2017年08月02日

FUJI ROCK FESTIVAL'17@苗場/7.28 Fri

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豊洲からの皆勤なので今年で20回目となるフジロック。越後湯沢の駅に降り立ったとたん、つい先月にもここに来たような錯覚にとらわれるどころか、既に帰りの新幹線を待つホームの倦怠まで夢想する始末でオッサンのせっかちはなんとも始末が悪く、そんな訳知りを矯正する3日間とすべくシャトルバスに乗り込む。

DOCTOR PRATS @WHITE
MANU CHAOやFERMIN NUGURUZAといったスペインの偉大な先達に連なる戦闘的なミクスチャーバンド、となればWHITEの無骨は絶好の空間で、まだまだ満タンの燃料抱えた客の後先かえりみない大騒ぎに、ああ苗場に来たんだなあと腕組みを解いてみたのだった。

原始神母 @FIELD OF HEAVEN
どうしてワタシはここで「吹けよ風、呼べよ嵐」や「エコーズ」を聴いているのかさっぱりわからない。そしてそのステージ中央でチョーキングをきめているのがSHAKEなのかもさっぱりわからない。しかしワタシがわからないだけで、バンド自体は凄まじくわかっているのだろうことは門外漢のワタシにすらわかるのであった。これこそ今はなきオレンジの香り。

RAG'N'BONE MAN @GREEN
音も姿もまったくの初見。確かにシンガーソングライターには違いがないだろうけど、例えば今のトム・ウェイツをそう呼ばないのと同じ意味で、ブルーズやラップ、ソウルミュージックを横断する全体性みたいな存在感に少し驚かされた。非常にタイトで音数の少ないバンドの演奏も凄みを強めていて、こんな人が31才になるまでどうやって世界と折り合いをつけていたのか不思議でならなかった。

EDEN @RED MARQUEE
ダブリナーのメランコリーゆえか、逆説的に名乗る楽園の蒼さに親密さが湧く。しかし、21歳にしか鳴らせない通過儀礼の曖昧で不定型な美しさに閉塞感はなく、それはあらかじめSNSで世界とつながった世代ゆえの是々非々(とあえて言う)なのかもしれないなとも思う。

GALLANT @RED MARQUEE
感情をぶちまけつつ、しかしそれをまたつかまえようと腕をばたばたさせて抑えがたくステージを動き回る様は、なんというか宮本浩次のようであった。にも関わらずいっさい乱れることのないファルセットに、フェスだろうが野外だろうが暑かろうが寒かろうが、弘法筆を選ばずという芸の凄みにまずはやられる。

FATHER JOHN MISTY @ FIELD OF HEAVEN
ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズの、サウンドではなく在り方というか立ち方みたいなものがロールモデルになっているのだろうかと思えばこそ冷え冷えとしかし熱く体に沁みてくるわけで、曲終わりの静寂をかき消すようにがなり立てる外国人観客の声に「ああ、どこにいってもイングリッシュアメリカンが騒がしいね、彼らを代表してお詫びするよ、Silence makes us nervousなもんだから」なんていうMCが今も記憶に残る。

THE xx @GREEN
このバンドはデビューの時から最新のニューウェーヴとして聴いていたし、それはYoung Marble Giantsの嫡子としてだったりもするので、ロミーがヴォーカルをとっている姿を見ているだけでもう何かかけがえのないものをもらっている気分になってしまう。だから今夜も胸がいっぱい。

QUEENS OF THE STONE AGE @WHITE
いまや針の穴でも通すようなコントロールでしか投げ込めない"ROCK"のストライクゾーンに、しかも1時間のあいだそのど真ん中にストライクを投げ続けるバンドに度肝をぬかれ、それを可能にするジョシュ・オムのクロスロードで悪魔と契約したかのような、オレはもうすべてを見たから死ぬまで目をつぶっていてもいいんだとでもいう安らかな笑顔のままつばを吐き、髪をとかし、腰をくねらせるその一つ一つから目を離すことなどできるわけもなく、この一日で見た中で最も人間そのものを更新していたその姿に畏怖し崇めてみたワタシは、法悦の笑みをうかべて足の痛みもかまわず止まらぬ早足でホテルへと向かう。Runnin' with the Devil


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2017年07月26日

FUJI ROCK FESTIVAL '17展望

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7.28 Fri
グループ魂
DOCTOR PRATS
原子神母〜PINK FLOYD
ROUTE 17 Rock'n Roll ORCHESTRA
GALLANT
ヒカシュー
FATHER JOHN MISTY
THE XX
RHYE
QUEENS OF THE STONE AGE
GORILLAZ

7.29 Sat
THE RAMONA FLOWERS
KYOTO JAZZ SEXTET
WESTERN CARAVAN
THE GOLDEN CUPS
CHRONIXX
THE AVALANCHES
DEATH GRIPS
CORNELIUS
ELVIN BISHOP
APHEX TWIN
LCD SOUNDSYSTEM

7.30 Sun
RON SEXSMITH
REAL ESTATE
DYGL
MAGGIE ROGERS
LOVE PSYCHEDELICO
SLOWDIVE
BONOBO
LORDE
ÁSGEIR
THUNDERCAT
MAJOR LAZER
G&G Miller Orchestra plays Elvis Presley

とまあ、こんな感じでしょうか。今年はCORNELIUSとELVIN BISHOPの被りが致命的なくらいで、あとはワタシのやる気次第。一度レッドまで下りちゃうと奥地行きはほとんど苦行だし。とりあえずはオザケン待ちのシニアがDEATH GRIPSのコンフリクト・ビートにHP吸い取られる様をニヤニヤしながら見ます。

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2017年07月25日

ウィッチ/真説 森の生活

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オフィシャルサイト

入植地を追われ去っていく馬車の荷台から姉トマシン(アニヤ・テイラー=ジョイ)と母キャサリン(ケイト・ディッキー)の肩越しに、閉ざされていくその扉を見つめる視線がケイレブ(ハービー・スクリムショウ)のものであることを忘れずにいれば、いずれたった一人で森へ立ち向うケイレブの、その予感めいた凝視がなおのこと哀れを誘うのである。そしてやはり、信仰の光が届かぬ場所へと歩みだした時点で、既に“あれ”はトマシンをリクルートすることを決めていたのかもしれず、あれの怒涛が父ウィリアム(ラルフ・アイネソン)でも母キャサリンでもなくケイレブの陥落を合図にしていたのは、この家族で真に敬虔の砦を持ち得たのが彼だけであった事実を残酷と皮肉のうちに告げていたように思うのだ。そしてトマシンはその聡明ゆえそれら欺瞞と偽善のほころびを知ることにより、光と闇の表裏一体混然とした世界へと引きずり込まれていくわけで、その欺瞞と偽善を殺すために堕ちながら昇ることを選ぶラストはそのままアメリカ建国の闇へと連なっていき、"A New England Folktale" というサブタイトルが黄色く濁った虚ろな目をしながら頭をもたげてくることになるのである。したがって、この伝承譚そのものがトマシンを覚醒させるための儀式ともいえるわけで、信仰の光は照らすべき闇をつねに必要とするという諸刃の剣であることは言うまでもないとして、この映画が恐怖というよりは原初の嫌忌に訴えてくるのは未分化なままのたうつ光と闇の混沌によっているからなのだろうし、なにより文明化によってシステム化される信仰の鬼っ子として、境界の向こう(森)に産み堕とされる魔女の誕生譚が叫ぶその陣痛の断末魔に終始なぶられ続けたのである。そうやって恐怖(ホラー)の主体による直接的なアプローチやアタックのないまま、山羊や兎、鴉や双子、ついには一個の林檎までもがどうしてこうも禍々しく映るのか、ロバート・エガース監督はそれを、理性の終焉がもたらした怪物の棲む国として少しずつ全体を書き換えていくことで可能にしていて、闇の中で聴こえなかった音が次第に聴こえ始め、闇の中で視えなかったものが次第に視え始めてくることで、気がつけばそれが耳元で息づく闇の中にワタシたちも放り込まれることになり、そうやってこちらの手持ちに干渉して脅かすという点ではハネケのニューロティックスリラーとすれ違った気すらしたのである。となればそうやって神経を障ってくる作家たち同様、エガース監督のサウンドに対する執着は鬼気迫る瞬間が多々あって、森の音や風の音が次第に心象の音となって脳内に入り込んできたあげく、まるで狂ったブルガリアンヴォイスのような歓喜と禁忌のコーラスに包まれるラストをワタシたちは呆けたように見上げることとなるのである。ほとんどを夜と曇天に終始し、蝋燭という人工の灯りだけを光源とする暗闇の色づけにこそ、作られた光と実在の闇という対比が託されていることを考えると、この映画のデリケートは、場内に漆黒を求めることを当然に音響デザインを含めたストレスフリーな環境で上映されることを望んでいるように思え、ならばこれまで体験した劇場では最高峰といってもいい今はなきシアターTSUTAYA(Q-AXシネマ)にこそふさわしい作品であったことを、前席の頭被りで完璧なフレームが欠けてしまう劇場への軽い舌打ちとけっこうな嘆息と共に思ってみたりもしたのだった。
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2017年07月23日

ウーナ/愛じゃいけない

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カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2017

冒頭、ウーナ(ルーニー・マーラ)がクラブのトイレで行うセックスの体位があとあと抜き差しならない意味を持ってくるわけで、そういったアヴァンタイトルを経てようやく “UNA” という3文字があらわれたタイトルバックに滲み出すハネケ感が、このガスライティングなニューロティックスリラー(ホラーでもいい)を愛と欲望の境界線上に連れ出しては、熱に浮かされたように互いの致命傷を狙った闘いをけしかける。戯曲の映画脚色ということで、おそらくはレイ(ベン・メンデルソーン)の職場で繰り広げられるレイとウーナの会話劇がその骨子となっていたのだろうけれど、映画はその時間を行き来する特性を頼りにフラッシュバックの多用で2人の過去と現在を立体的に締め上げていくわけで、ウーナの記憶は彼女のフラッシュバックとして語られ、それに対して現在のレイが同意し、あるいは異議申し立てをしていく。私はあなたを愛し信じたのに、欲望を満たしたとたん最後の最後であなたは13才の私を捨てて逃げ出したのだと詰め寄るウーナは、愛を失った女の子としてではなく小児性愛者の犠牲者として世の中に記録されたことで、自身の居場所を取り上げられたまま漂い続けることになり、冒頭でふれたセックスの体位は彼女の無意識がその時以来支配されていることを告げている。しかし、ここでレイがウーナの知る由もない自身の記憶をフラッシュバックとして提出し、あれは小児性愛の慰みではなく確かにあのとき愛はあそこにあったのだという感情の事実を明かしてウーナに笑顔さえ取り戻させるのだけれど、このウーナとのシークエンスと並行して現在の職場におけるレイ(ピートと名前を変えてはいる)の状況を描くことにより、彼は追い詰められると逃亡する人間であることを観客だけには知らせることで、レイの切り札も含めすべてが巧妙なガスライティングであることを告げていたのである。となれば後はレイのまやかしをどうやってウーナが知ることになるかという一点に興味は集中するのだけれど、それはラストにおいてこれ以上ない最悪の形をとってウーナの前にあらわれることになり、それが鮮やかであればあるほどウーナにとっては致命的なとどめとなるわけで、未必の故意ゆえの底知れぬ闇に放り込まれて終わるハネケのエンディングに比べれば或る断定を果たす分落としどころはあるにしろ、一人の男が一人の女性を確信的かつ完膚なきまでに破壊する物語として、当たり前のごとく足の届かぬワタシたちが溺れてしまうには充分すぎる深淵に放り込まれたのであった。そして、その深淵に棲み泳法を熟知しているからこそのソシオパスであることへの嫌悪と驚嘆がないまぜに届いてしまう点でも非常にたちが悪く、最後までそこから目が離せるわけなどなかったのだ。ベン・メンデルソーンの社会病質とルーニー・マーラの腺病質を特定したキャスティングはおそらく勝どきをあげただろう。ルーニー・マーラはそのうち何かの機会に、まるで呼ばれたようにPJハーヴェイを演じるであろうことを、"Down by the Water" を聴きながら予感した。
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2017年07月20日

アリーキャット/下品なやつらに猫だましを

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オープニングのロングショット、アパートから出てくるマル(窪塚洋介)のスッと伸びた背筋に、違和感とまでは言わないにしろそこに丸めた背中の手あかじみたマイナスは見当たらず、その後でマルが薬を飲むシーンのタブレットからカプセルを押し出すやはりスッと伸びた手指のしなやかさとあわせてみる時、元ボクサーという設定からするとそれは少々?なところもあるにせよ、何より窪塚洋介という俳優の清潔な殺意とでもいう美しさが、貧してはいるけれど鈍してはいないマルという人間の浮世離れした空気を満たしていて、ここから先、窪塚洋介さえ見ていれば映画は勝手に転がっていってしまうのである。では映画自身がうまいことやったのはどこであったのかと言えば、それはリリィ(降谷建志)を、木暮修になつき倒す乾亨ではなく、何者かであるはずのあんたがこんなとこで何やってんだよと泣き笑いしながら蹴り上げるタメ口のフットワークに染めたところであったように思え、リリィと通じることでマルが現実にカムバックしていくその対等なコンビネーションによって、屈託をもてあそぶ自己憐憫をさらりとかわしたところが心地よかったのだ。したがってリリィに煽られてマルが殻を打ち棄てることで物語のギアが上がっていくことになるわけで、それは「おもしろいことおぼえてきたじゃねえか」と羽柴(火野正平)に言わしめた土下座によってピークとされたように思ったものだから、それをリリィとではなく冴子(市川由衣)ともう一度繰り返す瀕死の愁嘆場は蛇足であったように感じたのだ。基本的にはキャラクターさえ仕上がってしまえばあとはそのチャームを追うにまかせるといった感じもあって、サスペンスの骨組みや細部へのフェティッシュはわりと大味な点で微熱のままなかなか熱に浮かされるには至らず、冴子を捕えた南雲(高川裕也)の「殺しはしない、それ以外のことは全部やってやる」なんていうセリフに『マジカル・ガール』のトカゲ部屋などが頭に浮かんだりはしたものの、え?もうそこでズボン下ろしちゃうの?という芸の無さには少々がっかりしたのである。ただ、それには市川由衣のブラガード問題もあるわけで、例えばあの動画の状況でまだブラジャーをつけている無粋であるとか、どういう理由でかこの映画では隠してしまうんだなあという大人の事情もあったのだろう。ほとんどイメージキャラクターとなっている旧車(グロリア)であるとか、瓶コーラであるとかボクサー崩れであるとかいった昭和のくすみは、言うまでもなくこれが「傷だらけの天使」や「探偵物語」の嫡子であることを告げているのだろうし、衒いなくむき出しの感情をぶつけあったRAWな時代への憧憬を明らかにもしているのだろう。ただそれがノスタルジーの一助ではなく、この時代における新しい気分の突き抜け方として有効化されていたかというと、自ら進んで前述した嫡子のポジションに収まってしまった気がした点で、やはりワタシは“愛でて”しまう以外の愉しみ方をしなかったように思ってしまうわけで、できれば窪塚洋介と降谷建志というコンビの自由で独立した涼やかな矜持が吹かせる風にもう少しくすぐられてみたかったなあと、それは自分になのか映画になのか歯切れ悪く愚痴ってしまうのだ。
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2017年07月18日

しあわせな人生の選択/トルーマンの週末

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死を出し抜くために笑ってみせる男とそれを笑ってやる男の話には違いないのだけれど、2人の静かな泣き笑いが次第に歩調を合わせていくにつれ、すでに答えを出しているフリアン(リカルド・ダン)よりは、「友達が死ぬのは初めてなんだ」とつぶやくトマス(ハビエル・カマラ)が主人公であることに気づかされていく。トルーマンの行き先については何となくうかがえていたこともあって、あとはその儀式を待つだけかと思っていた矢先、マドリード最後の夜にトマスとフリアンのいとこパウラ(ドロレス・フォンシ)がホテルで行うセックスの、それまで押し殺してきた“生き残される”者の哀しみを互いに受け止め、泣きながら達するオーガズムは、その瞬間ひとり自宅のベッドで横たわるフリアンも、トマスもパウラも、人はみな最後には一人きりなのだという暗黙の了解を確かめ合う瞬間であって、それはこの映画でもっとも死の匂いがたちこめた瞬間に思えたのだ。その翌朝ホテルにトマスを迎えにきたフリアンが、一緒に階段を降りてくるトマスとパウラ、ちなみにトマスは妻帯者である、を見てその目に一瞬のうちに浮かぶ了解の徴とフリアンに対して悪びれも隠し立てもしない2人の毅然としたまなざしとで、3人は戦友のような連帯で繋がれたようにも思え、一言のセリフもない短いカットながら、受け入れた諦念の先で微笑むことを始めた3人の美しい病み上がりのような演技とそれを求めた監督の演出に、喝采と苦痛がないまぜで押し寄せてきて座ったまま立ちくらんだ気すらしたのである。フリアンの息子ルイス(エドゥアルド・フェルナンデス)との邂逅にしても、ある仕掛けによって感情のぶつけ合いとなる愁嘆場をかわすあしらいが実に巧みだし、この映画に通底する、悲しいから意地でも泣かないという人生への異議申し立ては、ひとえに人間の尊厳を見据えた生き方のなせるわざであって、それを可能にするのは最終的に勇気と寛大さであるというペシミズムあるいはシニシズムのうっちゃりに見る光は、ワタシの年代的な共感はともかくとして未来のヒントになるのは間違いないように思うのだ。犬(トルーマン)はあくまでも犬として不要なセンチメンタルで擬人化しなかったことで、逆に彼なりの哀切が滲んだのも毅然としてスマートに思えた。邦題はふんわりと説教臭くて野暮ったい。そもそも登場する誰かが「しあわせな人生の選択」をしたと本当に思っているなら冗談が黒過ぎる。どうしてもと言うなら「トルーマンのしあわせな人生の選択」とするべきだろう。
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2017年07月15日

バイバイマン/心ここにあらない

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『イット・フォローズ』であればセックスの回避で逃れることのできた呪いが、ここでは ”THE BYE BYE MAN” という文字を認知、あるいはその言葉を聴き取ることで生じた何らかの概念が呪いと化して当該者を殺しに来るわけで、それは要するにイデアであり、騎士団長がワタシを殺しに来るのである。ひとたびソレが植え付けられた者はそれを考えまいとすればするほどそのイデアに支配され、強迫観念に苛まれた日常は闇の只中へと暗転し、しかしそのことを誰かに告げた瞬間、その誰かもイデアに屠られることになる運命を知るからこそ、恋人にも肉親にも警察にも誰にも告げるわけにはいかなくなるわけで、そういった神経トラップはなかなかの新機軸だったのではなかろうか。前述した『イット・フォローズ』にあってここにないのはその回避の手段で、そうした意味では今作のプロデューサーが手がけてきた『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』『オキュラス/怨霊鏡』といったバッドエンドにカタルシスをぶちこむ厭味系ホラーの系譜に連なっていて、主人公が物語の帰結として解決してしまうことで矮小化されてしまう恐怖を恐怖のままにいっそうの自由度をあたえるパターンとしてプロデューサーはそこに可能性を見つけているのだろうし、ワタシもその点において彼の手がけた2作に昂奮したのである。ただ、ただである。今作についてはイデアに殺されるという極北のスタイルに腰が引けたのか、THE BYE BYE MANの実体に少しサーヴィスが過ぎたように思ってしまうわけで、圧倒的に良くないものが近づいてくる予兆としての暗闇を轟音で疾走する機関車のヴィジョンが秀逸だっただけに、いくらダグ・ジョーンズを仕込んだとは言えフードをかぶったノスフェラトゥ系の白塗りという既視感にはいささか興ざめだったのは正直なところだし、犬を連れた冥界の使者といえばすぐさま思い浮かべるだろう『ビヨンド』のエミリーが最小のメーキャップだけでなぜああまで不穏を醸したか、現実と非現実のあわいに蠢く者であるならやはり引き算の造型を狙って欲しかったと悔いは残ってしまう。そもそもTHE BYE BYE MANそのものが概念の感染者を殺してまわるというよりは、はたから見ればパラノイア同士の内ゲバによる殺し合いで終始する物語であって、陰惨な神経戦という意味では『CURE』ミーツ『ジェイコブズ・ラダー』を理想とすべきだったところを、正攻法のホラーマナーで取り組んでしまった手はずに問題があったということになるのだろう。とはいえ身の丈の先の火中に手を突っ込んだあげく火傷をするのはこのジャンルの勲章でもあるし、久しぶりにキャリー=アン・モスの獰猛な腺病質を美しく目にすることができたこともあって(物語にはまったく寄与していないけれど)、シアターNから歩道橋を渡って渋谷駅に意味もない早足で向かう時の、今日もつつがなくひと仕事を終えたという気分であったのは間違いないのである。
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2017年07月13日

ライフ/たまには先に死んでみたい

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※展開に触れています。絶望の中で光を放つ人間の尊厳を映したゼログラな映画ではありません。

カルヴィンの名付け親になったあの子の心中いかばかりとお察しはするものの、良くも悪くもそういう酷さにこそ絆されてしまうわけで、ならば同じ酷い目に遭うにしても、デニス・クエイドやノーマン・リーダスよりはジェイク・ギレンホールや真田広之がみせる決死の自己犠牲があっけなく徒労と化した方がより酷さの針が振れるのはいたしかたのないところで、特にラストのミランダ(レベッカ・ファーガソン)からほとばしる絶叫は、その絶望(アレが地球に行ってしまう!)×絶望(還るのは私よ!話が違う!)が突き抜ける天井知らずに正直クスッとさえしたのである。そもそもローリー(ライアン・レイノルズ)をオープニングヒットとする人の悪さは、キャストを見渡しては胸の内で格付けして生死のたかをくくる観客へのあてつけでもあるのだろうし、ハンディキャップを持つヒュー(アリヨン・バカレ)の善性に潜むうっすらとした利己性が事態を地獄化させる設定もそれなりに意地が悪く、ショウ(真田広之)に至っては家族愛がもたらすその犬死にがさらなる地獄を誘い、要するにみながみな悪手を打っては死んでいくのである。それはカルヴィン(仮名)のインテリジェンスが上回ることで悪手とされたことには違いないとは言え、いつもならどれほど絶望的な状況にあっても知恵と勇気とタフネスでそれを切り抜けてはそのラストで微笑んで見せる彼や彼女が無様に死んでいく姿にこそ昏い愉悦があったわけで、トップバッターとなったライアン・レイノルズのイカしたボロ雑巾のような死にっぷりだけでワタシはもう多くを求めるまいと思ったのだ。そしてまた、デニス・クエイドやノーマン・リーダス(しつこい)を出し抜くよりは、きらきらとスマートな乗組員を圧倒しつつ屠ることでカルヴィンの知的生命体としての株が上がっていくわけで、キャストによるはったりという意味でもエクストリームなB級魂が溢れんばかりだったように思うのである。そしてワタシたちはここに一つ、非常に重要な教訓を得ることになったのにお気づきだろうか。『プロメテウス』を思い出してみて欲しい。それは、眠っている宇宙人を無理矢理起こすとまったくロクなことにならないということである。オコストキケン、ナデタラシヌデ。
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2017年07月11日

ジョン・ウィック:チャプター2/すました顔してバンバンバン

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たとえばカラカラ浴場跡でジョン・ウィック(キアヌ・リーブス)とジアナ・ダントニオ(クラウディア・ジェリーニ)が交わす絶望と尊厳の交錯を銃弾一発で刻みつけるシーンなどみてみれば、ここをクライマックスにジョン・ウィックをローマへと向かわせ、ダントニオ姉弟の血の相克などからめつつ、姉ジアナを生かすことで弟サンティーノ(リッカルド・スカルマチョ)を排除しジョン・ウィックがサヴァイヴするドラマを演出することも可能だったにちがいないにしろ、それがジョン・ウィックの物語なのかと言われればそうとは思わない、と監督、脚本家、そして主演俳優は即答したのだろう。言ってしまえば、ジョン・ウィック(めんどくさいけどフルネームで呼ばないとしっくりこないでのでしかたがない)がヘレンと過ごした日々こそが一時の気の迷いともいえるわけで、そのヘレンも、ヘレンの仔犬も、ヘレンと過ごした神経症的ミニマルな豪邸も失った今となっては、ただひたすらに撃ち、投げ、刺し、蹴り、抉り、轢くことでしかジョン・ウィックの実存は為し得ないということになる。そして彼の無敵は自分のいる場所が修羅であることすら内省しないクロームメッキされた鋼鉄の矜持が可能にしていることを思えば、伝説のペンシルキラーたるジョン・ウィックの真の姿は今作にしてようやくその端緒を開いたように思うわけで、瀕死のジアナにたった一発叩き込んだヘッドショットのメランコリーだけでジョン・ウィックに関するドラマは充分満たされたように思うのだ。そもそもがこの映画に流れる浮世離れして非現実的な時間は、これらが神々の戯れであるがゆえの退廃と倦怠であることによっていて、雑踏と人混みの中で取り巻く人々にまったく流れ弾が当たらないのもそれが埒外の人々であればこそ至極当たり前ということになるし、我々が神の怒りにふれた時に何が起きるのかを描いた前作からの流れとしては非常に有能かつ有益な展開に思えたわけで、天上を追われた神の物語となるであろう次作が、壊滅する天上に斃れる神々の黄昏となることを期待してやまないのである。弾を撃ち尽くした拳銃すらを敵に投げつけて武器とする一方で、バワリー・キング(ローレンス・フィッシュバーン)から授かった拳銃はマガジンが空になったあとも棄てずにベルトに差しておくわけで、そんな風に狂躁の中で美しく静かな感情が微笑む瞬間があるかと思えば、地下コンコースにおけるカシアン(コモン)とのすまし顔の銃撃戦などその洗練がほとんどギャグの域に達する瞬間すらもあって、その豊潤なガンアクションの愉悦に“神は銃弾”という言葉が頭をかけめぐったのであった。ジョン・ウィックのシャツの襟ににじむ汗染みならぬ血染みもルビー・ローズの殺意に満ちたヒップラインも、昏くひそやかに息づいて神々の紋章のようだった。ただ、撮影用のプロップカー(まさか実車じゃないよね)とは言えあの神々しい1969年型マスタングBOSSがジャンクと化すシーンだけはどうにも心が痛んで仕方がない。
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2017年07月07日

ディストピア パンドラの少女/ミート・イズ・ノット・マーダー

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邦題の「ディストピア」も「パンドラ」もあくまで人間の側からみた場合のそれであるだけで、原題(”THE GIRL WITH ALL THE GIFTS”)に思いを馳せつつこの映画を観てみれば、これはメラニー(セニア・ナニュア)をシーザー(=アンディ・サーキス)とする創世記の第一幕ということになるのだろうし、肉食への渇望を抑え込むための理性が、解き放った欲望を支えるための理性へとかわっていく変遷を、メラニーの苦悩ではなく彼女が世界を認知していく喜びと驚きで描いていく物語の後半は、一人の少女が自分が何者なにかを知っていくビルドゥングスロマンとして、それはとても端正かつヴィヴィッドな足取りで描かれていたように思うのである。ネコ可愛いけど食べちゃおう、おいしい、うっとりのくだりや、浮浪児軍団との闘いにおけるボスを狙って潰しにかかる知恵と一切の逡巡なしにバットで撲殺する獣性のコンビネーション、グレン・クローズ相手に「わたしって生きてる?」「生きてるならどうして人間のために死ななきゃならないの?」と一歩も退かないタフネス等々、セニア・ナニュアがみせる縦横無尽八面六臂の活躍もあって、このジャンルにおいては久しぶりにアイディアそれ自体に昂奮したのだ。それはもちろん、バディ・コンシダインやグレン・クローズといった手練れたちが消えゆくもの(=人間)のメランコリーを背景に染め上げたゆえでもあるのだけれど、あらゆるものが植物化していく廃墟はどこかしらバラードが描く破滅世界の佇まいもしのばせて、明るい終末とでもいうラストのグロテスクかつチャーミングな着地には思わず笑みすら誘われた。ナチュラルメイクだとほぼマッツ・ミケルセンと化すジェマ・アータートンのユニセクシーなミリタリーセーター姿も望外の眼福。
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2017年07月05日

ありがとう、トニ・エルドマン/笑ってもっとベイビー

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始まってまもなくのバナナで思わずレナード・コーエンが頭に浮かんで、自家中毒的なナンセンスじゃなくて事態を無効化するたぐいのナンセンスならいいなあと思って観ていたら、グローバル経済の先兵と化した愛する娘イネス(ザンドラ・ヒュラー)に対し、思わず口をついて出た「お前は人間か?」という言葉に落とし前をつけるべく、イネスの世界に出没しては弛緩して間もへったくれもないギャグをうんざりするくらいしつこく延々と、味のしなくなったガムを噛み続けるがごとくかまし続けたあげく、どうせすべては“ごっこ”みたいなもんだろ、だからユーモアを忘れたらだめだよと、ウィンクしながらヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)は見切れていくのである。ただ、主役はあくまでもイネスであって、「お前はいったい人間か?」と言われれば「そう言われても仕方がない」と醒めた目で返すハードボイルドは、フェミニズムなど歯牙にもかけずマチズモの原理と合理で蹴散らすエコノミックカーストにおいて彼女が選んだ処世術ではあるのだけれど、クラブのソファに沈み込んだイネスの頬を伝う涙は、いつの間にか自分がどれほど遠くにまで漂ってしまったのかを父との邂逅によって知らされた彼女が自身の孤絶を思ってこらえきれなかった一滴であり、例のホイットニー・ヒューストンのくだりにおいて、父がイントロを弾き始めた瞬間のイネスがみせる「マジでそれやるのか?!」という表情からすれば、この父娘にとって "GREATEST LOVE OF ALL" は何かしらのテーマソングであったのかもしれず、ここから巻き返したイネスは自身の誕生パーティで文字通り裸一貫の再生を告げることとなる。しかしこれが通り一遍で語られる喪失と再生の物語に落ち着かないのは、イネスがヴィンフリートを自身の日常へと連れ回すことが彼にとっての地獄めぐりへとなっていくことも描いているからで、すべてを笑い飛ばしてきたヴィンフリートが石油掘削の現場でどれだけ慌てふためいたか、娘のオーヴァーキルが父親を霞を食う善人としてしまう残酷さすら厭わない醒めた視点があればこそ、そこをかいくぐった先の確かな手ざわりに沈んでいく心地よさに互いの呵責がなくなっていくように思うのだ。わが子の目をさますのだという傲慢でも、結局はいつだって父が正しいのだという卑屈でもなく、この娘にしてこの父あり、この父にしてこの娘ありという過去と未来の交錯する場所を今日として生きるのだという足元への着地を示すラストで、カメラを取りにいったまま戻ってこない父親を待つでもなく入れ歯を外して一人立つイネスの、楽観と悲観の、執着と無頓着の、タフとメロウのその真ん中で、わたしは“ごっこ”を誠実に生きていくことにしたのだと告げる表情のやわらかなニヒルは、たとえば台風一過の日差しの中、屋根の吹き飛んだ自分の家を眺めながら、命あっての物種だしと誰かと言葉をかわしつつ停電した冷蔵庫の中で溶けおちたガリガリ君にはせる想いのように、懐手で本質を手なずける人のそれに映ったのである。そしてまた、イネスのセコンドにつくことは、永年連れ添った愛犬ウィリーを喪ったヴィンフリートにとっての喪の仕事でもあったのだろう。ファルハーディには申し訳ないが、こちらの方がオスカーに近かったようにワタシは思った。
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2017年07月01日

セールスマン/無知の痴

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開始早々、夫妻の住む部屋の壁に入った亀裂の禍々しさがこの物語の行く末をとっくに告げてしまっている。そもそも隣接する敷地の工事が原因なのに、それに対する抗議も補償も求めることなく新しい住居を淡々と探す姿には、既に身についた社会システムへのあきらめと不信が見て取れて、それは事件に関して警察の介入を頑なに拒否する妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)と、夫エマッド(シャハブ・ホセイニ)の自警的行動へと導いていくようにも思える。夫妻が属するアマチュア劇団は「セールスマンの死」の上演をひかえ、エマッドはウィリー・ローマンを、ラナはウィリーの妻リンダに配役されており、アメリカンドリームの終焉を父権の喪失に二重写しにしたこの戯曲をイランという社会のフィルターを通してどのような解釈を図ったのか劇中では不明で、当局の検閲をクリアしていないと語られる箇所が思想的あるいは風俗的な部分なのかは明らかにされていない。ただ、ウィリーの浮気が息子ビフの前で露見するシーンの稽古中に、浮気の現場であるにも関わらず女性ががっちりとコートまで着込んだ姿のままであること(当然規制によるものだろう)のバカらしさに相手の役者が吹き出してしまうわけで、イラン社会とその慣習が禁忌なものとして秘匿する女性性のアンバランスは、“進歩的な”劇団員たちによってそんな風にあげつらわれるてはいる。しかし、知識人を自負し進歩的な考えを持ってそのアンバランスを相対化しているかのようなエマッドですら(生徒にフェミニズムを諭すタクシーのエピソードを思い出してみればいい)、自身の日常に爪を立てられることで無意識のマチズモをあらわにしていくわけで、そうやってラナとの間に生まれていく亀裂は冒頭で予告されたとおりあらかじめ存在していたに過ぎない。してみると、過去を夢想し時代と意識の変化から目をそらし続けることで社会から取り残されていくウィリー・ローマンは、彼を演じ棺におさめられたエマッドと、その同じ時間に小部屋に閉じ込められていたトラックの男(ファリッド・サジャディー・ホセイーニ)への投影にも思え、知識階級であろうと労働者階級であろうと等しく身勝手な社会を形作ってきた者たちとして、最後まで顔も姿も見せることのない名も無くいかがわしき女によって叩きのめされ弾劾されたということになるのだろう。ただ、これまで描いてきた社会と自身とが二重に掛け違えたボタンで窒息していく男女の機微からすると、補助線としての劇中劇「セールスマンの死」が構造をキメ過ぎたようにも思えてしまい、特にトラックの男を引きずり込むための為にする展開は少々策に溺れた気がしないでもなく、目的としては最後まで自分を復讐の気分に駆り立てたものの正体に気がつかないエマッドの悲劇を据えるはずが、最後に鏡像同士をぶつけ合うことで悲劇の質が曖昧にぼやけてしまった点で、キャリアの更新には至らなかったなあというのが正直なところだったのである。知識階級が彼方から墜落する話として何となく『隠された記憶』を想い出したりもしたのだけれど、忘れがたく切実な自害をワンカットでみせたあの男はトラックの男の娘婿と同じマジッド=Majidという名であった。
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2017年06月28日

ハクソー・リッジ/ぼくのかんがえたせんそう

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自分がしていること、しようとしていることは人殺しのサポート以外のなにものでもないにも関わらず、食べ物を地面に落としても3秒以内に拾えばきれいなまま!的なルールのごとく、銃に触りさえしなければ僕は汚れないのだ!と謳うマイルールに殉教するデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)を主人公とする『フルメタル・フォレスト・ガンプ』としては、文句なしに充分な娯楽を提供してもらったのである。若干の悪い種子的な子供時代を経て、『サイコ』のアンソニー・パーキンス的爽快の不穏を身にまとって以降、終始デズモンドは共感の遠くにいた人なのだけれど、銃を不殺の十字架とするに至ったフラッシュバックシーンにおいてのみデズモンドはこちら側の人としての感情を爆発させていたわけで、それは唯一彼が理解可能な人間らしく見える瞬間だったのだけれど、してみるとデズモンドはこの時の衝撃によるPTSDとして、以降は夢見るような退行に引きこもってしまったように思えるのだ。そうやって他人の感情を斟酌せず自らの感情に忠誠を誓う快感に耽溺するその姿は、たった一度会って一目惚れしたドロシー(テリーサ・パーマー)にその翌日、結婚を申し込むのだとめかしこんではちきれんばかりの笑顔でくるくる回る薄ら寒さにおいてホラーであり、常軌を逸した人だからこそ常軌を逸した行為を可能にしたのだという至極凡庸な予定調和をその後はみ出すことはなかったのである。とは言え、銃をとれば救えたであろう仲間の命を神に捧げてこそデズモンドの殉教が真に試されたことになるわけで、実話に基づくとは言え、その点において決定的な追い込みが足りていなかった点に、強迫ドラマのマエストロとしてのブランクがうかがえてしまうのはやむをえないところか。切り株丸太のゴア描写は目に麗しいものの、『プライベート・ライアン』で見た糸の切れた人形のダンスからするとやはり振り付けられた踊りの段取りが透けてしまい、それは結局死の軽重にもつながっていたようにも思うわけで、あくまで戦争の無効化ではなく日本軍の無効化においてのみデズモンドがヒーロー足り得ることを、最終的には隠すことすらしなくなっていくのである。だからこそ異物たる日本兵は落ち武者のように貧弱で痩せこけた猿のようであってはならなかったのだろう。でも我が兵は地下壕でいったいなに食ってたんだろ?
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2017年06月27日

ジーサンズ はじめての強盗/怒った奪った笑った

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まずは腕試しにと3人が万引きをはたらいたスーパーの店長キース(キーナン・トンプソン)は、まあいつかはオレも年をとるし今回は大目に見るからもう勘弁してくれよってな風に物分りの良さを見せて、ああこれはそうやって善人であふれる映画だもんなとほのぼのさせておきながら、後になって彼がFBI捜査官ヘイマー(マット・ディロン)に爺さんたちの情報を交換条件付きであっけらかんと注進する食えなさには一瞬おいおいとは思うのだけれど、そもそもこれが弱者(有色人種と老人、店長キースは黒人である)が強者の白人システム(銀行&FBI)をコケにすることでささやかなクオリティ・オブ・ライフを手に入れようと奮闘する映画であることを思えば、キースのしたたかさこそもまた祝福されて然るべきなのである。そうした弱者の一撃としてのダイバーシティ包囲網が、文字通り命がけのピカレスクとしての苦みを薄めた嫌いはあるにしろ、今の時代にリメイクする企図として、我々はいっそうしたたかであれ!というエールを贈ると決めたセオドア・メルフィ(『ヴィンセントが教えてくれたこと』&『ドリーム/hidden Figures』の監督&脚本)の脚本が、このガンコで洒脱なケイパームーヴィーの勝因となったのは間違いがないところだろう。いつもは映画のマジックが年齢を消し去っているモーガン・フリーマン(80歳)、マイケル・ケイン(84歳)、アラン・アーキン(83歳)の3人がそろって老人っぷりを競う贅沢な可笑しさとそして若干のせつなさは永遠にも行き止まりがあることを言葉少なに告げて、夕暮れが静める日差しの穏やかさは何ものにも代えがたい時間であった気がしたのだ。カートに乗ってはしゃいでいたのは特殊メイクをしたジョニー・ノックスヴィルではないのだから。
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2017年06月23日

ドッグ・イート・ドッグ/カーヴを曲がると永遠が見える

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始まって間もなく、マッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)は自らの不埒とデタラメを元カノにぐうの音も出ないほど責め立てられ(言うまでもなくこの時点でとっくにおクスリ注入済みである)、当たり前だが申し開きができる余地など毛じらみのサイズすらあるはずもないマッド・ドッグはそれがただただ悔しくてたまらず、ほんの一瞬泣きべそのような表情をしてみせた後に、アンクルホルダーから抜いたナイフを一閃し盛大な逆ギレに転じる。そしてそれを目撃した元カノの娘を2階に追ったマッド・ドッグは慣れた手つきで枕をサイレンサー代わりに少女を撃ち殺すのである。さすがに直接的なヘッドショットのシーンはないにしろいきなり差し出される名刺代わりの子供殺しに、この先どういう筋を立てていくつもりなのか行く末を案じたりもしたのだけれど、映画はそれをまったく引きずることもないどころか、むしろその殺戮の昂奮を落ち着かせないことしかアタマにないその後の道行きだったのである。そこまでされれば鈍いワタシもさすがに気がつくわけで、デオドラントされた世界にスポイルされたワタシが鈍らになっていただけなのだ。物語は、行って帰ってこなければならない、その時何かを獲得しなければならない、その代わりに何かを失わねばならない、そして何かを気づかねばならない、それらを観客にも分け与えねばならない、そうした“ねばならない”にがんじがらめになっていたのはワタシの方だったのであり、それを何とか伝えようとマッド・ドッグとトロイ(ニコラス・ケイジ)とディーゼル(クリストファー・マシュー・クック)の3人が物語を解体する返り血でドロドロになりながら、鼻歌で冥府魔道を歩いて行く姿の神々しさにワタシは頭を垂れるしかなかったのだ。ポール・シュレイダーがやはりニコラス・ケイジと組んだ前作『ラスト・リベンジ』が“ねばならない”に窒息して行き倒れてしまっていたことを思い出してみれば(それはそれでその転び方が愉しいのだけれど)、好き勝手に圧縮と解凍を繰り返すことによる酩酊がもたらす“ねばならない”からの解放は、誰よりもポール・シュレイダーが突きつける現状へのファックサインだったのだろう。マッド・ドッグが2度めに(そして人生最後の)泣きべそを見せた直後、その意味すらかき消すべく反響する自分の撃った発射音に悶絶するディーゼルの姿こそ、この映画が底を踏み抜き続けたニヒリズムの集約だったようにも思え、そしてラストに配される、おそらくは今際の際にあるのだろうトロイが見る霧に包まれた幻想シーンの『雨月物語』オマージュと、そこではなぜかハンフリー・ボガートの口調を真似て喋り続けるトロイの姿も相まって、オレは「映画」を撮りたいだけなんだというポール・シュレイダーのつぶやきが静かに沁みわたっていく気がしたのである。なんだか、ルメットが『その土曜日、7時58分』で突然前線に復帰した時を思い出した。この傑作に試されるべき。
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2017年06月22日

アイム・ノット・シリアルキラー/ぼくがひとりでいるところ

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※いささかネタバレ。まあポスター見れば気づくけど、念のため。

父親のいない家庭で姉も家を出てしまい、母と2人互いの屈託をくすぶらす16才のジョン(マックス・レコーズ)は、などと書いてみれば、ジョンがかつてマックスだった頃の映画を当たり前のように思い出したりもするわけで、そのラストにおいてボクたちはみな最終的には一人なんだと独立宣言をすることによって世界に参加したはずのマックス(当時8歳)は、孤独の淵をのぞき込み過ぎたせいなのか何なのか、中西部の名もなく寒々しい小さな町でソシオパスであることだけをよすがに16才の日々をそれなりにやり過ごしていたのである。そんな性向のマックスに、でも親子の絆は大事よねと生家の葬儀場で死体処置を手伝わせる母エイプリル(ローラ・フレイザー)もたいがいなのだけれど、セラピストのネブリン先生(カール・ギアリー)の、まずは自分がヤバイやつだってことをアタマに叩き込むところから始めようぜっていう愛あるカウンセリングもあってか、いじめっ子に向かって「オレはソシオパスって正式に診断されてるんだよ、そういうオレにとってお前はただの段ボールみたいに退屈な存在なんだよね、でも退屈な段ボールだって切って開けてみたら中に何か面白いもんが入ってるかもしれないだろ?だからお前がそうやってオレにくだらないこと言ってる間、オレはお前を切って開けることばっかり考えてるんだよ、でもそんなこと実際にはしないよ、そういう人間にならないよう、そういう時は笑って何か気のいいこと言って済ませるルールをオレは自分に課してるんだよ」なんてジワジワくる啖呵を切れるくらいには片隅でバランスをとっているわけで、この映画の“冷たいくらいに乾いた(cdip)”心地よさはそうしたジョンの造形によるところが非常に大きいように思う。劇中でただ一度だけジョンが直接的な暴力をふるうシーンがあるのだけれど、その突発性と暴力直後にとった行動の振れ幅からすれば、果たしてジョンが胸をはるほどのソシオパスであるのか、まだその境界でふらついているだけのようにも思うのだけれど、肝心なのはソシオパスという鎧によってジョンが日常を持ちこたえているという現状なわけである。そうやって七転八倒するアドレッセンスからの通過儀礼をあてにしないからこそ、クローリーさん(クリストファー・ロイド)との異種格闘技戦に向けてジョンを急場しのぎで仕上げる必要もないわけで、ジョンの孤独だけれど確信に満ちた戦いが最終的には親子の共同戦線につながって、ついには母との絆もよみがえってめでたしめでたしという麗しき家族愛で着地すらするすまし顔は、ジョンが“成長”し、性向が“治った”からこそのハッピーエンドでない点において爽快かつ痛快だったのである。空の広さに覆われた町の“冷たいくらいに乾いた(cdip)”空気をロビー・ライアンによる16mmフィルム撮影が終始とらえ続け、ざらついた粒子に定着するマックス・レコーズの張りつめた端正が映画を最後まで真顔のままつなぎとめることにすばらしく手を貸している。まったく触れてこなかったオチというかクローリーさんの正体はそれなりにちゃぶ台を返すけれど、あれで映画全体が少しだけファンタジックに浮きあがるわけで、ジョンの冒険譚としてはむしろ正解。相手が何であれジョンに人殺しをさせたら、この映画は負けだから。
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2017年06月19日

パトリオット・デイ/死んで花実を咲かせましょう

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イラクでもアフガニスタンでもなく合衆国本土で繰り広げられるオーヴァーキルとサーチ&デストロイは、ほとんど戦争映画といってもいいだろう。そうした意味では、発砲音や爆破音のノイズサウンドとしての快感をより追求しブラッシュアップしてみせた『ローン・サバイバー』といってもいい。そして、実録モノであるにもかかわらずトミー・サンダース(マーク・ウォルバーグ)という架空のキャラクターを狂言回しにすえて本来複数の警官の持つエピソードを一人に集約することで、タスクフォースとしてのリズムを巧みに躍動させているし、『ローン・サバイバー』ではあまりにも馬鹿正直に描いた組織(シールズ)愛のために鼻白んだマッチポンプ的なヒロイズムの失敗を教訓に、徹頭徹尾被害者としてのメランコリーを全面に打ち出すことで追う者に全権を委任する手さばきは格段にスマートになっていて、3人の容疑者以外のすべての人々は善良で無辜な合衆国国民として、通常であれば憎まれ役のFBIでさえ特別捜査官リック・デローリエ(ケヴィン・ベーコン)にバランサーとしての弱気までも色づけてみせるのである。そうやって実在の人々についてはあらかじめの輪郭からはみださないよう注意をはらう一方、ドラマのポインターとして、たまたま爆破現場の近くにいるトミー、たまたま妻を巻き込んでしまうトミー、たまたま市街地の監視カメラの配置からアングルまですべて頭に叩き込まれているトミー、たまたまウォータータウンを一人巡回するトミー、といった架空のトミーが走り回るわけで、とはいえ終盤で問わず語りに意味のよく分からない善悪問答を唐突に語らせるあたり、さすがにこれでは少々薄っぺらが過ぎるという自覚はあったのだろう。劇中では木偶と化した実在の登場人物について、ラストで本人を登場させることによって命を吹き込む手口すらもピーター・バーグは嬉々として自らの刻印としたかのようにも思える。しかし、政治的宗教的大義名分の衝突を周到に回避するため、このテロリズムがジハードであることを矮小化する手続きにおいて、犯人タメルラン・ツァルナエフの妻キャサリン(メリッサ・ブノワ)を取り調べる尋問者(カンディ・アレキサンダー)の、まさに『4デイズ』のサミュエル・L・ジャクソンそのままの登場がこの映画の隠しきれないキナ臭さを一瞬ぶちまけてしまっていて、ワタシにとってはここがこの映画のピークとなった。だからといってピーター・バーグが右からの愛国者かと言えばそういうわけでもなく、おそらくは労働倫理としての殉職にフェティシズムを抱いてしまうだけであって、それはキャスリン・ビグローの隊フェチのようなものなのだろうと今のところは考えている。
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2017年06月18日

ゴールド/金塊の行方、そしてあきれるほどの行方

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『ダラス・バイヤーズクラブ』『ニュートン・ナイト』に続いて、変則の矜持を抱えたアウトローの自爆がアメリカの躁病的な勝者総取りのシステムを蹴り上げる異形のピカレスクを、ここではハゲ散らかしたブリーフ一丁の山師としてマラリアの熱に浮かされたマシュー・マコノヒーが熱帯雨林の熱情でギラギラと塗りたくってみせる。下敷きとなった実話はなにしろグレーな部分が多いようなのだけれど、劇中では特に叙述トリックを駆使していたようにも思えないから、負け犬のタッグが世界を手玉にとった話として額面通りに受け取っておけばよいのだろう。そうすることでケニー・ウェルス(マシュー・マコノヒー)のみならずマイケル・アコスタ(エドガー・ラミレス)の屈託までもが鈍色の花を咲かすことになるわけだし、ケニーを利用できるだけ利用しつつ、しかしその友情と意気を裏切ることはしなかったマイケルの一発逆転には、「いいか、俺が執着してるのは金(マネー)じゃないんだよ、俺が執着してるのは金(ゴールド)なんだよ、それは違うんだよ、まったく違うことなんだよ」というケニーの呪詛が連なっているように思うのだ。そしてこれもまた「手ざわり」のオミットを合理ともて囃すレーガノミクスアメリカへの逆襲ということになるのだろう。それにしても、バスローブにブリーフというコンビネーションの殺傷能力はほとんど発明にも近いのだけれど、それもこれも絶妙に緩んでたるんだ(太ってしまってはだめなのだ)アールで輪郭されたマシュー・マコノヒーの肉体があればこそで、その完璧な三位一体でケニーが誘うベッドに辛抱たまらんと飛び込むケイ(ブライス・ダラス・ハワード)のティファニー丸出しな昭和ルックがこちらも完璧にしつらえられていて、この映画が向かう洗練の方向はこのシーンにまるごと集約されている。まあ、オレンジ・ジュース(「リップ・イット・アップ」)が高らかに鳴らされた時点でとっくに勝ちは決まっていたにしろである。ピクシーズ、ニュー・オーダー、ジョイ・ディヴィジョン、テレヴィジョンとかウチから持ってったTDK AD60のMIXED TAPEかと思った。
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2017年06月16日

20センチュリー・ウーマン/拭けないケツならしまいなさい

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アビー(グレタ・ガーウィグ)との「これはなに?」「レインコーツよ」「彼女たちは自分が下手だってわかっててやってるのよね?」「そうよ」という真顔のやり取り、トーキング・ヘッズとブラック・フラッグとのセクト主義的対立への呆れ顔、そしてカーター大統領の「信頼の危機」演説への喝采などなど、ドロシア(アネット・ベニング)の、あくまで自分の手ざわりを信頼した生き方、というかそもそも私が私であるということはそういうことでしかなく、それは同時に他の人間が持つ手ざわりを尊重することでもあって、そうした生き方の自然で無意識の徹底が、周囲にはフリー&イージーかつラディカル、あるいはジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)に言わせれば時代遅れの“大恐慌世代”に映るのだろう。したがって、定量化されるアメリカの憂鬱を嘆くジミー・カーターの演説にドロシアただ一人が賛意を示したのも、手ざわりまでもが定量化されていく世界へのメランコリーがそうさせたように思うのだ。しかしそうした時代のうつろいをただネガティヴに否定する悪癖をドロシアのスマートが許すはずもなく、ジェイミーの後見人になってくれないかというアビーとジュリー(エル・ファニング)への一見したところ突飛な申し出は、自分にはフィットしないけれどジェイミーが避けて通れないものの見方を伝えるためのきわめて実際的な考えによっていたのだろう。たった一人クラブに足を運び、踊りさんざめく若者たちを夕暮れのような穏やかだけれど悲しげな目で見やるドロシアのシーンには、切なくすらある彼女の真摯が見てとれる。アビーとジュリーの2人ともそれぞれが母親との関係を傷ませていて、それをドロシアが知っていたのかどうかわからないけれど、あてにしたのはそれと折り合いをつけて生きている彼女たちが醸すタフネスなのだろうし、アビーによるジェイミーへの“イズム”の教育に烈しい口調で注文をつけたのも、教えて欲しいのは他の誰かの考えではなくて、悲しい時には踊るのだ、といった風なあなた自身のことなのだから、という気持ちでいたからなのだろう。しかしこれは、ジェイミーのビルドゥングスロマンの体を借りつつ、実際のところは、そうあって欲しい15才のアメリカ人少年を彼に投影することで自分の手ざわりをあらためて確認する3人の女性達の物語であるわけで、「セックスすれば友情は終わるわ」と目の据わった美少女に言い放たれる15才の童貞にワタシは心の底から同情したのだ。清志郎ですらがどん底の放蕩を経ることで “セックスのつながりさえ無ければ、本当はきっとうまく行くにちがいない。ずっと調子よく空想なんか必要なく、空想よりもっといい所で暮らせるのさ”という言葉にたどりついたことを思い出してみれば、15才の苛酷な試練を我がものとせざるを得ないのである。この映画にあふれる清潔な悪意、清潔な皮肉、清潔な怒り、清潔な嫌悪、清潔な絶望の「清潔」は血と汗と涙と鼻水をぬぐわれ漂白されなおへばりつく感情であり(まさにトーキング・ヘッズだ)、言ってみれば初期衝動を突き抜けたポストパンクの「ポスト」であって、ブランク・ジェネレーションが成熟していく80年代がここから始まり、やがてジェネレーションXと呼ばれていくわけで、良くも悪くもバランサーとしての批評性という宿命を背負った世代の萌芽がジェイミーに見てとれる気がしないでもない。それはエゴが量り売りされる時代で、そうすることでみんな世界を手なずけた気になっていくのである。カーターはまったく間違っていなかった。
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2017年06月13日

怪物はささやく/死ぬのがきらい

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13才の少年がたった一人、拳の中に想像力だけをにぎりしめて寄る辺のない世界と対峙する時、「想像してくれよ。そこがたとえどんな、ひどい場所だとしても。君は君の力でどこへでも行ける。瞳をあけたまま、宙をみつめ。」と歌う浅井健一の息を切らした歌声が聴こえた気もして、そもそも映画を観るということはそういうことではないのかと今さら思ってみたりもするのだ。自分の中にある光と影を、愛と憎しみを、真実と嘘を、そしてそれらに引き裂かれて自罰と他罰の傷を刻み続けるコナー(ルイス・マクドゥーガル)に「わたしが来たのはお前の母親を治すためではない、お前を癒やすために来たのだ」と語りかけるモンスター(リーアム・ニーソン)が最後にはコナーをどこに導いたのか、モンスターを生み出し、呼び出し、送り込んだその想像力こそがコナー(ルイス・マクドゥーガル)と最愛の母(フェリシティ・ジョーンズ)を永遠につなぎとめる絆であることが明かされるラストで、これが少年のイニシエーションのみならず母から息子への最期にして至高の愛情を伝える物語であったことが告げられて、この原作にJ.A.バヨナが惹き寄せられた理由がより親密な手ざわりとなって伝わったように思うのだ。それは残された時間がないことのあらわれとしてなのか、人は善悪の両義性によって世界の広大を感知し生きる存在であることを語り、それを知ることでコナーが4番目の物語へとたどりつく道筋の荒々しさは、そこを歩むのが13才の少年であることの痛切と相まって相当に胸が苦しいのだけれど、それはおそらく自分の近しい人が死に向かっている日々の絶えずどこかで轟音が鳴り続けるような感覚への接近ゆえなのだろう。しかしそうやって死の忌避感を乗り越えていくことで、母と息子の絆三部作の掉尾を飾る作品として、バヨナは少年が一人歩き出す未来を光の中に託してみせたにちがいない。ルイス・マクドゥーガルは、例えばニコラス・ホルトのように、ある日突然羽化した姿で現れてため息をつかせてもまったく驚きはしない可能性に充ちている。リーアム・ニーソンは素顔で一瞬カメオとして、しかしその意味合いからすればすばらしく素敵なアイディアとして登場していて、この物語の大きな救いの一つとなっている。
posted by orr_dg at 00:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする