2017年02月25日

ナイスガイズ!/L.A.コネクション〜楽して走れ

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毒にも薬にもならないからいいんじゃない!と言われれば確かにそれはそうなんだけれど、毒にも薬にもなった上でなおかつ笑わせてみせた『インヒアレント・ヴァイス』を過ごした後とあっては、このいかにもスタームーヴィー然としたスタームーヴィーの化学反応の無さに見て取れたのは、せいぜいが敗け続けた70年代の鈍色に嫌気がさして躁病的な原色をまとった80年代のノンシャランを、ついぞ更新されることのないシェーン・ブラックの行って帰って出て入っての紙芝居的プロット世界でしかなかったように思うわけで、これが70年代のストーリーでなければならない意固地も感傷も最後まで見当たらなかったように思うのである。どちらかといえばホランド・マーチ(ライアン・ゴズリング)にそのチャンスはあったようには思うのだけれど、心優しきゴズリングはその役回りを気前よくホリー(アンガーリー・ライス)に譲ってしまうし、意外なほど物分りのいい(というかキャラクター造型に失敗した)ジャクソン・ヒーリー(ラッセル・クロウ)はといえば、物分りの悪いゲス役をかつてのファム・ファタルたるジュディス・カットナー(キム・ベイシンガー)に譲ってしまう始末で、そうした意味では女性たちが男どものケツを蹴り上げながら転がるはずの映画なのだけれど、あの時のジーナ・デイヴィスを思い出してみればわかるようにシェーン・ブラックはそちらの按配がさほどよろしいわけでもない。キム・ベイシンガーが取り憑かれたような顔で吐き捨てるあの言葉が図らずも今のアメリカに蔓延する呪詛とまったく同じなのは、まったくの僥倖だろう。本気で体制のモンスターに殴りかかったなら、70年代のドン・キホーテたちは打ち倒されて泣き伏さねばならないはずなのである。それはもう『破壊!』のエリオット・グールドとロバート・ブレイクのように。
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2017年02月21日

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う/裏も積もれば表となる

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※本来なら熱に浮かされるはずが、どんどんと微熱から平熱へと回復してしまったその理由を考えていたら何だか偏屈な感想になってしまったので、好きになれた方はスルー推奨

とくに寝落ちした記憶はないのだけれど、カレン・モレノ(ナオミ・ワッツ)がデイヴィス・ミッチェル(ジェイク・ギレンホール)の人生に拮抗し、そこに介入するに足る事情と理由がいつまでたっても自分に説明できないまま、ああこれはメタファーだけでどこまで映画は成立するかという実験作なのだろう、だからワタシがいるこちらの現実が紐づける制約や制限、限界のラインは一度手放してしまわなければいけないのだ、そうやって現実逃避した浮世離れに頭を撫でられるアイソレーション・タンクの中で見る夢なのだ、カレンもクリス(ジュダ・ルイス)もデイヴィスが奥底で切望した家族のメタファーなのだ、だからあの母子が抱えている深刻さがどうも明らかにならないまま、あなたの正直が羨ましいとリベラルな身のこなしで大麻をふかして微笑んではいっしょに砂浜をはしゃぎまわってくれるタフなシングルマザーも、アメリカの中東派兵をシニカルに笑い、セクシュアリティを真顔のユーモアで語り、共に銃を撃ち、クラシック・ロックで心を交わす12歳の見てくれで21歳のようにふるまう15歳の息子も、デイヴィスがそうありたかった世界のメタファーなのだ、そこでは彼がルールとなる世界のメタファーなのだ、それを構築することによって彼は超えていかなければならない世界の境界を知り、喪の仕事を完了するのだ、とまあそんな風に得心してはみたのである。ただ、これではデイヴィスの道行きが安穏すぎるということなのか、彼の心地よいリハビリに冷水をかけるような亡妻ジュリア(ヘザー・リンド)の秘密が明かされるのだけれど、正直言ってこの試練は必要なのだろうかと訝しんでいたところが、終盤のおしつまった墓前のシーンにおいてまるで卒業試験でもあるかのように伏線は回収されることにより、どこへ出しても恥ずかしくないデイヴィスとなるわけで、再び回りだしたメリーゴーラウンドこそがそれまで解体と破壊にいそしんできた彼がついに再生へと足を踏み出したことの最終的なメタファーとなるのだろう。と思っていたら、まだその先で子どもたちに交じってボードウォークを満面の笑みを浮かべて走るデイヴィスの姿を目にするわけで、ああ、これは幼い頃に駆けっこで一番になれなかった屈託からの解放となるメタファーなのか、念には念を入れるのだなと感心して息を吐いた瞬間、一瞬のストップモーションを経て暗転したスクリーンにデイヴィスのヴォイス・オーヴァーが「心をこめて、デヴィッドより」と追い討ちをかけ、この映画そのものが彼のつづった手紙、言い換えれば世界のあちこちで喪失につまずいては寄る辺のない日々を生きるワタシたちに向けた再生への処方箋なのだという、皆がそのつもりで客席に座っていた100分間のタネ明かしを念押してくれるのである。もちろん映画=メタファー(暗喩)であるのは今さら言うまでもないのだけれど、ここまですべてを噛んで含めるような喩え話で語られると、どうも少しばかりバカにされているのかなという気にもなってくるわけで、そこに隙のない誠実な語り口を加味すると慇懃無礼などという厭な日本語などうっすら浮かび上がって来る気もするのである。義父フィルが立ち上げたジュリア基金にデイヴィスが抱く欺瞞と偽善を匂わすために用意された、いけすかない水泳選手のくだり(「胸さわってもいい?」)に至っては、そこまで曲解を怖れるのかと鼻白みつつ苦笑いなどしたのである。それと邦題として引用された劇中のあの言葉は少々意訳(If it's rainy, you won't see me, if it's sunny, you'll think of me)が過ぎるのではなかろうか。晴れた日くらいは私のことを思い出してねっていう茶目っ気と皮肉を効かせた妻からのメッセージであって、少なくともあんな風な仄かに明るいメランコリーで上を向いた日本語ではないし、そもそも“君を想う”の主語がデイヴィスなのだとしたら、雨だろうが晴れだろうが変わることなく向き合わなかったからこそ取り返しのつかない悔いを残したのではないかと、少しわけがわからないでいる。
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2017年02月19日

たかが世界の終わり/ストレンジャーズ・ホエン・ウィ・ニード

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ルイ(ギャスパー・ウリエル)が「怖くたまらない」のは、自らの手で行う喪の仕事に対してではなく、かつて否定した自分の一部と向き合うことに対してなのだろう。そしてそれはアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)にとっても同様で、暴力なのかタフな仕事のせいなのか、拳に傷を絶やさぬような男がその握り拳を引き絞ったまま泣いているのである。アントワーヌにとってルイは自分たちを否定した世界の象徴であり、他の家族にしたところで、シュザンヌ(レア・セドゥ)はルイの不在がもたらした自身の欠落を笑顔でなじり、母マルティーヌ(ナタリー・バイ)にいたっては、アントワーヌとシュザンヌが抱える屈託を言い当てた後で「やはりあなたを理解できない(けれど、愛している)」と言い放つ。特に母マルティーヌがルイの到着する前にこぼす「ゲイは美しいものが好きなのよ」という軽口や、場をとりなすつもりで「なにかゴシップを教えてよ、誰と誰が寝てるとかそういうの」とルイを焚き付ける哀しいまでに無邪気な無神経は、ルイがどうして家を出なければならなかったのか12年を経ていまだその理由に思い至らない、まさにその無自覚さゆえルイは家を離れたことをあらためて告げていたように思うのである。しかしそうやって一方的にサンドバッグとなることをルイが自らに課しているのは、もし死の事情がなかったとしたら、ひたすら血を遠ざけるこの関係を自分が見つめ直すことがなかっただろうことを知っているからなのと、12年を経て気づくことのなかった、家族とは全員が被害者であると同時に加害者である関係なのだという理解にほんの数時間で到達したショックにもよっているのだろう。そしてその理解の先にあったのは、これまでずっと血にかまけてきた自分たちは、こうやってあきらめと絶望を分かち合うことでしか新たな関係を始められないのだという答えだったのでなかろうか。そのことに、わけてもルイがたどりつくことができたのは血で濁ることのないカトリーヌ(マリオン・コティヤール)のまなざしがあったからこそで、彼が携えてきた重荷にたった一人気づいた彼女は哀しみをこらえながら裂けた傷口をふさごうと走り回る戦場の衛生兵のようにも思え、「あと、どれくらい…?」というそれとてダブルミーニングのセリフ以外、その表情、しかもほとんど目の変貌だけでルイと交感するマリオン・コティヤールの超絶には息をするのも忘れるほどで、アントワーヌが単なる粗野で卑屈な男として片づけられないのは、これほど誠実な知性をもった妻を持つ夫としての側面がどこかしらついて回るからで、自分たちを否定して出て行ったあげく成功を収めた弟を認めたら、自分たちが何かを間違ったことになってしまうという怖れによって忌避と愛情に引き裂かれる苦悩の、しかしその偽りのなさゆえザンパノの哀しみすら漂わせるヴァンサン・カッセルの背中もまた、マリオン・コティヤールの瞳に負けず忘れがたかったのだ。作られる料理の、ご馳走の装いではあるのだけれどほんの少しだけくすんでしおれたような活気のなさがこの家の密かな沈鬱をそっと一言で伝えて、ドランの映画を支配する血圧の、動脈のたぎりと静脈の昏睡をあらためて思ったりもした。それにしても、ルイとカトリーヌの間でかわされる敬語の、やわらかな緊張と慈愛のニュアンスがつかめないのは本当に残念としか言いようがない。
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2017年02月16日

マリアンヌ/わたしの名は。

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あの夜マックス(ブラッド・ピット)がベッドで読んでいたのが「ブライトン・ロック」だったことで、ああスティーヴン・ナイトが持ち込みたかったのはピンキーとローズが踏み抜いた薄氷の物語なのだなあと理解したし、ならばエピローグにおけるマリアンヌ(マリオン・コティヤール)からの手紙はピンキーのレコードとなるわけか、とさすがにハリウッド的大団円がグリーンのカトリック的ペシミズムなど受け入れるはずがないにしろ、この映画の偏平さを呼んだのがそうしたスティーヴン・ナイト成分のスポイルだったのではなかろうかと勘ぐるには十分だったのである。となるとピンキーとローズの関係はマリアンヌがピンキーとなる逆転が必要となり、すなわち主役はマリアンヌになるわけで命がけの打算と計算によってマックスを夫とするストーリーが次第に変奏していかなければならないのだけれど、戦時下の悲恋ものの“戦時下という側(がわ)”に夢中になった絵描きとしてのゼメキスにとってそれらは必要のない余白だったのだろう。オープニングからして既にこれが絢爛たるはりぼての世界で綴られる物語であることが謳われて、ゼメキスが要求するのはあくまでデザインされた感情の質感なのだけれど、そうした中にあってマリオン・コティヤールは不定型という感情すらを精緻にしたためて、それは彼女のフィルモグラフィーを見れば瞭然なように幾多の修羅場をくぐってきたことで最適化された切り札によっているのは言うまでもなく、そうしてみた時、明らかに役者としての場数がここ数年足りていないブラッド・ピットは正直言ってでくにすら映るわけで、本来がノンメソッドでミニマルな演技で切り抜けてきた彼の地肩の弱さがマリオン・コティヤールに圧倒されてしまうなかなかに残酷な瞬間を目撃することになったのである。マシュー・グードの扱いからして、皆がマリオンにかしずく映画であるのは間違いないにしろである。したがって、邦題はたいへんに正しい。
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2017年02月14日

グリーンルーム/ラスト・ボーイ・ストラット

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ヴァンに貼られたFUGAZIのステッカーとパット(アントン・イェルチン)の着るマイナー・スレットのTシャツ。そして楽屋の壁に掲げられた南軍旗を見たパットはスキンヘッドたちを前にデッド・ケネディーズの“ナチ・パンクス・ファック・オフ”をぶちかます。その後で彼や彼女を待ち受ける責め苦はそのストレート・エッジな思想が直截的にもたらしたわけではないのだけれど、ダーシー(パトリック・スチュワート)配下のスキンヘッドたちがダーシーの都合と思惑によって雑然と命を散らしていくのとは対象的に、必死に生きようと死んでいくバンドのメンバーたちを一瞬包む刹那の光はどこかしら青春の失敗のようにも描かれて、その混乱と混沌の中でパットもまたアメリカの暴力と不条理に溶けていき、ラストショットで並んで座り込むパットとアンバー(イモージェン・プーツ)の、まるでナチパンクのカップルにしか見えないその姿はアメリカが嘲笑う残酷な皮肉のようにも映る。そしてその意味合いこそ違え、『ブルー・リベンジ』に引き続き主人公が髪を切り銃をとるというトラヴィスの系譜が繰り返される一方、ここで殲滅すべき集団もまたスキンヘッドをユニフォームとしているわけで、ここに至ってイアン・マッケイらが体現したストレート・エッジなハードコアと、そのスタイルを醜悪に援用するネオナチとの代理戦争の様相すら呈し、それら命がけで闘う者と無表情に闘わされる者との決着にバッド・ブレインズが完璧な凱歌を奏でてくれるのである。それにしても、この監督が組み立てる命名できない感情の瞬間というか、観客であることによって予測してしまう正解をいかにはぐらかすか(そもそもワタシたちは正解を知らずに生きている)、そうやって間違った答えを重ねながらたどり着いた場所にどのような正当性を見出すことが可能かというフィクションならではの挑戦は、『ブルー・リベンジ』からより直接性を増してノンストップの情動に身を任せつつ、しかし同時にすべてのタイミングを監督の鼓動としてコントロールするアクロバットを可能にしていたように思うのである。なかでも楽屋に籠城したバンドが常軌を逸したテンションの中で思考の容量を超え感情の上下左右を失っていくあたりの“しでかし”こそは監督の面目躍如となる瞬間だろう。加えて特筆すべきは屠られる人々の破壊描写で、特に銃創以外の刺し傷と切りつけ傷および噛み傷の、まるでそれらの傷自体が意思表示であるかのように語りかけてくる表情に目を見張らされることになる。替え玉となるチンピラ2人が証拠のナイフ傷を残すため刺しつ刺されつするシーンでの、白く痩せた身体に寄る辺なく口を開ける荒涼とした刺し傷が実は一番震えが来たし、もう引き返せないことを誰にともなく宣言するアンバーのナイフ一閃を可能にしたエフェクトはこの映画で最高となる芸術点を叩き出した瞬間だろう。リース(ジョー・コール)がジャスティン(エリック・エデルスタイン)を再度絞めにかかったら、瞬きせずに目を凝らした方がいい。怒りにしろ哀しみにしろその上澄みを透かすことのできるアントン・イェルチンの資質によって、どれだけ血を吸おうとも映画は自重でふらつかないわけで、そんな風なマジックをもう目にすることができないのは本当に残念でならない。まあでも、やるだけやったじゃないかと肩を叩きたくなるような映画を最後に観られて少しだけ救われた。
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2017年02月09日

ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男/神様、もう脱ぎません

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ニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)に備わったはずの血肉はオープニングのシークエンスを最高潮に、物語が進むに連れ事態の狂言回しとなってどんどんと透けていくように思われる。オレは大義に殉じるのだと妻セリーナ(ケリー・ラッセル)と幼いわが子を狂信めいたあっけらかんで放りだし、その後は2人の消息を特に気に留めることもないまま、ある時思い出したようにかつての我が家を訪ねては、当たり前のように空っぽになった家から持ち帰るのは1冊の綴り方読本でそれとてレイチェル(ググ・ンバータ=ロー)との新しい関係を築くツールに過ぎず、何より驚かされたのはその後ようやく再会したセリーナと息子を前に涙の一滴も流さないどころか、2人の面倒を見ることが何か寛大さの現れでもあるかのように描かれていたところで、あてにならない夫を見限って家を出たのはどういうわけかレイチェルの失策とされていたのである。それともう一つ、沼地で逃亡奴隷モーゼス(マハーシャラ・アリ)たちと過ごすに日々にかつての僚友ジャスパー(クリストファー・ベリー)ら白人が合流してコミューンが拡大していく中、その活況につれモーゼスたち黒人が隅に追いやられてくことにまったく映画は無頓着で、自分を立て直す手助けをしてくれた彼らに払うべき敬意をニュートンがいつ白人の新参者たちに告げるのかワタシは気をもんでいたのだけれど、それがようやくなされるのが食べ物をめぐる小競り合いの仲裁というわかったようなわからないようなエピソードだったことにも少なからず落胆したのである。そんな風にしてマシュー・マコノヒーのチャームを頼りにするばかりのステレオタイプに、もちろんここで初めて知る事実と歴史については好奇心と敬意が止むことはないけれど、教会でフッド大佐(トーマス・フランシス・マーフィー)がニュートンに向かって言う「お前のオヤジを知ってるぞ」という台詞が気になって調べてみれば、彼の父ではなく祖父がかつてジョーンズ郡で最大の奴隷所有者の一人であったことなどけっこうな驚きと共に知るわけで、140分を費やしておきながら彼の動機の最も重要な陰影となる事実をなぜオミットしてしまうのかまったく理解しかねたのである。ここで描かれている戦いが終戦などしていないことなど誰もが知るところなのに、それを念押しするかのようなフラッシュフォワードに割く中途半端な時間があるならば、なぜ彼が妻子を捨ててまで地べたに近い方に立つ人だったのかを描くべきだったのではなかろうか。オープニングでの先祖返りしたオマハビーチのような戦闘シーンや切り株が呻く野戦病院、葬儀の場を一転して壮絶な銃撃戦に変転させる黒衣の女性によるヘッドショットなど、切り出されたボディには終始胸を弾まされただけに、それを駆動するエンジンの馬力が足りなかったのがどうにも悔やまれる。マシュー・マコノヒーは何かノブリス・オブリージュ的な行いとして恵まれない企画に身を投じているのかわからないけれど、それも手伝ってか、ビタースイートを半身のグラマラスでかわす綱渡りが『インターステラー』以来影を潜めているのがとても気にかかる。ストーナーコメディらしいハーモニー・コリンの新作を待ちたい。
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2017年02月06日

ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち/スメルズ・ライク・ティム・スピリット

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ぼくと世界はどんな風にすれちがってしまっているのか、その時世界はどんな風にぼくを悲しませたのか、かつてのティム・バートンはその蒼い苦渋をガソリンに点火していたはずなのだけれど、ジェイク(エイサ・バターフィールド)のそれはオープニングでほんの数分だけとってつけたようなスクールカーストの残滓として描かれるだけで、ジェイクが抱える屈託とそれをなだめるために彼が育てるバランスは放っておかれたままだったように思うのである。したがってこの映画でなにがしかの反発がおこなわれることはないわけで、これが他人の筆による原作脚色であるにしろ、もう自分はレベルな時期を過ぎてしまったから昔のように思春の異議申し立てを代弁することはできないんだという、それは果たして誠実なのかあきらめなのか、しかし大人になるとはこういうことなんだよという訳知り顔だけはすまいとするその決意だけで、何とかティム・バートンは撮りきっていたように思うのだ。だから、その反映とも言えるジェイクのピーターパン的な最終選択も、彼が棄て去った時間の重みが感じられなかったことで通過儀礼のメランコリーが今ひとつ染まらないままということになってしまう。未だにこんなないものねだりを垂れ流すワタシのような客はティム・バートンにとって迷惑なのは重々承知しているけれど『PLANET OF THE APES 猿の惑星』で外にある大きな世界との対決に臨んで無残にも一敗地に塗れたティム・バートンは、それまで勝ち続けたその戦い方ゆえ、その敗け方ですらこちらに傷を残したわけで、言ってみればあの時ティム・バートンはワタシたちを代表して敗けたと思っているからこそ、その後のティム・バートンがたどった世界への服従と時折の密かなリハビリを追い続けざるをえないのだ。そうした意味においてここには服従もリハビリも見当たらず、だからといってティム・バートンがようやく新たな語り口にたどり着いたのかと言えばそういうわけでもなく、アルゴリズムに沿って人工知能が描いたティム・バートンのダーク・ジュヴナイル・ファンタジーとでもいう手続きの産物に思えたわけで、『フランケンウィニー』『ビッグ・アイズ』と続けた後のこの無表情が寛解の終わりとならないことを祈るしかないように思っている。モンスターというよりはモダンホラー的なクリーチャーでしかないホローのデザインにもそれを憂いている。
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2017年02月05日

マギーズ・プラン/しくじるなよ、マギー

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出だしというかきっかけは「ガープの世界」あたりを思わせるのだけれど、マギー(グレタ・ガーウィグ)のそれはフェミニズム的な変奏というよりは、男性と継続的なパートナーシップを築けない事情による非常手段であって、ではなぜマギーはいつもそうなってしまうのか皆さんにお見せしましょうというお話の、その余禄または必然としてマギーに転ばされるスノッブたちのドタバタを笑うことになるわけで、観賞前は贅沢にもジュリアン・ムーアとイーサン・ホークを配したマンブルコア的な展開を思っていたのだけれど、手ざわりとしてはどちらかといえばシットコム的に記号化された配置に近い。いかにもなNYスノッブのジョーゼット(ジュリアン・ムーア)とジョン(イーサン・ホーク)がからかいと笑いの対象となるからと言ってマギーが正解者であるかというとまったくそういうわけでもなく、みんな一人一人がそれぞれのシャボン玉の中に入って生きてるのよ、と愛娘に語りかけるマギーは、でもあなたはお母さんと一緒のシャボン玉の中にいるけどねとは言わないわけで、それを都市生活者の透明で密やかな孤独として染めてしまわないためにわざわざマギーにクエーカー教徒(それぞれに内なる光を求めよ)の設定を与えているし、シングルマザーであった母との生活を想い出して懐かしさに涙ぐむあたり、彼女は自身の生活においてそれを再現しようとしているだけなのかもしれないという考えが頭をよぎった瞬間、実はマギーの闇が一番深くて厄介なのではなかろうかと笑いの質が少しばかり変わったように思えたし、したがって、新しい計画を思いついてほころんだマギーの顔で締めるラストも、ハッピーエンドというよりはどちらかといえば新たな犠牲者ガイ(トラヴィス・フィメル)への同情にも似た作り笑いで見送ってしまうのである。それにしてもである。ジョーゼットに、あなたは純粋だけれどもちょっとバカよねと一刀両断されるがごとく、総身に知恵がまわりかねるかのように曖昧な時間差で動き生きるマギーを演じるグレタ・ガーウィグの、これはほとんど彼女のアテ書きだろうというナチュラルな憑依はさすがにジュリアン・ムーアとイーサン・ホークを刺身のつまとするだけのことはある、その磨きのかかった無垢と無意識のコメディエンヌっぷりに一人遊びをする犬を見るような慈しみが自然にと湧いてきてしまうのは、今後果たして彼女のレッテルと枷になってしまわないのかどうなのか。所詮「ダンシン・イン・ザ・ダーク」を歌い踊る夫婦だもの、お里が知れるわと「ルーディたちへのメッセージ」のダンディ・リヴィングストン版オリジナルでマギーを一人踊らせるレベッカ・ミラーのたちも相当に悪い。
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2017年02月02日

マグニフィセント・セブン/イングロリアス・エイト

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監督フークアがデンゼル・ワシントンを扇の要に据えた時点で、晴れ渡った青空に小さく笑いながら自爆する60年版のセンチメントを再現する気など毛頭ないことは自明だし、内戦によって分断されたアメリカの憎悪を手管に市井を蹂躙する外道な資本家に唾する男たちの闘いにおいて、正義の遂行者ですらが憎悪と復讐の暗黒連鎖に堕ちていくのを絶ちきったのが一人の女性であったこと、そしてこの聖戦において生き残ったのが黒人とメキシコ人と先住民族であったという、まるで2017年のアメリカを見通していたかのようなフークアの選択に少なからず驚かされたのである。そうした意味で、この映画はタランティーノによってジャンルを換骨奪胎されたいくつかのレヴェル・ムーヴィーの構造に非常に近い。従って、復讐の寡婦エマ(ヘイリー・ベネット)に雇われた7人は個々のストーリーというよりはその関係性によって立体性を保ち、それについては必ずしもすべてが上手く行ったとは思わないけれど、大陸横断鉄道敷設に投入された苦力の影を匂わすビリー・ロックス(イ・ビョンホン)とデラシネの屈託を共有するグッドナイト・ロビショー(イーサン・ホーク)、マンハンターであるジャック・ホーン(ヴィンセント・ドノフリオ)と先住民族レッド・ハーベスト(マーティン・センスマイヤー)、グリンゴとしてのジョシュ・ファラデー(クリス・プラット)とメキシコ人ヴァスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)といったところの関係が、サム・チザム(デンゼル・ワシントン)とバーソロミュー・ボーグ(ピーター・サースガード)の血で血を洗う因縁を下支えすることになるわけで、タランティーノであれば言うまでもなくこの構築に160分を要求したであろうことを考えると、そのつづれ織りの目が粗いのはある程度致し方ない気もして、現代の風向きにおいて分の悪い西部劇という足場をアメリカの原風景とあえて選んだその意図と意思と志だけでまずは十分すぎるくらいだし、殺戮の現場としての西部がガンファイトの過剰な致死性で描かれる昂奮は近年類を見ないのではなかろうか。このヘイリー・ベネットをみていると、やはり肉体の激情こそが理性を心底から慟哭させるのだなと、ナタリー・ポートマンとあの映画に欠けていたものの正体を図らずも浮かび上がらせてしまっていたようにも思え、それくらいヘイリー・ベネットの骨と肉は、誰よりも暴力的にそびえ立っていた。
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2017年02月01日

ドクター・ストレンジ/魔法にかけられ過ぎて

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スコット・デリクソンという人は、中盤あたりまでをトップギアに恐怖をはりつけ緊張をはりめぐらして、その麻痺と疲弊とでおぼつかなくなった足取りとうわずった赤い目の充血でエンディングに這っていく姿にうっとりするところがあるので、例えば『地球が静止する日』のようにコースの決まったオペレーション仕事ではなかなか本領を発揮しづらいこともあるからそれなりに危惧はしていたのだけれど、しかしこれが、屈託を必要としない主人公が屈託につかまりそれを手なづける話であった点で下手の考え休むに似たりを裏返した真面目な顔のバカ話に思いのほか歩調が合っていたように思って、他人事ながら何だかほっとしたのである。内ゲバが悪を呼び込むというMCUの手癖自体は少々うんざりなのだけれど、どちらかというと前述したようなバカ話をやりたいがためにここでは枠だけ借りて知らんふりをしたといった方がふさわしく、諧謔で動くことのできる俳優としてベネディクト・カンバーバッチをキャスティングしたのも、ロケンロールとしてのMCUで端緒を開いたロバート・ダウニー・Jrをロールモデルにしたところがあったからなのだろう。ドクター・ストレンジとエンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)およびカエシリウス(マッツ・ミケルセン)による、ノンシャランとプラグマティストと原理主義者のポジショントークも最後まであさっての方向を向いたままであって、しかしそれがいい具合の目眩ましになったというべきなのか、最近のMCUで飽和気味の内省する鏡像の自己破壊ドラマからの解放と、まあとにかく今回は映像を観て帰ってよという製作陣のニヤニヤがすべてであった気もするのだ。そのトリップショットも『2001年宇宙の旅』的ポストモダンではなく『ミクロの決死圏』的サイケデリックの、超人でもミュータントでもない魔法使いといういっそうの荒唐無稽にふさわしいこけおどしに満ち満ちて、どうせなら今自分が観ているのは何の映画なのか分からなくなるまで放り込んでおいて欲しかったとも思ったわけで、となれば、キミはサウロンかとつっこまざるを得ないドーマムゥの顔かたちはいささか野暮が過ぎたようにも感じてしまうのだけれど、その脱力バトルも含め最後の最後までバカを貫いた気概はやはり買うべきだろう。取り沙汰されたティルダ・スウィントンのキャスティングは、彼女のゆうに2倍はあるベネディクト・カンバーバッチの顔面との対比でパースを狂わせて不安定を誘うためであったことも理解した。慧眼である。傷んだ肉体の微に入り細に入る描写はスコット・デリクソンのフェティッシュか。
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2017年01月29日

トッド・ソロンズの子犬物語/クスリとスリルと腹痛

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ウィンナーみたいだからウィナードッグ(原題”WIENER-DOG”)とあまりに身もふたもない呼ばれ方をしてしまう(ことを初めて知った)ダックスフントが、戦火の馬ならぬ戦火の犬としてアメリカ市井のコンバットゾーンをよたよたヘナヘナと走り回っていく。オープニングの2カット目で犬の視点からケージ越しの空を捉える以外は犬を擬人化したアクションは一切ないまま、犬はただそこにいる犬として人間様の都合でいいようにあしらわれては、犬がいなくても起きたであろう出来事について、スイカに塩をかけると甘味が増して感じられるように、そこに犬の愛嬌があることでよりいっそう寂寥感を増すはたらきとなっている。どうして犬を撫でる優しい手つきで世の中をかき分けて行けないのか、どうして犬を呼ぶ優しい声で世の中に呼びかけないのか、根っから悪いやつなんてアントン・シガー以外そうそういないわけで、自分の内と外の分断や断絶にはまって身動きがとれなくなっていく人たちの悲哀を、少なくとも僕だけは看取ってあげるよとトッド・ソロンズは肩を抱きながら背中を押すのであり、ナナ(エレン・バースティン)ならずとも自分の最期の時があんな風に総括されたらたまったものではないわけで、こんなのイヤ!と叫んだその身代わりとしていったい犬がどんな目に遭ったか、ナナからゾーイに渡った1万ドルはファンタジーによってあのラストのために費やされたのか、だとしたらナナはあのまま旅立った方が幸福ではなかったのか、死ぬよりマシか死んだ方がマシか、トッド・ソロンズの生き地獄である。幸福に手がかかったかに思えるドーン・ウィナー(グレタ・ガーウィグ)にしたところでブランドン(キーラン・カルキン)の左腕にまだ新しい注射痕を見ているわけで、ドーンとブランドンによるその後のドールハウスの物語にしたところで、既にこのカップルが生き地獄のとば口に立っているのは言うまでもない。そもそもが下痢と癌とで円環するような映画である。
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2017年01月26日

沈黙 −サイレンス− /アイ・アム・ノット・ユア・ファザー

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殉教から遁走し続けるキチジロー(窪塚洋介)は神のために死ねない自分を弱いと泣く。それはもちろん、死ねばパライソ(天国)で自身の苦しみから解放されると信じて死んでゆくのは果たして殉教といえるのだろうかという自問の末でないにしろ、デウスは大日なのだと看破せざるを得なかったフェレイラ(リーアム・ニーソン)の言葉を借りるでもなく、パライソ信仰はよりオールマイティな浄土信仰ではないのかという疑問とつかず離れずしてしまうのも確かなのである。しかし、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)が最終的に直面する、眼前で苦しむ教え正しいとは言えぬ潜在的異教の人を救済するために己の信仰はどこまで有効かという信仰の極北を乗り越えたのは、キチジローという存在がまるで神の恩寵でもあるかのようにロドリゴの保つべき正気の合わせ鏡となっていたからなのだろうし、最後にロドリゴからキチジローに向けられる原作にない言葉はその現れということになるのだろう。そして、ロドリゴが最後に掌中にするのが自身のクロスではなくモキチ(塚本晋也)が作り託したそれであったことからも、沈黙の声とは自ら境界を超えていくことでしか耳にすることは叶わないのだというスコセッシのたどり着いた答えがうかがえるように思うのだ。これほど原作に喰らいつくように映像化されてしまうと映画の感想なのか原作の感想なのか自分でも曖昧になってしまうのだけれど、スコセッシが獲得して託した答えはその同時代性において否が応でも突き刺さってくるし、ワタシたち観客がそれをロドリゴの旅の仲間として共に喜び怖れ打ち震える体験を可能にした映像のデモニッシュな美しさと幻想的な寄る辺の無さは、それと引き換えにスコセッシが差し出したであろう魂の息づかいを思わせてやむことがない。井上筑後守(イッセー尾形)については、通辞(浅野忠信)がロドリゴに言う「井上様は現実的なお方であって、ただ残酷というわけではない」("He is only a practical man, Padre, he is not a cruel one.")という台詞における "practical" のモンスターとして少々戯画化して描いてはいるのだけれど、トモギ村でイチゾウ(笈田ヨシ)、モキチ、キチジローたちが戦略的に踏み絵をしてみせた時とキチジローがクロスに唾した時に見せる彼の表情は、後にロドリゴに告げる「日本とはそういう国だ。どうにもならぬ」という言葉に潜む彼の徒労もうかがわせ、絶対悪を据えてしまうことで構造が矮小化することを回避しようとするスコセッシの演出にはため息とともに唸らされてしまう。 常々思うことだけれど映画の洋邦で目につく差はやはり「黒」の階層で、時間、要するにお金をかければかけるほど「黒」はそれが絢爛な漆黒であっても殺伐の闇であっても魔法のように美しくなることを目の当たりにした映画でもあったし、生きたまま人が燃やされ、十字を切る間もなく斬首される瞬間へ一瞬の隙なく踏み込むカメラの獰猛は、やはり紛うことなきスコセッシの映画だなあとどうにも昂奮してしまう。 当初日本人俳優の情報が入ってきた時は、てっきり塚本晋也がキチジローだと思っていたのだけれど、キチジローをロドリゴにとっての救済者とするために穢れの奥にも無辜の光をたたえる目をスコセッシは窪塚洋介に欲したのだろうし、そのヴィジョンを十全に理解した彼によってもたらされた清冽がこの映画自体の救いとなっている。
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2017年01月23日

ザ・コンサルタント/お前はもう監査されている

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顧客の農場に闖入した殺し屋2人を返り討ちにし、それを呆然と見守る農場主夫婦の前から立ち去りかけて、あ、忘れてたとばかり小さく手を上げて別れの挨拶をするクリスチャン・ウルフ(ベン・アフレック)の可笑しみにひそむ、俺は挨拶をしなけりゃならない時としなくてもいいだろう時の判断がうまくつかないから、だったらいつもすることに決めておけば少なくとも失礼はないだろうと考えている、とする経験則的な知恵に漂うどこかしらの哀しみは、俺は生まれた時から世界ってやつにドアを閉められちゃってて、でもそのドアに寄りかかってないと転んじゃうんだよねという目は笑っていない苦笑いによっている気もして、だとしたらそんな風に歯を食いしばった朴念仁のメランコリーを踏みにじってキックにする話はあまり愉しそうではないなあと思って身構えていたものだから、終盤になってどたばたと底の抜けていく展開も、だってもともと彼には足元の確かな底なんて与えられてないんだから関係ないよね!と何とも晴れやかで涼やかな気分のままいられたのである。そしてそれは、かつて自分を門前払いした世界を逆恨みしないどころかその行動の動機が種々の友情によっていることも手伝っているのだろうし、それはすなわちクリスチャンにとっての善きことに対する切ないまでの忠誠とも言えて、デイナ・カミングス(アナ・ケンドリック)との予期せぬ交歓もほとんど騎士道といってもいいフェアネスの遂行がロマンスを寸止めしてしまうのである。結果としてクリスチャンを中心とするネットワークを構成することになるデイナ、レイモンド・キング(J・K・シモンズ)、メリーベス・メディナ(シンシア・アダイ=ロビンソン)といった人たちがみなそれぞれに痛みを知る人たちであること、そしてクリスチャンがコンマ単位の躊躇も見せず排除するのが痛みを与える人たちであることも、単なる勧善懲悪ではないこの映画ならではの風通しを誘っているのだろう。完全なネタバレになるのである2人の名前については伏せておくけれど、その関わりと顛末はちょっとした奇蹟を見るような気分であって、まさかこれだけ綺麗な気持ちで劇場を後にするとは思わなかったし、クリスチャンが宝物とするアレが、ベン・アフレックが自身の資質を照合して役者としての突破口を見つけたあの作品に繋がっていることも含め、予期せぬ血の通い方に胸のざわつきが止むことのない映画だったのである。だってあそこで弟が笑うんだもんな。
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2017年01月18日

ネオン・デーモン/ブラックハニープラムパッションピーチーキーン

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※展開に触れています

アタシに股開く度胸もないくせに「ママはあたしを危険な子って言うわ」とか中二ってるんじゃないわよ、ムカつくわこいつ!と怒髪天を衝いたルビー(ジェナ・マローン)を実質的な主役に、彼女と彼女のゆかいな仲間たちのバビロンな日常をヘネシーのCMにおいて更にあからさまなケネス・アンガーへの偏愛と崇拝の証として描いてみせては、ペダンチック?なにそれ喰えるの?とニヤニヤしながらホントに喰ってしまったものだから、ならばこれは『オンリー・ゴッド』を観て心中を宣言したワタシへのご褒美かと恭しくいただいておいた次第である。冒頭のメイクルームからして、フィクスのままフォーカスの切り替えで会話ショットを切り返すこれみよがしが走り出し、ジェシー(エル・ファニング)にはなかなか拭えない血糊をルビーはさっと拭き取ってしまうあたりの初球のコントロールから始まって、◯(月)から△(ネオン)、そしてルビーの描く×への移ろいはそのままジェシーのカウントダウンとなり、ルビーが月に向かって血を捧げる満願成就への一本道は、言いたいことは特にない幻視家レフンがようやく『ドライヴ』の呪縛から抜け出した証であるようにも思ったのである。したがって、ハンク(キアヌ・リーブス)に呼ばれたマイキー(チャールズ・ベイカー)がバット片手に部屋の奥から現れて階段を昇っていく時の疼くような昂揚、ジェシー襲撃において最初に突っ込んでいくサラ(アビー・リー)が繰り出すパンチの角度および、プールサイドでジェシーを追う彼女のまるで『エクソシスト3』の横切りのような死神の早足、眼前で腹にハサミを突き立てて果てるジジ(ベラ・ヒースコート)をあっけにとられるように凝視するサラの半開きの口の端で歪んだ数ミリの虚無、といった忘れがたいいくつかはやはりダイアログとは無縁の瞬間ということになり、16歳のレクイエムやら審美の王国などと言ったレフンがまことしやかに明かすサブテキストを手探ってみてもどのみち寸足らずに終わるのは目に見えているわけで、結局のところニコラス・ウィンディング・レフンという人は、世界はあまりにも自由で人は暴れざるを得ないという認識をもとに、その“を得ない”と書かれたページの挿絵を描き続けているように思うのだ。リンチが名づけた "Wild at Heart" とおそらく底はつながっている。
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2017年01月13日

人魚姫/チャウ・シンチー・イズ

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広川太一郎の吹き替えを思わず脳内変換するような蒸し暑い香港ギャグを塗りたくったオープングのシークエンスがいったいラストのどんな場面で回収されたか、それ一つ取ってみても、笑いながら暴れる人チャウ・シンチーの緊張と緩和、すなわちゲロと笑顔をいちどきにぶちこんでいく手並みはほとんどウルトラバロックといってもいい過剰の果ての洗練にすらあるように思うのである。前述したオープニングの脱力を経て、シャンシャン(ジェリー・リン)、リウ(ダン・チャオ)、ルオラン(キティ・チャン)の3人が順次なごやかに顔見せを済ませた後で、人魚族の棲み家へ戻ったシャンシャンはリウの会社による環境破壊で傷を負った少年の人魚に薬を与えるのだけれど、全身に負ったその損傷がコメディ映画で何もそこまでやらなくてもというくらいリアルでえげつなく描写されていて、しかしこれもまたチャウ・シンチーにとっては喜怒哀楽の爆風で客の首根っこをつかんでふりまわし、余白から日常が透けて見えるような興ざめなど恥と思えというサービス精神に相違ないわけで、もう後は推して知るべしという百花繚乱であり、武装チームによる人魚族への、排除でも捕獲でもないもはや殺戮としかいえない暴力の噴出も、人魚族長老による逆襲の一撃で壁にボロ雑巾のように壁に叩きつけられる彼らの死に様も、破れたハートで目に涙を浮かべながら水中銃でリウを貫く(しかも3発)ルオランの暴走する純情も、銛を撃ち込まれバズーカが直撃し美しい尾ひれは裂けなめらかな肌も切り刻まれた瀕死のシャンシャンがその力ない視線の先にいったい何を見たのかも、すべてはチャウ・シンチーがお客様のために精魂込めて手配したサービスに過ぎず、しかも全体としては現代中国の深刻な環境破壊への警鐘を鳴らす素振りのうちにあるという狂い咲きだったのである。それはすなわち『ツイン・ピークス』『エイリアン』『ブレードランナー』という前世紀の亡霊がいまだ待望される2017年の、永遠に更新されることのない終わらない日常をほんの100分足らずでも忘れさせてくれるのは狂気と言う名の正気であったという正論に他ならず、そんな映画をIMAX3Dで観ることが叶わない身の不幸を正月から嘆いたりもしたのである。いつの日かチャウ・シンチーとトム・クルーズがタッグを組んでくれないものだろうか。
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2017年01月09日

ピートと秘密の友達/セイントたちのいるところ

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アメリカのイノセンスは孤独を知った魂に宿る、とデヴィッド・ロウリーが再び宣言してみせる。そしてその魂が共鳴する響きこそがアメリカのグッドネスなのだという語りかけが、インディペンデントなクライム・ムーヴィーから、緑色をしたCGのドラゴンが空を舞うディズニー映画へと続く一本の道をあたりまえのようにつなげたことに何だか胸のつまるような疼きをおぼえたのであって、ピート(オークス・フェグリー)を探して夜の空を息せき切って舞うエリオットが、灯りのともった窓の向こうで見知らぬ人間に囲まれて微笑むピートを見つけて目を伏せる姿に、思わずあの夜のケイシー・アフレックを重ねてみたりもしたのである。そして黄金の陽光に向かう逆光のショットは世界を世界たらしめるものへの畏敬を込めたアメリカの原風景となり、リベラルであるとか保守であるとかいった分岐の上流へ向かう懐古というよりは回帰の自然な足取りに思え、おそらくそれはテレンス・マリックがかつて歩んでいながら見失ってしまった道筋のようにも思えるのだ。『セインツ』に続き監督とタッグを組んだダニエル・ハートのストリングスとブルーグラスのスコアも恩寵の調べのような荘厳とたおやかさを寄り添わせ、ボニー・プリンス・ビリーからレナード・コーエンまでをコンパイルした挿入歌のハイセンスにも唸らされる。その中でSt.ヴィンセントがカヴァーしたディノ・ヴァレンティの "Something On Your Mind" についてはやはりカレン・ダルトンのヴァージョンがとっさに耳に忍び込んでくるのを拒めず、となると失われたアメリカーナの歌姫カレン・ダルトンの物語をいつの日か誰かに紡いでほしいという願いがまたしても頭をもたげてくるわけで、ルーニー・マーラ、あるいはジェニファー・ローレンス(『ハンガー・ゲーム』の歌は素晴らしかった)をカレン役に据えたデヴィッド・ロウリー監督作を夢見ることにしたいと思うのだ。大きな笑顔と小さなメランコリーをまきちらすピート役のオークス・フェグリーとナタリー役のウーナ・ローレンスの子役2人がとりわけキラキラとして忘れがたく、特に『サウスポー』でギレンホールの娘役を演じたウーナ・ローレンスの、どこかしらケヴィン・ベーコンを思わせる風情に思わず顔がほころぶ。ディズニーのドラゴン映画ということでスルーを決め込んでしまうのはほんとうにもったいないし、とりわけ『セインツ−約束の果て−』に撃ち抜かれた人であれば絶対に観ておいた方がいいと思う。

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2017年01月07日

ワイルド わたしの中の獣/主に鳴いてます

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アニア(リリト・シュタンゲンベルク)のラストショットに、ああこれは断裁工場からの帰り途、ボリス(ゲオルク・フリードリヒ)の運転するヴァンの助手席で、窓を開けて風を受けながら目を閉じるアニアの見た一炊の夢だったのではなかろうかと、ふだんなら鼻白むであろう夢落ちをむしろ積極的に受け入れる気分になっていたわけで、それくらいこの映画には、ここではないどこか、ここにはいない誰かへの切実な夢想が、夢判断なら舌なめずりしそうなセックスのオブセッションとして溢れかえっていたように思うのである。そのあたりは「赤ずきん」における狼を引き合いにだすまでもなく、そのどちらかと言えば類型的な関係性と、潜在的な抑圧者としての祖父(は「赤ずきん」で言えば狩人か。射撃も祖父に手ほどきされたことをうかがわせる)とその死による解放が彼女の内面を放つことによる承認欲求の復讐といったストーリーが、アニアがダイヴした狂気を整理してしまう気もするわけで、それよりは、ホテルの部屋に閉じこもった2人が精神も肉体も頽廃していく『愛の嵐』の変質を、あの荒涼としたマンションの部屋で狼とともに選んで欲しかったなどと思ってしまう。アニアが現実のくびきから離れていくに連れ、映画が神経症的なミニマルから怠惰な長息を露わにしていく変更には時おりうっとりとさせられはするものの、暴力とセックスの投げやりがなだれ込んでこないのは、たとえば匂いが臭いになかなか書き換えられてかないあたり、監督は奥底でフェティッシュの人ではないのだろうなという清潔な精神が、アニアを新しい人とする妨げになっていた気がしてしまうのだ。むずかる狼の首に縄をつけてマンションの廊下を引きずる姿の、アニアにとっては恋人たちの逃走というロマンスも端から見れば底の抜けた狂気の沙汰なのだというおかしみをふりまいて、ああ、そもそもこれは『クリーピー』的な拉致監禁スリラーとして観るべきだったかと一瞬後悔したりもしたわけで、してみれば「まだまだ行くぞ〜」と彼岸を幻視するアニアのラストも存外に腑に落ちたかもしれないのだった。
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2017年01月03日

アイ・イン・ザ・スカイ/ドローンは踊る

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結局この戦いにおいて西側が戦うのは宗教や民族ではなく自分たちのシステムにほかならないという徒労と絶望は、紛うことなく『4デイズ』の既視感につながっている。生命は地獄の底までも等価であるべきだと謳う世界を目指す戦いにおいて、その合理は生命の軽重を計算することでリファインされるという皮肉なマッチポンプというか自家中毒というか、それに蝕まれていくパイロットの姿を描いたのが『ドローン・オブ・ウォー』であったことを思い出してみても、これが終わらない戦いであるどころか永遠の負け戦であることすらを前提にシステム化されている気がしてくるのである。この映画に時折漂うどこかしら底の抜けた苦笑いは、視えない戦争の洗練が進むにつれ当事者ですらそれが視えなくなってしまっているディック的な悪夢のスラップスティックによるものなのか、そういう醒めきった俯瞰がメランコリーにまみれた『ドローン・オブ・ウォー』と対照的なのは、これが南ア出身の監督による非アメリカ映画というポジションということもあるのだろう。しかし最後にフランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)は、軍人は視るのが仕事であって視えていないのはおまえたち文民の方だと斬って捨てるわけで、彼にナイロビの少女と同じ年頃の子供がいることを告げながら作戦遂行の意志を微動だにしないその姿は、どれだけデオドラントされようがお前たち文民が始めたこれは殺戮によって歩を進める戦争であって、俺たちみんな戦時体制に首まで浸かっていることをお前らはもう一度よく考えてみるべきだろうとする通牒であったように思うし、作戦が成功したにも関わらずネヴァダとロンドンで流された涙は、既に決定的に変質して元に戻ることはない世界への絶望的な思慕であったのは言うまでもないだろう。そんな風にして戦場には泣かない者と泣けない者が残されて、それが新たな合理を生み出していくに違いないのである。個人がどのような思想を持とうがそれを否定するいわれはないけれど、ヘレン・ミレンについて言えば自身でもこの役柄には存外にフィットしたのではなかろうかと考える。トランプにとって最大最高となるオバマの置き土産はドローン戦争のシステムであったことはおそらく間違いないだろう。『4デイズ』で日和ったエンディング(寄る辺なきヴァージョンは日本公開版のみ)を採用した北米の腰抜けをせせら笑う黒くて硬いガッツに溢れた傑作。
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2017年01月01日

あけましておめでとうございます

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新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今年もなんとか、いろいろなあれこれから逃げきれますように。
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2016年12月30日

2016年ワタシのベストテン映画

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イット・フォローズ
キャロル
コップ・カー
SHARING
或る終焉
クリーピー 偽りの隣人
淵に立つ
エブリバディ・ウォンツ・サム!!
最後の家族
ドント・ブリーズ

すなわち、わけのわからぬ言葉は理解できないというのが、言葉の本質なのだ。それは人間の知性の自己防衛である。ところが、ある光景はたとえはっきりと説明はつかなくても、明瞭であり、理解することができる。そしてそのことが我々の髪の毛を逆立たせるのである。
− ベラ・バラージュ


とでもいう映画が10本。並びは観た順。それにしてもいつにもましてメメント・モリな映画ばかりが揃ってしまったなあという感じ。本来映画はそういうツールだと言えばその通りだけれども、とうに人生の折り返しを過ぎた無意識がそうさせるのだとしたら抗っても仕方がなかろうということで、日々映画によってそれを仮想し予行し粛々と備えていけば、たぶんハッピーエンドが待っているにちがいない。では皆様、良いお年を。
posted by orr_dg at 23:41 | Comment(2) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする