2020年05月02日

ある女流作家の罪と罰/わたしを許さないで

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逃げ続けるストリート・スマートとしてのジャック・ホック(リチャード・E・グラント)と、破滅的なブック・スマートとしてのリー・イスラエル(メリッサ・マッカーシー)がニューヨークの街角でほんの一瞬踊った叶わぬ夢は、それが恋愛のざわつきから完全に解放された2人であっただけに、最期にたどり着いた友情の欠片はそこに映されることを世界が望むような静かでやわらかなカタルシスを湛えてみせて、なんだか『真夜中のカーボーイ』のことなど想い出してみたりもしたのだ。おそらくは自分の物語を解き放つことの怖れから他人の人生を間借りして物語の代用としてきたのだろう伝記作家としてのリーにとって、手紙の偽造という行為はいつしか、実際には書かれなかった人生の物語のその先を夢想する行為へと手段と目的が逆転していくわけで、数百通にもおよぶそれら犯罪行為が、それが彼女のセクシュアリティによるものなのかその根っこを描くことはしないものの、彼女を苛み続けた様々な不安障害を癒すセラピーとして機能していく皮肉と希望の精密なバランスが、頭ごなしではない多様性が祝福する人間賛歌としての余韻を隅々まで沁みわたらせていたのは間違いない。そんな風にしてこの映画がオフビートなピカレスクにとどまらないのは、リーが闘わなければならない自分自身のメランコリーを俎上にのせて切り刻むことを避けないからで、古書店主アンナ(ドリー・ウェルズ)とのディナーが初デートの色を帯びていく時の逡巡と混乱、そしてリーがリーであるがゆえの拒絶が染めるアンナの哀しみと、かつてのパートナーであるエレイン(アンナ・ディーヴァー・スミス)が突きつけるこれもまたリーがリーであるがゆえの拒絶がとらえるリーの哀しみが織りなすハーモニーが、孤独をよく知りつつも孤絶が時に耐えがたい人生のままならなさに淡く美しい陰影をつけていくわけで、法廷での最終陳述で自ら落とし前をつけてみせるリーにあふれだす、彼女がずっと内にしのばせてきた真の知性が人間の形をとっていく瞬間に差す浄化の光は神々しくすら映ったのだ。一見したところストック・キャラクターとしてのマジカルなゲイに陥るかと思われたジャックではあるけれど、彼が誇示するマイノリティの尊厳とプライドだけでなくその内部に隠す傷や痛みに共振することでリーが変質していく構造に、バディ・ムーヴィーとしての『真夜中のカーボーイ』が浮かんだのだろう気もしている。役者が役を求め、役が役者を求めた時の完全がここではメリッサ・マッカーシーとリチャード・E・グラントの2人に同時に起きていて、永遠の光が射したような別れのシーンはほとんど天上の出来事にすら思えた。ブライアン・フェリーで始まりルー・リードで終る挿入曲の配置に至るまで文句なしの何よりニューヨーク映画の傑作。
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2020年04月25日

ルーベ、嘆きの光/鞭の血

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WOWOW

ルーキーのルイス(アントワーヌ・レナルツ)に「犯罪者を見分けることができますか」と尋ねられた署長ダウード(ロシュディ・ゼム)は、「ああ」と即答し「彼らのように考えてみるんだ」と笑わない目をした笑顔で続けるのである。87分署シリーズのようにルーベ中央警察とそこで働く警官たちの日常を群像劇のように活写する前半から、ある老女殺しの捜査へとフォーカスされていく後半の流れの中で一貫するのはダウードのソリッドな屈託の立ち方で、光と闇、清と濁、そのどちらにも俺は首までつかってきたのだというプラグマティストぶりは、いかにもデプレシャン的な事物を断定しないことを断定するトートロジーの冷ややかな熱気をその目に帯びて、断片的に描かれる彼の背景に見え隠れする対人関係の不幸は、彼が唯一笑顔を向けるのが競走馬に対してだけであるというその描写が無言で裏打ちをするわけで、老女殺しの犯人を特定して追い詰め自白させ逮捕した終盤、子供と引き離されて収監されるクロード(レア・セドゥ)の蒼ざめた貌と、引き離されたクロードの名前を呼び続けるマリー(サラ・フォレスティエ)のショットから一変して、彼女たちの嘆きや哀しみは俺が今まで見てきたいつもの一つに過ぎないとばかりダウードが心を泳がせる競馬場のショットをラストカットにするデプレシャンのニヒルは、ダウードのやわらかく穏やかな物腰がそれを目眩ましながらも相当にとりつくしまがないのだけれど、原題の”Roubaix, une lumière”を「ルーベ、ひとつの光」とでもしてれみれば、不眠症のダウードはルーベの光と闇を采配する常夜灯ということになるのだろう。一方でルイスは、常夜灯が作り出す光と闇の境界を綱渡りする不安に苛まれる者として描かれるのだけれど、その一切をモノローグで描いてしまう手っ取り早さゆえなのか、ダウードへの批評的なカウンターに成り得ていない強度の曖昧さが惜しまれる。それとは対照的にクロードとマリーのカップルは、レア・セドゥとサラ・フォレスティエの強靭なパフォーマンスがファイティングポーズを維持しつつも、ダウードが均す地政学的ローカルの見せしめとして一蹴されてしまう点で役不足を否めずに終わってしまった気がしている。やはり地政学的ローカルの憂鬱を描いた『レ・ミゼラブル』とは真逆の文法で描くことで獲得された(ようにみえる)詩情は一見したところ希望の灯りのようにも映るけれど、ダウードに倦怠をもたらしているのは父権の垂直性に対する水平性の侵食にも思えてならず、となればあのラストカットの先に夢想するのはダウードの愛する馬がアクシデントで廃馬となる未来であって、そうした不健全な収支のメランコリーに囚われたダウードがデプレシャンそのものに思えた点においてこの映画は成功したと考える。
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2020年04月19日

殺し屋/お前を請け負いたい

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初めて部屋に来たソフィー(ファムケ・ヤンセン)が、おそらくは先立たれた亡き妻であろう写真を目にとめて「あれは誰?」と尋ねると、アッシャーはワイングラスを片手に目を伏せ「人生の犠牲者だ」とつぶやくのである。ちなみに「おれは料理をする。毎晩8時に料理を作る。明日は2人分作っておく。来ればうまいものが食える。」と口説いた末の話である。老境に入りつつある殺し屋アッシャーは、仕事の流儀のみならず日々の生活においてもストイックで洗練されたスタイルを好みつつ、殺し屋という職能と人生の翳りがクロスする時期を迎えおのれと向き合うことを余儀なくされるというその設定からすれば『ラスト・ターゲット』のような実存の苦味ばしったトーンに覆われてしまってもおかしくないのだけれど、なにしろここでアッシャーを演じるのがジョージ・クルーニーではなく、リー・マーヴィン・コネクション(トム・ウェイツ、ジム・ジャームッシュ、ジョン・ルーリー)の用心棒のような風体の、大型犬の人懐こさと所在のなさを持て余す歩く違和感たるロン・パールマンなものだから、前述したような鈍色の艶を持つセリフが抑制の効いたミニマルなショットの中でその口から吐き出される時のペーソスが親密なオフビートを自動生成するようにも思え、さすがにジョージ・クルーニーとまではいかなくても、相手役がファムケ・ヤンセンということなら仮にリーアム・ニーソンをそこにあてはめてみた場合とりとめのないクリシェと感傷に流れてしまうところが、ロン・パールマンがそこにいるだけでパースとビートが変調する仕掛けとなっているわけで、それもこれも、ロン・パールマンと言う俳優のパブリックイメージでアテ書きをしない造型と演出の徹底によっているのは明らかで、とはいえこれがプロデューサーに名を連ねるロン・パールマンが10年以上あたためてきた企画であったことを知ってみれば、本人は単にド直球の二の線でタイトルロールを演じてみたかったに過ぎずこのテイストは狙った着地ではないと考えるのが自然で、となればそこに名バイプレイヤーの業や屈託を見てしまった気もしたのであった。実はアッシャーを覆う落日のメランコリーに誰よりも共振したのが監督のマイケル・ケイトン=ジョーンズにも思え、手広い商いができなくなった分だけ職能の純度と輝度をコンパクトかつ高密度に仕立てた手さばきはまったく悪くない。おそらくロン・パールマンだけはそう思っていなかった泣き笑いのノワールに最後の最後で捉まるラストカットで星が1つ増える。
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2020年04月13日

ロスト・マネー 偽りの報酬/私はあなたたちの妻ではない

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これまでずっと男たちが、益体もない夢を見るロマンのうわ言やたわ言として繰り返してきた強盗という行為が、ここでは彼女たちそれぞれが一人の人間として独立と自尊心を手に入れるための手続きへとその質量を加速度的に変えていく。妻という立場に隷属することでずっと自らをスポイルしてきたこと、そしてそれを常に働きかけてくる世界に生きていること、彼女たちはアウトサイダーとして放り出されることで次第にそのくびきから解き放たれ、自分の足で立って歩き必要なら引き金を引かねばならない日々のスピードに、目つきを絞り拳を握ることで自分を乗りこなし急カーヴに突っ込んでいく時の身震いが、それぞれの殻を静かにひび割っていく。そうやってピカレスクをある種のビルドゥングスロマンに染めていく語り口は特にアリス・ガナー(エリザベス・デビッキ)の場合において鈍色に輝き、夫フロレック(ジョン・バーンサル)が設えたDVと共依存の鳥かごに生きる小鳥でしかなかった彼女が、そこから飛び出た自由に困惑しつつ次第に自意識とプライドが羽ばたき始めるその姿には、彼女がこの物語の実質的な主人公であったといってもよい血の逆流が透けてみえたように思うのである。リーダーとしての強面を演じるしかないヴェロニカ・ローリングス(ヴィオラ・デイヴィス)が心折れた瞬間、その生き方や教養においてそれまで自分を見下していた彼女を、わたしたちは共にこの社会に生きる女だからあなたの涙がわかるのだと優しく抱きしめるアリスの切羽詰まった覚醒にいっそう胸を打たれてしまうし、そうやって彼女たちが光を求めて反転していく決断と行動が、社会に潜む分断を引きずり出してはそれをそっと繋げたり完膚なきまでに断ち切ったりしていくわけで、このあたりの群像劇としての鮮やかな立体化と、最後まで独善に陥ることをしない弱者のひりつくような内爆は、それぞれスティーヴ・マックイーンの渇いたモダンなブルースとギリアン・フリンがしのばせる血の味の巧妙なブレンドがそれを可能にしていて、特にスティーヴ・マックイーンにおいて今作が最高傑作となったことは間違いないように思う。血だろうが涙だろうが、それが私を縛る鎖ならすべて流れ出してしまえばいいのだと歯を食いしばるヴィオラ・デイヴィス、ミシェル・ロドリゲス、エリザベス・デビッキ、シンシア・エリヴォの4人に圧倒されつつ、クズを演じるリーアム・ニーソンの半開きになった口元が卑しくてとてもうなずける。『オーシャンズ8』には視えなかった世界、もし視えていたとしても手の届くはずのない世界がすべてここにあったことを思えば、劇場公開を中止した20世紀フォックス(当時)の正気を疑うとしか言いようがない。
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2020年04月06日

囚われた国家/いつかどこかの誰かのために

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※展開に触れていますが、侵略SFものというヴィジュアルイメージの向こうにあるのは、監督が参照を公言した『影の軍隊』『アルジェの戦い』の系譜に連なる自由をめぐる闘いのヴィジョンであって、その2作の名前を上げたのが決してハッタリではないことだけは記しておくので、いろいろと困難な状況ではあるけれどチャンスのある人には是非にと薦めておきたい。

平和と団結、そして調和。為政者が掲げるこの言葉の甘美な響きがどれだけの自由と尊厳を搾取してきたことか。それらの示すところはあくまで目的への手段でしかないにも関わらず、真の目的であるはずの人間の自由と尊厳の獲得が全体主義の達成のため為政者に利用され打ち棄てられるディストピアが、目の前のスクリーンからこちらの世界線へと侵食してくる時の被虐めいた共感の昂ぶりに抑え込まれて気がつけば身動きがとれなくなっていく。狂信も狂熱もない昏い目つきをしたレジスタンスが押し黙ったまますべての感情を行動へと変えていくその姿を神経症的にストイックなカットで立体化していくそのヴィジョンには、いつしか切れば血が噴き出るほどのロマンが宿り始め、それは人間性の復権を賭けた、ここではないどこかへの夢想ではない、この先にあるはずの自由と尊厳の場所へ向かう礎となる覚悟と歓びであっただろうことが、ラストカットのウィリアム・マリガン(ジョン・グッドマン)のマスクに覆われた瞳の中に瞬きはしなかっただろうか。ジェーン・ドウ(ヴェラ・ファーミガ)の部屋に掛かった絵を見逃しさえしなければ、この物語にしのばされた片道切符の疼くような手触りに想いを寄せることで、支配する者と服従する者の爛れた共生にあってその埒外を死者として歩む生者のメランコリーが発火する焔に心奪われる愉悦も許されるように思ったのである。「マッチをすり、闘争に点火しろ」というスローガンが示すとおり鏡像としてのレジスタンスとテロリストという構造を借りつつ、ルパート・ワイアットはその闘争をテロリストの暴力ではなくレジスタンスの意志として描いていて、それまでの感情を徹底的に殺して抑制したトーンから、全体主義が蹂躙して亡きものとした自由への感傷が決壊する終盤のたたみ掛けは、為政者についた者たちとの分断はすでに埋めることが不可能だという認識を否定していない点で内戦の予感すらをうかがわせ、スマートフォンとアナログモデム、廃棄された巨大ロボットとCRTディスプレイといった過去と未来の混在する世界はSF映画というジャンルを借りた告発と警告の目くらましとなって、まるでこの映画自体が「フェニックス」の符号にようにも思えたし、その「未来」に向けてアクセルを踏みこんだルパート・ワイアットは、ブレーキを踏みたければそれはもう自分たちで作ってくれという確信を隠しもしていないのである。支配と服従のシステムが負の永久運動のように機能すればするほど服従者は自律した番犬と化すというそれが、人間の普遍的に持ちうる資質なのかもしれないことはあたりを見回せばうなずくばかりで、気がつけばこんな遠くまで来てしまっているワタシたちは、いつからかとっくに彼方へとアクセルを踏みこんでしまっていたのだろうか。『裏切りのサーカス』が東欧ディストピアで繰り広げた、銃もカーチェイスも爆破もまったく必要としない“所作”による攻防がたびたび頭をよぎるくらい神経戦のスリラーを堪能しつつ、そこには蛇蠍の如く嫌われないジェームズ・ランソンに沁み入るという望外の愉しみまでも可能なこの傑作を、不要不急な生を生き延びる人のために。もしいまもフィリップ・シーモア・ホフマンがいたならば、監督は彼をマリガンに据えただろうか。
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2020年04月03日

デッド・ドント・ダイ/死者には何もやるな

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スクリーンに、ビル・マーレイ、アダム・ドライヴァー、ティルダ・スウィントン、クロエ・セヴィニー、スティーヴ・ブシェミ、エスター・バリント、イギー・ポップ、サラ、ドライヴァー、RZA、トム・ウェイツといった名前が浮かんでいくオープニング・クレジットを観ているだけで、そういう言葉があるのかどうかは知らないけれど、Personal Correctnessとでもいう、これがワタシにとっての正しいもの、善いもの、間違いのないもの、迷ったらここに帰ってくればいいのだという感覚でなんだか胸がいっぱいになってしまう。それから先は、あくまでも自虐のシニカル、ミニマルで涼やかな諦念、優雅な引きつりと緩やかな軋轢を散りばめながら、それらを永遠の青春ともいえる清潔な屈託でつづれ織りにしていくわけで、その総称がワタシにとってのオフビートということになるんだろう。そのデビューからずっと、ジャームッシュに脈打っているのがビート・ジェネレーションのスピリッツであること、そのbeatとは当時のアフロ・アメリカンがbeaten down(=打ちのめされる)の意味で用いたスラングであったことなど思い起こしてみれば、beatをかわすという意味でのオフビートがより反逆の意匠として立ち上ってくるように思うわけで、ジャームッシュがほぼ40年に渡ってその闘いを続けてきたことに今さらながら勇気づけられて、ワタシにとって何ものにも代えがたいその一つの筋が先ほどのPersonal Correctnessということになるのだろうし、ジャームッシュの映画を観るということはその大切な感覚を自分の中に確かめる手続きであることをあらためて確認させられたのだ。それに加えて、まるでエヴァがあのまま健やかに年を重ねたようなエスター・バリントに心を絆されたせいなのか、セレーナ・ゴメスとオースティン・バトラー、ルカ・サバトたち3人の水平な佇まいがアップデートされた『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のトリオのようにも思えたし、通りを歩き始めたティルダ・スウィントンをカメラが横移動で追い始めた瞬間、思わずエヴァ!と胸の内で掛け声を飛ばしてみたりもしたわけで、こういう時だからなのか、そんな風に映画に甘えてみることの歓びが思った以上に身に沁みて、映画館の暗闇に身を沈めることが不要不急とされてしまう世界の不幸をいっときとは言えふりほどくことができたのは、実質的な主役といっていいゼルダ・ウィンストンという役名のティルダ・スウィントンのレポマン的無双が、追いすがるそれを気合いもろとも斬り捨てくれたからに違いないのだった。
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2020年03月30日

ナイチンゲール/わたしの鳥はうたえる

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※極めて真摯で誠実な映画ではあるけれど、女性や子供に対する苛烈な描写があるので注意は必要かと。

クレア(アイスリング・フランシオシ)にとどめを刺されるジャゴ(ハリー・グリーンウッド)が最期に絞り出した「お母さん」という一言が、子供を殺された母としてのクレアに、私はいまその「お母さん」の子供を殺して奪ったのだという事実を正確かく無慈悲に伝えることとなる。誰かを殺すということは、どこかの母親のその子供を殺すことに他ならないのだという成り立ちに復讐の引き金を引けなくなったクレアが、女たちと子供という存在の弱者を暴力の餌にすることで肥え太る男たちの象徴ホーキンス(サム・クラフリン)を銃もナイフも使うことなくむきだしの理性で告発するに至る道のりは、クレアのいる世界それ自体がビリー(バイカリ・ガナンバル)にとっては酷薄な暴力装置でしかないことを知っていく時間でもあり、その共感と理解から始まる物語こそがジェニファー・ケントの求めた答えだったのだろうし、そしてその代償もまた暴力で支払われるこの世界への怒りと哀しみを、絶望に陥ることなくどんな風な色や形にかえていくことができるのか、それこそがジェニファー・ケントにとっての映画を撮る動機に他ならないのだろう。クレアを襲う被虐の描写からは正視に耐えない瞬間を切り離せなかったりもするけれど、暴力の向こう側へ行くには暴力そのものをくぐっていくしかないのだという監督の歯を食いしばった決意が、その痛みや恐怖をも彼女の生として真摯に伝えていた点で、たとえば『ブリムストーン』の残酷ショウとは似て非なる時間であったことは言うまでもないし、復讐の快感がそれらを覆い隠してしまうことのないようクレアとビリーの道行きをホーキンスたちのそれと繊細かつ綿密に対照させていく中盤以降は、荒野の誘惑を光と影の両面から描くことで侵略者の罪と罰を浮かび上がらせて、その性と人種を断絶する支配の歴史と構造をクレアの眼差しに刻んだラストが、既に目撃者となったあなたたちは知らぬふりなどできないのだとを告げていたように思うのだ。そしてなにより、それらすべてを言葉の説明に頼ることなくすべての人物の相貌や眼差し、身体の角度や速度といった身のこなしで語っていく演出の雄弁が映像の芳醇を呼び出して、乳幼児が惨殺されアボリジニが吊るされる道行きでありながら、詩情とすら言えるひそやかな息づかいと静謐なゆらめきが終始途切れることがなかったのである。視なければわからないことを視ればわかるように成立させること、すなわちそれこそは映画の必然ということになるだろう。彼を育てたマチズモの鞭が裂いた傷から入った毒で、奥底まで腐ってしまった男を演じたサム・クラフリンが暗くて深い闇の底に触れていて、彼とアイスリング・フランシオシ、バイカリ・ガナンバルの三者が織りなす誘爆のアンサンブルを狂熱の目つきで下支えしている。
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2020年03月23日

テリー・ギリアムのドン・キホーテ/リドリー・スコットにならなかった男

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オリジナル版では17世紀にタイムスリップするはずのトビーをせいぜいが十数年前の記憶の中へ呑まれていくにとどめる改変に、コスチュームプレイをやりきる予算も自身の胆力も既にあてにならないがゆえ、そこで手を打つしかなかったのだという戦術的撤退が瞭然と透けてしまうし、トビーというよりは彼を演じるアダム・ドライヴァーの肉体とアクションの存在感を頼りに、シナリオにはトビー怒る、トビー困る、トビー笑う、トビーバイクに乗る、トビー歌う、トビー踊る、トビー走る、トビー殴る、としか書かれてないのではなかろうかと思ってしまうくらい、どんなカットにもギリアムの情報が記されてきた彼の作品にしてほとんどアダム・ドライヴァーの記憶しか残っていないことに、『バロン』を終わりの始まりとするテリー・ギリアムの緩慢な終焉の物語がついに幕を閉じた気もしてしまうのだ。もはや想像力で闘うことを鼓舞するよりは遁走をすすめるモードにあることは『ゼロの未来』でもうかがえたとはいえ、すべてはこの物語のための雌伏の時なのだろうと考えた時期もあっただけに、我々は昏睡に見る夢の中で生きて行くしかないのだとするラストが洒落や諧謔でない心情に映ってしまうのが、もう俺をあてにしてくれるなというギリアムからの訣別にも思えてしまったのはともかく、それを特に感慨もなく受け入れた自分とそれを意外に思わなかったこと自分に少しだけ驚いたりもしたのだ。本来がストーリーテラーというよりは幻視の人で、この物語の時代、しかもそれがポストを果てなく重ねて透け始めたモダニズムが実体化のために求めた側(がわ)の物語とあっては、ロマンチストたるギリアムが徒手空拳となるのは必至だし、それゆえの妄執にも似たドン・キホーテへのシンパシーを抱きつつもうどこにも先がないことを受け入れる負け戦のロマンを謳おうにも、哀しいかな肉が落ちて痩せぎすの映像は自虐のメランコリーにしか映らなかったのだ。これで憑き物が落ちたとして、ギリアムにとっては『ローズ・イン・タイドランド』がセルフパスティーシュに陥ることなく時代と折衷できる幻視のサイズだと思っているので、撤退するならそちら方面を目指してくれればとその幸福を願ってやまないのである。デ・パルマもそうだけれど、ロマンチストかつヴィジョニストにとっては受難の時代であることはまちがいないだけに。
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2020年03月20日

ジョン・F・ドノヴァンの死と生/ぼくの次に世界が幸せになりますように

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ラストシーンでの無邪気と言ってもいい憧憬にあふれたタンデムに、ドランがこれまでの作品でしたきたように自分を切り刻んで投影させることよりはフィクショナルな主人公の行動と感情によって翻訳された物語を綴ること、すなわち外の世界を借りることで内の世界の強度を高める汎用的な作家性の獲得を先駆者ガス・ヴァン・サントをモデルに果たそうとする視点を見たようにも思えたし、そう考えてみればこの映画の外と内、青と赤、冷静と熱狂の歪なバランスの理由が納得できるような気もしたのである。いつになくプロフェッショナルな記号をまとった役者を配置してその側(ガワ)によって虚構を均しつつ、しかしそれをコントロールしてしまう自分を自分で信用できないせいなのか、ところどころそれを自ら踏み荒らさずにはいられない自分に向けた意地の悪さが映画をあちこちで断ち切ってしまっていて、とりわけ、ジャーナリストであるオードリー・ニューハウス(タンディ・ニュートン)が成人したルパート・ターナー(ベン・シュネッツァー)にインタビューする現在パートの座りが最後まで落ち着かないままで、本来は政治がメインの“シリアス”なジャーナリストが、ハイプなショービズ絡みの仕事を見下して気乗りのしないまま彼に向き合うという設定が既にオードリーの不利を誘っていて、その瞭然を当然のように見抜いたルパートが、個人の尊厳が踏みにじられるという点であなたが取材してきた世界の格差と僕のこの話のいったい何が違うというんだとここぞとばかり責め立てるわけで、このあたりは、これまで極めてパーソナルな表象としてそうした差別と断絶を描いてきたドランの鬱屈をぶちまけていたように思えてしまうし、ジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)とルパートに立ちふさがるのが、ジョンの母グレース(スーザン・サランドン)や彼のマネージャー(キャシー・ベイツ)、ルパートの母サム(ナタリー・ポートマン)、そしてジャーナリストのオードリーといったみな女性たちであって、これまでずっと母殺しとしての母親との関係が作品の背骨となってきた定型に対する批評からの指摘に向けた回答なのか開き直りなのか、そのいささか偏った対立構造が、目指したはずの普遍化を妨げてしまっているようにも思えてならない。しかもこれに加えて、出演パートがすべてカットされたジェシカ・チャスティンまでが女性連合に加わっていたわけで、彼女の役がルパートやジョンのどちら側にどんな風に立つ人なのかはわからないけれど、どうせ破綻するのであればそのさらなる爆風に吹かれてみたかったと思ってしまう。すべてはオードリーを前に自分とジョンの過去を語るルパートの回想であることを思ってみると、果たして彼は信頼できる語り手なのかという疑念も湧いてくるわけで、このすべてはルパートがそうあって欲しいと願い再構築したジョン・F・ドノヴァンの死と生の物語だとすれば、女性たちのいささか一面的で図式的な描かれ方にもうなずける気がするし、ジョンをある種のイマジナリーフレンドとすることで自身の尊厳を維持し続けたルパートの旅立ちと訣別の物語だと考えてみると、外の世界に向けて走り出す幸福の予感だけに彩られた明快なラストに拍子抜けすることもないわけで、それはおそらく、自分には開かれたハッピーエンドを語ることが可能なのだろうかというドランの実験結果ということになるのだろうし、ならば必要なデータは充分採ったように思う。ほとんどセリフすらあたえられないジョンの仮初めの彼女はその傷を誰が癒やすのか。ドランがすべての人たちに血を通わせてしまう分だけ残酷は捨て置かれる。
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2020年03月15日

レ・ミゼラブル/大人たちを夜露死苦

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ワールドカップの優勝に歓喜する人々を、その感情の奔流に同調するでもなく見つめるカメラと、つかの間解放された肉体の群れを不穏に彩る音楽とで捉えたアヴァンタイトルが、あそこにいた幻想としての「フランス国民」と現実との分断を既に告げていたようにも思え、あの群衆に内在する暴力的な矛盾を抽出して純度を高め、それをたった一人の少年に射ちこむラストへの苛烈な円環を為すすべもなく茫然としかし目をそらさずに見つめることを要求する監督の、せめてこれを第一歩としない限り誰もどこへも行けないのだという祈りにも似た悲痛な願いだけが、この映画にほんのわずかながら残された救いの余地ということになるのだろうか。もはや分断のバランスそれ自体が機能不全という機能として存在していることの象徴が市長(スティーヴ・ティアンチュー)であって、彼にとっては分断を煽ることで生じる隙間こそがビジネスであり、ムスリムとしてコミュニティを精神的に束ねるサラー(アルマミ・カヌーテ)を敵視するのはその障害であるからだし、自嘲気味にピンクの豚を自称する白人警官クリス(アレクシス・マネンティ)は白人vs非白人の構図に骨の髄まで倦んでしまっている一方、彼のラインに乗って分断を泳いでいくしか警官として生き延びる術がないことへの諦めと抵抗とで実は溺れる寸前でもあるグワダ(ジェブリル・ゾンガ)の、それゆえの曖昧と不安定が分断のバランスを破壊してしまう点においてこの状況の地獄のような救いがたさがいっそう浮かび上がってくることとなる。分断を悪しきことと断罪し善性の光で照らそうと砕身するステファン(ダミアン・ボナール)の、倫理と常識が打ちのめされ怒り悲しむ姿にぬぐえない無力感は彼がワタシたち観客の視点としてそこにいるからであって、ロマのサーカス団長がイッサ(イッサ・ペリカ)を彼なりの愛情をこめて手荒くしつけるシーンで、余裕なく縮み上がり拳銃を抜いたステファンへの嘲笑に感じる居心地のわるさは、それがロマの知る境界の向こうを何も知らない能天気な“善い人”に向けられたもの、すなわち彼を通してワタシたちに向けられていたからこその気恥ずかしさであったようにも思うのだ。ならばあのラストで、さあお前はいったいどうするつもりだと決断を突きつけられるのが市長でもクリスでもグワダでもないステファンであった点で監督がワタシたちを逃がすつもりなど一切なかったのは言うまでもないし、年端もいかない子供に自分たちが今までしくじってきたすべてのツケを回し、なおかつ悪魔的で残酷な精算を迫る大人たちに対してすべての子供たちから下された鉄鎚を避けるすべなどあろうはずもなかったのだ。子供のノンシャランで日々をやり過ごしていただけのバズ(アル=ハッサン・リー)が、大切なドローンを失ったことで淡い恋までも失ったことを知る青い寂寥をたたえたシーンは、分断の場所に生まれたというそれだけで否応なしに政治的な存在になってしまう子供たちの呪いをたったワンカットで語ってみせて、エピローグで引用される「レ・ミゼラブル」の一節とともに、すべての人種も政治も宗教も超えてこの世界のすべての恐怖と悪意と憎悪から守られるべき弱者が誰なのか、殴ってでもわからせるつもりで監督はこの映画を撮っている。
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2020年03月12日

スケアリーストーリーズ 怖い本/書かずに死ねるか!

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アンドレ・ウーヴレダルという監督の、怪異はあくまで手段であって目的ではないというトータルのバランスを見通す視点の深度と強度があればこそ、ジュヴナイル・ホラーだからといって、オカルトで道に迷わせホラーで閉じ込めてテラーで破壊するその手順に手心を加えるはずもなく、永遠にイノセンスを失うことをアメリカが受け入れた1968年という年のハロウィンに、ステラ(ゾーイ・マーガレット・コレッティ)という少女のイノセンスの喪失と自立とをそこに重ねることで、通過儀礼の物語を未知への恐怖と痛みとで彩ってみせたのである。暗い時代への予兆を彼方にしつつ、夜を超えた自身への確信を胸に旅立つラストはどこかしら『アメリカン・グラフィティ』の刹那的なオプティミズムに通じる香りすら漂わせた気もして、懐古趣味を裏返して普遍に封じるあたりはギレルモ・デル・トロの気配も見て取れるし、そこまでを嗅ぎ取りつつ正統なジャンル・ムーヴィーに幻視する地肩の強さをウーヴレダルに見てとったデル・トロの慧眼はさすがとしか言いようがない。ウーヴレダルが備える正解の一つは遅さの認識だろう。それはナイフで切り刻むのではない鉈で断つ恐怖の追求といってもよく、なにしろ彼の映画ではメタファーではない恐怖がきちんと視えるというかそれを視せることで物語が疼くように変調をきたすわけで、それは恐怖を精確にヴィジョンし目眩ましのカットやスピードを必要としないからこそ可能なスペクタクルであって、今作のようなジュヴナイルでは特にその歩幅が十全に奏功したように思うのである。こけつまろびつしながら立ちはだかるかかしのハロルドの圧力や足指なしが廊下の奥から角を曲がってゆらり現れる時の溜めは言うまでもなく、今作のモンスターではいささか性急な気配のあるジャグリーマンについては、屋外に飛び出してラモン(マイケル・ガーザ)を追撃する瞬間、いったん引きのカットにしてシークエンスをなだめているし、その巨体ゆえ遅々としか動けぬ青白い女がチャックを追い詰めるシーンでは、軽快と言ってもいいカットバックを多用することでモンスターの圧力を絶望に変える新機軸を見せさえするわけで、まだこんなアイディアが残っていたのかと舌を巻きつつ、たいていの嫌な目には免疫があるはずが、こういう目に遭うのはちょっと嫌だなあと思いがけずワクワクした気分で没入(=ジャック・イン ©黒丸尚)したのだった。アンドレ・ウーヴレダルとマイク・フラナガンがいれば界隈の未来は明るいにちがいない。
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2020年03月10日

ドミノ 復讐の咆哮/世界は泣き別れている

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窃視の角度に据えられたカメラによって生贄がクリスチャン(ニコライ・コスター=ワルドー)であることが宣言され、サイドテーブルに置き忘れられた拳銃をカメラがズームすることで益体のないゲームがそっとスタートする。彼が追いつくか逃げ切るか、生贄となった彼にとってはその存在を賭けたゲームに他ならないにしろ、主催者にとってはいつもの暇つぶしでしかないわけで、ここはひとつ趣向を変えて君たちにも分りやすいドミノ効果を用いることで、ある一つの世界線を見せてあげようではないかと主催者は手ぐすねを引きつつ上昇と落下を螺旋にまぶし、分割した時間を得意げに敷き詰めては世界の成り立ちをその断面で二次元化していくのである。それが偶然か必然かなど無い知恵絞った頭のカスを片付けてから言いたまえ、時間を逆回ししてみればすべては一連なりであることが瞭然ではないかとうそぶく光と時間の支配者にしてゲームの主催者デ・パルマにあらかじめ選択肢を奪われた男クリスチャンは、世界にかしずく小市民の常として偽装された自由意志を燃やしては知らず誘導路をひた走り、ただただあの屋上を目指すのである。そうやって彼が成し遂げたことと言えば、ひとつの思惑を葬るかわりに新たな思惑の誕生を祝福することでしかなく、それをニヒルなどというのは君たち特有の感傷であって、世界は絶えずアップデートされていることになぜ気が付かないのだと、既にしてデ・パルマはその結末に興味を失っているのだ。いくつもの交錯する視点が身悶えするようにより合わされることで形をなす世界の変形と奇形をあげつらったところで、モルワイデ図法とメルカトル図法のどちらもが地球を投影していることに違いはなかろうよと意に介さない地図製作者の業こそが、デ・パルマを巨匠サロンから蹴り出したのは言うまでもないことは、テロリズムという縮尺で投影したこの世界地図の恍惚と酩酊とを見れば瞭然だろう。あれほど呆れ果てて立ち尽くすガイ・ピアースをワタシは見たことがない。
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2020年03月08日

初恋/みんな〜殺ってるか !

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開始早々のゴロリに放蕩息子の帰還を喜ぶというよりは、今さらこういう露悪をカムバックの証だと考えているのなら、少し肩透かしくらうかもなと思ったのも束の間、その直後、加瀬を演じる染谷将太の拗ねた天使のような顔つきを見たことで、ああこの役者がこのラインで進むつもりでいる映画なら望みのものに違いないと合点し、三池映画なればこそあふれだす度外視の時間を、懐かしさのその分を手練れの円熟としてその帰還を歓迎した次第となった。とはいえ、これくらい条件さえ整えばいつでも撮れるから単純に状況の問題だし、それを帰還とか言って俺があえて遠ざかってみたいにされるのは心外だけどな、とでもいう余裕と笑っていない目つきのないまぜを感じたのも確かなところで、むしろその不在に首をかしげるべきではあるのだろう。これ、やっちゃっていいんですね、という俳優の共犯性を匂わせることによる解放区の演出という、そうそう誰にでもゆるされない方法をなぞっては玉砕してきた死屍累々を散々目にしてきたとはいえ、この映画がその復権を謳い上げたというよりはどこかしら感傷めいた口ぶりを隠していないのは三池崇史の冷静な現状認識であった気もして、葛城レオ(窪田正孝)とモニカ/桜井ユリ(小西桜子)という若き逃亡者を助けるのが、権藤(内野聖陽)とチアチー(藤岡麻美)という実質的なアウトサイダーたちだけに宿る仁義という失われた矜持であったことに、撤退戦を生きるしかない世界の哀しみと閉塞を二重に捉えたように思ったし、だからこそラストシーンに差す仄かな幸福の明かりをハッピーエンドとする精一杯に誠実すらを感じたりもしたのである。かつてであれば、全面展開したであろう2度ほどあった頭部破壊はショットの影に隠れ、排泄とわいせつの露悪も狂乱の息づかいのうち!という悪ノリや悪ふざけも前述した映画のトーンを維持するために鳴りを潜め、かつてまみれた悪食の愉悦という点では退行に映るかもしれないけれど、たとえば自身のイメージで許されるイージーさを逆手にとった、例えば通りすがりの酔っ払った看護師に状況説明させてしまうでたらめによるオフビートの出し入れは巧妙だし、「おれの部屋に来るか」とレオがユリに言った直後にベッドシーンを想像させるシルエットのカットをインサートしつつ、実はそれがクスリを抜くユリの悶絶であったという意地の悪さなど、そんな風に真顔で嘘をついて舌を出すたちの悪さこそが、ワタシの思う三池崇史の嫡子たち、例えば白石和彌が手にしていない一点であるようにも思えるのだけれど、ここで三池崇史が久しぶりに見せた気兼ねのなさがクレジットに名を連ねるジェレミー・トーマスの豪腕のいくばくかによっているのだとしたら、では誰が未来のジェレミー・トーマス足り得るのかという別の行き先も示されてしまうわけで、それはそれで遠くを眺めねばならない気もしてしまうのだった。
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2020年03月04日

1917 命をかけた伝令/この血がきみにつかないように

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あるいはこうした僕の考え方も、すべてある憂鬱と狼狽にすぎないかもしれない。もしふたたびあのポプラの樹の下に佇み、あの葉のそよぎに耳を澄ますときは、ほこりのように飛んでいってしまうものかもしれない。” レマルクの「西部戦線異状なし」でパウルが戦場の漂泊の末にたどり着いた透明な虚無に思いを至らせるこのパラグラフを、映画のラストはそっと引用したようにも思ったのだ。ただ、ウィリアム・スコフィールド(ジョージ・マッケイ)にとって、この日の戦いはドイツ軍を相手にしたというよりはパウルが喰われた虚無との戦いであったに違いなく、大戦最大の激戦となったソンムの戦いを生き延びて勲功のメダルを与えられたスコフィールドが戦場で失ったものは、おそらく人間の尊厳でありそこから湧き出す光の感情であったのだろう。メダルなんか持ち帰りたくなかったからフランス兵が持っていたワインと交換してしまったよと吐き捨てるスコフィールドが最後まであの写真を取り出すことをしなかったのは、汚れてしまった自身の手でそれに触れることができなかったからであるようにも思えたし、彼が心の底から自身を賭けて走り出したのは、トム・ブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)がスコフィールドの手放した光を見る人であったがゆえ生命を落とした、その瞬間からであったのは言うまでもないだろう。したがって、ディーキンスのカメラがウォームアップを終えて解き放たれたステップを踏み始めるのはトムの死以降となるわけで、カメラはまるでトムの意志が乗り移ったかのようにスコフィールドを追走し回り込んでは彼を鼓舞し続けるのである。伝令の役目を果たしたスコフィールドが、トムの兄ジョセフを探し出して遺品を渡し握手した瞬間カメラはそっとジョセフの隣へと歩を進め、そこに至ることでトムは、家族の写真をその手にすることを自らに許したように思うのだ。ここには血で血を洗う戦場の凄惨はないけれど、戦争の虚無に喰われかけた男が浄化を果たし再び心に明かりを灯すに際し3つの生命を奪うことを求められそれに応えざるを得なかった背反こそが戦争という矛盾そのものであるわけで、カメラの解放というよりはさらなる抑圧でしかない長回しの呪縛こそがその苦々しさそのものであったのだろうと考える。やむをえないとは言え、ワンカットの技巧をことさら喧伝することが必要な映画ではないと思う。
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2020年03月01日

ミッドサマー/夜がこんなに暗いはずがない

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私が求めているのは共感ではなく理解なのだと、上滑りする世界との軋轢にすり減っていくダニー(フローレンス・ピュー)の生き地獄に、むしろ出発前のアメリカパートで口の中が乾ききってしまう。鏡越しの会話に明らかなようにダニーとクリスチャン(ジャック・レイナー)の関係はもはや破綻しているにも関わらず、別れを切り出した方が悪人になるというチキンレースが互いのささくれを増やしていくばかりで、のどに刺さった小骨をひとつピンセットで取り除いては別のところへまた一つそっと突き刺していくものだから、痛みは常に更新されて生々しいままでしかない。この共感と理解の殴り合いというのはSNSが明るみに出した虚しく苦しい闘いであるのは言うまでもなく、理解を譲らないことでクリスチャンの側からは徹底して面倒くさいやつとして描かれるダニーに、しかし被害者的な色合いを一切用いることをしないアリ・アスターの透徹した虚無が既に怖ろしい。そうなってくるともはや善か悪か正しいか正しくないかといった断罪よりは、どちらがどちらを潰すかという殲滅戦でしかないわけで、共感の野郎どもの只中に一人乗り込んだダニーが圧力に耐えきれず崩れ落ちたバスルームから飛行機のトイレへと転換した瞬間の先は、お前が私たちだけの共感に身を委ねさえすればあいつらを屠ってやってもいいが?という大いなる誘惑との駆け引きと葛藤の神経戦にも思えたわけで、ひとたび感情を爆発させるやいなや、無印良品のごとき彼や彼女が押し寄せて共に泣き叫んでは感情を無効化してしまう共感の総攻撃こそは今この世の中のグロテスクな病巣そのものにも見えたのだ。この界隈の作品をある程度見て知っていれば、ホルガ・パートの展開や描写それ自体にさほど殺られることもないように思うのだけれど、それよりは、理解不能な世界にそれでも立ち向かっては傷を負い続けるダニーを懐柔し虜にしていく光と笑顔に内在する、たとえどこまで降りていったとしても永遠に分かりあうことのないだろう光を喰らう漆黒の存在を、それを否定する理由があるならぼくに言ってみてくれないかとうっすら笑みを浮かべながら問いかけるアリ・アスターという人が、ベルイマンやハネケが常に見据えて超えることをしない、むしろ超えないための緊張を作品の強度とした一線の先にあらかじめ居る人なのではなかろうかという気もしてきたのである。もちろんそれは先進とかそういった意味ではなくあらかじめその領域に在る人であったということで、そことこちらとの行き来による振幅をあてにしない点で極めて特異な作家であるのは間違いのないところだろう。したがって、こちらの世界で全面展開するあちらを描いた前作『ヘレディタリー』および今作の出発前パートから、あちらの世界で展開するあちらへの全面移行を果たしたホルガ・パートはアリ・アスターにとってチャレンジだったのは言うまでもないのだけれど、それゆえの奇妙な調和がもたらす破綻のなさが、たとえば街中で時おり見かける、自転車を手放し運転する人の真顔のイージーに収束していた点である種の飽和点に至ったように思えたりもした。アリ・アスターは『回路』を観ていつかあれをこの手でと決めていたのだろうか。しかしそれよりは、うっすらと赤みさすジュースの恥じらうような禍々しさよ。
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2020年02月21日

屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ/影が光りを喰うところ

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これがブコウスキーであったなら「粗にして野だが卑にあらず」とでもいう屈託に沈む日の黄昏をメランコリーに綴る物語にもなり得たところが、このフリッツ・ホンカ(ヨナス・ダスラー)という男というか生き物は、目盛りの粗い日々に野良犬のごとき卑屈にまみれつつ野生動物の直截な本能に衝き動かされた結果、アルコールとセックスだけが彼を人間社会につなぎ止めていたようにも思われて、殺人という行為が、ホンカにとっては何の意味もない社会と彼との間に生じる存在の誤差に過ぎない点で彼に快楽殺人者の美学も切実も備わるはずもなく、ならば死体などシュナップスの空き瓶や汚れた皿、吸い殻の溢れる灰皿と同じ日々の塵芥に過ぎないわけで、最初は真夜中に人目を忍んで捨てに行ってはみたものの、その手間に嫌気がさしたあげく自宅収納としてしまうあたりの脈絡を丁重に描くことで、監督はホンカに人格を植え付けることに成功している。思わず丁寧ではなく丁重と書いてしまったのは、映画の原題(”Der Goldnene Handschuh=The Golden Glove”)となっているバー「ゴールデン・グローブ」に集う客たちの「粗にして野かつ卑」な精神と生態を水平に活写する筆さばきの細やかさと温もりのある光の当て方こそが監督のヴィジョンであったように思うからで、それはホンカを見る人、ホンカに見られる人、ひいてはホンカに殺される人すべてが人格を備えた存在として描かれることにより、最終的に「ゴールデン・グローブ」へとたどり着いた彼や彼女たちの人生を肯定していたように思うのだ。何も注文しないなら店から出ていけと言われた文無しのお婆さんに、自分にしたところでさして余裕があるとも思えない女性が飲み物を注文してやるシーンの穏やかな交歓や、決して一線を越えることのない客同士の打ちつけるような甘噛みは、そこに自虐や被虐、自己憐憫の情動は一切ないし、ジャングルクルーズの気分でバーを訪れたブルジョアな若者への痛烈なしっぺ返しは、おれと同じ人生を歩んでなお酒を飲む金を持っていたらここへ来るがいいという矜持の現れにも思えて、ホンカも含め第二次世界大戦が産み落とした私生児としての彼や彼女たちを、ファティ・アキンはこれまで彼が見つめてたきたのと同じ視線と視点の角度で生かしたり殺したりしていくのである。それだけに、一度は酒を絶ちまっとうな仕事についたホンカが、酔って人生の屈託を吐露する職場の女性ヘルガ(カティア・シュトゥット)に促されてついには酒を口にしてしまい、再び転げ落ちるように瓦解していくペーソスの救いのなさは残酷ですらあるわけで、バラバラにした4人の女性を部屋のあちこちに隠したまま粛々と日々を営む殺人鬼に対してすらそう思わせる世界の引きずりおろし方こそは、世界に負けを背負わされた人間の見る光景を翻訳するこの監督の真骨頂といってもいいだろう。何より殺された彼女たちはみな、殺されるその時まで確かに生き続けていたのだ。この映画を観ていて最初に頭の中で繋がったのは、Anders Petersenの”Cafe Lehmitz” という写真集で、1967年に当時20歳だったスウェーデンの若者がハンブルグの場末でカメラを抱えて彷徨した夜ごとを安酒場“Cafe Lehmitz”を舞台に焼き付けたモノクロームの覚え書きは、この酒場の外では一体どう生きているのか想像も難い真夜中の人々に向けた透明で均質な視線に貫かれ、深夜の気高さを纏った人々をしてまるで鏡でも見るかのようにカメラのレンズを覗き込ませていて、それはまさにこの映画が持ち得た眼差しをそのものだったように思うのだ。トム・ウェイツのアルバム「RAIN DOGS」でカヴァーとして使われたのがこの写真集の中の1カットで、ワタシもそこから遡って虜になったのだけれど、突然昔懐かしい知己に出会った気がして少しだけ脈が早くなってしまったりもした。おいそれとは薦められない空気と描写の映画ではあるけれど、『女は二度決断する』を観て血が逆流した人なら覚悟ができていると思うので是非。


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2020年02月14日

ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密/キャピタル・アメリカ:ノー・タイム・トゥ・ライ

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※当然のごとく展開に触れています

マルタ・カブレラ(アナ・デ・アルマス)は家政婦というわけではないけれど、『マダムのおかしな晩餐会』『ROMA』そして『パラサイト』と続く、持つ者が持たざる者の価値を決定する社会への中指をさらなる持たざる者としての女性がつきつけるサスペンスを解とするミステリに、かつてあったものの失敗と退場だけでできあがっていた『最後のジェダイ』のことがふと頭をよぎりつつ、希望とは善くあることを望むことだと皮肉や絶望を封じ込んだ『ルーパー』にまで思いを馳せてみれば、ライアン・ジョンソンと言う人が常に変わらぬ気分で彼方の光を見つめていることをあらためて確信したのだった。誰がなぜどうして?というミステリをミステリたらしめる要素それ自体は刺身のツマだと言わんばかりに早々と投げ出され、慇懃無礼な紳士探偵ブノワ・ブラン(ダニエル・クレイグ)は、マルタの備えたある重要な2つのポイントを頼りに彼女を補助線とすることで、謎解きというよりはいわば人間性テストの仕掛け人としてスロンビー家の寄生虫をあぶり出していく。とはいえ下衆をおちょくることに生きがいを見出しているかのようなこの探偵が途中経過的な素ぶりを中盤以降見せなくなることもあり、おそらくはこれをマルタの闘争とするためのさじ加減ではあるのだろうけれど、では伏線も使い果たした一本道のその裏でいったい何が進行しているのか、そもそもこの物語はどこへ向かおうとしているのか、その目隠しされたような曖昧がサスペンスを持続させるという摩訶不思議なミステリが展開されるわけで、本人いうところの“ドーナツの穴”に徹するこの探偵のややこしいチャームがあればこそ、まるで隣のレーンのピンを全部なぎ倒すような逸脱したミステリをアクロバットのように着地させた気がしたし、そのある種のでたらめさは原作脚色ものでは不可能な味わいと言ってもいいだろう。その最たるものと言っていい、嘘をつくとゲロを吐いてしまうというマルタの特性を思いついた時点でライアン・ジョンソンは小さくガッツポーズをしたのだろうし、おかげでマルタは4回にわたりゲロを吐くことになるどころか、目の前でいきなり植木鉢に吐くマルタを見て「文字通り吐くとは思わなかった…」と感嘆するブランの図から始まり、ついにはとどめのゲロをぶっ放すことで見事に円環を閉じる離れ業に、アカデミーはよくぞこの脚本をノミネートしたものだと、その闊達が『パラサイト』への底抜けの祝福を誘った気もしたのであった。それにしても、誰も殴らず銃も撃たず車すら運転しないアメリカの探偵となるとそうそう記憶になく、ホームズはともかくポアロまでがマッシヴなヒーロー化することで隠さないフランチャイズへの貪欲をせせら笑うようなこの探偵はそんな昨今にあっては新たな発明といってもいいのだろうなと思っていたところが、どうやらスタジオは探偵ブランの次作にGOを出したようなのだけれど、よくよく思い出してみればこの事態を解決に導いたのはマルタと彼女の善きゲロのおかげであったことに気づくわけで、ならばいっそのことマルタをワトソンにしてしまえばいいのではないか、彼女の能力を外部感応型に改良するくらいライアン・ジョンソンなら朝飯前だろうと煽ってみておくことにする。南部なまりでフレンチネームの探偵とプランテーションの地主のような屋敷、そしてスワンピーなストーンズとくれば、ラストシーンの逆転の構図がさらに味わいも増すわけで、そうやってアメリカを解放していくのだろう探偵ブランのさらなる活躍を楽しみに待ってみたい。
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2020年02月05日

リチャード・ジュエル/ドーナツの穴があったら入りたい

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リチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)が犯人でないことなど観客であるワタシたちは百も承知であるにも関わらず、監督はワタシたちが彼に対して苛立ちや侮蔑の気持ちを抱くよう、まさにその一点のために微に入り細を穿つ手管を駆使して止まないのである。もちろんそれは、キャシー・スクラッグス(オリヴィア・ワイルド)による記事が喚起し醸成していくリチャードへの悪意を観客までも巻き込んで再現していく試みであるのは言うまでもないのだけれど、ここ最近のイーストウッド作品の、主役以外はみんな書き割りで済ませてしまう憑き物の落ちたような執着のなさもあって、いきおいリチャードの情動のみがこちらを直射し続けることとなり、してみるとそれはもはやメディア論であるとか衆愚の時代であるとかいった告発の筆というよりも、社会に追い詰められた人はそれが偽物/偽者だと心の奥底でわかっていても信じるふりを許してくれるものを信じてしまうのであって、その上っ面をもってそうした人々を蔑んだり理解を止めてしまうことの愚かしさを今さらながら説いているようにも思え、そんな風な映画を撮って大統領選を控えた年に公開することの意味を、それを知るべき人々は知るべきであるというイーストウッドのメッセージに思えたりもしたのだ。リチャードに訪れるエスタブリッシュと訣別することで独立した個人となる瞬間は、リバタリアンとしてのクリント・イーストウッドの揺るぎない信念にちがいなく、30〜40代の低学歴の白人という現在のアメリカで下層に追いやられる人たちのプロフィールを集約したようなリチャード・ジュエルが主役となる題材を選んだのも、その投影としてコントロールしやすいキャラクターだったからなのは間違いがないだろう。では、本来であればトランプの支持層となるはずのリチャード・ジュエルがリバタリアンとして覚醒したあとでどこに向かうのか、まずはアメリカの「リチャード・ジュエル」を正面から理解しようと務めることだと、めずらしくイーストウッドがお節介を焼いているようにも思えたのだった。書き割りとしての機能のみを要求された助演たちの中でオリヴィア・ワイルドは見事に役回りを全うしたものの、それが見事であればあるほど貧乏くじを引かされることとなり気の毒なほどである。一方でクライヴ・オーウェンの失敗したクローンのようなジョン・ハムはその木偶っぷりで役得。アメリカの無謬と誤謬を肥大した体内でシェイクし続けるポール・ウォルター・ハウザーについては、痩せたら負けという過酷なキャリアを道連れにしたネッド・ビーティ的な横断を末永く見守っていきたいと思わされた。でもこれが2010年代の事件だったらイーストウッドは本人をキャスティングした気がしないでもなく、果たして役者の振れ幅をあてにしているのかどうか、常に中央値を見つけて並べていった結果の完璧なメディアンという少々薄ら寒さすら感じる透徹した叙事はどこか彼方で流れる水のよう。
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2020年01月31日

パラサイト 半地下の家族/下を見たらきりがない

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ギウ(チェ・ウシク)がトム・リプリー的野心を独りくすぶらすピカレスクロマンではもうどこへもたどりつけない世の中なのか、という判断よりは、巧妙に水平化された世界にあってはもはや階級闘争など骨抜きにされ、革命のロマンや感傷はカリカチュアの対象にすらないことを『スノー・ピアサー』で愚痴ってしまった監督にしてみれば、金持ちは世界に、貧乏人は金持ちに寄生するそのシステム自体を共生と呼ぶ以外何があるのか、というこれまでで最も寄る辺のない結論を、それはもうにこりともしない真顔のまま導いていたように思うわけで、下降するらせんとして円環するラストでのギウのモノローグがどこかしら遺書のように聴こえたりもしたのである。実際のところ、キム家の面々が追い落として取って代わる相手は見上げたブルジョアジーの面々ではなく自分たちと同じ分け前に生きる人間たちだし、父ギテク(ソン・ガンホ)がパク社長(イ・ソンギュン)にふるう刃は、おそらくは立志伝中の人であろうパク社長が(ギテクの匂いを臭いとして嫌悪するその言葉「切干大根のにおい」「地下鉄のにおい」からして、かつてその臭いの中にあったことがうかがえる)、ギテクのみならずパク社長を地下深くから敬愛するグンセ(パク・ミョンフン)までもその臭いで全否定する品性の下劣さに対し、お前も金持ち連中に寄生してきた一人ではないかとする怒りであって、そこにあるのはもはや内ゲバの陰鬱な内圧でしかなく、おそらくはブルジョアの家庭に生まれ育ったパク社長の妻ヨンギョ(チョ・ヨジュン)の“金持ち喧嘩せず”的な健やかさを褒めたたえ、自分が追い出した前任の運転手の行く末すら案じるギテクにとってパク社長の言動は許しがたい背信以外の何ものでもなかったのだろう。一方で、そうした怒りを外部に向かって持ち得ないギウにとって、それは家族の窮状を招くことになった「計画」を持ち込んだ己に対する自罰として向かうしかなく、俺たちは「計画」を持つこと自体が分不相応なのだと撤退戦を選んで生きる父ギテクに対する反抗というよりは捧げものとしての「計画」に家族が喰われてく絶望が、ギウに山水景石を抱かせて殺人を「計画」させもしたのだろう。しかしまたしてもその「計画」が破綻することで殺戮が殺戮を呼び、しかも当のギウは死ぬことすらを叶えてもらえないという残酷こそはギウの世代と属性がはまりこんだ先の見えない地獄の象徴に他ならず、だからこそギウが夢想する「最終計画」の哀れと儚さと透明な狂気こそがポン・ジュノの怒りと絶望の上澄みに思えてならなかったのだ。そうした社会において、なお女性であることの理解されないあきらめと苛立ちとを、汚水の逆流するトイレをフタして座り込みタバコを吹かすギジョン(パク・ソダム)のニヒル一発で焼き付けたポン・ジュノの殴りつけるような幻視にもひりついて、異物との邂逅によって変容した自身が世界に踏みとどまるために差し出す贖罪、というポン・ジュノのメインラインを時々見失いすらした。いいのかこの映画をこんなにもてはやして。
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2020年01月27日

マザーレス・ブルックリン/バース・オブ・ザ・フール

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ローラ・ローズ(ググ・バサ=ロー)がライオネル・エスログ(エドワード・ノートン)の背中からそっとすべらせたその手でうなじを慈しむように撫でてみせては彼を母親の記憶に恍惚と染めていく、その伏線と回収の切羽づまったような生真面目さこそが1957年のニューヨークという鈍色のソリッドな時代に4ビートの赤い血を通わせていく。原作での“マザーレス・ブルックリン”はライオネル、トニー(ボビー・カナヴェイル)、ギルバート(イーサン・サプリー)、ダニー(ダラス・ロバーツ)の4人の孤児を総称した“おふくろのいないブルックリン”だったけれど、エドワード・ノートンはそれを、ロバート・モーゼスをモデルにしたであろうモーゼス・ランドルフ(アレック・ボールドウィン)ら権力者が弱者を蹂躙することで産み落とされる“私生児としてのブルックリン”へとさらに解題し、アメリカという国と人が抱える闇と業を普遍と捉える物語とすることでその複層の交わるところを発熱させては運命のメランコリーを疼かせてみせる。終盤にかけて拍車がかかっていくローラの反転に『チャイナタウン』のそれがよぎるだろうことを監督は隠しもしていないし、となれば目指したのはノワールのゼロ地点、せいぜいが振り出しに戻るだけの倦怠が麻痺させる昂揚であったのは言うまでもないだろう。しかし監督はラストのゼロ地点をほんの少しだけらせん状に立ち上らせていて、孤児としてあり続けたライオネルと今や孤児となったローラが互いに寄り添うことで“私生児としてのブルックリン”と新しい家族を築くであろうラストの予感は原作からの正気と希望に満ちたジャンプとなっていたし、原作では最後の一文となった「話は歩きながらしろ(Tell your story walking)」からこの映画が始まっていたことを考えると、エドワード・ノートンはこの物語を変奏した続篇として描いた気もしてくるわけで、ならばほとんど20年を要したそのアクロバットをワタシは完全に受け入れた上で、なお原作に抱くのと変わらぬ愛情でこの映画を胸にとどめようと思うのだ。そして、トランペット・マン(マイケル・K・ウィリアムズ)としかクレジットはされないものの、明らかに「カインド・オブ・ブルー」誕生前夜のマイルス・デイヴィスとしか思えないトランペッターとの忘れがたい邂逅や、ライオネルを救うために彼が台無しにしたトランペットがまるでディジー・ガレスピーの愛器のように映るあたりもまたエドワード・ノートンが内部に育てていた偏愛の表れに思えたし、この物語にどれだけ取り憑き、あるいは取り憑かれ、一転してそれを醒めた目で解いた後にいかにして自分の物語として語り始めたのか、そんな風に世界でたった一人彼だけがあきらめることなく過ぎていったいくつもの夜があったのだろうことを想うとなおさらこの映画が愛おしくなってしまうのだ。ライオネルが叫ぶいくつもの”IF!”は、エドワード・ノートンがこの映画と共にあった日々に浮かんでは消えていった数え切れない可能性への鎮魂のように響いて仕方がなかった。立てたピーコートの襟がニューヨークの屹立を透かすように睨みつけている。
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