2018年11月16日

マンディ 地獄のロード・ウォリアー/魂の自由を信じる俺という人間のシンボル

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この世には2種類の映画しかない、ニコラス・ケイジが出ている映画とニコラス・ケイジが出ていない映画だ。そして目を閉じた時まぶたの裏側で炸裂し続ける光の明滅を、星座のように線で結んでニコラス・ケイジを見つけた瞬間、映画に”MANDY”という名が宿る。これはニコラス・ケイジが出ている映画だ。この世界に生きるたったひとつの理由だった女性を目の前でガソリンをかけて燃やされた男はどうすればいいのか、どうするしかないのか、右手を手錠でつながれ左手を五寸釘で床に打ちつけられた男はどうすればいいのか、どうするしかないのか、ハイパーなコカインのオーヴァードーズで自身の人間を焼き切って変質した鋲とレザーの生き物と闘うにはどんな武器を造ればいいのか、造るしかないのか、自分のチェーンソーの倍ほど長い刃のチェーンソーを持った相手とどう闘えばいいのか、どう闘うしかないのか、そいつを殺してもこの世界に生きるたったひとつの理由だった女性はもう帰ってこないと知りつつ、しかしその男を殺さずにはいられない時、そいつをどんな風に殺せばいいのか、どんな風に殺すしかないのか、今まで知りたくても知ることができなかったすべての答えがここにはあり、ニコラス・ケイジがそれを血まみれで教えてくれる。すべてを自己責任で生き抜くしかないこの世界で自己憐憫の呪いにとりつかれないためのフットワークとフィニッシュブロウがここにはある。そしてそれを鼓舞し祝福するのが“友だちの兄貴のトランザムのバックシートでマリワナと革とイエローパインの芳香剤の匂いにビビリながらもスリルを感じてるガキの気分”が欲しいんだと監督がヨハン・ヨハンソンに告げたそのスコアであったなら、それをこの世のものとは思えないあの世以外の何と呼べばいいのだろうか。ワタシは惑星を2つとも当てた。
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2018年11月12日

ボヘミアン・ラプソディ/華麗なるトレース

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ワタシ自身はファンと言うよりは通り一遍のリスナーなのだけれど、ロンドンまでフレディのお墓参り(厳密にはお墓はない)に行くような人間がごく身近にいていろいろと聞かされる話を以前から耳学問にしていたこともあり、当初映画に関する企画を知った時は異邦人でありかつ横断したセクシュアリティをもつフレディ・マーキュリーというアーティストのポートレイトにどのような角度で陰影をつけるのかとても興味がわいたし、その後でフレディをシャ・バロン・コーエンが演じるというニュースを知った時は、誰が舵を取っているのかわからないけれどスリリングなプロジェクトになりそうだなあと少なからずワクワクもしたのだ。したがって、正確な経緯は不明ながらサシャの降板と彼の言い分など聞くにつけ、変更されたプロジェクトでは少なくともフレディの深淵を覗くような映画になることはないのだろうなと思ったし、その後で目に入るニュースのあれこれからは建前で均された公式バイオピック的な色合いが濃くなっていることがうかがえていたわけで、まあそういうことなんだろうなという予見を持って観てきたのである。といった具合にブライアン・メイにとっては好ましからざる観客であろうワタシからすると、クイーンとフレディ・マーキュリーのストーリーを刻むにあたって避けては通れない泥道でお気に入りの靴が汚れるのを嫌うあまりそこを飛び越えようとした跳躍の見事さに思わず見とれてしまったというのが正直なところで、嘘も方便というまさに映画の映画たる所以の馬鹿力もあり、人々の記憶の中に永遠にとどめてほしいクイーンとフレディ・マーキュリーの姿(だけ)を描くというブライアン・メイのギラギラした野心はキラキラと輝きながら見事達成されていたように思うのである。なにしろこの物語に関わる人々を誰一人悪しき者とは描くべからずというそのルールは、ポール・プレンターにすら「アイルランドのカソリックの家に生まれたゲイの悲劇」を言い訳として許していたことにもうかがえて、ならばとワタシは降伏するしかなかったのだ。そんな中、他の登場人物に比べ格段に似ていない俳優をあてがわれた上、まともなセリフすら与えられない盟友(のはずの)ロイ・トーマス・ベイカーの不憫に泣く。これ僕たちの映画だからキミの分の手柄はないよということね。
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2018年11月11日

負け犬の美学/誰がために傷は裂く

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始まって早々、試合に敗れたスティーヴ(マシュー・カソヴィッツ)が煙草を喫う姿を見て、今の彼はアスリートであることを止めてしまっているけれど、そのうち復活への小道具として煙草が使われることになるのだろうなと、基本的には一本道を行くことがほとんどなボクシング映画の紋切り型を思ってみたりもしたのである。確かにそれはその通りではあったのだけれど、それは予想された禁煙の真逆の姿で示されることになるどころか、ある大一番の場面で彼に煙草をくわえさせるのは彼の妻マリオン(オリヴィエ・メリラティ)ですらあるわけで、この映画が最終的に描くのはもはやアスリートではないブルーカラーとしてのボクサーが、かつて燃やしたアスリートの残り火を鎮火する儀式のラウンドであったといってもいいだろう。スティーヴがアスリートとしての自身にいつ見切りをつけたのかは描かれないけれど、スパーリングパートナーを務めるかつての王者タレク(ソレイマヌ・ムバイエ)に向かって言う「敗者あってのチャンプだろ」という言葉こそが彼のプライドとボクシングに対する愛情とを告げているのは言うまでもなく、その戦績からして売り出し中のルーキーの噛ませ犬を幾度となくつとめたであろうスティーヴの、ボクシングという世界の在り方を愛するがゆえ“持っていない者”が“持っている者“に我が身を差し出し続けるその姿は、“持っている(かもしれない)”娘にピアノを与えることは親である自分の義務に他ならないと奮闘する姿にも重なって見えもするし、それらすべてを理解した上でなおボクサーとしてのスティーヴを愛しサポートするマリオンもまた共に闘っていた人なのだろうと思うのだ。現役最後の試合のラストラウンドで、スティーヴがそれまで見せたことのないステップをたどたどしく刻んでは飛びこむようにパンチを繰り出すそのスタイルはまるでタレクのそれを真似たようにも見えるのだけれど、おそらくそれこそは彼が焦がれつつもあきらめたボクシングのスタイルだったのかもしれず、場末のボクサーである彼が元チャンプのタレクに向かって、自身のスタイルを貫くよう分不相応ともいえるアドバイスを止めないのもタレクのボクシングに憧憬と理想を見ていたからなのではなかろうか。そして、そうやって踊り始めたスティーヴを見た時のマリオンがみせる心の底から輝くような笑顔は、暗がりからリングのスティーヴを見つめるタレクが浮かべる仄かな笑みとつながって、人生と共にボクシングを愛し続けた者だけが知る祝福の言葉をスティーヴに贈ったように思えたのだ。美容師の仕事をして家計を支えながら2人の子供にきちんと向き合い、夫の生き様を卑屈の影なく愛しつつ肯定し、かといって都合の良い妻を演じるどころか共犯の香りを不敵にふりまくマリオンがこの映画の陰影にエッジを与えているわけで、試合で負った傷の手当てをする彼女の尻に手を回すスティーヴの手を邪魔よとはらったかと思えば、手当を終えた後でその手をまた自分の尻にあてがうその仕草でワタシはマリオンに恋をしたし、そんな彼女を虜にし続けるスティーヴに嫉妬もするのだ。傷みっぱなしのマシュー・カソヴィッツがいつしか晩年のジョー・ストラマーにも見えてきて、それゆえそのセンチメントがなおさら透明に自爆した気がしたのかもしれない。サミュエル・ジュイという名前を憶える。
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2018年11月09日

ハナレイ・ベイ/ずっとわたしを過ぎるもの

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大胆と言ってもいいラストの書き換えによって、サチ(吉田羊)が彷徨した喪失の日々にハッピーエンドと言ってもいい再生の光が差すこととなる。したがって、その手続きとしてのストーリーはサチがいかに涙を流すか、涙を流させるかという変転を描くことになり、どこへも往かぬ中空で揺れ続ける人生の静かな暴力性が支配した原作に、イギー・ポップやら何やら手を替え品を替えして道筋を与えることでその暴力をなだめた監督の脚色は、見事とかいうよりはそのためらいのない所業に感服したわけで、おそらく監督は村上春樹という名前にも作品にも過分な畏れを欠片ほども抱いていないのだろう。とはいえ端々で見受ける映画オリジナルのエモーショナルな継ぎ目以外は、村上春樹作品の彩りともいえる漂泊/漂白の白い空気をそれなりのグラデーションで掴まえているし、なかでも、原作では名前もないまま「ずんぐり」としか呼ばれない日本人に高橋という名前を与えては、精神の奥底が本能的に水平な村上作品のキャラクターとして映画的な立体を備えさせ、それを演じる村上虹郎の的確な解釈による好演も手伝って、ただでさえ狭いストライクゾーンのぎりぎり角をかすめるコースには投げ込んでみせたように思うのだ。基本的には密やかな幽霊譚である原作から真っ向の幽霊譚へと舵を切ったあのカットや、うつむき加減にそよぐカーテンが運ぶその黒沢清的予感を含め、ハワイの陽光の下にイデアとメタファーをもろともに晒したそれはクソ度胸なのか冷静な計算なのかはうかがいしれないにしろ、あらかじめ昏睡したような原作の目の覚まさせ方としては、頷けるところのあるやり口だったのではなかろうか。ただ、ある情動の状態を実体化させて補助線とするために脚色されたツールとしての手形は正直言ってあまりうまく機能していないと思うし、サチを決壊(=プライマル・スクリーム)させるトリガーとしては紋切り型が過ぎたというか座りが良すぎたように思ってしまう。たった一度だけサチが吉田羊の顔になっておそらくは手持ちであろうカメラを笑顔で見つめる、挑戦的なのか気晴らしなのかわからないカットがあったのだけれど、それが、その後陽光の中でしばし冥界を彷徨うことになるサチの「生前」最後の笑顔のつもりなのだとしたら、やはり想像以上に食えない映画であり監督であったということになり、解放されないハワイを閉じ込めた近藤龍人の鎮めるようなカメラがその共犯となる。
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2018年11月07日

ヴェノム/あなたの最悪なる隣人

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ヴィランをヴィジランテ化するとかいうどちらかと言えばDCがヤケクソでやりそうなアクロバットを、オスカー・ノミニーなトム・ハーディとミシェル・ウィリアムズを惜しげなく注ぎ込んで着地させようと画策する素っ頓狂が既に愉しいし、こういう脇の甘いでたらめがやけに好ましく思えたりもするのはファイギの全問正解にそろそろ不感症になってきたせいもあるのだろう。そのあたり、PG13版『デッドプール』を狙ったとするならば、あちらを青年誌とした場合の少年誌的なノリは意図的なものだろうし、描写の深みよりは展開のノリを選んだのはこの監督を選んだ時点で明白であり(書き割りのような『L.A. ギャング ストーリー』を思い出してみればいい)、それもあって寄生から共生へのターンがぼんやりしてしまった点など食い足りないのは明らかながら、MCUの間隙をぬう狙いはそれなりに的を射ていたように思うのである。『ブロンソン』あたりを思い出させるピーキーでフリーキーなトム・ハーディやミシェル・ウィリアムズのおきゃんなモードもその反映であったのだろうし、アン(ミシェル・ウィリアムズ)の今カレであるダン(リード・スコット)の手っ取り早いキャラクター造型などは逆に新鮮にすら映る。エディ(トム・ハーディ)の言うこと“だけ”には聞く耳を持つヴェノムという解釈を馴染ませるには、残虐なモードでのスタートとその描写が必要だったように思うのだけれど、レイティングとの兼ね合いでその牙が抜かれてしまったのは痛し痒しというところか。いずれにしろ「うしおととら」として舵を切ってしまった以上、『デッドプール』的な酷いアクションをボケとした一人漫才のノリツッコミはあてにできないことを考えれば、エディとヴェノムの掛け合い漫才によるリズムでアクションのスピードを煽っていくシナリオと演出の運動神経を磨かない限り失速するのは目に見えているわけで、ソニー・ピクチャーズがこの金の卵をどう孵化させるかお手並み拝見といったところか。ラストのあの人といい役者はすでに揃っている。
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2018年11月03日

怪怪怪怪物!/泣いても血しか流れない

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「バケモノにはバケモノをぶつけんだよ!」とでもいった人喰いの怪物姉妹vs悪ガキ高校生というホラーコメディの図式からノンブレーキでコースアウトしていくそのハンドルさばきと、その向かった先のあまりにもえげつない悪路に笑顔はぎこちなく消えていく。悪ガキというには悪ふざけの才能が犯罪的に過ぎる高校生グループに捕らえられた怪物の妹と、グループ内のいじめられっ子リン・シューウェイが出会うことで果てしなく抜け続ける悪意の底はいったいどこに終わりがあるのか、自分の身代わりになって凄惨な虐めを受け続ける怪物の正体を知ったリン・シューウェイは、束の間の解放を享受する自身の性根に対する嫌悪と怪物へのシンパシーとの間で引き裂かれながらも、何とか正気を保つべく自身を殴り続けるのだけれど、いつしかそれは彼の内心を破壊し始めて後戻りの効かないコーナーを曲がってしまうことになる。レンハオを始めとするリン・シューウェイ以外の悪ガキ達の内面や背景はあくまで書き割りとしてのクズにとどめられ(レンハオのあれはリー先生による書き割りの追加にすぎない)、映画の主眼はリン・シューウェイが最期には悪意の底に激突してそれと刺し違えるに至るその蒼い魂の彷徨を追い続けることになり、彼が最終的にたどりついた、僕たちはみな死ぬしかない、なぜなら生きるに値しないほど救いがたいクズだからだという青春のニヒルに重奏する怪物の断末魔が、いったいおまえ達が怪物でなかったためしなどあるのかと蔑むような目つきでワタシの胸をザックリと抉っていくわけで、たった一人生き残ったのが誰であったかを思い出してみればこの映画のメッセージはそれに明らかだろう。しかし何よりこの映画が誠実であったのは、強者が弱者に対して行う容赦のない加虐の図式がそのイマジネーションゆえ映画的な高揚すら可能にしていた点で、スクールバスの大殺戮の中、最期の瞬間までクズの矜持を失うことをしないシーファのクールネス(事切れた彼女のヘッドフォンから漏れるCHARAの歌うMy Way!)には喝采を送るしかなかったし、学校という世界における最凶の怪物とも言えるリー先生が火だるまとなった姿を見る昂揚も、ワタシの昏い蛮性の喚起と誘導の結果だったのだろう。そうやって深淵の怪物を覗いた時そこに何が見えるかという胸糞悪さを、繊細かつ匂い立つ露悪で幻視するプロダクションによってあくまで娯楽として成立させる確信と志に震わされる傑作。
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2018年11月02日

search/サーチ #FatherKnowsBest

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PC画面ですべてのカットを構成する縛りはあくまで手法にとどめ、登場人物たちの感情の移ろいそれ自体はあくまでオーソドックスかつ細やかに描写されていて、紋切り型で陳腐なデジタル世代の断絶(邦画に顕著な陥穽)的なメンタリティの先へ伸ばしたその手つきこそがこの映画の清新となっている。言ってしまえば、ここにあるのはデヴィッド(ジョン・チョー)とマーゴット(ミシェル・ラー)のキム親子、ローズマリー(デブラ・メッシング)とロバート(スティーヴン・マイケル・アイク)のヴィック親子というそれぞれに事情と問題を抱えた親子がすれ違ったことで足を踏み外す運命の翻弄が綴る物語であって、その光と影、ポジとネガという裏表を入れ替えてヴィック親子の物語へと舵を切ってみても成立する複層が、飛び道具としてのスタイルに重心と奥行きをもたらしていたように思う。とは言えこうしたネットワーク無双なスタイルを前にすると、あらかじめインターネットのなかった世代としてはノイズぎりぎりのバイアスがかかってしまうわけで、あらかじめインターネットのあった世代にとってネットはテレビやラジオ、出版といったメディアと同列のフィクショナルな世界で、その中で様々なデジタルデータの意匠によって構成された自分の存在を意識と無意識で混濁させながら現実と非現実を行き来するその姿は果たして「新しい人」なのか「誤った人」なのか未だにワタシは測りかねていて、例えば劇中で自分の現在地をクリップしたまま糞リプを垂れ流してはデヴィッドに顎を割られる若い衆などその典型で、あらかじめインターネットのなかった世代としてはそれが現実の世界にどうやって根を生やしていったのかをその功罪と共に嫌というほど見てきただけに、どこへどう潜り込んだところでネットは現実でしかないという認識が揺らぐことはないし、そこへ自らを無防備かつ無邪気にに白紙委任してしまう危うさと脆さへの警戒が薄れることは今までもこれからもあるはずがなく、してみるとおそらくはそちらの世代であろうデヴィッドがしばしばみせるタイピングの逡巡も無意識の自己防衛に思えたりもしたのだ。しかし、そうやって記憶=記録へと混濁していく世界だからこそデヴィッドは結末にたどり着けたにしろ、いつしか頭をよぎるのは、なぜレプリカントは写真を集めたがる?というデッカードの呟きだったりもした。
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2018年10月30日

テルマ/神がわたしをつくった

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※展開に触れています

怖ろしいというよりは、苦しい。それはテルマ(エイリ・ハーボー)が対峙する生まれ直しの苦しみにも思え、両親によって宗教と薬物の枷で封印され亡き者とされた真の自分が再びこの世界に生を受けるためにくぐり抜ける瞬間の仮死を、ヨアキム・トリアーはほとんど啓示的といってもいい甘美な共鳴と不穏な共振のデザインでワタシ達に追体験させようと図っている。エルマの閉塞や苦痛、混乱、畏れといった鈍色の感情が、疼くような蠱惑の輝きと強烈な毒性をたずさえた異様な比重の、まるで水銀のような映像が血中にもたらす酩酊は既にそれだけでこの映画を止むに止まれぬ記憶として成立させている。しかし、テルマが次第に水銀の海をたゆたう身のこなしを知るにつれ、溺死の恐怖は運動の快感へと姿を変えて、オイディプス的というよりは家父長制への反乱ともいえる父殺しを果たすことで覚醒を手にした彼女が、まずはその能力を用いて母親を解放したのは至極当然であったように思う、おそらくはその力で自分に血を贈った祖母を覚ますこともするのだろう。してみると、ワタシがほんとうにホラーを感じたのはあのラストということになるわけで、それまでとは打って変わったフェミニンな装いで現れたアンニャ(カヤ・ウィルキンス)が自分のジャケットを羽織ったテルマに甘えるようにしなだれかかる姿は、テルマによる世界線の物語へと完璧に舵を切ったあらわれに見て取れて彼女が神となった世界に許される幸福に少なからず胸がざわついたし、『反撥』や『キャリー』では世界と刺し違えるしかなかった彼女たちは世紀の変わった今、『RAW』や『ぼくのエリ』がそうであるようにありのままの姿で勝ち逃げし始めていて、この映画もまた焦燥と恍惚のスピードで彼女たちを追っていったのは間違いがないだろう。上映前に注意はあるものの、あるシーンのフラッシュライトは想像以上に強烈なので自分の耐性に自信のない人は気をつけた方がいいかもしれない。素晴らしくヒプノティックなシーンなので諸刃の剣ではあるけども、それくらいヨアキム・トリアーの針は一切の迷いなく生と死の間髪を振り切っている。
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2018年10月29日

デス・ウィッシュ/マッドネス・イズ・ア・ウォーム・ガン

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ことさらフェティッシュに自失することもなく、たがを外すにしても理性と批評眼を端正にたずさえてルサンチマンめいた死体蹴りをすることもない、要するに感心はするものの熱狂にはタッチの差で至らないいつものイーライ・ロス映画だったわけで、それはおそらく自分の資質を理解しているからこそ、いくら露悪的にふるまってみたところで底を見抜かれるだろうことを先回りしてはりめぐらした予防線がそう感じさせるように思ってしまうのかもしれない。ブロンソン版のポール・カージーは、70年代に顕著だったオーヴァーキルな復讐者として暴力衝動に喰われて怪物化していく市井の男であり、それを警部が代表する正義のセンチメンタリズムが肯定することでヒロイズムを獲得することになったわけだけれど、劇中における彼の覚醒の経緯を今日そのまま再現すれば政治的な物議を醸すのは必至にちがいなく、それらをすべてオミットしてまでポール・カージーを蘇らせる必要があったのだとすれば、それは暴力の連鎖によって自らが放った銃弾に全てを奪われた彼を磔にする凄惨な悲劇となるしかなかったように思うのである。そうしてみた時、怪物の断末魔をまるまるミュートする気の抜けた復讐譚のどこにリメイクの必然性があったのか疑問に思うのは当然な上、フードで顔をおおったブルース・ウィリスの烈しくシャマランな既視感といい、少なくともブロンソン版が獲得していた同時代性の欠片も見当たらないこの行儀だけは良いリメイクは、あわよくばポール・カージーをフランチャイズ化したいだけのおためごかしとしか思えなかったのが正直なところで、ほどよくデオドラントされたジョー・カーナハンのシナリオもその意に添ったということになるのだろう。片目を閉じた時代に描かれた作品を新たに描き直す時に、両目を開けるバランスを投入するのではなく片目でしか見えない世界を意識的かつ批評的に捉えることをしなければ、そこには均された角度の総花が映るだけで片目が映さなかった世界が闇の中から浮かび上がることがないように思うのだ。牙を抜いたなら、まだ血のついたその牙を映すべきだろう。
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2018年10月28日

スカイライン 奪還/馬鹿がUFOでやって来る

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今いちばん足りてないのはこういったシネパトス、あるいはシネマミラノ成分であることをあらためて宣言するこの映画は、ジャンル映画においてさえ強迫観念的なリアリティチェックがなされる閉塞した昨今において、木の葉を隠すなら森の中ということわざを恭しく掲げつつ、全編をツッコミどころにしてしまえば各々のツッコミどころは無効化されるとでも言わんばかりの謎理論を持ち出したばかりでなくそれで逃げ切ってみせさえしたわけで、せいぜいがパイロットフィルムでしかなかった前作からのコペルニクス的あるいは居直りと言ってもいい逆転の発想には敬服するしかなかったのだ。なぜいきなりラオスなのかと訊ねられれば、そこにイコ・ウワイスとヤヤン・ルヒアンがいるからだと答え、巨大ロボのプロレスはKAIJUのアレだねと言われれば、『ランペイジ』然り、SIZE DOES MATTERを復権させたくてねと胸を張る独善性 は、例えば『クワイエット・プレイス』のスマートな両義性の対極で重宝されて然るべきだと考えるし、ついには切株と化したマッドドッグ先生の勇姿がいかに誇らしげであったか、それはもう、行き先知れずのチューインガムを噛んでそよ風に誘われる(by浅井健一)ような清々しさであったと言い切ってしまうことにやぶさかではないし、広げた大風呂敷にからめとられて窒息死しそうなラストにしたところで、このうつけ達が7年かけて達成した野望を見せつけられた今となってはもう笑い飛ばすわけにはいかなくなっているどころかワタシはそれを待ち望みさえしているし、正直言ってスター・ウォーズの新エピソードよりなんぼか期待すらしている。取り急ぎ、演者ですらが多幸感にあふれて呆けたNG集を刮目せよ。
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2018年10月25日

バッド・ジーニアス 危険な天才たち/わたしたちが得意だったこと

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ちょっとした叙述トリックをある時点でネタバラシしてしまうことで、ああこれは青春のピカレスクとしてゴールを切ることになるのかなと匂わせておきながら、まるでそれが合図でもあったかのように映画は一気に青春の蹉跌へと舵を切り始め、リンを演じたチュティモン・ジョンジャルーンスックジンの涼やかながらドスの効いた目と暴力的な頭身が最大限の効果を発揮して神経を苛み始めることとなる。したがって『ザ・カンニング [IQ=0]』がそうだったように反逆の中指としてのカンニングというよりは、先ほど触れた叙述トリック部分の構造的な参照など含め、どちらかと言えば『ソーシャル・ネットワーク』的な青春の孤独と破滅のストーリーに映画は身を寄せていくわけで、最後にリンが選択した罪と罰によって持たざる者が持つことを願った日々の狂騒からすくい取られた哀しみの上澄みがこの映画の儚いきらめきとなったように思うのである。したがって、その狂騒のボルテージが高出力であればあるほどその断絶が烈しく切なく行われることになるのだけれど、それにしたところでカンニングという行為そのものがリンという才能を下層から上層へと苛烈に吸い上げる搾取の構造を次第に隠さなくなっていくことで、コンゲーム的な痛快や爽快が一線を越えた捨て身の大博打へとサスペンスの色を変えていくこととなり、その切り刻み方の容赦のなさこそがこの映画のハイジャンプを決定的にしていた点で、神経症的な残酷ゲームのスピードこそが今日性の象徴であることを良くも悪くも叩きつけられた気がしたのだった。仮にハリウッド・リメイクがなされた場合、あのラストはまず確実に変更するだろうなという親がかりの勧善懲悪がいっそう傷口に塩をすり込む。いったいこの父親からなぜチュティモン・ジョンジャルーンスックジンがという言うその父親はほとんど村上春樹なのだった。
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2018年10月22日

ルイスと不思議の時計/スピルバーグならこう言うね

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この世界は映画のセットみたいなもんさ!というアンブリン的ジュヴナイルのワンダーとイーライ・ロスのグロスアウトな稚気が思ったよりも正常な食い合わせに仕上がっていて、初の非R指定作品(PG)にも関わらず自身の作家性をスマートにアレンジして窮屈さを感じさせなかったことに少し驚いたのである。予告篇ではルイス(オーウェン・ヴァカーロ)を取り巻くポンコツな魔法使いの叔父ジョナサン(ジャック・ブラック)と切れ者の魔法使いフローレンス(ケイト・ブランシェット)という構図で描かれているけれど、実際にはある過去の傷によってフローレンスもまたポンコツと化していて、けっして声高には叫ばないながら1955年という時代背景およびZimmermanという彼女の姓、そして彼女の手首の数字にその理由は決定的で、敵役アイザック(カイル・マクラクラン)がヨーロッパの戦線で悪魔と契約して手に入れた魔術をナチスが信奉したオカルティズムとしてみれば、この映画が背景にしのばせたメッセージをあらためて言葉にするまでもないだろうし、そうした意味でも由緒正しきアンブリンの映画となっていたように思うのである。したがってそうした物語の展開上、躓いている状態のフローレンスが描かれることになるわけで、最近はと言えば確信と自信に満ちたキャラクターを颯爽と演じることの多いケイト・ブランシェットのシンプルな凹み顔を目にすることができるのもこの映画の妙味といってしまってよいのではなかろうか。つい先日、真夜中にCSで『銀河鉄道999』を見ていて、ああ、と思わず呆けた声を出してしまったのは、第二期ケイト・ブランシェットの端緒といってもいい『ロード・オブ・ザ・リング』でガラドリエルを演じた時の特にフロドとの関係性における既視感というか奥底の記憶が揺らいだその正体がようやくクリアになったからで、それは、あのケイト・ブランシェットにワタシはメーテルを見ていたということに他ならず、今はもうメーテルの衣装に身を包んだケイト・ブランシェットを目にしないうちは死んでも死にきれないとすら思い始めている。
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2018年10月19日

アンダー・ザ・シルバーレイク/ To Live and Die in L.A.

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狂った世界で正気を保つためポップカルチャーに身をまかせ、世界の法則を知ったつもりになってみたところで、何のことはないそれはすべて他人が考えたアイディアの尻馬に乗っているだけではないか、俺はそいつらに囲まれたドーナツの穴でしかないのか!とニヒルに堕ちるまでがポップカルチャーであって、そんなことはいまさら百も承知であればこそ、サム(アンドリュー・ガーフィールド)がお気に入りの配置で床に拡げたズリネタこそがポップカルチャーの真の姿なのだ、としたり顔で言ってしまったりもできるわけである。鑑賞後にまとわりつく澱のような倦怠は、この映画がそうしたポップカルチャーの輪廻を140分にダイジェストした曼荼羅であったがゆえの取り付く島のなさによっていて、本来であればフクロウのキス(=自殺)によって曼荼羅の一部となるはずのサムがそれをかわしてヒモ(特別な自分という幻想の喪失)になることでステージを上げるラストに至ってようやく映画的なドラマを匂わせるデヴィッド・ロバート・ミッチェルの食えなさは、『アメリカン・スリープオーバー』『イット・フォローズ』のラストがそうであったように精神的な行方不明者を生み出すことで終わらない明日への不安と不穏を吐瀉物のように郊外の通りへ吐き出していく。死にたくなければヒモになれという暗黒L.A.の処世訓は『サンセット大通り』マナーの愚直にして崇高な遵守であったのは言うまでもない。これまでアンドリュー・ガーフィールドに感じていた違和感は、かつてヒッチコックがアンソニー・パーキンスに見つけたウィアードがそうさせていたことがわかってようやく腑に落ちた。手についたガムがぬちゃ〜っと伸びて取れないようなその笑顔は世界のあらかたから味方を失わせるに十分だろうが、あれが本来のはずである。トレイラーで使用されていたヴァイオレント・ファムズがどこにも聴こえなかったのが少しばかり残念。
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2018年10月14日

リグレッション/泣くのが怖い

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※ネタを割っていますが、主演俳優の受難を愛でる物語なのでさほど問題ではないかと。

あんたたちのそういうところだよ、とまるで観客を嗜めでもするような終わり方にも不思議と腹が立たないのは、そこに至るブルース・ケナー(イーサン・ホーク)の倒けつ転びつする七転八倒をそれなりに愉しませてもらったからという理由が大であって、いささか潔癖症的な善意と正義の人ケナーがアンジェラ・グレイ(エマ・ワトソン)という若き毒婦にハニートラップまで繰り出されて翻弄されたあげく、絵に描いたようなパラノイアに囚われて行くさまをアレハンドロ・アメナーバルは不穏と不安と不条理のムードを総動員して追い込んでいくのである。とは言えミステリーとしてはやけにあっさりネタを割るカットがいきなりインサートされて拍子抜けしてしまうのだけれど、少し調子に乗ってイーサン・ホークをいたぶり過ぎたと監督は腰が引けたのだろうか、せっかくいい具合に心神喪失が上気しつつあるところだったし、ここからが彼の真骨頂と思えただけにその意気地のなさがいささか悔やまれるところではあったのだ。オチとしてはどちらに転んだとしてもそれなりに収束してしまう話であったことを思うと、やはり監督にはイーサン・ホークをどこまで蹴堕とすことができるかその深淵を覗かせて欲しかったし、セックスのオブセッション丸出しで淫夢に悶えるイーサン・ホークがけっこうなやる気をみせていただけに、突然正気に戻り事件を解決し始めるその姿には、話が違う!と憤ってみせたりもしたのである。というわけで、界隈の大御所感を醸し出しつつあり昨今からすれば、イーサン・ホークが半べそで疾走するこの2015年作品は貴重なフィルモグラフィーとなりそうな気もするので、彼のパセティックに焦がれる側の方々は現時点で東京1館、沖縄(!)1館というハードルの高さはあるにしろ取りこぼしのなきようにと言っておきたい。なかなか要領を得ないアンジェラの父ジョン(ダーヴィッド・デンシック)に苛ついたケナーが「帽子を取れ、いいからその帽子を取れ!」と八つ当たり的に激昂するシーンで、無表情のままおずおずと帽子をとったジョンの頭が、まるでこれが答えですとでも言うかのように落ち武者的な見事さで禿げ上がっていて、しかしそれが意味するところなどもちろんあるはずもないシュールな一発ギャグにはケナーならずとも攪乱されること必至で、ああ今日はもうこれで良しとしようと思わせる屈指の名シーンとなったのだった。そういうチャームの映画であることも念のため付け加えておきたい。
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2018年10月13日

運命は踊る/不幸なことに幸運

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戦争国家においては自業自得の事態だと言ってしまえばそれまでなのだけれど、この独自の視点はそうした国に生まれ育った者だけが持ち得る角度によっているわけで、声高かつリアルな息遣いで反戦を叫ぶというよりは、場合によっては世界のどこでも起きうる話として寓話の攻撃的な曖昧さで戦時下の憂鬱と倦怠、すなわち厭戦の気分を垂らしていく浸透性が新鮮かつ有効に思えたのである。軍が戦死の報を家族に告げる際の、そのショックに応じてあらかじめ薬物投与の注射器まで常備する効率化されたルーティーンワークは、遺族の感情などおかまいなしに送り込まれた軍付きのラビが淡々と進める葬儀の準備と進行の段取りにまで及び、しかしそれには同姓同名の戦死者を取り違える誤報であったという杜撰で間抜けなオチが用意されているわけで、全体としては三幕構成となるその第一幕において戦争というよりは軍に対する潜在的な反感と嫌悪があぶり出されてくことになる。当の兵士ヨナタン(ヨナタン・シスレイ)の父ミハエル(リオル・アシュケナージ)は、イスラエルにおける富裕層かつ知識階級にくくられるわけで、そうした舞台仕立てによってこれが階級闘争的に立てられた中指でないことをあらかじめ告げておくあたり国家の強権に対するアスガー・ファルハディの手さばきに通じているようにも思うし、してみればこの映画がイスラエル国内の右派から攻撃されたのも至極当然に感じられたのである。しかしこの映画が残酷でユニークなのは、前線からは遥か彼方のどこともしれぬ地の果ての検問所でヨナタンが過ごす奇妙に弛緩した日々を描いた第二幕によっていて、いったい自分はここで誰と何のために戦ってるんだろうか、と戦争の全体性が次第にデカダンスへと沈んでいく黒いオフビートは『キャッチ22』や『M*A*S*H マッシュ』といった先達を彷彿とさせつつ、しかしこの状況における最低最悪の幕引きがそこには用意されているわけで、一見したところ第一幕と第二幕がもたらした罪への罰として描かれる第三幕は、それと同時に喪失から再生へと向かう道筋とも言えて、第一幕では軍の投与した薬物によって激情をコントロールされた母ダフナ(サラ・アドラー)の感情は、この第三幕においてヨナタンの形見のマリワナによって解放されていくのだけれど、彼が最期に描いた絵の本当の意味をミハエルもダフナも永遠に知り得ることがない皮肉がイスラエルで戦争の庇の下で生きる人々へ向けられたことを考えてみれば、そこにはテルアビブに生まれレバノン戦争で戦ったサミュエル・マオズ監督の中道的な憂国がうかがえるのは確かなわけで、時折り決め打ちすぎる狙いが透けて若干鼻につくきらいがあるにせよ、運命の引き金を引くのはあくまでそこにあって逃れがたい現実であることをシニカルだけれどニヒルに沈まないバランスでしたためたこの映画が、『戦場でワルツを』がそうであったようにイスラエルという鬼っ子のくびきから一時離れて自由で今日的な声を獲得してみせたのは間違いないように思う。
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2018年10月07日

イコライザー2/お前に長寿と繁栄を

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かつて殺人マシンとしてウェットワークで殺めた数と同じだけ、自分は罪なき人々を救済せねばならないという意味でのequalizeなのではなかろうかと、置かれた本の位置をミリ単位で修正するロバート・マッコール(デンゼル・ワシントン)という男が自らの手で何人の生命を奪ってきたか正確に把握していないわけがないだろうことに思いを至らせた時点で、贖罪に憑かれた男の地獄めぐりという2作目にしてはやや性急とも言えるネタ割りが不意をつくように深々と沁みてきたのであった。前作では世界の法則の調停者として実存的な乾きすらみせたマッコールの、しかし知られざるその虚無には嵐が吹き荒れていることを告げるのがあのハリケーンだったのだろうし、そうした作用反作用的な足かせがイコライザーというポップアイコンから浮力を奪ってしまうことを承知の上でアントン・フークアは古風と言ってもいい落とし前を望んだのだろう。それはおそらくデンゼル・ワシントンという高貴と野卑をエレガントに飼いならす俳優を前にしての避けがたい誘惑でもあったのと同時に、国家のための殺人という灰色の世界に身をやつした男が自らの魂を救うためには、善悪/白黒の二元論にすがるようにして寄り添うしかなかった精神の麻痺と硬直をキャラクターに注入したことへの罪悪感のような薄暗さが、前作の拡大再生産という手管を良しとしなかったように思ったりもしたのである。かといって、鈍重まで重心が沈み込む寸前に切り上げる目配せの巧みもあり過剰なドラマツルギーに窒息する愚からはぎりぎりで逃れていたし、アマチュアからプロフェッショナルにシフトしていく闘いもアクションのインフレに陥ることなく、むしろよりソリッドにかたを付けていく凝縮のリズムがギアを上げて、なんと言ってもスーザン(メリッサ・レオ)による捨て身の反撃が囁いた寄る辺なき世界の哀しく切ない息づかいによって前作のファンタジーはもう必要ないのだと手放した潔さを思い出してみれば、彼女がもたらした一つの幸福と希望によって映画が閉じられることでこの映画があふれさせた血と暴力への清冽でしめやかな鎮魂としたようにも思うのである。構造としては通じるところがある『ジョン・ウィック』が閉塞から解放へと向ったのとは対照的に、一見したところ解放から閉塞へと向ったことでそれが失速に映る部分もあるかもしれないけれど、すべてはマッコールの閉塞した精神のなせる業であったことを明かした今作によって、これもまた閉塞から解放へと向かう物語であったことに気づかされるわけで、それは失速ではなく夢から覚めることで現実の重力に舞い戻ったに過ぎないことを諒解したのである。前作でテリーとかわした結婚指輪をめぐるやりとりを思い出してみれば、マッコールが指輪を右から左へとはめ直すのは彼にとっての喪の仕事が終わったことを告げているのだろうし、してみればワタシたちの知るロバート・マッコールはもういなくなったと考えるべきなのだろう。殺した分だけの人助けはやめないにしてもである。
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2018年10月02日

クワイエット・プレイス/あふれた涙が落ちる音

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※展開に触れています

これが「ホラー」であれば、サイロのシーンでリーガン(ミリセント・シモンズ)は自身の人工内耳が増幅する高周波がクリーチャーの集音機能との間で起こすハウリングが突破口となることに気づいていたはずで、そうした意味で「ホラー」としては物分かりの良くない話には違いなく、しかしそれは、言ってみればアボット家が「ホラー」的な状況を力を合わせて押しのけることで家族としての絆と生活を全うする物語を描こうとした監督の狙い通りということになるのだろう。したがって、状況の説明とルールを観客に告げるためのオープニング・シークエンスこそ研ぎ澄まされたマナーで描かれはするものの、そこからおよそ1年が経過した後に再スタートする物語はトーンが一新されて、状況の特異ではなく状況下の家族が抱える問題が映画の主眼となっており、言葉が封印された世界のエモーションをバックアップするマルコ・ベラトルミのスコアは情緒過多といってもいい鳴りを隠そうともしないまま、死と隣り合わせの「大草原の小さな家」が粛々と展開されていくこととなる。あらかじめ音を奪われているリーガンにとって襲来後の世界は自身に関する限りさほど変わりがないのだけれど、彼女が苛まれるある出来事にしたところで、彼女はあれが光だけではなくあんな風に音を出すことを果たして知っていたのかと考えてみれば、何をどうするとどんな音がどれくらいの大きさで発生するかを知らない彼女にとっては二重の困難がつきまとうわけで、その苛立ちと哀しみを『ワンダーストラック』でみせたドスの効いた佇まいに塗してみせたミリセント・シモンズの仁王立ちが、この映画を危ういバランスで何とか成立させたように思うのである。とは言え中盤の舵の切り方からすれば彼女だけが知る無音の世界の二重性がさほど活かされることのないまま単なるハードウェアとしてのオチに着地した点で食い足りなかったのは正直なところだし、音を奪い音が凶器となる世界の神経症的な体感をドラマの達成と引き換えに手放していくバランスがワタシには少しばかり邪魔に思えたりもしたのだ。何がセーフで何がアウトなのか、そのラインが恣意的に変動されることでゲームのスリルが失われるのは言うまでもないけれど、「恣意的な変動」が生むドラマの熱情と冷徹な「ゲームのスリル」が混交して、それを望んだわけでもないちょうど良い湯加減になってしまったのはワタシにとってエラーでしかなかったのである。その不条理な機能性に比べ手垢のついたクリーチャーデザインもいささか凡庸であったと言うしかなく、どこにいたとしても次元の裂け目から現れるような名状しがたき佇まいで心をかき乱して欲しかったと思ってしまう。「音を立てたら、即死。」というわけでもない。
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2018年09月30日

ザ・プレデター/俺のためなら死ねる

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※展開らしきものに触れています

『プレデター』の面白さというのはあくまでアーノルド・シュワルツェネッガーの異種格闘技戦としてのそれであったし、『プレデター』meets『リーサル・ウェポン』が予想外に弾けた『プレデター2』をみればわかるように、プレデターというキャラクターはあくまでかませ犬として非常に有効なのである。したがって、その役目を逸脱しないよう行動原理から何からほとんど人間でしかないプレデターはエイリアン、というかビッグチャップに比べると人外としての品格は比べものにならないこともあって(だからワタシはAVPが大嫌い)、プレデターがどんなとんちきな翻案をされようとまったく気に止めることなく午後ローでも見る気分でむしろもっとやれとヘラヘラしていられるのである。その点においてシェーン・ブラックはとても的確にプレデターというキャラクターを理解しているように思うし、かませ犬としてのプレデターにかませ犬軍団をぶつけてみせたアイディアはその冴えた表れで、ネブラスカ(トレヴァンテ・ローズ)、コイル(キーガン=マイケル・キー)、バクスリー(トーマス・ジェーン)、リンチ(アルフィー・アレン)、ネトルズ(アウグスト・アギレラ)といった、オレは自分の頭がおかしいのは知ってるし生きててもろくなことにならないのも知ってる、だからって多分おれより頭のおかしい知らない誰かの都合で殺されるのはちょっと勘弁なんだよな、どこでいつ死ぬかくらい自分で選ばせろよと格好をつける面々が恍惚としてプレデターに殺されていく姿こそ、この映画が立てた中指だったわけで、それはラストのブラックユーモア(死語か)がもたらす犬死に感によって実に見事な着地とあいなることになる。ローリー(ジェイコブ・トレンブレイ)が実質的には人を一人殺していることを本人も父親クイン(ボイド・ホルブルック)を含めたまわりの誰も気にしていないのも頼もしい。与太話に目くじら立ててどうするよというシェーン・ブラックの正しさであろう。それにしても、グラウンドから退却する時にバスめがけて走ってきたワンちゃんはその後どうしたんだろうか。助けてあげてよってローリーが騒ぎだして一悶着あるかと思えばまったく見向きもしないし、キャンディを口に放り込むだけのトレーガー(スターリング・K・ブラウン)をアップでまじまじと映し続けるカットにも幻惑された。そもそもラストのアレにしたところで、デカイやつがあれほど血相変えて追いかけてきたところからすれば無双ツールであることは間違いがないわけで、だとしたらなぜ小っちゃいやつはアレを使ってデカイのを撃退しなかったのか、小っちゃいやつは地球を救おうとしたというよりは自分たちの闘いに代理戦争として我々を巻き込みたかっただけなのではないかと、なお幻惑させられる始末で、それはおそらくワタシが相も変わらずドラマツルギーの奴隷であることの証左なのだろう。いろいろとまだまだである。
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2018年09月27日

死霊館のシスター/出すんじゃない、出るんだよ

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オープニングのシークエンスで、ドアの向こうの暗闇へと引きずり込まれたシスターが、“それ”とのコンタクトの後で闇の中からシスター・ヴィクトリア(シャーロット・ホープ)へ向けた血まみれの顔を見て、ああ、流血しちゃうんだ、アクセスじゃなくアタックしちゃうんだと落胆というよりは冷静に理解してしまったものだから、以降は様々な意匠をうっすらニヤニヤと愉しむことで過ごすことができたのはもっけの幸いと言っていいだろう。バチカンから送り込まれたオカルトハンターのバーク神父(デミアン・チゼル)とポテンシャル重視の見習いシスターのアイリーン(タイッサ・ファーミガ)という、言ってみればプロフェッショナル同士によって繰り広げられる闘いは神経戦とかいった段取りなどまどろっこしいとばかり終始の肉弾戦と相成って、何しろアイリーンが土壇場で繰り出したのがまさかの毒霧殺法であったというその揺らぎのなさは、むしろ清々しくすらあったのである。とはいえプロフェッショナル中のプロフェッショナルであるはずのバーク神父が過去にしでかした仕事のミスをグズグズと引きずるばかりでいっこうに役に立たず、八面六臂に活躍したのはむしろアマチュアであるはずのフレンチー(ジョナ・ブロケ)であったという腰くだけがさらなる笑みを誘い、どこかしら若きニコラス・ケイジの相貌を湛えたジョナ・ブロケのボンクラな翳りがこの映画を極北のメランコリックホラーというThe Conjuring Universeのくびきから解き放っていたように思うのだ。解き放たれてしまっては困るむきもあるだろうが、解き放たれていたものはもう仕方がないのである。修道院となった古城の過去の曰くを描くシーンで、中世に召喚された悪魔とそれを殲滅せんと城になだれ込んだ騎士団の闘いにほんの一瞬『ザ・キープ』が記憶をよぎりつつ滾ったりもして、どう考えてもやるならこっちだったよなあと真顔に戻って少しばかり慌ててしまい、これが最後の娑婆の空気とばかり意外とあれこれ私服を用意してきたアイリーンのお出かけ気分が台無しになるところであった。恐怖は異化であって同化ではないというシンプルな理解の実践がいかに困難かという好例として、おれの屍を越えていけと監督は叫んだに違いない。
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2018年09月17日

きみの鳥はうたえる/ストレンジャー・ザン・函館

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同い年の佐藤泰志と村上春樹は文壇デビューもほぼ同時期な上に芥川賞ノミネートという経歴で重なる部分もあるにしろ、冴えたやり方に鼻白む「僕」と冴えたやり方を解明する「僕」は、当然のこととして圧倒的に青春を違えていくわけで、自爆するセンチメントとして描かれる青春の蹉跌が時代の気分であった季節だからこそ、佐藤泰志はそこから目をそらすことなく抜き身で斬りかかっていったし、村上春樹は蝶のように舞い蜂のようにその時代を刺してみせたのである。佐藤泰志とその原作に関するそんな記憶をもとにこの映画を観た時、『風の歌を聴け』の中で鼠がロジェ・ヴァディムの言葉として語る「私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する」というフレーズを思い出したりもして、原作からの大胆といってもいい脚色は、ならば今の時代の僕たちは華麗な真実を目指そうと宣言したように感じられたわけで、ではそれが何だったかと言えば自爆しないセンチメント、すなわち生きることに悪あがきする構えだったように思うのである。原作では僕(柄本佑)への意趣返しにチンピラを雇うというノワールめいた行動に出た同僚が劇中ではどう動いてみせたかと言えば、自ら正体不明の棒きれを持って窮鼠猫を噛むいじめられっ子のように無様で情けない白昼の闇討ちをしてみせたし、その三白眼にノンシャランよりは潜在的な卑屈が宿る柄本佑を「僕」に据えたのも、静夫による母殺しという青春の殺人者を完遂するラストを、大いなる不発としての「僕」へと変奏するための手続きに思えたのだ。原作ではあくまで異分子に過ぎない佐知子(石橋静河)の存在をより強力にしたのも、僕と静夫(染谷将太)とのトライアングルを抜き差しならない関係にするためだったのだろうし、あらかじめニヒルな世代にとって虚無への脱走は答えではないという認識はとても正しいと感じる。ただそうなってくると果たして佐藤泰志が必要であったのかという疑問も湧いてくるだろうけれど、何より今のワタシたちには存在を賭けてのたうち回る人が必要に思えて、青春に唾した人間が自分の成熟をどこに見出すのか、いつまでたっても冴えたやり方の見つからないワタシたちが佐藤泰志をあてにするのは自然な成り行きにも思えるし、『海炭市叙景』も『そこのみにて光輝く』も『オーバー・フェンス』も、それに関わった人たちそれぞれが新しい答えを見つけようと必死であった点にもそれが伺えるように思うのだ。たとえそれがスマホとLINEの水平世界に置き換えられようと、むしろそうだからこそ「僕」は走り出さなければならなかったし、佐知子は途方に暮れなければならなかったわけで、あのラストにはここから先はもう生きることが避けられないのだという佐藤泰志の烈しく清冽な意志が灯されていたことは間違いがないだろう。流麗で透明な蒼い夜から一転して白昼にさらけ出された異議申し立ての真摯で決定的な居心地の悪さこそが佐藤泰志のスピリットであったし、乾ききれない情景をためつすがめつ捉え続けるカメラの呵責のなさがラストカットの佐知子に集約されて少しばかり凶暴でもあった。
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2018年09月15日

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男〜俺を踊らせろ

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ブラウン管の中で悪態をつきまくるマッケンロー(シャイア・ラブーフ)に向けた婚約者マリアナ(ツヴァ・ノヴォトニー)の「彼は集中できてないみたいね」と言う言葉に「いや、できてる」とボルグ(スベリル・グドナソン)が返した直後、見事なサービスエースを叩き込んでみせたマッケンローにボルグはうっすらと幸せそうな顔をする。いまやコーチ(ステラン・スカルスガルド)にもフィアンセにも見せないその顔は、まるで幼い頃生き別れになった異母兄弟を見るかのような親愛と慈愛が滲んだようにも見えて、世界でたった1人このアメリカ人だけが、いま自分が見ている風景の幸福と絶望を理解できるにちがいないというかすかな希望が、テニスの呪いによって光も時間も奪われたボルグを照らしているように見えるのだ。ボルグは自分の爆発するマグマを封じ込めるために張った結界の中に生きていて、おそらくその呪文を教え唱えたのは彼のコーチなのだろうけれど、手段と目的が逆転しつつある彼の生活は綱渡りをするような緊張に蝕まれ、高層階のベランダから階下を見下ろして身体を浮かせるその姿は、あまりに意識の淵を覗きこみ過ぎたことで肉体の境界が曖昧になった人の静かな狂気をワンショットで捉えてみせることで、この映画はストーリーを語ることにあまり興味がないのだという不敵な宣言となっていて、デビュー作『アルマジロ』において“芝居がかった”と“まるで映画のようだ”の危うい境界で戦場を捉えた監督の手管はさらに巧妙かつエレガントになっている。実録を新たな神話へと書き換える幻視の語り部としてはすでにパブロ・ラライン(『ジャッキー』『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』)が一頭地を抜けている感があるけれど、ヤヌス・メッツの猛追によってこのジャンルが昏い目つきの才能たちで活況を呈することになれば、いつしか「ビリー・ザ・キッド全仕事」の映像化も果たされるのではなかろうかと見果てぬ夢に胸を弾ませている。
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2018年09月12日

MEG ザ・モンスター/パパと呼ばないで

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この監督のリズムからすれば目指すべきは『トレマーズ』だっただろうし、少なくともジェイソン・ステイサムに関して言えばそのことを理解した上での振る舞いだったのは確かながら、終わってみれば大人から子供まであげくの果てには元嫁までがよってたかってリー・ビンビンとステイサムをくっつけようとする婚活映画であったとしか言いようがなく、誰が死のうがおかまいなしに送られる母と娘の秋波によって、ステイサムはオレがいい夫でありいい父親になるにはあのメガロドンを倒さねばならぬのだと洗脳されていくわけで、あげくには人間ルアーにすら身をやつすその献身には狂気の色すら漂い始め、ステイサムの頬をペチペチと張っては、日がな一日ビールと昼寝で頭を溶かすフリー&イージーな日々を手放していいのかと説教しかねない自分の目つきが振り払えないまま、正直言ってメガロドンどころではなかったのである。構造的な欠陥としては事態を悪化させる悪役が人間サイドにいなかったことで、役回りとしてはスポンサーのモリス(レイン・ウィルソン)がそれを担うべきところが中途半端な業突く張りに終始するばかりだし、終盤ではついに証拠隠滅のために基地ごと沈めるのかと思いきやそれなりに男気を見せたりもするわけで、彼もまた人の恋路を邪魔するには至らない期待はずれなのであった。なぜか劇中とエンディングと2度も聴かされる「ミッキー」は紆余曲折あって監督が取り上げられたパーティでビーチでシャークな映画のヤケクソな爪痕でもあったのか。Gレイティングのサメ映画なんて、そりゃイーライ・ロスも逃げ出すか。
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2018年09月11日

寝ても覚めても/ベランダから永遠が見える

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最初、朝子(唐田えりか)はドッペルゲンガーだと思ったのだろう。ドッペルゲンガーという言葉を知らなかったとしても、世界が自分につかわした運命に障る何かだと思ったのだろう。麦(東出昌大)が消えた時に持っていった自分の半身が、麦の形をした他人=亮平(東出昌大)となって帰ってきたと思ったのだろう。ならばそれを受け取った朝子が自分の空いた半身におさめれば済む話だし朝子はそうしてみるのだけれど、愛は共同幻想ではなく世界に2つと存在しない自分だけのリアルなのだとする組成へ、かつて麦によって変質させられている朝子は、その自覚と認識を知りえないがゆえ横たわる違和感とひとり向き合いながら自分を亮平と重ねて生きるべく苦闘する。鳴り響く爆竹の音が現実にひびを入れた日の麦との出会いを、地震が現実にひびを入れたあの日に朝子は亮平と繰り返してみせるわけで、その後描かれる亮平との福島への旅は朝子にとって共同幻想としての愛を身体になじませる静養の時間でもあったのだろう。だからこそ、亮平と過ごす朝食のテーブルで自分だけ「パン」を食べる朝子の姿がまとう不意打ちのような禍々しさに慄然としたし、それから先は「それ」がいつどんな風に彼女のところへやって来るのか、潜在的にはそれを待ちわびつつも恐怖する朝子の分裂はほとんどホラーの趣となっていき、ついに「それ」が朝子と亮平の前に現れる瞬間のほとんど幽霊映画といってもいい角度と速度の精度には思わずおかしな声が出かかったりもしたのである。その先で「それ」によって完全変異を成し遂げた朝子が、ああ、この世界の在り方をワタシは亮平に伝えなければならない、なぜならワタシは彼を愛しているからだと彼の元へ向かうことになるのだけれど、逃げる亮平を朝子が追いかけるシーンをとらえたロングショットで陽の光が2人の後を追って射していく聖俗すら超えた絶対性はそのままさらに戦慄するラストショットへと繋がっていき、朝子が示した世界に「きったねえ」と吐き棄てる亮平と「きれい…」とつぶやく朝子がじっと見つめるその先のワタシは果たしてその世界を見ているのか知っているのか。そういえば一度でも朝子はまばたきをしただろうか、とそんなことを考えて気を逸らさなければならないくらいあのショットにはおびやかされた。生気に乏しいわけでもないのに何を考えているのかまったく明瞭でない朝子が繰り出す、しかしドスのきいた断定の言葉が鈍器で殴られたように効いてきて、これ以外に朝子というキャラクターを成立させる術はなかったのではないかと思わせる演技と演出のプランとフォーカスが超絶であったというしかない。それにしてもパン、甘くないパンである。亮平も、そして朝子ですらが知らないパンのことをワタシが知っている映画の寄る辺のなさに震える。久しぶりに『アナとオットー』を見返したくなった。
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2018年09月09日

アントマン&ワスプ/毎日が君と日曜日

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井之頭五郎言うところの「ほー、いいじゃないか、こういうのでいいんだよ、こういうので」というまさにそんなひとときであった。見えない誰かのために世界を背負うマッチポンプの重荷もなく、善悪問答を肉体言語で繰り広げる自家中毒もなく、ただひたすら妻に会いたい母に会いたい、娘にいいところを見せたい、彼女にいいところを見せたい、とかいう私利私欲のために奔走するだけの面々からは観客に共犯関係を無理強いする浮き世のしがらみは微塵も感じることがなく、前作でエドガー・ライトのリリーフをしたペイトン・リードは、サブテキスト?何それ美味しいの?とひたすらシンボルとメタファーからベタと鉄板を振りかざしながら逃げ続けるのである。しかもあげくの果てに思わず漏らした彼のフェティシズムなのか、ズーム機能が故障して「ザ・ブルード/怒りのメタファー」のアレくらいのサイズになったスコット(ポール・ラッド)が彼からすれば巨女と化したホープ(エヴァンジェリン・リリー)のまわりをミゼットよろしく走り回りその愛らしさに思わず微笑むホープの図など、これはいったい「Theかぼちゃワイン」の実写化ではないか!と『アバター』でくらった酩酊が瞬時に甦ったのだった。今回やたらと口にされる量子世界はおそらく次のアヴェンジャーズの布石となるのだろうし、ということはその突破口を担うであろうシュリはサノスのひとひねりをかわしたのかなとささやかな妄想など可能にしてくれるし、ほとんどテッドやプーのように喋るぬいぐるみと化したマイケル・ペーニャの愛くるしさといったらいっそ彼にもスーツを一着くれてやればいいのに、そして小さくなったペーニャを見てみんな悶絶すればいいのにと妄想してただただひたすら絆されていたのである。操られてはカモメの餌となっていく蟻たちの不憫は相変わらずであったにしろである。モリッシーの愛され方はマリアッチのそれに近いのかもしれない。陽気で哀しい死の歌うたい。
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2018年09月05日

高崎グラフィティ。/大人みたいに悪いこと

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オープニング、吉川美紀(佐藤玲)をポートレイトのようにとらえたカメラが少しだけ後ずさると、彼女がおさまっているのはトイレのありきたりでせせこましい鏡の中で、自分で自分を睨みつけるその視線をさっと外してトイレから廊下へと歩き出す美紀の背中を追いかける青い癇癪と焦燥と性急がこの映画の色合いを一発で決定している。それを言い換えればここではないどこかへの希求とモラトリアムの嫌悪ということになるのだけれど、それが世界を壁際まで追い詰めて喉元を締め上げる気配に至らないのは、騒動の元凶となる美紀の父に渋川清彦をコメディリリーフ的に配することで生まれた浮遊感をそのまま青春のファンタジックな薄皮とした設計によっているのだろうし、それは定型に抗うためには定型を踏んでいかねばならぬという監督の決意でもあるのだろう。それが奏功するのは彼や彼女が攻防一体で相手を刺しにかかる時で、もうお互い制服とかいう鎧を脱いでしまったから刺せば血は出るよねという甘噛みの先を解禁することで解放されていく姿こそを監督は描こうとしたのではなかろうか。しかし、あえて配置した定型が無言の早足を減速させてしまう危険もあるわけで、例えば早朝のアーケードを走り抜けるシーンのスローモーションはここで使ってしまうのは少し早過ぎやしないかと思ったし、終盤で時ならぬ命がけに歯を食いしばる阿部優斗(萩原利久)によぎる刹那のフラッシュバックにこそとっておくべきだったように思うのだ。そしてもう一つ、やはり若者が世界へと蹴り出される「前夜」のビタースイートを描いた『アメリカン・グラフィティ』がそうであったように5人の彷徨をワンナイト・ストーリーに凝縮することで、ラストを美紀の自宅での朝食シーンで閉じて新しい日常の光景が定型を蹴り出すところを観たかったなと思ったりもした。とは言え渋川清彦に加えて川瀬陽太まで配する贅沢と拮抗するだけの灯りはこちら側からも照らされていたように思うし、青春のくすみを蹉跌ではない光の角度で描こうとする気概はもっとあちこちで目に止まるにふさわしいものだろうと考える。もう一度もう一つと言ってしまうけれど、彼女の服飾に抱く想いと亡き母親を紐づけなどできていれば、美紀の反転になお説得された気がしないでもない。ただ、そんな風に惜しいなあと思ってしまうのは、その他のあれこれが惜しくなかったからなのは言うまでもなく。
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2018年08月29日

タリーと私の秘密の時間/胸いっぱいのお乳を

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ともすれば品よく腰が引けるジェイソン・ライトマンと、ともすれば胸ぐらつかんで落とし前を欲しがるディアブロ・コディが組んだからといって、足して2で割った平均と中庸に落ち着くことがないのが映画の面白いところで、しかも今回産み落とされたのがカラフルでヴィヴィッドに迫りくる『ババドック』であったとなればそれも一入だったのである。まだまだ手のかかる子供を2人、しかもそのうち1人が世界に中指を立てっぱなしなところに加えて臨月のお腹を抱える母親の日常がどれだけニューロティックなサスペンスに満ちているか、その臨界点でマーロ(シャーリーズ・セロン)の前に現れるタリー(マッケンジー・デイヴィス)のあけすけな距離の詰め方に観ているこちらは若干の訝しさなど抱くも、マーロはその踏み込みに身を委ねることで束の間寛解するのだけれど、ここでディアブロ・コディはタリーをすべての切羽づまった母親たちのイドの怪物としてファンタジーにとどめるというよりは、マーロがケリをつけるべきオルターエゴと描くのである。夜明けの光が見たければまずはその目を開けな!という叱咤はディアブロ・コディのシナリオに通底する突きつけなのは言うまでもなく、マーロとてその例外としないのは、次男ジョナ(アッシャー・マイルズ・フォーリカ)の世話にかまけて長女サラ(リア・フランクランド)をほとんど顧みないことへの責任を問うているからであるようにも思われて、それは寛解中の彼女がカラオケで突然デュエットを始めた時にサラが浮かべた戸惑うような喜びやけなげに母親をシャンプーするその手つきにもサラの孤絶が見てとれるわけで、明日目覚めたら成長した子供はもう今日とは別の生き物なのよというタリーの言葉がどこからやってくるのかを思い直してみた時、その罪深さがいっそう沁みてくるように思うのである。もう少し妄想してみると、タリーすなわちマーロが吐露する男関係によるルームメイトとのトラブル話など思い返してみれば、そうした日々の中で生まれたであろうサラは果たしてマーロにとって心の底から望んだ子であったのか、折々で見せるサラの哀しげな表情がいっそう切なく頭をよぎるのである。とは言え夜明けの光をまわりでさえぎる者たちを刺すように追いつめるのもディアブロ・コディの独壇場なわけで、ここでは一見したところ理解ある夫を演じるドリュー(ロン・リビングストン)が真夜中にTVゲームを欠かさないその姿の、ヘッドフォンで音は出さないよと言いたげに没頭するあまり、コントローラーが立てる終始のカチャカチャカチャカチャが隣で眠るマーロにどれだけ耳障りであるかに思いが至らないその鈍感さを執拗に描いては、実はこういう類がいちばんタチが悪いとばかり彼の株をじりじりと下げていくのである。そんなこんなで、殴ってでもここから連れ出すというディアブロ・コディとそれを泣き笑いに歪んだ顔で見ているジェイソン・ライトマンというコンビの、互いの過剰をなだめ欠落をおぎなうことで新しい考えを生み出すマジックに今回もあっさり化かされた始末で、あなたはWeirdに、というコンビの意向を汲んだであろうマッケンジー・デイヴィスが時折見せる人間からはうっすらと離れた角度がそれを助長して心の奥がすぅっとざわめいた。
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2018年08月27日

検察側の罪人/家に帰ると妻が必ず胡弓を弾いています。

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最上(木村拓哉)も沖野(二宮和也)もそれが人生の手続きでもあるかのように一線を越えて善悪問答を無効化していくわけで、極めて即物的なカットを乱れ打ちしながら、現在の社会を覆う漠とした不安と不快を観念のモザイクとして組み上げていく監督の、ジャニーズのトップを据えた東宝メジャー作品でこんな風なヤリ逃げに近いジャーナルを撮ったことの快哉は叫ばれてしかるべきだろう。原作を読んでいないのでこの脚色が何を得て何を失ったのかわからないけれど、インパール作戦から連綿と続く無責任と傲慢の精神構造を押し頂く巨悪のシステムを倒すための通過儀礼として卑悪の抹殺を利用するあたり、かなり無茶をしたのだろうことは省略と拡張のリズムがあちこちで軋んでいる気配にうかがえはするものの、その違和感をこそ観客それぞれのきっかけとすることを望んだように思うのである。と言った具合に自分のケツを拭くことに忙しい2人のバランサー、あるいはワイルドカードを切りまくるジョーカーとして登場する諏訪部(松重豊)というキャラクターの映画的な発明が効果的で、まずは最上をヴィジランテとして仕上げることを己の役目と課してメフィストフェレスの囁きでアメとムチを使い分けるその佇まいがこの映画にマジックリアリズム的な浮遊を与えているわけで、目論見通り仕上がった最上が沖野を手中に収めるラストには諏訪部のにんまりとした笑顔が透けて見えた気もしたのである。となれば本当のお楽しみはこの3人に橘(吉高由里子)を加えた4人が丹野メモをもとに巨悪のシステムを転覆させる非合法活動なわけで、そんな風に永遠に撮られることのない続篇を夢想する愉しみがこの映画には確かにあったし、それはすなわち、そろそろ日本でもそういう娯楽映画を撮ったっていいんだぜという監督の手招きなのではなかったか。木村拓哉については、かつてトム・クルーズがかっこいいことはなんてかっこ悪いんだろうと悟ったあとで、かっこ悪いならそれを笑ってもらえばいいじゃないかと更にかっこいいことを突き抜けてみせたそちらにようやく歩を進めたようにも見えて、そうそう誰にでも与えられているわけではないその特権を行使するタイミングとしては絶妙だったように思うのである。最上の家庭内設定(有閑な年上の妻!)など、もうそれだけですこぶるスリリングといえよう。
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2018年08月22日

カメラを止めるな!/うそがほんとになりますように

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そこに身を置いたことはないからそれは妄想やファンタジーのなせる業に過ぎないのだけれど、ある種の映画を観た時に映画の撮影現場に対する憧憬や敬意のような無垢の感情がふわっと立ち上がったりもするわけで、なによりこの映画はその点において針が振れたように思うのである。アメとムチで感情をこじあけては現場処理のきらめきを血眼で探し、それを見つけたりなくしたりする右往左往は瞬間的に生死の問題ですらあり、そんな風にしてシクシク泣いたり笑いを噛み殺したりしながら転げ回っているにつれ世俗の屈託は削ぎ落とされて、最後の最後にC調(死語か)のプロデューサーまでがどれだけ清々しい笑顔を見せたことか、そこにあったのは映画が厳然として持つ「浄化」の力そのものだった気がしたし、たとえネタバレをしたところでなかなかその魅力を伝えることが叶わないこの映画が寡黙な集団ヒステリーを誘い続けているのも、ともすれば正気を失った報せばかりが繰り返される日々をサヴァイヴする人々によるシンクロニシティにさえ思えたのだ。先般、映画を撮った人たちに突然叫んでしまった彼も、おそらくは映画を観た後で自分があの場で浄化されなかったことのメランコリーに囚われたがゆえのちょっとした錯乱だったのではなかろうか。娘の写真を台本に貼りつけて禁酒を誓った細田(細井学)にならって、ある写真を台本に貼りつけた日暮監督(濱津隆之)の想いが最後にはどこへどんな風に届いたか、それを映画の背骨に埋め込んだ時点でこの泣き笑いのスラップスティックは上田監督が紡いだ物語になったのだろうとワタシは考える。冒頭のオンエア版で流れるふぬけたジョン・カーペンターみたいな劇伴や地面に転がった食人族カメラもニヤニヤと愉しく、酒が抜けたあとで見せる細田ゾンビの意味不明なキレも忘れがたい。
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2018年08月17日

オーシャンズ8/わたしたちは視つからない

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※内容にふれています

ハリウッドの顔見世興行的お祭り映画をそれらスタジオシステムとは一線を画し続けるソダーバーグが撮るというスカし方がいささか鼻についたのと、それでも何となく観てしまった時の、プロットはあえてザルなまま記号として脱構築してます的な無味無臭もあってまったくワタシは面白がれなかったものだから、そんな風に全体が悪い冗談のようなフランチャイズにいかなる勝算をもって挑んだのかそれなりにワタシは楽しみにしていたのだけれど、思ったよりも正攻法かつ生真面目なそれはゲイリー・ロスのいささか朴念仁な作家性の当たり前な反映で、なるほどすべてを真に受けてみることにしたのだなあと、製作にも名を連ねる主演女優サンドラ・ブロックの変わらぬいなたさにもなんとなく合点がいったのである。ロックンロールなケイト・ブランシェットを目で追っていればとりあえず事足りるにしろ、どうしてみたところで“女性版”という惹句から逃れられないのだとしたら、そんなノイズをかき消すようなグウの音も出ないタフでソリッドなケイパームーヴィーをモノにして欲しかったなあというのが正直なところで、例えば特殊な仕掛けをクリアしないと外せないはずのネックレスがなぜ走っているうちに落ちてしまったことを誰も怪しまないのか、そしてその発見者がなぜ誰からも疑われないのか、ハウダニットの根幹にも関わらずそれらイージーは少しばかり観客に甘え過ぎだろうと思ったのである。女優陣はみな、何だってやってやるつもりに映っていたことを思うと、60歳を超えたアルティザンの監督ではなく彼女たちと共闘できるクリエイターをなぜ選ぶことができなかったのか、あるいは選ばなかったのか、『チャーリーズ・エンジェル』でドリュー・バリモアがマックGをフックアップしたファンキーでスマートな目配せこそがこの映画には決定的に欠けていたように思うのだ。何だかもったいないことをしたなあという気持ちがずっとしている。
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2018年08月15日

インクレディブル・ファミリー/つよくて大きいアメリカの赤ちゃん

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※内容にふれています

MCUで苛烈なまでに稼ぎまくるディズニーへヒーローなんぼのもんじゃいと立てた中指のみならず、あげくの果てにはスクリーンを捨てよ町へ出ようとアジりまくるスクリーンスレイヴァー=イヴリン(キャスリーン・キーナー)が鏡像的に反射するヴィランだったこともあって、そういうお前はどうなんだ、かく言う自分はどうなんだとブーメランが飛びかっているうちに雨降って地固まった世界の水平性を見晴らす視点はブラッド・バードが自身に課したリセットでもあったのだろうし、ジョン・ラセターの名前をクレジットロールに見つけた瞬間にその仕掛けが完成するという皮肉というよりは必然こそをこの作品が求めたということになるのだろう。ヒーローとはそもそもがマイナスをゼロに戻すための存在であって、果てなきプラスを幻想する人々とそれを否定しないヒーローたちに向けられるイヴリンの敵意と嫌悪が正気の沙汰であるのは言うまでもないし、その代表者とも言えるイヴリンの兄ウィンストン(ボブ・オデンカーク)のまとう無邪気な危うさは、実の妹が自分を裏切るヴィランであったことを知ってなお一顧だにしないラストの笑顔に象徴的で、実は彼こそが潜在的なヴィランであった気すらしてしまうのである。ヘレン=イラスティガールを初めて目の前にしたヴォイド(ソフィア・ブッシュ)が思わず口にしたヒーロー=異能者としてのX-MEN的な疎外感に、今回はそこへも踏み込むのかと期待と危惧が半々でいたのだけれど、結局は祝福されるスーパーパワーの象徴としてのジャック=ジャック(イーライ・フシール)の活躍がすべてをかき消してしまうことになるわけで、イヴリンとヴォイドの共闘に光と影の屈託が感応したわけでもなかったのは少しばかりもったいないなあと思ってしまった。各自がエゴを剥き出しにするパー家にあって、弟にして長男という板ばさみにもかかわらず、せいぜいがやんちゃ程度でぐれることもなく家族の下支えとして文字通り奔走するダッシュ(ハック・ミルナー)が巧妙なシナリオの発明となっていて、ワタシがヴィランなら真っ先にダッシュを無効化したにちがいないのであった。エンドクレジットシーンでなくゴージャスでファンキーでソウルフルなエンドクレジットソングだったのは思いがけないカーテンコールでちょっと新しいスタイルに耳からうろこ。
posted by orr_dg at 16:48 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月08日

ミッション:インポッシブル フォールアウト/世界を救うまで待っててベイビー

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劇中で2度あった夢オチから抜け出せないまま、夢から覚める夢を見たとでもいうふわふわと足元の定まらないステップが、イーサン・ハント(トム・クルーズ)の薄ぼんやりとした寝起きのような頬のラインと相まって、なんだかワタシは夢とうつつの間でまどろむイーサンのレム睡眠を覗き込んでいる気がずっとしていたのである。これまでは状況の表面張力が限界となった瞬間、解き放たれるように飛びだし走り出していたアクションが、ここでは自分が再び眠って夢の中に堕ちてしまわないよう自分で自分の頬を張り続けるための作業であったようにも思え、爽快や痛快というよりはマイナスをゼロに戻す徒労をひたすら見守る閉塞に締めつけられる気もして、それは冒頭のベルリンにおける失策に端を発する敗戦処理の気分がこの映画を支配し続けるのと同時に、イーサン・ハントという稀代のエージェントに忍び寄るミッドライフクライシスにも似た精神の倦怠と沈澱との闘いがさらに拍車をかけていたように思うのである。ウォーカー(ヘンリー・カヴィル)の「彼は仕える相手にあれだけ何度も何度も裏切られてきた」という言葉が告げるように、抉るような裏切りがイーサンの動機と激情をキックし続けてきたことは言うまでもなく、その結果として生まれたのが狂気のノブレス・オブリージュ・マシンとしてのイーサン・ハントであったわけだし、ラストで3度めの夢から醒めるかのように目覚めたイーサンがジュリア(ミシェル・モナハン)に向って「許してくれ、すべてのことを許してくれ」と言う時、それはマシンであった自分の否定とそれが導く新たな人間宣言であったように思うのである。前作でイルサ(レベッカ・ファーガソン)をイーサンの鏡像とすることでローグ・ネイションの住人としてのメランコリーを投影してみせたように、今作ではウォーカーをその役にあてることでマシンvsビーストの構図によるスイングを狙ったのだろうけれど、存在自体がマクガフィンと化したソロモン・レーン(ショーン・ハリス)のまるで緊張感を欠いた介入もあってウォーカーが血の通ったキャラクターというよりはスマートなジョーズ(リチャード・キール)にしか映らなかった失敗は、やはり今作がイーサン・ハントのセルフ・カウンセリングに終始したことの功罪に依っているのは間違いがないところだろう。しかし、暴走するノブレス・オブリージュ・マシンとしてのイーサン・ハントを崇拝してきたワタシのような人間にしてみれば、人間宣言をしたイーサン・ハントが今後も常軌を逸したカリスマを保ち続けることが果たして可能なのか、出たとこ勝負で仕上げた(ように映る)今作のツケは存外に大きいものであった気がしてならないのである。ワタシが観たいのは躊躇なくヘリからパイロットを放り出して転落死させる洗練された合理的な運動としてのイーサン・ハントなのだけれど。
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2018年08月05日

ウインド・リバー/赤い雪のブルース

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吸いこんだ空気で肺すら凍る酷寒の中を6マイル走り続けなければならなかったのもその6マイルを走り続けることができたのも、ウインド・リバーに生まれ落ちたナタリー(ケルシー・アスビル)の血と肉が呼び寄せた運命に他ならず、しかしその運命を決定しているのは、おまえたちはここからどこへも行くことはできないというアメリカのかけた呪いであり、動き続けることで自由を獲得してきた彼の国にあってそれはほとんど死さえ意味するに違いなく、そんな風にして生まれながらに死んでいるものたちの土地で繰り広げられる殺戮は、それは例えば時折吹き荒れる吹雪のような自然のひと触れとしてやってくるに過ぎない。したがって、この地に生きることを決めたコリー(ジェレミー・レナー)は死に対して従順であることを受け入れていて、その見返りとして彼にいっさいの衒いも迷いもない引き金を与えている。病院のベッドでジェーン(エリザベス・オルセン)の流す涙は、自分の属する「アメリカ」がかけた呪いに殺されかけた衝撃と罪深さが、それまで彼女の与り知ることのなかった自身の内部を激することでこぼれ落ちた感情の滴なのだろう。コリーがジェーンに「きみはよくやった」と言う時、それはよく生き延びたというよりはよく殺したという言外を持つにちがいなく、定型であれば反目し合う内に理解と愛情が育つ関係になるところがコリーは端からジェーンにバックアップの手を差し伸べていて、そのメンターとしての役割は『ボーダーライン』におけるケイトとアレハンドロの関係を容易に想起させるわけで、してみれば、テイラー・シェリダンが囚われているのは抹殺された現実の告発というよりも、境界を超えた者に訪れる永遠の変質であるように思うのである。真夜中に強装弾を仕込むコリーのところに、起きてきた息子のケイシーが近づいて悪い夢を見たんだと小さく告げるシーン、自分の膝の上にケイシーをのせて束の間それぞれの静かな屈託に浸る時間はこの土地に生きるもの同士が呪いの感応を確認する儀式のようでもあり、しかしそれを悲劇というよりは静謐な諦念と彩る筆使いで描くテイラー・シェリダンが幻視するのはアメリカの原罪を解剖するメスさばきそのものなのだろうと、昏れていくアメリカの寄る辺ない語り部があらたに生まれたことを心の底から喜んでいる。
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2018年08月04日

FUJI ROCK FESTIVAL'18苗場7.29 Sun

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台風はとっくに逸れたものの、その置き土産なのか突発的な豪雨と強風にそれなりに心は削られていて、昨晩のFISHBONEのステージで土砂降りの中ヤケクソでがなった「EVERYDAY SUNSHINE」が既に笑えなくなっている。

THE FEVER 333@WHITE
というわけで今日もまた降り出したのである。しかしいつの間にかパンイチになったステージの3人にアジられる内にまたぞろヤケクソにはなるわけで、それなりに疲れもたまった最終日の午前中というなかなかキツめのスロットにあってほとんど初見の客をいかに騒ぎに巻き込むか、何ならあばらの一本くらいはくれてやるというほとんどjackass的な心意気こそがバカ正直な感動を生むのであった。

HINDS@RED MARQUEE
ふと外を見ると土砂降りである。しかしここには屋根がある。ステージはカラフルで朗らかである。午前中ホワイトでがんばったご褒美だろう。そういう風にできている。

ANDERSON .PAAK & THE FREE NATIONALS@GREEN
ファレルからお触れでも回ったのか、見たことないもん見せてやるから好き勝手に騒いどけとでもいうコミュニケーションブレイクダウンの回避が完全に奏功。ケンドリック・ラマーとは対照的に手の内をすべて晒した上でブレイクスルーをショウに翻訳して圧倒してしまう。ドラマーとしてリズムの芯を食った力点で回転する時のスリルはちょっと他に例えようがない。

KALI UCHIS@WHITE
ほとんど特攻服のような気合のシースルーでライヴヴァージョンとしての自分をトータルにデザインする術が実にスマート。見たきゃ見れば?とでもいう誘いかけもトラップのようなもので、鉄壁のバックバンドも含めたアンサンブルにじわじわと取り込まれていく。ホワイトの吹きっさらしにも関わらずここまで密室性の高いサウンドを可能にするコントロールの強靭さに痺れてしまう。

BOB DYLAN & HIS BAND
開演予定時刻の数分前にいきなり始まったのであった。常に現在の自分に忠実であることに努めてきた77歳のミュージシャンによる現在地としてのステージは、彼と一緒に自身を巡る旅をしてきた人にこそ測れるものなのだろう。来日すればほとんどの公演をフォロウする人に聞いた話では、ようやくシナトラのモードから解放されていた上に馴染みの曲も新鮮なアレンジで奏でられていて非常にフレッシュであったそうだ。チャリ坊などと呼んでいたチャーリー・セクストンのいぶし銀の佇まいなど見てみれば、そりゃあワタシもいい加減年を取るわけだと最後の曲だけでも一緒に口ずさんでみたのだった。

GREENSKY BLUEGRASS@FIELD OF HEAVEN
今年のベストステージ。懐古主義でも回帰主義でもなく、混沌を混沌として愛でるのでもなく、世界の水平性を規定するスタイルとして直結された無意識の肉体性。それはバンドスタイルを選択するヒップホップの潮流、ケンドリック・ラマーやアンダーソン・パークがそうであるように、と深層でリンクしているようにも思うのだけれど、それが批評として行われているわけではない健全さが親密なクラリティを彼らにもたらしていて、正気を保つためには音楽が絶対に欠かせないことおよび、やはりフジロックのマニフェストはヘヴンにあることを思い出させてくれるステージだった。これからは、毎年ヘヴンのクロージングは彼らでいいのではなかろうか。

流れていく時間と流れていかない自分とのズレ、と言ってしまうと良くないことのように響いてしまうけれど、その差異を一年に一回確認する場としてのフジロックを再発見したような気がしている。身に覚えのない小さな傷が手や足にいくつかあって、そういった鈍感の進行とも付き合っていかねばならないことも忘れてはならぬ。

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2018年08月02日

FUJI ROCK FESTIVAL'18苗場7.28 Sat

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CARLA THOMAS開演前のFIELD OF HEAVENから見た夕焼け

午前中はドラゴンドラで天上へ。今まで十数回ほど乗ったけど、今回初めて眼下の木立に野性の動物を確認。こちらの一切に目もくれぬまま存在するものの神々しさを、うつむきながら斜面をヒョコヒョコと横切っていく小さなカモシカに見てしばし押し黙る。

木村草太@Gypsy Avalon
同行者が木村先生のファンなので一緒に話を聴いてみる。ワタシが知っているのは主にSession-22の木村先生だけれども、憲法に加えられた過剰な圧によって予期せぬバグが発見されている現在の状況を見つめる憲法学者としての自分の視線はマッドサイエンティストのそれに近いかもしれないという話が面白かった。憲法が悲鳴を上げれば上げるほどさらにメスを入れて奥底を探ってしまうということなのか。

JOY-POPS@FIELD OF HEAVEN
4月の渋谷クアトロとほぼ変わらぬ感触のステージで、その後こなしたそれなりのツアーにも関わらず惰性のような仕上がりのない超ヴェテランの瑞々しさにあらためて驚かされる。渋谷では演奏されなかった「風の強い日」が聴けたのはとてもうれしい。ハリーのガンさばきみたいなフレーズを聴けば聴くほど、できればバンドの強靱なビートの上で公平氏の艶やかなトーンと絡み合う音の粒を浴びたかったなあと思ってしまう。往時のキーと色艶のまま歌いあげるハリーのヴォーカルに、ないものねだりがそうやって加速する。

CARLA THOMAS & HI RHYTHM W/VERY SPECIAL GUEST VANEESE THOMAS@FIELD OF HEAVEN
FISHBONE@WHITE
KENDRICK LAMAR@GREEN
ブラックミュージックは優しい、というよりは優しくならざるを得なかったし、ワタシたちはそれに甘えたし甘えさせてくれた。そうした時間のせめぎあいの中で発見されたヒップホップは間違いなくモノリスであったし、世界を変える用意はある、ついてくるかどうかはキミらが決めろと一人睥睨するその姿に、ケンドリック・ラマーこそがスターチャイルドなのだろうと確信した。素晴らしいアーティストたちのステージをたて続けに見ることでそれが完全に繋がった気がしたら、知恵熱でも出たのか少し具合が悪くなった。
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2018年08月01日

FUJI ROCK FESTIVAL'18@苗場/7.27 Fri

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ありえない進路をとり始めた台風12号に、苗場直撃はせずとも西に逸れたら逸れたで被災の地にさらなる嘆きが訪れるしと、若干の複雑な心境をいだきつつ越後湯沢の駅に降り立ってみれば、台風どこ吹く風といった穏やかな夕方に胸をなでおろすことを隠さない現金なレジャー客なのであった。

苗場開催20年を祝う謎の爆音DJタイムでビートルズジミヘンジャニス清志郎のトラックがGREEN STAGEの青空に溶けていく。ということでワタシも20回目の苗場。今年は苗場プリンスが確保できず越後湯沢組となったので、夜討ち朝駆けはあきらめてノロノロ過ごす。

LET'S EAT GRANDMA@RED MARQUEE
PSB的な確信犯と言ってしまうには不安や不穏のゆらぎを放り出して笑っているようなトラックが非常にチャーミングかつ洗練されていて、いまだどの文脈にもつかまっていないのがとてもフレッシュ。きちんと音源を聴いてみたい。

ROUTE 17 Rock’n’Roll ORCHESTRA@GREEN
相変わらずヤマジカズヒデがロン・ウッドのように一生懸命ギターを弾かされて働いていた。ご褒美に来年あたりdipで出させてあげればと思う。

PARQUET COURTS@WHITE
こういう、からっ風みたいな演歌度ゼロのジャギジャギしたBastro直系はWHITEの吹きっさらしによく映える。ワタシにとっては三つ子の魂的な音だけど、初日でガソリン満タンの客からすると縦ノリをすかして引き攣ったステップは少し持て余し気味かも。でもこれは苗場に絶対必要な音。

ALBERT HAMMOND JR@WHITE
この人のソロワークはまったく追ってなかったので、汗と笑顔の飛び散るドシャメシャなパワーポップのつるべうちにちょっとビックリした。こんなペルソナをかかえたまま、あんなふうな笑ってはいけないロックバンドの屋台骨を支える気苦労を思えば客が置いてきぼりにされるくらいの弾けっぷりにもうなずけるわけで、あなたが幸せならワタシたちも幸せです、という客のやわらかな視線が彼の浮遊を支えていたよ。

エレファントカシマシ@WHITE
88年の汐留PIT、渋公、89年ロマン劇場3DAYS、暮れのコマ劇場、90年の野音、96年パワステのスライダーズとの対バン、と折々のエレカシはすべて見ているはずで、エピックや宮本が抱いたそれぞれの不満はともかくワタシはあの頃のエレカシが充分に必要で大好きだったのだ。だからワタシは、宮本が「悪い奴らけちらし本当の自由取り戻す」ための闘い方を変えた時、これからの宮本は新しい人達と新しい闘い方をすればいいと思って離れたのだろうと、今にして考えてみたりもする。なので今さらどの面下げてという気がしないでもないのだけれど、世界にパンチが届くよう闘い方をゼロから変えてみせたあのバンドのことを思い出してみれば、ようこそぉ、フジロックベイベエと絶叫する宮本にあの人の姿を見るのは当然の帰結と言うか、今のこの世の中にエレカシがいてくれて本当に良かったなあと思ったのだ。宮本はパイプ椅子をあんな風に使うようになったんだな。

MARC RIBOT’S CERAMIC DOG@FIELD OF HEAVEN
ポエトリー・リーディングとかいうよりは檄文でアジりまくるマーク・リボーの、ここまでアグレッシヴな姿とサウンドは初めてかもしれない。しかしこんな風に人生これエクスペリメンタルなステージを見ちゃうと、やっぱりジョン・ルーリーのかくも長き不在が胸に沁みてしまう。このステージにいて引き攣るようなサックスでインタープレイを繰り広げていてもまったく不思議ではないわけで…。

ODESZA@WHITE
GREENでもよかったんじゃないかと思わせるくらい、ケレン味たっぷりのVJショウを含めた過剰な熱量の集中投下には移動の足も思わず止まるというものだし、とはいえカッティングエッジの洗練で客を圧倒し振り切ってしまわない絶妙ないなたさも相まって、極めて高性能な祭りの見世物としては文句なし。太鼓の達人が到達した極北。

N.E.R.D@GREEN
OPEN UP!と取り憑かれたように絶叫するファレルだけが記憶にこびりつき、ファレルだけが最後まで何かと闘っていた。言葉の通じないラッパーは翼の折れたエンジェル。
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2018年07月26日

FUJI ROCK FESTIVAL '18 展望

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7.27 Fri
Upendra and friends plus Mr. Sunil and Tilasmi
LET'S EAT GRANDMA
PARQUET COURTS
GOMA & The Jungle Rhythm Section
ALBERT HAMMOND JR
THE TESKEY BROTHERS
エレファントカシマシ
MARC RIBOT'S CERAMIC DOG
N.E.R.D
POST MALONE

7.28 Sat
eastern youth
ESNE BELTZA
RANCHO APARTE
JOHNNY MARR
JOY-POPS
ユニコーン
CARLA THOMAS & HI RHYTHM
FISHBONE
KENDRICK LAMAR
NATHANIEL RATELIFF & THE NIGHT SWEATS

7.29 Sun
THE FEVER 333
ケロポンズ
WESTERN CARAVAN
HINDS
KACEY MUSGRAVES
ANDERSON .PAAK & THE FREE NATIONALS
KALI UCHIS
HOTHOUSE FLOWERS
BOB DYLAN & HIS BAND
GREENSKY BLUEGRASS
VAMPIRE WEEKEND

エレカシにユニコーンにスライダーズとかいった限りなくeZな2018年。台風来たらホテルで寝てます。
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女と男の観覧車/わたしは頭痛が痛い女

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雨の日の光に君はなおのこと美しい、とミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)が使い回す口説き文句を嘲笑うかのように、ミッキーの前に仁王立ちするジニー(ケイト・ウィンスレット)の顔面を殴るように照りつける西日の一閃が彼女の逆流する神経を剥き出しにしていくに連れ、既にカメラはミッキーへの切り返しをすることもないまま、ジニーが破壊的なメランコリーの流砂に呑まれていくのを復讐心のような執拗で捉え続けてみせる。いつまでたっても他人離れすることのできない子供じみたハンプティ(ジム・ベルーシ)も、自分もまた堂々巡りの観覧車に乗りこみつつあることに気づかないミッキーも、使命として世界の尻に火をつけて回るリッチー(ジャック・ゴア)も、無い袖は振れぬゆえある袖を振って生きることを実践するキャロライナ(ジュノー・テンプル)も、それぞれが問題としがらみを抱えた我が身のままに、共に生きる人としてのジニーを見つめているのだけれど、その中でジニーだけが誰も見ていないのである。彼女が見ているのは観覧車のゴンドラが一番上にあった時に見た(と思っている)記憶の光景とそこにいる自分だけで、それ以外の誰のことも彼女は見てないのである。にも関わらずジニーは、年を重ねることで間違いに対して寛容になれたわ、だから他人を許すこともできるようになったの、それがなかったらこの世界は冷酷にすぎるでしょう?と真顔で演説をぶってみせて、ここまでジニーを修復不能なモンスターと描いたアレンの意図に或る私怨以外の筆使いを見るのはさすがに困難ともいえるし、1930年代のNYにうっすらと死生観を湛えた前作『カフェ・ソサエティ』に続き1950年代のコニーアイランドを愛と幻想のアサイラムと描いた今作を観る限り、ここに来て何らかの私小説的なタガを再度外したようにも思えるわけで、これを許して焚きつけたAmazon Studiosはパトロンとしての責任を最期まで全うする義務があると考える。言うまでもなくケイト・ウィンスレットは生き腐れした肉体の絶望的な香りを含め、情状酌量の余地なくこわれゆく女を現して最凶。それを狂気の光と屈託の影で煽りまくるヴィットリオ・ストラーロの神経症的なまなざしはさらに最強。騒ぎでアレンは水を得た。
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2018年07月24日

REVENGE リベンジ/殺るのはあたしだ

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いったい俺のどこが嫌いなんだ?と言い寄るスタン(ヴァンサン・コロンブ)に「背の低いところ」と応えるジェニファー(マチルダ・ルッツ)の、あんたたちアタシのこと何も知らずに顔とかおっぱいとかお尻とかそういうフォルムにいきり立ってるだけだよね、アタシもリチャード(ケヴィン・ヤンセンス)がハンサムで背が高い筋肉野郎だからここに来たわけで、リチャードがOKであんたがNGなのはまあそんなこんなでお互い様ってところよね、とか言った詰め方にぐうの音も出なくなったスタンがお約束の卑劣な肉体言語に及んだことが引き金となって、そういうことならば了解しましたとばかり、ペヨーテの力を借りたジェニファーは不死鳥のごときスーパーサイヤ人と化すに至るのである。ただ、そうやってジェニファーが3人のクズを片っ端からぶち殺すだけの映画にしては意外にも108分の長さを要していて、どちらかと言えばこの映画はその目の詰まり方こそが喧伝されるべきなのではなかろうかとも思うわけで、デヴィッド・リンチもかくやという超クロースアップが対象の情報を停止して絶対値を描くことである種の神々しさを宿す瞬間、ワタシ達はみな糞のつまった袋にすぎないという認識のもとでジェニファーによって浄化されていく気すらしたのである。串刺しになったジェニファーから滴る血の一滴が、地面にへばりつく一匹の蟻にとっては迫撃砲のごとき脅威と化す様を捉えるシーンから始まるジェニファー復活の儀式についてはペヨーテ無双を含めた底の抜け具合(なぜあれは反転しないのかetc)を含め、これはワタシの妄想が走り気味ではあるけれど、気がつく範囲では不随意運動としての瞬きをジェニファーは行っていないことなどもマジックリアリズムへの接近と呑み込めば、物語の神話性もいや増すというものではなかろうか。ジェニファーの覚醒以降は前述したクロースアップから一転するロングショットの多用が神の目を思わせると共に、終盤の室内戦では長回しが緊張をさらに圧縮しつつFPSショットのカメラが追うものと追われるものの絶望と恐怖に喘ぎながら走り回り、局面によって最適なショットをスマートにチューニングする監督のヴィジョンは、これがデビュー作だとしたらその一閃は鮮やか過ぎるだろうと少しばかり驚嘆したのである。血の粘度も彩度も非常に好みで、ガラス片のシーンはその魔術的な赤の幻惑に頭がクラクラし始めた。衝撃をくらって聴覚が飛んでしまうシーンやラップフィルムの戦術的使用など微に入り細を穿つ描写がさらなるエクストリームを誘い、ジャンル・ムーヴィーの矜持と陶酔を高らかに謳う傑作であった。レイプシーンはあえて直截的には描かれていないので、そういったシーンが苦手で忌避する必要がないのもサービス精神の顕れといっていいだろう。コラリー・ファルジャという監督の次作が本当に楽しみになった。
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2018年07月20日

ジュラシック・ワールド 炎の王国/喰われるように眠りたい

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閉まりきらない水中ゲートの隙間を巨体をくねらせて外洋へとすりぬけていくモササウルスを、その数分後には自動ドアの隙間をすり抜けるクレア(ブライス・ダラス・ハワード)にトレースさせるJ・A・バヨナのウィアードな執着は、最期にイアン・マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)が宣言する「ジュラシック・ワールドにようこそ」という『ウェストワールド』的な反乱への密かな疼きがその正体であった気もして、仮にバヨナがストーリーを含めたクリエイティヴを完全掌握していたら、洋館で出会ったブルーとメイジー・ロックウッド(イザベラ・サーモン)がクローンの哀しみと高揚とで感応する「恐竜はささやく」物語へ舵を切ったことだろうと、シェルター代わりのベッドにもぐりこむメイジーをめぐるインドラプトルとブルーの三角関係までも妄想してみたりしたのである。したがって、そこかしこにうかがえるバヨナのスケッチした仄昏いペシミズムの残滓にプリンス・オブ・オプティミズムたるクリス・プラットが今ひとつそぐわないままなのは、彼にとって最強の武器であるオフビートがバヨナにとってはノイズでしかないという予見しうる相性の結果に過ぎず、バヨナにしてみれば早く島を出たくて仕方がなかったというところだろうし、イーライ・ミルズ(レイフ・スポール)に「お前たちがしたことと俺がしたことのいったいどこが違うんだ?」と問い詰められて押し黙るオーウェンとクレアの姿にも、今作の主役が既に彼と彼女ではなくなっていることは明らかだったように思うのである。特にクレアについては、パンプスを脱ぎ捨てたことで(ブーツを履いた足元が執拗に映される)女性版オーウェンとなってしまったのが彼女の魅力を削いでしまってはいるものの、それを棚ぼた的に肩代わりした形のジア・ロドリゲス(ダニエラ・ピネダ)のべらんめえなチャームが今作で最も血の通ったキャラクターを生み出して、思わぬ機転と男気をみせたフランクリン・ウェブ(ジャスティス・スミス)の顔を愛犬をもみしだくようにムニュムニュするシーンなど、終始張り詰めてばかりの今作で息を継げるシーンはほとんど彼女がさらっていったのではなかろうか。それに比べて、出て行けと言われていつの間にか出ていってしまうアイリス(ジェラルディン・チャップリン)は、バヨナの潰えた野心と混乱の象徴にも思えた。前作を観た時の“フランケンシュタインの怪物としてのインドミナス・レックスとその鏡像としてのラプトルという構図のメランコリーも望むべくもなく”とかいった愚痴をやはりバヨナもこぼしたのではなかろうかという妄想はともかくとして、かつてジョン・セイルズとウィリアム・モナハンが「4」のシナリオに設定した人間と恐竜のハイブリッドへと心なしか頭をもたげた気がしないでもないので、いっそそちらに舵を切って「粘膜戦士」をめざしてはくれまいかと茹だった頭で夢を見たのであった。「チェアアアア!」はバヨナ精一杯のやけくそなのか。笑ったけど。
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2018年07月18日

ブリグズビー・ベア/映画は撮らせてくれる

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ブリグズビー・ベアが新しい世界を独り歩きすればするほど、茫洋と広がる世界と渡り合うだけの知識と社会性とをジェームス(カイル・ムーニー)に蓄えさせたコンテンツ「ブリグズビー・ベア」をゼロから築いた仮親テッド(マーク・ハミル)の偏執的な天才とそれを支えた愛情とに気を取られてしまう。世界を再構築して規定し直すためには古い物語を終わらせるための新たな物語が必要であることにジェームスが思い至るのも、世界を投影するスクリーンとしての物語を信じたテッドの「教育」がもたらした成果であって、けれども分水嶺を超えて世界に侵食した物語によって人生を囚われ続ける男マーク・ハミルがテッドを演じることを皮肉と映すことをせず、物語ることへの肯定と祝福を唱え続けることへの決心こそがこの映画の野心であったということになるのだろう。かつてはテッドが一人二役で演じていたブリグズビーとサン・スナッチャーの、ブリグズビーを継承したジェームスがサン・スナッチャーを撃退するラストはそのまま父殺しの物語となるわけで、これこそはマーク・ハミルにとってついぞ果たされることのなかった結末ということになるのではなかろうか。『ワンダー 君は太陽』がそうだったように現実世界でジェームスの存在そのものを脅かす悪意が登場することはなく、ことさらに負のスイングで見かけの奥行きを作ることをしないのは予定調和の破壊でもあるわけで、当たり前の感情を抱いて当たり前の行動をつなぎ、当たり前のように自分の世界を手に入れることを描くのがラディカルに映ってしまうワタシ達の身の回りこそがいかににっちもさっちもいかなくなっているか、エラーと困難を引き換えにしないと希望や幸福は得られないのだという出所不明のしたり顔にいい加減でうんざりしている正気の人たちにこそ寄り添いたいとワタシは思う。テッドのみならず、ホイットニー(ケイト・リン・シール)の救済もまた優しく綺麗に行われるのがとても良い。いささか唐突だった施設収容は『カッコーの巣の上で』な逃亡シーンをやりたいがためだった気がしないでもないけれど、そうやって自分たちの「映画」を撮っていたデイヴ・マッカリーやカイル・ムーニーこそが劇中の彼や彼女たちそのものでもあったのだろうと思えばこそ、この映画が既にノスタルジーのような気分を獲得していることの理由が分かる気がしたのである。それは多分、これが二度とこんな風には撮れない最初で最後の映画だから。
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2018年07月14日

パンク侍、斬られて候/日本の猿なめとったらどついたるぞ!

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「曖昧な欲望しか持てず、曖昧な欲望を持て余す」「おまえの頭を開いてちょっと気軽になって楽しめ」「すべてが終わった後で何が残るか俺は知らない俺はおまえを正確にやる」「俺はのうのうとしてきた奴の子孫を傍観して俺の屈辱をたたき込みたい」「俺はおまえを夢の中にひきずり込みたい」「俺の存在を頭から打ち消してくれ 俺の存在を頭から否定してくれ」「一口飲めばスカッと地獄 全てを忘れてあんた最高」「俺の方から不安と恐怖に何時でもやったんぞ」「偽善の快楽と安らぎが少しだけ欲しいなら俺の家に来い」「むしろ異常なのはおまえ自身むしろ環境とはおまえ自身お前が退屈なのは当然」「ええ加減にせんと気い狂いて死ぬ」とまあこういうことである。INUである。この国屈指のパンクアルバム「メシ喰うな!」の映像化である。闘争どころか遁走のパンク、スキゾ・キッズの冒険、ベイビー!逃げるんだ。逆噴射家族、突如80年代の亡霊が憑依した石井聰亙(やっぱりこっちの方がしっくりくる)が復活の逃げ足で、そんなつもりは毛頭ないパンクアンセムを目眩ましに、考えるために考えるなら考えるだけムダ!と走り去る。この映画の既視感というよりは、三つ子の魂百まで的な胎内回帰の気分は主にその逃げ足の光景によるのだろう。とは言え石井聰亙がまだこんな脚を残していたことには正直言って驚かされたし、何より石井聰亙ですらない石井岳龍に大金(けっこうかかってるよね)をぶちこんだ慧眼というよりはキチガイ沙汰にこそ喝采をおくるべきで、これほど勇猛果敢に金をドブに捨てる姿を目にしたのは果たしていつ以来だったのか、今いちばん足りていないのはこうした街場のバカによる撹乱であることをあらためて痛感したのだった。永瀬正敏vs浅野忠信の因縁はまたしても決着つかずということで、虚空に消える永瀬正敏と虚空に囚われる浅野忠信は、まんま『ELECTRIC DRAGON 80000V』の変奏であったよ。原作未読につき宮藤官九郎の脚色がどれくらいジャンプしたかは不明ながら、役者がみな口も身体もやたらと気持ちよさそうに動かしていたのは間違いがないように思えた。それにしても、今の時代にまだこんなでたらめ(=punk)が可能だったことに少しだけ沁み沁みしている。
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2018年07月13日

菊とギロチン/愛と幻想の内無双

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花菊(木竜麻生)の内無双がいつ炸裂するのかと、終盤のあるシークエンス以降はそればかり固唾を呑んで待っていたものだから、こうやって今に至るも我々は負け続けているのだ、と夢を見るなら夢から鍛えよとでもいう全方位へ立てられた中指の気概は受け入れるにせよ、だとするとそもそもがギロチン社と女相撲が共闘するにはそれぞれの蹉跌が質を違えていたように思ってしまうのだ。それはおそらく十勝川(韓英恵)の出自にまつわる暴力世界と中濱鐵(東出昌大)の満州ユートピアのクロスがバランスを崩していたからで、本来であれば女相撲が十勝川を守るシェルターとなったはずが、彼女をアナーキストの感傷に巻き込んでしまうことにより女相撲がいささか都合のいい背景となってしまった気がしてしまう。あくまで主軸は女相撲とした上で、巡業先で出会った中濱と古田(寛一郎)と交流する日々に、2人の屈託や不穏が徐々に滲み出て素性が晒されていくその感応によって、彼女たちもまた自身の闘いにフォーカスしていく物語をワタシは少し予見しすぎたのかもしれない。おそらく監督は、きれいに鉋をかけてしまうよりは、ささくれが手に刺さる痛みを残そうとしたのだろうし、出奔して気ままに死ぬ自由すら与えられない女性の時代にあっては、夫に内無双を仕掛けた花菊のその先の未来を夢想するよりも、古田という捨て石の残酷にかじりついて生きることを理解すべきだということなのだろう。概して女相撲の面々はみな完全に役柄へと没入していて揺らぎがないのだけれど、なかでも玉椿を演じた嘉門洋子の、肉体に精神が隙間なく張りついた佇まいの凄みに目を見張った。東出昌大は人たらしの色気が決定的に欠けてしまっているのがなかなか辛い。いつの時代も益体のない夢を見ては泣きじゃくる男たちと、見たくもない夢のおこぼれで涙をふく女たちが果たして「同じ夢をみて闘った」のかどうか、「同じ夢をみて闘うことを夢みた」映画だと思ったワタシは、またそこから始めるのかと何だか遠くを見た気分になってしまった。
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2018年07月08日

バトル・オブ・ザ・セクシーズ/やっちまいな

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これは『1973年のビリー・ジーン・キング』というタイトルがふさわしい、自身の野心に対する尊敬の念を曇りのない視点でみつめつつ、しかし自身のヴィヴィッドなゆらぎを慈しむように生きるひとりの魅力的なファイターが駆け抜けた時間の個人史であって、原題タイトルが連想させる闘争史による参照はどちらかと言うとこの映画の本意ではないように思う。テニスドレスが買えずに母の作ったテニスショーツを着た12歳のビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)が、それではみんなと一緒に写真は撮れないよと言われてムカついたその日から彼女はあくまで自分を不当に扱う世界を相手に闘って来たわけで、WTAの設立にしてもそもそもはその流れの中で起こしたアクションにとどまっていたのではなかろうか。そうした何者にも従属しないはずのビリー・ジーンがマリリン(アンドレア・ライズブロー)と出会うことでもたらされた覚醒によって、自分で自分を抑圧し続けてきたこととそれを強いてきた社会への怒りと恐怖を認識し、世界の悪意を粉砕する意志と力のある者はそれを行使する義務があるとでもいう大きな意志に衝き動かされたことで、自分のためだけではない闘いへと舵を切っていったのだろう。したがって、マーガレット・コート(ジェシカ・マクナミー)の惨敗を見届けたビリー・ジーンが意を決してひとり立ち去るシーンこそがこの映画のピークといってもよく、ほとんど手続きにすぎないボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)とのゲームよりはそれを取り巻く悪意の群れがことのほか執拗に描かれて、ビリー・ジーンが一敗地に塗れた時に群がるであろうジャック・クレイマー(ビル・プルマン)らハゲタカたちの醜悪な色付けにはまったくもって容赦がない。なかでも、中継のゲストに招かれたロージー・カザルス(ナタリー・モラレス)の肩にことさら庇護者よろしくねっとりと腕を回すハワード・コゼルの姿はフェミニストをはき違えた絶滅すべき恐竜に対する悪意以外のなにものでもないし、ボビーに負けるということはそれらすべてにひれ伏すことになるのだという死の宣告を突きつけられた闘いであることを承知していたからこそ、勝利の後のロッカールームでビリー・ジーンが流す涙は、喜びというよりは戦場を生き延びた安堵の嗚咽にしか映らなかったのである。神輿にかつがれた道化としてのボビーを強調するのは、敵はその後ろにいてしたり顔で腕を組む者たちであって、それを見誤ってはならないという念押しだったように思う。ビリー・ジーンが本当に愛しているのはテニスだけで、そこを邪魔でもしたらボクもキミもすぐに棄てられるさ、と“浮気相手”のマリリンに怒りをぶつけるでもなく諭すように語るラリー・キング(オースティン・ストウェル)はビリー・ジーンの野心に対する全面的な崇拝者であって、そうした愛の形を選んだ彼にうっすらとした哀しみを見て取ってしまうのは、それがワタシという人間の限界ということにもなるのだろう。涙をふいて歩き出したビリー・ジーンを抱きしめてテッド・ティンリング(アラン・カミング)が囁く言葉が、ほんの一瞬にしろこの世界を美しく均して遠くどこまでも見渡せたような気持ちになる。いつかありのままの自分でいられる日がくるだろう、そして誰でも自由に人を愛せるようになるだろう。少しうろ覚えではあるけれど、ビリー・ジーンはその日を願って独りコートで闘ったにちがいない。
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2018年07月07日

ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷/空室有り応相談

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サラ・ウィンチェスター(ヘレン・ミレン)とプライス医師(ジェイソン・クラーク)が面談するシーン、窓から差し込む日光だけが照らす部屋のはずがどのカットでも2人を燦々と照らす光源不明のヒプノティックな光に落ち着きを奪われる。巻き込まれるようにして異界に踏み込むプライスは定型のゴースト・ストーリーであれば異界へのカウンターとして機能するところが、ここでの彼は異界への同化があらかじめ運命づけられているわけで、定型であれば闇堕ちのような敗北として描かれてしまうそれは、プライス自身の喪失と再生をめぐる物語となっている。そんな風にしてプライスを往って帰すことにより、それを促したサラの振る舞いは狂気の沙汰から贖罪へと姿を変えていくことになるのだけれど、劇中で命を落とした2人(執事と大工頭)が共に彼女の贖罪を信じていなかっただろうことを思い出してみれば、彼女と屋敷が手にしたさらなる変質と力を窺わせるラストによって、やはりこれは感染する狂気の物語であったことに気づかされるのである。『デイブレイカー』にしろ『プリデスティネーション』にしろ、スピエリッグ兄弟がつけ回すのは自らを磔にする人の憂鬱と官能であるのは間違いがないだろう。描かれる感情自体はメロウであろうとそれがいつも躁病的に上気して息を切らしているようなのもこの兄弟独特のトーンであって、脇に回ったとは言えセーラ・スヌークこそがこの兄弟のミューズということになるのだろう。『ツイン・ピークスTHE RETURN』での、破壊的に底の抜けたクズっぷりで脚光を浴びたエイモン・ファーレンは、クローネンバーグ顔の怪優としてこのまま健やかに歩んでいって欲しいと思う。そもそもなぜウィンチェスター銃の製造を止めてしまわないのかと問われれば、そうしたらいつの日か犠牲者がいなくなって屋敷の工事を止めなければならなくなるでしょう?と真顔で返してきそうな壮大なるブラックジョークと弄るのもまた格別の趣き。
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2018年07月04日

オンリー・ザ・ブレイブ/燃える森の生活

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燃えるものがなくなれば火は消える、という真理というか事実というか取り決めというか、業火に対峙する男たちの内部にもそれは同じように適用されて、消したい者、消えない者、消してしまいたくない者たちはいずれにしろ火に支配されかつ魅了されている趣すらあり、妻アマンダ(ジェニファー・コネリー)が“消防士中毒!”と吐き捨てるエリック・マーシュ(ジョシュ・ブローリン)の場合、燃やすものがなくなる日々への畏れが火に向けた愛憎入りまじる忠誠を誓わせてもいるようにも思えるし、エリックはその美しさと怖ろしさを闇の中を火だるまで疾走する熊の記憶にうつして自身にとどめている。そうやって内部を喰われた者ゆえに可能なスペシャリティという点で『ハートロッカー』が頭をよぎったりもしたのだけれど、エリックが戻らずの河を渡ってしまわないよう頬を張り続けるアマンダの眼差しがこの作品の正気を象徴するだけに、ついにエリックが地に足をつけた瞬間に起こる無慈悲に向かっていささか紋切り型に崩れ落ちるアマンダの慟哭にも鼻白む隙などなかったように思うのだ。エリックが自身の過去を投影して手元に引き寄せたブレンダン・マクダノー(マイルズ・テラー)が、夫妻に対照するかのように、ある意味では子供の存在によって生かされたといえるのも酷薄な運命の仕業と言えるのだろう。劇中でどれだけ業火に巻かれようと不思議と熱さを感じることがないのは、ここに登場する人たちのふるまいひとつひとつがアメリカの根幹をなす自然思想とプラグマティズムの沈着な実践のようでもあったからで、人里離れた山の中で祈りのように軽口を叩き一心不乱の労働に明け暮れるグラニット・マウンテン・ホットショットの面々はどこかしら修道士のようにも思えたし、ピーター・バーグ的なアメリカン・イシューとはほど遠い地の塩的な原風景を見渡すような映画であったことに、どうにも虚を衝かれた。
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2018年07月02日

ハン・ソロ:スター・ウォーズ・ストーリー/粗にして野でも卑でもない

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※展開に触れています

ドライデン(ポール・ベタニー)の船に還ってきて以降、ハン(オールデン・エアエンライク)とチューイ(ヨーナス・スオタモ)、キーラ(エミリア・クラーク)が取る行動の、どうしてチューイはハンを裏切ったトバイアス(ウディ・ハレルソン)にさしたる理由もなくヒョコヒョコと付いて行ってしまうのか、ドライデンを倒したなら2人で手に手を取って逃げ出せばいいものをなぜハンはキーラと別行動をとることをあっさり受け入れてしまうのか、本来であれば苦渋の選択が決断を鈍らせて危機を招き、予期せぬ悲劇へとなだれこむクライマックスによってハン・ソロ・ライジングの仕上げとなるはずが、各自が段取りの消化としかいいようのない駒の動きをするにとどまって一滴の血も涙も通うことがないせいで、その後に起きる2つの裏切りにまったく血潮が逆流することもなく、キーラが乗った船を呆然と見上げるハンの、何だか一雨きそうだなあくらいに気の抜けた顔にはワタシの知るハン・ソロが身を沈めるシニックの鎧の一片も見てとれなかったように思うのである。そもそもが、ハンとキーラ、ドライデンの三角関係を正面切って物語の要素にする覚悟のない腰の引き具合からして鼻白むばかりだったし、その程度の切った張ったですらディズニー・コードに抵触したせいなのかどうなのか、おそらくロン・ハワードは想像を超えて自分ががんじがらめであることを知った時点で、師匠譲りの低予算早撮りモードへとあっさり自身を切り替えたのではなかろうか。愛をアドレナリンとチャージした若く無謀なカップルが、自分たちを捉えた運命を笑顔で引っかき回しならがバニシング・ポイントへと向かう『バニシング in Turbo』の狂躁をワタシはオープニングのシークエンスで見て取った気もして、欲しがったのがこれだったのならば監督交代もやむを得ないし、むしろキャスリーン・ケネディの慧眼だったのではなかろうかとすら思ったのだ。しかし唯一エゴが感じられたのはそのコレリアで繰り広げるスピーダー・チェイス・シーンまでで、それよりはカジノを2度、ドライデンの部屋を2度、と使い回すあたりの目端をこそ、クリエイティヴィティ?なにそれ美味しいの?とばかり製作陣は求めたとしか思えなかったのである。冒頭でふれたシークエンスで、同じカットを繰り返しては最初はチューイ、次はハン・ソロと自動ドアの向こうへ消えていく死んだ魚のような目をした編集の月曜ドラマランドっぷりにはロン・ハワードのあさってに向けた捨て身すら感じた始末で、かつてそうであった映像の実験場としてのスター・ウォーズの終焉を見た気もしたのだった。巷間囁かれてきたハン・ソロの出自やチューイとの出会い、ミレニアム・ファルコン入手の経緯、果てはケッッセルランに至るまですべてをハン・ソロ正史と取り込んではいるものの、それらすべてのエピソードがこの作品には役不足であったのは言うまでもなく、あなたのハン・ソロをハン・ソロとしてとどめておきたければ今作をスルーしたところで何の問題もないように思う。他の誰よりもウディ・ハレルソンこそがハン・ソロのスピリットを哀しい目と小さな微笑みでドライヴしていたよ。
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2018年06月29日

ワンダー 君は太陽/おまえもがんばれよ

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ダメージを背負った主人公が学校という新たな世界で理解者を得ることにより、自分の居場所を見つけて歩き出す物語としては、監督の前作『ウォールフラワー』とほぼ同じ見かけで語られていくのだけれど、実は主人公のオギー(ジェイコブ・トレンブレイ)はあらかじめ成熟した知性とユーモアを持ち合わせていて、人間を見かけで判断する愚かさへのカウンターとしてほとんど記号化された存在といってしまってもいいくらいオギーはオギーのまま頑としてあるのである。したがって、ここで描かれるのは彼よりは彼によって変化を促される人たちの成長譚であり、それは「オギーの見た目は変わらない。ならばわたしたちが変わればいいんだ」という校長先生の極めてプラグマティックな情動の実践ということになる。原作は未読なのでどのような脚色がなされたのかわからないのだけれど、オギーとの関わりで更新されていく人たちを「○○の場合」といった風に章立てした構成にもそれは明らかで、その点でオギーはほとんど狂言回しと言ってもよく、彼に対する同情や憐れみはそのままそれを向ける者へと反射されていくこととなる。母イザベル(ジュリア・ロバーツ)や姉ヴィア(イザベラ・ヴィドウィッチ)がオギーの家族となったことで舵を切り直したその人生も、オギーのいない場所で語られる衒いのない口調によってその笑顔に重ねられたレイヤーの模様をワタシたちは知ることになるし、オギーとヴィアそれぞれの親友であるジャック(ノア・ジュープ)とミランダ(ダニエル・ローズ・ラッセル)についてもそれは同様に、独り言のあけすけな口調でオギーという舵を語ることによって自身の道筋を確かめ直すわけで、この映画がことさらにウェットな感情を溜めてはそれを涙に絞り出すことをしないのは、そうしたある種の緊張が成熟した人間関係の証として張りめぐらされているからなのだろう。そうしてみた時、ではチャプターを与えてもらえなかったジュリアン(ブライス・ガイザー)がどんな風に自身を立て直したことで修了式の笑顔を見せていたのかを思うと、オギーへの暴力装置として描かれる彼が偏狭な両親の呪縛をどうやって断ち切ったのかを描かないのは、構成上ジャックとの重複が邪魔になるのは承知するものの、慈愛と理性に満ちた大人たちばかりのこの物語にあってジュリアンだけがバックアップされない不幸を思えば、それは少しばかりフェアではないだろうと思ったのである。オギーの父ネート(オーウェン・ウィルソン)と母イザベル、トゥシュマン校長(マンディ・パティンキン)、ブラウン先生(ダヴィード・ディグス)、ジャックの母(ニコル・オリヴァー)といったオギーを取り巻く大人たちはみな、自分がこうありたいと思う大人であると同時に、子供の頃に出会う大人たちはみなこうあって欲しかったといういずれの理想も満たす完璧な造型がなされていてほとんど夢見心地ではあるのだけれど、それはすなわち世界の正気を思い出す作業に相違ないわけで、ふだんのワタシたちがどれだけの狂気や邪気をあきらめ顔で受け入れてしまっているのか、その知覚の麻痺に一度愕然とするべきなのだろう。オギーを憐れんでいるつもりのワタシたちこそが、オギーにそっと憐れまれている。
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2018年06月26日

梅雨の晴れ間のケイジ祭り/「ダークサイド」「マッド・ダディ」

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ダークサイド

いつも通り益体のないケイジ映画を益体のない気分で観にきたつもりだったものだから、オープニングのクレジットにティム・ハンターの名前をみた瞬間、ん?え?本人?同姓同名?と思わずフガフガしてしまって、それならそれでそう言っておいてくれないと、だったらそういうつもりで観ちゃうけど知らないよと、とっさにギアを叩き込んでしまったのであった。というわけで以下、現場では本人確認の確証を得ないまま(結局本人)、ティム“リバース・エッジ”ハンターの監督作品として観た繰り言になるのだけれど、まず言ってしまうと、どうしてこの題材が主戦場をTVに移して久しい基本クソマジメな齢70の老監督に持ち込まれたのか若干理解に苦しむわけで、おそらくは脚本家のインスパイア元であろうゲイ・タリーズ「覗く モーテル 観察日誌」という大ネタを大ネタとしてまったく生かし切れていないのが何よりも致命的だったように思うのである。実際のところフーダニットについてはプロットも結末もまったく妙味がないわけで、ワタシとしてはというよりも益体のないすべての観客にとって、屋根裏の散歩者よろしく冥府魔道のピーピングトムと化していくケイジを三時のお茶よろしく嗜みながら、うっすら笑って小さくため息をつくことさえできれば誰もが幸せであったのは言うまでもない。だからこそ、あのシーンでケイジは夢精していなければならなかったわけで、一体何を言っているのか意味がわからないかもしれないけれど、それはご覧になった方であれば瞭然のはずで、何よりこの映画に必要だったのは妻の目から隠れてこそこそと自分のパンツを洗うケイジのポエジーとペーソスだったに違いないのである。フェラーラ版『バッド・ルーテナント』がいまだハーヴェイ・カイテルのアレに紐づけされるように、何よりその点でケイジ史に燦然と名を残すチャンスを逃したのが悔やまれてならない。



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マッド・ダディ

“MOM AND DAD”という原題からうかがえるとおり『ザ・チャイルド』の反転ではあるのだけれど、親が殺意を抱くのは我が子に限られるという点でいろいろな象徴性やらメタファーやらを投影しやすくなっているとってつけた思索感がいい塩梅にペラッペラだし、ケイジ安定のキレ芸も出し惜しみなく開陳される上に、ネタ切れになったらとっとと逃げ出すスマートな分のわきまえ方は85分という上映時間にも明らかで、ケイジ映画としての表面張力に特化した潔さというかヤケクソは称賛されるべきだろう。さすがに子殺しのシーンは基本的に直截的なカットを回り込んでしまっていることもあって、そちらからの新たな切り崩しを期待するといささか拍子抜けするかもしれないけれど、、ニコラス・ケイジvsランス・ヘンリクセンという血闘がそれを補ってあまりあるのは言うまでもない。ミッドライフ・クライシスに内部を喰われたケイジが地下室のビリヤード台をめぐって心情をデストロイに吐き出すシーンの焼身するような演技に、オスカー俳優の演技派レイヤーが透けて見えたりもして、他の追随を一方的に拒絶する漂泊のキャリアに思いを馳せたりもしたのだった。
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2018年06月23日

レディ・バード/今はこれでいい

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『フランシス・ハ』の前日譚とも言える私小説的な主人公にシアーシャ・ローナンをあてる監督の豪快な役得はあっぱれというしかなく、いっそ邦題は『グレタ・ガーウィグのレディバード』くらい振り抜いてしまってもよかったように思うのである。自分の居場所はここではないどこかにしかないとデラシネを気取りボヘミアンを夢見ては世界の中心でレディ・バードと叫ぶクリスティン(シアーシャ・ローナン)のしぐさや振る舞いは、自伝というにはいささか定型に過ぎる気がしてケリー・フレモン・クレイグのそれ(『スウィート17モンスター』)があちこちで記憶に蘇ったりもしたのだけれど、逆に言えばシアーシャ・ローナンの割には思いの外微笑ましく浅はかで間抜けであるという見立てこそが青春の不発をより煽った気がしないでもなく、『フランシス・ハ』にもみられた清潔な悲愴感という身の置きどころのなさこそがグレタ・ガーウィグの空気なのだとすれば、毅然とした面持ちで自爆するシアーシャ・ローナンの歯を食いしばる口元あたりを監督はあてにしたということになるのだろう。カイル(ティモテ・シャラメ)の書き割り然とした造型で明らかなように逐一フォーマットの反転がなされた場合、娘がなすべきは父殺しではなく母殺しということになるのだなあと、妖精の微笑みで母と娘の間をとりもつ父親の後方支援にワタシも過分に苛まれることなく心安らいで見物できた気がするのである。ただ、自分の物語ということで誇張や省略をわきまえ過ぎたのか、グレタ・ガーウィグの歩き方としてこちらが思い描いた道筋からさほどコースアウトすることもなく、身を乗り出すよりは達者だなあと腕を組んでしまうことの方が多かった気がしたのは正直なところで、青春の殴り込みとしては前述した『スウィート17モンスター』の通過儀礼がいまだフレッシュなままにも思えた。この映画の焦燥と衝動よりはどこかしらそぞろ歩きをするようスピードは、6フィート近い身長のグレタ・ガーウィグならではの視点と身のこなしが反映されたテンポによっているのだろうなとも思うわけで、それはおそらく、あごを上げるナタリー・ポートマンが決定してしまう事と同様なのだろうと考える。『ジャッキー』がどこかで真ん中の奥の方にタッチしてしまったのは、この視線が交錯した一閃にもよっていたのは言うまでもない。
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2018年06月20日

30年後の同窓会/生きのびたやつらはだいたい友だち

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自由の国アメリカを守ろうと身を投じた軍隊の、ならば自由への殉教者になれとばかり戒律のごとき軍規をふりかざす不条理やら矛盾やらを笑い飛ばしつつ、いつしか運命の涙がにじんでくる『さらば冬のかもめ』で描かれたアメリカの敗残兵を、しかし彼らこそがこの国の光と影を知る者ではあるまいかと、反戦ではあるけれど厭戦で睨め付けることをしない眼差しで、家に帰る彼らにそっと肩でも貸すかのようにリンクレイターは道行きを均していく。戦場で生命を奪った者は永遠に変質してしまい、かつて居た自分の場所に戻ろうとしてもそれは許されないことがどの兵士にも後出しで伝えられるものだから、生き残ったものは生き残れなかった者の分まで途方に暮れることを求められて身も心もすり減らしてしまうのだろうし、その感覚を共有できるのはやはり居場所を弾かれた者でしかないという「疎外感」こそは『スラッカー』からずっとリンクレイターが陰に陽に変奏してきた感覚に他ならず、それはおそらくアメリカという国の曖昧で茫漠とした広がりに脅える強迫観念的な帰属意識の副作用ということになるのだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』もこれもそうした内部の自家中毒こそがアメリカの原風景であることを告げるに他ならず、笑おうが唇をかみしめようが絶対値としては同じ数値を叩き出しているにちがいない。前作(とあえていう)では疎外された自分を知っていくことでメドウズはその逆へ走っていこうとしたのだけれど、今作ではワシントン(J・クィントン・ジョンソン)がこの3人と出会うことで自分に巣食う疎外感を飼いならす術を獲得していくサイドストーリーを成立させてもいる。ドクの息子ラリー・Jrと同じ部隊だったワシントンまでもがなぜイラクから帰国しているのかと言えば、それはラリー・Jrの最期を看取ることになった場所で大勢の民間人をも撃ち殺してしまった彼の精神的なメンテナンスの意味合いがあったのだろう。この旅においてワシントンは物言わぬラリー・Jrのある意味よりしろであったと言ってもよく、ラリーの家に泊まったワシントンが家の中に飾られたラリー・Jrの写真を見つめる時に彼もそのことに気づいていたように思うし、それによってはからずも、バグダッドで昏倒したワシントンの魂を寛解する旅となったようにも思うのである。ドク(スティーヴ・カレル)が懲役をくらう羽目になった30年前のベトナムでの出来事は最後まで詳細が語られることはないまま、その事件で命を落としたらしいハイタワーという兵士の母親をドクとサル(ブライアン・クランストン)、ミューラー(ローレンス・フィッシュバーン)の3人が訪ねるシーンがあるのだけれど、その出来事の詳細をあえて曖昧なままにしていることもあってか、名誉の戦死という欺瞞をドクの息子ラリー・Jrの死につきつけた勢いを借りてドクの重荷を解くと共に自分たちの贖罪をもなしてしまおうという風に映ってしまう点で、いささかこのエピソードの据わりが悪いように思ってしまうし、ラリー・Jrの時には死の真相を明かすことに抵抗したミューラーがここではサルの思いつきにあっさり乗ってしまうことや、そもそも母親を訪ねドアを叩くに際し彼らの間にドクを含め何の躊躇も悶着もなかったのはリンクレイターらしからぬ急ぎ足にも思えた。メドウズが盗んだ40ドルは軍隊の募金箱から盗んだ金だったけれど、この旅の費用は(おそらくは携帯の代金もふくめ)ドクのために軍の同僚が集めた募金で賄われていて、メドウズのささやかなリターンマッチにもなっている。
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2018年06月17日

万引き家族/そして凛となる

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「寒いなあ、雪でも降るんじゃねえか」と治(リリー・フランキー)が祥太(城桧吏)に言ったその言葉が本当になる頃、ではいったい何が嘘のままだったのかというその時間の移ろいを、世間という名前の下世話な予断を迎え撃つがごとくねめつけるように即物的な視線でこの映画は映し続けていく。そこに描かれるのは脱構築家族という監督が幾度となく綴ってきたテーマの極北ともいえる家族のシミュラクラであって、シェルターとして装ったはずのそれが十全に機能しつづけることで自我に目覚め、その結果として血は水よりも濃いという常套に刃向かわざるを得なくなっていく痛ましい純粋を、まるでデッカードを揺さぶるロイ・バティのような哀切で搾り取っていく。治が「それしか教えてやれることがなかった」と語る万引きという行為は、この家族を貫くすべての共犯関係を互いが確認し続ける目配せのような行為でもあり、それが祥太には家族の絆のように映って見えたからこそ、駄菓子屋の主人(柄本明)に妹にはそれをさせるなと優しく諭されたことで混乱し、それが車上荒らしという窃盗へと姿を変えた時に烈しく拒絶をしたのだろう。かつて車上荒らしの車内にみつけた幼い祥太も、りん(佐々木みゆ)と同じようにネグレクトの犠牲者だったのだろうし、そんな彼らを救ったセーフティーネットが救われた彼らの成長によって破壊される皮肉にこそ、あらかじめ機能不全すらを機能と備えた家族とシミュラクラとの悲劇的な差異がうかがえたように思うのである。りんの歯が抜けた朝に初枝(樹木希林)が息を引き取るのもその残酷な代償だったのかもしれない。しかし、社会から隠れた人間たちが社会から隠された子どもたちを陽の当たるところに連れ出したことは確かなわけで、祥太とりんのそれぞれが自分の目と足を頼りに行き先を選んだラストによってあの家に生きた者たちすべての救済としたことは間違いがないだろうし、治と信代(安藤サクラ)はその確信を抱くことによってようやく自らの罪を罪として向き合うことができるように思うのである。そんな中、ひとりだけ孤絶のレイヤーが異質な亜紀(松岡茉優)を投入することで不穏のバランスを崩す「お話」としての配分を厭わない抜け方も鮮やかで、社会を転げ走り回りながらもネオリアリズムの社会派映画として収束される気のない攻め方は図太いことこの上ない。念入りだった信代の化粧がことの後にはすっぴんになっているあたりとか、歯のない初枝が吸い付くようにミカンにかぶりつく姿とか、りんの口に煮込んだ麸が押し込まれる時の角度であるとか、そんなところから人間の質量は立ち上るように思うし、何より先に肉体をフェティッシュな解釈でとらえる視線が官能ともいえる生命の気配をあらわにするからこそ、言わずとも感情に血が透け始めるように思うのだ。初枝が産んだ女の子が信代に育つことは想像しがたいけれど、砂浜で信代に「ねえさんよく見るときれいだね」と言った初枝は、海辺の風に吹かれながらいっときそんな想像をしてみたようであったし、その夢想が初枝を底なしの寂寥へ永遠にとらえてしまったのかもしれないとも思ったのである。その瞬間の兆しとして「わあ、すごいシミ」という言葉を初枝に与えた監督には少し震えがきた。
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2018年06月14日

ビューティフル・デイ/死がふたりを穿つまで

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フロリダにあるモーテルの管理人ボビーは崖から落ちてしまわないよう子供たちをつかまえるキャッチャーだったけれど、ジョー(ホアキン・フェニックス)は不幸にも崖から落ちてしまった子供たちを奪回するファインダーとしてそこにいる。ジョーもまた、かつて崖から落ちた子供の一人だったのだけれど、そこで彼を捉えた絶望と恐怖が、崖を登る道筋を探りハンマーをピッケル代わりに崖を登りきる能力を、その極限で彼に与えたということになるのだろう。しかしそれは崖の下に幾度となく堕ちていくことで自分の過去と向き合い落とし前をつける作業であると同時に、その代償として崖の下の狂気に自らの正気を差し出す続ける行為でもあり、ともすれば深淵に身を投げ出すことでその苦行から逃れる誘惑に折れてしまいそうな日々を、母親への愛情と薬を頼りに息も絶え絶えとなりつつ何とかやり過ごしているに過ぎない。ニーナ・ヴォット(エカテリーナ・サムソノフ)は崖の下に捉えられつつも最終的な善くないものに喰われてしまわない力を自分の中に育てていて、”You Were Never Really Here(ほんとうのあなたはここにはいない)” という原題こそがその呪文だったように思うのである。そしてそれはかつてのジョー少年がクローゼットの中で無意識に唱えた続けた言葉だったのかもしれず、ジョーに奪回されたニーナが呪文の奥から出てきたのは彼の中にその共鳴を見たからだったのだろう。そうやって束の間、無痛の殻から足を踏み出していたからこそ、モーテルから連れ去られるニーナが叫ぶ「ジョー!」という声には心の底からの絶望と哀しみが込められていたのだろうし、母親を喪ったことでいったんは深遠に沈むことを選んだジョーを押しとどめたのがニーナの幻影であったのは、ジョーの中の深いところに彼女の叫び声が刻み込まれていたことの何よりの証だろう。この映画は、そんな風にして2つの魂が出会い結びついていくラブストーリーを極北のプラトニックで謳う一方、ニーナによって喉を裂かれ事切れた知事の死体を見たジョーは、あの時に父親を屠ることができなかった自分を責めては「おれは弱い、おれは弱い」と慟哭する寄る辺なき戦場の理性でバランスをとってみせさえするのである。それら清らかさと凄惨を繋ぐピアノ線の緊張を担うのがジョニー・グリーンウッドのサウンドデザインで、ほとんどセリフらしいセリフを喋らないにも関わらずジョーの内面に渦巻く激情と虚無を音響として奔出させることによって説明ではなく直観で観客を直撃するよう仕向けては強迫的に脳髄を一閃しようとする。ジョーが雑踏に踏み出した瞬間、人と車の織りなす喧噪がインダストリアルノイズの圧力と切っ先でスコールのように降りそそぎ、ジョーの耳には世界の音がこんな風に聴こえているのだろうかと、『クリーン、シェーヴン』の滴るようなノイズサウンドを想い出したりもした。今にして思えば『シクロ』で決定的に鳴っていたのはトム・ヨークの歌声というよりもジョニー・グリーンウッドの不意打ちで殴りかかるギターのアタックだったわけで、彼の創り出す音が映画に愛されるのは既に必然だったということなのだろう。自分が土手っ腹に風穴をあけた相手の隣に横たわり星条旗のウェットワークをメランコリーで共有しつつ「愛はかげろうのように」をレクイエム代わりにその死を看取るジョーは、既に崖の下の司祭のごときであった。
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2018年06月12日

友罪/夢罪

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藤沢(夏帆)の部屋で猫を見つめ、白石(富田靖子)と待ち合わせたデパート屋上に遊ぶ子供たちを眺める鈴木(瑛太)に向けるワタシたちの訝しむような視線を瀬々監督は否定しない、というかむしろそう誘い込むように撮っている。それは殺人という罪よりもそれをどう行ったかという行為に対する私刑のような視線であるのは間違いがなく、山内(佐藤浩市)の息子が犯した過失による交通事故死が贖罪の道筋で語られることの対照となっている。山内の息子は車を運転さえしなければ再び同じ罪を犯すことはないのだけれど、鈴木の場合、鈴木という内部そのものが罪であるという存在の怪物化がワタシたちの視線を無意識の石つぶてへと変えていくわけで、鈴木の内部に彼の飼うものの気配を知るためには白石のように自分の内部すらを犠牲にしたある種の同一化によってようやく深淵を覗き込むことが可能となるという、そうした視点を社会が共有することの不可能は、その達成と引き換えに白石が失った家族の絆がつきつける不幸によって裏書きされることとなる。ここに登場する全ての悼むべき人たちが告げるのは一度壊れたものが元に戻ることはないという絶望のようなあきらめであり、たとえ戻ったようにみえたところで内実の決定的な変質を目の当たりにするものにしてみれば、では戻ったことにして生きていこうとする社会をあげての欺瞞がさらに彼や彼女を壊し続けていくことになるわけで、前述した一度壊れたものが元に戻ることはないという一文へさらに付け加えるとするならば、一度壊したものが元に戻ることはないという加害者の絶望もそこにあるわけで、この映画が喪失と再生という気楽で都合の良い呪文を忌避し続けるのはその峻険こそを描こうとしていたからであるように思うのだ。他人の命を奪った者が、しかしそれを踏まえた上で今の自分は生きてみたいと思うんだという言葉は身勝手な矛盾にとどまるのか、そうした意志が水平に並ぶ場所はこの世界にあり得ないのか、この映画は鈴木と益田(生田斗真)をその世界の陰と陽とすることで今ここにはないそこを夢想してみせたのではなかろうか。そしてそれは、そんな世界があったらきみはどう生きるつもりだ?という日本のどこかにいる少年Aというたった一人の観客だけに向けた監督の問いかけだったように思うのである。それだけに軽重のバランスとしてメディアの描写など外部の装置が記号的に均されたのは諸刃の剣といったところか。しかし、いつも所在なさげな瑛太に鈴木の無痛が憑依したかのようなこの棒立ちはキャリアハイだし、夏帆は早足で被虐をかいぐぐる人として『予兆』の先へ歩み出した。感情の省略ではない慟哭を生田斗真は打ち鳴らされる鐘と響かせたように思う。ゲロがあんな風に心を溶かすのは初めて観たかもしれない。
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2018年06月10日

海を駆ける/シーバウンド・エクスカーション

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突然現れた正体不明の闖入者が日常に投じた波紋がやがて巨大な渦を巻き起こして日常の意味そのものを変えていくといった定型にのっとってはいるものの、たとえば『南東からきた男』のように闖入者の正体がこの世ならざる者であるかどうかという境界をうかがうサスペンスを担保しつつ、そこからいかに遠ざかってみせることが可能かというアクロバットそれ自体を試みる映画であった。ラウ(ディーン・フジオカ)という男(そもそも男と特定していいのかということもある)の行動を人間の論理で語らずに語ること、しかしその尺度を人間の論理とした時点で常に人間の論理が強烈に意識されてしまうという矛盾を、ならばそれをそのまま描いてしまえばいいのではなかろうかという野心が、ホラーでもSFでもない明るさと昏さ、希望と禍々しさの同居する、しかし死の在りかだけはしたたかに提示し続ける奇譚として最期には小さなあぶくを悪戯めいて破裂させてみせさえもする。劇中でラウは直接的もしくは間接的な描写として6人の命を奪い、2人の病気を治癒する。もちろんそこに人間的な善と悪の認識はあるはずもなく、もしもラウの姿が透明であったならそれらの死は事故や病気、大往生といった運命の所作として呑み込まれたにすぎないわけで、人智を越えた存在に触れた時、果たして人は絶望するのか解放されるのか、それがなぜか青春のバカヤロー!とクロスして語られる不可思議なヴィヴィッドは、しかしそれも裏を返せばメメント・モリの影であったかもしれないわけで、『淵に立つ』のラストを染めた“人間などはなから考慮されない道理のひと触れ”そのものを監督は描こうとしたのだろうかと、海へと消えていくラウのブラックホールのような笑顔を見せられてようやく思いが至ったのである。相変わらず芹澤明子氏のカメラは怜悧で透明で禍々しく、フィクスになるたび四隅や空白を目で追っては凶兆を探す黒沢清のモードへと強制的に切りかわってしまうのだった。左にサチコ(阿部純子)の佇む崖上のトーチカ、右にはタカシ(太賀)の泳ぐ海を配置したショットの拮抗した調和ゆえ、何かが何かを思いあぐねているかのようなショットに首筋はちりちりと胸はざわざわと慄えたのを自覚した。
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2018年06月07日

デッドプール2/ライアン!ライアン!

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全身タイツでどれだけカッコつけたところで所詮生き恥を晒すだけであることを身をもって知るライアン・レイノルズは、絶え間なく全方位的に自虐と加虐のジョークを雨あられとぶちまけてはすべての現実を液状化させつつ、かつてスティーヴン・キングがそうしたように膨大な固有名詞で武装することでポップカルチャー=リアルのテクスチャーをそこかしこにスクラップして映画を子供部屋の居心地へと変えていく。さらに今作では監督がデヴィッド・リーチに交代したことでドタバタの過剰なキレが上積みされて、誰もが心おきなくサーカスの観客のように呆けた顔で手をたたき足をバタバタさせながら退行するのが許されることになり、その澱みと衒いのなさは最早エレガントとすら言えるほどであると同時に、今のこの世の中で何ものにもつかまらず逃げ切るにはここまで針を振り切らないとエンジンはブーストされないのだというオーヴァーキルに、いったいお前は何と闘っているのだという正体不明な事態の深刻ささえ嗅ぎ取ってしまう始末なのであった。とはいえ上下左右を完全に取っぱらった情動の絶対値だけを見てみれば『アべンジャーズ』や『ウィンター・ソルジャー』と数値そのものは変わらないのではなかろうかと考えてみた時、ライアン・レイノルズが己の全存在を賭けた逆張りには強迫観念とすら言える執念を見てしまうわけで、それは劇中でどさくさ紛れに遂行される過去の亡霊たちの抹殺によってさえ浄化が追いつかないほどのどす黒いメランコリーが突き動かす、トラウマに向き合うプライマル・スクリーム療法にも思えたのである。ニコラス・ケイジしかり、ロバート・ダウニー・Jrしかり、実人生の屈託、すなわち自分の糞をキャリアに向かって投げつけ晒すことを厭わない役者の愛され方には無尽蔵なところがあって、ここにライアン・レイノルズもその倶楽部に晴れて入会したといっていいのではなかろうか。そこではオスカーよりはラジー賞が勲章だったとしても、永遠にゴズリングのいない世界であることは間違いがない。
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2018年06月05日

犬ヶ島/きみが吠えればキャラバンは進む

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あけすけに言ってしまえば、『グランド・ブダペスト・ホテル』を観た時に書いた“前作『ムーンライズ・キングダム』でも顕著だったシンメトリーのフィクスによる緊張と横スクロールによる緩和、感情を記号化したキャラクターのミニマル、夢の記憶を彩色したような色彩”“これは前作(『ムーンライズ・キングダム』)でも感じたことだけれど、この映画のすべてが『ファンタスティック Mr.FOX』ばりのストップモーションアニメに置き換え可能である”という感想メモから特に更新されたこともない、結果として見事に置き換えられたストップモーションアニメだったのである。「悲しき熱帯」的な揶揄をねじ伏せる強迫観念的なディテイルの躁病的な奔流に、特に日本人であればその度外れた幻視に驚愕しないわけにはいかないし、人間の最良の友たる犬たちを中心に据えることでたやすくあけっぴろげに距離を詰めてくるのも確かではあるものの、何しろ今の日本で生きる者には小林市長が見せる改心に裏打ちされた公平さへの性善と楽観こそがこの映画最大の絵空事に思えてしまう点で、何だかうなだれざるを得なかったのである。結果的にはこれがイノセンスによる革命であったことが告げられるエピローグで寓話は完結するのだけれど、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』から『ファンタスティック Mr.FOX』まで続いた「父帰る」のテーマを完了して以降、大人の教科書、あるいはユニヴァーサルな知育絵本として、美しく明かりの灯る人生のルールを忘れがたい挿絵のようなフィクスで焼き付けるポスト構造主義的な方法論の洗練にウェス・アンダーソンは殉じ続けるのか、もはや『ホテル・シュヴァリエ』の沖に流された孤独は役立たずの自家中毒でしかないのか、正直に言ってしまうとワタシはそれがちょっとだけ寂しい。
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2018年06月04日

ゲティ家の身代金/世界を視てから死ね

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老境のうつしみと終焉の予感がもたらす、物質主義の手ざわりへの尋常ならざる執着という『エクソダス』以降見え隠れする御大の死生観は、ジャン・ポール・ゲティ役がクリストファー・プラマーに交代されたことでよりあからさまになったのではなかろうか。その結果、すべては映像化されうると信じて疑わぬサブテキスト殺しの御大が、それゆえ体温が立ちのぼらぬ者たちが低温火傷でのたうちまわる、その映像の殺傷能力だけで撮りきったとすら言える極北のサスペンスとなっている。それはすなわち冷血であればあるほど怜悧に光輝くという御大の法則が存分に発揮されたということであって、となればやはりお蔵入りしたケヴィン・スペイシーのヴァージョンに涎が出るのを止めることはできないにしろ、前述した死生観の発露に限って言えばクリストファー・プラマーの破壊される老人こそが御大の心持ちにジャストフィットしたということになるのだろう。したがって、体温など一度も測ったことのないゲスとして颯爽と登場するフレッチャー(マーク・ウォルバーグ)が、なぜか感情を規範に行動し始めるに連れどんどんと阿呆のようになっていくのは当たり前で、変温動物であればこそ唯一ゲティと正面から渡り合ったゲイル(ミシェル・ウィリアムズ)の奮闘が、サスペンスとしては明らかにバランスを失したこの映画をあくまで異形の屹立として送り届けたのは言うまでもない。それにしても『プロメテウス』で組んで以降スピルバーグにとってのカミンスキーと言ってもいいくらい御大の右目と左目と化したダリウス・ウォルスキーの、ハイパーリアリズムのような質感で現実と非現実を溶かしてしまうカメラは叙事殺伐な御大の肌によほど合うのだろう。今作ではまるで『列車の到着』のようにあらわれた蒸気機関車の煙がフレームの内部を埋め尽くすかのように充満していくショットの突発にやおら押し込まれたし、男たちに抑えつけられる3世よりも医者が自分の脱いだコートとジャケットを首尾良く壁のフックに掛けるまでの動きに視点を誘導する牽制球のようなカメラが、これから起きるルーティーンのひんやりとした凄惨を予感させて3世と共にこちらをも抑えつける。そんな風な演出家とカメラマンの仕業とあって相変わらず食べ物が暴力的に美味そうでないのは言うまでもなく、あの死骸のような分厚いステーキは3世の心を折るに十分であった。
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2018年05月30日

ファントム・スレッド/いいと言うまで動かずに

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約束の場所にレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)が乗りつけたブリストル405のドアを自分で開けて乗り込んでしまいそうになった一瞬、アルマ・エルソン(ヴィッキー・クリープス)はハッと手を引いてレイノルズが開けてくれるのを待つことになる。この瞬間、オートクチュールという美の儀式を亡き母に捧げ続ける妄執のモンスターたるレイノルズの手中に、海辺の小さな町で暮らすおぼこいアルマが新たな生け贄として堕ちたと思わされたワタシ達とレイノルズは、アルマの目を逸らすことをしない笑顔にひそむ愛とは常に共同正犯であるという確信と野心の刃など知る由もなかったのである。レイノルズがアルマを最初に連れ出した夜のレストランでおかまいなしに食い気をほとばしらせるアルマをレイノルズは優しく黙殺する。初めて自室にアルマを呼び入れた次の日の朝、朝食の席でアルマのノイズをレイノルズは叱責する。レイノルズが倒れる日の朝食で、アルマはノイズを出すことなく静寂をコントロールしてみせている。ハネムーンの旅先での朝食、何らはばかることなくノイズを出すアルマをレイノルズは苛立ちを押し隠しながら黙殺する。こうして都合4回あるレイノルズとアルマの食事のシーンを追ってみると、ただ一度ノイズを出さなかったのは彼女の仕立てた策略の内であったことを思いだしてみれば、最初から「むしろ面倒を歓迎するわ」と言い放ちノイズを出し続けるアルマは「わたしはいつだってここにいる」と自らを揺るぎなく変えないことによって状況を逆転していったわけで、してみると自分を誘うだろうことを見透かしてあらかじめメモをしたためていたアルマに声をかけた時点でレイノルズは彼女の軍門に下ってたということになるし、食いしん坊さん!とレイノルズを子供扱いしたようなメモの走り書きはやがて2人が獲得する異形の関係が既にここから始まっていたことを告げてもいる。確かにアルマがレイノルズにしたことは道義的あるいは倫理的に道を外れるかもしれないけれど、アルマはレイノルズと一つ屋根に暮らすうちに彼が奥底にくゆらせるオブセッションの源泉を見抜いていたのかもしれず、ハウス・オブ・ウッドコックにおいては異物であるはずのアルマがシリル(レスリー・マンヴィル)にとって排斥の対象とならずにいることや母親の幽霊ですらがアルマとの代替わりを促すかのように消えていく様子からするに、アルマがレイノルズを救うだろうことを女性達は深層で知っていたようにも思うわけで、レイノルズが新たに呪いを更新する必要があったとするならばアルマこそがその守護天使であったということになり、キノコを料理するアルマの姿を押し黙って凝視するレイノルズが、のたうち回りながら女性たちに仕えていくことが自身の宿命であることを確信として悟りつつ「倒れる前にキスしてくれ」という酷く美しい言葉でそれを受け入れる覚悟を示すクライマックスの愛の形は前人未踏であるだけに怖ろしくはあるものの、そこに踏み出していく2人の昂揚を確かに光が照らしたようにも思えたのだ。たとえそれが地獄の業火の照り返しだったとしても、問わず語りにその愛の彼岸を夢想するアルマはむしろそれを望んでいるようですらあるのは言うまでもない。では果たしてレイノルズのクリエイティヴィティは彼方への片道切符として差し出されたままなのか、この一連がやがてくる享楽のスインギング・ロンドンに向けてレイノルズが忌まわしきシックを超えていくための通過儀礼であるならば、清冽で硬質な屈託をヒールの音に重ねて歩くシリルの揺るがぬ眼差しがそれを受け入れたようにも思えたわけで、それは完璧主義者の人体実験としてもひどくロマンチックであることに変わりはない。ヘンリエッタがハウスを離れたのは、彼女に仕立てたドレスをショーでアルマが完璧に着こなしたことを知ったからではなかったのか。ヘンリエッタとてバーバラと同じ穴の狢なのだろう。レイノルズの駆るブリストル405のリアからルーフ越しの疾走ショットはまるで御者台から馬を捉えたかのような荒ぶるむき出しであった。アスパラガスの夜が明けてキノコの朝を迎える瞬間のまるで水の中で爆発音を聴いたように圧縮された不穏のサウンドデザインに、ため息のような鳥肌が立つ。完璧な平凡が完璧な非凡を喰いつくす倒錯はポール・トーマス・アンダーソンの自罰と自虐の白日夢でもあるのだろうか。より騒がしく水を注ごうとアルマが高く掲げた水差しが電灯の傘を揺らした瞬間、新たな世界の法則が回復されるのを見た。
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2018年05月28日

ランペイジ 巨獣大乱闘/そうなるようにできている

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最近は隙あらばこちらと刺し違えようとするような映画ばかりピリピリしながら観ている気がするので、ここまでノーガードで棒立ちになっていると逆に虚をつかれて殴りつける気も起こらないのである。それがたとえ、動物をこよなく愛するオコイエ(ドウェイン・ジョンソン)がその皮を剥いでなめしたジャケットを着て登場したとしても、そいつがそれをやったら一番正当性が保てなくなって困るはずのヤツがいくら人非人であるとはいえ生物学的な人間を喰っちゃったとしても、至近距離から土手っ腹に銃弾くらったはずのオコイエが、でも急所を外れたから大丈夫!と笑顔でハードワークにいそしんだとしても、火を怖がる動物が火を消そうと火元に突進するはずがないように低周波を嫌がるのならその本能としてより遠くに逃げそうなものであったとしても、である。すべてはひたすら、大きいことはいいことだ!および、馬鹿と煙は高いところに上りたがる、の2点を目で追うことだけを考えてデザインされて、おそらくは字幕がなかったとしてもそのあらすじの伝言ゲームが可能であったという点では、ほぼサイレント映画といってもいいユニバーサル仕様だったわけで、ブロックバスターですらがいかに自分は丸腰ではないかというアピールで差別化を図る昨今において、逆に丸腰であることを高らかに謳いあげる底抜けの開き直りが、ああ今のワタシは伏線にがんじがらめになることも我が身を苛むことも、いっさい何も負うことがないのだという一瞬の解放をもたらしては人々の心をざわつかせたということになるのだろう。そして前述の2点をもはやエレガントとすらいってもいい身のこなしで体現するのがドウェイン・ジョンソンであることは言うまでもなく、超高層ビルで八面六臂の大活躍をするのだろう新作の予告に彼を待ち受ける真の黄金時代の到来を見たのはワタシだけではないだろう。今さらながらではあるけども、ワールドトレードセンター倒壊の映像が映画制作に底知れぬ影響を与えたのは言うまでもなく、あの日の映像から数値化されたのだろうアルゴリズムによる高層建築倒壊のシミュレーションプログラムの最新処理をここで確認することも可能である。あの日あの時を喚起させる映像もいつの間にか解禁されて、とっくに誰も気にしなくなっているようではあるけども。
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2018年05月26日

レザーフェイス―悪魔のいけにえ/ジェド・ソーヤーのぼうけん

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※一応言っておくとネタバレ気味

基本的には訊かれてもいないことを答えたがるのがプリクエルであることに違いないし、そりゃソーヤー家に生まれ堕ちたならババ=ジェディダイアがああなったところで仕方がないわな、とすでに呑み込んでいる大方へのおせっかいであるのは承知ながら、状況の犠牲者という若干の感傷はしのばせつつも、トリヴィア的には彼の被るマスクは誰の人皮であったのかというその程度にとどめた点で、負け戦にも関わらずヤケを起こさなかったモーリー&バスティロの自制心は称賛されるべきだと思うし、トビー・フーパーのラストクレジットとしてその敬意が損なわれることもなかったように思うのである。構造としてはハートマン保安官(スティーヴン・ドーフ)とソーヤー家の十年戦争として展開されるのだけれど、ソーヤー家を蛇蝎のごとく嫌悪するハートマンを一家の不倶戴天の敵とするには因縁を業に書き換える手続きがいささか弱いように思われて、確かに彼の娘は一家によって惨殺されるのだけれど、一家の主たるヴァーナ(リリ・テイラー)とジェッドのそれに比べてみた時、ハートマンと娘との親子関係がまったく描かれていないこともあり、彼女の死が単なるモブのオープニングヒットとしてカウントされるに過ぎない気がしてしまうせいでハートマンまでが記号の域を出ないように思えてしまうのだ。このあたりについては、これまで監督作では必ず自ら脚本をしたためていたこのコンビが、今作では他人の脚本で撮らなければならなかった事情がマイナス要因となっているのだろう。しかし、ジェッド(サム・ストライク)に若き日のブラッド・ダリフの横顔が映し出される精神病院のパートでは『カッコーの巣の上で(1975年)』的な精神の牢屋を、その後は掃き溜めヴァージョンによるどん詰まりの『地獄の逃避行(1973年)』を、と言った具合に『悪魔のいけにえ(1974年)』の精神背景に寄り添おうと監督コンビは懸命かつ真摯に参照をつとめるわけで、そのことがもたらすいささかの散漫や冗長を認めつつも、そうしたことの貢献によって今作からチープなノヴェルティ感が取り除かれていたことは記しておくべきだろう。そして、どうやら今作のハートマンは『飛びだす 悪魔のいけにえ レザーフェイス一家の逆襲』に登場するハートマン町長の父にあたるらしく、してみると『飛びだす〜』においてなぜあれほどハートマン一家がソーヤー一家に憎悪の炎を燃やしたのか、ここに来ていきなり辻褄が合うことになるわけで、当時そのことで思い悩んだ記憶など一切ないにしろ、せっかくの後出しジャンケンなのだから勝てる勝負を勝ちに行く姿勢には素直に拍手を送りたい。いかにも首だけ出してます!的な特殊メイク愛の手ざわりが溢れるハートマンの最期にも点が甘くなる。
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2018年05月23日

モリーズ・ゲーム/私の名前で私を呼んで

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感謝の言葉を告げるモリー・ブルーム(ジェシカ・チャステイン)に「娘のステラなんだ、きみを弁護するようにと頼んだのは」と返す弁護士チャーリー・ジャフィー(イドリス・エルバ)は「きみの本を読んだ娘はきみを自分のロールモデルだと思ってる」とさらに付け加える。非常に聡明な子供として描写されるステラがなぜそれほどまでにモリーを全肯定するのか、それはおそらくアメリカ的な家父長制にけつまずいてクラッシュしたモリーが、逆にそれを利用することでその呪縛から脱出した上にマチズモの偽者やフェミニズム的な中指としてではなく、明晰な頭脳が導き出した街場の論理によってしなやかに労働倫理を実践しようとしたその企みの清冽な直截性が、人種であるとか厳格な父であるとかいった十代の彼女にとってのガラスの天井の向こうに透けて見えたからなのだろう。したがってモリーはこれまでアーロン・ソーキンが描いてきた、あらかじめ悪魔と契約して、そしてそれを誰にも知らされないまま生まれてきた人間とは異なるからこそ、彼女の債務はそこに発生しているわけではないし、父との和解や弁護士にすがることが彼女の独立性を脅かすこともないのである。そうしてみるとジェシカ・チャステインが今まで演じてきた様々なキャラクターは、「女性」の苦しみや悩み、絶望とされがちな感情や運命を付帯事項のない「人間」のそれへと書き換えていく存在でもあったことに気づかされるわけで、悪魔と天才の両義性を手放すことが映画のケレンを弱めることを承知の上で、モリーというひとりの人間がその喪失と再生をいかに可能にしたのかを衒いなく正攻法で描くことを自身の初監督作に課したアーロン・ソーキンの誠実というか馬鹿正直が思いがけず心に沁みてきたし、それは言わば、悪魔と契約した人々のギャンブル中毒を癒やす阿片窟を運営するモリーの、その一方で彼らの正面から目をのぞき込む思いやりや共感に通じるようにも思えたのだった。トニー・ギルロイにも感じたのだけれど、透徹した感情を抽出してきた脚本家ほどその監督作では情動の湿気が増すように思うわけで、それまで叙事に殺され続けてきた己が叙情の復讐なのかどうなのか、スケートリンクから父(ケヴィン・コスナー)の告白に至るあたりの、息を切らしたまま見つめ合う視線のらしからぬ性急さに驚いてみれば、そんな勘ぐりにもどこかしらうなずけてしまう気がするのである。かつてここまで正面切ってジェシカ・チャステインをくどいた男がいただろうかというクリス・オダウドの泣き濡れるクズもまた、アーロン・ソーキンがほくそ笑んだように思えた。
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2018年05月19日

孤狼の血/いつかギラギラした日

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大上(役所広司)と別れた夜にやさぐれた日岡(松坂桃李)が押しかけた時の岡田桃子(阿部純子)が、最初の夜の純白の下着とはうって変わったけばけばしいブラジャーをしていたのはなぜなのか、それはラスト付近で彼女が日岡に告白することの物言わぬヒントだったのだけれど、そんな風にしてこの映画は端正かつ律儀に爆裂しようとするわけで、署を出る日岡が突然の雨に空を見上げるシーンを丁寧に(ご丁寧にも、と言ってしまいたくなる)ハイアングルでとらえるショットといい、特に日岡まわりは丹念に抜かりのないように描かれていて、「荒磯に波」から始まる冒頭の数分でこの映画が腹に一物あることを宣言した後からすると、それは意外と言ってもいい身のこなしにも思えたのである。そんな風にしてエクスリーとダドリー、あるいはジェイクとアロンゾといったひりついた拳の相克をかわしては善悪の彼岸を這いずり回るビルドゥングスロマンへと舵を切るこれはあくまでも警察映画であって、『県警対組織暴力』に色目を使うにはヤクザが暴力装置としての分をわきまえ過ぎている気がしたし、日本人が鼻でもかむように映画を観ていた時代にさんざめいたプログラムピクチャーのやり逃げが刹那のスピードとマッチしたヤクザ映画はすでに彼方にあることをあらためて念押しされた気もしたのだった。やり逃げの意味も知らぬ客を待つためにそのスピードを殺してみせた『アウトレイジ』が賢明な亜種だったことは言うまでもなく、そうしてみるとアクセルを踏み込んだままギリギリでカーヴを曲がり切ろうとした白石監督のハンドリングとアクセルワークにはいちいち感嘆するしかないし、藤原カクセイ氏の死体仕事を含め人間のボディに関わることはとことん見せようとするサービス精神も含め、今できるすべての手を打ち尽くしたメランコリーの気分までもが充満するスクリーンに終映後ワタシは小さく一礼したのも確かなのである。とはいえ、反体制とか対権力とかいった青春の麻疹が若い衆の嗜みから失われた昨今、ピカレスクへのロマンがなかなか抱かれづらいのだろうことも実感しているわけで、「ヤクザが出ている映画」と「ヤクザ映画」の断絶はもう言っても詮無いことなのだろうことも、この映画を観たことによる最終的な確信だった気がしてしまうのだ。それらはおそらく、何かを足蹴にして垂直を登攀する征服の時代の徒花でもあって、最早後戻りすることはない水平性が誘うステイタス・クオーの再発見がそれを積極的に受け入れるはずもなく、その曖昧で茫洋とした横断を松坂桃李は実に的確に演じていて、それはすなわち更新されたその先がないことの最後通牒だったようにも思うわけで、その製作陣の真摯さゆえに図らずも「ヤクザ映画」の最期を看取る機会を得てしまった気分の複雑さがワタシの正直なところ。そんなつもりで観に行ったんじゃないのに。
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2018年05月16日

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法/虹のふもとでつかまえて

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キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビー(ウィレム・デフォー)である。遊びに夢中になった子どもたちが崖から落ちてしまわないようにつかまえる、ライ麦畑でたったひとりの大人である。ならば崖の近くで遊んじゃだめだと言ってしまえばいいのに、崖の近くでしか遊ぶことを許されていないことを知っているボビーは、笑わない目をして笑いながら子どもたちに目を配っている。もちろん子どもたちにはいろいろな子どもが混じっているわけで、最大限の譲歩としてボビーはヘイリー(ブリア・ヴィネイト)もできるだけキャッチすることに決めていて、ではなぜ崖の縁に柵を作らないのかといえば、それがアメリカという国の流儀なのだというジレンマをボビーに体現させてもいる。そうやって、ここまではいいがここからはだめだ、という「ここ」のせめぎ合いこそが現実に他ならないという、この映画ではそれが呪いのように終始絶えることがないわけで、ボビーが子どもたちに対しては「ここ」のくぐり抜けを大目に見ているのは、アメリカの罪深さになりかわった贖罪の気持ちでもあるのだろう。くわえてボビーは、ヘイリーがマジック・キャッスルの部屋で売春をしていることを知っているにも関わらずそのくぐり抜けすらも大目に見ていて、もちろん管理人としての家賃欲しさなどでは毛頭なく、それもまた崖の近くでしか生きられない人たちへの苛むような共感であったのは言うまでもないにしろ、そのことが招き寄せた結末にしたところでおそらくはボビーにとって最初の悲劇というわけでもないのだろう。しかしどれだけ絶望や諦念が深まろうと、キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビーはまた同じように大目に見てしまうしかないわけで、夕暮れにひとり煙草を吹かすボビーの寂寥に、ウィレム・デフォーという崖の近くを飄々と歩いてきた男がそれを演じることによって「ボビーというアメリカ」の内部に結晶化された幾重もの虚無が透けたようにも思えたし、「大人が泣くときはわかるんだ」などと6歳のニヒルをかざしたムーニー(ブリックリン・キンバリー・プライス)はそれを見透かしていたからこそ、だけど自分が泣くときのことなんかわかるはずがないよ、と決壊した瞬間に駆けつける先がボビーあるはずもなく、大人は判ってくれない、と確信した彼女が同志と選んだジョンシー(ヴァレリア・コット)と2人で崖から飛び出し夢の国へと駆けていくそのうしろ姿の、いったい2人は泣いているのか笑っているのか希望と絶望が手を取り合って絶唱するラストは『明日に向って撃て!』のブッチ&サンダンスにも重なって見えたのだ。書き割りの街でやり逃げの気配を浴びて生きていく子どもたちの、まるでZ級映画の血糊のように色付けされたジャムを、これって今まで食べた中で一番美味しいジャム!とうっとりする笑顔はそのままに、でもいったいどこへ連れ出すことができるのかわからないワタシたちはボビーのようにキャッチャーでいることを課し続けるしかないのだろうけれど、でもあんたが思ってるよりもけっこうキツイぜ、とその途方にくれた笑みに刻まれた皺が語りかけてきて、ワタシはさらに途方に暮れるしかなかったのだ。ヘイリーは最後までムーニーのキャッチャーであろうとあがき続けたし、ヘイリーに殴りつけられ無惨に腫らした顔でムーニーを抱きしめるアシュレー(メラ・マーダー)も、それがどんな場所であろうと生きることの尊厳と品性を手放さないジョンシーのおばあちゃんも、それぞれがキャッチャーであろうと必死であったにちがいないのだ。せめてあそこへと駆けていく2人が笑っていてくれたらと思ってやまない。
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2018年05月11日

アイ、トーニャ/同情するなら点をくれ

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もちろんナンシー・ケリガン襲撃事件もリレハンメルでの涙のアピールも憶えているのだけれど、ライバルを襲って潰すとかマンガみたいな騒ぎを起こしたわりには8位入賞とか往生際の悪いどっちつかずのオチだったなあと思ったのを憶えている。そんなこんなでこの映画は、まちがいなく天賦の才を与えられたトーニャ・ハーディングというフィギュアスケーターが(もし彼女がナンシー・ケリガンと同じトレーニング環境にいたらメダルなど朝飯前だったのだろうか)、どういうわけであんな凡庸なラストを迎えることになったのか、ここはひとつ腰を据えてトーニャ(マーゴット・ロビー)の言い分を聞いてみようや、と言っているわけで、それはすなわち、まあアタシは悪い星の下に生まれたっていうただそれだけ、とことさら悪びれることもないトーニャの笑うその悪い星を描くことに他ならず、何よりアメリカは、アメリカンドリームを夢見る人間と夢見る必要のない人間にあらかじめ分別される国で、アメリカンドリームを照らすために例の悪い星の輝きが欠かせないことを、ホワイト・トラッシュの希望たるトーニャを狂言回しにファンキーな自虐と諧謔のスピンでリアリティショーの狂躁をダンスしていく。しかしこの映画がルサンチマンと自己憐憫の自家中毒を起こすどころかピカレスクの痛快に転じているのは、あたしにとって良い風が吹いてないのは知ってるけど、とにかく私はやるべきことをできる限りやってやるのだというピューリタンの労働倫理にも似たあらぬ方向への猪突猛進が清々しくもあるからで、競技会の後で審査員を呼び止めて「あなたたちがあたしを嫌いなのは知ってるけど、スケートをどれだけ上手くやってもダメなのはどうして?」と自分を抑えて行儀良く穏やかにたずねるトーニャの健気に対するあまりにも残酷な答えは、家族の愛やら絆やら知るはずがないトーニャにオールアメリカンファミリーの一員を演じることを求めてくるわけで、にも関わらず彼女なりに知恵をめぐらしては母親をたずねて家族の真似事をしてみたあげく当然のように自爆するその姿には、実は自己評価の低さゆえ世界を盲信してしまう者のピュアネスが痛々しくもあるほどで、ではいったい何を信じているのかと言えば、それは彼女を足蹴にし続けるアメリカなるものに他ならないのが何とも切ないペーソスを湛えてしまうところではあるわけで、暴力をふるい続ける夫ジェフ(セバスチャン・スタン)との共依存と重なるその二重性に納得したりもするのである。母ラヴォナ(アリソン・ジャニ)と夫ジェフについては人でなしの目盛りで測れるにしろ、何より笑いと驚きが止まらないのがショーン(ポール・ウォルター・ハウザー)であって、実質的な事件の首謀者でありながらいくら何でもこのキャラクター造型は底が抜けすぎだろうと思われることをあらかじめ察したのか、ショーン・エッカート本人にインタビューした当時の映像がインサートされているのだけれど、そこに居るのはまさに劇中で演出されたショーンと一言一句違わないサイレント・サイコパスだったわけで、さすがアメリカではこのクラスが野放しになっているのかとあらためて感銘を受けたのだった。そんな面々に交じってなかなかに忘れがたいのがコーチのダイアン(ジュリアンヌ・ニコルソン)で、白木葉子の側(がわ)に丹下段平を潜ませた彼女はあくまでトーニャのスケートにのみ共感を示していて、トーニャを取り巻く人間の中で唯一のプロフェッショナルなわけである。そうしてみると、アメリカのイノセンスというのはアマチュアの奔放と無責任の裏返しとでも言えるわけで、プロフェッショナルとは自制と責任を自らに課す挟持を備えることでイノセンスを喪失した先にある精神なのだろう。それはすなわち、前述したアメリカン・ドリームを夢見る人間と夢見る必要のない人間の違いでもあって、アメリカン・ドリームはアマチュアが見る夢なのだと考えてみると今のアメリカでむき出されている感情の説明になるのではなかろうか。しかしアメリカをアメリカたらしめているのはその永遠のアマチュアリズムゆえであるというアンビヴァレンツが社会と文化を更新するダイナミズムとなっているのは言うまでなく、だからこそその分水嶺を滑落していくトーニャを同情ではなく敬意をもって描くことを監督は努めたように思うわけで、たった一人、泣き顔を笑い顔へと作り変えていくメイクアップのシーンこそがトーニャの言う”that's the fucking truth!”であったのは間違いないはずである。監督はそう撮っている。
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2018年05月08日

君の名前で僕を呼んで/恐怖を笑い欲望に震えろ

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ロータスの果実にかぶりつく若き神々がまどろむ夏の午後、とでもいう滴る感情をぬぐうこともしない理性の甘噛みには彼岸の香りすらがしたのだけれど、すべてをだしぬいて自転車をこいでは笑顔で走りぬけていくスピードの浮世離れはいつしか死の気配すらも振り切って、無知や誤謬を生け贄としない青春の滑らかで正しく美しい動きをただひたすら追う恍惚だけをとらえ続けるルカ・グァダニーノの幻視は、ある映画における「純粋で、途方もなく、モラルに外れた、そういう欲望こそが僕たちを生かしてやまないのだから」というポール・ダノのセリフの新たな実践にも思えたのである。しかしそれは、終盤で父(マイケル・スタールバーグ)が息子エリオ(ティモシー・シャラメ)に、夢を見続けるためには夢の理由を知っておいた方がいい、と語りかける父殺しをしない通過儀礼の静謐と豊饒を拡げるのに必要な時間だったことが明かされると同時に、オリヴァー(アーミー・ハマー)が自身の疎外された生を(「君の家ではぼくは義理の息子のような気分だったんだ。うちの父親だったらぼくは刑務所=correctional facility行きだよ」)エリオに明かすことによって、あの夏はむしろオリヴァーにこそかけがえのない時間であったことが告げられるわけで、エリオの涙はオリヴァーという想い出を失う哀しみに加え、エリオにとって自由の眩しい道筋にも思えた彼がずっと殺してきた内部の奥と、これからもそれを殺していかなければならない世界の悲嘆に感応したエリオ自身の奥から湧き出していたように思うのである。夏の日差しから一転したイタリアの冬景色とエリオを塗りつぶすメランコリーは、やがて聞こえてくるエイズの足音と、彼らが否応なく巻き込まれていく社会と政治に吹き荒れる嵐の予兆だったのかもしれない。この映画が『おもいでの夏』タイプの定型ににおさまらないのは、エリオにとってのオリヴァーと同じくらいオリヴァーにとってもエリオでなければならなかったその伸ばした手の切実さがそうさせるわけで、何度となく水辺で体を慣らした2人の、その6割は水分でできているとされる肉体が互いを浸透圧のように移動して均質になっていくその感覚と確信を、オリヴァーは”Call Me By Your Name”と口にしたのだろうと考える。ある種の解放区を現実的に設定した上でそこにのみ息を継ぐ人を解き放っては、彼女や彼らのブラウン運動のような動きをつかまえていく監督の筆致は前作『胸騒ぎのシチリア』にも連なる部分で、その不可思議なゆらぎには、いったい何が映画を決定するのかという問いかけを無効化する催眠性があって、主人公が境界線上で磔になるラストの香しい手癖も含め、ヴィルヌーヴがステージを上がってしまった今となってはこの悪い夢から醒め続ける夢を見るような中毒性のキックを手放すわけなどないのである。1984年にサイケデリック・ファーズをよみうりホールで観た日は東京で38度を超えた猛暑日だったことをいまだに憶えていたりもするものだから、地下室にくぐもるようなリチャード・バトラーの歌声を真夏の夜のパーティチューンにインサートするグァダニーノに、なにより一方的な共感を覚えてやまないのだった。
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2018年05月06日

ザ・スクエア 思いやりの聖域/芸術はサービスだ!

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「それはだね、きみのバッグが美術館に展示してあったらそれは果たしてアートかどうか、ということだよ」というとっさの苦し紛れにも思えたクリスティアン(クレス・バング)の答えが、言うまでもなくそれはデュシャンの「泉」に由来するアートという行為の脱構築論であるけれど、結果として日常と非日常、虚構と現実、本音と建前、といった二重性をトートロジーで弄ぶスノッブの本質を自ら宣言していたことに気づかされていくのである。すべては現実を解題するコンセプトとして相対化する大喜利に過ぎず、後出しジャンケンの関係性の中でしか生きられない者の滑稽と悲哀を揶揄するというよりは救済するかのような慈しみと共に描くことで、笑い飛ばすつもりでいたこちらの居心地を次第に奪っていくその手つきは前作『フレンチアルプスで起きたこと』からいっそう露悪を増していて申し分ない。トゥレット障害の観客によるトークショーの蹂躙、クリスティアンとアン(エリザベス・モス)が繰り広げる言ったら負けのマウンティング、オレグ(テリー・ノタリー)による相対性晩餐会の破壊、そして黒髪の少年によるクリスティアンのあくなき糾弾、といったシーンにおける映画の叙述としてはバランスを失しかねない切り上げの悪さは明らかに観客を蝕むためのやり口で(そりゃあ151分にもなる)、そうやってクリスティアンに誘い出されたあなたたちは自分が今どこにいるか気がついているのかな?と言いながら、ワタシたちの苛立ちや蔑み、咎め立てをニヤニヤと笑いながら監督は集めて回っていたのではなかろうか。劇中では展示された正方形の中に足を踏み入れた観客の描写はないのだけれど、クリスティアンの娘が出場するチアリーディングの大会で、四角く囲われた競技エリアの中でチームが発揮する協調と信頼は、いまだ相対化の怪物と化していない子供であればこそ可能な精神の発揮であることを告げているかのようだし、別居した妻との間の2人の娘がクリスティアンの生活に登場して以降、クリスティアンの墜落をぎりぎりで押し留めていたのは子どもたち(2人の娘と黒髪の少年)であったようにも思うのだ。嘘をついてはいけません、お友達をいじめてはいけません、困っている人を助けなくてはいけません、自分がされて嫌なことは他の人にしてはいけません、と散々偉そうな口調で子供に諭してきたにも関わらず片っぱしからそれを反故にしている大人を叱るにはどうすればいいのか、つまりはこの映画はそういうつもりで耳に痛くて煩わしい言葉を執拗に散布し続けるわけで、そうしてみるとあちこちで子供が事態を撹乱しては「カオス」を呼ぶハネケの意図があらためてクリアになった気もするのである。もちろんリューベン・オストルンド監督がハネケへの傾倒と崇拝を公言しているのは言うまでもない。
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2018年05月03日

アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー/おまえがいないと宇宙が広い

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※ネタバレあり

ガモーラに引き金を引いたスターロードに「気に入ったよ」とつぶやいて去っていくサノスは重篤な自己犠牲の虜と化していて、それがタイタンの失敗によるものなのかあらかじめ狂っていたのかは明らかにされないものの、ヒーローをヒーローたらしめる自己犠牲の呪いでスイングするアベンジャーズは、まさにそれゆえサノスの飼う自己犠牲の狂気に喉元を屠られ一敗地に塗れることになる。知識に呪われた男としてサノスがスタークに示す共感は、かつてサノスも世界の困難を知識で解決できると信じていたことによるものなのか、すべての理想が潰えた急進的リベラルがニヒリズムを経て暴力的でアナーキーな実践に至る姿には自罰的といってもいい過剰な自己犠牲への渇望が溢れ出し、「誰よりも今のお前を理解できるのは私だ」とヴィジョンを失わせたワンダを慰めては当たり前のように「あなたにわかるわけがない」と吐き捨てられはするものの、いやそれが彼には分かっているんだよと知らずワタシはお節介をしてしまうのだ。一つの生命を生かすために一つの生命が失われるサノスの言う完璧な調和の下での自己犠牲の、その失われる生命を少しでも減らすための営為が文明であるのは言うまでもないにしろ、その収束に抗い続けることの疲労と倦怠が、何かを得るためには何かを差し出さなければならないという自己責任へと自己犠牲を拡大解釈していくのも裂けられぬ営為であることをワタシたちは身に沁みているわけで、そうやってサノスに抱いてしまう昏いシンパシーの危うさを次作でどう鎮めてみせるのか、避けるわけにはいかない新たな責任をアベンジャーズは抱え込んだようにも思うのである。誰も彼もが「ダークナイト」のように責任をとるわけにはいかないのだよと大空に飛び立ったトニー・スタークのポップな遁走から10年目、宇宙の果てで途方に暮れるその姿が一瞬胸をついたりはするものの、この10年間それを食って過ごしてきたワタシは、因果は巡るよどこまでもと鼻歌まじりでその肩をたたいては、いつか社長もサノスのように笑える日が来るさと慰めてみるのであった。すべての登場人物に理由と必然を与え、なおかつそれを彼方へと燃やすシナリオと演出の精密さには舌を巻きっぱなしなのだけれど、それはひとえに、言わずもがなと言わずと知れた、皆まで言うな、によって何をどこまで刈り込んで削ぎ落とすことが可能なのか、その見極めにかかっていたとも言えるわけで、何よりそれを可能にしているのは観客との信頼関係および共犯関係であって、DCに決定的に欠けているのがそこに成立する視点であることにも気づかされるのである。とは言え、ファイギこそがその視点に他ならない点においてDCにとっては永遠のないものねだりであることには違いないのだけれど。
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2018年04月29日

タクシー運転手 約束は海を越えて/走っても走っても

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この世界で何より大切な一人娘との約束はおろか、自分が生きて娘のもとに帰ることすら危い状況に首まで浸かったキム・マンソプ(ソン・ガンホ)が自己犠牲の天秤を一人娘と光州の人々との間に掛ける苦渋は、それが活動家としての思想やジャーナリストの使命感という大義に裏打ちされない分だけ残酷なまでに現実的で下世話な判断をつきつけて、つい数時間前で疑いもしなかった世界が自分と自分のような人たちを躊躇なく殺す殺人鬼に変貌したその姿への、理解が現実に追いつかない混乱と衝撃を卑近にたぐり寄せては何とか呼吸だけを続けてきた彼がついに天秤を逆転させる瞬間は、カタルシスというよりは悲痛と哀切の幕が正式に切って落とされたにすぎないわけで、フィクショナルなアクション映画からはすくなくとも30分は遅い彼の変わり身はそれゆえ深刻でやるせなく、それまでの卑屈な愛想笑いと強がりが一気に反転していく取り返しのつかなさが、じゃあいったいお前ならどうする?と胸ぐらをつかんで泣きながら詰め寄ってきたのだった。そしてそれを知識や思想ではなく、血と泥にまみれたスニーカーと娘の土産に買ったピンクの靴、差し入れのおにぎりと遁走の道すがらのおにぎり、といった手ざわりの変奏によって更新する手続きは最後にマンソプがリボンを結ぶシーンの円環によって完了されるわけで、それは光州の人々がなぜああして自らを顧みず立ち上がったのか、そのたどたどしくも身を切るような代弁でもあったように思うのである。しかし、そうやってマンソプの重力が効けば効くほど、記者ピーター(トーマス・クレッチマン)のそれが拮抗し得ていないことに気づかされてしまうわけで、ピーターの動機がいったいどのように変遷していったのか、冒頭の日本パートからすると倦んだ屈託を燃やす機会を狙ったように映るピーターが一線を越える覚悟と葛藤をどう自分に課したのか一人称的な視点で叙述されることがないため、もちろんそこには言葉の壁があるにしろ、最後まで記号の枠をはみ出すことがなかったように映ってしまうのである。それと気になっているのが、最後の検問でトランクをあらためる兵士がソウルナンバーのプレートに気づきながら知らぬふりをするシーンで、他の兵士とはいささか異なる文民の風情を彼に漂わせた点で軍の非道に対するカウンターとしての役割を与えたのは明白であるにしろ、となればマンソプやピーターの生存のみならず光州の真実を伝える決定的な役割を果たしたのはこの名もなき兵士だったという「都合の良さ」がどうにも引っ掛かってしまうのである。これがピーターのモデルとなったユルゲン・ヒンツペーターの証言をもとにした事実であるならば、すべての成否がこの兵士にかかっていたという点で全体のバランスが少々危うくなる気もするわけで、この行動が兵士自身の破滅を招いたであろうことを想像してみれば、なぜ彼はああした行動に出たのかというサイドストーリーが物足りなく思えてしまうし、この後に続くカーチェイスのための完全なフィクションだったとすればその手続きはいささか雑に過ぎたと言われても仕方がないように思うわけで、やはり実話ベースであった『アルゴ』での家政婦サハルを物語の要請として使い捨てる扱いなど思い出したりもした。光州の人々が軍の銃弾に斃れていくシーンのスローモーションは、無慈悲に散らされていく生命があげる最後の叫びとでもいう詩情に溢れて一瞬ペキンパーのスローがよぎったし、理不尽な世界に蹂躙され翻弄される小市民マンソプを演じたソン・ガンホには、やはり運転手を演じた『世界大戦争』のフランキー堺が重なって想い出されたりもした。
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2018年04月26日

レディ・プレイヤー1/夢を見ろ、空を見ろ

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「長いものに巻かれるな」「生きていく手ざわりは現実にこそある」たったこの2つを言うためにここまでド派手な花火を打ち上げてスマホにうつむく顔をふりむかせては、まるで子供にひらがなの口調で言い聞かせるような映画を撮らなければならなかったスピルバーグの切実に、どこかしら『ペンタゴン・ペーパーズ』と背中合わせになった性急さを感じたりもしたわけで、高みからしたり顔でビラを撒くのではなく相手の陣地で同じ目線に立ってそれを可能にするスピルバーグの五感がやはり尋常ではないことをあらためて実感するのだけれど、だからこそスピルバーグは昏く変容していく世界に対し誰にも増して怒りや苛つきと共に感応し、その反撃として最も得意な方法で異議申し立てをすることを決めたのだろう。スラムと言ってさしつかえないスタックされた集合住宅の描写を含め、オアシス外の世界がスピルバーグにしては平坦というかことさらディストピアを強調しないのもこれが階級闘争の図式に閉じ込められてしまうのを嫌ったためだろうし、あくまで向き合う相手は自分自身であることを念押ししたかったということになるのだろう。そしてこの映画でクロスオーヴァーするとめどないキャラクターたちに邪気なく反応するであろう世代を考えてみれば、いったいこの映画が誰に向けられているのか、それは少なくともウェイド(タイ・シェリダン)やサマンサ(オリヴィア・クック)のような若者でないことは言うまでもないし、それら世代に対して「長いものに巻かれるな」「生きていく手ざわりは現実にこそある」と言わねばならない現状に、大人になることを要求されなかった大人たちに抱くスピルバーグの危惧と懸念が透けた気がしたのである。したがって、イースターエッグに触れて涙を流すウェイドを目の当たりにして銃を下ろす改心するヴィランとしてのソレント(ベン・メンデルソーン)こそが実はこの映画の主人公だったとも言えるわけで、美味い飯が食えるのも現実こそがリアルだからなんだよなと小さく笑って消えていくハリデー(マーク・ライランス)も含め、君ら大人が正気であってこそ若者がクリエイティヴでいられるんじゃないかというスピルバーグの檄が意外なほど刺さってきて、この国においては今作と『ペンタゴン・ペーパーズ』が立て続けに公開される僥倖をあらためてかみしめてみたのだった。それにしても『レゴ ®バットマン ザ・ムービー』でも今作でも驕った文明の犠牲者キングコングがヴィラン扱いされるのがどうにもしっくりこないわけで、いっそのことメカニコングなら良かったのにと、あのメカなんたらなど足下にも及ばない超絶クールなデザインを世界に知らしめる機会を失したのがいささか悔やまれる。とはいえ、アルテミス=サマンサが投げつける手榴弾がまさかのマッドボールだった瞬間に軽く帳消しにはなったんだけど。


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2018年04月24日

アンロック 陰謀のコード/私は冗談の通じない女

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ノオミ・ラパスがCIAの尋問官を演じるとなれば、『4デイズ』のサミュエル・L・ジャクソンにリターン・オブ・リスベットとしていったいどこまで迫れるものかと胸はずませてしまうのが人情というものだろう。とは言え人情というものはそれぞれに事情があるようで、アリス・ラシーン(ノオミ・ラパス)にとっての尋問官はあくまで側(がわ)に過ぎず、彼女が放り込まれるのは精神を切り刻む神経戦というよりも諜報は踊るとでもいう狂騒曲の流れるダンスフロアであって、そこでは誰もが落ち着きのないステップで息を切らしては趣もへったくれもなく喘いでいたのである。何つうか人を殺しすぎたっていうか、テロとかそういうのはなんかもういいんじゃね?と急進的なイスラム教指導者が言い出したことでMI5とCIAを巻き込んで発生する泥縄のマッチポンプはその底抜けと悪趣味でほとんどコメディの領域に近づいた気もして、イギリス系モロッコ人ラティーフ(エイメン・ハムドゥーチ)と中東からの移民アムジャッド(トシン・コール)というそれなりにキャラクターの陰影を育てたはずの2人が、どちらかといえばアリスのエラー含みであっさりと殺されてしまう躊躇のなさと後腐れのなさ、およびそれを当事者のアリスですらがさほど気に留めた風もないまま、ラストにおいて彼女の前線復帰を告げるCIAヨーロッパ支部局長(ジョン・マルコヴィッチ)の車に乗り込んだアリスの表情には死屍累々の悔恨や屈託は清々しいほど見当たらないわけで、特にアムジャッドについては彼の幼い子どもまで含めた背景をそれなりに描いたあげくの使い捨てにも等しい退場への、それはいくらなんでもそれはいくらなんでもと思わず声も上ずる違和感に、そもそもが寄る辺なき諜報の世界に正気の者などいるはずがなかろうよと鼻で笑われた気もしたのである。してみると、いささかオーヴァーアクトとも言える身のこなしでフィクションを助長し続けたジョン・マルコヴィッチはこの映画を真顔で演じることの不粋をはなから見抜いていたわけで、彼にとってはさすが余裕の暇つぶしであったというしかない。としてみれば、オーランド・ブルームもトニ・コレットもマイケル・ダグラスでさえもどこかしら半笑いの風情を終始漂わせていた気がしないこともなく、ひとり悲壮な面持ちで密室の尋問劇とはまったく関係ない撃って殴って捕まえてのアクションを孤軍奮闘繰り広げたノオミ・ラパスが、劇中と同様ドッキリを仕掛けられた犠牲者にも思えてきたのである。いかなるサイズの映画であっても観客の手の届く範囲に縦横高さを縮小しては親密な手ざわりを届けてくれる彼女のB級力はワタシの頭にピーター・ウェラーのそれをよぎらせたりもするわけで、それはそう誰にでも許されていない希有な能力であるのは間違いがないところであって、今作でも新宿ミラノ感、あるいはシネパトス感といった共犯関係を存分に確認させてもらったのであった。うらぶれた駐車場に降り立ったトニ・コレットの緊張に溢れたバストショットを捉えたカメラが引いていった瞬間、目に飛びこんでくる膝丈やや上のフレアスカート姿の凛とした颯爽がベストショット。まるでアニー・レノックスのようにクールかつバウンシー。
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2018年04月22日

女は二度決断する/海へ往く

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おそらくあの鳥も死ぬことになるのだろうと、そのイメージが頭に浮かんだ瞬間、カティヤ(ダイアン・クルーガー)はいったん復讐の憎悪を正気の鞘に収めるのだけれど、憎しみの連鎖を絶ちきるという説諭の気分を目的とするならば、ここで仄明るくも曖昧な余韻と共に目を伏せる手もあったはずである。したがってそこから先で起きることはカティヤにのみ有効で普遍性のない私闘の産物であって、事件のショックでしばらく止まっていた生理が突然来たことに虚を突かれ、身体が自らを修復して立ち直るように、いつしかその記憶と感情が自らを修復してヌーリとロッコを忘れてしまうことに恐怖したカティヤが、ならば今この記憶と感情のまま消えてしまえばいいのではないか、とまず思い立つことになる。そもそもが監督は巧妙なずらし方をしていて、カティヤは夫と子供を殺したのがネオナチだから復讐を決意したわけではなく、仮に相手がマフィアだったとしても何らかの行動に出ていただろうことは劇中の彼女を知れば知るほど想像がつくわけで、レイシズムに関していえばトルコ系移民である夫とその家族に対するカティヤの母親の視線は刑事が抱く予見という偏見につながっているし、家族3人の幸福を築き上げるにおいて彼女がとっくにレイシズムと闘っていたことは言うまでもない。それがトルコ系移民の両親を持つファティ・アキン監督がレイシズムに対して抱く極めてリアルな記憶と感覚であることを思えば、その絶望的な異議申し立てがネオナチという醜悪で唾棄すべき存在によって矮小化されてしまうことへの拒絶こそが、カティヤに最後の決意をさせたように思うのだ。私はネオナチだけが憎いのではない、彼らが存在することを許す世界を憎悪しているのだ、だから私を知るすべての人間の悪夢となるべく、私は最悪の方法を選ぶことにする、いつか忘れ去られるとしても、一分一秒でも長くその悪夢が続くよう、最悪の方法を選ぶことにする、しかも私は最愛の家族の記憶に全身を満たされたまま消えていくことができるのだ、あなたたちの悪夢が今の私にとってのハッピーエンドなのだ、バイバイ、というモノローグを、キャンピングカーに向かう歩みへのヴォイスオーヴァーとしてワタシは再生してみる。幸福と絶望と諦念と執念、と四方に裂かれ続ける感情を哀しいほど誠実かつ精緻に刻みつけたダイアン・クルーガーの表情が今もって忘れられない。『追想』を悪意の時代にアップデートした祈るような傑作。
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2018年04月19日

パシフィック・リム・アップライジング/わたしはデル・トロをゆるさない

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イェーガーやKAIJUそのものにはストーリーを背負わせないという舵の切り方それ自体は悪くないと思うのだけれど、やるならやるでニュート(チャーリー・デイ)を帆場瑛一に仕立てつつ押井パトレイバーを横目に見るくらいすべきだし、となれば当然これはニュートとハーマン(バーン・ゴーマン)の物語となるわけで、『バトルシップ』の冒頭をトレースするにしてはいっこうにスイングしないジョン・ボイエガの凡庸な偽悪っぷりと、父親から肝心要のシニカルを譲り受けなかったスコット・イーストウッドのツートップでは胸騒ぐ物語に至らないのも、既に厨房での冷え冷えと悲惨な掛け合いで瞭然だったように思うのである。かといってハーマンと袂を分かったニュートの闇落ちを描くにはこの2人が抱える屈託を理解できる脚本家が必要だっただろうし、まあそれがル・トロということになるのは言わずもがなとして、すべてが段取りとその処理に汲々とするあまり、情動のスイッチにふさわしい森マコ(菊地凛子)の退場も、ジェイクの朴念仁を助長する造型と演出のせいで曖昧な関係性のまま単なるイベントのように終わってしまうし、しかしそれについては全員が朴念仁のまま終始しているとも言えるわけで、未知のものどもを観客に魅せる喜びに溢れていた前作を受けて、予算の都合もあったのだろうその足し算はあきらめた上で「人間模様」でドライヴすることを選んだにしては無い袖を振りすぎたと言うしかなく、その無謀がブレイクスルーを呼ぶこともごく稀にあるにしろ、それは自分が無い袖を振っていることを重々承知したうえでの果敢であって、その傲慢は、一介の訓練生にとっていきなりの修羅場となる初陣に際し、死への恐怖と使命感とのせめぎ合いに感情の針が振り切れる瞬間がほんのワンカットでも浮かばないデリカシーのなさにも見て取れて、KAIJUに攻撃を受けた基地で応戦したイェーガーのパイロットが渾身の抵抗をみせたあげく一蹴されるシーンを直前で見せておきながら、それを彼や彼女らがどう自分に置き換えたのかそういったひとつひとつが全く描かれていなかったものだから、大変申し訳ないが誰が死んでも困りようがないのである。せっかくアマーラ(ケイリー・スピーニー)とヴィク(イヴァンナ・ザクノ)のねじれを仕込んでおきながらそれが振りほどかれることで感情が弾ける見せ場が見当たらないことなど杜撰と呼んでも差しさわりがないだろう。青空を背景にした仰角の冴えるバトルシーンはかなり健闘していただけに、大人たちの失敗の甘き香りおよび青いメメント・モリを忍ばせるシナリオおよび演出の失敗が足を引っ張っている点で、ハードルを下げていたにもかかわらずやはりそれなりに鼻白んだりはしてしまう。健闘したとは言え、ロボットは人間のように動くのではなく人間のようには動けないことで色つやがのってくるわけで、そうした意味ではフェティシズムに欠けて健康的すぎたこともあり、どれだけ彼らが破壊されようが昏い昂奮が湧いてこなかった点でもなお鼻白んだのである。みそっかすの女王としてのジン・ティエンはすこぶる健在で、大人の事情に追われる彼女の逃げ場のなさはある意味ロボットよりも哀切であった。
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2018年04月18日

ワンダーストラック/きこえないよね、メイジャートム

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42丁目のポート・オーソリティ・バスターミナルに降り立ったベン(オークス・フェグリー)が、西81丁目のブックストアに向かってずんずんと北上しながら通り抜ける1977年夏のヘルズ・キッチンあたりをギラついたファンキーで活写したシーンを観ていたら、かつて映画で知ったニューヨークの原風景ともいえる熱くたぎる坩堝感にくらくらしてきて、『エデンより彼方に』『キャロル』からつづく偏執的時代考証シリーズの最新作として、あっさりとOKを出してしまう。言ってみればこの映画はまるごとが、50年の時を経た原風景を重ね合わせることでそれまでそこにいなかった人たちを浮かび上がらせる騙し絵のスペクタクルになっていて、前半の時空を超えたカットバックの向かう先が『オーロラの彼方へ』タイプのファンタジーになるのだとしたら、果たして乗り切れるものかどうか自信がないなあと思っていたので、ワンダーストラックなたたみかけとは言え極めて現実的な仕草で着地していく終盤に実は安堵したりもしたのだった。1927年と1977年のルックをあれだけ丁寧に磨いたこともあってのことだろう、その合間の1964年を実写ではなく手作りの人形劇スタイルで描いたアイディアも、話して伝えることが叶わないローズ(ジュリアン・ムーア)のしたためた手書き文字から立ちのぼる「お話」をベンが頭の中に投影させた幻視であったことを考えてみれば、たどたどしくもいきせくように自分に言って聞かせる少年の語り口が実にヴィヴィッドにフィットしていたように思うし、話して聞かせればただのフラッシュバックで再現されたであろう物語が、2人の関係性ゆえに特別な風景を生み出していくあたり、トッド・ヘインズはそのアイディアからすべてを逆算させたのではなかろうかとも思ったのだ。ラストで自然史博物館の屋上に並ぶローズ、ベン、そしてジェイミーの3人はみな母親を失った者たちで、そこを生き抜いたかつての子どもとこれから生き抜いていかねばならない子どもたちが大停電の夜空に浮かび上がる星に思いを馳せる姿に、”We are all in the gutter, but some of us are looking at the stars”(おれたちはみなドブの中にいる。でもそこから星を眺めるやつだっている)という魔法の言葉が唱えられた気がして、弱くて小さいものを慈しみ勇気づけるジュブナイルにトッド・ヘインズの原風景が透けて見えた気もしたのだった。1927年ではローズの母リリアン・メイヒュー主演のサイレント映画が上映されるブロードウェイの映画館を、1977年では”CAPTAIN LUST”なんていうポルノ映画が上映される場末の映画館をそれぞれ時代の気分としてフィルムに収めていて、70年代ニューヨークの猥雑とポルノ映画館を結びつけたのはやはり『タクシードライバー』なのだろうなあと思いつつ、スコセッシの諸作以外にも『重犯罪特捜班/ザ・セブン・アップス』『ウォリアーズ』『ジャグラー ニューヨーク25時』『セルピコ』とかいった、ぎらついた目つきとくすんだ屈託が塗り込められたNY映画をあれこれと想い出したりもした。それと『刑事コジャック』もかなりニューヨークの私的原風景になっている。
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2018年04月16日

ラブレス/罪と罰?

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タイトルがあらたかたを語ってしまっていることで映画に裏切りはないにしろ、ほとんど軍隊並に組織された民間の捜索ボランティア団体のとりつくしまのないプロフェッショナル感は少しばかり異様に思え、一介のボランティアであるはずの女性が施錠された門扉の向こう側へと斥候の動きで入り込んでみたり、合理的かつ支配的な上意下達による有無を言わせぬ指揮系統など、あのレベルまで鍛えあげられるほどロシアでは失踪人の捜索が常態化しているのかと、それすらも薄ら寒かったのである。その薄ら寒さの「薄」は酷薄の「薄」でもあるわけで、愛情、思いやり、責任感といった社会の体温を決定するそれぞれがおそろしく「薄」である様を、血の気の「薄」い映像が引きずるように倦んだ足どりで冷ややかなため息と共に告発していく。ボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)がそれぞれ新しいパートナーとセックスに励んでいるまさにその頃、やはりセックスをすることで生まれてきたアレクセイはこの世界から独り彷徨い出してしまっているわけで、物質主義と即物性の刺激にしか反応しないパブロフの犬として2人を描く筆致の容赦の無さはこの元夫婦を現代ロシアの病巣として描くただそれだけを目的にしているようですらあり、自分教の教祖たる自身を偶像=アイコンとする供物であるかのようにセルフィーをアップロードし続ける姿にはセルフィーという行為に抱く監督の蔑みと憎悪すら感じられて、ボリスとジェーニャにかけられた永遠の呪いを示唆したラストは、もはや許すも許さないもないのだという穢れた世界に吐きかけられた唾のようにすら思えたのだ。しかしこれがロシア固有の状況や問題でないことくらいワタシ達の誰もが気づいているはずで、ワタシが最初にセルフィーという言葉を知った時はセルフィッシュからの派生かと思ったくらい一方的な自意識の新たな登場に思えたし、セルフィーに耽溺し執着する人間と以外の人間の断絶は様々な断絶のパターンに重なるような気すらするものだから、悪魔を憐れみながら悪魔に魂を売った人々の象徴的な行動として監督が選んだことは至極当然だったのではなかろうか。そういった風に徹頭徹尾が呪詛でしかないにも関わらず、鈍色の鉄塔のように繁る木々や正気だった世界の墓石のような廃墟のひっそりと孤絶した美しさのせいでクズの蠢きにどこかしら神性が宿っているかのようであるのも強烈な皮肉としていっそう罪深い。それにしても、その社会が経てきた歴史や主義思想と関係なく、たがが外れた人間の閾値はなぜこうも一定に収束していくのかその迷いのなさはいっそ清々しくもあり、おそらくはそこにある種の感銘を受けた監督による生き地獄上等にはハネケやファルハディにはない闊達さすらを感じて、さすがドストエフスキーを国民的アイドルと押し戴いた国の人であることよと、人なるものを研究者の手つきで小突き回し観察者の偏執的な視線で睨め回すその地肩の強さに感嘆しつづけたのである。実際のところはSelf Networking Serviceとも言うべきそれらSNSは、ナルシシズムにすら至らない空白に自分の形をしたドーナツの穴を作り続けているようにも思え、永遠に埋まらないその中心にアレクセイは消えていったのだろうとワタシは考える。
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2018年04月13日

ヴァレリアン 千の惑星の救世主/すました顔してバンバンバン

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この映画はこういう風に、ただただお互いがにっこりできるようなポップで転がっていきますよっていうオープニングと、「スペース・オディティ」のヴィヴィッドで必然性のあるインサートにボウイの歌声を思いがけず堪能して顔がほころんでしまう。それから約130分の間、ほころんだ顔のみけんにシワが寄ったりまぶたと顎が落ちたり瞬間もないままめでたしめでたしで幕を閉じたものだから、いったいどうしてこの映画がヨーロッパ・コープの屋台骨に蹴りを入れたのか皆目見当がつかないのである。確かにこの映画は父殺しの通過儀礼も骨肉の争いもポリティカル・コレクトネス的なメタファーのこれ見よがしな参照も見あたらない、一見したところはノンシャランな恋人たちのスペースオペラではあるけれど、冒頭で謳い上げる握手の歴史を足蹴にする者は許さないというただそれだけで十分な背骨ではあるし、ローレリーヌ(カーラ・デルヴィーニュ)とヴァレリアン(デイン・デハーン)の、「男勝り」や「女々しい」とか言った形容詞を溶かしていくユニセックスな双子のような関係それ自体が十分フレッシュな言い分に思えたのである。惑星ミュールはほとんど「ファンタスティック・プラネット」のアップデートに思えたし、マーケット自体をひとつのガジェット化するアイディアなど、何よりドラマではなくヴィジョンで前に進んでいく物語にスター・ウォーズが手放してしまったセンス・オブ・ワンダーを感じて、現実につかまらずにどこまで逃げ切れるかという逃げ足でははっきり言ってSW8など圧倒していたといってもいい。バブル(リアーナ)のパートは、その最期をきちんとした自己犠牲で閉じてあげさえすれば印象もまったく変わっただろうにとは思うものの、それくらいの湿気さえ嫌ってしまうのもベッソンらしいと言えばらしいわけで、言ってみれば今作はベッソンの目指したものが作品として寸足らずだったから失敗作とされたわけではなく、現在のマーケットに対して目配りを一切しなかったがゆえのすれ違いだったというべきで、現代はジャンル映画においてすらほぼ常套である家族愛や友情、あるいはその相克といったフレームを提供しなかったことが瑕疵とされてしまう不幸をくらったとしか言いようがなく思えてしまうのだ。したがって、今回に限ってはともすれば情動の奴隷を強いてくる世界への負け戦を挑んだベッソンに全面的な肩入れをしたいと思っている。ただジンクスとしては、『ジョン・カーター』の例もあることだし、今後馬鹿をやりたい監督は高速で突進する巨大なブルドッグを投入するのは控えたほうがいいかもしれない。
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2018年04月11日

ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書/うそがほんとにならないように

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権力を監視する第三者機関としてのマスコミが保つべき挟持の鼓舞と再確認は言うまでもないにしろ、エンディングで暗示される例の大事件の最中に「それを記事にしたらおたくの社主のケイティ・グラハムはかなりまずいことになると伝えておけ」と元司法長官に名指しで脅されるくらいの目の上のたんこぶへと至るキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)のライジング・ストーリーが、国民の視点、とりわけ女性たちの視点を切り開く闘いにも重ねられることでなお映画の体温が上昇した気がしたのである。「ペンタゴン・ペーパーズ」そのものをめぐる事件を史実的に追うのであればワシントン・ポストよりはニューヨーク・タイムズを主戦にするのがふさわしいわけで、いささか類型的に放課後ボーイズクラブのガキ大将のようなヒロイズムとマチズモで描かれるベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)が、主にキャサリンの当て馬としてあるのもそうした意図によるところが大きいのだろうし、単なるジャーナリスティックな反撃というよりは、銃後の女性としての怒りと勇気および責任感によってその一歩を踏み出したキャサリンの決断の重大さをベンに気づかせたのが彼の妻トニー(サラ・ポールソン)であったことなど、戦争ごっこが好きな動物としての男たちに対する女性たちがあげる声なき声の代弁者としてのキャサリンをこの時代と事件の象徴としたことは、最高裁判所から出てくる彼女を静かに微笑む女性たちが無言で迎えるショットにも雄弁だったように思うのである。戦場のタイプライターで打ち込まれたヴェトナムの記憶と記録が文書となることで実体化し、監禁された場所から連れ出され飛行機に乗って然るべき場所にやって来る一連は、まるでひとりの生き証人をめぐるサスペンスのようで、ここでスピルバーグはマクナマラ(ブルース・グリーンウッド)をして「ケネディもジョンソンも確かに手強くてしたたかだった。でもニクソンは、あいつは正真正銘のサノヴァビッチなんだ!」と絶叫させ、執拗に漆黒のシルエットと肉声を使いニクソンを悪の黒幕として容赦なく仕立て上げることで、生き証人としてのペンタゴン・ペーパーズを取り扱うその一つ一つの手続きに手の震えや小さなつまずきを塗してはポリティカルスリラーの蒼白までも呼び出している。最初にメッセンジャーボーイがタイムズ社屋に入るシーンを見せておいたことによって、その後でポストのインターンがタイムズの社屋に潜入するコースを観客に拡げておく段取りなど、些細なことではあるけれどそうした積み重ねの丁寧さがノイズやストレスを取り除いていくのだなあと、小さくため息なども出たのであった。ベンの子供じみた尊大さをやんわりとたしなめつつ、突然おしかけた来客たちの人数を瞬時にカウントしては、人数分のターキーとローストビーフのサンドイッチを作って差し出すトニーの万能も称賛されて然るべきだろう。ただ、そんな風にして少々キャラクターに依存したこともあって、往き来する映像の擦過による発熱が控え目だった点で、スピルバーグにしてはいささかローカロリーだったようには思うのである。悪に対する悪意を燃やすよりはキャサリンに光差す祝福をトーンにしたこともその理由なのだろうけれど、とどめは『大統領の陰謀』に任せるよという意味でのあのラストだったということになるのだろう。それが名場面であればあるほど、固定電話、とりわけ公衆電話が過去を強力にするための装置となってしまったことをあらためて実感した。ネットと携帯電話が街角のサスペンスを消していく。
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2018年04月09日

レッド・スパロー/なんでもお前の意のままに

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ホテルのバーでドミニカ(ジェニファー・ローレンス)がユスチノフ(コンラッド・クリストフ)に問わず語りした野心と自尊心の覚え書きこそは、実はこの物語でドミニカが吐露した唯一の本心であったようにも思え、冒頭の楽屋裏でそのユスチノフにむき出しの背中を撫でまわされながらもその表情をピクリともさせなかったドミニカは、その程度のことあるいはそれ以上のことも、野心の達成および自尊心を育ててくれた母親に報いるため、感情を殺して乗り越えてきたのだろうし、だからこそ自身からバレエを奪い取った2人への復讐が凄惨なオーヴァーキルであったように、愛する母親を人質にとることで自尊心を粉砕した国家と野郎どもへの復讐が、コルチノイ(ジェレミー・アイアンズ)をメンターに壊滅的な方法で為されていく将来を謀ったのだろう。寄る辺なきエスピオナージの世界ですらその御託にヒューマニズムを並べてみせるネイト(ジョエル・エドガートン)は著しくアメリカ代表であり、全体主義の権化としてのマトロン(シャーロット・ランプリング)や現大統領ワナビーとしてのワーニャ(マティアス・スーナールツ)はいかにもなロシア代表として代理戦争を行うわけで、その書き割りの図式の中で一切の思想信条を足蹴にするドミニカの孤独な闘いが真っ赤な血と怒りの色を帯び始めると共に、やはり鳥の名前をニックネームに持つカットニスという少女が、肉親の身代わりに自らを殺し合いの場に差し出しつつ最後には全体主義のシステムを打ち倒す物語のR指定変奏が奏でられていたことに気づかされるのである。とは言え、ポテンシャルが加速度的に開花しつつあるとは言えこの世界においてはアマチュアに過ぎないドミニカが、いかにして酷薄な手練たちと渡り合ったかといえば、それは肉を斬らせて骨を断ち血みどろで寝首をかく正面突破であり、ドミニカが自身の内部に眠る昏い衝動に気づくシャワー室でのカップル襲撃から既に、この映画はさらけ出された肉体がよじれて呻くその震えをもって余白をしたためてきたわけで、ことさらビルドアップされないドミニカとネイトの内臓のつまったズタ袋としての肉体がいかに雄弁であり続けたかは言うまでもないだろう。そのクライマックスはあの皮剥きの夜だったとしても、即座に破壊してしまわないようクッションをあてがっては破壊的な打擲をドミニカに放つ尋問の、共振による内部破壊で少しずつ精神にヒビを入れていく永遠とも思えるその悠長さがワタシは何より怖ろしかった。基本的には売られた喧嘩を買う話なので仕掛けを急くと冷めた料理を食べさせられることになるのだけれど、ロングレンジの得意な監督だけあってきちんと助走した上での遠投がよく伸びて、どのショットも肉体の全体性を十全に捉えている。『コンスタンティン』もあれで120分を要したことを考えてみれば、唯一あきらかな失敗だった『アイ・アム・レジェンド』の敗因がこの監督に100分しか与えなかった点にあるのは明らかで、なれば140分を確保した今作ではオープニングを運命のクロスカッティングでスタートするなどの野心も見せつつ、全体主義国家とシンメトリーの親和性を背景にウェイトの乗った重心の低いミドルキックを粛々と繰り出し続けるこの映画の、倦みきってどこへもいくつもりのない殺意に、こうした見返りのない無為を飼い慣らすことこそが本当の贅沢なのではなかろうかと、シャーロット・ランプリングとジェレミー・アイアンズのツーショットに心の中でそっと手を合わせてみたりもしたのであった。
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2018年04月07日

ザ・シークレットマン/大統領の凡庸

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『大統領の陰謀』を観る限りにおいて、ディープ・スロートはウッドワードにとってのメンターめいた水先案内人として、タイプライターの手ざわりと電話の息づかいが鼓舞し続ける事実と真実をめぐる闘いの中で、それを求める者の目にのみ映る象徴的な存在であり続けたように思えたものだから、その実体と正体が映画として描かれることで魔法が解けてしまうのはある程度しかたがないだろうなと覚悟はしていたのである。しかし、ここに描かれていたのは、自身にとってのアメリカそのものであるFBIという組織への忠誠と、その全身全霊がもたらす倦怠と屈託によって内部を食い尽くされんとしているほとんど幽鬼と化したマーク・フェルト(リーアム・ニーソン)というひとりの男の彷徨であって、素っ気ないと言ってもいいくらい物欲しげな素振りをしないピーター・ランデズマン監督(『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』)の黙りこくったモノローグのような語り口が地下駐車場の暗がりの中にディープ・スロートをいつまでも立ちつくさせていて、組織防衛や自身の処遇への鬱屈といった角度も残されてはいるものの、自由と独立の精神を侵したニクソンおよびその仲間たちと刺し違えた男の挟持を冠したという点で、『大統領の陰謀』の嫡子とも言える風向きは保ってみせたにしろ、ウッドワード&バーンスタインのそれがゼロから始まる明日への闘いだったのに対しフェルトのそれはゼロへと引きずり戻すための暗闘であって、編集部を煌々と照らす蛍光灯の光と地下駐車場の闇という対比はそのままこの作品の役割を示していたように思うのである。政権の息のかかった人物を中枢から役所のトップへ送り込むことで行政を政治の支配下におくという現在進行系の既視感には驚くというよりはいい加減うんざりしているのだけれど、これはもうどのような主義体制であっても普遍的に起きる図式なのだろうことを思えば、権力の外部からそれを監視し告発するシステムを我々は維持し鍛えておかねばならないという戒めを新たにすべきなのは言うまでもなく、それを衆愚に忘れさせないよう神はあちこちへ定期的に外道を送り込んでいるのではなかろうかとすら思えてくるのだ。妻錯乱(『クロエ』2009年)、妻喪失(『THE GREY 凍える太陽』2012年)、息子喪失&妻別居(『サード・パーソン』2013年)、娘死別&離婚(『フライト・ゲーム』2014年)、妻死別(『ラン・オールナイト』2015年)と、2009年に彼の人生を襲った悲劇以来、喪の仕事でもあるかのように家族の不幸に搦め取られる男を演じてきたリーアム・ニーソンもそろそろその仕事を終える頃合いかと思いきや、ラストのテロップが告げる苛烈すぎる事実に、彼はもう自分の最期までこれをやめるつもりがないどころか、むしろその哀しみが薄れ忘れてしまうことを恐れているのだろうとすら思えたのだ。私は不幸なのではない、幸福でないだけだというトートロジーが大きな背中にはりついている。
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2018年04月04日

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男/たった一日だけ僕たちは英雄になれる

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「ヒトラーから世界を救った男」とか「ダンケルクの戦いを制し」たとかいった惹句の脳天気なやり逃げに少々げんなりしつつあらかじめ眉に唾しておいたこともあり、動けるデブとして闊達に走り回ってはひとりローズヴェルトに泣きを入れる姿など、基本的には「愛すべき」という前置きでチャーチルという人間の聖と俗を忌憚なく活写することで、政治家はつらいよ、とでもいう愚痴と泣き言を非常に流麗かつドラマチックに語ってみせては、政治家としては毀誉褒貶烈しく、チェンバレンやハリファックス同様ヒトラードイツ台頭の責を免れるはずもないチャーチルを憂国の英雄として描く情動にポピュリズムの誕生を見た気もして、それはワタシ自身をも含め意外と容易いものではあるのだなとあらためて感じ入ったのだった。ともすればウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)がアップになる度、ほっぺたやあごの下のぷにゅぷにゅを擦り、ぽわぽわの髪の毛を撫でてみたいとそんなことばかり考えていたし、A・J・P・テイラーがハリファックスについて「第二次世界大戦の起源」の中で記述した“ハリファックスは特異な才能を持っていた ―いつも事件の中心にいながら、どういうわけか事件とは関係のないような印象を残すことが出来た。”“彼は何かというと否定ばかりしていた。彼の政策の目的は ―彼がもっていた限りでは― 時をかせぐことであった。もっとも、これをどう利用するかについては明確な考えはなかったのだが。”“ハリファックスは一貫してチェンバレンに忠実であったが、その忠誠のあり方は、チェンバレンが熱心にしようとしたことの責任をすべて彼に負わせるというものであった。”というあからさまな悪意を裏づけるような、遠くのヒトラーよりも近くのハリファックスとでもいう悪役としての描き方、チャーチルの精神的参謀としての妻クレメンティーン(クリスティン・スコット・トーマス)がしなやかにあやつる飴と鞭、英国王ジョージ6世(ベン・メンデルソーン)が一人くすぶらせる鈍色の屈託、といった虚実織り込んだ造型の行き交うジョー・ライト史観によって「ダンケルクの戦いを制し」「ヒトラーから世界を救った男」としてのゲイリー・オールドマン版チャーチルが新たに誕生したのは間違いがないところだろう。してみれば、やはり英国政治史に名を残す政治家の光と影を描いて主演とメイクアップでオスカーを受賞した『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を当然のように想い出したりもするのだけれど、あの映画がいささか都合の良い回想形式によるその功罪の免罪符的なファンタジーに妥協していたことからすれば、その人生最良の瞬間に吹いた風の最大風速を捉えるケレンにのみ注力したジョー・ライトの半ば開き直ったかのような演出が正鵠を射たのは間違いない。それにしても、ひとたび口にされた言葉が書記のペンによって記録されるか否か、それだけでサスペンスが成立するくらい言質(=人質とされた言葉)としての文書は絶対的な信が置かれる存在であるはずで、その約束が打ち捨てられた場所で意志決定がなされる昨今の、悪魔の所業にあらためて慄然とするばかりであった。
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2018年04月02日

ちはやふる −結び−/ひかりの子

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やはり神々の憂鬱を青春のニヒルとして描く視線の不平等がずっと心地よかったのだろう。今作では遅れてきた神としての真島太一(野村周平)を仕上げるメンターとして、青春の影ばかり見ているきみはその影を生み出す光を見つめることをまずはするべきだ、一瞬の光が永遠となる瞬間を知らなければ影に向き合う術を知ることもないのだから、と告げる周防久志(賀来賢人)が自身のメランコリーと刺し違えすらしてスリリングであったし、高みで生きるしかない倦怠と抗えぬ運命へのあきらめにつかまった自身を若き神に託す修練が帯びる発熱は、このジャンルの邦画ではついぞみかけない独善と傲慢の疼きにも思えたのである。月下の棋士でいう猖獗の映像化も見目麗しく、3人の神々の捨て石となる者たちのマゾヒスティックですらある泣き笑いといいこれくらいひたすら本能に忠実な物語が可能なことを知ってしまうと、今後は友情とか仲間とかいった共同幻想に安住するにしろ、新たに更新された手続きが求められることになるだろう。すべての叙情を叙事として刻んでしまう広瀬すずの装置としての達者はやがて自身の内部をも結晶化してしまうのではないかといらぬ危惧すらして、すべての役柄をアテ書きと思わせる精密な車幅感覚をレオパレスですらアジャストする能力は好嫌の彼岸を超えた怪物の眼差しにも思え、まるで鵜匠のようなアンサンブルで居る時の彼女のフレームにワタシは少し気持ちが張って落ちつかなくなってしまうものだから、彼女につながれていない松岡茉優がフレームに入ってくるとようやくホッとしたりもするのだった。美しく磨き抜かれたガラスを通過する光が照らす上気した白日夢のような映像は日常の息づかいをシャープに非現実化してみせて、このトリロジーが湛える透明な白熱が今後は青春のスタンダードとなっていけばいいなと思う。まるで月曜ドラマランドのような予告篇を劇場で立て続けに見せられたこともあって、この映画の孤軍奮闘が切なくすらあったものだから、なおさらそう願う。いちいち胸が詰まって仕方がない机くんを運命の瀬戸際で背中から捉えたカメラが、ワタシのベストショット。
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2018年03月30日

素敵なダイナマイトスキャンダル/ほとんどビョーキで超ゲージツ

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80年代(昭和55〜64年)、すなわち昭和の終焉とともに、何より日本から消えてなくなったのは劇中で末井昭(柄本佑)が何度か苦し紛れの存在証明として持ち出す「情念」であったことよと、ノスタルジーでもセンチメンタルでもなく再確認させられたのだった。高度経済成長の時代に無理やり社会的な生き物としてしつけられた日本人が、自分の内部で置き去りにされる未整理で未成熟な衝動のはけ口として弄んだのが「情念」というやつで、当時を生きた人間が他人事のように思い返してみた時、パンチの効いたとしか言いようのない昭和の文化はほとんどがこの「情念」をガソリンに燃やされていたように思うわけで、結果的に末井昭が突破口として見出したのは「情念」のポストモダン的再構築とでもいうセックスのアヴァン・ポップな意匠化で、やはり同時期に山本晋也が「トゥナイト」で展開した日本のセックス事情探訪と相まって、はからずもメディアミックス的に横断されることで浮力のついた日本のセックスは表現の動機に関する限り「情念」から追い出されていったように思うのである。などと能書きはたれてみたものの、「写真時代」の廃刊騒動がスルーされていることからも分かるように、そうした思想の変遷を読み込む映画というよりは、母親のダイナマイト心中が象徴する「情念」を都合よく操るトリックスターとして昭和の終わりを転がっていった末井昭の奇天烈な逃げ足を描くことで界隈の正史へと置き換える乱暴さそれ自体への憧憬(監督の世代からしてみれば)に溢れた、間に合わなかった青春への明るい怨念を綴ったラヴレターのような映画に思えたのである。となれば、アングラの鼻歌のように忍び寄ってくる劇伴がサブカルチャーのノンシャランを封じ込めていたのも当然か。尾野真千子、前田敦子、三浦透子といった女優陣がみな切羽づまった笑顔を忘れがたくふりまいて、冨永監督の女優指南は相変わらず鈍色に艶々としている。
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2018年03月27日

LUCKY ラッキー/モンタナ行き最終急行

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殺されてしまったり放っておかれたり、ただそこにいるだけだったりずっと疲れたままだったり、まったくラッキーとはいいがたい役柄をそれが当たり前であるかのような顔で風に吹かれるように演じてきたハリー・ディーン・スタントンだからといって、これは人生の上がりを目前にした男の飄々としたラッキーで転がっていく姿をそのフィルモグラフィと反語的に描いて座りのいい締めくくりとするような、あてがいぶちのタイトルロールなどではまったくない。それどころか、演じてきた役柄の男たちのセリフにすらならない内心の投影であるかのような、そっちの勝手で始めておいて終わらせるのもそっちの勝手かよ、と取り付く島も寄る辺もない人生にニヒルを覚えつつ、すべてを取り上げられたあとで一つだけできることがあるとすれば、それは自分の全存在を肯定して微笑んでみせることだよ、と今となってはまるで墓碑銘のように刻まれるハリー・ディーン・スタントンという在り方そのものがフィルムに焼き付けられていたのだ。場当たり的な気まぐれとは程遠い静かで淡々としたルーティーンによってラッキーの生活が営まれていることを伝えるオープニングから始まって、変わり映えのしない、というよりはさせないその日々の築き方は世界の虚無に対するラッキーなりの抵抗でもあったのだろう。しかし、ある日突然訪れた最大にして最強の虚無である「死」のサインに戦術の変更を余儀なくされたことで、ルーティーンが隠していた負けるが勝ちとでもいう新しい光景にラッキーの内部は更新されていくことになる。いつしか澱のようにたまっていた執着を捨てることの理解と確信を代弁するハワード(デヴィッド・リンチ)と彼の愛するリクガメのエピソードはビザールな味わいと慈しみにあふれたシナリオの忘れがたいピークの一つでもあるし、それを聞かされることでラッキーが自身の舵を切る契機となる太平洋戦争時の沖縄の少女のエピソードはハリー・ディーン・スタントンの当地への海軍従軍経験を織り込んでいることは言うまでもなく、そんな風にして観客がラッキーに役者本人を投影することを拒まない虚実の行き来にいつしかワタシはハリー・ディーン・スタントンその人と会話をしているような親密さの虜となって、もしも今ラッキーにタバコを勧められたら25年を超える禁煙をきっと解いてしまうだろうなと要らぬ心配をしていたのだった。誰かを演じるために存在する俳優が最期には自分自身を演じることの皮肉ではなく奇跡。その奇跡というのは、彼が選んだ自身の断面と色合いがワタシたち観客が長いことずっと彼に託してきたそれと寸分違わなかったことであり、それは彼がたどりついたすべての肯定がワタシにも許されたような気もしたものだから、なんだか感極まって笑うしかすることがなかったのである。撮れば撮るほどハリー・ディーン・スタントンがハリー・ディーン・スタントンになっていくのだから、ジョン・キャロル・リンチも撮っている間ずっとそんな風に笑っていたに違いないし、ほとんどすべてのシークエンスにハリー・ディーン・スタントンがいるにも関わらず、一人の人間の道行きがパーソナルというよりはスペクタクルの足取りと広がりに映るのはそうやって監督も一緒に解放され続けていたからなのだろう。そしてラッキーが「Volver Volver」をひとり静かに歌い出した瞬間から約2分半のあいだ、演じるということへの問いかけに対するハリー・ディーン・スタントンからの秘めやかで揺るぎない答えをワタシたちは目の当たりにすることになる。傑作。
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2018年03月23日

ハッピーエンド/海辺のアルバム

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かつて自らの内に潜らせた「死」によって内部が震え続ける老人と、「死」をこの世界のルール以上に実感しない少女とが、欺瞞と偽善でつづれ織った「生」に身を隠すことで「死」すらも手なずけた風な顔をして行き交う世界に中指を立てようと、ある晴れた日の海辺で二人だけの蜂起をする。庭で大きな鳥が小さな鳥を屠るのを見た時のことをエヴ(フォンティーヌ・アルドゥアン)に話すジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)の意図が自然の摂理に関する説諭などではなかったのは言うまでもなく、13才の孫娘を介錯人に仕立てるその企みをグロテスクとするか合理のきらめきとするか、エヴがある手段によって震えの訪れを回避するであろうその術を見越してのことだったとするならば、その成就はともかくとしてエヴはその期待に応えることとなる。ハネケの新作ということ以外、たいした情報も入れずに観たものだから、かつてジョルジュが重病の妻を窒息死させたことをエヴに告白するくだりで思わずのけぞったのだけれど、ここでは『愛、アムール』で妻の名前だったアンヌを娘(イザベル・ユペール)に、同様に娘を演じたイザベル・ユペールの役名エヴァを孫娘エヴへと似せてみては、もう私に愛は無理だと崩れ落ちたジョルジュの過去を変奏することにより、この家が愛を決定的に失ったことで無関心と不寛容を呼び寄せたことを示唆してみせるのである。してみると、この家系の最新型としてあらかじめ愛を失った存在で現れるエヴはジョルジュの隔世遺伝とも言えるわけで、エヴが父トマ(マチュー・カソヴィッツ)に対し執拗に愛の不在を問い詰めるのは、自身にかけられた呪いに対する彼女の怒りと恨みの顕れでもあったのだろう。結局のところ近代的自我などというものは他者の下支えによる精神的植民地主義によって成立しているにすぎないというハネケの嫌悪と喝破は、スマートフォンのカメラフレームやPCディスプレイを現実からの逃避と忌避のシェルターと捉えることで、SNSがその閉鎖性と独善性を煽ることを最新の付帯事項としている。そして、旧弊なリテラシー世代であるトマがその秘密をあらかじめすべてがある世代のエヴにあっけなく突破される滑稽と哀しみは、アンファン・テリブルでもバッドシードでもないネットの水平性が産み落とす集合知の怪物のような世代に対するハネケの俯瞰がなされている証しでもあるにしろ、わたしのママを捨てたようにいずれこの人は同じことをするだろうと父親のクズを見抜きつつも「パパが遠い」と涙を流すエヴには、ハネケなりの希望が託されていたように思うのだ。ラストにおいてはっきりと提示されるエヴ&ジョルジュ組vsアンヌ&トマ組の構図は、世界に疑いを抱いてしまったものとそこに貪るように浸り切るものとのさらなる闘いを予感させるのだけれど、それが闘いであることを知らないものが勝てるはずなどないことをハネケはハッピーエンドと締めくくっているのだろう。この、寓話にハンドルを切らないまま現実の壁に激突する総体としてのメタファーが鹿殺しには決定的に欠けている。いつものえぐるように厭味な長回しは若干控えめで、工事現場の土砂崩れとピエール(フランツ・ロゴフスキ)が殴打されるシーンがサービスショット。土砂崩れはもちろんCGだろうけど(実写なら実写で狂ってる)、何てことはない日常のフレームがいきなり異化される瞬間はJホラーのアタックに近い。
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2018年03月22日

リメンバー・ミー/天国の入り口、地獄の出口

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ビバ!メヒコ、あるいはアステカフォーエバー!といった祝祭のうちに語るメメント・モリを脱「悲しき熱帯」として描くという意味では、期せずして『ブラックパンサー』と足並みが揃ったという気もしていて、民族主義的なメッセージのことさらな強調よりは圧倒的な意匠そのものをメッセージとする点でも共鳴していたように思うし、地球上の全人類をマーケットと見据えるディズニーにしてみれば至極当然とも言える分断の気配に対する横断の目配りということになるのだろう。したがってこれはあくまで内部的な(ミゲルの家族の)物語ということであって仮想敵も物語の要請として登場するに過ぎず、現実の乱反射でこちらを刺しに来るノイズも巧妙に取り除かれることもあり、ただただ極彩色の洪水に巻かれながらハッピーエンドへ向かって流されていく快感に身を任せていれば、幸福な観客として求められた役割を文句なく全うすることになる。とは言え劇場が明るくなってから考えてみれば現世と死者の国の関係などそれなりに引っかかるところはあるわけで、死者の国に入ることすら叶わない死者のことを思えば、これはあくまで、それはヘクターでさえ、幸福な死者の物語ということで線を引いて観るべきなのだろうし、極楽浄土や天国のように一度リセットされた先の平安とは根本が異なる点でも、新たな死生観としてワタシがそれを識ればいいだけの話に過ぎないのだろう。そしてそれは、おそらく「リメンバー・ミー」と「フォゲット・ミー・ノット」の違いのような気もするわけで、いずれもが死者の傲慢だとしても、あなたの外にあるわたしを想い出すように告げることと、あなたの内部にわたしを忘れずにいるよう願うことでは呪いのかかり方は異なるだろうし、死は表裏ではなく隣人であるというメメント・モリとしてワタシは腑に落ちたように思うのである。いずれにしろ、想い出してほしいことも忘れないでほしいことも今のところ持ち合わせていないワタシは、あちら側のどこにも行けないまま幽霊にもなれずに消えていくのだろうなあと思っている。アレブリヘのペピータは「エルマーのぼうけん」のりゅうみたいで、なれるならあれになりたいと思った。
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2018年03月19日

悪女 AKUJO/泣きなさい、殺しなさい

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ギミック感満載のFPSショットを名刺代わりに幕開けするものだから、完全にそういう飛ばし方で置き去りにされるのだと思っていたところが、あくまでアクションはドラマに隷属すべきであるというわきまえがエンジンブレーキとなった気もして、アクション畑出身の監督ほどそうやってことさらドラマを欲しがるのは何かしらのコンプレックスでもあるのだろうかと、『アトミック・ブロンド』でも感じた不要の疲労感を覚えてしまったのが正直なところで、スクヒ(キム・オクビン)とジュンサン(シン・ハギュン)が愛憎の果てに不倶戴天の敵として血と涙の肉体言語で綴っていくラブストーリーだけを力任せに凝縮してみるだけでよかったのではなかろうかと思ってしまうのは、アクションを繰り出すエクスキューズとしてのヒョンス(ソンジュン)やセオン(チョ・ウンジ)の定型がさほどの陰影もないまま平板に重なっていくドラマにつきあって行くのが段々と面倒な気分になってしまうからで、本筋のドラマがようやく浮上して来たときには少々待ちくたびれてしまっていたのである。スクヒの娘を文字通りの起爆剤にする容赦のなさも、ヒョンスも含めそこに至る書割りの幸せに終始する味気なさも手伝って絶望が針を振り切ったようには映らないし、寄る辺なき世界の光と影としてスクヒに対照されるべきセオンに至っては完全な無駄死にとしかいいようがない。アクションとドラマが互いの反動で共振しては叫び続けるグリーングラスのボーンや、アクションからの緻密な逆算でドラマを隷属させるトム・クルーズのMIが優雅に狂っていられるのはやはり強靭なシナリオあってのことなのだなとあらためて思ったし、スクヒとジュンサンの凝視と対峙が叩き起こす圧倒的に狂ったアクションの他に何も覚えていないにしては、やはり120分は少しばかり長すぎた。
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2018年03月17日

聖なる鹿殺し/セカイはご機嫌ななめ

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聞き分けの悪いスティーヴン(コリン・ファレル)に向かってある実演をしてみせた後で「これでわかった?メタファーだよ、象徴的だろ?」と噛んで含めるように諭すマーティン(バリー・コーガン)の言葉を借りるまでもなく、今作に限らずランティモス作品がメタファー地獄、メタファー上等、メタファー絶唱な語り口で成り立っているのは言わずもがなだけれども、マーティンのセリフは果たして監督の自虐なのか自嘲なのか、少々自家中毒気味であった『ロブスター』の反動にも思える聞きわけの良いメタファーに終始していたように思うのである。あなたの過失のせいでぼくは父親を失ったからその代わりにあなたが父親になってくれ、それができないならぼくの家族が1人損ねられたようにあなたの家族の誰か1人をあなたの手で損ねて欲しい、それができないなら1人が2人、2人が3人と全滅していくよという、脅しと言うよりは世界のバランスを回復することをマーティンは望んでいるに過ぎず、そういうぼくをつかまえて人殺しとか言うのはおかしな話でさ、どちらが人殺しかと言えばあきらかにあなたなんだけどね、と無表情にしかし澱みなく解説するマーティンのヒプノティックな口上や、エドワード・ホッパー的な彼岸の日差しで染め上げたミニマルやキューブリック的なシンメトリックによる不穏のつるべうちもあって、ならばいっそのこと『赤い影』のニューロティックホラーにでも振り切ってしまえばお互い楽になりそうなものを、あくまでも近代的自我の機能不全をドーナツの穴のように描く欧州伝統芸への忠誠と殉教を棄てるつもりはないのだなあと、このままでは行き先が限られてしまいはしないかと少しばかりやきもきしたし、不協和音だけをひたすら重ねているうちにいつしか協和音になってしまうアベコベを回避する上でもひしゃげたユーモアによるブレイクは必須だと思うのだけれど、デビュー作から前作、前作から今作と、その激突と流血のユーモアを手放しつつある点でもその懸念を増してしまう。過去作で成立させた、境界の完全で完璧な中央に立ってそれからどちらに倒れ込むか一切の予断を許さないラストも今作ではやや不発に終わった感もあるし、前述したメタフィクション的な開き直りなど見るにつけ、次作ではそろそろスタイルを変えてくるような気がしないでもない。崩壊したルーティーンのとしてのスパゲティは『こわれゆく女』『ガンモ』の系譜として秀逸。
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2018年03月15日

ダウンサイズ/天遠く、地に近く

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高校の同窓会でポール(マット・デイモン)が何とはなしに見やった壁に貼られたバナーの言葉が気になって調べてみたところが、"The door to happiness opens outward"(幸せへの扉は外に向かって開く)と "The best way to find yourself is to lose yourself in service to others"(自らをよく知るには、他人への奉仕にその身を捧げてみることだ)というそれぞれキルケゴールとガンジーが遺した言葉であったようで、結局のところ、常に挫折する男ポールが何とかハッピーエンドにたどりつけたのも成り行きとは言えこの言葉を実践したからということであったのと同時に、それは手を替え品を替えではあるもののドゥシャン(クリストフ・ヴァルツ)の生き方に通じていたのも言うまでもなく、地下の方舟へと消えていくアスビョルンセン博士(ロルフ・ラスゴード)率いるコミューンに向かって「ありゃカルトだろ?」と一顧だにしないのも、ポールのメンター足り得るドゥシャンにしてみれば至極当然な吐き棄てに過ぎないのだろう。これまでアメリカの真空地帯に放り出されては立ちつくす中年男を描いてきたアレクサンダー・ペインの筆はここでもにこやかに容赦なく、このポールという男の無邪気な茫洋は自分が途方に暮れているのかいないのかすら明らかにできないわけで、ドゥシャンのパーティーできらびやかな音と光と女性に見とれて呆けるその顔はノルウェーのコミューンで即席のラヴ&ピースに感化され夕陽をみつめて呆けるその顔と何ら変わりがなく、事ここに至っても夢を見たがるポールがようやく我に返ったのが地下の方舟にたどり着くには11時間歩かねばならないことを知らされた瞬間であったという勤勉な愚者としてのギリギリのチャームは、これまでになく突飛な設定とのバランスが要求したカリカチュアでもあったのだろう。その分だけ真顔で身につまされる瞬間を手放しがちであったとは言え、ノク・ラン・トラン(ホン・チャウ)のアンバランスをポールのバランスが包んでいく愛あるファックのまとう清潔な官能はそれゆえに成立したともいえるわけで、新たな話法を模索したアレクサンダー・ペインが首尾よくそれを獲得したと捉えるべきなのだろう。それによって『サイドウェイ』『ファミリー・ツリー』『ネブラスカ』と続いてきた、立ち尽くしていた中年男性が血相変えて走り出すシーンも手放してしまうのかなと思っていたところが最後の最後でやはりポールは走り出すわけで、幸福とは走りだす理由がある人生ことのであるという何だか知ったような口調で締めくくってしまいたくなるような、気がつけば独り言が鼻歌へと変わっているいつものアレクサンダー・ペインなのであった。
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2018年03月11日

15時17分、パリ行き/あなたが人生の物語

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1人の男が駅の中を列車に向かうオープニングで、これが3人の若者の物語であることを知っていればこそ、そのたった1人の思いつめた足どりに暴力の予感をしのばせつつ、一転した映画は、走り抜けていくオープンカーの座席で爽快な表情を風に流すスペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラーの3人をアンソニーのナレーションで紹介し始めて、この物語が回想のスタイルで語られることを告げた勢いで一気に3人の少年時代へ遡っていく。学校に呼び出されたスペンサーとアレクの母親が担任と面談する時間が午後3時15分であったことがまず曖昧な符合として頭に残りつつ、3人の子供時代が描かれる中で時折インサートされるフラッシュフォワードは10年後の列車内なわけで、回想の中の未来という時制の目眩ましによる全ては同時に起きているという軽い酩酊に、ああ、もしかしたらヘプタポッド語によって紡がれる時間はこうした感覚の先にあるのかもしれないなあと考えたりもしたのだ。仮にテロリストの銃で弾詰まりが起きずスペンサーが命を落としたとしても彼の時間は変わらずそこに在るわけで、3人がただ笑いふざけながら過ごすローマ、ヴェネチア、ミュンヘン、アムステルダムの旅が不思議なくらい光に溢れた時間であり続けるのも、それが生と死の円環につながった全体性を獲得していたからであったように思えてならないのである。イーストウッドがいったい何をどんな風に確信した上でこんな風変わりとも言える時制の編集をしたのか分からないけれど、列車内のあの瞬間を消失点としてフィクショナルに崇めることでこぼれ落ちてしまう時間への懺悔、すなわち過去と未来をスイッチバックしていくその振幅にこそ真に語られるべき物語があるのではなかろうかと、おそらくは『ハドソン川の奇跡』を撮ることで生まれた問いへの回答を自ら示して見せたように思ったのである。そうした意味で近年まれに見るイーストウッドのエゴが炸裂した映画に仕上がっていて、正直に言ってしまえばポストヒロイズムの論であるとかよりは『メッセージ』あるいは『シルビアのいる街で』を引いてしまう誘惑にかまけているだけでワタシは言うことなく充分なのであった。
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2018年03月08日

シェイプ・オブ・ウォーター/近ごろ溺れる夢を見ない

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※展開にふれています

「男ってやつは信用できないねえ」と、にやつくイライザ(サリー・ホーキンス)の理由を知ったゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)が彼女を茶化すシーンで、ゼルダがどれだけ深いイライザの理解者であったとしても、イライザの「彼」に対する感情がシンパシーを超えた性愛を伴う恋愛感情へ進展していたことに1ミクロンほどの戸惑いも見せなかったゼルダに対し、さてゼルダにとっての「彼」の異形が溶かされるシーンがどこかにあっただろうかと逆に戸惑ってしまったのである。そこで気を取り直して、といっても既に終盤へと駆け込むあたりだったのだけれど、ああこれはどこかにB.R.P.D.(超常現象捜査防衛局)があるアメリカの物語なのだろう、だからネコを助けたヘルボーイの異形に腰を抜かすよりは拍手をするように、クリーチャーをひとつの人種として鼻先でシャッターを下ろしてしまったりはしない世界なのだ、とデル・トロが精緻に創り上げた箱庭の中に最初からいたことにようやく気がついたのである。その洗練された変奏と人間たちが手前で動き回るステージングに目眩ましされてはいたものの、アール・デコにスチームパンクをかけ合わせた美術も、切ない異種愛も、そしてはたまた水の中の青い人も、かつて心奪われたデル・トロの刻印にあまりにも間近で埋もれていたせいで、ずっと地上からつま先が浮いたままの遠近を見渡せていなかったのだろう。それは言ってしまえば、感情もあらかじめそのB.R.P.D.世界の仕様にデザインされていたということで、だからこそイライザが「彼」とセックスすることにゼルダが動じるはずなどないに決まっているのだ。となれば、エイブとヌアラの悲恋を繰り返すはずのないデル・トロだからこそ、イライザと「彼」の道行きもジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)の仄暗い夢想のとおりハッピーエンドで問題があるはずなどなく、むしろワタシはもう一人のモンスターであるストリックランド(マイケル・シャノン)の仁王立ちする憂鬱に気を取られ胸がざわつくばかりだったのである。1950年代のゴールデンエイジから冷戦期へ突入したアメリカを覆う、ベトナム戦争前夜の暗い影が産み落としたストリックランドは、マチズモの敗残兵でありサバービアの亡霊というウィリー・ローマンの怨念に突き動かされているわけで、美しい妻に可愛らしい子供が微笑むモダンな我が家にはもはや自分の黒く腐った屈託がいる場所などないのだと傷物のキャディラックの運転席にひとり沈み込む彼もまた、イライザやゼルダ、ジャイルズ、ホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)と同様にYou'll never knowな一人だったということになるのだろう。すべてが終わった後で(陸の上の)イライザ、ストリックランド、ホフステトラー博士は命を落とし、ゼルダはおそらく夫を棄て、ジャイルズは最良の隣人と最高の理解者を同時に失い、1人の未亡人と2人の父なし子が残されることになるわけで、生き残った者たちは皆さらなるYou'll never knowと向き合うことを余儀なくされることになり、果たして死は払うべき代償なのか、手に入れた解放なのか、慈悲なのか無慈悲なのか、その成就のためには血の酷薄を厭わないデル・トロの愛が実は畏しいまなざしに捉えられていることを久々に思い知らされた気がしたのである。こうして手癖の極北に到達した後で、これからいったいどこへ向かうのかいささか不安ではあるけれど。
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2018年03月06日

ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ/寝る子は育てる

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「だったらどうしてアメリカに来たんだよ」と、パキスタン式に生きることを譲らない両親に向かってクメイル(クメイル・ナンジアニ)は決定的な一言を吐いてしまうのだけれど、おそらくそれを言った瞬間クメイルは、その言葉がブーメランのように自分に突き刺さったことを自覚したに違いなく、彼にとってのビッグ・シックとも言えるその淵からはい上がるための通過儀礼はアメリカ映画の王道ともいえるわけで、今となっては笑い話だけどね、とそれぞれがくぐり抜けた死にそうな日々を笑い飛ばしてみせる点でコメディの体裁はまとっているものの、人種や文化の壁をブレイクしていく物語を非白人の視点で描くことを可能にした新鮮さに、こうした問題を語ることの成熟と新たな可能性を同時に感じたように思ったのである。エミリー(ゾーイ・カザン)が自分との関係をその別れにいたるまで、喜びも悲しみもふくめ自分の両親に話していたことは初対面の母ベス(ホリー・ハンター)が全てを知っていたことにうかがえて、エミリーのことを両親に隠したままでいたクメイルと対照的な関係であることが知らされると同時に、エミリーの母ベスと父テリー(レイ・ロマーノ)の結婚が必ずしも周囲に祝福されたわけではなかったことを、昏睡するエミリーを看病する日々を通した夫婦との交流でクメイルは知っていくわけで、移民として生きることの格差や偏見を当然のこととして、それを上手くやり過ごすのがスマートな処世術であるかのようにふるまうクメイルが、夫婦のてらいのないそれゆえ山も谷もあるあけすけな関係にこそアメリカに来た理由を再発見していく姿は、アメリカという国へのささやかなラブレターのように思えてくるのだ。とは言えそんな風に行って帰ってくる典型の物語がどうしてこうも息を弾ませ続けるのか、それはクメイルを取り巻く人々がお見合い相手の一人に至るまで、生きている人の証としてそれぞれの揺らぎを丁寧に描いているからであって、ドライブスルーのハンバーガーショップの店員ですらが見過ごせない佇まいでクメイルとすれ違ってみせるのである。とりわけエミリーの両親と過ごす時間の中で、クメイルは誰もがそれぞれの物語を持っていてそれが人と人とを結びつけることにあらためて気づかされていくわけで、NYに旅立つ日に父親に別れを告げるシーンのある会話によって、かつて両親も自分と同じ時間を過ごしたであろうことに想いを馳せては新たな記憶を内にとどめ、それを自分の物語に書き込んでいくのである。様々な問題をメタファーや寓話に投影する物語のマクロ的な機能性は日々洗練されていくけれど、あくまでそれは、誰もが持っている物語をミクロ的な直截で語ることで生まれる溌剌な息づかいが片方にあってのことだなあと、朝風呂にでも入ったように頭も身体も目が覚めた気分になったのであった。クメイルにはあえて冴えないをギャグあてがい、それをホリー・ハンターとレイ・ロマーノの夫婦漫才が蹴散らしていくシナリオの妙といい、オスカーノミニーを惹句にした都合とは言え、この時期の激戦区に埋もれさせてしまうのは本当にもったいないなと思う。
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2018年03月05日

ブラックパンサー/速く正しく騒がしく


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ああ、1992年から始まるんだと軽く肩透かしをくらってはみたものの、ほどなく登場するエリック・キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)の黒と青のいでたちや、遠目にはベレー帽でもかぶっているように見えないこともないその髪型に60年代ブラックパンサー党の投影を嗅ぐことはやぶさかではないし、10項目の党綱領の10番目「我々は、土地、パン、教育、住宅、衣服、正義、平和を欲する(We want land, bread, housing, education, clothing, justice and peace.)」が実現された理想郷こそがワカンガであったのは言うまでもない。ヴィランであったはずのエリックがティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)の腕の中で最期を看取られるのは、彼の存在に象徴されるかつて必要とされた思想と行動が役目を終えたことへの敬意であったのだろうし、ティ・チャラの2度目のハーブ巡礼で父である前国王を烈しく糾弾するのも、自らの手で引き起こすパラダイムシフトの激震へと向かう彼にとって必要な父殺しの儀式ということになるのだろう。この映画が手を伸ばしているのは、黒人の、黒人による黒人のための幸福の追求は可能だけれど、それが生み出す壁に激突死する世界の光景を絶やせないうちはその幸福を真に享受しているとは言えないのだというそれは、博愛というよりは不可知の合理性とでもいう新たな実験精神の提示であって、その象徴として知性を蛮性のエンジンとし蛮性で知性をクルーズするシュリ(レティーシャ・ライト)こそが、実はこの映画の主役だったのではなかろうかとワタシは思っている。したがってティ・チャラとエリックの煮え切らないそれよりは、過去や歴史の囚人として登場するエリックを完全に殺しにかかるシュリとのバトルにこそ昂奮したのも当然ということになるし、ポストクレジット・シーンで「知らなきゃならないことがあなたにはたくさんあるわ」とバッキーにささやく彼女の清冽とたおやかさこそがワタシは忘れがたいのだ。この映画にエラーがあったとすれば、ブラックパンサー=ティ・チャラの通過儀礼と覚醒のスピードが映画の確信に追いついていなかったことで、『クリード』でも顕著だった理詰めで可能性を拡げたり潰したりしていくアクションの愉悦に決定的に欠けるという点でも、ティ・チャラのパートにおける停滞を誘っていたように思うのである。それだけに新しい人としてのシュリが纏うリズムとスピードとまなざしが革新として映るわけで、将来的に彼女が自作のパワードスーツに身を包んだとしてもまったく驚かないし、むしろそうなって欲しいと願っている。
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2018年03月01日

The Beguiled /ビガイルド 欲望のめざめ〜誰も寝てはならぬ

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冒頭、シーゲル版ではエイミーに助けられたマクバニーが森で南軍の追っ手をやり過ごすシーンで、エイミーが彼らに声をかけないよう12才の少女の口にキスをして塞いでしまうのだけれど、年の離れた若い女性との恋愛というイーストウッド作品の潜在的なモチーフの萌芽としてはともかく、マクバニーという男が生き残るためには手段を選ばない男だということを一瞬で伝えることで ”The Beguiled” というタイトルの意図するところを早々に念押ししてみせている。続く劇中でも、マクバニーが女性達に自分は厭戦の者であって戦争の犠牲者なのだと告げるたび、それを打ち消すような彼の戦場での姿がフラッシュバックでインサートされ、彼の策略が進行していることによって発生するサスペンスを醸造していく。そうしたシーゲル版はあくまで男性視点による状況の解釈であるとしてソフィア・コッポラは新たな視点から解題していくわけで、前述したエイミーへのキスも真のマクバニーのフラッシュバックも見当たらないのは、必要なのはマクバニー(コリン・ファレル)の表層であって彼にビガイルドされたかどうかは問題ではないという解釈によっているからなのだろう。従って、女性達がマクバニーに懐柔される弱みとなりそうな要素はシーゲル版からきれいに取り除かれていて、校長マーサ(ニコール・キッドマン)は実兄との近親相姦の過去をオブセッションとはしていないし、エドウィナ(キルスティン・ダンスト)はマーサの庇護に依存するおぼこではなく、ここから出ていきたいという意志を早々に明らかにしてさえいる。それに加えて、南北戦争という背景を立体的にする役目を背負っていた黒人の召使いハリーまで取り除くことで、学園内の無垢と欺瞞という二重性すら消し去ってしまっている。そうやってマクバニーを根っからの悪人というわけではなく戦争という状況の生んだアクシデントの王子とすることで、自分たちは必ずしも一方的に籠絡されたわけではないのだという視点を獲得することを目指したことを否定はしないけれど、それによって肉体の蒸気と舌なめずりの目つきが館内に立ちこめる精神的肉弾戦のサスペンスがきれいにデオドラントされてしまった点で、特にシーゲル版の鑑賞者にとっては死とセックスという不可分が分断され去勢されてしまった後退のみが目についてならなかったのである。そして最期の毒キノコに至る様々な伏線も解除してしまうことで、互いをビガイルドしつつ絡まり合っていくはずのラストが、たった一度女性達が繰り出したビガイルドによって男性を打ち負かすという構図へと収束というよりは収縮してしまい、シーゲル版の101分に足りない8分間はただひたすら目をつぶりたかっただけの時間に思えてしまうのだ。そうやって切断のシークエンスですらが丸々オミットされる代わりに、エドウィナのドレスからはじけ飛ぶボタンは嬉々として追ってみせるわけで、手が汚れるのが嫌ならば手袋をするか何も触らなければいいのにと思ってしまうのだけれど、その手袋の繊細で美しい意匠を見せつけたかったのならばそれはそれで致し方ないのだろう。それにしても「欲望のめざめ」とかいうサブタイトルをソフィア・コッポラは知ってるんだろうか。
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2018年02月27日

早春/クール・イン・ザ・プール

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およそ映画が折り返す頃、客としてマイク(ジョン・モルダー・ブラウン)を訪ねてきた元同級生キャシーからことづかったチップをくすねたスーザン(ジェーン・アッシャー)が、それで買ったであろうコーヒーフロートのアイスクリームをなめながら、いつものように会計係(エリカ・ベール)をからかうべく通路をふらふらと現れた時、その背後にやおら現れたペンキ塗りが緑の壁を真っ赤なペンキで塗り始め、オープニングで滴らせた血の色を忘れていなかった向きへはお待ちかね、忘れてしまっていた向きにはお忘れなく、とばかり、この映画が今際の際に血を流すことをいささか得意気に予告してみせる。かつて『出発』において青春を殺すのはセックスであることを告げたスコリモフスキが、ここではより直接的な変奏によって思春のネクロフィリア絶唱を幻視することで、その罪と罰を永遠に猶予し続けるためにこの映画があることをあらためて告げてみせるのである。しかし、そのモラトリアムの水中をマイクと共に永遠に漂い続けるスーザンの罪は思春を弄び屠ったゆえなのかと考えてみれば、彼女は男たちの欺瞞と傲慢を知り尽くすことで逆襲的に生きる術を実践していたとも言えるわけで、体育教師(カール・マイケル・フォーグラー)を完膚無きまでに袈裟斬りする啖呵こそが彼女の本質であったのと同時に、ダイヤモンドを取り戻した後で立ち去ることも出来たにも関わらず、優しく身を横たえてマイクを抱きしめたのも彼女の本質だったのだろうし、ある一人の女性が時代の進取として持ち得たその振幅の烈しさゆえ彼女は綱渡りから転落したとも言えるように思うのだ。最初のうちは、背伸びして大人びた振る舞いをすればするほど子供じみてしまう滑稽と哀しみでマイクを慈しんでいればよかったところが、スーザンにペットとして翻弄され続けてノーガードの脳が揺れ続けることでいつしか少年の動物が大人の理性を足蹴にし始め、しかし有効な手管を持たない幼さゆえ檻の中をうろうろと行ったり来たりする動物のようにただやみくもな反復に感情をぶつけるしかないまま、スーザンと婚約者をクラブまでつけ回すシークエンスでは、なすすべもない焦燥で同じ建物へ出たり入ったりドアの開け閉めを繰り返し、あげくにそのループの中で同じ屋台のホットドッグを6個食べる羽目になるスラップスティックは、その先の地下鉄での狼藉によって既にマイクが子供でも大人でもないアウトサイダーと化したことを告げたあげく、深夜のプールにおけるネクロフィリアの予行演習へと歩を進めることとなる。さらに続く、自分がドロップアウトした学校のマラソンレースへの乱入からスーザンの婚約指輪のダイヤモンド紛失騒ぎの中、ほとんどブラウン運動的な躁病で転げ回るマイクが駐車場を走り抜けるシーンで、それが演出なのかアドリブなのか、特にそうしなければそこを通れないわけでもない停められた車の開いたドアを走りながらジャンプして蹴りつける後ろ姿の、社会性の未熟な回路がついに焼き切れたことによる解放の血走った高揚を見て、白も黒もグレーも知らぬ15才の狂気が混じり気の無い分だけなおさらグロテスクに思えて仕方なかったのである。それだけに、絶望的な未遂で一敗地に塗れたマイクが虚ろな目で「ママ...」と絞り出した瞬間、既にカタストロフの秒読みは開始されていたのだろうし、もはや青春の不発と言うよりは男性の不発とも言うべき女性不信のオブセッションはこの後『ザ・シャウト』や『ムーンライティング』でも主人公を蝕んで崩壊に導いていくことになるわけで、15才の少年をその鋭角で思い切り殴りつけて永遠に春を奪ったその物語に『早春』と名づける地獄のセンスにあらためて戦慄する。
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2018年02月23日

羊の木/船の上ならおれが強いぜ

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原作既読。最低限の外枠だけで、登場人物および展開、結末などほとんどが脚色されている。ワタシたちがそうであるように、人殺したちにも唯物やら唯心やら腹の中の黒さやら白さやらグレーやら様々な濃淡の質があるだろうと考えてみた時、では人殺したちが日常で無作為に出くわしたなら、いったいどのような彼らなりの「社会性」が生まれるのか、そしてそれはその本性においてワタシたちとどうすれ違うのかという実験を娑婆の箱庭で行ったのが山上たつひこの醒めたグロテスクであり、そのあけすけによって暴力の気分が全体に均されていく群像劇がたどりついた、日々にかけられる薄暗い呪いによる諦念こそがワタシたちの本性なのだろうと思ったのである。というのはあくまで原作の話であって、ここでは宮腰(松田龍平)に向こう側の人間を代表させるために彼と同世代に若返らせた月末(錦戸亮)と対照させているのだけれど、それが『桐島、部活やめるってよ』での桐島と菊池、『紙の月』での梨花と隅といった、圧倒的に異化された他者への捻れた愛憎の構図にもみてとれるがゆえ、最終的には怪物の断末魔と共に手持ちの理解に収めてしまう几帳面さは『紙の月』でも感じたもどかしさでもあったのだけれど、その奥底で決定的に変質した日常にたゆたう倦怠で閉じるラストにおいて、前述した原作のかざした呪いと諦念へと手を伸ばしたようには思ったのだ。月末との対照によってあらかじめ壊れたものの哀しみをフォーカスすることで、見てはならぬ神様として畏怖される「のろろ様」に忌避される自分を重ねたのかもしれない宮腰の行く末は結果的に共同体へのあらたな呪いを更新することになりはしたものの、それよりは、お前らのように人を殺さずに生きていける人たちの断罪にしたがって罪は贖ってみたところで結局オレはオレでしかなかったよ、だから本当にオレが罪深いのかどうかお前らの神様に決めてもらおうじゃないか、と「のろろ様」に神託を乞うたと考えた方が、善悪問答の果ての無力感よりは変形のピカレスクとして退廃が深まるように思ったりもした。そのあたりの振り切れなさを先ほど几帳面としたわけで、いっそのこと宮腰が月末にとってのタイラー・ダーデンとなってもワタシはかまわなかったのだ。のろろ祭りは『ノロイ』の鬼祭以来の説得力を持つ奇祭描写だったこともあって、ならばもう少し原作寄りに装置として機能させればいいのにともったいなく思った。あのバンドでPILを引用したらキース・レヴィンにぶん殴られると思う。エヴリマンとしての錦戸亮のなで肩はとても虚ろで良いのだけれど、通じないものとしての松田龍平はそろそろお腹いっぱいな気がしないでもない。
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2018年02月21日

ぼくの名前はズッキーニ/きみの話をしよう

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「子供に意志なんてない」カミーユの叔母さんのこの捨てゼリフこそが、フォンテーヌ園の子供たちのみならず、愛されることをあきらめきれないすべての子供達に涙を流させているのだろう。だからこそ、大人たちがその意志を見誤り見過ごすことのないよう人形たちの目は大きく訴えかけるようこちらを見つめてくるのだろうし、それは子供たちの正面から話しかける大人たちとそれをしない大人たちという構図によってワタシたちへの問いかけとなっていたのではなかろうか。スキー場の夜にポール先生がDJをして子供たちと踊りまくるシーンの、子供も大人も一緒になって同じ愉しみに身を任せる姿にこそ胸が揺さぶられるわけで、何よりこれが子どもたちへの共感や憐憫を免罪符にするのではなく、大人たちが水平な視線と公平な愛情を自然で当たり前に持つことがどんな風に可能かを伝える映画であったからこそ、子供たちだけがひそやかに交わす優しさと強さを知ってそれに応える術をあなたは持ち得るかと突きつけられた気がしたのだ。おかあさんは空にいるというズッキーニのその口からこぼれ出る、僕はおかあさんを殺したという言葉の重たさや、どれだけ強がってみせようと眠った姿で親指を口にくわてしまう壊れものとしてのシモン、迎えに来たおかあさんに対するベアトリスの行動は、フォンテーヌ園で過ごしたことでおかあさんだけではいかんともし難い何かおそろしい(人種差別の)圧力が外の世界にあることを知ってしまったがゆえの拒絶だったのだろうし、そうやって子どもたちはワタシたちがそうであるように世界の二重性をかいくぐりながら生きているわけで、それは「子供に意志なんてない」という冒頭の言葉がいかに残酷で犯罪的であるかということの実証にほかならない。あなたが生きていて哀しいように子供たちも哀しいのだ、あなたが生きていて苦しいように子供たちも苦しいのだ、あなたが生きていてやりきれないように子供たちもやりきれないのだ、体が小さいからといってそういう気持ちが小さく取るに足らないことなどないのだ、とわずか1時間ほどのフィルムがどれだけ精一杯に語り続けたことか。この映画を観る子供たちはズッキーニとカミーユの希望を、大人たちはそれを見届けたシモンが自ら門を閉める孤独をそれぞれが我がものとしつつ、大人たちは子どもたちという存在の独立を知るために自らの独立を確かめ試されることになるのだろう。「凧を揚げてもいいぞ」とワタシも言えるように。
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2018年02月19日

ダークタワー/ぼくとクリスティーンとオーバールックホテルで

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角川版(第4部まで)のみ既読。言いたいことがいろいろ湧いてくるかなあと思いきや、わりとそうでもない。本来であれば『ロード・オブ・ザ・リング』レヴェルのプロダクションが投入されて然るべき、というかそうでもしなければ描ききれないキング畢生のハイ・ファンタジーではあるのだけれど、既に邦題からナカグロすらが抜けてしまっているように、こちらから何かお願いするなどもってのほかではありますが、一つだけ無礼をお許しいただけるのであれば、紛い物ではございませんが似て非なるものとしてご鑑賞いただければ幸いですというただそれだけをお伝えさせていただきたく存じます、という平身低頭を足蹴にするには親の躾が効きすぎているのであった。ナカグロがないどころか、そもそも尺が95分しかないなどとこれだけの白旗を掲げられれば誤射のしようもないわけだし、この1時間半を暗闇で共に過ごすことによってストックホルム症候群にも似た共感と好感に包まれていたことをワタシは否定しないのである。黒衣の男ウォルター(マシュー・マコノヒー)をフック船長、ガンスリンガーであるローランド(イドリス・エルバ)をピーター・パン、中間世界をネヴァーランドと夢想することで孤独な少年ジェイク(トム・テイラー)の喪失と再生と描いてみせたどころか、ローランドもまた父を喪った者であることを忘れなければ、ジェイクとローランドが父となり父とすることで父性が世界を更新する光差すキングの王道にすら手が届いていたのを忘れるべきではないだろう。しかもこの物語では中間世界をさまようジェイクが当たり前のように腹を空かせたあげく、その空腹を満たすシーンがきちんと描かれているのである。劇中で食物を摂るシーンが一切ないままアドレナリン全開で疾走し続けるでたらめな映画が溢れていることを考えてみれば、この誠実は賞賛されて然るべきだし、NYでジェイクがガンスリンガーにホットドッグを食べさせる対称まで描く周到には舌を巻く。いや、巻かないけれどどこかで巻かないことには映画が終わってしまうのである。何しろ95分しかないわけで、マイケル・ベイならジェイクはまだカウンセリングを受けている時間にちがいない。
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2018年02月18日

霊的ボルシェヴィキ/さあ、ご一緒に

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「結局一番怖いのは人間ってことなんじゃないんですか?」などと、したり顔で言い放った安藤(巴山祐樹)の額を鬼の形相の霊媒師宮路澄子(長宗我部陽子)がステッキで打擲した瞬間、「結局一番怖いのは死んだ人間ってことなんじゃないんですか?」と無言のうちに正された空気に、そうだったそうだった「幽霊は狂っているから怖い(黒沢清談)」んだった、そして人を狂わせるほどに死は怖ろしい(黒沢清談)のであって、幕開けの三田(伊藤洋三郎)の話はまさに生きたまま死の扉を開けたことのある人間が自らの死に恐怖する話であったことにあらためて戦慄したのである。それから後、この廃工場で何が行われて何が起きたのか、それこそは霊的ボルシェヴィキ、生きた人間にとっては狂気、しかしその成分は純然たる宇宙的全体の上澄みであり、それを絞り出すべく奮闘する唯物論的セクトの前衛ではあったものの、結局は幾多の先達が失敗したように生きている人間は死んだ人間の軍門に下るしかないという幽霊連勝記録がまた一つ伸ばされたのであった。しかしそれこそは人間のなすべき営為といってもよく、メメン・トモリ、死を想うことこそがすべての想像力の源となることを告げては、四角四面な喜怒哀楽のアウトサイダーたる恐怖こそがこの世の原資であることをあらためて謳ってみせるのである。顔を上げ振り向く瞬時に日が沈み、すり足で近寄る裸足の爪先は禁忌に震え、地底の哄笑が骨伝導で脳髄を揺らす。そうした濃密で超然とした太古の時間に間断なく浸けられた彼や彼女らが、死者に圧倒され屈服し生きている自分に絶望するのは自明の理であり、ならば我ら全員の総量と引き換えにこの世界を恐怖で照らし給えと願い、叶えられた祈りが裸足の子をひとり放つのであった。災厄であり救済であるその子に名前はまだないけれど、名状しがたき者というそれが名前になるはずである。『予兆 散歩する侵略者』で、椅子に座った東出昌大と夏帆がひりつく緊張と静寂に窒息しそうな空間の中で対峙する名シーン、そのオリジンはこちらであろう。待ち望んだ『悪夢探偵2』の韓ちゃん再びでワタシはたいへんに喜ばしい。
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2018年02月15日

THE PROMISE 君への誓い/ある放蕩息子の墓碑銘

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トルコ政府によるアルメニア人虐殺の歴史を訴えかける映画というとアトム・エゴヤン『アララトの聖母』を思い出したりはするものの、その虐殺にアルメニアとオスマン帝国との錯綜し愛憎渦巻く歴史を反映させるには映画の時間が舌足らずにならざるをえず、代弁者としてあらかじめデザインされた人物の投入で語られるドラマがややもすれば紋切り型に陥るのは仕方がないところなのだろう。今作においても、アルメニア人サイドにすれば今さら言うまでもないにしろ、虐殺が開始されるメカニズムは検証というよりも既に事実として描かれることもあり、何らかの形でドイツが関与しているのだろうなという類推こそしても、なぜ彼らが突然迫害され強制移住の道筋をたどるのか、残酷ショウに顔をしかめさせる上滑りの共感ではなくその痛みに寄り添って歩を進めるには、そこに駆け寄るための時間や手続きがいささか簡略化されてしまっていたように思うのだ。そこでその補助線として投入されるのがミカエル(オスカー・アイザック)、アナ(シャルロット・ルボン)、マイヤーズ(クリスチャン・ベイル)によるラブストーリーということになるのだけれど、本来がそうした装置でしかないだけに、なぜ彼でなければならないのか、なぜ彼女でなければならないのか、という交錯に今ひとつ陰影が乗らない三角関係よりは、トルコ人富裕層の子弟でありながら、軍隊とかマジでダサすぎだろ、というノンシャランを貫いたエムレ(マーワン・ケンザリ)に全力で共感と賛辞を送ってしまうし、自分がいま生きていることのすべてがエムレの死によっていることなど知るよしもないまま、愛した女を失って涙にくれるマイヤーズの脳天気に『アルゴ』におけるイラン人家政婦のことなど思い出し、ほんとアメリカ人ってやつは…、と鼻白んだのだった。それに加えて、イスタンブールに着いてアナを見た瞬間、君への誓い(THE PROMISE)をころっと忘れ去るミカエルの変わり身も実はそれなりにノイズとなって貼りついたまま、情に厚いプラグマティストという使い勝手の良い八方美人的な造型にオスカー・アイザックも空回り気味だったように思えてしまう。映画の体裁をかなぐり捨ててまで糾弾と断罪の刃で刺し違えることを選んだ『デトロイト』を観た後では、そうした時代であったとは言えこの漂泊のメロドラマは少しばかりクラッシーに過ぎて語り手が満ち足りていやしまいか。
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2018年02月14日

RAW〜少女のめざめ〜/ミート・イズ・ノット・マーダー

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真っ赤な”RAW”というタイトルをハネケやノエがそうするようにスクリーンへと貼りつけた時点では、実存がオブセッションを甘噛みするフェティッシュ殺伐を思ったりもしたのだけれど、それよりは塚本晋也的な精神と肉体の変容を思春のかぐわしい徴とでもするように上気した足取りが途切れることのないまま、しかしインモラルへの集中と凝視にもかかわらずジュスティーヌ(ギャランス・マリリエ)に終始疎外感がつきまとうことがないのは、これが彼女の羽化を見守る物語だったからなのだろうとラストで吹き抜けた風の存外の颯爽に彼女ならずとも心健やかな気分だったのである。「姉さんは悪くない。おまえも悪くない。」という父(ローラン・リュカ)の言葉に、うつむいた顔をあげたジュスティーヌの目に飛びこんだのは何だったか。いまだ色気よりは食い気が優るジュスティーヌに、お前がこれからするべきことは「私」を探すことだ、お前がアドリアン(ラバ・ナイト・ウフェラ)に答えた「深刻さ」の答えがこれなのだ、食ってばかりのうちはまだいい、やがてそれは理解と共鳴を求めるようになるし、それを愛と呼ぶとすればお前は目の前のこの愛の姿に臆してはいけないしそうする必要もない、お前がするべきことは「私という愛」を探すことだ、姉さんが不幸だったとすればそれは「私」がいなかったことなのだ、という父親の鼓舞がアウトサイダーの涙をそっとぬぐうわけで、あるシーンでジュスティーヌが「深刻な」失敗として食いちぎってしまう部位とラストでカメラが指差す父親の欠損を結びつけてみれば、母と父が自らの運命的なロマンス再びとあえてジュスティーヌの発現を促すような環境に放り込んだ切実といってもいい目論見がうかがえるようにも思う。劇中では語られないながら父はいかにして母の昏くて熱い欲望を手なづけているのか、いまだ母のイゴールとして仕えているのではなかろうかという想像すら可能な血族の物語によって、たとえば『ワイルド わたしの中の獣』のように世界のくびきを離れ幻想の荒野へと消えていくことを許さないリアルがこの姉妹の青春を甘く切ない苦痛で締めつけて、監督の誠実ゆえに避けがたい悪意をとても好ましく感じたし、切り落とされた指を拾って食べるジュスティーヌを見つめる姉アレックス(エラ・ルンプフ)が流す、やっぱりあんたもか、という安堵と哀しみの入り混じった涙のたった一滴で映画の血液を逆流させるメロウとクールネスに、できれば監督には流血する精神だけを撮り続けて欲しいと願わずにはいられなかったのである。その指を食べるシーンでパーカーのフードをかぶったまま下を向いてしまい、ずっとそのままでいた六本木の彼女は大丈夫だっただろうか。もう「食べる」シーンはないよと言ってあげられればよかったのだけど。「食べちゃった後」はともかくとして。
posted by orr_dg at 03:11 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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