2018年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

爆弾と竜巻と物質主義をくぐりぬける
犬には犬のための犬の愛が犬にある
しっぽまく うすら汚れる とぼとぼ歩く
途方に暮れる 犬とよばれる でも 生きてゆく

きょうは犬だから

ー「I AM A DOG」矢野顕子
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2017年12月30日

2017年ワタシのベストテン映画

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沈黙
ジャッキー
午後8時の訪問者
パーソナル・ショッパー
ジェーン・ドウの解剖
ドッグ・イート・ドッグ
ありがとう、トニ・エルドマン
ウィッチ
ブレードランナー2049
パーティで女の子に話しかけるには

観た順番。寛容と不寛容をめぐる争いからは映画界も無傷ではいられないことをあらためて突きつけられた年であったとは思うものの、ずっと前から突きつけられていたであろうその切っ先に対してワタシたちが無神経で鈍感であったことの裏返しとも言えるに違いなく、それが仮に顧客のボリュームゾーンへのマーケティング的な目配せだったとしても、年の終わりにディズニーが肉を切らせて骨を断つべく最強のキラーコンテンツにしのばせた世界寛容宣言が、年初にワシントンで打ち立てられた世界不寛容宣言に対する回答でありカウンターになるべくしてなったという決して偶然ではない帰結に明らかなように、既に世界の法則は書き換えられつつあるのだろう。それが気に入らなければ他のしけた砂場で遊んでもらうしかないというただそれだけのこと。すべてが間違っている、とルークもあなたに告げたではないか。
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2017年12月28日

MR.LONG /ミスター・ロン 〜 ポケットの中には小四のナイフ

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ロン(チャン・チェン)が、逃げ込んだ廃住宅の台所で蛇口をひねった瞬間、ああ、水が出ちゃうんだと思ったのである。この映画はここで水が出なければ始まらないのは言うまでもないのだけれど、電気も止められた住宅の水道の元栓がなぜ閉じられていないのか、地下水の汲み上げだとしてもそもそも電気が止まっているし、とそれまでの密やかに潜航するノワールがここで観客の善意をたよるような物語へと急激に舵を切って座礁したように思うのである。観客の、というのが姑息であればワタシの、と言い換えても良い。そもそもSABU監督の映画というのが、そういった善意をあてに良きに計らえとすっ飛ばしていくそのスピードを体感するところからスタートしていたし、ワタシが観たいのはその風景や光景であってスピードを味わいたいわけではないんだけどな、といくつかの映画で乗り切れなかったことなど思い出したりもした。サイドエピソードをバカ正直に突っ込んでしまうのも相変わらずと言うか、ナイフの因縁だけのためにリリー(イレブン・ヤオ)の過去をフラッシュバックで丸ごと延々と語ってしまうロンちゃんの置いてきぼりはともかく、すべてが均等に並べられてしまうことで8月30日をデッドラインとするタイムサスペンスも機能せず、それもあってロンの葛藤も十分に育たないまま、あの修羅場によって自動的に台湾へと戻されてしまっただけのように見えてしまうのはあまりに分が悪い。これはちょっと言葉の使い方が難しいのだけれど、かつての角川映画が旬のアイドルや俳優を起用して撮ったプログラムピクチャーとしての「アイドル映画」とみるならば、終始のチャン・チェン無双はまず申し分なく機能していたように思うわけでワタシのあてこすりは無粋ということで片付けてもらってまったくかまわないとは思うのである。ただやはり「どうしてこうなった?」とボソリつぶやくチャン・チェンの押しつぶされたような可笑しみがそれから先どこへも枝分かれしていかなかったのがもったいないなあとは思ってしまうのだ。だから、牛肉麺の原料費は一切支払わないまま続けるつもりだったのだろうか、とか出生届すら出していないジュンがどうやってパスポートを取得したのか、とかそういったあれこれはただの戯言として聞き流してもらえれば幸いである。水が出続けた瞬間にギアを入れ損ねたワタシがあたふたと追いかけているうちにロンちゃんは帰ってしまったというただそれだけのこと。
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2017年12月25日

ビジランテ/盗まれた町

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そこに至るまでに2度ほどあった、ゴミ屋敷のごとく足の踏み場もなく荒れ果てた実家の畳にあがる時の一郎(大森南朋)と三郎(桐谷健太)がごく自然に躊躇なく靴をぬぐカットの溜めが最終的にはどんな風な使われ方をしたか、そのありふれて陳腐と言ってもいい爆発こそがこの物語で唯一正当に思えた血の反抗だったわけで、疑似家族としてのビジランテ、ここでの自警団とは利益と権利を追求するために家族のマイルールを世界にそのまま適用していく遂行者たちのことで、兄弟による血の抵抗はその矛先が終始それらへと向けられていくこととなるのだけれど、この物語が神藤サーガの体裁を借りつつもマルケス「百年の孤独」や阿部和重「シンセミア」といったサーガの語りと決定的に異なるのが、野生動物としての神藤サーガがビジランテという外部からの狩猟者に屠られていく様を綴っている点にあって、忌まわしくさえある共同体の因習ですらが、さらに得体の知れない存在によって駆除されていく薄気味の悪さをビジランテという言葉に集約した監督の意図は非常に現代的な示唆だったように思うわけで、前述した“自警団とは利益と権利を追求するために家族のマイルールを世界にそのまま適用していく遂行者たち”という定義がそのまま見知った国政のレベルにあてはまってしまうことを考えれば、暴力的な空気をはらむ自警団の足どりがさらに上から下へ押し寄せる懸念と危惧がこの映画には充満しているように思うのである。したがって、一郎や三郎のように反抗に加わらなかった二郎(鈴木浩介)が裏切り者であったかといえば、彼は自分にできるやり方として神藤の血を残すことを選んだわけで、彼の涙ながらの挨拶はそれまでの自分を決定的に変質させるために自らを追い込む決意表明だったのだろう。おそらく彼は暴力を飼い始めることになるように思う。そうした状況にあって三郎は、ビジランテに関わるすべてのことを遮断するという最も勇気のいる決断を下すわけで、それはもちろん最悪の不幸を呼ぶことになるとはいえそれゆえこの物語がどん底で備える美しさのほとんどは三郎のいる光景の中にあって、そこで血が出るほどに歯を食いしばりながらメランコリーを叫び続けた桐谷健太のパフォーマンスは名演と言うべき震えをものにして、それに比べると手癖でおさめる余裕がまだ役柄に残っていた大森南朋は、泣き笑いがいつしか肺活量を鍛えていた鈴木浩介と比べてもやや分が悪かったかもしれない。暴力のはらませ方については非常に細やかに行われていたように思うのだけれど、痛みについてのフェティッシュはなかなか感覚を共有するのが難しくて、例えば焼肉店でのアレにしてもせっかくあそこまで念入りに貫いたのであれば、いくら悶絶しつつとはいえ素手で引き抜いてしまうのはあまりにもったいないと思うわけで、ワタシが観たいのは、腰を抜かせた店員にペンチを持ってこい、ペンチだよ、ペンチを持ってこい早くしろ、と怒鳴りつけ、持ってこさせたペンチでそれを挟んでぐいっぐいっと小さく左右に揺らし脂汗と血と絶叫にまみれながら少しずつ引き抜いていくショットであって、それが長回しであったならなお素晴らしく思ったにちがいない。ワタシも北関東の小さな市の出身ではあるけれど、外に出て久しい身からすればこの忌避感はカウフマン版『ボディ・スナッチャー』の絶望感に源泉が近い。
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2017年12月23日

オレの獲物はビンラディン/形而上のニコラス、形而下のケイジ

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『グラインドハウス』のフェイクトレーラー「ナチ親衛隊の狼女」においてフー・マンチューを演じたテンションで、愛国の怪人というか罪人というか、とにかく埒外でひとり笑い続けるゲイリー・フォークナーというおそるべきことに実在する人物を、本来ゴミ箱に棄てられたはずの啓示を受け取ってしまったかのような一切報われることのない全身全霊でトレースするニコラス・ケイジがいつしか現代アメリカのポール・バニヤン的フォークロアの人物に見えてくるわけで、監督の狙いとしてはゲイリー・フォークナーを憂国のドン・キホーテとして笑い飛ばすつもりが逆に目ン玉ひんむいて笑われてしまう始末で、これはニコラス・ケイジが己のポテンシャルをどれだけのリミッターで抑え込んでいる俳優なのかみくびったことで、火をガソリンで消すことになってしまい大爆発させたラリー・チャールズの明らかな失策といっていい。したがって、真の愛国者とは国を愛することにひたすら殉じる者であり、他国を排斥することには目もくれないのだという逆説を心ならずもゲイリー・フォークナーに体現させたことで愛国の人を賛美してしまい、そうやってニコラス・ケイジの爆風がすべての批評を無効化してしまう徒労がさらにペーソスを誘うのだった。それにしても、映画監督たちは自作の主演がニコラス・ケイジだと知った瞬間、いったい何を思うのだろうか。望むと望まざるにかかわらず、映画をのっとられるという抵抗や恐怖は感じないのだろうか。それともオレなら飼い慣らしてみせると一度は野心を剥き出しにするのだろうか。そして案の定ケイジの顔面だけが記憶となる映画を仕上げてしまった後で何を思うのだろうか。そうしてみると、ああ、このケイジは飼い慣らされていると思ったのは『バッド・ルーテナント』が最後となり、あとはほぼ顔面に蹂躙された記憶だけが死屍累々と重なっているわけで、にもかかわらず主演作が引きも切らないのは、スクリーンに大写しになったその顔面を消失点とすることで世界のパースを確認するワタシのような人間が世界中に溢れていることの証拠なのだろうと考えている。したがってヴェルナー・ヘルツォークは映画監督としては実に見事であったものの、ケイジ映画の監督としては失敗作を生んだということになるのである。となれば何が言いたいかもうお分かりだろう。この映画は傑作である。
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2017年12月20日

スター・ウォーズ/最後のジェダイ〜すべてが間違っている、わけではない

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いともたやすく監督の首をすげ替える製作陣がというかキャスリーン・ケネディがよくこれを許したなあとは思いつつ、いやむしろ尻を蹴り上げてこれを撮らせたとでもいうべきかと、カイロ・レンがレイに向かって叫んだ「幻想にしがみつくのはやめろ!」というセリフの余韻がことのほか響き続けたように思うのである。それくらい、この映画はかつてあったものの退場と失敗だけでできあがっていて、帝国軍にしろレジスタンスにしろ老いも若きもそのすべてがやることなすこと無様に転び続け、自由を得たものといえばカジノの惑星でレース用に飼われていたファジアーという動物とベニチオ・デル・トロの記憶しか残らない始末である。ただ、そうやってことごとく作劇上のカタルシスを潰しにかかっていながら、小さな誘爆が延々と続くような昂奮が途切れることのなかったのは、のちのち後悔して再び舞い戻ることのないよう退路を断ち続ける意志に逆流する血潮をそこに感じたからで、それくらいの決意がなければジョージ・ルーカスの個人史ともいえる物語との完全な訣別など不可能だという覚悟があったのだろう。ではそこまでして果たさなければならなかったのは一体何なのかと言えば、それは間違いなく物語の解放であり、端的に言ってしまえば父殺しをしなければ更新されない世界を鎮めることだったように思うわけで、強大な父を乗り越えるために要求される男らしさ=マチズモの支配する枠組みを解体するために、今作では男たちの暴走を女性がくい止めるという構図が少々強引とすら思える適用でなされているし、それは何よりフォースの持つ破壊と再生という側面を最後の父殺しレンと殺すべき父を持たないレイに分け与えるラストで清冽に宣言されていたように思うのである。その意味でルーク・スカイウォーカーは光と闇の葛藤(conflict)にこそ生じる力を信じた最後のジェダイであり、その境界を歩き続ける物語の困難と疲弊を一身に背負った存在ということになるのだろう。したがって、先述した物語の解放はそのままルーク・スカイウォーカーの解放となって、かつて辺境の惑星タトゥイーンで彼方を想って見つめた2つの夕陽に照らされた最期は、歴代のジェダイでも最上の慈愛に満ちていたように思うのだ。だからといってこれまでのすべてを葬ってしまったわけではないことは、ヨーダによって燃やされたジェダイの木からレイによって密かに持ち出されたジェダイの書物がその証となっていて、それがレイの光によって照らされ続けるであろうことを間違いなく示唆している。物語を永遠に縛り続けるかと思われた枷が外れたことで、思想や思考は自由になるのか逆に不自由となるのか予断は許さないけれど、とにもかくにも血の相克で呪われ続けたフォースはここに解放されたわけで、宇宙のあちこちで星を見上げる厩舎の少年少女を未来の希望とするエンディングを、他人事の王たるJJがいったいどう受け止めて星の光とするのか、一世一代の物語を紡ぐ意地と覚悟を見せてもらえれば幸いである。一つだけ、アクバー提督だけは花道が欲しかったかなあ。
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2017年12月17日

否定と肯定/嘘をつくとき笑うやつ

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法廷ドラマのスタイルを借りつつも、例えば『女神の見えざる手』のような爆風をラストに吹かせるわけにもいかないとなれば、このドラマのどこにスリルとサスペンスをしのばせればいいのか。それは、判事に向かってついにはお辞儀をするに至るデボラ・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)の上昇と下降の日々にあったように思うわけで、自らの内なる声だけを良心として生きてきたリップシュタットの危うさもまた他者の否認を呼び寄せているのではなかろうかと、善や悪、快や不快といった感情の両論併記が事実の両論併記へとすり替わるシステムの危険を知るランプトン(トム・ウィルキンソン)の賢明がアウシュビッツの歴史とリップシュタットを救ったことを考えれば、観客と彼女の二重のメンターとしてこの映画の真の主人公はランプトンということになるように思うのである。その活躍によってデイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)の愚劣を暴く快哉は確かにあるものの、問題なのは彼が成立しうる世界もまた存在していることであるのは言うまでもなく、イギリスにおける名誉毀損の訴訟では被告側に立証責任があることへの原則に「推定無罪の原則はどうなっているの!」と叫ぶリップシュタットの憤りこそがポスト・トゥルースの時代の困難を象徴していたように思うわけで、事実を語ろうとする者は両論に乗じるマイナスをゼロに戻す徒労と非生産性への責も負わねばならず、この事件の当時からすでに四半世紀近くが経ってさらに拡張する世界の水平性がもたらす弊害として「凡庸な悪」すらもそしらぬ顔でテーブルに同席してしまうことへの積極的かつ効果的な対策がみとめられないことへのもどかしさ、それこそはリップシュタットの苛立ちなのだけれど、それを抱えたまま劇場を出る砂を噛むような気持ちは、映画としては不発を誘うものの現代に生きるワタシたちのリアルで正直な感情ということになるのだろう。善くあろうという存在が、世界にとって善くあろうとするのか自分の都合にとって善くあろうとするのか、それを傲慢と偏見を超えて見極めるランプトンの知性と冷静を持ち得ること、そうした突きつけにおいてこの映画は成功している。となればこそ、世にあまねく卑俗で狡猾なレイシストの象徴として小さな屍鬼をあますところなくデザインしたティモシー・スポールが今作のMVP。ああいう人達は皆あんな風に滑稽で間抜けで惨めでみすぼらしく、いてもいなくても誰も気に留めない人のように見えている。
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2017年12月15日

南瓜とマヨネーズ/と福山雅治でマッシュドパンプキン

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原作未読。安原(光石研)がお金を払ってツチダ(臼田あさ美)の肢体を愛でるのも、稼いだお金でせいいち(太賀)を世話しては私のために曲を書いて歌ってとせまるのも、考えて見れば同じ穴のムジナだよねとツチダが気づいたかどうかはともかくとして、もはや青春で担保されない人たちの恋愛はいったい何で担保されるのかといえばそれは生活、もっと言ってしまえばお金だよねという世知辛くも身も蓋もない話が、しかしそれと常に背中合わせになっているのは、結局のところどう生きたとしてもワタシたちは他生の縁に袖触れ合ってしまうのだというゆるやかな諦念で、ここに登場する者たちはその点において無邪気なほど正直この上ないのだった。しかしどちらかと言えば手あかのついたそんな話から90分の間どうして目が離せないのかといえば、恋愛と生活という二人羽織の無様と滑稽とそれゆえに避けられない残酷を、嘲りも憐れみも非難もなくすべてをあるべき場所にある感情として、それこそが望むべきダンディズムの発露なのだとでも言う恭しい手つきで差し出しているからで、存在自体が唾棄すべきクズであるはずのハギオ(オダギリジョー)の説くクズの正論にすら強度と磁力が宿ってしまう魔術は、『ローリング』において権藤に最敬礼させたのと同じ呪文によっていたようにも思うわけで、それを唱えさせるのは夕闇から蒼い夜へと向かう逢魔時のメランコリーへの共感と耽溺によっているのだろうし、監督が映画を撮る時にいつも向かいたいと思っている場所はそこにあるのだろうと考える。曖昧な影の中で自分の見せたいところだけをひけらかし、相手の見たいところだけを目で追い続ける。「そこ」を気持ちよさそうに泳ぎ続けるハギオと、溺れることへの嫌悪で日々のスランプに掴まるせいいちは対照として描かれているように見えはするけれど「そこ」を知ってしまっているという点で共に埒外の人であり、「そこ」でしか息を継げないツチダが2人同時に感応してしまうのもそれゆえの哀しみということになるのだろう。したがって、せいいちが「そこ」から出ることで書けた歌は日の光を存分に透過して、それを聴いたツチダが日の光を直接見てしまったかのように涙を流し始めるラストは至極当然の出来事にも思え、それを一方的にハッピーエンドと呼んでしまうには、監督の描いた「そこ」にワタシは未練をおぼえ過ぎてしまっている。監督の前作『ローリング』でも感じたセリフの耳当たりはさらに艶と磨きがかかり、もちろん録音やミックスの手際が秀逸なこともあるにしろ、発語としてのセリフをトータルサウンドとして解釈する監督の耳が今回も冴えまくっていてそれだけで会話の緊張がいや増して耳が離せなくなってしまうし、ツチダのなまくらな鋭角、せいいちの滑りやすい曲面、ハギオの鈍色の湾曲、とそれぞれの声が絡み合いながら踊っている。人としての重しをはずした浮力でノンシャランにたゆたうオダギリジョーは『ゆれる』以来の絶対クズを実に心地よさそうに演じていて、やはりこの人はナイーヴなナイトよりもたがの外れたピンプで先鋭が香るように思う。もう冨永昌敬監督は何を撮ってもこうなってしまうのでなかろうか。
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2017年12月12日

オリエント急行殺人事件/あたしゃ許さないよ

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本心としたら "POIROT - Murder on the Orient Express" くらいのタイトルにしてしまいたかったのではなかろうか。それくらいフランチャイズへの欲望を隠すことをしない欲しがりなポアロだったわけで、シニカルをウィットで包みこんでシュッと背筋を伸ばして体技に優れ想い出の君の写真を持ち歩くだけでは飽き足らず、本来は乗客たちの隠された人生のドラマをその灰色の脳細胞の明晰さゆえ白日の下にさらしてしまう役どころであるはずが、ある新たな脚色によってポアロも当事者として関わりをもたせることでそのドラマに割って入らせては、その罪と罰に一緒になって苦悩してみせるのである。それはすべて、クリスティにとってはミステリを解くための装置であるはずのエルキュール・ポアロを映画の屋台骨を背負うだけの血肉を備えたヒーローに仕立て上げるための脚色であり、見せ場を作るためにはポアロにしてアクションすらも厭わないなりふり構わぬ貪欲さなのである。したがって、慇懃無礼な物腰で細部を責め立ててはその違和感から矛盾を見つけ出すやり口も今回のポアロには似つかわしくないと判断したのかやけに淡々と流されるばかりだし、何かというと状況的にも感情的にも外へ出たがることもあり、ほとんど会話劇と言ってもいい密室殺人の物語であるはずが神経戦の妙味はかなり薄まってしまっている。クライマックスの謎解きに至ってはもはや客車でおこなわれることすらなく、それもこれも監督が物欲しげな構図を欲しがったに過ぎないことは見ての通りだし、そこで見せるポアロの目つきはディテクティヴというよりはほとんどプライヴェート・アイの血走りすら見せてしまうわけで、やはり対『SHERLOCK』として名乗りを上げるにはここまで下世話に立ち回ってみせる必要があったのだろうことが容易にうかがえてしまう。ルメット版におけるミステリーの予習を観客に促すスマートで手際の良いオープニングが今作ではポアロのマニフェストに置き換えられていたことからも、今作の主眼がミステリーそのものではなくエルキュール・ポアロというキャラクターを宣言することにあったのは言うまでもないし、それはラストにおける来たるフランチャイズへのあけすけな欲望へと引き継がれることになるのである。こうなったら将来的に『SHERLOCK』とクロスオーヴァーしたとしてもまったく驚かないな。興味もないけど。何でもかんでもシュッとすればいいってもんじゃあない。
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2017年12月10日

希望のかなた/ヘルシンキ・ホームシック・ブルース

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フィンランド人のネオナチがシリア人カーリド(シェルワン・ハジ)に吐き捨てる「ユダヤ人野郎が!」という言葉にこそ、レイシストに対するカウリスマキの怒りを通り越した侮蔑と絶望が込められていたように思え、その人種も宗教すらも知らぬもはや思想ですらない憎悪の排泄行為に知性はいったいどこまで有効なのか、親が子供に優しく噛んでふくめるような理性と人情(というのは見返りを求めない自己犠牲だろう)の1+1で希望を倍にするやり方を、せめて話せば分かる人たちは試してみてはくれまいかという監督による懇願のような映画だった。人間が社会という連なりで生きていれば何かと戸惑い困ってしまうことは避けがたく、その理由を突き詰めていけば結局は自分以外の人間は自分ではないという答えに行き着くようにも思われるのだけれど、それは言うまでもなく自分も他人にとっての困惑の種であるということであり、だからこそカウリスマキは困っている人を劣っている人として区別したり差別したりしないわけで、カウリスマキの映画に通底するまなざしは多分そうした考えによって可能となっているのだろう。今作では、そうした他者性を自覚しないことで成り立つ存在に向けられる敵愾心はこれまでになく露骨にさらけ出されていて、市井の人々はカーリドを助けるべくそれぞれのやり方で官僚/警察組織やネオナチといった恥知らずたちに刃向かうのである。一方ヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)もまた、酷くすり減った自分への困惑と危機感から当人以外に投げやりな妻を棄てた男であり、彼のカーリドに対する共感と献身は、選択の余地なく国を棄てざるを得なかった男がなお胸を張って相手を見据える正統な自尊心への敬意であったようにも思えるし、彼が再び妻を迎えに行ったのはカーリドとミリアム(ニロズ・ハジ)の再会が彼に今一度自身を顧みることを求めた結果によっているのだろう。ネオナチおよびシステムの代理人として現れる以外のすべての個人は、この世界でいわれなき迫害と困難を浴びせられる人の代表であるカーリドに一切の躊躇なく手を差し伸べて、それがミリアムとの再会という奇跡をあっけなく呼び寄せるのである。ヴィクストロムのように持つ者が身銭を切らなくても、収容施設の女性職員(マリヤ・ヤルヴェンヘルミ)がそうしたようにドアを開けてやりさえすれば、路上の彼らがそうしたようにネオナチの頭を空き瓶でどついてやりさえすれば、空のトラックで女性を一人運んでやりさえすれば、それぞれがイエスと思ったことをやってみさえすれば希望は奇跡へとつながることを、カウリスマキは、悪いクセでそう見えるかもしれないがこれは冗談ではないと真顔で告げていて、傷を負ったカーリドを映すラストショットは密やかなハッピーエンドのらしからぬ留保でもあり、その希望と不穏のないまぜにこそ、今回は満ち足りて帰ってもらうだけでは足りないのだというカウリスマキの切迫した本気がうかがえた気がしてならないのである。「竹田の子守唄」までもが越境し、収容施設のベッドでカーリドがつま弾く伝統楽器サズがそれを震わす蒼茫のブルースに、最近観たばかりの映画で耳にした「パンクはブルースの最終形」というセリフが浮かんではカウリスマキですらが立てざるを得ない中指が突き刺さって、いつものように笑ってばかりもいられなかったのだ。近寄ってくる犬のコイスティネンにうっすらと微笑むカーリドの傷からにじむ赤い血は痛めつけられる世界の象徴としてスクリーンに配置され、流血する希望という非常事態を余白の余地なく突きつける初めてのカウリスマキとなった。
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2017年12月08日

全員死刑/バカはオバケで泣く

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最初にぶっ殺われるショウジの言う「みんな自分よりバカな奴を見て安心したいんですよ」というセリフこそが監督のテーゼなのかなあと考えながら、酷薄な思いつきと凄惨な行動にあけくれる一家が一瞬たりとも実存の極北など照らしてしまうことのないよう、ほとんど動物映画のチャームで感情移入を求めてくる媚びと痴態を愉しんだのである。その意味では、誰がどうみても貧乏クジをひかされっぱなしのタカノリ(間宮祥太朗)を底辺のバカとしてどれだけ最後まで維持できるかという点が命運となり、実録ものとして既に成功と失敗の道行きが知らされているとなれば、倫理の痛覚をいっさい持ち得ないはずのこの男の本能が、外圧と内圧のバランスで軋み悶える姿にこそサスペンスを求めることとなるわけで、しかしこれが動物映画である以上内省する自我をサブテキストで描けるはずもなく(実際に字幕で説明してしまう)、ではいったいそれを作劇としてどう解決したかというと、その悲鳴を上げる軋轢をフィロソフィカルゾンビのような黒い人影として可視化させていたのである。それはタカノリの精神を反映させたようなひどく幼稚な出来損ないの姿ではあるのだけれど、駐車場で目の前に現れたそれがタカノリとの同化を欲して歩を進めてくる瞬間こそは唯一タカノリが一家のペットとしての鎖を引きちぎるチャンスであったということになり、この逃げ方というか攻め方はとてもスリリングに感じたし、自動販売機前での老人(ジジ・ぶぅ)とのやりとりを通してタカノリのまとい始めた死の臭いを告げてみせるなど印象に残るのがぶっ殺うシーンの他に多かったことなど思うと、内部からの露悪をさらに描けるはずの監督がそれを前面に出すことをしなかった作戦(とあえて言う)が少しばかり食い足りなかったなあと思ってしまうのだ。それはすなわち「事実は小説より奇なり」の“事実“ではなく“奇”の部分にフォーカスしデフォルメして晒す露悪を選んだということで、福岡で起きた事件にも関わらず袖ヶ浦ナンバーの車が走り回ったり、首塚家の室内にべたべたと貼り付けられた格言の書かれた半紙が醸す電波感であるとか、最初の犠牲者ショウジをYouTuberとした設定など、現実につかまってしまわないよう絵空事の強度を高める方策については理解するものの、それによって緊張よりは緩和が常に優ってしまうことで、例えばワゴン車の運転席に体を押し込んだタカノリの尻がクラクションを鳴らしてしまうシーンのように緊張と緩和のリズムが不発になってしまったり、おそらくは緊張の補填のためであろうダッチアングルの多用も、逆に形式の窮屈を呼んでしまった気がしないでもない。いささか冗談めかした風な出たとこ勝負で行われる最初の殺人(ショウジ)から、パトラ(睡眠薬&絞殺)、カツユキとオカダハルキ(銃殺及び刺殺)へと進むに従って陰惨の度合いが増していく計算はうなずけるものの、動物が動物同士殺し合っても外部には脅威とならないわけで、意志が通じず一切の葛藤がない生き物が自分に向かってくる姿が容易に想像できた瞬間こそがスリラーでありホラーとなることを考えれば、何だか体よくお預けを食った気分のままだったように思うのだ。バカを見て安心したいわけじゃなくて、あらぬ手口でおびやかされたいんだよね。
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2017年12月04日

パーティで女の子に話しかけるには/アナザー・ガール、アナザー・プラネット

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パンク。直近に打ち倒すべきものも見当たらない北関東の中学生にとってパンク=パンクロックでしかなく、そのアティテュードを透かしてみる切実やノーフューチャーなニヒリズムなど持ち合わせていたはずなどないわけで、トム・ロビンソン・バンドすらもゲイのアイデンティティを掲げたROCK AGAINST RACISMへの共感には程遠く、魅力的なパワーポップ系のパンクバンドとして夢中になっていたようなお気楽者だったのである。当時彼らのことを教えてくれたOクンはリリースの予定について東芝EMIに電話するほど彼らに夢中になっていて、今にして思えばその切実さには彼なりの理由があったことにどこかしら気がついたりもするのだけれど、とにかくそんな風なノンシャランのせいで、どれだけパンクロックのレコードを聴こうと何者へも化けることなどないまま日々をくすぶっていたのである。インターネットが繋げる世界など誰の頭にも思い浮かぶはずのない、距離がそのまま距離として彼方に横たわっていた時代、70年代後半の思春をニューヨークやロンドンから遠く離れて過ごした彼や彼女たちがまずは自身が育てた妄想のパンクの中を泳がざるを得なかっただろうことは言うまでもなく、だからこそ当時を知る当事者の筆さばきでこんなふうにあの頃を描かれてしまうと、まるで自分の記憶のように甦ってきてしまうのがやたら始末が悪いわけで、それはもうオープニングのザ・ダムド「ニュー・ローズ」で一気にノスタルジーとファンタジーの白日夢へとなだれこんでいってしまうこととなる。とはいえ、ザン(エル・ファニング)がエン(アレックス・シャープ)にとって単なるパンクミューズで終始しないのは、パンクのデストロイに共鳴しつつもその先には再生がなければならないことをエンに伝える役割を彼女が担っているからで、リーディングのような導入から次第にエンとの掛け合いへと登りつめる昂ぶりがまるでパティ・スミスとレニー・ケイの“ロックンロール・ニガー”のようなパンクチューンを繰り広げるステージで、ザンはエンと感応(コズミックセックス!)することで自身に芽生えつつある新たな息吹の正体が母性であることを知り、ノーフューチャーの先の視界をエンに促すのである。一方でボディシーア(ニコール・キッドマン)こそはノーフューチャーなパンクガールを貫く存在として登場しつつ、それを貫かざるをえないメランコリーを「パンクはブルースの最終形なのよ」というセリフに託しながらも、かつて手放した母性の奪還になぞらえるかのようにザン奪還のためエンに手を貸すわけで、エンにとってはパンクな父親がそのパンクな衝動のうちに消えた後でシングルマザーとして彼を育てる母親も含め、パンクが打ち壊した瓦礫を片付けて明日を始めるために母性がなさねばならぬことを知るのがエンにとって最初の通過儀礼ということになるのだろう。そんな中で「12回も中絶したのに何も見返りなんてなかった」と自嘲気味に吐き捨てるボディシーアの、しかし自己憐憫を押し殺してサーベルかざして進む(byちわきまゆみ)姿には、エンに対するノスタルジーや感傷の投影とは異なるジョン・キャメロン・ミッチェルにとって同志としてのリアルな共感が見て取れる気もしたのだ。エル・ファニングの、“エル・ファニング”という特殊で特別な生き物として話し、走り、弾み、笑い、叫び、舐め、吐き、眠り、歌って踊る姿はそのまま個体としてMOMAに永久展示しておきたいほどで、かつては独立した生き物のように息づいていたその首がついには全身を支配したように思えてならず、形而下的にはここが一つの到達点とすら言ってしまいたい。何度となく書いた記憶があるけれど、僥倖に恵まれればその首をそっと両手で甘締めしてしまうのはおそらく必至なように思われる。それにしても、今さらパンクに早く行けと尻を蹴り上げられるとは思わなかった。家に帰るまでがパンク。
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2017年11月30日

ジャスティス・リーグ/金ならあるが答えがない

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彼方からやってくる侵略の脅威に晒されるのは限りなくチェルノブイリなロシアの寒村に住む4人家族に限定され、あとはステッペンウルフ撃退の舞台裏全部見せます!という楽屋オチだけで120分を押し切る開き直りというか素知らぬ顔はいっそ清々しくもあったのである。自分たちのあれこれに手一杯で世界のことまで手が回らないという本末転倒をオフビートにまとめるのはジョス・ウェドンの得意とするところで、やっていることは基本的にアヴェンジャーズと変わりがないにもかかわらず、あらかじめ仕上がったキャラクターを転がしておけばそれなりに恰好がついたMCUに比べると、中年の危機を抱えた金持ちとデビューまもない女神、海のものとも山のものともつかぬ(海のものではある)神様を含むルーキー3人、そして残すのが病み上がりの宇宙人という手駒とあっては裏打ちのリズムに即興で息が合うはずもないわけで、オフビートのつもりのオンビートでシャンシャンと立ち尽くしながら展開する棒立ちの会話劇にはいつしかカウリスマキのペーソスなど滲んだ気もして、これが新たなポスト・ポストヒーロー宣言であるならそういうつもりでつき合わねばなるまいなどと思ったりもしたのである。したがって、スーパーマンを囲んでの立ち話に夢中になるあまり、そもそもキミらそのために雁首つき合わせてるんじゃなかったっけ?という世界の命運を握るはずのボックスをほったらかしにしたあげく、あっという間もなく奪われて口あんぐりの脱力コントは賞賛されこそすれ瑕疵になるはずもないわけで、何より宇宙人は非常に寝起きが悪いという定説を『プロメテウス』に倣った点でも好感が持てるし、スーパーマンを朴念仁の怪物としてホラーマナー(彼が叫んだように『ペットセメタリー』である)で昇華させる手口には大きな緑色の暴走がちらついたりはするものの、ついこの間まで神と崇めた御方のいじり方としてはおおむね斬新といってよいのではなかろうか。そもそもの成り立ちとして、先行者の背中ごしに見える風景を丸パクリしたはずがなぜか寸足らずのメランコリーにまみれてしまうシミュラクラの哀しみは永遠にセブンイレブンに焦がれ続けるファミリーマートのようでもあり、そうやって敗れ続けることで得る身の丈もあるのではなかろうかとワタシに宿った出所不明の優しさが、ジェシー・アイゼンバーグのいつか見た得意気な笑顔に対して、もうそういうのいいからと理由もなくささくれた気持ちをなだめたりもしたのである。しかしあの3つの箱を今度はどこにどんな風に封印したのかくらいは、いくらマクガフィンとは言え教えておいてくれてもよかったのではないかとも思うにしろ、もしこれが、アヴェンジャーズのアレと間違えてジャスティスな一同が大騒ぎする未来への布石なのであればそれはそれで愉しみにおとなしく待つことにしてみたい。ロシアの少女がまるで狂気の山脈に咲き乱れるようにドラッギーな花々に向かってまあきれい!とばかり笑みをこぼすシーンがまったく意味不明で忘れがたく、もしかしたらこんなところに突破口があるのかもしれないと思ったのである。もうクトゥルフと闘え。
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2017年11月29日

KUBO/クボ 二本の弦の秘密〜ライカじょんがら節

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開始早々、大波に呑まれた母親が海底の石に顔面を激突させるカットとそのグォンという鈍く寄る辺のない響きに、かつてコララインがバスルームでいきなり虫を素手で握りつぶした名刺代わりなど想い出しては、ライカの新作を観る昂揚へと一気に包まれていく。『パラノーマン ブライス・ホローの謎』ではノーマンのイノセンスをことさら担保するためか、彼を安全地帯に置きすぎたミスにワタシは致命的な引っかかりをおぼえてしまい、ライカのいちばん大切な通奏低音であるメメント・モリがぞんざいに扱われた気がして今ひとつのれなかったのだけれども、今作の主人公クボ(アート・パーキンソン)はあらかじめ体と家族の一部を奪われた者として登場し、その欠落した物語の結末を彼自身の手で綴るべくそれに必要な責任と勇気を旅の中で育てていくことになる。そのラスト、かつてクボの大切なものを奪った者が、今や孤独で無力な者となって彼の目の前に立った時に果たして彼がどうしたか、すべての物語には結末がありワタシたちの人生という物語においては死をその結末としていることは言うまでもなく、ならば復讐による死によって物語を閉じることも結末の一つであったに違いないのだけれど、クボは他者を生かすことで自分と世界を生かす物語を選んでみせて、これは物語のはじめにカメヨ(ブレンダ・ヴァッカロ)がクボの昏く青い生硬に向けた「(物語に)笑いは必要よ、残酷なのもほどほどに」という言葉への返答に見て取れると同時に、それこそはライカのコードとトーンであったようにも思えるのだ。そしてこのシーンにおいて、クボの力に敗れ自身の物語(=記憶)を失ってしまった男に対し、彼の暴虐によって自分たちの村を破壊された人々がまるで着るものや食べものを差し入れるかのように物語を考えては分け与えるのである。舞台となる刀と着物の時代の日本は単なるエキゾチック欲しさに選ばれたわけではなく、物語の余白や行間こそに秘めた想いがあることを伝える精神に満ちた時代としてふさわしいがゆえであることは、ライカの視点を通した日本が細部に至るまで物語の血肉となっていたことにもうかがえて、となれば前述した村人の行動もライカによる日本人観の反映ということになるのだろうけれど、毎日気の滅入るようなニュースや出来事が引きも切らないこの国に暮らす者としては何だか恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになったりもしたのだ。ストップモーションによるライヴアクションという字面だけ見ると矛盾したようにも思える手法は、一瞬の生の連続によって生命は脈打つのだと人形に命を吹き込む行為それ自体がメメント・モリの表裏となるわけで、ライカの作品に色濃い死の気配はその必然ということになるのだろうし、そうやって仮初めの生命を宿した人形たちがアルゴリズムではなく重力の支配のもとで生を全うしようとする姿が一途であったからこそ、いつしかその営みに抜き差しならない感情が繋がってしまうのだろう。それはモンキー(シャーリーズ・セロン)の脇腹を抉る鎖鎌の冷たい激痛を我がものとし、椀の汁に沈んだ具を探る愉悦でもあったのと同時に、もはや一切の動きを禁じられた人形という人間が演じる死ではない本当の死を目撃する瞬間でもあったのである。一つ悔いが残るとすればエンディングの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」の歌詞訳が字幕にならなかったことで、まるで書き下ろしかあるいはこの歌詞にインスパイアされて映画が出来上がった気すらすることもあって、この曲をよく知る人もそうでない人もみんなが共有できればいいのになと少しだけ残念に思ったりもした。
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2017年11月24日

ネルーダ 大いなる愛の逃亡者/おれの船に乗りたいか

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私は14歳のころには共産党の闘士で、11歳の頃からあなたたちブルジョワの清掃婦をしてきたわ。教えてちょうだい。共産主義の社会になったら、みんながあなたのようになれるの?それとも私のままなの?と、酒場で挑むように絡みつく女性に、ネルーダ(ルイス・ニェッコ)は「みんな私のようになれるさ」と、真顔でうそぶいてみせるのである。果たしてそれは嘘か真か、彼を執拗に追い続ける警官ペルショノー(ガエル・ガルシア・ベルナル)の道行きは、次第にその答えを追い求めるそれへと知らず変質していくこととなり、最期にたどり着いた場所でペルショノーが待ちわびたものはいったい何であったか、それを受け取ることでペルショノーはネルーダの一部、言葉のひとひらとなっていくわけで、チリの失われた愛人としてのネルーダを神話の怪物と称える手続きは伝記というよりは伝奇というにふさわしく、今作と同じ年に撮られた『ジャッキー』がやはりオールアメリカの寡婦としてジャクリーン・ケネディを神話に葬る儀式であったことなどすぐさま思い出してみれば、パブロ・ララインが求めたのは彼や彼女を識るというよりは精製された生の瞬間に感応することであったことが否が応にもうかがえるのである。したがって、既に死んだ人間に生を与えるという、映画だからこそ可能な魔術とそれが許される不遜や傲慢がここには溢れ出していて、『ジャッキー』におけるジャクリーン・ケネディとジャッキーとしての二重の死がもたらす死の通奏低音に対し、今作ではチリという国とネルーダの生に対する正当な貪欲とその理由が革命の記憶として憧憬されることとなり、劇中で一瞬だけ登場する若きピノチェトの終焉が描かれた『NO』など思い出してみれば、レネ・サアベドラは転生したペルショノーではなかったのかなどという、益体もない妄想すら許される気がするのである。スマートながら生まれと育ちの良くない役柄を演じる時のガエル・ガルシア・ベルナルはそのメランコリーが実によく沁みて、身長すらも武器に翳してみせている。ほとんど幽鬼のようであったジャッキーと、カリギュラのごときブルジョアの怪物ネルーダというキャラクターの切り出しとそれを悠然と維持するマジックリアリズム的な幻視はほとんどパブロ・ララインの独壇場といってもよく、特に今作における黒沢清もかくやというスクリーンプロセスの多用による脱構築的なノワールの手さばきとその夢うつつのままなだれこむ雪山の追跡におけるフレアまみれの幻想は、この映画全体がネルーダの詠う「詩」に他ならないことを告げていてその爽快で豪快な前衛には昂奮するばかりで、パブロ・ララインならマイケル・オンダーチェの「ビリー・ザ・キッド全仕事」の映像化が可能なのではないかとあらためて夢想などしてみるのだった。虚を突かれた傑作。
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2017年11月21日

ローガン・ラッキー/欲張りは泥棒のはじまり

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血と汗と涙でラストベルトがこれ以上錆びてしまうのは勘弁な、とばかりキング・オブ・デオドラントとして小粋に名乗りを上げたソダーバーグの面目躍如というか、遥か彼方の前作『サイド・エフェクト』でもアメリカという共同幻想へのらしからぬコミットを深めてみせたこともあったにしろ、その自嘲のステップから共感のコーラスへと振リ切った思い切りはソダーバーグなりの現状に向けたエールあるいは布告だったようにも思うのだ。この世界、とりわけアメリカは詐病とプラシーボでひりだした幸福の幻想に生きるジャンキーの国であることをエレガントな諧謔と皮肉で告げ口してきたソダーバーグのスマートからすれば、もはや仮想敵ですらない敵が日々視界と射程に入り続けるとあっては、そうした方法論自体が既に有効ではないという判断もあるのだろう。したがって、もうピカレスクでしか生きられないなら俺たちみんなピカレスクでいいよな、でもエスタブリッシュにはいつも気をつけてろよという一言を忘れないラストも、口調は親身で優しいけれどあくまで予断は許していないのだ。それにしてもである、説明的でも舌足らずでもないストレスフリーで雄弁なショットと、それをまるで物語の朗読のようなシームレスでつなげていく編集は、以前もソダーバーグを観る愉悦として書いたのだけれど、美しい紙に美しい万年筆で美しい文字が描かれていくのを見る快感としか言いようがなく、その手際をスクリーンで味わう快楽に再びまみえる喜びもひとしおではあるのだけれど、その過剰に的確な奏功が負け犬たちのピカレスクというメランコリーすらも超均質かつ細密にデザインしつくしたことで、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」をオリジナルアレンジで演奏するトーキング・ヘッズとでもいう奇妙な味わいが、まあそれはいつものことであるにしろ、最終的に生活の真実よりは大いなる詐病の誘いへと再びつんのめっていたように思うのである。3本脚の犬はジミー(チャニング・テイタム)のアンダードッグなサブリミナルで、クライド(アダム・ドライバー)の黒い左手はルークの輝く右手へのアンサーで、メリー(ライリー・キーオ)のマニュアル上等は手を動かさなくなった男たちへの中指か。兄妹の誰よりもスマートでタフでありながら、それをくすぶらせて生きるしかないメリーの目つきが彼女のシーンを寄らば斬るような苛立ちで染めあげるたびに惚れ惚れと見とれ、結果彼女がワタシのMVPとなって、丸腰でカメラ担いだザ・ワンマン・フィルム・アーミーのスクリーン帰還に華を添えた。
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2017年11月16日

彼女がその名を知らない鳥たち/おいしく食べるキミが好き

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※展開に触れています。結論から言えば傑作。

ついには陣治(阿部サダヲ)がジェルソミーナと化したのである。さあ種明かしをしますよと言われて見せられた種明かしがそうしたのである。となれば十和子(蒼井優)は当然ザンパノである。しかしイル・マットの不在により、ザンパノを惑わす者としての水島(松坂桃李)と黒崎(竹野内豊)の笑みすらさそう非道っぷりがこの映画を暫定サイコホラーへと引きずり込むわけで、『道』が降りてくるラスト数分まで誰もが誰にも感情移入など一切認めるはずもないまま、ちぎっては投げちぎっては投げ、いったい何を投げるかというとそれは糞であったというクズどもの動物園をサファリバスに乗って巡り続けるうち、いつしか俗は聖へと寝返りをうって、ああそういえば陣治の枕元には今もあの水槽があったなあなどとすべてのピースが啓示のように降り注いでは、宙に舞った陣治をキャッチした天使たちが明るい方へ明るい方へと飛んでいく光景すら見えた気もしたのだ。それもこれも陣治のジャンプに至る助走の、その背中を蹴り足を掛け首を絞め唾を吐きかける観衆の下衆が神々しいまでの歓喜に満ちていたからで、それを誰よりも煽動する十和子(蒼井優)でありながら、しかしその助走を止めることなど私にできるはずがないのだという譫妄と血の香りがする共依存の生み出す、これはもう誰も無傷で帰ることなどできそうもないというサスペンスの予感が煉獄の日々を撫でさすっては震わせ続けることになるのである。今作では白石監督の張りめぐらしたこの撫でさする感覚の厭わしさが主役といってもいいくらいで、それを充填した陣治、十和子、水島、黒崎が互いをまさぐって蠢くさまは俗の極みにおいてエレガントですらあり、ここまで余白や担保なく糞を描ける監督の地肩には惚れ惚れするとしか言いようがなく、十和子の髪を鷲づかみにしてダッシュボードに叩きつけ、トーキックで肋骨を粉砕する黒崎には竹野内豊の愉悦が、水際の遊歩道で十和子を跪かせてチャックを下ろす水島には松坂桃李の恍惚が滲んだようにも思えるし、何より阿部サダヲと蒼井優という、スペックの圧が強すぎてアンサンブルではそのコントロールに甘んじるように見受けられる2人が知らずそのリミッターを外したかのように映る爽快感こそが特筆されるべきで、この2人の生理的ホラー感があってこそ成立する作品などそうそうお目にかかれるはずがないように思うのだ。今作に限ったことではなく、善とか言う仮想敵を必要としないその凡庸に均された悪の世界、善い人のいない、悪い人たちと悪くない人たちが角突き合わせる世界をニヒルも絶望もなく生き生きと描く白石監督の颯爽をワタシはこれからも頼りにしていきたいと確信した。阿部サダヲと蒼井優の名前で高をくくった人にこそ薦める傑作。
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2017年11月14日

ノクターナル・アニマルズ/愛のヴィジランテ

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※未見の方にはノイズとなるかもしれないのでスルー推奨

フリーキーでモンドなダイアン・アーバス的インスタレーションを背後にひとり腰を下ろし、心ここにあらずといった風で放心するスーザン(エイミー・アダムス)の瞳がその2時間後に何を見ていたか、その軌跡をたどる物語はあえてミスリードのカーヴに突っ込んでコース取りに終始してスリリングではあるものの、愛の忠誠を知る者がその責任を果たすべく選んだたったひとつの冴えたやりかたは、それゆえ残酷な賭けとも言える問いかけを伴うことになるわけで、結論から言ってしまえばスーザンは失敗するのである。エドワード(ジェイク・ジレンホール)がスーザンに送った小説「夜の獣たち」をスーザンがどう読み解いたのか、現実で小説を読んでいるスーザン、それを読むスーザンのヴィジョンが投影された小説世界、スーザン史観により回想される過去、による3つの様相が互いをマウントしながらスーザン・モローという女性の実存をえぐり出すように彫塑していくわけで、トム・フォードの開陳するこの罪と罰のあまりの容赦のなさには「シングルマン」にただよった甘美な自罰の香りは一切見当たらなかったように思うのである。スーザンの投影によって小説内の登場人物トニーはエドワードの貌を持ち、妻ローラ(アイラ・フィッシャー)と娘インディア(エリー・バンバー)にはそれぞれスーザン自身とスーザンの娘サマンサ(インディア・メネズ、偶然にしろインディは一致すらする)の面影をしのばせている。その回想においてスーザンが自身の母親アン(ローラ・リニー)を否定すればするほどその呪縛に陥っていく悲劇は、既にエドワードが君は自分で自分を封印してしまっていると指摘した通りであって、「夜の獣たち」という小説内でトニーが獣性を解放し正義と復讐を遂行するその姿こそはスーザンが自身の封印を自らの手で解くことの暗喩だったように思うし、もう失うものは何もないとトニー(=スーザン)の復讐に法の埒外で手を貸し続けるボビー・アンディーズ(マイケル・シャノン)こそはスーザンの従者としてのエドワードだったのではなかろうかと、「妻はいない、子供は遠くにいるが助けにはならない」と絞り出すように答えるその姿にだぶって見えたのだ。しかし、前述したトニー(=スーザン)に託した暗喩を現実のスーザンが我がものとすることでしか彼女の幸福はあり得ないのだとするエドワードの願いが果たしてスーザンに届いたのかどうかと言えば、小説の暴力性に現実が揺らされるほど震えおののいた彼女は、その筆致をかつて自分がエドワードに指摘した彼の「弱さ」の克服と捉えたにちがいなく、エドワードを棄ててその元へ走った夫ハットン(アーミー・ハマー)との空疎な夫婦関係に倦んだ彼女は結婚指輪を外してどぎついルージュをぬぐい、エドワード好みのスーザンを装っては自分の望む男へと変貌した(であろう)彼との逢瀬に向かうのである。しかし小説内でのボビーが癌を患って余命いくばくもない男としてトニー(=スーザン)の前から消えていく運命にあったことを思い出してみれば、それこそはエドワードがスーザンに問いかけた最終テストであったに違いなく、スーザンがエドワードの願いどおりトニーを我がものと読み解いていれば、火曜の夜あの場所にエドワードが現れるはずなどないことに当然思い至るわけで、かつてエドワードがきみの瞳はお母さんと同じ悲しい瞳だと指摘した、もはやこの世界のどこを見つめたらいいのかすらままならないその瞳をラストショットに磔としたトム・フォードの、愛を信じることをしなかった人への静かな憐憫と酷薄な拒絶には身の凍る想いすらしたのである。そうやって愛という信仰に背いた人の地獄巡りを描くエレガントかつソリッドなショットは、次第に突発する暴力すらを宗教画の啓示と語り出し、ハイ・アートとテキサスの出会う場所に赤いソファを沈めては地獄の底と見立てるわけで、しかし実はそれすらも小説を読むスーザンのヴィジョンに他ならないことを想う時(例えばスーザンの自宅に飾られたアートフォトの中で、荒野でライフルを向けられる男の相貌はルー(カール・グルスマン)そのものではなかったか)、このすべては、寄る辺なく相対化され続ける世界の犠牲者たるスーザンへ捧げられたレクイエムだったようにも思うのだ。冒頭の外世界でほんの1秒ほどその影を見せて消えていくエドワードこそは、喪い続ける世界に愛を手向ける人トム・フォードのイドではなかったか。この人は愛こそがすべてと絶望している。
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2017年11月10日

シンクロナイズドモンスター/酔った断った勝った

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『ヤング≒アダルト』ミーツ『パシフィック・リム』と言ってはみたところで曰くいい難い映画なのは間違いないのだけれど、『ヤング≒アダルト』の部分が執拗に誘う痛みのせいで『パシフィック・リム』的な激突、というか喧嘩に思いがけないライヴ感が生じてくるわけで、けっきょく最後に決着をつけるのは“大人になる”という必殺技だったということになるのである。まるでAI化したかのような世界がすべてを先回りしてお膳立てしてくれるおかげで、ワタシたちは大人になったふりをした大人として何となく生きて行けてしまっているわけで、ただそれを端から見た時に、果たしてワタシたちはどんな風なスポイルの怪物として映るんだろうねという自戒と自虐と自爆が、この映画を笑うに笑えないけれど笑うしかないコメディとして綱渡りさせていたように思うのである。自分に都合のいいセーフティネットを見つけてはそこに逃げ込んで責任を逃れる術だけが次第に手慣れていく姿はまるで他人事ではなく、ああして世界の真ん中に晒されることで自分が何者で誰を傷つけているのかをようやく知ることになる残酷ショーは、グロリア(アン・ハサウェイ)の鏡像としてオスカー(ジェイソン・サダイキス)を配置することでその痛みの応酬がグロリアの目を覚ます手助けとなって、最後にグロリアが彼方へと放り投げたアレこそが彼女に巣食う怪物に他ならなかったということになるのだろう。と言った具合に予告篇のノンシャランでファンシーな印象からすると、40超えた大人の通過儀礼とあっては次第に口数が減っていくのもやむ無しといったところなのだけれど、例えば今作のナチョ・ビガロンド監督(スペイン)や『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』のマイネッティ監督(イタリア)、あるいは『マジカル・ガール』のベルムト監督(スペイン)といったように、サブカルチャーネタをメタ構造のツールとしてではなく人生に直結する手がかりとする虚構の借り方はヨーロッパの監督に共通する意識や思想なのだろうかとも思うわけで、サブだろうとポップだろうと人間が考えだしたことならそれはリアルな全体性としてのアートではないのか?という前提は日本はもちろんアメリカ映画にもあまりない距離感で、ギレルモ・デル・トロの真っ赤な幻視とティム・バートンの真っ青な幻視の違いもそんなところにあるのではないかと思ったりもしたのである。してみれば、リュック・ベッソンの恐るべき無邪気と無節操も、本人にとってはそれがあくまでアートの達成であるという点でまったく筋は揺らいでいないようにも思うのだ。今作にしたところで、監督は当初ゴジラとマジンガーZでヴィジョンを組み立てていたらしく、劇中のアレはグロリアとオスカーの子供時代に市販されていたソフビ人形に過ぎないというコンセプトからすればうなずけるとは言え、それを公式の場でおおっぴらにアナウンスしたことで東宝に怒られたエピソードも含め、ワタシたちはいかに自分で自分に枷をはめてしまっているのか考えさせられて、観終えて残ったのはどこか清々しいとしか言いようのない気分だったのである。アン・ハサウェイも何だかそんな顔をしていたではないか。
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2017年11月08日

IT/イット“それ”が見えたら、終わり。の優雅で感傷的な始まり

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当初キャリー・フクナガがメガホンをとると知った時に、もはや日常がホラーでしかない少年少女たちの孤絶と友情の物語がすぐさま頭に思い浮かんだのは、『闇の列車、光の旅』で描かれた痛切に引き裂かれる青春がキャリー・フクナガという名前と分かちがたく記憶されていたからで、その後『ジェーン・エア』にしのばせたゴシック・ホラーの香りなども思い出してみればプロデューサーは素晴らしい選択をしたものだと感嘆したのを思い出す。その後スタジオとの“創造上の相違”によってフクナガ監督は降板してしまったけれど、彼が脚色したシナリオが今作の背骨になっているのは間違いないように思うわけで、ビル(ジェイデン・リーバハー)の青白い傲慢やベヴァリー(ソフィア・リリス)を引き裂く光と影、そして登場する大人たちがすべて彼らや彼女に立ちふさがる存在であることなど、残酷な試練に満ちた通過儀礼の片鱗はあちこに見て取れる。恐怖の質については、あくまでも彼や彼女たち少年少女の抱える恐怖の投影であるために、Jホラー以降の裏打ちよりは80年代ホラーの頭打ちのリズムを反映させたこと(劇中の映画館で上映されているのは『エルム街の悪夢5』)もあって、神経を蝕むというよりは直情的にアタックする仕掛けとなっているのだけれど、開始早々にある人体破損を見せつけて今回のペニーワイズがどこまで何をするかあらかじめ宣言することで、その通奏低音が恐怖を鳴らし続けるようデザインしてみせたのはスマートだったように思う。原作を読んだ人には言うまでもない映像化不可能なあのシーンのオミットについてその是非をあれこれ言うつもりなど全くないにしろ、ベヴァリーが抱く恐怖の源泉となっている自らの女性性に対する怒りや困惑がいささか体よく使われていたこと(フクナガ版の脚本では薬局のくだりや日光浴のシーンにセクシャルなあてこすりはない)、とりわけベン(ジェレミー・レイ・テイラー)がキスすることで昏睡するベヴァリーが正気に戻るシーンはやはりバランスを欠いてしまうように思うのだ。ベヴァリーの部屋に緑色の表紙の「かえるの王様」の本があったことがその伏線になっているのだろうけれど、原作ではその行為によって自身の女性性への拒絶を母性に捉え直すことで仲間を鼓舞し絆を一つにしたベヴァリーの捨て身を、まったく正反対の扱いにした意図がワタシにはよく分からないのである。ジュヴナイルの構造以外を極力刈り込むことで善悪の図式を単純化した意図や、それによって広範な娯楽性を獲得したことは理解するけれど、そのためにあの同志たちがお姫様と騎士という定型になってしまうのだとしたら、あの夏に彼らと出会ったことで一瞬とは言え牢獄から解き放たれたベヴァリーがあまりにも浮かばれないように思ってしまうのだ。正直に言ってしまうと、ワタシはやはり第一稿の時点で「頼むからワーナーはこれをこのまま映画にしてくれ」とキングに絶賛されたフクナガ版のシナリオで観たかったと思う。これこそがベヴァリーだろう。

[STUDIO DRAFT 3-18-2014 Written by Chase Palmer & Cary Fukunaga]
BEVERLY : Guys, stop it. Focus.
Everyone turns to Bev. Their muse. Their light.
SHE TAKES EDDIE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES STAN'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES RICHIE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES MIKE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES BEN'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES Will'S FACE IN HER HANDS
posted by orr_dg at 00:06 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする