイジー・ロックウッド(イザベラ・サーモン)がクローンの哀しみと高揚とで感応する「恐竜はささやく」物語へ舵を切ったことだろうと、シェルター代わりのベッドにもぐりこむメイジーをめぐるインドラプトルとブルーの三角関係までも妄想してみたりしたのである。したがって、そこかしこにうかがえるバヨナのスケッチした仄昏いペシミズムの残滓にプリンス・オブ・オプティミズムたるクリス・プラットが今ひとつそぐわないままなのは、彼にとって最強の武器であるオフビートがバヨナにとってはノイズでしかないという予見しうる相性の結果に過ぎず、バヨナにしてみれば早く島を出たくて仕方がなかったというところだろうし、イーライ・ミルズ(レイフ・スポール)に「お前たちがしたことと俺がしたことのいったいどこが違うんだ?」と問い詰められて押し黙るオーウェンとクレアの姿にも、今作の主役が既に彼と彼女ではなくなっていることは明らかだったように思うのである。特にクレアについては、パンプスを脱ぎ捨てたことで(ブーツを履いた足元が執拗に映される)女性版オーウェンとなってしまったのが彼女の魅力を削いでしまってはいるものの、それを棚ぼた的に肩代わりした形のジア・ロドリゲス(ダニエラ・ピネダ)のべらんめえなチャームが今作で最も血の通ったキャラクターを生み出して、思わぬ機転と男気をみせたフランクリン・ウェブ(ジャスティス・スミス)の顔を愛犬をもみしだくようにムニュムニュするシーンなど、終始張り詰めてばかりの今作で息を継げるシーンはほとんど彼女がさらっていったのではなかろうか。それに比べて、出て行けと言われていつの間にか出ていってしまうアイリス(ジェラルディン・チャップリン)は、バヨナの潰えた野心と混乱の象徴にも思えた。前作を観た時の“フランケンシュタインの怪物としてのインドミナス・レックスとその鏡像としてのラプトルという構図のメランコリーも望むべくもなく”とかいった愚痴をやはりバヨナもこぼしたのではなかろうかという妄想はともかくとして、かつてジョン・セイルズとウィリアム・モナハンが「4」のシナリオに設定した人間と恐竜のハイブリッドへと心なしか頭をもたげた気がしないでもないので、いっそそちらに舵を切って「粘膜戦士」をめざしてはくれまいかと茹だった頭で夢を見たのであった。「チェアアアア!」はバヨナ精一杯のやけくそなのか。笑ったけど。
posted by orr_dg at 21:13 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月18日

ブリグズビー・ベア/映画は撮らせてくれる

IMG_1795.JPG
オフィシャルサイト

ブリグズビー・ベアが新しい世界を独り歩きすればするほど、茫洋と広がる世界と渡り合うだけの知識と社会性とをジェームス(カイル・ムーニー)に蓄えさせたコンテンツ「ブリグズビー・ベア」をゼロから築いた仮親テッド(マーク・ハミル)の偏執的な天才とそれを支えた愛情とに気を取られてしまう。世界を再構築して規定し直すためには古い物語を終わらせるための新たな物語が必要であることにジェームスが思い至るのも、世界を投影するスクリーンとしての物語を信じたテッドの「教育」がもたらした成果であって、けれども分水嶺を超えて世界に侵食した物語によって人生を囚われ続ける男マーク・ハミルがテッドを演じることを皮肉と映すことをせず、物語ることへの肯定と祝福を唱え続けることへの決心こそがこの映画の野心であったということになるのだろう。かつてはテッドが一人二役で演じていたブリグズビーとサン・スナッチャーの、ブリグズビーを継承したジェームスがサン・スナッチャーを撃退するラストはそのまま父殺しの物語となるわけで、これこそはマーク・ハミルにとってついぞ果たされることのなかった結末ということになるのではなかろうか。『ワンダー 君は太陽』がそうだったように現実世界でジェームスの存在そのものを脅かす悪意が登場することはなく、ことさらに負のスイングで見かけの奥行きを作ることをしないのは予定調和の破壊でもあるわけで、当たり前の感情を抱いて当たり前の行動をつなぎ、当たり前のように自分の世界を手に入れることを描くのがラディカルに映ってしまうワタシ達の身の回りこそがいかににっちもさっちもいかなくなっているか、エラーと困難を引き換えにしないと希望や幸福は得られないのだという出所不明のしたり顔にいい加減でうんざりしている正気の人たちにこそ寄り添いたいとワタシは思う。テッドのみならず、ホイットニー(ケイト・リン・シール)の救済もまた優しく綺麗に行われるのがとても良い。いささか唐突だった施設収容は『カッコーの巣の上で』な逃亡シーンをやりたいがためだった気がしないでもないけれど、そうやって自分たちの「映画」を撮っていたデイヴ・マッカリーやカイル・ムーニーこそが劇中の彼や彼女たちそのものでもあったのだろうと思えばこそ、この映画が既にノスタルジーのような気分を獲得していることの理由が分かる気がしたのである。それは多分、これが二度とこんな風には撮れない最初で最後の映画だから。
posted by orr_dg at 03:05 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月14日

パンク侍、斬られて候/日本の猿なめとったらどついたるぞ!

punksamurai_01.jpg
オフィシャルサイト

「曖昧な欲望しか持てず、曖昧な欲望を持て余す」「おまえの頭を開いてちょっと気軽になって楽しめ」「すべてが終わった後で何が残るか俺は知らない俺はおまえを正確にやる」「俺はのうのうとしてきた奴の子孫を傍観して俺の屈辱をたたき込みたい」「俺はおまえを夢の中にひきずり込みたい」「俺の存在を頭から打ち消してくれ 俺の存在を頭から否定してくれ」「一口飲めばスカッと地獄 全てを忘れてあんた最高」「俺の方から不安と恐怖に何時でもやったんぞ」「偽善の快楽と安らぎが少しだけ欲しいなら俺の家に来い」「むしろ異常なのはおまえ自身むしろ環境とはおまえ自身お前が退屈なのは当然」「ええ加減にせんと気い狂いて死ぬ」とまあこういうことである。INUである。この国屈指のパンクアルバム「メシ喰うな!」の映像化である。闘争どころか遁走のパンク、スキゾ・キッズの冒険、ベイビー!逃げるんだ。逆噴射家族、突如80年代の亡霊が憑依した石井聰亙(やっぱりこっちの方がしっくりくる)が復活の逃げ足で、そんなつもりは毛頭ないパンクアンセムを目眩ましに、考えるために考えるなら考えるだけムダ!と走り去る。この映画の既視感というよりは、三つ子の魂百まで的な胎内回帰の気分は主にその逃げ足の光景によるのだろう。とは言え石井聰亙がまだこんな脚を残していたことには正直言って驚かされたし、何より石井聰亙ですらない石井岳龍に大金(けっこうかかってるよね)をぶちこんだ慧眼というよりはキチガイ沙汰にこそ喝采をおくるべきで、これほど勇猛果敢に金をドブに捨てる姿を目にしたのは果たしていつ以来だったのか、今いちばん足りていないのはこうした街場のバカによる撹乱であることをあらためて痛感したのだった。永瀬正敏vs浅野忠信の因縁はまたしても決着つかずということで、虚空に消える永瀬正敏と虚空に囚われる浅野忠信は、まんま『ELECTRIC DRAGON 80000V』の変奏であったよ。原作未読につき宮藤官九郎の脚色がどれくらいジャンプしたかは不明ながら、役者がみな口も身体もやたらと気持ちよさそうに動かしていたのは間違いがないように思えた。それにしても、今の時代にまだこんなでたらめ(=punk)が可能だったことに少しだけ沁み沁みしている。
posted by orr_dg at 00:31 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月13日

菊とギロチン/愛と幻想の内無双

kikutoguillotine_01.jpg
オフィシャルサイト

花菊(木竜麻生)の内無双がいつ炸裂するのかと、終盤のあるシークエンス以降はそればかり固唾を呑んで待っていたものだから、こうやって今に至るも我々は負け続けているのだ、と夢を見るなら夢から鍛えよとでもいう全方位へ立てられた中指の気概は受け入れるにせよ、だとするとそもそもがギロチン社と女相撲が共闘するにはそれぞれの蹉跌が質を違えていたように思ってしまうのだ。それはおそらく十勝川(韓英恵)の出自にまつわる暴力世界と中濱鐵(東出昌大)の満州ユートピアのクロスがバランスを崩していたからで、本来であれば女相撲が十勝川を守るシェルターとなったはずが、彼女をアナーキストの感傷に巻き込んでしまうことにより女相撲がいささか都合のいい背景となってしまった気がしてしまう。あくまで主軸は女相撲とした上で、巡業先で出会った中濱と古田(寛一郎)と交流する日々に、2人の屈託や不穏が徐々に滲み出て素性が晒されていくその感応によって、彼女たちもまた自身の闘いにフォーカスしていく物語をワタシは少し予見しすぎたのかもしれない。おそらく監督は、きれいに鉋をかけてしまうよりは、ささくれが手に刺さる痛みを残そうとしたのだろうし、出奔して気ままに死ぬ自由すら与えられない女性の時代にあっては、夫に内無双を仕掛けた花菊のその先の未来を夢想するよりも、古田という捨て石の残酷にかじりついて生きることを理解すべきだということなのだろう。概して女相撲の面々はみな完全に役柄へと没入していて揺らぎがないのだけれど、なかでも玉椿を演じた嘉門洋子の、肉体に精神が隙間なく張りついた佇まいの凄みに目を見張った。東出昌大は人たらしの色気が決定的に欠けてしまっているのがなかなか辛い。いつの時代も益体のない夢を見ては泣きじゃくる男たちと、見たくもない夢のおこぼれで涙をふく女たちが果たして「同じ夢をみて闘った」のかどうか、「同じ夢をみて闘うことを夢みた」映画だと思ったワタシは、またそこから始めるのかと何だか遠くを見た気分になってしまった。
posted by orr_dg at 00:46 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月08日

バトル・オブ・ザ・セクシーズ/やっちまいな

Battle_of_the_Sexes_03.jpg
オフィシャルサイト

これは『1973年のビリー・ジーン・キング』というタイトルがふさわしい、自身の野心に対する尊敬の念を曇りのない視点でみつめつつ、しかし自身のヴィヴィッドなゆらぎを慈しむように生きるひとりの魅力的なファイターが駆け抜けた時間の個人史であって、原題タイトルが連想させる闘争史による参照はどちらかと言うとこの映画の本意ではないように思う。テニスドレスが買えずに母の作ったテニスショーツを着た12歳のビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)が、それではみんなと一緒に写真は撮れないよと言われてムカついたその日から彼女はあくまで自分を不当に扱う世界を相手に闘って来たわけで、WTAの設立にしてもそもそもはその流れの中で起こしたアクションにとどまっていたのではなかろうか。そうした何者にも従属しないはずのビリー・ジーンがマリリン(アンドレア・ライズブロー)と出会うことでもたらされた覚醒によって、自分で自分を抑圧し続けてきたこととそれを強いてきた社会への怒りと恐怖を認識し、世界の悪意を粉砕する意志と力のある者はそれを行使する義務があるとでもいう大きな意志に衝き動かされたことで、自分のためだけではない闘いへと舵を切っていったのだろう。したがって、マーガレット・コート(ジェシカ・マクナミー)の惨敗を見届けたビリー・ジーンが意を決してひとり立ち去るシーンこそがこの映画のピークといってもよく、ほとんど手続きにすぎないボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)とのゲームよりはそれを取り巻く悪意の群れがことのほか執拗に描かれて、ビリー・ジーンが一敗地に塗れた時に群がるであろうジャック・クレイマー(ビル・プルマン)らハゲタカたちの醜悪な色付けにはまったくもって容赦がない。なかでも、中継のゲストに招かれたロージー・カザルス(ナタリー・モラレス)の肩にことさら庇護者よろしくねっとりと腕を回すハワード・コゼルの姿はフェミニストをはき違えた絶滅すべき恐竜に対する悪意以外のなにものでもないし、ボビーに負けるということはそれらすべてにひれ伏すことになるのだという死の宣告を突きつけられた闘いであることを承知していたからこそ、勝利の後のロッカールームでビリー・ジーンが流す涙は、喜びというよりは戦場を生き延びた安堵の嗚咽にしか映らなかったのである。神輿にかつがれた道化としてのボビーを強調するのは、敵はその後ろにいてしたり顔で腕を組む者たちであって、それを見誤ってはならないという念押しだったように思う。ビリー・ジーンが本当に愛しているのはテニスだけで、そこを邪魔でもしたらボクもキミもすぐに棄てられるさ、と“浮気相手”のマリリンに怒りをぶつけるでもなく諭すように語るラリー・キング(オースティン・ストウェル)はビリー・ジーンの野心に対する全面的な崇拝者であって、そうした愛の形を選んだ彼にうっすらとした哀しみを見て取ってしまうのは、それがワタシという人間の限界ということにもなるのだろう。涙をふいて歩き出したビリー・ジーンを抱きしめてテッド・ティンリング(アラン・カミング)が囁く言葉が、ほんの一瞬にしろこの世界を美しく均して遠くどこまでも見渡せたような気持ちになる。いつかありのままの自分でいられる日がくるだろう、そして誰でも自由に人を愛せるようになるだろう。少しうろ覚えではあるけれど、ビリー・ジーンはその日を願って独りコートで闘ったにちがいない。
posted by orr_dg at 23:07 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月07日

ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷/空室有り応相談

winchester_02.jpg
オフィシャルサイト

サラ・ウィンチェスター(ヘレン・ミレン)とプライス医師(ジェイソン・クラーク)が面談するシーン、窓から差し込む日光だけが照らす部屋のはずがどのカットでも2人を燦々と照らす光源不明のヒプノティックな光に落ち着きを奪われる。巻き込まれるようにして異界に踏み込むプライスは定型のゴースト・ストーリーであれば異界へのカウンターとして機能するところが、ここでの彼は異界への同化があらかじめ運命づけられているわけで、定型であれば闇堕ちのような敗北として描かれてしまうそれは、プライス自身の喪失と再生をめぐる物語となっている。そんな風にしてプライスを往って帰すことにより、それを促したサラの振る舞いは狂気の沙汰から贖罪へと姿を変えていくことになるのだけれど、劇中で命を落とした2人(執事と大工頭)が共に彼女の贖罪を信じていなかっただろうことを思い出してみれば、彼女と屋敷が手にしたさらなる変質と力を窺わせるラストによって、やはりこれは感染する狂気の物語であったことに気づかされるのである。『デイブレイカー』にしろ『プリデスティネーション』にしろ、スピエリッグ兄弟がつけ回すのは自らを磔にする人の憂鬱と官能であるのは間違いがないだろう。描かれる感情自体はメロウであろうとそれがいつも躁病的に上気して息を切らしているようなのもこの兄弟独特のトーンであって、脇に回ったとは言えセーラ・スヌークこそがこの兄弟のミューズということになるのだろう。『ツイン・ピークスTHE RETURN』での、破壊的に底の抜けたクズっぷりで脚光を浴びたエイモン・ファーレンは、クローネンバーグ顔の怪優としてこのまま健やかに歩んでいって欲しいと思う。そもそもなぜウィンチェスター銃の製造を止めてしまわないのかと問われれば、そうしたらいつの日か犠牲者がいなくなって屋敷の工事を止めなければならなくなるでしょう?と真顔で返してきそうな壮大なるブラックジョークと弄るのもまた格別の趣き。
posted by orr_dg at 02:37 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月04日

オンリー・ザ・ブレイブ/燃える森の生活

IMG_1450.JPG
オフィシャルサイト

燃えるものがなくなれば火は消える、という真理というか事実というか取り決めというか、業火に対峙する男たちの内部にもそれは同じように適用されて、消したい者、消えない者、消してしまいたくない者たちはいずれにしろ火に支配されかつ魅了されている趣すらあり、妻アマンダ(ジェニファー・コネリー)が“消防士中毒!”と吐き捨てるエリック・マーシュ(ジョシュ・ブローリン)の場合、燃やすものがなくなる日々への畏れが火に向けた愛憎入りまじる忠誠を誓わせてもいるようにも思えるし、エリックはその美しさと怖ろしさを闇の中を火だるまで疾走する熊の記憶にうつして自身にとどめている。そうやって内部を喰われた者ゆえに可能なスペシャリティという点で『ハートロッカー』が頭をよぎったりもしたのだけれど、エリックが戻らずの河を渡ってしまわないよう頬を張り続けるアマンダの眼差しがこの作品の正気を象徴するだけに、ついにエリックが地に足をつけた瞬間に起こる無慈悲に向かっていささか紋切り型に崩れ落ちるアマンダの慟哭にも鼻白む隙などなかったように思うのだ。エリックが自身の過去を投影して手元に引き寄せたブレンダン・マクダノー(マイルズ・テラー)が、夫妻に対照するかのように、ある意味では子供の存在によって生かされたといえるのも酷薄な運命の仕業と言えるのだろう。劇中でどれだけ業火に巻かれようと不思議と熱さを感じることがないのは、ここに登場する人たちのふるまいひとつひとつがアメリカの根幹をなす自然思想とプラグマティズムの沈着な実践のようでもあったからで、人里離れた山の中で祈りのように軽口を叩き一心不乱の労働に明け暮れるグラニット・マウンテン・ホットショットの面々はどこかしら修道士のようにも思えたし、ピーター・バーグ的なアメリカン・イシューとはほど遠い地の塩的な原風景を見渡すような映画であったことに、どうにも虚を衝かれた。
posted by orr_dg at 17:30 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月02日

ハン・ソロ:スター・ウォーズ・ストーリー/粗にして野でも卑でもない

hansolo_02.jpg
オフィシャルサイト

※展開に触れています

ドライデン(ポール・ベタニー)の船に還ってきて以降、ハン(オールデン・エアエンライク)とチューイ(ヨーナス・スオタモ)、キーラ(エミリア・クラーク)が取る行動の、どうしてチューイはハンを裏切ったトバイアス(ウディ・ハレルソン)にさしたる理由もなくヒョコヒョコと付いて行ってしまうのか、ドライデンを倒したなら2人で手に手を取って逃げ出せばいいものをなぜハンはキーラと別行動をとることをあっさり受け入れてしまうのか、本来であれば苦渋の選択が決断を鈍らせて危機を招き、予期せぬ悲劇へとなだれこむクライマックスによってハン・ソロ・ライジングの仕上げとなるはずが、各自が段取りの消化としかいいようのない駒の動きをするにとどまって一滴の血も涙も通うことがないせいで、その後に起きる2つの裏切りにまったく血潮が逆流することもなく、キーラが乗った船を呆然と見上げるハンの、何だか一雨きそうだなあくらいに気の抜けた顔にはワタシの知るハン・ソロが身を沈めるシニックの鎧の一片も見てとれなかったように思うのである。そもそもが、ハンとキーラ、ドライデンの三角関係を正面切って物語の要素にする覚悟のない腰の引き具合からして鼻白むばかりだったし、その程度の切った張ったですらディズニー・コードに抵触したせいなのかどうなのか、おそらくロン・ハワードは想像を超えて自分ががんじがらめであることを知った時点で、師匠譲りの低予算早撮りモードへとあっさり自身を切り替えたのではなかろうか。愛をアドレナリンとチャージした若く無謀なカップルが、自分たちを捉えた運命を笑顔で引っかき回しならがバニシング・ポイントへと向かう『バニシング in Turbo』の狂躁をワタシはオープニングのシークエンスで見て取った気もして、欲しがったのがこれだったのならば監督交代もやむを得ないし、むしろキャスリーン・ケネディの慧眼だったのではなかろうかとすら思ったのだ。しかし唯一エゴが感じられたのはそのコレリアで繰り広げるスピーダー・チェイス・シーンまでで、それよりはカジノを2度、ドライデンの部屋を2度、と使い回すあたりの目端をこそ、クリエイティヴィティ?なにそれ美味しいの?とばかり製作陣は求めたとしか思えなかったのである。冒頭でふれたシークエンスで、同じカットを繰り返しては最初はチューイ、次はハン・ソロと自動ドアの向こうへ消えていく死んだ魚のような目をした編集の月曜ドラマランドっぷりにはロン・ハワードのあさってに向けた捨て身すら感じた始末で、かつてそうであった映像の実験場としてのスター・ウォーズの終焉を見た気もしたのだった。巷間囁かれてきたハン・ソロの出自やチューイとの出会い、ミレニアム・ファルコン入手の経緯、果てはケッッセルランに至るまですべてをハン・ソロ正史と取り込んではいるものの、それらすべてのエピソードがこの作品には役不足であったのは言うまでもなく、あなたのハン・ソロをハン・ソロとしてとどめておきたければ今作をスルーしたところで何の問題もないように思う。他の誰よりもウディ・ハレルソンこそがハン・ソロのスピリットを哀しい目と小さな微笑みでドライヴしていたよ。
posted by orr_dg at 12:52 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月29日

ワンダー 君は太陽/おまえもがんばれよ

wonder_01.jpg
オフィシャルサイト

ダメージを背負った主人公が学校という新たな世界で理解者を得ることにより、自分の居場所を見つけて歩き出す物語としては、監督の前作『ウォールフラワー』とほぼ同じ見かけで語られていくのだけれど、実は主人公のオギー(ジェイコブ・トレンブレイ)はあらかじめ成熟した知性とユーモアを持ち合わせていて、人間を見かけで判断する愚かさへのカウンターとしてほとんど記号化された存在といってしまってもいいくらいオギーはオギーのまま頑としてあるのである。したがって、ここで描かれるのは彼よりは彼によって変化を促される人たちの成長譚であり、それは「オギーの見た目は変わらない。ならばわたしたちが変わればいいんだ」という校長先生の極めてプラグマティックな情動の実践ということになる。原作は未読なのでどのような脚色がなされたのかわからないのだけれど、オギーとの関わりで更新されていく人たちを「○○の場合」といった風に章立てした構成にもそれは明らかで、その点でオギーはほとんど狂言回しと言ってもよく、彼に対する同情や憐れみはそのままそれを向ける者へと反射されていくこととなる。母イザベル(ジュリア・ロバーツ)や姉ヴィア(イザベラ・ヴィドウィッチ)がオギーの家族となったことで舵を切り直したその人生も、オギーのいない場所で語られる衒いのない口調によってその笑顔に重ねられたレイヤーの模様をワタシたちは知ることになるし、オギーとヴィアそれぞれの親友であるジャック(ノア・ジュープ)とミランダ(ダニエル・ローズ・ラッセル)についてもそれは同様に、独り言のあけすけな口調でオギーという舵を語ることによって自身の道筋を確かめ直すわけで、この映画がことさらにウェットな感情を溜めてはそれを涙に絞り出すことをしないのは、そうしたある種の緊張が成熟した人間関係の証として張りめぐらされているからなのだろう。そうしてみた時、ではチャプターを与えてもらえなかったジュリアン(ブライス・ガイザー)がどんな風に自身を立て直したことで修了式の笑顔を見せていたのかを思うと、オギーへの暴力装置として描かれる彼が偏狭な両親の呪縛をどうやって断ち切ったのかを描かないのは、構成上ジャックとの重複が邪魔になるのは承知するものの、慈愛と理性に満ちた大人たちばかりのこの物語にあってジュリアンだけがバックアップされない不幸を思えば、それは少しばかりフェアではないだろうと思ったのである。オギーの父ネート(オーウェン・ウィルソン)と母イザベル、トゥシュマン校長(マンディ・パティンキン)、ブラウン先生(ダヴィード・ディグス)、ジャックの母(ニコル・オリヴァー)といったオギーを取り巻く大人たちはみな、自分がこうありたいと思う大人であると同時に、子供の頃に出会う大人たちはみなこうあって欲しかったといういずれの理想も満たす完璧な造型がなされていてほとんど夢見心地ではあるのだけれど、それはすなわち世界の正気を思い出す作業に相違ないわけで、ふだんのワタシたちがどれだけの狂気や邪気をあきらめ顔で受け入れてしまっているのか、その知覚の麻痺に一度愕然とするべきなのだろう。オギーを憐れんでいるつもりのワタシたちこそが、オギーにそっと憐れまれている。
posted by orr_dg at 15:44 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月26日

梅雨の晴れ間のケイジ祭り/「ダークサイド」「マッド・ダディ」

Looking_Glass_03.jpg
ダークサイド

いつも通り益体のないケイジ映画を益体のない気分で観にきたつもりだったものだから、オープニングのクレジットにティム・ハンターの名前をみた瞬間、ん?え?本人?同姓同名?と思わずフガフガしてしまって、それならそれでそう言っておいてくれないと、だったらそういうつもりで観ちゃうけど知らないよと、とっさにギアを叩き込んでしまったのであった。というわけで以下、現場では本人確認の確証を得ないまま(結局本人)、ティム“リバース・エッジ”ハンターの監督作品として観た繰り言になるのだけれど、まず言ってしまうと、どうしてこの題材が主戦場をTVに移して久しい基本クソマジメな齢70の老監督に持ち込まれたのか若干理解に苦しむわけで、おそらくは脚本家のインスパイア元であろうゲイ・タリーズ「覗く モーテル 観察日誌」という大ネタを大ネタとしてまったく生かし切れていないのが何よりも致命的だったように思うのである。実際のところフーダニットについてはプロットも結末もまったく妙味がないわけで、ワタシとしてはというよりも益体のないすべての観客にとって、屋根裏の散歩者よろしく冥府魔道のピーピングトムと化していくケイジを三時のお茶よろしく嗜みながら、うっすら笑って小さくため息をつくことさえできれば誰もが幸せであったのは言うまでもない。だからこそ、あのシーンでケイジは夢精していなければならなかったわけで、一体何を言っているのか意味がわからないかもしれないけれど、それはご覧になった方であれば瞭然のはずで、何よりこの映画に必要だったのは妻の目から隠れてこそこそと自分のパンツを洗うケイジのポエジーとペーソスだったに違いないのである。フェラーラ版『バッド・ルーテナント』がいまだハーヴェイ・カイテルのアレに紐づけされるように、何よりその点でケイジ史に燦然と名を残すチャンスを逃したのが悔やまれてならない。



momanddad_01.jpg
マッド・ダディ

“MOM AND DAD”という原題からうかがえるとおり『ザ・チャイルド』の反転ではあるのだけれど、親が殺意を抱くのは我が子に限られるという点でいろいろな象徴性やらメタファーやらを投影しやすくなっているとってつけた思索感がいい塩梅にペラッペラだし、ケイジ安定のキレ芸も出し惜しみなく開陳される上に、ネタ切れになったらとっとと逃げ出すスマートな分のわきまえ方は85分という上映時間にも明らかで、ケイジ映画としての表面張力に特化した潔さというかヤケクソは称賛されるべきだろう。さすがに子殺しのシーンは基本的に直截的なカットを回り込んでしまっていることもあって、そちらからの新たな切り崩しを期待するといささか拍子抜けするかもしれないけれど、、ニコラス・ケイジvsランス・ヘンリクセンという血闘がそれを補ってあまりあるのは言うまでもない。ミッドライフ・クライシスに内部を喰われたケイジが地下室のビリヤード台をめぐって心情をデストロイに吐き出すシーンの焼身するような演技に、オスカー俳優の演技派レイヤーが透けて見えたりもして、他の追随を一方的に拒絶する漂泊のキャリアに思いを馳せたりもしたのだった。
posted by orr_dg at 20:43 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月23日

レディ・バード/今はこれでいい

ladybird_01.jpg
オフィシャルサイト


『フランシス・ハ』の前日譚とも言える私小説的な主人公にシアーシャ・ローナンをあてる監督の豪快な役得はあっぱれというしかなく、いっそ邦題は『グレタ・ガーウィグのレディバード』くらい振り抜いてしまってもよかったように思うのである。自分の居場所はここではないどこかにしかないとデラシネを気取りボヘミアンを夢見ては世界の中心でレディ・バードと叫ぶクリスティン(シアーシャ・ローナン)のしぐさや振る舞いは、自伝というにはいささか定型に過ぎる気がしてケリー・フレモン・クレイグのそれ(『スウィート17モンスター』)があちこちで記憶に蘇ったりもしたのだけれど、逆に言えばシアーシャ・ローナンの割には思いの外微笑ましく浅はかで間抜けであるという見立てこそが青春の不発をより煽った気がしないでもなく、『フランシス・ハ』にもみられた清潔な悲愴感という身の置きどころのなさこそがグレタ・ガーウィグの空気なのだとすれば、毅然とした面持ちで自爆するシアーシャ・ローナンの歯を食いしばる口元あたりを監督はあてにしたということになるのだろう。カイル(ティモテ・シャラメ)の書き割り然とした造型で明らかなように逐一フォーマットの反転がなされた場合、娘がなすべきは父殺しではなく母殺しということになるのだなあと、妖精の微笑みで母と娘の間をとりもつ父親の後方支援にワタシも過分に苛まれることなく心安らいで見物できた気がするのである。ただ、自分の物語ということで誇張や省略をわきまえ過ぎたのか、グレタ・ガーウィグの歩き方としてこちらが思い描いた道筋からさほどコースアウトすることもなく、身を乗り出すよりは達者だなあと腕を組んでしまうことの方が多かった気がしたのは正直なところで、青春の殴り込みとしては前述した『スウィート17モンスター』の通過儀礼がいまだフレッシュなままにも思えた。この映画の焦燥と衝動よりはどこかしらそぞろ歩きをするようスピードは、6フィート近い身長のグレタ・ガーウィグならではの視点と身のこなしが反映されたテンポによっているのだろうなとも思うわけで、それはおそらく、あごを上げるナタリー・ポートマンが決定してしまう事と同様なのだろうと考える。『ジャッキー』がどこかで真ん中の奥の方にタッチしてしまったのは、この視線が交錯した一閃にもよっていたのは言うまでもない。
posted by orr_dg at 00:48 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする