2022年03月15日

ザ・バットマン/A Portrait of the Vigilante as a Young Man

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ゴードン(ジェフリー・ライト)の手引きで取調室を脱出したバットマン(ロバート・パティンソン)が屋上に通じるドアをあけて飛び出すとそこはもう高層の縁で、眼下の遥かな高さと背後にせまる警官たちとの間で、あろうことかバットマンがほんの一瞬とはいえ顔色を変えてダイヴィングを逡巡するのだ。すぐさま意を決してウイングスーツを展開して摩天楼を滑空するも、その逡巡を御しきれないままあちこちに激突しながらの着地は不時着といってもいい無様なダメージを伴うものであったのだけれど、いまだ感情にまかせたまま何者にもなっていないピーキーなバットマンを抽出する瞬間として、しごく忘れがたいように思ったのだ。ここでのバットマンはバットスーツという戦闘服を着たブルース・ウェインに過ぎず、いかにしてバットマンが自身のペルソナを獲得していくのか、その彷徨をマット・リーヴスは倦怠と高揚のないまぜで追っていくわけで、かつて地獄巡りに焦がれる青春のLowがパッケージされては消費された時代のBGMとして引用されるニルヴァーナは、その時代をその気分で潜ったことのある者にとってララバイの響きすらあり、この物語を終始支配する窒息寸前のアドレッセンスの震えをそのままカート・コバーンの歌い出すキーとすることなど手癖のようにたやすく馴染みだったのだ。してみると、監督が課した使命はブルース・ウェインをカート・コバーンの道行きから引きはがすことに他ならず、いずれそこに行きつくにしろ『ダークナイト』のアンチテーゼとしてバットマン/ブルース・ウェインが己の使命を光の騎士としたラストに、マット・リーヴスはもう一つの新しい未来を夢想することすら許したように思えたし、となれば世界に対する負債の量と質とで生き死にが決まるノワールの足かせを監督が選んだことにも得心がいったのだ。かつて命取りになった高潔の刃を抜き身で忍ばせながらゴッサムの裏通りを徘徊するブルース・ウェインに、いつしか原作版「L.A.コンフィデンシャル」のエド・エクスリーを重ねた身としては、ダドリー・スミスをJOKERに善悪問答ではない世界の負債をめぐるノワールの攻防をハードエッジなゴッサムで繰り広げることを願ってやまずにいる。あのペンギン(コリン・ファレル)の眼差しは、既に死闘の予感に身震いを隠さない者のそれではなかったか。
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2022年03月11日

ポゼッサー/はっきりしたのさ、愛はいらない

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ブランドン・クローネンバーグがそのラストネームから自由になることにそれほど頓着しているように見えないのは、彼の内部ではとっくにその幻視世界を棲み分けていることの自明と自負が、特にそのことを目的にするでもないまま築かれているからなのだろうし、それは例えば、愛はどこへ行った?と問われた場合、愛は最初からそこにずっとあってそのことしか私は語っていないと答える父に対し、どこへも行っていない、なぜなら最初からそれはそこにないからだと答えるのがブランドンであり、今作はそのマニフェストとして謳われたといってもいいだろう。タシャ・ヴァス(アンドレア・ライズボロー)にとって別居する夫マイケル(ロシフ・サザーランド)と息子アイラ(ゲージ・グラハム・アーバスノット)との絆こそが彼女が振るう暗殺の手腕を鈍らせかねないノイズであり、それに対処するための地獄めぐりこそを監督はサスペンスとして抽出し続けていて、彼女がたどり着きたかった場所とそこに至る葛藤の方向さえ見誤らなければ、マイケルとアイラを葬り愛や希望という名のリミッターをはずすことで、自身を奥底で駆動する感情の絶対値とそれがもたらす安寧を手に入れたタシャのハッピーエンドを祝福しないわけにはいられなかったのだ。かつて父がまみれた肉体とクロームが溶け合うオブセッションを、ブランドンはナイフや火かき棒といった無骨をひたすら直截に肉体へと突き刺すことでその出会いのロマンスを無効化してみせていて、かつて父が身をおいたフィールドをあえて追走しつつエピゴーネンやパスティーシュの跳弾を寸止めでかわすブランドンのニヒルは、今のところ非常に信頼に足るナイフさばきであるようにワタシには思える。血の照りと粘度へのフェティッシュもとても具合が良い。
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2022年03月06日

ゴヤの名画と優しい泥棒/絵に描いた餅を喰え!

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ウクライナを舞台にした物語を想い出しているうちに、ユダヤ系ウクライナ移民の血筋にあるリーヴ・シュレイバーが監督した『僕の大事なコレクション』とその原作の「エブリシング・イズ・イルミネイテッド」が頭に浮かんで、やはりウクライナ移民の家系にあるユダヤ系アメリカ人の原作者ジョナサン・サフラン・フォアはその出自を補助線に、ウクライナとユダヤとナチズムの屈折した三重クロスをポップでシニカルなダイナミズムで解題してみせているのだけれど、自身の創作スタイルともなっている「ユーモアだけが、悲しい話を真実として伝えられる」という彼の言葉が、この映画を観たあとであらためて沁みわたったりもしたのだ。1961年のケンプトン(ジム・ブロードベント)が暮らすニューカッスルの街に活写される猥雑なヴィヴィッドに、『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』の冒頭スケッチで描かれるアンニュイ=シュール=ブラゼの街角が一瞬重なって見えて、コメディとスラップスティックの質は違えど「絵画」「反乱」「誘拐」の三題噺が連れてくる仄明るいメランコリーと、悲しみをくぐった者だけがたどり着く共助の風景に、図らずもウェス・アンダーソンの奥底までが垣間見えたようにも思えた。幸福が世界との同化だとするならば、悲しみは世界との余儀なき相対化とも言えて、そこで自分と切り離された世界(=あなた)をふたたび認識しない限り伸ばした手は空を切り続けるわけで、持たざる者のノブレス・オブリージュに邁進するケンプトンがなぜ「わたし」と「あなた」とを接続することに自らを捧げ続けるのか、悲しみの果てに幸福があることを信じつづけるのか、法廷で裁かれる彼の罪こそがその答えに他ならないという温かだけれど揺るぎのないサスペンスの、ずっとそこにあったのに誰も気づかずにいた手触りは清冽な驚きとなり、それを受け止めようと立ち上がり手を差し出しては、おもわず背筋を伸ばしてしまうのだ。あなたたちは知るまいが、私にも逃しようのない悲しみがあるのだと目をそらすことをしないグロウリング夫人(アンナ・マックスウェル・マーティン)が、ドロシー(ヘレン・ミレン)への共感とケンプトンとの共闘を茶目っ気たっぷりにこなして影のMVPとなっている。
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2022年02月20日

ウェスト・サイド・ストーリー/おまえだけのダンスを踊れ

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幸か不幸か主演俳優が沈んだことでトニーを視る目のあらかたが沈まざるを得ず、ワイズ版でも感じていたトニーの当事者意識の薄さがもたらす狂言回しとしての役割がより色濃くなったことで、スピルバーグが注力した対立と分断の構造がいっそう明確に浮かび上がったのはワタシにとって僥倖といってもよく、まるでステージライトのように人工的なぎらつきが暗闇から誘い出す禍々しさは、ミュージカルというスタイルの非現実を悪夢のレビューと誤読することに頷いてみせた気すらした。ワイズ版では単なる善人の域をでなかったドクをその妻ヴァレンティナ(リタ・モレノ)に書き換えたというよりは更新したことで、非武装地帯としてのドラッグストアでアニータを救う場面での、不良たちを破滅させるマチズモへの怒りと哀しみをあらわにする彼女の一喝は、今作がつづれ織る人種とジェンダーのレイヤーをあらためて解題してみせるし、ここでジェットガールズがアニータに手を伸ばす必死もまたワイズ版にはない補助線となっていたのは言うまでもないだろう。そしてもう一人、ワイズ版にくらべてメランコリーの細やかな陰影を描き込まれたチノは、劇中でただ一人未来を見据えて歩く人として現れながらやはりマチズモの犠牲者としてその役目を果たしてしまうことになるのだけれど、シャークスとジェッツを等しく脅かすものとしてジェントリフィケーションの足音をしのばせたことからもうかがえるように、スピルバーグは分断の悲劇を歌い上げるというよりは分断をもたらす背後の闇を見据えよと歌い示したわけで、ブロードウェイ&ワイズ版から半世紀を超える時を隔てて今なおそれを告げねばならない世界に住む者として、スピルバーグのそれは礎となってきた先達への懺悔にも似た歌声にも聞こえたのだ。そしてベルナルドのナイフに胸を貫かれてトニーの腕の中に倒れ込むリフが今際の際にみせる笑顔こそはこの物語で唯一行われた正気への反転であったと共に、この世界が目指すべきはあの笑顔でしかないのだとスピルバーグが告げた正解だったのではなかったか。いくどとなく『ウォリアーズ(1979)』のスワンに重なってみえたリフがいつの日かスワンのように生き延びることができるまで、同じ阿呆なら踊らにゃ損だぜと笑いながら数え切れないくらい何度も彼は死んでいくのだろう。
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2022年02月14日

クライ・マッチョ/盗んだベンツで走り出す

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ひたすら虚無を歩き続けた老境の木枯し紋次郎を藤沢周平が恬淡の筆で描いたかのような、漂泊の終りの思いがけない日ざしに思わず目をすがめてしまう。いろいろな人やできごとを見過ぎた俺はもうこれからは見たいものしか見ないのだとでもいう、老いらくのファンタジーが物語の底を踏み抜いていることはイーストウッドも百の承知の上で「おれたちが運び屋だとでも思ったか、この馬鹿が」とイーストウッド警察たるワタシたちを罵ってみせるばかりか、意味ありげに車のトランクから布きれをはみ出させては、これに気づいた誰かの連れてくるサスペンスでも期待したんだろ?え?とさらにおちょくせってみせるのだ。マチズモやミソジニー、ホモソーシャルの軸足を様々に入れ替えながら演じて撮ってきたイーストウッドが、マイクという老ロデオスターの言葉を借りて一人の少年を相手に伝えようとしているのは、マッチョであることには何の意味もない、人が彼をマッチョと呼ぶ時そこに見つけている勇気や闘志を何のために使うかが問題なんだ、マッチョと呼ばれることに人生の答えがあると思っているなら、お前がおれの年になった時、その手の中も胸の中も空っぽで何も残っていやしないよ、というどこか他人事ですらある醒めた悔恨の響きであって、孤高の背中なんぞにはとっくに興味も何もない、この手に何か手触りを与えてくれる人がいるなら俺はそこへと一目散に盗んだ車を走らせるよ、というラストの吹っ切れたような清々しさこそがイーストウッド91歳の心持ちなのだろうし、そんな風に生き延びた者の特権としてこの映画はあるのだろう。イーストウッドの中をさらさらと流れる水に浸した筆で描いた一筆書きのような登場人物たちは、相変わらず木偶の趣で奥行きの必要もないままただそこに居続けるばかりで、本当のことを言えばもう俺は実存のくびきとかそういうことすらどうでもいいのだとばかり、全ては全体性に均されて水のような感情に呑み込まれていくのだった。そして何より、そうそう誰にでも許されているわけではないこの異形(偉業ではない)の成果を目撃できるめぐり合わせを、ワタシは感謝したいと考える。それはまるで、ついには光に溶けて消えていった晩年のターナーのような越境にも思えたものだから。
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2022年02月09日

ブラックボックス:音声分析捜査/僕の音が聴こえるか

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ノエミ(ルー・ドゥ・ラージュ)はなぜグザヴィエ(セバスチャン・プドルース)ではなくマチュー(ピエール・ニネ)を選んで夫としたのか。自身の野心と上昇志向が時として苛烈に過ぎることを知る彼女は、いずれ繰り広げてしまうだろうグザヴィエとの殲滅戦よりは、人生の正気を確認するためにもマチューの私欲を欠いた安寧と愛情を必要としたのだろう。一方でマチュー・ヴァスールという男は、誰よりも聴こえてしまうという特性とそれを論理に帰結する能力の卓越が未来の安全を担保する点においてフェイルセーフの欠かせぬ一環をなし、私生活においても職務においても彼のあげる声が危機回避の予兆となる点で炭鉱のカナリアの役割を引き受けることとなり、そうした二重底の造形を彼に鍛えたことで、一人の男が揺るぎを知らぬ倫理の刃で運命の殺意に立ち向かう激情と哀惜が青い炎となって、冷酷なスリラーを燃やしつくしたのではなかったか。人為のAIへの置換が促すシステム管理者への権限と権力の集中はもはやそれ自体を目的としたアルゴリズムの支配にも思え、その象徴としてあるグザヴィエと刺し違えたのが一枚の基板というフィジカルであったことがこのモダンなスリラーに寓話の説諭を書き記した気がしたし、狂気の一歩手前まで精神を差し出したマチューの正義や善性というよりは真実の追求と遂行が連れ出すヒロイズムこそが、待ちわびて久しいアラン・J・パクラやコスタ=ガヴラスの気分だったことを思い出したりもしたのだ。マチューの甥が飛ばすドローンが目に映った瞬間、ああこれは『スティルウォーター』におけるサッカーのチケットだ、とブーストの予感に包まれて息をのみ、それからすべてがドミノ倒しのように雪崩を打って予感と思惑を呑み込んでいく昂奮と、それが求める生贄はいったい誰の匂いなのか、思想と感情を提出する作劇において常にフェアであろうとする監督の誠実さがさらに加速と発火を誘い、飛び去ったカナリアのメランコリーに嘆息することも忘れていた。
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2022年02月05日

フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊/世界の意図を伝えよ

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「私らは探してる。置き去りにした何かを」ネスカフィエ警部補(スティーヴン・パーク)がつぶやいたその言葉を記した原稿を丸めて棄てて没にしたローバック・ライト(ジェフリー・ライト)に、アーサー・ハウイッツァー・Jr(ビル・マーレイ)は編集長として、いやこれこそが肝だろうよと原稿のしわを膝の上で伸ばしながら言うのだけれど、その瞬間、ああ、ウェス・アンダーソンは手の内と言うか種というか何かそんなものを言葉で明かしてしまうことにしたんだな、と別に落胆とかそういった気分でもなくむしろ清々しい気分でそれを聞いてみたのだ。自分の意に沿って、あるいは意に反して目の前から消えてしまった人やモノへのメランコリーと感傷、そしてそれらがもたらす躁病的なペシミズム、ワタシたちの記憶のあらかたなどおおかたがそんなもので、そしてワタシたちの「ワタシ」を形づくっているのが記憶の集積だとすれば、ワタシたちの生きる理由と意味は置き去りにした何かを探すこと以外にあるのだろうか、といういささか明晰がすぎるセリフにも思えたわけで、編集長アーサー・ハウイッツァー・Jrの追悼号にして最終号を飾るカヴァーストーリーが、失われつつあるもの(「自転車レポーター」)、失われなかったもの(「確固たる名作」)、失われたもの(「宣言書の改訂」)を主題に変奏しつつ、冒頭の言葉を擁する「警察署長の食事室」がマニフェスト=宣言書の役目を果たす構造は至ってシンプルに思えたし、ジジの目がのぞき穴からとらえた瞬間パートカラーに変転するショーガール(シアーシャ・ローナン)の青い瞳もまた彼にとっての“置き去りにした何か”になるのだろうことを強烈にうかがわせて、ワタシですらもふたりのあの一連をどうにも忘れがたく思ってしまうのだ。しかし、そうしたあけすけがいつになく与えられたとは言え、いつもの箱庭療法的な神経症のスラップスティックが今作ではやけに親密でなじみのリズムに感じられるのは、もしかしたら否応なしに押し込められて久しい世界の閉塞にワタシが順応したことによっているせいなのかもしれないなあと、この2年間でワタシが置き去りにした何かにあらためて想いを馳せることを促された気もしたわけで、クレジットロールに添えられたバックナンバーのカヴァーに溢れる健やかな自由と諧謔の気分がいっそうそれを急きたてたのか、なんだか頭と胸が熱っぽくツンと疼いて仕方がなかった。
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2022年01月29日

スティルウォーター/泣くのが怖い

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「竜巻がこの街をめちゃくちゃにしたのも今度が初めてってわけじゃないんだろ?」「でも住んでたらやつらはまた戻ってきてここに住むんだぜ」「アメリカ人は変化が好きじゃないからな」何気ないように思われた冒頭のメキシコ人たちの会話がどんな風にめぐりめぐってビル・ベイカー(マット・デイモン)の身にふりかかり、「人生は冷酷だ、すべてが変わってしまったようにしか視えないし、視えているものが何なのか何もわからない」と押し殺すように独白させたのか。かつて『扉をたたく人』で、911によって正気と狂気に引き裂かれたアメリカにその分断された世界の相対性を迎え入れる覚悟を求めて絶対性の愉悦に訣別を突きつけたトム・マッカーシーが、おそらくは幾多の絶望の末なのだろう、いっそうの寄る辺ない荒療治をアメリカ=ビルに施して相対性の地獄に放り込んでは、すべてを取り上げられた彼を混乱させ途方に暮れさせて、ゼロから始めるしかない場所までひたすら追い込むことただそれだけを映画に課している。自分の目に映るものと自分の手に触れるものを世界のすべてとして愚直に生きることしか知らず、それゆえ夫としても父としても他者=世界への想像力を圧倒的に欠くビルは取り残されたアメリカそのもので、しかしそこが言葉も通じない異国の地であったことで図らずも彼は大きな子供としてリスタートするチャンスを与えられ、親子が互いを尊重し責任を課すヴィルジニー(カミーユ・コッタン)とマヤ(リロウ・シアウヴァウド)との生活が彼の目と手に奥行きと思慮を育てて疑似家族すらを可能にすることとなる。しかし、ビルがそれを構造的に理解していたとは言わないまでも、アリソン(アビゲイル・ブレスリン)をめぐる事件の一連において自分の娘にもまた差別と分断のまなざしが宿っていたこと、そしてそれが引き起こしたことによって自分はヴィルジニーとマヤと巡り合い最後には引き裂かれたことを、ラストシーンのビルはいまや知ることができてしまうわけで、前述した「人生は冷酷だ、すべてが変わってしまったようにしか視えないし、視えているものが何なのか何もわからない」というビルの言葉は成長痛のようにその胸へと突き刺さり、世界と相対的に向かい合うということは少なからず政治的な生き物として自分を捉えなおすことで、それを成熟と呼ぶことをトム・マッカーシーはアメリカに求めていたように思うのだ。飼い主がいなければ生きていけない野生動物という矛盾を、それこそはアメリカそのものなのだけれど、終身刑の囚人にして模範囚であり続けるかのようなその背中にデザインしたマット・デイモンの肉塊が時として神々しくすらもあった。
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2022年01月21日

ハウス・オブ・グッチ/アダム・ドライヴァーは二度死ぬ

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構造上2度ほど目にすることになる、自転車を漕ぐマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)の手放し運転の、わけもなく高揚した気分に思わずハンドルから手を放してはみたものの、やってみたらそれは自由でもなんでもなくむしろ無用の緊張を強いる行為であったという笑顔の行き止まりだけがこの物語で唯一目にした余白の瞬間であったという、すべての感情は映像でデザインすることが可能だと、特にダリウス・ウォルスキーのカメラと邂逅して以来それを信じて疑わぬサブテキスト殺しの御大が最適解を連ねた結果、絵巻物としては眼福ながらスマートで合理化されたフローチャートにタメや揺らぎはオミットされて、喜んだのはワタシの網膜だけだったという、ストレスフリーこそがストレスを生んでしまう御大の現代劇が時にきわどい陥穽のぎりぎりだったのが正直なところで、それが実録ものともなればなおのことサブテキストが生き延びる余地などなかったのだろう。問いが何なのかわからないままその完璧な答えだけを見せつけるのがリドリー・スコットの真骨頂だとすれば、“誇張しすぎた『ゴッドファーザー』”という問答をあからさまに許した上、本来であれば御大の作品であまり見かけることのない“怪演”をジャレッド・レトに与えたのも、ロドルフォ(ジェレミー・アイアンズ)という審美の恐竜が絶滅したことで転げ落ちたグリーディなトラジコメディをデザインする筆がいささかすべり過ぎたことの証ではなかったか。序盤でパトリツィア(レディー・ガガ)とボート遊びに興じるマウリツィオを見るドメニコ(ジャック・ヒューストン)の笑みにこそがグッチ家の命運が握られていたことを思い返してみれば、帝国の盛衰における彼の暗闘と暗躍にダイナミズムを見つけるのは容易いながら、いまの自分はアダム・ドライヴァーを殺すために映画を撮っているというオブセッションに御大は忠実であろうとしたようにも思える。必ずしもモデル本人に寄せたとも思えないジャレッド・レトの、とはいえアル・パチーノと絡んだときの妙な既視感がまさかのジョン・カザール寄せなのだとしたら、それはそれでもう何もいうことはないのだった。
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2022年01月16日

偶然と想像/ドライブ・ユア・オウン・カー

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※展開に触れています

第一話「魔法(よりもっと不確か)」で、芽衣子(古川琴音)とつぐみ(玄理)を乗せたタクシーのルームミラーにほんの一瞬映った、後部座席を見やる運転手の剣呑といっていい目つきには、芽衣子とつぐみの二人への、もしくはどちらか一人への、あるいはこれからこの物語に現れるすべての者たちへの感情移入を拒ませる気配がよぎった気がして、濱口監督にとってはおそらくノイズでしかないそれは、ここでさぁっとキャンセリングされることとなる。そしてその先で始まるのは全体性を回復する手始めとして自己肯定を入手するための物語で、この第一話の終盤で芽衣子にむかってズームするカメラは、偶然、といっても英題のWheel of Fortuneはもう少し芝居がかったそれだけれど、に翻弄されて溺れはじめた自分を想像でくい止める瞬間の切り返しであった気がして、間一髪で危うく命拾いをした者の安堵をみせる芽衣子がまずは露払いの役目を果たしてみせている。つづく第二話「扉は開けたままで」では自身が内部に呪ってきた過剰と欠落を、それこそがあなたの特質でありあなたの実存ではないかと瀬川(渋川清彦)に全肯定された奈緒(森郁月)が、それを刃とすることで佐々木(甲斐翔真)を的に瀬川の復讐を決意したその眼差しには、世界に向けた反撃の照準が絞られてピカレスクの予感で幕を閉じる。と、ここで視えてくるおおよそは、前述した感情移入を必要としない信頼できない語り手として現れた登場人物たちが、それぞれに手に入れた自己肯定によって自分だけが知る世界への語り口を見つける経過報告である気もして、偶然の果ての想像、偶然と想像の拮抗、と変遷する物語は第三話「もう一度」において想像が偶然を従え始め、私にぽっかりと空いたこの穴は記憶の中のあの人にも空いていていつかそれは繋がるにちがいないと想い続ける夏子(占部房子)が呼び起こした偶然は、知らない誰かであったはずのあや(河井青葉)に、自身の中でとっくに空いていた穴を気づかせて繋がることで円環する全体を手に入れてしまうのだ。そうやって過ごした時間の後であらためて「Wheel of Fortune and Fantasy」という英題を思い出してみれば、やはりこれは決定論(Wheel of Fortune)と自由意志(Fantasy)をめぐる密かな暗闘の物語であったことに気づかされるわけで、しかし映画が全身で伝えるのはその勝ち負けよりもそれらせめぎ合いの存在であったにしろ、そうした構造にこの国の中で想いを巡らせて見たとき、これら三話の主人公がすべて女性であり、第一話から段々とあがっていく彼女たちのライフステージにつれFantasyの強度と輝度も目盛りを増していく成り行きこそが監督の掲げた勝敗であったことは言うまでもないだろう。おそらく英語字幕だとあそこはmasturbateになるのだろうけれど、オナニーという和製英語化したドイツ語の人知れず親密でペーソスにあふれた響きは日本語ネイティヴの特権であることは言い切っておきたい。
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2022年01月11日

スパイダーマン : ノー・ウェイ・ホーム/ぼくがきみを知ってる

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※内容に触れています

今になってドクター・ストレンジは、というか大人たちは、ピーター・パーカー(トム・ホランド)が子ども(kid)であることに気づくのだ。決して望んでそれを手に入れたわけではないにも関わらず、大いなる力には大いなる責任が伴うという呪いをかけられた子どもが、その責任と引き換えに様々な喪失を受け入れつつ右往左往しながら彼の人生を獲得していく青春の残酷物語をようやくにして知ることになるのだ。そうやって生きるしかなかったピーター・パーカーであればこそ大いなる力というウィルスに侵されてしまったヴィランたちの悲劇を理解し、それゆえ彼らを駆除するのではなく治療(CURE)することに希望を見つけようとしたのではなかったか。そしてそれは同時にピーター・パーカーたち自身のキュアへとつながっていくわけで、かつて憎しみと復讐の連鎖にとらわれて親友親子の死に加担したピーター・パーカーがピーター・パーカーの前に立ちふさがることでその呪いをとき、セカンドチャンスを得たピーター・パーカーは今度こそ彼女の墜落に間に合うのだ。そうやってヒーローとしてのメランコリーに息がつまるほどとらわれ続けたピーター(トム・ホランド)が、しかしけっして感傷の愉悦に溺れてしまうことがなかったのは、かつてメンターとして交差したトニー・スタークの自己犠牲は手段であって目的ではない(キャプテン・アメリカとの訣別の理由でもある)という説教を心のどこかにピンで留めていたからなのだろうし、だからこそ、最後にピーターが遠くを見る人の澄んだ目で運命を選択するその姿にトニー・スタークが重なって見えた気もしたのだ。だからこそ「金を貰わずに人を殺すのは、そりゃただの人殺しだ」という中村主水のセリフが言い当てたヴィジランテの憂鬱を全身タイツに閉じ込めることで、青春の屈託をヒーロー哀史として書き換えたサム・ライミと訣別し遁走するために、泣きべそで解決しない世界のことわりを超えていく蒼い血の逆流が青春のデッドエンドをぶち抜くには、ジョン・ワッツが渾身で叩きこむギアチェンジが必要だったのだろうし、透徹した孤独をまとい街の守護者にして監視者として生きるピーターのラストは『ダークナイト』のそれに手を伸ばした気すらもしたのだ。今度はドクター・ストレンジたち大人が、たとえどれだけ無様にのたうちまわろうとその責任を果たさねばならないのは言うまでもない。
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2022年01月02日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

健康な身体と想像力をポケットに入れて、歩ける間はどこまでも
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2021年12月31日

2021年ワタシのベストテン映画

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観た順で。

聖なる犯罪者
カポネ
水を抱く女
プロミシング・ヤング・ウーマン
すべてが変わった日
ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結
最後の決闘裁判
マリグナント 凶暴な悪夢
パワー・オブ・ザ・ドッグ
ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男

[アナリスト]羊みたいに飼いならされた人間がいなくなることはないよ。彼らは自由もエンパワーメントも望まない。彼らはコントロールされたいんだ。変化なんかこれっぽちも望んじゃいない。
[ネオ]そういうことはどうでもいいんだよ。
[トリニティ]だってこれから世界を作り直すところだし。
[ネオ]まずはちょっとしたことからね。
[トリニティ]たとえば虹の出た空を描いてみるとかそんなこと。

そうやって描かれた空のような映画を10本。
posted by orr_dg at 03:10 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月30日

ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男/奴らを黒く焦がせ!

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ハッタリやケレンの口八丁手八丁とは無縁の、物腰もおだやかに正攻法の足取りで突破する論理の人に思えたロバート・ビロット(マーク・ラファロ)は劇中で二度だけ感情を爆発させる。一度は自分の子供の前でデュポンの嘘にまみれたやり口をfucking evilと吐き棄て、もう一度は官民挙げての裏切りにThe system is rigged!(システムは糞だ)と妻サラ・ビロット(アン・ハサウェイ)に抑えることのできない叫びをぶつけてしまう。有名な法律事務所のパートナーに名を連ねるまでにキャリアを高めたビロットがけっしてエスタブリッシュメントの出自でないことを彼の闘いの背景にしてしまうのは安易に思えるけれど、同僚ですらが彼の学歴をジョークにし、敵対するデュポンの弁護士フィル・ドネリー(ヴィクター・ガーバー)には田舎者が!と罵倒されるその背中に彼もまた彼なりのアメリカの分断を生き抜いてきたことを見るのは避けられず、してみれば、世界のともした灯りに照らされることなく漂い離れてしまう人たちを描いてきたトッド・ヘインズが、そんなビロットを旗頭に灯りを正しくともすべく世界を告発する、彼にしては直截に思える物語を選んだことにも当たり前のようにうなずけるのだ。かといってビロットの一面的な英雄譚を描くのではなく、かつては「女性弁護士」だった妻サラが専業主婦として夫と家庭を支えることの屈託を添え、事務所をあげてデュポンと事を構えることに対してまだキャリアの浅い黒人の弁護士が、おれはあんたらの正義のヒーローごっこのためにここまで這い上がってきたわけじゃない、といった風に疑義を差し挟むあたり、トッド・ヘインズは闘争のカタルシスもまた目眩しとなることを最後まで自分に言い聞かせながらビロットの戦いと併走してみせている。こうしてシステムの巨悪に立ち向かう人々を実話ベースで描く物語が映画史で途切れた試しはなく、マーク・ラファロにしたところで『スポットライト 世紀のスクープ』の記憶はいまだ新しいし、ある意味でストーリーは類型化してしまうジャンルでありながらなぜ幾多の監督たちがチャレンジし続けるのか、やつら(システム)がそれを止めないのであればこちらもそれを止めないだけのことだという、シンプルにして絶対的な答えをこの映画のラストでビロットが告げていたように思ったわけで、そんな腹のくくり方で自浄するシステムもまた存在するアメリカとアメリカ映画にないものねだりを煽られて悶々とするところまでがワタシの馴染みのエンディング。
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2021年12月25日

マトリックス レザレクションズ/飛ばない夢をしばらく見ない

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これは『未来世紀ブラジル』へのアンサーなのかとうっすら思った1999年、偽装された夢=悪夢の中で勝利することで現実を変えていく闘いの、いまだサブカルチャーがポケットの中で握りしめたナイフの手触りを持ち得た時代、それら三つ子の魂を総動員して勝ちに行く姿は迷いなく溌剌として、未来が眩しすぎるからこそ彼らはサングラスをかけずにはいられなかったのだろうと、どこへ通じるのかはわからないながら突破口が開けたような気がしたのは確かだったのだ。だから『リローデッド』から『レボリューションズ』へと地の底に沈んでいくにしたがって、夢の中で手に入れたあの晴れやかな勝利はなんだったのか、結局は現実の戦いで勝利しなければ何も変わりはしないのだという分別臭さに何だか裏切られたような気分になったことも確かだったわけで、どうした理由でこのフランチャイズを再起動させたのかはわからないにしろ、ビルの屋上で彼方を見やるトリニティがマトリックスの空の美しさをつぶやきつつ、けれどもこの夢の終りのその先へ行く私たちはもう後戻りなどするつもりはないことをネオと確かめあうシーンからの手に手を取った跳躍と、2人が手に入れた夢のその先を告げるラストは『マトリックス』が手に入れることのできなかったすべての未来への高らかな呼応にも思えたと同時に、私はこうやってAnother Chanceを語り終えた、もう青い薬も赤い薬もない、跳ばないならそこがあなたの現実なのだから(とアナリストは最後にわざわざ説明してくれる)、とラナ・ウォシャウスキーは自ら夢の呪いを解いてみせたように思ったのだ。これで今度こそシークエルは必要ない。
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2021年12月17日

ラストナイト・イン・ソーホー/ボクたちもみんな大人になれなかった

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※展開や結末に触れています

兎にも角にも逃げ切ってみせた『ベイビー・ドライバー』でスキゾフレニーの青春を追い越したエドガー・ライトが、もうオレには未練たらしく昨日を眺めながら明日へと追いやられてはこけつまろびつする野郎どもは必要ないのだとばかり、輝く未来へ一歩を踏み出す女の子を主人公に据えてはみたものの、過ぎ去った時間に淫するあまりそこに囚われた亡霊に目をつけられてしまうエロイーズ・ターナー(トーマシン・マッケンジー)もまたエドガー・ライトのかわしきれない投影であったのだとすれば、その結果として彼女が紡いでしまうサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)とミス・コリンズ(ダイアナ・リグ)の妄執を過去から逃げ切れなかった者の不幸と描かざるをえなかった点で、そもそもエドガー・ライトは自身がつけるべき落とし前を持ち合わせていないのではないかと思ってみたりもしたわけで、グラインドハウス的なホラー・ムーヴィーとしての機能は十全でありつつも、もしかしたらそれを目指したのかもしれない傷ついた世界に手を差し伸べる身のこなしについては自分でも途方にくれてしまっているように見えたのだ。映画における女性たちの受難はその時々にして折々の世界が隠さない残酷の証であったことをエリーの幻視を通して参照しつつ、では現代に生きるエリーは何を証とすればいいのか、それはやはり半世紀の時を超えてミス・コリンズにふりかかる火の粉をはらい業火から引きずり出すことだったように思ってしまうし、「刑務所になんか行くつもりはないわ」という言葉で彼女の自尊心を記してはみせたものの、ミス・コリンズ=サンディが生き抜くことこそが彼女の死を望んで群がった者たちをさらなる地獄に突き落とすのではなかったのかと、どこを探しても焼け跡からミス・コリンズの遺体は見つかることはなかったくらいの逃げ道を残すことはできなかったのかと思ってしまうのだ。これまでのやり逃げから一変して組み立てたサスペンスの筋立ても、銀髪の男(テレンス・スタンプ)のミスリードにならないミスリードや、エリーの幻視の中でサンディが“殺された”ショットを見せてしまうアンフェアなど、描きたかったのは60年代地獄めぐりであってその辺は余禄だからとでも言いたげな底の抜け方にも悔いは残ってしまうし、どうしてもミス・コリンズを亡き者とする結末を譲れないのだとすれば、それには、かつてロンドンで自死したエリーの母親もまたグッジ通り8番のあの部屋に住みサンディの残留思念に感応したことでエリー同様に精神を追い込まれ、アレクサンドラが自分に仕掛けたようにその自死を偽装されたことを知ったエリーが母親の復讐としてかつてサンディを“殺した”アレクサンドラを葬りさえすればあのラストショットがハッピーエンドの仕上げとなったようにも思うわけで、無駄使いこの上ないテレンス・スタンプにしたところで、彼がかつて救うことが叶わなかった数多の女性たちへの贖罪としてエリーのサポートに身を捧げることで映画の重心をより沈められたように思うのだ。生来のスキゾ・キッズとしての資質が遁走する主人公にジャストフィットしたことで芯を食った『ベイビー・ドライバー』を通過儀礼として今作で大人の階段を上るかに思えたエドガー・ライトではあるけれど、それよりは残した逃げ足を食いつぶしもうこれ以上どこにも逃げることが叶わない場所で永遠に笑い叫ぶ姿こそが彼にとっての真の成熟である気もするわけで、してみれば次作に選んだのが『バトルランナー/The Runnig man』のリメイクであることにも頷けて仕方がないということになる。いずれにしろ、2020年に近い現代のハロウィンパーティでスージー&ザ・バンシーズをブチ鳴らしてしまう三つ子の魂をワタシもまた捨て置けるはずはないのだけれど。
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2021年12月12日

パーフェクト・ケア/とっくの昔に死んでいる

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※展開および結末に触れています

世界中の親を親とも思わないマーラ・グレイソン(ロザムンド・パイク)のゼロ地点らしき瞬間がほんの一瞬目をかすめはするものの、地獄の入口まで倫理の底をぶち抜くことで世界への挑戦権を手に入れたマーラが今さらそれを泣き言めいた言い訳にするはずもなく、そもそもこれが「老人」=ジェニファー・ピーターソン(ダイアン・ウィースト)、「女性」=マーラ、「ハンディキャッパー」=ローマン・ルニョフ(ピーター・ディンクレイジ)といういまだ社会的弱者のレッテルを貼られる3人が界隈の強者として激突し繰り広げる暴力と策謀の物語であることを忘れなければ、浅薄なピカレスク的共感がうるさそうに払いのけられるのも当然の話ということになる。監督/脚本のJ・ブレイクソン(『アリス・クリードの失踪』!)は、そうした属性の反転それ自体が主題とならないよう巧妙にノイズを取り除きつつ、ローマンが送り込んだ弁護士エリクソン(クリス・メッシーナ)に対しては「思い通りにならない女には、あばずれ呼ばわりしたあげく殺すぞって脅すわけよね」と余裕綽々で一蹴するマーラを描く一方で、ローマンとの命がけのやりとりでは「私はとんでもない金持ちになりたいの。でもって本当の金持ち連中がやるみたいにお金を棍棒にしてぶん殴るには元手が要るのよ、だから1000万ドルで手を打つわ」と本心を隠すことをしないわけで、ここで一瞬だけ交錯するローマンとマーラの眼差しに疼くアメリカなるものへの怨嗟こそが最終的に2人を結びつけたようにも思ったのだ。しかし、望みどおりの棍棒を手に入れたマーラが彼女の創造した暴力のシステムでアメリカを打ちすえたかに思えた瞬間、建国以来アメリカに取り憑いた暴力の象徴たる銃によって弾き飛ばされるマーラの、因果応報とすらいえない退場のあっけなさを目の前に、悲しみでも蔑みでもない倦んだ目つきでアメリカが屠った最新の獲物を眺めていたのだった。そもそもJ・ブレイクソンはなぜマーラを殺すことを選んだのか。必要悪でも義賊でもないピカレスクへの倫理的道徳的抵抗か、あるいはピカレスクのセンチメンタルな念押しだったのか。それよりは、すべてのアメリカン・ドリームに潜むアメリカン・ナイトメアを召喚する儀式の生贄として選ばれたマーラの、その人生は生贄を肥え太らせるための入念な手続きでしかなかったのだろうことを考えてみれば、マーラ・グレイソンという人間の一切の余白を拒絶するシャープなボブやソリッドなパワースーツは最期に彼女の眼へと宿った完璧な虚無を演出する記号的な意匠であったことにあらためて頷かされたし、晴れ舞台に身につけた真白なスーツを深紅に溢れ出す血のキャンヴァスに選んだJ・ブレイクソンに抜かりはない。
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2021年12月08日

ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ/R指定にゃ分かるまい

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“「うしおととら」として舵を切ってしまった以上、エディとヴェノムの掛け合い漫才によるリズムでアクションのスピードを煽っていくシナリオと演出の運動神経を磨かない限り失速するのは目に見えている”と前作に記したことを想い出してみさえすれば、クレタス・キャサディ(ウディ・ハレルソン)とフランシス・バリソン(ナオミ・ハリス)のサイドストーリーすらもどかしげに早送りして、気がつけば97分間にまで剪定したアンディ・サーキスの焦燥含みの思い切りにもうなずける気がしたのだ。前作同様に掘り下げるべきキャラクターも見当たらないまま、起承転結のうち承(カーネイジの誕生)と結(カーネイジvsヴェノム)しか求められないストーリーの、しかも『デッドプール』のお下劣もガン版『スーサイド・スクワッド』の肉体破壊も取り上げられたとあっては、これ以外アンディ・サーキスに何ができたのか同情しきりなのは言うまでもなく、ほんのお気持ち程度とはいえ添えられる心象のほとんどがエディ(トム・ハーディ)というよりはヴェノムの独白であったのは、図らずも二人羽織の陰として名を馳せたアンディ・サーキスが隠さない共鳴の徴ではなかったか。そんな負け戦に何かしらのフレッシュがあったとすれば、使える今カレというありそうでないキャラクターとなったダン(リード・スコット)を忘れるわけにはいかず、アン(ミシェル・ウィリアムズ)とダンのカップルが交錯した瞬間に生まれるやけくそなスウィングこそを脚本家も監督ももう少し当てにすべきだったのではなかろうかと、ポストクレジットシーンを見るにつけ、そもそもがパズルの大きなピースになることしか求められていなかったのだろう不遇を承知の上、真顔でケチをつけてみたりもするのだ。少なくとも、ウディ・ハレルソンという一回きりのカードをユニバースのここで使ってしまう覚悟はどこにも見当たりはしなかったし『マリグナント』のガブリエル無双こそが正統なカーネイジそのものであったよ。
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2021年12月06日

ダーク・アンド・ウィケッド/悪魔が憐れむ歌

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「信じるかどうかは問題じゃない。人間にあれは狼だと思われようが思われまいがそんなことはあいつらにはどうでもいい話で、きみたちは獲物だってだけのことだ」無神論者だった母(ジュリー・オリヴァー=タッチストーン)が悪魔の存在を示唆しつつ錯乱していく様子が綴られた日記の不可解をぶつけるルイーズ(マリン・アイルランド)とマイケル(マイケル・アボット・Jr)に牧師(ザンダー・バークレイ)は淡々と言い放つわけで、もしそんなものが必要であるならば、牧師のこの台詞を物語の解題とすれば手っ取り早いだろう。その年のベストテンにも入れた2009年の傑作『ストレンジャーズ 戦慄の訪問者』で文字通り戦慄のデビューを飾ったブライアン・ベルティノは、そこで『ファニー・ゲーム』のホラー・リミックスとすら言える純然たる悪意の抽出を行っていて、果たして原初の存在としての悪意に理由や動機が必要なのか?という胡乱にも思える眼差しでスラッシャーというジャンルを蹂躙しつつ脱構築していたのだけれど、今作はある意味でそれを裏返してみせた鏡像となっている。存在の不安が恐怖の源泉となる実存ホラーが現在確かな潮流となっているのは言うまでもなく、かつてスラッシャーという定型のジャンルを実存の拳で袋叩きにしたブライアン・ベルティノは、今作において実存ホラーという前線のスタイルをジャンプスケアに代表されるショッカー描写で胸倉をつかんでは揺さぶりをかけるという天の邪鬼ともいえる試みに挑んでいて、それを象徴するのがあのエンディングということになるのだろう。本来の実存ホラーであればひたすら分厚く「脅かす/おびやかす」ことで退路を断って袋小路に追い込んでいくところが、ここではそれに加えて「脅かす/おどかす」ことを厭わないジャンプスケアを躊躇なく多用していて、ラスボスを倒せば終わるスラッシャーの悪夢とは異なり私が私である限りその恐怖が止むことはない実存ホラーの終わらない日常を襲う掟破りの乱れ打ちは、ほとんど偏頭痛的な直截性で精神をなぶり続け、その愚直な着実さにこそ心底辟易させられていつしかワタシの目つきは死んでしまう。今作では95分、しかしそれを120分なり180分なり費やしたところで、物語の顔色をうかがい悪意の理由や原因の特定およびその正体の排除へと舵を切った瞬間、それはワタシたち人間の卑小な脳みそがようやく働く地平に引きずり降ろされてしまうわけで、ブライアン・ベルティノが『ストレンジャーズ 戦慄の訪問者』と今作で真っ先に手放したのがその手続きであったことを考えてみれば、人間の尊厳など一顧だにしない存在への飽くなき憧憬と畏敬がこれら異形を可能にしたことは言うまでもないだろう。深い森の中でたった一人、狼に出くわしそれに屠られるまでの数秒に見た胡蝶の夢の95分の狂い咲き。マイケルの妻ベッキー(ミンディ・レイモンド)の絶望のあまり自らに突きたてるナイフのような絶叫が色艶ともに絶品。お聞き逃しのなきよう。
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2021年11月26日

アイス・ロード/幸福の黄色いトラック

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氷の道はニトロの代わりにはならないことを脚本家兼監督はどの時点で気がついたのか。とりあえずはどうすればマイク(リーアム・ニーソン)にさらなる負荷をかけることができるのか無い知恵を絞った脚本家兼監督は、イラク戦争の帰還兵でPTSDと失語症に苦しむ弟の面倒を見ながら謎の殺し屋と闘わせるだけではまだまだ全然足りないとばかり、そもそもローレンス・フィッシュバーンがチームにいたらこんなミッションなど楽勝で達成してしまうことに遅ればせながら気づいた脚本家兼監督は『ディープ・ブルー』のサミュエル・L・ジャクソンを更新する勢いであっけなくストーリーから彼を消し去ってしまうのだ。となれば、路肩から転落し大破したピックアップから殺し屋トム・ヴァルナイ(ベンジャミン・ウォーカー)が無傷のまま這い出したところで不思議でもなんでもないどころか、種火を切らしたら負けだとばかり本来はマジカルな救世主枠の弟ガーティ(マーカス・トーマス)の命すらを薪にしてくべてしまうわけで、ことあるごとに立ち尽くしては確かめた感情を心ゆくまでやりとりするマイクとその仲間たちはとっくにタイムサスペンスの縛りや煽りもどこ吹く風で、それでもやけくそを擦り続けさえすれば発火はするもんだなあと感心半ばの半笑いでエールを送っていたのだ。そして思わずスリムクラブ真栄田の声色で「毎晩お話ししてくれたでしょう、この世で一番強いのはウィンチだって」とつぶやいてしまうくらい、いつしか主役はウィンチにすり替わっていたわけで、ジム・ゴールデンロッド(ローレンス・フィッシュバーン)の命を奪ったのも、ガーティを最初に殺しかけたのもすべてウィンチの仕業だったことを思い出してみれば、手なずけたつもりがいつ牙を剥くともしれぬウィンチこそがマイクにとって最大の脅威だった気すらしてしまうのだ。ただ、この脚本家兼監督がブライアン・ミルズの誘惑に最後まで抗った点については評価すべきで、終盤の氷上で繰り広げるヴァルナイとのタイマンでは、なぜ一介のトラックドライヴァーがプロの殺し屋とそこまで渡り合えるのかはともかくとして、少なくともCIA元工作員の体術ではないブチ切れた素人の大暴れにリーアム・ニーソンをとどめようと心を砕いていたことは見てとれたのだ。だから、橋が落ちてしまったにも関わらず後続のマイクはいったいどうやってあの場にかけつけて息絶えた弟の頬を撫でることができたのか、もうそんなことまで考えている余裕がこの脚本家兼監督にあるはずもないことを知るワタシはあえて詮索などしないのだ。そんな風にして特にどんでん返しの必要もない勧善懲悪に落ち着いた物語は、ケンワースの新車と独り身の自由を手に入れたマイクの軽やかな旅立ちで幕を閉じつつ、坑内の残り少ない酸素を節約するために重傷者の間引きを言い出したあの口髭の鉱員にとって、全員救出というハッピーエンドこそが彼の生き地獄になるという悪意の表出をこの脚本家兼監督がまったく気に止めない野放図が今もワタシをもやもやさせるのだった。いい加減で機は熟したように思うので、そろそろリーアム・ニーソンとニコラス・ケイジの共演をピーター・バーグあたりの監督脚本で画策してもらいたい。
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