2017年05月04日

ろくでなし/宇田川町で逢いましょう

rokudenashi_02.jpg
オフィシャルサイト

あんたもあたしも最低なんだよ!と優子(遠藤祐美)が啖呵を切ったように、最低とかクズとか、ろくでなしとか、自薦他薦を問わないそれらの者のブラウン運動を渋谷の街にとらえる試みに、バディ・ムーヴィーあるいははきだめのロマンスといった常套句をあてにすると少しばかり肩透かしをくらう気がする。クラブで大暴れして事務所に連れ込まれた一真(大西信満)と、落とし前をつけろと恫喝する遠山(大和田獏)、それを遠巻きに見守るひろし(渋川清彦)の間に何があったのかは一切語られないまま、直後のカットで一真は遠山の下で働いているわけで、常套であれば一真の中のクズを面白がったひろしが、オレが責任持って面倒見るんであずからせてもらえますかと遠山に切り出したりするところなのだけれど、そこはそれ、クズのとる行動などそうあっさり堅気に理解されてたまるかという突っぱりでもあったのか。そうやって含んだり匂わせたりと言った余白を削ぎ落とすというか描かないこともあって感情が連続しないこともあり、どちらかと言えばマッチポンプ的に収束してしまうシーンが多いのだけれど、それは見方を変えれば人並みであることに焦がれたクズが見よう見まねで愛の真似ごとを演じてみせたようにも映るわけで、一切の憐憫をあてにしない自己完結はそれゆえ不穏すら醸し始め、この映画の熱くも冷めてもいない平熱の生ぬるさは何なのかと言えば、だらだらと流れ出る血の温度であることに気づいたりもするのである。本人たちはいたって大真面目ながら、一真と優子の目をつむったまま黙って殴り合うようなやり取りにはドキドキではなくビクビクしてしまう。「金ならまだある」と言った瞬間、誰もが思い描く展開をあさっての彼方に投げ出してみせたシナリオにはピクピクしたけども。この映画で一番怖ろしいのは遠山でも一真でもひろしでもなく、優子の“知らず呼んでしまう”質であって、いささかのホラーを漂わせるラストはその証左に思える。暗渠の街としての渋谷映画。
posted by orr_dg at 01:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月01日

バーニング・オーシャン/我らをジョン・マルコヴィッチから救い給え

deepwater_horizon_02.jpg
オフィシャルサイト

無骨で無愛想で取りつく島のない実録風味なのかと思っていたら、マイク(マーク・ウォールバーグ)とフェリシア(ケイト・ハドソン)のいかにもな夫婦漫才で幕を明けていささか拍子抜けするものの、夫婦の賢い娘シドニーによる缶コーラを使ったちょっとしたお遊びがそのままこの大惨事のミニチュアとしてワタシたちを導入していくことになるわけで、『ハドソン川の奇跡』とは異なりこれが盛大な負け戦であることを観客の頭から消し去りつつ、しかしカタストロフィに向かってひたひたと歩んでいくマシュー・マイケル・カーナハンの脚本が揺るがぬベースラインとして腹に響く中、完全にメロディを捨て去ったピーター・バーグはそこに重厚でソリッドなリフを不協和音が共鳴するよう丹念に重ねていって、それに誰もが耐えきれなくなった瞬間すべてが中心から爆発するのである。感情の振り分けとしてはBP社のヴィドリン(ジョン・マルコヴィッチ)が諸悪の根源とされる以外、マイクにしたところで殊更ヒーローとして描かれるわけでもなく、それはジミー(カート・ラッセル)にしたところで同様なのだけれど、ではピーター・バーグは何を導火線にして観客に火を点けたのかと言えば、それは善行としての労働が謳う人間の矜持であったように思うのである。一見したところちゃらんぽらんに映るバルブ要員たちがその異常に際し誰一人持ち場から逃げ出すことなく捨て身でそれに対処する姿や、全身にガラスの破片が刺さったまま最後まで指揮を取り続けるジミー、立場や権限を超えて自分の為すべきことを為すアンドレア(ジーナ・ロドリゲス)といった人々がなぜそれを果たすのかと言えば、それをするために自分はここにいるという使命感によっているのだろうし、最後に生き残った者たち全員がひざまずいて唱える主の祈りはこれが労働倫理の崇高を焼き付ける物語であったことを告げているようにも思うのである。しかしそれはある特定の宗教性というよりは、彼や彼女が日々相手にする大自然への尊敬と畏怖の念がもたらす自然崇拝にも近い気がするわけで、したがってヴィドリンが持ち込んだ経済論理はそれを犯す災厄としてただただ忌避的に描かれることになる。そして思うのは、やはりこの映画はあの日あそこから帰ってこなかった11人とその家族へのレクイエムでもあるということで、あの場面でジミーがヴィドリンに怒りを爆発させることをしないのは、それが事実に即していることは当然として、この映画が一貫して保ち続ける気高さをそうした負の感情で汚すつもりがなかったからでもあるのだろう。『ローン・サバイバー』に比べた時の感情のタイトな抑え込みというか感傷の我慢強さは、多分に脚本の強靱さが奏功しているのだろうけれど、ここを抜けた後でピーター・バーグが何を手に入れて何を捨てたのかを知る意味でも、三度マーク・ウォールバーグと組んだ実録ドラマ『パトリオット・デイ』を観ないわけにはいかなくなってきたのである。それはもちろん、今のアメリカでこのラインをひた走ることの若干の危うさも含めてと言うことだけれども。
posted by orr_dg at 16:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月28日

スウィート17モンスター/いつかどこかで誰かのために

edge_of_seventeen_02.jpg
オフィシャルサイト

グランジ(とっくに死語か)以降のアップデート版ジョン・ヒューズ・ムーヴィーなどと書こうものなら速攻でネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)の餌食になるに違いなく、ほんとうは誰が自分を一番愛してくれているのかを知ることで幸せを手に入れるジョン・ヒューズのヒロインなど、誰よりも自分を愛しているのはこの自分のはずなのにその自分を私は嫌い憎むことしかできないのだ、と“ナイフみたいにとがっては触るものみな傷つけた”ギザギザなネイディーンにしてみれば、不戦勝のイカサマ野郎と吐き捨ててみせるにちがいないのだ。したがってここにはことさらネイディーンを不幸に陥れるスクールカーストも無関心で無理解な大人たちも存在せず、彼女を取り巻く人々はそれぞれが自身に帆を張っては人生に漕ぎ出すのに忙しいわけで、ジョン・ヒューズ・ムーヴィーであれば金持ちのボンボンであってもおかしくないニック(アレクサンダー・カルヴァート)でさえ、ペットショップでバイトをして買ったのだろう中古車を走らせているのである。となれば彼女がすべきは外敵のデストロイではなく内なるモンスターを自身の手で葬ることに他ならないのだけれど、それがなかなか果たせない苛立ちに加え、ではモンスターを殺した後の自分にいったい何が残るのかという不安の背中あわせまでを求めた監督の残酷なファニーと、真夜中に爪あとを伝う涙でそれに応えたヘイリー・スタインフェルドの不機嫌な馬鹿力が、この映画を愛すべき青春の一人相撲としてあまたのレッテルから自由に放ったように思うのである。クリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)に放ったらかしにされたパーティで、アヤシイのはダメ、アヤシイのはダメ、でもなんでこうわたしは不格好になっちゃうんだろ、リラックスよ、リラックスして楽しめばいいのよ、さあ、行って誰かに話しかけるのよ、とバスルームで自身を叱咤激励するもあっという間に撃沈され、意気消沈したところで出くわした見知らぬ女の子との映画談義で盛り返すかと思いきや、相手が映画(『ツインズ』)を引き合いに出したのは華やかでイケてる兄ダリアン(ブレイク・ジェナー)と自分を似ても似つかない兄妹としてネタにするためだったことに気づいて再度撃沈されるわけで、このあたりの笑いながら刺してくるくだりを含め、監督&脚本のケリー・フレモン・クレイグがみせる、キャラクターに正当な痛みを与えることでヴィヴィッドな震えを生み出す話法にはリチャード・リンクレイターの好ましくて的確な影響がうかがえて、『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』に引き続きブレイク・ジェナーのマチズモフリーな魅力を重要な彩りとしたあたりなどむしろそれを嗅ぎ取ってくれることを望んでいるようにも思えるし、ワタシがリンクレイターの名前を出したのもケリー・フレモン・クレイグに対する賞賛の現れであることは言うまでもない。ネイディーンのメンターおよびライ麦畑のキャッチャーとして、いつものように小さく口をすぼめながら、静かに急かさず彼女を見守るウディ・ハレルソンの穏やかなリベラルがアメリカ映画の良心としてことさら沁みてくるように思うのは、気づかぬ内にワタシも昨今の荒んだ気分に染まってしまっているからなのだろうなと少しだけ錆が落ちた気もしたし、ヘイリー・スタインフェルドの麗しきキャリアアップと、ケリー・フレモン・クレイグという監督の祝福すべきデビューを確認するためにも「“あの頃”のリアルなイタさを描く愛すべき青春こじらせ映画!(オフィシャルサイトより)」などと言った紋切り型で高をくくって見逃してしまうのは少しばかりもったいないと思ってる。
posted by orr_dg at 01:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

午後8時の訪問者/ドアをノックするのは私だ

la_fille_inconnue_02.jpg
オフィシャルサイト

※展開に触れています

たった一度の、しかし取り返しのつかないノーを償うために、もうこれからは私からノーと言うことはしないのだと誓ったジェニー(アデル・エネル)は、それが真夜中に往診を求める電話であろうと、往診先ですすめられるコーヒーであろうと手作りのワッフルであろうとサンドイッチであろうと詰め合わせた菓子であろうと、差し出された手にはすべてイエスと言って自身の手を重ねていく。しかしそこに偽善の香りがまったくしないのは、NOと言わせた正体を自身に巣食うエゴと見定めることで、すべての行動と思考からエゴの落とす影を徹底的に取り除きそれを殺そうと企てているからに他ならず、失われた命が取り戻せないかわりに私は死者の尊厳を取り戻さねばならないのだと、死者の歩んだ道をたずねてまわるジェニーの、陽のあたる感情を押し殺した目つきと口元は次第にハードボイルドの寄る辺なさを語り出しさえするのである。かつて研修医ジュリアン(オリヴィエ・ボノー)を「患者の痛みに影響されすぎる」と非難した彼女のテクニカルな合理性は優秀な医師として兼ね備えるべき資質なのだろうし、実際彼女はその能力にふさわしい職場を一度は手にするのだけれど、その合理性で割り切れない究極としての死を本来それに立ち向かうはずの自らが招いてしまったことで、医師とは、少なくとも自分が考える医師とは、合理性の精度を追求することではなくその割り切れなさを共有し共感することを最善とせねばならないのだと、余白の内省ではなく前線をたった一人行動することで理解していく姿の透明な孤絶はやはりハードボイルドの情動そのものであったように思うのだ。だからこそ、いまの私はどうなのだろうか、少しは変わったのだろうかとおぼつかなく切り出す「抱きしめてもいい?」という問いかけと、おずおずと手を回しぎゅっと抱きしめるそのハグによって解放された愛情と共感こそが、割り切れなさの欠片がこれ以上飛び散ってしまわないよう繋ぎとめるために彼女が見つけた、唯一確かな手ざわりとしての答えだったのだろうし、あくまで彼女のアクション(行動)によって紡いできた物語の逃げも隠れもしない着地としても完全だったのではなかろうか。水辺で死んだ少女や閉ざされたドアが現実のどんな側面を意味していたかは承知した上で、観客としてのワタシはただただ幸福であったのだ。それにしても、終盤のあるシーンにおけるボタンをめぐる一連の底知れなさである。緊張と緩和の間にあってそのすべてとの関わりを断った瞬間とでも言うか、それはジェニファーが世界の全てに対してある種暴力的とも言えるフラットを獲得したことの証しなのか、その後で起きることに対するジェニファーのカウンターブロウを思ってみれば、この時のジェニファーには既に世界が止まって見えたのではなかろうかとすら思ってしまうのである。ここはちょっとばかりとんでもないことになった瞬間で、何かの禁忌にふれた感すらあった。
posted by orr_dg at 15:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月19日

T2 トレインスポッティング/未来を裏切れ

t2_trainspotting_01.jpg
オフィシャルサイト

インサートされるクラッシュは「ハマースミス宮殿の白人」だったけれど、この映画の夕暮れのような泣き笑いと突っぱりを慰めようとワタシの頭の中で流れていたのは「レベル・ワルツ」だったのである。俺たちは敗れてしまったけれど、かつて反乱のワルツだった調べはまだ聴こえている、いまはそれに合わせて踊っていようか、俺たちは敗れてしまったけれど、とジョー・ストラマーが切々と諭すように反逆の終焉を歌っていて、センチメンタルもメランコリーもすべて受け入れては家に帰れと解放してくれる。ではいったい家に帰った後で何をすればいいのか。レントンが躊躇も呵責もなく裏切って捨てたベグビーは彼なりの通過儀礼を今さらにして果たしてはみせたし、レントンにとってつねに庇護すべき対象だったスパッドは誰の助けも借りずに自分の足で立つ世界を見つけている。サイモンはとにもかくにもひとりきりでの敗け方と転がり方を知る男である。T1がレントンのナレーションで推移する物語であったことを思い出してみた時、ではその語り部はいったい何をどう敗けたのか。生家に戻ったレントンが例の壁紙もそのままの「子供部屋」に荷物を解き、40を超えて親と同居する日々に果たして沈むのか浮かぶのか、例のレコードの例の曲に針を落としてはやがて来るプライヴェートヘルに身震いするかのようにのけぞるラストの、まだお前は正式に敗けてすらいないよなという誰かの断罪は、例の曲がレントンをどこに連れ戻すのかを想い出してみた時に、果たしてそれはお前の20年をチャラにしてやってもいいぜ、なのかそれとも、お前の20年は無意味で空っぽでドブに捨てられたようなもんだぜ、という通告のいずれであったのか、どちらにしろ冷たい汗が背中を伝い続ける無限ループの寄る辺なさにT1の快哉は見当たらなかったのである。オレみたいな人間は目の前の人生を素手でつかみ取るしかないんだよ!とベグビーが爆発させる屈託はそのまま他の3人の胸の内でもあったはずで、したがってベグビーの病的とも言える怒りの大部分は自分がつかみとるはずであったそれをレントンに先回りされた悔しさが培養したには違いないのだけれど、スパッドが書いた物語の「ベグビーに良心が痛むことはなかった」のくだりをじっと読むベグビーのカットを添えることによって、ダニー・ボイルはほんの一瞬ベグビーの肩を持ったように思うのだ。だからこそレントン首吊りのシーンに至るむき出しの怒鳴り合いと、その後でレントンに引導を渡すべく抱きしめるベグビーの目つきがひとときソシオパスから自由になっていたように映るのではなかろうか。そんな色づけに思わず気を取られてしまうくらいダニー・ボイルはこの映画を醒めた責任と代償で律していて、しかしそれは道徳とか倫理とか言うよりは、かつてサイコロの目にスリルを見ては一喜一憂していた日々も、人生に流れる時間の中でその出目は次第に均質へと収束してしまうこの世界のことわりに対してであって、T1を様々にフラッシュバックさせてはそれを現在に対照させつつバランスシートをつきつけることで、観客にとっての20年までも総括するよう促していたようにすら思うのだ。レントンがヴェロニカ相手にまくしたてる長口上はそのインスタントな総括でもあるのだけれど、その先に待ち構えているのは、さて、お前は残り少ない未来に何を選ぶ?という逃れられない問いかけなのである。そして、いまだ答えを持たないレントンと他の3人との決定的な違いが彼をあの「子供部屋」に閉じ込めてしまうのではなかろうか。気がつけばワタシも流れ弾をくらっていた。


選べ、ブランド物の下着を。むなしくも愛の復活を願って。
バッグを選べ。ハイヒールを選べ。
カシミヤを選んで、ニセの幸せを感じろ。
過労死の女が作ったスマホを選び、
劣悪な工場で作られた上着に突っ込め。
フェイスブックやツイッター、インスタグラムを選び、
赤の他人に胆汁を吐き散らせ。
プロフ更新を選び、“誰か見て”と、
朝メシの中身を世界中に教えろ。
昔の恋人を検索し、自分の方が若いと信じ込め。
初オナニーから死まで、全部投稿しろ。
人の交流は、今や単なるデータ。
世界のニュースより、セレブの整形情報。
異論を排斥。
レイプを嘲笑。リベンジポルノ。
絶えぬ女性蔑視。
9.11はデマ。事実ならユダヤ人のせい。
非正規雇用と長時間通勤。
労働条件は悪化の一途。
子供を産んで後悔しろ。
あげくの果て、誰かの部屋で精製された、
粗悪なヤクで苦痛を紛らわせろ。
約束を果たさず、人生を後悔しろ。
過ちから学ぶな。
過去の繰り返しをただ眺め、
手にしたもので妥協しろ。
願ったものは高望み。不遇でも虚勢を張れ。
失意を選べ。愛する者を失え。
彼らと共に自分の心も死ぬ。
ある日気づくと、
少しずつ死んでた心は空っぽの抜け殻になってる。
未来を選べ。
posted by orr_dg at 20:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

グレートウォール/プリティ・イン・人力パンク

greatwall_01.jpg
オフィシャルサイト

チャン・イーモウ率いるカラー・アーミーが天よりつかわされたお仕置きモンスター軍団と万里の長城を舞台に激突する、血湧き肉躍り笑いが漏れるレジェンダリー印の予期せぬ怪作。すべての局面において合理性よりはケレンのわが物顔が受け流され、通りすがりの名義貸しウィレム・デフォーは言うまでもなく、おそらくはチャン・イーモウまでが金を湯水のように使う愉悦にどこかしら正気を失ってしまっているように思えて、どこまでも行き先知らずの意気軒昂なのである。いったいそれが何の役に立つのか甚だ疑問ながらすべては燃えるか燃えないかの二択で決定され、見目麗しき長槍バンジージャンプ隊や戦慄のジョギリ・ショック装置といった、どれだけ言葉を尽くしてもその脱力と滾りのシェイクを語ることは不可能なアクションがつるべ打ちされることになるのである。唯一の良心マット・デーモンはと言えば、やるだけのことはやってやろうという決意の下、絶叫マシーンの乗客のような陶酔と解放に身を委ねた挙げ句アンディ・ラウとのツーショットですら冗談にしか映らない愛と幻想のエクスプロイテーションを実践し、そこに『緯度0大作戦』におけるジョゼフ・コットンの憂鬱は欠片もなかったように思うのである。言わずと知れた世界の七不思議である世界遺産を国策としてアピールする絶好の機会でありながら、いくら何でもアホすぎると当局が判断したのかどうか万里の長城での撮影がまったく許されなかったというエピソードも大変に好ましく、全力で間違った場合それは正解たりえるという映画の不思議をあらためて痛感したのである。これをチャン・イーモウの歴史スペクタクルだと思って観に行った客はバカにするなと怒るだろうし怒る気持ちもわからないではないけれど、それはかつての角川映画に対してマジメにやれと叫ぶ野暮と同じであることだけは理解していただきたいと思う。20年以上前のノスタルジーに汲々とした退行SFよりは、“目の前の人生を素手でつかむ(byフランシス・ベグビー)”狂騒にワタシは乗っかっていきたい。仕事人トニー・ギルロイの名すら見えていた。
posted by orr_dg at 16:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月16日

ゴースト・イン・ザ・シェル/プリティ・イン・サイバーパンク

IMG_7365.JPG
オフィシャルサイト

仏作って魂入れず、ということわざを ”No Ghost in the Shell” とでも訳してみたくなったのである。ガブリエルという名のバセットハウンドまで登場させる押井版への愛情を隠さずにおく一方で、意識と肉体の境界をさすらう草薙素子のハードボイルドを根こそぎにしては、わたしは誰?という問いかけを、サイバーパンクという概念とは不可分の認識論としてではなくアムネジアックに解題しては大胆かつ無邪気かつ脳天気に消費してしまう臆面のなさに、何だかいろいろと遠いところに来てしまったなあと、小さくため息などついてみたりもしたのだ。わざわざ人形遣いをクゼという名前に書きかえてまで語られる失われた恋人たちのロマンスには既に衒学の香りもなく、これを『ロボコップ』のアップデートと見切るタイミングを失した時点でワタシの負けということになるのだろう。ホログラムの未来、無国籍風アジアのジャンク、ネオシティの憂鬱といったフューチャリスティックなはずの背景にノスタルジーすら感じてしまう錯綜も押井版GITS(1995年)が既に20年以上前のメルクマールであることを思えば特に不思議なわけではないのだけれど、むしろ問題は同じ年に討ち死にした『JM』のハリボテのサイバーパンクまでもが、ビートたけしの機能不全とあわせて香ってしまうことにあるのではなかろうか。今の時代であれば、無双の改造者率いるタスクフォースものとして『シヴィル・ウォー』という恰好のモデルを寝取るべきだろう。ロマンスならロマンスでバトーをトライアングルに加えてやればいいものを、「素子ぉぉ」要素のないバトーがこれほどの木偶に映るとは思いもよらず残酷であった。
posted by orr_dg at 22:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月15日

ストロングマン/頭の上の蠅の王

chevalier_01.jpg
オフィシャルサイト

最近のギリシャ映画はというかヨルゴス・ランティモス監督の界隈による「人間で遊ぼう」系のすっとぼけた探求は他の追随を許さない感じで、ハネケのように「人間(が壊れるま)で遊ぼう」と追い込みをかけない点で好事家の好みは別れるかもしれないけれど、破壊も選択肢に入れつつあえてそちらを選ばない精神の輝度と硬度は、現在のギリシャという国の状況を照らす回答としての光でもあるのだろう。したがって、クルーザーの中で暇つぶしのマウント合戦に興じる男たちにも最後まで罰らしい罰が下されることはないのだけれど、家族なり恋人なり仕事相手なりの社会的な視線から身を隠した中でめざす名誉の人(原題” CHEVALIER”)を男たちは各々がどのように定義したのか、小さくいじらしい生き物としての男たちの微に入り細をうがつ見透かし方に、悪意というよりは呆れ半分の赦しを得た気分だったのである。冒頭、一見したところ精悍に映るウェットスーツを脱いだその下から現れる白くたるんだ肉体を晒すことで、監督はあらかじめ彼らの対外的な尊厳(=マチズモ)を剥奪してしまっていて、その後で繰り広げられる目くそ鼻くそのつばぜり合いにしたところで掃除であるとか生活のマナーと言ったマチズモの発揮とはほど遠いふるまいを要求しているのだけれど、コンテストも押し詰まった終盤である人物が提案したマチズモの権化のような儀式に周囲が腰を引く中、ただ一人賛同したのがマチズモとは最もほど遠いところにいると思われた男だったことで、実はそうした男ほどマチズモへの憧憬に溢れているというペーソスまで滲ませて、救いがたさへの寛大さと容赦のなさを掌中で転がす澱みのなさに感じた心地よさは被虐の快感でもあったのか。しかし、ラストで陸に上がった男たちがノーサイドの笛で夢から醒めたかのように三々五々散っていく中、何の変哲もなかったはずの指輪が勝者の指におさまることで何かしらの意志を光らせたようにも見えるショットに、こんな益体のない争いであっても敗者の屈託が新たな悪魔(=エゴ)を召喚して勝者に憑依させてしまうことの厄介と薄気味悪さを告げていて、その瞬間だけは真顔のホラーに思えたのである。彼ひとりだけが変質して家に帰るのだ。
posted by orr_dg at 23:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月12日

レゴⓇバットマン ザ・ムービー/ダークナイト・フォーリング

lego_batman_01.jpg
オフィシャルサイト

バットマンがひとりロブスターを食べるシーンの寂寥に、この映画の企んだ身もフタもなさがまずは最初に告げられ、この映画においてはそれが許されるのだということが宣言されて以降、アルフレッドを筆頭にロビン、バットガール、そしてついにはジョーカーまでもがスクラムを組んで、ブルース・ウェイン=バットマンに対するゴッサム・シティをあげてのカウンセリングが開始されるのである。それもそのはず、バットマンが自らの孤独と弱さを自覚してそれを克服しない限りバットマンの鏡像として存在する他のキャラクターたちはいずれ消え行く運命にあると同時に、それはすなわち主体としてのバットマンの存在そのものの危機となり、ひいてはゴッサム・シティの消滅ということになるわけで、ラストでついにバットマンが他者とつながることを(レゴならではのやり方で!)自ら欲した時にゴッサム・シティは救われて、アメコミという終わらない日常が約束されることになるのだろう。ファントム・ゾーンに囚われているのがみなゴッサム・シティに住むことが本来許されていないもの=バットマンを必要としない他社ヴィランたち(キングコング、クラーケン、サウロン、ダーレク、エージェント・スミス、T-レックス、ジョーズ)であったことはあらためて言うまでもない。そういった大団円を経て、オレはお前でお前はオレでという逃れられない関係性の泥仕合こそがアメコミの永久機関であることをあらためて知ってみれば、DCにしろマーヴェルにしろユニヴァースにおいてさらに顕著な甘噛み感がホームドラマのそれであることに今さらながら気づくのではなかろうか。だからそれはいつだって闘いではなく喧嘩なのである。
posted by orr_dg at 20:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

LION/ライオン 〜25年目のただいま〜/同情するなら金送れ

Lion_01.jpg
オフィシャルサイト

フィクションであれば荒唐無稽と一蹴されるような、事実は小説より奇なりという常套句そのものの“強すぎる話”を成立させるためか、地ならしとなる前半のインドパートは思いのほか丹念に描かれて、少年期のサルー(サニー・パワール)が退場するまでにおよそ映画の半分(60分)が費やされている。そのパートでは、表情や身体の動きを驚くほど繊細に操る子役サニー・パワールの名演と彼が次第に堕ちていくインド社会の裏側がサスペンスフルに活写されることで「オリヴァー・ツイスト」的な奥行きすらを持ち始め、仕込みとしてはかなり上々だったのである。ある問題が生じるのは、舞台をオーストラリアに移しサルーをデヴ・パテルが演じるようになってからで、この“強すぎる話”をあくまでサルーの物語と追っていたワタシの前に現れたオーストラリア人の里親スー(ニコール・キッドマン)が、彼女もまた“強い話”を持つ女性であることが次第に明かされていくことになる。それは彼女と夫のスー(デヴィッド・ウェンハム)がインドから孤児を養子に迎える理由の根幹に関わることで、特に彼女の生い立ちとその中で受けた天啓、そしてそれを自身への試練と課すことで育んだ厳格主義的な倫理感が彼女を篤志家を超えた実践者としていたわけで、サルーに続いて迎えた養子マントッシュ(デヴィアン・ラドワ)があらかじめ抱えていた肉体的あるいは精神的問題ですらを、この夫妻はさらなる試練として欲したのではないかと勘ぐらざるを得なかったのである。スーのこうした介入により、映画のメインディッシュとして喧伝されるサルーによる過去の追跡劇は実の母親とスーへの罪悪感の象徴としてのみ機能し、過去に近づくに連れその罪悪感の天秤が傾きを変えていく苦渋だけが延々と見せつけられる上に、作劇上いつサルーが学校を卒業して就職し、その苦渋により仕事も辞めてしまったのかといった時間の経過がまったく描かれないことで、膨大で茫漠とした試行錯誤を経て実家の発見という消失点に至る希望と焦燥のレースがまったく影を潜めてしまっていたように思うのだ。したがって、この映画のピークは既にサルーと実の母が出会うシーンでもあの夜生き別れになった兄の人生を知ることでもなく、前半で描かれるインドにおける子供たちの不幸な実態とそれを養子として迎え入れる里親の倫理的なシステムを周知させたところでスクリーンから告げられるユニセフへの協力を促す瞬間であって、これがユニセフの壮大なプロダクト・プレイスメントだったことをようやくにしてワタシ達は知るのである。その時ワタシは、ルーニー・マーラでさえも箸休め以上に爪痕を残すことを許されない巨大で正しく烈しい力が、スター・デストロイヤーのように頭上を越えていったのを確かに観た。
posted by orr_dg at 15:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

ジャッキー/あれは鳥の音かしら

jackie_01.jpg
オフィシャルサイト

途方にくれた悪魔のため息のようなミカ・レヴィのストリングスに導かれ、幽鬼と化したジャッキー(ナタリー・ポートマン)が黄泉の国を彷徨うがごときオープニングの異様が、これは伝記ではない、陳腐な言葉遊びと笑ってもかまわないがむしろ伝奇であると告げていて、1963年11月22日午後12時30分に粉砕された夫の頭蓋骨と脳漿を半狂乱でかき集めた彼女のおおよそもおそらくはその時一緒にボンネットに飛び散ってしまったこと、そうやって昏睡した空蝉と化した彼女がなお動き続ける自律運動が奥底からの電気信号によっているのだとしたら、その時間に存在したジャッキーこそすべてのノイズが取り払われたオリジンだったに違いなく、ジャーナリスト(ビリー・クラダップ)を前に彼女が行ったのは、そうやって離脱したオリジンを自身に憑依させて語る口寄せだったようにも思うのである。したがって、自身が何を口にしたのか知る術のない彼女が彼のメモをチェックする、というよりは何が書いてあるか知ろうとするのは至極当然だろう。既に破綻した結婚生活を背負いつつファーストレディの座に幽閉された彼女にとって、ホワイトハウスを神殿とする神話を紡ぐことが正気のよりどころであったことを忘れなければ、「俺たちはまだ何もやっちゃいないのに!」と叫ぶボビー(ピーター・サースガード)の言葉を借りるまでもなく、幽鬼のジャッキーを駆り立てるのがアメリカの父となる前に退場を余儀なくされたジャック(キャスパー・フィリップソン)を父殺しの神話に祀る儀式への妄執であることは言うまでもないのだけれど、ワタシ達はその完遂が彼女自身をもアメリカの寡婦として神話の中に捕らえてしまうことを知っているからこそ、彼女が神父(ジョン・ハート)に告げた死の願望をそこに嗅ぎ取ってしまうのだろうし、ひいてはその連鎖がボビーをも連れ出したのだろうことまで幻視してしまうのである。そんな風にアメリカ稀代のアイコンを描くに際しここまで全編に渡って死を通奏低音としたのは、アウトサイダーであるパブロ・ラライン監督にしてみれば、この事件にアメリカ建国以来の性癖である死と理想の相姦を見てとった上で、この国では常に理想と刺し違えるのが愛ではなく死であることを確信すればこそ当然のことだったからなのだろうし、それはダーレン・アロノフスキーがアメリカを視てきた視線そのものとも言えるのではなかろうか。完璧にコスプレしたナタリー・ポートマンはいつにも増して寸足らずではあるのだけれど、例えばナンシー・タッカーマン役に長身のグレタ・ガーウィグをあてるなどしてそれを異形とすることで異化を深々とすることに成功していたし、『ブラック・スワン』での彼女についてはあの映画に居合わせたハプニングとアクシデントの気配をいまだにぬぐえないでいるのだけれど、ここでの彼女は両の手を血に染めて削りだしたゴーレムを自らとして、偽の命を吹き込んではそれを泥の芝生で引きずり回すように操って見せて、ワタシにとってこれが彼女のキャリアハイとなったのは間違いないように思う。いささか酩酊気味に観ていたせいで、薬指から指輪を外したジャッキーがそれを呑み込んだようにみえてしまったのだけれど、この映画においてはむしろそれでもいいとすら思ってしまっている。
posted by orr_dg at 02:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月07日

クローズド・バル 街角の狙撃手と8人の標的/スカムフル・エイト

el_bar_01.jpg
オフィシャルサイト

※若干展開バレ

邦題は羊頭狗肉ギリギリで、おそらく担当者は予告篇だけ見てこの長たらしい副題をつけたのだろうと邪推されてもまあ仕方のないところだし、いわゆるソリッド・シチュエーション・スリラーなのは間違いないにしろ、イグレシアが本領を発揮するのはほぼ前半部分を知らせるに留まった予告篇のその先にあって、いつしか人々は下着姿となってこけつまろびつしつつ、ほとんどマクガフィンと化したあるブツをめぐっては糞便漂う下水で血を洗うバトルロイヤルを繰り広げることになる。『ビースト 獣の日』ではレイシズムを、『気狂いピエロの決闘』ではスペイン内戦の傷跡を、『刺さった男』では拝金の狂騒、『グランノーチェ』では労使問題をといった風に何かしら捨て置けない外部を取り込んでは切り刻むタイプのイグレシア作品に比べると、新妻カロリーナ・バングを見せびらかすための映画であった『スガラムルディの魔女』のように、怪物的な地肩でプロットをなぎ倒しながら疾走するタイプのイグレシア作品であって、これが『REC』の外枠を借りていることや、先だって感想を書いた『おとなの事情』のスペイン版を撮っているのがイグレシアであることなど知ってみると、今はそうやって凪ぐことで過剰なアウトプットを控える時期であるのかなあと少しだけ物足りなくあったりもするのである。とはいえ、オフビートな緊張とグロテスクな緩和による暴力的なアップダウンと、それでいて常にヒューマニティが背中合わせになっているアールのついた語り口はイグレシアスならではで、パンフレットが作られるくらいの公開規模で新作が観られないことの不幸はやはり嘆かわしいとしか言いようがない。思わず見入ってしまうオープニングのタイトルバックはある展開のヒントというか確証となるので、ストーリーが素っ頓狂な素振りを見せ始めたら思い出すといい。「鍛えてるぞ!」の意味の無さをこそワタシは愛してやまない。
posted by orr_dg at 15:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月03日

ムーンライト/月まで泳ごう

Moonlight_01.jpg
オフィシャルサイト

オープニング、インパラから降り立って通りを見渡すフアン(マハーシャラ・アリ)を追いかけるようにカメラもあたりをぐるりと見渡しては、そこに映ったものがこの映画で語られる「世界」のすべてであることの閉塞と絶望と困難をまずは告げてみせる。そしてこれもまた、あらゆるワタシたちにあったはずの『6才のボクが、大人になるまで。』ではあるのだけれど、メイソンのそれが内なる自分を敵と闘う思春の戦場を生き残るビルドゥングスロマンとして祝福のうちに語られたのに対し、シャロンにとって敵はいま自分をつつむ世界そのものに他ならず、したがってそこを生き抜くために綴られるのは、寄る辺のない必然としてピカレスクロマンにならざるを得ないのだろう。だからこそシャロンが手に入れたパンプアップした肉体やゴージャスでうるさい車のどこにもアメリカンドリームの勝ち誇ったマチズモなどあるはずもなく、それは鎧を身につけ砦にこもる生き残りの術でしかないわけで、その中にうずくまるのはかつて放課後のいじめから廃墟に逃げ込んだままのシャロンにほかならない。そもそも自分がいったい何者に変わることができるのか、希望や未来の手ざわりを知らずに育ったシャロンが可能性を人生の尺度とすることなどはかない夢に過ぎず、唯一できることと言えば父の幻想を自分に許したフアンをトレースすることだったのだろうし、ダッシュボードの王冠はフアンの遺志をストリートで受け継いだことの控え目な象徴でもあるのだろう。そして自分のセクシュアリティに関しても折り合いをつけたというよりはやはり鎧の奥に閉じ込めて鍵をかけ、亡いものと殺してしまっていたのだろう。だからこそケヴィンからの電話によって亡霊を視たかのように狼狽したのだろうし、蘇った記憶による混乱とオーヴァーロードを寂寥に満ちた夢精によって描いたシーンは、セクシャリティが肉体を司る精神と直結していること、すなわちセクシュアリティもまた揺るがし難いパーソナリティであるがゆえのやるせなさとままならなさを一瞬で焼き付けて少しだけ震えたりもした。テレサ(ジャネール・モネイ)の手料理、ケヴィン(アンドレ・ホーランド)が作ったシェフのおすすめ料理、フアンに抱きかかえられた浅瀬(言うまでもなくあれは洗礼だろう)、初めてケヴィンに触れられた月明かりの浜辺、ポーラ(ナオミ・ハリス)が伸ばしてつかまえた腕、そして再びケヴィンに抱きすくめられる夜、シャロンが世界とつながることができるのはそんな風に誰かの手ざわりを得た時であって、触れることのできる誰か、触れてくれる誰かがいる限り救いは必ずあるのだという、それは言い古され手あかのついた物言いかもしれないけれど、そこに立ち返りそこから始めなければならない人がいることをほんとうに知ってほしいのだと訴えるこの映画がまとう静かで白い光の美しさは、この111分を祈りと捧げるための曙光であったに違いない。
posted by orr_dg at 23:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月01日

パッセンジャー/寝るジェニファーは育つ

Passengers_01.jpg
オフィシャルサイト


クリス・プラットだからいいようなものの、ジェニファー・ローレンスだからよかったようなものの、とでも言うしかない話自体は言い訳のきかないかなり厭な踏み切りをしてしまうわけで、だったら最初からそんな厭な話にしなければよかったのにと思うくらい、自分で自分の手足を縛り首を絞めてはそこから抜け出そうともがき続けるマッチポンプの鬱屈が宇宙船内を満たしてしまうせいで、茫漠とした宇宙の孤独であるとかいったSFの理由はいつの間にか失われてしまっていたのである。したがってこの映画がスリリングであり続けるのは、いったいいつどんな風に秘密がバレてジェニファー・ローレンスがブチ切れるかというその一点にかかっていたわけで、そうした期待に応えるべく憤怒の表情で打ち下ろしの右ストレートをクリス・プラットの顔面に叩き込む瞬間こそがピークであったのは言うまでもなく、それ以降はいたずらに散らかされた部屋の後片付けを粛々とするようなものであって、散らかした覚えなどあるはずのないローレンス・フィッシュバーンまでがなぜだか駆り出されてはそれを命がけで手伝わされたりするのである。自身の手で可能性をコントロールすべく地球を蹴った2人が蓋然性にひたひた喰われていく悲劇と、それに立ち向かうことで手にした幸福を人間性の証と綴るためにはやはり愛とかいった光ある武器が必要だったのだろうし、ともすればメタファーやら何やらに逃げ込みがちな昨今にあってその一点突破に賭けた試み自体は悪くなかったと思うのである。というのもひととおりを面倒で厭な話にしてしまえば何も苦労することがなかったように思うからで、例えば2人の間に厳然たる階級差をしつらえてやれば(劇中でもあったその設定が生かされなかったのは何とももったいない)『流されて』的な逆転の関係性による愛の形がサスペンスフルであったろうし、あるいは『エリジウム』的な下克上の社会実験が可能だったかもしれない。その場合、ジム・プレストン(クリス・プラット)は代替可能なリペアマンとして宇宙船の意思によって“起こされた”ことになるのが望ましく、オーロラ・レーン(ジェニファー・ローレンス)は宇宙船を擁するコングロマリットの社長令嬢あたりであるのがこれまた望ましい。ただそうなってくると、出会うはずのなかった2人が出会う物語にしては、クリス・プラッットはともかくジェニファー・ローレンスに銀のスプーンをくわえたかごの鳥感が皆無だったわけで、前述した打ち下ろしのストレートなど思い出してみればそもそもクリス・プラッットが主従を逆転する可能性などはなからなかったに違いなく、それはもう散々劇場予告で見せられた、懸命に作品の紹介をするクリス・プラッットに、ああもうまだるっこしいわねとばかりカットインするジェニファー・ローレンスの図に明らかだったわけで、ジェニファー・ローレンスを据えた時点でこの映画はとっくに退路を断っていたということになるのだろう。それにしても医療ポッドである。SF映画は厄介なガジェットを手に入れてしまったものだなあと思うわけで、『プロメテウス』や『エリジウム』をみればわかるように取り扱いには最大の抑制と細心の注意を払わなければならないのは言うまでもないし、行き詰ったシナリオのジョーカーとして安易に切ってしまうとそれまでなけなしで維持してきた作劇のリアリティとサスペンスが霧散してしまうことをもう一度肝に銘じ、一日を医療ポッドに頼ることなく過ごせたかどうかをシナリオライターは日々の矜持とすべきだろう。何だか3秒ルールみたいで品がないんだよあれ。
posted by orr_dg at 00:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月28日

キングコング:髑髏島の巨神/ストレイト・アウタ・1973

kong_skull_01.jpg
オフィシャルサイト

『猿の惑星』のリブートを観た時に“スリップストリームをメインストリームにブラッシュアップする時、CGの超進化が可能にしたあまりに流麗で隙のない大嘘とそれを取り繕うように仕立てられた相克と実存のドラマが醸す正論のとりつく島のなさ”には正直言って辟易しないこともないとか何とか書いた覚えがあるのだけれど、何よりこの映画はそこを完全にオミットしたのが最大の勝因で、自分に服従を誓う者への絶対的な庇護とそれを脅かす者にとっては災厄とも言える脅威となりうる、まさに神としてのコングを祀るためには人間都合の切った張ったはどうでもいい話だしね、とでもいう清々しいまでの人外本位を貫いた監督の勝利だったように思うのである。では、サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・グッドマン、リチャード・ジェンキンス、ジョン・C・ライリー、トム・ヒドルストン、ブリー・ラーソンといった新旧の手練れたちがなぜ必要だったかと言えば、演技の深淵など見せずともその上澄みにたたえた滋養が可能にする豊潤なハリボテこそを欲したからで、その中に放り込まれたプロダクト・プレイスメントとしてのジン・ティエンがどれだけ木偶に映ったかを考えればその意図が明白なのは言うまでもなく、『ジュラシック・パーク』のメインキャストがジャンル映画らしからぬ演技派を揃えていたことなども思い出すのである。最初のヘリ戦において早々に人喰いとしてのコングを復活させることでPJコングは参照リストにないことを告げた点も話が早いし、これまでのキングコングでお約束となっていたロマンス要素では、女性からの(あくまでも愛情ではなく)同情とコングからの憧憬といういわゆる美女と野獣的な関係性の身勝手な傲慢が、正直に言うとさほどしっくりこなくて居心地が悪かったものだから、何よりそれを不要とバッサリとオミットした監督の慧眼こそをワタシは讃えたいと思う。死んでいく人間が片っ端から犬死になのも、神の国における鼻くそ程度の人間風情を嘲笑うようでたいへん気分が良い。できればパッカード中佐(サミュエル・L・ジャクソン)にはエイハブ船長のファナティックよりもキルゴア中佐の如き真顔の狂気で歩んで欲しかった気もするけれど、そうすると例のアレを言えなくなってしまうがゆえ(言ったかどうかはともかくとして)やむを得なかったのなら、まあ仕方あるまい。80年代生まれの監督にとって、セーフティネットとしてのインターネットなどまだない、世界に切り込むならおのれの頭と身体でそれを可能にするしかないロウパワーに溢れた無骨で歪な70年代がノスタルジーではなくルネサンスとして映るからこそ批評というよりは衒いのない同化に焦がれたのだろうし、この映画の痛快と屈託のなさはそうやって監督が手にした解放感がもたらしているのは間違いがないところで、喪失と再生を吸飲したペシミズムのオーヴァードーズにつかまることなく振り切ったその爽快な逃げ足こそがやはり新しかったのではなかろうか。ブロンドの色香に惑ってはビルから墜ち続けるコングではなく、チェーン&スクリューを手にして、お!これ使えるんじゃねえか?とテンションが上がったりとか、あんまりめんどうかけんじゃねえぞ、まあいいけどさ、みたいにぶつくさ言いながら帰っていく後ろ姿とか、そういう自由で独立したコングが観たかったんだよ。
posted by orr_dg at 18:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月21日

おとなの事情/月がとっても黒いから

perfect_strangers_1.jpg
オフィシャルサイト

※若干展開に触れているので、鑑賞予定の方スルー推奨

結局のところ夫婦や恋人にしたところが赤の他人(原題 "PERFETTI SCONOSCIUTI" )であって、自分が見せたい自分という幻想の共有が可能な相手として互いにフィットしたにすぎないわけで、ならばその幻想が隠す部分をことさら取りざたしないのがその関係性においてはフェアなはずだし、より広義にワタシたちを社会的な動物としてとらえた場合、その隠された部分=プライバシーとして尊重されるべきなのは今さら言うまでもないから、わたしたちに秘密なんてないでしょ?と言って開始されるゲームそのものが既に掟破りでフェアではないのである。そもそもエヴァ(カシア・スムートニアック)は、ある事情により自分の身の安全が保証されていることもあって、なかなか隙きを見せない夫への苛立ちからそのゲームを言い出したにすぎず、SNSなりスマホなりがもたらしたパラダイムシフトに否応なく巻き込まれていく人々の悲劇というわけでもないのである。観る前はそれなりにグサッと刺さって自分の返り血を浴びることになるのかなと少々ビクついていたりもしたのだけれど、デジタルデヴァイスの暴力性をトピカルに描くことが監督の目的ではないことはラストのオチで明らかなのと同時に、前述した幻想と秘密の保持の上に人間の尊厳が成り立っていることを告げているし、彼や彼女の秘密を知っていくことでそれが例えろくでなしの所業だったとしても、96分を経た最後にはそれぞれに人間としての奥行きというか陰影がより滲んだようにすら思ったのである。ただ、引きずり出される秘密と嘘の数々にあって、ペッペ(ジュゼッペ・バッティストン)の場合はそれが本来隠すいわれのないことである点で異質であり、そのことをきっかけに始まるレレ(ヴァレリオ・マスタンドレア)とコジモ(エドアルド・レオ)の衝突によって、差別とは個人の尊厳を剥奪して記号化していく作業に他ならないことをきちんと線を引いて伝えているあたり、伏線としての厚み以前に監督がどうしても言っておきたいことだったのだろうと考えたりもした。このシークエンスに限ったことではないのだけれど自分たちの始めたゲームが実はロシアン・ルーレットであったことに気づいていくことで、オフビートコメディがほとんどソリッドシチュエーションスリラーの様相を呈していく舵取りに終盤の客席ではすでにくすりとも笑いが起きなくなっていたのだけれど、なるほどそういうわけで月食の夜なのかという仕掛けの他愛のなさには救われた気もしたのだった。おそらく今後あちこちでこのリメイクが作られるだろうけれど、例の差別問題がシビアな国ほどツイストが効果てきめんとなるのはなんとも皮肉に思える。
posted by orr_dg at 16:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

アメリカン・スリープオーバー/きっと死ぬまで夏なんだ

american _sleepover_01.jpg
オフィシャルサイト

いつもの夏の夜を素知らぬ顔でやり過ごそうと、まるでシェルターに避難でもするかのように、寝袋を抱えた彼や彼女らが逢魔が刻をすぎた通りを三々五々集まってくる。その顔に浮かぶのは、昼に気づいた胸騒ぎの答えが夜になれば見つかるとでもいう作り笑いのような楽観で、自分たちにはそれが許されるはずだというただそれだけを裏づけに夜を従えている。しかし、開催される4つのスリープオーバーのそれぞれに一人づつ、自分を夏の夜に委ねてしまうことの焦りや怖れ、楽観のツケに関する気配といったいびつな塊がポケットに入りきらなくなった彼や彼女が不穏分子となり、しかし、夏が過ぎ夜が終わった後でいったい自分はどこにいるのか知る由もない苛立ちを背負ったまま夜の街路をほっつき歩き、あるいは走り出し、車を走らせ、踊りだしたその後で、オプティミズムのおぼつかなさと釣り合う塊の正体がペシミズムであることを知るのである。それについては片岡義男が“だからこそいま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と完璧に解題していて、マギー(クレア・スロマ)がスティーヴン(ダグラス・ディードリッヒ)のキスを好意的に拒んだのは、そのキスが夏と夜と自分を永遠に変えてしまうであろうことを十代の本能で知ったからに他ならず、それはそれで決して嫌なことではないけれど、少なくとも明日の朝ベス(アネット・ドノワイエ)とパレードで踊るまではペシミズムなど知らないままでいたいのだとするしなやかな拒絶こそが、この映画のマニフェストだったのではなかろうか。けれど心に残って消えないのは、よく晴れた日に華やぐパレードから遠くにいる彼や彼女のことであって、思春のアナーキストとして夜の通りを走り抜けたクラウディア(アマンダ・バウアー)と、「今までに一度だって君は考えたことが…」のその先を言えるはずなどないことを知りつつ身を切るような嘘をついたマーカス(ワイアット・マッカラム)にとって、青春は自分を刺しにくる存在でしかなく、先手を打つか身をかわすか、いずれにしろモラトリアムを脱ぎ捨てストリートワイズを身につけるしかない青いメランコリーがどうにもこうにも胸に痛くてたまらない。9月にはじまる新学年を前に、夏の訪れと共にひとたびリセットされたならその夏の間じゅう自分は世界にとって何者でもなくなるのだという圧倒的で底無しの自由と不安を、日本の学校制度で十代を過ごしたワタシはまったく知る由もなく、したがってペシミズムの前段としてのノスタルジーよりは完璧なファンタジーとしてこの映画も存在するわけで、やはり胸を張り裂くのはこの夏に自分が永遠に間に合わないことへの性急な焦燥でしかなかったのである。神話の勃興と終焉という意味ではその影を意識せざるを得ないのは仕方のないことで、終盤で登場する、恋人たちが深夜にネッキングする廃墟が『イット・フォローズ』への入り口であるのは言うまでもないだろう。焦がれ続けた彼女にそこでようやく出会ったロブ(マーロン・モーロン)がいともあっさり彼女から立ち去るのは、彼女が既にあちらの世界、すなわちセックスによって生と死の循環に組み込まれた世界の住人であることを知ったからで、そこに堕ちていくことへの甘美な憧憬と畏れが培養する十代の悪夢を名乗る怪物については、既に『イット・フォローズ』においてワタシ達は詳しいはずである。そしてこの2作の血筋について考えてみた時、やはりそれを神話の生と死とするよりは切り離されたシャム双生児と崇め鎮めるのがふさわしく、そう考えてみれば2010年のこの作品がいまだ『イット・フォローズ』と同じ鼓動で脈打っていることも何ら不思議ではないように思うのだ。夏を殺さないと夏に殺される。
posted by orr_dg at 02:16 | Comment(1) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

お嬢さん/アイ・ワズ・メイド・フォー・ラヴィン・ユー・ベイビー

the_handmaiden_01.jpg
オフィシャルサイト

ミイラ取りがミイラになる話を誰も見間違えることのないよう、表地(第1部)と裏地(第2部)を丹念に見せた後で、ではそれを合わせてみた時に(第3部)いったいそこにはどんな模様が映し出されるでしょう?という謎かけそれ自体は『コクソン』とは対照的に明快すぎると言ってもいいくらいで、いわゆるコンゲーム的な妙味はあくまで借り物程度に留められている。その仕掛けと仕組みからすれば当然のこととして非常に芝居がかった第1部に比べ、まるまるをサブテキストにあてた第2部がこの映画の心臓といってもいいわけで、植民地と階級および性差というがんじがらめの支配構造の中で自由を手にするための機会を手に入れた2人が、愛と憎しみの使い方を生まれて初めて知ることで一発逆転の大勝負に出る姿の躍動と発熱にフレームがゆがむ瞬間こそがこの映画のピークなのは間違いないように思う。そして最後に塀を越える瞬間、スッキ(キム・テリ)はトランクを並べて秀子(キム・ミニ)に最後のひと押しをしてやるのだけれど、一度そこを越えて走り出した2人にもはやお嬢様と小間使いの関係などあるはずもなく、ラストで据えられる美しいシンメトリーこそが、この映画が2時間半をかけて映し出そうとした代替え不能な自由の意匠なのだろう。ただ、表と裏を見せつける機会を与えられた秀子、スッキ、藤原伯爵(ハ・ジョンウ)に比べると、悪の権化としての上月(チョ・ジヌン)は最後まで記号化された変態としての域を出ないままで、あれだけの道具立てと舞台仕立てを幻視し作り上げた男にしては、伯爵に秀子の痴態を描写するようせがむ場面での、フェティシズムの欠片もないただ突っ込みたいだけのオヤジでしかない薄っぺらさに(これは字幕の問題であって、ネイティブには響いたのかもしれないけれど)少々興ざめしたのである。この映画における第1部にとどまった(というかとどめられた)『イノセント・ガーデン』への会心にしてオーヴァーキルな返り討ち。それにしても、いったい今までどこにいたんだ、キム・テリ。
posted by orr_dg at 19:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月14日

哭声 コクソン/お隼さん

the_wailing_01.jpg
オフィシャルサイト

※若干ネタバレにつき鑑賞予定の方スルー推奨

ほぼラスト近くのあるシーンで山の中の男(國村隼)の手のひらに刻まれたあるモノを観た瞬間、エピグラフの意味がようやく呑み込めたのと同時に、悪玉と善玉の対立というオカルト・ホラーの定形を借りた上で、それをただただうっちゃりたいがためにわざわざ土俵際まで不自然に誘い込むその手立ての、語り口で捻るよりは映画の構造そのものを撹乱することでその撹乱それ自体を感情へと直結させるナ・ホンジンが、どうしたって磨きをかけずにはいられないのはやはりそこなのか!という歪でよこしまなサービス精神には敬服せざるを得なかったのである。それでも今回は、コメディ→トラジコメディ→トラジディというラインをジョング(クァク・ドウォン)に一貫させたことで最低限の着地は行われるし、優れた韓国映画が持ち合わせる、忘れがたく敗けるにはいったいどうすればいいのかという妄執の粘度と濃度と彩度に首を絞められ鬱血しつつ、しかしあらかじめ小さく空けられたオフビートの空気穴によって新鮮な空気が送られ続けることで、ジャンル映画の気楽さも終始維持されていたように思うのだ。前述したようにエピグラフの示すところの意味が分かるのは、というか分かったような気になるのはほとんど映画が終わる寸前で、そこからふり返って終始一貫していたのはいったい誰だったのかを考えてみれば、やはり目撃者ムミョン(チョン・ウヒ)と相対していた人間が娘ヒョジン(キム・ファニ)を苦しめていたことになるのだろうとそれなりにピースを埋めてみたりもするのだけれど、人智を超えたところでいにしえより繰り広げられてきた善と悪がせめぎ合う、その勢い余った一手がある田舎の村をなぎ払っていく無慈悲の物語の、とりわけ善きものであるはずの存在が真夜中の路地裏でジョングに告げるのは、善きものは悪しきもののために存在しているにすぎず、その間で苛まれる曖昧な善し悪しのワタシたちに対しては実は無力なのだという告白であり、神のごときですらが途方に暮れる敗け方とそれを肯定すらするラストは、ペシミズムの暴力性を絶対零度と唱える韓国映画の面目躍如としか言いようがないのではなかろうか。絶えず余白に暗闇を湛えるシネスコの寂寥と、汚れと穢れを一分の隙なく組み上げた圧倒的な美術にも眼福でため息が出る。クァク・ドウォンや國村隼は言うまでもなく、映画の不穏分子としては、かつての夏八木勲を呼び出すようなファン・ジョンミンのしなやかな野卑が相当に効いている。
posted by orr_dg at 23:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月07日

ラビング 愛という名前のふたり/早く家に帰りたい

loving_02.jpg
オフィシャルサイト

都市生活者の憂鬱でも郊外生活の生き地獄でもない、ジェフ・ニコルズが手を貸して連れそうのは、ブルース・スプリングスティーンが ”Darkness on the Edge of Town” と歌ったアメリカの暗闇に妻や子供、恋人が堕ちてしまわないよう見守るキャッチャーに他ならず、イノセントとノット・ギルティの間でどこかしら途方に暮れたように立ち尽くすその風情は、大人になったホールデン・コールフィールドのように思えたりもするのである。今作ではそれが寓話や拳銃の助けを借りることなく、逆に言えばどこにも逃げ場のない物語として顕わになる分だけ、キャッチャーを自任するホールデンに対する守護天使としてのフィービーがジェフ・ニコルズ作品におけるヒロインに投影されてきたことにも気づかされるわけで、主人公が守っているつもりが守られているという相互依存でも共依存でもない互いを慈しむ黄金律は、今作においてもミルドレッド(ルース・ネッガ)がジェシカ・チャステインやリース・ウィザスプーンのそれをタフで鮮明に継承してみせている。ブルックス保安官(マートン・ソーカス)の取り調べによって、かつてリチャード(ジョエル・エドガートン)の父がミルドレッドの父に雇用されていたことが語られること以外、リチャードとミルドレッドのなれそめはまったく語られることもなく、それはおそらくリチャードのレッドネック然とした佇まいが物語を強化することを見越したワタシのような観客をたしなめる意図もあってのことなのだろうし、そうした色眼鏡をはずさせることで、普通に恋をして愛を育み、子供が出来たことで正式に結婚し家庭をもつというただそれだけのことを真っ当に遂げようとするどこにでもいるアメリカのカップルが立ち向かわねばならない理不尽の卑劣をいっそう浮き彫りにしたのだろう。したがってリチャードはリベラルな反逆者といった風に保安官や判事に敵対するでもなく、体制の決め事に対しては淡々と踵を返して生活を優先させるのだけれど、その愚直なまでの揺るぎのなさは裏返せば自身の自由を宣言する試みでもあるわけで、いつしかリチャードの背中に『暴力脱獄』のルークがだぶって見えたりもしたのである。それだけに、黒人の友人から「今となっちゃお前も黒人みたいなもんだけど、お前はまだやり直しがきくんだよ、おれは黒人だから無理だけどな、それはな、離婚すればいいんだよ、簡単だろ」と言われ、小さく笑みをうかべてうつむきながら「離婚、か…」とつぶやくリチャードの、いったいこの世の中にはそれほど残酷な言葉があるものなのかと口にした自分を呪いでもするかのような苦渋には胸が張り裂けそうだったし、その出来事があった夜「何があっても俺がお前を守る」と言葉少なに繰り返すリチャードに「わかってるわ」と小さくうなずくミルドレッドの姿は人間が互いに為しうる幸福の最も満ち足りた瞬間をとらえ、そしてそれは心の底からそうあろうとすれば誰でも為しうることを告げていたのではなかろうか。レンガを積み、車をいじり、妻の手を取って肩を抱き、そうやって手ざわりのあるものだけを信用していれば間違いはないのだとする日々の確信を細やかに積み上げる美しい手際には小さなため息の止むことがなく、自由と差別の分断が進行する国にあっては、ジェフ・ニコルズやデヴィッド・ロウリーらが見渡すアメリカの土地勘が今後いっそう大切な指針になっていくように思うのである。
posted by orr_dg at 02:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする