2018年03月30日

素敵なダイナマイトスキャンダル/ほとんどビョーキで超ゲージツ

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80年代(昭和55〜64年)、すなわち昭和の終焉とともに、何より日本から消えてなくなったのは劇中で末井昭(柄本佑)が何度か苦し紛れの存在証明として持ち出す「情念」であったことよと、ノスタルジーでもセンチメンタルでもなく再確認させられたのだった。高度経済成長の時代に無理やり社会的な生き物としてしつけられた日本人が、自分の内部で置き去りにされる未整理で未成熟な衝動のはけ口として弄んだのが「情念」というやつで、当時を生きた人間が他人事のように思い返してみた時、パンチの効いたとしか言いようのない昭和の文化はほとんどがこの「情念」をガソリンに燃やされていたように思うわけで、結果的に末井昭が突破口として見出したのは「情念」のポストモダン的再構築とでもいうセックスのアヴァン・ポップな意匠化で、やはり同時期に山本晋也が「トゥナイト」で展開した日本のセックス事情探訪と相まって、はからずもメディアミックス的に横断されることで浮力のついた日本のセックスは表現の動機に関する限り「情念」から追い出されていったように思うのである。などと能書きはたれてみたものの、「写真時代」の廃刊騒動がスルーされていることからも分かるように、そうした思想の変遷を読み込む映画というよりは、母親のダイナマイト心中が象徴する「情念」を都合よく操るトリックスターとして昭和の終わりを転がっていった末井昭の奇天烈な逃げ足を描くことで界隈の正史へと置き換える乱暴さそれ自体への憧憬(監督の世代からしてみれば)に溢れた、間に合わなかった青春への明るい怨念を綴ったラヴレターのような映画に思えたのである。となれば、アングラの鼻歌のように忍び寄ってくる劇伴がサブカルチャーのノンシャランを封じ込めていたのも当然か。尾野真千子、前田敦子、三浦透子といった女優陣がみな切羽づまった笑顔を忘れがたくふりまいて、冨永監督の女優指南は相変わらず鈍色に艶々としている。
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2018年03月27日

LUCKY ラッキー/モンタナ行き最終急行

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殺されてしまったり放っておかれたり、ただそこにいるだけだったりずっと疲れたままだったり、まったくラッキーとはいいがたい役柄をそれが当たり前であるかのような顔で風に吹かれるように演じてきたハリー・ディーン・スタントンだからといって、これは人生の上がりを目前にした男の飄々としたラッキーで転がっていく姿をそのフィルモグラフィと反語的に描いて座りのいい締めくくりとするような、あてがいぶちのタイトルロールなどではまったくない。それどころか、演じてきた役柄の男たちのセリフにすらならない内心の投影であるかのような、そっちの勝手で始めておいて終わらせるのもそっちの勝手かよ、と取り付く島も寄る辺もない人生にニヒルを覚えつつ、すべてを取り上げられたあとで一つだけできることがあるとすれば、それは自分の全存在を肯定して微笑んでみせることだよ、と今となってはまるで墓碑銘のように刻まれるハリー・ディーン・スタントンという在り方そのものがフィルムに焼き付けられていたのだ。場当たり的な気まぐれとは程遠い静かで淡々としたルーティーンによってラッキーの生活が営まれていることを伝えるオープニングから始まって、変わり映えのしない、というよりはさせないその日々の築き方は世界の虚無に対するラッキーなりの抵抗でもあったのだろう。しかし、ある日突然訪れた最大にして最強の虚無である「死」のサインに戦術の変更を余儀なくされたことで、ルーティーンが隠していた負けるが勝ちとでもいう新しい光景にラッキーの内部は更新されていくことになる。いつしか澱のようにたまっていた執着を捨てることの理解と確信を代弁するハワード(デヴィッド・リンチ)と彼の愛するリクガメのエピソードはビザールな味わいと慈しみにあふれたシナリオの忘れがたいピークの一つでもあるし、それを聞かされることでラッキーが自身の舵を切る契機となる太平洋戦争時の沖縄の少女のエピソードはハリー・ディーン・スタントンの当地への海軍従軍経験を織り込んでいることは言うまでもなく、そんな風にして観客がラッキーに役者本人を投影することを拒まない虚実の行き来にいつしかワタシはハリー・ディーン・スタントンその人と会話をしているような親密さの虜となって、もしも今ラッキーにタバコを勧められたら25年を超える禁煙をきっと解いてしまうだろうなと要らぬ心配をしていたのだった。誰かを演じるために存在する俳優が最期には自分自身を演じることの皮肉ではなく奇跡。その奇跡というのは、彼が選んだ自身の断面と色合いがワタシたち観客が長いことずっと彼に託してきたそれと寸分違わなかったことであり、それは彼がたどりついたすべての肯定がワタシにも許されたような気もしたものだから、なんだか感極まって笑うしかすることがなかったのである。撮れば撮るほどハリー・ディーン・スタントンがハリー・ディーン・スタントンになっていくのだから、ジョン・キャロル・リンチも撮っている間ずっとそんな風に笑っていたに違いないし、ほとんどすべてのシークエンスにハリー・ディーン・スタントンがいるにも関わらず、一人の人間の道行きがパーソナルというよりはスペクタクルの足取りと広がりに映るのはそうやって監督も一緒に解放され続けていたからなのだろう。そしてラッキーが「Volver Volver」をひとり静かに歌い出した瞬間から約2分半のあいだ、演じるということへの問いかけに対するハリー・ディーン・スタントンからの秘めやかで揺るぎない答えをワタシたちは目の当たりにすることになる。傑作。
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2018年03月23日

ハッピーエンド/海辺のアルバム

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かつて自らの内に潜らせた「死」によって内部が震え続ける老人と、「死」をこの世界のルール以上に実感しない少女とが、欺瞞と偽善でつづれ織った「生」に身を隠すことで「死」すらも手なずけた風な顔をして行き交う世界に中指を立てようと、ある晴れた日の海辺で二人だけの蜂起をする。庭で大きな鳥が小さな鳥を屠るのを見た時のことをエヴ(フォンティーヌ・アルドゥアン)に話すジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)の意図が自然の摂理に関する説諭などではなかったのは言うまでもなく、13才の孫娘を介錯人に仕立てるその企みをグロテスクとするか合理のきらめきとするか、エヴがある手段によって震えの訪れを回避するであろうその術を見越してのことだったとするならば、その成就はともかくとしてエヴはその期待に応えることとなる。ハネケの新作ということ以外、たいした情報も入れずに観たものだから、かつてジョルジュが重病の妻を窒息死させたことをエヴに告白するくだりで思わずのけぞったのだけれど、ここでは『愛、アムール』で妻の名前だったアンヌを娘(イザベル・ユペール)に、同様に娘を演じたイザベル・ユペールの役名エヴァを孫娘エヴへと似せてみては、もう私に愛は無理だと崩れ落ちたジョルジュの過去を変奏することにより、この家が愛を決定的に失ったことで無関心と不寛容を呼び寄せたことを示唆してみせるのである。してみると、この家系の最新型としてあらかじめ愛を失った存在で現れるエヴはジョルジュの隔世遺伝とも言えるわけで、エヴが父トマ(マチュー・カソヴィッツ)に対し執拗に愛の不在を問い詰めるのは、自身にかけられた呪いに対する彼女の怒りと恨みの顕れでもあったのだろう。結局のところ近代的自我などというものは他者の下支えによる精神的植民地主義によって成立しているにすぎないというハネケの嫌悪と喝破は、スマートフォンのカメラフレームやPCディスプレイを現実からの逃避と忌避のシェルターと捉えることで、SNSがその閉鎖性と独善性を煽ることを最新の付帯事項としている。そして、旧弊なリテラシー世代であるトマがその秘密をあらかじめすべてがある世代のエヴにあっけなく突破される滑稽と哀しみは、アンファン・テリブルでもバッドシードでもないネットの水平性が産み落とす集合知の怪物のような世代に対するハネケの俯瞰がなされている証しでもあるにしろ、わたしのママを捨てたようにいずれこの人は同じことをするだろうと父親のクズを見抜きつつも「パパが遠い」と涙を流すエヴには、ハネケなりの希望が託されていたように思うのだ。ラストにおいてはっきりと提示されるエヴ&ジョルジュ組vsアンヌ&トマ組の構図は、世界に疑いを抱いてしまったものとそこに貪るように浸り切るものとのさらなる闘いを予感させるのだけれど、それが闘いであることを知らないものが勝てるはずなどないことをハネケはハッピーエンドと締めくくっているのだろう。この、寓話にハンドルを切らないまま現実の壁に激突する総体としてのメタファーが鹿殺しには決定的に欠けている。いつものえぐるように厭味な長回しは若干控えめで、工事現場の土砂崩れとピエール(フランツ・ロゴフスキ)が殴打されるシーンがサービスショット。土砂崩れはもちろんCGだろうけど(実写なら実写で狂ってる)、何てことはない日常のフレームがいきなり異化される瞬間はJホラーのアタックに近い。
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2018年03月22日

リメンバー・ミー/天国の入り口、地獄の出口

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ビバ!メヒコ、あるいはアステカフォーエバー!といった祝祭のうちに語るメメント・モリを脱「悲しき熱帯」として描くという意味では、期せずして『ブラックパンサー』と足並みが揃ったという気もしていて、民族主義的なメッセージのことさらな強調よりは圧倒的な意匠そのものをメッセージとする点でも共鳴していたように思うし、地球上の全人類をマーケットと見据えるディズニーにしてみれば至極当然とも言える分断の気配に対する横断の目配りということになるのだろう。したがってこれはあくまで内部的な(ミゲルの家族の)物語ということであって仮想敵も物語の要請として登場するに過ぎず、現実の乱反射でこちらを刺しに来るノイズも巧妙に取り除かれることもあり、ただただ極彩色の洪水に巻かれながらハッピーエンドへ向かって流されていく快感に身を任せていれば、幸福な観客として求められた役割を文句なく全うすることになる。とは言え劇場が明るくなってから考えてみれば現世と死者の国の関係などそれなりに引っかかるところはあるわけで、死者の国に入ることすら叶わない死者のことを思えば、これはあくまで、それはヘクターでさえ、幸福な死者の物語ということで線を引いて観るべきなのだろうし、極楽浄土や天国のように一度リセットされた先の平安とは根本が異なる点でも、新たな死生観としてワタシがそれを識ればいいだけの話に過ぎないのだろう。そしてそれは、おそらく「リメンバー・ミー」と「フォゲット・ミー・ノット」の違いのような気もするわけで、いずれもが死者の傲慢だとしても、あなたの外にあるわたしを想い出すように告げることと、あなたの内部にわたしを忘れずにいるよう願うことでは呪いのかかり方は異なるだろうし、死は表裏ではなく隣人であるというメメント・モリとしてワタシは腑に落ちたように思うのである。いずれにしろ、想い出してほしいことも忘れないでほしいことも今のところ持ち合わせていないワタシは、あちら側のどこにも行けないまま幽霊にもなれずに消えていくのだろうなあと思っている。アレブリヘのペピータは「エルマーのぼうけん」のりゅうみたいで、なれるならあれになりたいと思った。
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2018年03月19日

悪女 AKUJO/泣きなさい、殺しなさい

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ギミック感満載のFPSショットを名刺代わりに幕開けするものだから、完全にそういう飛ばし方で置き去りにされるのだと思っていたところが、あくまでアクションはドラマに隷属すべきであるというわきまえがエンジンブレーキとなった気もして、アクション畑出身の監督ほどそうやってことさらドラマを欲しがるのは何かしらのコンプレックスでもあるのだろうかと、『アトミック・ブロンド』でも感じた不要の疲労感を覚えてしまったのが正直なところで、スクヒ(キム・オクビン)とジュンサン(シン・ハギュン)が愛憎の果てに不倶戴天の敵として血と涙の肉体言語で綴っていくラブストーリーだけを力任せに凝縮してみるだけでよかったのではなかろうかと思ってしまうのは、アクションを繰り出すエクスキューズとしてのヒョンス(ソンジュン)やセオン(チョ・ウンジ)の定型がさほどの陰影もないまま平板に重なっていくドラマにつきあって行くのが段々と面倒な気分になってしまうからで、本筋のドラマがようやく浮上して来たときには少々待ちくたびれてしまっていたのである。スクヒの娘を文字通りの起爆剤にする容赦のなさも、ヒョンスも含めそこに至る書割りの幸せに終始する味気なさも手伝って絶望が針を振り切ったようには映らないし、寄る辺なき世界の光と影としてスクヒに対照されるべきセオンに至っては完全な無駄死にとしかいいようがない。アクションとドラマが互いの反動で共振しては叫び続けるグリーングラスのボーンや、アクションからの緻密な逆算でドラマを隷属させるトム・クルーズのMIが優雅に狂っていられるのはやはり強靭なシナリオあってのことなのだなとあらためて思ったし、スクヒとジュンサンの凝視と対峙が叩き起こす圧倒的に狂ったアクションの他に何も覚えていないにしては、やはり120分は少しばかり長すぎた。
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2018年03月17日

聖なる鹿殺し/セカイはご機嫌ななめ

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聞き分けの悪いスティーヴン(コリン・ファレル)に向かってある実演をしてみせた後で「これでわかった?メタファーだよ、象徴的だろ?」と噛んで含めるように諭すマーティン(バリー・コーガン)の言葉を借りるまでもなく、今作に限らずランティモス作品がメタファー地獄、メタファー上等、メタファー絶唱な語り口で成り立っているのは言わずもがなだけれども、マーティンのセリフは果たして監督の自虐なのか自嘲なのか、少々自家中毒気味であった『ロブスター』の反動にも思える聞きわけの良いメタファーに終始していたように思うのである。あなたの過失のせいでぼくは父親を失ったからその代わりにあなたが父親になってくれ、それができないならぼくの家族が1人損ねられたようにあなたの家族の誰か1人をあなたの手で損ねて欲しい、それができないなら1人が2人、2人が3人と全滅していくよという、脅しと言うよりは世界のバランスを回復することをマーティンは望んでいるに過ぎず、そういうぼくをつかまえて人殺しとか言うのはおかしな話でさ、どちらが人殺しかと言えばあきらかにあなたなんだけどね、と無表情にしかし澱みなく解説するマーティンのヒプノティックな口上や、エドワード・ホッパー的な彼岸の日差しで染め上げたミニマルやキューブリック的なシンメトリックによる不穏のつるべうちもあって、ならばいっそのこと『赤い影』のニューロティックホラーにでも振り切ってしまえばお互い楽になりそうなものを、あくまでも近代的自我の機能不全をドーナツの穴のように描く欧州伝統芸への忠誠と殉教を棄てるつもりはないのだなあと、このままでは行き先が限られてしまいはしないかと少しばかりやきもきしたし、不協和音だけをひたすら重ねているうちにいつしか協和音になってしまうアベコベを回避する上でもひしゃげたユーモアによるブレイクは必須だと思うのだけれど、デビュー作から前作、前作から今作と、その激突と流血のユーモアを手放しつつある点でもその懸念を増してしまう。過去作で成立させた、境界の完全で完璧な中央に立ってそれからどちらに倒れ込むか一切の予断を許さないラストも今作ではやや不発に終わった感もあるし、前述したメタフィクション的な開き直りなど見るにつけ、次作ではそろそろスタイルを変えてくるような気がしないでもない。崩壊したルーティーンのとしてのスパゲティは『こわれゆく女』『ガンモ』の系譜として秀逸。
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2018年03月15日

ダウンサイズ/天遠く、地に近く

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高校の同窓会でポール(マット・デイモン)が何とはなしに見やった壁に貼られたバナーの言葉が気になって調べてみたところが、"The door to happiness opens outward"(幸せへの扉は外に向かって開く)と "The best way to find yourself is to lose yourself in service to others"(自らをよく知るには、他人への奉仕にその身を捧げてみることだ)というそれぞれキルケゴールとガンジーが遺した言葉であったようで、結局のところ、常に挫折する男ポールが何とかハッピーエンドにたどりつけたのも成り行きとは言えこの言葉を実践したからということであったのと同時に、それは手を替え品を替えではあるもののドゥシャン(クリストフ・ヴァルツ)の生き方に通じていたのも言うまでもなく、地下の方舟へと消えていくアスビョルンセン博士(ロルフ・ラスゴード)率いるコミューンに向かって「ありゃカルトだろ?」と一顧だにしないのも、ポールのメンター足り得るドゥシャンにしてみれば至極当然な吐き棄てに過ぎないのだろう。これまでアメリカの真空地帯に放り出されては立ちつくす中年男を描いてきたアレクサンダー・ペインの筆はここでもにこやかに容赦なく、このポールという男の無邪気な茫洋は自分が途方に暮れているのかいないのかすら明らかにできないわけで、ドゥシャンのパーティーできらびやかな音と光と女性に見とれて呆けるその顔はノルウェーのコミューンで即席のラヴ&ピースに感化され夕陽をみつめて呆けるその顔と何ら変わりがなく、事ここに至っても夢を見たがるポールがようやく我に返ったのが地下の方舟にたどり着くには11時間歩かねばならないことを知らされた瞬間であったという勤勉な愚者としてのギリギリのチャームは、これまでになく突飛な設定とのバランスが要求したカリカチュアでもあったのだろう。その分だけ真顔で身につまされる瞬間を手放しがちであったとは言え、ノク・ラン・トラン(ホン・チャウ)のアンバランスをポールのバランスが包んでいく愛あるファックのまとう清潔な官能はそれゆえに成立したともいえるわけで、新たな話法を模索したアレクサンダー・ペインが首尾よくそれを獲得したと捉えるべきなのだろう。それによって『サイドウェイ』『ファミリー・ツリー』『ネブラスカ』と続いてきた、立ち尽くしていた中年男性が血相変えて走り出すシーンも手放してしまうのかなと思っていたところが最後の最後でやはりポールは走り出すわけで、幸福とは走りだす理由がある人生ことのであるという何だか知ったような口調で締めくくってしまいたくなるような、気がつけば独り言が鼻歌へと変わっているいつものアレクサンダー・ペインなのであった。
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2018年03月11日

15時17分、パリ行き/あなたが人生の物語

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1人の男が駅の中を列車に向かうオープニングで、これが3人の若者の物語であることを知っていればこそ、そのたった1人の思いつめた足どりに暴力の予感をしのばせつつ、一転した映画は、走り抜けていくオープンカーの座席で爽快な表情を風に流すスペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラーの3人をアンソニーのナレーションで紹介し始めて、この物語が回想のスタイルで語られることを告げた勢いで一気に3人の少年時代へ遡っていく。学校に呼び出されたスペンサーとアレクの母親が担任と面談する時間が午後3時15分であったことがまず曖昧な符合として頭に残りつつ、3人の子供時代が描かれる中で時折インサートされるフラッシュフォワードは10年後の列車内なわけで、回想の中の未来という時制の目眩ましによる全ては同時に起きているという軽い酩酊に、ああ、もしかしたらヘプタポッド語によって紡がれる時間はこうした感覚の先にあるのかもしれないなあと考えたりもしたのだ。仮にテロリストの銃で弾詰まりが起きずスペンサーが命を落としたとしても彼の時間は変わらずそこに在るわけで、3人がただ笑いふざけながら過ごすローマ、ヴェネチア、ミュンヘン、アムステルダムの旅が不思議なくらい光に溢れた時間であり続けるのも、それが生と死の円環につながった全体性を獲得していたからであったように思えてならないのである。イーストウッドがいったい何をどんな風に確信した上でこんな風変わりとも言える時制の編集をしたのか分からないけれど、列車内のあの瞬間を消失点としてフィクショナルに崇めることでこぼれ落ちてしまう時間への懺悔、すなわち過去と未来をスイッチバックしていくその振幅にこそ真に語られるべき物語があるのではなかろうかと、おそらくは『ハドソン川の奇跡』を撮ることで生まれた問いへの回答を自ら示して見せたように思ったのである。そうした意味で近年まれに見るイーストウッドのエゴが炸裂した映画に仕上がっていて、正直に言ってしまえばポストヒロイズムの論であるとかよりは『メッセージ』あるいは『シルビアのいる街で』を引いてしまう誘惑にかまけているだけでワタシは言うことなく充分なのであった。
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2018年03月08日

シェイプ・オブ・ウォーター/近ごろ溺れる夢を見ない

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※展開にふれています

「男ってやつは信用できないねえ」と、にやつくイライザ(サリー・ホーキンス)の理由を知ったゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)が彼女を茶化すシーンで、ゼルダがどれだけ深いイライザの理解者であったとしても、イライザの「彼」に対する感情がシンパシーを超えた性愛を伴う恋愛感情へ進展していたことに1ミクロンほどの戸惑いも見せなかったゼルダに対し、さてゼルダにとっての「彼」の異形が溶かされるシーンがどこかにあっただろうかと逆に戸惑ってしまったのである。そこで気を取り直して、といっても既に終盤へと駆け込むあたりだったのだけれど、ああこれはどこかにB.R.P.D.(超常現象捜査防衛局)があるアメリカの物語なのだろう、だからネコを助けたヘルボーイの異形に腰を抜かすよりは拍手をするように、クリーチャーをひとつの人種として鼻先でシャッターを下ろしてしまったりはしない世界なのだ、とデル・トロが精緻に創り上げた箱庭の中に最初からいたことにようやく気がついたのである。その洗練された変奏と人間たちが手前で動き回るステージングに目眩ましされてはいたものの、アール・デコにスチームパンクをかけ合わせた美術も、切ない異種愛も、そしてはたまた水の中の青い人も、かつて心奪われたデル・トロの刻印にあまりにも間近で埋もれていたせいで、ずっと地上からつま先が浮いたままの遠近を見渡せていなかったのだろう。それは言ってしまえば、感情もあらかじめそのB.R.P.D.世界の仕様にデザインされていたということで、だからこそイライザが「彼」とセックスすることにゼルダが動じるはずなどないに決まっているのだ。となれば、エイブとヌアラの悲恋を繰り返すはずのないデル・トロだからこそ、イライザと「彼」の道行きもジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)の仄暗い夢想のとおりハッピーエンドで問題があるはずなどなく、むしろワタシはもう一人のモンスターであるストリックランド(マイケル・シャノン)の仁王立ちする憂鬱に気を取られ胸がざわつくばかりだったのである。1950年代のゴールデンエイジから冷戦期へ突入したアメリカを覆う、ベトナム戦争前夜の暗い影が産み落としたストリックランドは、マチズモの敗残兵でありサバービアの亡霊というウィリー・ローマンの怨念に突き動かされているわけで、美しい妻に可愛らしい子供が微笑むモダンな我が家にはもはや自分の黒く腐った屈託がいる場所などないのだと傷物のキャディラックの運転席にひとり沈み込む彼もまた、イライザやゼルダ、ジャイルズ、ホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)と同様にYou'll never knowな一人だったということになるのだろう。すべてが終わった後で(陸の上の)イライザ、ストリックランド、ホフステトラー博士は命を落とし、ゼルダはおそらく夫を棄て、ジャイルズは最良の隣人と最高の理解者を同時に失い、1人の未亡人と2人の父なし子が残されることになるわけで、生き残った者たちは皆さらなるYou'll never knowと向き合うことを余儀なくされることになり、果たして死は払うべき代償なのか、手に入れた解放なのか、慈悲なのか無慈悲なのか、その成就のためには血の酷薄を厭わないデル・トロの愛が実は畏しいまなざしに捉えられていることを久々に思い知らされた気がしたのである。こうして手癖の極北に到達した後で、これからいったいどこへ向かうのかいささか不安ではあるけれど。
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2018年03月06日

ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ/寝る子は育てる

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「だったらどうしてアメリカに来たんだよ」と、パキスタン式に生きることを譲らない両親に向かってクメイル(クメイル・ナンジアニ)は決定的な一言を吐いてしまうのだけれど、おそらくそれを言った瞬間クメイルは、その言葉がブーメランのように自分に突き刺さったことを自覚したに違いなく、彼にとってのビッグ・シックとも言えるその淵からはい上がるための通過儀礼はアメリカ映画の王道ともいえるわけで、今となっては笑い話だけどね、とそれぞれがくぐり抜けた死にそうな日々を笑い飛ばしてみせる点でコメディの体裁はまとっているものの、人種や文化の壁をブレイクしていく物語を非白人の視点で描くことを可能にした新鮮さに、こうした問題を語ることの成熟と新たな可能性を同時に感じたように思ったのである。エミリー(ゾーイ・カザン)が自分との関係をその別れにいたるまで、喜びも悲しみもふくめ自分の両親に話していたことは初対面の母ベス(ホリー・ハンター)が全てを知っていたことにうかがえて、エミリーのことを両親に隠したままでいたクメイルと対照的な関係であることが知らされると同時に、エミリーの母ベスと父テリー(レイ・ロマーノ)の結婚が必ずしも周囲に祝福されたわけではなかったことを、昏睡するエミリーを看病する日々を通した夫婦との交流でクメイルは知っていくわけで、移民として生きることの格差や偏見を当然のこととして、それを上手くやり過ごすのがスマートな処世術であるかのようにふるまうクメイルが、夫婦のてらいのないそれゆえ山も谷もあるあけすけな関係にこそアメリカに来た理由を再発見していく姿は、アメリカという国へのささやかなラブレターのように思えてくるのだ。とは言えそんな風に行って帰ってくる典型の物語がどうしてこうも息を弾ませ続けるのか、それはクメイルを取り巻く人々がお見合い相手の一人に至るまで、生きている人の証としてそれぞれの揺らぎを丁寧に描いているからであって、ドライブスルーのハンバーガーショップの店員ですらが見過ごせない佇まいでクメイルとすれ違ってみせるのである。とりわけエミリーの両親と過ごす時間の中で、クメイルは誰もがそれぞれの物語を持っていてそれが人と人とを結びつけることにあらためて気づかされていくわけで、NYに旅立つ日に父親に別れを告げるシーンのある会話によって、かつて両親も自分と同じ時間を過ごしたであろうことに想いを馳せては新たな記憶を内にとどめ、それを自分の物語に書き込んでいくのである。様々な問題をメタファーや寓話に投影する物語のマクロ的な機能性は日々洗練されていくけれど、あくまでそれは、誰もが持っている物語をミクロ的な直截で語ることで生まれる溌剌な息づかいが片方にあってのことだなあと、朝風呂にでも入ったように頭も身体も目が覚めた気分になったのであった。クメイルにはあえて冴えないをギャグあてがい、それをホリー・ハンターとレイ・ロマーノの夫婦漫才が蹴散らしていくシナリオの妙といい、オスカーノミニーを惹句にした都合とは言え、この時期の激戦区に埋もれさせてしまうのは本当にもったいないなと思う。
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2018年03月05日

ブラックパンサー/速く正しく騒がしく


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ああ、1992年から始まるんだと軽く肩透かしをくらってはみたものの、ほどなく登場するエリック・キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)の黒と青のいでたちや、遠目にはベレー帽でもかぶっているように見えないこともないその髪型に60年代ブラックパンサー党の投影を嗅ぐことはやぶさかではないし、10項目の党綱領の10番目「我々は、土地、パン、教育、住宅、衣服、正義、平和を欲する(We want land, bread, housing, education, clothing, justice and peace.)」が実現された理想郷こそがワカンガであったのは言うまでもない。ヴィランであったはずのエリックがティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)の腕の中で最期を看取られるのは、彼の存在に象徴されるかつて必要とされた思想と行動が役目を終えたことへの敬意であったのだろうし、ティ・チャラの2度目のハーブ巡礼で父である前国王を烈しく糾弾するのも、自らの手で引き起こすパラダイムシフトの激震へと向かう彼にとって必要な父殺しの儀式ということになるのだろう。この映画が手を伸ばしているのは、黒人の、黒人による黒人のための幸福の追求は可能だけれど、それが生み出す壁に激突死する世界の光景を絶やせないうちはその幸福を真に享受しているとは言えないのだというそれは、博愛というよりは不可知の合理性とでもいう新たな実験精神の提示であって、その象徴として知性を蛮性のエンジンとし蛮性で知性をクルーズするシュリ(レティーシャ・ライト)こそが、実はこの映画の主役だったのではなかろうかとワタシは思っている。したがってティ・チャラとエリックの煮え切らないそれよりは、過去や歴史の囚人として登場するエリックを完全に殺しにかかるシュリとのバトルにこそ昂奮したのも当然ということになるし、ポストクレジット・シーンで「知らなきゃならないことがあなたにはたくさんあるわ」とバッキーにささやく彼女の清冽とたおやかさこそがワタシは忘れがたいのだ。この映画にエラーがあったとすれば、ブラックパンサー=ティ・チャラの通過儀礼と覚醒のスピードが映画の確信に追いついていなかったことで、『クリード』でも顕著だった理詰めで可能性を拡げたり潰したりしていくアクションの愉悦に決定的に欠けるという点でも、ティ・チャラのパートにおける停滞を誘っていたように思うのである。それだけに新しい人としてのシュリが纏うリズムとスピードとまなざしが革新として映るわけで、将来的に彼女が自作のパワードスーツに身を包んだとしてもまったく驚かないし、むしろそうなって欲しいと願っている。
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2018年03月01日

The Beguiled /ビガイルド 欲望のめざめ〜誰も寝てはならぬ

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冒頭、シーゲル版ではエイミーに助けられたマクバニーが森で南軍の追っ手をやり過ごすシーンで、エイミーが彼らに声をかけないよう12才の少女の口にキスをして塞いでしまうのだけれど、年の離れた若い女性との恋愛というイーストウッド作品の潜在的なモチーフの萌芽としてはともかく、マクバニーという男が生き残るためには手段を選ばない男だということを一瞬で伝えることで ”The Beguiled” というタイトルの意図するところを早々に念押ししてみせている。続く劇中でも、マクバニーが女性達に自分は厭戦の者であって戦争の犠牲者なのだと告げるたび、それを打ち消すような彼の戦場での姿がフラッシュバックでインサートされ、彼の策略が進行していることによって発生するサスペンスを醸造していく。そうしたシーゲル版はあくまで男性視点による状況の解釈であるとしてソフィア・コッポラは新たな視点から解題していくわけで、前述したエイミーへのキスも真のマクバニーのフラッシュバックも見当たらないのは、必要なのはマクバニー(コリン・ファレル)の表層であって彼にビガイルドされたかどうかは問題ではないという解釈によっているからなのだろう。従って、女性達がマクバニーに懐柔される弱みとなりそうな要素はシーゲル版からきれいに取り除かれていて、校長マーサ(ニコール・キッドマン)は実兄との近親相姦の過去をオブセッションとはしていないし、エドウィナ(キルスティン・ダンスト)はマーサの庇護に依存するおぼこではなく、ここから出ていきたいという意志を早々に明らかにしてさえいる。それに加えて、南北戦争という背景を立体的にする役目を背負っていた黒人の召使いハリーまで取り除くことで、学園内の無垢と欺瞞という二重性すら消し去ってしまっている。そうやってマクバニーを根っからの悪人というわけではなく戦争という状況の生んだアクシデントの王子とすることで、自分たちは必ずしも一方的に籠絡されたわけではないのだという視点を獲得することを目指したことを否定はしないけれど、それによって肉体の蒸気と舌なめずりの目つきが館内に立ちこめる精神的肉弾戦のサスペンスがきれいにデオドラントされてしまった点で、特にシーゲル版の鑑賞者にとっては死とセックスという不可分が分断され去勢されてしまった後退のみが目についてならなかったのである。そして最期の毒キノコに至る様々な伏線も解除してしまうことで、互いをビガイルドしつつ絡まり合っていくはずのラストが、たった一度女性達が繰り出したビガイルドによって男性を打ち負かすという構図へと収束というよりは収縮してしまい、シーゲル版の101分に足りない8分間はただひたすら目をつぶりたかっただけの時間に思えてしまうのだ。そうやって切断のシークエンスですらが丸々オミットされる代わりに、エドウィナのドレスからはじけ飛ぶボタンは嬉々として追ってみせるわけで、手が汚れるのが嫌ならば手袋をするか何も触らなければいいのにと思ってしまうのだけれど、その手袋の繊細で美しい意匠を見せつけたかったのならばそれはそれで致し方ないのだろう。それにしても「欲望のめざめ」とかいうサブタイトルをソフィア・コッポラは知ってるんだろうか。
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2018年02月27日

早春/クール・イン・ザ・プール

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およそ映画が折り返す頃、客としてマイク(ジョン・モルダー・ブラウン)を訪ねてきた元同級生キャシーからことづかったチップをくすねたスーザン(ジェーン・アッシャー)が、それで買ったであろうコーヒーフロートのアイスクリームをなめながら、いつものように会計係(エリカ・ベール)をからかうべく通路をふらふらと現れた時、その背後にやおら現れたペンキ塗りが緑の壁を真っ赤なペンキで塗り始め、オープニングで滴らせた血の色を忘れていなかった向きへはお待ちかね、忘れてしまっていた向きにはお忘れなく、とばかり、この映画が今際の際に血を流すことをいささか得意気に予告してみせる。かつて『出発』において青春を殺すのはセックスであることを告げたスコリモフスキが、ここではより直接的な変奏によって思春のネクロフィリア絶唱を幻視することで、その罪と罰を永遠に猶予し続けるためにこの映画があることをあらためて告げてみせるのである。しかし、そのモラトリアムの水中をマイクと共に永遠に漂い続けるスーザンの罪は思春を弄び屠ったゆえなのかと考えてみれば、彼女は男たちの欺瞞と傲慢を知り尽くすことで逆襲的に生きる術を実践していたとも言えるわけで、体育教師(カール・マイケル・フォーグラー)を完膚無きまでに袈裟斬りする啖呵こそが彼女の本質であったのと同時に、ダイヤモンドを取り戻した後で立ち去ることも出来たにも関わらず、優しく身を横たえてマイクを抱きしめたのも彼女の本質だったのだろうし、ある一人の女性が時代の進取として持ち得たその振幅の烈しさゆえ彼女は綱渡りから転落したとも言えるように思うのだ。最初のうちは、背伸びして大人びた振る舞いをすればするほど子供じみてしまう滑稽と哀しみでマイクを慈しんでいればよかったところが、スーザンにペットとして翻弄され続けてノーガードの脳が揺れ続けることでいつしか少年の動物が大人の理性を足蹴にし始め、しかし有効な手管を持たない幼さゆえ檻の中をうろうろと行ったり来たりする動物のようにただやみくもな反復に感情をぶつけるしかないまま、スーザンと婚約者をクラブまでつけ回すシークエンスでは、なすすべもない焦燥で同じ建物へ出たり入ったりドアの開け閉めを繰り返し、あげくにそのループの中で同じ屋台のホットドッグを6個食べる羽目になるスラップスティックは、その先の地下鉄での狼藉によって既にマイクが子供でも大人でもないアウトサイダーと化したことを告げたあげく、深夜のプールにおけるネクロフィリアの予行演習へと歩を進めることとなる。さらに続く、自分がドロップアウトした学校のマラソンレースへの乱入からスーザンの婚約指輪のダイヤモンド紛失騒ぎの中、ほとんどブラウン運動的な躁病で転げ回るマイクが駐車場を走り抜けるシーンで、それが演出なのかアドリブなのか、特にそうしなければそこを通れないわけでもない停められた車の開いたドアを走りながらジャンプして蹴りつける後ろ姿の、社会性の未熟な回路がついに焼き切れたことによる解放の血走った高揚を見て、白も黒もグレーも知らぬ15才の狂気が混じり気の無い分だけなおさらグロテスクに思えて仕方なかったのである。それだけに、絶望的な未遂で一敗地に塗れたマイクが虚ろな目で「ママ...」と絞り出した瞬間、既にカタストロフの秒読みは開始されていたのだろうし、もはや青春の不発と言うよりは男性の不発とも言うべき女性不信のオブセッションはこの後『ザ・シャウト』や『ムーンライティング』でも主人公を蝕んで崩壊に導いていくことになるわけで、15才の少年をその鋭角で思い切り殴りつけて永遠に春を奪ったその物語に『早春』と名づける地獄のセンスにあらためて戦慄する。
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2018年02月23日

羊の木/船の上ならおれが強いぜ

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原作既読。最低限の外枠だけで、登場人物および展開、結末などほとんどが脚色されている。ワタシたちがそうであるように、人殺したちにも唯物やら唯心やら腹の中の黒さやら白さやらグレーやら様々な濃淡の質があるだろうと考えてみた時、では人殺したちが日常で無作為に出くわしたなら、いったいどのような彼らなりの「社会性」が生まれるのか、そしてそれはその本性においてワタシたちとどうすれ違うのかという実験を娑婆の箱庭で行ったのが山上たつひこの醒めたグロテスクであり、そのあけすけによって暴力の気分が全体に均されていく群像劇がたどりついた、日々にかけられる薄暗い呪いによる諦念こそがワタシたちの本性なのだろうと思ったのである。というのはあくまで原作の話であって、ここでは宮腰(松田龍平)に向こう側の人間を代表させるために彼と同世代に若返らせた月末(錦戸亮)と対照させているのだけれど、それが『桐島、部活やめるってよ』での桐島と菊池、『紙の月』での梨花と隅といった、圧倒的に異化された他者への捻れた愛憎の構図にもみてとれるがゆえ、最終的には怪物の断末魔と共に手持ちの理解に収めてしまう几帳面さは『紙の月』でも感じたもどかしさでもあったのだけれど、その奥底で決定的に変質した日常にたゆたう倦怠で閉じるラストにおいて、前述した原作のかざした呪いと諦念へと手を伸ばしたようには思ったのだ。月末との対照によってあらかじめ壊れたものの哀しみをフォーカスすることで、見てはならぬ神様として畏怖される「のろろ様」に忌避される自分を重ねたのかもしれない宮腰の行く末は結果的に共同体へのあらたな呪いを更新することになりはしたものの、それよりは、お前らのように人を殺さずに生きていける人たちの断罪にしたがって罪は贖ってみたところで結局オレはオレでしかなかったよ、だから本当にオレが罪深いのかどうかお前らの神様に決めてもらおうじゃないか、と「のろろ様」に神託を乞うたと考えた方が、善悪問答の果ての無力感よりは変形のピカレスクとして退廃が深まるように思ったりもした。そのあたりの振り切れなさを先ほど几帳面としたわけで、いっそのこと宮腰が月末にとってのタイラー・ダーデンとなってもワタシはかまわなかったのだ。のろろ祭りは『ノロイ』の鬼祭以来の説得力を持つ奇祭描写だったこともあって、ならばもう少し原作寄りに装置として機能させればいいのにともったいなく思った。あのバンドでPILを引用したらキース・レヴィンにぶん殴られると思う。エヴリマンとしての錦戸亮のなで肩はとても虚ろで良いのだけれど、通じないものとしての松田龍平はそろそろお腹いっぱいな気がしないでもない。
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2018年02月21日

ぼくの名前はズッキーニ/きみの話をしよう

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「子供に意志なんてない」カミーユの叔母さんのこの捨てゼリフこそが、フォンテーヌ園の子供たちのみならず、愛されることをあきらめきれないすべての子供達に涙を流させているのだろう。だからこそ、大人たちがその意志を見誤り見過ごすことのないよう人形たちの目は大きく訴えかけるようこちらを見つめてくるのだろうし、それは子供たちの正面から話しかける大人たちとそれをしない大人たちという構図によってワタシたちへの問いかけとなっていたのではなかろうか。スキー場の夜にポール先生がDJをして子供たちと踊りまくるシーンの、子供も大人も一緒になって同じ愉しみに身を任せる姿にこそ胸が揺さぶられるわけで、何よりこれが子どもたちへの共感や憐憫を免罪符にするのではなく、大人たちが水平な視線と公平な愛情を自然で当たり前に持つことがどんな風に可能かを伝える映画であったからこそ、子供たちだけがひそやかに交わす優しさと強さを知ってそれに応える術をあなたは持ち得るかと突きつけられた気がしたのだ。おかあさんは空にいるというズッキーニのその口からこぼれ出る、僕はおかあさんを殺したという言葉の重たさや、どれだけ強がってみせようと眠った姿で親指を口にくわてしまう壊れものとしてのシモン、迎えに来たおかあさんに対するベアトリスの行動は、フォンテーヌ園で過ごしたことでおかあさんだけではいかんともし難い何かおそろしい(人種差別の)圧力が外の世界にあることを知ってしまったがゆえの拒絶だったのだろうし、そうやって子どもたちはワタシたちがそうであるように世界の二重性をかいくぐりながら生きているわけで、それは「子供に意志なんてない」という冒頭の言葉がいかに残酷で犯罪的であるかということの実証にほかならない。あなたが生きていて哀しいように子供たちも哀しいのだ、あなたが生きていて苦しいように子供たちも苦しいのだ、あなたが生きていてやりきれないように子供たちもやりきれないのだ、体が小さいからといってそういう気持ちが小さく取るに足らないことなどないのだ、とわずか1時間ほどのフィルムがどれだけ精一杯に語り続けたことか。この映画を観る子供たちはズッキーニとカミーユの希望を、大人たちはそれを見届けたシモンが自ら門を閉める孤独をそれぞれが我がものとしつつ、大人たちは子どもたちという存在の独立を知るために自らの独立を確かめ試されることになるのだろう。「凧を揚げてもいいぞ」とワタシも言えるように。
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2018年02月19日

ダークタワー/ぼくとクリスティーンとオーバールックホテルで

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角川版(第4部まで)のみ既読。言いたいことがいろいろ湧いてくるかなあと思いきや、わりとそうでもない。本来であれば『ロード・オブ・ザ・リング』レヴェルのプロダクションが投入されて然るべき、というかそうでもしなければ描ききれないキング畢生のハイ・ファンタジーではあるのだけれど、既に邦題からナカグロすらが抜けてしまっているように、こちらから何かお願いするなどもってのほかではありますが、一つだけ無礼をお許しいただけるのであれば、紛い物ではございませんが似て非なるものとしてご鑑賞いただければ幸いですというただそれだけをお伝えさせていただきたく存じます、という平身低頭を足蹴にするには親の躾が効きすぎているのであった。ナカグロがないどころか、そもそも尺が95分しかないなどとこれだけの白旗を掲げられれば誤射のしようもないわけだし、この1時間半を暗闇で共に過ごすことによってストックホルム症候群にも似た共感と好感に包まれていたことをワタシは否定しないのである。黒衣の男ウォルター(マシュー・マコノヒー)をフック船長、ガンスリンガーであるローランド(イドリス・エルバ)をピーター・パン、中間世界をネヴァーランドと夢想することで孤独な少年ジェイク(トム・テイラー)の喪失と再生と描いてみせたどころか、ローランドもまた父を喪った者であることを忘れなければ、ジェイクとローランドが父となり父とすることで父性が世界を更新する光差すキングの王道にすら手が届いていたのを忘れるべきではないだろう。しかもこの物語では中間世界をさまようジェイクが当たり前のように腹を空かせたあげく、その空腹を満たすシーンがきちんと描かれているのである。劇中で食物を摂るシーンが一切ないままアドレナリン全開で疾走し続けるでたらめな映画が溢れていることを考えてみれば、この誠実は賞賛されて然るべきだし、NYでジェイクがガンスリンガーにホットドッグを食べさせる対称まで描く周到には舌を巻く。いや、巻かないけれどどこかで巻かないことには映画が終わってしまうのである。何しろ95分しかないわけで、マイケル・ベイならジェイクはまだカウンセリングを受けている時間にちがいない。
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2018年02月18日

霊的ボルシェヴィキ/さあ、ご一緒に

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「結局一番怖いのは人間ってことなんじゃないんですか?」などと、したり顔で言い放った安藤(巴山祐樹)の額を鬼の形相の霊媒師宮路澄子(長宗我部陽子)がステッキで打擲した瞬間、「結局一番怖いのは死んだ人間ってことなんじゃないんですか?」と無言のうちに正された空気に、そうだったそうだった「幽霊は狂っているから怖い(黒沢清談)」んだった、そして人を狂わせるほどに死は怖ろしい(黒沢清談)のであって、幕開けの三田(伊藤洋三郎)の話はまさに生きたまま死の扉を開けたことのある人間が自らの死に恐怖する話であったことにあらためて戦慄したのである。それから後、この廃工場で何が行われて何が起きたのか、それこそは霊的ボルシェヴィキ、生きた人間にとっては狂気、しかしその成分は純然たる宇宙的全体の上澄みであり、それを絞り出すべく奮闘する唯物論的セクトの前衛ではあったものの、結局は幾多の先達が失敗したように生きている人間は死んだ人間の軍門に下るしかないという幽霊連勝記録がまた一つ伸ばされたのであった。しかしそれこそは人間のなすべき営為といってもよく、メメン・トモリ、死を想うことこそがすべての想像力の源となることを告げては、四角四面な喜怒哀楽のアウトサイダーたる恐怖こそがこの世の原資であることをあらためて謳ってみせるのである。顔を上げ振り向く瞬時に日が沈み、すり足で近寄る裸足の爪先は禁忌に震え、地底の哄笑が骨伝導で脳髄を揺らす。そうした濃密で超然とした太古の時間に間断なく浸けられた彼や彼女らが、死者に圧倒され屈服し生きている自分に絶望するのは自明の理であり、ならば我ら全員の総量と引き換えにこの世界を恐怖で照らし給えと願い、叶えられた祈りが裸足の子をひとり放つのであった。災厄であり救済であるその子に名前はまだないけれど、名状しがたき者というそれが名前になるはずである。『予兆 散歩する侵略者』で、椅子に座った東出昌大と夏帆がひりつく緊張と静寂に窒息しそうな空間の中で対峙する名シーン、そのオリジンはこちらであろう。待ち望んだ『悪夢探偵2』の韓ちゃん再びでワタシはたいへんに喜ばしい。
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2018年02月15日

THE PROMISE 君への誓い/ある放蕩息子の墓碑銘

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トルコ政府によるアルメニア人虐殺の歴史を訴えかける映画というとアトム・エゴヤン『アララトの聖母』を思い出したりはするものの、その虐殺にアルメニアとオスマン帝国との錯綜し愛憎渦巻く歴史を反映させるには映画の時間が舌足らずにならざるをえず、代弁者としてあらかじめデザインされた人物の投入で語られるドラマがややもすれば紋切り型に陥るのは仕方がないところなのだろう。今作においても、アルメニア人サイドにすれば今さら言うまでもないにしろ、虐殺が開始されるメカニズムは検証というよりも既に事実として描かれることもあり、何らかの形でドイツが関与しているのだろうなという類推こそしても、なぜ彼らが突然迫害され強制移住の道筋をたどるのか、残酷ショウに顔をしかめさせる上滑りの共感ではなくその痛みに寄り添って歩を進めるには、そこに駆け寄るための時間や手続きがいささか簡略化されてしまっていたように思うのだ。そこでその補助線として投入されるのがミカエル(オスカー・アイザック)、アナ(シャルロット・ルボン)、マイヤーズ(クリスチャン・ベイル)によるラブストーリーということになるのだけれど、本来がそうした装置でしかないだけに、なぜ彼でなければならないのか、なぜ彼女でなければならないのか、という交錯に今ひとつ陰影が乗らない三角関係よりは、トルコ人富裕層の子弟でありながら、軍隊とかマジでダサすぎだろ、というノンシャランを貫いたエムレ(マーワン・ケンザリ)に全力で共感と賛辞を送ってしまうし、自分がいま生きていることのすべてがエムレの死によっていることなど知るよしもないまま、愛した女を失って涙にくれるマイヤーズの脳天気に『アルゴ』におけるイラン人家政婦のことなど思い出し、ほんとアメリカ人ってやつは…、と鼻白んだのだった。それに加えて、イスタンブールに着いてアナを見た瞬間、君への誓い(THE PROMISE)をころっと忘れ去るミカエルの変わり身も実はそれなりにノイズとなって貼りついたまま、情に厚いプラグマティストという使い勝手の良い八方美人的な造型にオスカー・アイザックも空回り気味だったように思えてしまう。映画の体裁をかなぐり捨ててまで糾弾と断罪の刃で刺し違えることを選んだ『デトロイト』を観た後では、そうした時代であったとは言えこの漂泊のメロドラマは少しばかりクラッシーに過ぎて語り手が満ち足りていやしまいか。
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2018年02月14日

RAW〜少女のめざめ〜/ミート・イズ・ノット・マーダー

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真っ赤な”RAW”というタイトルをハネケやノエがそうするようにスクリーンへと貼りつけた時点では、実存がオブセッションを甘噛みするフェティッシュ殺伐を思ったりもしたのだけれど、それよりは塚本晋也的な精神と肉体の変容を思春のかぐわしい徴とでもするように上気した足取りが途切れることのないまま、しかしインモラルへの集中と凝視にもかかわらずジュスティーヌ(ギャランス・マリリエ)に終始疎外感がつきまとうことがないのは、これが彼女の羽化を見守る物語だったからなのだろうとラストで吹き抜けた風の存外の颯爽に彼女ならずとも心健やかな気分だったのである。「姉さんは悪くない。おまえも悪くない。」という父(ローラン・リュカ)の言葉に、うつむいた顔をあげたジュスティーヌの目に飛びこんだのは何だったか。いまだ色気よりは食い気が優るジュスティーヌに、お前がこれからするべきことは「私」を探すことだ、お前がアドリアン(ラバ・ナイト・ウフェラ)に答えた「深刻さ」の答えがこれなのだ、食ってばかりのうちはまだいい、やがてそれは理解と共鳴を求めるようになるし、それを愛と呼ぶとすればお前は目の前のこの愛の姿に臆してはいけないしそうする必要もない、お前がするべきことは「私という愛」を探すことだ、姉さんが不幸だったとすればそれは「私」がいなかったことなのだ、という父親の鼓舞がアウトサイダーの涙をそっとぬぐうわけで、あるシーンでジュスティーヌが「深刻な」失敗として食いちぎってしまう部位とラストでカメラが指差す父親の欠損を結びつけてみれば、母と父が自らの運命的なロマンス再びとあえてジュスティーヌの発現を促すような環境に放り込んだ切実といってもいい目論見がうかがえるようにも思う。劇中では語られないながら父はいかにして母の昏くて熱い欲望を手なづけているのか、いまだ母のイゴールとして仕えているのではなかろうかという想像すら可能な血族の物語によって、たとえば『ワイルド わたしの中の獣』のように世界のくびきを離れ幻想の荒野へと消えていくことを許さないリアルがこの姉妹の青春を甘く切ない苦痛で締めつけて、監督の誠実ゆえに避けがたい悪意をとても好ましく感じたし、切り落とされた指を拾って食べるジュスティーヌを見つめる姉アレックス(エラ・ルンプフ)が流す、やっぱりあんたもか、という安堵と哀しみの入り混じった涙のたった一滴で映画の血液を逆流させるメロウとクールネスに、できれば監督には流血する精神だけを撮り続けて欲しいと願わずにはいられなかったのである。その指を食べるシーンでパーカーのフードをかぶったまま下を向いてしまい、ずっとそのままでいた六本木の彼女は大丈夫だっただろうか。もう「食べる」シーンはないよと言ってあげられればよかったのだけど。「食べちゃった後」はともかくとして。
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2018年02月11日

スリー・ビルボード/善人はときどきいる

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ウィロビー(ウディ・ハレルソン)に向かって「あなたは自分の娘が殺されても、手詰まりでどうしようもないんだなんて言える?」とミルドレッド(フランシス・マクドーマン)は言わないし、アン(アビー・コーニッシュ)に向かって「でもあなたの娘はまだ2人も生きてるじゃない?」とも言わない。ディクソン(サム・ロックウェル)はミルドレッドに向かって「おれがビルボードを燃やしたと思ったんだろ?」とも言わないし、ロビー(ルーカス・ヘッジズ)はミルドレッドに向かって「母さんのせいで姉さんは死んだんだ」とも言わない。なぜ言わないのかといえば、それを自分が言うのはフェアではないと知っているからで、血と炎と暴力が句読点を打ち続けるこの物語がそれでも最終的な正気を失ってしまわないのはその矜持が最後の砦となって食い止めているからだし、性善ともちがうどこかしら浮世離れした愛と暴力の潔癖は監督が『セブン・サイコパス』でも描いていた光源だったようにも思うわけで、ないものねだりへの飽くなき共感を映画の目的とするならば、ワタシにとってはほぼそうでしかないけれど、ラストでくたびれたフォードの運転席に差し込む穏やかに倦んだ優しいあきらめの光は、そこでかわされる生きた人間の言葉をついには正解と祝福していたように思うし、それは愛と怒りを両翼にもつ天使のようだったウィロビーですらが世界との繋がりを断たなければ言えなかった言葉の獲得であり、ワタシたちの輪郭は言わないことと言えないことでできているのだとするその哀しみの共有でしか人は繋がれないという、ペシミズムを逆説的に肯定する強さこそを愛と呼べとする啓示のようでもあったのだ。それは折々で「なかなかいない善人」として現れるペネロープ(サマラ・ウィービング)が言葉を曇りなく信じる人であったことにもうかがえて、分断されるアメリカを解体し再構築するキューがもう一度自分の言葉で自分が何者かを語れという相互理解すら幻想しない提案であったのは、マーティン・マクドナーがアメリカを外から視るがゆえにかわした自家中毒のワクチンという気もしたのである。そして何より、自分だけが知る自分があるように誰もが自分だけの自分を抱えていることを知ること、そうやって語られない物語に思いを馳せてその糊しろで世界を貼り合わせていくこと、それには常に想像力の風を吹かせていること、という祈りにも似た筆使いによって、母への愛憎に顔をしかめながらも暴力をかざした元父チャーリー(ジョン・ホークス)の喉元へ瞬時にナイフをあてがったロビー、怒りにまかせてひっくり返したテーブルを自ら直す元父チャーリー、ディクソンの隠された屈託を知りつつそれをことさら狙わないママ(サンディ・マーティン)、そのママがテレビで見ている『赤い影』もまた娘を亡くした父親が世界から彷徨い出す物語であったこと、といった端々のつづれ織りが世界の全体性を獲得していたように思うのだ。そして行き着いた「あんまりそうでもない(Not really)」という永遠の寸止めこそが、今日よりは明日、明日よりは明後日と、生きることを固定されたワタシたちが誰にも明かすことのない奥底の本心なのではなかろうか、だからこそこれほどまでに懐かしくも切なく胸かきむしられるような想いでミルドレッドとディクソンを祝福してしまうのではなかろうかと震えてしまったのである。『断絶』のラストの先を走る映画がようやく撮られたのだと思う。ところで、レッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)が読んでいたオコナーは、ページの進み具合からして「人造黒人」あたりだろうか。
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