2018年11月22日

ア・ゴースト・ストーリー/俺が昔、幽霊だったころ

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『セインツ−約束の果て−』も薄く透けそうな影を彼岸に揺らす人たちの物語であったなあと、孤独や孤絶を不可侵の魂が放つ光ととらえるデヴィッド・ロウリーによるあらためてのマニフェストにも思えたのだ。愛であれ恐怖であれ、死者に思いを託すために生者が生み出した幽霊という、生命のくびき、言い換えれば時間の流れから放り出された存在が背負うのが喪失と孤独であったとするならば、幽霊たちの魂もまた光を放つのではないか、とその光に監督は想いを馳せたのだろう。そんな風にしてC(ケイシー・アフレック)の彷徨に連れられたワタシたちが見るのは、そこにあるのに誰も識ることのない時間の記憶であり、それは劇中においてLegacyという言葉で語られた継承される人間の営為とも言え、開拓時代の女の子が口ずさんだメロディや彼女が石の下にそっと隠したメモが時間を超えてCやM(ルーニー・マーラ)を串刺ししていたのは言うまでもないし、神も仏もいないいつかは消え去る運命にあるこの世界でなお営為を重ねずにはいられないのが我々人間なのだと滔々とまくしたてるウィル・オールダム(=ボニー“プリンス”ビリー!)を邪魔することなく耳をかたむけたCが過去と未来の永劫に身を任せ、すべてを目撃しては身投げすらする姿は厳かで怖ろしく、そして底知れぬ哀しみを湛えていて“いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と片岡義男が明かしたその正体は、ワタシたちを成立させているすべての時間の記憶による抑えきれないさざめきなのかもしれないと思ったりもした。まるでスナップショットを額装したようなスタンダードサイズのフレームも、薄れていく記憶の断片を投影しているかのようでメランコリーをかき立ててやまない。数分の間Mがただひたすらパイを食べ続ける、食欲を満たすと言うよりは嗚咽が漏れ出すのを抑え込むかのようにパイをえぐっては力任せに喉へと押し込むロングテイクでは、フォークが皿をつつく音の催眠的な響きとリズムがMからすべての味覚を奪ったかのように錯覚させ、まったく味のしない食べものを延々と食べ続ける気味の悪さに、ついに彼女が嘔吐したときにはほとんど安堵すらしたのだった。なかなか出演作品が日本公開されないウィル・オールダム(=しつこいけどボニー“プリンス”ビリー!)の勇姿を堪能できたのも望外の喜び。ワンシーンだけなのに誰よりもセリフ多いし。
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2018年11月19日

ボーダーライン : ソルジャーズ・デイ/命が邪魔だ

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マット(ジョシュ・ブローリン)の足下にビーチサンダルではなくクロックスを見つけた時の、どこかしら埒内につかまった違和が最後までついて回ることになる。暴力はすべての初めから我々と共に在ったもので、理性はその気まぐれな反動としてもたらされたに過ぎない、とコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で書いた(意訳)、その理性が屠られる場所で解き放たれた聖なる重力の象徴であったビーチサンダルは、神を自認するアメリカが天上からばらまくクロックスに取って代わられ、重力を恩寵としていたマットとアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)は浮力を失い俗世の地面に激突して流血せざるを得なくなり、その引き金となるのが失われたアレハンドロの娘の亡霊ともいえるイサベル(イザベラ・モナー)であった時点で物語は無間地獄の様相すら呈し始め、それはまるで荒野から追われたケイトの呪いでもあるかのように2人を狙い撃ちして国境に追い込みをかけていく。どこかしらマジックリアリズムの夢うつつですらあった前作の暴力絵巻は、直截のスペクタクルで生死の際を粗雑に投げ出しては麻痺した痛みを取り戻そうと躍起ではあるけれど、重力の失われた場所でなおステップを踏み続けるマットとアレハンドロのメランコリーは、絶望の底を踏み抜いても新たな絶望があることを知る者が弾切れや手傷の深さで世界を測る時の倦怠でしかないことは、マットがイサベルを、アレハンドロがミゲル(イライジャ・ロドリゲス)を抱き込むことで闘争の未来を告げるラストに明らかで、題をとる現実に対して誠実であろうとすればここで物語が終われるはずなどないことをテイラー・シェリダンはアレハンドロのセリフに託したのだろうと考える。時として現実のスピードと力に打ち負かされてしまうのはフィクションの宿命とは言え、その両者が運良く並走した時のスリルとしては最良の時間がここにはあって、この映画が色褪せるとすればそれは世界の安寧が果たされた時ということになるわけで、当初より3部作で構想されるこのストーリーの次作でケイトがどのような重力をまとって復帰するのか、イサベルとミゲルの交錯がどのような世界の法則を叩きつけるのか、その時マットとアレハンドロは息をしているのか、現実が追い越すか映画が出し抜くか、できればヴィルヌーヴとディーキンスでその先を見届けたいと切望する。
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2018年11月16日

マンディ 地獄のロード・ウォリアー/魂の自由を信じる俺という人間のシンボル

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この世には2種類の映画しかない、ニコラス・ケイジが出ている映画とニコラス・ケイジが出ていない映画だ。そして目を閉じた時まぶたの裏側で炸裂し続ける光の明滅を、星座のように線で結んでニコラス・ケイジを見つけた瞬間、映画に”MANDY”という名が宿る。これはニコラス・ケイジが出ている映画だ。この世界に生きるたったひとつの理由だった女性を目の前でガソリンをかけて燃やされた男はどうすればいいのか、どうするしかないのか、右手を手錠でつながれ左手を五寸釘で床に打ちつけられた男はどうすればいいのか、どうするしかないのか、ハイパーなコカインのオーヴァードーズで自身の人間を焼き切って変質した鋲とレザーの生き物と闘うにはどんな武器を造ればいいのか、造るしかないのか、自分のチェーンソーの倍ほど長い刃のチェーンソーを持った相手とどう闘えばいいのか、どう闘うしかないのか、そいつを殺してもこの世界に生きるたったひとつの理由だった女性はもう帰ってこないと知りつつ、しかしその男を殺さずにはいられない時、そいつをどんな風に殺せばいいのか、どんな風に殺すしかないのか、今まで知りたくても知ることができなかったすべての答えがここにはあり、ニコラス・ケイジがそれを血まみれで教えてくれる。すべてを自己責任で生き抜くしかないこの世界で自己憐憫の呪いにとりつかれないためのフットワークとフィニッシュブロウがここにはある。そしてそれを鼓舞し祝福するのが“友だちの兄貴のトランザムのバックシートでマリワナと革とイエローパインの芳香剤の匂いにビビリながらもスリルを感じてるガキの気分”が欲しいんだと監督がヨハン・ヨハンソンに告げたそのスコアであったなら、それをこの世のものとは思えないあの世以外の何と呼べばいいのだろうか。ワタシは惑星を2つとも当てた。
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2018年11月12日

ボヘミアン・ラプソディ/華麗なるトレース

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ワタシ自身はファンと言うよりは通り一遍のリスナーなのだけれど、ロンドンまでフレディのお墓参り(厳密にはお墓はない)に行くような人間がごく身近にいていろいろと聞かされる話を以前から耳学問にしていたこともあり、当初映画に関する企画を知った時は異邦人でありかつ横断したセクシュアリティをもつフレディ・マーキュリーというアーティストのポートレイトにどのような角度で陰影をつけるのかとても興味がわいたし、その後でフレディをシャ・バロン・コーエンが演じるというニュースを知った時は、誰が舵を取っているのかわからないけれどスリリングなプロジェクトになりそうだなあと少なからずワクワクもしたのだ。したがって、正確な経緯は不明ながらサシャの降板と彼の言い分など聞くにつけ、変更されたプロジェクトでは少なくともフレディの深淵を覗くような映画になることはないのだろうなと思ったし、その後で目に入るニュースのあれこれからは建前で均された公式バイオピック的な色合いが濃くなっていることがうかがえていたわけで、まあそういうことなんだろうなという予見を持って観てきたのである。といった具合にブライアン・メイにとっては好ましからざる観客であろうワタシからすると、クイーンとフレディ・マーキュリーのストーリーを刻むにあたって避けては通れない泥道でお気に入りの靴が汚れるのを嫌うあまりそこを飛び越えようとした跳躍の見事さに思わず見とれてしまったというのが正直なところで、嘘も方便というまさに映画の映画たる所以の馬鹿力もあり、人々の記憶の中に永遠にとどめてほしいクイーンとフレディ・マーキュリーの姿(だけ)を描くというブライアン・メイのギラギラした野心はキラキラと輝きながら見事達成されていたように思うのである。なにしろこの物語に関わる人々を誰一人悪しき者とは描くべからずというそのルールは、ポール・プレンターにすら「アイルランドのカソリックの家に生まれたゲイの悲劇」を言い訳として許していたことにもうかがえて、ならばとワタシは降伏するしかなかったのだ。そんな中、他の登場人物に比べ格段に似ていない俳優をあてがわれた上、まともなセリフすら与えられない盟友(のはずの)ロイ・トーマス・ベイカーの不憫に泣く。これ僕たちの映画だからキミの分の手柄はないよということね。
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2018年11月11日

負け犬の美学/誰がために傷は裂く

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始まって早々、試合に敗れたスティーヴ(マシュー・カソヴィッツ)が煙草を喫う姿を見て、今の彼はアスリートであることを止めてしまっているけれど、そのうち復活への小道具として煙草が使われることになるのだろうなと、基本的には一本道を行くことがほとんどなボクシング映画の紋切り型を思ってみたりもしたのである。確かにそれはその通りではあったのだけれど、それは予想された禁煙の真逆の姿で示されることになるどころか、ある大一番の場面で彼に煙草をくわえさせるのは彼の妻マリオン(オリヴィエ・メリラティ)ですらあるわけで、この映画が最終的に描くのはもはやアスリートではないブルーカラーとしてのボクサーが、かつて燃やしたアスリートの残り火を鎮火する儀式のラウンドであったといってもいいだろう。スティーヴがアスリートとしての自身にいつ見切りをつけたのかは描かれないけれど、スパーリングパートナーを務めるかつての王者タレク(ソレイマヌ・ムバイエ)に向かって言う「敗者あってのチャンプだろ」という言葉こそが彼のプライドとボクシングに対する愛情とを告げているのは言うまでもなく、その戦績からして売り出し中のルーキーの噛ませ犬を幾度となくつとめたであろうスティーヴの、ボクシングという世界の在り方を愛するがゆえ“持っていない者”が“持っている者“に我が身を差し出し続けるその姿は、“持っている(かもしれない)”娘にピアノを与えることは親である自分の義務に他ならないと奮闘する姿にも重なって見えもするし、それらすべてを理解した上でなおボクサーとしてのスティーヴを愛しサポートするマリオンもまた共に闘っていた人なのだろうと思うのだ。現役最後の試合のラストラウンドで、スティーヴがそれまで見せたことのないステップをたどたどしく刻んでは飛びこむようにパンチを繰り出すそのスタイルはまるでタレクのそれを真似たようにも見えるのだけれど、おそらくそれこそは彼が焦がれつつもあきらめたボクシングのスタイルだったのかもしれず、場末のボクサーである彼が元チャンプのタレクに向かって、自身のスタイルを貫くよう分不相応ともいえるアドバイスを止めないのもタレクのボクシングに憧憬と理想を見ていたからなのではなかろうか。そして、そうやって踊り始めたスティーヴを見た時のマリオンがみせる心の底から輝くような笑顔は、暗がりからリングのスティーヴを見つめるタレクが浮かべる仄かな笑みとつながって、人生と共にボクシングを愛し続けた者だけが知る祝福の言葉をスティーヴに贈ったように思えたのだ。美容師の仕事をして家計を支えながら2人の子供にきちんと向き合い、夫の生き様を卑屈の影なく愛しつつ肯定し、かといって都合の良い妻を演じるどころか共犯の香りを不敵にふりまくマリオンがこの映画の陰影にエッジを与えているわけで、試合で負った傷の手当てをする彼女の尻に手を回すスティーヴの手を邪魔よとはらったかと思えば、手当を終えた後でその手をまた自分の尻にあてがうその仕草でワタシはマリオンに恋をしたし、そんな彼女を虜にし続けるスティーヴに嫉妬もするのだ。傷みっぱなしのマシュー・カソヴィッツがいつしか晩年のジョー・ストラマーにも見えてきて、それゆえそのセンチメントがなおさら透明に自爆した気がしたのかもしれない。サミュエル・ジュイという名前を憶える。
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2018年11月09日

ハナレイ・ベイ/ずっとわたしを過ぎるもの

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大胆と言ってもいいラストの書き換えによって、サチ(吉田羊)が彷徨した喪失の日々にハッピーエンドと言ってもいい再生の光が差すこととなる。したがって、その手続きとしてのストーリーはサチがいかに涙を流すか、涙を流させるかという変転を描くことになり、どこへも往かぬ中空で揺れ続ける人生の静かな暴力性が支配した原作に、イギー・ポップやら何やら手を替え品を替えして道筋を与えることでその暴力をなだめた監督の脚色は、見事とかいうよりはそのためらいのない所業に感服したわけで、おそらく監督は村上春樹という名前にも作品にも過分な畏れを欠片ほども抱いていないのだろう。とはいえ端々で見受ける映画オリジナルのエモーショナルな継ぎ目以外は、村上春樹作品の彩りともいえる漂泊/漂白の白い空気をそれなりのグラデーションで掴まえているし、なかでも、原作では名前もないまま「ずんぐり」としか呼ばれない日本人に高橋という名前を与えては、精神の奥底が本能的に水平な村上作品のキャラクターとして映画的な立体を備えさせ、それを演じる村上虹郎の的確な解釈による好演も手伝って、ただでさえ狭いストライクゾーンのぎりぎり角をかすめるコースには投げ込んでみせたように思うのだ。基本的には密やかな幽霊譚である原作から真っ向の幽霊譚へと舵を切ったあのカットや、うつむき加減にそよぐカーテンが運ぶその黒沢清的予感を含め、ハワイの陽光の下にイデアとメタファーをもろともに晒したそれはクソ度胸なのか冷静な計算なのかはうかがいしれないにしろ、あらかじめ昏睡したような原作の目の覚まさせ方としては、頷けるところのあるやり口だったのではなかろうか。ただ、ある情動の状態を実体化させて補助線とするために脚色されたツールとしての手形は正直言ってあまりうまく機能していないと思うし、サチを決壊(=プライマル・スクリーム)させるトリガーとしては紋切り型が過ぎたというか座りが良すぎたように思ってしまう。たった一度だけサチが吉田羊の顔になっておそらくは手持ちであろうカメラを笑顔で見つめる、挑戦的なのか気晴らしなのかわからないカットがあったのだけれど、それが、その後陽光の中でしばし冥界を彷徨うことになるサチの「生前」最後の笑顔のつもりなのだとしたら、やはり想像以上に食えない映画であり監督であったということになり、解放されないハワイを閉じ込めた近藤龍人の鎮めるようなカメラがその共犯となる。
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2018年11月07日

ヴェノム/あなたの最悪なる隣人

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ヴィランをヴィジランテ化するとかいうどちらかと言えばDCがヤケクソでやりそうなアクロバットを、オスカー・ノミニーなトム・ハーディとミシェル・ウィリアムズを惜しげなく注ぎ込んで着地させようと画策する素っ頓狂が既に愉しいし、こういう脇の甘いでたらめがやけに好ましく思えたりもするのはファイギの全問正解にそろそろ不感症になってきたせいもあるのだろう。そのあたり、PG13版『デッドプール』を狙ったとするならば、あちらを青年誌とした場合の少年誌的なノリは意図的なものだろうし、描写の深みよりは展開のノリを選んだのはこの監督を選んだ時点で明白であり(書き割りのような『L.A. ギャング ストーリー』を思い出してみればいい)、それもあって寄生から共生へのターンがぼんやりしてしまった点など食い足りないのは明らかながら、MCUの間隙をぬう狙いはそれなりに的を射ていたように思うのである。『ブロンソン』あたりを思い出させるピーキーでフリーキーなトム・ハーディやミシェル・ウィリアムズのおきゃんなモードもその反映であったのだろうし、アン(ミシェル・ウィリアムズ)の今カレであるダン(リード・スコット)の手っ取り早いキャラクター造型などは逆に新鮮にすら映る。エディ(トム・ハーディ)の言うこと“だけ”には聞く耳を持つヴェノムという解釈を馴染ませるには、残虐なモードでのスタートとその描写が必要だったように思うのだけれど、レイティングとの兼ね合いでその牙が抜かれてしまったのは痛し痒しというところか。いずれにしろ「うしおととら」として舵を切ってしまった以上、『デッドプール』的な酷いアクションをボケとした一人漫才のノリツッコミはあてにできないことを考えれば、エディとヴェノムの掛け合い漫才によるリズムでアクションのスピードを煽っていくシナリオと演出の運動神経を磨かない限り失速するのは目に見えているわけで、ソニー・ピクチャーズがこの金の卵をどう孵化させるかお手並み拝見といったところか。ラストのあの人といい役者はすでに揃っている。
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2018年11月03日

怪怪怪怪物!/泣いても血しか流れない

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「バケモノにはバケモノをぶつけんだよ!」とでもいった人喰いの怪物姉妹vs悪ガキ高校生というホラーコメディの図式からノンブレーキでコースアウトしていくそのハンドルさばきと、その向かった先のあまりにもえげつない悪路に笑顔はぎこちなく消えていく。悪ガキというには悪ふざけの才能が犯罪的に過ぎる高校生グループに捕らえられた怪物の妹と、グループ内のいじめられっ子リン・シューウェイが出会うことで果てしなく抜け続ける悪意の底はいったいどこに終わりがあるのか、自分の身代わりになって凄惨な虐めを受け続ける怪物の正体を知ったリン・シューウェイは、束の間の解放を享受する自身の性根に対する嫌悪と怪物へのシンパシーとの間で引き裂かれながらも、何とか正気を保つべく自身を殴り続けるのだけれど、いつしかそれは彼の内心を破壊し始めて後戻りの効かないコーナーを曲がってしまうことになる。レンハオを始めとするリン・シューウェイ以外の悪ガキ達の内面や背景はあくまで書き割りとしてのクズにとどめられ(レンハオのあれはリー先生による書き割りの追加にすぎない)、映画の主眼はリン・シューウェイが最期には悪意の底に激突してそれと刺し違えるに至るその蒼い魂の彷徨を追い続けることになり、彼が最終的にたどりついた、僕たちはみな死ぬしかない、なぜなら生きるに値しないほど救いがたいクズだからだという青春のニヒルに重奏する怪物の断末魔が、いったいおまえ達が怪物でなかったためしなどあるのかと蔑むような目つきでワタシの胸をザックリと抉っていくわけで、たった一人生き残ったのが誰であったかを思い出してみればこの映画のメッセージはそれに明らかだろう。しかし何よりこの映画が誠実であったのは、強者が弱者に対して行う容赦のない加虐の図式がそのイマジネーションゆえ映画的な高揚すら可能にしていた点で、スクールバスの大殺戮の中、最期の瞬間までクズの矜持を失うことをしないシーファのクールネス(事切れた彼女のヘッドフォンから漏れるCHARAの歌うMy Way!)には喝采を送るしかなかったし、学校という世界における最凶の怪物とも言えるリー先生が火だるまとなった姿を見る昂揚も、ワタシの昏い蛮性の喚起と誘導の結果だったのだろう。そうやって深淵の怪物を覗いた時そこに何が見えるかという胸糞悪さを、繊細かつ匂い立つ露悪で幻視するプロダクションによってあくまで娯楽として成立させる確信と志に震わされる傑作。
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2018年11月02日

search/サーチ #FatherKnowsBest

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PC画面ですべてのカットを構成する縛りはあくまで手法にとどめ、登場人物たちの感情の移ろいそれ自体はあくまでオーソドックスかつ細やかに描写されていて、紋切り型で陳腐なデジタル世代の断絶(邦画に顕著な陥穽)的なメンタリティの先へ伸ばしたその手つきこそがこの映画の清新となっている。言ってしまえば、ここにあるのはデヴィッド(ジョン・チョー)とマーゴット(ミシェル・ラー)のキム親子、ローズマリー(デブラ・メッシング)とロバート(スティーヴン・マイケル・アイク)のヴィック親子というそれぞれに事情と問題を抱えた親子がすれ違ったことで足を踏み外す運命の翻弄が綴る物語であって、その光と影、ポジとネガという裏表を入れ替えてヴィック親子の物語へと舵を切ってみても成立する複層が、飛び道具としてのスタイルに重心と奥行きをもたらしていたように思う。とは言えこうしたネットワーク無双なスタイルを前にすると、あらかじめインターネットのなかった世代としてはノイズぎりぎりのバイアスがかかってしまうわけで、あらかじめインターネットのあった世代にとってネットはテレビやラジオ、出版といったメディアと同列のフィクショナルな世界で、その中で様々なデジタルデータの意匠によって構成された自分の存在を意識と無意識で混濁させながら現実と非現実を行き来するその姿は果たして「新しい人」なのか「誤った人」なのか未だにワタシは測りかねていて、例えば劇中で自分の現在地をクリップしたまま糞リプを垂れ流してはデヴィッドに顎を割られる若い衆などその典型で、あらかじめインターネットのなかった世代としてはそれが現実の世界にどうやって根を生やしていったのかをその功罪と共に嫌というほど見てきただけに、どこへどう潜り込んだところでネットは現実でしかないという認識が揺らぐことはないし、そこへ自らを無防備かつ無邪気にに白紙委任してしまう危うさと脆さへの警戒が薄れることは今までもこれからもあるはずがなく、してみるとおそらくはそちらの世代であろうデヴィッドがしばしばみせるタイピングの逡巡も無意識の自己防衛に思えたりもしたのだ。しかし、そうやって記憶=記録へと混濁していく世界だからこそデヴィッドは結末にたどり着けたにしろ、いつしか頭をよぎるのは、なぜレプリカントは写真を集めたがる?というデッカードの呟きだったりもした。
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2018年10月30日

テルマ/神がわたしをつくった

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※展開に触れています

怖ろしいというよりは、苦しい。それはテルマ(エイリ・ハーボー)が対峙する生まれ直しの苦しみにも思え、両親によって宗教と薬物の枷で封印され亡き者とされた真の自分が再びこの世界に生を受けるためにくぐり抜ける瞬間の仮死を、ヨアキム・トリアーはほとんど啓示的といってもいい甘美な共鳴と不穏な共振のデザインでワタシ達に追体験させようと図っている。エルマの閉塞や苦痛、混乱、畏れといった鈍色の感情が、疼くような蠱惑の輝きと強烈な毒性をたずさえた異様な比重の、まるで水銀のような映像が血中にもたらす酩酊は既にそれだけでこの映画を止むに止まれぬ記憶として成立させている。しかし、テルマが次第に水銀の海をたゆたう身のこなしを知るにつれ、溺死の恐怖は運動の快感へと姿を変えて、オイディプス的というよりは家父長制への反乱ともいえる父殺しを果たすことで覚醒を手にした彼女が、まずはその能力を用いて母親を解放したのは至極当然であったように思う、おそらくはその力で自分に血を贈った祖母を覚ますこともするのだろう。してみると、ワタシがほんとうにホラーを感じたのはあのラストということになるわけで、それまでとは打って変わったフェミニンな装いで現れたアンニャ(カヤ・ウィルキンス)が自分のジャケットを羽織ったテルマに甘えるようにしなだれかかる姿は、テルマによる世界線の物語へと完璧に舵を切ったあらわれに見て取れて彼女が神となった世界に許される幸福に少なからず胸がざわついたし、『反撥』や『キャリー』では世界と刺し違えるしかなかった彼女たちは世紀の変わった今、『RAW』や『ぼくのエリ』がそうであるようにありのままの姿で勝ち逃げし始めていて、この映画もまた焦燥と恍惚のスピードで彼女たちを追っていったのは間違いがないだろう。上映前に注意はあるものの、あるシーンのフラッシュライトは想像以上に強烈なので自分の耐性に自信のない人は気をつけた方がいいかもしれない。素晴らしくヒプノティックなシーンなので諸刃の剣ではあるけども、それくらいヨアキム・トリアーの針は一切の迷いなく生と死の間髪を振り切っている。
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2018年10月29日

デス・ウィッシュ/マッドネス・イズ・ア・ウォーム・ガン

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ことさらフェティッシュに自失することもなく、たがを外すにしても理性と批評眼を端正にたずさえてルサンチマンめいた死体蹴りをすることもない、要するに感心はするものの熱狂にはタッチの差で至らないいつものイーライ・ロス映画だったわけで、それはおそらく自分の資質を理解しているからこそ、いくら露悪的にふるまってみたところで底を見抜かれるだろうことを先回りしてはりめぐらした予防線がそう感じさせるように思ってしまうのかもしれない。ブロンソン版のポール・カージーは、70年代に顕著だったオーヴァーキルな復讐者として暴力衝動に喰われて怪物化していく市井の男であり、それを警部が代表する正義のセンチメンタリズムが肯定することでヒロイズムを獲得することになったわけだけれど、劇中における彼の覚醒の経緯を今日そのまま再現すれば政治的な物議を醸すのは必至にちがいなく、それらをすべてオミットしてまでポール・カージーを蘇らせる必要があったのだとすれば、それは暴力の連鎖によって自らが放った銃弾に全てを奪われた彼を磔にする凄惨な悲劇となるしかなかったように思うのである。そうしてみた時、怪物の断末魔をまるまるミュートする気の抜けた復讐譚のどこにリメイクの必然性があったのか疑問に思うのは当然な上、フードで顔をおおったブルース・ウィリスの烈しくシャマランな既視感といい、少なくともブロンソン版が獲得していた同時代性の欠片も見当たらないこの行儀だけは良いリメイクは、あわよくばポール・カージーをフランチャイズ化したいだけのおためごかしとしか思えなかったのが正直なところで、ほどよくデオドラントされたジョー・カーナハンのシナリオもその意に添ったということになるのだろう。片目を閉じた時代に描かれた作品を新たに描き直す時に、両目を開けるバランスを投入するのではなく片目でしか見えない世界を意識的かつ批評的に捉えることをしなければ、そこには均された角度の総花が映るだけで片目が映さなかった世界が闇の中から浮かび上がることがないように思うのだ。牙を抜いたなら、まだ血のついたその牙を映すべきだろう。
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2018年10月28日

スカイライン 奪還/馬鹿がUFOでやって来る

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今いちばん足りてないのはこういったシネパトス、あるいはシネマミラノ成分であることをあらためて宣言するこの映画は、ジャンル映画においてさえ強迫観念的なリアリティチェックがなされる閉塞した昨今において、木の葉を隠すなら森の中ということわざを恭しく掲げつつ、全編をツッコミどころにしてしまえば各々のツッコミどころは無効化されるとでも言わんばかりの謎理論を持ち出したばかりでなくそれで逃げ切ってみせさえしたわけで、せいぜいがパイロットフィルムでしかなかった前作からのコペルニクス的あるいは居直りと言ってもいい逆転の発想には敬服するしかなかったのだ。なぜいきなりラオスなのかと訊ねられれば、そこにイコ・ウワイスとヤヤン・ルヒアンがいるからだと答え、巨大ロボのプロレスはKAIJUのアレだねと言われれば、『ランペイジ』然り、SIZE DOES MATTERを復権させたくてねと胸を張る独善性 は、例えば『クワイエット・プレイス』のスマートな両義性の対極で重宝されて然るべきだと考えるし、ついには切株と化したマッドドッグ先生の勇姿がいかに誇らしげであったか、それはもう、行き先知れずのチューインガムを噛んでそよ風に誘われる(by浅井健一)ような清々しさであったと言い切ってしまうことにやぶさかではないし、広げた大風呂敷にからめとられて窒息死しそうなラストにしたところで、このうつけ達が7年かけて達成した野望を見せつけられた今となってはもう笑い飛ばすわけにはいかなくなっているどころかワタシはそれを待ち望みさえしているし、正直言ってスター・ウォーズの新エピソードよりなんぼか期待すらしている。取り急ぎ、演者ですらが多幸感にあふれて呆けたNG集を刮目せよ。
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2018年10月25日

バッド・ジーニアス 危険な天才たち/わたしたちが得意だったこと

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ちょっとした叙述トリックをある時点でネタバラシしてしまうことで、ああこれは青春のピカレスクとしてゴールを切ることになるのかなと匂わせておきながら、まるでそれが合図でもあったかのように映画は一気に青春の蹉跌へと舵を切り始め、リンを演じたチュティモン・ジョンジャルーンスックジンの涼やかながらドスの効いた目と暴力的な頭身が最大限の効果を発揮して神経を苛み始めることとなる。したがって『ザ・カンニング [IQ=0]』がそうだったように反逆の中指としてのカンニングというよりは、先ほど触れた叙述トリック部分の構造的な参照など含め、どちらかと言えば『ソーシャル・ネットワーク』的な青春の孤独と破滅のストーリーに映画は身を寄せていくわけで、最後にリンが選択した罪と罰によって持たざる者が持つことを願った日々の狂騒からすくい取られた哀しみの上澄みがこの映画の儚いきらめきとなったように思うのである。したがって、その狂騒のボルテージが高出力であればあるほどその断絶が烈しく切なく行われることになるのだけれど、それにしたところでカンニングという行為そのものがリンという才能を下層から上層へと苛烈に吸い上げる搾取の構造を次第に隠さなくなっていくことで、コンゲーム的な痛快や爽快が一線を越えた捨て身の大博打へとサスペンスの色を変えていくこととなり、その切り刻み方の容赦のなさこそがこの映画のハイジャンプを決定的にしていた点で、神経症的な残酷ゲームのスピードこそが今日性の象徴であることを良くも悪くも叩きつけられた気がしたのだった。仮にハリウッド・リメイクがなされた場合、あのラストはまず確実に変更するだろうなという親がかりの勧善懲悪がいっそう傷口に塩をすり込む。いったいこの父親からなぜチュティモン・ジョンジャルーンスックジンがという言うその父親はほとんど村上春樹なのだった。
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2018年10月22日

ルイスと不思議の時計/スピルバーグならこう言うね

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この世界は映画のセットみたいなもんさ!というアンブリン的ジュヴナイルのワンダーとイーライ・ロスのグロスアウトな稚気が思ったよりも正常な食い合わせに仕上がっていて、初の非R指定作品(PG)にも関わらず自身の作家性をスマートにアレンジして窮屈さを感じさせなかったことに少し驚いたのである。予告篇ではルイス(オーウェン・ヴァカーロ)を取り巻くポンコツな魔法使いの叔父ジョナサン(ジャック・ブラック)と切れ者の魔法使いフローレンス(ケイト・ブランシェット)という構図で描かれているけれど、実際にはある過去の傷によってフローレンスもまたポンコツと化していて、けっして声高には叫ばないながら1955年という時代背景およびZimmermanという彼女の姓、そして彼女の手首の数字にその理由は決定的で、敵役アイザック(カイル・マクラクラン)がヨーロッパの戦線で悪魔と契約して手に入れた魔術をナチスが信奉したオカルティズムとしてみれば、この映画が背景にしのばせたメッセージをあらためて言葉にするまでもないだろうし、そうした意味でも由緒正しきアンブリンの映画となっていたように思うのである。したがってそうした物語の展開上、躓いている状態のフローレンスが描かれることになるわけで、最近はと言えば確信と自信に満ちたキャラクターを颯爽と演じることの多いケイト・ブランシェットのシンプルな凹み顔を目にすることができるのもこの映画の妙味といってしまってよいのではなかろうか。つい先日、真夜中にCSで『銀河鉄道999』を見ていて、ああ、と思わず呆けた声を出してしまったのは、第二期ケイト・ブランシェットの端緒といってもいい『ロード・オブ・ザ・リング』でガラドリエルを演じた時の特にフロドとの関係性における既視感というか奥底の記憶が揺らいだその正体がようやくクリアになったからで、それは、あのケイト・ブランシェットにワタシはメーテルを見ていたということに他ならず、今はもうメーテルの衣装に身を包んだケイト・ブランシェットを目にしないうちは死んでも死にきれないとすら思い始めている。
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2018年10月19日

アンダー・ザ・シルバーレイク/ To Live and Die in L.A.

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狂った世界で正気を保つためポップカルチャーに身をまかせ、世界の法則を知ったつもりになってみたところで、何のことはないそれはすべて他人が考えたアイディアの尻馬に乗っているだけではないか、俺はそいつらに囲まれたドーナツの穴でしかないのか!とニヒルに堕ちるまでがポップカルチャーであって、そんなことはいまさら百も承知であればこそ、サム(アンドリュー・ガーフィールド)がお気に入りの配置で床に拡げたズリネタこそがポップカルチャーの真の姿なのだ、としたり顔で言ってしまったりもできるわけである。鑑賞後にまとわりつく澱のような倦怠は、この映画がそうしたポップカルチャーの輪廻を140分にダイジェストした曼荼羅であったがゆえの取り付く島のなさによっていて、本来であればフクロウのキス(=自殺)によって曼荼羅の一部となるはずのサムがそれをかわしてヒモ(特別な自分という幻想の喪失)になることでステージを上げるラストに至ってようやく映画的なドラマを匂わせるデヴィッド・ロバート・ミッチェルの食えなさは、『アメリカン・スリープオーバー』『イット・フォローズ』のラストがそうであったように精神的な行方不明者を生み出すことで終わらない明日への不安と不穏を吐瀉物のように郊外の通りへ吐き出していく。死にたくなければヒモになれという暗黒L.A.の処世訓は『サンセット大通り』マナーの愚直にして崇高な遵守であったのは言うまでもない。これまでアンドリュー・ガーフィールドに感じていた違和感は、かつてヒッチコックがアンソニー・パーキンスに見つけたウィアードがそうさせていたことがわかってようやく腑に落ちた。手についたガムがぬちゃ〜っと伸びて取れないようなその笑顔は世界のあらかたから味方を失わせるに十分だろうが、あれが本来のはずである。トレイラーで使用されていたヴァイオレント・ファムズがどこにも聴こえなかったのが少しばかり残念。
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2018年10月14日

リグレッション/泣くのが怖い

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※ネタを割っていますが、主演俳優の受難を愛でる物語なのでさほど問題ではないかと。

あんたたちのそういうところだよ、とまるで観客を嗜めでもするような終わり方にも不思議と腹が立たないのは、そこに至るブルース・ケナー(イーサン・ホーク)の倒けつ転びつする七転八倒をそれなりに愉しませてもらったからという理由が大であって、いささか潔癖症的な善意と正義の人ケナーがアンジェラ・グレイ(エマ・ワトソン)という若き毒婦にハニートラップまで繰り出されて翻弄されたあげく、絵に描いたようなパラノイアに囚われて行くさまをアレハンドロ・アメナーバルは不穏と不安と不条理のムードを総動員して追い込んでいくのである。とは言えミステリーとしてはやけにあっさりネタを割るカットがいきなりインサートされて拍子抜けしてしまうのだけれど、少し調子に乗ってイーサン・ホークをいたぶり過ぎたと監督は腰が引けたのだろうか、せっかくいい具合に心神喪失が上気しつつあるところだったし、ここからが彼の真骨頂と思えただけにその意気地のなさがいささか悔やまれるところではあったのだ。オチとしてはどちらに転んだとしてもそれなりに収束してしまう話であったことを思うと、やはり監督にはイーサン・ホークをどこまで蹴堕とすことができるかその深淵を覗かせて欲しかったし、セックスのオブセッション丸出しで淫夢に悶えるイーサン・ホークがけっこうなやる気をみせていただけに、突然正気に戻り事件を解決し始めるその姿には、話が違う!と憤ってみせたりもしたのである。というわけで、界隈の大御所感を醸し出しつつあり昨今からすれば、イーサン・ホークが半べそで疾走するこの2015年作品は貴重なフィルモグラフィーとなりそうな気もするので、彼のパセティックに焦がれる側の方々は現時点で東京1館、沖縄(!)1館というハードルの高さはあるにしろ取りこぼしのなきようにと言っておきたい。なかなか要領を得ないアンジェラの父ジョン(ダーヴィッド・デンシック)に苛ついたケナーが「帽子を取れ、いいからその帽子を取れ!」と八つ当たり的に激昂するシーンで、無表情のままおずおずと帽子をとったジョンの頭が、まるでこれが答えですとでも言うかのように落ち武者的な見事さで禿げ上がっていて、しかしそれが意味するところなどもちろんあるはずもないシュールな一発ギャグにはケナーならずとも攪乱されること必至で、ああ今日はもうこれで良しとしようと思わせる屈指の名シーンとなったのだった。そういうチャームの映画であることも念のため付け加えておきたい。
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2018年10月13日

運命は踊る/不幸なことに幸運

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戦争国家においては自業自得の事態だと言ってしまえばそれまでなのだけれど、この独自の視点はそうした国に生まれ育った者だけが持ち得る角度によっているわけで、声高かつリアルな息遣いで反戦を叫ぶというよりは、場合によっては世界のどこでも起きうる話として寓話の攻撃的な曖昧さで戦時下の憂鬱と倦怠、すなわち厭戦の気分を垂らしていく浸透性が新鮮かつ有効に思えたのである。軍が戦死の報を家族に告げる際の、そのショックに応じてあらかじめ薬物投与の注射器まで常備する効率化されたルーティーンワークは、遺族の感情などおかまいなしに送り込まれた軍付きのラビが淡々と進める葬儀の準備と進行の段取りにまで及び、しかしそれには同姓同名の戦死者を取り違える誤報であったという杜撰で間抜けなオチが用意されているわけで、全体としては三幕構成となるその第一幕において戦争というよりは軍に対する潜在的な反感と嫌悪があぶり出されてくことになる。当の兵士ヨナタン(ヨナタン・シスレイ)の父ミハエル(リオル・アシュケナージ)は、イスラエルにおける富裕層かつ知識階級にくくられるわけで、そうした舞台仕立てによってこれが階級闘争的に立てられた中指でないことをあらかじめ告げておくあたり国家の強権に対するアスガー・ファルハディの手さばきに通じているようにも思うし、してみればこの映画がイスラエル国内の右派から攻撃されたのも至極当然に感じられたのである。しかしこの映画が残酷でユニークなのは、前線からは遥か彼方のどこともしれぬ地の果ての検問所でヨナタンが過ごす奇妙に弛緩した日々を描いた第二幕によっていて、いったい自分はここで誰と何のために戦ってるんだろうか、と戦争の全体性が次第にデカダンスへと沈んでいく黒いオフビートは『キャッチ22』や『M*A*S*H マッシュ』といった先達を彷彿とさせつつ、しかしこの状況における最低最悪の幕引きがそこには用意されているわけで、一見したところ第一幕と第二幕がもたらした罪への罰として描かれる第三幕は、それと同時に喪失から再生へと向かう道筋とも言えて、第一幕では軍の投与した薬物によって激情をコントロールされた母ダフナ(サラ・アドラー)の感情は、この第三幕においてヨナタンの形見のマリワナによって解放されていくのだけれど、彼が最期に描いた絵の本当の意味をミハエルもダフナも永遠に知り得ることがない皮肉がイスラエルで戦争の庇の下で生きる人々へ向けられたことを考えてみれば、そこにはテルアビブに生まれレバノン戦争で戦ったサミュエル・マオズ監督の中道的な憂国がうかがえるのは確かなわけで、時折り決め打ちすぎる狙いが透けて若干鼻につくきらいがあるにせよ、運命の引き金を引くのはあくまでそこにあって逃れがたい現実であることをシニカルだけれどニヒルに沈まないバランスでしたためたこの映画が、『戦場でワルツを』がそうであったようにイスラエルという鬼っ子のくびきから一時離れて自由で今日的な声を獲得してみせたのは間違いないように思う。
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2018年10月07日

イコライザー2/お前に長寿と繁栄を

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かつて殺人マシンとしてウェットワークで殺めた数と同じだけ、自分は罪なき人々を救済せねばならないという意味でのequalizeなのではなかろうかと、置かれた本の位置をミリ単位で修正するロバート・マッコール(デンゼル・ワシントン)という男が自らの手で何人の生命を奪ってきたか正確に把握していないわけがないだろうことに思いを至らせた時点で、贖罪に憑かれた男の地獄めぐりという2作目にしてはやや性急とも言えるネタ割りが不意をつくように深々と沁みてきたのであった。前作では世界の法則の調停者として実存的な乾きすらみせたマッコールの、しかし知られざるその虚無には嵐が吹き荒れていることを告げるのがあのハリケーンだったのだろうし、そうした作用反作用的な足かせがイコライザーというポップアイコンから浮力を奪ってしまうことを承知の上でアントン・フークアは古風と言ってもいい落とし前を望んだのだろう。それはおそらくデンゼル・ワシントンという高貴と野卑をエレガントに飼いならす俳優を前にしての避けがたい誘惑でもあったのと同時に、国家のための殺人という灰色の世界に身をやつした男が自らの魂を救うためには、善悪/白黒の二元論にすがるようにして寄り添うしかなかった精神の麻痺と硬直をキャラクターに注入したことへの罪悪感のような薄暗さが、前作の拡大再生産という手管を良しとしなかったように思ったりもしたのである。かといって、鈍重まで重心が沈み込む寸前に切り上げる目配せの巧みもあり過剰なドラマツルギーに窒息する愚からはぎりぎりで逃れていたし、アマチュアからプロフェッショナルにシフトしていく闘いもアクションのインフレに陥ることなく、むしろよりソリッドにかたを付けていく凝縮のリズムがギアを上げて、なんと言ってもスーザン(メリッサ・レオ)による捨て身の反撃が囁いた寄る辺なき世界の哀しく切ない息づかいによって前作のファンタジーはもう必要ないのだと手放した潔さを思い出してみれば、彼女がもたらした一つの幸福と希望によって映画が閉じられることでこの映画があふれさせた血と暴力への清冽でしめやかな鎮魂としたようにも思うのである。構造としては通じるところがある『ジョン・ウィック』が閉塞から解放へと向ったのとは対照的に、一見したところ解放から閉塞へと向ったことでそれが失速に映る部分もあるかもしれないけれど、すべてはマッコールの閉塞した精神のなせる業であったことを明かした今作によって、これもまた閉塞から解放へと向かう物語であったことに気づかされるわけで、それは失速ではなく夢から覚めることで現実の重力に舞い戻ったに過ぎないことを諒解したのである。前作でテリーとかわした結婚指輪をめぐるやりとりを思い出してみれば、マッコールが指輪を右から左へとはめ直すのは彼にとっての喪の仕事が終わったことを告げているのだろうし、してみればワタシたちの知るロバート・マッコールはもういなくなったと考えるべきなのだろう。殺した分だけの人助けはやめないにしてもである。
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2018年10月02日

クワイエット・プレイス/あふれた涙が落ちる音

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※展開に触れています

これが「ホラー」であれば、サイロのシーンでリーガン(ミリセント・シモンズ)は自身の人工内耳が増幅する高周波がクリーチャーの集音機能との間で起こすハウリングが突破口となることに気づいていたはずで、そうした意味で「ホラー」としては物分かりの良くない話には違いなく、しかしそれは、言ってみればアボット家が「ホラー」的な状況を力を合わせて押しのけることで家族としての絆と生活を全うする物語を描こうとした監督の狙い通りということになるのだろう。したがって、状況の説明とルールを観客に告げるためのオープニング・シークエンスこそ研ぎ澄まされたマナーで描かれはするものの、そこからおよそ1年が経過した後に再スタートする物語はトーンが一新されて、状況の特異ではなく状況下の家族が抱える問題が映画の主眼となっており、言葉が封印された世界のエモーションをバックアップするマルコ・ベラトルミのスコアは情緒過多といってもいい鳴りを隠そうともしないまま、死と隣り合わせの「大草原の小さな家」が粛々と展開されていくこととなる。あらかじめ音を奪われているリーガンにとって襲来後の世界は自身に関する限りさほど変わりがないのだけれど、彼女が苛まれるある出来事にしたところで、彼女はあれが光だけではなくあんな風に音を出すことを果たして知っていたのかと考えてみれば、何をどうするとどんな音がどれくらいの大きさで発生するかを知らない彼女にとっては二重の困難がつきまとうわけで、その苛立ちと哀しみを『ワンダーストラック』でみせたドスの効いた佇まいに塗してみせたミリセント・シモンズの仁王立ちが、この映画を危ういバランスで何とか成立させたように思うのである。とは言え中盤の舵の切り方からすれば彼女だけが知る無音の世界の二重性がさほど活かされることのないまま単なるハードウェアとしてのオチに着地した点で食い足りなかったのは正直なところだし、音を奪い音が凶器となる世界の神経症的な体感をドラマの達成と引き換えに手放していくバランスがワタシには少しばかり邪魔に思えたりもしたのだ。何がセーフで何がアウトなのか、そのラインが恣意的に変動されることでゲームのスリルが失われるのは言うまでもないけれど、「恣意的な変動」が生むドラマの熱情と冷徹な「ゲームのスリル」が混交して、それを望んだわけでもないちょうど良い湯加減になってしまったのはワタシにとってエラーでしかなかったのである。その不条理な機能性に比べ手垢のついたクリーチャーデザインもいささか凡庸であったと言うしかなく、どこにいたとしても次元の裂け目から現れるような名状しがたき佇まいで心をかき乱して欲しかったと思ってしまう。「音を立てたら、即死。」というわけでもない。
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2018年09月30日

ザ・プレデター/俺のためなら死ねる

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※展開らしきものに触れています

『プレデター』の面白さというのはあくまでアーノルド・シュワルツェネッガーの異種格闘技戦としてのそれであったし、『プレデター』meets『リーサル・ウェポン』が予想外に弾けた『プレデター2』をみればわかるように、プレデターというキャラクターはあくまでかませ犬として非常に有効なのである。したがって、その役目を逸脱しないよう行動原理から何からほとんど人間でしかないプレデターはエイリアン、というかビッグチャップに比べると人外としての品格は比べものにならないこともあって(だからワタシはAVPが大嫌い)、プレデターがどんなとんちきな翻案をされようとまったく気に止めることなく午後ローでも見る気分でむしろもっとやれとヘラヘラしていられるのである。その点においてシェーン・ブラックはとても的確にプレデターというキャラクターを理解しているように思うし、かませ犬としてのプレデターにかませ犬軍団をぶつけてみせたアイディアはその冴えた表れで、ネブラスカ(トレヴァンテ・ローズ)、コイル(キーガン=マイケル・キー)、バクスリー(トーマス・ジェーン)、リンチ(アルフィー・アレン)、ネトルズ(アウグスト・アギレラ)といった、オレは自分の頭がおかしいのは知ってるし生きててもろくなことにならないのも知ってる、だからって多分おれより頭のおかしい知らない誰かの都合で殺されるのはちょっと勘弁なんだよな、どこでいつ死ぬかくらい自分で選ばせろよと格好をつける面々が恍惚としてプレデターに殺されていく姿こそ、この映画が立てた中指だったわけで、それはラストのブラックユーモア(死語か)がもたらす犬死に感によって実に見事な着地とあいなることになる。ローリー(ジェイコブ・トレンブレイ)が実質的には人を一人殺していることを本人も父親クイン(ボイド・ホルブルック)を含めたまわりの誰も気にしていないのも頼もしい。与太話に目くじら立ててどうするよというシェーン・ブラックの正しさであろう。それにしても、グラウンドから退却する時にバスめがけて走ってきたワンちゃんはその後どうしたんだろうか。助けてあげてよってローリーが騒ぎだして一悶着あるかと思えばまったく見向きもしないし、キャンディを口に放り込むだけのトレーガー(スターリング・K・ブラウン)をアップでまじまじと映し続けるカットにも幻惑された。そもそもラストのアレにしたところで、デカイやつがあれほど血相変えて追いかけてきたところからすれば無双ツールであることは間違いがないわけで、だとしたらなぜ小っちゃいやつはアレを使ってデカイのを撃退しなかったのか、小っちゃいやつは地球を救おうとしたというよりは自分たちの闘いに代理戦争として我々を巻き込みたかっただけなのではないかと、なお幻惑させられる始末で、それはおそらくワタシが相も変わらずドラマツルギーの奴隷であることの証左なのだろう。いろいろとまだまだである。
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