2018年05月26日

レザーフェイス―悪魔のいけにえ/ジェド・ソーヤーのぼうけん

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※一応言っておくとネタバレ気味

基本的には訊かれてもいないことを答えたがるのがプリクエルであることに違いないし、そりゃソーヤー家に生まれ堕ちたならババ=ジェディダイアがああなったところで仕方がないわな、とすでに呑み込んでいる大方へのおせっかいであるのは承知ながら、状況の犠牲者という若干の感傷はしのばせつつも、トリヴィア的には彼の被るマスクは誰の人皮であったのかというその程度にとどめた点で、負け戦にも関わらずヤケを起こさなかったモーリー&バスティロの自制心は称賛されるべきだと思うし、トビー・フーパーのラストクレジットとしてその敬意が損なわれることもなかったように思うのである。構造としてはハートマン保安官(スティーヴン・ドーフ)とソーヤー家の十年戦争として展開されるのだけれど、ソーヤー家を蛇蝎のごとく嫌悪するハートマンを一家の不倶戴天の敵とするには因縁を業に書き換える手続きがいささか弱いように思われて、確かに彼の娘は一家によって惨殺されるのだけれど、一家の主たるヴァーナ(リリ・テイラー)とジェッドのそれに比べてみた時、ハートマンと娘との親子関係がまったく描かれていないこともあり、彼女の死が単なるモブのオープニングヒットとしてカウントされるに過ぎない気がしてしまうせいでハートマンまでが記号の域を出ないように思えてしまうのだ。このあたりについては、これまで監督作では必ず自ら脚本をしたためていたこのコンビが、今作では他人の脚本で撮らなければならなかった事情がマイナス要因となっているのだろう。しかし、ジェッド(サム・ストライク)に若き日のブラッド・ダリフの横顔が映し出される精神病院のパートでは『カッコーの巣の上で(1975年)』的な精神の牢屋を、その後は掃き溜めヴァージョンによるどん詰まりの『地獄の逃避行(1973年)』を、と言った具合に『悪魔のいけにえ(1974年)』の精神背景に寄り添おうと監督コンビは懸命かつ真摯に参照をつとめるわけで、そのことがもたらすいささかの散漫や冗長を認めつつも、そうしたことの貢献によって今作からチープなノヴェルティ感が取り除かれていたことは記しておくべきだろう。そして、どうやら今作のハートマンは『飛びだす 悪魔のいけにえ レザーフェイス一家の逆襲』に登場するハートマン町長の父にあたるらしく、してみると『飛びだす〜』においてなぜあれほどハートマン一家がソーヤー一家に憎悪の炎を燃やしたのか、ここに来ていきなり辻褄が合うことになるわけで、当時そのことで思い悩んだ記憶など一切ないにしろ、せっかくの後出しジャンケンなのだから勝てる勝負を勝ちに行く姿勢には素直に拍手を送りたい。いかにも首だけ出してます!的な特殊メイク愛の手ざわりが溢れるハートマンの最期にも点が甘くなる。
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2018年05月23日

モリーズ・ゲーム/私の名前で私を呼んで

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感謝の言葉を告げるモリー・ブルーム(ジェシカ・チャステイン)に「娘のステラなんだ、きみを弁護するようにと頼んだのは」と返す弁護士チャーリー・ジャフィー(イドリス・エルバ)は「きみの本を読んだ娘はきみを自分のロールモデルだと思ってる」とさらに付け加える。非常に聡明な子供として描写されるステラがなぜそれほどまでにモリーを全肯定するのか、それはおそらくアメリカ的な家父長制にけつまずいてクラッシュしたモリーが、逆にそれを利用することでその呪縛から脱出した上にマチズモの偽者やフェミニズム的な中指としてではなく、明晰な頭脳が導き出した街場の論理によってしなやかに労働倫理を実践しようとしたその企みの清冽な直截性が、人種であるとか厳格な父であるとかいった十代の彼女にとってのガラスの天井の向こうに透けて見えたからなのだろう。したがってモリーはこれまでアーロン・ソーキンが描いてきた、あらかじめ悪魔と契約して、そしてそれを誰にも知らされないまま生まれてきた人間とは異なるからこそ、彼女の債務はそこに発生しているわけではないし、父との和解や弁護士にすがることが彼女の独立性を脅かすこともないのである。そうしてみるとジェシカ・チャステインが今まで演じてきた様々なキャラクターは、「女性」の苦しみや悩み、絶望とされがちな感情や運命を付帯事項のない「人間」のそれへと書き換えていく存在でもあったことに気づかされるわけで、悪魔と天才の両義性を手放すことが映画のケレンを弱めることを承知の上で、モリーというひとりの人間がその喪失と再生をいかに可能にしたのかを衒いなく正攻法で描くことを自身の初監督作に課したアーロン・ソーキンの誠実というか馬鹿正直が思いがけず心に沁みてきたし、それは言わば、悪魔と契約した人々のギャンブル中毒を癒やす阿片窟を運営するモリーの、その一方で彼らの正面から目をのぞき込む思いやりや共感に通じるようにも思えたのだった。トニー・ギルロイにも感じたのだけれど、透徹した感情を抽出してきた脚本家ほどその監督作では情動の湿気が増すように思うわけで、それまで叙事に殺され続けてきた己が叙情の復讐なのかどうなのか、スケートリンクから父(ケヴィン・コスナー)の告白に至るあたりの、息を切らしたまま見つめ合う視線のらしからぬ性急さに驚いてみれば、そんな勘ぐりにもどこかしらうなずけてしまう気がするのである。かつてここまで正面切ってジェシカ・チャステインをくどいた男がいただろうかというクリス・オダウドの泣き濡れるクズもまた、アーロン・ソーキンがほくそ笑んだように思えた。
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2018年05月19日

孤狼の血/いつかギラギラした日

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大上(役所広司)と別れた夜にやさぐれた日岡(松坂桃李)が押しかけた時の岡田桃子(阿部純子)が、最初の夜の純白の下着とはうって変わったけばけばしいブラジャーをしていたのはなぜなのか、それはラスト付近で彼女が日岡に告白することの物言わぬヒントだったのだけれど、そんな風にしてこの映画は端正かつ律儀に爆裂しようとするわけで、署を出る日岡が突然の雨に空を見上げるシーンを丁寧に(ご丁寧にも、と言ってしまいたくなる)ハイアングルでとらえるショットといい、特に日岡まわりは丹念に抜かりのないように描かれていて、「荒磯に波」から始まる冒頭の数分でこの映画が腹に一物あることを宣言した後からすると、それは意外と言ってもいい身のこなしにも思えたのである。そんな風にしてエクスリーとダドリー、あるいはジェイクとアロンゾといったひりついた拳の相克をかわしては善悪の彼岸を這いずり回るビルドゥングスロマンへと舵を切るこれはあくまでも警察映画であって、『県警対組織暴力』に色目を使うにはヤクザが暴力装置としての分をわきまえ過ぎている気がしたし、日本人が鼻でもかむように映画を観ていた時代にさんざめいたプログラムピクチャーのやり逃げが刹那のスピードとマッチしたヤクザ映画はすでに彼方にあることをあらためて念押しされた気もしたのだった。やり逃げの意味も知らぬ客を待つためにそのスピードを殺してみせた『アウトレイジ』が賢明な亜種だったことは言うまでもなく、そうしてみるとアクセルを踏み込んだままギリギリでカーヴを曲がり切ろうとした白石監督のハンドリングとアクセルワークにはいちいち感嘆するしかないし、藤原カクセイ氏の死体仕事を含め人間のボディに関わることはとことん見せようとするサービス精神も含め、今できるすべての手を打ち尽くしたメランコリーの気分までもが充満するスクリーンに終映後ワタシは小さく一礼したのも確かなのである。とはいえ、反体制とか対権力とかいった青春の麻疹が若い衆の嗜みから失われた昨今、ピカレスクへのロマンがなかなか抱かれづらいのだろうことも実感しているわけで、「ヤクザが出ている映画」と「ヤクザ映画」の断絶はもう言っても詮無いことなのだろうことも、この映画を観たことによる最終的な確信だった気がしてしまうのだ。それらはおそらく、何かを足蹴にして垂直を登攀する征服の時代の徒花でもあって、最早後戻りすることはない水平性が誘うステイタス・クオーの再発見がそれを積極的に受け入れるはずもなく、その曖昧で茫洋とした横断を松坂桃李は実に的確に演じていて、それはすなわち更新されたその先がないことの最後通牒だったようにも思うわけで、その製作陣の真摯さゆえに図らずも「ヤクザ映画」の最期を看取る機会を得てしまった気分の複雑さがワタシの正直なところ。そんなつもりで観に行ったんじゃないのに。
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2018年05月16日

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法/虹のふもとでつかまえて

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キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビー(ウィレム・デフォー)である。遊びに夢中になった子どもたちが崖から落ちてしまわないようにつかまえる、ライ麦畑でたったひとりの大人である。ならば崖の近くで遊んじゃだめだと言ってしまえばいいのに、崖の近くでしか遊ぶことを許されていないことを知っているボビーは、笑わない目をして笑いながら子どもたちに目を配っている。もちろん子どもたちにはいろいろな子どもが混じっているわけで、最大限の譲歩としてボビーはヘイリー(ブリア・ヴィネイト)もできるだけキャッチすることに決めていて、ではなぜ崖の縁に柵を作らないのかといえば、それがアメリカという国の流儀なのだというジレンマをボビーに体現させてもいる。そうやって、ここまではいいがここからはだめだ、という「ここ」のせめぎ合いこそが現実に他ならないという、この映画ではそれが呪いのように終始絶えることがないわけで、ボビーが子どもたちに対しては「ここ」のくぐり抜けを大目に見ているのは、アメリカの罪深さになりかわった贖罪の気持ちでもあるのだろう。くわえてボビーは、ヘイリーがマジック・キャッスルの部屋で売春をしていることを知っているにも関わらずそのくぐり抜けすらも大目に見ていて、もちろん管理人としての家賃欲しさなどでは毛頭なく、それもまた崖の近くでしか生きられない人たちへの苛むような共感であったのは言うまでもないにしろ、そのことが招き寄せた結末にしたところでおそらくはボビーにとって最初の悲劇というわけでもないのだろう。しかしどれだけ絶望や諦念が深まろうと、キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビーはまた同じように大目に見てしまうしかないわけで、夕暮れにひとり煙草を吹かすボビーの寂寥に、ウィレム・デフォーという崖の近くを飄々と歩いてきた男がそれを演じることによって「ボビーというアメリカ」の内部に結晶化された幾重もの虚無が透けたようにも思えたし、「大人が泣くときはわかるんだ」などと6歳のニヒルをかざしたムーニー(ブリックリン・キンバリー・プライス)はそれを見透かしていたからこそ、だけど自分が泣くときのことなんかわかるはずがないよ、と決壊した瞬間に駆けつける先がボビーあるはずもなく、大人は判ってくれない、と確信した彼女が同志と選んだジョンシー(ヴァレリア・コット)と2人で崖から飛び出し夢の国へと駆けていくそのうしろ姿の、いったい2人は泣いているのか笑っているのか希望と絶望が手を取り合って絶唱するラストは『明日に向って撃て!』のブッチ&サンダンスにも重なって見えたのだ。書き割りの街でやり逃げの気配を浴びて生きていく子どもたちの、まるでZ級映画の血糊のように色付けされたジャムを、これって今まで食べた中で一番美味しいジャム!とうっとりする笑顔はそのままに、でもいったいどこへ連れ出すことができるのかわからないワタシたちはボビーのようにキャッチャーでいることを課し続けるしかないのだろうけれど、でもあんたが思ってるよりもけっこうキツイぜ、とその途方にくれた笑みに刻まれた皺が語りかけてきて、ワタシはさらに途方に暮れるしかなかったのだ。ヘイリーは最後までムーニーのキャッチャーであろうとあがき続けたし、ヘイリーに殴りつけられ無惨に腫らした顔でムーニーを抱きしめるアシュレー(メラ・マーダー)も、それがどんな場所であろうと生きることの尊厳と品性を手放さないジョンシーのおばあちゃんも、それぞれがキャッチャーであろうと必死であったにちがいないのだ。せめてあそこへと駆けていく2人が笑っていてくれたらと思ってやまない。
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2018年05月11日

アイ、トーニャ/同情するなら点をくれ

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もちろんナンシー・ケリガン襲撃事件もリレハンメルでの涙のアピールも憶えているのだけれど、ライバルを襲って潰すとかマンガみたいな騒ぎを起こしたわりには8位入賞とか往生際の悪いどっちつかずのオチだったなあと思ったのを憶えている。そんなこんなでこの映画は、まちがいなく天賦の才を与えられたトーニャ・ハーディングというフィギュアスケーターが(もし彼女がナンシー・ケリガンと同じトレーニング環境にいたらメダルなど朝飯前だったのだろうか)、どういうわけであんな凡庸なラストを迎えることになったのか、ここはひとつ腰を据えてトーニャ(マーゴット・ロビー)の言い分を聞いてみようや、と言っているわけで、それはすなわち、まあアタシは悪い星の下に生まれたっていうただそれだけ、とことさら悪びれることもないトーニャの笑うその悪い星を描くことに他ならず、何よりアメリカは、アメリカンドリームを夢見る人間と夢見る必要のない人間にあらかじめ分別される国で、アメリカンドリームを照らすために例の悪い星の輝きが欠かせないことを、ホワイト・トラッシュの希望たるトーニャを狂言回しにファンキーな自虐と諧謔のスピンでリアリティショーの狂躁をダンスしていく。しかしこの映画がルサンチマンと自己憐憫の自家中毒を起こすどころかピカレスクの痛快に転じているのは、あたしにとって良い風が吹いてないのは知ってるけど、とにかく私はやるべきことをできる限りやってやるのだというピューリタンの労働倫理にも似たあらぬ方向への猪突猛進が清々しくもあるからで、競技会の後で審査員を呼び止めて「あなたたちがあたしを嫌いなのは知ってるけど、スケートをどれだけ上手くやってもダメなのはどうして?」と自分を抑えて行儀良く穏やかにたずねるトーニャの健気に対するあまりにも残酷な答えは、家族の愛やら絆やら知るはずがないトーニャにオールアメリカンファミリーの一員を演じることを求めてくるわけで、にも関わらず彼女なりに知恵をめぐらしては母親をたずねて家族の真似事をしてみたあげく当然のように自爆するその姿には、実は自己評価の低さゆえ世界を盲信してしまう者のピュアネスが痛々しくもあるほどで、ではいったい何を信じているのかと言えば、それは彼女を足蹴にし続けるアメリカなるものに他ならないのが何とも切ないペーソスを湛えてしまうところではあるわけで、暴力をふるい続ける夫ジェフ(セバスチャン・スタン)との共依存と重なるその二重性に納得したりもするのである。母ラヴォナ(アリソン・ジャニ)と夫ジェフについては人でなしの目盛りで測れるにしろ、何より笑いと驚きが止まらないのがショーン(ポール・ウォルター・ハウザー)であって、実質的な事件の首謀者でありながらいくら何でもこのキャラクター造型は底が抜けすぎだろうと思われることをあらかじめ察したのか、ショーン・エッカート本人にインタビューした当時の映像がインサートされているのだけれど、そこに居るのはまさに劇中で演出されたショーンと一言一句違わないサイレント・サイコパスだったわけで、さすがアメリカではこのクラスが野放しになっているのかとあらためて感銘を受けたのだった。そんな面々に交じってなかなかに忘れがたいのがコーチのダイアン(ジュリアンヌ・ニコルソン)で、白木葉子の側(がわ)に丹下段平を潜ませた彼女はあくまでトーニャのスケートにのみ共感を示していて、トーニャを取り巻く人間の中で唯一のプロフェッショナルなわけである。そうしてみると、アメリカのイノセンスというのはアマチュアの奔放と無責任の裏返しとでも言えるわけで、プロフェッショナルとは自制と責任を自らに課す挟持を備えることでイノセンスを喪失した先にある精神なのだろう。それはすなわち、前述したアメリカン・ドリームを夢見る人間と夢見る必要のない人間の違いでもあって、アメリカン・ドリームはアマチュアが見る夢なのだと考えてみると今のアメリカでむき出されている感情の説明になるのではなかろうか。しかしアメリカをアメリカたらしめているのはその永遠のアマチュアリズムゆえであるというアンビヴァレンツが社会と文化を更新するダイナミズムとなっているのは言うまでなく、だからこそその分水嶺を滑落していくトーニャを同情ではなく敬意をもって描くことを監督は努めたように思うわけで、たった一人、泣き顔を笑い顔へと作り変えていくメイクアップのシーンこそがトーニャの言う”that's the fucking truth!”であったのは間違いないはずである。監督はそう撮っている。
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2018年05月08日

君の名前で僕を呼んで/恐怖を笑い欲望に震えろ

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ロータスの果実にかぶりつく若き神々がまどろむ夏の午後、とでもいう滴る感情をぬぐうこともしない理性の甘噛みには彼岸の香りすらがしたのだけれど、すべてをだしぬいて自転車をこいでは笑顔で走りぬけていくスピードの浮世離れはいつしか死の気配すらも振り切って、無知や誤謬を生け贄としない青春の滑らかで正しく美しい動きをただひたすら追う恍惚だけをとらえ続けるルカ・グァダニーノの幻視は、ある映画における「純粋で、途方もなく、モラルに外れた、そういう欲望こそが僕たちを生かしてやまないのだから」というポール・ダノのセリフの新たな実践にも思えたのである。しかしそれは、終盤で父(マイケル・スタールバーグ)が息子エリオ(ティモシー・シャラメ)に、夢を見続けるためには夢の理由を知っておいた方がいい、と語りかける父殺しをしない通過儀礼の静謐と豊饒を拡げるのに必要な時間だったことが明かされると同時に、オリヴァー(アーミー・ハマー)が自身の疎外された生を(「君の家ではぼくは義理の息子のような気分だったんだ。うちの父親だったらぼくは刑務所=correctional facility行きだよ」)エリオに明かすことによって、あの夏はむしろオリヴァーにこそかけがえのない時間であったことが告げられるわけで、エリオの涙はオリヴァーという想い出を失う哀しみに加え、エリオにとって自由の眩しい道筋にも思えた彼がずっと殺してきた内部の奥と、これからもそれを殺していかなければならない世界の悲嘆に感応したエリオ自身の奥から湧き出していたように思うのである。夏の日差しから一転したイタリアの冬景色とエリオを塗りつぶすメランコリーは、やがて聞こえてくるエイズの足音と、彼らが否応なく巻き込まれていく社会と政治に吹き荒れる嵐の予兆だったのかもしれない。この映画が『おもいでの夏』タイプの定型ににおさまらないのは、エリオにとってのオリヴァーと同じくらいオリヴァーにとってもエリオでなければならなかったその伸ばした手の切実さがそうさせるわけで、何度となく水辺で体を慣らした2人の、その6割は水分でできているとされる肉体が互いを浸透圧のように移動して均質になっていくその感覚と確信を、オリヴァーは”Call Me By Your Name”と口にしたのだろうと考える。ある種の解放区を現実的に設定した上でそこにのみ息を継ぐ人を解き放っては、彼女や彼らのブラウン運動のような動きをつかまえていく監督の筆致は前作『胸騒ぎのシチリア』にも連なる部分で、その不可思議なゆらぎには、いったい何が映画を決定するのかという問いかけを無効化する催眠性があって、主人公が境界線上で磔になるラストの香しい手癖も含め、ヴィルヌーヴがステージを上がってしまった今となってはこの悪い夢から醒め続ける夢を見るような中毒性のキックを手放すわけなどないのである。1984年にサイケデリック・ファーズをよみうりホールで観た日は東京で38度を超えた猛暑日だったことをいまだに憶えていたりもするものだから、地下室にくぐもるようなリチャード・バトラーの歌声を真夏の夜のパーティチューンにインサートするグァダニーノに、なにより一方的な共感を覚えてやまないのだった。
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2018年05月06日

ザ・スクエア 思いやりの聖域/芸術はサービスだ!

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「それはだね、きみのバッグが美術館に展示してあったらそれは果たしてアートかどうか、ということだよ」というとっさの苦し紛れにも思えたクリスティアン(クレス・バング)の答えが、言うまでもなくそれはデュシャンの「泉」に由来するアートという行為の脱構築論であるけれど、結果として日常と非日常、虚構と現実、本音と建前、といった二重性をトートロジーで弄ぶスノッブの本質を自ら宣言していたことに気づかされていくのである。すべては現実を解題するコンセプトとして相対化する大喜利に過ぎず、後出しジャンケンの関係性の中でしか生きられない者の滑稽と悲哀を揶揄するというよりは救済するかのような慈しみと共に描くことで、笑い飛ばすつもりでいたこちらの居心地を次第に奪っていくその手つきは前作『フレンチアルプスで起きたこと』からいっそう露悪を増していて申し分ない。トゥレット障害の観客によるトークショーの蹂躙、クリスティアンとアン(エリザベス・モス)が繰り広げる言ったら負けのマウンティング、オレグ(テリー・ノタリー)による相対性晩餐会の破壊、そして黒髪の少年によるクリスティアンのあくなき糾弾、といったシーンにおける映画の叙述としてはバランスを失しかねない切り上げの悪さは明らかに観客を蝕むためのやり口で(そりゃあ151分にもなる)、そうやってクリスティアンに誘い出されたあなたたちは自分が今どこにいるか気がついているのかな?と言いながら、ワタシたちの苛立ちや蔑み、咎め立てをニヤニヤと笑いながら監督は集めて回っていたのではなかろうか。劇中では展示された正方形の中に足を踏み入れた観客の描写はないのだけれど、クリスティアンの娘が出場するチアリーディングの大会で、四角く囲われた競技エリアの中でチームが発揮する協調と信頼は、いまだ相対化の怪物と化していない子供であればこそ可能な精神の発揮であることを告げているかのようだし、別居した妻との間の2人の娘がクリスティアンの生活に登場して以降、クリスティアンの墜落をぎりぎりで押し留めていたのは子どもたち(2人の娘と黒髪の少年)であったようにも思うのだ。嘘をついてはいけません、お友達をいじめてはいけません、困っている人を助けなくてはいけません、自分がされて嫌なことは他の人にしてはいけません、と散々偉そうな口調で子供に諭してきたにも関わらず片っぱしからそれを反故にしている大人を叱るにはどうすればいいのか、つまりはこの映画はそういうつもりで耳に痛くて煩わしい言葉を執拗に散布し続けるわけで、そうしてみるとあちこちで子供が事態を撹乱しては「カオス」を呼ぶハネケの意図があらためてクリアになった気もするのである。もちろんリューベン・オストルンド監督がハネケへの傾倒と崇拝を公言しているのは言うまでもない。
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2018年05月03日

アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー/おまえがいないと宇宙が広い

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※ネタバレあり

ガモーラに引き金を引いたスターロードに「気に入ったよ」とつぶやいて去っていくサノスは重篤な自己犠牲の虜と化していて、それがタイタンの失敗によるものなのかあらかじめ狂っていたのかは明らかにされないものの、ヒーローをヒーローたらしめる自己犠牲の呪いでスイングするアベンジャーズは、まさにそれゆえサノスの飼う自己犠牲の狂気に喉元を屠られ一敗地に塗れることになる。知識に呪われた男としてサノスがスタークに示す共感は、かつてサノスも世界の困難を知識で解決できると信じていたことによるものなのか、すべての理想が潰えた急進的リベラルがニヒリズムを経て暴力的でアナーキーな実践に至る姿には自罰的といってもいい過剰な自己犠牲への渇望が溢れ出し、「誰よりも今のお前を理解できるのは私だ」とヴィジョンを失わせたワンダを慰めては当たり前のように「あなたにわかるわけがない」と吐き捨てられはするものの、いやそれが彼には分かっているんだよと知らずワタシはお節介をしてしまうのだ。一つの生命を生かすために一つの生命が失われるサノスの言う完璧な調和の下での自己犠牲の、その失われる生命を少しでも減らすための営為が文明であるのは言うまでもないにしろ、その収束に抗い続けることの疲労と倦怠が、何かを得るためには何かを差し出さなければならないという自己責任へと自己犠牲を拡大解釈していくのも裂けられぬ営為であることをワタシたちは身に沁みているわけで、そうやってサノスに抱いてしまう昏いシンパシーの危うさを次作でどう鎮めてみせるのか、避けるわけにはいかない新たな責任をアベンジャーズは抱え込んだようにも思うのである。誰も彼もが「ダークナイト」のように責任をとるわけにはいかないのだよと大空に飛び立ったトニー・スタークのポップな遁走から10年目、宇宙の果てで途方に暮れるその姿が一瞬胸をついたりはするものの、この10年間それを食って過ごしてきたワタシは、因果は巡るよどこまでもと鼻歌まじりでその肩をたたいては、いつか社長もサノスのように笑える日が来るさと慰めてみるのであった。すべての登場人物に理由と必然を与え、なおかつそれを彼方へと燃やすシナリオと演出の精密さには舌を巻きっぱなしなのだけれど、それはひとえに、言わずもがなと言わずと知れた、皆まで言うな、によって何をどこまで刈り込んで削ぎ落とすことが可能なのか、その見極めにかかっていたとも言えるわけで、何よりそれを可能にしているのは観客との信頼関係および共犯関係であって、DCに決定的に欠けているのがそこに成立する視点であることにも気づかされるのである。とは言え、ファイギこそがその視点に他ならない点においてDCにとっては永遠のないものねだりであることには違いないのだけれど。
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2018年04月29日

タクシー運転手 約束は海を越えて/走っても走っても

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この世界で何より大切な一人娘との約束はおろか、自分が生きて娘のもとに帰ることすら危い状況に首まで浸かったキム・マンソプ(ソン・ガンホ)が自己犠牲の天秤を一人娘と光州の人々との間に掛ける苦渋は、それが活動家としての思想やジャーナリストの使命感という大義に裏打ちされない分だけ残酷なまでに現実的で下世話な判断をつきつけて、つい数時間前で疑いもしなかった世界が自分と自分のような人たちを躊躇なく殺す殺人鬼に変貌したその姿への、理解が現実に追いつかない混乱と衝撃を卑近にたぐり寄せては何とか呼吸だけを続けてきた彼がついに天秤を逆転させる瞬間は、カタルシスというよりは悲痛と哀切の幕が正式に切って落とされたにすぎないわけで、フィクショナルなアクション映画からはすくなくとも30分は遅い彼の変わり身はそれゆえ深刻でやるせなく、それまでの卑屈な愛想笑いと強がりが一気に反転していく取り返しのつかなさが、じゃあいったいお前ならどうする?と胸ぐらをつかんで泣きながら詰め寄ってきたのだった。そしてそれを知識や思想ではなく、血と泥にまみれたスニーカーと娘の土産に買ったピンクの靴、差し入れのおにぎりと遁走の道すがらのおにぎり、といった手ざわりの変奏によって更新する手続きは最後にマンソプがリボンを結ぶシーンの円環によって完了されるわけで、それは光州の人々がなぜああして自らを顧みず立ち上がったのか、そのたどたどしくも身を切るような代弁でもあったように思うのである。しかし、そうやってマンソプの重力が効けば効くほど、記者ピーター(トーマス・クレッチマン)のそれが拮抗し得ていないことに気づかされてしまうわけで、ピーターの動機がいったいどのように変遷していったのか、冒頭の日本パートからすると倦んだ屈託を燃やす機会を狙ったように映るピーターが一線を越える覚悟と葛藤をどう自分に課したのか一人称的な視点で叙述されることがないため、もちろんそこには言葉の壁があるにしろ、最後まで記号の枠をはみ出すことがなかったように映ってしまうのである。それと気になっているのが、最後の検問でトランクをあらためる兵士がソウルナンバーのプレートに気づきながら知らぬふりをするシーンで、他の兵士とはいささか異なる文民の風情を彼に漂わせた点で軍の非道に対するカウンターとしての役割を与えたのは明白であるにしろ、となればマンソプやピーターの生存のみならず光州の真実を伝える決定的な役割を果たしたのはこの名もなき兵士だったという「都合の良さ」がどうにも引っ掛かってしまうのである。これがピーターのモデルとなったユルゲン・ヒンツペーターの証言をもとにした事実であるならば、すべての成否がこの兵士にかかっていたという点で全体のバランスが少々危うくなる気もするわけで、この行動が兵士自身の破滅を招いたであろうことを想像してみれば、なぜ彼はああした行動に出たのかというサイドストーリーが物足りなく思えてしまうし、この後に続くカーチェイスのための完全なフィクションだったとすればその手続きはいささか雑に過ぎたと言われても仕方がないように思うわけで、やはり実話ベースであった『アルゴ』での家政婦サハルを物語の要請として使い捨てる扱いなど思い出したりもした。光州の人々が軍の銃弾に斃れていくシーンのスローモーションは、無慈悲に散らされていく生命があげる最後の叫びとでもいう詩情に溢れて一瞬ペキンパーのスローがよぎったし、理不尽な世界に蹂躙され翻弄される小市民マンソプを演じたソン・ガンホには、やはり運転手を演じた『世界大戦争』のフランキー堺が重なって想い出されたりもした。
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2018年04月26日

レディ・プレイヤー1/夢を見ろ、空を見ろ

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「長いものに巻かれるな」「生きていく手ざわりは現実にこそある」たったこの2つを言うためにここまでド派手な花火を打ち上げてスマホにうつむく顔をふりむかせては、まるで子供にひらがなの口調で言い聞かせるような映画を撮らなければならなかったスピルバーグの切実に、どこかしら『ペンタゴン・ペーパーズ』と背中合わせになった性急さを感じたりもしたわけで、高みからしたり顔でビラを撒くのではなく相手の陣地で同じ目線に立ってそれを可能にするスピルバーグの五感がやはり尋常ではないことをあらためて実感するのだけれど、だからこそスピルバーグは昏く変容していく世界に対し誰にも増して怒りや苛つきと共に感応し、その反撃として最も得意な方法で異議申し立てをすることを決めたのだろう。スラムと言ってさしつかえないスタックされた集合住宅の描写を含め、オアシス外の世界がスピルバーグにしては平坦というかことさらディストピアを強調しないのもこれが階級闘争の図式に閉じ込められてしまうのを嫌ったためだろうし、あくまで向き合う相手は自分自身であることを念押ししたかったということになるのだろう。そしてこの映画でクロスオーヴァーするとめどないキャラクターたちに邪気なく反応するであろう世代を考えてみれば、いったいこの映画が誰に向けられているのか、それは少なくともウェイド(タイ・シェリダン)やサマンサ(オリヴィア・クック)のような若者でないことは言うまでもないし、それら世代に対して「長いものに巻かれるな」「生きていく手ざわりは現実にこそある」と言わねばならない現状に、大人になることを要求されなかった大人たちに抱くスピルバーグの危惧と懸念が透けた気がしたのである。したがって、イースターエッグに触れて涙を流すウェイドを目の当たりにして銃を下ろす改心するヴィランとしてのソレント(ベン・メンデルソーン)こそが実はこの映画の主人公だったとも言えるわけで、美味い飯が食えるのも現実こそがリアルだからなんだよなと小さく笑って消えていくハリデー(マーク・ライランス)も含め、君ら大人が正気であってこそ若者がクリエイティヴでいられるんじゃないかというスピルバーグの檄が意外なほど刺さってきて、この国においては今作と『ペンタゴン・ペーパーズ』が立て続けに公開される僥倖をあらためてかみしめてみたのだった。それにしても『レゴ ®バットマン ザ・ムービー』でも今作でも驕った文明の犠牲者キングコングがヴィラン扱いされるのがどうにもしっくりこないわけで、いっそのことメカニコングなら良かったのにと、あのメカなんたらなど足下にも及ばない超絶クールなデザインを世界に知らしめる機会を失したのがいささか悔やまれる。とはいえ、アルテミス=サマンサが投げつける手榴弾がまさかのマッドボールだった瞬間に軽く帳消しにはなったんだけど。


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2018年04月24日

アンロック 陰謀のコード/私は冗談の通じない女

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ノオミ・ラパスがCIAの尋問官を演じるとなれば、『4デイズ』のサミュエル・L・ジャクソンにリターン・オブ・リスベットとしていったいどこまで迫れるものかと胸はずませてしまうのが人情というものだろう。とは言え人情というものはそれぞれに事情があるようで、アリス・ラシーン(ノオミ・ラパス)にとっての尋問官はあくまで側(がわ)に過ぎず、彼女が放り込まれるのは精神を切り刻む神経戦というよりも諜報は踊るとでもいう狂騒曲の流れるダンスフロアであって、そこでは誰もが落ち着きのないステップで息を切らしては趣もへったくれもなく喘いでいたのである。何つうか人を殺しすぎたっていうか、テロとかそういうのはなんかもういいんじゃね?と急進的なイスラム教指導者が言い出したことでMI5とCIAを巻き込んで発生する泥縄のマッチポンプはその底抜けと悪趣味でほとんどコメディの領域に近づいた気もして、イギリス系モロッコ人ラティーフ(エイメン・ハムドゥーチ)と中東からの移民アムジャッド(トシン・コール)というそれなりにキャラクターの陰影を育てたはずの2人が、どちらかといえばアリスのエラー含みであっさりと殺されてしまう躊躇のなさと後腐れのなさ、およびそれを当事者のアリスですらがさほど気に留めた風もないまま、ラストにおいて彼女の前線復帰を告げるCIAヨーロッパ支部局長(ジョン・マルコヴィッチ)の車に乗り込んだアリスの表情には死屍累々の悔恨や屈託は清々しいほど見当たらないわけで、特にアムジャッドについては彼の幼い子どもまで含めた背景をそれなりに描いたあげくの使い捨てにも等しい退場への、それはいくらなんでもそれはいくらなんでもと思わず声も上ずる違和感に、そもそもが寄る辺なき諜報の世界に正気の者などいるはずがなかろうよと鼻で笑われた気もしたのである。してみると、いささかオーヴァーアクトとも言える身のこなしでフィクションを助長し続けたジョン・マルコヴィッチはこの映画を真顔で演じることの不粋をはなから見抜いていたわけで、彼にとってはさすが余裕の暇つぶしであったというしかない。としてみれば、オーランド・ブルームもトニ・コレットもマイケル・ダグラスでさえもどこかしら半笑いの風情を終始漂わせていた気がしないこともなく、ひとり悲壮な面持ちで密室の尋問劇とはまったく関係ない撃って殴って捕まえてのアクションを孤軍奮闘繰り広げたノオミ・ラパスが、劇中と同様ドッキリを仕掛けられた犠牲者にも思えてきたのである。いかなるサイズの映画であっても観客の手の届く範囲に縦横高さを縮小しては親密な手ざわりを届けてくれる彼女のB級力はワタシの頭にピーター・ウェラーのそれをよぎらせたりもするわけで、それはそう誰にでも許されていない希有な能力であるのは間違いがないところであって、今作でも新宿ミラノ感、あるいはシネパトス感といった共犯関係を存分に確認させてもらったのであった。うらぶれた駐車場に降り立ったトニ・コレットの緊張に溢れたバストショットを捉えたカメラが引いていった瞬間、目に飛びこんでくる膝丈やや上のフレアスカート姿の凛とした颯爽がベストショット。まるでアニー・レノックスのようにクールかつバウンシー。
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2018年04月22日

女は二度決断する/海へ往く

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おそらくあの鳥も死ぬことになるのだろうと、そのイメージが頭に浮かんだ瞬間、カティヤ(ダイアン・クルーガー)はいったん復讐の憎悪を正気の鞘に収めるのだけれど、憎しみの連鎖を絶ちきるという説諭の気分を目的とするならば、ここで仄明るくも曖昧な余韻と共に目を伏せる手もあったはずである。したがってそこから先で起きることはカティヤにのみ有効で普遍性のない私闘の産物であって、事件のショックでしばらく止まっていた生理が突然来たことに虚を突かれ、身体が自らを修復して立ち直るように、いつしかその記憶と感情が自らを修復してヌーリとロッコを忘れてしまうことに恐怖したカティヤが、ならば今この記憶と感情のまま消えてしまえばいいのではないか、とまず思い立つことになる。そもそもが監督は巧妙なずらし方をしていて、カティヤは夫と子供を殺したのがネオナチだから復讐を決意したわけではなく、仮に相手がマフィアだったとしても何らかの行動に出ていただろうことは劇中の彼女を知れば知るほど想像がつくわけで、レイシズムに関していえばトルコ系移民である夫とその家族に対するカティヤの母親の視線は刑事が抱く予見という偏見につながっているし、家族3人の幸福を築き上げるにおいて彼女がとっくにレイシズムと闘っていたことは言うまでもない。それがトルコ系移民の両親を持つファティ・アキン監督がレイシズムに対して抱く極めてリアルな記憶と感覚であることを思えば、その絶望的な異議申し立てがネオナチという醜悪で唾棄すべき存在によって矮小化されてしまうことへの拒絶こそが、カティヤに最後の決意をさせたように思うのだ。私はネオナチだけが憎いのではない、彼らが存在することを許す世界を憎悪しているのだ、だから私を知るすべての人間の悪夢となるべく、私は最悪の方法を選ぶことにする、いつか忘れ去られるとしても、一分一秒でも長くその悪夢が続くよう、最悪の方法を選ぶことにする、しかも私は最愛の家族の記憶に全身を満たされたまま消えていくことができるのだ、あなたたちの悪夢が今の私にとってのハッピーエンドなのだ、バイバイ、というモノローグを、キャンピングカーに向かう歩みへのヴォイスオーヴァーとしてワタシは再生してみる。幸福と絶望と諦念と執念、と四方に裂かれ続ける感情を哀しいほど誠実かつ精緻に刻みつけたダイアン・クルーガーの表情が今もって忘れられない。『追想』を悪意の時代にアップデートした祈るような傑作。
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2018年04月19日

パシフィック・リム・アップライジング/わたしはデル・トロをゆるさない

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イェーガーやKAIJUそのものにはストーリーを背負わせないという舵の切り方それ自体は悪くないと思うのだけれど、やるならやるでニュート(チャーリー・デイ)を帆場瑛一に仕立てつつ押井パトレイバーを横目に見るくらいすべきだし、となれば当然これはニュートとハーマン(バーン・ゴーマン)の物語となるわけで、『バトルシップ』の冒頭をトレースするにしてはいっこうにスイングしないジョン・ボイエガの凡庸な偽悪っぷりと、父親から肝心要のシニカルを譲り受けなかったスコット・イーストウッドのツートップでは胸騒ぐ物語に至らないのも、既に厨房での冷え冷えと悲惨な掛け合いで瞭然だったように思うのである。かといってハーマンと袂を分かったニュートの闇落ちを描くにはこの2人が抱える屈託を理解できる脚本家が必要だっただろうし、まあそれがル・トロということになるのは言わずもがなとして、すべてが段取りとその処理に汲々とするあまり、情動のスイッチにふさわしい森マコ(菊地凛子)の退場も、ジェイクの朴念仁を助長する造型と演出のせいで曖昧な関係性のまま単なるイベントのように終わってしまうし、しかしそれについては全員が朴念仁のまま終始しているとも言えるわけで、未知のものどもを観客に魅せる喜びに溢れていた前作を受けて、予算の都合もあったのだろうその足し算はあきらめた上で「人間模様」でドライヴすることを選んだにしては無い袖を振りすぎたと言うしかなく、その無謀がブレイクスルーを呼ぶこともごく稀にあるにしろ、それは自分が無い袖を振っていることを重々承知したうえでの果敢であって、その傲慢は、一介の訓練生にとっていきなりの修羅場となる初陣に際し、死への恐怖と使命感とのせめぎ合いに感情の針が振り切れる瞬間がほんのワンカットでも浮かばないデリカシーのなさにも見て取れて、KAIJUに攻撃を受けた基地で応戦したイェーガーのパイロットが渾身の抵抗をみせたあげく一蹴されるシーンを直前で見せておきながら、それを彼や彼女らがどう自分に置き換えたのかそういったひとつひとつが全く描かれていなかったものだから、大変申し訳ないが誰が死んでも困りようがないのである。せっかくアマーラ(ケイリー・スピーニー)とヴィク(イヴァンナ・ザクノ)のねじれを仕込んでおきながらそれが振りほどかれることで感情が弾ける見せ場が見当たらないことなど杜撰と呼んでも差しさわりがないだろう。青空を背景にした仰角の冴えるバトルシーンはかなり健闘していただけに、大人たちの失敗の甘き香りおよび青いメメント・モリを忍ばせるシナリオおよび演出の失敗が足を引っ張っている点で、ハードルを下げていたにもかかわらずやはりそれなりに鼻白んだりはしてしまう。健闘したとは言え、ロボットは人間のように動くのではなく人間のようには動けないことで色つやがのってくるわけで、そうした意味ではフェティシズムに欠けて健康的すぎたこともあり、どれだけ彼らが破壊されようが昏い昂奮が湧いてこなかった点でもなお鼻白んだのである。みそっかすの女王としてのジン・ティエンはすこぶる健在で、大人の事情に追われる彼女の逃げ場のなさはある意味ロボットよりも哀切であった。
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2018年04月18日

ワンダーストラック/きこえないよね、メイジャートム

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42丁目のポート・オーソリティ・バスターミナルに降り立ったベン(オークス・フェグリー)が、西81丁目のブックストアに向かってずんずんと北上しながら通り抜ける1977年夏のヘルズ・キッチンあたりをギラついたファンキーで活写したシーンを観ていたら、かつて映画で知ったニューヨークの原風景ともいえる熱くたぎる坩堝感にくらくらしてきて、『エデンより彼方に』『キャロル』からつづく偏執的時代考証シリーズの最新作として、あっさりとOKを出してしまう。言ってみればこの映画はまるごとが、50年の時を経た原風景を重ね合わせることでそれまでそこにいなかった人たちを浮かび上がらせる騙し絵のスペクタクルになっていて、前半の時空を超えたカットバックの向かう先が『オーロラの彼方へ』タイプのファンタジーになるのだとしたら、果たして乗り切れるものかどうか自信がないなあと思っていたので、ワンダーストラックなたたみかけとは言え極めて現実的な仕草で着地していく終盤に実は安堵したりもしたのだった。1927年と1977年のルックをあれだけ丁寧に磨いたこともあってのことだろう、その合間の1964年を実写ではなく手作りの人形劇スタイルで描いたアイディアも、話して伝えることが叶わないローズ(ジュリアン・ムーア)のしたためた手書き文字から立ちのぼる「お話」をベンが頭の中に投影させた幻視であったことを考えてみれば、たどたどしくもいきせくように自分に言って聞かせる少年の語り口が実にヴィヴィッドにフィットしていたように思うし、話して聞かせればただのフラッシュバックで再現されたであろう物語が、2人の関係性ゆえに特別な風景を生み出していくあたり、トッド・ヘインズはそのアイディアからすべてを逆算させたのではなかろうかとも思ったのだ。ラストで自然史博物館の屋上に並ぶローズ、ベン、そしてジェイミーの3人はみな母親を失った者たちで、そこを生き抜いたかつての子どもとこれから生き抜いていかねばならない子どもたちが大停電の夜空に浮かび上がる星に思いを馳せる姿に、”We are all in the gutter, but some of us are looking at the stars”(おれたちはみなドブの中にいる。でもそこから星を眺めるやつだっている)という魔法の言葉が唱えられた気がして、弱くて小さいものを慈しみ勇気づけるジュブナイルにトッド・ヘインズの原風景が透けて見えた気もしたのだった。1927年ではローズの母リリアン・メイヒュー主演のサイレント映画が上映されるブロードウェイの映画館を、1977年では”CAPTAIN LUST”なんていうポルノ映画が上映される場末の映画館をそれぞれ時代の気分としてフィルムに収めていて、70年代ニューヨークの猥雑とポルノ映画館を結びつけたのはやはり『タクシードライバー』なのだろうなあと思いつつ、スコセッシの諸作以外にも『重犯罪特捜班/ザ・セブン・アップス』『ウォリアーズ』『ジャグラー ニューヨーク25時』『セルピコ』とかいった、ぎらついた目つきとくすんだ屈託が塗り込められたNY映画をあれこれと想い出したりもした。それと『刑事コジャック』もかなりニューヨークの私的原風景になっている。
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2018年04月16日

ラブレス/罪と罰?

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タイトルがあらたかたを語ってしまっていることで映画に裏切りはないにしろ、ほとんど軍隊並に組織された民間の捜索ボランティア団体のとりつくしまのないプロフェッショナル感は少しばかり異様に思え、一介のボランティアであるはずの女性が施錠された門扉の向こう側へと斥候の動きで入り込んでみたり、合理的かつ支配的な上意下達による有無を言わせぬ指揮系統など、あのレベルまで鍛えあげられるほどロシアでは失踪人の捜索が常態化しているのかと、それすらも薄ら寒かったのである。その薄ら寒さの「薄」は酷薄の「薄」でもあるわけで、愛情、思いやり、責任感といった社会の体温を決定するそれぞれがおそろしく「薄」である様を、血の気の「薄」い映像が引きずるように倦んだ足どりで冷ややかなため息と共に告発していく。ボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)がそれぞれ新しいパートナーとセックスに励んでいるまさにその頃、やはりセックスをすることで生まれてきたアレクセイはこの世界から独り彷徨い出してしまっているわけで、物質主義と即物性の刺激にしか反応しないパブロフの犬として2人を描く筆致の容赦の無さはこの元夫婦を現代ロシアの病巣として描くただそれだけを目的にしているようですらあり、自分教の教祖たる自身を偶像=アイコンとする供物であるかのようにセルフィーをアップロードし続ける姿にはセルフィーという行為に抱く監督の蔑みと憎悪すら感じられて、ボリスとジェーニャにかけられた永遠の呪いを示唆したラストは、もはや許すも許さないもないのだという穢れた世界に吐きかけられた唾のようにすら思えたのだ。しかしこれがロシア固有の状況や問題でないことくらいワタシ達の誰もが気づいているはずで、ワタシが最初にセルフィーという言葉を知った時はセルフィッシュからの派生かと思ったくらい一方的な自意識の新たな登場に思えたし、セルフィーに耽溺し執着する人間と以外の人間の断絶は様々な断絶のパターンに重なるような気すらするものだから、悪魔を憐れみながら悪魔に魂を売った人々の象徴的な行動として監督が選んだことは至極当然だったのではなかろうか。そういった風に徹頭徹尾が呪詛でしかないにも関わらず、鈍色の鉄塔のように繁る木々や正気だった世界の墓石のような廃墟のひっそりと孤絶した美しさのせいでクズの蠢きにどこかしら神性が宿っているかのようであるのも強烈な皮肉としていっそう罪深い。それにしても、その社会が経てきた歴史や主義思想と関係なく、たがが外れた人間の閾値はなぜこうも一定に収束していくのかその迷いのなさはいっそ清々しくもあり、おそらくはそこにある種の感銘を受けた監督による生き地獄上等にはハネケやファルハディにはない闊達さすらを感じて、さすがドストエフスキーを国民的アイドルと押し戴いた国の人であることよと、人なるものを研究者の手つきで小突き回し観察者の偏執的な視線で睨め回すその地肩の強さに感嘆しつづけたのである。実際のところはSelf Networking Serviceとも言うべきそれらSNSは、ナルシシズムにすら至らない空白に自分の形をしたドーナツの穴を作り続けているようにも思え、永遠に埋まらないその中心にアレクセイは消えていったのだろうとワタシは考える。
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2018年04月13日

ヴァレリアン 千の惑星の救世主/すました顔してバンバンバン

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この映画はこういう風に、ただただお互いがにっこりできるようなポップで転がっていきますよっていうオープニングと、「スペース・オディティ」のヴィヴィッドで必然性のあるインサートにボウイの歌声を思いがけず堪能して顔がほころんでしまう。それから約130分の間、ほころんだ顔のみけんにシワが寄ったりまぶたと顎が落ちたり瞬間もないままめでたしめでたしで幕を閉じたものだから、いったいどうしてこの映画がヨーロッパ・コープの屋台骨に蹴りを入れたのか皆目見当がつかないのである。確かにこの映画は父殺しの通過儀礼も骨肉の争いもポリティカル・コレクトネス的なメタファーのこれ見よがしな参照も見あたらない、一見したところはノンシャランな恋人たちのスペースオペラではあるけれど、冒頭で謳い上げる握手の歴史を足蹴にする者は許さないというただそれだけで十分な背骨ではあるし、ローレリーヌ(カーラ・デルヴィーニュ)とヴァレリアン(デイン・デハーン)の、「男勝り」や「女々しい」とか言った形容詞を溶かしていくユニセックスな双子のような関係それ自体が十分フレッシュな言い分に思えたのである。惑星ミュールはほとんど「ファンタスティック・プラネット」のアップデートに思えたし、マーケット自体をひとつのガジェット化するアイディアなど、何よりドラマではなくヴィジョンで前に進んでいく物語にスター・ウォーズが手放してしまったセンス・オブ・ワンダーを感じて、現実につかまらずにどこまで逃げ切れるかという逃げ足でははっきり言ってSW8など圧倒していたといってもいい。バブル(リアーナ)のパートは、その最期をきちんとした自己犠牲で閉じてあげさえすれば印象もまったく変わっただろうにとは思うものの、それくらいの湿気さえ嫌ってしまうのもベッソンらしいと言えばらしいわけで、言ってみれば今作はベッソンの目指したものが作品として寸足らずだったから失敗作とされたわけではなく、現在のマーケットに対して目配りを一切しなかったがゆえのすれ違いだったというべきで、現代はジャンル映画においてすらほぼ常套である家族愛や友情、あるいはその相克といったフレームを提供しなかったことが瑕疵とされてしまう不幸をくらったとしか言いようがなく思えてしまうのだ。したがって、今回に限ってはともすれば情動の奴隷を強いてくる世界への負け戦を挑んだベッソンに全面的な肩入れをしたいと思っている。ただジンクスとしては、『ジョン・カーター』の例もあることだし、今後馬鹿をやりたい監督は高速で突進する巨大なブルドッグを投入するのは控えたほうがいいかもしれない。
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2018年04月11日

ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書/うそがほんとにならないように

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権力を監視する第三者機関としてのマスコミが保つべき挟持の鼓舞と再確認は言うまでもないにしろ、エンディングで暗示される例の大事件の最中に「それを記事にしたらおたくの社主のケイティ・グラハムはかなりまずいことになると伝えておけ」と元司法長官に名指しで脅されるくらいの目の上のたんこぶへと至るキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)のライジング・ストーリーが、国民の視点、とりわけ女性たちの視点を切り開く闘いにも重ねられることでなお映画の体温が上昇した気がしたのである。「ペンタゴン・ペーパーズ」そのものをめぐる事件を史実的に追うのであればワシントン・ポストよりはニューヨーク・タイムズを主戦にするのがふさわしいわけで、いささか類型的に放課後ボーイズクラブのガキ大将のようなヒロイズムとマチズモで描かれるベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)が、主にキャサリンの当て馬としてあるのもそうした意図によるところが大きいのだろうし、単なるジャーナリスティックな反撃というよりは、銃後の女性としての怒りと勇気および責任感によってその一歩を踏み出したキャサリンの決断の重大さをベンに気づかせたのが彼の妻トニー(サラ・ポールソン)であったことなど、戦争ごっこが好きな動物としての男たちに対する女性たちがあげる声なき声の代弁者としてのキャサリンをこの時代と事件の象徴としたことは、最高裁判所から出てくる彼女を静かに微笑む女性たちが無言で迎えるショットにも雄弁だったように思うのである。戦場のタイプライターで打ち込まれたヴェトナムの記憶と記録が文書となることで実体化し、監禁された場所から連れ出され飛行機に乗って然るべき場所にやって来る一連は、まるでひとりの生き証人をめぐるサスペンスのようで、ここでスピルバーグはマクナマラ(ブルース・グリーンウッド)をして「ケネディもジョンソンも確かに手強くてしたたかだった。でもニクソンは、あいつは正真正銘のサノヴァビッチなんだ!」と絶叫させ、執拗に漆黒のシルエットと肉声を使いニクソンを悪の黒幕として容赦なく仕立て上げることで、生き証人としてのペンタゴン・ペーパーズを取り扱うその一つ一つの手続きに手の震えや小さなつまずきを塗してはポリティカルスリラーの蒼白までも呼び出している。最初にメッセンジャーボーイがタイムズ社屋に入るシーンを見せておいたことによって、その後でポストのインターンがタイムズの社屋に潜入するコースを観客に拡げておく段取りなど、些細なことではあるけれどそうした積み重ねの丁寧さがノイズやストレスを取り除いていくのだなあと、小さくため息なども出たのであった。ベンの子供じみた尊大さをやんわりとたしなめつつ、突然おしかけた来客たちの人数を瞬時にカウントしては、人数分のターキーとローストビーフのサンドイッチを作って差し出すトニーの万能も称賛されて然るべきだろう。ただ、そんな風にして少々キャラクターに依存したこともあって、往き来する映像の擦過による発熱が控え目だった点で、スピルバーグにしてはいささかローカロリーだったようには思うのである。悪に対する悪意を燃やすよりはキャサリンに光差す祝福をトーンにしたこともその理由なのだろうけれど、とどめは『大統領の陰謀』に任せるよという意味でのあのラストだったということになるのだろう。それが名場面であればあるほど、固定電話、とりわけ公衆電話が過去を強力にするための装置となってしまったことをあらためて実感した。ネットと携帯電話が街角のサスペンスを消していく。
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2018年04月09日

レッド・スパロー/なんでもお前の意のままに

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ホテルのバーでドミニカ(ジェニファー・ローレンス)がユスチノフ(コンラッド・クリストフ)に問わず語りした野心と自尊心の覚え書きこそは、実はこの物語でドミニカが吐露した唯一の本心であったようにも思え、冒頭の楽屋裏でそのユスチノフにむき出しの背中を撫でまわされながらもその表情をピクリともさせなかったドミニカは、その程度のことあるいはそれ以上のことも、野心の達成および自尊心を育ててくれた母親に報いるため、感情を殺して乗り越えてきたのだろうし、だからこそ自身からバレエを奪い取った2人への復讐が凄惨なオーヴァーキルであったように、愛する母親を人質にとることで自尊心を粉砕した国家と野郎どもへの復讐が、コルチノイ(ジェレミー・アイアンズ)をメンターに壊滅的な方法で為されていく将来を謀ったのだろう。寄る辺なきエスピオナージの世界ですらその御託にヒューマニズムを並べてみせるネイト(ジョエル・エドガートン)は著しくアメリカ代表であり、全体主義の権化としてのマトロン(シャーロット・ランプリング)や現大統領ワナビーとしてのワーニャ(マティアス・スーナールツ)はいかにもなロシア代表として代理戦争を行うわけで、その書き割りの図式の中で一切の思想信条を足蹴にするドミニカの孤独な闘いが真っ赤な血と怒りの色を帯び始めると共に、やはり鳥の名前をニックネームに持つカットニスという少女が、肉親の身代わりに自らを殺し合いの場に差し出しつつ最後には全体主義のシステムを打ち倒す物語のR指定変奏が奏でられていたことに気づかされるのである。とは言え、ポテンシャルが加速度的に開花しつつあるとは言えこの世界においてはアマチュアに過ぎないドミニカが、いかにして酷薄な手練たちと渡り合ったかといえば、それは肉を斬らせて骨を断ち血みどろで寝首をかく正面突破であり、ドミニカが自身の内部に眠る昏い衝動に気づくシャワー室でのカップル襲撃から既に、この映画はさらけ出された肉体がよじれて呻くその震えをもって余白をしたためてきたわけで、ことさらビルドアップされないドミニカとネイトの内臓のつまったズタ袋としての肉体がいかに雄弁であり続けたかは言うまでもないだろう。そのクライマックスはあの皮剥きの夜だったとしても、即座に破壊してしまわないようクッションをあてがっては破壊的な打擲をドミニカに放つ尋問の、共振による内部破壊で少しずつ精神にヒビを入れていく永遠とも思えるその悠長さがワタシは何より怖ろしかった。基本的には売られた喧嘩を買う話なので仕掛けを急くと冷めた料理を食べさせられることになるのだけれど、ロングレンジの得意な監督だけあってきちんと助走した上での遠投がよく伸びて、どのショットも肉体の全体性を十全に捉えている。『コンスタンティン』もあれで120分を要したことを考えてみれば、唯一あきらかな失敗だった『アイ・アム・レジェンド』の敗因がこの監督に100分しか与えなかった点にあるのは明らかで、なれば140分を確保した今作ではオープニングを運命のクロスカッティングでスタートするなどの野心も見せつつ、全体主義国家とシンメトリーの親和性を背景にウェイトの乗った重心の低いミドルキックを粛々と繰り出し続けるこの映画の、倦みきってどこへもいくつもりのない殺意に、こうした見返りのない無為を飼い慣らすことこそが本当の贅沢なのではなかろうかと、シャーロット・ランプリングとジェレミー・アイアンズのツーショットに心の中でそっと手を合わせてみたりもしたのであった。
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2018年04月07日

ザ・シークレットマン/大統領の凡庸

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『大統領の陰謀』を観る限りにおいて、ディープ・スロートはウッドワードにとってのメンターめいた水先案内人として、タイプライターの手ざわりと電話の息づかいが鼓舞し続ける事実と真実をめぐる闘いの中で、それを求める者の目にのみ映る象徴的な存在であり続けたように思えたものだから、その実体と正体が映画として描かれることで魔法が解けてしまうのはある程度しかたがないだろうなと覚悟はしていたのである。しかし、ここに描かれていたのは、自身にとってのアメリカそのものであるFBIという組織への忠誠と、その全身全霊がもたらす倦怠と屈託によって内部を食い尽くされんとしているほとんど幽鬼と化したマーク・フェルト(リーアム・ニーソン)というひとりの男の彷徨であって、素っ気ないと言ってもいいくらい物欲しげな素振りをしないピーター・ランデズマン監督(『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』)の黙りこくったモノローグのような語り口が地下駐車場の暗がりの中にディープ・スロートをいつまでも立ちつくさせていて、組織防衛や自身の処遇への鬱屈といった角度も残されてはいるものの、自由と独立の精神を侵したニクソンおよびその仲間たちと刺し違えた男の挟持を冠したという点で、『大統領の陰謀』の嫡子とも言える風向きは保ってみせたにしろ、ウッドワード&バーンスタインのそれがゼロから始まる明日への闘いだったのに対しフェルトのそれはゼロへと引きずり戻すための暗闘であって、編集部を煌々と照らす蛍光灯の光と地下駐車場の闇という対比はそのままこの作品の役割を示していたように思うのである。政権の息のかかった人物を中枢から役所のトップへ送り込むことで行政を政治の支配下におくという現在進行系の既視感には驚くというよりはいい加減うんざりしているのだけれど、これはもうどのような主義体制であっても普遍的に起きる図式なのだろうことを思えば、権力の外部からそれを監視し告発するシステムを我々は維持し鍛えておかねばならないという戒めを新たにすべきなのは言うまでもなく、それを衆愚に忘れさせないよう神はあちこちへ定期的に外道を送り込んでいるのではなかろうかとすら思えてくるのだ。妻錯乱(『クロエ』2009年)、妻喪失(『THE GREY 凍える太陽』2012年)、息子喪失&妻別居(『サード・パーソン』2013年)、娘死別&離婚(『フライト・ゲーム』2014年)、妻死別(『ラン・オールナイト』2015年)と、2009年に彼の人生を襲った悲劇以来、喪の仕事でもあるかのように家族の不幸に搦め取られる男を演じてきたリーアム・ニーソンもそろそろその仕事を終える頃合いかと思いきや、ラストのテロップが告げる苛烈すぎる事実に、彼はもう自分の最期までこれをやめるつもりがないどころか、むしろその哀しみが薄れ忘れてしまうことを恐れているのだろうとすら思えたのだ。私は不幸なのではない、幸福でないだけだというトートロジーが大きな背中にはりついている。
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2018年04月04日

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男/たった一日だけ僕たちは英雄になれる

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「ヒトラーから世界を救った男」とか「ダンケルクの戦いを制し」たとかいった惹句の脳天気なやり逃げに少々げんなりしつつあらかじめ眉に唾しておいたこともあり、動けるデブとして闊達に走り回ってはひとりローズヴェルトに泣きを入れる姿など、基本的には「愛すべき」という前置きでチャーチルという人間の聖と俗を忌憚なく活写することで、政治家はつらいよ、とでもいう愚痴と泣き言を非常に流麗かつドラマチックに語ってみせては、政治家としては毀誉褒貶烈しく、チェンバレンやハリファックス同様ヒトラードイツ台頭の責を免れるはずもないチャーチルを憂国の英雄として描く情動にポピュリズムの誕生を見た気もして、それはワタシ自身をも含め意外と容易いものではあるのだなとあらためて感じ入ったのだった。ともすればウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)がアップになる度、ほっぺたやあごの下のぷにゅぷにゅを擦り、ぽわぽわの髪の毛を撫でてみたいとそんなことばかり考えていたし、A・J・P・テイラーがハリファックスについて「第二次世界大戦の起源」の中で記述した“ハリファックスは特異な才能を持っていた ―いつも事件の中心にいながら、どういうわけか事件とは関係のないような印象を残すことが出来た。”“彼は何かというと否定ばかりしていた。彼の政策の目的は ―彼がもっていた限りでは― 時をかせぐことであった。もっとも、これをどう利用するかについては明確な考えはなかったのだが。”“ハリファックスは一貫してチェンバレンに忠実であったが、その忠誠のあり方は、チェンバレンが熱心にしようとしたことの責任をすべて彼に負わせるというものであった。”というあからさまな悪意を裏づけるような、遠くのヒトラーよりも近くのハリファックスとでもいう悪役としての描き方、チャーチルの精神的参謀としての妻クレメンティーン(クリスティン・スコット・トーマス)がしなやかにあやつる飴と鞭、英国王ジョージ6世(ベン・メンデルソーン)が一人くすぶらせる鈍色の屈託、といった虚実織り込んだ造型の行き交うジョー・ライト史観によって「ダンケルクの戦いを制し」「ヒトラーから世界を救った男」としてのゲイリー・オールドマン版チャーチルが新たに誕生したのは間違いがないところだろう。してみれば、やはり英国政治史に名を残す政治家の光と影を描いて主演とメイクアップでオスカーを受賞した『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を当然のように想い出したりもするのだけれど、あの映画がいささか都合の良い回想形式によるその功罪の免罪符的なファンタジーに妥協していたことからすれば、その人生最良の瞬間に吹いた風の最大風速を捉えるケレンにのみ注力したジョー・ライトの半ば開き直ったかのような演出が正鵠を射たのは間違いない。それにしても、ひとたび口にされた言葉が書記のペンによって記録されるか否か、それだけでサスペンスが成立するくらい言質(=人質とされた言葉)としての文書は絶対的な信が置かれる存在であるはずで、その約束が打ち捨てられた場所で意志決定がなされる昨今の、悪魔の所業にあらためて慄然とするばかりであった。
posted by orr_dg at 02:06 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする