2018年09月12日

MEG ザ・モンスター/パパと呼ばないで

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この監督のリズムからすれば目指すべきは『トレマーズ』だっただろうし、少なくともジェイソン・ステイサムに関して言えばそのことを理解した上での振る舞いだったのは確かながら、終わってみれば大人から子供まであげくの果てには元嫁までがよってたかってリー・ビンビンとステイサムをくっつけようとする婚活映画であったとしか言いようがなく、誰が死のうがおかまいなしに送られる母と娘の秋波によって、ステイサムはオレがいい夫でありいい父親になるにはあのメガロドンを倒さねばならぬのだと洗脳されていくわけで、あげくには人間ルアーにすら身をやつすその献身には狂気の色すら漂い始め、ステイサムの頬をペチペチと張っては、日がな一日ビールと昼寝で頭を溶かすフリー&イージーな日々を手放していいのかと説教しかねない自分の目つきが振り払えないまま、正直言ってメガロドンどころではなかったのである。構造的な欠陥としては事態を悪化させる悪役が人間サイドにいなかったことで、役回りとしてはスポンサーのモリス(レイン・ウィルソン)がそれを担うべきところが中途半端な業突く張りに終始するばかりだし、終盤ではついに証拠隠滅のために基地ごと沈めるのかと思いきやそれなりに男気を見せたりもするわけで、彼もまた人の恋路を邪魔するには至らない期待はずれなのであった。なぜか劇中とエンディングと2度も聴かされる「ミッキー」は紆余曲折あって監督が取り上げられたパーティでビーチでシャークな映画のヤケクソな爪痕でもあったのか。Gレイティングのサメ映画なんて、そりゃイーライ・ロスも逃げ出すか。
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2018年09月11日

寝ても覚めても/ベランダから永遠が見える

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最初、朝子(唐田えりか)はドッペルゲンガーだと思ったのだろう。ドッペルゲンガーという言葉を知らなかったとしても、世界が自分につかわした運命に障る何かだと思ったのだろう。麦(東出昌大)が消えた時に持っていった自分の半身が、麦の形をした他人=亮平(東出昌大)となって帰ってきたと思ったのだろう。ならばそれを受け取った朝子が自分の空いた半身におさめれば済む話だし朝子はそうしてみるのだけれど、愛は共同幻想ではなく世界に2つと存在しない自分だけのリアルなのだとする組成へ、かつて麦によって変質させられている朝子は、その自覚と認識を知りえないがゆえ横たわる違和感とひとり向き合いながら自分を亮平と重ねて生きるべく苦闘する。鳴り響く爆竹の音が現実にひびを入れた日の麦との出会いを、地震が現実にひびを入れたあの日に朝子は亮平と繰り返してみせるわけで、その後描かれる亮平との福島への旅は朝子にとって共同幻想としての愛を身体になじませる静養の時間でもあったのだろう。だからこそ、亮平と過ごす朝食のテーブルで自分だけ「パン」を食べる朝子の姿がまとう不意打ちのような禍々しさに慄然としたし、それから先は「それ」がいつどんな風に彼女のところへやって来るのか、潜在的にはそれを待ちわびつつも恐怖する朝子の分裂はほとんどホラーの趣となっていき、ついに「それ」が朝子と亮平の前に現れる瞬間のほとんど幽霊映画といってもいい角度と速度の精度には思わずおかしな声が出かかったりもしたのである。その先で「それ」によって完全変異を成し遂げた朝子が、ああ、この世界の在り方をワタシは亮平に伝えなければならない、なぜならワタシは彼を愛しているからだと彼の元へ向かうことになるのだけれど、逃げる亮平を朝子が追いかけるシーンをとらえたロングショットで陽の光が2人の後を追って射していく聖俗すら超えた絶対性はそのままさらに戦慄するラストショットへと繋がっていき、朝子が示した世界に「きったねえ」と吐き棄てる亮平と「きれい…」とつぶやく朝子がじっと見つめるその先のワタシは果たしてその世界を見ているのか知っているのか。そういえば一度でも朝子はまばたきをしただろうか、とそんなことを考えて気を逸らさなければならないくらいあのショットにはおびやかされた。生気に乏しいわけでもないのに何を考えているのかまったく明瞭でない朝子が繰り出す、しかしドスのきいた断定の言葉が鈍器で殴られたように効いてきて、これ以外に朝子というキャラクターを成立させる術はなかったのではないかと思わせる演技と演出のプランとフォーカスが超絶であったというしかない。それにしてもパン、甘くないパンである。亮平も、そして朝子ですらが知らないパンのことをワタシが知っている映画の寄る辺のなさに震える。久しぶりに『アナとオットー』を見返したくなった。
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2018年09月09日

アントマン&ワスプ/毎日が君と日曜日

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井之頭五郎言うところの「ほー、いいじゃないか、こういうのでいいんだよ、こういうので」というまさにそんなひとときであった。見えない誰かのために世界を背負うマッチポンプの重荷もなく、善悪問答を肉体言語で繰り広げる自家中毒もなく、ただひたすら妻に会いたい母に会いたい、娘にいいところを見せたい、彼女にいいところを見せたい、とかいう私利私欲のために奔走するだけの面々からは観客に共犯関係を無理強いする浮き世のしがらみは微塵も感じることがなく、前作でエドガー・ライトのリリーフをしたペイトン・リードは、サブテキスト?何それ美味しいの?とひたすらシンボルとメタファーからベタと鉄板を振りかざしながら逃げ続けるのである。しかもあげくの果てに思わず漏らした彼のフェティシズムなのか、ズーム機能が故障して「ザ・ブルード/怒りのメタファー」のアレくらいのサイズになったスコット(ポール・ラッド)が彼からすれば巨女と化したホープ(エヴァンジェリン・リリー)のまわりをミゼットよろしく走り回りその愛らしさに思わず微笑むホープの図など、これはいったい「Theかぼちゃワイン」の実写化ではないか!と『アバター』でくらった酩酊が瞬時に甦ったのだった。今回やたらと口にされる量子世界はおそらく次のアヴェンジャーズの布石となるのだろうし、ということはその突破口を担うであろうシュリはサノスのひとひねりをかわしたのかなとささやかな妄想など可能にしてくれるし、ほとんどテッドやプーのように喋るぬいぐるみと化したマイケル・ペーニャの愛くるしさといったらいっそ彼にもスーツを一着くれてやればいいのに、そして小さくなったペーニャを見てみんな悶絶すればいいのにと妄想してただただひたすら絆されていたのである。操られてはカモメの餌となっていく蟻たちの不憫は相変わらずであったにしろである。モリッシーの愛され方はマリアッチのそれに近いのかもしれない。陽気で哀しい死の歌うたい。
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2018年09月05日

高崎グラフィティ。/大人みたいに悪いこと

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オープニング、吉川美紀(佐藤玲)をポートレイトのようにとらえたカメラが少しだけ後ずさると、彼女がおさまっているのはトイレのありきたりでせせこましい鏡の中で、自分で自分を睨みつけるその視線をさっと外してトイレから廊下へと歩き出す美紀の背中を追いかける青い癇癪と焦燥と性急がこの映画の色合いを一発で決定している。それを言い換えればここではないどこかへの希求とモラトリアムの嫌悪ということになるのだけれど、それが世界を壁際まで追い詰めて喉元を締め上げる気配に至らないのは、騒動の元凶となる美紀の父に渋川清彦をコメディリリーフ的に配することで生まれた浮遊感をそのまま青春のファンタジックな薄皮とした設計によっているのだろうし、それは定型に抗うためには定型を踏んでいかねばならぬという監督の決意でもあるのだろう。それが奏功するのは彼や彼女が攻防一体で相手を刺しにかかる時で、もうお互い制服とかいう鎧を脱いでしまったから刺せば血は出るよねという甘噛みの先を解禁することで解放されていく姿こそを監督は描こうとしたのではなかろうか。しかし、あえて配置した定型が無言の早足を減速させてしまう危険もあるわけで、例えば早朝のアーケードを走り抜けるシーンのスローモーションはここで使ってしまうのは少し早過ぎやしないかと思ったし、終盤で時ならぬ命がけに歯を食いしばる阿部優斗(萩原利久)によぎる刹那のフラッシュバックにこそとっておくべきだったように思うのだ。そしてもう一つ、やはり若者が世界へと蹴り出される「前夜」のビタースイートを描いた『アメリカン・グラフィティ』がそうであったように5人の彷徨をワンナイト・ストーリーに凝縮することで、ラストを美紀の自宅での朝食シーンで閉じて新しい日常の光景が定型を蹴り出すところを観たかったなと思ったりもした。とは言え渋川清彦に加えて川瀬陽太まで配する贅沢と拮抗するだけの灯りはこちら側からも照らされていたように思うし、青春のくすみを蹉跌ではない光の角度で描こうとする気概はもっとあちこちで目に止まるにふさわしいものだろうと考える。もう一度もう一つと言ってしまうけれど、彼女の服飾に抱く想いと亡き母親を紐づけなどできていれば、美紀の反転になお説得された気がしないでもない。ただ、そんな風に惜しいなあと思ってしまうのは、その他のあれこれが惜しくなかったからなのは言うまでもなく。
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2018年08月29日

タリーと私の秘密の時間/胸いっぱいのお乳を

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ともすれば品よく腰が引けるジェイソン・ライトマンと、ともすれば胸ぐらつかんで落とし前を欲しがるディアブロ・コディが組んだからといって、足して2で割った平均と中庸に落ち着くことがないのが映画の面白いところで、しかも今回産み落とされたのがカラフルでヴィヴィッドに迫りくる『ババドック』であったとなればそれも一入だったのである。まだまだ手のかかる子供を2人、しかもそのうち1人が世界に中指を立てっぱなしなところに加えて臨月のお腹を抱える母親の日常がどれだけニューロティックなサスペンスに満ちているか、その臨界点でマーロ(シャーリーズ・セロン)の前に現れるタリー(マッケンジー・デイヴィス)のあけすけな距離の詰め方に観ているこちらは若干の訝しさなど抱くも、マーロはその踏み込みに身を委ねることで束の間寛解するのだけれど、ここでディアブロ・コディはタリーをすべての切羽づまった母親たちのイドの怪物としてファンタジーにとどめるというよりは、マーロがケリをつけるべきオルターエゴと描くのである。夜明けの光が見たければまずはその目を開けな!という叱咤はディアブロ・コディのシナリオに通底する突きつけなのは言うまでもなく、マーロとてその例外としないのは、次男ジョナ(アッシャー・マイルズ・フォーリカ)の世話にかまけて長女サラ(リア・フランクランド)をほとんど顧みないことへの責任を問うているからであるようにも思われて、それは寛解中の彼女がカラオケで突然デュエットを始めた時にサラが浮かべた戸惑うような喜びやけなげに母親をシャンプーするその手つきにもサラの孤絶が見てとれるわけで、明日目覚めたら成長した子供はもう今日とは別の生き物なのよというタリーの言葉がどこからやってくるのかを思い直してみた時、その罪深さがいっそう沁みてくるように思うのである。もう少し妄想してみると、タリーすなわちマーロが吐露する男関係によるルームメイトとのトラブル話など思い返してみれば、そうした日々の中で生まれたであろうサラは果たしてマーロにとって心の底から望んだ子であったのか、折々で見せるサラの哀しげな表情がいっそう切なく頭をよぎるのである。とは言え夜明けの光をまわりでさえぎる者たちを刺すように追いつめるのもディアブロ・コディの独壇場なわけで、ここでは一見したところ理解ある夫を演じるドリュー(ロン・リビングストン)が真夜中にTVゲームを欠かさないその姿の、ヘッドフォンで音は出さないよと言いたげに没頭するあまり、コントローラーが立てる終始のカチャカチャカチャカチャが隣で眠るマーロにどれだけ耳障りであるかに思いが至らないその鈍感さを執拗に描いては、実はこういう類がいちばんタチが悪いとばかり彼の株をじりじりと下げていくのである。そんなこんなで、殴ってでもここから連れ出すというディアブロ・コディとそれを泣き笑いに歪んだ顔で見ているジェイソン・ライトマンというコンビの、互いの過剰をなだめ欠落をおぎなうことで新しい考えを生み出すマジックに今回もあっさり化かされた始末で、あなたはWeirdに、というコンビの意向を汲んだであろうマッケンジー・デイヴィスが時折見せる人間からはうっすらと離れた角度がそれを助長して心の奥がすぅっとざわめいた。
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2018年08月27日

検察側の罪人/家に帰ると妻が必ず胡弓を弾いています。

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最上(木村拓哉)も沖野(二宮和也)もそれが人生の手続きでもあるかのように一線を越えて善悪問答を無効化していくわけで、極めて即物的なカットを乱れ打ちしながら、現在の社会を覆う漠とした不安と不快を観念のモザイクとして組み上げていく監督の、ジャニーズのトップを据えた東宝メジャー作品でこんな風なヤリ逃げに近いジャーナルを撮ったことの快哉は叫ばれてしかるべきだろう。原作を読んでいないのでこの脚色が何を得て何を失ったのかわからないけれど、インパール作戦から連綿と続く無責任と傲慢の精神構造を押し頂く巨悪のシステムを倒すための通過儀礼として卑悪の抹殺を利用するあたり、かなり無茶をしたのだろうことは省略と拡張のリズムがあちこちで軋んでいる気配にうかがえはするものの、その違和感をこそ観客それぞれのきっかけとすることを望んだように思うのである。と言った具合に自分のケツを拭くことに忙しい2人のバランサー、あるいはワイルドカードを切りまくるジョーカーとして登場する諏訪部(松重豊)というキャラクターの映画的な発明が効果的で、まずは最上をヴィジランテとして仕上げることを己の役目と課してメフィストフェレスの囁きでアメとムチを使い分けるその佇まいがこの映画にマジックリアリズム的な浮遊を与えているわけで、目論見通り仕上がった最上が沖野を手中に収めるラストには諏訪部のにんまりとした笑顔が透けて見えた気もしたのである。となれば本当のお楽しみはこの3人に橘(吉高由里子)を加えた4人が丹野メモをもとに巨悪のシステムを転覆させる非合法活動なわけで、そんな風に永遠に撮られることのない続篇を夢想する愉しみがこの映画には確かにあったし、それはすなわち、そろそろ日本でもそういう娯楽映画を撮ったっていいんだぜという監督の手招きなのではなかったか。木村拓哉については、かつてトム・クルーズがかっこいいことはなんてかっこ悪いんだろうと悟ったあとで、かっこ悪いならそれを笑ってもらえばいいじゃないかと更にかっこいいことを突き抜けてみせたそちらにようやく歩を進めたようにも見えて、そうそう誰にでも与えられているわけではないその特権を行使するタイミングとしては絶妙だったように思うのである。最上の家庭内設定(有閑な年上の妻!)など、もうそれだけですこぶるスリリングといえよう。
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2018年08月22日

カメラを止めるな!/うそがほんとになりますように

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そこに身を置いたことはないからそれは妄想やファンタジーのなせる業に過ぎないのだけれど、ある種の映画を観た時に映画の撮影現場に対する憧憬や敬意のような無垢の感情がふわっと立ち上がったりもするわけで、なによりこの映画はその点において針が振れたように思うのである。アメとムチで感情をこじあけては現場処理のきらめきを血眼で探し、それを見つけたりなくしたりする右往左往は瞬間的に生死の問題ですらあり、そんな風にしてシクシク泣いたり笑いを噛み殺したりしながら転げ回っているにつれ世俗の屈託は削ぎ落とされて、最後の最後にC調(死語か)のプロデューサーまでがどれだけ清々しい笑顔を見せたことか、そこにあったのは映画が厳然として持つ「浄化」の力そのものだった気がしたし、たとえネタバレをしたところでなかなかその魅力を伝えることが叶わないこの映画が寡黙な集団ヒステリーを誘い続けているのも、ともすれば正気を失った報せばかりが繰り返される日々をサヴァイヴする人々によるシンクロニシティにさえ思えたのだ。先般、映画を撮った人たちに突然叫んでしまった彼も、おそらくは映画を観た後で自分があの場で浄化されなかったことのメランコリーに囚われたがゆえのちょっとした錯乱だったのではなかろうか。娘の写真を台本に貼りつけて禁酒を誓った細田(細井学)にならって、ある写真を台本に貼りつけた日暮監督(濱津隆之)の想いが最後にはどこへどんな風に届いたか、それを映画の背骨に埋め込んだ時点でこの泣き笑いのスラップスティックは上田監督が紡いだ物語になったのだろうとワタシは考える。冒頭のオンエア版で流れるふぬけたジョン・カーペンターみたいな劇伴や地面に転がった食人族カメラもニヤニヤと愉しく、酒が抜けたあとで見せる細田ゾンビの意味不明なキレも忘れがたい。
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2018年08月17日

オーシャンズ8/わたしたちは視つからない

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※内容にふれています

ハリウッドの顔見世興行的お祭り映画をそれらスタジオシステムとは一線を画し続けるソダーバーグが撮るというスカし方がいささか鼻についたのと、それでも何となく観てしまった時の、プロットはあえてザルなまま記号として脱構築してます的な無味無臭もあってまったくワタシは面白がれなかったものだから、そんな風に全体が悪い冗談のようなフランチャイズにいかなる勝算をもって挑んだのかそれなりにワタシは楽しみにしていたのだけれど、思ったよりも正攻法かつ生真面目なそれはゲイリー・ロスのいささか朴念仁な作家性の当たり前な反映で、なるほどすべてを真に受けてみることにしたのだなあと、製作にも名を連ねる主演女優サンドラ・ブロックの変わらぬいなたさにもなんとなく合点がいったのである。ロックンロールなケイト・ブランシェットを目で追っていればとりあえず事足りるにしろ、どうしてみたところで“女性版”という惹句から逃れられないのだとしたら、そんなノイズをかき消すようなグウの音も出ないタフでソリッドなケイパームーヴィーをモノにして欲しかったなあというのが正直なところで、例えば特殊な仕掛けをクリアしないと外せないはずのネックレスがなぜ走っているうちに落ちてしまったことを誰も怪しまないのか、そしてその発見者がなぜ誰からも疑われないのか、ハウダニットの根幹にも関わらずそれらイージーは少しばかり観客に甘え過ぎだろうと思ったのである。女優陣はみな、何だってやってやるつもりに映っていたことを思うと、60歳を超えたアルティザンの監督ではなく彼女たちと共闘できるクリエイターをなぜ選ぶことができなかったのか、あるいは選ばなかったのか、『チャーリーズ・エンジェル』でドリュー・バリモアがマックGをフックアップしたファンキーでスマートな目配せこそがこの映画には決定的に欠けていたように思うのだ。何だかもったいないことをしたなあという気持ちがずっとしている。
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2018年08月15日

インクレディブル・ファミリー/つよくて大きいアメリカの赤ちゃん

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※内容にふれています

MCUで苛烈なまでに稼ぎまくるディズニーへヒーローなんぼのもんじゃいと立てた中指のみならず、あげくの果てにはスクリーンを捨てよ町へ出ようとアジりまくるスクリーンスレイヴァー=イヴリン(キャスリーン・キーナー)が鏡像的に反射するヴィランだったこともあって、そういうお前はどうなんだ、かく言う自分はどうなんだとブーメランが飛びかっているうちに雨降って地固まった世界の水平性を見晴らす視点はブラッド・バードが自身に課したリセットでもあったのだろうし、ジョン・ラセターの名前をクレジットロールに見つけた瞬間にその仕掛けが完成するという皮肉というよりは必然こそをこの作品が求めたということになるのだろう。ヒーローとはそもそもがマイナスをゼロに戻すための存在であって、果てなきプラスを幻想する人々とそれを否定しないヒーローたちに向けられるイヴリンの敵意と嫌悪が正気の沙汰であるのは言うまでもないし、その代表者とも言えるイヴリンの兄ウィンストン(ボブ・オデンカーク)のまとう無邪気な危うさは、実の妹が自分を裏切るヴィランであったことを知ってなお一顧だにしないラストの笑顔に象徴的で、実は彼こそが潜在的なヴィランであった気すらしてしまうのである。ヘレン=イラスティガールを初めて目の前にしたヴォイド(ソフィア・ブッシュ)が思わず口にしたヒーロー=異能者としてのX-MEN的な疎外感に、今回はそこへも踏み込むのかと期待と危惧が半々でいたのだけれど、結局は祝福されるスーパーパワーの象徴としてのジャック=ジャック(イーライ・フシール)の活躍がすべてをかき消してしまうことになるわけで、イヴリンとヴォイドの共闘に光と影の屈託が感応したわけでもなかったのは少しばかりもったいないなあと思ってしまった。各自がエゴを剥き出しにするパー家にあって、弟にして長男という板ばさみにもかかわらず、せいぜいがやんちゃ程度でぐれることもなく家族の下支えとして文字通り奔走するダッシュ(ハック・ミルナー)が巧妙なシナリオの発明となっていて、ワタシがヴィランなら真っ先にダッシュを無効化したにちがいないのであった。エンドクレジットシーンでなくゴージャスでファンキーでソウルフルなエンドクレジットソングだったのは思いがけないカーテンコールでちょっと新しいスタイルに耳からうろこ。
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2018年08月08日

ミッション:インポッシブル フォールアウト/世界を救うまで待っててベイビー

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劇中で2度あった夢オチから抜け出せないまま、夢から覚める夢を見たとでもいうふわふわと足元の定まらないステップが、イーサン・ハント(トム・クルーズ)の薄ぼんやりとした寝起きのような頬のラインと相まって、なんだかワタシは夢とうつつの間でまどろむイーサンのレム睡眠を覗き込んでいる気がずっとしていたのである。これまでは状況の表面張力が限界となった瞬間、解き放たれるように飛びだし走り出していたアクションが、ここでは自分が再び眠って夢の中に堕ちてしまわないよう自分で自分の頬を張り続けるための作業であったようにも思え、爽快や痛快というよりはマイナスをゼロに戻す徒労をひたすら見守る閉塞に締めつけられる気もして、それは冒頭のベルリンにおける失策に端を発する敗戦処理の気分がこの映画を支配し続けるのと同時に、イーサン・ハントという稀代のエージェントに忍び寄るミッドライフクライシスにも似た精神の倦怠と沈澱との闘いがさらに拍車をかけていたように思うのである。ウォーカー(ヘンリー・カヴィル)の「彼は仕える相手にあれだけ何度も何度も裏切られてきた」という言葉が告げるように、抉るような裏切りがイーサンの動機と激情をキックし続けてきたことは言うまでもなく、その結果として生まれたのが狂気のノブレス・オブリージュ・マシンとしてのイーサン・ハントであったわけだし、ラストで3度めの夢から醒めるかのように目覚めたイーサンがジュリア(ミシェル・モナハン)に向って「許してくれ、すべてのことを許してくれ」と言う時、それはマシンであった自分の否定とそれが導く新たな人間宣言であったように思うのである。前作でイルサ(レベッカ・ファーガソン)をイーサンの鏡像とすることでローグ・ネイションの住人としてのメランコリーを投影してみせたように、今作ではウォーカーをその役にあてることでマシンvsビーストの構図によるスイングを狙ったのだろうけれど、存在自体がマクガフィンと化したソロモン・レーン(ショーン・ハリス)のまるで緊張感を欠いた介入もあってウォーカーが血の通ったキャラクターというよりはスマートなジョーズ(リチャード・キール)にしか映らなかった失敗は、やはり今作がイーサン・ハントのセルフ・カウンセリングに終始したことの功罪に依っているのは間違いがないところだろう。しかし、暴走するノブレス・オブリージュ・マシンとしてのイーサン・ハントを崇拝してきたワタシのような人間にしてみれば、人間宣言をしたイーサン・ハントが今後も常軌を逸したカリスマを保ち続けることが果たして可能なのか、出たとこ勝負で仕上げた(ように映る)今作のツケは存外に大きいものであった気がしてならないのである。ワタシが観たいのは躊躇なくヘリからパイロットを放り出して転落死させる洗練された合理的な運動としてのイーサン・ハントなのだけれど。
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2018年08月05日

ウインド・リバー/赤い雪のブルース

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吸いこんだ空気で肺すら凍る酷寒の中を6マイル走り続けなければならなかったのもその6マイルを走り続けることができたのも、ウインド・リバーに生まれ落ちたナタリー(ケルシー・アスビル)の血と肉が呼び寄せた運命に他ならず、しかしその運命を決定しているのは、おまえたちはここからどこへも行くことはできないというアメリカのかけた呪いであり、動き続けることで自由を獲得してきた彼の国にあってそれはほとんど死さえ意味するに違いなく、そんな風にして生まれながらに死んでいるものたちの土地で繰り広げられる殺戮は、それは例えば時折吹き荒れる吹雪のような自然のひと触れとしてやってくるに過ぎない。したがって、この地に生きることを決めたコリー(ジェレミー・レナー)は死に対して従順であることを受け入れていて、その見返りとして彼にいっさいの衒いも迷いもない引き金を与えている。病院のベッドでジェーン(エリザベス・オルセン)の流す涙は、自分の属する「アメリカ」がかけた呪いに殺されかけた衝撃と罪深さが、それまで彼女の与り知ることのなかった自身の内部を激することでこぼれ落ちた感情の滴なのだろう。コリーがジェーンに「きみはよくやった」と言う時、それはよく生き延びたというよりはよく殺したという言外を持つにちがいなく、定型であれば反目し合う内に理解と愛情が育つ関係になるところがコリーは端からジェーンにバックアップの手を差し伸べていて、そのメンターとしての役割は『ボーダーライン』におけるケイトとアレハンドロの関係を容易に想起させるわけで、してみれば、テイラー・シェリダンが囚われているのは抹殺された現実の告発というよりも、境界を超えた者に訪れる永遠の変質であるように思うのである。真夜中に強装弾を仕込むコリーのところに、起きてきた息子のケイシーが近づいて悪い夢を見たんだと小さく告げるシーン、自分の膝の上にケイシーをのせて束の間それぞれの静かな屈託に浸る時間はこの土地に生きるもの同士が呪いの感応を確認する儀式のようでもあり、しかしそれを悲劇というよりは静謐な諦念と彩る筆使いで描くテイラー・シェリダンが幻視するのはアメリカの原罪を解剖するメスさばきそのものなのだろうと、昏れていくアメリカの寄る辺ない語り部があらたに生まれたことを心の底から喜んでいる。
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2018年08月04日

FUJI ROCK FESTIVAL'18苗場7.29 Sun

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台風はとっくに逸れたものの、その置き土産なのか突発的な豪雨と強風にそれなりに心は削られていて、昨晩のFISHBONEのステージで土砂降りの中ヤケクソでがなった「EVERYDAY SUNSHINE」が既に笑えなくなっている。

THE FEVER 333@WHITE
というわけで今日もまた降り出したのである。しかしいつの間にかパンイチになったステージの3人にアジられる内にまたぞろヤケクソにはなるわけで、それなりに疲れもたまった最終日の午前中というなかなかキツめのスロットにあってほとんど初見の客をいかに騒ぎに巻き込むか、何ならあばらの一本くらいはくれてやるというほとんどjackass的な心意気こそがバカ正直な感動を生むのであった。

HINDS@RED MARQUEE
ふと外を見ると土砂降りである。しかしここには屋根がある。ステージはカラフルで朗らかである。午前中ホワイトでがんばったご褒美だろう。そういう風にできている。

ANDERSON .PAAK & THE FREE NATIONALS@GREEN
ファレルからお触れでも回ったのか、見たことないもん見せてやるから好き勝手に騒いどけとでもいうコミュニケーションブレイクダウンの回避が完全に奏功。ケンドリック・ラマーとは対照的に手の内をすべて晒した上でブレイクスルーをショウに翻訳して圧倒してしまう。ドラマーとしてリズムの芯を食った力点で回転する時のスリルはちょっと他に例えようがない。

KALI UCHIS@WHITE
ほとんど特攻服のような気合のシースルーでライヴヴァージョンとしての自分をトータルにデザインする術が実にスマート。見たきゃ見れば?とでもいう誘いかけもトラップのようなもので、鉄壁のバックバンドも含めたアンサンブルにじわじわと取り込まれていく。ホワイトの吹きっさらしにも関わらずここまで密室性の高いサウンドを可能にするコントロールの強靭さに痺れてしまう。

BOB DYLAN & HIS BAND
開演予定時刻の数分前にいきなり始まったのであった。常に現在の自分に忠実であることに努めてきた77歳のミュージシャンによる現在地としてのステージは、彼と一緒に自身を巡る旅をしてきた人にこそ測れるものなのだろう。来日すればほとんどの公演をフォロウする人に聞いた話では、ようやくシナトラのモードから解放されていた上に馴染みの曲も新鮮なアレンジで奏でられていて非常にフレッシュであったそうだ。チャリ坊などと呼んでいたチャーリー・セクストンのいぶし銀の佇まいなど見てみれば、そりゃあワタシもいい加減年を取るわけだと最後の曲だけでも一緒に口ずさんでみたのだった。

GREENSKY BLUEGRASS@FIELD OF HEAVEN
今年のベストステージ。懐古主義でも回帰主義でもなく、混沌を混沌として愛でるのでもなく、世界の水平性を規定するスタイルとして直結された無意識の肉体性。それはバンドスタイルを選択するヒップホップの潮流、ケンドリック・ラマーやアンダーソン・パークがそうであるように、と深層でリンクしているようにも思うのだけれど、それが批評として行われているわけではない健全さが親密なクラリティを彼らにもたらしていて、正気を保つためには音楽が絶対に欠かせないことおよび、やはりフジロックのマニフェストはヘヴンにあることを思い出させてくれるステージだった。これからは、毎年ヘヴンのクロージングは彼らでいいのではなかろうか。

流れていく時間と流れていかない自分とのズレ、と言ってしまうと良くないことのように響いてしまうけれど、その差異を一年に一回確認する場としてのフジロックを再発見したような気がしている。身に覚えのない小さな傷が手や足にいくつかあって、そういった鈍感の進行とも付き合っていかねばならないことも忘れてはならぬ。

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2018年08月02日

FUJI ROCK FESTIVAL'18苗場7.28 Sat

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CARLA THOMAS開演前のFIELD OF HEAVENから見た夕焼け

午前中はドラゴンドラで天上へ。今まで十数回ほど乗ったけど、今回初めて眼下の木立に野性の動物を確認。こちらの一切に目もくれぬまま存在するものの神々しさを、うつむきながら斜面をヒョコヒョコと横切っていく小さなカモシカに見てしばし押し黙る。

木村草太@Gypsy Avalon
同行者が木村先生のファンなので一緒に話を聴いてみる。ワタシが知っているのは主にSession-22の木村先生だけれども、憲法に加えられた過剰な圧によって予期せぬバグが発見されている現在の状況を見つめる憲法学者としての自分の視線はマッドサイエンティストのそれに近いかもしれないという話が面白かった。憲法が悲鳴を上げれば上げるほどさらにメスを入れて奥底を探ってしまうということなのか。

JOY-POPS@FIELD OF HEAVEN
4月の渋谷クアトロとほぼ変わらぬ感触のステージで、その後こなしたそれなりのツアーにも関わらず惰性のような仕上がりのない超ヴェテランの瑞々しさにあらためて驚かされる。渋谷では演奏されなかった「風の強い日」が聴けたのはとてもうれしい。ハリーのガンさばきみたいなフレーズを聴けば聴くほど、できればバンドの強靱なビートの上で公平氏の艶やかなトーンと絡み合う音の粒を浴びたかったなあと思ってしまう。往時のキーと色艶のまま歌いあげるハリーのヴォーカルに、ないものねだりがそうやって加速する。

CARLA THOMAS & HI RHYTHM W/VERY SPECIAL GUEST VANEESE THOMAS@FIELD OF HEAVEN
FISHBONE@WHITE
KENDRICK LAMAR@GREEN
ブラックミュージックは優しい、というよりは優しくならざるを得なかったし、ワタシたちはそれに甘えたし甘えさせてくれた。そうした時間のせめぎあいの中で発見されたヒップホップは間違いなくモノリスであったし、世界を変える用意はある、ついてくるかどうかはキミらが決めろと一人睥睨するその姿に、ケンドリック・ラマーこそがスターチャイルドなのだろうと確信した。素晴らしいアーティストたちのステージをたて続けに見ることでそれが完全に繋がった気がしたら、知恵熱でも出たのか少し具合が悪くなった。
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2018年08月01日

FUJI ROCK FESTIVAL'18@苗場/7.27 Fri

20180727.jpg

ありえない進路をとり始めた台風12号に、苗場直撃はせずとも西に逸れたら逸れたで被災の地にさらなる嘆きが訪れるしと、若干の複雑な心境をいだきつつ越後湯沢の駅に降り立ってみれば、台風どこ吹く風といった穏やかな夕方に胸をなでおろすことを隠さない現金なレジャー客なのであった。

苗場開催20年を祝う謎の爆音DJタイムでビートルズジミヘンジャニス清志郎のトラックがGREEN STAGEの青空に溶けていく。ということでワタシも20回目の苗場。今年は苗場プリンスが確保できず越後湯沢組となったので、夜討ち朝駆けはあきらめてノロノロ過ごす。

LET'S EAT GRANDMA@RED MARQUEE
PSB的な確信犯と言ってしまうには不安や不穏のゆらぎを放り出して笑っているようなトラックが非常にチャーミングかつ洗練されていて、いまだどの文脈にもつかまっていないのがとてもフレッシュ。きちんと音源を聴いてみたい。

ROUTE 17 Rock’n’Roll ORCHESTRA@GREEN
相変わらずヤマジカズヒデがロン・ウッドのように一生懸命ギターを弾かされて働いていた。ご褒美に来年あたりdipで出させてあげればと思う。

PARQUET COURTS@WHITE
こういう、からっ風みたいな演歌度ゼロのジャギジャギしたBastro直系はWHITEの吹きっさらしによく映える。ワタシにとっては三つ子の魂的な音だけど、初日でガソリン満タンの客からすると縦ノリをすかして引き攣ったステップは少し持て余し気味かも。でもこれは苗場に絶対必要な音。

ALBERT HAMMOND JR@WHITE
この人のソロワークはまったく追ってなかったので、汗と笑顔の飛び散るドシャメシャなパワーポップのつるべうちにちょっとビックリした。こんなペルソナをかかえたまま、あんなふうな笑ってはいけないロックバンドの屋台骨を支える気苦労を思えば客が置いてきぼりにされるくらいの弾けっぷりにもうなずけるわけで、あなたが幸せならワタシたちも幸せです、という客のやわらかな視線が彼の浮遊を支えていたよ。

エレファントカシマシ@WHITE
88年の汐留PIT、渋公、89年ロマン劇場3DAYS、暮れのコマ劇場、90年の野音、96年パワステのスライダーズとの対バン、と折々のエレカシはすべて見ているはずで、エピックや宮本が抱いたそれぞれの不満はともかくワタシはあの頃のエレカシが充分に必要で大好きだったのだ。だからワタシは、宮本が「悪い奴らけちらし本当の自由取り戻す」ための闘い方を変えた時、これからの宮本は新しい人達と新しい闘い方をすればいいと思って離れたのだろうと、今にして考えてみたりもする。なので今さらどの面下げてという気がしないでもないのだけれど、世界にパンチが届くよう闘い方をゼロから変えてみせたあのバンドのことを思い出してみれば、ようこそぉ、フジロックベイベエと絶叫する宮本にあの人の姿を見るのは当然の帰結と言うか、今のこの世の中にエレカシがいてくれて本当に良かったなあと思ったのだ。宮本はパイプ椅子をあんな風に使うようになったんだな。

MARC RIBOT’S CERAMIC DOG@FIELD OF HEAVEN
ポエトリー・リーディングとかいうよりは檄文でアジりまくるマーク・リボーの、ここまでアグレッシヴな姿とサウンドは初めてかもしれない。しかしこんな風に人生これエクスペリメンタルなステージを見ちゃうと、やっぱりジョン・ルーリーのかくも長き不在が胸に沁みてしまう。このステージにいて引き攣るようなサックスでインタープレイを繰り広げていてもまったく不思議ではないわけで…。

ODESZA@WHITE
GREENでもよかったんじゃないかと思わせるくらい、ケレン味たっぷりのVJショウを含めた過剰な熱量の集中投下には移動の足も思わず止まるというものだし、とはいえカッティングエッジの洗練で客を圧倒し振り切ってしまわない絶妙ないなたさも相まって、極めて高性能な祭りの見世物としては文句なし。太鼓の達人が到達した極北。

N.E.R.D@GREEN
OPEN UP!と取り憑かれたように絶叫するファレルだけが記憶にこびりつき、ファレルだけが最後まで何かと闘っていた。言葉の通じないラッパーは翼の折れたエンジェル。
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2018年07月26日

FUJI ROCK FESTIVAL '18 展望

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7.27 Fri
Upendra and friends plus Mr. Sunil and Tilasmi
LET'S EAT GRANDMA
PARQUET COURTS
GOMA & The Jungle Rhythm Section
ALBERT HAMMOND JR
THE TESKEY BROTHERS
エレファントカシマシ
MARC RIBOT'S CERAMIC DOG
N.E.R.D
POST MALONE

7.28 Sat
eastern youth
ESNE BELTZA
RANCHO APARTE
JOHNNY MARR
JOY-POPS
ユニコーン
CARLA THOMAS & HI RHYTHM
FISHBONE
KENDRICK LAMAR
NATHANIEL RATELIFF & THE NIGHT SWEATS

7.29 Sun
THE FEVER 333
ケロポンズ
WESTERN CARAVAN
HINDS
KACEY MUSGRAVES
ANDERSON .PAAK & THE FREE NATIONALS
KALI UCHIS
HOTHOUSE FLOWERS
BOB DYLAN & HIS BAND
GREENSKY BLUEGRASS
VAMPIRE WEEKEND

エレカシにユニコーンにスライダーズとかいった限りなくeZな2018年。台風来たらホテルで寝てます。
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女と男の観覧車/わたしは頭痛が痛い女

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雨の日の光に君はなおのこと美しい、とミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)が使い回す口説き文句を嘲笑うかのように、ミッキーの前に仁王立ちするジニー(ケイト・ウィンスレット)の顔面を殴るように照りつける西日の一閃が彼女の逆流する神経を剥き出しにしていくに連れ、既にカメラはミッキーへの切り返しをすることもないまま、ジニーが破壊的なメランコリーの流砂に呑まれていくのを復讐心のような執拗で捉え続けてみせる。いつまでたっても他人離れすることのできない子供じみたハンプティ(ジム・ベルーシ)も、自分もまた堂々巡りの観覧車に乗りこみつつあることに気づかないミッキーも、使命として世界の尻に火をつけて回るリッチー(ジャック・ゴア)も、無い袖は振れぬゆえある袖を振って生きることを実践するキャロライナ(ジュノー・テンプル)も、それぞれが問題としがらみを抱えた我が身のままに、共に生きる人としてのジニーを見つめているのだけれど、その中でジニーだけが誰も見ていないのである。彼女が見ているのは観覧車のゴンドラが一番上にあった時に見た(と思っている)記憶の光景とそこにいる自分だけで、それ以外の誰のことも彼女は見てないのである。にも関わらずジニーは、年を重ねることで間違いに対して寛容になれたわ、だから他人を許すこともできるようになったの、それがなかったらこの世界は冷酷にすぎるでしょう?と真顔で演説をぶってみせて、ここまでジニーを修復不能なモンスターと描いたアレンの意図に或る私怨以外の筆使いを見るのはさすがに困難ともいえるし、1930年代のNYにうっすらと死生観を湛えた前作『カフェ・ソサエティ』に続き1950年代のコニーアイランドを愛と幻想のアサイラムと描いた今作を観る限り、ここに来て何らかの私小説的なタガを再度外したようにも思えるわけで、これを許して焚きつけたAmazon Studiosはパトロンとしての責任を最期まで全うする義務があると考える。言うまでもなくケイト・ウィンスレットは生き腐れした肉体の絶望的な香りを含め、情状酌量の余地なくこわれゆく女を現して最凶。それを狂気の光と屈託の影で煽りまくるヴィットリオ・ストラーロの神経症的なまなざしはさらに最強。騒ぎでアレンは水を得た。
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2018年07月24日

REVENGE リベンジ/殺るのはあたしだ

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いったい俺のどこが嫌いなんだ?と言い寄るスタン(ヴァンサン・コロンブ)に「背の低いところ」と応えるジェニファー(マチルダ・ルッツ)の、あんたたちアタシのこと何も知らずに顔とかおっぱいとかお尻とかそういうフォルムにいきり立ってるだけだよね、アタシもリチャード(ケヴィン・ヤンセンス)がハンサムで背が高い筋肉野郎だからここに来たわけで、リチャードがOKであんたがNGなのはまあそんなこんなでお互い様ってところよね、とか言った詰め方にぐうの音も出なくなったスタンがお約束の卑劣な肉体言語に及んだことが引き金となって、そういうことならば了解しましたとばかり、ペヨーテの力を借りたジェニファーは不死鳥のごときスーパーサイヤ人と化すに至るのである。ただ、そうやってジェニファーが3人のクズを片っ端からぶち殺すだけの映画にしては意外にも108分の長さを要していて、どちらかと言えばこの映画はその目の詰まり方こそが喧伝されるべきなのではなかろうかとも思うわけで、デヴィッド・リンチもかくやという超クロースアップが対象の情報を停止して絶対値を描くことである種の神々しさを宿す瞬間、ワタシ達はみな糞のつまった袋にすぎないという認識のもとでジェニファーによって浄化されていく気すらしたのである。串刺しになったジェニファーから滴る血の一滴が、地面にへばりつく一匹の蟻にとっては迫撃砲のごとき脅威と化す様を捉えるシーンから始まるジェニファー復活の儀式についてはペヨーテ無双を含めた底の抜け具合(なぜあれは反転しないのかetc)を含め、これはワタシの妄想が走り気味ではあるけれど、気がつく範囲では不随意運動としての瞬きをジェニファーは行っていないことなどもマジックリアリズムへの接近と呑み込めば、物語の神話性もいや増すというものではなかろうか。ジェニファーの覚醒以降は前述したクロースアップから一転するロングショットの多用が神の目を思わせると共に、終盤の室内戦では長回しが緊張をさらに圧縮しつつFPSショットのカメラが追うものと追われるものの絶望と恐怖に喘ぎながら走り回り、局面によって最適なショットをスマートにチューニングする監督のヴィジョンは、これがデビュー作だとしたらその一閃は鮮やか過ぎるだろうと少しばかり驚嘆したのである。血の粘度も彩度も非常に好みで、ガラス片のシーンはその魔術的な赤の幻惑に頭がクラクラし始めた。衝撃をくらって聴覚が飛んでしまうシーンやラップフィルムの戦術的使用など微に入り細を穿つ描写がさらなるエクストリームを誘い、ジャンル・ムーヴィーの矜持と陶酔を高らかに謳う傑作であった。レイプシーンはあえて直截的には描かれていないので、そういったシーンが苦手で忌避する必要がないのもサービス精神の顕れといっていいだろう。コラリー・ファルジャという監督の次作が本当に楽しみになった。
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2018年07月20日

ジュラシック・ワールド 炎の王国/喰われるように眠りたい

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閉まりきらない水中ゲートの隙間を巨体をくねらせて外洋へとすりぬけていくモササウルスを、その数分後には自動ドアの隙間をすり抜けるクレア(ブライス・ダラス・ハワード)にトレースさせるJ・A・バヨナのウィアードな執着は、最期にイアン・マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)が宣言する「ジュラシック・ワールドにようこそ」という『ウェストワールド』的な反乱への密かな疼きがその正体であった気もして、仮にバヨナがストーリーを含めたクリエイティヴを完全掌握していたら、洋館で出会ったブルーとメイジー・ロックウッド(イザベラ・サーモン)がクローンの哀しみと高揚とで感応する「恐竜はささやく」物語へ舵を切ったことだろうと、シェルター代わりのベッドにもぐりこむメイジーをめぐるインドラプトルとブルーの三角関係までも妄想してみたりしたのである。したがって、そこかしこにうかがえるバヨナのスケッチした仄昏いペシミズムの残滓にプリンス・オブ・オプティミズムたるクリス・プラットが今ひとつそぐわないままなのは、彼にとって最強の武器であるオフビートがバヨナにとってはノイズでしかないという予見しうる相性の結果に過ぎず、バヨナにしてみれば早く島を出たくて仕方がなかったというところだろうし、イーライ・ミルズ(レイフ・スポール)に「お前たちがしたことと俺がしたことのいったいどこが違うんだ?」と問い詰められて押し黙るオーウェンとクレアの姿にも、今作の主役が既に彼と彼女ではなくなっていることは明らかだったように思うのである。特にクレアについては、パンプスを脱ぎ捨てたことで(ブーツを履いた足元が執拗に映される)女性版オーウェンとなってしまったのが彼女の魅力を削いでしまってはいるものの、それを棚ぼた的に肩代わりした形のジア・ロドリゲス(ダニエラ・ピネダ)のべらんめえなチャームが今作で最も血の通ったキャラクターを生み出して、思わぬ機転と男気をみせたフランクリン・ウェブ(ジャスティス・スミス)の顔を愛犬をもみしだくようにムニュムニュするシーンなど、終始張り詰めてばかりの今作で息を継げるシーンはほとんど彼女がさらっていったのではなかろうか。それに比べて、出て行けと言われていつの間にか出ていってしまうアイリス(ジェラルディン・チャップリン)は、バヨナの潰えた野心と混乱の象徴にも思えた。前作を観た時の“フランケンシュタインの怪物としてのインドミナス・レックスとその鏡像としてのラプトルという構図のメランコリーも望むべくもなく”とかいった愚痴をやはりバヨナもこぼしたのではなかろうかという妄想はともかくとして、かつてジョン・セイルズとウィリアム・モナハンが「4」のシナリオに設定した人間と恐竜のハイブリッドへと心なしか頭をもたげた気がしないでもないので、いっそそちらに舵を切って「粘膜戦士」をめざしてはくれまいかと茹だった頭で夢を見たのであった。「チェアアアア!」はバヨナ精一杯のやけくそなのか。笑ったけど。
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2018年07月18日

ブリグズビー・ベア/映画は撮らせてくれる

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ブリグズビー・ベアが新しい世界を独り歩きすればするほど、茫洋と広がる世界と渡り合うだけの知識と社会性とをジェームス(カイル・ムーニー)に蓄えさせたコンテンツ「ブリグズビー・ベア」をゼロから築いた仮親テッド(マーク・ハミル)の偏執的な天才とそれを支えた愛情とに気を取られてしまう。世界を再構築して規定し直すためには古い物語を終わらせるための新たな物語が必要であることにジェームスが思い至るのも、世界を投影するスクリーンとしての物語を信じたテッドの「教育」がもたらした成果であって、けれども分水嶺を超えて世界に侵食した物語によって人生を囚われ続ける男マーク・ハミルがテッドを演じることを皮肉と映すことをせず、物語ることへの肯定と祝福を唱え続けることへの決心こそがこの映画の野心であったということになるのだろう。かつてはテッドが一人二役で演じていたブリグズビーとサン・スナッチャーの、ブリグズビーを継承したジェームスがサン・スナッチャーを撃退するラストはそのまま父殺しの物語となるわけで、これこそはマーク・ハミルにとってついぞ果たされることのなかった結末ということになるのではなかろうか。『ワンダー 君は太陽』がそうだったように現実世界でジェームスの存在そのものを脅かす悪意が登場することはなく、ことさらに負のスイングで見かけの奥行きを作ることをしないのは予定調和の破壊でもあるわけで、当たり前の感情を抱いて当たり前の行動をつなぎ、当たり前のように自分の世界を手に入れることを描くのがラディカルに映ってしまうワタシ達の身の回りこそがいかににっちもさっちもいかなくなっているか、エラーと困難を引き換えにしないと希望や幸福は得られないのだという出所不明のしたり顔にいい加減でうんざりしている正気の人たちにこそ寄り添いたいとワタシは思う。テッドのみならず、ホイットニー(ケイト・リン・シール)の救済もまた優しく綺麗に行われるのがとても良い。いささか唐突だった施設収容は『カッコーの巣の上で』な逃亡シーンをやりたいがためだった気がしないでもないけれど、そうやって自分たちの「映画」を撮っていたデイヴ・マッカリーやカイル・ムーニーこそが劇中の彼や彼女たちそのものでもあったのだろうと思えばこそ、この映画が既にノスタルジーのような気分を獲得していることの理由が分かる気がしたのである。それは多分、これが二度とこんな風には撮れない最初で最後の映画だから。
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2018年07月14日

パンク侍、斬られて候/日本の猿なめとったらどついたるぞ!

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「曖昧な欲望しか持てず、曖昧な欲望を持て余す」「おまえの頭を開いてちょっと気軽になって楽しめ」「すべてが終わった後で何が残るか俺は知らない俺はおまえを正確にやる」「俺はのうのうとしてきた奴の子孫を傍観して俺の屈辱をたたき込みたい」「俺はおまえを夢の中にひきずり込みたい」「俺の存在を頭から打ち消してくれ 俺の存在を頭から否定してくれ」「一口飲めばスカッと地獄 全てを忘れてあんた最高」「俺の方から不安と恐怖に何時でもやったんぞ」「偽善の快楽と安らぎが少しだけ欲しいなら俺の家に来い」「むしろ異常なのはおまえ自身むしろ環境とはおまえ自身お前が退屈なのは当然」「ええ加減にせんと気い狂いて死ぬ」とまあこういうことである。INUである。この国屈指のパンクアルバム「メシ喰うな!」の映像化である。闘争どころか遁走のパンク、スキゾ・キッズの冒険、ベイビー!逃げるんだ。逆噴射家族、突如80年代の亡霊が憑依した石井聰亙(やっぱりこっちの方がしっくりくる)が復活の逃げ足で、そんなつもりは毛頭ないパンクアンセムを目眩ましに、考えるために考えるなら考えるだけムダ!と走り去る。この映画の既視感というよりは、三つ子の魂百まで的な胎内回帰の気分は主にその逃げ足の光景によるのだろう。とは言え石井聰亙がまだこんな脚を残していたことには正直言って驚かされたし、何より石井聰亙ですらない石井岳龍に大金(けっこうかかってるよね)をぶちこんだ慧眼というよりはキチガイ沙汰にこそ喝采をおくるべきで、これほど勇猛果敢に金をドブに捨てる姿を目にしたのは果たしていつ以来だったのか、今いちばん足りていないのはこうした街場のバカによる撹乱であることをあらためて痛感したのだった。永瀬正敏vs浅野忠信の因縁はまたしても決着つかずということで、虚空に消える永瀬正敏と虚空に囚われる浅野忠信は、まんま『ELECTRIC DRAGON 80000V』の変奏であったよ。原作未読につき宮藤官九郎の脚色がどれくらいジャンプしたかは不明ながら、役者がみな口も身体もやたらと気持ちよさそうに動かしていたのは間違いがないように思えた。それにしても、今の時代にまだこんなでたらめ(=punk)が可能だったことに少しだけ沁み沁みしている。
posted by orr_dg at 00:31 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする