2019年01月04日

彼が愛したケーキ職人/もっと甘くて苦いものを

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事故で夫を失った女主人の切り盛りするエルサレムのカフェに現れた一人のドイツ人男性が、ケーキ職人として店や人々の気持ちの中にそっと落ち着いていくも、果たしてその正体は?といった風に、彼の愛し方によるその素性を特異な答えとしてミステリーの針を振らそうとする素振りのない水平な語り口がとても誠実に思えるし、それよりは誰かを愛した瞬間に社会的かつ政治的な囚われの身となってしまう人たちの哀しみを湛えつつ、その哀しみの先に射すかもしれない光を何とかつかまえることはできないものかとこの映画は静かに歯を食いしばりながらその手を伸ばし続けていたように思うのだ。トーマス(ティム・カルコフ)は彼の知らなかったオーレン(ロイ・ミラー)の人生を肌で知ることで、アナト(サラ・アドラー)はオーレンのいない空虚の向こうにトーマスを見ることでそれぞれが喪失の傷を癒していくのだけれど、図らずもその道筋が語るのは、イスラエルに生まれたオーレンがユダヤ教の因習に苛まれながら人生を築いていかなければならなかったその苦悩ゆえの悲劇が彼を捉まえたということで、おそらくは息子オーレンの抱える屈託を知っていたであろう母ハンナ(サンドラ・サーデ)が彼の愛したトーマスに対し無言で理解を示すシーンには、劇中ではオーレンの兄、すなわちアナトの義兄モティ(ゾハール・シュトラウス)がその象徴なのだろうイスラエルの男尊女卑的なマチズモへの静かな抵抗をうかがわせているようにも思えたし、しばしばアナトが見せるモティへの反発なども知ってみれば、この(ほぼ)イスラエル映画が押し黙ったまま目をそらさなかった相手が何であったのかは言うまでもないだろう。イスラエルの社会と宗教による饒舌な抑圧に対し、言葉を解さない異邦人としてのトーマスが真摯な感情と誠実な行動でアナトやオーレンの息子イタイと交感して境界を越えていくあたりもその加勢となっている。誰一人心の通う人もいないエルサレムでオーレンの形見となった赤いスイミングパンツをはいてプールサイドにぽつねんと座るトーマスの、ただひたすら生地をこねてはそれを焼く日々を生きてきた人であるがゆえ、ハリウッド的なビルドアップとは無縁の作為のない無垢な輪郭をまとうしかない肉体の圧倒的な孤独が胸を打つし、ついには大きな子供のように泣いてしまう時の張り裂けるような哀しみがあればこそ、ミュンヘンを一人訪ねたアナトがラストでみせる表情の涼やかな孤独を受け入れたような決意が彼のみならず彼女の救いをも予感させるようにも思え、あえて茨のハッピーエンドを回答とした監督の意志と意図を石のつぶてと投げ込むことで巻き起こす波紋こそが、この映画が持ち得た美しい光の紋様ということになるのだろう。劇中でもトーマスがドイツ人であることがあげつらわれるのだけれど、こうした映画をイスラエルとドイツが合作することの反証性とその声は、映画の欠かせぬ骨子として耳そばだてつつ聞き届けておくべきだろう。すべての世界にバランスは関係する。
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2019年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

目減りする反射神経と想像力を手当たり次第かき集めて、なんとか今年もやり過ごせればなあと思っています。
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2018年12月31日

2018年ワタシのベストテン映画

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LUCKY ラッキー
女は二度決断する
ファントム・スレッド
ビューティフル・デイ
バトル・オブ・ザ・セクシーズ
寝ても覚めても
怪怪怪怪物!
マンディ 地獄のロード・ウォリアー
斬、
へレディタリー / 継承

観た順番。
『2001年宇宙の旅』や『恐怖の報酬』をリヴァイヴァルで観て、監督の怪物化した作家性を抜き身で解き放つことができた時代への畏怖は、もう二度と戻ってこない日々へのノスタルジーでしかないのだなと正式に思い知らされた気がした。しかし、今あらためて「The personal is political(個人的なことは政治的なことである)」と標榜するために新しい映画の言語が模索されているのは間違いないし、特にA24の映画はそのあたりを意識的に行っているようにも思える。だからこそ客もいっそう試されることになるのだろうし、「今の映画が70年代の映画と変わってしまったのは、今の観客が映画を真剣に受け取らないことが理由にあって、その低下は映画作家というよりは観客がそうしている(We now have audiences that don’t take movies seriously...It’s not that us filmmakers are letting you down, it’s you audiences are letting us down)」というポール・シュレイダーの言葉をベテランの感傷で片づけてしまうわけにはいかないようにも思っている。自戒をこめて。

では皆さま、よいお年を。
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2018年12月30日

シシリアン・ゴースト・ストーリー/あなたはもう死んでない人

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1993年6月、裁判官殺害容疑で逮捕されたシシリアン・マフィアのメンバー、サンティーノ・ディ・マッテオは暗殺の詳細を証言することで身分が保証される制度(アメリカにおける証人保護プログラム)の適用を申請し、その報復および証言の撤回を強要するためマフィアは彼の11歳の息子ジュゼッペを誘拐して拷問しつつ、陰惨な写真を送りつけるなどしながら779日間の監禁の後に彼を絞殺しその死体を酸で溶かして廃棄した。

ほとんど『悪の法則』である。ときおり人間がこうした行為の可能な生き物であることに理解が追いつかなくなることがあるのだけれど、その追いつかなさを埋めるために、この物語はマフィアが沈黙の支配をする世界に一人立ち向かい最期まであきらめようとしない一人の少女を事実に書き足すことで、大人たちの残酷で凄惨な謀略に弄ばれ命を散らされた少年へのレクイエムを、その強靭な想像力によって夢とうつつのあわいに溶かしては彼の魂を解放すべく奔走するのである。劇中でのジュゼッペ(ガエターノ・フェルナンデス)は初恋を知らせるため13歳に設定されていて、想いが通じたその日にジュゼッペが連れ去られてしまう少女ルナ(ユリア・イェドリコフスカ)は、世界のすべての不条理と不義に対し想像と空想、夢みる力を全身全霊で駆使しつつ闘いを挑んでいくこととなる。常識と非常識のがんじがらめで張りめぐらされた壁を突破するために彼女が緩めることをしないその想像力は、それを納めることで社会的なバランスを強いている人たちにとっては脅威となり、その力を狂気と置き換えることで柵から外へ出ないよう彼女の母でさえもが囲ってしまうのだ。実際のジュゼッペも、いつか誰かが自分を助け出してくれることを願いつつ、その誰かを夢想しては地獄のような日々をやり過ごしていたのではなかろうか。そしてルナはそうしたすべての願いと希望の結晶となって、いつしか遠くのどこかに囚われたジュゼッペに感応していくのだけれど、それが常に「水」を通して繋がっていくことの理由が明かされる終盤のあるシーンは、この映画が避けては通れない苛烈な真実を幻想と静謐のうちにしかし臆すところなく描き通していて、ワタシは瞬きを忘れてその一切を見つめるしかなかったのだ。波打ち際で新しい友だちやBFと笑い合うルナのずっと遠くで、豆粒のように小さなジュゼッペが気持ちよさそうに海に飛び込むラスト、解放されたのはジュゼッペの魂のみならず生き残っている人達でもあったことが浮かび上がってきて、想像力が現実の色合いを変えること、それこそが映画を撮る理由、映画を観る理由であることが謳われたように思うのである。パオロ・ソレンティーノ組のカメラでもあるルカ・ビガッツィがとらえる、透き通ったマジックリアリズムとでもいう儚くも生々しい映像が夢の純度を高めてなお忘れがたい。
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2018年12月28日

アリー スター誕生/世界にぶら下がった男

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ジャック(ブラッドリー・クーパー)が幾度となくアリー(レディー・ガガ)に言う「君はそのままでいい」といったような言葉は、これがスターダムに倦んだ男とスターダムに駆け上がる女の交錯が生み出す運命の光と影の物語であることを思えば、スターダムの虚飾に対するアンチテーゼからジャックにとってのアリーが始まったと見るのはたやすいし、それを裏打ちするかのようにアリーは父ロレンツォ(アンドリュー・ダイス・クレイ)と同居する実家の自室にキャロル・キングのアルバム(「つづれ織り」)ジャケットを飾っていたりもするわけで、観ているワタシもごく自然にアリーの目指すのはキャロル・キング的な自己実現なのだろうと思っていたし、ジャックの「君はそのままでいい」という言葉もアリーの容姿のみならず音楽のスタイルとしてのRAW&NAKEDを示していたように受け取ったものだから、それを互いが抱きしめあった2人の蜜月時代が音楽映画のエモーションとして最高潮であったのも当然ということになる。したがって、レズ(ラフィ・ガヴロン)のオファーにしっぽを振って飛びつくアリーに、私の面倒を見るのはあなた達でなくていいのかとジャック&ボビー(サム・エリオット)に気を使うこともなく、あるいは本当はそうしてほしいのにジャックとボビーの相克がそれを受け付けない悲しみが描かれることもないのにはなんだか拍子抜けしてしまったのだ。いまだ父親と同居しているという設定がそれを匂わせたりもするのだけれど、父ロレンツォのスターダムに対する憧憬といくばくかの屈託がアリーにスターダムを正解とする生き方を染み込ませてきたのも確かであっって、アリーという人の野心のありかがワタシには今ひとつピンとこなかったとなれば、彼女のスターダムへの駆け上がり方よりはジャックの階段落ちが映画を支配してしまったのもやむなしということになるだろう。ブラッドリー・クーパーについては、以前“そうありたくてもなれない自分への憐憫とその憐憫を餌に生きている自分に気づく程度には頭が回ってしまう哀しさの質で、この人は“〜くずれ”とでも言ったやさぐれ方がしっくりくるように思える“と書いたことがあったのだけれど、ここでの彼は既に何者かであることによりそのくずれ芸は封印せざるを得ないながら、メランコリーの目薬をたらしたかのような青い瞳の焦点をうつろに泳がせては、ストレートな転落芸を余裕のアレンジで演じきって圧倒的ではあるのだけれど、耳の病気や父や腹違いの兄との相克などあれこれパラシュートをつけてしまい転落のスピードが鈍ってしまったことにより、図らずも遠ざかるアリーのスピードまでもがスロウダウンしてしまった点で、この映画の自爆するセンチメントの爆風がいささかマイルドに収まってしまった気がしてならず、要するに誰もクズになりたがらなかったように思えてしまうのだ。そして何より、自分の愛するバンドやアーティストのライヴでフロントマンのガールフレンドにアンコールを務めさせるステージとか勘弁以外の何ものでもないし、それを美しい瞬間として受け入れるのは少しばかり難儀だなあと思ったのだ。ブルース・スプリングスティーンがパティに歌わせる、ポール・マッカートニーがリンダに歌わせる、といったアンコールを想像してみればそれなりに破壊的な状況であることが想像できるのではなかろうか。トム・ウェイツが無名のリッキー・リー・ジョーンズに歌わせたとしても果たして笑っていられるかどうか。
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2018年12月22日

マイ・サンシャイン/ぼくが殺した街、ぼくを殺す街

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ジェシー(ラマー・ジョンソン)が囚われた青春の蹉跌それ自体は、ロサンゼルス暴動が起きなかったとしてもいずれ彼を捕まえたかもしれず、あの時代のあの場所で彼や彼女たちがいかに薄氷の上で、ひとたびそれを踏み抜けば死まで真っ逆さまとなる日々をおくっていたか、ミリー(ハル・ベリー)という献身的で優秀なキャッチャーがいたとしてもそれが起こってしまうのが1992年のロサンゼルスだったということなのだろう。大人たちは良くも悪くも既に仕上がってしまっているし、分別とやらであきらめを知る方法もあるだろう、だからこそ未来の入り口に立ったばかりの子どもたちがそれを強要される醜悪や残酷を彼や彼女の代わりに私たちは、少なくともは私は語らなければならないと思う、というのがデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンの映画作家としてのマニフェストなのだろうと考える。したがって、ここでもジェシーやニコール(レイチェル・ヒルソン)、ウィリアム(カーラン・KR・ウォーカー)たちの屈託や焦燥は細やかかつヴィヴィッドに描かれていて、なかでも、若くしてミリーを補佐するキャッチャーとしての役目を背負い、法の正義を信じ暴力を否定し続けたジェシーを生贄として差し出す、その抱えた本質の重たさゆえに薄氷を踏み抜いてしまう悲劇の寄る辺のなさはデビュー作にして前作の『裸足の季節』に通底する視線であったのは言うまでもない。その一方、ミリーとオビー(ダニエル・クレイグ)という子どもたちのキャッチャーとなる大人についてはその役割以上の重さが与えられていないことで、彼女や彼が薄氷を踏み抜いてしまう人間であるかどうかがしっかりと描かれることがないまま、たどたどしいロマンスに終始してしまうのはどうしたことか。癇癪を起こしてはショットガンをぶっ放し、家具を2階から放り投げる男としてオビーは劇中では色づけされており、にもかかわらず姿が見えなくなった子どもたちがオビーの部屋にいることがわかった時のミリーがまったく警戒の色を見せないのは、彼の抱える屈託をミリーが正当に理解しているからこそなのだとしても、ワタシはそれを知る由もないし、ウィリアムが小さな子どもたちを万引きに駆り立て、盗品であろうTVゲームを家に持ち込んだことに対するミリーの反応が描かれていない点についても、あくまでもあのシークエンスをウィリアムと子どもたちの交情にとどめるのだとしたら、ミリーはそれら犯罪行為を許容範囲としてしまう人なのかと少しばかりモヤモヤしてしまうのだ。駐車場でのほとんど疑似セックスといってオビーとミリーのシーンにしたところで、オープンカーで地獄巡りを続けるジェシーとニコール、ウィリアムたちとのカットバックで天国と地獄を総取りしようと画策するも、前述したように大人2人のウエイトが足りていないせいで不発に終わった気がしてしまっている。果たして87分という短いと言ってもいい上映時間は監督にとっての何らかのチャレンジであったのか、オビーとミリーにそれぞれ5分づつ加えて(前作は97分)ウェイトを与えるわけにはいかなかったのか、おそらくは子どもたちへのフォーカスが散ってしまうことを嫌ったのだろうけれど、それが為されなかったことで映画の全体が散ってしまったような気がしてしまうし、前作に続いてニック・ケイヴ&ウォーレン・エリスの手による絶望と不安の中に差す光を慈しむようなスコアの沁み方に明らかなように、これがそういう映画であることがすぐ向こうに薄く透けているのが見えるだけに、大人たちの流す血も拭ってやることはできなかったのかといささか悔いが残る。何かに滑って足を取られたジェシーがそれは歩道を流れていく血であることに気づき、その流れを見やったその先で地面に突っ伏している死体に言葉を失い混乱にとらわれるシーン、戦場ではないいつもの街角で一人の少年の正気を失わせて追い込む手口の確かさと非情などみればなおさらそう思う。子どもたちの地獄は斯様にぬかりがないのだから。
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2018年12月20日

おとなの恋は、まわり道/泣くより簡単

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80年代半ばにこの世界へ囚われて以降、共に様々な喪失を経ながら四半世紀を生き延びてきた2人が、たとえば空港前のベンチに座るキアヌ・リーヴスがほとんど例の“ベンチのキアヌ”であったりするような、スクリーンの内外で語られる虚実を織り交ぜたある種のメタ構造といってもいい朴念仁とエキセントリックのミッドライフ・カップルを、イーサン・ホークとジュリー・デルピーからはほど遠い益体のないとしかいいようのない甘噛みの応酬の後で、そんな簡単に生き方は変えられないけど、ほんのちょっとした人とのつながりがあればなんとかなるもんだよね、というささやかでさわやかな幸せに着地させていて、ここには恋愛を定義するアフォリズムやひらめくような人生のヒントはないけれど、キアヌ・リーヴスとウィノナ・ライダーという2人の役者とスクリーンごしに歳を重ねて来た人間にしてみれば、肩をたたいて苦笑いさえすれば起きたことのすべてを肯定できるような気分にもなってしまうわけで、いつもはどちらかと言えばノイズですらある感情移入の罠に進んで捕らわれる心地よさは、ほとんど戦友に抱くそれに近いのかもしれないなと思ったりもしたし、そういう錯覚すらもむしろ好ましい、迷子たちが家へと帰るために手に手を取り合う真顔と笑顔がひきつった全身のロマンスをリバース・エッジでヘザースな貴方に。
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2018年12月19日

マダムのおかしな晩餐会/私はあなたのメイドではない

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まさかのロッシ・デ・パルマを泣かせては下層からの一発を誘うアイディアが秀逸で、本来なら黙っていても身を置くところなどない彼女の心身の厚みを身の置きどころのない感情で揺らしつつ、その身ぶるいが次第に砂上の楼閣を崩していく時のマリアが、ついには「たとえ私が、お盆にのせた紅茶をマダムにお持ちする人間だとしても、私にはマダムと同じ価値がある。なぜなら私たちは同じ人間なのだから」と言い放つスノッブ上等な足取りでアン(トニ・コレット)の元を去るラストの爽快なメランコリーが、その始まりからいかに遠くまでジャンプしてみせたかをてらいなく告げていたように思うのである。スタイルとしてはコメディで述べられている以上、マリア以外の人間は片っ端から滑稽なクズとして描かれてはいるものの、パリの浮き草として上っ面を漂うアメリカ人とイギリス人とフランス人に対するスペイン人移民という図式のそれなりな露骨に加え、男に寄生して成り上がるサヴァイヴァーとしてのアンにはかなりあけすけな筆使いでスノッブが貼りつけられるばかりか、奪った者はやがて奪われるという因果でとどめを刺すことすらも厭わず、しかしアンに彼女の言い分としての空虚を許すあたりの手綱さばきは、生粋のクズである男たちとそれに合わせて自身のクズを選ぶ女たちの哀れみまでも連れてきて、その辺りの真綿で首を絞めかけるようなチクチクするレイヤーは女性監督ならではの絶妙で巧妙な仕上げであったように思うのだ。マリアが初めてアンに正面から中指を立てるシーン、からくりを知らないマリアがデヴィッド(マイケル・スマイリー)の愛は真実の愛だとムキになるにつれ、「あなたがどうやって彼をたらしこんだのか知らないけれど、あなたは家政婦であって売春婦ではないでしょう?いいかげん身の程を知りなさい」とアンのボルテージも上がっていくのだけれど、かつてボブ(ハーヴェイ・カイテル)をたらしこんで奪い取った彼女にとってすべては人生をかけたゲームでありそのプレイヤーであるという本質が問わず語りに暴露されることになり、しかしそのゲームで彼女の犯したミスによって10年来の有能なメイドを失うと共に新たなプレイヤーによっていつしかボブも奪われていくのである。一方、それまでとは打って変わったシックな装い(アレではない黒いパンプス!)で歩いていくラストのマリアが手に入れたのは抑え込まれていた自尊心とプレイヤーとしての野心であり、それは夢物語ではないハッピーエンドをマリアが書き換えた瞬間であったようにも思え、監督が示したこの解放は現在のこの世界において非常にスマートかつアグレッシヴに感じられたのだ。ロッシ・デ・パルマと抜き身で渡り合うトニ・コレットの、神経を鞭のようにしならせて打ちすえる佇まいは今が彼女の黄金期であることを朗々と謳い上げているかのようだし、なにより長編2作目にして素晴らしい猛獣使いであることを証明したアマンダ・ステールという監督/脚本家の名前を記憶しないわけにはいかないだろう。緊張に耐えかねたような邦題はいまひとついただけない。
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2018年12月14日

暁に祈れ/もっとでもいいんだぜ

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ジョー・コール演じるビリー・ムーアによる自伝の映画化ということなのだけれど、ビリーがタイに来た理由や既に彼が身につけている荒廃の事情などバイオグラフィー的な背景がとくに語られることもないまま、彼が収監されたチェンマイの刑務所内に蠢く囚人たちの、入れ墨と薄ら笑いと罵声と怒声、殺した数や犯した罪、覚醒剤、闘魚、強姦、すなわち死ぬまでの暇つぶしがむせ返るように描かれていく。そんな中、緩慢に生への執着が断ち切られていく雑魚寝の無間に沈み始めたかに思えたビリーは、中途半端なボクサーで中途半端なジャンキーでしかなかったその生来の曖昧さがここでも彼を中途半端な死者にとどめたことで、生への執着が彼にムエタイという命綱を投げてよこすこととなるのだけれど、ただ、映画の惹句として“ムエタイでのし上がることに成功したイギリス人ボクサー”と語られた時の違和感が最後までぬぐえないのは、ビリーにとってのムエタイは刑務所内の地獄のカーストを這い上がっていくツールというよりは、剥き出しの拳を叩き入れ蹴りを打ち込み膝を突き刺し、剥き出しの肉体に叩きつけられる拳と打ち込まれる蹴りや突き刺さる膝によって、刀工が刀を鍛えるように自身の輪郭を形作っていく作業であったように思うのだ。ラストで誰にも見咎められず病室から抜け出したビリーが結局は戻ってきてしまうのも、高きであれ低きであれ中途半端ではないくっきりとした自身の輪郭を識ることで、あのまま逃げ出すことが自分にとっての自由ではないことに気がついたからなのだろう。この仏人監督の前作『ジョニー・マッド・ドッグ』でも感じた、悲しき熱帯的もしくはロバート・フラハティ的エクスプロイテーション(モンド映画ともいう)風味は相変わらずながら、そうしたビリーの成長というよりは変貌、もしくはビリーが勝った最後の試合のフィニッシュブロウが何であったかなど、今作では脚本から手を引いたこともあってだろう、それなりのドラマツルギーが書き加えられたことで映画としての救いは手に入ったように思うのである。(宗主国にとっての)辺境にしかリアルを見いだせない監督のスリルジャンキーが救われたかどうかはともかくとして。
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2018年12月13日

パッドマン 5億人の女性を救った男/きみはちっとも悪くない

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きみの笑顔が見たいだけさ、という幸福の追求がかくもアナーキーなシステムの更新を成し遂げる物語の、まずはその不幸なシステムが西暦2000年を過ぎて横たわっていたことに驚きはするものの、その笑顔を阻み続ける魑魅魍魎がいまだこの国を含めた世界中に跋扈している様は毎日嫌でも耳に飛び込んでくるわけで、ラクシュミカント・チャウハン(アクシャイ・クマール)が狂人扱いされればされるほどそれを促す側の狂気が浮かび上がっていく寓話の饒舌は、それら不幸で残酷なシステムの存在を笑顔で糾弾しているに他ならない。そうやって一念岩をも通すなぜなに坊やラクシュミが成し遂げたのはフェミニズムの革新がそのままフェアトレードのシステムを確立させていく弱者の産業革命ともいえるもので、そのドミノ倒し的な痛快と爽快こそは、この世界がそれをいかに待ちわびていたか、そして本来あるべきものが今までずっとそこになかったことの証ではあるのだけれど、劇中でラクシュミを率先して嘲り嫌悪するのが女性であったことや、彼女たちにそうさせる恥の概念を植えつけてきた歴史を考えてみた時、ラクシュミがパリー(ソーナム・カプール)のもとを去ってガヤトリ(ラーディカー・アープテー)のところへと戻る理由、すなわち、これからのインドの女性はもう泣かなくていいこと、生きるのを恥じる必要はないことをそれそれが目の前の1人に伝えるところから始めねばならないというその責任を観客に託していたように思うし、聡明に開かれたパリーが目に涙を浮かべながら言う「彼はこのままここにいたらつまらない男になってしまう」という言葉は、歴史の罪を負うべき人としての男性に向けたメッセージでもあったのではなかろうか。道化を演じるラクシュミの陽気なコメディの振る舞いはしばしば笑いの不発を誘っているように映るのだけれど、そもそもこの映画が奮闘しているのは笑えない状況を笑顔で伝えるその一点にあることを思い出してみれば、希望と絶望が交互するその泣き笑いの表情こそがこの映画の息づかいであり、彼を笑い飛ばせるほどワタシたちは無傷ではないことに次第に気づかされていくように思うのだ。ガヤトリの対照として在るパリーを演じたソーナム・カプールの、ジェニファー・オニールを思わせるモダンでスマートでしかしそれを嫌味としてはならない美しさがこの映画を一方で引き締めている。
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2018年12月11日

来る/まっかなケチャップになっちゃいな

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祖母志津(ヨネヤマママコ)の彼岸の人のような佇まいに、何しろここから始まるわけだからな!と予告篇のころから感じ入っていたこともあり、志津が夫に仕掛けた苛烈な復讐とその哀切な動機および、孫の秀樹(妻夫木聡)にまで祟り続けるその呪いがなぜ普遍であり得るのかというそれら一切がないものと脚色されていたことには少なからず驚いたというか落胆もしたわけで、それはおそらく「ぼぎわん」をその由来や姿かたちで語ることよりは、人の心の昏さが生み出すイドの怪物的に乱反射する思念の存在として描くことに決めた監督の采配によっているのだろう。映画の大半は秀樹と香奈(黒木華)の2人が自分たちの作り出した生き地獄に呑み込まれていく様を描くことに費やされて、ぼぎわんはその手続きとして存在するに過ぎず、それについてはおおよそ原作の構成を踏襲しているのだけれど、脚色されたぼぎわんに最低限必要となる失われた子どもたちの総体という記号に呼応するかのように、原作のある設定が180度変更された野崎(岡田准一)もまた自身の生き地獄に放り込まれることになる。前述した志津の復讐とその動機を一切カットしたのは、おそらく中島哲也という監督が既に死んでいる人間はもう死ぬことがないという理由によってその物語には関心を抱いていないことの表れで、もっぱら目の前にある生き地獄を捕らえては飼い慣らすことにのみ愉悦を見出しているかのようであり、もはや琴子(松たか子)とぼぎわんの最終決戦すらを省略する切り捨てにはそうまで自分に確信してしまうのかと恐れ入ったし、造り自体はドシャメシャではあるけれどそのあたりの脱構築はA24系を中心とするポストホラーの流れによって解釈可能にも思える。ではその生き地獄の味わいはどうだったかと言えば、妻夫木聡が自己啓発系ナルシストの凡庸な悪を虚ろな躁病の広がりで完璧に演じきっていてこの映画での最良だったし、そのネガとポジとして狙い撃ちした悪に陰鬱な作り笑いを貼りつけた黒木華は、例えば『永い言い訳』で監督に“シャツのボタンをいちばん上まで閉めている女性のいやらしさが欲しかった”と言わしめた爛れの全開に惚れ惚れと見とれるしかなかったのである。比嘉姉妹は共にシャープな造型でジャンルムーヴィーとしてのハレのバランスを豪腕で支えていて、終盤で琴子(松たか子)が繰り出すノーモーションの右ストレート一閃には思わず頬が緩んだりもした。とは言え、せっかく秀樹という極上のクズを妻夫木聡が仕上げたのだから、やはり原作で志津が秀樹に諭す「優しゅうしたりな、ずっと、面倒見たらなあかんで」「(女の人が)耐えてもええことなんかあらへんからな」という言葉に唾したその最上級の報いとして、秀樹はぼぎわんに屠られて欲しかったなあと思うのだ。そのとばっちりもあって、まさかのビルドゥングスロマンを背負わされた野崎も困惑したのではなかろうか。オムライスの国を知紗(志田愛珠)の経験値で描けるお山の表出としたバッドエンドは、雨が降ろうが槍が降ろうが正面切ることのできない監督の苦肉の策にも思えて心がなごむ。
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2018年12月07日

ギャングース/ギュードン・コーリング

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町並みに埋もれるような一軒の牛丼屋にああまで優しく暖かい光が差し、何ならそこに聖性すら漂わせてみせたあのラストこそこの映画が目指した場所であったのは言うまでもないのだけれど、本来ならばこの映画に泣き笑いすべき人たちはおそらく映画など観る状況にないのだろうことを思えば、3人が並んだカウンターの背後で知ったような口ぶりの高説を垂れるサラリーマン、しかしあれが世論として大手を振る吐き気のするような界隈がこの国にはあるわけで、に中指を立ててむかつきをおぼえる観客を一人でも増やすことがこの映画の可能性なのだろうと、少しだけ遠い目などもしてしまうのだ。いったい誰に届けようとしているのか薄気味悪いほど顔の見えてこない、青空に祝福され栄養の行き届いた青春映画の裏通りで一杯の牛丼に涙を流す若者たちのピカレスクはあまりにも馬鹿正直でそれゆえ不発でもあり、しかしそれでも傷だらけで笑い続けるサービス精神が痛々しくて愛おしくて仕方がなく、臭いもののふたを蹴破ってデオドラントされた世界にリアルな臭いをぶちまけることを自らに課した原作から一本の映画へと幸福な着地をすればするほど沁みてしまうメランコリーこそを、映画を観たワタシたちは自分のものとして持ち帰らねばならないのだろうと考える。ゆらゆら揺れる青白い炎のような原作の輪郭を実写の輪郭に息づかせたサイケ(高杉真宙)、カズキ(加藤諒)、タケオ(渡辺大知)の造型はすでにそれだけで勝利だし、さすがに3人ほどの深掘りは叶わないにしろ安達(MIYAVI)や加藤(金子ノブアキ)といった敵役にも可能な限り言い分を与えていたのも原作の理解あってのことだろう。その分、原作ではカズキたちを金と人情でバックアップする魅力的な存在だったチャイニーズマフィアのヤンくんまで手が回らず、高田(林遣都)あたりにそのキャラクターが吸収されてしまったのはやむを得ないところではあるのか。砂を噛むような風景の中で血の味を口に感じながら立ち尽くしたまま、それでも遠くを見続ける者たちへの共感と救済を使命感のように描き続ける入江悠監督がロードサイドや河川敷に灯す明かりが吹き消され辺りが真っ暗になってしまわないよう見守るのはワタシたち観客の責任であるに違いない。それにしても、そんな風な映画ばかり観てきたワタシは、最後にダンプが牛丼屋に突っ込む光景が一瞬ちらついたものだから慌ててそれをかき消したりもしたよ。
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2018年12月05日

へレディタリー 継承/ごめんで済んだら母親はいらない

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ハネケやファルハディ、最近だとオストルンド作品を観ていて、これはもうほとんどホラーだな…とつぶやいてほくそ笑む、ほとんどホラーなその先の薄昏い角を曲がっていっそホラーにしてしまえば、もっとしたたるような「他人の不幸は蜜の味」が搾り取れるに違いないとアリ・アスター監督もまたほくそ笑んだかどうかはともかくとして、私が私であるがゆえ逃れられない存在の激痛に催す吐き気のような神経戦に、その激痛をもたらす“もの”を具体化して絶望をなお直截的にするホラーの語り口を外科手術の緻密で縫い合わせることで、ロウブロウとハイアートを横断し折衷した新種の昂揚(まさにあのラスト!)に触れた怖気を持ち帰ってきた気がずっとしているし、それを切らしたくないという思いに囚われている気もずっとしているのである。したがって、この映画の怖さというのはメメントモリ的な死の脅威というよりは、世界の法則から外れた人間がどのように変質していくのかを無慈悲に見つめ続ける視線にこそあり、オープニングでアニー(トニ・コレット)の作るドールハウスに侵入していくカメラは、これが忌まわしく大いなる意思によって俯瞰され導かれ作り上げられた物語であることをその視線で告げることとなる。起こったことがドールハウスで再現されるのか、ドールハウスで作られたことが起きるのか、既にアニーがある種の依り代となっていることは、冒頭の葬儀シーンで紋章のペンダントをしていることもうかがえるわけで、母親に精神支配され続けた娘がその呪縛を打ち払いつつ刻み込まれた自身の狂気とも闘い、しかしついにはそれらに呑まれ敗れていくその哀しみがホームドラマとしてのこの物語を透明で硬いペシミズムで覆うことでホラーのハシゴを外したとしてもそのまま成立する強度を持ち得たようにも思っている。対象にフォーカスした同一ショット内に霊体の気配を配置し、しかしその存在は観客にしか視えていないというJホラー的なショックシーンを排しつつ、しかしある一点でここぞとばかりに繰り出したケレンには小さく声が出たし、視えているのに視えていないショット、例えば授業中にいきなり振り向いてピーター(アレックス・ウルフ)を凝視するブリジット(マロリー・ベクテル)や遺族の集まりで一つだけ空いた椅子、ピーターの部屋の窓越しに見えるいつも灯りのついたツリーハウス、といったあたりの漂わせ方で知らず毒が回っていく。また、アニーがジョーン(アン・ダウド)の家に向かうシーンやピーターが学校で授業を受けているシーンなど、家の中のシーン以外ではほとんど同一のショットを繰り返すことによって全体の閉塞が緩むのを絶妙に回避もしている。おそらくアリ・アスターという監督はことさらホラーの文法で綴っては観客を怖がらせようとする意識もさほどないまま、状況を反映させる感情を忠実にデザインした結果がこうなったに過ぎず、さすがに家族同士が字義通り首の刈り合いをする物語を着地させる術が手持ちにないためその点を悪魔に頼ってみたのだろうし、一番怖ろしいのは人間であるという今さら陳腐でしかない物言いを衒いなく言ってしまえるのも、妹チャーリー(ミリー・シャピロ)の首を飛ばした翌朝のピーターを襲う、死んだ方がマシなのに死ぬことすらできない僕はすべてが夢だったことに賭けてみたがそれもあっけなく潰えた今この瞬間、死ねない僕を誰か殺してくれないかそれも核ミサイルの人災や大地震の天災によって、という薄ら寒い希死念慮であったり、それを口に出したらもう引き返すことはできなくなるその一線をアクセルべた踏みで破壊的に超えていく食卓のシーンであったり、といった人外によるアタックとはまったく無関係なシーンこそがこの映画のピークで針を振り切っていたことに明らかで、おそらくこの監督のフルスペックはホラーのくびきから離れたところでこそ世界に轟くのだろうと考える。あけすけなドールハウスショットで展開する、オマエが燃えるんかい!の爆発的な緊張と緩和の達成が知らしめる監督の浮世離れした暗闇を指さして、やっぱりこの人は悪魔だった!とほくそ笑む未来をワタシは待ち望んでやまない。
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2018年11月30日

斬、/悪い人たち

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※未見の方スルー推奨

暗転した途端、身構える間もなく石川忠渾身のインダストリアルビートに打突され、その響きは次第に烈しい間合いで刀工が鉄を打ち据えるハンマービートへとなだれ込んでいく。内臓の深いところまで易々と響くそのリズムとそれに踊る灼熱の炎、そして叩かれるほどに生命を獲得していく鋼の塊が喘ぐように放つ、官能といってもいい芯からの光に魅了されることで、人を斬り、殺すためにこの世に送り出される刀という武器をあっさりと受け入れるに至る監督の悪魔のような手口によって、ワタシたちはのっぴきならないところから歩を進めることを余儀なくされてしまい、ああこの炎は『野火』のラストで田村が暗闇に見る炎だったのかと気づくのは、何度か反芻してみた後のこととなる。そんな刀の一本が都築杢之進(池松壮亮)という若い浪人の手に届くも、肉体的には人を斬る準備が十二分に仕上がってはいるものの精神として人を斬る術を知らぬ彼は肉体の昂ぶりをしばしば放ってやらねばならず、それは自分に課した日々の鍛錬が行き着く先は人を殺すことであるというその理を見失わないための儀式であるようにも映る。澤村次郎左衛門(塚本晋也)と素浪人の果たし合いを見ていた杢之進が、一瞬の交錯の後で素浪人の右手のひらが深々と割られ肉が覗いているのを確認するやいなや決着を見届けず立ち去ったのは、その眼力で勝負を見切ったのと同時に、刀が肉体を破壊したことの小さいけれど確実な衝撃にもよっていたのだろうと考え、ここで既に杢之進のナイーヴが始まっている。物語としては杢之進のイノセンスを澤村のギルティが犯そうとにじり寄っていくのだけれど、両極でスイングすることの多い塚本作品ではめずらしく、「俺たちは悪いやつにしか悪いことしねえよ」とうそぶくイノセンスとギルティを混濁させた源田瀬左衛門(中村達也)という浪人が杢之進と澤村の拮抗を崩す者として登場し、ある意味で澤村の思惑通り杢之進を破壊していくこととなる。命のやり取りをするに及んでなお真剣を取らず木の棒を掴む杢之進に「てめえ、なんだそれ」と哀しげとも言える怒声を浴びせる源田は、一周することで人を殺めることの意味と理由を我が身に染み込ませてきた男で、役回りとしては同様にイノセンスとギルティを内在させながらそれを意識していないゆう(蒼井優)とはその立つ場所が螺旋状に異なっている。そしてすなわち、ワタシたちとしてのゆうは無垢と無知ゆえ状況に対しては犯罪的とすら言ってもよく、けっして澤村のギルティだけが最期に杢之進という怪物を生み出したわけではないことを忘れぬよう、監督は残酷を承知でゆうを当て馬としたように思うのだ。倫理的な説諭が目的であれば当然のごとくギルティはイノセンスに敗れ去るはずが、ここで描かれるのは怪物が誕生するプロセスとそこに加担した人々の振る舞いで、しかもそれぞれの人物像は誤解のないよう両義性すらがきちんとデザインされて提出されており、その直截性にワタシは塚本晋也監督の苛立ちのようなものを感じたりもしたのだ。それはおそらく自分の内部に発生し居ても立ってもいられぬ焦燥と、自分を取り巻く世界との乖離がそうさせている気がしていて、その世界にはもちろんワタシたち観客も含まれているに違いないと思うのだ。これでもまだ分からぬかということである。監督のすぐ側でそれを嗅ぎ取ったであろう池松壮亮、蒼井優という傑出した俳優は、自身のフィルターの目を微細に研ぎ澄ますことで解像度と透明度を高めつつ、ワタシ達はもう武器を手にして変質してしまい善いものではなくなっていることを知らねばならない、そしてこれ以上悪いものにならぬよう、悪いものを生み出さぬようまずは自身を押しとどめねばならない、と伝えることに全身全霊を傾けていてそれはもう愛おしく切ないほどであり、彼や彼女の流す血と涙で濡れそぼった映画の艶めかしさはすべてから独立した一匹の生き物のようにすら思えた。杢之進に割られた腹からこぼれ落ちる澤村のはらわたを、おそらくは手の込んだ造型とギミックを仕込んでおきながらコンマ数秒のカットで使い捨てる透徹したダンディズムに思わず歎息が出る。そして全篇が石川忠へのレクイエムとなっているのは言うまでもない。
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2018年11月27日

イット・カムズ・アット・ナイト/地獄へ道連れ

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※妄想を書き散らしているため未見の場合ノイズになるはずなのでスルー推奨

弱いものから狙われていくのだとしたら祖父の次にトラヴィス(ケルヴィン・ハリソン・ジュニア)が絡め取られていくのがホラーの常で、日々に費やすすべての理由が今日を生き延びることでしかないとすれば、では自己の実現や達成は見果てぬ夢でしかないのか、そもそも自分は何のために生をうけてここに在るのか、そんな大それた命題でなくとも、いったい自分の未来に恋愛やセックスは存在するのかどうかは17歳の少年にとって何よりの一大事だし、となればキム(ライリー・キーオ)のTシャツに薄っすら浮かんだ乳房ですらが驚異であり脅威となる夜がいつしかトラヴィスを手中に収め噛み砕いたとしても、その運命に何ら不思議はないだろう。さして謎解きに意味はないとは言え、父ポール(ジョエル・エドガートン)があるシーンで口にした夢遊病という言葉が耳に残ったことや、劇中で幾度となくそれもわざわざスクリーンサイズを変えてインサートされるトラヴィスの悪夢のことを思い出してみた時、夜の森に愛犬スタンリーを探しに行き、感染したスタンリーを持ち帰って赤いドアの部屋に置いたのは夢遊病のトラヴィスではなかったかと思っている。そうしてみると、その夜半に起きた騒ぎの辻褄、記憶がおぼろげに戻ってきたアンドリュー(グリフィン・ロバート・フォークナー)が犬を運んでいたのはトラヴィスであることを両親に話し、トラヴィスの感染を知ったウィル(クリストファー・アボット)とキムは慌てて家を出ていこうとする、が合うように思うのだ。ただそのこと自体はとりたてて重要というわけでもなくて、ワタシたちの破滅はいつだって自滅に他ならないことを淡々と突きつけてくる自虐と被虐とが手を取り合ったような口調にかわりはなく、ハネケはホラーであるという点においてこれは得も言われぬホラーであり、光年の彼方へ断絶するエンディングの完璧さには思わずクカッとかいうおかしな笑いが漏れたのだった。ここ数年で顕著なポストホラー系ムーヴィーに共通する90分や100分でかわせる恐怖など恐怖ではないという恐怖の永続性は、恐怖の源がワタシ達の在り方そのものと切り離せないことを告げているように思え、いつの時代もホラームーヴィーが現実のサンドバッグとなってきたことを考えてみれば、それはこの世界で生きていること自体が恐怖に他ならないという時代の顕れであり、好きな人とのキスもセックスも知らずに逝ったトラヴィスの怨念がまた少し世界をどす黒くしたことをワタシ達は覚悟するしかないのである。
posted by orr_dg at 02:45 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月25日

アウト&アウト/この娘の代わりに泣くか、死ね

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暴力の扱いに長けているだけで暴力を喰って生きているわけでもない矢能という男の、しかし暴力から離れたところで生きる自分を想像できない/しないあきらめと倦怠を、自分に対する仏頂面と親代わりの栞(白鳥玉季)に向ける真顔との間を少しだけ面倒そうに往き来しながら遠藤憲一が演じている。いまだにワタシは、ほうっておくとBE-BOP-HIGHSCHOOL ビー・バップ・ハイスクール』を撮ってしまう人というイメージがきうちかずひろ監督にはあって、あの寄る辺のない陰惨さが本質なのだろうと思っているので、19年ぶりのメガホンでみせるこんな風に暴力を情で抑え込む時の軋みによって映画を絞り上げていく舵の切り方に少し驚いたりもしたのだ。そして矢能には緊張と緩和の余分なサービスをさせないよう、その周囲をファンキーで愛すべき取り巻きが敬愛と冷やかしの顔つきで練り歩く構図を用意した上で、最終的には全員でよってたかって広げた風呂敷をぐいと縛ってみせる手口のたたみかけるようなスピード感には爽快さすら感じたのである。そして「語尾とか多少変えてもいいですか」と聞く遠藤憲一にそれを許可した監督が、、撮影開始3日目にして「もうアイデア出すのやめてくれ。やりたいことやっていたらキリがない。時間も予算もないんだから」と前言を翻す話、「ジョン・カーペンター読本」の冒頭で黒沢清監督がしたためた「遊星からの物体X」論にして素晴らしいジョン・カーペンター論にしのばせた“映画はこの程度でいい”という一言が頭に浮かんで、なんだか清々しい気持ちになったりもしたのだ。久々の本業でニコリともせずフルスペックを発揮する遠藤憲一はともかくとして、成瀬正孝から中西学まで軽重を使い分けるキャストと弾き方も見ものである。きうちかずひろ作品においてハードボイルドもしくはハードアクションと言う時のハードは、“激しい”ではなく“硬い”であることをあらためて認識したし、1から10までを見せつけずに切り上げるアクションのダンディズムもいっそう滋味深く、深夜ドラマもしくはPCやタブレットの液晶画面ではなくスクリーンでそれを観る僥倖を知らずにいるのは何とももったいない話だなあと思う。
posted by orr_dg at 20:20 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月23日

ライ麦畑で出会ったら/ぼくはたぶん間違ってない

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今ここでセックスしたらぼくはホールデンでなくなってしまう!というジェイミー(アレックス・ウルフ)の笑うに笑えないイノセンスの蹉跌を救うのは、実はJ・D・サリンジャー(クリス・クーパー)その人というよりはディーディー(ステファニア・ラヴィー・オーウェン)だったわけで、おそらくはビート・ジェネレーションであろうヒッピーライクな両親によって自由闊達な精神を育てられた彼女こそが、ホールデン・コールフィールドの過剰摂取によるジェイミーの自家中毒を解毒していくことになる。何しろ彼女の造型が愛おしいほどにタフでチャーミングなものだから映画が彼女を頼りすぎて少しばかり楽をし過ぎたきらいはあるけれど、ホールデンが憑依したジェイミーが求めて叶わなかった愛情のあらかたを与えるためには彼女くらいマイティな存在が必要だったのだろう。そして少し驚いたのはサリンジャーが一人の独立した人格として物語に関わってくることで、もちろんクリス・クーパーの相貌はマッチしていないのだけれど「ホールデンもフィービーも私のものだ」という彼の強固な拒絶は、ジェイミーまたは世界中のジェイミーに向けた「きみはきみ自身のホールデンをみつけるべきだ」というメッセージの裏返しであることをこの映画は伝えようとしていて、隠遁した神としてのサリンジャーではない、真摯な一人の表現者としてのポートレイトを誠実に描いてみせたように思うのだ。そんな風にサリンジャーはその言葉で、ディーディーはその息づかいで、肝心なのはスタイルではなくアティテュードであることをジェイミーに告げていて、その普遍ゆえ物語の収まりとしてはステレオタイプとなるのはやむを得ないにしろ、ことさらにカウンターを求めて感情を乱反射させることのない綺麗な一本の筋を保とうとする密やかな緊張が心地良いし、何と言っても16歳の男の子と女の子が自ら車を運転して約束の地を目指すロードトリップなどアメリカの神聖な儀式以外の何ものでないに決まっているのである。しかしその早熟こそは誰もを世界の頭数としてカウントするアメリカがけしかける平等と責任による避けがたい呪いでもあるわけで、サリンジャーの描いた透徹したイノセンスこそはそれらに向けて立てた中指であったことをあらためて考えてみたりもして、思いがけず忘れがたい映画になった。
posted by orr_dg at 14:27 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月22日

ア・ゴースト・ストーリー/俺が昔、幽霊だったころ

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『セインツ−約束の果て−』も薄く透けそうな影を彼岸に揺らす人たちの物語であったなあと、孤独や孤絶を不可侵の魂が放つ光ととらえるデヴィッド・ロウリーによるあらためてのマニフェストにも思えたのだ。愛であれ恐怖であれ、死者に思いを託すために生者が生み出した幽霊という、生命のくびき、言い換えれば時間の流れから放り出された存在が背負うのが喪失と孤独であったとするならば、幽霊たちの魂もまた光を放つのではないか、とその光に監督は想いを馳せたのだろう。そんな風にしてC(ケイシー・アフレック)の彷徨に連れられたワタシたちが見るのは、そこにあるのに誰も識ることのない時間の記憶であり、それは劇中においてLegacyという言葉で語られた継承される人間の営為とも言え、開拓時代の女の子が口ずさんだメロディや彼女が石の下にそっと隠したメモが時間を超えてCやM(ルーニー・マーラ)を串刺ししていたのは言うまでもないし、神も仏もいないいつかは消え去る運命にあるこの世界でなお営為を重ねずにはいられないのが我々人間なのだと滔々とまくしたてるウィル・オールダム(=ボニー“プリンス”ビリー!)を邪魔することなく耳をかたむけたCが過去と未来の永劫に身を任せ、すべてを目撃しては身投げすらする姿は厳かで怖ろしく、そして底知れぬ哀しみを湛えていて“いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と片岡義男が明かしたその正体は、ワタシたちを成立させているすべての時間の記憶による抑えきれないさざめきなのかもしれないと思ったりもした。まるでスナップショットを額装したようなスタンダードサイズのフレームも、薄れていく記憶の断片を投影しているかのようでメランコリーをかき立ててやまない。数分の間Mがただひたすらパイを食べ続ける、食欲を満たすと言うよりは嗚咽が漏れ出すのを抑え込むかのようにパイをえぐっては力任せに喉へと押し込むロングテイクでは、フォークが皿をつつく音の催眠的な響きとリズムがMからすべての味覚を奪ったかのように錯覚させ、まったく味のしない食べものを延々と食べ続ける気味の悪さに、ついに彼女が嘔吐したときにはほとんど安堵すらしたのだった。なかなか出演作品が日本公開されないウィル・オールダム(=しつこいけどボニー“プリンス”ビリー!)の勇姿を堪能できたのも望外の喜び。ワンシーンだけなのに誰よりもセリフ多いし。
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2018年11月19日

ボーダーライン : ソルジャーズ・デイ/命が邪魔だ

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マット(ジョシュ・ブローリン)の足下にビーチサンダルではなくクロックスを見つけた時の、どこかしら埒内につかまった違和が最後までついて回ることになる。暴力はすべての初めから我々と共に在ったもので、理性はその気まぐれな反動としてもたらされたに過ぎない、とコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で書いた(意訳)、その理性が屠られる場所で解き放たれた聖なる重力の象徴であったビーチサンダルは、神を自認するアメリカが天上からばらまくクロックスに取って代わられ、重力を恩寵としていたマットとアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)は浮力を失い俗世の地面に激突して流血せざるを得なくなり、その引き金となるのが失われたアレハンドロの娘の亡霊ともいえるイサベル(イザベラ・モナー)であった時点で物語は無間地獄の様相すら呈し始め、それはまるで荒野から追われたケイトの呪いでもあるかのように2人を狙い撃ちして国境に追い込みをかけていく。どこかしらマジックリアリズムの夢うつつですらあった前作の暴力絵巻は、直截のスペクタクルで生死の際を粗雑に投げ出しては麻痺した痛みを取り戻そうと躍起ではあるけれど、重力の失われた場所でなおステップを踏み続けるマットとアレハンドロのメランコリーは、絶望の底を踏み抜いても新たな絶望があることを知る者が弾切れや手傷の深さで世界を測る時の倦怠でしかないことは、マットがイサベルを、アレハンドロがミゲル(イライジャ・ロドリゲス)を抱き込むことで闘争の未来を告げるラストに明らかで、題をとる現実に対して誠実であろうとすればここで物語が終われるはずなどないことをテイラー・シェリダンはアレハンドロのセリフに託したのだろうと考える。時として現実のスピードと力に打ち負かされてしまうのはフィクションの宿命とは言え、その両者が運良く並走した時のスリルとしては最良の時間がここにはあって、この映画が色褪せるとすればそれは世界の安寧が果たされた時ということになるわけで、当初より3部作で構想されるこのストーリーの次作でケイトがどのような重力をまとって復帰するのか、イサベルとミゲルの交錯がどのような世界の法則を叩きつけるのか、その時マットとアレハンドロは息をしているのか、現実が追い越すか映画が出し抜くか、できればヴィルヌーヴとディーキンスでその先を見届けたいと切望する。
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2018年11月16日

マンディ 地獄のロード・ウォリアー/魂の自由を信じる俺という人間のシンボル

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この世には2種類の映画しかない、ニコラス・ケイジが出ている映画とニコラス・ケイジが出ていない映画だ。そして目を閉じた時まぶたの裏側で炸裂し続ける光の明滅を、星座のように線で結んでニコラス・ケイジを見つけた瞬間、映画に”MANDY”という名が宿る。これはニコラス・ケイジが出ている映画だ。この世界に生きるたったひとつの理由だった女性を目の前でガソリンをかけて燃やされた男はどうすればいいのか、どうするしかないのか、右手を手錠でつながれ左手を五寸釘で床に打ちつけられた男はどうすればいいのか、どうするしかないのか、ハイパーなコカインのオーヴァードーズで自身の人間を焼き切って変質した鋲とレザーの生き物と闘うにはどんな武器を造ればいいのか、造るしかないのか、自分のチェーンソーの倍ほど長い刃のチェーンソーを持った相手とどう闘えばいいのか、どう闘うしかないのか、そいつを殺してもこの世界に生きるたったひとつの理由だった女性はもう帰ってこないと知りつつ、しかしその男を殺さずにはいられない時、そいつをどんな風に殺せばいいのか、どんな風に殺すしかないのか、今まで知りたくても知ることができなかったすべての答えがここにはあり、ニコラス・ケイジがそれを血まみれで教えてくれる。すべてを自己責任で生き抜くしかないこの世界で自己憐憫の呪いにとりつかれないためのフットワークとフィニッシュブロウがここにはある。そしてそれを鼓舞し祝福するのが“友だちの兄貴のトランザムのバックシートでマリワナと革とイエローパインの芳香剤の匂いにビビリながらもスリルを感じてるガキの気分”が欲しいんだと監督がヨハン・ヨハンソンに告げたそのスコアであったなら、それをこの世のものとは思えないあの世以外の何と呼べばいいのだろうか。ワタシは惑星を2つとも当てた。
posted by orr_dg at 15:39 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする