2018年02月11日

スリー・ビルボード/善人はときどきいる

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ウィロビー(ウディ・ハレルソン)に向かって「あなたは自分の娘が殺されても、手詰まりでどうしようもないんだなんて言える?」とミルドレッド(フランシス・マクドーマン)は言わないし、アン(アビー・コーニッシュ)に向かって「でもあなたの娘はまだ2人も生きてるじゃない?」とも言わない。ディクソン(サム・ロックウェル)はミルドレッドに向かって「おれがビルボードを燃やしたと思ったんだろ?」とも言わないし、ロビー(ルーカス・ヘッジズ)はミルドレッドに向かって「母さんのせいで姉さんは死んだんだ」とも言わない。なぜ言わないのかといえば、それを自分が言うのはフェアではないと知っているからで、血と炎と暴力が句読点を打ち続けるこの物語がそれでも最終的な正気を失ってしまわないのはその矜持が最後の砦となって食い止めているからだし、性善ともちがうどこかしら浮世離れした愛と暴力の潔癖は監督が『セブン・サイコパス』でも描いていた光源だったようにも思うわけで、ないものねだりへの飽くなき共感を映画の目的とするならば、ワタシにとってはほぼそうでしかないけれど、ラストでくたびれたフォードの運転席に差し込む穏やかに倦んだ優しいあきらめの光は、そこでかわされる生きた人間の言葉をついには正解と祝福していたように思うし、それは愛と怒りを両翼にもつ天使のようだったウィロビーですらが世界との繋がりを断たなければ言えなかった言葉の獲得であり、ワタシたちの輪郭は言わないことと言えないことでできているのだとするその哀しみの共有でしか人は繋がれないという、ペシミズムを逆説的に肯定する強さこそを愛と呼べとする啓示のようでもあったのだ。それは折々で「なかなかいない善人」として現れるペネロープ(サマラ・ウィービング)が言葉を曇りなく信じる人であったことにもうかがえて、分断されるアメリカを解体し再構築するキューがもう一度自分の言葉で自分が何者かを語れという相互理解すら幻想しない提案であったのは、マーティン・マクドナーがアメリカを外から視るがゆえにかわした自家中毒のワクチンという気もしたのである。そして何より、自分だけが知る自分があるように誰もが自分だけの自分を抱えていることを知ること、そうやって語られない物語に思いを馳せてその糊しろで世界を貼り合わせていくこと、それには常に想像力の風を吹かせていること、という祈りにも似た筆使いによって、母への愛憎に顔をしかめながらも暴力をかざした元父チャーリー(ジョン・ホークス)の喉元へ瞬時にナイフをあてがったロビー、怒りにまかせてひっくり返したテーブルを自ら直す元父チャーリー、ディクソンの隠された屈託を知りつつそれをことさら狙わないママ(サンディ・マーティン)、そのママがテレビで見ている『赤い影』もまた娘を亡くした父親が世界から彷徨い出す物語であったこと、といった端々のつづれ織りが世界の全体性を獲得していたように思うのだ。そして行き着いた「あんまりそうでもない(Not really)」という永遠の寸止めこそが、今日よりは明日、明日よりは明後日と、生きることを固定されたワタシたちが誰にも明かすことのない奥底の本心なのではなかろうか、だからこそこれほどまでに懐かしくも切なく胸かきむしられるような想いでミルドレッドとディクソンを祝福してしまうのではなかろうかと震えてしまったのである。『断絶』のラストの先を走る映画がようやく撮られたのだと思う。ところで、レッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)が読んでいたオコナーは、ページの進み具合からして「人造黒人」あたりだろうか。
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2018年02月04日

ジュピターズ・ムーン/重力と恩寵

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アリアン(ゾンボル・ヤェーゲル)の重力をあやつる能力はそれを獲得したというよりは、ラズロ(ギェルギ・ツセルハルミ)の放った銃弾が、彼をというか人間をこの世界にしばりつけている重力の鎖を断ち切ったという方がふさわしいように思ったのである。前作『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』では地面を這う犬が世界を見上げる視線と、それら這うものを見下ろす人間の視線が交錯する瞬間に喪失と再生の希望を託していたのだけれど、今作における見下ろすものと見上げるものの逆転は、なお希望を失うばかりで光の気配を持たない世界に憐みを見出す物語へと、前作の犬たちが北風であったなら今作はアリアンを太陽と見上げるその眼差しに救いを見出すことを、憎悪の銃弾が啓示を呼び覚ます恩寵によって促していたようにも思うのだ。とは言えこれが届かぬ陽の光に手を伸ばし焦がれる人たちの物語であるだけに囚われた世界の下衆と苛烈はいっそう容赦がないばかりか、コーネル・ムンドルッツォ監督の深まる鬼才が主にその活写へと注ぎ込まれたこともあり、恐怖を塗布し神経を圧迫する緩急と跳躍の長回しに心奪われる瞬間がこの映画を説諭の口調から解き放っていて、その衒いのなさはあえてのSFというジャンル映画への拘泥というか、優れたSF映画が社会的な意匠を暗黙のうちにまとってしまうそちら側からの切込みにみてとれて、ワタシはうなじが熱っぽく疼きっぱなしであったのだ。冒頭の越境からの脱出シーンで森の中を地を這うように逃走するアリアンに、潜水のごとく息を止めたままどこまでも執拗に並走するカメラの横移動にこちらの息も続かなくなった果てで垂直に起きる秘蹟の禁忌にも近い衝撃や、終盤のカーチェイスにおけるまるで車の意志がカメラに乗り移ったかのように食らいつくカメラは、ある瞬間のちょっとした出来事によってドライヴァーの憎悪と悪意が車そのものと同化していることを告げてみせて、まだカーチェイスにこんな追い方が残されていたのかと座席で足を踏ん張ってしまっていた。3年前の前作では1匹の雑種犬が雑種であるがゆえに負わされる悲劇と受難を、その理由を国籍や、人種、宗教、ジェンダーといった言葉に置き換えて余白で語ることも何とか可能だったのが、今作ではもはや現実にメタファーが追いつけない事態に陥っていて、アリアンの浮遊の奇妙な生々しさは現実世界が既にSFもマジックリアリズムも喰い尽くしてしまったがゆえ、奇跡すらが後光もなく剥き出しに引きずり出される寄る辺のなさによっているのだろう。ラストでラズロがアリアンを撃ち落とせなかったのは、かつて自分が放った銃弾が目の前で宙に浮くアリアンを生み出したフラッシュバックによって、次の銃弾がいったいアリアンを何に変えてしまうのか恐怖させられたからなのだろう。自分が信じた者に殉じて死んだシュテルン(メラーブ・ニニッゼ)の法悦にも似た表情と、世界が信じ始めた者に背を向け畏れるしかないラズロの表情とがつきつける選択の直接性と性急は、届く人にだけ届けばいいというアートの傲慢をかなぐり棄てたメッセージでもあり、それはカウリスマキが最新作でも隠すことをしなかった追い立てられるような焦燥であったようにも思うのだ。考えているよりもほんとうにまずいことになっている現実にワタシは追いつけていない。

サブタイトルに書名を借りたので、あわせてシモーヌ・ヴェイユの重力に関する見解を。
重力。一般に、われわれが他者に期待するものは、自身のうちなる重力の作用により決定される。われわれが現実に受けとるものは、他者のうちなる重力の作用により決定される。ときに両者は(たまたま)一致するが、たいていは一致しない。
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2018年01月31日

デトロイト/アルジェの戦い

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一人の痩せて背の高い黒人が足もとの石を拾って商店のウィンドウにやおら投げつけた瞬間こそが号砲ということになり、文字通り彼が一石を投じたわけである。とは言えいつか起きるはずのことがこの夜に起きたというだけで、正気の黒人を狂気の白人が狩り立てるという図式自体に新たな解釈を見つけるわけでもなく、たとえばこれが一昨年あたりにアメリカのどこかで起きた事件をモチーフにしていたとしてもスクリーンにないのはスマホくらいなもので、ではキャスリン・ビグローが燃やした野心が何だったのかと言えば、もはや黒人の迫害があたりまえの日常と化して麻痺した酩酊の迎え酒として、さらに強烈な度数のアルコールを頭をおさえつけ口に突っ込んだ漏斗から注ぎ込む蛮行ともいえるショック療法をただひたすら施すことだったように思うのである。その装置として警官クラウス(ウィル・ポールター)は、まとった悪もいまだ稚拙で幼い見習いの悪魔として滑稽なまでに戯画化され、クラウスとその仲間たちの悪辣と非道と阿呆を際立たせるためなのか、同じデトロイト市警の殺人課刑事はレイシズムを憎むリベラルとして描かれる始末でにわかには信じがたい部分もあるのだけれど、この夜を境に運命をねじ曲げられていく黒人たちの時間が血と涙と吐き気とで丹念に彩られていくのに対し、監督は明確な悪意を持って白人を役立たずの木偶として描くにとどめ、この夜を彼らの欠席裁判とするためその発言をほとんど認めていないというか必要とすらしておらず、唯一認めたのはクラウスとその仲間たちが自分たちのしていることの違法性を終始認識していたことを明かす一点でしかない。したがってあの夜アルジェ・モーテルで何があったのかという検証と構築のドラマとしては客観性とバランスを欠いているし、ラリー(アルジー・スミス)の苦難と救済という筋以外は群像劇としてもまとまりを欠いたまま投げ出されてもいる。しかし監督は、かつて先住民を駆逐した白人によるマンハント=人間狩りの歴史の連なりとしてこの夜があることを告げさえすれば、そしてそれらアメリカの黒歴史がいまや正史として開き直りつつあることに唾を吐き中指を立てることの意志を告げさえすれば、その苛烈の切っ先を均さないためにはむしろ荒ぶった剥き出しのまま「映画の完成度」と刺し違えることを望んだのではなかろうか。この暴動の10日ほど前にこの世を去ったコルトレーンを、その才をヘロインによってスポイルしたと言ってラリーは憐れみと怒りとで語るのだけれど、そうやって彼が隠すことをしない黒人社会を構造的に蝕むドラッグへの嫌悪はその後彼が選び続ける行動の揺るぎない裏づけでもあるし、この映画が最後にしのばせる救済と恩寵の場に彼がいることこそが、光に向けて監督が唯一託したメッセージでもあったのだろう。白人にかけられた呪いを抱えたままその呪いの源に触れざるを得なかったことでディスミュークス(ジョン・ボイエガ)は自家中毒を起こし吐いてしまうのだけれど、その横断を常に黒人の側に頼らざるを得ない身勝手への嘆きはどこかしらオバマ時代への懺悔にも思えてならない。その名の由来を知らなけれど、アルジェ(Algeri)と聞いて思い浮かべるあの映画がスクリーンからとどろかせた爆風を精神的支柱に、キャサリン・ビグローはこの最前線のような映画を撮ったに違いないと考えている。
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2018年01月30日

ルイの9番目の人生/この世のものとは思えないあの世

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もちろん誰かしらは死んでいるものの、それら人間が死ぬ瞬間のストーリーを料金の内としてきたアジャにしてみればそれなりにチャレンジともいえる封印をしてみせて、状況としての生き地獄を活写するというよりは、よすがとしての生き地獄を蠱惑する嗜みは前作『ホーンズ』からさらに沖の方へと舵を切っていたように思うのである。『ベンジャミン・バトン』的なチャームを匂わせる予告篇を観て、アジャもそろそろお年頃かと知った風な気分になってはいたのだけれど、フタを開けたそこにあったのは主人公ルイ・ドラックス(エイダン・ロングワース)と母ナタリー・ドラックス(サラ・ガドン)がお互いをピアノ線のような絆で締め上げることでしかその結びつきを知ることのない命がけの根性試しだったわけで、生と死を幾度となくくぐり抜けることで神経を過剰な鋭敏で研ぎ澄ませたルイがいつしか母親の愛情と偏執の正体に気づいた時に受け入れた運命を、アジャはいまだ汚れを知らぬ透明な生き地獄として幻視してみせている。どんなに絶望的に底の抜けたグロテスクを描いてもアジャの映画から品格が失われないのは、それはピラニアに食い殺されるビキニのブロンドに至るまでキャラクターを安普請の憐憫で描くことなく常に敬意と忠誠を忘れないからだし、それによってルイの造型にヴィヴィッドな少年の浮力とシニカルな老成の沈鬱を口数少なく同居させることで、一見したところの残酷極まりない悲劇をルイにとってのハッピーエンドとするアクロバットにも成功したように思うのだ。ただそうやってルイという少年の空中散歩に夢中になるあまりなぜルイは崖から落ちたのかというそもそものミステリーが稀薄になっていくのは否めないにしろ、次第にルイの独白が奇想の輝きを放ち始めるに至り、これもまたアジャが反復するサヴァイヴァーの物語であることに気づかされていくわけで、『ホーンズ』を受け継ぐような異形の救済にたどり着いてみせたアジャにストーリーテラーとしての深化をうかがって舌を巻いたのである。生と死の波間を孤独を知った老人の笑顔で泳ぐ少年ルイを演じたエイダン・ロングワースをはじめ、彼岸のファム・ファタールとしてのサラ・ガドン、文字通り最期までルイを愛し続ける父ピーターを演じたアーロン・ポール、大きな子供の茶目っ気と洞察でルイに独白の言葉を与えるペレーズ医師を演じたオリヴァー・プラットなどなど俳優陣の配置も絶妙だったのだけれど、『キスト』で演じたたおやかなネクロフィリアがいまだ忘れがたいモリー・パーカーの尊顔に接することができたのが何より僥倖であった。最近はニュースも聞かなくなったけど、アジャにとっての『コブラ』がデル・トロにとっての『狂気の山脈にて』にならなければいいなあと思う。
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2018年01月25日

パディントン 2/善い熊はなかなかいない

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パディントン(ベン・ウィショー)の誰に対しても変わらぬ親切や礼儀正しさにどうして鼻白むことがないのかと言えば、それがあらかじめ備えたイノセンスの発揮や性善のひらめきに頼っているのではなく、たとえばルーシーおばさんの言葉としてたびたびパディントンが口にする「他人に親切にするとそれは自分に返ってくる」という教えにうかがえる戦略的ふるまい、すなわちマナーということになるのだけれど、それがルーシーおばさん(イメルダ・スタウントン)を先生として学習によって身につけた文明社会へのパスポートとして、身体ひとつで異国の地を生きる異邦人の切実なサヴァイヴァルツールにも思えるからなのだろう。そしてそれをある種の手続きと踏まえた上でパディントンは、でもそうやって世の中や他人の明るいところを見つけて生きた方が、「赦すのはたった一度でいいんだよ、でも腹を立てたらそれを一日中、毎日、ずっとそうしていなきゃならないからね」という某映画のセリフにもあったように、愉しくて快く毎日を過ごせる上だいいち誰も損をしないじゃないか、と告げてみせているのである。もちろんそれを言うのは容易いし、何よりその踏み出す第一歩の“無償”を誰が負うかというチキンレースこそが成熟しきった文明社会の倦んだ悪癖でもあるわけで、眼をキラキラさせながらその一歩を痛快に踏み出すパディントンに心を揺らされるばかりのワタシたちは、個人主義というよりはもはや孤立主義と言ってもいいその泥沼に足をとられていることにあらためて気づかされるのではなかろうか。そしてポール・キング監督は、その一歩に躊躇を感じさせて映画の気分がふさいでしまうことのないよう、顔がほころぶ程度に躁病的な多幸感を絶妙なさじ加減でふりまき続けてみせるわけで、とりわけグルーバーさん(ジム・ブロードベント)のお店でパディントンが飛び出す絵本を開いた時にかけられた魔法によって、これから先この映画では愉しいことも哀しいこともすべては善いこととして起こるに違いないことを確信させられてしまうのである。この魔法をスラップスティックなリズムで刻み続けるやり方についてはウェス・アンダーソンを師と仰いでいるのは言うまでもなく、本来であれば停滞しがちな刑務所のシークエンスにおいてそれはほとんど夢見心地に奏効している。してみると絶対的な悪という存在をなかなか描きづらい中、フェニックス・ブキャナン(ヒュー・グラント)の憎めない狡猾をヒュー・グラントその人を利用して戯画化しつつ、いつしかお人好しの子グマと狡いキツネの追いかけっこへとファンタジーを描き変えてみせることで罪とか罰とか言った興ざめをかわすやり方については、ブキャナンを善人へと改心させることなく着地するラストに見事だったように思うのである。とは言え、ゴジラと子グマとイーサン・ホークと半魚人に笑顔で渡りあうサリー・ホーキンスこそがやはり最強。
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2018年01月20日

目撃者 闇の中の瞳/Always Crashing in the Same Car

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※展開に触れています

割れたサイドミラーのひびの数だけびっしりと蠢く眼、眼、眼の、これが複眼の視座で語られる藪の中案件であることを告げるにしてはあまりに禍々しく忌まわしい厭らしさに、なんだそういうつもりの映画なのか!と初っぱなで身が引き締まったのである。したがって、ミステリーとして決してフェアとは言えない視点の乱立を瑕疵とするのは野暮というもので、最期には誰が死んで誰が生き残るのかを思い返してみればこれが一種の蠱毒としてあることに気づくはずだし、シャオチー(カイザー・チュアン)はサイドミラーの向こうに在るこの世ならざるものに見初められ、あの世がこの世を蹂躙する傀儡=くぐつとして契約するに足る者かを試されていたように思うのだ。それにシャオチーがどうやって抗いつつ最終的にはどんな音を響かせて心を折ったのか、折るべき心を持ち合わせないウェイ(メイソン・リー)のあっけない脱落と土壇場で勝ち抜けたシャオチーにあの世の真意がうかがえるわけで、この世で一番恐ろしいのは自分が人生をかけて信じたものにまったく意味も価値もないことを知らされることだけれども、今の自分はそれを世界に知らせる者として在る幸福を獲得したのだとするピカレスクをワタシは勇敢なハッピーエンドとして讃えたい。前述した藪の中の構成については、角度によってはこう視える、あるいはそう視ざるを得ないというよりは意図的な偽りを挿入している点で成立しているとは言い難いのだけれど、そうした独白以外の地の文においては、誰が何を視ていて何を視ていないのかといった視線の交錯を丹念かつ緻密に描くことで主人公シャオチーの知らない手がかりをきちんと観客に与えていることもあり、例えば序盤でマギー(シュー・ウェイニン)がシャオチーに向ける眼差しはその後ずっと喉に刺さり続ける小骨のようでもあるし、「目撃者」(原題ママ)というタイトルを常に意識してシャオチーが視たものと自分が視たものをつなげていくことで、謎解きのサスペンスというよりはシャオチーがあの世に見出されていく魂の変遷をスリラーとして体感できるのではなかろうか。あそこであんな美しいダルマを映してダメを押すような監督をワタシは信頼しないわけにはいかない。
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2018年01月13日

ブリムストーン/神がベッドで建てた国

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玉ねぎの皮を一枚一枚剥くようにして折り重なった時間を遡っていく手つきはそれなりにエレガントで目を引くわけである。しかし、すべての皮を剥き終えた時そこにあったものはといえば、それは空っぽ(empty)というよりは空(vacant)というべきで、空虚とか虚無とか言った失われた存在が生み落とした闇というよりは、単に何かを入れ忘れたかのようながらんどうだったように思うのだ。もちろんワタシが言っているのはこの物語の芯と祀られる牧師(ガイ・ピアース)のことであり、リズ(ダコタ・ファニング)が玉ねぎの皮を剥く存在にとどまってしまい彼女が彼女の物語を語り得なかった点でこの映画は行き場を失ってしまっている。“これは愛と暴力と信仰を巡る、壮絶な年代記(クロニクル)。”という惹句に照らしてみれば、その時代背景といいワタシはコーマック・マッカーシー「ブラッド・メリディアン」を重ねて観るべきかとすら思っていたのである。暴力も戦争も初めから我々と共に在ったものだ、言うなれば神がお造りになったものだ、それをお前たちは崇拝しないでいいのか、と言いつつすれ違いざまに世界の風景を一変させていく判事をガイ・ピアース演じる牧師に重ねて観るべきかとすら思っていたのである。あるいは『狩人の夜』においてすべてのイノセンスが見る悪夢として現世にさまよいでたロバート・ミッチャム演じる偽牧師を重ねてみるべきかとすら思っていたのである。してみれば「私は呪われた人間だ。救済も届かない。だから何も恐れるものはないのだ」と開き直ったペドフィリア&インセストの変態ダブルコンボでしかなかったこの牧師にワタシが抱く殺意はきわめて真っ当で正当であったといってかまわないだろう。もちろんリズが牧師に対して抱いたそれとは月とスッポンほど相容れないドス黒さであることは言うまでもない。そのリズにしたところで「彼女は戦士だった。その時代、生きのびるにはそうでなければならなかった」というオープニングのナレーション(この声が誰のものであったかについては展開上一応伏せておく)がどこかしら上滑りに感じてしまうのは、リズという女性が銃口を向けるのは女性たちを慰みものと忌むべきものとしか扱わぬ男たちの社会に向けてではなく単に窮鼠猫を噛む行動としてそうしているだけで、女性という運命の枷を断ち切って自由を手に入れるべく命を散らした戦士はむしろ娼婦仲間のエリザベス(カリラ・ユーリ)がその名にふさわしいように思うのだ。そうやって牧師に象徴される記号とクリシェでしつらえられた強者と弱者の絵日記において俄然監督の筆が走り出すのは女性が嬲られいたぶられ苛まれるシーンであって、リズが家を飛び出した日のベッドに忍び寄るカメラがシーツをクロースアップするうんざりするような卑近で愚直な説明ショットは、それをそう映したことで得られるものと失うものの均衡すら彼方に飛ばしつつこれを撮らないでどうすると凄む監督の狂気を照らしたホラーの瞬間であったように思うし、それは“そういう人間と獣の契る時代”を描きたかったからだという監督の飢えた情動が荒野を一人歩きする様はこれが『マンディンゴ』の系譜に連なるエクストリームショウであることを誰の目からも隠すことをしていないどころか、むしろ見せつけることに恍惚としていたとすら言っていい。ならばなおのこと、あまりにも雑なリズの縄抜けには落胆してしまうわけで、自分の身体で試してみればわかることだけれど自ら肩を外さない限りあの動きは不可能だし、それまで特にリズの肩関節に関する伏線もなかったこともあって、自分で自分の舌を切った過去も含め「痛み」に対する耐性を獲得しなければ生きられなかった彼女の象徴として行われる行為でもあるのかと思ったものだから、絶叫のあと両肩を外した状態での両手ぶらり戦法でいかに牧師と闘うのかワクワクしていたところが、なんと何事もなかったかのようにあっさりとライフルをかまえてぶっ放してしまうのである。その時のワタシの唖然茫然悄然がご想像いただけるだろうか。つまるところ反逆する生贄は監督の視野にないというそういう映画なのであった。避けたい人は避けた方がいい。無理する必要はまったくない。
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2018年01月11日

ジャコメッティ 最後の肖像/デッドラインでさようなら

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芸術家は何をもって最後の一筆として今回の試みはここに達成されたと宣言するのか、といった興味などあてにしつつ観ていたところが、それはもう洒脱というよりはあっけらかんと肩透かしをくらうわけである。他の芸術家はともかくジャコメッティ(ジェフリー・ラッシュ)について言えば、それは要するに私は対象を見切ったという傲慢の徴と言えるのではないのかね?自分も対象も日々うつろっていく人間である以上、その両者の間で決定され固定される関係など弱気で都合のいい幻想に過ぎないのではないのかね?とでもいった、生きている以上すべては不確定に未完成なままだし私のしていることはその点においてのみ意味があるというマニフェストをウィンクしながら宣言していたように思うのだ。だからといって彼は霞を喰う世捨て人というわけではなく、むしろ人生の手ざわりを謳歌しながらも人生を狩りの場とすることはしないキャッチ&リリースの眼差しが時に周囲の理解を阻んだりはするにしろ、スタンリー・トゥッチはそこにジャコメッティならではの人生に対する慈愛と畏怖を見つけることに成功しているし、人生にそう都合良くクライマックスなど訪れてはくれないのだという“外し方”は既に『シェフとギャルソン、リストランテの夜』でその終わらなさへの愛憎と共に語られていたとおりである。行きつけのカフェで、言わずともテーブルに運ばれるゆで卵とハムとパンをナイフとフォークでかちゃかちゃとやっつけながら赤ワインをぐいっとあおれば絶妙のタイミングでギャルソンがお代わりを注ぎ、これまた何も言わずとも2杯のカプチーノが運ばれてきて1杯はロード(アーミー・ハマー)の分なのかと思いきやその2杯を立て続けに飲み干し、ポケットからしわくちゃの札を出してテーブルにそっと置いて立ち上がるこのワンカットの滋味が人間ジャコメッティのヴィヴィッドに平坦な生を活写してみせて、ああ、今度も卵料理がカットを締めるんだなと『リストランテの夜』ではうつろう日々の中で数少なく確かに在るものの象徴として焼かれたオムレツなど思い出したりもしたのである。「きみの顔は正面から見ると凶悪犯に見えて、横から見ると変質者に見えるな。いずれにしろ、刑務所か精神病院行きだ。」といじられては「光栄です」とたおやかに返すロードを演じたアーミー・ハマーの、邪気のない背筋が控え目な補助線となることでこの映画の端正を保ち続け、やはりこの人はわざわざ汚れたり捻れたりしない方が静かで緊張感のある光が差すように思う。それはもうジェフリー・ラッシュとあっさり自然と拮抗するほどに。クレジットロールで見かけたスティーヴ・ブシェミの名前に、そう言えばこの音楽を手がけたエヴァン・ルーリーはブシェミの初監督作『トゥリーズ・ラウンジ』でもクレジットされていたことなど思い出し、実存の手がかりではない自由への憧憬としてのボヘミアン礼賛にニューヨーク・コネクションの目配せが滲んだりもしてこの贅沢で闊達な諧謔に一も二もなく組み伏せられてしまい、90分の短い夢が醒めてしまうのが少しばかり腹立たしくすらあった。愛人カロリーヌ(クレマンス・ポエジー)に買い与えた赤いBMWのカブリオレでジャコメッティとロードとカロリーヌの3人でドライヴするシーンに流れるフランス・ギャルの「ジャズ・ア・ゴー・ゴー」が、この映画にしのばされた目は笑っていないノンシャランにダメを押す。
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2018年01月07日

キングスマン:ゴールデン・サークル/バカが作るんだ、人間を

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あら?こうやって倒れてるだけでいいのかしら、涙みたいに血を流したり鼻や口から血がダダ漏れにならなくてもいいの?、ほら、あのエボラウイルスか何かの患者みたいにズタボロになるんでしょわたし、あら、そうなの、グチャドロのメイクでスチル撮ってもらっおうと思ってたのに、な〜んだ残念。とズバコ〜ンなジュリアン・ムーアなら嘆いたに違いないはずだし、カウンターの向こうを覗き込んだワタシもまったく同じように嘆いてみたりもしたのである。キャラクターによって軽重をつけない人死にがニヒルよりはポップを生むやり口は相変わらずながら、前作を駆動させた下克上を駆け上がるエグジー(タロン・エガートン)のスピードとリズムをあてにできないこともあって、わざわざ船頭を増やしてみせた上で船頭多くして船山に登ることのないよう片っぱしから船頭を殺していく子供じみたマッチポンプはいかにもマシュー・ヴォーンであったわけで、行って帰ってくる物語などはなから諦めたようなこの映画が最終的にどこへたどり着いたのかというと、それはマリワナ礼賛であったというどうにも底の抜けたノンシャランだったのである。ティルダ王女(ハンナ・アルストム)が吸うジョイントもリアム(トーマス・ターグース)がくゆらすパイプも劇中で映し出されるブツはすべてマリワナであって、(あなたみたいな糞野郎のために)日に20時間休みなく働いてればそりゃ薬も要るわよ、特に私みたいな善良な人間ならなおさらね!とエミリー・ワトソンに切らせた啖呵こそがこの映画で唯一マシュー・ヴォーンが挙手して述べた心情だったようにも思え、ポピー(ジュリアン・ムーア)がつきつけた完全な合法化による市場のコントロールという条件の持つどこかしら真顔な説得力の正体もそんなところからやって来ていたように思うのだ。したがって、夢うつつで遊んでは蝶々を視ていたハリー(コリン・ファース)が自身を素面に戻すのもそれはヤク中を救うための崇高な自己犠牲に他ならず、行って帰ってくる物語ということで言えば最後に用意されていたのは善良なるヤク中が無事に家へと帰っていく大団円であったわけで、言ってみればこれはマリワナ解禁に立ちふさがりつつあるトランプ政権に向けたマシュー・ヴォーンからのファックサインということになるのだろうし、へらへらとだらしなく脇の甘いところだらけで誰も聞く耳を持っていないようなのが哀しくはあるけれど、そうしたチーチ&チョン的側面からワタシはこれを支持したいと考える。そうしてみれば、ウィスキー(ペドロ・パスカル)の最期はいくらなんでもオーヴァーキルではないかという向きもあろうかと思うけれど、おそらくは原理主義者たるビジランテの象徴としての報いということになるのだろう。製作のタイミングからしてこれが前述したようなトランプ政権へのあてつけでないのはもちろん言うまでもないのだけれど、現実がすべてのカリカチュアを無効化してしまうという意味でやはり恐るべき状況にあることをあらためて痛感したのは事実だし、もはや『マーズ・アタック!』のジャック・ニコルソンも『デッド・ゾーン』のマーティン・シーンも『マチェーテ・キルズ』のチャーリー・シーンも現実の貧弱なパロディに過ぎないわけで、服なんか着るやつは阿呆だと得意げな相手に向かって、王様は裸だ!と叫ぶ敗北感を今ワタシたちは歴史上初めて味わっているのは間違いない。それにしても、これでPG12というのはなかなか画期的ではあるので、スクリーンいっぱいに映し出される生殖器官内部に目を凝らすなどして若い衆は豊かな情操を育んでいただきたいと思う。
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2018年01月02日

バーフバリ 王の凱旋/指は四本で手首を返しえぐりこむように射つべし

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他人が見た夢の話にはその内容の如何にかかわらず、なぜ身を乗り出す気にならないのか、それが映画や本や音楽の話であれば、じゃあワタシもちょっとそれを、と共有することも可能だし、実際に体験した出来事であれば事実は小説より奇なりだねえなどと驚いてみることもやぶさかではないのだけれど、そもそもが本人にしか意味を持たない性癖のようなものを語られたところで肯定も否定もしようがないという点はともかくとして、映像を言葉に換えるときに借りる物語の体裁によってあらかたがこぼれ落ちてしまうその失敗加減にいたたまれなくなるというのが正直なところで、それは埴谷雄高ですらが自分の見た夢を散文に刻み溶かした実験作「闇の中の黒い馬」に至ってようやく体裁をなすという過酷にして峻険な作業であると言わざるをえない。などと、いったい何をくどくどともってまわった物言いをしているのかというと、まさにこの映画はスクリーンに投影された夢のような時間であって、それがいかに異形でありつつしかし一瞬たりとも目を離せないスペクタクルの奔流として目の前を怒濤のように流れていったのか言葉で伝える術が見当たらない言い訳をしているのである。ストーリーとしては典型的な貴種流離譚でそれ以上でも以下でもなく、そこに一切のサブテキストもないまま、ひたすら網膜が受容する信号の刺激を待ち受ける以外ほとんど阿片窟でまどろむジャンキーと化して呆けたまま瞬きもせずまどろんでいく廃人化の快感を告白するしか、この映画の魅力を伝えようがないのだ。重力とエントロピーの法則が異なる惑星で撮られたこの映画を、いつものつもりでキャッシュして咀嚼などしようものならあっという間にオーバーフロウしてしまうのは間違いないし、年末に観ておきながらこれを2017年のベスト10にリストするかどうか迷いすらしなかったのは、そもそもこれをどう扱えばいいのかわからなかったからである。できれば片っ端から他人に薦めまくってワタシが味わった混乱と恍惚の渦に巻き込んでしまいたいのはやまやまなのだけれど、どういう惹句を叩き込めばいいのかすら頭に浮かんでこない始末で、そんな腰の引けた状態で何とかひねり出せるのが、『ミスト』のラストでベヒモスの霞んだ頭頂付近の高みを飛ぶ鳥に忘我した人に向けた、この映画に比べれば『グレート・ウォール』など厨房に入ったばかりの新米が初めて任されてしかもダメ出しくらったあげく投げ棄てられた賄い飯に過ぎないという、萎れた与太にしかならない自分が痛々しい。批評を生業にしていなくて本当に良かった。
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2018年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

爆弾と竜巻と物質主義をくぐりぬける
犬には犬のための犬の愛が犬にある
しっぽまく うすら汚れる とぼとぼ歩く
途方に暮れる 犬とよばれる でも 生きてゆく

きょうは犬だから

ー「I AM A DOG」矢野顕子
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2017年12月30日

2017年ワタシのベストテン映画

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沈黙
ジャッキー
午後8時の訪問者
パーソナル・ショッパー
ジェーン・ドウの解剖
ドッグ・イート・ドッグ
ありがとう、トニ・エルドマン
ウィッチ
ブレードランナー2049
パーティで女の子に話しかけるには

観た順番。寛容と不寛容をめぐる争いからは映画界も無傷ではいられないことをあらためて突きつけられた年であったとは思うものの、ずっと前から突きつけられていたであろうその切っ先に対してワタシたちが無神経で鈍感であったことの裏返しとも言えるに違いなく、それが仮に顧客のボリュームゾーンへのマーケティング的な目配せだったとしても、年の終わりにディズニーが肉を切らせて骨を断つべく最強のキラーコンテンツにしのばせた世界寛容宣言が、年初にワシントンで打ち立てられた世界不寛容宣言に対する回答でありカウンターになるべくしてなったという決して偶然ではない帰結に明らかなように、既に世界の法則は書き換えられつつあるのだろう。それが気に入らなければ他のしけた砂場で遊んでもらうしかないというただそれだけのこと。すべてが間違っている、とルークもあなたに告げたではないか。
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2017年12月28日

MR.LONG /ミスター・ロン 〜 ポケットの中には小四のナイフ

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ロン(チャン・チェン)が、逃げ込んだ廃住宅の台所で蛇口をひねった瞬間、ああ、水が出ちゃうんだと思ったのである。この映画はここで水が出なければ始まらないのは言うまでもないのだけれど、電気も止められた住宅の水道の元栓がなぜ閉じられていないのか、地下水の汲み上げだとしてもそもそも電気が止まっているし、とそれまでの密やかに潜航するノワールがここで観客の善意をたよるような物語へと急激に舵を切って座礁したように思うのである。観客の、というのが姑息であればワタシの、と言い換えても良い。そもそもSABU監督の映画というのが、そういった善意をあてに良きに計らえとすっ飛ばしていくそのスピードを体感するところからスタートしていたし、ワタシが観たいのはその風景や光景であってスピードを味わいたいわけではないんだけどな、といくつかの映画で乗り切れなかったことなど思い出したりもした。サイドエピソードをバカ正直に突っ込んでしまうのも相変わらずと言うか、ナイフの因縁だけのためにリリー(イレブン・ヤオ)の過去をフラッシュバックで丸ごと延々と語ってしまうロンちゃんの置いてきぼりはともかく、すべてが均等に並べられてしまうことで8月30日をデッドラインとするタイムサスペンスも機能せず、それもあってロンの葛藤も十分に育たないまま、あの修羅場によって自動的に台湾へと戻されてしまっただけのように見えてしまうのはあまりに分が悪い。これはちょっと言葉の使い方が難しいのだけれど、かつての角川映画が旬のアイドルや俳優を起用して撮ったプログラムピクチャーとしての「アイドル映画」とみるならば、終始のチャン・チェン無双はまず申し分なく機能していたように思うわけでワタシのあてこすりは無粋ということで片付けてもらってまったくかまわないとは思うのである。ただやはり「どうしてこうなった?」とボソリつぶやくチャン・チェンの押しつぶされたような可笑しみがそれから先どこへも枝分かれしていかなかったのがもったいないなあとは思ってしまうのだ。だから、牛肉麺の原料費は一切支払わないまま続けるつもりだったのだろうか、とか出生届すら出していないジュンがどうやってパスポートを取得したのか、とかそういったあれこれはただの戯言として聞き流してもらえれば幸いである。水が出続けた瞬間にギアを入れ損ねたワタシがあたふたと追いかけているうちにロンちゃんは帰ってしまったというただそれだけのこと。
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2017年12月25日

ビジランテ/盗まれた町

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そこに至るまでに2度ほどあった、ゴミ屋敷のごとく足の踏み場もなく荒れ果てた実家の畳にあがる時の一郎(大森南朋)と三郎(桐谷健太)がごく自然に躊躇なく靴をぬぐカットの溜めが最終的にはどんな風な使われ方をしたか、そのありふれて陳腐と言ってもいい爆発こそがこの物語で唯一正当に思えた血の反抗だったわけで、疑似家族としてのビジランテ、ここでの自警団とは利益と権利を追求するために家族のマイルールを世界にそのまま適用していく遂行者たちのことで、兄弟による血の抵抗はその矛先が終始それらへと向けられていくこととなるのだけれど、この物語が神藤サーガの体裁を借りつつもマルケス「百年の孤独」や阿部和重「シンセミア」といったサーガの語りと決定的に異なるのが、野生動物としての神藤サーガがビジランテという外部からの狩猟者に屠られていく様を綴っている点にあって、忌まわしくさえある共同体の因習ですらが、さらに得体の知れない存在によって駆除されていく薄気味の悪さをビジランテという言葉に集約した監督の意図は非常に現代的な示唆だったように思うわけで、前述した“自警団とは利益と権利を追求するために家族のマイルールを世界にそのまま適用していく遂行者たち”という定義がそのまま見知った国政のレベルにあてはまってしまうことを考えれば、暴力的な空気をはらむ自警団の足どりがさらに上から下へ押し寄せる懸念と危惧がこの映画には充満しているように思うのである。したがって、一郎や三郎のように反抗に加わらなかった二郎(鈴木浩介)が裏切り者であったかといえば、彼は自分にできるやり方として神藤の血を残すことを選んだわけで、彼の涙ながらの挨拶はそれまでの自分を決定的に変質させるために自らを追い込む決意表明だったのだろう。おそらく彼は暴力を飼い始めることになるように思う。そうした状況にあって三郎は、ビジランテに関わるすべてのことを遮断するという最も勇気のいる決断を下すわけで、それはもちろん最悪の不幸を呼ぶことになるとはいえそれゆえこの物語がどん底で備える美しさのほとんどは三郎のいる光景の中にあって、そこで血が出るほどに歯を食いしばりながらメランコリーを叫び続けた桐谷健太のパフォーマンスは名演と言うべき震えをものにして、それに比べると手癖でおさめる余裕がまだ役柄に残っていた大森南朋は、泣き笑いがいつしか肺活量を鍛えていた鈴木浩介と比べてもやや分が悪かったかもしれない。暴力のはらませ方については非常に細やかに行われていたように思うのだけれど、痛みについてのフェティッシュはなかなか感覚を共有するのが難しくて、例えば焼肉店でのアレにしてもせっかくあそこまで念入りに貫いたのであれば、いくら悶絶しつつとはいえ素手で引き抜いてしまうのはあまりにもったいないと思うわけで、ワタシが観たいのは、腰を抜かせた店員にペンチを持ってこい、ペンチだよ、ペンチを持ってこい早くしろ、と怒鳴りつけ、持ってこさせたペンチでそれを挟んでぐいっぐいっと小さく左右に揺らし脂汗と血と絶叫にまみれながら少しずつ引き抜いていくショットであって、それが長回しであったならなお素晴らしく思ったにちがいない。ワタシも北関東の小さな市の出身ではあるけれど、外に出て久しい身からすればこの忌避感はカウフマン版『ボディ・スナッチャー』の絶望感に源泉が近い。
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2017年12月23日

オレの獲物はビンラディン/形而上のニコラス、形而下のケイジ

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『グラインドハウス』のフェイクトレーラー「ナチ親衛隊の狼女」においてフー・マンチューを演じたテンションで、愛国の怪人というか罪人というか、とにかく埒外でひとり笑い続けるゲイリー・フォークナーというおそるべきことに実在する人物を、本来ゴミ箱に棄てられたはずの啓示を受け取ってしまったかのような一切報われることのない全身全霊でトレースするニコラス・ケイジがいつしか現代アメリカのポール・バニヤン的フォークロアの人物に見えてくるわけで、監督の狙いとしてはゲイリー・フォークナーを憂国のドン・キホーテとして笑い飛ばすつもりが逆に目ン玉ひんむいて笑われてしまう始末で、これはニコラス・ケイジが己のポテンシャルをどれだけのリミッターで抑え込んでいる俳優なのかみくびったことで、火をガソリンで消すことになってしまい大爆発させたラリー・チャールズの明らかな失策といっていい。したがって、真の愛国者とは国を愛することにひたすら殉じる者であり、他国を排斥することには目もくれないのだという逆説を心ならずもゲイリー・フォークナーに体現させたことで愛国の人を賛美してしまい、そうやってニコラス・ケイジの爆風がすべての批評を無効化してしまう徒労がさらにペーソスを誘うのだった。それにしても、映画監督たちは自作の主演がニコラス・ケイジだと知った瞬間、いったい何を思うのだろうか。望むと望まざるにかかわらず、映画をのっとられるという抵抗や恐怖は感じないのだろうか。それともオレなら飼い慣らしてみせると一度は野心を剥き出しにするのだろうか。そして案の定ケイジの顔面だけが記憶となる映画を仕上げてしまった後で何を思うのだろうか。そうしてみると、ああ、このケイジは飼い慣らされていると思ったのは『バッド・ルーテナント』が最後となり、あとはほぼ顔面に蹂躙された記憶だけが死屍累々と重なっているわけで、にもかかわらず主演作が引きも切らないのは、スクリーンに大写しになったその顔面を消失点とすることで世界のパースを確認するワタシのような人間が世界中に溢れていることの証拠なのだろうと考えている。したがってヴェルナー・ヘルツォークは映画監督としては実に見事であったものの、ケイジ映画の監督としては失敗作を生んだということになるのである。となれば何が言いたいかもうお分かりだろう。この映画は傑作である。
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2017年12月20日

スター・ウォーズ/最後のジェダイ〜すべてが間違っている、わけではない

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いともたやすく監督の首をすげ替える製作陣がというかキャスリーン・ケネディがよくこれを許したなあとは思いつつ、いやむしろ尻を蹴り上げてこれを撮らせたとでもいうべきかと、カイロ・レンがレイに向かって叫んだ「幻想にしがみつくのはやめろ!」というセリフの余韻がことのほか響き続けたように思うのである。それくらい、この映画はかつてあったものの退場と失敗だけでできあがっていて、帝国軍にしろレジスタンスにしろ老いも若きもそのすべてがやることなすこと無様に転び続け、自由を得たものといえばカジノの惑星でレース用に飼われていたファジアーという動物とベニチオ・デル・トロの記憶しか残らない始末である。ただ、そうやってことごとく作劇上のカタルシスを潰しにかかっていながら、小さな誘爆が延々と続くような昂奮が途切れることのなかったのは、のちのち後悔して再び舞い戻ることのないよう退路を断ち続ける意志に逆流する血潮をそこに感じたからで、それくらいの決意がなければジョージ・ルーカスの個人史ともいえる物語との完全な訣別など不可能だという覚悟があったのだろう。ではそこまでして果たさなければならなかったのは一体何なのかと言えば、それは間違いなく物語の解放であり、端的に言ってしまえば父殺しをしなければ更新されない世界を鎮めることだったように思うわけで、強大な父を乗り越えるために要求される男らしさ=マチズモの支配する枠組みを解体するために、今作では男たちの暴走を女性がくい止めるという構図が少々強引とすら思える適用でなされているし、それは何よりフォースの持つ破壊と再生という側面を最後の父殺しレンと殺すべき父を持たないレイに分け与えるラストで清冽に宣言されていたように思うのである。その意味でルーク・スカイウォーカーは光と闇の葛藤(conflict)にこそ生じる力を信じた最後のジェダイであり、その境界を歩き続ける物語の困難と疲弊を一身に背負った存在ということになるのだろう。したがって、先述した物語の解放はそのままルーク・スカイウォーカーの解放となって、かつて辺境の惑星タトゥイーンで彼方を想って見つめた2つの夕陽に照らされた最期は、歴代のジェダイでも最上の慈愛に満ちていたように思うのだ。だからといってこれまでのすべてを葬ってしまったわけではないことは、ヨーダによって燃やされたジェダイの木からレイによって密かに持ち出されたジェダイの書物がその証となっていて、それがレイの光によって照らされ続けるであろうことを間違いなく示唆している。物語を永遠に縛り続けるかと思われた枷が外れたことで、思想や思考は自由になるのか逆に不自由となるのか予断は許さないけれど、とにもかくにも血の相克で呪われ続けたフォースはここに解放されたわけで、宇宙のあちこちで星を見上げる厩舎の少年少女を未来の希望とするエンディングを、他人事の王たるJJがいったいどう受け止めて星の光とするのか、一世一代の物語を紡ぐ意地と覚悟を見せてもらえれば幸いである。一つだけ、アクバー提督だけは花道が欲しかったかなあ。
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2017年12月17日

否定と肯定/嘘をつくとき笑うやつ

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法廷ドラマのスタイルを借りつつも、例えば『女神の見えざる手』のような爆風をラストに吹かせるわけにもいかないとなれば、このドラマのどこにスリルとサスペンスをしのばせればいいのか。それは、判事に向かってついにはお辞儀をするに至るデボラ・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)の上昇と下降の日々にあったように思うわけで、自らの内なる声だけを良心として生きてきたリップシュタットの危うさもまた他者の否認を呼び寄せているのではなかろうかと、善や悪、快や不快といった感情の両論併記が事実の両論併記へとすり替わるシステムの危険を知るランプトン(トム・ウィルキンソン)の賢明がアウシュビッツの歴史とリップシュタットを救ったことを考えれば、観客と彼女の二重のメンターとしてこの映画の真の主人公はランプトンということになるように思うのである。その活躍によってデイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)の愚劣を暴く快哉は確かにあるものの、問題なのは彼が成立しうる世界もまた存在していることであるのは言うまでもなく、イギリスにおける名誉毀損の訴訟では被告側に立証責任があることへの原則に「推定無罪の原則はどうなっているの!」と叫ぶリップシュタットの憤りこそがポスト・トゥルースの時代の困難を象徴していたように思うわけで、事実を語ろうとする者は両論に乗じるマイナスをゼロに戻す徒労と非生産性への責も負わねばならず、この事件の当時からすでに四半世紀近くが経ってさらに拡張する世界の水平性がもたらす弊害として「凡庸な悪」すらもそしらぬ顔でテーブルに同席してしまうことへの積極的かつ効果的な対策がみとめられないことへのもどかしさ、それこそはリップシュタットの苛立ちなのだけれど、それを抱えたまま劇場を出る砂を噛むような気持ちは、映画としては不発を誘うものの現代に生きるワタシたちのリアルで正直な感情ということになるのだろう。善くあろうという存在が、世界にとって善くあろうとするのか自分の都合にとって善くあろうとするのか、それを傲慢と偏見を超えて見極めるランプトンの知性と冷静を持ち得ること、そうした突きつけにおいてこの映画は成功している。となればこそ、世にあまねく卑俗で狡猾なレイシストの象徴として小さな屍鬼をあますところなくデザインしたティモシー・スポールが今作のMVP。ああいう人達は皆あんな風に滑稽で間抜けで惨めでみすぼらしく、いてもいなくても誰も気に留めない人のように見えている。
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2017年12月15日

南瓜とマヨネーズ/と福山雅治でマッシュドパンプキン

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原作未読。安原(光石研)がお金を払ってツチダ(臼田あさ美)の肢体を愛でるのも、稼いだお金でせいいち(太賀)を世話しては私のために曲を書いて歌ってとせまるのも、考えて見れば同じ穴のムジナだよねとツチダが気づいたかどうかはともかくとして、もはや青春で担保されない人たちの恋愛はいったい何で担保されるのかといえばそれは生活、もっと言ってしまえばお金だよねという世知辛くも身も蓋もない話が、しかしそれと常に背中合わせになっているのは、結局のところどう生きたとしてもワタシたちは他生の縁に袖触れ合ってしまうのだというゆるやかな諦念で、ここに登場する者たちはその点において無邪気なほど正直この上ないのだった。しかしどちらかと言えば手あかのついたそんな話から90分の間どうして目が離せないのかといえば、恋愛と生活という二人羽織の無様と滑稽とそれゆえに避けられない残酷を、嘲りも憐れみも非難もなくすべてをあるべき場所にある感情として、それこそが望むべきダンディズムの発露なのだとでも言う恭しい手つきで差し出しているからで、存在自体が唾棄すべきクズであるはずのハギオ(オダギリジョー)の説くクズの正論にすら強度と磁力が宿ってしまう魔術は、『ローリング』において権藤に最敬礼させたのと同じ呪文によっていたようにも思うわけで、それを唱えさせるのは夕闇から蒼い夜へと向かう逢魔時のメランコリーへの共感と耽溺によっているのだろうし、監督が映画を撮る時にいつも向かいたいと思っている場所はそこにあるのだろうと考える。曖昧な影の中で自分の見せたいところだけをひけらかし、相手の見たいところだけを目で追い続ける。「そこ」を気持ちよさそうに泳ぎ続けるハギオと、溺れることへの嫌悪で日々のスランプに掴まるせいいちは対照として描かれているように見えはするけれど「そこ」を知ってしまっているという点で共に埒外の人であり、「そこ」でしか息を継げないツチダが2人同時に感応してしまうのもそれゆえの哀しみということになるのだろう。したがって、せいいちが「そこ」から出ることで書けた歌は日の光を存分に透過して、それを聴いたツチダが日の光を直接見てしまったかのように涙を流し始めるラストは至極当然の出来事にも思え、それを一方的にハッピーエンドと呼んでしまうには、監督の描いた「そこ」にワタシは未練をおぼえ過ぎてしまっている。監督の前作『ローリング』でも感じたセリフの耳当たりはさらに艶と磨きがかかり、もちろん録音やミックスの手際が秀逸なこともあるにしろ、発語としてのセリフをトータルサウンドとして解釈する監督の耳が今回も冴えまくっていてそれだけで会話の緊張がいや増して耳が離せなくなってしまうし、ツチダのなまくらな鋭角、せいいちの滑りやすい曲面、ハギオの鈍色の湾曲、とそれぞれの声が絡み合いながら踊っている。人としての重しをはずした浮力でノンシャランにたゆたうオダギリジョーは『ゆれる』以来の絶対クズを実に心地よさそうに演じていて、やはりこの人はナイーヴなナイトよりもたがの外れたピンプで先鋭が香るように思う。もう冨永昌敬監督は何を撮ってもこうなってしまうのでなかろうか。
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2017年12月12日

オリエント急行殺人事件/あたしゃ許さないよ

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本心としたら "POIROT - Murder on the Orient Express" くらいのタイトルにしてしまいたかったのではなかろうか。それくらいフランチャイズへの欲望を隠すことをしない欲しがりなポアロだったわけで、シニカルをウィットで包みこんでシュッと背筋を伸ばして体技に優れ想い出の君の写真を持ち歩くだけでは飽き足らず、本来は乗客たちの隠された人生のドラマをその灰色の脳細胞の明晰さゆえ白日の下にさらしてしまう役どころであるはずが、ある新たな脚色によってポアロも当事者として関わりをもたせることでそのドラマに割って入らせては、その罪と罰に一緒になって苦悩してみせるのである。それはすべて、クリスティにとってはミステリを解くための装置であるはずのエルキュール・ポアロを映画の屋台骨を背負うだけの血肉を備えたヒーローに仕立て上げるための脚色であり、見せ場を作るためにはポアロにしてアクションすらも厭わないなりふり構わぬ貪欲さなのである。したがって、慇懃無礼な物腰で細部を責め立ててはその違和感から矛盾を見つけ出すやり口も今回のポアロには似つかわしくないと判断したのかやけに淡々と流されるばかりだし、何かというと状況的にも感情的にも外へ出たがることもあり、ほとんど会話劇と言ってもいい密室殺人の物語であるはずが神経戦の妙味はかなり薄まってしまっている。クライマックスの謎解きに至ってはもはや客車でおこなわれることすらなく、それもこれも監督が物欲しげな構図を欲しがったに過ぎないことは見ての通りだし、そこで見せるポアロの目つきはディテクティヴというよりはほとんどプライヴェート・アイの血走りすら見せてしまうわけで、やはり対『SHERLOCK』として名乗りを上げるにはここまで下世話に立ち回ってみせる必要があったのだろうことが容易にうかがえてしまう。ルメット版におけるミステリーの予習を観客に促すスマートで手際の良いオープニングが今作ではポアロのマニフェストに置き換えられていたことからも、今作の主眼がミステリーそのものではなくエルキュール・ポアロというキャラクターを宣言することにあったのは言うまでもないし、それはラストにおける来たるフランチャイズへのあけすけな欲望へと引き継がれることになるのである。こうなったら将来的に『SHERLOCK』とクロスオーヴァーしたとしてもまったく驚かないな。興味もないけど。何でもかんでもシュッとすればいいってもんじゃあない。
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2017年12月10日

希望のかなた/ヘルシンキ・ホームシック・ブルース

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フィンランド人のネオナチがシリア人カーリド(シェルワン・ハジ)に吐き捨てる「ユダヤ人野郎が!」という言葉にこそ、レイシストに対するカウリスマキの怒りを通り越した侮蔑と絶望が込められていたように思え、その人種も宗教すらも知らぬもはや思想ですらない憎悪の排泄行為に知性はいったいどこまで有効なのか、親が子供に優しく噛んでふくめるような理性と人情(というのは見返りを求めない自己犠牲だろう)の1+1で希望を倍にするやり方を、せめて話せば分かる人たちは試してみてはくれまいかという監督による懇願のような映画だった。人間が社会という連なりで生きていれば何かと戸惑い困ってしまうことは避けがたく、その理由を突き詰めていけば結局は自分以外の人間は自分ではないという答えに行き着くようにも思われるのだけれど、それは言うまでもなく自分も他人にとっての困惑の種であるということであり、だからこそカウリスマキは困っている人を劣っている人として区別したり差別したりしないわけで、カウリスマキの映画に通底するまなざしは多分そうした考えによって可能となっているのだろう。今作では、そうした他者性を自覚しないことで成り立つ存在に向けられる敵愾心はこれまでになく露骨にさらけ出されていて、市井の人々はカーリドを助けるべくそれぞれのやり方で官僚/警察組織やネオナチといった恥知らずたちに刃向かうのである。一方ヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)もまた、酷くすり減った自分への困惑と危機感から当人以外に投げやりな妻を棄てた男であり、彼のカーリドに対する共感と献身は、選択の余地なく国を棄てざるを得なかった男がなお胸を張って相手を見据える正統な自尊心への敬意であったようにも思えるし、彼が再び妻を迎えに行ったのはカーリドとミリアム(ニロズ・ハジ)の再会が彼に今一度自身を顧みることを求めた結果によっているのだろう。ネオナチおよびシステムの代理人として現れる以外のすべての個人は、この世界でいわれなき迫害と困難を浴びせられる人の代表であるカーリドに一切の躊躇なく手を差し伸べて、それがミリアムとの再会という奇跡をあっけなく呼び寄せるのである。ヴィクストロムのように持つ者が身銭を切らなくても、収容施設の女性職員(マリヤ・ヤルヴェンヘルミ)がそうしたようにドアを開けてやりさえすれば、路上の彼らがそうしたようにネオナチの頭を空き瓶でどついてやりさえすれば、空のトラックで女性を一人運んでやりさえすれば、それぞれがイエスと思ったことをやってみさえすれば希望は奇跡へとつながることを、カウリスマキは、悪いクセでそう見えるかもしれないがこれは冗談ではないと真顔で告げていて、傷を負ったカーリドを映すラストショットは密やかなハッピーエンドのらしからぬ留保でもあり、その希望と不穏のないまぜにこそ、今回は満ち足りて帰ってもらうだけでは足りないのだというカウリスマキの切迫した本気がうかがえた気がしてならないのである。「竹田の子守唄」までもが越境し、収容施設のベッドでカーリドがつま弾く伝統楽器サズがそれを震わす蒼茫のブルースに、最近観たばかりの映画で耳にした「パンクはブルースの最終形」というセリフが浮かんではカウリスマキですらが立てざるを得ない中指が突き刺さって、いつものように笑ってばかりもいられなかったのだ。近寄ってくる犬のコイスティネンにうっすらと微笑むカーリドの傷からにじむ赤い血は痛めつけられる世界の象徴としてスクリーンに配置され、流血する希望という非常事態を余白の余地なく突きつける初めてのカウリスマキとなった。
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2017年12月08日

全員死刑/バカはオバケで泣く

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最初にぶっ殺われるショウジの言う「みんな自分よりバカな奴を見て安心したいんですよ」というセリフこそが監督のテーゼなのかなあと考えながら、酷薄な思いつきと凄惨な行動にあけくれる一家が一瞬たりとも実存の極北など照らしてしまうことのないよう、ほとんど動物映画のチャームで感情移入を求めてくる媚びと痴態を愉しんだのである。その意味では、誰がどうみても貧乏クジをひかされっぱなしのタカノリ(間宮祥太朗)を底辺のバカとしてどれだけ最後まで維持できるかという点が命運となり、実録ものとして既に成功と失敗の道行きが知らされているとなれば、倫理の痛覚をいっさい持ち得ないはずのこの男の本能が、外圧と内圧のバランスで軋み悶える姿にこそサスペンスを求めることとなるわけで、しかしこれが動物映画である以上内省する自我をサブテキストで描けるはずもなく(実際に字幕で説明してしまう)、ではいったいそれを作劇としてどう解決したかというと、その悲鳴を上げる軋轢をフィロソフィカルゾンビのような黒い人影として可視化させていたのである。それはタカノリの精神を反映させたようなひどく幼稚な出来損ないの姿ではあるのだけれど、駐車場で目の前に現れたそれがタカノリとの同化を欲して歩を進めてくる瞬間こそは唯一タカノリが一家のペットとしての鎖を引きちぎるチャンスであったということになり、この逃げ方というか攻め方はとてもスリリングに感じたし、自動販売機前での老人(ジジ・ぶぅ)とのやりとりを通してタカノリのまとい始めた死の臭いを告げてみせるなど印象に残るのがぶっ殺うシーンの他に多かったことなど思うと、内部からの露悪をさらに描けるはずの監督がそれを前面に出すことをしなかった作戦(とあえて言う)が少しばかり食い足りなかったなあと思ってしまうのだ。それはすなわち「事実は小説より奇なり」の“事実“ではなく“奇”の部分にフォーカスしデフォルメして晒す露悪を選んだということで、福岡で起きた事件にも関わらず袖ヶ浦ナンバーの車が走り回ったり、首塚家の室内にべたべたと貼り付けられた格言の書かれた半紙が醸す電波感であるとか、最初の犠牲者ショウジをYouTuberとした設定など、現実につかまってしまわないよう絵空事の強度を高める方策については理解するものの、それによって緊張よりは緩和が常に優ってしまうことで、例えばワゴン車の運転席に体を押し込んだタカノリの尻がクラクションを鳴らしてしまうシーンのように緊張と緩和のリズムが不発になってしまったり、おそらくは緊張の補填のためであろうダッチアングルの多用も、逆に形式の窮屈を呼んでしまった気がしないでもない。いささか冗談めかした風な出たとこ勝負で行われる最初の殺人(ショウジ)から、パトラ(睡眠薬&絞殺)、カツユキとオカダハルキ(銃殺及び刺殺)へと進むに従って陰惨の度合いが増していく計算はうなずけるものの、動物が動物同士殺し合っても外部には脅威とならないわけで、意志が通じず一切の葛藤がない生き物が自分に向かってくる姿が容易に想像できた瞬間こそがスリラーでありホラーとなることを考えれば、何だか体よくお預けを食った気分のままだったように思うのだ。バカを見て安心したいわけじゃなくて、あらぬ手口でおびやかされたいんだよね。
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2017年12月04日

パーティで女の子に話しかけるには/アナザー・ガール、アナザー・プラネット

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パンク。直近に打ち倒すべきものも見当たらない北関東の中学生にとってパンク=パンクロックでしかなく、そのアティテュードを透かしてみる切実やノーフューチャーなニヒリズムなど持ち合わせていたはずなどないわけで、トム・ロビンソン・バンドすらもゲイのアイデンティティを掲げたROCK AGAINST RACISMへの共感には程遠く、魅力的なパワーポップ系のパンクバンドとして夢中になっていたようなお気楽者だったのである。当時彼らのことを教えてくれたOクンはリリースの予定について東芝EMIに電話するほど彼らに夢中になっていて、今にして思えばその切実さには彼なりの理由があったことにどこかしら気がついたりもするのだけれど、とにかくそんな風なノンシャランのせいで、どれだけパンクロックのレコードを聴こうと何者へも化けることなどないまま日々をくすぶっていたのである。インターネットが繋げる世界など誰の頭にも思い浮かぶはずのない、距離がそのまま距離として彼方に横たわっていた時代、70年代後半の思春をニューヨークやロンドンから遠く離れて過ごした彼や彼女たちがまずは自身が育てた妄想のパンクの中を泳がざるを得なかっただろうことは言うまでもなく、だからこそ当時を知る当事者の筆さばきでこんなふうにあの頃を描かれてしまうと、まるで自分の記憶のように甦ってきてしまうのがやたら始末が悪いわけで、それはもうオープニングのザ・ダムド「ニュー・ローズ」で一気にノスタルジーとファンタジーの白日夢へとなだれこんでいってしまうこととなる。とはいえ、ザン(エル・ファニング)がエン(アレックス・シャープ)にとって単なるパンクミューズで終始しないのは、パンクのデストロイに共鳴しつつもその先には再生がなければならないことをエンに伝える役割を彼女が担っているからで、リーディングのような導入から次第にエンとの掛け合いへと登りつめる昂ぶりがまるでパティ・スミスとレニー・ケイの“ロックンロール・ニガー”のようなパンクチューンを繰り広げるステージで、ザンはエンと感応(コズミックセックス!)することで自身に芽生えつつある新たな息吹の正体が母性であることを知り、ノーフューチャーの先の視界をエンに促すのである。一方でボディシーア(ニコール・キッドマン)こそはノーフューチャーなパンクガールを貫く存在として登場しつつ、それを貫かざるをえないメランコリーを「パンクはブルースの最終形なのよ」というセリフに託しながらも、かつて手放した母性の奪還になぞらえるかのようにザン奪還のためエンに手を貸すわけで、エンにとってはパンクな父親がそのパンクな衝動のうちに消えた後でシングルマザーとして彼を育てる母親も含め、パンクが打ち壊した瓦礫を片付けて明日を始めるために母性がなさねばならぬことを知るのがエンにとって最初の通過儀礼ということになるのだろう。そんな中で「12回も中絶したのに何も見返りなんてなかった」と自嘲気味に吐き捨てるボディシーアの、しかし自己憐憫を押し殺してサーベルかざして進む(byちわきまゆみ)姿には、エンに対するノスタルジーや感傷の投影とは異なるジョン・キャメロン・ミッチェルにとって同志としてのリアルな共感が見て取れる気もしたのだ。エル・ファニングの、“エル・ファニング”という特殊で特別な生き物として話し、走り、弾み、笑い、叫び、舐め、吐き、眠り、歌って踊る姿はそのまま個体としてMOMAに永久展示しておきたいほどで、かつては独立した生き物のように息づいていたその首がついには全身を支配したように思えてならず、形而下的にはここが一つの到達点とすら言ってしまいたい。何度となく書いた記憶があるけれど、僥倖に恵まれればその首をそっと両手で甘締めしてしまうのはおそらく必至なように思われる。それにしても、今さらパンクに早く行けと尻を蹴り上げられるとは思わなかった。家に帰るまでがパンク。
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2017年11月30日

ジャスティス・リーグ/金ならあるが答えがない

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彼方からやってくる侵略の脅威に晒されるのは限りなくチェルノブイリなロシアの寒村に住む4人家族に限定され、あとはステッペンウルフ撃退の舞台裏全部見せます!という楽屋オチだけで120分を押し切る開き直りというか素知らぬ顔はいっそ清々しくもあったのである。自分たちのあれこれに手一杯で世界のことまで手が回らないという本末転倒をオフビートにまとめるのはジョス・ウェドンの得意とするところで、やっていることは基本的にアヴェンジャーズと変わりがないにもかかわらず、あらかじめ仕上がったキャラクターを転がしておけばそれなりに恰好がついたMCUに比べると、中年の危機を抱えた金持ちとデビューまもない女神、海のものとも山のものともつかぬ(海のものではある)神様を含むルーキー3人、そして残すのが病み上がりの宇宙人という手駒とあっては裏打ちのリズムに即興で息が合うはずもないわけで、オフビートのつもりのオンビートでシャンシャンと立ち尽くしながら展開する棒立ちの会話劇にはいつしかカウリスマキのペーソスなど滲んだ気もして、これが新たなポスト・ポストヒーロー宣言であるならそういうつもりでつき合わねばなるまいなどと思ったりもしたのである。したがって、スーパーマンを囲んでの立ち話に夢中になるあまり、そもそもキミらそのために雁首つき合わせてるんじゃなかったっけ?という世界の命運を握るはずのボックスをほったらかしにしたあげく、あっという間もなく奪われて口あんぐりの脱力コントは賞賛されこそすれ瑕疵になるはずもないわけで、何より宇宙人は非常に寝起きが悪いという定説を『プロメテウス』に倣った点でも好感が持てるし、スーパーマンを朴念仁の怪物としてホラーマナー(彼が叫んだように『ペットセメタリー』である)で昇華させる手口には大きな緑色の暴走がちらついたりはするものの、ついこの間まで神と崇めた御方のいじり方としてはおおむね斬新といってよいのではなかろうか。そもそもの成り立ちとして、先行者の背中ごしに見える風景を丸パクリしたはずがなぜか寸足らずのメランコリーにまみれてしまうシミュラクラの哀しみは永遠にセブンイレブンに焦がれ続けるファミリーマートのようでもあり、そうやって敗れ続けることで得る身の丈もあるのではなかろうかとワタシに宿った出所不明の優しさが、ジェシー・アイゼンバーグのいつか見た得意気な笑顔に対して、もうそういうのいいからと理由もなくささくれた気持ちをなだめたりもしたのである。しかしあの3つの箱を今度はどこにどんな風に封印したのかくらいは、いくらマクガフィンとは言え教えておいてくれてもよかったのではないかとも思うにしろ、もしこれが、アヴェンジャーズのアレと間違えてジャスティスな一同が大騒ぎする未来への布石なのであればそれはそれで愉しみにおとなしく待つことにしてみたい。ロシアの少女がまるで狂気の山脈に咲き乱れるようにドラッギーな花々に向かってまあきれい!とばかり笑みをこぼすシーンがまったく意味不明で忘れがたく、もしかしたらこんなところに突破口があるのかもしれないと思ったのである。もうクトゥルフと闘え。
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2017年11月29日

KUBO/クボ 二本の弦の秘密〜ライカじょんがら節

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開始早々、大波に呑まれた母親が海底の石に顔面を激突させるカットとそのグォンという鈍く寄る辺のない響きに、かつてコララインがバスルームでいきなり虫を素手で握りつぶした名刺代わりなど想い出しては、ライカの新作を観る昂揚へと一気に包まれていく。『パラノーマン ブライス・ホローの謎』ではノーマンのイノセンスをことさら担保するためか、彼を安全地帯に置きすぎたミスにワタシは致命的な引っかかりをおぼえてしまい、ライカのいちばん大切な通奏低音であるメメント・モリがぞんざいに扱われた気がして今ひとつのれなかったのだけれども、今作の主人公クボ(アート・パーキンソン)はあらかじめ体と家族の一部を奪われた者として登場し、その欠落した物語の結末を彼自身の手で綴るべくそれに必要な責任と勇気を旅の中で育てていくことになる。そのラスト、かつてクボの大切なものを奪った者が、今や孤独で無力な者となって彼の目の前に立った時に果たして彼がどうしたか、すべての物語には結末がありワタシたちの人生という物語においては死をその結末としていることは言うまでもなく、ならば復讐による死によって物語を閉じることも結末の一つであったに違いないのだけれど、クボは他者を生かすことで自分と世界を生かす物語を選んでみせて、これは物語のはじめにカメヨ(ブレンダ・ヴァッカロ)がクボの昏く青い生硬に向けた「(物語に)笑いは必要よ、残酷なのもほどほどに」という言葉への返答に見て取れると同時に、それこそはライカのコードとトーンであったようにも思えるのだ。そしてこのシーンにおいて、クボの力に敗れ自身の物語(=記憶)を失ってしまった男に対し、彼の暴虐によって自分たちの村を破壊された人々がまるで着るものや食べものを差し入れるかのように物語を考えては分け与えるのである。舞台となる刀と着物の時代の日本は単なるエキゾチック欲しさに選ばれたわけではなく、物語の余白や行間こそに秘めた想いがあることを伝える精神に満ちた時代としてふさわしいがゆえであることは、ライカの視点を通した日本が細部に至るまで物語の血肉となっていたことにもうかがえて、となれば前述した村人の行動もライカによる日本人観の反映ということになるのだろうけれど、毎日気の滅入るようなニュースや出来事が引きも切らないこの国に暮らす者としては何だか恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになったりもしたのだ。ストップモーションによるライヴアクションという字面だけ見ると矛盾したようにも思える手法は、一瞬の生の連続によって生命は脈打つのだと人形に命を吹き込む行為それ自体がメメント・モリの表裏となるわけで、ライカの作品に色濃い死の気配はその必然ということになるのだろうし、そうやって仮初めの生命を宿した人形たちがアルゴリズムではなく重力の支配のもとで生を全うしようとする姿が一途であったからこそ、いつしかその営みに抜き差しならない感情が繋がってしまうのだろう。それはモンキー(シャーリーズ・セロン)の脇腹を抉る鎖鎌の冷たい激痛を我がものとし、椀の汁に沈んだ具を探る愉悦でもあったのと同時に、もはや一切の動きを禁じられた人形という人間が演じる死ではない本当の死を目撃する瞬間でもあったのである。一つ悔いが残るとすればエンディングの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」の歌詞訳が字幕にならなかったことで、まるで書き下ろしかあるいはこの歌詞にインスパイアされて映画が出来上がった気すらすることもあって、この曲をよく知る人もそうでない人もみんなが共有できればいいのになと少しだけ残念に思ったりもした。
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2017年11月24日

ネルーダ 大いなる愛の逃亡者/おれの船に乗りたいか

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私は14歳のころには共産党の闘士で、11歳の頃からあなたたちブルジョワの清掃婦をしてきたわ。教えてちょうだい。共産主義の社会になったら、みんながあなたのようになれるの?それとも私のままなの?と、酒場で挑むように絡みつく女性に、ネルーダ(ルイス・ニェッコ)は「みんな私のようになれるさ」と、真顔でうそぶいてみせるのである。果たしてそれは嘘か真か、彼を執拗に追い続ける警官ペルショノー(ガエル・ガルシア・ベルナル)の道行きは、次第にその答えを追い求めるそれへと知らず変質していくこととなり、最期にたどり着いた場所でペルショノーが待ちわびたものはいったい何であったか、それを受け取ることでペルショノーはネルーダの一部、言葉のひとひらとなっていくわけで、チリの失われた愛人としてのネルーダを神話の怪物と称える手続きは伝記というよりは伝奇というにふさわしく、今作と同じ年に撮られた『ジャッキー』がやはりオールアメリカの寡婦としてジャクリーン・ケネディを神話に葬る儀式であったことなどすぐさま思い出してみれば、パブロ・ララインが求めたのは彼や彼女を識るというよりは精製された生の瞬間に感応することであったことが否が応にもうかがえるのである。したがって、既に死んだ人間に生を与えるという、映画だからこそ可能な魔術とそれが許される不遜や傲慢がここには溢れ出していて、『ジャッキー』におけるジャクリーン・ケネディとジャッキーとしての二重の死がもたらす死の通奏低音に対し、今作ではチリという国とネルーダの生に対する正当な貪欲とその理由が革命の記憶として憧憬されることとなり、劇中で一瞬だけ登場する若きピノチェトの終焉が描かれた『NO』など思い出してみれば、レネ・サアベドラは転生したペルショノーではなかったのかなどという、益体もない妄想すら許される気がするのである。スマートながら生まれと育ちの良くない役柄を演じる時のガエル・ガルシア・ベルナルはそのメランコリーが実によく沁みて、身長すらも武器に翳してみせている。ほとんど幽鬼のようであったジャッキーと、カリギュラのごときブルジョアの怪物ネルーダというキャラクターの切り出しとそれを悠然と維持するマジックリアリズム的な幻視はほとんどパブロ・ララインの独壇場といってもよく、特に今作における黒沢清もかくやというスクリーンプロセスの多用による脱構築的なノワールの手さばきとその夢うつつのままなだれこむ雪山の追跡におけるフレアまみれの幻想は、この映画全体がネルーダの詠う「詩」に他ならないことを告げていてその爽快で豪快な前衛には昂奮するばかりで、パブロ・ララインならマイケル・オンダーチェの「ビリー・ザ・キッド全仕事」の映像化が可能なのではないかとあらためて夢想などしてみるのだった。虚を突かれた傑作。
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2017年11月21日

ローガン・ラッキー/欲張りは泥棒のはじまり

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血と汗と涙でラストベルトがこれ以上錆びてしまうのは勘弁な、とばかりキング・オブ・デオドラントとして小粋に名乗りを上げたソダーバーグの面目躍如というか、遥か彼方の前作『サイド・エフェクト』でもアメリカという共同幻想へのらしからぬコミットを深めてみせたこともあったにしろ、その自嘲のステップから共感のコーラスへと振リ切った思い切りはソダーバーグなりの現状に向けたエールあるいは布告だったようにも思うのだ。この世界、とりわけアメリカは詐病とプラシーボでひりだした幸福の幻想に生きるジャンキーの国であることをエレガントな諧謔と皮肉で告げ口してきたソダーバーグのスマートからすれば、もはや仮想敵ですらない敵が日々視界と射程に入り続けるとあっては、そうした方法論自体が既に有効ではないという判断もあるのだろう。したがって、もうピカレスクでしか生きられないなら俺たちみんなピカレスクでいいよな、でもエスタブリッシュにはいつも気をつけてろよという一言を忘れないラストも、口調は親身で優しいけれどあくまで予断は許していないのだ。それにしてもである、説明的でも舌足らずでもないストレスフリーで雄弁なショットと、それをまるで物語の朗読のようなシームレスでつなげていく編集は、以前もソダーバーグを観る愉悦として書いたのだけれど、美しい紙に美しい万年筆で美しい文字が描かれていくのを見る快感としか言いようがなく、その手際をスクリーンで味わう快楽に再びまみえる喜びもひとしおではあるのだけれど、その過剰に的確な奏功が負け犬たちのピカレスクというメランコリーすらも超均質かつ細密にデザインしつくしたことで、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」をオリジナルアレンジで演奏するトーキング・ヘッズとでもいう奇妙な味わいが、まあそれはいつものことであるにしろ、最終的に生活の真実よりは大いなる詐病の誘いへと再びつんのめっていたように思うのである。3本脚の犬はジミー(チャニング・テイタム)のアンダードッグなサブリミナルで、クライド(アダム・ドライバー)の黒い左手はルークの輝く右手へのアンサーで、メリー(ライリー・キーオ)のマニュアル上等は手を動かさなくなった男たちへの中指か。兄妹の誰よりもスマートでタフでありながら、それをくすぶらせて生きるしかないメリーの目つきが彼女のシーンを寄らば斬るような苛立ちで染めあげるたびに惚れ惚れと見とれ、結果彼女がワタシのMVPとなって、丸腰でカメラ担いだザ・ワンマン・フィルム・アーミーのスクリーン帰還に華を添えた。
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2017年11月16日

彼女がその名を知らない鳥たち/おいしく食べるキミが好き

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※展開に触れています。結論から言えば傑作。

ついには陣治(阿部サダヲ)がジェルソミーナと化したのである。さあ種明かしをしますよと言われて見せられた種明かしがそうしたのである。となれば十和子(蒼井優)は当然ザンパノである。しかしイル・マットの不在により、ザンパノを惑わす者としての水島(松坂桃李)と黒崎(竹野内豊)の笑みすらさそう非道っぷりがこの映画を暫定サイコホラーへと引きずり込むわけで、『道』が降りてくるラスト数分まで誰もが誰にも感情移入など一切認めるはずもないまま、ちぎっては投げちぎっては投げ、いったい何を投げるかというとそれは糞であったというクズどもの動物園をサファリバスに乗って巡り続けるうち、いつしか俗は聖へと寝返りをうって、ああそういえば陣治の枕元には今もあの水槽があったなあなどとすべてのピースが啓示のように降り注いでは、宙に舞った陣治をキャッチした天使たちが明るい方へ明るい方へと飛んでいく光景すら見えた気もしたのだ。それもこれも陣治のジャンプに至る助走の、その背中を蹴り足を掛け首を絞め唾を吐きかける観衆の下衆が神々しいまでの歓喜に満ちていたからで、それを誰よりも煽動する十和子(蒼井優)でありながら、しかしその助走を止めることなど私にできるはずがないのだという譫妄と血の香りがする共依存の生み出す、これはもう誰も無傷で帰ることなどできそうもないというサスペンスの予感が煉獄の日々を撫でさすっては震わせ続けることになるのである。今作では白石監督の張りめぐらしたこの撫でさする感覚の厭わしさが主役といってもいいくらいで、それを充填した陣治、十和子、水島、黒崎が互いをまさぐって蠢くさまは俗の極みにおいてエレガントですらあり、ここまで余白や担保なく糞を描ける監督の地肩には惚れ惚れするとしか言いようがなく、十和子の髪を鷲づかみにしてダッシュボードに叩きつけ、トーキックで肋骨を粉砕する黒崎には竹野内豊の愉悦が、水際の遊歩道で十和子を跪かせてチャックを下ろす水島には松坂桃李の恍惚が滲んだようにも思えるし、何より阿部サダヲと蒼井優という、スペックの圧が強すぎてアンサンブルではそのコントロールに甘んじるように見受けられる2人が知らずそのリミッターを外したかのように映る爽快感こそが特筆されるべきで、この2人の生理的ホラー感があってこそ成立する作品などそうそうお目にかかれるはずがないように思うのだ。今作に限ったことではなく、善とか言う仮想敵を必要としないその凡庸に均された悪の世界、善い人のいない、悪い人たちと悪くない人たちが角突き合わせる世界をニヒルも絶望もなく生き生きと描く白石監督の颯爽をワタシはこれからも頼りにしていきたいと確信した。阿部サダヲと蒼井優の名前で高をくくった人にこそ薦める傑作。
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2017年11月14日

ノクターナル・アニマルズ/愛のヴィジランテ

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※未見の方にはノイズとなるかもしれないのでスルー推奨

フリーキーでモンドなダイアン・アーバス的インスタレーションを背後にひとり腰を下ろし、心ここにあらずといった風で放心するスーザン(エイミー・アダムス)の瞳がその2時間後に何を見ていたか、その軌跡をたどる物語はあえてミスリードのカーヴに突っ込んでコース取りに終始してスリリングではあるものの、愛の忠誠を知る者がその責任を果たすべく選んだたったひとつの冴えたやりかたは、それゆえ残酷な賭けとも言える問いかけを伴うことになるわけで、結論から言ってしまえばスーザンは失敗するのである。エドワード(ジェイク・ジレンホール)がスーザンに送った小説「夜の獣たち」をスーザンがどう読み解いたのか、現実で小説を読んでいるスーザン、それを読むスーザンのヴィジョンが投影された小説世界、スーザン史観により回想される過去、による3つの様相が互いをマウントしながらスーザン・モローという女性の実存をえぐり出すように彫塑していくわけで、トム・フォードの開陳するこの罪と罰のあまりの容赦のなさには「シングルマン」にただよった甘美な自罰の香りは一切見当たらなかったように思うのである。スーザンの投影によって小説内の登場人物トニーはエドワードの貌を持ち、妻ローラ(アイラ・フィッシャー)と娘インディア(エリー・バンバー)にはそれぞれスーザン自身とスーザンの娘サマンサ(インディア・メネズ、偶然にしろインディは一致すらする)の面影をしのばせている。その回想においてスーザンが自身の母親アン(ローラ・リニー)を否定すればするほどその呪縛に陥っていく悲劇は、既にエドワードが君は自分で自分を封印してしまっていると指摘した通りであって、「夜の獣たち」という小説内でトニーが獣性を解放し正義と復讐を遂行するその姿こそはスーザンが自身の封印を自らの手で解くことの暗喩だったように思うし、もう失うものは何もないとトニー(=スーザン)の復讐に法の埒外で手を貸し続けるボビー・アンディーズ(マイケル・シャノン)こそはスーザンの従者としてのエドワードだったのではなかろうかと、「妻はいない、子供は遠くにいるが助けにはならない」と絞り出すように答えるその姿にだぶって見えたのだ。しかし、前述したトニー(=スーザン)に託した暗喩を現実のスーザンが我がものとすることでしか彼女の幸福はあり得ないのだとするエドワードの願いが果たしてスーザンに届いたのかどうかと言えば、小説の暴力性に現実が揺らされるほど震えおののいた彼女は、その筆致をかつて自分がエドワードに指摘した彼の「弱さ」の克服と捉えたにちがいなく、エドワードを棄ててその元へ走った夫ハットン(アーミー・ハマー)との空疎な夫婦関係に倦んだ彼女は結婚指輪を外してどぎついルージュをぬぐい、エドワード好みのスーザンを装っては自分の望む男へと変貌した(であろう)彼との逢瀬に向かうのである。しかし小説内でのボビーが癌を患って余命いくばくもない男としてトニー(=スーザン)の前から消えていく運命にあったことを思い出してみれば、それこそはエドワードがスーザンに問いかけた最終テストであったに違いなく、スーザンがエドワードの願いどおりトニーを我がものと読み解いていれば、火曜の夜あの場所にエドワードが現れるはずなどないことに当然思い至るわけで、かつてエドワードがきみの瞳はお母さんと同じ悲しい瞳だと指摘した、もはやこの世界のどこを見つめたらいいのかすらままならないその瞳をラストショットに磔としたトム・フォードの、愛を信じることをしなかった人への静かな憐憫と酷薄な拒絶には身の凍る想いすらしたのである。そうやって愛という信仰に背いた人の地獄巡りを描くエレガントかつソリッドなショットは、次第に突発する暴力すらを宗教画の啓示と語り出し、ハイ・アートとテキサスの出会う場所に赤いソファを沈めては地獄の底と見立てるわけで、しかし実はそれすらも小説を読むスーザンのヴィジョンに他ならないことを想う時(例えばスーザンの自宅に飾られたアートフォトの中で、荒野でライフルを向けられる男の相貌はルー(カール・グルスマン)そのものではなかったか)、このすべては、寄る辺なく相対化され続ける世界の犠牲者たるスーザンへ捧げられたレクイエムだったようにも思うのだ。冒頭の外世界でほんの1秒ほどその影を見せて消えていくエドワードこそは、喪い続ける世界に愛を手向ける人トム・フォードのイドではなかったか。この人は愛こそがすべてと絶望している。
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2017年11月10日

シンクロナイズドモンスター/酔った断った勝った

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『ヤング≒アダルト』ミーツ『パシフィック・リム』と言ってはみたところで曰くいい難い映画なのは間違いないのだけれど、『ヤング≒アダルト』の部分が執拗に誘う痛みのせいで『パシフィック・リム』的な激突、というか喧嘩に思いがけないライヴ感が生じてくるわけで、けっきょく最後に決着をつけるのは“大人になる”という必殺技だったということになるのである。まるでAI化したかのような世界がすべてを先回りしてお膳立てしてくれるおかげで、ワタシたちは大人になったふりをした大人として何となく生きて行けてしまっているわけで、ただそれを端から見た時に、果たしてワタシたちはどんな風なスポイルの怪物として映るんだろうねという自戒と自虐と自爆が、この映画を笑うに笑えないけれど笑うしかないコメディとして綱渡りさせていたように思うのである。自分に都合のいいセーフティネットを見つけてはそこに逃げ込んで責任を逃れる術だけが次第に手慣れていく姿はまるで他人事ではなく、ああして世界の真ん中に晒されることで自分が何者で誰を傷つけているのかをようやく知ることになる残酷ショーは、グロリア(アン・ハサウェイ)の鏡像としてオスカー(ジェイソン・サダイキス)を配置することでその痛みの応酬がグロリアの目を覚ます手助けとなって、最後にグロリアが彼方へと放り投げたアレこそが彼女に巣食う怪物に他ならなかったということになるのだろう。と言った具合に予告篇のノンシャランでファンシーな印象からすると、40超えた大人の通過儀礼とあっては次第に口数が減っていくのもやむ無しといったところなのだけれど、例えば今作のナチョ・ビガロンド監督(スペイン)や『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』のマイネッティ監督(イタリア)、あるいは『マジカル・ガール』のベルムト監督(スペイン)といったように、サブカルチャーネタをメタ構造のツールとしてではなく人生に直結する手がかりとする虚構の借り方はヨーロッパの監督に共通する意識や思想なのだろうかとも思うわけで、サブだろうとポップだろうと人間が考えだしたことならそれはリアルな全体性としてのアートではないのか?という前提は日本はもちろんアメリカ映画にもあまりない距離感で、ギレルモ・デル・トロの真っ赤な幻視とティム・バートンの真っ青な幻視の違いもそんなところにあるのではないかと思ったりもしたのである。してみれば、リュック・ベッソンの恐るべき無邪気と無節操も、本人にとってはそれがあくまでアートの達成であるという点でまったく筋は揺らいでいないようにも思うのだ。今作にしたところで、監督は当初ゴジラとマジンガーZでヴィジョンを組み立てていたらしく、劇中のアレはグロリアとオスカーの子供時代に市販されていたソフビ人形に過ぎないというコンセプトからすればうなずけるとは言え、それを公式の場でおおっぴらにアナウンスしたことで東宝に怒られたエピソードも含め、ワタシたちはいかに自分で自分に枷をはめてしまっているのか考えさせられて、観終えて残ったのはどこか清々しいとしか言いようのない気分だったのである。アン・ハサウェイも何だかそんな顔をしていたではないか。
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2017年11月08日

IT/イット“それ”が見えたら、終わり。の優雅で感傷的な始まり

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当初キャリー・フクナガがメガホンをとると知った時に、もはや日常がホラーでしかない少年少女たちの孤絶と友情の物語がすぐさま頭に思い浮かんだのは、『闇の列車、光の旅』で描かれた痛切に引き裂かれる青春がキャリー・フクナガという名前と分かちがたく記憶されていたからで、その後『ジェーン・エア』にしのばせたゴシック・ホラーの香りなども思い出してみればプロデューサーは素晴らしい選択をしたものだと感嘆したのを思い出す。その後スタジオとの“創造上の相違”によってフクナガ監督は降板してしまったけれど、彼が脚色したシナリオが今作の背骨になっているのは間違いないように思うわけで、ビル(ジェイデン・リーバハー)の青白い傲慢やベヴァリー(ソフィア・リリス)を引き裂く光と影、そして登場する大人たちがすべて彼らや彼女に立ちふさがる存在であることなど、残酷な試練に満ちた通過儀礼の片鱗はあちこに見て取れる。恐怖の質については、あくまでも彼や彼女たち少年少女の抱える恐怖の投影であるために、Jホラー以降の裏打ちよりは80年代ホラーの頭打ちのリズムを反映させたこと(劇中の映画館で上映されているのは『エルム街の悪夢5』)もあって、神経を蝕むというよりは直情的にアタックする仕掛けとなっているのだけれど、開始早々にある人体破損を見せつけて今回のペニーワイズがどこまで何をするかあらかじめ宣言することで、その通奏低音が恐怖を鳴らし続けるようデザインしてみせたのはスマートだったように思う。原作を読んだ人には言うまでもない映像化不可能なあのシーンのオミットについてその是非をあれこれ言うつもりなど全くないにしろ、ベヴァリーが抱く恐怖の源泉となっている自らの女性性に対する怒りや困惑がいささか体よく使われていたこと(フクナガ版の脚本では薬局のくだりや日光浴のシーンにセクシャルなあてこすりはない)、とりわけベン(ジェレミー・レイ・テイラー)がキスすることで昏睡するベヴァリーが正気に戻るシーンはやはりバランスを欠いてしまうように思うのだ。ベヴァリーの部屋に緑色の表紙の「かえるの王様」の本があったことがその伏線になっているのだろうけれど、原作ではその行為によって自身の女性性への拒絶を母性に捉え直すことで仲間を鼓舞し絆を一つにしたベヴァリーの捨て身を、まったく正反対の扱いにした意図がワタシにはよく分からないのである。ジュヴナイルの構造以外を極力刈り込むことで善悪の図式を単純化した意図や、それによって広範な娯楽性を獲得したことは理解するけれど、そのためにあの同志たちがお姫様と騎士という定型になってしまうのだとしたら、あの夏に彼らと出会ったことで一瞬とは言え牢獄から解き放たれたベヴァリーがあまりにも浮かばれないように思ってしまうのだ。正直に言ってしまうと、ワタシはやはり第一稿の時点で「頼むからワーナーはこれをこのまま映画にしてくれ」とキングに絶賛されたフクナガ版のシナリオで観たかったと思う。これこそがベヴァリーだろう。

[STUDIO DRAFT 3-18-2014 Written by Chase Palmer & Cary Fukunaga]
BEVERLY : Guys, stop it. Focus.
Everyone turns to Bev. Their muse. Their light.
SHE TAKES EDDIE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES STAN'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES RICHIE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES MIKE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES BEN'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES Will'S FACE IN HER HANDS
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2017年11月06日

マイティー・ソー バトルロイヤル/風雲!アスガルド城

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MCUフェイズ3の幕開けとなった『シビル・ウォー』で起こした自家中毒が思いのほか重篤だったとマーヴェル的にも診断を下したのだろう、続く『ドクター・ストレンジ』『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』『スパイダーマン:ホームカミング』ではそのリハビリにつとめるかのように“成長”をキーワードに通過儀礼を描くことで、行って帰ってくる物語の風通しによってひたすらユニバース内の洗浄をしていたように映ったのである。そして今作では、あらたに登場した生き別れの姉ヘラ(ケイト・ブランシェット)を黒幕とすることでこのシリーズならではの家庭争議を継承しつつ、あくまで家庭の事情以上の共感や理解を求めもせずに犬も食わない喧嘩の高みの見物にとどめた無責任こそを、その全快宣言としていたのではなかろうか。入り乱れるキャラクターを、内省=サブテキストに頼ることなくセリフと動きによって作用と反作用の関係性を描き分けてなおかつ浮力を失わない立体的な演出は、タイカ・ワイティティ監督の過去作『シェアハウス・ウイズ・ヴァンパイア』で見せた小回りの効いた大騒ぎそのものだし、作品のコンセプトを十全に生かす能力さえあればキャリアの大小など一切不問とするマーヴェル・スタジオの慧眼恐るべしといったところで、そうしたケヴィン・ファイギの思想がトップダウンで浸透しているのがDCとの哀しくも決定的な差異となっているのだろう。今作ではクリス・ヘムズワースのみならずマーク・ラファロまでもが沖から次々とやってくる波を嬉々として乗りこなしてみせて、何しろトム・ヒドルストンの繰り出す丁々発止を基本ラインとする躁状態が最後まで途切れることがないし、白い方との契約が満了にでもなったのか、黒いケイト・ブランシェットが世界を跪かせるべくウキウキと満面の笑みで浅野忠信を串刺しにしてこちらも眼福このうえない。しかし、神話にオフビートのテイストが有効であることを探り当てた最大の功績は1作目におけるカット・デニングスの神様いじりにあったことは言うまでもなく、そんなこともあってムニョムニョ(ムジョルニア)の退場が少しばかり切なかったりもしたのである。そんなこんなで観終えてみれば、意味不明なのはともかく調子に乗った景気づけとしての“バトルロイヤル”はさほど悪くない気もしたわけで、つまりは徹頭徹尾そういう映画だったということに他ならず、そもそもどでかいハンマーをもって雷撃をぶちかましながら笑顔で暴れまくる赤いマントの神様が主人公なのだからこれで正解なのである。というか大正解。
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2017年11月03日

ゲット・アウト/怪奇!悪魔のホワイトサバービア

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※ネタバレはしてないつもりだけれど、念のため未見の方スルー推奨

リベラルを自称しつつ黒人の使用人を雇う恋人の両親、そしてなぜか黒人の主人公に向けられる使用人の敵意、といった導入が『招かれざる客』を下敷きにしているのは言うまでもないにしろ、50年前に撮られた映画の設定がいまだ有効であるという事実こそがこの映画に悪意と諧謔のツイストをもたらすわけで、ダイバーシティ時代のブラックスプロイテーション映画として隅から隅まで敷き詰められた確信が、ああこういう逆襲の仕方もあるんだなあとやたら痛快だったのである。白人が黒人に抱く超肉体への幻想は劇中でヒトラーの名前を出すことにより優生思想へと接続されつつも、お前ら白人はいつまでたってもどうしようもなくてホント笑わせてくれるよな、と都市伝説的な与太話として笑い飛ばしてみせるわけで、「トワイライトゾーン」風に罪と罰を検分してはサッと切り上げるラストも、超肉体とは程遠い黒人ロッド(リルレル・ハウリー)が悪の白人組織壊滅に一役買うという皮肉がまた愉しい。とは言え、黒人が外部的もしくは内部的に閉じ込められた社会の二重性を象徴する「沈んだ場所」というヴィジョンこそがこの映画の芯なのは間違いなく、土壇場のクリス(ダニエル・カルーヤ)がソファから詰め物の綿(これについては言うまでもない)を引きずり出して耳に詰めることで「沈んだ場所」に彼をしばりつける催眠術をかわすあたりのたたみかけには唸るしかなかったのだ。前述の『招かれざる客』や例えばロジャー・コーマンの『侵入者』にしてもあくまでリベラルな白人の送り手によるものだったことを思うと、そのリベラルすらを血祭りにあげて笑い飛ばす真っ当なやり過ぎの平衡感覚はようやくにしてだなあという気もして、『ムーンライト』の対極でこうした映画も喝采を浴びる健康はやはり眩しく感じられてならないのである。あらかじめクズとして登場し、そこからさらに腐っていく時のスピードでグルーヴする新種のホワイト・トラッシュとして、その地位を急速に確立しつつあるケイレブ・ランドリー・ジョーンズが期待に違わぬ登場と退場っぷり。キャスリーン・キーナーのキム・ディール化が烈しい。
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2017年11月01日

ブレードランナー 2049/泣いたふりをして遊んだ

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それがどうあれ、1匹の犬があれほどの神々しさを湛えていた点で何はともあれ継承は果たされたように思うのだ。物語の骨子としては思いのほかピノキオ神話の系譜に連なって、メランコリーの質としては『A.I.』との親和性を感じたりもしたわけで、K(ライアン・ゴズリング)はじめレプリカントたちはその諦念のようなロジックが声なき断末魔の中で幻視した「共感」と「自己犠牲」という人間固有のコードへと誘われるように没入してはみるものの、それら「共感」と「自己犠牲」を手放すことで可能となる合理を礎に進化を図る人間世界との逆転が、レプリカントにとってのディストピアをさらに進行させることとなり、終始物語を支配する静けさは降りしきる雪のように積もり続けるメランコリーがその叫びや嗚咽を無表情に吸い込んでしまうからであるのと同時に、人間たちはみんなどこかへいなくなってしまったという寂寥の徴でもあったのだろう。したがって、この世界でどこにも行くあてのないレプリカント同士の闘いはそれが主人たる人間に対する「共感」と「自己犠牲」の証明となるだけに熾烈を極め、わけてもラヴ(シルヴィア・フークス)はウォレス(ジャレッド・レト)への絶対的な忠誠と、人間の揺らぎを垣間見せるKへの同族嫌悪ともいえる敵愾心によって、ウォレスを脅かす世界を憤怒の形相で切り裂いていくのである。しかし彼女を単なる敵役として捨て置くわけにいかないのはマダム(ロビン・ライト)殺害時に流したその涙に虚を突かれたからで、それは果たせなかったウォレスへの忠誠とはまた別の、レプリカントとして、しかも女性のレプリカントとして胸に宿したある希望がむごたらしく打ち砕かれたことへの怒りが流した涙であったようにも思え、既に息絶えたマダムの髪を鷲づかみにして顔認証させた後でゴミでも捨てるようにその頭部をデスクに叩きつけた激情は、ネクサス8のレジスタンスたちの抱くそれと果たして違いはあるのだろうかと、Kの鏡像としての彼女もまたピノキオに取り憑かれた一人であることを知らされて胸に忘れがたく、2人が雌雄を決するシーンでスクリーンを埋めつくした逃れようのない苦しさは、必ずしも窒息を迫る描写のその凄まじさだけではなかった気もするのだ。彼女もまた夢を見たに違いなく、それこそはままならぬ者がままならぬ夢を見るという人間そのものの営みではなかったのか。彼女こそは孤児院で生き別れたもう一人のKであったというメロドラマすらを一瞬ワタシは夢想した。一方でKはさらにままならず、彼が何らかのスリーパーであったとするならばサッパー(デイヴ・バウティスタ)解任がトリガーであったかのようにKは緩やかに逸脱を開始し、ホログラフィーの恋人ジョイ(アナ・デ・アルマス)との関係を深めるためにエマレーターを購入しつつ、人間の上司ジョシ(ロビン・ライト)の誘いをやんわりと拒絶して、レイチェルとデッカードの関係を憧憬するかのようにジョイを抱きしめてみせるのである。Kはその優秀さゆえデッカードまでたどりついてしまうのだけれど、今作で明かされるレイチェルとデッカードと“タイレル”の関係(これには座席に座ったまま腰がくだけた)からすればKもまたデッカード同様に操られた男ということになり、カーヴを曲がりきれずスリップする男性性というヴィルヌーヴのラインをそこに見ることができる。ジョイの巨大ホログラフィーを見上げるKがすべてはままならぬ夢であったことを悟るシーンの、確かに哀しいけれどそれは君たちが考えているような哀しみではないとでもいいたげな笑わぬ笑みこそはライアン・ゴズリングの真骨頂だろう。ポップアイコンとしてのハリソン・フォードにもあらためて楔を打ち込まれる。今作において書き下ろしとなる外LAの光景、なかでも廃墟ラスヴェガスの創造はシド・ミードの手によっているようだけれど、スピナーから降り立ったKが彷徨う赤茶けた死の街はまさにベクシンスキーの描いた死滅した終末世界そのものであったし、既にヴィルヌーヴと切り離せない巨大建造物へのフェティシズムは実存のパースを曖昧に狂わせ続け、記憶の亡霊のように明滅するプレスリーやショーガールのホログラフィーにオーバールックホテルのボールルームが頭をよぎったりもしたのである。オープニングでクロースアップされる眼のショットに始まり、レプリカントに命を救われたデッカードは運命の女性に再会し、しかしそのレプリカントは降りしきる雨/雪の中で息絶えるというラストに至る2019年版への相似を信用するなら、これからデッカードは娘を連れて逃亡者となるに違いないはずで、もちろんその先の物語を求める気などさらさらないにしろ、ここまで歩みを進めたヴィルヌーヴの勇気ある挑戦こそは、35年前にリドリー・スコットを駆り立てた創造の闘いへのリスペクトであったに違いないと思うのだ。爆撃にえぐられる廃棄場で鈍色の空から降りそそぐ土塊を、スピナーを背に目を開けたまま見つめるKの視点ショットに宿った透徹した認識とそれゆえの完璧な虚無、それこそがこの世界の詩情だと描いたヴィルヌーヴの回答にワタシはうなずきたいと思う。でも、青いポリススピナーが翔ぶところは観たかったな。
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2017年10月27日

女神の見えざる手/アトミック・スローン

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エリザベス・スローン(ジェシカ・チャステイン)の怪物がもう一匹の怪物に喰らいついては躊躇なく喉笛をかっ切るサーチ&デストロイの、備えた暗闇に敵を引きずり込んではベアナックルとトーキックで殴る蹴るをためらわない理性と本能の神経戦はほとんどエスピオナージュとも言えて、そのあまりの寄る辺のなさに思わず「バケモノにはバケモノをぶつけんだよ」という名ゼリフを引き合いに出してしまいたくなる。したがってこの物語は、スローンの怪物の正体を描いて両義的な共感を引くというよりは、怪物の咆哮と蠢きによる畏怖と嫌悪という絶対的な感情を抽出して映画の強度を鍛えることにひたすら力を注いでいて、その怪物にして刺し違えることでしか突破口を見いだせないアメリカの怪物を可視化しつつミス・スローンの神話を書き記していくのである。エリザベスが生来の怪物なのか、深淵を覗いて生まれた怪物なのかその出自を知る由はないにしろ、怪物の牙と爪を維持する代償を払い続ける日々もまた神話の手がかりとして記されていくわけで、なかでも仕事の利害のはたらかないフォード(ジェイク・レイシー)を相手にくり広げる感情の殴り合いでは「わたしをマデリンと呼ぶのは母だけだった」「勝つためにはすべてを偽らなければならない」「だから普通で“まともな”生活など捨てた」と吐き捨てては、それを受け止めようとするフォードを、このまま自身の脈打つ内臓を晒し続けたら二度と怪物に戻れなくとばかり猛烈に拒絶するのである。エリザベス同様に自身を偽る職業でありながら劇中で唯一“まともな”血の通った人間として登場するフォードはその後もあるシーンでエリザベスの正気を下支えする働きをして、出番は限られながらもジェイク・レイシーが繊細に表したその孤独に伸びた背筋もまた忘れがたい。この映画がというか脚本が優れているのは、これをエリザベス・スローンの喪失と再生の物語、要するに行って帰ってくる雛形から蹴り出したところにあって、冒頭で女性の銃規制に対する風向きを変える仕事を名指しでオファーしてきたNRA(劇中では明示されていないけれど、まあそうだろう)の代表ビル・サンフォード(チャック・シャマタ)に対する破壊的な哄笑、それなりに私は自分の怪物を自覚してはいたけれど、そこまで破廉恥な案件を引き受けると思うほど私は下衆な怪物だと思われていたのか、と呆れるや何やらでおかしくてたまらないというバカ笑いが映画の最期でどこにたどり着いたのか、刑期を終え刑務所から出てきた彼女の、私はこの世界でたった一人自分だけを信用し自分だけを信頼することで闘いを勝ってきたし、それ以外に方法があったとは今も思っていないけれどなるほど世界に一人とはこういうことなのか、と諦めでも哀しみでも後悔でもない透明な孤独に吹かれる姿に、キリマンジャロの山頂6000メートル近くで凍りついていた豹の屍のことなど想い出したのだった。ほとんど彼女のペルソナにも思えるマデリン・エリザベス・スローンに向かうジェシカ・チャステインの憑依は、いったい役者として幸福なのか危険なのかそのラインからして既にスリリングとしか言いようがなく、やはり怪物を見たという以外にいまだ言葉が見当たらないままである。
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2017年10月25日

バリー・シール/オーバーワールドUSA

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トム・クルーズにもみあげが!そしてムーニングまで!とかいったレアなファンキーが跳ねまくってはいるけれど、ウェットワークによるマッチポンプを政治のダイナミズムとする集票と集金のシステムが国家レベルで構築されていくカーター〜レーガン時代の真っ只中で、バリー・シール(トム・クルーズ)がああやって人知れず散っていくのは時代の徒花として必然だったということになるのだろうし、パブロ・エスコバルを追いつめる実録映画『潜入者』で既に彼の末路を知っていた身としては、バリーをリクルートしたシェイファー(ドーナル・グリーソン)が差し出した最新鋭の小型機にクリスマスプレゼントをもらった子供のような目を輝かせた時点で、既にそのメランコリーは発動していたように思うのである。実際のバリー・シールはいろいろと毀誉褒貶の烈しい人だったようだけれど、ここではトム・クルーズが演じることによって、一度青春を終えた男が悪魔と契約することで再びファンダンゴの時間を手に入れるその罪と罰を狂躁の時代に重ねて見せつつも、まだまだ徒手空拳のピカレスクが可能だったRAWな世界をノスタルジックなファンタジーとして託したのが、トム・クルーズのもみあげだったのではなかろうか。妻への愛、子供への愛、アメリカへの愛、そして働くことへの愛、そうやって愛に溢れた人たちを、愛のない人たちが愛ゆえにと利用しては使い捨ててきたのがアメリカという国家であり、一方で愛こそがすべてと願い、愛なんて…とニヒルになれないでいるアメリカの、その馬鹿が付かない正直を一周した先の笑顔で演じるトム・クルーズには、顔で笑って心は真顔という倦怠がいい塩梅に滲んできたように思われて、いわゆる性格俳優的にではなくあくまで走りながら枯れていく前人未踏に今作でさらに踏み込んだように思うのである。そしてAeroplane StuntのクレジットにTom Cruiseの名前を見つけては、いったい製作費のうちトム・クルーズの保険にかかる費用はどれくらいなのだろう、邦画なら軽く1本撮れてしまうのだろうなと、狂気の沙汰と化したであろう現場にあふれるひきつりまくった笑顔の数々を想像してみるのだった。してみると、おそらく今作はさらに阿鼻叫喚の撮影となるであろう『トップガン2』で正気を失うための肩慣らしであったに違いない。今度はジェット機だ。
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2017年10月23日

アトミック・ブロンド/そのとき、私は…

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『裏切りのサーカス』ミーツ『ジョン・ウィック』とか、それってどえらいカッコイんじゃね?と広げた大風呂敷の気概は買うけれど、さすがに無い袖を振りすぎた感があるのは否めないわけで、もしエスピオナージュを本線とするならば、神経戦の圧力が最高に高まった瞬間、弁が吹っ飛ぶように炸裂するアクションこそがカタルシスを呼ぶのであって、それを最高の品質でやってのけた希有な例がグリーングラスのボーンなのは言うまでもなく、007がマクガフィン探しに徹しているのもあくまでアクションで大見得を切りたいからに他ならない。そもそもがダブルエージェントでも手に余るところをそれより先を欲しがるやんちゃっぷりには、はなから苦笑いで許してもらおうという魂胆が透けて見えていて、それはオープニングのニューオーダーから始まる脳天気な80sサウンドの乱れ打ち(ニューオーダーが脳天気というわけではないよ)にも明らかで、ア・フロック・オブ・シーガルズやリフレックスが壁崩壊前夜のベルリンにどうはまるのか、a-haが聴こえてこなかったのがいっそ不思議なくらいで、さすがにDAFとは言わないまでもデペッシュ・モードやソフト・セルにかすりもしない尻の軽さこそがこの映画の本線であることは早めに見抜いておいた方がいい。トビー・ジョーンズやジョン・グッドマンに涎を垂らしていると最後までおあずけを喰らうことになるのは間違いない。アクションに関しては、互いに疲労とダメージが蓄積していく消耗戦の描写、特にロレーン・ブロートン(シャーリーズ・セロン)がダニエル・バーンハードと室内を破壊しながら繰り広げる肉弾戦の息詰まる緩急にはさすが一日の長があって、デヴィッド・リーチが第2班監督であれば、せっかくの滋味溢れるアクションを監督が生かし切れてないのがなんとも残念、と斬って捨てたくなるくらいに、偏執的な長回しで生中継化するアクションは突出していたである。原作のグラフィック・ノヴェルを未読なので脚色については解釈しようがないのだけれど、正直言って回想形式が必要だったのかという疑問は残るわけで、おそらくそれはある理由によってジョン・グッドマンをある程度見せておかなければならないという事情もあるにしろ、ロレーンを信頼できない語り手として思わせぶりをコントロールしつつ、過去と現在の振幅をスリリングに増していく才まではこの映画に見当たらなかったように思う。しかし回想シーン最後でみせる黒髪のロレーンはほとんどイーオン・フラックスであったし、『ウォンテッド』『ソルト』といった香り漂う映画だとあらかじめ知ってかかればもう少し優しい気持ちで薄ら笑いをしていたのに、と悔いてはいないが少々愉しみそこねた気分ではある。トビー・ジョーンズ、エディ・マーサンといった名前、そしてベルリンという響きに夢を見すぎた罰にちがいない。しかし、あれだけ無節操に80sビートを塗りたくっておきながら肝心のこれが聴こえてこないあたり、やはりあてがいぶちのフェティシズムだなあと負け惜しみをやめることはないのであった。

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2017年10月22日

ブラッド・スローン/ジェイコブの剃刀

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ジェイコブ(ニコライ・コスター=ワルドー)が犯した唯一のミスといえば、運転中に後部座席を振り返ったそのほんの一瞬に過ぎなかったのである。しかしそれ以降、ジェイコブは刑務所でのサヴァイヴァルという負けたら終わりのトーナメントにおいて、生きのびるというその一点のため最適解とあれば殺人にも手を染め、地方予選からの連戦連勝の先にのみ甲子園の優勝があるように、状況の精確な判断とその実行能力において彼は勝ち続けるわけで、そのすべてが生きて家族の元に帰るのだという苛烈な動機から始まっていることを考えてみれば、そこにはどこかしら『ブレイキング・バッド』に通じるダーク・ビルドゥングスロマン的な側面も見てとれるのだけれど、ジェイコブがウォルター・ホワイトのごとく怪物化していないことは冒頭で獄中から息子に宛てた手紙に見てとれるし、何よりラストに用意された血のツイストは刑務所に収監されたその日からジェイコブの中身がまったく変わらずにあることを告げていて、すべてはただ家族のためにという彼の人生を賭けた想いを吸い込むサンタフェの高く遠い青空には、厳罰主義国家アメリカの虚無すらを見た気がしたのである。それは、もはや刑務所というコミュニティが社会と切っても切れない状況がもたらす犯罪の生活化とでもいう、法の番人としての警察すらも組み込まれた永久機関の憂鬱といってもいい。一度塀の中に足を踏み入れた人間は決定的に変質してしまい、もはや心は塀の外に居られないことをジェイコブは悟ったからこそ、家族を守るために究極の合理を弾きだしそれを実行したということになるのだろう。したがって、ジェイコブが食物連鎖の頂点に登りつめたとしてもそこにピカレスクの香りが一切しないのは、彼の装う怪物がすなわち家族を守る鎧になるという絶望的な皮肉によっているからに他ならず、怪物の装いとしてあえて全身に施した刺青の、胸元に並べた2つの名がかつての妻と一人息子のそれであったこと、そしてそれを2人が知ることは永遠にないことをワタシに告げては、では、お前ならどうした?と答えを聞く気などないまま問いかけてくるのだ。お前のいる世界が既に監獄だとしたら、理想を否定し現実を肯定する以外に道はないことを俺は証明した、反証を希望する、と脚本および演出を鋼の意志で完成させたリック・ローマン・ウォーが凍てつくような目つきで煽っている。
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2017年10月19日

アナベル 死霊人形の誕生/ユー・アー・ノット・マイ・サンシャイン

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※展開に触れていますので、未見の方スルー推奨

幽霊のファーストショットが白昼の暗闇であったというその宣言で、ああこれは大丈夫だと確信する。一番弱いものが狙われるというその寄る辺のなさと、その一番弱いものが逆転していくことによる奥底の屈託や憎しみの解放、などと言ってみればどこかしらキャリー・ホワイトの仁王立ちなど思い出したりもするわけで、納屋でビー(サマラ・リー)の貌をしたものに呑み込まれて以降のジャニス(タリタ・ベイトマン)は、その内部でかつてジャニスだったものが抵抗の素振りすら見せることのないまま、特にリンダ(ルル・ウィルソン)を弄ぶように追い回しては甘噛みするその半笑いに悪魔のというよりは思春の残酷を見た気もして、『ライト/オフ』をプロデュースしたジェームズ・ワンが有無を言わせずデイヴィッド・F・サンドバーグを今作に投入した理由に深々とうなずけた気もするのである。この監督は不協和音で不穏をつのらせるというよりは、光と影を倍音のように重ねていくことで、その濃淡のハーモニーに思わず気を許したこちらを光と影の落とし子たる闇へと誘い込む手管に長けていて、しかしそれを理詰めで追いつめない分だけ前作『ライト/オフ』などは冗長と捉えた向きもあったようだけれど、そのたおやかと言ってもいい手つきこそがこうしたクラシカルなゴシック・ホラーにあってはど真ん中で奏功したように思うのである。基本的にはチャッキーのような人形によるアタックはしないという前作『アナベル 死霊館の人形』のラインを踏襲していることもあり、光と影を駆使した予感と予兆によって悪魔と人形の二人羽織が真綿で首を絞めるように追いつめるやり口の妙については、これをある種の幽霊屋敷譚として名作『たたり(The haunting)』を参照していることを既に監督が公言しているわけで、たとえばスコープサイズの手前端に人物のクロースアップを置き、その反対側へと配置した背景奥に状況の変化をあるかなきかで映し出すショットなどそのオマージュとして麗しくも怖ろしく機能していたし、隙間から覗く、あるいは見えてしまうショットの多用も視る者の神経を知らずすり減らしていくこととなり、やはりホラーは削られてなんぼだなあと、目の奥の疼きと共に明るくなったスクリーンを見つめながら小さくため息などついてみたのだった。ジャニスを演じたタリタ・ベイトマンは、先だって観た『ヴェンジェンス』でもほとんどケイジを喰ってしまうような主役級の演技をタイトに凝縮した感情の出し入れによって見せていたのだけれど、ここでも遠い目と凝視、孤独と共感、無垢と邪の境界をたったひとり漂っては光と影の裂け目に消えていく役柄を嬉々として演じていたようですらあり、何だか小さなジェニファー・ローレンスを見ている気分にも思えたのである。ワタシはもう彼女の名前を記憶した。そう言えば母エスター(ミランダ・オットー)の部屋がまるで安藤忠雄であったよ。
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2017年10月17日

猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)/A Bathing Ape Shall Kill Ape

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原作に透ける政治的社会的な暗喩はともかくとして、オリジナルシリーズの猿が人間を支配する逆転世界のモンド風味を愛でる面白さに、エイプが完全な主人公となった今作でようやく手が届いたように思うわけで、このシリーズをあえてリブートするための言質で武装したようなドラマの重奏にこれまでいささか辟易としていたこともあって、これくらいの行き先知らずと出たとこ勝負がワタシにはちょうどいい湯加減となった気がするのである。しかし、正式ではないにしろプリクエル的なトリロジーを観終えた後でつくづく思うのは、結局エイプの進化というのは人間の「猿真似」なんだよねということで、オリジナルシリーズでは寓話的な入れ替わりに過ぎなかった社会性の獲得をこうやって真顔で説明されてみると、言語が思考を決定するという言語相対論(『メッセージ』で脚光をあびたサピア・ウォーフの仮説など)の適用がなされた結果(ある理由による人間の退化が言語の喪失から始まることにも明らかだろう)、人間の言葉をマスターしたことでエイプの思考はあくまで人間のトレースに収まってしまうのではないかという考えに至るわけで、単にガワが違うだけで感情も行動もまんま人間だよなあというエイプへの感嘆には、それは結局「猿真似」であってエイプ本来の性向をスポイルしてしまっているのではなかろうかという倒錯した気分もついてまわり、人間のような苦悩に人間のように悶々とするシーザーは既に一人の人間としか言いようがないことを思うと、オリジナルシリーズ『猿の惑星』におけるザイアスが何をああまで怖れたのかが今にして根本から理解できた気もするのである。だからこそリブートシリーズにおけるサブタイトルなしの『猿の惑星』が為すべきは「猿真似」から脱却した、まずは服を着ないエイプとその社会の成立であることに間違いないように思うのだ。リブートシリーズ中もっとも騒がしいケレンの中、その上滑りを抑えつけるようなシーザー=アンディ・サーキスの眼力は、かつて大物俳優としてスリップストリーム映画に先陣を切って名前を連ねたチャールトン・ヘストンの重厚をも思わせて、ウディ・ハレルソンと対峙するシーンの火花散るスリルにはオスカーノミニーもさほど非現実というわけでもなかろうと、思わず猿を忘れたのであった。それにしても、エクソダスの最中あの大群の胃袋を満たす水と食料はどうしていたのだろう。彼らの神が果物を降らせたりしたのだろうか。最早それならそれでかまわないとは思うのだけれど、前作冒頭にわずかばかり狩りのシーンはあったにしろ、北米の低中緯度地帯の植生でどうやって彼らが生きているのか、次作があるならこのシリーズが避けて通る食糧問題の答えを早急に提示していただきたいと思う。ワタシがずっと悶々としているのはその点なのである。
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2017年10月16日

オン・ザ・ミルキー・ロード/長い蛇には巻かれろ

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羊飼いの老人がコスタ(エミール・クストリッツァ)に叫んだ「お前が死んだらいったい誰が彼女のことを覚えているんだ?」という言葉こそが、おそらくはクストリッツァのすべての動機なのだろうと思ったわけで、かつてセイラー・リプリーが自らの蛇革ジャケットを「魂の自由を信じるオレという人間のシンボル」と語ったように、クストリッツァにとって映画は侵されざる自由のシンボルそのものなのだろう。したがって、シンジケートの証文と化した映画の状況こそが彼にとっての内戦なのだろうし、動物もワタシたちもすべては自由に生きるために存在しているのだという確信とその活力への忠誠が死すらをその横糸とつづれ織りにしていて、地雷原すらをファンタジーのフィールドに爆殺された羊が次々と宙に乱舞するシーンの、彼岸に突き抜けたような昂奮をクストリッツァ以外に誰が伝えることができるのかワタシにはちょっと思いつかない。生=若さというマーケットの要請からも自由になったコスタと花嫁(モニカ・ベルッチ)の愛とその逃避行もクストリッツァの握った拳に他ならず、マジック・リアリズムではないマジック・フォー・リアリズムの息づかいの何とヴィヴィッドであり続けたことか。様々な意匠や手癖が想起させはするものの、もはや『アンダーグラウンド』の闇鍋的なカオスと破壊力のオプティミズムはそれを必要な成熟として追いやることで、愛とは生きることというシンプルにして絶対なまなざしを持ち得ているし、何より“現場の力”という点では狩りでとらえた獲物をその場で解体して絶品の料理をふるまうような繊細な野趣に溢れて、自分がどれだけスポイルされデオドラントされていたのかそれを知らされては元に還っていく心地よさは何だかデフラグでも済ませたような気分だったのである。モニカ・ベルッチの、息せき切ったように上気する笑みにひれ伏しながら生きる天国と地獄のなんと甘美なことよ。
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2017年10月14日

エルネスト/正しき事は美しき哉

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医学への道半ばで大学を辞めボリビアでの革命戦線に身を投じたフレディ前村ウルタード(オダギリジョー)の、その主がいなくなった部屋でクラスメートたちは「おれたちはいったい彼の何を知っていたんだろう」とかいったセリフで嘆息するのだけれど、日系二世のボリビア人フレディがなにゆえ危ういほどにはりつめた蒼くて高潔な革命の志を持つに至ったか、最初からそんな風な佇まいのまま現れてそんな風な佇まいのまま死んでいった彼の内側にあった彷徨を映画を観終えた今とてワタシもいまだ知らないままで、そしてそれはプロローグとエピローグで円環するチェ・ゲバラ(フアン・ミゲル・バレロ・アコスタ)のパートに登場する森(永山絢斗)も同様などころか、彼はフレディ前村の存在すら知ることがないのである。プロローグについては、ゲバラを突き動かす原動力となる怒りのエッセンスを日本に寄せて伝えるパートであることは理解するものの、それがフレディ前村という日系人のアイデンティティとその後クロスして行くのかと言えばそれが表立って行われることもなく、それは殊更な「日本寄せ」を品のないこととして避けたというよりは、実際の人生がそうであったからそれに即したに過ぎないという、誠実な筆致に努めたということでもあるのだろう。したがって、移民だった父親の想い出をルイサ(ジゼル・ロミンチャル)に語るシーン以外、フレディ前村は自分の中の日本人を意識することもないあくまで革命の思想と理想に殉じる1人のボリビアの若者として描かれて、タイトルからうかがえる“ふたりのエルネスト”としての瞬間もほんの一瞬の邂逅として描かれるに過ぎないのである。そうやって物欲しげにドラマを捻らないストイックに象徴される、「正しさ」の律し方は、ほとんど聖人君子のようなフレディ前村の醸す「正しさ」の直情と相まって映画全体としては「正しさ」のインフレを起こしてしまっているようにも思うわけで、「正しさ」の作用を描くその反作用としての「正しくないこと」がルイサを妊娠させて責任をとらない同級生程度にしか描かれていないことで、すべてが絵空事のように流れてしまうきらいはどうしても否めない。しかしそんな風に「正しさ」の一本道を脇目も振らず突き進んだからこそ、その最期におけるハシゴの外され方には残酷な革命のニヒルが宿るのだけれど、この映画の目的はそこにたどり着くことではなかったはずだし、人の命を救うために医学の道に進んだ彼が「正しくない」相手を殺すために銃をとることの矛盾や葛藤とどう落とし前をつけたのか、そうした青春の蹉跌を震わせることでワタシたちはフレディ前村という人と共振していくのではなかったか。そんな揺らぎすらないほど選ばれた人であったのであればもう何も言うことはないのだけれど、あの時彼を罵倒し銃口を向けたかつての幼馴染が胸の奥に抱え続けた屈託をおそらく彼は理解できないまま死んでいったのだろうことを思えば、自転車でさっそうと掘っ立て小屋に乗りつけた少年のノブレス・オブリージュこそが彼の罪と罰を決定し続けた皮肉に、ワタシはため息をつくしかなかったのである。オダギリジョーはいっさい客人の気配もなくキューバの風と光を友にして文句なしの好演だっただけに、そうした映画の回答がやや不幸に映る。しかし彼の少年時代を演じた子役に日系の気配すらなかったのはどういうわけか。
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2017年10月11日

アウトレイジ 最終章/レクサスレクサスベンツセルシオセンチュリー

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東銀座松竹セントラル前を猫背の早足で通り過ぎるビートたけしの背後に、セントラル3で上映中の『孫文』の看板をしつらえた柱の陰から白竜がすっと忍び寄る。最後の一足を白竜が詰めてナイフを繰り出した瞬間、さっと振り向いたビートたけしは自分めがけて突き出されたナイフを、その切っ先を左脇腹にくらいながらもそれ以上の刺しこみを防ぐべく、その刃もろともを左手で鷲掴みにして手のひらを犠牲に致命傷を食い止める。一瞬の均衡の後、ビートたけしの振幅の小さい頭突きをくらって仰向けに倒れこんだ白竜は右手をふところに入れてリヴォルヴァーを取り出すも、その銃口が自分に向けられる寸前、ビートたけしはリヴォルヴァーを持った白竜の右腕を左脚で蹴りつける。予期せぬデイフェンスによって白竜の右腕はなすがままに振り払われつつも引き金を引き、外れた弾道はセントラル2で上映中の『エマニエル6カリブの熱い夜』の看板脇で棒立ちとなっていた若い女を目指してその頭をぶち抜き、彼女は足から地面に崩れ落ちる。今さら言うまでもない『その男、凶暴につき』屈指の名シーンは、ロングショットから一気に流血のクローズショットへとかぶりついた後で、息を切らすように切り刻まれたショットが突発する人死にをめくるめく一連によってたらし込んでみせて、これはただ生まれては消えていく暴力を執拗につけまわす、“暴力的”では済まない“暴力”の映画だとそれまでに薄々勘づいていた昂奮が一気に決壊して、映画を観るための新しい感情がワタシの中に生まれたその瞬間のことを今でも忘れるはずがないのである。だからこそ、まるで年老いた我妻のような大友(ビートたけし)の最期を看取るのが死ねなかった清弘ともいえる李(白竜)であったその落とし前の、四半世紀を超えた因縁と宿命に何だか胸がいっぱいになってしまったのである。しかしこの映画は、そうした感傷を冒頭から隠さないことや狂言回しであるはずの大友による自己言及的な破壊を認めている点で、西野(西田敏行)をはじめとする花菱会のパワーゲームに前作ほどの強靭な軋轢が発生しなくなってしまっているのは正直なところで、西野よりは中田(塩見三省)のさすらうような風情が奏功しているのも映画が染める退廃と倦怠の色に彼が透かされていたことと無縁ではないだろう。それにしても、カーチェイスがあるわけでもないのにこれだけ車の残像が頭から離れない映画も珍しく、会話は座ったまま、ガンファイトは突っ立ったままであるにも関わらず絶えず奥底でうごめく感情が途切れないのは、ゆっくりと暗い海底を泳いでいくホオジロザメのように暴力を内に蓄えてスクリーンを横切り続ける黒い車たちのおかげなのだろう。大友と市川(大森南朋)が西野たちと対峙する白昼の屋上駐車場はその真骨頂とも言えて、黒い感情の塊が陽光のもとに晒される軽い禁忌の感覚はほとんど官能的ですらあった。タイトルショットのベンツといい、野村(大杉漣)が中田を言いくるめるべく弁を弄するソファーのシーンにおける奇妙で催眠的なカメラのパンといい、手前から奥へと過去を遡るかのように展開するワンショットといい、ひそやかで伏し目がちな技巧が隅々に張りめぐらされた映画ではあるのだけれど、突堤で釣りをしていた大友が市川に「もう帰ろうや」と声をかけて立ち上がるシーン、市川にまかせることなく自らもタモ網とクーラーボックスを手にして大友は歩き始めるわけで、そうやって人物をつづる一筆のさりげなさこそが、暴力ですらを感情のひとひらと戦がせる北野映画のエッセンスであることをあらためて知らされたように思うのである。ワゴン車内での銃撃戦において、鬼神の表情で銃弾を叩き込んだ後で「若い衆撃っちまった」と絞り出すような声で途方に暮れる大友の、暴力に対する愛と哀しみの共依存こそが北野映画を“暴力的な映画”とは一線を画した“暴力の映画”たらしめていることにあらためて気づいてみれば、国内ではいっこうにその跡目を継ぐ者の気配のない現状において、このトリロジーの終焉には途方に暮れざるをえないのだった。やはり愉しい時間はいつか終わって、5時の鐘が鳴ったら家に帰らねばならないのだろうか。などとぼやいては、このシリーズを観ると必ず見たくなる『3-4x10月』を今日もこの後で再生するはずである。
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2017年10月07日

ヴェンジェンス/となりのケイジ

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ジョイス・キャロル・オーツの原作は「RAPE:A LOVE STORY」となっていて映画のタイトルでは "RAPE" が "VENGEANCE" に差し替えられている。原作が未読なので推測に過ぎないにしろ、あるレイプ事件の被害者と加害者、そこに関わる警察、法廷へと広がっていくアフターマスを狂気の共食いと正気のサヴァイヴァルとして描いているのだろうと、キーツの名前から思い描いてみれば、"VENGEANCE(復讐)" と改題した時点で良くも悪くもこうした一本道の話になることは避けられなかったように思うのである。しかし、アクション映画としての自警主義的カタルシスに頼らなかったがゆえの不発は、推測される原作のエッセンスに誠実であろうとした証でもあるのだろうという気がしないでもなく、それはあくまで主役はベシー(タリタ・ベイトマン)であってジョン・ドロモア(ニコラス・ケイジ)はそのバックアップに過ぎないという筋を維持し続けたことに伺えて、ニコラス・ケイジもそれを理解したかのように見慣れた顔芸も眉芸も封印して終始ストイックを崩さないのである。それでも審判で被告側のカートパトリック弁護士(ドン・ジョンソン)に圧倒された後で、誰もいなくなった法廷に一人残ったニコラス・ケイジにヴィジランテのパイロットランプが点灯するシーンでは、目をゆっくりと半分から1/3ほどにまですがめて感情を殺し始めるというこれまでのテンプレートにない新たなパターンの顔芸を披露するわけで、ワタシとしてはこれでほとんどチケット代の元は取れた気もしたし、何より自分の気持ちが折れてしまったらお母さんを支えられなくなってしまうと、歯を食いしばり涙を隠して笑ってみせるベシーを演じたタリタ・ベイトマンの壊れそうな健気が出色だったこともあり、彼女の物語としてはとても善い風を吹かせることができたように思うのだ。それだけにドロモアによる裏仕事が、例えば右利きの人間が左手で銃を持って自殺はしないのではなかろうか、など単なる手続きのようにおざなりであったのはもったいないし、湾岸戦争の英雄および帰還兵であるドロモアがなぜここまでこの母娘に感応したのか、もう一筆があっても良かっただろう気もしてしまう。ベシーの祖母アグネスを演じたデボラ・カーラ・アンガーに漂う埒外の既視感が気になって仕方がなかったのだけれど、『クラッシュ』でジェームズ・スペイダーの妻を演じていた女優だと知り、さもありなんと納得したのであった。ドン・ジョンソンがマルボロマンと化すワンシーンは愉しいボーナストラック。いつものケイジ・ムーヴィーのつもりでのぞむと肩透かしを食うけれど、ケイジ版あしながおじさんとしての一件落着には悪食を優しくたしなめられた気分であって、素直に頭を下げるに全くやぶさかではないのであった。
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2017年10月05日

ドリーム/KO コンピューター

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返り血で涙を洗い流すようなところの一切ない、清冽で曇りのない感情で描かれた映画だった。それは正義は我にありと相手を叩きのめすというよりも、私が願いたいのはフェアであって欲しいというただそれだけのことで、そうでありさえすればあとは煮るなり焼くなり好きにしていただいて結構、世界を圧倒する自信は準備してあるから、というファイティングポーズに込められた荒ぶる合理の美しさである。そしてその強さが何に裏打ちされているかと言えば、冒頭で描かれるキャサリン(タラジ・P・ヘンソン)のエピソードが告げるように、いま自分が立っているのは数えきれないほどの人達が礎となってくれたその歴史を綴る最新の1ページであって、自分にはそれを新たに書き記していく義務と責任があるのだという、社会的かつ政治的な存在であることを引き受ける宿命をまとったその鎧ということになるのだろう。それはアメリカン・ドリームという個人の輝かしい達成を祝福するオプティミズムとは軌を一にすることのない闘いであり、この映画のガッツは、アル・ハリソン(ケヴィン・コスナー)、ポール・スタフォード(ジム・パーソンズ)、ヴィヴィアン・ミッチェル(キルステン・ダンスト)といった白人たちそれぞれに様々なグラデーションを与えつつ、アル・ハリソンですら無自覚なその断絶を描くことで、終わることのない問題として今に至る身の覚えを促してくる居心地の悪さを拭わなかった点にあるように思うのだ。「けっしてあなたたちに偏見があるわけではないの」というミッチェルへの「わかってるわ、そう思いたいってことはね」というドロシー・ヴォーン(オクタヴィア・スペンサー)の返答は、ミッチェル的な一群がこの地平から自由になるのは不可能なことを諦めるというよりは容赦なく正確に認識したからこその言葉であって、だからこそ、同情や理解よりはただただフェアであることを望むのだというこの映画の叫びへと繋がっていくのではなかろうか。そしてそれは、キャサリンと初めて出会った場でのジム・ジョンソン(マハーシャラ・アリ)や、メアリー・ジャクソン(ジャネール・モネイ)の夫レヴィ(オルディス・ホッジ)から無意識のうちに滲み出るマチズモによって示される、後ろからも撃たれてきた彼女たちの全方位的な困難から導かれた思想であることも忘れてはならないだろう。彼女たちと関わる白人の中でなぜジョン・グレン(グレン・パウェル)だけが断絶を越えたのか、それは彼が兵士として自分だけを頼りに命をかけて闘うことを知っているからであって、キャサリンとの邂逅はほぼ戦友としての感応に導かれたのだろうと考えている。物議をかもした邦題だけれども、映画を観終えてみれば“私たちのアポロ計画”というサブタイトルはやはり論外だし“ドリーム”でさえも手ぬるい絵空事のように感じてしまうわけで、ワタシの著しい気分としてはスライが歌った“スタンド!”のタフネスとファンキーがふさわしいように思うのだ。そもそも劇中で彼女たち3人は一言も“ドリーム”と口にしていないし、手にしていない現実を夢と考える気持ちなどさらさらないのは見ての通りだったのだから。
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2017年10月03日

僕のワンダフルライフ/きょうも犬だから

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こちらも今年公開された犬映画の傑作『トッド・ソロンズの子犬物語』とはあらゆる意味で天使と悪魔ほどの対極にある作品で、早稲田松竹あたりで2本立て上映などしてもらうと軽い阿鼻叫喚が予想されて微笑ましいのだけれど、そんな両者であるにも関わらず、犬の最終目的は飼い主の幸せを願いその役に立つことであるという点で一致を見ていたのが、とは言えトッド・ソロンズの考えついた役立ち方をここで書けるはずなどないにしろ、ワタシたちが犬に求めていることを犬もまた求めているのだという幸福な妄想と妄執を伺わせて、犬か猫かと問われれば犬かな程度で眺める人間には、聖性すら宿すその無償の関係に黙ってひれ伏すしかなかったのである。したがって、この世に善くない犬など生まれてくることはなく、犬がどこかしら十全でないとしたらそれは人間に問題が在るのだという気持ちにすら洗われていくわけで、かつて少年のワタシが犬屋敷と化した裏の家に回覧板を持っていくたび、門扉を開けた瞬間聞こえてくる肉球が地面を蹴る音と競争するかのように回覧板を玄関口に放って駆け出しては時折ふくらはぎを噛まれたりしていたのも、ワタシが彼らを信じる気持ちが足りていなかったことの罪と罰であったことを今更ながら思い知らされたのである。そしてまた、近所の県議会議員の少しだけ精神のゆるやかな息子がセントバーナードを檻から出してしまい、公園で遊ぶワタシたちが阿鼻叫喚で逃げまどう中、つかまってマウントをとられて泣き叫ぶワタシが顔といい髪の毛といいベロンベロンのベチョベチョに舐め回されたその充血した赤い目の記憶が「クージョ」に凄まじいリアリティをもたらしてくれたことについても感謝しなければならないだろう。後にも先にも動物に喰われる!と思った瞬間などあれきりであって、それはもう『レヴェナント』ですらワタシはあの熊にセントバーナードを見たのだ。そうやって人間は犬によって豊かになっていくのだろう。とはいえ、やはりワタシはその搾取に思いを馳せたトッド・ソロンズと文字通り我が身を捧げたダックスフントの方に、善い犬と善くないワタシたちのどこへも行けない共依存の哀しみを見てしまうわけで、こちらで泣いたならあちらでも泣くべきなのではなかろうかと、それだけは声を大にして言っておきたいのである。犬には犬のための犬の愛が犬にある、と矢野顕子も歌っているではないか。
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2017年10月01日

プラネタリウム/私だけがいない夢

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昼でも星を視たいならこの陽の光りを消してやればいい、と何やらワタシたちが映画を観る理由をたった一言で射抜くような感覚と感情をせきたてる洗練と野蛮の日々へとローラ(ナタリー・ポートマン)の回想は沈み込んでいく。しかしこれがケイト(リリー=ローズ・デップ)とローラが執りおこなう降霊術の真贋を問い質すことに執着しているわけではないのは、最初のショーにおいてローラが対象者に放った「お子さんの名は?」という質問において基本的なトリックの存在を明かしておきながら、直後にコルベン(エマニュエル・サランジェ)の邸宅で行われた3人だけの降霊術における予期せぬ暴走を続けて描くことで境界線を曖昧に溶かしてしまっている点にうかがえて、それよりはデラシネたちが異邦の地で交錯した一瞬を“戦前”という人間が人間らしく夢を見ることを許された時代に託し琥珀に閉じ込める手続きにこそ、心を砕いていたように思えるのである。だからこそ、ケイトもコルベンもいなくなってしまったパリで、忍び寄る昏い全体の影に光が遮られる時代に視る星へ祈りを託すラストの、いまだ真の悲痛を知らぬ悲痛に微笑んでみせるローラを誘う終焉の甘い香りがこの映画のゴールとなるのだろうし、そういうペシミズムですらを嗜みとするために、芯を食うのではなくかすめるようなスリルをアンサンブルで弄ぶピーキーはアメリカ映画がなかなか目指すことのない感覚だろう。監督がそのことに極めて自覚的だったからこそ、それを手に入れるために、あるいはいっそう強く念押しするためのガイドとしてリリー=ローズ・デップを投入したのは明らかだし、それくらい彼女がすり抜けていく時の猫背や真顔で激突するスピードの目くらましがこの映画のトーンを決定してしまっているわけで、それをポイントの甘さや捉えどころの無さとするかどうかで評価が一変してしまうのもやむを得ないところではあるにしろ、ナタリー・ポートマンの徹底した計算とリリー=ローズ・デップの湧き立つ計算外のマッチメイクで、ワタシは十分に新しい時間を過ごせたように思うのである。そしてケイトが呼び出したそれはコルベンの倒錯した予知夢であったのか、その或る昂奮を彼に視るケイトの、すべての哀しみと諦めが結晶したまなざしに宿る異形の慈愛を見過ごすことのなきよう。
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2017年09月29日

アフターマス/地獄の沙汰も俺次第

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本来であればその人生で互いを知る由もないローマン・メルニック(アーノルド・シュワルツェネッガー)とジェイク・ボナノス(スクート・マクネイリー)が出くわした瞬間に起きる悲劇は、まさにAX112便とDH 616便に起きた悲劇のように偶然と必然が精緻に組み合わさった避けがたい出会い頭であったわけで、時折インサートされる青空を横切っていく航空機と飛行機雲のショットの連なりが2人の行く末を暗示しているのは言うまでもない。ただワタシはこの映画の基になった航空機事故とそれがもたらした結末、それがタイトル(aftermath=災害の余波)なのだけれど、については知識を持ち合わせていなかったためいわゆる喪失と再生的な喪の仕事を予想していたこともあり、フィクションであれば1+1=2としか言いようのない重ねられた悲劇の愚直さに小さくうめき声を漏らした気もしたのである。そうやって沈み込む重たさが事実ゆえの質量であったのは当然のこととして、そこへ行き着くためのローマンとジェイクがたどる航跡を前述したような構造に重ねて見るのであれば、その併走する語り口はよりフェアであるべきだったのではなかろうかとも思ってしまうわけで、どうしても主役としてのシュワルツェネッガーの据え方に正義の遂行という色を重ねてしまうことを避けられていないように映ってしまうのだ。遺族の中でなぜローマンだけが和解を拒んだのか、劇中での航空会社側弁護団とのやりとりはローマンを善とするためのバイアスが少々目立ちすぎた気もするし、その結果として導かれる「俺はただ一言謝って欲しかっただけなんだ」という言葉が喪失の苦しみがもたらした狂気に絞り出されたというよりは、純粋な個人vs邪悪なシステムという構図へと矮小化してしまう手立てに鼻白み気味だったのは確かなのである。ローマンのモデルとなったヴィタリー・カロエフが自分に関する脚色に異議を申し立てているのもその辺りを指摘しているのだろうし、新たな生活を送るジェイクの住所をローマンが知るに至るのも、実際にはカロエフが私立探偵を雇ってそれを探らせたことによっているにも関わらず、そうした行動がローマンに妄執の色を付けてしまうのを嫌ったのか、あくまでもテッサ・コルベット(ハンナ・ウェア)というジャーナリストの共感と善意の結果としてそれを知ったように脚色している点にもそうしたバイアスが見て取れるように思うのである。そしてこれが人間の倫理をめぐる物語なのだとしたら、テッサのジャーナリストとしての職業倫理は問答無用に非難されて然るべきだと思ってしまうわけで、そうした脇の甘さまでも呼び込んでしまうスター映画の構造は、シュワルツェネッガー本人がそこを脱却すべく挑んでいるのは明白であるだけに、制作陣がいまだそれに呼応できていないこともあって、王様は裸だと指さされてしまうのがなんとも歯がゆく思えてしまうのだ。プロデューサーに名を連ねるダーレン・アロノフスキーはもっとシュワルツェネッガーを潰しにかかるよう指示しなかったのだろうか。最大の脚色ともいえる苦し紛れのようなラストの、憎しみの連鎖とその贖罪のコンボで逃げ切ったつもりでいるのならもう仕方のない話だけれども。
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2017年09月27日

スイス・アーミー・マン/死にたいやつぁ俺んとこへこい

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いかにもミシェル・ゴンドリー的にポップでカラフルなジャンクアートでコーティングしてはいるものの、愛のニンジンをぶらさげてはメニー(ダニエル・ラドクリフ)の十徳ナイフ化を絶やさぬようにしたり、仮想サラ(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)として女装した自分にメニーをけしかけては果たせなかった夢を叶えたり、最後にいたっては一瞬とはいえメニーに成りすましてその場をしのごうとしたりと、ハンク(ポール・ダノ)のというかポール・ダノが醸す安定のクソ野郎っぷりが、この映画が隠すことをしない狂気を狂気と思わせることを目眩まししていたように思うのである。メニーとハンクの愛の巣を目にしたサラを始めとする市井の人々が見せる、まるでエド・ゲイン宅の裏庭でも覗いてしまったかのような嫌悪感に引き戻されるまで、ワタシたちは2人の脱出行がどこかしら切ない逃避行に映っていたことを思い出しはしないだろうか。だからこそ、夢から醒めて現実世界の正気に耐えうるタフさを手に入れたと言うよりは、正気に絡めとられないまま上手いこと逃げ切ってみせたなあと思わせるラストの置いてけぼりが清々しいわけで、ああやってメニーはどこかの孤島で屈託にとり殺されそうになっている新たなハンクの元へと海上を疾走していくのだろう。ただ、ハンクにとってはカジュアルな牢獄とも言える現実世界になぜそこまで必死に戻ろうとするのか、それでもなお生を願うことの卑屈さが取り除かれているためか本来抱えるはずの絶望までもがカジュアルに映ってしまう点で、こちらもどこで真顔になればいいのかを見失いがちではあったし、サラが元カノという設定でもあればともかく、バスで見かけただけの彼女に、しかも夫や子供すらいることを知ってなお固執する危ういオブセッションが、死体のメニーを相手に誰もいない森の中で成就される「蝿の王」的なグロテスクがたった一発の放屁で着地してしまうのは、そのためのポール・ダノではなかったのかと、もったいないし物足りないと思ってしまうのである。その死体と2人で弾けるジャンクヤードカーニヴァルに、ボン・イヴェールのパロディみたいな光あふれる鼻歌ファルセットをあてがう嫌味が(おそらくそういうつもりはないのだろうけれど)琴線に触れまくっただけにそれはなおさらであった。それとiPhoneのバッテリー節約するならBluetooth はオフにしておいたほうがいい。
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2017年09月25日

奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール/あかり、PRESSやめるってよ

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原作未読。奥田民生になりたいボーイのコーロキ(妻夫木聡)はわりとどうでもよくて、それよりは出会う男すべて狂わせるガールたる天海あかり(水原希子)が男たちをみな躁病的に走らせることで彼らの仕事までもブーストさせるその劇薬というか合法的シャブの狂躁的なトリップに身を委ねさえしていればいいわけで、そもそもが30過ぎてロールモデル頼みのボーイでもなかろうよという情けなさを隠しもしない点で既に青春の通過儀礼という共感すらあてにしておらず、まさかイノセンスの喪失というわけでもあるまいしと、ラストで妻夫木聡が流す涙は『マイ・バック・ページ』のパロディであったのかと思うくらいに他人事だったのだけれど、一貫して被虐の男を描き続ける大根作品にあっては、感傷の苦笑いではなく未練たらしくさめざめと泣いてみせることでこの男の本質が変わったわけではないことを告げていたのだろう。それはクレジットロールでの、ハドソン湾で浮き沈みするPARCO内田裕也のごとく東京湾で波に洗われ続けるコーロキの姿によってその受難はダメ押しされていたように思うのである。そしてそういった、幻想の終わりのようでいて実はその自己憐憫さえいまだ醒めぬ夢の中にとどまり続けるあたり、岡本かの子風に言えば質的なフェミニズムというよりは量的な女性崇拝を隠さない大根作品の筋はここに極まれりという感じであった。これに限らず大根作品を観た時の、連続ドラマを1本のドラマに再編集したかのような極めて効率的なカットとその編集はストレスフリーではあるのだけれど、映画は時間を出し抜いてなんぼだろうというその愉しみからすると少々時間に対して従順と律儀が過ぎるのではないかなあと、いつも終盤に向かうに連れ不感症に取りつかれてしまう理由はそのあたりにあるのではなかろうかと思ったりもした。何かというとベロチュウでベッドシーンを代用するアイディアはフレッシュだけど、誰もが水原希子みたいにキッスで殺してくれるわけじゃないし、洋画観てればなんてことない普通なことなんだけど何だかやたらと神々しかったよ。
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2017年09月22日

三度目の殺人/おまえの罪とおれの罰

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それが正当であれ不当であれ、そもそもその正当性の根拠すらを怪訝にうかがうわけで、人が人を裁くことの矛盾や理不尽、残酷や暴虐が食い散らかしたおびただしい残滓が層をなすどこか底の方から、そのイドの怪物として三隅高司(役所広司)はこの世に浮かび上がってくる。そして自らを「器」として近くに来た誰かにその中を覗き込ませては、そこに映ったその者が自身を自身と知らず裁いては光を見失い転落していくことを待ちかまえているかのようであり、それは復讐とかいうよりはこの世界の原初のバランスを回復する作業でもあるかのように、三隅は重盛(福山雅治)を秤の重しと抱きかかえていく。と書いてみれば何となく胸がざわざわしてくるのは、これがかつて役所広司が重盛的な逸脱を演じた『CURE』の反転にしか見えなくなってくるからで、接見室で三隅に喰われ始めて以降、あちこちに見え隠れする十字の意匠は次第に三隅から重盛に手を伸ばし始め、ついにはあまりにもあからさまなラストにおいて重盛が永遠に背負うことになる重荷を突きつけてはほくそ笑んでみせるのである。一見したところ、法のシステムが抱える矛盾によって手段が目的化していく法の現場を舞台立てとしつつ、しかしそれは人間が人間を裁くという本来相討ちのような行為を無傷で行うために用意された鎧に過ぎないのではなかろうかと、三隅の怪物は裁くものが負うべき覚悟と激痛を知らしめるべくその鎧をガラス越しに剥ぎ取っていく。その結果、三隅による汚染によって弁護士としての正気/勝機を失っていく重盛の処刑は、三隅への死刑宣告によって完遂されたように思うのだ。とはいえ確かに三隅の元雇い主かつ咲江(広瀬すず)の父は河川敷で焼かれて死んでいるわけで、フーダニットの筋から言えば実行犯は三隅であるにしろ、なぜ夜の河川敷に被害者を呼び出すことが可能だったかと言えば、それはおそらく咲江がそこにいたからなのだろうとワタシは考えていて、それは劇中で咲江が告白するある事情からすれば不自然ではないのだけれど、なにしろ咲江は三隅が嘘をつく子と呼ぶ娘でもあるしワイダニットについては完全な藪の中に収まったままで、何しろ監督が全身全霊で注力しているのはすべてを藪の中に収めてなお物語を成立させるアクロバットに違いなく、同じ殺人でも怨恨と金目的では量刑が異なってくるという物語前半での会話が、法のシステムにおいては真の動機が無効化されることで罪と罰が成立することをあらかじめ示唆していることを思い出してみると同時に、この世界には生まれてこなかった方が良かった存在もある、というたびたびの言葉が、人を裁くということはその全存在を否定する行為であることを言い換えていたことに気づいたりもするのである。最後に三隅が殺意のように吐き出す「理不尽」という言葉は、罪に至るすべての人生を検証されることなく人は裁かれ罰として命すら奪われる行いを指していたのだろうし、監督が手練手管のアクロバットを総動員したのは、ひとえにこの「理不尽」を回答として着地させるためであったに違いないと思うのだ。三隅が仕掛けた相打ちによって「理不尽」の毒を盛られた重盛は、おそらく弁護士としては緩慢に死んでいくことになるのだろうし、してみるとミステリーというよりはホラーに舵を切らざるをえなかった監督の決断も必然ということになるのではなかろうか。ホラーは原理であると同時に不条理だから、逃れようがなく怖ろしいのである。いけすかないノンシャランをサバンナで捕食されるトムソンガゼルのチャームで包んだ福山雅治を仕立てたのは監督の慧眼。エヴリマンの凡庸によって自分の堕ちた運命に最期まではっきりと気がつかないからこそ、あのラストの残酷な忍び笑いではやし立てるような余韻がいつまでも途切れることがないのだろう。それにしても、広瀬すずのおでこの完璧すぎるRであった。
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2017年09月19日

エイリアン:コヴェナント/神様の憂い奴

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プロローグでピーター・ウェイランド(ガイ・ピアース)がデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)に向かって語る「わたしたち人間はいったいどこからやってきたのか、その答えをわたしとお前とで探し出すのだ、わが息子よ」という問いかけこそが『プロメテウス』の出発点であったはずが、その続篇とされた今作においていともたやすく「エイリアンはどこからやってきたのか」という問いかけにすり替わっていて、それはおそらく、寝起きのエンジニアに永遠の命をねだったあげく、どの口が寝言をほざくか身の程知らずめ、もうお前は永遠に死んどけと一蹴された創造主ウェイランドの醜態に愛想が尽きたのであろうデヴィッドが、我こそが永遠の創造主たり、我が業を崇めよと名乗りをあげたことによっているわけで、と同時に先だっての問いかけの答えは「エイリアンはどこからやってきたのかと言えば、それは私が創り出したからだ」というリドリー御大による今さらながらの自負と自尊として提示されていたように思うのである。当初バカ正直に『プロメテウス』の旅を続けるつもりでいたワタシは呆気にとられはしたものの、そんなつもりが毛頭ないことを知った上でそちらへと合流してみれば、私こそが創造主たり得るのだ、どれだけ優秀だろうと哀しいかなキミには創造することが許されていないのだと新型アンドロイドのウォルターを憐れみ蔑むデヴィッドこそがリドリー御大であったことに気づくわけで、ダニエルズ(キャサリン・ウォーターストーン)のタンクトップに始まるほとんど『エイリアン』のセルフパスティーシュと言ってもいい今作の構造は一体誰がこれを始めたか思い出してみろと言っているようでもある。『プロメテウス』以降、トニーのためのピラミッドとして『エクソダス』を撮り『オデッセイ』では死の香りのしないコズミックサバイバルを仕上げ、と先進の楔を打ち込むよりはどこかしら心ここにあらずな風を感じ取っていたところが、今作においてリドリー・スコットは初めて後ろを向いて映画を撮っていたように思うわけで、AVPに心を痛めた者にとってはゼノモーフ神話の再興はそれなりに胸がすく思いであるにしろ、御大の幻視する視線が立ち止まってあたりを見回していたことに少なからず驚きをおぼえてしまったのだ。とはいえ緊張と緩和が同時に炸裂する隔離室の血滑り地獄は、はからずもカメラがとらえた質量がフレームを超えてしまう映画ならではの一瞬でもあったわけで、それを2度立て続けに繰り返した軽い狂気のひらめきにほっと胸をなでおろしたりもしたのだった。H・R・ギーガーもダン・オバノンもいない宇宙空間をリドリー御大がひとり虚空を睨みながら漂っている。
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2017年09月14日

散歩する侵略者/Before We Punish

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オープニングの、水の中をひらひらと泳ぐ金魚にああ気持ちが良さそうだなあと思った涼やかな気持ちは意外にも加瀬鳴海(長澤まさみ)がそっと蜜柑の香りをかぐ最後までさほど変わることがなく、ここから先は一人で歩いて行きなさい、だけど世界は変わってしまったからキミの知ってる道はもうないけどね、と丁重に追い払われては、わかりましたそれはご親切にどうもと頭を下げる被虐の愉しみはないものの、死が幻であるのに比べれば愛は実体として現実にあるものだ、と語った監督の描く愛に関する叙事詩を、ワタシは最後まで追い払われることなく見届けることが許されたように思うのである。本来であれば桜井(長谷川博己)が世界の変質を代弁しつつ新しい世界を規定していくところが、世界の正体は愛であるという認識にはからずもたどりついた鳴海と真治(松田龍平)の加瀬夫妻が世界の守護者としてそれを迎え撃つことを許しているわけで、その結果がもたらすゼロ地点の見晴らしが冒頭で述べた涼やかな気分を良しとしたにしろ、そんな風に二項の相殺によって世界を均すやり方に、ああ、桜井の愛は打ち棄てられなければならないのだなと、わかっていたこととは言え戸惑いをおぼえたのも確かだったのだ。戯曲にも原作にもふれていないので脚色の出し入れについてはわからないのだけれど、おそらく監督の興味をひいたのは人間の概念を奪う宇宙人による侵略モノというその設定に過ぎなかった気もして、そうしてみると桜井といういかにも黒沢清的な人間はラブストーリーにサスペンスを施すための装置として投入された意味合いが強いのだろう。一方で、変質して帰ってきた夫によって再生する夫婦の物語という点では『岸辺の旅』の変奏とも言えるわけで、真治の着るシャツのオレンジが浅野忠信のコートを想起させる点などこちらの参照を待ちかまえている素振りすらある。そして参照と言えば、立花あきら(恒松祐里)と車田刑事(児嶋一哉)の格闘シーンが、『Seventh Code』 で前田敦子と鈴木亮平が繰り広げたそれの、体格で劣る女性が男性を撃破するアイディアやコレオグラフをほぼ踏襲していることで、他にもあきらの見せる機関銃のガンファイトや、かつての東映ヒーローもののように桜井が爆破の花道を駆け抜ける長回しなど、すべてはこれらアクションを撮るための方便だったのではなかろうかとも思った次第で、ともすれば言葉で規定されてしまう世界の鬱憤をはらすかのようなオーヴァーキルとも言えるたたみかけに、現場でひとりほくそ笑む監督の笑顔が浮かんだ気もしたのである。そもそも愛と表裏をなす死の概念を真治はどうやって手に入れたのか。どうせ死ぬなら真ちゃんが殺してとせまる鳴海をどうして真治は突っぱねたのか。彼女を殺せない理由こそがその時点では真治が未だ知らぬ愛だったのだとしたら、殺すこと=死の概念を真治はいったいどう理解していたのか。ワタシはそこでけつまずいてしまったこともあって、最後の爆撃をくらって垂直にポ〜ンと飛んでいく桜井の後ろ姿をピークと収めることにしたのである。「それでも宇宙人かよ!」とかいう吉岡教授愛にしびれた。
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2017年09月11日

ダンケルク/そして兵士になる

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時間の再構成については、そうすることで時間の概念すら失われる状況の只中に観客を放り込み、時間軸を取り上げられてただただ眼前の時間に身を任せる喪失と混乱のためのデザインであったということになるのだろう。したがって、戦場における死そのものを描かないのは観客が追想し没入すべきは死の感覚ではなかったからに他ならず、戦争で生と死を分けるものなど誰にもわかりやしないことを鋼の叙事で描きつつ、にも関わらず自己犠牲という行動をわれわれ人間の本能としてとらえる叙情をいつになくストレートに描くことで最終的に人間は期待と信頼に値する存在であることをノーランは告げていたように思うのである。とはいえ戦争という物語である以上、人間は、というよりはイギリス人は、という描かれ方になるのだけれど、それは愛国的というよりも戦争のミクロを描くことで普遍を探るための手続きだったのだろうし(戦闘機以外ドイツ軍を一切描写しないのもそのためだろう)、生きのびた者もすべて何かしらの代償を払わされていたことで平衡を保っていたのは言うまでもなく、ジョナサンがクレジットされない単独脚本ということもあってか、ノーランの映画についてまわるある種のご都合主義とも言える暗闇の楽観がこれまでにない衒いのなさで正直に発揮されていたのではなかろうか。だから、CGを蛇蝎のごとく嫌い実写に拘泥するのも、懐古や回帰というよりは映画という嘘八百の中で自分に課した嘘つきの矜持に関わる問題であり、無い袖を振るにしてもそこにはほんのわずかでも世界の切れ端がなければならぬというノーランの資質としての(馬鹿)正直の現れであるように思うわけで、その振る舞いが傲慢と言うよりは依怙地に見えるのもそういう根本があるからなのだろう。それは同時に、最終的にカメラが撮した/撮してしまったものへの崇拝とそれに身を委ねることへの恍惚であり、作品ごとの博打はともかくその点においてタランティーノにそうであるようにノーランを信用している。足元に漂ってきた死体を無言でそっと押しやる、らしからぬ詩情の昏睡がむしろ刺さる。
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2017年09月08日

新感染 ファイナル・エクスプレス/おれの目の黒いうち

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※物語の展開にふれているので未見の方スルー推奨

スアン(キム・スアン)をハブとしつつ、ある種の群像劇として自己犠牲のバトンで繋がっていく物語の感情とスピードが絶えず均衡を保ち続け、感情を乗客、スピードを列車としてみればそこに慣性の法則という言葉など思い浮かべたりもしたわけで、その的確なバランスがもたらすストレスフリーがページを繰る手の止まらない快感を呼んだということになるのだろう。それによってゾンビものの見せ場ともいえる籠城戦の倦怠とメランコリーを手放してしまうことにはなるものの、見方を変えればその停滞からは自由になったとも言えるわけで、スピードに慣れてきた頃合いに行われるギアチェンジのタイミングと、『大陸横断超特急』的な大団円を予想させつつそっと肩に手を置くようにひそやかな減速で停車するラストも含め、スムースに先回りする巧みな操車によって最後まで足元がふらついてしまうことはなかったのである。しかしそうやってクリアに輪郭化された半ば記号の動きですべてが腑に落ちてしまうからなのか、つまずいては脛を打ちつける痛みや素手に刺さったささくれの不快が恋しかったのも正直なところだし、そのスピードを維持するためなのだろう瞬時の発症パターンがワタシの好みとしては少々落ち着きがなかったわけで、主要キャラクターによってはそれなりの猶予があったものの、そのタメのなさもあって密室の潜伏サスペンスを不可能にしていたのもやや食い足りず、例えばあの老姉妹の妹が実は噛まれていたことを言い出せずにいたのであれば、ついに発症した彼女が独善的な集団を片っ端から屠るシーンを手に入れられただろうし、その消えゆくかすかな理性を頼りに姉と邂逅を果たす切なさまでも可能としたのではなかろうかなどと妄想してしまうのだ。だいたいがワタシはさほど「泣き」に興味がない観客なので、要するに慟哭する悪趣味が足りなかったということである。乗り合わせたバス会社常務の定型な役回り(しかし最期に理性が燃え尽きる瞬間の哀しみは忘れがたい)を見るにつけ、思い出すのは『タワーリング・インフェルノ』のリチャード・チェンバレンであって、それなりのフィルモグラフィーを持った俳優なのに何だか申し訳なく思ってしまう。「アロハ・オエ」があんな思いつめたような歌詞だったのは初めて知った。火だるまで疾走する列車が『宇宙戦争』だとすれば、泣きべそをかきながら世界を守護するスアンの一途はダコタを奈落に蹴落としていた。『ディストピア パンドラの少女』の低速突破とこれで一対のゾンビ新世紀か。
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2017年09月04日

パターソン/エンドレス・バケーション

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NYブランク・ジェネレーションというおそらくはビートニク最後の直系ムーヴメントに若きジム・ジャームッシュが名を連ねていたことは今さら言うまでもないし、界隈の仲間であったクリス・パーカーを主役に据えた処女作『パーマネント・バケーション』をこの世界の棚に並べて以来、ジャームッシュが控えめだけれど譲らぬ光と音のつづれ織りで書き記してきたのが都市のビートニクによるささやかでロマンチックな抵抗であったこともなおさら言うまでもなく、階層された社会に分断されどこにもいけないボヘミアンが漂泊への憧憬を語るメランコリーが、本来ワタシたちがあるべきいるべき場所を幻視させることでビート・ジェネレーションの水脈を今に至り繋げてきた気がするのである。そうしてみると今作は、ビートニクたちの祖先たるソローの謳う土地と人間のプリミティヴな関係やホイットマンが市井の人々に見出した可能性の光を礎に描くことをテーマとした点で、ジャームッシュにとっての穏やかで深々とした原点回帰であったように思うのだ。したがってパターソン(アダム・ドライバー)はどこへも行けないのではなくどこにも行かないのであって、バスの運転席という人々の歩く道路からは少しだけ浮遊した場所から世界を眺めては、彼だけに見える角度でこの世界の様々な横顔やそこに映る自身のポートレイトを、自身と世界の意識の分断を阻むべくネイキッドな言葉を探り出しては書き留めていくわけで、彼が携える秘密のノートは彼の魂が出入りした世界のスタンプが押されたパスポートということにもなるのだろう。してみると、バスの故障による視線の喪失とノートの破壊すなわちパスポートの紛失という彼を襲った不幸は、彼が無意識に規定しつつあった世界の自由がもたらした揺り戻しであったとも言えるわけで、茫然自失のパターソンがベンチに座り澱まない流転の象徴ともいえる滝を眺める時、彼に話しかけたのがいったい誰であったか、その日本から来た詩人(永瀬正敏)こそは詩神の使いであったのでなかろうかと思うわけで、過ぎた日々に拘泥するな、きみのやり方で動き続けろ(意訳)というメッセージを残し新しいパスポートを渡して去っていく救済の儀式は、ジャームッシュが自身にあらためて言い聞かせた言葉でもあったように思えるし、ここで新しいノートを抱いたパターソンに向けて行われる劇中ただ一度の静かでひそやかなカメラのズームアップはそれを天啓とした徴にも見えたのだった。そうやって自身を更新しては、さあまたこの道をずっと行くのだと告げるラストの、清々しさと微かな倦怠の入り交じったやわらかな不穏の見覚えは、かつて遠ざかるニューヨークを船上から見つめたクリス・パーカーのまなざしであったことを想い出し、30年を経てなお得るものよりは失うもののブランク=空白に可能性とロマンを待ちわびるジャームッシュの止まないパンクに暗闇でかき乱されてしまうのだった。とはいえ、違うけど同じ、同じだけど違う韻の象徴としての双子という発明のチャーミングも、いつもどおりの変わらぬ一端。


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1978 Bowery, New York
Outside CBGB
Klaus Nomi, Chris Parker, Jim Jarmusch
photo by godlis
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2017年09月01日

ワンダーウーマン/vsドクターポイズン 女がひとりで眠るには

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思いのほか『ローマの休日』タイプのロマンスと成長に支配されていて、取りざたされるガル・ガドットの出自がさしてノイズとなるほどの角度を持った主張や思想が書き換えられていたわけでもなく、それは”man”に向けられた愛なのかそれとも”mankind”になのか、その逡巡や困惑も自覚されないまま暴れまわるダイアナの一人相撲に、ようやく王道を歩むDCEUが生まれた気がしたのである。したがって、セミッシラ島でお勉強はもういや!と逃げ回るダイアナの、ではアマゾン族の帝王学としてダイアナは善と悪をいかにして識り世界の理をどう理解したのか、そのお勉強のステップを告げておいた方がその後のダイアナの肯定と否定のドラマに奥行きが生まれたであろうことも、チーフ(ユージーン・ブレイヴ・ロック)に侵略の過去を語らせながらではなぜそれを善き人(であるはずの人)がそれを行ったのか、そもそも金で雇われて遂行される善とはなんぞや、といった疑問を解き明かすことも、その運命としてひたすらギャオスを追うガメラのようにアレスのいる戦場を求めるダイアナの前にあってはそれに割く時間などあるはずもなかったわけで、しかし内省でドライヴするMCUを物欲しげにながめることをやめたその割り切りこそが、軽やかに吹っ切れた戦場の跳躍を可能にしたのだろう。それは、前述した『ローマの休日』が胸を締めつけるように言葉を呑み込んで死守した「愛」などどこ吹く風とあっさり同衾を許してしまう豪快さにも見て取れるわけで、けっこうな境界を越えたにしては何の上書きも感じさせない翌日の2人の描写といい、そうした些細なことに拘泥する自分もまたMCUの奴隷になっていることに恥じ入るばかりであったのだ。待ち望んだアレス=パトリック卿(デヴィッド・シューリス)に対峙しつつ、あ、ルーデンドルフ(ダニー・ヒューストン)を串刺しにしたままで剣がない!と気づいたダイアナがもういちど屋根にのぼって剣を抜きまた戻ってくるまで、部屋の中でゆらゆらと立って待っているアレスの優しさも五臓六腑にしみわたる。酔いどれスナイパーのチャーリー(ユエン・ブレムナー)がここぞの一撃を見せるのをワクワクと待っていたところが、シェーン・マッゴウワンばりに歌い上げるのが唯一の見せ場であったという定石外しにもしてやられた。ところで、第二次大戦から第一次大戦への改変はアレスがなりすますのがある一人をおいて他に考えられず、もしダイアナがかりそめもろとも彼を倒したら体制と戦線は崩壊してしまい、今回のオチが成立しなくなるからということでいいのだろうか。だとしたらやはりとってつけたような話に思えてしまうのは否めないのだけれど、これを乗り越えていくのがドラマのアンビバレンツに悶絶しその関係性をしゃぶりつくしては恍惚とするただれた思春期にいまだ沈むワタシたちの成長痛ということになるのだろう。ハニートラップ以降のマル博士(エレナ・アナヤ)とダイアナの残酷な対比であるとか、監督が血を滲ませたかったであろう爪痕によだれをたらしてしまうワタシはまだまだ品がないということになるのだけれど。
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2017年08月29日

エル ELLE/終わったら教えて急いでるから

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※展開に触れているので未見の方一応スルー推奨。

例の一件の後でミシェル(イザベル・ユペール)とレベッカ(ヴィルジニー・エフィラ)が通りでかわす一言二言には、台風一過とまではいかないまでもそれを共にやり過ごした者ゆえの戦友的な連帯感が目配せしていたようにも思えたし、せっかくやり直すんだから好きなようにやらせてもらうわとでもいう晴れ晴れとした足取りで去っていくミシェルとアンナ(アンヌ・コンシニ)の後ろ姿に、これが復讐譚というよりは復活譚、さらに言えば復旧譚であったことが見て取れた気がしたのである。したがって、タイトルの“ELLE”が指し示すのはミシェルのみならず、災害としての男性に直撃されたアンナやレベッカ、ジョジー(アリス・イザーズ)ら生き残ったすべての女性たちということになるのだけれど、なかでもミシェルの特異点は男性がもたらす災害を天災として諦めてしまうのではなく、それを人災として自分も避けがたく発生のメカニズムに組み込まれていることを前提に罪と罰の配分を決定している点であり、被害者というよりは免責されないゆえに対等なプレイヤーとして災害を利用し乗りこなす姿であったように思うのだ。それは少女の頃からおそるべき災害として認知され扱われてきたミシェルが身につけた処世術というか殴り方であって、彼女がパトリック(ロラン・ラフィット)を当初告発しなかったのも、彼の中の災害を同情はしないけれど理解したからであったのだろう。自分が面会に来ることを知った父が独房で首を吊った知らせを聞いても、顔色一つ変えずにはいるもののどこかしらしらけた感じで、それからは自分を襲うパトリックに説教したり自らアンナに旦那との浮気を告白したりと、相対化のモンスターとしてのミシェルが急遽バランサーを調節して彼女なりに真人間へと浮上していくおかしさといくばくかの哀しみや、彼女が深淵の怪物をのぞき込むことをやめさせたのが災害とは永遠に無縁であろう息子ヴァンサン(ジョナ・ブロケ)の一本気であったという皮肉はヴァーホーヴェンなりのハッピーエンドということになるのだろうし、ヴァーホーヴェンにしてはという但し書きなしに、ラストには爽快とすら言える追い風がそよいだようにも思えたのである。右目では別にこれが初めてってわけでもないしと呟き、左目ではだってこれで最後ってわけでもないしとささやくイザベル・ユペールがあたりを凝視して立つ場所の屹立したニヒルゆえ気やすく手は伸ばしづらいにしろ、ヴァーホーヴェンが描き続けてきたワンダーウーマンの最新型として、ミシェル・ルブランならこうするね、と語り継がれていくであろうハマチ好きのハードボイルドクイーンの誕生を祝福したい。
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2017年08月27日

ビニー/信じる男vs石の拳 Let's Get Ready To Fumble !

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「何かって言うと、ビニー、そう単純な話じゃないんだよ、って言われ続けてきたけど、いざやってみれば、っていうか俺がやってみせたみたいにさ、なんだって単純な話なんだよ」とはからずもビニー(マイルズ・テラー)が語ったように、基本的にボクシング映画は地獄の底にタッチして還ってくる地獄めぐりの定型からほとんど逃れられないわけで、『レイジング・ブル』が異質かつ孤高なのは地獄に行きっぱなしの人生を描ききることに空前絶後で成功しているからである。したがって、あらかじめ往復切符をポケットに突っ込むしか選択の余地がない場合、地獄の光景がそのまま帰還のドラマを質量ともに決定してしまうことを考えてみれば、ここではボクシングで勝ち得た自身の存在証明をアクシデントによって奪われたことによる精神と肉体の「痛み」との闘いがビニーにとっての地獄めぐりとなるのは当然なのだけれど、精神の「痛み」については世界に見捨てられた孤独と怒りという常套をなぞればいいにしろ、ビニーに取り憑いたはずの肉体の「痛み」がどうにも致命的に描かれていないのである。頸椎を折りながらも外科手術を拒み保存治癒を選ぶことでほとんとヘルレイザーの拷問器具のような固定装具を装着するあたり、何しろ頭蓋骨に直接ビス止めするといった豪快さにワクワクしたのだけれど、その後ビニーが痛みを露わにするのは車に乗り込む時に装具が当たってうめくといった程度に過ぎず、頭部へのパンチを受けるにしろかわすにしろボクサーにとって生命線となる首の致命的なダメージがもたらす、痛みそのものに対する恐怖と克服への不安がまったく描かれないこともあっていっこうに地獄が地獄に映らないのである。このあたり、監督の痛みに対するフェティッシュはともかくとして、肉体と精神がそのダメージにおいて直結するボクシングという競技自体へのフェティッシュが足りていないように見えてしまうのがどうにも物足りないわけで、ビニーの肉体と精神の回復はなによりその痛みを目盛りにして復活の足取りを刻むべきだったように思うのだ。そしてもう一つ、トレーナーであるケヴィン・ルーニー(アーロン・エッカート)の無駄づかいがある。なぜ酒浸りで腹の出たトレーナーがポルシェなど転がしているのか。彼もまた世界の居場所を奪われた男であることは、カス・ダマト亡き後ドン・キングによってチーム・タイソンから放逐されたその過去に言うまでもなく、彼とビニーの共闘がアンダードッグの逆襲であることを告げていれば地獄めぐりを加速する格好のブーストたり得たであろうだけに、ケヴィンすらも何とはなしの定型におさめてしまったことも歯がゆくて仕方がない。監督の目的がボクシング映画を撮ることではなく、ビニー・パジェンサというあらかじめ酩酊したドラマを抱えたボクサーのバイオグラフィを映像化するに過ぎなかったことはほとんど手続きと化したファイトシーンを見れば瞭然だし、そのドラマにしたところでマイルズ・テラーというペインジャンキーを馬なりに走らせたに過ぎず、クレジットロールで実録映像をインサートしては、どうよこれ、バッチリ再現してるっしょという得意顔には、だったらロベルト・デュランもせめて髪型くらいは似せとこうぜとか、実際には3-0の判定を気を持たせてじらすためにイーヴンを入れ2-0の判定に改竄するのは気にしないんだ、とカウンターで嫌味を一つ二つ返してみるのであった。


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『ハンズ・オブ・ストーン』

そのロベルト・デュランをエドガー・ラミレスが演じた、やはりボクシング映画というよりはパナマの英雄としての伝記映画。祖国パナマとアメリカとのねじれた愛憎を背景にしたことで破壊的な天才ボクサーとしてのデュランの剥き出しに紗がかかってしまい、タイソンの噛みつき事件に匹敵するスキャンダルといってもいい「ノー・マス事件」についても何だかお茶が濁されてしまっているのが残念というか気概不足。全盛期のシュガー・レイ・レナードのシルキーなアウトボクシングを役者で再現すること自体がそもそも無理だったという言い訳はあるにしろである。ならば「私が悪いやつに見えるのは、私が業界でただ1人の黒人プロモーターだからだ」と開き直るドン・キングに「そんなの関係ないね、あんたにはボクシングってものに対する責任てものがあるんだよ」とやり返すレイ・アーセル(ロバート・デ・ニーロ)たちが蠢く周辺の人間模様をもう少し掘り下げて活写すべきで、前述の2人に加え、ジョン・タトゥーロ、エレン・バーキン、ルーベン・ブラデスといった滋養深い手練れがあまりにも手持ちぶさた過ぎた。ほんの一瞬、デ・ニーロのシャドーが見られるという僥倖でワタシは手を打ったけれど。
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2017年08月22日

ベイビー・ドライバー/ベイベー、逃げるんだ

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青春の蹉跌を振り払って立ち上がる話に『ホームカミング』のターンがダブって見えたりもしたのだけれど、間違っても大上段の話を語る気などさらさらないこの後腐れのなさこそがエドガー・ライトであったというか、やはり親子の相克よりはスコットと三バカの話で振り回したかったであろう『アントマン』降板もやむを得ないだろうなあとあらためて納得したのである。誰かを傷つける(もちろん物理的に)ことに対してあれほど潔癖であったベイビー(アンセル・エルゴート)が相手はともかくとしてあっさり銃をぶっ放したあげく、デボラ(リリー・ジェームズ)を暴力の連鎖に巻き込むことにもさして頓着しないノンシャランの、ベイビーにしろドク(ケヴィン・スペイシー)にしろデボラにしろ、行動原理を曖昧にうっちゃって尻尾を隠したまま笑って駆け抜けるパンキッシュにこそ快哉を叫ぶべきで、エドガー・ライトの場合それは弱点というよりはほとんどダンディズムに近いといっていい。これまでは無駄口を叩きながらダラダラと歩くことがほとんどだったこともあるのだけれど、今作ではとにかく逃げまくるスピードとリズムが生来のスキゾフレニーをことのほか加速させていたように思うのである。エドガー・ライトのそうした生来ゆえ投影があちこちに散らばって集中した主人公が成立しないという手癖も相変わらずではあるのだけれど、ここではそうやって曖昧につながったチームを裏切るというサスペンスがそのまま通過儀礼を兼ねるというシナリオの妙もあり、逃走への喝采が無邪気で無責任に許されていたことでエドガー・ライトらしからぬ無条件の痛快と爽快がポケットに残されたように思うのである。ベイビーを追ってデボラが部屋に入ってきたのを見たドクの、ああ、まったくもうしょうがねえな、自分が即死寸前の状況にいるのも知らないでそんな目をしちまうんだ、その上なにがめんどくさいって、昔そういう目で俺を見た女の子がいたことや、結局その娘にしてやれなかったことやなんかを思い出しちまったんだよな、ああ、わかったよ、その娘込みでの罪滅ぼしをしてやるよ、っていうコンマ5秒の変調をとらえたシーンがマイベスト。WALKMAN(レコード)からDISCMAN(CD)になって一番変わったのはMIX TAPEを作らなくなったことだったのだけれど、iPodはそれ自体がひとつのMIX TAPEでもあったのだなあと今さら気がついたりもした。だからさ、盗られた人はけっこう凹むんだよ、ベイビー。
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2017年08月20日

ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦/プラハ心中

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人が人を殺すことに希望を見出す時代の、ワタシたちだけが知っていて映画の中の彼や彼女が知り得ない凄惨と絶望が、それはワタシ達の快適で完全な安全が保証されているからこそなおのこと容赦なく全身全霊で苛んでくるわけで、ヨゼフ・ガブチーク(キリアン・マーフィー)やヤン・クビシュ(ジェイミー・ドーナン)への理解や共感、同情を求めるというよりは、彼らの道行きを知りつつ指を加えて見ているしかない圧倒的な無力感できみたちは崩れ落ちればいい、そうやって胸をしめつける強拍と腹にくらった鈍痛の調べをレクイエムとすべく私はこれを撮ったのだとでもいう、ショーン・エリスによるルドヴィコ療法のような120分であった。この人は死んでしまう、この人も死んでしまう、この人もおそらくは死んでしまう、この人は確実に酷く死んでしまう、といつしかスクリーンの中はたくさんの死人が歩き回ることになり、それら死人が笑ったり恋や未来を語ったりするのを見るたびに何だかワタシも死んでいく気がしたのだ。監督自らがカメラを手にすることで感情の距離を最優先にデザインすることを選んだ前作『メトロマニラ』では、異邦人ゆえのエキゾチシズムへの陥穽を意識するあまり、カメラの強硬なリアリズムがマジックリアリズムへと近づいてしまった是非が否めないにしろ、今作に向けた習作というには既に圧倒的なリズムと角度を手にしていたし、ここに至ってカメラは神の目を放棄することでメッセンジャーとして共に血涙にまみれることを宣言していたように思うのである。その目に映ることだけを世界のよすがにしつつ、息を止めて潜水を続ける時間の緊張と強圧がほとんどヨゼフの視点に憑依していたからこそ、最期の時にたった一度だけ彼とこの映画が自らに許した夢想が、この壮絶な地獄めぐりの美しくも儚い救いとなったのではなかろうか。最期に大聖堂で繰り広げられる悪夢的な激闘は、終始途切れることのない銃声と跳弾の音を祈りの声と彼らを送る葬儀のようでもあり、それは人間が尊厳と共に生きる正気の世界へと一人ずつ脱出していく儀式に他ならず、となればこれを『ダンケルク』の異形の双子として目撃しておくことは必須であるように思ったのだ。ロマンチック・コメディ、ニューロティック・ホラー、犯罪ドラマと作品ごとにテーマとスタイルをゼロから立ち上げてきたショーン・エリスだけれども、それらすべてを貫いているのは、世界と切り離された人間がその手を伸ばし夢想された約束の地へたどり着こうと挑む姿であって、それがどんな結末になろうとも哀しみで覆い尽くされてしまわないのはその試みの絶えざる純度が透明を誘うからなのだろう。そしてそこに透ける明かりを識るために映画館は彼に暗闇を用意しているように思うのである。本当に知るべきは彼らの功罪ではなく、床に転がった青酸カリがなければ私は“死んでしまう”のだという想像を絶する恐怖なのは言うまでもない。
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2017年08月18日

君はひとりじゃない/犬は吠えるが幽霊は微笑む

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白昼堂々、やおら歩き出した首吊り死体に狐につままれたような気分になったところで、つづく父ヤヌシュ(ヤヌシュ・ガイオス)と娘オルガ(ユスティナ・スワラ)が向き合う父子2人の食卓には、何やら切り抜かれた人型のような物体がひっそりと同席していることに気づき、しかし冒頭の死体同様それに干渉することもされることもないという、マージナルの補助線が早々に取り上げられてしまうことで、この映画はそれ自体を問いかけにしているわけではないという意思表示でもあったのだろう。そこから先は幽霊も交えてふんだんにスピリチュアルな意匠をこらしつつ、しかし重心を置くのはあくまで原題でもある ”BODY” なわけで、ヤヌシュを日常的に死体(=BODY)を扱う職業に就かせた設定もその意図があってのことだろうし、摂食障害を抱えるオルガが自分の肉体を自傷することや、セラピストであるアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)の行うセラピーが乖離した肉体と精神を互いに意識させることで再び繋がりを取り戻すことを目指していたことなど、全体を覆うのはもうここには永遠にいない者への尽きぬ喪失でありながら、生きているものがその喪失の先へ進むには肉体のもたらす手ざわりを確認することで喪失を見据えること、しからば宙を見つめるのではなく足元を探れという笑顔の荒療治がこの映画のなんとも愛すべき痙攣を呼んでいたように思うのである。果たして喪われた者はどこかに“居る”のかという、本来クライマックスとなるべき降霊会ではほとんどパロディと言ってもいい舌の出し方を見せつつも、かつて倒れた娘を死体でも扱うようにかつぎ上げた父と、私にさわらないでと叫んだ娘をひとつの目的に向けて手をつながせたのは誰であったのかを考えてみれば答えはおのずと明らかであったし、仮に幽霊がイマジナリーフレンドだったとしてそれは問題だろうかという柔らかな居直りが、生きている者の芯の強さになり得たように思うのだ。起きながら見る夢の素っ頓狂なモザイクとしては『ヒアアフター』あたりにも近い。犬のデカさだけでアンナのパースを非日常化するアイディアには少し唸った。食事が片っぱしから不味そうなのも心根が悪くていい。
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2017年08月15日

スパイダーマン:ホームカミング/あるいは(無垢がもたらす予期せぬ奇跡)

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それは果たしてケヴィン・ファイギだったのかどうか、『COP CAR』を観た誰かもまた、火線と死線をかいくぐった少年が泣きべそで解決しない世界のことわりを時速100マイルで超えていくラストの加速Gによって蒼い血が逆流したに違いなく、ジョン・ワッツに求められたのがまさに青春のデッドエンドをぶち抜くギアチェンジであったことが、ピーター(トム・ホランド)がリズ(ローラ・ハリアー)の家のドアを開けることで開始されるアヴェンジャーズ版アカデミック・デカスロンの、苛烈で寄る辺ないひとりぼっちの闘いによって告げられていたように思うのだ。そしてトゥームス(マイケル・キートン)の運転する後部座席から彼を睨みつけるピーターに渦巻くのは、自分と自分に関わる人達(リズを含め)を脅かす/脅かした男への復讐(revenge)なのか、あるいは彼の持つ善からぬ力への本能的な鉄槌(avenge)なのかいまだ混沌とした感情であったにしろ、最愛のリズが傷つくことになるのは百も承知の上で、より多くの人が傷つくことを今ここで阻止できるのは自分しかいないという使命感の熱情と焦燥だけを頼りにホームカミングを後にするのである。この闘いの中、瓦礫に埋もれたピーターを襲う絶望的な孤独と恐怖があげさせるプライマル・スクリームによって、そのリミッターが外れていく姿の仄昏い高揚はかつて『COP CAR』に刻まれた爪痕を否が応でも思い出させるし、そんな風に全体のバランスを崩しかねないピーキーな通過儀礼を手なずける手腕をジョン・ワッツに求めたことが何と言っても最大の勝因なのは間違いないだろう。とにかくこのスピードを落とさないままあの急カーヴに突っ込んで抜けていかねばならない、信号は黄色だけれどアクセルをベタ踏みしたままこの交差点を突っ走らなければならない、それによって起きる混乱も巻き添えもその是非を問うことは今はまだしないでおこうという熱に浮かされたモラトリアムの危うさこそが、まだ何者にもならないトム・ホランド・スパイディの魅力だし、アヴェンジャーズに取り憑くマッチポンプの憂鬱をサラッとかわしたことで手に入れた自由時間こそが他のマーヴェル・ヒーローとは一線を画す徴となったように思うのだ。それだけに、彼を取り巻く大人たちの中でもメンターとしてのトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr)がその真情をあらわにせざるを得ない瞬間も多々あったわけで、自己犠牲は手段であって目的ではないと説教する姿が浮かび上がらせるのはどこかしらキャプテン・アメリカの危うさでもあり、劇中でアメリカのメンターとして様々に登場するキャップを見るたび、『シヴィル・ウォー』を知ってしまっているワタシたちはその反語としての切なさと苦さを味わうこととなるわけで、トニーがピーターに思わず本音で応えてしまう“お前に何がわかる”的なあるセリフが胸に刺さったりもしたのである。そしてもう一つ特筆すべきは、トニーとピーターを擬似親子とした上での父殺し的な通過儀礼に目もくれなかったことで、最後まで青春のサボタージュが大人たちの足元をすくうアップサイドダウンの痛快を手放さなかった確信が、ピーター・パーカー=スパイダーマンを赤(アイアンマン)でも青(キャプテン・アメリカ)でもない赤と青のヒーローとして再生することに成功したのではなかろうか。15年前、サム・ライミがスパイダーマンを生け贄に語り始めた内省と苦悩のマーヴェルヒーロー受難の時代が『シビル・ウォー』によって極北に達した後で、そこに新しい風を吹かせてみせたのがスパイダーマンだったことの皮肉と言うよりは眩しさに新たな神話の天啓を感じた気もして、いったいMCUはいつになったらけつまずくのだろうと、少しばかり意地の悪い気分にすらなり始めたところである。
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2017年08月08日

デ・パルマ/Watching is Believing

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カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2017

死角からの執着、神経症的な主観カット、クローズアップの憂鬱といったデ・パルマの意匠は、今さら言うまでもなくヒッチコックへの忠誠と耽溺なのだろうと思っていたのである。ところがである、カメラを持って父親を浮気現場のオフィスへと追い、ナイフを父親にちらつかせ「相手はどこにいる?」とせまったブライアン少年の記憶をあっけらかんと語るその姿から浮かび上がるのは、紛うことなき窃視のオブセッションと脅威への陶酔であり、彼が映画より先にとっくに囚われていた人間であったことに新鮮な衝撃を受けたし、『ブラック・ダリア』についてはエルロイの原作に手を加えることをしたくなかったと語るその姿に、エルロイもまた幼少期の「わが母なる暗黒」的なオブセッションに呪われ続けた作家であったことなど思い出してみれば、両者に生まれた漆黒の感応に深くうなずけたりもしたのである。そしてもうひとつ驚いたのは『スネーク・アイズ』のオリジナル・エンディングで、暴風雨による巨大な波がカジノを襲いすべてを押し流してしまうというカタストロフは、あの映画で描かれた善悪の皮肉なくびきをニヒルに葬るにふさわしい結末だったように思うし、オープニングの超絶長回しを殴り返すフリーキーなバランスによってカルト作品としての純度がより高まっていただろうにと、思わぬ悔いが残ったのだ。インタビュアーが喧嘩腰も辞さない批評家ではなく、ノア・バームバックとジェイク・パルトローという自分の崇拝者であり理解者ということもあってか、光と影の行き来をあけすけに語るその語り口にまずは魅了されたし、スタジオとの対立と矜持ある順応、映画を志すなら学校なんかに行かずとにかく低予算映画を撮ることだという現場主義への憧憬と信仰、そこにはアルチザンとアーティストのある意味理想的な姿がうかがえはするものの、それゆえの不遇と呪詛も見え隠れはするわけで、しかしそれらをすべてひっくるめた上でのブライアン・デ・パルマという映画監督のチャーミングな記憶を手に入れることができた点で予想外に刺さるドキュメンタリーとなって、彼に関わるすべてがいっそう愛すべきものに思えたのである。

「キャリー」は続編もリメイクも全部観てるよ、自分が回避したミスを全部やってて笑ったよ、ウハハハハ!
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2017年08月05日

ザ・マミー 呪われた砂漠の王女/恐怖の白い歯

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まったくトム・クルーズである必要のない映画を初めて観た気がする点でわりと衝撃的だし、さらに言ってしまえば、ラッセル・クロウである必要も、ソフィア・ブテラである必要もないように思え、その刺身のツマに終始する扱いに、そもそもミイラである必要があったのかという最大のクエスチョンマークが、マミーとしてのアマネットがほとんどゴーストバスターズのゴーザにしか見えなかったことも含め、最後まで浮かんだまま消えることがなかったのである。では刺身は何だったのかと言えばそれがトム・クルーズであることは言うまでもなく、要するにトム・クルーズが一皮むけるための踏み台としてミイラが召喚されたに過ぎないわけで、ヘンリー・ジキル(ラッセル・クロウ)率いるプロディジウムをBPRDに例えるならば、セト神が憑依したニック・モートン(トム・クルーズ)は諸刃の剣となるその力を得たヘルボーイとしてこの先モンスター退治にいそしむことになるのだろうし、と言うかこの映画を観る限りそうならなければどうにもおかしいわけで、それを暗示するかのようなダークナイトエンディングによってダーク・ユニバースの基本スキームを告げていたように思うのである。とは言えそこまで底の抜けた誇大妄想的な計画に自己プロデュースの鬼神トム・クルーズがつき合うつもりでいるのかどうなのかはなはだ疑問であって、あのエンディングも実は脱兎のごとく泥舟から逃げ出しているようにしか見えないことを思い浮かべてみれば、ソフィア・ブテラの壮絶な無駄死だけがなおのこと哀れを誘うのである。『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』ではイムホテップの物語を丁寧に彫り込んで描いたからこそ、甦った彼の呪いが最後まで映画を支配し続けたのに対し、今作冒頭の古代エジプトパートではアマネットの心象と動機をすべてナレーションで語ってしまうという手抜きっぷりなのに加え、ニックがアマネットに魅入られた理由であるなど彼女が現代に持ち込んだ企みを死者ヴェイル(ジェイク・ジョンソン)を語り部としていちいち説明してしまうものだから謎解きのサスペンスも皆無だし、修道院でニックがジェニー(アナベル・ウォーリス)を置きざりにトラックで一人逃げ出すシーンの不可解や、クライマックスの闘いで短刀を奪われたことに気づかないアマネットのありえない間抜けさ(宝石を外して無効化するのだろうと思っていた)などなど、ショットやシーンをつなぐ力学の葛藤のなさはTVドラマを主戦とする監督アレックス・カーツマンのサイズがノイズとなっているのだろうことは、J・J・エイブラムスの過分な物分りの良さにも通じる気がするし、バストショットと日の丸構図的な説明ショットの多用も映画の色つやを捨ててしまっていたように思う。何より最大の敗因はトム・クルーズという常に善性の後光が照らす人を、ハン・ソロあるいはインディアナ・ジョーンズ、要するに半身を陰に置いたハリソン・フォードの皮肉と諧謔とが必要な役柄にあててしまったことで、一つしかないパラシュートをジェニーに譲ることなどトム・クルーズにしてみれば当たり前すぎる行為を善の証しとしてみたり、あるいはトム・クルーズならばするはずのないジェニーを置き去りに一人車で逃げ出す行為など、トム・クルーズがトム・クルーズであればあるほど映画が沈没していくという蟻地獄のような有様になっているわけで、そうした意味で極めて希少な作品となっているのは間違いない。誰のアイディアか知らないけれど、こうやってユニヴァーサル・モンスターズをホラー・クリーチャーとして便利屋扱いするなら、誰がやってもまた敗けるだろうと思う。
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2017年07月25日

ウィッチ/真説 森の生活

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入植地を追われ去っていく馬車の荷台から姉トマシン(アニヤ・テイラー=ジョイ)と母キャサリン(ケイト・ディッキー)の肩越しに、閉ざされていくその扉を見つめる視線がケイレブ(ハービー・スクリムショウ)のものであることを忘れずにいれば、いずれたった一人で森へ立ち向うケイレブの、その予感めいた凝視がなおのこと哀れを誘うのである。そしてやはり、信仰の光が届かぬ場所へと歩みだした時点で、既に“あれ”はトマシンをリクルートすることを決めていたのかもしれず、あれの怒涛が父ウィリアム(ラルフ・アイネソン)でも母キャサリンでもなくケイレブの陥落を合図にしていたのは、この家族で真に敬虔の砦を持ち得たのが彼だけであった事実を残酷と皮肉のうちに告げていたように思うのだ。そしてトマシンはその聡明ゆえそれら欺瞞と偽善のほころびを知ることにより、光と闇の表裏一体混然とした世界へと引きずり込まれていくわけで、その欺瞞と偽善を殺すために堕ちながら昇ることを選ぶラストはそのままアメリカ建国の闇へと連なっていき、"A New England Folktale" というサブタイトルが黄色く濁った虚ろな目をしながら頭をもたげてくることになるのである。したがって、この伝承譚そのものがトマシンを覚醒させるための儀式ともいえるわけで、信仰の光は照らすべき闇をつねに必要とするという諸刃の剣であることは言うまでもないとして、この映画が恐怖というよりは原初の嫌忌に訴えてくるのは未分化なままのたうつ光と闇の混沌によっているからなのだろうし、なにより文明化によってシステム化される信仰の鬼っ子として、境界の向こう(森)に産み堕とされる魔女の誕生譚が叫ぶその陣痛の断末魔に終始なぶられ続けたのである。そうやって恐怖(ホラー)の主体による直接的なアプローチやアタックのないまま、山羊や兎、鴉や双子、ついには一個の林檎までもがどうしてこうも禍々しく映るのか、ロバート・エガース監督はそれを、理性の終焉がもたらした怪物の棲む国として少しずつ全体を書き換えていくことで可能にしていて、闇の中で聴こえなかった音が次第に聴こえ始め、闇の中で視えなかったものが次第に視え始めてくることで、気がつけばそれが耳元で息づく闇の中にワタシたちも放り込まれることになり、そうやってこちらの手持ちに干渉して脅かすという点ではハネケのニューロティックスリラーとすれ違った気すらしたのである。となればそうやって神経を障ってくる作家たち同様、エガース監督のサウンドに対する執着は鬼気迫る瞬間が多々あって、森の音や風の音が次第に心象の音となって脳内に入り込んできたあげく、まるで狂ったブルガリアンヴォイスのような歓喜と禁忌のコーラスに包まれるラストをワタシたちは呆けたように見上げることとなるのである。ほとんどを夜と曇天に終始し、蝋燭という人工の灯りだけを光源とする暗闇の色づけにこそ、作られた光と実在の闇という対比が託されていることを考えると、この映画のデリケートは、場内に漆黒を求めることを当然に音響デザインを含めたストレスフリーな環境で上映されることを望んでいるように思え、ならばこれまで体験した劇場では最高峰といってもいい今はなきシアターTSUTAYA(Q-AXシネマ)にこそふさわしい作品であったことを、前席の頭被りで完璧なフレームが欠けてしまう劇場への軽い舌打ちとけっこうな嘆息と共に思ってみたりもしたのだった。
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2017年07月23日

ウーナ/愛じゃいけない

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カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2017

冒頭、ウーナ(ルーニー・マーラ)がクラブのトイレで行うセックスの体位があとあと抜き差しならない意味を持ってくるわけで、そういったアヴァンタイトルを経てようやく “UNA” という3文字があらわれたタイトルバックに滲み出すハネケ感が、このガスライティングなニューロティックスリラー(ホラーでもいい)を愛と欲望の境界線上に連れ出しては、熱に浮かされたように互いの致命傷を狙った闘いをけしかける。戯曲の映画脚色ということで、おそらくはレイ(ベン・メンデルソーン)の職場で繰り広げられるレイとウーナの会話劇がその骨子となっていたのだろうけれど、映画はその時間を行き来する特性を頼りにフラッシュバックの多用で2人の過去と現在を立体的に締め上げていくわけで、ウーナの記憶は彼女のフラッシュバックとして語られ、それに対して現在のレイが同意し、あるいは異議申し立てをしていく。私はあなたを愛し信じたのに、欲望を満たしたとたん最後の最後であなたは13才の私を捨てて逃げ出したのだと詰め寄るウーナは、愛を失った女の子としてではなく小児性愛者の犠牲者として世の中に記録されたことで、自身の居場所を取り上げられたまま漂い続けることになり、冒頭でふれたセックスの体位は彼女の無意識がその時以来支配されていることを告げている。しかし、ここでレイがウーナの知る由もない自身の記憶をフラッシュバックとして提出し、あれは小児性愛の慰みではなく確かにあのとき愛はあそこにあったのだという感情の事実を明かしてウーナに笑顔さえ取り戻させるのだけれど、このウーナとのシークエンスと並行して現在の職場におけるレイ(ピートと名前を変えてはいる)の状況を描くことにより、彼は追い詰められると逃亡する人間であることを観客だけには知らせることで、レイの切り札も含めすべてが巧妙なガスライティングであることを告げていたのである。となれば後はレイのまやかしをどうやってウーナが知ることになるかという一点に興味は集中するのだけれど、それはラストにおいてこれ以上ない最悪の形をとってウーナの前にあらわれることになり、それが鮮やかであればあるほどウーナにとっては致命的なとどめとなるわけで、未必の故意ゆえの底知れぬ闇に放り込まれて終わるハネケのエンディングに比べれば或る断定を果たす分落としどころはあるにしろ、一人の男が一人の女性を確信的かつ完膚なきまでに破壊する物語として、当たり前のごとく足の届かぬワタシたちが溺れてしまうには充分すぎる深淵に放り込まれたのであった。そして、その深淵に棲み泳法を熟知しているからこそのソシオパスであることへの嫌悪と驚嘆がないまぜに届いてしまう点でも非常にたちが悪く、最後までそこから目が離せるわけなどなかったのだ。ベン・メンデルソーンの社会病質とルーニー・マーラの腺病質を特定したキャスティングはおそらく勝どきをあげただろう。ルーニー・マーラはそのうち何かの機会に、まるで呼ばれたようにPJハーヴェイを演じるであろうことを、"Down by the Water" を聴きながら予感した。
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2017年07月20日

アリーキャット/下品なやつらに猫だましを

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オープニングのロングショット、アパートから出てくるマル(窪塚洋介)のスッと伸びた背筋に、違和感とまでは言わないにしろそこに丸めた背中の手あかじみたマイナスは見当たらず、その後でマルが薬を飲むシーンのタブレットからカプセルを押し出すやはりスッと伸びた手指のしなやかさとあわせてみる時、元ボクサーという設定からするとそれは少々?なところもあるにせよ、何より窪塚洋介という俳優の清潔な殺意とでもいう美しさが、貧してはいるけれど鈍してはいないマルという人間の浮世離れした空気を満たしていて、ここから先、窪塚洋介さえ見ていれば映画は勝手に転がっていってしまうのである。では映画自身がうまいことやったのはどこであったのかと言えば、それはリリィ(降谷建志)を、木暮修になつき倒す乾亨ではなく、何者かであるはずのあんたがこんなとこで何やってんだよと泣き笑いしながら蹴り上げるタメ口のフットワークに染めたところであったように思え、リリィと通じることでマルが現実にカムバックしていくその対等なコンビネーションによって、屈託をもてあそぶ自己憐憫をさらりとかわしたところが心地よかったのだ。したがってリリィに煽られてマルが殻を打ち棄てることで物語のギアが上がっていくことになるわけで、それは「おもしろいことおぼえてきたじゃねえか」と羽柴(火野正平)に言わしめた土下座によってピークとされたように思ったものだから、それをリリィとではなく冴子(市川由衣)ともう一度繰り返す瀕死の愁嘆場は蛇足であったように感じたのだ。基本的にはキャラクターさえ仕上がってしまえばあとはそのチャームを追うにまかせるといった感じもあって、サスペンスの骨組みや細部へのフェティッシュはわりと大味な点で微熱のままなかなか熱に浮かされるには至らず、冴子を捕えた南雲(高川裕也)の「殺しはしない、それ以外のことは全部やってやる」なんていうセリフに『マジカル・ガール』のトカゲ部屋などが頭に浮かんだりはしたものの、え?もうそこでズボン下ろしちゃうの?という芸の無さには少々がっかりしたのである。ただ、それには市川由衣のブラガード問題もあるわけで、例えばあの動画の状況でまだブラジャーをつけている無粋であるとか、どういう理由でかこの映画では隠してしまうんだなあという大人の事情もあったのだろう。ほとんどイメージキャラクターとなっている旧車(グロリア)であるとか、瓶コーラであるとかボクサー崩れであるとかいった昭和のくすみは、言うまでもなくこれが「傷だらけの天使」や「探偵物語」の嫡子であることを告げているのだろうし、衒いなくむき出しの感情をぶつけあったRAWな時代への憧憬を明らかにもしているのだろう。ただそれがノスタルジーの一助ではなく、この時代における新しい気分の突き抜け方として有効化されていたかというと、自ら進んで前述した嫡子のポジションに収まってしまった気がした点で、やはりワタシは“愛でて”しまう以外の愉しみ方をしなかったように思ってしまうわけで、できれば窪塚洋介と降谷建志というコンビの自由で独立した涼やかな矜持が吹かせる風にもう少しくすぐられてみたかったなあと、それは自分になのか映画になのか歯切れ悪く愚痴ってしまうのだ。
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2017年07月18日

しあわせな人生の選択/トルーマンの週末

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死を出し抜くために笑ってみせる男とそれを笑ってやる男の話には違いないのだけれど、2人の静かな泣き笑いが次第に歩調を合わせていくにつれ、すでに答えを出しているフリアン(リカルド・ダン)よりは、「友達が死ぬのは初めてなんだ」とつぶやくトマス(ハビエル・カマラ)が主人公であることに気づかされていく。トルーマンの行き先については何となくうかがえていたこともあって、あとはその儀式を待つだけかと思っていた矢先、マドリード最後の夜にトマスとフリアンのいとこパウラ(ドロレス・フォンシ)がホテルで行うセックスの、それまで押し殺してきた“生き残される”者の哀しみを互いに受け止め、泣きながら達するオーガズムは、その瞬間ひとり自宅のベッドで横たわるフリアンも、トマスもパウラも、人はみな最後には一人きりなのだという暗黙の了解を確かめ合う瞬間であって、それはこの映画でもっとも死の匂いがたちこめた瞬間に思えたのだ。その翌朝ホテルにトマスを迎えにきたフリアンが、一緒に階段を降りてくるトマスとパウラ、ちなみにトマスは妻帯者である、を見てその目に一瞬のうちに浮かぶ了解の徴とフリアンに対して悪びれも隠し立てもしない2人の毅然としたまなざしとで、3人は戦友のような連帯で繋がれたようにも思え、一言のセリフもない短いカットながら、受け入れた諦念の先で微笑むことを始めた3人の美しい病み上がりのような演技とそれを求めた監督の演出に、喝采と苦痛がないまぜで押し寄せてきて座ったまま立ちくらんだ気すらしたのである。フリアンの息子ルイス(エドゥアルド・フェルナンデス)との邂逅にしても、ある仕掛けによって感情のぶつけ合いとなる愁嘆場をかわすあしらいが実に巧みだし、この映画に通底する、悲しいから意地でも泣かないという人生への異議申し立ては、ひとえに人間の尊厳を見据えた生き方のなせるわざであって、それを可能にするのは最終的に勇気と寛大さであるというペシミズムあるいはシニシズムのうっちゃりに見る光は、ワタシの年代的な共感はともかくとして未来のヒントになるのは間違いないように思うのだ。犬(トルーマン)はあくまでも犬として不要なセンチメンタルで擬人化しなかったことで、逆に彼なりの哀切が滲んだのも毅然としてスマートに思えた。邦題はふんわりと説教臭くて野暮ったい。そもそも登場する誰かが「しあわせな人生の選択」をしたと本当に思っているなら冗談が黒過ぎる。どうしてもと言うなら「トルーマンのしあわせな人生の選択」とするべきだろう。
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2017年07月15日

バイバイマン/心ここにあらない

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『イット・フォローズ』であればセックスの回避で逃れることのできた呪いが、ここでは ”THE BYE BYE MAN” という文字を認知、あるいはその言葉を聴き取ることで生じた何らかの概念が呪いと化して当該者を殺しに来るわけで、それは要するにイデアであり、騎士団長がワタシを殺しに来るのである。ひとたびソレが植え付けられた者はそれを考えまいとすればするほどそのイデアに支配され、強迫観念に苛まれた日常は闇の只中へと暗転し、しかしそのことを誰かに告げた瞬間、その誰かもイデアに屠られることになる運命を知るからこそ、恋人にも肉親にも警察にも誰にも告げるわけにはいかなくなるわけで、そういった神経トラップはなかなかの新機軸だったのではなかろうか。前述した『イット・フォローズ』にあってここにないのはその回避の手段で、そうした意味では今作のプロデューサーが手がけてきた『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』『オキュラス/怨霊鏡』といったバッドエンドにカタルシスをぶちこむ厭味系ホラーの系譜に連なっていて、主人公が物語の帰結として解決してしまうことで矮小化されてしまう恐怖を恐怖のままにいっそうの自由度をあたえるパターンとしてプロデューサーはそこに可能性を見つけているのだろうし、ワタシもその点において彼の手がけた2作に昂奮したのである。ただ、ただである。今作についてはイデアに殺されるという極北のスタイルに腰が引けたのか、THE BYE BYE MANの実体に少しサーヴィスが過ぎたように思ってしまうわけで、圧倒的に良くないものが近づいてくる予兆としての暗闇を轟音で疾走する機関車のヴィジョンが秀逸だっただけに、いくらダグ・ジョーンズを仕込んだとは言えフードをかぶったノスフェラトゥ系の白塗りという既視感にはいささか興ざめだったのは正直なところだし、犬を連れた冥界の使者といえばすぐさま思い浮かべるだろう『ビヨンド』のエミリーが最小のメーキャップだけでなぜああまで不穏を醸したか、現実と非現実のあわいに蠢く者であるならやはり引き算の造型を狙って欲しかったと悔いは残ってしまう。そもそもTHE BYE BYE MANそのものが概念の感染者を殺してまわるというよりは、はたから見ればパラノイア同士の内ゲバによる殺し合いで終始する物語であって、陰惨な神経戦という意味では『CURE』ミーツ『ジェイコブズ・ラダー』を理想とすべきだったところを、正攻法のホラーマナーで取り組んでしまった手はずに問題があったということになるのだろう。とはいえ身の丈の先の火中に手を突っ込んだあげく火傷をするのはこのジャンルの勲章でもあるし、久しぶりにキャリー=アン・モスの獰猛な腺病質を美しく目にすることができたこともあって(物語にはまったく寄与していないけれど)、シアターNから歩道橋を渡って渋谷駅に意味もない早足で向かう時の、今日もつつがなくひと仕事を終えたという気分であったのは間違いないのである。
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2017年07月13日

ライフ/たまには先に死んでみたい

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※展開に触れています。絶望の中で光を放つ人間の尊厳を映したゼログラな映画ではありません。

カルヴィンの名付け親になったあの子の心中いかばかりとお察しはするものの、良くも悪くもそういう酷さにこそ絆されてしまうわけで、ならば同じ酷い目に遭うにしても、デニス・クエイドやノーマン・リーダスよりはジェイク・ギレンホールや真田広之がみせる決死の自己犠牲があっけなく徒労と化した方がより酷さの針が振れるのはいたしかたのないところで、特にラストのミランダ(レベッカ・ファーガソン)からほとばしる絶叫は、その絶望(アレが地球に行ってしまう!)×絶望(還るのは私よ!話が違う!)が突き抜ける天井知らずに正直クスッとさえしたのである。そもそもローリー(ライアン・レイノルズ)をオープニングヒットとする人の悪さは、キャストを見渡しては胸の内で格付けして生死のたかをくくる観客へのあてつけでもあるのだろうし、ハンディキャップを持つヒュー(アリヨン・バカレ)の善性に潜むうっすらとした利己性が事態を地獄化させる設定もそれなりに意地が悪く、ショウ(真田広之)に至っては家族愛がもたらすその犬死にがさらなる地獄を誘い、要するにみながみな悪手を打っては死んでいくのである。それはカルヴィン(仮名)のインテリジェンスが上回ることで悪手とされたことには違いないとは言え、いつもならどれほど絶望的な状況にあっても知恵と勇気とタフネスでそれを切り抜けてはそのラストで微笑んで見せる彼や彼女が無様に死んでいく姿にこそ昏い愉悦があったわけで、トップバッターとなったライアン・レイノルズのイカしたボロ雑巾のような死にっぷりだけでワタシはもう多くを求めるまいと思ったのだ。そしてまた、デニス・クエイドやノーマン・リーダス(しつこい)を出し抜くよりは、きらきらとスマートな乗組員を圧倒しつつ屠ることでカルヴィンの知的生命体としての株が上がっていくわけで、キャストによるはったりという意味でもエクストリームなB級魂が溢れんばかりだったように思うのである。そしてワタシたちはここに一つ、非常に重要な教訓を得ることになったのにお気づきだろうか。『プロメテウス』を思い出してみて欲しい。それは、眠っている宇宙人を無理矢理起こすとまったくロクなことにならないということである。オコストキケン、ナデタラシヌデ。
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2017年07月11日

ジョン・ウィック:チャプター2/すました顔してバンバンバン

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たとえばカラカラ浴場跡でジョン・ウィック(キアヌ・リーブス)とジアナ・ダントニオ(クラウディア・ジェリーニ)が交わす絶望と尊厳の交錯を銃弾一発で刻みつけるシーンなどみてみれば、ここをクライマックスにジョン・ウィックをローマへと向かわせ、ダントニオ姉弟の血の相克などからめつつ、姉ジアナを生かすことで弟サンティーノ(リッカルド・スカルマチョ)を排除しジョン・ウィックがサヴァイヴするドラマを演出することも可能だったにちがいないにしろ、それがジョン・ウィックの物語なのかと言われればそうとは思わない、と監督、脚本家、そして主演俳優は即答したのだろう。言ってしまえば、ジョン・ウィック(めんどくさいけどフルネームで呼ばないとしっくりこないでのでしかたがない)がヘレンと過ごした日々こそが一時の気の迷いともいえるわけで、そのヘレンも、ヘレンの仔犬も、ヘレンと過ごした神経症的ミニマルな豪邸も失った今となっては、ただひたすらに撃ち、投げ、刺し、蹴り、抉り、轢くことでしかジョン・ウィックの実存は為し得ないということになる。そして彼の無敵は自分のいる場所が修羅であることすら内省しないクロームメッキされた鋼鉄の矜持が可能にしていることを思えば、伝説のペンシルキラーたるジョン・ウィックの真の姿は今作にしてようやくその端緒を開いたように思うわけで、瀕死のジアナにたった一発叩き込んだヘッドショットのメランコリーだけでジョン・ウィックに関するドラマは充分満たされたように思うのだ。そもそもがこの映画に流れる浮世離れして非現実的な時間は、これらが神々の戯れであるがゆえの退廃と倦怠であることによっていて、雑踏と人混みの中で取り巻く人々にまったく流れ弾が当たらないのもそれが埒外の人々であればこそ至極当たり前ということになるし、我々が神の怒りにふれた時に何が起きるのかを描いた前作からの流れとしては非常に有能かつ有益な展開に思えたわけで、天上を追われた神の物語となるであろう次作が、壊滅する天上に斃れる神々の黄昏となることを期待してやまないのである。弾を撃ち尽くした拳銃すらを敵に投げつけて武器とする一方で、バワリー・キング(ローレンス・フィッシュバーン)から授かった拳銃はマガジンが空になったあとも棄てずにベルトに差しておくわけで、そんな風に狂躁の中で美しく静かな感情が微笑む瞬間があるかと思えば、地下コンコースにおけるカシアン(コモン)とのすまし顔の銃撃戦などその洗練がほとんどギャグの域に達する瞬間すらもあって、その豊潤なガンアクションの愉悦に“神は銃弾”という言葉が頭をかけめぐったのであった。ジョン・ウィックのシャツの襟ににじむ汗染みならぬ血染みもルビー・ローズの殺意に満ちたヒップラインも、昏くひそやかに息づいて神々の紋章のようだった。ただ、撮影用のプロップカー(まさか実車じゃないよね)とは言えあの神々しい1969年型マスタングBOSSがジャンクと化すシーンだけはどうにも心が痛んで仕方がない。
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2017年07月07日

ディストピア パンドラの少女/ミート・イズ・ノット・マーダー

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邦題の「ディストピア」も「パンドラ」もあくまで人間の側からみた場合のそれであるだけで、原題(”THE GIRL WITH ALL THE GIFTS”)に思いを馳せつつこの映画を観てみれば、これはメラニー(セニア・ナニュア)をシーザー(=アンディ・サーキス)とする創世記の第一幕ということになるのだろうし、肉食への渇望を抑え込むための理性が、解き放った欲望を支えるための理性へとかわっていく変遷を、メラニーの苦悩ではなく彼女が世界を認知していく喜びと驚きで描いていく物語の後半は、一人の少女が自分が何者なにかを知っていくビルドゥングスロマンとして、それはとても端正かつヴィヴィッドな足取りで描かれていたように思うのである。ネコ可愛いけど食べちゃおう、おいしい、うっとりのくだりや、浮浪児軍団との闘いにおけるボスを狙って潰しにかかる知恵と一切の逡巡なしにバットで撲殺する獣性のコンビネーション、グレン・クローズ相手に「わたしって生きてる?」「生きてるならどうして人間のために死ななきゃならないの?」と一歩も退かないタフネス等々、セニア・ナニュアがみせる縦横無尽八面六臂の活躍もあって、このジャンルにおいては久しぶりにアイディアそれ自体に昂奮したのだ。それはもちろん、バディ・コンシダインやグレン・クローズといった手練れたちが消えゆくもの(=人間)のメランコリーを背景に染め上げたゆえでもあるのだけれど、あらゆるものが植物化していく廃墟はどこかしらバラードが描く破滅世界の佇まいもしのばせて、明るい終末とでもいうラストのグロテスクかつチャーミングな着地には思わず笑みすら誘われた。ナチュラルメイクだとほぼマッツ・ミケルセンと化すジェマ・アータートンのユニセクシーなミリタリーセーター姿も望外の眼福。
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2017年07月05日

ありがとう、トニ・エルドマン/笑ってもっとベイビー

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始まってまもなくのバナナで思わずレナード・コーエンが頭に浮かんで、自家中毒的なナンセンスじゃなくて事態を無効化するたぐいのナンセンスならいいなあと思って観ていたら、グローバル経済の先兵と化した愛する娘イネス(ザンドラ・ヒュラー)に対し、思わず口をついて出た「お前は人間か?」という言葉に落とし前をつけるべく、イネスの世界に出没しては弛緩して間もへったくれもないギャグをうんざりするくらいしつこく延々と、味のしなくなったガムを噛み続けるがごとくかまし続けたあげく、どうせすべては“ごっこ”みたいなもんだろ、だからユーモアを忘れたらだめだよと、ウィンクしながらヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)は見切れていくのである。ただ、主役はあくまでもイネスであって、「お前はいったい人間か?」と言われれば「そう言われても仕方がない」と醒めた目で返すハードボイルドは、フェミニズムなど歯牙にもかけずマチズモの原理と合理で蹴散らすエコノミックカーストにおいて彼女が選んだ処世術ではあるのだけれど、クラブのソファに沈み込んだイネスの頬を伝う涙は、いつの間にか自分がどれほど遠くにまで漂ってしまったのかを父との邂逅によって知らされた彼女が自身の孤絶を思ってこらえきれなかった一滴であり、例のホイットニー・ヒューストンのくだりにおいて、父がイントロを弾き始めた瞬間のイネスがみせる「マジでそれやるのか?!」という表情からすれば、この父娘にとって "GREATEST LOVE OF ALL" は何かしらのテーマソングであったのかもしれず、ここから巻き返したイネスは自身の誕生パーティで文字通り裸一貫の再生を告げることとなる。しかしこれが通り一遍で語られる喪失と再生の物語に落ち着かないのは、イネスがヴィンフリートを自身の日常へと連れ回すことが彼にとっての地獄めぐりへとなっていくことも描いているからで、すべてを笑い飛ばしてきたヴィンフリートが石油掘削の現場でどれだけ慌てふためいたか、娘のオーヴァーキルが父親を霞を食う善人としてしまう残酷さすら厭わない醒めた視点があればこそ、そこをかいくぐった先の確かな手ざわりに沈んでいく心地よさに互いの呵責がなくなっていくように思うのだ。わが子の目をさますのだという傲慢でも、結局はいつだって父が正しいのだという卑屈でもなく、この娘にしてこの父あり、この父にしてこの娘ありという過去と未来の交錯する場所を今日として生きるのだという足元への着地を示すラストで、カメラを取りにいったまま戻ってこない父親を待つでもなく入れ歯を外して一人立つイネスの、楽観と悲観の、執着と無頓着の、タフとメロウのその真ん中で、わたしは“ごっこ”を誠実に生きていくことにしたのだと告げる表情のやわらかなニヒルは、たとえば台風一過の日差しの中、屋根の吹き飛んだ自分の家を眺めながら、命あっての物種だしと誰かと言葉をかわしつつ停電した冷蔵庫の中で溶けおちたガリガリ君にはせる想いのように、懐手で本質を手なずける人のそれに映ったのである。そしてまた、イネスのセコンドにつくことは、永年連れ添った愛犬ウィリーを喪ったヴィンフリートにとっての喪の仕事でもあったのだろう。ファルハーディには申し訳ないが、こちらの方がオスカーに近かったようにワタシは思った。
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2017年07月01日

セールスマン/無知の痴

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開始早々、夫妻の住む部屋の壁に入った亀裂の禍々しさがこの物語の行く末をとっくに告げてしまっている。そもそも隣接する敷地の工事が原因なのに、それに対する抗議も補償も求めることなく新しい住居を淡々と探す姿には、既に身についた社会システムへのあきらめと不信が見て取れて、それは事件に関して警察の介入を頑なに拒否する妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)と、夫エマッド(シャハブ・ホセイニ)の自警的行動へと導いていくようにも思える。夫妻が属するアマチュア劇団は「セールスマンの死」の上演をひかえ、エマッドはウィリー・ローマンを、ラナはウィリーの妻リンダに配役されており、アメリカンドリームの終焉を父権の喪失に二重写しにしたこの戯曲をイランという社会のフィルターを通してどのような解釈を図ったのか劇中では不明で、当局の検閲をクリアしていないと語られる箇所が思想的あるいは風俗的な部分なのかは明らかにされていない。ただ、ウィリーの浮気が息子ビフの前で露見するシーンの稽古中に、浮気の現場であるにも関わらず女性ががっちりとコートまで着込んだ姿のままであること(当然規制によるものだろう)のバカらしさに相手の役者が吹き出してしまうわけで、イラン社会とその慣習が禁忌なものとして秘匿する女性性のアンバランスは、“進歩的な”劇団員たちによってそんな風にあげつらわれるてはいる。しかし、知識人を自負し進歩的な考えを持ってそのアンバランスを相対化しているかのようなエマッドですら(生徒にフェミニズムを諭すタクシーのエピソードを思い出してみればいい)、自身の日常に爪を立てられることで無意識のマチズモをあらわにしていくわけで、そうやってラナとの間に生まれていく亀裂は冒頭で予告されたとおりあらかじめ存在していたに過ぎない。してみると、過去を夢想し時代と意識の変化から目をそらし続けることで社会から取り残されていくウィリー・ローマンは、彼を演じ棺におさめられたエマッドと、その同じ時間に小部屋に閉じ込められていたトラックの男(ファリッド・サジャディー・ホセイーニ)への投影にも思え、知識階級であろうと労働者階級であろうと等しく身勝手な社会を形作ってきた者たちとして、最後まで顔も姿も見せることのない名も無くいかがわしき女によって叩きのめされ弾劾されたということになるのだろう。ただ、これまで描いてきた社会と自身とが二重に掛け違えたボタンで窒息していく男女の機微からすると、補助線としての劇中劇「セールスマンの死」が構造をキメ過ぎたようにも思えてしまい、特にトラックの男を引きずり込むための為にする展開は少々策に溺れた気がしないでもなく、目的としては最後まで自分を復讐の気分に駆り立てたものの正体に気がつかないエマッドの悲劇を据えるはずが、最後に鏡像同士をぶつけ合うことで悲劇の質が曖昧にぼやけてしまった点で、キャリアの更新には至らなかったなあというのが正直なところだったのである。知識階級が彼方から墜落する話として何となく『隠された記憶』を想い出したりもしたのだけれど、忘れがたく切実な自害をワンカットでみせたあの男はトラックの男の娘婿と同じマジッド=Majidという名であった。
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2017年06月28日

ハクソー・リッジ/ぼくのかんがえたせんそう

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自分がしていること、しようとしていることは人殺しのサポート以外のなにものでもないにも関わらず、食べ物を地面に落としても3秒以内に拾えばきれいなまま!的なルールのごとく、銃に触りさえしなければ僕は汚れないのだ!と謳うマイルールに殉教するデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)を主人公とする『フルメタル・フォレスト・ガンプ』としては、文句なしに充分な娯楽を提供してもらったのである。若干の悪い種子的な子供時代を経て、『サイコ』のアンソニー・パーキンス的爽快の不穏を身にまとって以降、終始デズモンドは共感の遠くにいた人なのだけれど、銃を不殺の十字架とするに至ったフラッシュバックシーンにおいてのみデズモンドはこちら側の人としての感情を爆発させていたわけで、それは唯一彼が理解可能な人間らしく見える瞬間だったのだけれど、してみるとデズモンドはこの時の衝撃によるPTSDとして、以降は夢見るような退行に引きこもってしまったように思えるのだ。そうやって他人の感情を斟酌せず自らの感情に忠誠を誓う快感に耽溺するその姿は、たった一度会って一目惚れしたドロシー(テリーサ・パーマー)にその翌日、結婚を申し込むのだとめかしこんではちきれんばかりの笑顔でくるくる回る薄ら寒さにおいてホラーであり、常軌を逸した人だからこそ常軌を逸した行為を可能にしたのだという至極凡庸な予定調和をその後はみ出すことはなかったのである。とは言え、銃をとれば救えたであろう仲間の命を神に捧げてこそデズモンドの殉教が真に試されたことになるわけで、実話に基づくとは言え、その点において決定的な追い込みが足りていなかった点に、強迫ドラマのマエストロとしてのブランクがうかがえてしまうのはやむをえないところか。切り株丸太のゴア描写は目に麗しいものの、『プライベート・ライアン』で見た糸の切れた人形のダンスからするとやはり振り付けられた踊りの段取りが透けてしまい、それは結局死の軽重にもつながっていたようにも思うわけで、あくまで戦争の無効化ではなく日本軍の無効化においてのみデズモンドがヒーロー足り得ることを、最終的には隠すことすらしなくなっていくのである。だからこそ異物たる日本兵は落ち武者のように貧弱で痩せこけた猿のようであってはならなかったのだろう。でも我が兵は地下壕でいったいなに食ってたんだろ?
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2017年06月27日

ジーサンズ はじめての強盗/怒った奪った笑った

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まずは腕試しにと3人が万引きをはたらいたスーパーの店長キース(キーナン・トンプソン)は、まあいつかはオレも年をとるし今回は大目に見るからもう勘弁してくれよってな風に物分りの良さを見せて、ああこれはそうやって善人であふれる映画だもんなとほのぼのさせておきながら、後になって彼がFBI捜査官ヘイマー(マット・ディロン)に爺さんたちの情報を交換条件付きであっけらかんと注進する食えなさには一瞬おいおいとは思うのだけれど、そもそもこれが弱者(有色人種と老人、店長キースは黒人である)が強者の白人システム(銀行&FBI)をコケにすることでささやかなクオリティ・オブ・ライフを手に入れようと奮闘する映画であることを思えば、キースのしたたかさこそもまた祝福されて然るべきなのである。そうした弱者の一撃としてのダイバーシティ包囲網が、文字通り命がけのピカレスクとしての苦みを薄めた嫌いはあるにしろ、今の時代にリメイクする企図として、我々はいっそうしたたかであれ!というエールを贈ると決めたセオドア・メルフィ(『ヴィンセントが教えてくれたこと』&『ドリーム/hidden Figures』の監督&脚本)の脚本が、このガンコで洒脱なケイパームーヴィーの勝因となったのは間違いがないところだろう。いつもは映画のマジックが年齢を消し去っているモーガン・フリーマン(80歳)、マイケル・ケイン(84歳)、アラン・アーキン(83歳)の3人がそろって老人っぷりを競う贅沢な可笑しさとそして若干のせつなさは永遠にも行き止まりがあることを言葉少なに告げて、夕暮れが静める日差しの穏やかさは何ものにも代えがたい時間であった気がしたのだ。カートに乗ってはしゃいでいたのは特殊メイクをしたジョニー・ノックスヴィルではないのだから。
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2017年06月23日

ドッグ・イート・ドッグ/カーヴを曲がると永遠が見える

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始まって間もなく、マッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)は自らの不埒とデタラメを元カノにぐうの音も出ないほど責め立てられ(言うまでもなくこの時点でとっくにおクスリ注入済みである)、当たり前だが申し開きができる余地など毛じらみのサイズすらあるはずもないマッド・ドッグはそれがただただ悔しくてたまらず、ほんの一瞬泣きべそのような表情をしてみせた後に、アンクルホルダーから抜いたナイフを一閃し盛大な逆ギレに転じる。そしてそれを目撃した元カノの娘を2階に追ったマッド・ドッグは慣れた手つきで枕をサイレンサー代わりに少女を撃ち殺すのである。さすがに直接的なヘッドショットのシーンはないにしろいきなり差し出される名刺代わりの子供殺しに、この先どういう筋を立てていくつもりなのか行く末を案じたりもしたのだけれど、映画はそれをまったく引きずることもないどころか、むしろその殺戮の昂奮を落ち着かせないことしかアタマにないその後の道行きだったのである。そこまでされれば鈍いワタシもさすがに気がつくわけで、デオドラントされた世界にスポイルされたワタシが鈍らになっていただけなのだ。物語は、行って帰ってこなければならない、その時何かを獲得しなければならない、その代わりに何かを失わねばならない、そして何かを気づかねばならない、それらを観客にも分け与えねばならない、そうした“ねばならない”にがんじがらめになっていたのはワタシの方だったのであり、それを何とか伝えようとマッド・ドッグとトロイ(ニコラス・ケイジ)とディーゼル(クリストファー・マシュー・クック)の3人が物語を解体する返り血でドロドロになりながら、鼻歌で冥府魔道を歩いて行く姿の神々しさにワタシは頭を垂れるしかなかったのだ。ポール・シュレイダーがやはりニコラス・ケイジと組んだ前作『ラスト・リベンジ』が“ねばならない”に窒息して行き倒れてしまっていたことを思い出してみれば(それはそれでその転び方が愉しいのだけれど)、好き勝手に圧縮と解凍を繰り返すことによる酩酊がもたらす“ねばならない”からの解放は、誰よりもポール・シュレイダーが突きつける現状へのファックサインだったのだろう。マッド・ドッグが2度めに(そして人生最後の)泣きべそを見せた直後、その意味すらかき消すべく反響する自分の撃った発射音に悶絶するディーゼルの姿こそ、この映画が底を踏み抜き続けたニヒリズムの集約だったようにも思え、そしてラストに配される、おそらくは今際の際にあるのだろうトロイが見る霧に包まれた幻想シーンの『雨月物語』オマージュと、そこではなぜかハンフリー・ボガートの口調を真似て喋り続けるトロイの姿も相まって、オレは「映画」を撮りたいだけなんだというポール・シュレイダーのつぶやきが静かに沁みわたっていく気がしたのである。なんだか、ルメットが『その土曜日、7時58分』で突然前線に復帰した時を思い出した。この傑作に試されるべき。
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2017年06月22日

アイム・ノット・シリアルキラー/ぼくがひとりでいるところ

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※いささかネタバレ。まあポスター見れば気づくけど、念のため。

父親のいない家庭で姉も家を出てしまい、母と2人互いの屈託をくすぶらす16才のジョン(マックス・レコーズ)は、などと書いてみれば、ジョンがかつてマックスだった頃の映画を当たり前のように思い出したりもするわけで、そのラストにおいてボクたちはみな最終的には一人なんだと独立宣言をすることによって世界に参加したはずのマックス(当時8歳)は、孤独の淵をのぞき込み過ぎたせいなのか何なのか、中西部の名もなく寒々しい小さな町でソシオパスであることだけをよすがに16才の日々をそれなりにやり過ごしていたのである。そんな性向のマックスに、でも親子の絆は大事よねと生家の葬儀場で死体処置を手伝わせる母エイプリル(ローラ・フレイザー)もたいがいなのだけれど、セラピストのネブリン先生(カール・ギアリー)の、まずは自分がヤバイやつだってことをアタマに叩き込むところから始めようぜっていう愛あるカウンセリングもあってか、いじめっ子に向かって「オレはソシオパスって正式に診断されてるんだよ、そういうオレにとってお前はただの段ボールみたいに退屈な存在なんだよね、でも退屈な段ボールだって切って開けてみたら中に何か面白いもんが入ってるかもしれないだろ?だからお前がそうやってオレにくだらないこと言ってる間、オレはお前を切って開けることばっかり考えてるんだよ、でもそんなこと実際にはしないよ、そういう人間にならないよう、そういう時は笑って何か気のいいこと言って済ませるルールをオレは自分に課してるんだよ」なんてジワジワくる啖呵を切れるくらいには片隅でバランスをとっているわけで、この映画の“冷たいくらいに乾いた(cdip)”心地よさはそうしたジョンの造形によるところが非常に大きいように思う。劇中でただ一度だけジョンが直接的な暴力をふるうシーンがあるのだけれど、その突発性と暴力直後にとった行動の振れ幅からすれば、果たしてジョンが胸をはるほどのソシオパスであるのか、まだその境界でふらついているだけのようにも思うのだけれど、肝心なのはソシオパスという鎧によってジョンが日常を持ちこたえているという現状なわけである。そうやって七転八倒するアドレッセンスからの通過儀礼をあてにしないからこそ、クローリーさん(クリストファー・ロイド)との異種格闘技戦に向けてジョンを急場しのぎで仕上げる必要もないわけで、ジョンの孤独だけれど確信に満ちた戦いが最終的には親子の共同戦線につながって、ついには母との絆もよみがえってめでたしめでたしという麗しき家族愛で着地すらするすまし顔は、ジョンが“成長”し、性向が“治った”からこそのハッピーエンドでない点において爽快かつ痛快だったのである。空の広さに覆われた町の“冷たいくらいに乾いた(cdip)”空気をロビー・ライアンによる16mmフィルム撮影が終始とらえ続け、ざらついた粒子に定着するマックス・レコーズの張りつめた端正が映画を最後まで真顔のままつなぎとめることにすばらしく手を貸している。まったく触れてこなかったオチというかクローリーさんの正体はそれなりにちゃぶ台を返すけれど、あれで映画全体が少しだけファンタジックに浮きあがるわけで、ジョンの冒険譚としてはむしろ正解。相手が何であれジョンに人殺しをさせたら、この映画は負けだから。
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2017年06月19日

パトリオット・デイ/死んで花実を咲かせましょう

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イラクでもアフガニスタンでもなく合衆国本土で繰り広げられるオーヴァーキルとサーチ&デストロイは、ほとんど戦争映画といってもいいだろう。そうした意味では、発砲音や爆破音のノイズサウンドとしての快感をより追求しブラッシュアップしてみせた『ローン・サバイバー』といってもいい。そして、実録モノであるにもかかわらずトミー・サンダース(マーク・ウォルバーグ)という架空のキャラクターを狂言回しにすえて本来複数の警官の持つエピソードを一人に集約することで、タスクフォースとしてのリズムを巧みに躍動させているし、『ローン・サバイバー』ではあまりにも馬鹿正直に描いた組織(シールズ)愛のために鼻白んだマッチポンプ的なヒロイズムの失敗を教訓に、徹頭徹尾被害者としてのメランコリーを全面に打ち出すことで追う者に全権を委任する手さばきは格段にスマートになっていて、3人の容疑者以外のすべての人々は善良で無辜な合衆国国民として、通常であれば憎まれ役のFBIでさえ特別捜査官リック・デローリエ(ケヴィン・ベーコン)にバランサーとしての弱気までも色づけてみせるのである。そうやって実在の人々についてはあらかじめの輪郭からはみださないよう注意をはらう一方、ドラマのポインターとして、たまたま爆破現場の近くにいるトミー、たまたま妻を巻き込んでしまうトミー、たまたま市街地の監視カメラの配置からアングルまですべて頭に叩き込まれているトミー、たまたまウォータータウンを一人巡回するトミー、といった架空のトミーが走り回るわけで、とはいえ終盤で問わず語りに意味のよく分からない善悪問答を唐突に語らせるあたり、さすがにこれでは少々薄っぺらが過ぎるという自覚はあったのだろう。劇中では木偶と化した実在の登場人物について、ラストで本人を登場させることによって命を吹き込む手口すらもピーター・バーグは嬉々として自らの刻印としたかのようにも思える。しかし、政治的宗教的大義名分の衝突を周到に回避するため、このテロリズムがジハードであることを矮小化する手続きにおいて、犯人タメルラン・ツァルナエフの妻キャサリン(メリッサ・ブノワ)を取り調べる尋問者(カンディ・アレキサンダー)の、まさに『4デイズ』のサミュエル・L・ジャクソンそのままの登場がこの映画の隠しきれないキナ臭さを一瞬ぶちまけてしまっていて、ワタシにとってはここがこの映画のピークとなった。だからといってピーター・バーグが右からの愛国者かと言えばそういうわけでもなく、おそらくは労働倫理としての殉職にフェティシズムを抱いてしまうだけであって、それはキャスリン・ビグローの隊フェチのようなものなのだろうと今のところは考えている。
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2017年06月18日

ゴールド/金塊の行方、そしてあきれるほどの行方

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『ダラス・バイヤーズクラブ』『ニュートン・ナイト』に続いて、変則の矜持を抱えたアウトローの自爆がアメリカの躁病的な勝者総取りのシステムを蹴り上げる異形のピカレスクを、ここではハゲ散らかしたブリーフ一丁の山師としてマラリアの熱に浮かされたマシュー・マコノヒーが熱帯雨林の熱情でギラギラと塗りたくってみせる。下敷きとなった実話はなにしろグレーな部分が多いようなのだけれど、劇中では特に叙述トリックを駆使していたようにも思えないから、負け犬のタッグが世界を手玉にとった話として額面通りに受け取っておけばよいのだろう。そうすることでケニー・ウェルス(マシュー・マコノヒー)のみならずマイケル・アコスタ(エドガー・ラミレス)の屈託までもが鈍色の花を咲かすことになるわけだし、ケニーを利用できるだけ利用しつつ、しかしその友情と意気を裏切ることはしなかったマイケルの一発逆転には、「いいか、俺が執着してるのは金(マネー)じゃないんだよ、俺が執着してるのは金(ゴールド)なんだよ、それは違うんだよ、まったく違うことなんだよ」というケニーの呪詛が連なっているように思うのだ。そしてこれもまた「手ざわり」のオミットを合理ともて囃すレーガノミクスアメリカへの逆襲ということになるのだろう。それにしても、バスローブにブリーフというコンビネーションの殺傷能力はほとんど発明にも近いのだけれど、それもこれも絶妙に緩んでたるんだ(太ってしまってはだめなのだ)アールで輪郭されたマシュー・マコノヒーの肉体があればこそで、その完璧な三位一体でケニーが誘うベッドに辛抱たまらんと飛び込むケイ(ブライス・ダラス・ハワード)のティファニー丸出しな昭和ルックがこちらも完璧にしつらえられていて、この映画が向かう洗練の方向はこのシーンにまるごと集約されている。まあ、オレンジ・ジュース(「リップ・イット・アップ」)が高らかに鳴らされた時点でとっくに勝ちは決まっていたにしろである。ピクシーズ、ニュー・オーダー、ジョイ・ディヴィジョン、テレヴィジョンとかウチから持ってったTDK AD60のMIXED TAPEかと思った。
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2017年06月16日

20センチュリー・ウーマン/拭けないケツならしまいなさい

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アビー(グレタ・ガーウィグ)との「これはなに?」「レインコーツよ」「彼女たちは自分が下手だってわかっててやってるのよね?」「そうよ」という真顔のやり取り、トーキング・ヘッズとブラック・フラッグとのセクト主義的対立への呆れ顔、そしてカーター大統領の「信頼の危機」演説への喝采などなど、ドロシア(アネット・ベニング)の、あくまで自分の手ざわりを信頼した生き方、というかそもそも私が私であるということはそういうことでしかなく、それは同時に他の人間が持つ手ざわりを尊重することでもあって、そうした生き方の自然で無意識の徹底が、周囲にはフリー&イージーかつラディカル、あるいはジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)に言わせれば時代遅れの“大恐慌世代”に映るのだろう。したがって、定量化されるアメリカの憂鬱を嘆くジミー・カーターの演説にドロシアただ一人が賛意を示したのも、手ざわりまでもが定量化されていく世界へのメランコリーがそうさせたように思うのだ。しかしそうした時代のうつろいをただネガティヴに否定する悪癖をドロシアのスマートが許すはずもなく、ジェイミーの後見人になってくれないかというアビーとジュリー(エル・ファニング)への一見したところ突飛な申し出は、自分にはフィットしないけれどジェイミーが避けて通れないものの見方を伝えるためのきわめて実際的な考えによっていたのだろう。たった一人クラブに足を運び、踊りさんざめく若者たちを夕暮れのような穏やかだけれど悲しげな目で見やるドロシアのシーンには、切なくすらある彼女の真摯が見てとれる。アビーとジュリーの2人ともそれぞれが母親との関係を傷ませていて、それをドロシアが知っていたのかどうかわからないけれど、あてにしたのはそれと折り合いをつけて生きている彼女たちが醸すタフネスなのだろうし、アビーによるジェイミーへの“イズム”の教育に烈しい口調で注文をつけたのも、教えて欲しいのは他の誰かの考えではなくて、悲しい時には踊るのだ、といった風なあなた自身のことなのだから、という気持ちでいたからなのだろう。しかしこれは、ジェイミーのビルドゥングスロマンの体を借りつつ、実際のところは、そうあって欲しい15才のアメリカ人少年を彼に投影することで自分の手ざわりをあらためて確認する3人の女性達の物語であるわけで、「セックスすれば友情は終わるわ」と目の据わった美少女に言い放たれる15才の童貞にワタシは心の底から同情したのだ。清志郎ですらがどん底の放蕩を経ることで “セックスのつながりさえ無ければ、本当はきっとうまく行くにちがいない。ずっと調子よく空想なんか必要なく、空想よりもっといい所で暮らせるのさ”という言葉にたどりついたことを思い出してみれば、15才の苛酷な試練を我がものとせざるを得ないのである。この映画にあふれる清潔な悪意、清潔な皮肉、清潔な怒り、清潔な嫌悪、清潔な絶望の「清潔」は血と汗と涙と鼻水をぬぐわれ漂白されなおへばりつく感情であり(まさにトーキング・ヘッズだ)、言ってみれば初期衝動を突き抜けたポストパンクの「ポスト」であって、ブランク・ジェネレーションが成熟していく80年代がここから始まり、やがてジェネレーションXと呼ばれていくわけで、良くも悪くもバランサーとしての批評性という宿命を背負った世代の萌芽がジェイミーに見てとれる気がしないでもない。それはエゴが量り売りされる時代で、そうすることでみんな世界を手なずけた気になっていくのである。カーターはまったく間違っていなかった。
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2017年06月13日

怪物はささやく/死ぬのがきらい

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13才の少年がたった一人、拳の中に想像力だけをにぎりしめて寄る辺のない世界と対峙する時、「想像してくれよ。そこがたとえどんな、ひどい場所だとしても。君は君の力でどこへでも行ける。瞳をあけたまま、宙をみつめ。」と歌う浅井健一の息を切らした歌声が聴こえた気もして、そもそも映画を観るということはそういうことではないのかと今さら思ってみたりもするのだ。自分の中にある光と影を、愛と憎しみを、真実と嘘を、そしてそれらに引き裂かれて自罰と他罰の傷を刻み続けるコナー(ルイス・マクドゥーガル)に「わたしが来たのはお前の母親を治すためではない、お前を癒やすために来たのだ」と語りかけるモンスター(リーアム・ニーソン)が最後にはコナーをどこに導いたのか、モンスターを生み出し、呼び出し、送り込んだその想像力こそがコナー(ルイス・マクドゥーガル)と最愛の母(フェリシティ・ジョーンズ)を永遠につなぎとめる絆であることが明かされるラストで、これが少年のイニシエーションのみならず母から息子への最期にして至高の愛情を伝える物語であったことが告げられて、この原作にJ.A.バヨナが惹き寄せられた理由がより親密な手ざわりとなって伝わったように思うのだ。それは残された時間がないことのあらわれとしてなのか、人は善悪の両義性によって世界の広大を感知し生きる存在であることを語り、それを知ることでコナーが4番目の物語へとたどりつく道筋の荒々しさは、そこを歩むのが13才の少年であることの痛切と相まって相当に胸が苦しいのだけれど、それはおそらく自分の近しい人が死に向かっている日々の絶えずどこかで轟音が鳴り続けるような感覚への接近ゆえなのだろう。しかしそうやって死の忌避感を乗り越えていくことで、母と息子の絆三部作の掉尾を飾る作品として、バヨナは少年が一人歩き出す未来を光の中に託してみせたにちがいない。ルイス・マクドゥーガルは、例えばニコラス・ホルトのように、ある日突然羽化した姿で現れてため息をつかせてもまったく驚きはしない可能性に充ちている。リーアム・ニーソンは素顔で一瞬カメオとして、しかしその意味合いからすればすばらしく素敵なアイディアとして登場していて、この物語の大きな救いの一つとなっている。
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2017年06月11日

夜に生きる/酔っても顔に出ないだけ

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※展開に触れています

原作未読。まず言ってしまうと、ベン・アフレック演じるジョー・コフリンの無粋な肩幅と、鉄面皮というよりは起き抜けのようなポーカーフェイスのせいもあって、彼には夜に生きる人の躁病的な倦怠が宿ることはなくむしろ睡眠が足りずボーっとしている人として終始しているし、ベン・アフレックの几帳面すぎる演出もあって、『L.A.ギャングストーリー』や『欲望のバージニア』と同様に淡々とエピソードを重ねていくシノプシス的な陥穽にはまっていないこともないのだけれど、その両者がコスチュームプレイに作家性の余白を塗りたくることに気を取られて躓いていたことを考えると、ベン・アフレックの愚直な攻めは当時のスピードとして存外にマッチしていたように思うのである。その結果、A型フォードのカーチェイスをモダンなアングルでとらえるスリルやトミーガンによるファナティックな銃撃戦はスクリーンサイズならでのは昂奮がずっしりと腹に響くし、1920年代フロリダにおけるギャングとKKKの激突やファンダメンタリストとの交錯はエルロイ的なノワールのカオスが垣間見えたりもして、禁酒法時代アメリカの歴史絵巻としては至極眼福だったのだ。時折エル・ファニングのようなイレギュラーにハッとさせられたりはしたものの、キャラクター自体は灰色に記号化されたボールとして予想通りにストライクゾーンを出し入れするにとどまっている。しかし、1930年代のギャング映画でジェームズ・キャグニーやハンフリー・ボガート、エドワード・G・ロビンソンたちがヴィヴィッドだったのはそれが同時代的なアクションを見せていたからで、そのメンタリティを忠実に再現すればするほど現代との差異が輪郭となって浮き上がってしまうのはしかたがないことなのだろうし、その点においてベン・アフレックのスクエアな演技プラン(だとすれば)自体は妥当なはずなのである。とは言えやはりベン・アフレックの適役はあくまで弁慶であって、『ザ・タウン』のグルーヴを生んでいたのは義経としてのジェレミー・レナーであったことを思い出してみれば、ベン・アフレックが義経を演じたこの映画がスウィングしなかったのは当然の結果ということになるのではなかろうか。また、演出として一つ致命的に思えたのは、精神の正常を失したアーヴィング・フィギス(クリス・クーパー)がコフリン宅を銃撃するシーンで、誰もが忘れていた過去の負債を突発的に支払わされるからこその悲劇であったはずなのに、わざわざその直前に錯乱したフィギスのカットをインサートして、皆さんお忘れかもしれないのでおさらいしておきますが、こういう男がいたことを思い出しておいてくださいね、ここ重要なのでテストに出ます、と念押ししてしまうのだ。実生活ではいろいろと底の抜けてしまう男が、いざ監督として映画を撮るとなるとこうやってしゃちほこばってしまうのは、ベン・アフレックの映画芸術に対する忠誠の証しであるのは間違いないにしろである。粋は血であって努力すればするほど逃げていく。哀しいけれど。
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2017年06月08日

LOGAN / ローガン&チャールズ・カム・アラウンド

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自覚なく高速道路を逆走する高齢者ドライヴァーのごときチャールズ(パトリック・スチュワート)と、彼を介護するために誇りを捨て意に添わぬ仕事で日銭を稼ぐローガン(ヒュー・ジャックマン)が夢見るのは、金を貯めクルーザーを手に入れて大海原に閉じこもる日の陽光であり、老いよりも何よりもまずはこの「酒とクスリの日々」の鈍色に塗りつぶされた姿に胸が衝かれてしまう。かつて、きみたちは「人間もどき」であると同時に「人間以上」だけれど、その何よりも前にまずは「人間」でなければならぬと説いたチャールズと、不死を呪いと受け止めたローガンの体に忍び寄る肉体と精神を共に覆う老いの変調はまさに人間そのものの宿命でありながら、ミュータントと人間の共存というチャールズの抱いた美しい野望が地に落ちた世界にあっては「人間もどき」には安らかな老いすら許されないのだという絶望的な終末感に、ああこの2人はおそらく死んでしまうのだろうと嗅ぎつけることで、次第に最終回ならではの奇妙な昂奮が宿り始める。あらたなミュータントの存在を感応してどこかしら狂気じみた光すら宿して昂奮するチャールズ、制御できずに暴走したメンタルブラストでなぎ倒した罪なき人々の中を、ああ私のせいなんだ、すまないすまない…、と泣きながら車椅子で走り抜けるチャールズ、自分たちが災厄を呼ぶ存在であることからふっと遠ざかりぬくもりを欲しがったことで「人間」の一家惨殺を引き寄せてしまうチャールズ、といった、すべてを始めた男への負債の突きつけ方は思いのほか容赦がない。しかしその手続きのおかげで、その後繰り広げられるローガンとローラ(ダフネ・キーン)による殺戮の道行きを浄化されたセンチメンタルで彩ることが赦されていたように思うのだ。今際のきわにローガンがローラに語りかける「もうおまえは戦わなくてもいいんだ、やつらの思い通りに生きる必要なんてない」という言葉は、ローガンがついぞ誰からも言ってもらえなかった言葉でもあったわけで、それはローガンが「そして父になる」ことで血の通った言葉として受け継がれることになるのだけれど、ワタシはその腑に落ち方よりはやはり、チャールズの物語としてユートピアの終焉を突きつける「ぼくたちの失敗」の取り返しのつかなさに心を揺さぶられてしまうのだ。それはすなわちローラに向けたローガンの言葉の不毛を裏打ちしてしまうことにもなるわけで、チャールズの“たったひとつの冴えたやりかた”が朽ちてしまった未来にあって、あの少年少女たちが誰も傷つけることなく生きのびていくことの困難さに思いを馳せてしまうのだけれど、森を過ぎ国境を越えて消えていく子供たちはミュータントというよりも真にマージナルな存在に思え、『シェーン』から引用することでローラに「一度人を殺した者はもう後戻りはできない。それが正しかったとしても、人殺しの烙印は消えることがない」とまるで自分たちへの戒めのように語らせておきつつも、チャールズもローガンも子供たちも誰もいなくなってしまったその後で、「不正をはたらく者には不正な者として、正しい行いをする者には正しい者として、心の汚れたものには汚れた者として、彼は映るのだ」とジョニー・キャッシュに歌わせることで、死んでいった者には鎮魂を、生ある者には救済を与えてみせて、ワタシは清冽な笑顔すらあふれる綺麗で気持ちのいい葬儀に参列した気分だったのだ。それだけに、最後に歌詞の字幕をケチったのが何とも残念に思えて仕方がない。
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2017年06月04日

皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ/そろそろ殴ってもいい頃

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※展開にふれています

ヒーローとヒロインが結ばれる場面とは到底思えない試着室での凍てついて荒んだセックスで感情は底を打つも、まだエンツォ(クラウディオ・サンタマリア)はそのことに気がつかない。ようやくにして自分が失い続けてきたものを彼が知るのは救った子供の母親に全身で抱きすくめられた瞬間で、人はみなそれぞれが誰かにとっての大切な手ざわりとなって生きていくのだと教えてくれたアレッシア(イレニア・パストレッリ)を失った慟哭が、彼を自己犠牲の獣へと変貌させるのであって、トロマもかくやというトキシック・ヒーローの右往左往に、まさかそんな風にしてザンパノとジェルソミーナの聖性が宿るとは思いも寄らなかったのだ。前述した試着室でのシーンを物語のターンとする寄る辺のなさは、今となってはアメリカのスーパーヒーローが容易には持ち得ない底辺からの視点によっていて、ヴィランたるジンガロ(ルカ・マリネッリ)の実存の狂気でも世界征服の野望でもない、俺様を蹴飛ばし続けてきたムカつく世界の転覆にただただ焦がれる切実にはある種の純粋さすらを感じたわけで、これが重苦しいビルドゥングスロマン一辺倒に沈まなかったのは、このピカレスク的痛快によるところが思いのほか大きい。自己犠牲など欺瞞に過ぎないのではないかという自家中毒を発症したアメリカのヒーローたちにとって、この映画は彼らの失われたイノセンスとして憧憬と郷愁を誘いすらするのではなかろうか。今作にしろ『マジカル・ガール』にしろの、サブカルチャーとしての衒学ではなく物語の強度を支える柱としてのアニメ(『マジカル・ガール』の場合は架空アニメだけれど)に託されたのは、物語を信じろ!という祈りにも似た叫びであり、それを誰よりも叫び続けているのがシャマランであることは言うまでもない。そしてラストで示される、物語を引き受けるゆるぎのない意志は『ダークナイト』にも匹敵し、もしくは彼が光と闇の一体化を突き抜けたにおいてそれを凌駕したようにすら思い一瞬血が逆流したのである。もはやつべこべ言わず正面から突破する時代であることをワタシたちは知らねばならぬ。
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2017年06月02日

映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ/共謀しようそうしよう

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自由になりたい、自由になれない、どうすれば自由になれる?東京で生きるっていうことはこのどれか、あるいはその全部に目をつむることだ。と書いてみる字面の青臭さをそのまま青臭いとは言わせない、その切羽づまった息づかいさえ伝わればもうそれでいいという潔さだった。デラシネと書くとそれなりだけれど、浮き草であり根なし草である。そうやってただ東京にしがみついているだけのお前らがなぜそんなに笑ってられるのかと罵倒する美香(石橋静河)の不機嫌と、あらかじめ半分しか視えない世界の残り半分を言葉で埋め尽くそうとする慎二(池松壮亮)の焦りとあきらめのないまぜが、泳ぎ続けなければ死んでしまうサメのように止まらない饒舌で絡み合っていくことで、日雇い人夫とガールズバーでバイトをする看護師の、キスやセックスの手を借りないまるで同志愛のようなラブストーリーがほとんど奇跡的に成立している。人の手が作る大量の弁当、レンジ食品が並ぶ家族の食卓。片隅で身を寄せ合うだけのコミューンがさらに片隅の誰かを追いつめる。そうやって記号化され無効化される温もり、のような言い訳。どれだけ有効求人倍率が上がろうと消費支出がマイナスなのは、強食すらいない弱肉弱食の見事なからくりのせい。それらを説明するのではなく、むしろ説明しないための言葉を宙に浮かせておく間の悪さは当然計算ずくだろう。それを綱渡りのように細やかな緊張で行ってみせるからこそ、あのストリートミュージシャンの歌う紋切りソングには落胆してしまうのだ。あの歌の「がんばれ」にまとわりつく自己弁護のようなナルシシズムは、必死の相対化によって世界からの流れ弾をかいくぐる美香と慎二の対極にあるものだし、だからこそ美香と慎二はあの人売れないよねと合意したのだろう。ワタシにはあれもまた記号化された温もりとしての「がんばれ」としか思えないからこそ、ストリートミュージシャンの一発逆転はむしろ美香と慎二に絶望を突きつける証左となるはずで、ならば2人の顔に浮かんだ救いのような明るさはそれにそぐわない気がしてならないし、ラストでのおはよういただきますに関するくだりも、それまで弾幕のように撃ち続けてきた言葉のアナーキーを一気に矮小化してしまう気がしたものだから、蛇足!と思ったのが正直なところで、美香と慎二のみならず映画もまた、自由になりたい、自由になれない、どうすれば自由になれる?とあがき続けていたのは間違いないにしろ、最後の最後で物語に頼ってしまったことでそれまでの酔いが醒めてしまった気もしたのだ。石橋静河は、怒り出しそうな、泣き出しそうな、笑い出しそうな、そういう助走の瞬間、いったんすべて同じ表情になる先の読めない緊張感が、言うまでもなく貶しているのではない、スリリングでずっと目を離せなかった。そして池松壮亮が初めてバカリズムに見えなかった。

都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。

きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい。


詩集から引用されるこうしたモノローグがガンさばきのように散りばめられる中で
「ワキ汗かいて気にして、わたし生きてる/目を逸らして、いつもの作り笑顔/みんな同じでしょ/ここは東京/でも頑張れ/頑張れ」
こういった自作の歌詞をしかもメルクマールとしてインサートしてしまう監督の意図はやはり理解しようがないけれど、それがアクシデントだったとしても想像を超えた立ち上がり方をしてしまうのが映画の面白いところなのだなあとあらためて思わされた次第。
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2017年05月29日

光をくれた人/西部戦線異状あり

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トッド・ヘインズで言えば『エデンより彼方へ』にあたるような舵の切り方をトライしてみたということになるのだろうか。しかしこの映画は、メロドラマのスタイルでアプローチすることによって隠された物語を届けるというよりは文字通りの泰西名画的なメロドラマのまま矛を収めてしまっているように思え、こちらはいったいどこに爪を立てて追いすがればいいのか最後までぼんやりとしたままだったのである。原作を読んでいないので、デレク・シアンフランスがどのような意図をもって脚色したのか、あるいはどの程度忠実であったのかがわからないのだけれど、最も苛烈な前線であった西部戦線からの帰還兵トム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)、2人の兄を戦争で失ったイザベル(アリシア・ヴィキャンデル)、そして、そもそも運命の糸がほつれ始めたのがハナ(レイチェル・ワイズ)の夫フランク(レオン・フォード)が戦争の敵国であるドイツ人であったからだとすれば、この物語を覆うのは人類最初の大量殺戮が行われた第一次世界大戦の影であって、未曾有の喪失と未来への再生の境界にあって両者を照らす光を象徴するのが灯台なのではなかろうかと考えてみるのだけれど、果たしてその灯台が劇中でどのように機能したかを考えてみても、すべてがトムとイザベルという夫婦の愛情の在りかに収れんしていくことを第一義に掲げるあまり、隠された物語は隠された物語のまま、美しく壮大な自然の中へ呑み込まれてしまっていたように思うのである。戦争神経症にも映る自罰の縛り上げるメランコリーに苛まれるトムと度重なる流産に見舞われるイザベルには同情こそするものの、あらかじめ規定された不幸の枠組みのせいなのか、わたしたち不自由で不完全な人間が身体を寄せて光を求める感情がそれを越えて流れ込んでこないのである。フィクションに対する野暮を承知で言うと、そもそも孤絶した島での出産、しかも前回の流産を経ての2度目ともなれば早めにイザベルを島から町に戻すといった対策をなぜ立てておかないのか理解に苦しむし、そのあたりの追い込み方が不幸のマッチポンプにすら思えてしまったのだ。ついでに言えば、本来トムが贖罪の場として選んだヤヌス島がどれだけ孤絶した島なのかがいまひとつ伝わらないことで、閉塞したエデンの悲劇性が運命をツイストしきれなかったように思うのである。そんな風にして、街で一番の金持ちにして有力者の娘であるハナが、フランクがドイツ人ということで誰からも祝福されないまますべてを捨てて愛を貫く物語でさえ、トムとイザベルがたどり着く赦しのための装置とされるわけで、邦題の『光をくれた人』というのが実はフランクその人に他ならないことを告げてみれば、ワタシが感じるわりと致命的な違和感が伝わるだろうか。ドイツ移民として偏見と憎しみにさらされながら、「赦すのはたった一度でいいんだよ、でも腹を立てたらそれを一日中、毎日、ずっとそうしていなきゃならないからね」と小さく微笑むフランクと、彼が宿している光を身分や出自にとらわれることなく見つけたハナの物語をワタシはもっと知りたいと思ったのだ。監督が臆面もなく「『光をくれた人』を撮ることで、僕は妻に“いつまでも一緒にいてほしい”というメッセージを届けたかったんだ。」と言い切っている以上、詮ない話であるにしろ、である。
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2017年05月26日

ジェーン・ドウの解剖/死んでるんだぜ

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結論から言ってしまうと傑作である。以下、特に気づかうつもりもなく内容に触れまくっているので、タイトルやキーヴィジュアル、予告篇にほんの少しでも気持ちがひっかかったなら迷うことなく映画館へ向かわれることをお薦めする。

或る夜の死体安置所で起きた怪異と、それに出くわした検視官親子が過ごすいつ明けるともしれぬ夜を、オカルトで道に迷わせ、ホラーで閉じ込めてはテラーで破壊するその確信に満ちた手さばきと地肩の強さには、やたらオブセッションを仮託したがるスタイルとしてのホラーには届き得ないゲームセットの感動すらがあったのだ。何と言っても、死体安置所というホームグラウンドで検視官という死体の専門家がプレイする言い訳のきかない設定に知らず昂奮も高まるわけで、形而下のプロフェッショナルが底知れぬ形而上の存在と対峙し、知識と技術というナイフで切り刻もうとするも、それによってさらなる闇に満ちた恐怖を引きずり出してしまう絶望のなんと滋養に満ちていることか。そうした職業人としての矜持は『トロール・ハンター』から通底したようにも思え、あくまで人間のドラマであることから離れない監督の腰の落とし方こそが、こらえが利かず走り出す下世話ではなく、一歩一歩を踏みしめるすり足の思慮深さを生み出しているのだろう。要するにバカがバカをしでかすことで生まれるサスペンスを最下等にみているということである。俺たちの武器は切って調べることだとばかりジェーン・ドウの身体を切り刻んでは、片っ端から情報を集め推測と仮説を組み立てていく。しかし彼らがその作業を精緻で的確に果たせば果たすほど、そのたどり着く先で待ち受ける漆黒の袋小路に彼らは堕ちていくわけで、そんな風にしてジェーン・ドウが語り出す暗黒のドラマ(なんとセーラムの魔女裁判にたどり着くのだ)を知った父トミー(ブライアン・コクストン)は、絶体絶命を切り抜けるためのプラグマティックな対処として「おれはお前の味方だ、お前を助けたい」と形而上の存在に向かって語りかけることすら躊躇しないのである。しかしこれでジェーン・ドウに宿る何かが絆されて鎮まるようであればワタシはこの映画を傑作としなかったのは言うまでもなく、その後の惨劇を経てほとんど自然災害的に人間の都合を吹き飛ばす結末に滲んだのは、まるで台風一過のような青空の倦怠であったのだ。映画のほとんどがブライアン・コクストン、エミール・ハーシュの二人芝居による密室劇であり、なんとボスキャラたるジェーン・ドウはある1点の変化を除いて最後まで身動きひとつしないこともあり、繰り広げられるアクションはほぼ2人の自爆によっている。演技派といっていい手練れの俳優2人が、親子という関係の丁々発止のコンビネーションでスイングしていくリズムの心地よさにいつしか取り込まれているため、それが致命的に破壊されていく時に共に味わう恐怖というよりは絶望がいっそう切なくてたまらないのである。このあたり、『トロール・ハンター』もそうだったけれど、怪異を結果としてではなくあくまで原因として描くことのできる視点の深度と強度が、アンドレ・ウーヴレダルを彼たらしめる強力な武器となっているのは間違いない。あえて言えば最後のアレは蛇足と言えないこともないけれど、ジャンルに忘れず仁義を切ったということなのだろう。それにしてもみんな本当にいい死体だった。
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2017年05月24日

メッセージ/明日にして君を離れ

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原作既読。喪失しながら再生されていく、あるいは再生しながら喪失されていくうつつにすべての過去と未来が溶け込んでひとつの「わたし」になっていく、自我が永遠に向かって美しい身投げをするようなストーリーは、映像の特性に対応して「あなたの人生の物語」から「わたしの人生の物語」へと周到に書き換えられている。そしてまた、過去から未来へと一方通行的に流れる時間(リニアタイム)の認識から自由になることで、わたしに関するすべての出来事はその誕生から死までがあらかじめ起きてしまっていてなお起き続けているという、円環する時間の認識へシフトしていくスリルに関して言えば、フェルマーの定理のくだりを完全に省いたことからもわかるようにこの映画は半ば穏やかにそれをあきらめてしまっていて、それはヘプタポッドからルイーズ(エイミー・アダムス)への "Louise sees future" というメッセージに明らかで、言うまでもなく "future" という概念はヘプタポッドがリニアタイムで思考するルイーズ向けに翻訳した言葉なわけである。この言葉もあって、その後でルイーズが突破口として見つけ出す方法は彼女が獲得したあらたな時間の認識によるというよりは、あたかも「未来」予知を可能にしたかのようにも映ってしまい、それに伴ってタイムパラドクス的なややこしさも連れてきてしまうことになるのだけれど、ヘプタポッドに "future" という言葉を使わせた時点で、ヴィルヌーヴにとってもうそれはそれでかまわないという認識だったのではなかろうか。それよりは、ヘプタポッドとの邂逅によって新たな世界の眺め方を身につけたルイーズが、それによって彼女の娘ハンナの祝福された生から残酷な死までも見渡してしまうことになった時に、果たしてどのように人生を選択するのかを伝える筆を凝らすことを選んだように思うのだ。その結果そこにあったのは運命論的な選択への諦念ではなく決定論に対する自由意志的な決断の疼きだったわけで、となれば原作も映画もたどり着いたのは同じ答えであったということになる。もう一つ、映画ではヘプタポッドの来訪目的が加えられていて、彼ら(雌雄などなかろうが劇中で与えられた呼称に準じたとして)と人類が存在するこの宇宙を維持するためには、現在の地球と人類の状況は由々しき事態にあり、その警鐘と解決のツールを伝達するために彼らはやってきたわけで、ヴィルヌーヴがこれまで描いてきた内面の跳躍が世界を震動させるストーリーへと展開する脚色こそがまずは評価されるべきだろう。これまでも、強烈に精神的な漂白がなされた光景や風景によってSF的な異化を誘ってきたヴィルヌーヴだからこそ、枷を外し異化そのものを描くとなった時の強靭なソリッドだけで既に眼福であり、ヨハン・ヨハンソンらによる内爆するミニマルのサウンドデザインと相まってクロームの艶には生々しい息づかいすらが芽吹いている。もちろん『渦』における巨大ダムや『複製された男』における高層ビル、といった巨大建造物へのフェティシズムが今作では思う存分炸裂しているのは言うまでもない。ただ、今回はSFというあらかじめ異化されたジャンルにあって、これまでのように境界を逸脱する時のスリルと混沌が控えめにならざるを得ず、そこに未だ知らぬ感情がほとばしったかという点での抑制と冷静がそのまま映画のトーンとなったことで、ワタシもこれまでのように息が乱れることはなかったのである。しかしそれによってあらためて浮かび上がったのは、ヴィルヌーヴがメランコリーに沈むことなく光を追い求めるロマンチシズムの人であることで、やはり過去と未来が交錯する母と子の物語でそれを叩きつけた『灼熱の魂』がヴィルヌーヴとの出会いであったことなど想い出したりもした。つづいてSFジャンルとなる『ブレードランナー2049』では前述した逸脱のスリルと混沌に加えて落涙のメランコリーをどれだけ滴らせることができるのか、今作とは真逆の脈動で息も絶え絶えに喘がせてもらえればなあと思っている。
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2017年05月20日

スプリット/さっきより強くなっている

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「きみはほかのやつらとは違う!喜べ!傷ついた者こそが進化するんだ!」と叫ぶビースト=ケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)に感応したかのように、ショットガンを構えたケイシー(アニヤ・テイラー=ジョイ)から溢れ出すのは忌まわしい過去を洗い流すための涙だったのか、シャマラン作品に通底する弱き者の存在証明がここまで高らかに謳われたことはなかったように思うのだ。自分たちの置かれた状況がまったく把握できない修羅場で、しかし暴力の忌まわしい気配をとっさに感じたケイシーがマルシア(ジェシカ・スーラ)に小声で伝えた、女子高生とは思えない合理的かつ直接的にドスの利いたアドバイスに一瞬あっけに取られるのだけれど、なぜ彼女にそれが可能だったのかというストーリーがケヴィンのストーリーのスプリットとして語られていくことになるわけで、そこであらわになるのは一人の少女にとって陰惨で救いのない運命なのだけれど、そこを生きのびたことによってケイシーは、さらにもう一度生きのびることを可能にするのである。ケヴィンの変質もまた生きのびるための文字通り身を裂くような選択の結果であり、ケヴィンが隠れ住んでいた場所が最後に明かされた時、彼が人間に絶望して見切りをつけることであのアイデンティティーを切望したことを知り少しだけ血の流れが荒くなる。もういい加減シャマランの映画にサプライズのカタルシスを求めるのは無益だと知るべきで、シャマランが告げているのは、目に映ったすべては確かにそこに存在することを信じろ、そして同時に、目に映ったものが全てではないことを想像しろ、今キミが追い込まれているのならなおそうしろという作戦であることは『レディ・イン・ザ・ウォーター』ではっきりと宣言したではないか。すべては徴(サイン)の下に、隔絶された場所(ヴィレッジ)の記憶を武器に闘うケイシー、『アンブレイカブル』と化したビースト、その迎撃を予感させる“ある男”、そしてこれらすべてが“あの男”の采配であることすら伺わせる次作タイトル。パトロールカーのバックシートで貼りつけた表情を見る限り、おそらくケイシーはビーストに添うだろう。そしてその頃、アニヤ・テイラー=ジョイは界隈を制圧していることだろう。ビースト化したケヴィンが壁を這った時、ほんの一瞬スクリーンが波打った気がしなかっただろうか。シャマランも世界の法則を回復しようとしているのだ。
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2017年05月18日

潜入者/帰る家をわすれた

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エミール・アブレヴ(ジョン・レグイザモ)が嬉々として汚れ仕事にケツまでつかってしまうせいで、しかもこれがオレの天職だとばかり目の前でアタマをぶち抜かれた密告屋の体液全般を顔面に浴びては恍惚としてしまうものだから、ロバート・メイザー(ブライアン・クランストン)が優雅な狂犬というよりはファミリーマンの憂鬱をふりまく担当にまわってしまうこともあり、同じ実録ものであっても『フェイク』のように骨の軋む相克にまで手は届いていない。したがって、ロバートの苦悩は主に自身のダブルライフが家庭を犠牲にしてしまうことによっているわけで、善悪と功罪の境界で揺らぐアイデンティティの流血は最小限に抑えられてしまったように思うのである。それもあって、この作戦の肝とも言える最高幹部ロベルト・アルケイノ(ベンジャミン・ブラット)の信頼と友情を勝ち取る経緯に血が逆流するような瞬間がなかなか生まれて来ず、わけても計算外ともいえる友情が知らず育まれてしまうシーンの希薄がアンダーカヴァーものの見せ場と言ってもいいアンビヴァレンツの妙をそいでしまっていたのではなかろうか。エミール、キャシー・アーツ(ダイアン・クルーガー)、ドミニク(ジョセフ・ギルガン)といったチームの面々がそれぞれにサスペンスフルで魅力的な造形であっただけに、どうしてもメイザーの生活者的な苦渋が陰影をぼやけさせた気がしてしまうのである。ところで、原作を脚色したエレン・ブラウン・ファーマンという女性を最初は監督のパートナーなのかと思っていたのだけれど、彼女は実は監督の母親であって、法廷弁護士から転じてのフィクションライターという経歴はあるにしろこれが初めての映画脚本ということになるらしく、製作にも名を連ねるブラッド・ファーマンがどういった経緯で彼女に映画の背骨とも言える脚本を任せたのかわからないけれど、ファミリーマンとしてのロバート・メイザーというプロットが彼女の視点によるのだとしたらその点については成功していたように思うのである。しかしたった一度のシーンを除いてブライアン・クランストンがセンチメンタルに囚われたままだった点については、かなり失敗したとワタシは思っている。ブライアン・クランストンにはウォルター・マッソーの後継として、狡猾とユーモアと人情を丸めて口に放り込んではくちゃくちゃと噛んで吐き棄ててもらわなくては困るのだ。この映画は悪い夢から醒めようと少し躍起になり過ぎた。レグイザモを除いては。
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2017年05月17日

マンチェスター・バイ・ザ・シー/容疑者ケイシー・アフレック

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笑顔で機嫌をうかがい、知らない誰かを褒めそやし、共感と理解を首からぶら下げ、赤の他人のために自分を殺し、そうやって生きている内に最後には犯した罪が赦されたふりをしてしまう。何よりリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)が許しがたいのはそうなってしまう自分であって、独房としか言いようのない部屋にたったひとり暮らし、マイナスをゼロにする仕事をひたすらこなす日々は、問われなかった罪の代わりに自らが与え続ける罰なのだろう。そうした中、兄ジョー(カイル・チャンドラー)の死によって促される帰郷はリーにとって一種の地獄めぐりの旅とも言えるわけで、甥であるジョーの息子パトリック(ルーカス・ヘッジス)を旅の連れにかつて自分が埋めた地雷を避けたり踏んだりしながら故郷の街を彷徨うこととなる。ただこれは、リーにとっての地獄巡りであると同時にパトリックにとっての喪の仕事でもあるわけで、子供を亡くしたリーと父を亡くしたパトリックを擬似親子とすることで互いの喪失と再生を補完するというよりは、共に精神的支柱とするジョーの血を引くがゆえのすれちがいとぶつかり合いによって殻を破っていくバディ・ムーヴィーとしての運動が、暗闇の道行きを照らし続ける仄かな灯りの源となっていたように思うのである。リーのフィルターを通さないパトリックのセックス、ホッケー&ロックンロールな日常が丁寧かつあけすけに描かれるのは、そのふるまいが日常を貫くことで喪失の哀しみを麻痺させようとする16才なりの試みであるのと同時に、彼の姿にかつてのリーにあったチャイルディッシュな傲慢と甘えをだぶらせているようにも思え、しかし大人びた少年と子供じみた大人2人の距離が詰まれば詰まるほどリーには呪われた父親としての影がのしかかるわけで、光差す場所に踏み出すほど目が眩んで顔を伏せてしまう男が、ならば自分は暗闇から何ができるのかを考え抜いて絞り出した答えであったからこそ、パトリックもそれに人生を委ねる気になったのだろう。積もった雪に照り返す陽光の刺々しさや、解けぬ緊張を誘う黒くて冷たい海のインサートがそこに生きる人々の吐く息になけなしのぬくもりを感じさせ、それは物語の都合で登場人物の感情を犠牲にしないというすべての登場人物に対するフェアネスにもよっていて、その結果全てがあるべきところにある「生活」という小さな宇宙の調和が完成したようにも思うのである。物語の手がかりとして感情移入を必要とする、あるいはそれを求めてくる映画ほど不自由に感じてしまうことを思えば、観ている自分の位置が消えてしまう不安すら感じるほどこの映画が自由であったことは言うまでもない。それにしてもケイシー・アフレックのエロキューションはほとんどそれが映画のトーンを決定してしまっているわけで、メランコリーに食われたアメリカのルーザーを演じる時はほぼこのスイッチが入るのだけれど、それを耳にするたび何とはなしに思い浮かべるのがチェット・ベイカーの歌声なのである。チェット・ベイカーの場合どう歌おうがああなってしまうのだけれど、そこに共通するのは失われたイノセンスへの感傷と憧憬とオブセッションであって、いよいよアメリカのイノセンスは白人最後の牙城になってきた。

Affleck allegedly joined Gorka in bed while she slept, wearing only "his underwear and a t-shirt ... He had his arm around her, was caressing her back, his face was within inches of hers and his breath reeked of alcohol."
これは2010年の事件の被告側からの証言だけれど、ミシェル・ウィリアムズとのシーンのト書きかと思ったよ。
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2017年05月15日

パーソナル・ショッパー/そこまで来ている

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いきなり他の映画を引き合いに出すけれど、冒頭でモウリーン(クリステン・スチュワート)が扉をあけて入った玄関のショットで、ああこれは『ダゲレオタイプの女』のあの家だと思いこんだのである。もちろん実際にそうであるはずはないのだけれど、空っぽではないでけれど何もない家、光は差すけれどあたたかみの届かぬ家、昼夜問わず暗闇の濃さが変わらぬ家、その中を一人うろつくモウリーンの探しているものが何なのか、家の方からワタシに教えてくれた気がしたのだ。しかし厳密に言えば、モウリーンは“在るもの”を探しているというよりは“或るもの”が“在るもの”になるのを待っているわけで、それはそのまま彼女の揺らぎとなって非常に危うい隙を生み出して、いつしか望まぬものにつけ込まれていく。パーソナル・ショッパーとしてのモウリーンの能力は、最終的には自身の奥底でのたうつ欲望を手がかりとしていて、しかしそれらは常にモウリーンを素通りするばかりで永遠に彼女の手に落ちることはなく、そんな風にして“或るもの”と“在るもの”がせめぎあう波頭にもまれて削られていくのが彼女の日々であるのだろう。前述した『ダゲレオタイプの女』、すなわち黒沢清監督作品との予期せぬ通底は、これら“或るもの”と“在るもの”が現実で交錯する瞬間への白熱と畏怖にあって、それこそがモウリーンの言う「扉が開く」という状態なのではなかろうか。心臓発作で亡くなった双子の兄ルイスと、霊媒という体質にくわえ先天的な心臓の疾患までも共有したモウリーンは、当然ながら死と現実の境目を意識しつつ生を費やすことを余儀なくされるわけで、こうした物語における霊媒としては珍しく、彼女はいまだ世界の様相を俯瞰し受容する準備が整わない者として登場し、亡き兄ルイスの家での見知らぬエクトプラズム体と遭遇し、キーラ(ノラ・フォン・ヴァルトシュテッテン)の殺害されたアパートで光と音にまみえ、ララ(シグリッド・ブアジズ)の家では兆しを死角に感じ、といったステップを段階的に経ることで、ついにはオマーンで決定的な兆しと向き合うことになるのである。しかしそれが果たして彼女の追い求めた兆しであったのかどうか映画がはっきりとうなずくことはないどころか、それまで折々にインサートされたブラックアウトから一転してホワイトアウトで閉じるラストは、彼女が開けた扉の先がいわゆる「白い部屋」であるかのような仄めかしにも思えたわけで、しかし唯一そこから彼女はこの世界へ帰還できるのだとワタシは考えたいし、そこにどのような変質があろうとそれはハッピーエンドに違いないのだ。彼岸への並木道、踊る光と暴れる音、デジタルフォントの邪悪、エレベーターと自動ドアの憂鬱、死には質量がある、幽霊がこちらを視ている、早く気づけと視ている、生きているのは死んでいるのと同じくらい不思議なことだと早く気づけ。やはり世界の法則を暴けるのはホラーだけなのかもしれない。
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2017年05月11日

ノー・エスケープ 自由への国境/汝の犬を愛せよ

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冒頭、トラックの荷台でアデラ(アロンドラ・イダルゴ)が声に出して読んでいるのは、かつて国境の砂漠地帯でみつかった身元不明の出稼ぎ労働者のポケットから見つかった祈りの言葉で、その遺体の身元を調べることで中南米から北へ向かう過酷な移民の実態を浮き彫りにするドキュメント『ダヤニ・クリスタルの謎』をガエル・ガルシア・ベルナルが製作したことによる、その連なりとしての引用なのだろう。そのガエル・ガルシア・ベルナル演じる修理工の名前がモイセス(Moises=モーセ)であることからも明らかなように、メキシコ人の視点からすればこの越境はエクソダス(=脱出)であって、銃弾や犬、蛇は彼らを襲う災厄として描かれることとなる。したがってトラックのアンテナに南軍旗をなびかせるサム(ジェフリー・ディーン・モーガン)には、たとえば『北国の帝王』におけるシャックの狂った労働倫理も、『ノーカントリー』におけるアントン・シガーの底知れぬ虚無もその一切が塗されることがなく、要するに彼の複層的な言い分ははなから認められることなく、ただひたすら皮相で卑俗な行いで災いをもたらす者としか描かれていないのである。したがってここにあるのはイデオロギーや人種の構造的な対立というよりもそれら絵に描いたような役回りが宗教映画のごとく伝える荒地における苦難と受難であって、2つに割れる海もなく干上がりきった荒地を、アデラを背負い約束の地へと歩みをすすめるモイセスの姿こそは、すべての越境する者たちにとっての守護者と映ったのではなかろうか。ならばここにいるワタシたちはこの映画のどこに象徴と投影を探ればいいのか。それはサムの手足となって越境者たちを追いつめるベルジアン・シェパードのトラッカーということになるのだろう。トラッカーの行いはひとえに飼い主への盲目的な忠誠のなせる業ということになるのだけれど、その結果として彼が奪った命と、その彼を待ち受ける最期をその業がもたらしたことは間違いがないわけで、そうした走狗の罪深さをワタシたちは知らずまとってはいまいかという突きつけをトラッカーに見出すべきなのではなかろうか。トラッカーの最期に、屠られた人々のそれを上回る凄惨をあえて与えたのはそうした意図の反映であったようにも思うのだ。少なくともワタシたちは飼い主を選べるはずである。

国境に横たわる絶望は合衆国大統領の戯言とは関係なくずっと放置されてきたわけで、それに対するアメリカの疲弊した内省については『正義のゆくえ I.C.E特別捜査官』あたりをあらためて参照するのも良い機会かもしれない。また、無辜の人を犬が追う話というと、脱獄した政治犯をかつて彼が殺した看守によって訓練された殺人犬がどこまでも執拗に追い続ける『ドッグチェイス』というスペイン映画の傑作を思い出したりもして、たとえどれほど救い難く酷い人間であってもその最後の友であり続ける犬が、最もシンプルなアナグラムで神となるのは果たして偶然なのかと、幾多の困難をかえりみずほとんど狂信的に走り続ける姿を観ては考えてみたりもするのである。前述の映画はいまだパッケージ化もされていないけれど、絶版(ハヤカワ文庫)になってしまった原作(「自由への逃亡」)もまた、犬視点を導入して描かれる冒険小説の傑作なので古本を漁っての一読をお薦めしたい。
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2017年05月09日

カフェ・ソサエティ/マンハッタンを見てから、死ね

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1930年代の風俗、わけてもハリウッドを踏み台にした上でのVIVA!ニューヨークを謳いたかっただけなのだろうなあと、特にハリウッド・パートにおけるボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)とヴォニー(クリステン・スチュワート)の恋の顛末をほとんど自身のナレーションで済ませてしまう手抜きっぷりに対し、舞台をニューヨークに移してからの噺し屋ジェシー・アイゼンバーグをフル回転させたグッドフェローズごっこの息のはずませ方など見るにつけ、その正統な権利と傑出した能力を有する81歳の老人が紡ぐノスタルジーに逆らえるものなどいないことを認めざるをえないのである。ただそういった前半のなげやりもあってボビーとヴォニーのロマンスは紋切りに留まり、せっかくしつらえたヴェロニカ(ブレイク・ライブリー)のフラッパー的なフリー&イージーがただの当て馬にとどまったのが何とももったいなく思えてしまう。それに対し裏通りの唯物論者たるボビーの叔父ベン(コリー・ストール)の思いがけない活躍がもたらした、彼をめぐるユダヤ教談義の冗談めかした自虐は監督の死生観のうっすらとした吐露なのかと思ってみれば、自身によるナレーションも含め最近になく私小説の体をなしていることに気づいたりもするし、最終的にはノスタルジーの余韻というよりも人生がさらにこんがらがる予感だけ残してさっと幕を閉じるあたり、人生は喜劇だよ、それを書いたのはサディスティックな喜劇作家だけどねとわざわざセリフに仕立てた食えなさが、どれだけ年齢や地位、名誉を重ねようと円味を帯びるはずなどなかったのである。死んだ後のことはきみらの神に訊くとして、死ぬまでは我らいろいろと生きねばならぬ、残念ながら。と嬉しそうに言っていて癪ではあるけれど、ヴィットリオ・ストラーロのライティング・ショーだけ観てもお釣りが来たからさほど問題ではない。
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2017年05月07日

フリー・ファイヤー/お一人様90分撃ち放題

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子供からお年寄りまで老若男女を問わず、引き金を引きさえすれば弾がとびでる銃という機械のまるで取りつく島のない平等性にあらためて思いを馳せたのと同時に、英語では「キチガイに刃物」をどんな風に言うのだろうと思って調べて時に知った ”like giving a kid a loaded gun” という言い回しなど思い出したりもしたわけで、実際このガンファイトの口火を切るのはガキの喧嘩なのである。この映画の間の抜けたおかしみは銃の持つ平等性が公平性を無効化していくところにあって、それは例えば、誰よりもスマートなはずのアーミー・ハマー(以下役者名ママ)がその資質の公平な反映によって果たして最後まで生き残れるかどうかということであり、結論として言ってしまえば、その先にあったのは無効化により進退窮まって芋虫のように這いずっては垂れ流される憎まれ口やうめき声が呪う、ただひたすらの泥仕合だったのである。1978年当時既に活動が衰退していた元ブラックパンサーのバボー・シーセイと活動のただ中にあったIRAのキリアン・マーフィー両者の欲にまみれた策略と仲間を想う行動の対比、ノンシャランのはずのアーミー・ハマーの軽やかな屈託、フェミニズムの潜在的な闘士/闘志をうかがわせるブリー・ラーソン、南ア出身のアイデンティティをかざすシャールト・コプリーといった設定を匂わせつつも、それに因って立つ深彫りが特になされないこともあって、自分のケツは自分で拭けるはずの大人たちが地べたに這いずって興じる死の雪合戦へと落下していく高低差がどうも曖昧に思えたわけで、となれば元より地べたを這いずりまわるしかないサム・ライリーとジャック・レイナーが水を得た魚のように生き生きとはしゃぎまわるのもむべなるかなだし、そこには犬死にの虚しさが漂うこともなかったように思うのだ。そうやってゼロで割ってしまうようなフラットが果たして狙ったオフビートであったのか、『ハイ・ライズ』を失敗させていた腰の軽い脚色など想い出してみるまでもなく、おそらくワタシはこの夫婦(監督&脚本家)の、曖昧なくせにこれみよがしな露悪と偽悪のひけらかしが性に合わないのだろう。とはいえ、どこかでエスタブリッシュ・ショットくらいは入れておくべきだったよね?というケチは好みの問題ではないと思うのだけれど。かつてカレン・ブラックがそうであったように、何だかわからないけれどやたら美女扱いされるブリー・ラーソンについては、正しく70年代のヒロインであったのは間違いないにしろである。
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2017年05月04日

ろくでなし/宇田川町で逢いましょう

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あんたもあたしも最低なんだよ!と優子(遠藤祐美)が啖呵を切ったように、最低とかクズとか、ろくでなしとか、自薦他薦を問わないそれらの者のブラウン運動を渋谷の街にとらえる試みに、バディ・ムーヴィーあるいははきだめのロマンスといった常套句をあてにすると少しばかり肩透かしをくらう気がする。クラブで大暴れして事務所に連れ込まれた一真(大西信満)と、落とし前をつけろと恫喝する遠山(大和田獏)、それを遠巻きに見守るひろし(渋川清彦)の間に何があったのかは一切語られないまま、直後のカットで一真は遠山の下で働いているわけで、常套であれば一真の中のクズを面白がったひろしが、オレが責任持って面倒見るんであずからせてもらえますかと遠山に切り出したりするところなのだけれど、そこはそれ、クズのとる行動などそうあっさり堅気に理解されてたまるかという突っぱりでもあったのか。そうやって含んだり匂わせたりと言った余白を削ぎ落とすというか描かないこともあって感情が連続しないこともあり、どちらかと言えばマッチポンプ的に収束してしまうシーンが多いのだけれど、それは見方を変えれば人並みであることに焦がれたクズが見よう見まねで愛の真似ごとを演じてみせたようにも映るわけで、一切の憐憫をあてにしない自己完結はそれゆえ不穏すら醸し始め、この映画の熱くも冷めてもいない平熱の生ぬるさは何なのかと言えば、だらだらと流れ出る血の温度であることに気づいたりもするのである。本人たちはいたって大真面目ながら、一真と優子の目をつむったまま黙って殴り合うようなやり取りにはドキドキではなくビクビクしてしまう。「金ならまだある」と言った瞬間、誰もが思い描く展開をあさっての彼方に投げ出してみせたシナリオにはピクピクしたけども。この映画で一番怖ろしいのは遠山でも一真でもひろしでもなく、優子の“知らず呼んでしまう”質であって、いささかのホラーを漂わせるラストはその証左に思える。暗渠の街としての渋谷映画。
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2017年05月01日

バーニング・オーシャン/我らをジョン・マルコヴィッチから救い給え

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無骨で無愛想で取りつく島のない実録風味なのかと思っていたら、マイク(マーク・ウォールバーグ)とフェリシア(ケイト・ハドソン)のいかにもな夫婦漫才で幕を明けていささか拍子抜けするものの、夫婦の賢い娘シドニーによる缶コーラを使ったちょっとしたお遊びがそのままこの大惨事のミニチュアとしてワタシたちを導入していくことになるわけで、『ハドソン川の奇跡』とは異なりこれが盛大な負け戦であることを観客の頭から消し去りつつ、しかしカタストロフィに向かってひたひたと歩んでいくマシュー・マイケル・カーナハンの脚本が揺るがぬベースラインとして腹に響く中、完全にメロディを捨て去ったピーター・バーグはそこに重厚でソリッドなリフを不協和音が共鳴するよう丹念に重ねていって、それに誰もが耐えきれなくなった瞬間すべてが中心から爆発するのである。感情の振り分けとしてはBP社のヴィドリン(ジョン・マルコヴィッチ)が諸悪の根源とされる以外、マイクにしたところで殊更ヒーローとして描かれるわけでもなく、それはジミー(カート・ラッセル)にしたところで同様なのだけれど、ではピーター・バーグは何を導火線にして観客に火を点けたのかと言えば、それは善行としての労働が謳う人間の矜持であったように思うのである。一見したところちゃらんぽらんに映るバルブ要員たちがその異常に際し誰一人持ち場から逃げ出すことなく捨て身でそれに対処する姿や、全身にガラスの破片が刺さったまま最後まで指揮を取り続けるジミー、立場や権限を超えて自分の為すべきことを為すアンドレア(ジーナ・ロドリゲス)といった人々がなぜそれを果たすのかと言えば、それをするために自分はここにいるという使命感によっているのだろうし、最後に生き残った者たち全員がひざまずいて唱える主の祈りはこれが労働倫理の崇高を焼き付ける物語であったことを告げているようにも思うのである。しかしそれはある特定の宗教性というよりは、彼や彼女が日々相手にする大自然への尊敬と畏怖の念がもたらす自然崇拝にも近い気がするわけで、したがってヴィドリンが持ち込んだ経済論理はそれを犯す災厄としてただただ忌避的に描かれることになる。そして思うのは、やはりこの映画はあの日あそこから帰ってこなかった11人とその家族へのレクイエムでもあるということで、あの場面でジミーがヴィドリンに怒りを爆発させることをしないのは、それが事実に即していることは当然として、この映画が一貫して保ち続ける気高さをそうした負の感情で汚すつもりがなかったからでもあるのだろう。『ローン・サバイバー』に比べた時の感情のタイトな抑え込みというか感傷の我慢強さは、多分に脚本の強靱さが奏功しているのだろうけれど、ここを抜けた後でピーター・バーグが何を手に入れて何を捨てたのかを知る意味でも、三度マーク・ウォールバーグと組んだ実録ドラマ『パトリオット・デイ』を観ないわけにはいかなくなってきたのである。それはもちろん、今のアメリカでこのラインをひた走ることの若干の危うさも含めてと言うことだけれども。
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2017年04月28日

スウィート17モンスター/いつかどこかで誰かのために

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グランジ(とっくに死語か)以降のアップデート版ジョン・ヒューズ・ムーヴィーなどと書こうものなら速攻でネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)の餌食になるに違いなく、ほんとうは誰が自分を一番愛してくれているのかを知ることで幸せを手に入れるジョン・ヒューズのヒロインなど、誰よりも自分を愛しているのはこの自分のはずなのにその自分を私は嫌い憎むことしかできないのだ、と“ナイフみたいにとがっては触るものみな傷つけた”ギザギザなネイディーンにしてみれば、不戦勝のイカサマ野郎と吐き捨ててみせるにちがいないのだ。したがってここにはことさらネイディーンを不幸に陥れるスクールカーストも無関心で無理解な大人たちも存在せず、彼女を取り巻く人々はそれぞれが自身に帆を張っては人生に漕ぎ出すのに忙しいわけで、ジョン・ヒューズ・ムーヴィーであれば金持ちのボンボンであってもおかしくないニック(アレクサンダー・カルヴァート)でさえ、ペットショップでバイトをして買ったのだろう中古車を走らせているのである。となれば彼女がすべきは外敵のデストロイではなく内なるモンスターを自身の手で葬ることに他ならないのだけれど、それがなかなか果たせない苛立ちに加え、ではモンスターを殺した後の自分にいったい何が残るのかという不安の背中あわせまでを求めた監督の残酷なファニーと、真夜中に爪あとを伝う涙でそれに応えたヘイリー・スタインフェルドの不機嫌な馬鹿力が、この映画を愛すべき青春の一人相撲としてあまたのレッテルから自由に放ったように思うのである。クリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)に放ったらかしにされたパーティで、アヤシイのはダメ、アヤシイのはダメ、でもなんでこうわたしは不格好になっちゃうんだろ、リラックスよ、リラックスして楽しめばいいのよ、さあ、行って誰かに話しかけるのよ、とバスルームで自身を叱咤激励するもあっという間に撃沈され、意気消沈したところで出くわした見知らぬ女の子との映画談義で盛り返すかと思いきや、相手が映画(『ツインズ』)を引き合いに出したのは華やかでイケてる兄ダリアン(ブレイク・ジェナー)と自分を似ても似つかない兄妹としてネタにするためだったことに気づいて再度撃沈されるわけで、このあたりの笑いながら刺してくるくだりを含め、監督&脚本のケリー・フレモン・クレイグがみせる、キャラクターに正当な痛みを与えることでヴィヴィッドな震えを生み出す話法にはリチャード・リンクレイターの好ましくて的確な影響がうかがえて、『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』に引き続きブレイク・ジェナーのマチズモフリーな魅力を重要な彩りとしたあたりなどむしろそれを嗅ぎ取ってくれることを望んでいるようにも思えるし、ワタシがリンクレイターの名前を出したのもケリー・フレモン・クレイグに対する賞賛の現れであることは言うまでもない。ネイディーンのメンターおよびライ麦畑のキャッチャーとして、いつものように小さく口をすぼめながら、静かに急かさず彼女を見守るウディ・ハレルソンの穏やかなリベラルがアメリカ映画の良心としてことさら沁みてくるように思うのは、気づかぬ内にワタシも昨今の荒んだ気分に染まってしまっているからなのだろうなと少しだけ錆が落ちた気もしたし、ヘイリー・スタインフェルドの麗しきキャリアアップと、ケリー・フレモン・クレイグという監督の祝福すべきデビューを確認するためにも「“あの頃”のリアルなイタさを描く愛すべき青春こじらせ映画!(オフィシャルサイトより)」などと言った紋切り型で高をくくって見逃してしまうのは少しばかりもったいないと思ってる。
posted by orr_dg at 01:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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