2019年10月10日

ジョーカー JOKER/The King of Remedy

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確かにジョーカー・ライジングな物語ではあったけれど、これはアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)という男がジョーカーへ変貌していくその道程というよりは、ゴッサムシティにジョーカーという呪いがかかるにいたったその顛末を記した覚書のように思える。そうしてみた時、アーサーとブルースの年齢差やウェイン夫妻を手にかけた男の予兆のようなマスクも腑に落ちる気がしたし、その生い立ちに始まり次々に外部からもたらされる不幸によって追い込まれていくアーサーの「わかりやすさ」も、オリジンは往々にして単純で素朴であるということの裏書きであったようにも思うのだ。映画の終盤、カメラは「BLOW OUT(ミッドナイト・クロス)」の文字を映画館のサインボードにとらえていて、これが1981年の出来事であったことを密やかに、だがこれみよがしに示している。この時期のニューヨークはといえば、のちにジュリアーニが牛舎の大掃除を行う以前のニューヨーク・バビロン期における犯罪発生件数が天井をついた時代でもあり、劇中のゴミ収集ストライキもクリスマスを控えた12月に17日間にわたって行われてもいる(ストライキは明日で18日目に突入します、という劇中冒頭のニュース音声はそれを受けてのことだろう)。アメリカ全土ということで言えば、カーターを蹴落としてレーガンが新大統領となり、富裕層や大企業の優遇につながる経済政策によって富の集中が加速するそのスタートの年であったということになる。そうしてみると、アーサーが地下鉄で屠ったあの3人は80年代半ばに登場するヤッピーの萌芽と捉えることも可能だろうし、レーガンが銃で撃たれた暗殺未遂事件がこの年であったことを思い出してみれば、アーサーが初めて外側の世界とコンタクトし波長を合わせたそのツールが銃であったこともまた象徴的に思えてくる。まるでノーメイクでエレファントマンを演じるかのようにアーサー・フレックという男の凄惨なメランコリーに憑依するホアキン・フェニックスに心を奪われて、彼の履く靴が最初のドタ靴から次第に軽やかになっていき最後にはあの一足となったことは彼にとっての解放であったように映りはするし、右手に持ったナースコールを押さなかった母ペニー(フランセス・コンロイ)は贖罪としてその死を受け入れたようにも思ってみれば、ホアキン・フェニックスが演じたのはあくまでジョーカーの呪いに捧げられた生贄としてのアーサー・フレックであったのだろうという気がしてならない。したがって、せいぜいが「善悪は主観に過ぎない」などといった凡庸な論をふりかざしつつ、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に善悪問答を挑むことなく射殺してしまうアーサーにジョーカーの萌芽が見てとれないのは仕方のないところではあるにしろ、ニューヨークの片隅であがくように暮らす一人の男の銃と病気と欠乏の三題噺もまたアメリカの神話であることをトッド・フィリップスは記していたように思うのだ。果たしてアーサー・フレックのジョークを笑っていいのか悪いのか、そんなことを想ういとまもないままただひたすら大勢の人々がこの物語を受け入れているこの世の中こそゴッサムシティそのものであることが、彼が最後にうそぶいたジョークのパンチラインだったにちがいない。
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2019年10月03日

アド・アストラ/父よ、父よ!

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ロイ・マクブライド(ブラッド・ピット)が、少佐(=Major)、と呼ばれるたびにメイジャー・トムの残像がゆらいだ気がしたし、実際のところ「笑顔ですべてを見せない」「宇宙は理解できる」とうそぶくロイはメイジャー・トムのごとく宇宙の唯一性に神性を見た殉教者であって、月へのシャトルロケットのパンナム感皆無の不自由さや、中東の紛争地帯のような車列襲撃、火星の入国管理室の弛緩した殺風景は、宇宙を自身のサイズに矮小化していく人間の無様に対する殉教者の嫌悪と忌避の顕れにも思え、ケフェウス号のクルーに対するロイの独白は言葉によるその証左となっている。結果としてロイは、父クリフォード(トミー・リー・ジョーンズ)と同様にクルー殺しをすることで同じ罪を背負うこととなるわけで(「父の罪を子が負うのか」)、父の道程を追体験するようにたった一人で深宇宙への旅を続けるロイをむしばむ宇宙の絶対性は一人遊びとしての孤独など一顧だにすることなく、お前の存在に何か意味でもあるかとほんの一瞬でも思ったか?ならばこれでもくれてやろうと孤独という死に到る病を注入していくのである。そしてついに海王星で対峙した父マクブライドが見つけたのも、この宇宙には私たちしかいない、生きているのは私たちだけだという、人類の孤独を想えという答えに過ぎなかったわけで、これは星をめざした者(”ad astra=to the stars”)たちの終焉、言い換えてみれば永らくワタシたちを支配してきたスペイス・オディティ幻想の終焉を告げたようにも思え、その体現者であった父マクブライドの退場を見届けたロイがなりふりかまわぬ姿で孤独からの脱出に必死となり、冒頭と円環するように地上に落下した後で、差し出された手に自らの手を差し伸べるショットによってそれは決定的となるも、疎外された者としてのアウトサイダーの帰還とその叶わぬ夢を描いてきたこの監督にあっては、宇宙で孤独の本質を知ってしまった男が求める共感に潜む静かな破滅の香りを、イヴ(リヴ・タイラー)を待つロイの笑顔に漂わせた気もしたのである。俺はいま途方に暮れているが、俺の暮れている途方を君たちが知ったら生きていることを続けようと思うだろうか、というロイのメランコリーと「笑顔ですべてを見せることをしない」という独白は、ブラッド・ピットという俳優が懐に隠し続ける虚無の顕れであった気もして、それは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でのクリフ・ブースにも通じる死の甘く倦んだ香りであったのは言うまでもなく、どちらの映画にも共通する無意識のうちに鬼の玄人が素人を一閃してしまうシーンは、深淵で途方に暮れるブラッド・ピットが貼りつけた彼岸の笑顔に促されて、気がつけば監督がカメラにおさめてしまっていたように思えてならない。寄り添え、ワタシたちはこの宇宙で孤独なのだ、それを知ったら気が狂って死んでしまうくらい孤独なのだ、とブラッド・ピットの“水晶でできているようにさえ見える山中の湖―それも酸性雨が湖中の生物を残らず滅ぼしてしまったために純粋になった湖(ジョー・ヒル)”のようなまなざしが言っている。
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2019年09月27日

アナベル 死霊博物館/あっちへいかなければこっちからいく

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ああ、これはスリープオーヴァー(sleepover=お泊り会)のお話だったんだなあと気づかされた瞬間、この子供たちにとって最初の体験となるだろう目の奥とうなじが熱く疼く徹夜明けの昂揚が眩しげに降り注いだ気もしたのである。そもそもがこのウォーレン家において死人を出せるはずがないという決定的な縛り(このホラーでは誰一人死ぬことがない)の中で、コメディやメタ構造の楽屋オチに逃げることなく、捉えられたら死んでしまうという鬼ごっこの正攻法だけで一晩を逃げ切った巧みなシナリオと衒いのないホラー演出は、人生の因縁を歩き始めたばかりで逃げまどう少年少女たちのヴィヴィッドと相まって、ある意味では死霊館ユニヴァースらしからぬ爽快を残した気もしたし、アイディアと飛び道具先行で少しばかり腰高が目立つこのユニバースのスピンオフ群にあっては、むしろこちらの方が新機軸にも思えたのだ。冒頭のシークエンスにおいて車中のロレイン(ベラ・ファーミガ)のシーンで示される“いないいないばあ”がこのホラーの基本トーンとなっていて、余白の多用とワンカットでの静かな出し入れなどJホラーの洗練をうかがわせる神経の障り方がこの監督の地肩となっているようで、たとえそれがビックリ箱であったとしてもそこに幽かなワンクッションを入れてみせるあたり、この監督の“ホラーの人”としてのセンスは思いがけずワタシの好みであった。様子を見にジュディ(マッケナ・グレイス)の寝室を訪れたメアリー(マディソン・アイズマン)が、ジュディのベッドにもぐりこんで勝手に添い寝をしているアナベルを見て、しかしアナベルのなんたるかをまだ知らないメアリーが、なんだか分かったような分らないような顔をしてそっと部屋を出ていくシーンが物欲しげでなく印象に残っている。恐ろしさの正体を知っているからこそ恐怖に囚われてしまわないロレイン(それをオープニングでおさらいしている)と、その遺伝子を受け継いだがゆえ恐ろしさの正体を無理やり知らされてしまうジュディの恐怖とを端正に描くことで、無垢のメアリーと混乱のダニエラ(ケイティ・サリフ)と、それぞれの恐怖の質までも描き分けた細やかさによってパジャマパーティの狂騒を終始遠ざけていたことも記しておきたい。ただ、ダニエラについては火付け役としての一面性を解いてやるのに少し手まどったせいで、誰よりも辛く切ない恐怖を味わうことになるにもかかわらず、その哀しみが割りを食ってしまったのは少しかわいそうに思えた。人は死なないけれど鶏が一羽だけ殺されていて、しかしそのシーンでのボブ(マイケル・チミノ)はこの映画のというかこのユニヴァースというか、ひいてはジェームズ・ワンの善性を顕していたような気がしてちょっと良かった。
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2019年09月20日

荒野の誓い/マダムと軍人

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相変わらず手を汚さない監督だなあという印象は『クレイジー・ハート』『ファーナス』『ブラック・スキャンダル』からずっと一貫していて、個人の情念を社会背景で強化することで主人公が何だか崇高な理念を手に入れたように映るのだけれど、実はその互いが互いを借りものとしているものだから、本来避けては通れない救いがたさが露悪されることもないまま、やさぐれたハーレクインロマンスがマニュアル車でテクニックを競うようなハンドル捌きで繰り広げられることとなる。冒頭、ロザリー・クウェイド(ロザムンド・パイク)が後家となった瞬間から、あとはジョー・ブロッカー(クリスチャン・ベール)といかにして手に手を取り合うかという手続きが、先住民に対するジョーの罪と罰という障害によってなだめすかされつつ幾多の犠牲者の血を吸うことによって、その蒼ざめた顔に血の気を通わせていくわけで、早々とロックオンしたロザリーが煮え切らないジョーにしびれを切らしてテントに誘い、ついには殺戮の火ぶたを切る銃弾を自らぶち込むことでジョーの尻を蹴りあげることとなり、結果としてこの物語は疑似家族となる3人以外をいかに排除するかというその達成のために善悪のくびきを溶かしていくその腐心を奥行に変えていたように思える。なんと言ってもこの監督の才能はキャスティングを含めた座組みに尽きるともいえ、マサノブ・タカヤナギのカメラに加えて今回はマックス・リヒターの劇伴まで手に入れた布陣もあって、あとは馬なりに流してさえいればハイエンドなドラマが手繰り寄せられていくという寸法はさらに磨きがかかり、中盤で投入されるチャールズ・ウィルス(ベン・フォスター)にしたところで、それがベン・フォスターであるがゆえにジョーの漆黒の胸像として対峙するように映りはするものの、役割としてはジョーの手下を人減らしするだけの機能性の人でしかないという贅沢は、ここまでで既にティモシー・シャラメ、ジェシー・プレモンス、ロリー・コクレーンという手練たちを死屍累々と積み重ねることで死のインパクトを借り続けるそれにも繋がっているのは言うまでもない。作品ごとに時代と風土を変えてこの監督が描いてきたアメリカの原風景が、傑出したキャストとスタッフのパフォーマンスにも関わらずどこか芯を食っていないように感じてしまうのはなぜなのか。やはり俳優出身の監督としてこれもやはりシンガーを主役に据えた初監督作をものにしたブラッドリー・クーパーと比べて見た時、ブラッドリー・クーパーの描いたのが、そうならざるを得ない人生の半ばあきらめにも似た確信であったのに対し、一見したところ同じ諦念を漂わせたようでありながら、スコット・クーパーの描く諦念は、叶わなくても仕方がない、なぜならこれは俺の願望に過ぎないのだからという退路が透けて見えるからこそ、そこには地獄が透けて見えることがないように思うのである。だから御大イーストウッドやデヴィッド・ロウリーの映画を観た時のような、“なんだか困ってしまう”感覚がついてまわることがないのだ。イーストウッドになれなかった男という点では世界中の誰しもと横一線ながら、例えばブラッドリー・クーパーになれなかった男と呼んでみた時、その屈辱と屈託が彼に地獄の蓋を開けさせることになるのだとしたら、誰かがそう言ってやるべきだとワタシは考える。と散々な言いようながら、おそらくはその完璧な座組に絆されて次作も観てしまうのは間違いがないのだけれど。ロザムンド・パイクだけが本能的にはみ出そうとしていたように思う。
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2019年09月16日

タロウのバカ/生きてないやつは死ねない

tarounobaka_01.jpgオフィシャルサイト

あたりまえのように「イワンのばか」を思い浮かべるのだけれど、自己肯定の怪物イワンに対するタロウ(YOSHI)は肯定や否定をする自己というやつがまずわからない自己不定の怪物として、こちらは自己否定の低空飛行で地面に腹をすりつけてはいつも血まみれなエージ(菅田将暉)と自分の中の自己肯定感をかきむしるように苛立つばかりのスギオ(仲野太賀)と共に、おれたちは今ここがここでないことだけを要求するという破壊衝動だけを絆に繋がっている。その絆について言えば、よく言われる登場人物への共感による感情移入など映画にまったく必要のないことを告げる好例ともいえるのだけれど、そうやってピカレスクの光すらを拒否するただひたすらの悪意と暴力によるダンスは、せっかく太陽がお前を照らしてくれているのだから上を向いて自分を肯定しろと迫る世界への、だったらお前が照らすせいで目に入るこのごみクズを先に何とかしろという徹底抗戦にも思えたし、そのダンスに魅惑されるかどうかというよりは、物語という体裁を拒否したそのあまりのやめなさ加減において次第に混濁していく善と悪とか生と死とか朝と夜とか昨日と明日とかいった感覚こそが、この3人の生きる日常なのだとただそれだけをこの映画は告げていたように思ったのだ。となれば踊れなくなった者から死んでいくのも当然と言えば当然で、ついに自己が内側を食い破って出てきたことで肯定と否定の決断を迫られることになったタロウが、グラウンドでサッカーをする少年たちを見て慟哭するその姿に、海を見てこの絶望から始めることを決意したアントワーヌの姿が浮かんだ気もした。避けられぬこととして暴力はふんだんに塗されているのだけれど、最初の殺人は拳銃によってなされねばならないという縛りもあってか、例の如く金属バットで滅多打ちされても人間は死なないという事例が多発していて、それはもう下着をつけたままのセックスシーンと同じくらいフィクションを意識させられてしまうわけで、人が死ぬにはその一閃で十分であることを晒してしまった「その男凶暴につき」の罪深さは海よりも深いままである。そして、彼らがどれだけ往来で人を破壊し襲っても警察が介入してこないのは、この悪い夢が覚めてしまわないための舵の切り方をしているからなのだろうと言い聞かせつつ観ていたところが、終盤でインサートされるある幻視によって時間はすでに夢とうつつのあわいに在ることを念押しのように告げていて、このアリバイは功罪すれすれで映画の救いとなっていたように思う。俳優として最初で最後のマジックを使いきったYOSHIの永続する一瞬を背骨とする危うさが監督の覚悟をうかがわせて冷汗が出続ける。ピザ屋のバイクを弄ぶくだりは、カットがかからなければ誰もいなくなってもあれを続けるのではなかろうかとすら思った。
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2019年09月12日

アス/はやくアメリカ人になりたい

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※展開に触れています

時代の切実な反映は幸福や平和よりもそこに充満する恐怖にあらわれるにちがいなく、ならば恐怖を思想とするホラー映画こそが炭鉱のカナリア足り得て断末魔を響かせることができるのだとジョーダン・ピールは確信しているのだろう。得体の知れない存在を実在のものへと形作っていくことで恐怖の質を現在地に地続きにする点において『ゲット・アウト』の構造を踏襲してはいるものの、今作において急カーヴをきって激突するハンドルさばきのスリルとでたらめは不謹慎なものであったかのように控えめなスパイスにとどまり、それに代わってたぎるような怒りが恐怖に火を点けることで隠されてきた二重性が世界を転覆させようと這い出して来ることとなる。そうやって恐怖を外部に実在化させる点において、既に『ヘレディタリー』がスタンダードとなったあなたがあなたである限りその恐怖が止むことはないという実存のホラーとは対極にあるように思うけれど、今そこにある存在の不安が恐怖を先鋭化する時代の落とし子として、内外を横断する恐怖の質を語る直接性はホラー以外にその手段を持たないとする作家の登場は必然だったと言うことになるのだろう。今作はドッペルゲンガーという、ジャンルにおいてはメランコリックともいえる存在をボディスナッチャーに仕立てることで分断と下剋上の劇的な闘争を目指し、自分が自分を殺しに来るという殺戮のステージまではまるで前払いのボーナスのように血と暴力のスプラッタが大判振る舞いされて、以降でドッペルゲンガーの正体が明かされる本題の講義に備えよと着席を促されることとなる。『ゲット・アウト』同様、良からぬことは地下で行われるというわけで、地下からやって来たドッペルゲンガーの正体が明かされていくのだけれど、すでにイドの怪物でも残留思念体でもない血肉を備えた存在であることが明かされているドッペルゲンガーが、ある失敗した実験の置き土産として打ち棄てられたクローンであることが告げられるものの、地下世界の悪夢的かつきわめて抽象的な描写とあいまって、アデレード個人の闘争がいかにして未曾有の階級闘争へと変貌していくのか、それらが「メタファー」であることは重々承知の上ではあるものの、“クローンではない”彼女以外のクローンたちから血肉の厚みが奪われてしまっているように思えてしまうのは諸刃の剣といったところでもあるのだろう。火事場の馬鹿力に見せかけて切り抜けた『ゲット・アウト』に比べた時、この後で見せなければならないラストのあれに向けて真顔を保たなければならなかった点である程度の失速を監督は覚悟していたように思うのだけれど、それがもし「人間の鎖」運動が自明であるかどうかによる彼我の差ということであれば、ワタシはそこで詰めてた息を吐いた気がしてしまっている。とはいえラストのあれはダイトーリョーが作りたくて仕方のない例の壁のホラーモデルとして最高だったと思うけれど。
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2019年09月08日

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド/夜をぶっとばせ

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※展開に触れています。

1969年8月がいかに紙一重だったか。8月9日に起きたシエロドライブの殺人を含む複数の殺人事件の犯人としてチャールズ・マンソンとそのファミリーが逮捕されたのはしばらく後の10月12日で、もし仮に現行犯に近いスピードで彼らが逮捕されていたならば、その6日後の8月15日から開催が予定されていたウッドストック・フェスティヴァルに地元自治体や住民とのカルチャーギャップに伴う軋轢で開催地の変更を余儀なくされた経緯があったことを考えてみれば、ヒッピーあるいはフラワーチルドレンの犯した凶悪で凄惨な事件の衝撃によって、ただでさえ緊張含みだった地元との関係は嫌悪や憎悪すらを巻き起こして開催が中止に追い込まれていたとしても不思議ではなかっただろう。その場合、ジミ・ヘンドリックスの国歌演奏が存在しなかったどころか、この世界に「ウッドストック」という概念すらが存在しないこととなるわけで、70年代以降のカウンターカルチャーの横顔はワタシたちの知るそれからは大きく修正されていたにちがいない。そしてタランティーノが幻視してみせたのは、その横顔を照らす光と影の違いこそあれやはり紙一重の世界であったのは言うまでもなく、シャロン・テートを救うことでハリウッドの甘くイノセンスな夢を生きながらえさせると同時に、チャールズ・マンソンという怪物の勃興を阻止したことでアメリカのカウンターカルチャーを救ってみせさえしたわけで、タランティーノがこれまで行ってきた歴史の修正がある極悪を叩き潰すことによってなされてきたことからすれば、この作品では叩き潰すのではなく救い出すという真逆の行為によって大きな転換の修正がなされたこととなる。この映画ではかつて片岡義男が“いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と解き明かしたその時間が、およそ120分を過ぎた頃までメランコリーと多幸感の強烈なないまぜとして描かれ、そして8月9日の逢魔時を過ぎてブールバードのネオンに灯がともり、ミック・ジャガーがベイビー、お前はもう時間切れだぜと歌い出した瞬間、さっきまで夢うつつに見ていたあれを守るためなら何だってする用意があることをタランティーノは宣言してみせるのだ。それまで執拗に繰り返されていた、存在の証をつなぎとめるように足元から全身をあおっていくショットは以降完全に封印され、ほとんどが黄泉の国の出来事でもあるかのような非現実の世界の中で、ヒッピーがハリウッドセレブを血祭りにあげるという構図は真っ逆さまに逆転し、シャロン・テート(マーゴット・ロビー)が「テス」の初版本を胸に抱いた世界は変わらぬままワタシたちの知らない8月10日の朝を迎え、この映画が存在する限りそれは永遠に続くこととなるのである。クリフ・ブース(ブラッド・ピット)は、本来リベラルの質を持った人間であったことがうかがえはするものの、グリーンベレーとして戦場のフィルターをくぐったことで無自覚で整理されていないリバタリアンとしてハリウッドを漂泊していて、ヒッピーやフラワーチルドレンに対する眼差しの暴力的な豹変もごく自然に行われ、それが何であれ思想への共鳴は優先順位のリストに入ることはなくその点においてリック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)よりは70年代をサーフすることの準備はできているように思われる。そうした佇まいもあってワタシにとっての主人公は終始クリフに尽きるということになり、1969年2月9日のクリフ・ブースはこの映画における最高最良であると言い切ってしまってもいいだろうと考える。なかでも、屋根のアンテナを直すべくリックの自宅に戻ったクリフが、ガレージの道具部屋から工具ベルトと作業グラブを取り出して針金をくわえ、劇中でたった一度見せるスタントマンの身のこなしで屋根にのぼり、アロハシャツとTシャツを脱いでタバコに火を点けるまでの一連はすべてのストーリーから解き放たれた完璧なモンタージュとして成立し、インサートされる回想シーンで彼のナイスガイが押しとどめている不発の気配を増幅した上で、その余韻をスパーン牧場の密やかな決闘へとつなげていくこととなる。ここでクリフが漂わせるのは、命のやりとりをして生き残ってきた者特有の倦んだようなアパシー、言いかえれば人殺しの匂いであって、それはランディ(カート・ラッセル)がクリフを忌み嫌う薄気味悪さの正体でもあり、車を停めてスパーン牧場におり立った瞬間、チャールズ・マンソンとそのファミリーが染みつかせた歪んだ精神の澱みに感応してリックの前では封印しているクリフのもう一つの顔が剥き出しにされていくわけで、ノンシャランなヒロイズムが暴力的なマチズモの領域に変質していく一連を物音一つたてず忍び寄る摺り足のシームレスで演じたブラッド・ピットには、息がつまるように圧倒されてしまう。それを日の下にさらけ出したその半年後、クリフのデーモンをいかにして解体し再構築してみせたか、“私たちに殺しを教えたやつらを殺すのよ”とナイフを振りかざす彼女たちに対し、でもまだこの殺し方は教えてないだろ?とさらなる暴力と殺人の新たな角度で世界を均していくタランティーノの、そうやって死を司ってきた者がここでは生を司ることすらを課したことによって今ここにいない者たちへの思慕が強烈に刻まれることとなり、それは例えば『甘い生活』のような、死の香りが立ち込める地獄めぐりを超えた天国めぐりの彷徨となることで、ついには生と死を円環する全体性を獲得していたように思うのだ。そうやってこの夜の紙一重をすりぬけた者たちが静かで親密に笑いながら退場していくラストは、図らずも神を気取ってしまったタランティーノの安堵のため息といくばくかの照れであったように思えて、ワタシまでもが疼くようにうんうんとうなずくばかりなのだった。テックス(オースティン・バトラー)が手にしていた優雅な銃身を備えたコルトはチャールズの愛銃バントラインスペシャルで、実際はこの夜2人の生命を奪い3人目にとどめを刺そうとして不発に終わっている。
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2019年09月01日

ロケットマン/愛していたと言ってくれ

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もういいかげんやめにしようやと言ってカートが吹っ飛ばしたセックス、ドラッグ&ロックンロールというスターダムとファンダムの共同幻想を、今の気分にデオドラントした上で絵に描いたような話として復活させたのが『ボヘミアン・ラプソディ』の勝因であったのだろうと思いつつ、やはり絵に描いたような話であった今作と決定的に異なるのは『ボヘミアン・ラプソディ』が「絵」に描いたような話であったのに対して『ロケットマン』は絵に描いたような「話」であろうとした点にあったように思う。だって映画だろう?映画のエは「絵」のことだろ?とすっとぼけては、あくまで正史としての「話」を描こうとしたサシャ・バロン・コーエンを一蹴した歴史修正主義者ブライアン・メイの強権は正しかったのだなあとあらためて恐れ入った上で、そうした現場処理にそれなりのほぞを噛んだであろうデクスター・フレッチャーにとって今作はある意味逆襲というか復讐というか、そうした熱量を内燃させて走らせたのは確かであったとは思うものの、そうやって描きあげた「絵」に描いたような「話」のバランスは、結果として「絵に描いたような話」に均されてしまったように思えたりもしたのだけれど、逆にそれがクリシェのオリジンとしての凄味につながっていたのは、祀られるためには(ブライアンの手によって)偶像の中に閉じ込められるしかなかったフレディに対し、そこから下りることで手に入れたエルトンの解放感がこの映画を撮らせたのは明らかで、なにしろこの映画のタイトルは『ロケットマン(Rocketman)』であって『僕の歌は君の歌(Your Song)』でなかった点においてさらに明らかだろう。そんな風にエルトン自身の完全なコントロール下で仕上げられたシナリオなだけに、トラウマというと聞こえはいいけれど彼がいまだ根に持ち続けていることがいろいろと明らかになっているのが愉しくて、『僕の歌は君の歌』誕生の微笑むようなエピソードよりは、トルバドールでお披露目ステージを大成功させてママ・キャス邸のパーティに招かれるという当時の界隈においてまさにスターダムへの扉が開いたその夜に、それを分かち合うことなくナンパした女性としけこんだバーニー・トービンを恨めしげに睨むエルトンの図が忘れがたいのも至極当然で、そこにつけこんだジョン・リードについて、絵に描いたような悪徳マネージャーというわけでもない陰影と愛憎をしのばせた点もエルトンの自虐史観の表れとして物語の強度を支えることとなる。そしてそれはソダーバーグの『恋するリベラーチェ』を観た時に感じた、人目を喰って生きる者の暴力性を当然のように思い出させることとなって、フレディ・マーキュリーもまたそれをまとい続けざるを得なかった人であったことを思ってみれば、それを無理やり脱がせてしまったブライアン・メイの罪深さをワタシはどうしても思わずにはいられないのだ。となれば、両者にとってのジョーカーたるジョン・リードのメランコリーを描く者はいないのかと思ってしまうのが人情というものではなかろうか。もちろんそれはマーティン・フリーマンに演じてもらうとして。
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2019年08月25日

鉄道運転士の花束/天国列車におまえを乗せて

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激突してひしゃげたメメント・モリと丹念になめした鈍色のアパシーと、地政学上の鬼っ子セルビアがシャツとズボンのようにいちどきに身につけたそれとこれはまるで鉄道運転士の制服でもあるかのようで、これはイリヤ(ラザル・リストフスキー)からシーマ(ペータル・コラッチ)へその制服が受け継がれる儀式の物語。ここは死を拭い死に涙することが必ずしも正気の沙汰として歓迎される素振りともいえない世界で、どれだけ線路で人を轢いたとしても罪に問われることのない俺たちが人並みの正気を欲してしまっては、あの世に送った人たちに申し訳が立たなかろうよと、けっして死を軽く想うわけではないけれど、死に捉まらないためにはそれを足蹴にせざるを得ないのだという、夜寝る時にしまいこみ朝目が覚めた時に身につけるその制服こそがこの国を生き抜くための薄日差すあきらめと仄暗い知恵なのだという、監督がセルビアに捧げた愛と苦笑いの讃歌であったようにワタシは思えた。倫理や道徳ではものさしにならない、生きているということは死んでいないということだという確認は、それは人間の右肩上がりの活動を阻害するざわめきとして顕著に忌避されてきたのは間違いがなく、例えば昭和のブルータルが戦争の残滓としてあったことなど思い出してみれば、そこで生まれて育ったワタシがこの映画に感じる親しみと懐かしさの正体を知るのはとても自然で容易なのは言うまでもなく、ペシミズムの色としかいいようのないくすみと退色の緻密な色彩設計がそれら感傷とメランコリーに拍車をかける。ラザル・リストフスキーとミリャナ・カラノヴィッチが身を寄せ合う姿はまるで『アンダーグラウンド』の白日夢のよう。
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2019年08月24日

感染家族/ゾンビあり〼

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※若干展開に触れています

感染と殺戮のスピードを加速し続けることで新しい風景を獲得した『新感染 ファイナル・エクスプレス』に挑戦するかのように(ラストのトンネル&ハワイはそういうことだろう)、ゾンビをカタルシスの獲物と屠ることなくどれだけダウンテンポで着地できるかというアクロバットを倒けつ転びつしながらクリアしていく姿が、ゾンビという愛と欲望のマネキンを押し頂いたこのジャンルの特異な懐の深さをあらためて告げていたように思ったのである。物語の中心となる家族が拝金主義の前に道徳も倫理も投げ捨てていることをあらかじめ描いた上で、ゾンビ体験を経てそれが教訓的に修正されたかというとまったくそんなことはないどころかその先の幸福な落としどころさえ描いてみせるわけで、『新感染 ファイナル・エクスプレス』に欠けていた慟哭するような悪趣味をノンシャランなピカレスクとしてしのばせた辺り、かなり念の入った知能犯であったのではなかろうか。ただ、大オチのためにゾンビ(というか厳密には感染者)の肉体を破壊してしまうわけにはいかないという制約があるせいで、敵陣を突破する軽トラは一人たりともゾンビを跳ね飛ばさないし、チェインソー代わりの草刈り機もアリバイ的に一度だけ誰かの片腕を切り落とすものの(しかし切り落とされた腕にはどこかすまなそうにモザイクがかかるのだ)、切り株上等なマサカーに至ることもなく、ガソリンスタンドの大爆発もロングショットで確認するにとどまって黒焦げたゾンビがいたのかいないのかお茶を濁さざるを得ないわけで、籠城からの脱出、「バブ」化したゾンビ、DIY武装といった王道を外さない分だけ、ゴアゴアの回避がそちらの好事家には物足りなく映るのもやむなしといったところだろう。飛び蹴りは2度ほどありますが。それと韓国映画には必ず先輩後輩ネタが仕込まれるけど、外にいるワタシには自明の文化として映るそれもやはり当事者には厄介で面倒なシステムとしてあるからこそああしてネチネチあげつらうんだろうなとつれづれに思ったりもして、そんなこんなを思いめぐらせることのできるくらい良い塩梅にレイドバックしたポストゾンビ映画の未知なる亜種。
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2019年08月21日

カーマイン・ストリート・ギター/それを作れば、やってくる

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なんだか『ブルー・イン・ザ・フェイス』を思い出したりもしたのだ。グリニッジ・ヴィレッジの小さなギター屋さんのドアをたたくあの人やこの人が、煙草をくゆらすかわりにリック・ケリーとシンディ・ヒュレッジの仕上げたカスタムギターを慈しむようにつまびき鳴らしては、こいつが手の中にあるおかげでぼくらはこんな風に真人間のような顔をしてられると思うんだ、とかそんなことを言いたそうにしてはお互いうんうんうなずき合うその姿に、時間の流れを自分の中に通してはそれを甘美な痛みと引き換えに操る人たちの軽やかなペシミズムを感じたりもして、だからワタシはこの人たち(音源が手元にあるのは半数ほどだけれど)の奏でる音楽に引き寄せられてしまうのだなあと、その秘密を少しだけのぞき見した気分だったのだ。そうやってドアの外とは時間の流れやまわり方が通じない空間だからこそ、時間の彼方に消えていったルー・リードやロバート・クワインといったここにいるべき人たちの不在も何だか一時的なことのように思えたりもしてしまうし、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の不機嫌なチェーンスモーカー、エヴァ=エスター・バリントが、35年?そんな時間わたしは知らない、といった風にすっとそこにいてギターをかき鳴らす姿に不意打ちをくらい、ああこれがNYの魔法ってやつか、と一も二もなくひれ伏したのだった。そしてジェフ・トゥイーディーの誕生プレゼントにギターを買いに来るネルス・クラインの、少し照れくさそうな顔と渾身の試し弾きは極上のボーナストラック。むかし何度かNYに行ったとき店の前を幾度となく通ってるのは確かなのに反応できなかったのは、ワタシがそういう人でなかったからなんだろうと思うとちょっと切なくてくやしい。
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2019年08月20日

HOT SUMMER NIGHTS ホット・サマー・ナイツ/幸せなら頰をたたこう

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※展開に触れています。可笑しくて可怪しい映画で、ティモシー・シャラメが嬉々として空っぽを演じます。

『ターミネーター2』が封切られフレディ・マーキュリーがこの世を去った年として1991年を名指しで呼び出しておきながら、CAN、リンダ・ロンシュタット、ゾンビーズ、スーサイド、デヴィッド・ボウイ、モダン・ラヴァーズ等々といった挿入曲は1991年のヒットチャートと無縁に散らかっていて、そもそもこの物語の語り手が誰なのかその素性と関わりが最後まで告げられないことを考えると、これら選曲は正体不明の語り手によるミックステープに過ぎないのではなかろうかと、デヴィッド・ボウイの選曲に関してはいささか食傷気味であったとはいえ、なかなか居心地のいいトラックリストによるそう遠くも近くもない過去への催眠効果はてきめんだったように思うのである。とはいえ、1991年に物語の舞台となるケープコッドを超大型のハリケーン・ボブが襲ったのは史実そのままで、してみるとこの物語は、地元ではいまだ語り継がれるハリケーンの年に起きたある殺人とその背景を名もない土地っ子が妄想を全開に幻視してみせたひと夏の顛末ということになるのではなかろうか。そう考えてみると、土地っ子のハンター(アレックス・ロー)やマッケイラ(マイカ・モンロー)の輪郭となる苦くて昏い屈託に比べ、よそからやって来た中途半端な通りすがりにすぎないダニエル(ティモシー・シャラメ)が空っぽなピカレスクでしかないのは、彼の役目が狂言回しに過ぎないことの顕れになる気もして、実際のところハンターにしろマッケイラにしろ、ダニエルと関わることで次第に内面は裏返ってキャラクターは奥行きを増し屈託を滴らせ始めるわけで、それとは対照的に父の喪失という餌を与えられながらそれに手を付ける素振りを一向に見せる気配のないダニエルは、倦怠した避暑地の底にたまった鬱屈に火を点けて破壊へのメランコリーをあぶり出す、いってみれば風の又三郎的な存在であったようにも思われたのだ。製作のタイミングからすると『君の名前で僕を呼んで』でのブレイクによってティモシー・シャラメをキャスティングしたわけではないようだし、その在り方のすべてが無邪気という邪(よこしま)でしかないダニエルという存在を、内省なしで主に視線の外し方と合わせ方および薄い胸となで肩によってデザインできる役者として彼をチョイスした慧眼は称賛されるべきだろう。到来したハリケーンが街を破壊したように、ダニエルが街にやってきたことで誰かが死に誰かが街を去ることで物語は収まりよく閉じられるのだけれど、映画のクライマックス自体はその少し前、ダニエルの正体が喝破され又三郎のマントが剥ぎ取られるシーンにあるわけで、それを執り行うシェップ(ウィリアム・フィクトナー)のあまりにもエレガントな緊張と緩和の乱射に見惚れるだけでワタシは料金のもとを取るどころかお釣りさえもらった気分だったのだ。伸るか反るかの大勝負に出たダニエルがドアをノックすると、開いたドアの先に立っているのはウィリアム・フィクトナーその人で、いつも相手の頭の上や横を見つめているようなその視線は先に相手の守護霊を殺しにかかっているようでもあり、「コーヒー呑むか?でも今の若いやつはコーヒーなんか呑まないよな、くくっ」と無精髭に寝起きの髪で小さく笑い、洗いざらしのターコイズブルーのTシャツにオレンジのショーツというノンシャランという名の虚無に身を包んで、よたよたとキッチンへコーヒーとドラッグを取りに行くその数十秒でああこれはダニエル血祭りだと思わせてしまうシナリオと演出のデザインが圧倒的で、しかもその後で事態はさらに圧倒的かつ悪魔的になり、詳細を書いてしまう野暮はしないけれどダニエルは生きながら殺されていくことになる。といった風に、これはティモシー・シャラメのとろけるようなナイーヴを溶かし込んだ「切なく、美しく、スリリングなひと夏の青春」というよりは、町いちばんの不良が死に、町いちばんの美人が町を出たその夏の裏側を、いつも遠くからあこがれの目でふたりを見ていたある土地っ子の少年が可能な想像力をすべてぶちこんで語り尽くす与太話とも言えるわけで、そのあたりの食えなさ加減はA24の面目躍如といったところだし、そのA24の信を得て自身のオリジナル脚本で長編デビューを果たしたイライジャ・バイナムという監督の名前をワタシはここに覚えたのであった。あそこでナメクジの話を持ち出せる書き手はそうそういないと思う。
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2019年08月13日

ゴーストランドの惨劇/ラヴクラフトならこう言うね

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※展開に触れているのでパスカル・ロジェという名前にそわそわしている鑑賞予定の方スルー推奨。一刻も早くそのそわそわを鎮められんことを。

肉体の先に宇宙(魂)を覗く実験であった『マーターズ』から始まり、監禁や誘拐によって真空でスウィングされる肉体こそが魂の共鳴を誘うのだという狂人の正論を整えた『トールマン』を経て、肉体の死か精神の破壊かそのどちらかしか途はないところに追いつめられた魂が肉体の記憶と手をたずさえた時、自動書記のように立ち上がる想像力の筆が描き始める世界は昏睡した現実へのいかなる乱入が可能なのか、魔道士パスカル・ロジェがまるで臨床試験を執り行うかのような冷徹と恭しさとで、ベス(クリスタル・リード/エミリア・ジョーンズ)とヴェラ(アナスタシアン・フィリップス/テイラー・ヒックソン)姉妹の心と肉体を文字どおり“折り”にかかることとなる。しかしパスカル・ロジェが単なる姉妹絶唱の残酷ショウそれ自体を目当てとするはずもなく、ベスによるエピグラフとして捧げられるラヴクラフト愛はいずれ想像力の強度を支えてめぐらされる梁となり、ヴェラ言うところにの“ロブ・ゾンビの家”で繰り広げられる肉体への即物的な恐怖と暴力の応酬との二重世界を築くことで、やがてこの物語にしのばされた目的が次第に明らかとなっていく。ベスの世界に現れる書物のタイトルがそのままこの映画のタイトルとなっていることを忘れさえしなければ、ラヴクラフトがベスに告げる「この傑作を一字一句でも変えたりしたら僕はきみを許さないよ」という言葉を聞いて、ベスが自らガラスを突き破りロブ・ゾンビの家へと戻っていったことの意味が、エピゴーネンからオリジナルへ、仮想敵に酔う世界から真の敵と闘う世界へ、ひとりの女の子の通過儀礼の物語として完結させることすら可能に思えたのだ。といったサイドストーリーを預けたことで、すべての痛覚描写は整合性と正当性を持ち始め、殴る蹴る刺す裂く噛む撃つそして嗅ぐといったおよそ考えうる肉体の破壊が綿密かつエレガントに創造されていくこととなる。特にベスとヴェラの姉妹に顕著な顔面崩壊が得も言われぬ素晴らしさで、それは例えば『トールマン』で犬に脚を酷く噛まれたジェシカ・ビールが映画の間ずっとその脚をひきずっていたりとか、時間が経つほどに腫れ上がっていくそのまぶたであるとか、暴力の結果が都合よく消えるはずなどないことを、ほとんど肉体への敬意といってもいい細やかさでそれを施していたのである。キャンディトラックの女が姉妹の母ポーリーン(ミレーヌ・ファルメール)を三度刺して殺すそのナイフのスピードと角度も絶品で、もしかしたらワタシは劇場でおかしな声を出していたかもしれない。終盤のクライマックス、ベスが絶体絶命となるシーンでからくり人形が絶妙なタイミングを得て笑い出すのはベスがこの物語をついに支配したことの現れだったのだろうことなのはともかく、ここでベスの口から吹き出す泡の色艶と質感に陶然と心奪われたことも付け加えておきたい。
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2019年08月11日

サマー・オブ・84/ドント・スタンド・バイ・ミー

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主人公デイヴィー(グラハム・バーチャー)の「郊外でこそイカれたことが起きる」という冒頭のモノローグによって、この物語がサバービアの憂鬱が引き寄せる暗黒神話というあらかじめ総括された批評眼によって語られる、感傷や郷愁による80年代再現ドラマでないことが宣言されることとなる。たとえば『サマー・オブ・サム』が、あいつがいようといまいがあの夏は俺にとっちゃとてつもなく酷い夏だったという物語であったように、この国の夏休みとは異なり新年度に向かっていったん何者でもなくなる季節であればこそ、鬼が出るか蛇が出るかどちらに転ぶかわからない季節の天国と地獄が「サマー」という言葉に治外法権のようにデモニッシュな響きを与えることとなるわけで、この映画はそれを残酷なまでに利用することによってジュヴナイルに潜むメメント・モリを弄ぶように増幅しては、いかにして1984年というオーウェルの夏が永遠に終わることのない呪いとなったのかを、まるでそれが彼らの罪と罰であるかのように書き記していく。カーペンターやらモロダーやらタンジェリン・ドリームやらの名前が浮かんでは消えていくシンセサウンドを時代の空気を醸す援用としつつ、躁病的な80年代ネオンライトを一切オミットしたくすんだ彩りは、核家族化したアメリカの家族制度がサバービアから崩れ始めたことの表れにも思え、劇中の類型的で貌の見えない大人たちに振り回される子供たちの抵抗こそが、隣人としてのシリアルキラー狩りへと向かっていったようにも思えたのだ。しかしその反逆はある悲劇的な犠牲を払っただけでなく、デイヴィーの視点によってオープニングと円環するラストの風景にあきらかなように、みんな壊れていなくなっていく明日を予感させて物語は幕を閉じるのである。ちょっとだけスマートな主人公デイヴィー、不良を気取るイーツ(ジュダ・ルイス)、太っちょウッディ(カレブ・エメリー)、メガネのファラデイ(コリー・グルーター=アンドリュー)という主人公と不良と太っちょとメガネの組み合わせがそのまま『スタンド・バイ・ミー』の引用であることは言うまでもなく、となればスティーヴン・キングの原作タイトル「死体(THE BODY)」が『スタンド・バイ・ミー』へと移ろうことで青い死と訣別の物語が感傷と郷愁の物語へと書き換えられたことを想い出してみれば、この映画こそが真の『スタンド・バイ・ミー』を名乗るにふさわしいように思うのである。スティーヴン・キングはかつて、“想像力豊かな人間は、自分が脆いという事実をしっかり見据えている。想像力豊かな人間は、物事がなんでも、いつでも、どうしようもなく悪い方向へ進むという可能性に気づいている。想像力豊かな人間は、シリアルキラーの犠牲になるのが自分以外のだれかだとは思わない。ヘンリー・リー・ルーカスのようなやつはこの世に現実にいて、そいつに出くわす確率はパワーボールくじで3億5000万ドル当たる確率よりも高いと思っている。”と書いたけれど、まさにこの映画を撮っているのがキングの言う“想像力豊かな人間”であるならば、それが“電子レンジは扉を開けたままでは作動しないことすら気にとめないそこいらのホラー映画”であろうはずがないのである。キングを信じよ。
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2019年08月06日

よこがお/わたしはそれがひまわりに見えない

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夜の公園で基子(市川実日子)の顔が闇に喰われていたように、喫茶店で茫洋と立つ辰男(須藤蓮)の顔もまた暗がりに喰われている。市子(筒井真理子)とある種の感情を交わした人がやがて自失してしまうのは単なる偶然なのか、市子と妹である道子との関係は参考書のくだりでうっすらと昏いものとして暗示され、やがて自死してしまうその道筋は既に敷かれていたようにも思われる。かつて市子が世話をしていた大石塔子は、余命2ヶ月と宣告された後で2年以上生きながらえながらも、市子が離れた途端ほどなくしてこの世を去ってしまう。娘である洋子(川隅奈保子)の呼びかけには答えず市子には言葉を返すショットの隅でフォーカスから漏れた洋子の姿や、「結婚ってそういうもんでしょ」とつぶやく戸塚(吹越満)を覆う昏いメランコリーは既に市子の暗がりに喰われ始めているようにも映る。「過去」と「現在」という時間軸が交錯する構成は、一見したところ復讐というゴールに向かうサスペンスをフラッシュバックで絞り上げていくように思えるのだけれど、それよりは白川市子という1人の女性が持ち得た「あちら」と「こちら」のよこがおの、それは二面性などという都合と聞こえの良いだけの解釈ではない、1人の人間の全体性として世界の法則に基づいた再構築は、不遜で禍々しくしかし真摯とすらいえる直接性によってそれは行われ、生きているだけで手繰り寄せてしまう罪と罰があるのだとしたら、その救済もまた生の中に見出すことができるのか、その両者が平行世界の物語としてむき出しの絶望と希望を縫い合わせるようにクロスカッティングされていくのである。そしてそれらは互いの存在を確かめるかのように侵食を始め、動物園からの帰り途、基子を追って走る市子のクロースアップは、その先の交差点で決定的に起きることを既に知っているかのような諦念をその貌に貼りつかせて真空を呼び出し、それは押入れから向こう側の光を見て恍惚とする市子を経て、広場で基子の幻影を見て卒倒する市子においてついに貫通してしまう。突き抜けた市子は、おそらく和道との関係も断ったのであろう白髪交じりの髪のまま辰男と贖罪の日々を過ごすことで自分を鎮めようとしたその時、お前はまだ転落と救済の最終試験を受けていないではないかという、人間の理(ことわり)などはなから考慮するつもりなどない世界の道理のひと触れによって究極の残酷に直面することとなり、たとえあの場で彼女がどちらを選んだとしても世界は素知らぬ顔を通したに違いないにしろ、しかし彼女はプライマル・スクリームとしてのクラクションを鳴らし続けることで再生を選んだことを知らせつつ、走り去った市子にはさらにもう一つの選択が待ち受けてたわけで、車はサイドミラーに市子のよこがおを映したまま街の喧騒の中を走り続け、そのノイズがミュートされたと思った瞬間カメラは左前方に駐車された白い車の後部をぼんやりとフォーカスするのである。無音のままその白の中へとホワイトアウトしたスクリーンに、ああ『淵に立つ』のようにここで止めるのかと思った瞬間、暗転したクレジットロールの中、ミュートされていた通りの喧騒が何事もなかったかのようにふっと再び浮かび上がってくるのだ。ともかく車は走り続けていて、市子はついにこちらとあちらを突き抜けることで世界への復讐としてふたつのよこがおを棄ててみせたのだろう。深田監督は市子を見てあなたの闘い方を知れと言っていた。
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2019年08月04日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.28 Sun

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昨晩の敗走中に見た、漆黒の濁流と化したところ天国のせせらぎや地獄の一丁目への橋渡しとなっていたオアシス脇の川に尋常ならざる事態を嗅ぎ取ってはいたものの、真夜中のタイムテーブルがキャンセルされたのはともかく、国道17号が一部通行不可になるなどそれなりに紙一重の状況であったことが明らかになったことで、DEATH CAB FOR CUTIEを見棄ててホテルに逃げ帰り、ゴアテクスのメンテナンスに努めたワタシは正しかったのだと立ち直りも早かったのである。この日のグリーンには、後背の山々が抱えきれずに漏れ出した雨水が小川となってのどかにさらさらと流れていたよ。

渋さ知らズオーケストラ@FIELDS OF HEAVEN
かつてはフジの祝祭サイドの顔としてグリーンすらを制圧していた渋さ知らズの7年ぶりのステージがヘヴンの一発目であったというそれだけで、オレンジコートの消滅を含めフジロックが精算してきたものたちの泣き笑いが浮かんでくる気もしたのである。とは言え、そんな邪推にはおかまいなしにすべての曲が最終曲であるかのような行き先知らずの情緒過多は相変わらずで、かつて苗場で見たいろいろな光景があれこれ押し寄せてきたりもしたのだった。変わるものも変わらないものもどちらもこの世にはある。

BANDA BASSOTTI@WHITE
音楽に政治を持ち込むなとか言う人がいるけれど、自由になりたいと歌った時、自由でありたいあなたと自由でないあなたの間にあるものをたどっていけばそこには政治がもたらした理由があるのは間違いないはずで、ワタシたちが社会性を帯びた/帯びさせられた社会的な動物である以上、政治から逃げ切れるはずはないことを、まずはあきらめと共に知るべきだろうと考えながら踊っていた。でも失敗した闘いへの感傷は要らないとも思ったよ。

THE PARADISE BANGKOK MOLAM INTERNATIONAL BAND@FIELDS OF HEAVEN
モーラムっていうタイの民族音楽もピンていう三弦の楽器もケンていう管楽器も申し訳ないくらいに知らなかったけど、まったくのゼロから得点と言う意味でこのバンドが今年のハイスコアを叩き出したのは間違いない。相当に強力なベースとドラムのタイトでモダンなリズムとアクロバットに浮遊するピンのリフレインとケンの切り込みは、アラン・ビショップあたりが泣いて喜ぶ東西折衷のモダンミュージックだろう。なんだかわけがわからないうちに圧倒的な多幸感に包まれて、ただひたすらにステージを崇めていたよ。

HIATUS KAIYOTE@GREEN
混雑に押し流された金曜日と土砂降りで押し流された土曜日の埋め合わせをするかのように、薄曇りの空はふんばりをきかせて人の波も退いた日曜日、苗場らしい祝祭の空間に跳ね回るこのバンドにようやく人心地がついた気がしたのだった。自由で軽やかに独立していて、しかしそれを手に入れるための強靭さこそが奏でられる音そのものであって、それをことさら何かに例えたりするような野暮はしなさんなとでもいうネイのにこやかな凄みに自然とこちらの丸まった背筋も伸びていたし、緊張を保つためにリラックスする音楽の極上として、野暮を承知で頭に浮かんだのはトーキング・ヘッズだったりもしたのだ。そういえば今年はあちこちで「リメイン・イン・ライト」の曲がよく流れていた。

VAUDOU GAME@FIELDS OF HEAVEN
ヴードゥーとかいうと人形に針ぶっ刺したりそういうもんだと思ってるかもしれんけど、実際はなんつうかカウンセリングのシステムみたいなもんなんだよ(適当過ぎる意訳)みたいなヴードゥーに関する説教をいきなり始めたりしつつ、しかし期待を裏切らないヴードゥー的なルックに心奪われるピーター・ソロさんの、JB’sみたいなバンドをJBのごとくビシッとコントロールしてクールでモダンなアフロファンクショーを指揮する一挙手一投足に目と耳は釘づけ。誰が昨日のお詫びをしてくれてるのかわからないけど、朝からずっと楽しいままで、左足の親指の爪が内出血してるのなんか気がつくはずもない。

その後はtoeを見て、ああやっぱり54-71をできたらWHITEで砂埃舞う中見たかったなあと思ってみたり、思いのほかアブストラクトだったVINCE STAPLESを見て、ああやっぱりクール・キースをDR. OCTAGONで見たかったなあと、おっさんらしくめそめそと無いモノねだりをしたりしてCUREに備えていたのだった。

CURE@GREEN
6年前に比べるとお客さんがいっぱいいるのが何だかうれしくて、気がつけばすぐ右で浅野忠信がGFと踊ってたりして、ほぼ完璧なロバート・スミス・ショウにあははと笑いながらたくさんの歌を歌ったのだった。前回は日付も変わって人もまばらになったGREENでBoys Don't Cry〜10:15 Saturday Night〜Killing An Arabのつるべ打ちに狂乱したのだけど、今のロバート・スミスはBoys Don't Cryで去っていくことでヴィヴィッドな一夜の想い出としたかったのだろう。ヘアスタイルのボリュームはそろそろかなあとは思うもののどの曲もキーを下げたりすることなく艶々と歌いあげるのは6年前のままだし、いいよと言われればあと1時間は喜々として続けただろう笑顔で名残惜しそうに去っていく姿に、信じる者は今度も確かに救われたと思ったのだった。この世代はアーティストもファンも本当にしぶとい。

というわけで、来年は例の国民的行事のため8/21、22、23の開催と相成ることに。梅雨の心配はないものの、土用波の時期ともなれば台風襲来が絵空事ではなくなるわけで、この土曜のことを思えば、おっさんは冗談抜きで生き抜くことを目指さねばならぬかと。

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2019年08月02日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.27 Sat

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午前中は例年のごとくドラゴンドラで天上に向かい、レストハウスでチキンカレーなんぞを食していたところがポツリポツリさあっと驟雨がやってきて、まあそりゃ雨くらい降るよね降らないわけがないよねなどとしたり顔をしてみせたこの時は、どうしてワタシの両手はこんなにふやけているんだろう、プールに浸かっていたわけでもないのに、と首をかしげることになろうなどとは知る由もなかったのである。

CAKE@GREEN
こういう天気はこのギターにはよくないんだよねえと冗談交じりに愚痴るジョンに、そうだねえギターにもワタシらにもみんなに良くないねえと胸の内でつぶやくくらいには雨が悪さをし始めていたのである。まあそりゃ雨くらい降るよね降らないわけがないよねなどとしたり顔をしてみせたこの時は、どうしてワタシの両手はこんなにふやけているんだろう、プールに浸かっていたわけもないのに、と首をかしげることになろうなどとはまだまだ知る由もなく、みんなカッコいいTシャツ着てるな、やっぱりTシャツは着丈が肝心だなあなどと能天気をかましていたのであった。バンドは愉しかったけど雨が降ってなければもっと愉しかったかな。こっちもTシャツで見たかったよ。

MATADOR! SOUL SOUNDS@FIELDS OF HEAVEN
この頃にはもう、加減を知らない幼子にキャッキャと帽子を叩かれているくらいの雨につきまとわれて、人間の子供ならやめさせることができるところがいつ終わるともしれないそれに気持ちは段々と下降線をたどりはじめ、ザ・ニューマスターサウンズmeetsソウライヴなどという極上のジャズファンクサウンドすらを雨を蹴散らすヤケクソのバックトラックにあてがう不埒に申し訳のなさでいっぱいなのだった。ギタリストとドラマーのみならず、クリス・スパイズというキーボーディストの切り裂くようなフレーズがまるで水切りのように跳ねまくっていてヤケクソを煽りまくっていたよ。

知らない大勢に頭や肩をバタバタと叩かれているような雨が、もう豪雨と言ってしまっていいだろう、そんな雨が降っている時は家の中に居ておとなしくしているよう現代の人間は出来上がっているわけで、ではそうしていないワタシに相応の目的があったとは言え、あとどれだけの時間この状態をやり過ごせばワタシは乾いた室内に寝転がって雨でぐずったソックスを脱ぎ捨てることができるのか、そんなことばかりを考えながら帽子のひさしから途切れなくおちる雫を捨てられた子供のニヒルで見つめるのであった。

GEORGE PORTER JR & FRIENDS@FIELDS OF HEAVEN
期せずしてアート・ネヴィルに捧げるステージになってしまったとはいえ、ああセカンドラインというのは本来こういうことかと、哀しみにつけ入るすきを与えないよう小刻みに踏み続ける笑顔のステップが途切れることのないまま永遠に上昇するスパイラルのようなビートに、ほんの一時だけ豪雨も音の粒と化したかのようであった。それにしても雨は降る。激しい雨である。ボブ・ディランやモッズがそんな風に歌うから雨もその気になってしまうのだ。溺れそうである。

AMERICAN FOOTBALL@FIELDS OF HEAVEN
この雨は、お前の気持ちがどれほどのものか試してやろうじゃないかという高いところの人の試練だったのだろう。そしてワタシは耐え抜いて、豪雨の雨音が喝采のように鳴り響く中、"Let’s just forget"と歌い出すマイク・キンセラの声を確かに聴いたに違いなかったのである。気がつけば水遊びをしすぎた子供のように両手はふやけ、手のひらにはちりめんのようなしわが浮かび上がり、思わず両の手のひらを合わせては「しわとしわをあわせて、しあわせ。なぁむぅ」とつぶやいてみたのだった。そしてこの日のワタシがどれほどギリギリのところに居たのかというとトリのDEATH CAB FOR CUTIEをあきらめて敗走したことに明らかで、そしてそのことをさほど悔いてもいないことに自分でも少しだけ驚いている。歳を取るとはこういうことだ。
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2019年08月01日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.26 Fri

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THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES@WHITE

つい2〜3日前まで台風のタの字も言ってなかったのに、台風来るから各自の責任において現場処理よろしく的ないきなりの状況であったとは言え、苗場皆勤の身としてはそれなりに酸いも甘いも噛み分けてきたこともあり、まあ死ぬわけじゃないしと(とは言え死ぬ可能性は若干あがっている)高をくくりつつも出発前に東京で少しバタついたこともあって、おっとり刀で越後湯沢にかけつけた次第。

今年も苗場プリンスの部屋が取れず越後湯沢組。それにしても金曜で行きの道路がこれだけ混雑していた記憶もなくて、ひとつのバンドがこれだけ集客するもんなのかともはや自分にはどこにも見つからない忠誠心に恐れ入る。それは皮肉でもなんでもなく。

RED HOT CHILLI PIPERS@GREEN
どんな曲でも力技のバグパイプアレンジで踊らすのかと思ってたもんだから、前夜祭でその実態を見ていささか肩透かしをくらったところもあるので、あくまで客入れの音楽として箱バンのいなたさとにぎやかしを生暖かく半笑いで愛でる。

SHAME@RED MARQUEE
2周くらい回ったポストパンクの風情がツボだったアルバムの感じからもう少し斜に構えたバンドなのかと思っていたら、むちゃくちゃIQ高いのに進学しなかったやつらが組んだバンドみたいな確信犯的サボタージュの馬鹿ノリが針を振り切ってて、思わず顔がほころぶ。とりわけウィル・サージェント直系のギタリストは大変に好み。パジャマを着たヴォーカルはカート・コバーンていうよりはジョニー・フィンガース直系の英国男子の心意気か。

KING GIZZARD & THE LIZARD WIZARD@WHITE
大真面目なメタルのフレーズとアレンジをツインドラムのマシナリーなビートで担いで反復することで垂れ流すトランシーはこのバンドのサイケデリックな性根にちがいなく、そのうちなんだかバットホール・サーファーズのステージを思い出したりもしてた。ギビーがオイルかけて火を点けたシンバルを叩きまくるもんだからステージのあちこちに火が飛び散って、客は大喜びスタッフ大慌てで消しまくったホワイトももう17年前。そりゃワタシも歳を取るわけだ。

JANELLE MONÁE@GREEN
プリンス、マイケル、JBまで全部ぶち込んで、見失うな、あの道はここにある!っていう宣言を、健やかな茶目っ気とカラフルな気合と共にワンインチパンチで打ち込み続けるステージ。そして時折の裸足。この後のすべてが見劣りしてしまいやしないかといういくばくかの危惧。

THE WATERBOYS@FIELDS OF HEAVEN
前回(2014)のステージでそれなりに決着は付けたので、今回はほとんど通りすがり程度。本音を言えば”THIS IS THE SEA”のマイク・スコットを見られなかった時点でもう間に合っていないのは確か。

TYCHO@WHITE
ヴォーカルが入った途端、何を聴いても何かに聴こえてしまうモードで今回はコクトー・ツインズが発動。これやるならもう少し氷結したシンガーが必要な気がしないでもない。ステージの端に腰掛けて歌ったりの浮遊する自然体とかそういうのはもういいかと。それ以外はライトタイムライトプレイスな逸品のステージだっただけに。

THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES@WHITE
個人として何をやったところで付帯事項付きの称賛と批判からは逃れられないトム・ヨークが、そんなあれこれから煙幕を張るかのように実体を晒すことを拒否するその姿こそを表現の輪郭としてきた歪が、ここにきてようやく正されたような気がしたステージだったのである。そこに見えたのは、かつてブロンドに染めた髪でデヴューしたヴォーカリストが30年近くを経て成熟した姿であったように思えたし、もはや倦怠もわが友としたというその笑顔の意外な晴れやかさこそが彼の復興にも映った。ダブルアンコールで奏でた『サスペリア』の職能仕事が予期せぬセラピーとなったのか。いずれにしろ霧はさぁっと晴れていた。
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2019年07月25日

FUJI ROCK FESTIVAL '19 展望

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7.26 Fri
RED HOT CHILLI PIPERS
LUCKY TAPES
SHAME
KING GIZZARD & THE LIZARD
ORIGINAL LOVE
GARY CLARK JR.
JANELLE MONAE
SOUL FLOWER UNION
TORO Y MOI
THE WATERBOYS
TYCHO
THE LUMINEERS
THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES
BIGYUKI

7.27 Sat
蓮沼執太フィル
突然段ボール
キセル
JAY SOM
CAKE
CharxChabo
DYGL
MATADOR! SOUL SOUNDS
GEORGE PORTER JR & FRIENDS
AMERICAN FOOTBALL
SIA
DEATH CAB FOR CUTIE
GLEN MATLOCK AND THE TOUGH COOKIES featuring EARL SLICK

7.28 Sun
渋さ知らズオーケストラ
STELLA DONNELLY
BANDA BASSOTTI
勝井祐二 × U-zhaan
HIATUS KAIYOTE
INTERACTIVO
PHONY PPL
VAUDOU GAME
CHON
toe
VINCE STAPLES
THE CURE
JAMES BLAKE

今年のタイムテーブルはあからさまなステージかぶりがない分、往生際悪くあちこち走り回ることになりそうで痛し痒し。
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2019年07月23日

チャイルド・プレイ&ポラロイド/ラース・クレヴバーグはイイ男

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オフィシャルサイト

人形にチャッキーが宿る経緯を知らせるオープニングのシークエンスで、あれ今回はオカルトじゃないやと少し不思議に思ったのだけれど、このリブートでは弱者の立てた中指から始まった話がアンディ(ガブリエル・ベイトマン)の屈託に結びつくことで、イドの怪物としてのチャッキーが思いのほかダークサイド・オブ・トイ・ストーリーの語り口に説得力を与えることとなっている。オリジナルでのヴードゥーを最新のAIテクノロジーに置き換えるアイディアもスマートだし、リブートされたチャッキー(マーク・ハミル)のファーストショットにコレジャナイと一瞬たじろぐも、その後アンディの指示であれこれ行われる百面相を眺めるうちにコレジャナイフェイスにも半ば強引に馴染まされていくこととなるわけで、そうした気の利いた過不足のなさは、かつて80年代にはその過不足さゆえのささくれが刺さったりカーヴで滑ったりすることで忘れがたい時間を過ごしていたことを思うと、そうした浮世離れがスポイルされてしまうように思えたりもするのだけれど、それよりはそれらささくれやカーヴですらを自明としてデザインする洗練を愉しむポスト/ポストモダンホラーの現在にあってはその過不足のなさこそが愉悦となり得たりもするわけで、嫌味でもなんでもなくこちらもそれを欲する体になってしまっていることにあらためて思い至るような、期待に応え期待をを超えるリブートとなっていたのは間違いのないように思う。シェーン(デヴィッド・ルイス)殺害時の、子供の悪戯のような仕掛けとアタックをあえて過不足上等のチープで粗いカットのままつなぐことによって人形の片言なリズムが弾け出すシーンには、このジャンルへの監督の健やかな偏愛がみてとれてクラシカルな香りすら漂った気もしたのである。劇中のTV映画フッテージが『悪魔のいけにえ2』であったのも、趣味の良さに加えて自分が撮っている作品への正確で冷静な理解がうかがえてワタシは握手をしたくなった。といった風にことさら実存めいたトリッキーなショットや長回しには興味がなさそうに見えたラース・クレヴバーグ監督なのだけれど、高いところから落ちたり吊ったりが4回ほどありそれぞれに死んでしまったり重篤なダメージを負ったりして見せ場を作っていて、人形のサイズや動きにさほどダイナミズムが生まれないその分のバランスなのかなあと思っていたところが、


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続けて鑑賞した『ポラロイド』でもやはり天井裏からの宙吊りやら階段落ちやら首吊りやらが端々にしのばされていて、この監督には垂直性へのフェティシズムがあることなどうかがえてさらに信用が増した気もしたのである。出世作となったこちらでもやはりこの監督の過不足のなさがツイストの強度をじわじわと上げていて、どんでん返しと言うよりは気がついたら背後に回られていたような感覚を見抜いてフックアップしたプロデューサーの慧眼はさすがであったとしかいいようがない。疎外された者がそれゆえに邪を引き寄せてしまい、因果応報など踏みにじるように善人も悪人も等しく屠られていく腰の座った筆使いは、飛び道具に頼らないストーリーテラーとしての地肩の強さもうかがわせ、アンドレ・ウーヴレダルとはまた声音の異なるノルウェーのホラーマスターとの邂逅に、ラース・クレヴバーグという名前を即座に頭へと叩き込んだのだった。
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2019年07月21日

GIRL/ガール〜飛ぶのが重い

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映画が始まるとすでにヴィクトルはいなくなっていて、かつてヴィクトルだったララがいかにして自分の真の姿と向き合い、バレエを生き方と発見し、それらのすべてについて周囲の理解を勝ち取ってきたのかは一切描かれておらず、この家族における母親の不在についてすら知らされることもないまま、バレリーナへの夢と性別適合手術に向けて足どりも確かに歩き出したララの揺るぎのない眼差しに彼女がまだ15歳の少女であることを忘れてしまいそうになる。とはいえララを見守る人たちはその眼差しを信じるしかないのだけれど、父親マティアス(アリエ・ワルトアルテ)も担当医師もカウンセラーもバレエ学校のクラスメートも知ることのないララ(ヴィクトール・ポルスター)の姿を、ワタシたち観客だけは誰もいないバスルームや彼女の部屋でひとり在るララの時間を共有することを許され、というよりは求められ、そこでは彼女の男の子として裸身はともかく、前貼りで真っ赤にかぶれた下腹や寝起きの朝立ちまでも知らされることとなる。そうやって準備された監督の視点によって、みんなは私を外から見て今でも充分に素敵な女の子だ、ゴージャスだとほめそやすけれど、まっ平らな胸や朝立ちだってしてしまうペニスを見てもそう言えるのか、あなたは思春期を楽しみなさいと言うけれど、私がどうやってその入口に立てると思うのか、心の底では内面は外面が連れてくることをあなた方は疑いもしないくせになぜ私には内面を先に求めるのか、とララが誰にも告げることのない不安と苦悩と苛立ちをほとんど暴力的といっていい圧力で共に体感していくことを求められるのだ。それらララの混乱は、すべての感情を肉体のフォルムで表現するバレエの修羅へと本格的に足を踏み入れることで、肉体の変容というオブセッションをさらに加速していくこととなる。とは言え、もしもターンしていてバランスを崩したら肩を前に入れなさい、そうすれば止まるから、という教師のアドバイスにうかがえるバレエの即物的なメカニックからすれば、あんな風に下腹部をテープで固めていたら繊細なコントロールのノイズにならないわけがないことくらいワタシのような素人にも瞭然だし、バレエが求めてくる肉体の書き換えに応えねばならないという焦燥が底なしに焚きつけるトランスジェンダーとしての彷徨によって彼女はあの選択へと追い込まれていったことを思えば、向かいのアパートの一室で行われる男女の交情を、今の私は実際のところあのどちらなのだろうと物憂げに眺めるララが、自分にとってペニスがどれだけ「他人」であるかを確認するため同じアパートの少年に行うオーラルセックスのシーンは15歳の聡明が行き先知らずに暴走する切なさが窒息しそうなほどに溢れて、ここまでずっとララの秘密を逃げ場なくぶちまけられてきたワタシたちにしてみれば、ララのたどり着いた結論にしたところで、来るべきものが来たという覚悟をそっと引っ張り出すだけでよかったことにさほど驚きもしなかったのではなかろうか。それは冒頭のピアスとの円環という容易さすらも可能であったのだから。それよりもワタシは、(髪を)切ったララがワタシたちを正面から見据え颯爽と歩いてくるラストショットの、もうこれからはあなたたちに用はないと言わんばかりの笑顔が、それをにわかには受け入れがたい気がしてしまったのも確かなのである。ところでバレエはあなたの捧げ物に満足してくれたのかなと。15歳のトランスジェンダーの絶望など知ったことではなかったあのバレエが。それくらいこの物語はバレエに借りがあるように思うものだから。
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2019年07月17日

さらば愛しきアウトロー/サンダンス・キッドの冒険

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いつものようにひと仕事を終えて首尾は上々といった足どりで銀行を出てきたフォレスト・タッカー(ロバート・レッドフォード)の顔が、その次の瞬間にはどこかしら焦点の合わない昏さをその目に湛えてみせて、それはおそらく、追わせるために逃げ、逃げるために追わせる、その終わりのない繰り返しの中でしか安寧を得られない人が染まったオブセッションの色であることがだんだんと描かれていくことになる。仕事仲間とは言えテディ(ダニー・グローヴァー)やウォーラー(トム・ウェイツ)とタッカーが根本で異なるのは、タッカーには彼らのように人生のセンチメンタルにペシミスティックが沁みていない点で、永遠の繰り返しの中に生きるタッカーは囚われる過去をもたないことで失くしたものや捨て去ったものへの執着から自由でいられるのだけれど、それはすなわち様々な選択が生む責任とそれが促す成長を拒否することでもあるわけで、ジュエル(シシー・スペイセク)がタッカーに訝しげでありながら惹かれてしまうのは片っ端から枷を捨て去ったがゆえの彼の軽みが、どこかしら人生の浮力をつかんだ人の身のこなしにも映ったからなのだろう。してみるとそれは、ポール・ニューマンとの邂逅によってまるで自分の役割を定めたかのようにサニーサイドのリベラルを演じ続けてきたロバート・レッドフォードという役者がまとい続けたた善性の香りそのものだったようにも思えるわけで、同じ脱獄ものでも『暴力脱獄』と今作では依って立つところが天と地ほども違っていることにもそれは明らかだし、過去においてパトカーに追われるタッカーが駆っていたのが、そのラストで永遠へと溶けていった『断絶』でジェームズ・テイラーとデニス・ウィルソンが駆っていたシボレー150(タッカーのはセダンだったけれど)であった点で、どこへも行かないことを選んだタッカー=レッドフォードの微笑むような諦念があのシボレー150によってそよぐように晒されていたのではなかろうか。孤独や孤絶を不可侵の魂が放つ光ととらえてきたデヴィッド・ロウリーの描くアメリカは、サバービアからさらに遠くその日なたと草の匂いにはワイエスの光と影が宿りつつ、しかしそこに透けて見えるのは血の気の失せたエドワード・ホッパーのアメリカでもあるわけで、そうした両極が互いを憧憬することで生まれるメランコリーがこの映画の隅から隅までを埋め尽くすことで、何を撮っても撮るそばから「アメリカ映画」になってしまうその感情のデザインはまるで彼の敬愛するロバート・アルトマンのそれにも思えて、その「アメリカ」と「映画」を全問正解し続けた多幸感に酩酊しっぱなしだったのだ。このアメリカをワタシはずっと知ってきた。
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2019年07月14日

ゴールデン・リバー/明日に向かって磨け

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人殺しも夢想家も人殺しの走狗も横並びになって互いを見やる、あの一時あそこにあったのはウォーム(リズ・アーメッド)の唱えたユートピアの萌芽であったようにも思えたし、となればそれを台無しにしたチャーリー(ホアキン・フェニックス)の暴走は、ウォームがダラスに夢見たユートピアがいずれ塗れたにちがいない崩壊の予兆であったということになるのだろう。ラストでイーライを包む至福の満足感は、提督(ルトガー・ハウアー)が勝手に死んでくれたこと、チャーリーがもう銃を持つことがなくなったこと、メイフィールド(レベッカ・ルート)から奪ったあれやこれやで仕事を引退できそうなこと、そしてなにより母親だけがいる家に帰ってこられたこととこれからは毎日好きなだけ歯を磨いて暮らせること、それはすなわち、他人がよく言う自由という言葉の意味が生まれて初めてわかったということなのだろう。チャーリーが人殺しを嫌がるのは道徳とか倫理とかいうよりも、誰かを殺すとそいつの親父や兄弟や友達につけまわされてこんどはそいつを殺さなきゃならなくなってきりがないんだよ、という単純に自由が阻害されるからに過ぎないのだけれど、社会的な生き物としての成長は、実は思索の教育よりも実用性の解決によって促されるのかもしれないなと、白人と非白人、暴力と非暴力のクラスが交錯して生まれる真空に漂う彼らを見て思ったりもしたのである。即席のメンターとなるウォーム以外のモリス(ジェイク・ジレンホール)とシスターズ兄弟は、間接的/直接的な父殺しを果たしてきたつもりがいまだ父親の亡霊に苛まれ続ける子供たちで、アメリカ映画『マッドフィンガー』をリメイクした『真夜中のピアニスト』や『預言者』でそれぞれに父殺しを描いたオーディアールにとって、アメリカを外から覗いて見た時、父殺しの病的なオブセッションとそれが育てるマチズモこそがアメリカの呪いであり約束であることをあらためて発見せずにはいられなかったのだろう。ここでは提督の死が父親の完全で正式な死を象徴していたのは、棺の中の提督にイーライがせずにはいられなかったある行為に明らかであったように思うのである。新しい人としてオーディアールが最後に選んだのがウォームではなくイーライであったのが、まるでアメリカに対して非アメリカ人がしのばせるすべての愛憎を代弁したかのようでもあって、こんな風にそっと抱きしめたくなるような柔らかくて傷みやすい西部劇がいまだ出番を待っていたことに何だか呆気にとられてしまった。世界を更新するのは銃弾ではなく歯磨きや水洗トイレなのだ。
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2019年07月11日

凪待ち/新しいきず

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冒頭でカメラが川崎競輪場の建物をとらえた瞬間、ショットが平衡を失したようにぐらっと傾いて何だこれ?と奇妙に思っていたら、その後で木野本郁男(香取慎吾)の胸の内にギャンブルの魔が差す瞬間になると、彼をとらえたショットがやはり同じようにぐらっと傾くわけで、その失した平衡が石巻の海の水平と対照して描かれることによって、かつて傾いていた者と今なお傾き続ける者がひとたびの水平=凪を求めて交錯していく姿の喪失と再生を、それを香取慎吾の置かれた実人生に重ねるなら重ねてみればいいという、開き直りと言うよりは一種瑞々しくすらあるふてぶてしさで監督は描いていく。どれだけ血と泥にまみれようと性根のところが汚れていない郁男を、日本の湿り気ではなかなか染まらないデカダンスの色で描く目論見を白石監督は香取慎吾から得たのではなかったか。罠にかかった野生動物が血を流しながら暴れる姿の倒錯した美しさに手が届く瞬間がいくつかあったようにも思えたし、美波(恒松祐里)が郁男を庇護者と選び続けるその理由が大きな子供としての郁男の感応にあったのは言うまでもないだろう。元SMAPの彼らを映画でさほど見かけているわけではないのだけれど、例えば『十三人の刺客』の稲垣吾郎や『中学生円山』の草なぎ剛など、ビジネスとして成熟とピュアネスの同居を矯正されてきた者が持つ彼岸の軽味はプロパーな俳優にはまとえない風情であって、正直に言ってしまえばこの映画は香取慎吾のそれだけをあてに撮られた気もしていて、やはりそれに近い武器を持つリリー・フランキーとのがっぷり四つがもたらす浮世離れの居心地の悪さとそのスリルは邦画の新しい風景であったようにも思えた。ところで、郁男の置き手紙なのだけれど、彼が書き出す時のクロースアップに見えるそれと書き終えた手紙の筆跡が異なっていて、やけに達者な筆跡の手紙に置き換えられてしまっているのが少しばかり興ざめに思えてしまった。書き出しの筆跡が香取慎吾本人のものかどうかはわからないにしろ、懸命にたどたどしいそれは郁男の書く文字としてとてもふさわしいように思えたのでなおさらそう思う。再生を謳ったその後で、傍目には凪いだ海の底にいつまでもある喪失の記憶を、それを忘れかけたワタシたちにいま一度焼き付けるエンドクレジットがこの映画の静かで毅然とした品格を告げている。
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2019年07月10日

COLD WAR あの歌、2つの心/向こう側からずっと

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国を棄てる約束をしたあの日あの時、なぜ君は現れなかったのかとヴィクトル(トマシュ・コット)に問われたズーラ(ヨアンナ・クーリグ)が、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」と答えた瞬間、COLD WARという言葉の予めが一度そこで散り散りとなり、これが前作『イーダ』のラストにおいて、世界が自分を騙し打ちしていたこと、しかしそれは自分の無知がそうさせたこと、そしてその無知を安寧とする世界に身をゆだねていたことへの自分と世界に対する怒りを胸に、かつて自分の家であった修道院へと荒ぶる歩を進めるイーダの修羅を受け継いで転生した女性の物語であることに気づかされたのである。政治と体制の中、屈託を飼い馴らす男ヴィクトルが屈託と怒りを隠そうとするどころかそれを燃やして生きるズーラから目を離せなくなるのは必定ともいえたし、それと同時にズーラにとってヴィクトルは個人性の敵が何かを知る本能の理解者にも思えたのだろう。そうやって互いの心臓に食い込ませた爪によって2人はだらだらと血を流し続け、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」というズーラの言葉は、今の私が流す血はあなたの流す血の量に追いついていないから、今その血をあてにしてしまうわけにはいかないのだという孤高の決意の向こうから発せられていたように思うのだ。その後、ポーランドとパリに別れた2人の生活は主にヴィクトルのそれを通して描かれて、時折の逢瀬が終るたび例えば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の暗転のように目を伏せた映画は次の逢瀬までの数年を一気に跳躍してしまうのだけれど、ヴィクトルに描かれる最低限の連続性に比べ、暗転を経て現れる時のズーラの変貌というか変容は次第に殺気すらをおびていく。しかし、舞踏団のスターであったかと思えば偽装結婚によってポーランドを脱出し、果ては目的の達成のために他人の妻となり母となりさえする暗転の間にズーラが過ごした変転が一切描かれることがないだけに、彼女が新たなズーラとしてヴィクトルの前に現れるためにいったい何を引き換えにしなければならなかったのか、そこに漂う痛切なメランコリーが2人を寄る辺のない時間の奥底へ閉じ込めていくのは確かながら、ワタシたちの知る幸福の形とは相容れるはずもない、絶望と背中合わせに絡み合う生の確認こそがヴィクトルとズーラにとっての愛の形であったように思うのだ。強制収容所に囚われたヴィクトルを救い出すため、官僚システム上位へのコネクションを持つ舞踏団の管理部長にして小役人カチマレク(ボリス・シィツ)と結婚し子供すらもうけたズーラが、ついに解放されたヴィクトルと会うシーンでは、子供を抱いたカチマレクの目もかまわず「好きよ」と声に出しながらヴィクトルに駆け寄って抱きしめてみせて、やがて迷いなくわが子すらを棄てることになるズーラとそれを気にもとめないヴィクトルは既にこの時点で人であることの存在を手放していたのだろう。その後ほとんど幽鬼と化した2人の道行きとその終着は、世界を相手に共闘したCOLD WARの、わけても世界から蹴り出されたズーラがその個人性を全うしたことの証であったようにも思えたのだ。『イーダ』では終始抑制されたカメラがついに昂ぶるイーダを追って歩を乱したのとは対照的に、ここではヴィクトルとズーラの間で揺れ続けたカメラがラストではまるで2人を鎮めるかのように凝視して、それまでずっと溢れていた音楽を静かにそよぐ風の中へとミュートしていく。『イーダ』と『ズーラ』はパヴリコフスキにとっての『大理石の男』および『鉄の男』であったようにも思えた。
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2019年07月05日

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム/青春の光と糸

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『ホームカミング』で揃いのTシャツを着たクラブの面々の中、ひとり白けた顔つきでMJ(ゼンデイヤ)が読んでいたのがモームのビルドゥングスロマン「人間の絆」であったことを思い出してみれば、今作の終着点がロンドンであったことはすでに予告されていたような気もするのである。モームは人生の意味を問う主人公に、ペルシャ絨毯にその答えがあると告げてみせていて、言ってみればこれはピーター・パーカー(トム・ホランド)がその答えを手にするまでの物語ということになるのだけれど、自分は何者なのか、ヒーローなのか、ヒーローになりたいだけの少年なのか、そもそもヒーローとはなんなのか、という青い魂の彷徨を、かつて『コップ・カー』で泣きべそでは解決しない世界のことわりを時速100マイルで超えていく少年の意地と涙を燃やしたジョン・ワッツが、『ホームカミング』ですらが前奏であったかのようなパワーコードでぶち抜いていく。『スパイダーバース』におけるディケンズの「大いなる遺産」やMCUスパイダーマンにおけるモームの参照が、互いに計算されたデザインであったのかシンクロニシティであったのか、いずれにせよ語り手たちはこれらユニヴァースが現代の長編小説として、観客、特にティーンエージャーのピーター・パーカー世代の人生とその世界を照らす灯りとして機能することを望み、その責任を正面から引き受けていたように思うのである。今作においてスパイダーマン=ピーター・パーカーは、大人にならなければ正しい道を知ることはできないという、大人たちがかけた呪いを解くためにヒーローであることを受け入れるわけで、そうやって父殺しという通過儀礼をもはや必要としない水平な世代の風通しと見晴らしを新たなMCUのフェーズとして宣言してみせたのではなかろうか。いまだトニー・スタークに囚われた日々のアイアンスパイダー・スーツから、闇の中でさまよう漆黒のナイトモンキー・スーツを経て、泣きながら目を醒ましたピーターが最後に選んだスーツの鮮やかな赤と青のコントラストこそが、アイアンマンとキャプテン・アメリカの遺志を受け継いだそのサインであったことは言うまでもないだろう。そしてそのご褒美はと言えばまるでジョン・ヒューズなスパークリング・キスなのだった。シュワッ!てね。
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2019年07月01日

X-MEN : ダーク・フェニックス/気ままな神の作りし子ら

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これまで幾度となく目にしてきた、話が口ごもった時のジーン・グレイ頼みを思い出してみさえすれば、その彼女を主役に据えた時点でとっくに口ごもってしまっていることがうかがえたし、ではいったい何をそんなに口ごもってしまっているのかと思えば、それはおそらくチャールズの鬱陶しさって金八先生に通じるところがあるよねといううんざりと投げやりだった気もするわけで、劇中で8歳のジーン・グレイと出会った時のチャールズ(ジェームズ・マカヴォイ)に被せられた中途半端なロン毛カツラといなたいジャケットがかつての武田鉄矢のようであったのはただの偶然というわけでもないだろう。そしてこのチャールズこそがブライアン・シンガーその人であったことを忘れずにいてみれば、倦怠と猥雑とタナトスゆえの生命力を発揮することで一瞬息を吹き返した『ファースト・ジェネレーション』でそれを牽引した不埒なセックスマシーンとしてのエリック(マイケル・ファスベンダー)を『フューチャー&パスト』『アポカリプス』と徹底して追い込むことで、非現実の王国版「3年B組金八先生」(以前は「ビバリーヒルズ青春白書」かと思っていたけれど)に心血を注いだブライアン・シンガーの功“罪”が浮かび上がってくるわけで、今作で目にする去勢されたエリックの無様はその最たるものであった気もするのである。スケバン(ジェシカ・チャスティン)にそそのかされる問題児ジーンに捨て身で向き合うチャールズの人生訓話にコロッと改心するクライマックスの昭和感は、丸腰で火中の栗を拾わざるをえなかったサイモン・キンバーグがどのみち溺れてしまうとはいえ溺れる寸前につかんだ藁であったのだろうし、歴史と併走するコンセプトなどという難題を背負わされたことで、X-ジェットで宇宙に行けるテクノロジーを所有しながらスペースシャトル計画を生温かく見守るチャールズたちのいけすかなさを回避することもかなわなかった不幸も推して知るべしということになる。結局はX-MEN迫害と内ゲバの歴史をブライアン・シンガーのルサンチマンがのっとってしまったことで、ブライアン・シンガーのコンディションがそのまま映画のクオリティを左右してしまう不幸が最後までこのサーガにまとわりついて離れなかったように思うのである。まるで、ハリウッドから葬られ消えていくブライアン・シンガーの怨念がX-MENを道連れにしたかのようで、彼にとっては有終の美であったと言えるにしろである。
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2019年06月28日

海獣の子供/血も涙も水

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動かないものが動き出す、目の前のこれがワタシがそう願うアニメーションだなあと、五十嵐大介の画が、境界のあわいで揺らぐ線のふるえもそのままに、そして初めて見るはずのその色が、ああ確かにこんな色だった、でもこんなに見たことのない色だったとは今の今まで知らなかったとばかり、無いはずの記憶を片っ端から塗りつぶしていくわけで、ああ日本でもアレが解禁されていればソレを胸いっぱいに吸いこみながらいったいどんな風に翔んで潜っていけたのかと、まだ見ぬサイケデリアに想いを馳せては眼前のトリップに身も心も委ねてみたのだ。元々、画が自らを解き放つために物語を必要としたのが五十嵐大介であるから、この映画にメッセージを探すこと自体が没入(黒丸尚風にルビはジャック・イン)のノイズになることはあらかじめ承知しておくべきで、そうした意味で琉花をナヴィゲーターに据えたのは精神の合理化を目指した脚色だったように思うし、彼女に忠誠を誓うことでワタシたちは物語の奴隷になることなく、個人的で替えの効かないワンオフの体験を手に入れて持ち帰ることが許されたように思うのだ。狂騒の後、原作では「夏休みの始めに出会った人たちは、秋風の吹く頃にはみんないなくなっていた」という琉花の虚無がモノローグで記されるのだけれど、映画では13番との邂逅による円環が琉花の損なわれなかった帰還を描くことで、うっすらとあった喪失と再生、死と誕生の外枠が琉花の成長譚に置き換えられていて、それから後の加奈子の出産シーンとの繋がりがいささか希薄になった気がしないでもないにしろ、壮絶なインナートリップの酩酊を醒まして少しは人心地をつかせて観客を帰すことを配慮したのだろう。何はともあれ、原作ではたった1カット、光と思しき筋だけが描かれた空の「離陸」シーンにあの速度を決定した勇気と想像力をワタシは尊敬する。
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2019年06月26日

ジョナサン−ふたつの顔の男−/おれに関するおまえの噂

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※展開にふれています。
あらすじだけ読むと最近のアンドリュー・二コルのようなチャラさが香るけれど、同じアンドリュー・二コルでも『ガタカ』に近い抑制の効いた好篇。

脳内に埋め込んだタイマーによって12時間ごとに人格を切り替えることで多重人格をコントロールする、という一歩間違えば着地で激突する設定のアクロバットを、そのテクノロジーの背景をSFとすることで自明とする語り口のミニマルで静謐なトーンも含め、いつしか沁み始めるその透明なメランコリーに『アナザー・プラネット』を思い浮かべたりもした。ジョナサン(アンセル・エルゴート)とジョン(アンセル・エルゴート)という2つの人格のそれぞれが過ごした12時間の出来事をビデオメッセージにして毎日互いに伝え合うことにより、自分の別人格と12時間越しの会話を行うアイディアが秀逸で、自分の人格が眠りにつく12時間の間は肉体すなわち生命を相手に委ねざるを得ない緊張と不穏が無言の抑止力となり、擬似的な一卵性双生児ともいえる関係が生み出す血の気の失せたサスペンスはエレナ(スキ・ウォーターハウス)という一人の女性の登場によってそのバランスが崩れ始め、どこかしら『戦慄の絆』めいた奇形のトライアングルをうかがわせるのだけれど、最終的にジョナサンとジョンが選択するのはこの物語のこの設定であればこその決断で、光と闇の出会う場所に灯される黎明と薄暮の明かりが同時に照らしたようなラストは、闇しか知らずに生きてきた者が初めて光の中に足を踏み出すというその一点において彼らの考えた最良のハッピーエンドであったということになるのだろう。ラストのシークエンスは、たとえばアルジャーノン的なメロウの情動も概ね可能ではあったにしろ、監督はそれまで狂わせることのなかった正確な歩幅と息継ぎを最期まで貫いていて、非常にケレンの効いた、というか効かせすぎた設定でありながらそのケレンに身を任せることをしないストイックな語り口を維持することで非現実のリアルの強度を高めていて、その辺りを文体のダンディズムとして内部に蓄えての長篇デビューなのだとしたらこのビル・オリヴァーという監督の幻視はかなり信頼できるように思うのだ。髪型ひとつで光と影を演じ分けるアンセル・エルゴートのヴィヴィッドで神経症的なまなざしを見るにつけ、彼はどちらかというと引き出されると繰り出すタイプであることを感じて、その点に無自覚なままタイプキャスト的なフィルモグラフィーに埋没してしまう一抹の不安を感じたりもした。
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2019年06月23日

ハウス・ジャック・ビルト/ジャックはジャッキを持っていない

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自身のミソジニー的な振る舞いが、底知れぬ未知を抱える存在としての女性に対する恐怖心に因っていることを分析し、『アンチクライスト』からこちら、自らをシャルロット・ゲンズブールに仮託することでそうしたオブセッションを鎮めるべく画策し、彼女に「人間の特性なんてたったの一言で言い切れるわ、それは“偽善”よ」と叫ばせたことで憑きものでも落ちたのか、「なんでいつだって男が悪いんだ?女はいつも犠牲者で男はいつだって犯罪者なんだ」とぼやくジャック(マット・ディロン)に「でも君の話からすると君に殺される女性たちはみな馬鹿に思えて仕方ないんだが、そうやって彼女たちに優位に振る舞うことで君は昂奮してるんだろう?」とヴァージ(ブルーノ・ガンツ)がまぜっ返せば「いやいや女性たちの方が概して殺されることに協力的なんだよ」と真顔ですっとぼけさえしてみせるのである。それもこれもすべては神聖なる芸術に殉じるためで、その証として俺は完璧な一軒の家を建てねばならないのだとうそぶきつつ、次第に家のことなど忘れていくジャックは俺が現れ殺す処すなわち芸術なりとマニフェストを書き換え始め、そのスラップスティックで引き攣った道行きは今さら言うまでもないにしろコメディに相違ないわけである。そしてそれは計算されたコメディというよりは現在のトリアーが抱える躁病的な病質そのものといった方がふさわしいようには思うのだけれど、ジャックの語る物語に書き込まれる赤いヴァン、赤いジャッキ、赤いキャリーケース、赤い電話、赤いキャップ、赤いローブを血の徴にメメント・モリとするのはあまりにも楽をし過ぎではないかと躁病の目の粗さをいぶかしんでいたところが、その赤が意味するところは果たして何だったのか、それが明かされるラストの、諸君、安心したまえ、言うまでもなく俺は地獄に堕ちる人間で俺もそれをよく分かっているよというトリアーの最後っ屁とも言える開き直りがほんの一瞬とはいえ清々しくさえあったし、それについては、確かに不埒な殺人と死体にあふれた懺悔であったとはいえ、トリアーに通低するセックスも死も肉体のある状態にすぎないというフェティシズムの無縁も手伝っていたように思うわけで、その特殊な乾き方もあってか露悪が沁み込んでくる嫌悪感は巷間ささやかれるほどではなかったようにワタシは感じたのだ。それは第3の件での例のあれこれにも同様で、そこに至る道程からすれば彼らが赤いキャップをかぶった時点でそれは予期されたし、彼らにしたところがジャックにとってはワンオブゼムに過ぎないというある種の公平さがワタシにとっては生理的な嫌悪感を抑え込んでいたわけで、では先だっての『ハロウィン』のように直截的な描写さえなければ行為そのものの禁忌は免れるのかといささか口を尖らせてみたりもするのである。ちなみに母親へのとどめの一撃は弾着のタイミングがほんの微細ながら早すぎはしなかったかと、ワタシはそんな風に観ている観客ではある。かと思えば第2の件では絞殺された死体に添えられるのが失禁(『アメリカン・アニマルズ』のような)ではなく目尻から流れる一筋の涙であったりもするわけで、狂人には狂人なりのわきまえがそこにはあることを描いてはいたように思うのだ。おそらくは自他が認知する病質を抱えたままトリアーは可能な限りの社会性を総動員して映画を仕上げているのだろうことを思ってみた時、ある側からしてみればどの口がそれを言う?とでもいう「愛もまた芸術なのだ」「愛がなければそれを芸術とは言わない」などの言葉をトリアーが心の底から信じていることがうかがえたりもするし、トリアーが自身を生かしている理由がグレン・グールドのピアノでありリチャード・ククリンスキーの人生であり、デヴィッド・ボウイのプラスティックソウルであるとするならば、何のことはないワタシも彼と変わりがない人間ではないか。観ていると何だか笑えて仕方がないのは、鏡に映った自分への照れ隠しであったに違いない。
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2019年06月18日

旅のおわり世界のはじまり/前田敦子は白い山羊の夢を見るか?

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バイクの後部シートから降りた葉子(前田敦子)が脱兎のごとく走り出すその後ろ姿に、『岸辺の旅』で車道を斜めに横断し猛然と走り去っていく深津絵里の背中が一瞬重なり、深津絵里のそれが生者のなしうる運動そのものであったのに対し、この葉子は道路を横断するたびにようやく少しずつ“人間めいて”くることになるわけで、したがって彼女のそれは渡って往くのではなく渡って来つづけていると考えるべきなのだろう。それくらい葉子の情動からは“情”が隠されたまま、いかなる場所でいかなる時であってもその輪郭が1ミリたりとも世界に滲んでいくことはなく、その相容れなさの異質はまるで違う星から迷い込んできたエイリアンのようで、異郷の地にさすらうその足取りにはどこかしら『地球に落ちて来た男』の漂泊が浮かんでくる気もしたのである。ワタシは前田敦子と言う人の出自と名前を知っているだけで、数本の映画で観た以外は何をどんな風に活動してきた人なのかまったく知らないのだけれど、『もらとりあむタマ子』を成立させていた“主演女優が力学の中心力を放棄してしまうことで生まれる終始の凪”がここでは鬱屈する真空を掴まえ始めていて、今回の黒沢清はその移動する真空のフォルムをいかに乱すことなく追い続けるか、その一点に注力するためには他の運動の一切を手放してもかまわないと腹をくくっていたようにすら思えたのだ。人前ではかろうじて人間のように動いていたエイリアンとしての葉子が、誰もいないホテルの部屋に戻るなり擬態を解いたかのようにぐんにゃりと崩れ落ち、劇中でただひとり葉子だけが持つことを許されたスマホを叩きまくってはLINEと繋がる姿は遠く離れた故郷の星の同胞と通信するExtra-Terrestrialとしか映らないわけで、こんにちは、ありがとう、という最低限のウズベク語を覚える素振りもなく、にもかかわらずまるで覚えたてのようなヒューマニズムで山羊の生命を測る皮相や、警察官の至極まっとうな説諭にもただ叱られたという感情のスイッチで流す子供の涙などなど終始ヒトガタとしての葉子であったからこそ、ラストでたどり着いたワタシたちは最終的に独りなのだ、愛はそれを知った者にのみ許されるのだという地上の人間のコアを認識することで葉子はついにニンゲンになったようにワタシには見えた。人間ではないものが限りなく人間のように動きながらそこに感情の湿度はない、黒沢監督が前田敦子に見ているのはそうした叙事の極北なのではなかろうか。拷問のような遊具で葉子をなぶり続けるシーンに隠さない監督の絶対零度の欲望が痛快でワタシは声を出して笑ってしまった
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2019年06月14日

スノー・ロワイヤル/その血で俺を温めろ

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沈痛な面持ちで死体安置所に立ち尽くすネルソン・コックスマン(リーアム・ニーソン)や刑事たちの前で、いちばん下のチェンバーに収容されていた息子の遺体は、おそらくは検死官がペダルか何かを踏んでいるのであろうキコキコキコキコという素っ頓狂な音を響かせながら、葬式でクスクス笑いをこらえきれない子供のいたずらのようにゆっくりゆっくりとカメラのフレームの中へせりあがってくるのである。普通に考えれば、カメラがとらえやすい真ん中のチェンバーから引き出された遺体の顔に息子を確認してネルソンが悄然とするただそれだけのシーンを、これから始まるネルソン・コックスマンの物語は澄ました諧謔とうすら笑いの悪意、あふれる緊張と垂れ流される緩和をスパイスで味付けしてお出ししますという粋な能書きに仕立て上げた監督のセンスに、ああもう今日はおまかせでお願いしますという気分だったのである。雪の中、真顔で走り回る悪党たちが家に帰るかのように淡々としかし奇天烈に死んでいく白昼夢はどこかしら『ファーゴ』の痙攣するオフビートに通じる気もしたし、死がジョークでしかない世界にあってはもはや駄話以外する気はないねというある種のダンディズムを遂行するために、ならば駄話の通じないキャラクターは邪魔ものでしかないとばかり妻グレース(ローラ・ダーン)ですらをあっさり途中退場させては、ネルソンにしたところでそれをことさら気に病む素ぶりも見せることもなく、そうやって良心の呵責や不謹慎とかいった浮世のくびきから解き放たれた男たちは鉛玉を使った雪合戦に真顔で興じ始め、ネルソンの復讐劇もまたその風景の一部でしかない、いい大人たちのよくない生態が慈しむようなペーソスで描かれていくわけで、それらのすべてがくだらないとばかり出ていったグレースだけが真人間だったということになるのだろう。それはすなわち、真人間の中の真人間として表彰すらされたネルソンの反乱であったともいえるわけで、これを一人の男が自身のミッドライフクライシスを打破する物語として捉えてみた時、ラストに吹く風の優しさが少しだけ身に沁みるようにも思ったのだ。監督の提示する抑制された含み笑いの意味を理解した役者たちはみなそれを心地よさそうに演じてさわやかですらあるのだけれど、なかでもネルソンの兄ブロックを演じたウィリアム・フォーサイスのアメリカン・ノワールそのものとしかいいようのないまなざしや佇まいが相変わらず絶品で、まるで、結局は割に合わない死に方をするエルロイ作品の準主役がページから転がり出てきたようだし、そんな風にして彼がいつの日かマイケル・マドセンの手にかかって惨殺される瞬間をワタシは夢見て止まないのである。
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2019年06月11日

誰もがそれを知っている/血は争える

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戸口に立った聡明で美しい妻ベア(バルバラ・レニー)と、彼女の向こうに広がって見える緑の農園を見やるパコ(ハビエル・バルデム)を捉えたショットは、やがて彼が失うことになるそれらへの予感めいた郷愁であったのか、彼もまたファルハーディ作品の主人公が引き裂かれてきた“永遠の最悪”と“最悪の最後”の選択を迫られることになるのだけれど、その選択の果てにベッドにひとり横たわったパコがうっすらと浮かべる笑みは、それによってすべてを失い周囲を不幸にしたとしても彼の中には小さく光る幸せが灯ったことを告げていて、そんな風に世界と刺し違えながらも救いを手に入れた人間がこれまでファルハーディの作品に見当たらなかったことを思って見る時、犯人の正体を知ったあの2人がその秘密にどう向き合うのか、“永遠の最悪”として胸の内にとどめるか“最悪の最後”として断罪してみせるのかファルハーディとしかいいようのないラストへとやや強引に舵は切られ、それが新たな“Everybody Knows(原題)”という呪いとなってあの一族を苛むだろうことを予感させるて幕は閉じられる。『別離』以降、実存の不安を夫婦という血の繋がらない「家族」の闘争と決壊で描いてきたファルハーディが、ここでは夫婦という縦糸に血族という横糸を織り込むことで「家族」というさらなる地獄を彫り込むことに挑んでいて、完全な非イラン圏の物語としてスペインのある田舎の一族を舞台にしたのもいっそうの普遍性を求めてのことだったのだろう。群像劇のアンサンブルを紡ぐ手さばきは既に『彼女が消えた浜辺』でその手管を見せつけてはいたものの、これまで測ってきた孤島のような都市生活者の距離感を手放して懐にもぐりこむ土着のステップを、しかも異国の風土で獲得するのはさすがにファルハーディと言えどもいささか荷が重かったのではなかろうか。ラウラ(ペネロペ・クルス)の義兄の知人で事件が起きるまでは家族と縁もゆかりもなかった元警官ホルヘ(ホセ・アンヘル・エヒド)の突然の介入によって絞り出すサスペンスには正直言って苦戦の跡がうかがえたし、血縁の外部で行われる地主と小作人の階級闘争的な斬りつけも縦糸と横糸に絡まったまま不発に終わってしまっていたように思うのだ。そしてこれは言っても詮無いことなのだけれど、これまでは普段知ることのないイランの俳優たちが演じることで成立していた匿名性ゆえのいつ誰からどんな刃(やいば)が飛び出すかわからない緊張感に比べると、ペネロペ・クルスとハビエル・バルデムというよく知った俳優たちが備える刃の切れ味や美しさが良くも悪くも調和の内にあることで、こちらが感情のありかを先回りしてしまうのも、本来ならば精緻で微細に描かれていく波紋が意図通りに広がっていかない一因となっていたようにも思ってしまう。しかし、人間の孤独と絆が絡まり合う「家族」という天国と地獄の間を、まるで山田太一の志を継ぐかのように描き続けるファルハーディにとって今作はあくまで習作にすぎず、その歪さはあらかじめ織り込み済みであったようにも映るわけで、なかでも救済の底に触れて戻ってくるパコの姿は今後の新基軸となるようにも思っている。劇中ではある仕掛けとして公然と用いられはするものの、ドローン撮影によって手に入れた鳥の目の誘惑からはファルハーディですら逃れられなかったのだなあと、らしくない浮力を感じたりもした。
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2019年06月05日

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ/私は如何にして心配するのを止めてゴジラを愛するようになったか

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ついにピアノ線のくびきから自由になった怪獣たちが空を狭しと翔びまわる中、人間たちは前作にも増してはりぼてのドラマを繰り広げ、しかしそのことに関しては、ギャレスですらが怪獣と人間のW主演を処理しきれなかった反省というか開き直りの上で行われたことなのは言うまでもなく、人類が滅亡するわけでありません、私たちはもう一度怪獣たちと一緒に出直すのですとサノスのごとくまくしたてるエマ(ヴェラ・ファーミガ)に対し、字幕では「狂ってるわ」ながらあきらかに”That Bitch”か”Damn Bitch”、要するに「くそ女」と吐き棄てたチェン博士(チャン・ツィイー)の冷たい横顔にゾクッとさせられただけでワタシは十分な気もしたのである。前作でも顕著だった平成ガメラが取り込んだガイア理論の援用は言うに及ばず、G3でガメラを追い詰めたコラテラル・ダメージを暴走するエマのエンジンにしつらえたあたり、平成ガメラシリーズの世界観が怪獣の物質化という命題においていかに有効かつ魅力的であったか今更ながら実証された気がして、誰に対してかは知らぬまま何だかざまあみろという気分すらが蘇ってしまっている。人間サイドのストーリーとしてはエマと芹沢博士(渡辺謙)のマッドサイエンティスト一騎打ちが望ましかったところが、補助線としての真人間を書き入れておかなければ不安でしかたなかったのか、マーク・ラッセル(カイル・チャンドラー)を同じことを二度言わせるための存在として投入したことで、ほとんどの停滞は彼が引き起こしてしまっているという損な役回りを背負わされてしまったのは同情の余地があるにしろ、前回のブライアン・クランストンのように彼を退場させることでエマの変節を促してもよかったのではないかと思うくらいには彼の重心は最後まで希薄なままだし、中心にそうした人間が一人いると感情の移動が軽く安く思えてしまうのも当然で、その点についてはやはりエラーというしかないだろう。怪獣たちがこの世をひたすら破壊しまくる総進撃の時間において監督の妄想と幻視が縦横無尽に炸裂している様を目撃することで、それら吹けば飛ぶような人間ドラマも含めた上での昭和ゴジラへの妄執と憧憬であったのだろうと考えてみれば、それはそれで見事であったとしか言いようがないにしろである。ワタシたちは「怪獣」と呼んでいるけれど、劇中での呼称が”Titan”であることを考えればある程度の擬人化はやむを得ないにしろ、最後にラドンがみせるあのしぐさをギリギリのラインにとどめて欲しいのが正直なところではあって、その巨大さと破壊の力に神々しさを宿らせておくためにも人間臭さなるものは可能な限り排除してもらいたいと考える。ラドンはまるで『仁義なき戦い』の田中邦衛のようであったよ。
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2019年05月30日

レプリカズ/これより他に生きるを知らぬ

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いくつか面白くなりそうなターンがあったのだけれど、いずれもこちらが身を乗り出しかけた方向とはことごとく逆に舵を切ることで、何とも冗談の通じない、言ってみればキアヌ・リーヴスという人の抱える危うさを世に晒してしまったという点で非常に危険な映画であったように思うのだ。明らかに骨子としてはフランケンシュタインの怪物というマッドサイエンティストの悲劇を頼っておきながら、それを全面的なハッピーエンドへと着地させようとドクター・ストレンジ的に言えばおよそ1400万分の1ともいえる勝利ルートを107分間のうちにノーエラーで走り抜けてしまうため、陰影のざわめきや機微の震えといった感情の深彫りには目もくれないまま、ただそこにはひたすらキアヌ・リーヴスがキアヌ・リーヴズのまま立ち尽くすばかりだったのである。妻と3人の子供たちの不在をとりつくろうためキアヌがそれぞれの家族になり代わって日常を維持するシーンなど、研究にかまけて自分がいかに家族のことを知らずにいたのかという内省につなげるのかと思いきや、キアヌが真顔で繰り広げるスラップスティック気味の悪戦苦闘をほんの一瞬苦笑いさせるだけで通り過ぎてしまうし、再生した妻や子供たちが迎える最初の朝に見せるある描写に、やはり『ペット・セマタリー』的な禁忌の代償がキアヌを襲うのかと思いきや、何のことはない見たままそのままで一安心!といった事あるごとの“思いきや”に、ああこの“思いきや”はケイジ・ムーヴィーでおなじみの“思いきや”だ、予算も人員もそれがもたらすクリエイティヴィティも足りていない場合、見て見ぬふりをしてしまう“思いきや”だ、と合点がいったことで、ことさら腹も立たず悲しくもならずに済んだ点について、そんな引き出しを作っておいてくれてありがとうと、あらためてニコラス・ケイジに感謝などしてみたのである。俳優という他人の人生を創り上げる技能に生きる者において、役者本人の生きざまや人となりがスパイスとして投影されることが果たしてどう評価されるべきなのか、キアヌ・リーヴスの場合、いささか度を超えた生真面目と誠実の茫洋がある局面においては緊張と緩和の得も言われぬバランスとなっていることは言うまでもなく、キアヌが静止し続けることで周囲の回転がより緊張をはらんだ高速に映るというその効果を知覚した演出家においてその効果は絶大なのだけれど、今作のようにキアヌ自身でスピンさせるべく働きかけた場合、真顔のままやってきては去っていくだけの朴念仁に映画が終始してしまい、真ん中にいて懸命なキアヌの笑えない痛々しさだけがチェシャー猫の笑いのようにはりついてしまう気がしてならないのだ。したがって、今作において静止するキアヌに煙幕をはるには “別のなにか”として帰ってきた家族がその予期せぬ特性によってキアヌを呪うのか、あるいは救ってみせるのか、そうすることによってようやくキアヌは、かつがれた神輿の上で所在なさげに立ち尽くすことが許されたように思うのである。キアヌ・リーヴスが愛すべき俳優であり映画人であることは言うまでもないのだけれど、愛し方をまちがってしまうと本人にとっても観客にとっても幸せとはいえない事態に陥りやすい厄介さも備えた俳優であることもまた確かなわけで、静止したキアヌを愛でるという野心作『おとなの恋は、まわり道』をご覧になった人なら奥歯にモノがはさまったようなワタシの愛憎が理解していただけるかもしれない。あれとてウィノナが最強の担ぎ手なればこそであったのは言うまでもないけれど。
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2019年05月27日

ガルヴェストン/嵐に呼ばれた男

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日の沈んだ世界しか知らぬ男が、ガルヴェストンの浜辺で目を閉じ陽のぬくもりを感じながら人生のあしらいに想いをめぐらし、傍らではいまや彼の守護天使となった娘がありがとうと微笑みかけて、俺は幸福に嫌われていたのではない、俺が幸福を遠ざけていただけなのだとそれを知る。ならば手遅れな俺にできるのはこの幸福をこの娘に繋げてやることだと決めた瞬間、寄せては返す波のようにそれは彼の手を離れ、果たしてそれは良い夢だったのか悪い夢だったのか、答えを知るために彼はひとり20年を過ぎてガルヴェストンで待ち続けている。40歳のヤクザなロイ(ベン・フォスター)と19歳の娼婦ロッキー(エル・ファニング)が出会い、しかしそこには愛も恋もセックスもないただ互いを思いやる感情のつながりだけがあるという絵空事のような物語を、だから私はその絵空事が正解になる世界を撮ることにしたのだというメラニー・ロランの強くて柔らかいしなやかさが、すでに血を流しすぎたノワールを子守唄のように寝かしつけていく。ロイのそれはある決定的な誤解によってはいるものの、自分に残された生を凝縮することでそれを俯瞰する視点を持ち始める主人公の孤絶は『25時』を想い起こさせると同時に、ロードサイドの逃亡者となった彼らが漂泊するアメリカの原風景を辿ってみれば、まず最初に出くわすのは『セインツ ‐約束の果て‐』であった気もして、そこでもベン・フォスターはあらかじめどこへも行くことを許されないまま誰をも抱きしめずにいたことを想い出さずにはいられないのだ。それら引用するタイトルからも明らかなように、メラニー・ロランが描くのはアメリカン・ノワールの自滅して下降するセンチメントというよりはフレンチ・ノワールが放つ自己愛による甘い腐臭により近いように感じられて、ならば94分というタイトに刈り込まれた時間にあと10分ほど追加してみることで、いったいこれがどのような物語の途中であったのか見失うくらいに、モーテルで過ごす無為で倦怠したそれゆえに自由な日々を描いてみせるべきではなかったかと思ってしまうのだ。若いチンピラとの絡みなど距離の詰め方と不穏の醸造がいささか性急すぎて展開のための手続きといった感がぬぐえない気もしてしまったし、せっかく魅力的な陰影をつけたモーテルの管理人が特にロッキーとの関係性において生かされていないのはいささかもったいなく感じてしまった。それにしてもエル・ファニングである。自分がとても優雅で美しいことに気づかないまま、どうしていつも私は撃ち落とされてしまうのだろうと首をかしげる一羽の鳥の哀しみが年を増すごとに彼女の艶となっているようで、うかつにキャスティングすると映画が奪われてしまう危険な女優になりつつある気すらしてしまう。どうにも忘れがたいラスト、俺には正直でいろ、そうすれば俺もおまえに正直でいる、とロッキーに約束したロイは、夢の答えを確かめた後で、ハリケーンの上陸を待っていたかのようにひとりあの浜辺へと歩を進めていくのだ。虐げられた者たちへの祈りにも似た、血を吐くようなロマンスをあなたに。
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2019年05月22日

アメリカン・アニマルズ/いつも同じ時間に退屈になる

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「彼らは楽をしようとしたのでしょう。成長のために経験を積もうという考えが彼らにはなかった」とベティ“BJ”ジーン・グーチ(アン・ダウド)が語る言葉こそが、この無様で滑稽な4人を断罪するにふさわしいのは重々承知の上で、どうしていつもいつもこの世界は世界のままなのか、何をすればその顔がほんの少しでも歪むのかと言いがかりのように苛ついた身の覚えのせいなのか、彼らを笑うことなどできるはずがないどころか同族嫌悪とも言える吐き気すら覚える始末だったのだ。バイト先の倉庫から肉の塊を盗み出し警備員を振り切った程度の逃げ足で「アイム・アライヴ(今おれは生きてる!)」と満面の笑みを浮かべるスペンサー(バリー・コーガン)とウォーレン(エヴァン・ピータース)にとって、1200万ドルの稀覯書はせいぜいがより高級な肉の塊に過ぎないわけで、美大生であるスペンサーがオーデュボンの版画に対する芸術的なアプローチの一切を見せないあたりに彼の死にっぷりが否でも窺えて、君は作品で何を表現したい?君は芸術家としてどうありたい?と質問されて答える言葉を持つことのないスペンサーの死んだ目こそがこの映画のトーンを決定したといってもいいだろう。そのあたり、運動部の奨学金で入学しておきながらスポーツ馬鹿ばかりだと毒づいてチームの一切にケツを向けるウォーレンもまた同様で、このすべては死人を自覚する彼らが自らに施した電気ショックにすぎないことを思えば、BJの言葉と彼らが100万光年を隔ててすれ違うのはやむなしとすら思ってしまう。そのうち当の本人たちがカメラの前に現れてかつての自分たちを自ら断罪するに至り、すべてを否定された2004年の彼らはまるで集団リンチを受けるように追い詰められていくこととなるわけで、どこかしらオフビートなピカレスク風に語られるこの映画を苦笑いとしてすら笑えなかったのは、その善悪や正誤に関わらず彼らなりに切実であった世界との接続がすべては身から出た有害な錆でしかなかったというその逃げ場のない痛々しさによっていて、「老人はこの社会では視えない存在なんだ」としたり顔でうそぶきつつ徒党を組んだ4人の老人が学生たちの只中に現れて浮きまくる笑えないコント、アムステルダムのバイヤー(よりによってウド・キアー)やクリスティーズの鑑定人といった楽をしてこなかった大人たちの前に現れた時の彼らがまとう圧倒的な借り物感と未熟さの惨めさ、などといった彼らが真顔でいればいるほど傷口に塩をすり込んでいく残酷な回想はいつしか2018年の本人たちへの不信すら呼び覚ました気がして、好むと好まざるに関わらず2004年の自分とそれ以外の自分との二役を永遠に演じていかねばならない彼らにいつしか憐れみや蔑みを抱かされている自分に嫌気がさしてしまう。NYの車中でチャズ(ブレイク・ジェンナー)に万死に値する致命的なミスをなじられて、どうして自分は今このまま消えてしまうことができないのか、むしろそのことの方がおかしいじゃないかとでもいう風に顔をゆがめ身体を捩らすスペンサーに憑依したバリー・コーガンが言葉を失うほどに凄まじい。揃いも揃っていなたいチェック柄のシャツを着た集団のバカ騒ぎに苛立って、彼らに殴りかかるエリック(ジャレッド・アブラハムソン)もまたチェックのシャツを着ているという底の抜けた哀しみにも引き裂かれる。レナード・コーエンの“Who by Fire(火に焼かれるのは誰だ)”が流れる中、踏みこんだFBIに次々と逮捕されていく彼らをスローモーションで捉えるシーン、頭に浮かんだのは「3年B組金八先生」で中島みゆきの“世情”が流れる中、機動隊に連行される加藤優の姿なのだった。なんというか加藤くんには申し訳ないのだけれど。
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2019年05月19日

オーヴァーロード/気分はまだ戦争

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ことさら冷えたわけでもない何なら水道の水を心ゆくまで飲み干したようなこの満足感は、おそらくこれがMCUの構造的欠陥ともいえる助ける者と助けられる者が交わす熱視線が縦横にめぐらされた英雄譚であったからだろう。ノルマンディー上陸作戦の先兵となったある空挺部隊が戦場におけるアマチュアとプロフェッショナルの危ういバランスの上でぐらぐらと揺れつつそのスイングを利用して、キャプテン・ナチスを誕生させんとするヒドラを壊滅させるこの物語において、アマチュアであるエドワード・ボイス二等兵(ジョヴァン・アデポ)とプロフェッショナルとしてのルイス・フォード伍長(ワイアット・ラッセル)がそれぞれに抱く「良心」のぶつかり合いが物語の推進力となって目的に向かい収束していくその構造をスティーヴ・ロジャースとトニー・スタークの黄金比に重ねてみれば、MCUでは語りきれない小さな大義がもたらす自己犠牲を心ゆくまで描くことで湧き出す浄化こそが、冒頭で述べた望外の満足感に繋がったのだろうと考える。そしてそれをなお可能にしていたのは、「良心」が容易に戦争を断罪してしまうことのないよう戦争映画としての装甲を徹底して強化していたことにもよっていて、敵地へ降下するまでのオープニングシークエンスでいきなり観客を阿鼻叫喚の地獄絵図に放り込み、生き残るためには手段を選んでなどいられない戦場の論理を全身になすりつけることでサスペンスの発火装置としての「良心」を弄び始める手口は非常にスマートだし、それを維持する(という建前もあって)ための暴力およびゴア描写をてらいなく加速させていくアイディアとそのサービス精神には胸が熱くなるばかりだったのだ。「良心」の命ずるままに迷走するボイスが、自分が蘇らせてしまったチェイス(イアン・デ・カーステッカー)の頭部をスイカでも潰すように粉砕して錯乱するシーンを合図に、「良心」の十字軍となった彼らとクロエ(マティルド・オリヴィエ)がナチスを虫けらのように血祭りにあげる怒涛の終盤と、ついには秘めた「良心」を全開にして「悪意」と一騎打ちするフォード伍長の侠気が打ち上げる花火の豪気、わたしは自分がわからないと眼を伏せたクロエが火炎放射器でぶちまけた焔に見つけた自分、そして止むことのない爆風を追い風に暗闇を走り抜けるボイスは光の中に飛び出していき、計画通り連合国はノルマンディー上陸を果たすこととなる。といった風に「良心」と「悪意」を消費する戦争エクスプロイテーション映画がなぜこれほど痛快で爽快なのか、MCUが様々に厄介な手続きをふみつつそれを食い止めてきた理由があらためてわかる気がしたようにも思うのである。暴力も戦争も初めから我々と共に在ったものだ、言うなればお前らの神がお造りになったものだ、崇拝しないでいいものか、とコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」の中で吐かせたあれは、やはりとても厄介だということなんだろう。
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2019年05月17日

ラ・ヨローナ 〜泣く女〜/水でも飲んで落ち着け

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『グリーンブック』では豚に真珠、もしくは掃きだめに鶴と崇められて映画の良心となったリンダ・カーデリーニが、ここでは主にサスペンスの発生装置としてやらかしては転げまわっている。ラ・ヨーロ誕生の哀しい経緯を現代(といっても舞台は1973年だけど)のネグレクトに関わる問題に絡める着想はタイムリーだし、主人公アンナ(リンダ・カーデリーニ)をそうしたケースを扱うソーシャル・ワーカーにしたことで、彼女を渦中に放り込む手筈も整っていたように思うのである。冒頭で彼女が担当する家庭の子供が不審死を遂げることでその母親がネグレクトを疑われ、その究明を進めるアンナも次第にその母親と同じ状況に追い込まれていく、というのがこの映画の神経戦としての構造となるのだけれど、ラ・ヨローナの脅威から子供たちを守る行為の特異性とその消耗が周囲には彼女によるネグレクトに映ってしまうという逆転があまりうまくいっていないことで、神経症的に苛まれる側面が霧散してしまっていて、たとえば修羅場の中で食事をつくるどころではなくなりTVディナーのような夕食となる場面があるのだけれど、アンナの息子を診察した医師が子供の腕に残るラ・ヨローナの徴を見てネグレクトを疑い、通報を受けたアンナの同僚とその刑事がアンナの家を訪ねることになるのだけれど、そのタイミングをなぜ子供たちがTVディナーを食べている場面にしなかったのか、それが育児放棄と映る格好の場面だったのにとその意図を疑うわけである。それともう一つ、アンナが巻き込まれるきっかけとなる母親が子供をラ・ヨローナから隠した部屋の扉の一面に描いた護符のような「目」の意匠は、その母親と同じ立場に追い込まれるアンナもまたそれを描くことになるとばかり思っていたものだから、それは『CURE』のうじきつよしの部屋を例にあげるまでもなく、恐怖の実体が自分に向かってくることを厚塗りする常套手段をなぜ手放してしまうのか、せっかくの伏線をなぜ活かさないのかもったいなく思ってしまう。とは言え、この神経戦の構造を維持するのが難しいのは、ラ・ヨローナのアタックが憑依型のそれではなく完全に肉弾戦を挑んでくるからで、ブヴァァァァという出囃子と共に現れてはただひたすら追い回して物理攻撃を仕掛ける猪突猛進はここのところのポスト/ポストモダンホラーの潮流からは完全に道を外れたモンスターのビックリ箱であって、そのドシャメシャが舞いあげる風が一瞬心地よかったのも確かではあるにしろ、本来はメランコリーに食い尽くされた化け物であるはずのラ・ヨローナさんが、いつしかキャシー塚本のように爆裂し暴走するその姿は彼女の本意であったのかといらぬ心配などもしてしまうわけで、死霊館シリーズ(The Conjuring Universe)において、前述したポスト/ポストモダンホラーの潮流とは異なる「見れば分かる」“ニューライン・シネマ”ホラーを新たな手口で研ぎ澄まし続けるジェームズ・ワンにとって、このスピンオフシリーズはある意味で実験的なアプローチの場であり、この直截性はあくまで一周回ってきた結果によっていると思うのだけれど、「見たまんま」と「見れば分かる」のカミソリ一枚ほどの違いをスリリングに感じるにはラ・ヨローナさんが少しはしゃぎ過ぎであったと、相応の呪いを覚悟で苦言を呈しておきたいと思う。
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2019年05月13日

ある少年の告白/ある少年の告発

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ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)の父親マーシャルにラッセル・クロウを据えたあたりで、『ビューティフル・ボーイ』的な人生の更新を受け入れていく父親といった構造なのだろうとそんなふうな予見でいたところが、ジャレッドを罪悪感で沈めつつ矯正/強制収容所送りにした人権搾取者たちの手からわが子を救い出す母ナンシー(ニコール・キッドマン)が、自身もまた搾取される側の人生であったことに中指を立てるレベル・ムーヴィーのムチに横っ面を張られると同時に、無垢の者ジャレッドが魂の監獄とすら言える施設からはたして脱出できるのかという『ミッドナイト・エクスプレス』のような心胆を寒からしめるサスペンスに段々と身じろぎができなくなっていく。マーシャルはバプテストの牧師であると同時にフォードのカーディーラーの経営者でもあり、彼が隠さない宗教的強圧からすればピューリタンの労働倫理的なお務めによって従業員を煽りつつ「ビジネス」を成り立たせているのは想像に難くないわけで、説教壇から会衆に向かって「この中で完璧でない人は手を上げて」「では完璧な人は手を上げて」と“不完全な我々”(自分はその中にいない)の共感を抑圧にすり替える口調が、施設のセラピストであるジョン・サイクス(ジョエル・エドガートン)が入所者を前に“治療”について語る時の、1ドル札を使った目眩ましの口上と似通うことはもちろん偶然ではないだろう。ジャレッドは、大学や施設でヘンリー(ジョー・アルウィン)、グザヴィエ(セオドア・ペルラン)、ジョン(グザヴィエ・ドラン)、ゲイリー(トロン・シヴァン)と言った彼と同様に悩み困惑し傷ついた人たちと出会うことで(彼に大きな傷を残したヘンリーですら)、自分達は教会や施設の人間が言う悪しきものではなく、不完全な善であるという一点においてすべての人たちと平等であるはずだという認識を確かにすることで、あなたが変わらない限りこの距離が縮まることはないのだと正面から父親につきつけてみせるのである。このラストにおいて、それでも父マーシャルが捨てきれずすがるのがマチズモの系譜としての父殺しで、せめておれを殺してから行ってくれと途方に暮れるその姿は悲しくも哀れですらあり、一人の母としてジャレッドと向き合うことで自分を囚えていた抑圧をも知ってそこから自由になることを選んだ母ナンシーの飛び立つような軽やかさとは光と影の対照をなしている。医学を信仰で、信仰を医学で量ることはできないし、それをできるかのように語る人間のそれは騙りであることを、劇中半ばで真摯かつ正直な言葉にしていた医師も女性だったことを想い出してみればいい。男たちの他はみなとっくに気づいて知っているのだ。
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2019年05月10日

ザ・フォーリナー 復讐者/爆弾銃弾肉弾糾弾

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リーアム・ヘネシー(ピアース・ブロスナン)に揺さぶりをかけたクァン(ジャッキー・チェン)が、その後ヘネシー配下のチームにベルファストでの宿を急襲されるシーン、ヘネシーの事務所に仕掛けた挨拶代わりの手製爆弾の手際にクァンが何らかの殺傷スキルを持った者であることが観客には暗示されていて、となれば先を読んだクァンは既に宿をもぬけの殻にしているか、もしくは何らかのトラップで彼らを返り討ちにするのか、いずれにしろ完全にクァンが狩る側にまわったことを告げて次のシークエンスに移るものだと思っていたのである。ところが、居場所を探知されることなど想像もしていなかったクァンは襲撃に慌てふためき、熟練した近接戦闘の動きを見せつつも相応のダメージを受けて命からがら脱出することとなる。考えてみれば、ベトナム戦争での特殊部隊兵士としての往時から数十年の時を経ることで身体も神経も錆びついているのは当たり前だし、染みついた本能の残滓があるとしても命のやり取りをして生き残る最前線の感覚からはもはや程遠いのは言うまでもなく、そうしたクァンの背景をジャッキー・チェンという稀代のアクション・スターの夕暮れに重ねてみせることこそがこのキャスティングの狙いだったことがわかった瞬間、ジャッキー・チェンではないクァン・ノク・ミンという男の哀しい目や丸みを帯びた背中がスクリーンをみなぎるように支配し始めて、お仕着せとしてのジャッキー映画どころではない元IRAメンバーとベトナム戦争の元特殊部隊兵士が暴力に彩られた互いの過去に喰われていく様を、締め上げた緊張と寄る辺のない彩りで描いた身を切るようなアクション映画として成立させている。ヘネシーと1対1で対峙したクァンが、お前らが使った爆弾はセムッテクスか?と尋ね、そうだと返されると、あれは戦争の時にチェコ人がベトコンのために作った爆弾で、アメリカ人をたくさん殺したあの爆弾でIRAがおれの娘を殺すことになるなんてとんだ皮肉じゃないか、と問わず語りに独白するシーンは、アクションがまるで介在しないながら今作におけるジャッキー・チェンのハイライトといってもいいだろう。あくまで復讐するのはテロの実行犯であって、たとえ自分の生命を奪いに来る者であってもそれ以外の人間を殺すことはしないという枷に加えて、リタイアして錆びついた肉体と神経というハンディを背負うことでクァンのアクションには切迫したサスペンスが生じ、元英国特殊部隊兵士にしてヘネシーの甥ショーン・モリソン(ロリー・フレック・バーンズ)と森の中で人知れず繰り広げる近接格闘戦には、『ハンテッド』のトミー・リー・ジョーンズvsベニシオ・デル・トロ戦を想い出したりもした。さすがに「特捜班CI-5」の昔からイギリスの狭い室内で繰り広げられるアクションをハイスピードで立体的に組み立ててきたマーティン・キャンベルだけあって今作の流れるような手さばきは見事というしかないし、アクションにこめられたドラマの意図に対するジャッキー・チェンの嗅覚と、大義に喰われたヘネシーという男の野卑なメランコリーを燃やし尽くすピアース・ブロスナンの精密と、特にジャッキー・チェンという俳優の解釈については、どうして今まで誰もここに手を付けなかったのかという驚きもあって徹頭徹尾腑に落ち続け、そしてそれは静謐なうちに暗転したエンドクレジットでさらに決定的となるのである。お前が歌うんかい!
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2019年05月09日

アガサ・クリスティー ねじれた家/馬鹿が名車でやって来る

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※鑑賞予定の方スルー推奨

原作未読。観ていながら、?と思った某有名ミステリとの類似はとっくの昔から指摘されてきたのだろうし、それを今さらあげつらうのも無粋だろう。結末の寄る辺のなさということで言えば某有名作品の方が圧倒的に好みだけれど、グレン・クローズを役不足とすることだけは回避したい、いや回避せねばならぬ!という並々ならぬ熱意と強い意志が込められたこの結末の突然発火するようなスペクタクルが何より映画としての勝利であったのは間違いない。原作を読んでいないためどのような脚色がなされたのかわからないけれど、何しろチャールズ・ヘイワード(マックス・アイアンズ)がいかなる推理能力を持つ探偵なのかが明らかにされないまま平坦なプロットが順送りにされていくだけで、それをヘイワードが何らかのアイディアによって撹乱してみせることをしないものだから、容疑者となる他のすべての家族はそれなりに癖のある役者がそれなりに癖のある造型をしていたにも関わらず、誰が真犯人でもおかしくないというミスリードに至らないこともあり、真犯人が浮かび上がるプロットの組み立てにまったく立体的な陰影がつかないまま、なおさらグレン・クローズの力技が際立って見えたように思うのである。すべてはこれがバッドシードものであることの煙幕ではあったにしろ、そこに至る複層が某有名作品に比べると薄くてヤワすぎるし、原作を読まずして判断するのはフェアでないにしろ、これを自身の最高傑作と言ってしまうクリスティとワタシの相性が良くないのはやはり仕方のないことなのかとさして必要のない再認識をした次第。チャールズが駆るBristol405もグレン・クローズが駆る Triumph TR3Aを筆頭に、屋敷や衣装もふくめた美術デザインは腰の座った成果を発揮しているのがなおさら空疎をあおる。空虚じゃなくて。
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2019年05月08日

ハンターキラー 潜航せよ/信じる者は浮かばれる

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プロフェッショナルの矜持とそれを認め合った者同士の熱い義侠心が、彼らを取り巻く者たちの忠誠心をスパークさせて上昇気流を生んでいくという、肉体というよりは感情のハードアクションがほとんど東映エクスプロイテーションのようである。しかし、それらを渾然と際立たせるには何らかの異化が必要となるわけで、それらグルーヴの外側に居てなおかつノイジーな通奏低音を鳴らす者としてのゲイリー・オールドマンこそがその責を果たしていたように思うわけで、ジョー・グラス(ジェラルド・バトラー)、セルゲイ・アンドロポフ(ミカエル・ニクヴィスト)、ビル・ビーマン(トビー・スティーヴンス)といった面々と対峙するだけの矜持は持たされず、かといって彼らを向こう岸から脅かしつづけねばならない上に、ほとんどセルフパロディとすら言えるゲイリー・オールドマン的狂犬演技を装いつつ『男はつらいよ』のタコ社長のごとく腰の軽いお騒がせ屋でもあらねばならないというそれなりに厄介な役どころを、ちょっと目盛りを合わせただけであっさり演じてしまうような喰えなさ加減が、この不意打ちと舌打ちのような映画の下支えとなっていたのは間違いがないところだろう。それにしても、いつからかそれが当り前とでもいうような口ぶりで語られる理詰めで可能性を拡げたり潰したりする映画の所作に中指でも立てるように、俺はあんたを信じてる、あんたはあいつらを信じてる、だから俺はあいつらを信じてるという三段論法だかなんだかよくわからない確信だけを手持ちの札としつつ米ソ開戦の回避に賭けるグラスが浮かべるのはほとんど狂人の笑みにも映り、そういえばこんな風なシネパトスもしくはシネマミラノ案件は久しぶりだなあと、実家にでも帰ったようなだらしのないくつろぎを覚えた理由に思い至ったりもしたのだった。ルッソ兄弟は2人だけでいい。
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2019年05月06日

芳華-Youth-/わたしたちが軍人だったころ

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青春を知らされぬ者を青春が庇護する者たちの楽園に放り込む酷薄な仕打ちは、ホー・シャオピン(ミャオ・ミャオ)とリウ・フォン(ホアン・シュエン)の2人を観客がわが身へと焼き付けることの、ほとんど脅迫にも似た念押しにも思える。模範兵の憂鬱と政治に踏みつけられた者の薄倖が特権階級のノンシャランにとってかわる因果応報的な逆転は最後までないまま、祝福された過去を今に繋げる術などない者は漂泊し続けるしかないことをシャオピンとリウ・フォンが互いの中に認めるラストの哀切こそが監督の視点であり、この物語を現代に語ることの意志であったのは間違いがないだろう。それにしても、なぜリウ・フォンのように清濁の曇りない眼を持つ者が、持って生まれた幸運に無自覚なまま微笑むリン・ディンディン(ヤン・ツァイユー)に惹かれてしまうのか、それはシャオピンが彼の恋愛対象にはなり得ないことの裏返しにも思え、政治的なマスコットとして英雄を生きねばならないリウ・フォンにとって、リン・ディンディンが生きる時の人生の霞を食うような無邪気は彼の屈託に差しこむやわらかな光にも思えたのだろうし、シャオピンの思いつめたような清廉はそれが強くて善い生き方によるのだとしても、リウ・フォンにとっては自家中毒をおこしかねない感情だったのではなかろうか。シャオピンの重ねての不幸は彼女が自身のために踊る術を持たなかったことで、父を失いリウ・フォンが去った後ではもはや彼女にとって踊ることは意味を失い、その後で暴走するかのように突き進む献身のふるまいが彼女を破壊してしまうその運命はどうにも不可避だったようにも思うのだ。何も持たぬゆえただただ善く生きようとした者、と言ってみればそれこそが人民の美徳であったはずが、それゆえに背負ってしまう苦難と果てのない流転を容赦なく叩きつけるこの作品はそうした人々への鎮魂であるのか自己批判であるのか、前半で描かれるきらめくような青春の楽園と、楽園を追われたものが地獄へと堕ちていく後半の、ほとんど別の映画とすら言える変転が観る者の退路を絶っていく監督の鬼気迫る筆さばきは寄る辺ないまでに容赦がない。シャオピンとリウ・フォンの地獄巡りで描かれる戦場や野戦病院におけるあけすけな人体損壊描写を目にして、どこか儚げに描かれてきた白血病のイメージに冷水を浴びせるがごとく死斑の浮いた土気色の徹底的にリアルな描写で臨終を描いた『サンザシの樹の下で』を思い出し、これが大陸の気風なのかはともかく、ショッカーとしてのゴア描写ではない物質としての肉体に対するプラグマティックな対峙が素晴らしく映画的に奏功することを再認識したのだった。そして一つ、高原地帯での慰問でシャオピンが代役として急遽ステージに上がるシーンがあるのだけれど、そこでシャオピンがいったいどのような踊りをしてみせたのかが描かれていないのである。実はこのシーンを含め146分版からいくつかのシーンがカットされた134分版をワタシたちは観ているのだけれど、ここで彼女が圧倒的なパフォーマンスを示すことで、このステージを最後に踊ることをやめてしまうシャオピンがどれだけかけがえのないものを棄ててしまうことになるのか、そもそもシャオピンとは誰だったのかを映画が叫ぶ抜き差しならないシーンになり得たに違いないと思うものだから、この点において画竜点睛を欠いたとしか言いようがなく思ってしまっている。
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2019年05月03日

アベンジャーズ :エンドゲーム/史上最大の侵略 後編

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※もちろんネタバレしています

『エイジ・オブ・ウルトロン』を観た時に記した“いつの日か戦うことになるあの敵について考えてみた時、この先に綴られるのは獲得や奪還ではなく喪失の物語となることを覚悟せよと告げていたようにも思えて、例えばウルトラシリーズの最終回にあった仄暗い愉悦をこれからはあてにせざるを得ないのだろうかと、トニー・スタークの体現するロック魂、すなわち疲れた体に宿る昂揚した精神に依存してきたワタシとしては少々気が重いのも確かなのである”という文章そのままの着地だったことや、すべてのクレジットロールが過ぎた後でかすかに響く11年前のあの音が遊び続ける子供たちを家路につかせる5時の鐘にも聴こえたこともあって、悲しいとかいうよりは優しく鎮められた気もしたのである。かつて「自分は非常に無責任なシステムの一部だった」と自己批判したあげく、過去はなかったことにしよう、これからはオレがオレの責任においてコントロールする!と飛び立ったトニー・スタークの苦味に満ちたノンシャランが現実でも地獄巡りをしてきたロバート・ダウニーJrに重なった瞬間にこそ、『アイアンマン』が虚実の壁を破って誕生したことを思い出してみれば、この大団円でトニー・スタークが「私はアイアンマンだ」とあらためて宣言してみせて西の空に明けの明星が輝く頃に宇宙へ飛んでいく一つの光となったことで、トニー・スターク=ロバート・ダウニーJrのビルドゥングスロマンとしてのMCUが永遠に円環する神話になったのだろうと考えている。ワタシとしては、誰も彼もが『ダークナイト』のように責任をとるわけにもいかないのは当たり前だと『アイアンマン』が11年前にその呪いを解いてくれた時点でもう充分だったものだから、思えばずいぶんと遠くまで来てしまったものだなあという感慨もあって、鳴らされた5時の鐘を素直に聴くことができたのだろう。映画のラストシークエンスはキャプテン・アメリカのターンで終わったように見えるのだけれど、ベンチに座った老スティーヴのセリフに「トニー」と聞こえた気がしたので調べてみたところが、オリジナルのセリフ"After I put the stones back, I thought...Maybe I'll try some of that life Tony was telling me to get."(石を返した後で、トニーが言ってたみたいな人生を送ってみるのもいいんじゃないかと思ったんだ)から字幕では「トニーが言ってたみたいな」の部分がまったく抜け落ちていたことで、ワタシのように字幕(と多分吹替も)で観た場合スティーヴとトニーだけにつながる絆がふっと浮かび上がる瞬間を失ってしまうことになったのが、なんとも残念に思えてならなかったのだ。今後このシーンを観る時、とりわけトニーのビートニクを愛した観客は字幕を脳内で補完するのが必須となるだろう。今作で一番美しかったのはIMAXのスクリーンに大写しになったエンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)の超クロースアップで、その神々しさはほとんどスターチャイルドのようであったよ。
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2019年05月01日

幸福なラザロ/ただしくてかなしい

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無垢と善性の象徴として立つラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ)であるけれど、若きタンクレディ(ルカ・チコヴァーニ)の目には、母であるマルケッサ・アルフォンシーナ・デ・ルーナ公爵夫人(ニコレッタ・ブラスキ)は村人を搾取し、その村人たちはラザロを搾取するという構造の最下層にいるように映るのである。インヴィオラータ(=汚れなき村)の名で語られるその村自体はそうした搾取の構造の中にあるものの、ある酷薄な理由で世俗から隔絶され続けたことにより、経済や政治のシステムがもたらす格差とそれが培養する悪意から結果的に身をかわすこととなっていて、それゆえ誰に対してもノーと言うことをしないラザロが剥き身のままそこに在ることが可能なわけで、そうやってラザロは村にとっての炭鉱のカナリアと守護天使を兼務していたように思うのである。しかしラザロはタンクレディという清濁を泳ぐ者と出会うことで世界の思惑に感染してしまい、そうやって守護天使を失ったインヴィオラータの村も公爵夫人のシステムが崩壊することで新たな搾取のシステムへと地すべりすることとなる。劇場内で少なくとも2人の「あっ」という声が聞こえたあのシーンを経て、狼に乗って時間と距離を超えたラザロは渓谷の寒村から大都市の只中へと歩を進めていき、都市の片隅へと追いやられたインヴィオラータの村民たちが身を寄せ合うコミュニティは、ラザロという守護天使を再び押しいただくことで、アントニア(アルバ・ロルヴァケル)は再会したラザロにひざまずきさえする、かつての親密さと活気をつかの間取り戻していくのだけれど、年を重ねてより倦んだタンクレディ(トンマーゾ・ラーニョ)との再会がラザロの歩みを止めてしまうかつての構図が再び繰り返されることで、ノーと言わない人であるラザロはノーと言うことで維持される無慈悲なシステムに打ち倒されてしまうこととなる。ここに現れる狼は知恵と力の象徴で、人間と世界の間を行き来しバランスを発生させる存在でもあるのだけれど、その狼が斃れたラザロに他の人間にはない「善人の匂い」を嗅いだことで、この人間を維持することで保たれるバランスがあることを識った狼はラザロを立たせ目的地までを導くのだけれど、そこでラザロの身に起きたことを見届けた狼は、今度は斃れたラザロの匂いを嗅ぐこともないまま、この善人をお前たち自らが失ったことだけは忘れないでおけよと言い残すような一瞥をくれた後で行き交う車の間を「ラザロの匂い」だけをまとって走り抜け消えていってしまう。映画が始まり、最初にラザロを目にしてからずっとつきまとう落ち着かなさは、いつか彼が手ひどく傷つけられることの予感に他ならず、それがこの寄る辺のない世界で善を貫いたまま無傷でいられるはずがないというしたり顔によっていることを承知すると同時に、自分が彼を傷つける側の人間であることに気づいているからこそうろたえてしまうのだろうことも告白してしまいたい。しかしそうしたワタシのような人間が途方にくれてしまうことなど百も承知であるからこそ、監督はラザロの道行きにああした結末を用意したのではなかろうか。ラザロになれない者はラザロが斃れることのない世界の一部として生きようと決めればよいのだと、狼であるアリーチェ・ロルバケル監督は言ってくれている。
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2019年04月26日

魂のゆくえ/神は騙されている

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※展開に触れています

メアリー(アマンダ・サイフリッド)の呼び出しに応えて2度目に彼女の家を訪れたトラー(イーサン・ホーク)が停めた車を、最初の時に比べればぞんざいと言っていいはみ出し方で捉えたカメラは既にトラーの転調を告げている。よりよく闘うこと、すなわちよりよく殺すためのコンディションを御心にて維持すべく神と国に仕える従軍牧師の家に生まれそれを継いだトラーは、アメリカ兵の死を神の言葉でなだめる一方、従軍牧師を“継がせた”息子の死に際してはそれを恩寵とする言葉を持つ術もないままあっけなく瓦解してしまい、果たして従軍しない従軍牧師に神の声は聞こえるのか、聞く資格はあるのか、ならば自分が仕えているのは誰なのか、おそらくは人生で初めてトラーは無垢の人として在ることで神をとりまく世界の悪意を目の当たりにし、もはやプロテスタントもカソリックもなく宗派のくびきから解き放たれたトラーは、メアリーを懐胎したマリアに見立てでもしたかのように一人十字軍の途をひた走り始める。メアリーにとって牧師は神の代理人として全能であって、そうした無邪気と無辜がさまよえるトラーを強迫することで彼を覚醒させることとなり、実際のところ終始彼女の手のひらで七転八倒するばかりのトラーは、というかイーサン・ホークという人は、ファム・ファタルのリードするダンスでボロ雑巾のごとく振り回され息も絶え絶えに身悶えする瞬間にこそ後光を放つ稀有な俳優であり、このシナリオがアテ書きであったことを明かしたポール・シュレイダーの酷薄なまでの慧眼には恐れ入るしかない。うっすらと目を閉じ歯をくしばりながら白く緩んだ肉体に有刺鉄線を巻きつける姿は、恩寵のもたらす快感に抗う行為それ自体を官能として待ち構えていたようでもあり、もしもメアリー=マリアによる救済(「エルンスト!」)がなければ光年の彼方まで逝ってしまっていたに違いない。夫がライフルで自分の頭を吹き飛ばしたばかりの寡婦と笑顔でサイクリングに興じ、最後の晩餐をきどって刺身で晩酌をするトラーの羽の生えたような卑俗もまたイーサン・ホークの為せる技で、堕ちながら翔びそして激突する人の面目躍如というしかなかったのだ。サイクリングのシーンでの、自動車ならたやすいが自転車のスピードをどうやって掴まえようかと考えたあげくのファーストカットに『はなればなれに』の自転車とかそういった風な可愛らしさが飛び乗っていて思わず2度見する気分であった。つっかえ棒を全部外したとして映画は立ち続けるのかという試みに挑み、立ち続けるどころかありえないダンスをさせた前作『ドッグ・イート・ドッグ』がワタシは大好きでその年のベスト10に選んだりもしたのだけれど、今作ではそのつっかえ棒が映画を腹から背まで、脳天から肛門まで串刺しにしてしまっていてしかもそれを、この打ち棄てられた世界をなお愛し続ける証とすることで新たな信仰の礎へと再生してしまっていたのである。ある側面におけるイーサン・ホークの到達点にしてポール・シュレイダーの最終覚醒を告げる傑作であり、スコセッシにとっての『沈黙』、塚本晋也にとっての『野火』となる弩級のメルクマールであったし、何より40数年の時を経てあの映画を脚本家自らが更新するスリルへと、悪魔のような笑みが誘っていたのは間違いようがないのだ。
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2019年04月23日

ビューティフル・ボーイ/ローリング・ダッド

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彼ら(ジャンキー)は、泣きごとを言っても身動きをしても無意味だということを知っていた。もともと人間はだれも他人を助けられるものではないということを知っていた。他人から教えてもらえるような秘密の解決法などありはしないのだ。
― ウィリアム・S・バロウズ

両親の離婚、スタイルの英才教育、ブルジョアジーの憂鬱、などなどニック(ティモシー・シャラメ)が堕ちた中毒の理由などいくらでもドラマタイズできそうなところだけれど、それらを救済の口実として自身を慰めることなく、最愛の息子がジャンキーになったという寄る辺のない現実を理解し受け入れるために自身を更新し続けた点において、この映画とデヴィッド(スティーヴ・カレル)は極めて誠実だったように思うのだ。ジャンキーは病質ではなく、退化でもなく進化でもなく、ここからどこかへ変質した存在であること、そしてその変質は永遠であって帰還は一時的なものに過ぎないことを、ジャンキーへの偏見ではなく認識として持つに至るまでの道行きは、ドラッグとは切り離せないカウンターカルチャーの只中を生きてきたデヴィッドにとって季節外れの通過儀礼でもあったのではなかろうか。これがティモシー・シャラメであればこそ、どう転んだとしても画は維持されるにしろ、ニックの言動やパターンはこれまで見知ってきたジャンキーのそれと違わぬステレオタイプとしか映ることがないまま、ゾンビがみなゾンビとしてふるまうようにジャンキーはみなジャンキーとしてふるまうようになってしまう張りぼての哀しみを知らされることになる。継母カレン(カレン・バーバー)がニックとローレン(ケイトリン・デヴァー)の車を追いかけながら流す涙は愛情の通じない相手に対する怒りと悔しさのそれで、逃げ足のニックが見せる、罪の意識など光年の彼方にあって自分の不都合と不利から逃げ切ること以外何の意識も感情も持つことのない動物のような自我の残りカスに背筋がざわついて、これほど哀しくてどこへも行けないカーチェイスを今までに見たことはないと思った。劇中とクレジットロールで2度ニックによって朗読されるブコウスキーは、ニックが求めた人生の均衡を代弁すると共に、そのアディクトはバロウズ的なビートニクのダイヴが連れてきたことを匂わせてニックの物語としては理解と収まりを可能にする一方で、デヴィッドにとってはその実験精神を肯定せざるを得ないというジレンマに囚われるに違いなく、それはジョン・ゾーンをネタにスクウェアを笑うヒップな息子に育てた父親が受けてしかるべき報いであったといったら少しばかり意地が悪すぎか。
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2019年04月21日

マローボーン家の掟/想像する力を失ってはならない

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※ネタバレはしていませんが、観るならまっさらな状態でのぞむことを薦めます

語らないし語れないまま、思わせぶりというにはジャック(ジョージ・マッケイ)に顕れる傷や昏睡は彼をむしばむ一方で、本来であればそれを近くにいて見届けるはずのアリー(アニャ・テイラー=ジョイ)を差し置いて知らされ続けるワタシは、ジャックの苦痛に加えて彼女の分のそれまでも味わってしまっているものだから、ジャックをむしばみ続けるものの正体をついに知った時には、それが連れてきた考えうる最悪の絶望にも関わらず、ああこれでようやくジャックは(そしてワタシも)その苦痛から解放されるのだと、心かき乱されつつも安堵したのだ。それだけに、すべてを知ったアリーが彼女の苦痛を知る間もなく自身を立て直して事態を掌握し、勇猛果敢にアレを撃退する一連からの救済されたエピローグには、アニャ・テイラー=ジョイという女優の目と声と身のこなしに少しばかり縋り過ぎたのではないかという気もしてしまうわけで、その無償の愛が結びつけてしまう母性のジョーカー的な切り札がアリー自身の未来を閉じてしまうことはないのか、彼女の背景がいささか不足していることもあり(構造上アリーは蚊帳の外におかれ続けるとはいえ、彼女の場合の「親」と「家」が描かれることもない)、ある意味でジャックの役目をアリーが引き継ぐことを危惧してしまわないこともないのだ。このあたり、『永遠のこどもたち』におけるラウラの役割をジャックに背負わせたことにより、アリーの役割がクライマックスに向けて血が沸騰し逆流する展開の仕掛けにとどまった点で彼女の曖昧を誘ってしまったようにも思う。とはいえ、ワタシに関する限り『デビルズ・バックボーン』から始まった、失われた子どもたちによる闘争の物語としてその系譜を正面から受け継ぎつつ洗練された更新を果たした点で、すでにジャンルを超えて行ってしまったバヨナの、生を祝福するならば同じだけ死を想うことを忘れてはならない、という間(あわい)のヴィジョンをこのセルヒオ・G・サンチェスに継いでもらえればと思っている。
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2019年04月19日

荒野にて/僕らは廃馬を撃つ

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15歳のチャーリー(チャーリー・プラマー)が歩いていく苛烈なマージナルのラインと、人間の存在など意に介することなくひたすらそこに在り続ける原野の純粋な孤高と、彼が横断していくその聖と俗の出会う場所に湛えられた、生きることの責任としての孤独とその透明な哀しみこそが人間の本質であることをアンドリュー・ヘイは希望の色として染めようとこの映画を撮ったのだろう。勤勉を褒めるデル(スティーヴ・ブシェミ)に、しかし食事のマナーを豚のようだとたしなめられるシーンで、それを言われても腹を立てるでもなく小さく笑うだけのチャーリーには、卑ではないが粗にして野のまま育たざるを得なかった小さな闇の気配がうかがえて、細くて脆い綱の上を本人だけがそれに気づかないままうつむきがちに歩いていく姿は、アメリカが灯す最後のイノセンスがゆらめいているようにも見えたのだ。それがアメリカの流儀だとばかり、そんなものは早いところ吹き消して闇の中を歩く術を覚えろと彼なりの誠実で忠告するデルや、孫娘の体型をジョークのネタに笑い飛ばし、お前も軍隊に入って国に仕えたらどうだと初対面のチャーリーをつつくケンドール氏、それが規則であれ父を喪ったチャーリーを即座に養護施設につなげようと働きかける医師、チャーリーが稼いだ金を奪おうとするシルバー(スティーヴ・ザーン)、といったチャーリーを路上に追い立てるのがみな白人の男たちであったことを思い出してみれば、もちろんそこに父レイ(トラヴィス・フィメル)が含まれるのは言うまでもなく、そうした白人の男たちの社会で生きる彼女なりの諦めや苦渋を経て「チャーリー、ピートはペットじゃないの、ただの馬なのよ」とチャーリーを諭すボニー(クロエ・セヴィニー)や、アイスクリームをそっとおまけしてくれるダイナーのウェイトレスや食い逃げを見逃してくれたレストランのウェイトレス、よくやってくれたからフルで働いてくれないかと笑顔で話すメキシコ人の塗装屋、といった分断された境界の向こうで生きる人々こそがチャーリーを気にかけていたことを忘れるはずもなく、ワタシたちはどれだけ汚されたとしても自分で自分を汚すことはしないのだという真のアメリカの矜持がチャーリーを目的地へと繋いだに違いないと思っている。冒頭で、どこかへ向かうわけでもなく、もちろん自身に課したトレーニングとしてですらなく、ただとにかくここが現在地になってしまうことへの不安や恐れを振り払うかのように走っていたチャーリーは、たどり着いた目的地でもなお走り続けている。冒頭ではチャーリーを励ますように並走していたカメラは、チャーリーをそっと見守るように後ろから追い続けるのだけれど、そこを目指したわけでもない道の真中でふと立ち止まりこちらを振り返ったチャーリーの表情にあったのは、かつて海辺のアントワーヌ・ドワネルが浮かべた淋しさ(loneliness)から孤独(solitude)に向かう流転の徴にも思えたのだ。それは、自分が失ったもの、失わせたもの、失わさせられたもの、それらすべてへの悔恨と怒りとに訣別しなければ自分はどこにも行けないことを知った少年の精一杯で虚ろな懺悔ではなかったか。
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2019年04月17日

ハロウィン/これいただくわ

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※誰が死ぬとか死なないとかいったことに触れています

ローリー(ジェイミー・リー・カーティス)のファーストショットで一気に重心が沈み込み、40年の間ラストガールの呪縛から逃れられなかったベビーシッターが自身を鋼鉄化して待ち構える頂上決戦の予感に、あとはマイケル・マイヤーズ(ニック・キャッスル)の仕上がりを待つばかりということになる。やけにスタイリッシュでミニマルな精神病棟の中庭に若干の不安を覚えつつ、スノビッシュでいけすかないこの報道記者を早いところ屠ってくれないかな、まさかこいつらが狂言回しとかじゃないだろうなと気をもんでいたところが、わりとギリギリな少年殺しすらを肩慣らしにマスクを餌のようにちらつかせたお仕置きを男女等しく食らわせて、このガソリンスタンドの虐殺(最低でも4人殺ってる)では、誰かを滅多打ちするマイケルをガラス越しの遠景で捉えたショットがなかなかに美味しい。おそらくは護送中のマイケルを逃がす手助けをしたのであろう医師サルテイン(ハルク・ビルギナー)が魅入られたようにマスクを被るあたりで『ハロウィンV』的な悪の伝播に色気を出して薄味になるのは嫌だなあと思った瞬間の、あっけないまでのしかし完膚無きまでの粉砕は、お前はルーミス(ドナルド・プレザンス)の足元にも及ばないクソだと虚無の人マイケルですら苛つくこともあるのかといささか微笑ましかったりもする。本来マイケルはストロード家の血縁、もしくはそこに至る障害物を屠るわけで、してみると孫娘アリソン(アンディ・マティチャック)にまとわりつくキャメロン(ディラン・アーノルド)は当然排除されるかと思いきや、定型であれば死ぬことはない冴えないけれど気のいいお邪魔虫オスカー(ドリュー・シャイド)が顔面串刺しの刑で息絶えることになるのだけれど、これは彼のしでかした身勝手なあるいは意図的なコードの読み違いによるアリソンへのキス強要が今日的なタチの悪さとして書き換えられた結果でもあるのだろう。『サプライズ』での窮鼠が猫を噛むわけではないラストガールの暴走は痛快過ぎてなかなかフォロワーも生まれなかったのだけれど、土壇場でカレン(ジュディ・グリア)が見せる不敵はまさにソルジャーのそれで、2人の血走った目に自分の正統な血を嗅ぎ取ったアリソンの一撃によってもぎ取った勝利は、幾多のラストガールたちが囚われたトラウマまでも切り裂いたように思えたのだ。オープニングのジャック・オー・ランタンとオレンジ色のクレジットは78年版のほぼ完コピだし、意味ありげにそよぐ洗濯物のシーツや切り返しのショットによる逆いないいないばあ、窓ごしに見やる仁王立ちショット、などなど78年版へのリスペクトというよりは、またアレが起きているのだという不穏の醸成が冷静な手続きで行われていたことに感嘆するし、何よりマイケル・マイヤーズの中身に余計な詰め物をしなかったことをありがたく思っている。いかにも物欲しげな終わり方が気にならないではないけれど、あの包丁の意味深なカットがラストガールズのさらなる相克も予感させて、どうせやるならとことんやればいいと思ってはいる。
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2019年04月16日

ザ・バニシング -消失- /たらふく飲んで、堕ちていけ

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売店に向かうサスキア(ヨハンナ・テア・ステーゲ)がその途中で転ぶのだけれど、つまずくというよりは操り人形の糸が突然断ち切られたかのように、転んだ本人もその理由がわからないといった風に崩れ落ちる瞬間の、世界の組成が一変してしまうような感覚は、ワタシたちが存在する大前提としての法則を覗いてしまったかのような禁忌の畏れにも近く、それこそがキューブリックのいう恐ろしさの源泉だったように思うのである。レイモン(ベルナール・ピエール・ドナデュー)は、劇中において反社会性パーソナリティ障害という病名を与えられてはいるものの自らそれを隠れみのとするかのように、この世界は善悪の絶対値が完璧に等価だからこそそのバランスが保たれるのだとしたら、善悪のくびきを持たない自分のような人間が世界の法則に近づくためには、英雄的な善なる行動と、考えうる最悪の行為とで、それぞれが自分に働きかける感情にいったいどのような違いがあるのか、違いがあるとしたらどちらがどれくらい勝るものなのかを識らねばならぬというオブセッションへと沈んでいく。こうしたレイモンのなぜなに坊やのように邪気のない純粋な漆黒のオブセッションは、いつしかレックス(ジーン・ベルヴォーツ)を捉えることとなり、犯人を名乗り現れたレイモンの車に同乗しサスキアの運命をめぐるドライヴの最中、レックスはレイモンの常軌を逸した身の上話に笑顔を浮かべさえするわけで、まさかレイモンは実体化したレックスのオルターエゴなのではあるまいかと疑心暗鬼にすら陥る始末であったし、事ここに至ってワタシもレイモンのオブセッションに完全に憑かれてしまうこととなる。してみると、夢に現れる金の卵がここのところ2つになったと話すサスキアはその夢ゆえにレイモンと共鳴したのか、あるいはレイモンの接近がサスキアに予知夢を見させたのか、立ち往生したトンネルの闇の中でリアウィンドウに浮かぶ後続車のヘッドライトはまさに2つの金の卵に他ならず、サスキアを透過したそれは2枚のコインに形を変えて、彼女がそれを木の根元に埋めるよう仕向けたのだと思わざるを得ない。そのコインが財布の中にあったままなら彼女はレイモンに声をかけることはしなかったし、数年を経てそれを木の根元に見つけたレックスが、彼女の絶対的な不在に心を吹きとばされたあげくコーヒーを飲んでしまうこともなかったに違いないのだ。その後でレックスを待ち構えるバッドテイストな結末については、あまりにも鮮やかな伏線の回収に感嘆の嘆息が漏れたほどで、全体のバランスを崩しかねないほどに針を振り切ったところでブラックアウトしたまま終わる選択もあったように思うのだけれど、映画は家族と共に別荘にいるレイモンを捉えて終わろうとカメラはその表情を映し出すわけで、そこに浮かぶ彼岸のごとき静謐は昂ぶりの後の虚脱なのか、いまだ居座るオブセッションへの困惑なのか、それがいかなる道を往くにしろレイモン・ルモンの真の人生がここから始まることを告げていたように思うのだ。オープニングのナナフシからラストのカマキリへ。
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2019年04月14日

レゴⓇムービー2/わたしをバラさないで

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前作で果たした父殺しを経ての、思春期前にしておくべき脱マチズモのすすめをさっそうと展開する、さすが世界最強の知育玩具、のプロダクトプレイスメント・ムーヴィー。バットマン(ウィル・アーネット)はわがまま女王(ティファニー・ハディッシュ)に陥落し、その正体はと言えばエメット(クリス・プラット)のマッチョなオルターエゴだったレックス・デンジャーヴェスト(クリス・プラット)は、アルジャーノンのように消えていく。そんな風にして、すべては最高だぜ!といっぱしを気取って荒ぶる若気の至りに、いやいや世の中すべてが最高ってわけにはいかないけど、だからこそ一緒に最高にしていけるんだよ。スクラップ&ビルドを繰り返してね!と(末長くレゴで遊ぶための)水平性への意識改革がなされていくことになる。現実世界のプレイヤーがレゴ世界に投影されるというこのシリーズのルールというか縛りというか大前提についてはいささか苦労の跡がしのばれて、中盤あたりまではその投影がいったいどこへ転がっていく話なのか見当がつかないことが逆に奏功することで浮力のついた原色のサイケデリアが微熱の夢のように錯乱したこともあり、至極真っ当な収束に向かっていくにつれそれらが失われていくのが惜しまれたのも正直なところだし、アルママゲドンを経て生まれた兄フィン(ジェイドン・サンド)のボロボロシティと妹ビアンカのシスター星のハイブリッドシティが正直言ってさほど魅力的に映らなかった点で哀しいかな映画としては尻すぼんでしまったような気がするのである。それはおそらくレックス言うところの、子供が死のイメージを遊びに投影している(It's all just the expression of the death of imagination in the subconscious of an adolescent!)その作業にワタシがいまだとらわれていることの顕れであるに違いなく、三つ子の魂百までもとはよく言ったものだと、間に合わなかった大人の言い訳などしてみるのである。そしてこれは現状でのエンドクレジット・オブ・ザ・イヤー。ほとんどもうひとつのレゴムービー。
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2019年04月10日

バイス/おまえはなにをして来たのだ

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リン(エイミー・アダムス)に説教をくらっている間、顔にたかったハエを払うこともしないまま身じろぎ一つせずにいるディック・チェイニー(クリスチャン・ベール)の、リンに対する絶対的な忠誠心がそのハートへと打ち込まれた1963年の朝がすべての始まりで、トランプもブレグジットも元をたどればここに行き着くことになる。このシークエンスでリンの野心については出どころが明かされるものの、これが彼の伝記映画であるにしては、1963年のディック・チェイニーを育んだものはなんだったのか、何が多すぎて何が足りなかったのか、といった背景が描かれることはないまま、リンの最後通牒によって覚醒したこの日をアダム・マッケイはチェイニーの生まれた日としたのだろう。そしてチェイニーはラムズフェルド(スティーヴ・カレル)のタガが外れたスピーチを聴いて、ああ、これが許されるならこの世界は俺にも可能だと顔を小さくほころばすこととなり、自分が得意なのは相手が食いつくに違いない疑似餌を選んでおびき寄せては釣り上げる言うなればだまし討ちで、そんなことを繰り返していれば当然嫌われて敵も増えるに違いないにしろ、ここがその釣果だけが問われる世界ならば俺はかなり上手くやっていけるだろうと確信し実践した結果、リンに応え愛されれば愛されるほど世界からは忌み嫌われていくというその図式が鉄面皮で沈思黙考する怪物を生み出して行くこととなる。してみるとラスト近くで唐突に第四の壁を壊したチェイニーが「私は喜んであなたたちに仕えてきた。あなたたちが私を選び、私はそれに応えたのだ。」と語りかけてくる、らしくない言い逃れにも響くそれは、これこそが民主主義という終わりなき実験の証なのだ、というアダム・マッケイの注意書きであって、チェイニーをラスボスにして公開処刑したところで世界は後戻りするわけではないことをその後で真のラストとして付け加えたことに明らかなそれは「いっそう混乱するばかりの世界の中で、わたしたちの生活を一変させてしまう強大な力のことなど気にもとめず目の前ことしか気にしなくなっている。」という冒頭のナレーションへと再び引きもどすことになるのである。とはいえある時期におけるチェイニーの全能感はおそらく想像を超えていたに違いなく、自分たちにたてついた外交官の妻がCIAの秘密工作員であることを「リークしろ」と吐き棄てるたったそれだけのシーンが1本の映画(『フェア・ゲーム』)として成立するほどの事件(プレイム事件)をやすやすと引き起こしてみせるわけで、瞬間的にはほとんどサノスであったとすら言えるのではなかろうか。ここから派生する映画としてはマット・デイモンがイラクに大量破壊兵器(WMD)を探す『グリーン・ゾーン』があって、今作でジェシー・プレモンスを歩兵としてイラクに送り込んだのは計算ずくだろうと思っている。
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2019年04月07日

記者たち 衝撃と畏怖の真実/脇を締め内を狙いえぐりこむように書くべし

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この一連のアメリカに関しては、『グリーン・ゾーン』や『フェア・ゲーム』がそうであったように敗者の申し開きや繰り言をどれだけ誠実に自己検証してみせるかという負け戦が前提とならざるをえないこともあって、不発の響きが通奏低音となってきたわけだけれども、その意味で今作は数少ない真実の勝者の物語ではあるとはいえ、冒頭のシークエンスが湛える静かで正当な怒りのトーンによって、これもまた、開戦を防げなかったという事実において私達は負けたのだという悔恨と懺悔の物語であることを告げていたように思う。政治家やメディアの嘘や欺瞞に顔を上げて立ち向かってきたジョナサン・ランディ(ウディ・ハレルソン)やウォーレン・ストローベル(ジェームズ・マースデン)といったナイト・リッダーの記者たちではあるけれど、そのストローベルが劇中でたった一度だけ自らの無力に対する行き場のない怒りに心を折ってしまうのは、自分やリサ(ジェシカ・ビール)の父親といった市井の人々に自分たちが身を粉にして伝えようとしてきた真実が欠片ほども伝わっていないことを突きつけられた時に他ならず、それは「私たちは他人の子供を戦争に送り出す人たちにではなく、自分の子供を戦争に送り出す人たちのために書くのだ」という社主ジョン・ウォルコット(ロブ・ライナー)の言葉を矜持に真実を伝える覚悟を抱いた者にとっては、死刑宣告にも等しい絶望であったのだろう。しかし、後世においてその報道の正しさが評価されたところで時すでに遅し、というそのジレンマこそが記者たちを真実の追及と事実の解明へと駆り立てるわけで、そうしてみた時、前述した2作品のベースとなった事件および、今作でも政権の走狗として名前のとりざたされるニューヨーク・タイムズの記者ジュディス・ミラーこそが、凡庸な悪として闇も罪も深いように思うわけで、彼女の署名記事の掲載を知って怒髪天を衝いたウォルコットがインクワイアラー紙に自ら乗り込んだのは、それが彼にとって最大の侮辱であっただろうことがうかがえてうなずけもするのである。とはいえ、ランディとストローベルは悲嘆や憤りのメランコリーに沈むでもなく、まったくさ、記者になんかならなきゃよかったよ、ウッドワードとバーンスタインなんかのせいでさ。あつらは大統領を引きずり下ろしたけど、こっちの大統領は歴代の最悪をやらかしといて多分再選すらされるんだぜ、民主主義的の実験てやつに乾杯!とかいった感じの自嘲と自虐で自分にムチを入れるあたりはいかにもロブ・ライナーらしいし、そもそもが責任をとらないやつにはいつまでも指をさし続けていやがらせをしてやるぜという気概が撮らせた映画であるからこそ、自分のクロースアップをあれほどぶち込んできたに違いないのである。それにつけても思うのは、シドニー・ルメットの不在であることよ。
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2019年04月02日

岬の兄妹/岬で待つわ

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邦画インディーズならではの半径5メートルの映画にはちがいない。しかし、その這いずる底を踏み抜いて、あとは底なしの底を手に入れることさえすれば落下の距離はどこまでも果てしなく自由だ。そしてこの映画は自由になっている。さすがに良夫(松浦祐也)は二の足を踏むだろう。踏まない。とはいえさすがに今度こそ良夫は二の足を踏むだろう。踏まない。踏まないのでは踏めない。踏んだら底に激突してしまうからだ。真理子(和田光沙)はそんな良夫の脇で笑いながら落下していく。それまで人生が停まってばかりだった真理子はそのスピードに笑いっぱなしだ。と、真理子以外の誰もが最後までそう思ってこの映画を観続けることになる。身体障害者と自閉症と小人症とヤクザと高齢者といじめられっ子が周縁で出会う話であるけれど、そうした字面ほどには特殊な出し入れを必要とするわけでもないのは、それらの人たちが仮託されたメタファーではなく、良夫と同じように二の足を踏まない人として描かれ2人と同じ速度で落下し続けることでずっと等距離を保ち続けるからなのだろう。したがって、肇(北山雅康)や社長(中村祐太郎)といった踏み抜かない人たちは置いてきぼりの異物として描かれることになり、この清濁の逆転はなかなか痛快に思える。したがって、ことさらフリーキーを煽るようなカメラワークに頼ることなく観たいものと観せたいことをきちんと捉えてくれる点においてカメラはとても誠実で、とくにストーリー上避けては通れないセックスにまつわるあれこれをカット割りやフレームの操作でごまかすことをはなからする気がないこともあり、メインストリームの邦画が避けて通ることしかしない人間の営為を不自然にずらすことのストレスは、清々しいまでに感じられない。それどころか、真理子が次々と身体を躱していくシーンを叙述する変形のオーヴァーラップや、曇りガラス越しに一瞬わきあがる真理子の肢体など、むしろクリエイティヴィティはこちらに注力されているようにすら思う。夜でも朝でも昼でもない空を背に良夫が地獄のふたを開けていいかと真理子に尋ねる震えるようなシーンと、他人のカップ焼きそばを目の玉ひんむいてすすり上げるシーンをぐうの音も出ないポエジーで地続きに描く地肩の強さにも恐れ入る。あのカップ焼きそばの切実は『万引き家族』の比ではなかった。そうやって果てしなく続くかと思われた良夫と真理子の地獄めぐりは、ある変遷を経てふりだしに戻ったかのような円環を“真理子以外の誰もが最後までそう思って”うかがわせるのだけれど、ラストで振り返った真理子がたずさえるその目つきが、したり顔の円環を一瞬で血祭りにあげることになる。良夫はもちろんお前たちも、わたしが何も知らない人間、お前たちのように知ることのできない人間だと思っていただろう、良夫が夢の中で果たされぬ幸福を思い描いたように、わたしが夢の中で何を思い描いたかなど考えたこともないだろう、わたしが鎖でつながれるのは仕方のないことだと思っただろう、わたしには堕胎が切り裂くような心がないと思っただろう、わたしにはお前たちとは違う種類の幸せをあてがっておけばいいと思っただろう、わたしをひとりの人間として見たことなどなかっただろう。だからわたしは、わたしを取り巻くすべての世界を断罪する。覚悟しておくように。
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2019年03月31日

サンセット/私という名の謎に

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サウル・アウスランダーがそうであったようにワタシはレイター・イリス(ヤカブ・ユーリ)だけを見ていればいいのだと、ネメシュ・ラースロー作品専用の本能が察知する。すべてのシークエンスに居るイリスが目にするものを強迫的に伝えるカメラは、偏執的と言ってもいい身のこなしで彼女の体ごしにあちら側を覗こうとまとわりついていき、となれば前作がそうであったように状況を俯瞰し説明するショットなど望むべくもなく、彼女が知る由もないことはワタシも知る由がないまま、ただ一つオープニングで宣言されたように、これはイリスがヴェールを上げることで始まる物語であること、そしてそれを一度上げた後では後戻りすることなど命の限りにおいて叶わないことだけを確かに、歴史の濁流がまき散らす暴力と死のメランコリーに陥穽され翻弄され、混乱し困惑し、しかし私はそれらを傍観し受け入れてしまうわけにはいかないのだ、なぜならそれらの一部は私で私の一部はそれであるからだと、イリスはその道行きで知っていくのである。そしてついにはカメラの呪縛を振り切り追いすがるそれを正面から見据えるラストにおいて、彼女がどこで何をしている人間となったかを知る時、ウィーンから来た男を殺せという囁き、王宮へひた走るブラッドハーレーの馬車、そして避けられぬテロルの季節と帝国の終焉が告げる世界秩序の崩壊に呼応すべくイリスが獲得した彼女自身の秩序を映画は告げてみせるのだけれど、塹壕の彼女が身を置く大量破壊の奔流がやがて『サウルの息子』を産み落とす運命を既にワタシたちが知ってしまっていることを想う時、歴史と刺し違えるべく身を投げ出した記憶を持つ世界中のイリスに向けたしめやかなレクイエムのようにこの映画は響いたのだ。主人公の体験する世界の瞬間をその知覚した光と影であふれるように伝えつつ、しかしそこに内省を補助するセリフやカット、インサートをいっさい与えることをしないイデアとしてのショットに対する絶対的な崇拝に、まるで祈りのように終始止むことのない長回しが捧げられ、それはスクリーンが導くことの傲慢よりはいっそ誤解を受け入れようという観客への信頼を自らに課しているようでありつつ、そこにはうっすらとした絶望も透けて見える気がするからこそその野心の敬虔に共感するに違いなく、それは精緻を極めつつもそこに信頼や絶望を必要としないキュアロンの『ROMA/ローマ』とは対極にあるようにも思うわけで、強圧的な映画の成功体験を浴び続けることでいつしか被る不感症に処方された劇薬にして傑作と、この映画のことを考えたい。こういうのがないと少し困る。
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2019年03月27日

ブラック・クランズマン/非國民の創生

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ムーキー以来、スパイク・リーがこれほどてらいなく投影されたキャラクターもいなかったように思わせる、そしらぬ顔のトリックスターにしてシステムへの実行犯たるロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)の道行きだったのである。怒りに身をまかせるカウンターに自己陶酔するのではなく、システム(警察)の内部から自分の目で視て自分の言葉で話すことにより状況を導いていくロンの足取りは、ハリウッドシステムに罵声を浴びせつつその内部に居続けることで発言権を手放すことのないスパイク・リーそのものに思えたし、劇中で描かれるロンとパトリス(ローラ・ハリアー)の相容れなさは、スクリーンの外でのブーツ・ライリーによる今作への批判(「実際のロン・ストールワースは破壊目的で黒人急進的組織にも潜入している。これは結果的に警察=NYPDの広告キャンペーンを担っている」)によって現実的に補強すらされている。それに対してスパイク・リーは「確かに警察は批判を受けるけど、すべての警官が腐敗してすべての警官が黒人を憎悪しているとは思わないし、言いたいのはさ、警官は必要ってことなんだよ。そもそも黒人だって一枚岩だったためしなんかないだろ。あんなブルジョワがどうやってマルコムXやれるんだよ、とか言っていただいたのも黒人だし」とコメントしていて、KKKをコケにして高笑いする映画なんて誰にでも撮れるけど、笑った後の醒めて倦んだ気分がやって来るところから俺は始めたいんだというこの映画の気分にうなずけもするのである。かと言ってスパイク・リーが高みから俯瞰したままであったのかというと、劇中で誰か他人のために顔色変えて走り回り車をとばしたのはロンただ一人であった点で、それを厭うつもりなどあるはずがないことも告げていたように思うのだ。全体のトーンとしてはそれを装いつつもこの映画がオフビートな丁々発止で転がっていくリズムにまったく拘泥していないのは、クワメ・トゥーレ(コーリー・ホーキンズ)とジェローム・ターナー(ハリー・ベラフォンテ)の2人の演説を抜粋ではなく最初から最後までフルで収めている点にもうかがえて、ほとんどこのシーンのためだけに、ロン・ストールワースという男を利用したのではなかろうかという気すらした。撮ろうと思えば熟練したアルティザンの手つきでコメディだろうがドラマだろうがいくらでも撮れるスパイク・リーだけにこの歪が確信的であったのは言うまでもないし、ターナーの語りとKKK入会の儀式がカットバックでもつれあいながら怒りと昂揚をもつれさせていくシーンをこの映画のピークとデザインしたのは間違いのないところだろう。そして冒頭のインサートと呼応するエンディングは、確かにあれはあれで相当なクソには違いないが、言ってみれば作りもののクソだ、でもこれは正真正銘本物のクソであってその臭いは一生洗い落とせるはずなどないんだよ、なのに洗い落とした気になってるデオドラント野郎のためにこうやってまたそのクソの臭いをなすりつけてやるんだ、それで映画一本潰したとしてもな!という脱臼しそうなほどに立てられた中指であって、そういう人間が、ぼくらの尻はクソなんかしたことがない気がするくらいきれいさっぱりだよとでも言いたげな映画へ掴みかからんばかりにブチ切れるのはなんら不思議はないように思う。
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2019年03月25日

キャプテン・マーベル/ここは退屈迎えはいらない

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アクセル・ローズの音楽的な貪欲と渇望が他のメンバーのアメリカン・バンドな倦怠と退廃には噛み合わず、例えばナイン・インチ・ネイルズ的なインダストリアルへの接近(UYI ”My World”)をバンド分解のきっかけとするならば、かつてアクセル・ワナビーだったキャロル(ブリー・ラーソン)がNINのTシャツを着ることの意味は止められない野心の象徴としてうなずけるところも大きかったのだけれど、ではNINのTシャツを脱いでいまやキャプテン・マーベルとなったキャロルが着たTシャツが何だったのか、もうそんな風に心穏やかに落ち着いて聞き分けよく丸めてしまうのかと少しだけ落胆したのは確かで、結局のところすべては90年代の“いなたい”ノスタルジーをあるあるとしてあげつらうだけのブロックバスターやラジオシャック、AOLやWindows95、CRTディスプレイと同じように貼りつけられたステッカーに過ぎなかったのかと、ジャケットだけにとどまるPJ ハーヴェイにもなんだかモヤモヤしたのである。キャロルの発現をガラスの天井の破壊へとつなげるコンセプト自体は今語られるべき物語としてスマートにフィットしているだけに、そうした真顔を冗談めかしたオフビートでさらに反動をつけるそれなりの手練手管が求められる語り口としては、必ずしも諸手で成功を祝えるようには思えなかったのが正直なところ。手かせが外れた瞬間のウッシャア!と弾ける表情や、不機嫌と屈託をねじ伏せる目つきの鈍色に光る色つやなど、バストアップで捉えるブリー・ラーソンは文句なしにはまり役なのだけれど、近接の格闘アクションになると途端に顔の見えないカットが増えてしまうこと(しょっぱなのジュード・ロウ戦)や、ロングショットでのスタンドインによる動きとの明らかな落差など、MCUにモダンな説得力を与え続けてきたアクションの肉体性という点では前述した90年代的いなたさがキャロルを覆ってしまう気がするのも確かで、予告篇で流れたMIBの新作を格の違いで圧倒しない違和感と地続き感はその証左に感じてしまう。ブリー・ラーソンが新たな神として適役でチャーミングなのはまったく異論のないところなのだけれど、その彼女をおさめるのがハッピーデイズのランチボックスだったというハズし方に、これがそういうクスクス笑いの中和が要る話なのかどうか、何だかもったいなくて思えてしまって仕方がない。なんと言っても、PJ ハーヴェイのセカンドがリリースされたのが1993年だから、たった15年の間にニック・フューリーがああまで変貌してしまったことが一番の驚き。いったい何があった。猫の毒がまわったか。
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2019年03月23日

ちいさな独裁者/地獄に堕ちた愚者ども

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※モノクロ版で鑑賞

世が世なら、もしくは時と場合によっては、ヴィリー・ヘロルト(マックス・フーバッヒャー)をナチスの権威をあざ笑うピカレスクとしてもてはやすことも可能だし、実際のところ、ヘロルトがいかにして局面を切り抜けるのか彼の無事をサスペンスとするワタシであったりもしたわけで、彼らが実在したのかどうかは不明ながら、フライターク(ミラン・ペシェル)とキピンスキー(フレデリック・ラウ)という2人の兵士をそれぞれ性善と性悪の象徴としてヘロルトの両サイドで対照させることで、観客がヘロルトを見据える視点を失わないようデザインした監督の意図は明晰に思えた。将校(の制服を着てい)ながら腹は減っていないかと気さくに果物をくれたヘロルトに対するフライタークの階級を超えた感情と、会った瞬間にズボンの裾を見てすべてを察しながらそれを暴くよりはこの制服の嘘っぱちに乗ることを得策としたキピンスキーの、この2人に対するヘロルトのふるまいに制服の怪物が成長していくさまが投影されていくこととなり、とりわけヘロルトの変貌を間近で目の当たりにしているフライタークにヘロルトが施す通過儀礼は凡庸な悪を生産するシステムそのもので、当時のドイツであちこちに生まれうごめいていたであろう小さなヒトラーをヘロルトに追うことで、その卑俗な正体をミクロからマクロへと喝破してみせたように思うのである。収容所の爆撃後にインサートされる劇中でただ一度パートカラーとなるカットを境にヘロルトとその仲間たちは退廃と堕落の地獄めぐりを繰り広げ、その執拗な描写によって救済を与える余地の一切を監督は徹底的に潰していくわけで、このあたりはヒトラーが描かれる時の両義性のような手配に対する苛立ちや嫌悪によるものなのだろう気がしている。作劇上のカウンターとしての演出もあったのかもしれないけれど、敗戦を目前にした戦争末期の収容所ですら法の秩序は維持されようとしていたわけで、この映画に寓話性よりは直截的な警告のメッセージを見出さざるを得ないほど今ワタシたちがいる場所は底が抜けていることを伝えるヘロルトを、道化と指さして笑うことなどできるはずがなかったのだ。荒涼としたモノクロームに血の赤で浮かび上がるタイトルや前述したパートカーラーの効果はともかく、何より人間の「汚れ」を浮かび上がらせる白と黒のコントラストを犠牲にした点で、モノクロームをカラーにすることで観客を訴求するハードルが下がるという客観的なデータがあったとしても、映画のポテンシャルを味わい尽くすことの叶わないカラーで観ることの意味がワタシにはよくわからないなと思った。
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2019年03月20日

スパイダーマン:スパイダーバース/ある日、とっても大事でおかしなことがおきた

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2020年目前の最新型サイケデリアは、エアジョーダン1が解き放った重力とスプレー缶の蛍光色が織りなす解放宣言の打ち上げ花火にも思え、少しだけ大人にならなければならないぼくたちのお遊びはここまでにしようと言ったサム・ライミの目配せに、大人にならなければならないのは大人の方だよね、ぼくたちはぼくたちのやり方でやれるけど、と走り出し飛び出していく自由の証明に不意打ちを食らって、覚めてたつもりの目がさらに醒めた気がした。少年マガジンとか少年ジャンプを貪るように読んでいたころの画と吹きだしを映像として呑み込みんでは高速で斜め読みしつつページをめくっていく恍惚と、ブラウン管ににじむ三原色のゆらぎのような、躁病的にモダンでありながらどこか懐かしさすら感じさせる手ざわりはそれを漏れなく伝える言葉が見当たらないにおいて、何を見ても何かに見える昨今ではめったにお目にかかれないブレイクスルーであったと言うしかないのだろう。言うしかないのだろう、などど書くとなんだか悔し紛れに聞こえるかもしれないけれどそれはまったくの逆であって、まだこんな風に発見される新天地があることやそれに立ち会えたことへの幸運と光栄の響きと捉えてもらえれば幸いといったところである。劇中でキーワードとなるディケンズの「大いなる遺産」がやはり墓場から始まる物語であったことを思い出してみると、マイルス・モラレス(シャメイク・ムーア)が墓場で助けた(わけではないけれど)ピーター・B・パーカー(ジェイク・ジョンソン)との関係や、そのつながりにおいてマイルスが何者かになることに手を貸してくれた仲間を元いた場所に送り返すための奮闘、自分の唯一のバックアップだと思っていたアーロンおじさん(マハーシャラ・アリ)の予期せぬ正体、といったスパイダーマン版「大いなる遺産」を経たのち、ドア越しに語りかける父(ブライアン・タイリー・ヘンリー)の言葉によって、グラフィティで描いたNo ExpectationsからGreat Expectationsへ、Expectationのダブルミーニングが「大きすぎる期待」から「大いなる遺産」=父から子への無償の愛に書き換えられることで、マイルスはそれに応えるべき自分をついに見出すこととなり、それこそは「困っている人がいたら迷わず手を差し伸べるのがヒーローだ」というゆるぎのない命題であることに他ならないし、それを今までに知ったことのない現時点で最良かつ最上のやり方で伝えることをしたこの作品をどうすればすべての人々の目に逆ルドヴィコ療法のごとく焼き付けることができるのか、それが叶わないことがストレスになりつつあるのが悩ましい。
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2019年03月17日

ウトヤ島、7月22日/永遠まで72分

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殺し方や殺され方は描ける。なぜ殺されたかについて言えば形而下としては描けるけれど、なぜ殺したかについては現場の再現のうちに描くことは困難に近い。それを描こうとするには『エレファント』のように犠牲者側を背景とするしかないし、それとて結局は形而上を装った形而下的な処理に過ぎない。ヴィルヌーヴ『静かなる叫び』は両側から攻めようとした好例ではあるけれど、事件の細密な再現がポルノ化しないよう着せた服がややスタイリッシュに過ぎて余白ですらがコントロールされた気もしてしまう。犯行再現ものの根底にあるのは本音で言えばスリルとサスペンスの間借りであって、断罪や鎮魂を掲げるのがある種のアリバイのようなものだとすれば、無い袖を振って虻蜂取らずになるよりは被害者のメランコリーを叩き鍛えることでレクイエムの強度を増す手法を確立したのがピーター・バーグで、実録ものであるにも関わらず事実を再解釈/再構築する狂言回しとして架空のキャラクターすらを動き回らせる潔さ/あざとさは、俺が鎮めようとしているのは犠牲者やその家族はもちろんのことすべてのアメリカ国民なのだという確信をてらいなくぶち上げていて、好みの問題はともかくこのジャンルでの豪腕に現状で並ぶ者がいないのは確かだろう。してみると、カヤ(アンドレア・ベルンツェン)という架空のキャラクターをしつらえて自己犠牲と混乱と絶望をつづれ織りにすることで、あの日あの島で起きた悲劇の犠牲者とその家族や友人たちを第一義に鎮めてみせようとする手法にピーター・バーグ的なケレンを見たのは確かであるし、マグナス(アレクサンデル・ホルメン)がカヤとかわす「家に帰れたらケバブ食べに行こうぜ、うまい店知ってるんだ、約束な」あたりのいかにもな死亡フラグの脚色に張りつめた時間が緩んだこともあり、その後に訪れる死が不条理を手放してしまっていた気もしたのである。悲劇をもたらす側については、ほとんど発砲音のみの存在と化してただ一度だけそのシルエットがロングショットで映されるにとどまり、ピーター・バーグの上をいくさらに徹底的な記号化が推し進められている。カヤが森の中で出会った瀕死の少女の顔色が次第に土気色へと変わっていくあたりはデジタル処理の恩恵なのだろうけれど、そういったポスト・プロダクションの気配によって72分間ワンカットという現場処理の肉体性がもたらす熱気や血気が冷めてしまう気もしたし、実際のサプライズショットであったらしい一匹の蚊によるポエジーですらもどこかしら作り物めいてみえてしまう自分を窮屈に感じてしまうのも確かなのだった。予期せぬ撮れ高への昂奮は理解するけれどあのズームは余計だったと思う。ちなみに7月22日はワタシの誕生日でもある。
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2019年03月14日

ROMA/キュアロンのローマ

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犬の糞を洗い流す水に映る飛行機が、あれに乗る自分を思ってみる術すらないクレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)そのものであったとすれば、海辺の記憶が沁み込んだ洗濯物を抱えて屋上へと向った彼女がラストで見上げるであろう空を幾度となく横切っていく飛行機は、ここではないどこかへと気持ちをめぐらすことのできる今のクレオの広がりにも思えたのだ。自分がどこから来てどこへ行く存在なのか、生と死の間にいる自分を意識し理解する物語へメメント・モリがクレオを連れ出していくのは、ペペ(マルコ・グラフ)の遊びにつきあって屋上で死んだふりをした始まりに見てとれて、新生児室のクレオを襲う地震、山火事や白人たちの銃といった脅威の気配が彼女につかず離れずしつつ、通りで巻き起こった死が家具店の中になだれこんできた瞬間、ついにそれに捉えられたクレオは暴力的な喪失を余儀なくされることとなる。しかし、冒頭で流れ続ける水から始まり、身を清めるような朝のシャワー、フェルミン(ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ)を追ってバスを下りた地の水たまり、山火事にぶちまけられる水、白人たちが射撃に興じる時の水辺、砕けたカップに残る酒、破水してクレオの足を伝う羊水、といったように絶えずクレオから離れない水のイメージが最後にはどこでいかに収束するのか、それは自身を翻弄する運命に水のように流されるばかりであったクレオが、生と死の淵に砕ける破壊的な波に抗うことで手にする再生の瞬間であり喪失への贖罪へと導く流れであったように思うのだ。海からの帰り途、車中でみせるクレオの表情に浮かぶのは自身の人生に対する責任を識ったものの軽やかな不安と緊張の色にも見えて、既に彼女が新しい世界へと踏み出したことを密やかに宣言してみせている。してみれば、家の外のことしか頭にない男たちに見切りをつけた祖母、実母、乳母の3人の女性たちに守られる子どもたちと家の記憶を紡ぐ物語として読み込むことを求められはするものの、年齢も誕生日も知られることのない乳母クレオと“雇用主”ソフィア(マリーナ・デ・タビラ)を串刺しにすることで共闘の証とするには、その捧げる犠牲の重さも踏み出す一歩の距離も異なるように思うわけで(『グリーンブック』のことが頭に浮かぶ)、キュアロンはそのアンバランスを気がかりとしたからこそ、終始佇むばかりであったカメラは最後の最後でクレオだけを追って空を見上げることでいくばくかの祝福としたようにも思うのだ。人間の営為の息づかいをハイパーリアリズムの人工的な艶めかしさでいろどったモノクロームはいつしか聖性すら帯びて、クレオの所作の一つ一つが儀式の遂行のように映り始める。ならばその祭壇とも言えるあの家の開放と閉塞の絶妙はまるで一人の俳優のように脈打っていたし、これが少年キュアロンの記憶の物語であるならば、クレオに寄り添うような位置で静かに漂い続けるカメラはまさにその小さな神様の視点にほかならないということになるのだろう。まるで洗礼のようにクレオを試し問いただすあの波の、禍々しいまでに砕け踊る水の粒と轟音はほとんど催眠的ですらあるのだけれど、これを映画館のスクリーンとサウンドシステムで体験できないとなると果たしてワタシは何を持ち帰れたのか、何よりそれはこの「映画」にとって不幸である気がしてならないのだ。常により良い製作のシステムを追求する姿勢は言わずもがなにしろ、最終的にはスクリーンで出会うのが本意であり総意であって欲しいと思う。できることなら、確認ではなく体験をワタシは望みたい。
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2019年03月13日

運び屋/罪を憎んで俺を憎まず

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朝鮮戦争の復員兵が一日だけ咲く花にいかにして取り憑かれていったのか、などといったアール・ストーン(クリント・イーストウッド)のプロファイルも、さらさらと流れ続ける物語のたたえる水面の透明と静謐にあってはそれを乱す澱みでしかないのだろうし、『ハドソン川の奇跡』以降さらによどみの消えた語り口の最初から最後まで一糸乱れることのない歩幅と息継ぎもあって、まるで一筆書きのような116分にも思えたのである。ではそれがもたらすのが恬淡と枯れた味わいであったかというとそうたやすいものであるはずもなく、すべての登場人物が否応なくアールの後ろをそぞろ歩きしてついて回る羽目になることもあり、ブラッドリー・クーパー、マイケル・ペーニャ、ローレンス・フィッシュバーン、ダイアン・ウィースト、アンディ・ガルシアといったそれなりに手練な面々のパートですらが、ハーモニーというよりはユニゾンで奏でられるせいなのかすべてが均等に無効化されていたかのようで、『15時17分、パリ行き』を経たことで役者と演技という命題について何かおそろしい極北にクリント・イーストウッドは到達してしまった気がしないでもなく、それもこれもすべては、パンクして道端で立ち往生する黒人の家族に気さくに手を貸しつつ彼らを軽やかに二グロと呼び、メキシコ人のお目付け役をタコス野郎と呼んで白人御用達の店に連れ込みつつここのポークサンドは中西部一だから食ってみろとふるまうアールの両義性をすりつぶして全体性へと均すための参照物でしかないという割り切りの要請であり、おかげでアール以外のほとんど誰もが木偶に映らざるを得ないおだやかに異様な演出となっている。せいぜいがダイナーでの捜査官(ブラッドリー・クーパー)との絡みが唯一立体的な交錯となったくらいで、黙ってにやにやしていた以外のローレンス・フィッシュバーンをワタシは覚えていないし、妻メアリー(ダイアン・ウィースト)との最期までドライな熱量に終止するシークエンスも、アールのニヒリズム寸前のノンシャランへと呑み込まれていたように思うのだ。それらすべてはアールという男の人生の道具立てでしかないことは、ラストで舞台の左袖へと退場していくアールをとらえ続けるカメラの長回しが物語っていたし、携帯電話やインターネットに毒づきゴージャスな娼婦を両脇にはべらせ、誰にも使われずにおまえ自身の人生を楽しめと悪党に説教し、すべての不義理を笑って許してもらうアールの漂白する軽みこそが、いつしかGo ahead, Make my dayの薄笑いにつながっていく気がしたのである。そういえば、北野武もメソッドを嫌う早撮りの人で埒外の俳優を好んで起用したことや、台詞と台詞の間で一瞬だけ間をあけてその場で足踏みをするよう演出したバストアップのショットが、フレーム内では見事に感情のゆらぎや溜めとなって映し出されていたという市川崑のエピソードなども思い出してみれば、演技は現象でしかないという透徹した認識の極北がここにある気がしたのであった。
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2019年03月10日

ノーザン・ソウル/その気になれば死ぬこともできた

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デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズであるとかヴィック・ゴダードであるとかオレンジ・ジュースであるとか、いちいちバンド名を挙げていたらきりがないにしろ、イギリスでパンクの蹴破ったドアから現れた若きミュージシャンたちが様々なグラデーションでまとっていた「黒さ」がその音楽に一面的ではない陰影を与えていたのは言うまでもなく、そのいくつか前の世代のブルースベースのロックとは明らかに異なるリズムの熱気とメロディへの憧憬はいかなるDNAによるものなのか、海のこちらで音源と二次情報にすがるしかない身には知るよしもなかったのだけれど、70年代のイギリスで彼や彼女たち若者が鈍色に倦んだ毎日へのキックとして摂取していたのがその「黒さ」に他ならなかったことをこの映画は一発回答で教えてくれたように思うのだ。ザ・ジャムでデビューしてイギリスを席巻したポール・ウェラーが手ぐすね引いた音楽メディアに貼りつけられた懐古主義者のレッテルに「いったい20の若者がどうして懐古主義者になんかなれるんだよ」と唾をとばしたことなども思い出してみても、後にカーティス・メイフィールドをカヴァーしつつザ・スタイル・カウンシルへと舵を切るそのスタイルの源泉もようやく瞭然になった気がしたのである。そんな風な個人的なミッシング・リンクとしての感銘はともかく、イギリスのユース・カルチャーの通奏低音とも言える、怒れる若者たち(Angry Young Men)の知られざるステイトメントをその土曜の夜と日曜の朝として描いたこの映画は、すべてがあるのに何もない泣きながら笑って踊るダンスフロアの刹那を暗闇の閃光のように燃やしつつ、しかし新たな土曜の夜を予感させて終わるラストが、その後のセカンド・サマー・オブ・ラブからマッドチェスターへと連なるノスタルジーではない血流の再確認を促したようにも思ったし、何より劇中でそれを先導するジョン(エリオット・ジェームズ・ラングリッジ)とマット(ジョシュ・ホワイトハウス)が身体ひとつでのたうちまわる青春の彷徨と失敗が夜明け前の匂うような漆黒を引きずり出して、なぜ自分はイギリスに生まれなかったのかという我が10代の呪詛が亡霊のように甦ったりもしたのだ。そしてここイギリスでも、持たざる者の守護神ブルース・リーがそのアイディアとスタイルを、君たちの好きなように使えとどんづまりのボンクラどもに貸し与えていたのであった。
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2019年03月05日

グリーンブック/世界はおれより複雑っぽい

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アーミッシュをおちょくり肥満女性をルッキズムで切り刻み、シャム双生児をシャム双生児ゆえに笑い飛ばしたりと、露悪な当たり屋として名をはせてきたファレリー兄弟がそれでもキャリアを永らえてきたのは、おちょくる側にもなんらかの欠落や欠損を持たせる被虐と自虐のバランス(シャム双生児は一人二役でそれをこなしさえする)によって水平かやや低目からの視点でわけへだてなくいじり倒してきたからで、今作は兄弟名義ではなくピーター・ファレリーのソロ作ではあるけれど、黒人差別という厄介で強大な相手を前にしても、黒人であるドクター・ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)をストリートに引きずりだして肩を組む役目を担う白人トニー・“リップ”・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)を白人は白人でもWASPではなくイタリア系移民とする巧妙かつ絶妙なずらしによって“ニガー”と“イタ公”のバディものという自家薬籠中の物に落とし込む手口は相変わらず手慣れたものだなあと思ったのだ。ただ、トニーにとってのゴールが「(ドンを)ニガーとか言うな」と親類をはねつけるシーンであった一方で、自身の人間性を奪い取った世界への屈託から人間性なるものを拒絶したドンがもう一度世界を信じてみようと一歩を踏み出すゴールに、トニーのそれに比べてかなりのドラスティックを強いたにしては、これがあくまでトニーの物語であり続けた点でその収支のバランスの悪さに少しばかりもやもやしたのも確かだったのだ。とはいえあれだけ際どいところをすりぬけてきた監督のコントロールを牧歌的な額面通りに受け取っていいものなのかどうか、さらに額面通りに受け取るならもう移民と棄民だけで手をつないで自称白い人たちはほったらかしにしとけば?ともとってしまえるわけで、大量のフライドチキンと茹でトウモロコシが晩餐会のテーブルに運び込まれるシーンなど、いささか記号的に過ぎるとはいえ自称白い人たちの下等な生き物としての扱いは、そもそもドンの南部ツアーそれ自体がミンストレルショーのグロテスクな再現であることを思い出してみれば、そこに集う着飾った自称白い人たちにまとめて唾を吐く魂胆にも透けて見えたのは確かにしろ、そうやって自明なことを再燃させたとしてそれが現在にどう接続されるのか、アメリカがもう少し若かった頃のやんちゃなノスタルジーとして消費されてしまうことはないのか、という殴られ続けてきた側からの異論や反論は至極当然なものにも思える。それでもこの題材を2018年に生き返らせたかったのであれば、やはりマハーシャラ・アリが主演男優賞にノミネートされる物語に再構築すべきだったのではなかろうか。はからずも『ROMA』の防波堤にされたことでステージの前面に押し出されてしまっただけで映画に罪はないのは言うまでもないのだけれど、罪はなくても映画が人質にされる時代なのは確かであって、そういう覚悟がない者にはこのステージに上がる資格がないことをスパイク・リーは怒っていたのだろうと思っている。大人気のあるスパイク・リーなどスパイク・リーではないとは言え、さすがにあれは大人気がなさ過ぎたけれども。
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2019年03月04日

THE GUILTY/ギルティ〜見えないおれを照らしてくれ

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予期せぬ叙述トリックによる奈落への反転によって、アスガー(ヤコブ・セーダーグレン)の枷が外れる。白と黒のあいだで灰色に塗れて清濁を併せのむことなど、たやすいどころかこれがおれの天職だとすら思ったこともある。ただ、ひとたびそこに足を踏み入れてみるとこの世界は想像が追いつかないくらい灰色で塗りつぶされていて、いったいどれが清くてどれが濁っているのか視界はほとんどゼロに近いままだし、白いところから灰色や黒いところに息をひそめて出かけて行っては窒息寸前で戻っていくことにもそのうち倦んでしまって、ならばもう帰ることなどやめてそこで灰色や黒い息の継ぎ方を覚えた方がよっぽど楽なことに気づいてしまう。それに気づくということは妻や友人たちのいる白いところでどんな風に息を継いでいたか忘れてしまうということだけれど、忘れたことが哀しいというよりは思い出すことが怖ろしくなっていくのはなぜなのか。それはその境目にあるものが居て、思い出そうとするたびに酷くつらい痛みを与えてくるからで、それをなだめてやるためにおれは狂ったような怒りを蓄えてはそいつに喰わせてやっている。すると痛くするのを一瞬やめてくれるのだ。ラシード(オマール・シャガウィー)が底なしに酔うのも、おそらくそうやってそれをなだめているにちがいない。だからイーベン(イェシカ・ディナウエ)が蛇のことを言い出した時には、ああ、あそこにいつもいておれを痛くするのは蛇だったのかと天啓にすら思えたし、明日は無理でもいつの日かノット・ギルティではないイノセンスを手に入れるには、もう誰もあの蛇に殺させてはならないことも分かったのだ、瞬時に。弾はあと一発だけある。今までこれくらい分が悪かったこともないはずだけれど、運が良ければ相討ちくらいにはなるだろう。そうすればラシードも解放してやれるにちがいない。だからおれは告白する。そして蛇を殺す。
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2019年03月01日

ビール・ストリートの恋人たち/生きのびるための私

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「心の準備はできている?」と正面から目を見つめてたずねるティッシュ(キキ・レイン)に「いつだってこの心が揺らぐことはない」とファニー(ステファン・ジェームズ)が答える恋人たちの会話がひそやかな悲壮感に締めつけられているのは、おそらくそれが収監されるファニーとそれを見送るティッシュに残された2人だけのひと時だったからで、かつてはファニーが問いかけてティッシュが答えたその同じ会話が反転するまでの物語がここからファニーの回想によって綴られていくこととなる。しかし、最愛の人であると同時にお腹の赤ん坊の父親であるファニーに無実の罪を着せた白人警官ベル(エド・スクライン)や、その非道にいきり立つも結局はファニーを救えない白人弁護士ヘイワード(フィン・ウィットロック)は極めて記号的に悪い白人と良い白人として描かれるにとどまり、彼らがティッシュの世界を彩る感情の一筋となることはないまま憎しみや怒りやあきらめといったスパイク・リー的な外部との構図については無頓着とすら言ってもよく、旧友ダニエル(ブライアン・タイリー・ヘンリー)との再会とまるでその後の呪いを示唆するかのようなファニーとの不吉な会話に耳をそばだて、ファニーを救う費用を捻出するため悪事に手を染め始めるティッシュの父ジョセフ(コールマン・ドミンゴ)とファニーの父フランク(マイケル・ビーチ)の姿を醒めた視線で語るティッシュと、世界の現実を渡り合うためにまずは自分自身がしなやかで強靭な現実であり続けねばならないことを娘たちに背中で告げる母シャロン(レジーナ・キング)こそがビール・ストリートの声(”If Beale Street Could Talk”)そのものであることをバリー・ジェンキンスはジェームス・ボールドウィンのコアとして抽出したのだろうし、そしてそれは、藤本和子氏が「塩を食う女たち」においてたどりついた“わたしたちがこの狂気(黒人の北アメリカにおける歴史的体験)を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う”という黒人女性作家の言葉と深く静かに共鳴したように感じたのだ。ヴィクトリア(エミリー・リオス)にアプローチを烈しく拒絶され「しくじった!」と自らを罵るシャロンの誤算は、彼女もまた自分たち黒人女性と同じサヴァイヴァーにちがいないと考えて切り込むように共闘を迫ったところにあるのだろう。黒人として追い詰められ、女性としてさらに追い詰められ、そこを生き抜くために孤独な闘いを続けなければならなかった北アメリカの黒人女性の孤絶が図らずも浮かび上がる、この映画で最も哀しみに満ちたシーンとなったようにワタシは思う。ぼくは家に帰る、そして大きなテーブルを作ってそこでみんなで食事をしよう、とガラスの向こうから思いつめた笑顔で語ったファニーの言葉が刑務所の面会室に据え付けられたテーブルで実現されるラストシーンは、冒頭で始まったティッシュの回想が現実に追いついた瞬間でもあるのだけれど、私たちはここから始めるしかないのだというあきらめでも怒りでもない自明の理とでもいえる現在地の静けさこそは、自分はこれまでもこれからもここから目に映る光景を撮ることしかするつもりはないのだという、バリー・ジェンキンスによるしめやかな闘争宣言だったのではなかろうか。そして、ファニーが彫刻に向かいつつくゆらす陶然とした紫煙にあらためて思うのは、煙草という空間と時間に感情がたゆたうツールを現代の映画が失ったその損失で、チャゼルも新作でクレア・フォイを鎧のような紫煙に包んでいたことなど思い出す。ピエトロ(ペドロ・パスカル)は、そのたびに正面のシャロンから顔をそむけては宙に煙を吐いていて、彼がそうした男であったことはその時すでに語られていたのだ。


「塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性」藤本和子
女性たちが語る体験や記憶とその考えや感情、その純度を貶さぬまま藤本氏の言葉として著される文章の美しさとしなやかさと力強さに圧倒される一冊なので、ぜひとも一読を。
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2019年02月26日

アリータ:バトル・エンジェル/甘くて酸っぱいあなたのために

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そもそも天真爛漫即断即決の人ロバート・ロドリゲスの撮る映画にアイデンティティクライシスに陥る主人公がいた試しなどあるはずもなく、キリングマシーンでスピードスターなアリータ(ローラ・サラザール)が全部あたしにまかせとけばだいじょうぶ、なんならこの心臓をあげたっていいとヒューゴ(キーアン・ジョンソン)を見上げる上目づかいに隙あらば屈服したがるキャメロンの残滓がうかがえはするものの、『スパイキッズ・トリロジー』なんなら『シャークボーイ&マグマガール 3-D』までもひっくるめた稚気の爆走にやつしたキャリアの回収をこんな形で果たすとは思ってもみなかったのである。出方によってはピグマリオンコンプレックスが漏れ出すか、それを回避したとてレプリカントの実存殺伐な手垢にまみれて一敗地に塗れるのを誰もが手ぐすね引いて待っていたところを、いやいやアタシはあんた達の誰よりも強くて速いからそんなもんにはつかまりっこないし!とミリ単位の精密とゼロコンマのスピードですり抜けた残像にサブテキストが追いつかない颯爽と痛快に『アクアマン』が止まって見えたのであった。既に責任の所在すらかすむ190億もの製作費ともなれば、キャラクター内外の汚れや穢れはそれなりにデオドラントされて万人が与しやすくはなっているのだろうし、原作未読ながらダイソン・イド(クリストフ・ヴァルツ)の記号的な物分かりのよさが物語の中核から陰影を払ってしまっていることなどそれとなくうかがえはするものの、それよりはすべての重力をあざ笑うアリータを追走する悦楽を選んだということになるのだろう。とはいえ、それが人間でさえなければレイティングは手出しできないはずだという、ハンターウォリアー相手の切り株ショーやアリータ自らのダルマ化、あるいはバーホーベンもかくやというチレン(ジェニファー・コネリー)の哀しい変態など、時おりみせる想像以上の踏み込みがこの映画を躾けられた超大作のくびきから解放していたように思えるし、してみれば弱者や敗者のジャンヌダルクではないあくまで自身の青春に激突するアリータのピーキーが愛おしくも思えたのである。アイアンシティの猥雑をカラフルでヴィヴィッドに描くことで、空中都市ザレムが覆いつくすディストピアをことさら強調しなかったのもその反映だろう。アリータの大きな瞳を人間並みにアレンジしなかったことで、誰にも似ていない誰のものでないアリータの運命的な孤絶の徴としたキャメロンの慧眼をロバート・ロドリゲスの起用と併せて讃えておきたい。キャメロンのメガホンであればイドとアリータの詮無い親子プレイにあと20分は費やしてダレ場になっていたのは確かだろう。ほとんどブレイドにしか見えないサングラス姿のマハーシャラ・アリの何ともエレガントな無駄づかいもまた一興。
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2019年02月24日

ジュリアン/コドモハワカッテクレナイ

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自分たちを見つめるその視線こそが自分とジュリアン(トマ・ジオリア)の生命を救ったことを知らないミリアム(レア・ドリュッケール)が、まるで傍観者を睨めつけるように返す視線の寄る辺のない冷やかさに身じろぎ一つできなかったのだ。夫婦であるとか親子であるとかいった人間の営為それ自体が呼び寄せるその恐怖は、ワタシたちの不完全さが引き起こすヒューマンエラーによって、かつての夫だったもの、父親だったものが外見だけはそのまま似ても似つかない別の何かに変容してしまうまるでボディスナッチャーのようなホラーの成立を可能にしてしまうわけで、夫として父として世界を支配せねばならぬというその強迫観念に精神を喰いつくされたアントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)が、一番弱い相手としてジュリアンを選びそこからディフェンスを破壊していく狡猾のおぞましさや、次第にそれすらもかなぐり捨てて感情を暴力で伝えることしかできなくなっていく精神の退化には、すでに人間でなくなった一匹の動物への憐れみすら漂い始めた気もしたのである。しかし、この映画がさらに怖ろしいのはアントワーヌという怪物が息をする世界のグロテスクであって、危険な共同親権を認めてしまう法のシステムや、息子の怪物性を知ってか知らずかジュリアンとミリアム、姉ジョゼフィーヌ(マチルド・オヌブー)が隠れて暮らす新居の場所を特定する手がかりを世間話のように話してしまうアントワーヌの母親、崩壊した家族の混沌の最中、誰からも祝福されない新しい生命を無軌道に授かるジョゼフィーヌ(完全な機能不全に陥っている家族の茫漠を延々と垂れ流すパーティーシーンでの凍てつくようなその貌!)、ジュリアンを人身御供として差し出す一方で自分はドアの裏側に閉じこもるミリアム、といった光景は、アントワーヌという怪物がそれら善悪の混沌を生んだのか、その混沌がアントワーヌという怪物を生んだのか、アントワーヌの最後の絶叫は果たして彼の奥底が発したものなのか、それらすべての後では、アントワーヌの蹴破ったドアの彼我でかわされる視線の交錯は、お前たちも皆とっくにこの市街戦の中へ放り込まれているのだという呪いでしかなかったのように思うのだ。『クレイマー、クレイマー』から40年かけて、ワタシたちはアントワーヌという名前の怪物を造り上げてしまった。
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2019年02月21日

女王陛下のお気に入り/オンリー・ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン

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機能不全という機能、というトートロジーに捉まりかけた前作の自省なのか、コーナーに追い詰めては血尿が出るまで腎臓をめった打ちするような試合運びをここでのヨルゴス・ランティモスは巧妙に避けていて、倒されかけた者が他の誰かに寄りかかることでダウンをさせない三すくみのダンスを、人が互いの感情を人質にして生きることの本質的な不健康と不具合の証としてきた愛を奏ですらして踊らせてみせたのである。「これでわかった?メタファーだよ、象徴的だろ?」と半分やけくそのようなセリフすら吐いた前作のメタファー地獄からすると、今作ではその意匠からこぼれ落ちるそれを愛と呼んだとしてもそれはそれでかまわないのかもしれないという甘噛みがいつになく色艶を重ねると同時に、生ものとしてのそれが変質していく時間のメランコリーがストーリーを相応に倦怠させもしたわけで、かつての病理学者のように怜悧で冷徹な視線よりはストーリーテラーの発熱をはらむことを自らに課したように思えたのは、これまでの精緻な観察者のフィクスからは打って変わった歪んだ広角の中でせわしないカメラの窃視者のパンにも明らかだったのではなかろうか。ピカレスクの種を抱えて屋敷に乗り込んだであろうアビゲイル(エマ・ストーン)がアン女王(オリヴィア・コールマン)に示した親愛は、打算というよりは存在が正当に扱われることのないその境遇への共感がまずはそうさせたのだろうし、サラ(レイチェル・ワイズ)の鉄面皮が揺らいだのはいずれその共感が共闘へと姿を変えることをその抜け目のない嗅覚でいち早く察知したからで、この映画がヨルゴス・ランティモス作品としてフレッシュだったのは、アビゲイルという高貴と下賤の境界を越えてきた者ゆえの揺らぎが、望むと望まざるに関わらずアン女王とサラをコルセットのくびきから解き放つことによる人間性の回復へとつながっていく点にあったように思うのである。もちろん回復された人間性が善いものであるとは限らないどころか露悪の純度を上げる格好の理由であったのは言うまでもなく、剥奪された人間性の生み出す露悪も取り戻した人間性が垂れ流すそれも結局のところ変わらないことを知って、やはり人間というものはこの世の果てで立ち尽くすばかりの生き物であったよという述懐が、サラのいない三者によるラストのオーヴァーラップだったように思うのだ。そして何より、前々作から前作へキャリアが進むにつれ、その激突と流血のユーモアを手放しつつある点を懸念していたこともあって、切り刻む諧謔と撫で回す残酷の絢爛がひるがえす映画の裾がいっそう麗しく感じられたのだった。われらが正気は民草に狂気、民草の正気はわれらに狂気。世界はかくも耐え難い。そして黄泉のモノトーンに身を包むベラスケスの愉悦。
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2019年02月18日

バーニング 劇場版/そこに私たちがいないことを忘れればいい

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「メタファーってなあに?」と尋ねるヘミ(チョン・ジョンソ)に答えることなくジョンス(ユ・アイン)はベン(スティーヴン・ユアン)の家のトイレを探す。そして、原作にはないこのセリフに対する答えをジョンスが見つけるまで、要するに世界を語る言葉をジョンスが手に入れるまでをこの物語はたどっていくことになる。それはそのままイ・チャンドンによる原作および村上春樹の解題にもなっていくわけで、こちらは原作にも名前の挙がる2人の作家、フィッツジェラルドとフォークナーがその道標となることで、共にロスト・ジェネレーションの作家としてモダニズムを標榜しつつ、アメリカの繁栄と転落の間に囚われた都市生活者の倦怠と憂鬱を培養したフィッツジェラルドと、南部アメリカにかけられた自己破壊の呪いに愛と怒りのつづれ織りを捧げるフォークナーの両極にして全体が、ジョンスという作家志望の青年を衝き動かしていくように思えたのである。してみれば、劇中でも語られるようにフィッツジェラルド的な陰影としてのベンを見出すことがたやすい以上、ジョンスがフォークナー的な解放と抑圧の人として歩むことになるのは言うまでもなく、韓国社会における都市と周辺の断絶に横たわる深淵へとみ込まれていくヘミを生贄にしてついにジョンスが自身のメタファーを手に入れることで、イ・チャンドンは村上春樹がかけた鍵を外して扉をあけ、その奥の漆黒に足を踏み入れようとしたのではなかろうか。イ・チャンドンのオリジナルストーリーとして、その分岐点とすべく非常に分かりやすいショットでインサートされたあるシーンからエンディングに至るまでの疼くような痛みと哀しみは、その殺人と放火の刻印など含め、フォークナー「八月の光」で主人公ジョー・クリスマスが彷徨した永遠のデラシネとでもいう軌道の儚さにも似て、イ・チャンドンが村上春樹に託した喪失と再生の正体がそこに透けて見えたように思ったのである。ジョンスの家の前庭でマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」が低く静かに流れる中、国境の山並みを夕陽があぶり出すマジックアワーの刻を過ぎて3人が闇に包まれていく体感的には長回しのようなシークエンスの、メタファーとはこういうことだとでもいう濃厚な機能が支配するその時間だけでもう他はどうでもいい気分にすらなった。もちろん、パトリック・ベイトマンまで呼び覚ますメタファー地獄のそれは全くどうでもよくなどなかったのだけれど。
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2019年02月15日

アクアマン/金魚はおやつに入りますか?

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ジェームズ・ワンのホラーにおいて、怖がらせる相手はあくまで登場人物でしかなく観客はその状況を見せつけられることによって怖がるのであり、観客への直接的なアタックはいつかインフレを起こさざるを得ないしそもそも粋ではないのだという品性こそが清潔な殺意とでもいう独特の緊張を呼ぶわけで、ここでのアーサー・カリー(ジェイソン・モモア)は自らの出自や運命を呪って溜めこんだ屈託の解放でブーストするでもなく、人生を笑顔で謳歌してスイングする人として登場したままアーサーがハッピーならみんなハッピーという万事快調なノンシャランだけを維持するために、ジェームズ・ワンはメリハリのハリだけをオーヴァードーズにならないような生殺しの配分で射ち込み続けたのである。したがって全編は酩酊したような甘噛みの多幸感に彩られ、誰も彼もワタシたちも何も省みることなく苛まれることもなく阿片窟のように寝転がって目で光を追っていればよかったのだ。かつて『アイアンマン』がMCUのマニフェストとなってそこからすべてが始まったように、今作のファナティックな祝福を知るにつけこれが新たなDCEUのブースターとなるのだろうことを勝手に予想していたものだから、まあここは一発決めて悪い夢は忘れようぜとでもいうピースフル・イージー・フィーリングのブラック・サバスに対するカラパナ的なうっちゃりに、でもこの手は二度と使えないよねと心配顔のふりなどしてみたのだけれど、『スーサイド・スクワッド2』のメガホンをジェームズ・ガンに任せるらしきニュースなど耳に入ってきたこともあり、ああそれはそれであちらも腹はくくってはみたのだなと、今作の露払いとしての役割にそれなりの合点がいったのである。ただ一人、メリを徹底的にオミットされたことでどうにもペラッペラな復讐心しか許してもらえなかったブラックマンタさん(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)だけが割りを食ってしまった感じなのだけれど、続篇があるとすれば『ピンクパンサー』におけるケイトーのような役回りを目指すことにより新たなヴィラン像をものにする絶好のチャンスではあるので、シン博士(ランドール・パーク)共々ぜひとも精進していただきたいと思う。ワタシはむしろそちらに期待している。
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2019年02月12日

ファースト・マン/生者には何もやるな

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この仄暗い粒子の粗さは、フィルムというよりはLIFE Magazineのカヴァーストーリーに添えられた記録写真のようで、チャゼルはアメリカの光差す記憶の上澄みに手を突っ込んでかき回しては人知れず沈殿した記憶を舞いあげることで、アメリカという国が常にたずさえるイノセンスと呪いという両義性の象徴としてのアポロ計画を、さらにその全体の象徴ともいえるニール・アームストロングという人間に照射してみせたように思ったのだ。冒頭、ほとんど棺桶と化したX-15のコクピットで実験結果の一つとしてあらかじめ織り込まれた死の数値を制御しつつ成層圏にアタックするニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、死を観念の状態ではない轟音と横揺れの世界として捉えていて、そこには今の自分の延長もしくは代替えとしての自分が存在しないことを認識している。そして、死という結果のでなかった日のニールは棺桶から這い出て車に乗って家に帰り、ただいまと言って家族と過ごすのだ。そうした生と死の二重生活はニールにとってみれば労働倫理の実践として許容されるべきものだったのだろうけれど、では愛娘カレンの死は、彼女はニールの知る轟音と横揺れの世界に消えてなくなってしまったのか、彼女の死に際し劇中でただ一度感情を決壊させ慟哭したニールは、カレンを轟音が吹きすさび横揺れが爆発する世界から取り戻すことでしか彼女の死を我がものとできないという結論にたどり着いたのだろう。宇宙飛行士として選抜されヒューストンに移り住んで以降、彼岸としてしつらえられたサバービアとより凶悪な棺桶との間を行き来するニールが死と死者にのみ反応と感情を顕すばかりとなるのは、かつては事象にすぎなかった死に囚われたというよりは、カレンとの絆としてのそれを見出したからなのではなかろうか。そうやって生者を二の次にしてまでカレンの死に拘泥するのは、かつての自分が死をコントロールしたつもりで行き来を重ねたことへの代償としてカレンが奪われたのではないかという罪悪感がそうさせるのかと、生者に目を伏せるばかりの自分に感情を爆発させた妻ジャネット(クレア・フォイ)にすら視線を交わさないニールの、仮死した諦念といってもいい蒼白な光の宿る瞳孔に思ったのである。それまでの爆発的な横揺れの支配する世界とは打って変わって美しくしめやかな手続きのように行われるアポロ11号の道行きから月面の荒れ狂うような無音の世界、月に降り立って以降は月面の風景をそこに反射させるばかりだったヘルメットのバイザーをあげてその貌をようやくのぞかせたニールの果たした喪の仕事までの一連は、フロンティアスピリッツの高揚と辺境でおり重なったおびただしい死との静謐なハーモニーの奏でるレクイエムにも思え、轟音と横揺れの先で純化された死をカレンに捧げたニールは果たして生きている人なのか死んでいる人なのか、それを確かめるべくニールに向き合うジャネットは、アメリカの囚人となった夫に面会する妻の面持ちにも見えたのである。妻とも息子とも誰とも分かち合うことのできない世界でたった一人ニールだけが知る(バズは例のノンシャランを鎧にした気がする)孤独の質を抱えたまま、彼はジャネットを愛することができるのか、ラストショットはまるでエドワード・ホッパーの筆のようにも思えたのだ。「ガラスのある部屋」というタイトルで。チャゼルは完全に抜けたように思う。
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2019年02月05日

天才作家の妻/コール・ミー・バイ・マイ・ネーム

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劇中に関する限り、ぼくがノーベル賞を獲った!ぼくがノーベル賞を獲った!とジョゼフ(ジョナサン・プライス)がベッドの上で跳びはねた瞬間に時限装置のスイッチは起動していたわけで、のちに回想されるあるシーンでは“ぼくたち”だったそれが“ぼく”へと変わっていく年月にジョーン(グレン・クローズ)が奪い取られたもの、それはJoan ArcherからJoan CastlemanとなりついにはWifeへと至る、彼女の名前だったように思うのである。そうやってジョーンの名前を奪ったものたちが無邪気にも彼女の地雷原に足を踏み入れてはそれを片っ端から炸裂させ、その度に怒りで傷ついた眼差しをジョーンはワタシたち観客だけに目配せしてみせるわけで、その矛先はジョゼフのみならず、殿方はこちらで重要なお仕事を、奥様方はお買い物とエステをいかが?と慇懃無礼に差別的なノーベル財団の俗物にまでも向けられて、となればワタシたちは爆発したジョーンが切っ先鋭く立てた中指で自分を踏みにじった輩を串刺しにする瞬間を心待ちにしてしまうのだけれど、この物語が単なる復讐譚に終結しないのは、被害者としてではなく共犯者としての自身を全うすることを文学に誓っているその矜持こそがジョーンを支えているからで、ジョゼフの晩餐会でのスピーチがジョーンを決壊させたのは、主犯を気取るジョゼフがジョーンの贖罪までも果たしたかのようなその振る舞いにこそあったのだろうし、自分たちの罪深さこそが作品を実らせてきたことに最後まで思い至ることのないジョゼフに対する心底の軽蔑と絶望が彼女をああした行動に駆り立てたように思うのだ。したがって、その後で起きたことは彼女にとって避けがたいオマケのようなもので、あの涙はいつか流すべき涙として1958年からずっと彼女が溜めてきたそれであったように思うし、家路についた機内で、何も書かれていないノートのページを静かに撫でながらジョーンがみせる穏やかで満ち足りていながらひんやりとした緊張感の差し込むその表情は、私は私の手に入れたこの新たな罪深さをもって物語を前に進めることができるだろうという希望と確信に後押しされたJoan Archerの貌にも見えて、その瞬間、ついに彼女は彼女の名前を取り戻したようにも見えたのである。鼻もちならない扇動者でありながら図らずもジョーンの理解者となるナサニエル・ボーンを演じたクリスチャン・スレーターの、声の大きな人たらしが絶妙な手つきで攪拌することで生み出したグロテスクなユーモアの入り込む余地のおかげで、一方的に苛まれる悲劇からこの物語がその身をかわすことに奏功したようにも思え、そしてそれこそはジョーンが望んだ筋書きであったことは言うまでもないだろう。
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2019年02月03日

マイル22/やめられない止まらない

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トム・クルーズ&クリストファー・マッカリーの向こうを張るかのようなソウルメイトっぷりを見せつけるこの2人が、さすがに実録ものもネタ切れになったところでぶっ込んできたのは、ハイパーアクティヴなCIAエージェント、ジェームズ・シルヴァ(マーク・ウォルバーグ)による『ソーシャル・ネットワーク』ミーツ『ボーダーライン』とかいう、ウナギと梅干し、もしくはスイカと天ぷらレベルの食い合わせに悶絶しながら早口言葉のきりもみ状態で敵陣を突破していくという、誰も観たことのないというよりは常識的には誰かの目に止まる前に抹殺されるべきアイディアの奇跡といってもいい実現だったのである。手首のゴムバンドをエンジンブレーキ代わりにパチパチ弾いてはクロックダウンするシルヴァの、そんなピーキーな指揮官に現場と命を預ける隊員もまたプロフェッショナルの流儀というよりはスリルジャンキーの矜持で狂気を正気に偽装している節があり、そんな風な“まともな奴は一人もいねえぜ((c)忌野清志郎)”という座組みで行われる肉体言語による情報神経戦であるだけに、知恵熱で朦朧としたピーター・バーグが酩酊した足取りで踏み抜いていく底から透けるさらなる底まで気が回るはずなどないことは百も承知だし、それら目眩ましとして投入されたはきだめの鶴としてのイコ・ウワイスが予想を超えてうっとりと舞ったこともあり、たびたびの良きに計らえと言いたげな目くばせに応えることにも全くやぶさかではなかったのだ。非常にせわしなくつんのめるようなカットのリズムはおそらくシルヴァの病質(ADHD)への恭順にも思え、崩れ落ちる寸前に立て直してはまた崩れ落ちる寸前に立て直すという負荷のかけ方によって最先端の市街戦がはらむ神経症的なファンタジーがねじ込まれていく気もしたわけで、それらが果たしてどれくらい意識的な達成であったのかワタシは言い切れないでいるけれど、現時点で明らかに界隈の更新が成されたのは間違いがないように思うのである。シルヴァのクロックをコントロールするのに手一杯で、当然それもミッションのうちであったであろうリー・ノア(イコ・ウワイス)がなぜシルヴァを生かしたまま機上の人となったのか、2人の間に生まれたはずの共闘と共感の浪花節にまで手が届かなかったのはいささか残念だった気がしないでもないけれど、ドライでもクールでもなく、極北のフラットで情動をたたんで合理を敷きつめていくシルヴァの造形が生み出すサスペンスに思いがけず絆されてしまったので、ぜひとも続篇をものにすることを切望する。それなりに愉しい色艶を持ちながら、いささかキャラクターが被っていたマルコヴィッチがあっけなくオミットされるのもその布石だと考えたい。
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2019年01月31日

サスペリア/最悪は終われない

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ツァイトガイストな目つきにどっぷりと終始するこの劇中で、マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)の指揮するダンスがまさに「民族」という演目であったとなれば、分断されたベルリンの暴力と混沌こそをヘーゲルばりに民族の精神と唱えるこの内ゲバの物語が、恐怖というよりは罪と恥辱にまみれなければならなかったのは必然ということになり、したがってマザー・サスピリオルムによるアウゲイアスの牛舎掃除には、アーミッシュはリベラルになり過ぎたとうそぶくメノナイト育ちのスージー(ダコタ・ジョンソン)が備える攻撃的で潔癖な野心が必要だったのだろう。クレンペラー博士(ティルダ・スウィントン)はそうしたストーリーの対称性を維持するための存在として投入され、あなたは十分に苦しんだのだから、この先はもう罪や恥を感じる必要はないという赦しをもってあらたな人生を与えられることになるのだけれど、しかしこの先博士は本棚の写真を見てもいったいそれが誰なのか、なぜその写真が飾ってあるのか不可思議に思いながら生きていかねばならないことを思うと、世界で一番忘れてほしくない人に永遠に忘れ去られたアンケ(ジェシカ・ハーパー)こそが、愛と哀しみの分かち難い時代を生きねばならなかったすべての人の悲劇としてあり続けることになるのだろうし、本篇の最後で光の中に昏睡していくショットこそはこの映画をすべてのあらかじめ失われた恋人たちに捧げた監督の渾身だったようにも思うのだ。今作も含め『へレディタリー』に象徴される最近のポスト・モダンホラー(何ならもう一つポストを付けてもいい)に顕著な恐怖の変質について、乱暴に言ってしまえば恐怖の源泉が“死にたくない”から“死んでしまいたい”へ変質したことがその理由であるような気がしているわけで、地下の集会場で不埒な者たちを片っ端から屠ったマザー・サスピリオルムがパトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)、オルガ(エレナ・フォキーナ)、サラ(ミア・ゴス)に1人ずつ望みを尋ねていく時、彼女たちはみな口をそろえて「死にたい」と願ってはそれを与えられていくわけで、この瞬間を生き延びたとしても果たして私はどこに行けるのだろうかという生き地獄は、死んでしまうことではなく生き続けることこそが恐怖となるこの世界を、炭鉱のカナリアとしてのホラーが身をもって示したその反映ということになるのだろう。してみると、かつてのスージーだった者が何かに心奪われたような面持ちで佇むポストクレジットシーンでは、絶望にあふれる時代にあっては破壊すらが希望を生み出すことをマザー・サスピリオルムとしての自身に更新していたように思うわけで、それは嘆きの母が暗闇の救世主として再生したその宣言ということになるのだろう。そうした諸々の役割上、揺るぎなく支配的でいることを求められたダコタ・ジョンソンよりは、リンダ・ブレアとオルネラ・ムーティを足して割ったようなミア・ゴスにホラー・プリンセスの王冠が輝いたのはやむなしというところか。サラだったか、誰かの部屋でボウイのポスターを見かけたように思ったのだけれど、この1977年の夏にベルリンのハンザスタジオでレコーディングされた「ヒーローズ」は、その年の10月、すなわちにスージーがオハイオからベルリンにやってきたまさにそのタイミングでリリースされていて、バーダー・マインホフの爆風と銃撃に蒼ざめたベルリンの街で、壁に寄り添う恋人たちを歌ったボウイと魔女がつかの間すれ違ったのは、少なくともルカ・グァダニーノにとっては偶然ではないように思っている。
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2019年01月27日

ミスター・ガラス/Destroy All Monsters

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「バランスを保ち、秩序を維持する」ために息をするすべての存在が敵なのだ、とシャマランは言い切った。なぜ、どこかの誰かのおためごかしでしかない「バランス」や「秩序」のために、キミはかけがえのないキミだけの「乱調」や「混沌」を差し出してしまうのか。しかしそう唱えることが、正しいとか正しくないとか善いとか邪まとかいう教条的な話に誤解されないために、シャマランは大量破壊殺戮者としてのミスター・ガラス=イライジャ・プライス(サミュエル・L・ジャクソン)を語り手と生み出したのだろうし、では犯した罪によって彼の輝きは消えてしまうものなのか、実際のところどうだい?消えてしまったように思うかい?と相変わらず悪戯めいた顔つきでシャマランは問いかけてくるのである。シャマランの映画にたたずむ登場人物がまとっているうつむいた哀しみは、世界の法則を知ってしまったもののそれが自分以外の人にとって必ずしも幸福をもたらすわけではないことまでも知らされた苦痛がもたらすように思えるわけで、そんな風にいつ死んでしまってもおかしくないようなペシミズムに首までつかったシャマランの主人公たちが、とはいえこれまでのところ常に生き延びてきたことを思えばこのラストが悲劇一色に染まってしまってもおかしくはないのに、なぜこうまで爽快といってもいい風が吹いたのか、それはミスター・ガラスが口にしたようにこれが新たなアウトサイダーの誕生を呼びさます咆哮のような映画であったからにちがいない。そうした埒外の幸福に対するロマンチックといってもいい感情はかつて『レディ・イン・ザ・ウォーター』で滔々と吐露された憧憬であったことは言うまでもないだろう。シャマランがずっと言っているのは信じる者は救われる、という至極シンプルなただそれだけなのだけれど、でもそれは世界でたった一人きりになっても命がけで狂ったように信じることができればの話だけれどもね、とばかりミセス・プライス(シャーレイン・ウッダード)とジョセフ・ダン(スペンサー・トリート・クラーク)、そしてケイシー・クック(アニャ・テイラー=ジョイ)の3人がもはや神話と化したこのトリロジーのエンディングを受け持つ名誉を与えられることになる。冒頭、ケビン・ウェンデル・クラム(ジェームズ・マカヴォイ)がしつらえた「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のMVのようなチアリーダーを見た瞬間、既に勝利は確信していたものの、病院の前庭でゆっくりと右にパンをしたカメラが仁王立ちするデヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)の姿をとらえたとき、ああこの瞬間ワタシたちは世界に勝っていると思わなかっただろうか。ワタシは沸き立った血が暴れて逆流する音が聴こえた気もしたよ。魂の自由を愛する人が、媚びるという言葉すら知らずに撮った映画は、自分もそんな風に生きていることを束の間錯覚させてくれる。
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2019年01月19日

クリード 炎の宿敵/バック・イン・ザ・U.S.S.R.

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現役の世界チャンプに課せられた7年間の懲役は実質的に選手生命を閉ざしたに等しく、そんな彼がまだ幼い息子にしてやれるのは、世界チャンピオンとしての勇姿をその記憶に焼き付けることのほかに何があろうかという悲痛な決意のもと彼はラストファイトのリングに上がり、フルラウンドの死闘の末にチャンピオンベルトと息子をリングで抱きしめるのだった。というリッキー・コンランのストーリーにこそ絆された前作を踏襲するかのように、今作においても、三歩進んで二歩下がる成長と覚醒で歩み続けるアドニス(マイケル・B・ジョーダン)はむしろ狂言回しとして、復讐の父子鷹と化したイワン(ドルフ・ラングレン)とヴィクター(フローリアン・ムンテアヌ)のドラゴ親子のサンドバッグとなって揺れ続けるのであった。ことあるごとに母親メアリーアン(フィリシア・ラシャド)、妻ビアンカ(テッサ・トンプソン)、そしてロッキー・バルボア(シルヴェスター・スタローン)が総出でケアをするアドニスはほうっておいても誰かが起こしてやるにちがいなく、しかもこの映画はその手つきを実に細やかで繊細かつ鷹揚に描いてみせるものだから、いざゴングが鳴らされたとしてもそのファイトが何だか他人事のように思えてしまうわけで、となれば痛みだけを確かなものとして世界がこちらを向くまでただひたすら殴り続けるしかないヴィクターの哀切に持ち金を賭けてしまうのもやむを得ないところではあるだろう。とは言え、鍛えあげた人間の意識を10秒間飛ばすにはどうすればいいかという合理の洗練とその手段として相手を殴るという蛮性の同居が強制されるボクシングというスポーツの特異性ゆえ、その合理と蛮性の振幅を人生の両端に例えてしまう誘惑がボクシング映画というジャンルを成り立たせていることを思う時、ジョイス・キャロル・オーツの言う「人生は、多くの不安定な点で、ボクシングに似ている。だが、ボクシングは、ボクシングにしか似ていない。」という文章を同時に思い出してみれば、共に父の呪いを受けたもの同士でありながら人生にスタイルを決定されてしまったヴィクターはそれゆえに、スタイル=メタファーの虜囚になり得なかったアドニスに敗れたとも言えるわけで、事あるごとにロッキーがアドニスに言う「俺のようになるな」という言葉は、ボクシングに人生を喰わせた者だけが知る核心でもあったのだろう。だからこそアドニスはリングの上で合理の人となってみせる必要があったと思うのだけれど、せいぜいがスウェイバックやウィービングとダッキングを派手にしてみせる程度で、「肉を切らせて骨を断て」というロッキーの指示がでた時には、ボディ打ちを誘ってガードの空いたところに左フックを叩き込むとかいう必殺ブロウを期待したりもしたのだけれど、結果としてアドニスが見せたのは単に根性でボディ打ちを耐えるだけという肩透かしなのであった。ヘヴィー級という粗の目立ちにくい階級であるからこそ成立してきたこのシリーズのド突き合いファイトにいまさらケチをつけても詮無い話なのは承知の上で、せいぜいがクルーザー級の肉体にとどまるアドニスがいかにヘヴィー級のファイトを可能にするのか、たとえばロイ・ジョーンズ・ジュニアとクリチコ兄弟との仮想ファイトといったファンタジーを一瞬でも夢見たワタシのが懲りなさ加減こそがいかがなものかということになるのだろう。とは言え、今にして思えばあれはアメコミ映画だったと整理はつくにしろ、これだからアメリカ人てやつは!と呆れ顔を誘った『ロッキー4炎の友情』でアポロを葬ることがなければこのサーガの命運も尽きていたわけだし、当時はと言えば敵役でしかなかった黒人のボクサーが主役を演じてアップデートされるとなれば、世界も少しは変わることがあるのだなあとあらためて識らされた気分の清新については間違いがない。スティーヴン・ケープル・Jr.という監督のシルキーでメロウなタッチがアドニスのノンシャランな倦怠にマッチし過ぎた点でボクシング映画の剣呑を削いでしまった気がしないでもないけれど、たおやかで静かな余韻を銃後の物語につかまえてみせた手腕においてその爪跡は文句がないように思う。
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2019年01月14日

蜘蛛の巣を払う女/急いで鼻で吸え

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ノオミ・ラパスを湯煎してアク抜きし、ルーニー・マーラに鉄分を補給したクレア・フォイのリスベット・サランデルは、普及版の親しみやすさと口当たりの良さは手に入れたものの、まるで鍛冶でもするかのように世界の歪みをたたきなおしてきた彼女の破壊的なハッキングは、それが彼女の世界とのつながり方でもあるのだけれど、ストーリーをジャンプさせるために仕込まれたマジックとして割といいように使われるものだから、ならばこれがリスベットである必要はあったのかと思い始めてしまう。バルデル(スティーヴン・マーチャント)の保護されたセーフハウスをそのために監視しているにもかかわらず、わざわざリスベットに目を離させることによって起きる殺し屋の侵入であるとか、アウグスト(クリストファー・コンベリー)のスマートフォンからあっさり位置を特定されたりであるとか、彼女のエラーによってサスペンスを発生維持するイージーもリスベットの普段使い感に拍車をかけることとなっていて、リスベットは完全にストーリーの奴隷へと成り下がってしまっている。本来、世界に一匹しかいないリスベット・サランデルという孤絶した生き物を観察することがテーマであるこの物語において、そうまで脚色して映画にしなければならなかった意図も意志もワタシにはまったく掴みかねたままだったのである。カミラ・サランデル(シルヴィア・フークス)にしたところで、グリッドデータ化された屋敷がカザレス(キース・スタンフィールド)による対物ライフルの狙撃を受けて形勢が逆転した時のあきらかに慌てふためいた表情は、感情の極北で生きるはずの彼女に似つかわしくない醜態にも思えたし、最期にリスベットと繰り広げる愁嘆場も当然何らかのトラップかと思いきや、あれで死んでいなかったとしてもPCを捨ててしまうのは往生際が良すぎるだろう、額面通り悲嘆に暮れるばかりの結末には、スティーヴン・ナイトがいったいどこまでメインで関わったのか疑わしくすら思えたのだ。クレア・フォイに罪はないとはいえジャンクフードとタバコを主食に生きる不健康なミニマルのBPMは光年の彼方に消えてしまったし、そしてなにより3代目ににして初めてオッパイを見せないリスベットを選んだ点に、マニュアルによる神経症的なギアチェンジを棄ててオートマのアクセルワークで走り抜けようとしたこの映画の、負け戦であることの分別とあきらめが透けて見えた気がしたのだった。カミラの策略に追い込まれたリスベットが、押し寄せる手下の男たちをたった1人で迎え撃つもその圧力に次第に押し込まれていくシーンは、リスベットがずっと唾を吐いてきた「大きなもの」に屈していく切なさが出色に思えたものだから、やはり監督はもう一枚映画を「脱がす」べきではなかったかと正式にケチはつけておきたい。
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2019年01月08日

シークレット・ヴォイス/喝采

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未体験ゾーンの映画たち2019

好きなドレスをどれでも一着あげるわ、とヴィオレタ(エヴァ・ジョラチ)に言葉をかけたリラ・カッセン(ナイワ・ニムリ)の、ドレスを選ぶヴィオレタを背後から見つめるその目つきにみなぎる異様な妖しさは、まるでヴィオレタがあのドレスを手に取るよう催眠術をかけていたかのようでもあったし、ヴィオレタはといえばあのドレスを選んだ瞬間その運命は既に仕上げられていたように思うのである。そもそもヴィオレタにすべての秘密を告げたリラの記憶はいつ戻っていたのか。母を失ったその時リラの前に現れた庇護者ブランカ(カルメ・エリアス)の退場は、YouTubeでヴィオレタを見つけた瞬間に決まっていたのかもしれず、ならば原題 “QUIEN TE CANTARA= Who will sing to you(あなたに歌うのは誰)”を物語に均してみる時、リラにとってのヴィオレタはかつての母の代わりに歌う人となったのは言うまでもなく、2人が邂逅したことで形作られていく円環の運命は次第にヴィオレタにとっての呪いへと姿を変えて、かつて秘密を守るためにリラが母親にした同じことをヴィオレタが娘マルタ(ナタリア・デ・モリーナ)にするのも最早必然でもあったのだろう。ただ、リラ・カッセンからヴィオレタ・カッセンへと生まれ変わったステージを見届けて劇場から立ち去るヴィオレタがあのドレスを着てひとり行う儀式の意味は、リラ・カッセンという運命への永遠なる忠誠というよりは、むしろその呪いからの逃亡であると同時に、打ち棄てられた夢や希望を喰いながら歌い永らえるリラという無自覚な怪物への鎮魂であったようにも思うのだ。前作でも押し殺したような映像の圧力を高めていた「目の力」はリラの虚無とヴィオレタのメランコリーを合わせ鏡のように増幅させて終始息が苦しく暴力的で、善くないことに向かってしかしそんなつもりは一切ない人がまるで祈るように歩を進めていく時に漏らす恍惚がこの監督の作品には満ち満ちているのだけれど、それが単なるペシミスティックに染まってしまわないのはそれらがすべて理性の結果として選ばれているからなのだろう。2+2=4という真実を4のみを描くことで実証していくアクロバットに陶然とした前作に比べ、今作は2=2という真実を入り乱れた2で実証する幻惑に徹したこともあって直打ちの即効性には対応していないけれど、カルロス・ベルムトという監督が映画=物語ること、というオブセッションに忠誠を誓っていて前作が気まぐれやまぐれの産物ではなかったことを逃げも隠れもせずに証明してみせた上に、およそ20年前完膚なきまでに心奪われた『アナとオットー』で虜になったナイワ・ニムリとの再会というダメ押しには歓喜すらしたし、彼女の演じるリラが一番好きな映画として挙げるのが新藤兼人の『裸の島』であるという、いったい誰にぐうの音を出させないつもりなのかも知らぬ書き込みにワタシはぐうの音も出ないままなのだった。
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2019年01月04日

彼が愛したケーキ職人/もっと甘くて苦いものを

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事故で夫を失った女主人の切り盛りするエルサレムのカフェに現れた一人のドイツ人男性が、ケーキ職人として店や人々の気持ちの中にそっと落ち着いていくも、果たしてその正体は?といった風に、彼の愛し方によるその素性を特異な答えとしてミステリーの針を振らそうとする素振りのない水平な語り口がとても誠実に思えるし、それよりは誰かを愛した瞬間に社会的かつ政治的な囚われの身となってしまう人たちの哀しみを湛えつつ、その哀しみの先に射すかもしれない光を何とかつかまえることはできないものかとこの映画は静かに歯を食いしばりながらその手を伸ばし続けていたように思うのだ。トーマス(ティム・カルコフ)は彼の知らなかったオーレン(ロイ・ミラー)の人生を肌で知ることで、アナト(サラ・アドラー)はオーレンのいない空虚の向こうにトーマスを見ることでそれぞれが喪失の傷を癒していくのだけれど、図らずもその道筋が語るのは、イスラエルに生まれたオーレンがユダヤ教の因習に苛まれながら人生を築いていかなければならなかったその苦悩ゆえの悲劇が彼を捉まえたということで、おそらくは息子オーレンの抱える屈託を知っていたであろう母ハンナ(サンドラ・サーデ)が彼の愛したトーマスに対し無言で理解を示すシーンには、劇中ではオーレンの兄、すなわちアナトの義兄モティ(ゾハール・シュトラウス)がその象徴なのだろうイスラエルの男尊女卑的なマチズモへの静かな抵抗をうかがわせているようにも思えたし、しばしばアナトが見せるモティへの反発なども知ってみれば、この(ほぼ)イスラエル映画が押し黙ったまま目をそらさなかった相手が何であったのかは言うまでもないだろう。イスラエルの社会と宗教による饒舌な抑圧に対し、言葉を解さない異邦人としてのトーマスが真摯な感情と誠実な行動でアナトやオーレンの息子イタイと交感して境界を越えていくあたりもその加勢となっている。誰一人心の通う人もいないエルサレムでオーレンの形見となった赤いスイミングパンツをはいてプールサイドにぽつねんと座るトーマスの、ただひたすら生地をこねてはそれを焼く日々を生きてきた人であるがゆえ、ハリウッド的なビルドアップとは無縁の作為のない無垢な輪郭をまとうしかない肉体の圧倒的な孤独が胸を打つし、ついには大きな子供のように泣いてしまう時の張り裂けるような哀しみがあればこそ、ミュンヘンを一人訪ねたアナトがラストでみせる表情の涼やかな孤独を受け入れたような決意が彼のみならず彼女の救いをも予感させるようにも思え、あえて茨のハッピーエンドを回答とした監督の意志と意図を石のつぶてと投げ込むことで巻き起こす波紋こそが、この映画が持ち得た美しい光の紋様ということになるのだろう。劇中でもトーマスがドイツ人であることがあげつらわれるのだけれど、こうした映画をイスラエルとドイツが合作することの反証性とその声は、映画の欠かせぬ骨子として耳そばだてつつ聞き届けておくべきだろう。すべての世界にバランスは関係する。
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2018年12月31日

2018年ワタシのベストテン映画

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LUCKY ラッキー
女は二度決断する
ファントム・スレッド
ビューティフル・デイ
バトル・オブ・ザ・セクシーズ
寝ても覚めても
怪怪怪怪物!
マンディ 地獄のロード・ウォリアー
斬、
へレディタリー / 継承

観た順番。
『2001年宇宙の旅』や『恐怖の報酬』をリヴァイヴァルで観て、監督の怪物化した作家性を抜き身で解き放つことができた時代への畏怖は、もう二度と戻ってこない日々へのノスタルジーでしかないのだなと正式に思い知らされた気がした。しかし、今あらためて「The personal is political(個人的なことは政治的なことである)」と標榜するために新しい映画の言語が模索されているのは間違いないし、特にA24の映画はそのあたりを意識的に行っているようにも思える。だからこそ客もいっそう試されることになるのだろうし、「今の映画が70年代の映画と変わってしまったのは、今の観客が映画を真剣に受け取らないことが理由にあって、その低下は映画作家というよりは観客がそうしている(We now have audiences that don’t take movies seriously...It’s not that us filmmakers are letting you down, it’s you audiences are letting us down)」というポール・シュレイダーの言葉をベテランの感傷で片づけてしまうわけにはいかないようにも思っている。自戒をこめて。

では皆さま、よいお年を。
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2018年12月30日

シシリアン・ゴースト・ストーリー/あなたはもう死んでない人

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1993年6月、裁判官殺害容疑で逮捕されたシシリアン・マフィアのメンバー、サンティーノ・ディ・マッテオは暗殺の詳細を証言することで身分が保証される制度(アメリカにおける証人保護プログラム)の適用を申請し、その報復および証言の撤回を強要するためマフィアは彼の11歳の息子ジュゼッペを誘拐して拷問しつつ、陰惨な写真を送りつけるなどしながら779日間の監禁の後に彼を絞殺しその死体を酸で溶かして廃棄した。

ほとんど『悪の法則』である。ときおり人間がこうした行為の可能な生き物であることに理解が追いつかなくなることがあるのだけれど、その追いつかなさを埋めるために、この物語はマフィアが沈黙の支配をする世界に一人立ち向かい最期まであきらめようとしない一人の少女を事実に書き足すことで、大人たちの残酷で凄惨な謀略に弄ばれ命を散らされた少年へのレクイエムを、その強靭な想像力によって夢とうつつのあわいに溶かしては彼の魂を解放すべく奔走するのである。劇中でのジュゼッペ(ガエターノ・フェルナンデス)は初恋を知らせるため13歳に設定されていて、想いが通じたその日にジュゼッペが連れ去られてしまう少女ルナ(ユリア・イェドリコフスカ)は、世界のすべての不条理と不義に対し想像と空想、夢みる力を全身全霊で駆使しつつ闘いを挑んでいくこととなる。常識と非常識のがんじがらめで張りめぐらされた壁を突破するために彼女が緩めることをしないその想像力は、それを納めることで社会的なバランスを強いている人たちにとっては脅威となり、その力を狂気と置き換えることで柵から外へ出ないよう彼女の母でさえもが囲ってしまうのだ。実際のジュゼッペも、いつか誰かが自分を助け出してくれることを願いつつ、その誰かを夢想しては地獄のような日々をやり過ごしていたのではなかろうか。そしてルナはそうしたすべての願いと希望の結晶となって、いつしか遠くのどこかに囚われたジュゼッペに感応していくのだけれど、それが常に「水」を通して繋がっていくことの理由が明かされる終盤のあるシーンは、この映画が避けては通れない苛烈な真実を幻想と静謐のうちにしかし臆すところなく描き通していて、ワタシは瞬きを忘れてその一切を見つめるしかなかったのだ。波打ち際で新しい友だちやBFと笑い合うルナのずっと遠くで、豆粒のように小さなジュゼッペが気持ちよさそうに海に飛び込むラスト、解放されたのはジュゼッペの魂のみならず生き残っている人達でもあったことが浮かび上がってきて、想像力が現実の色合いを変えること、それこそが映画を撮る理由、映画を観る理由であることが謳われたように思うのである。パオロ・ソレンティーノ組のカメラでもあるルカ・ビガッツィがとらえる、透き通ったマジックリアリズムとでもいう儚くも生々しい映像が夢の純度を高めてなお忘れがたい。
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2018年12月28日

アリー スター誕生/世界にぶら下がった男

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ジャック(ブラッドリー・クーパー)が幾度となくアリー(レディー・ガガ)に言う「君はそのままでいい」といったような言葉は、これがスターダムに倦んだ男とスターダムに駆け上がる女の交錯が生み出す運命の光と影の物語であることを思えば、スターダムの虚飾に対するアンチテーゼからジャックにとってのアリーが始まったと見るのはたやすいし、それを裏打ちするかのようにアリーは父ロレンツォ(アンドリュー・ダイス・クレイ)と同居する実家の自室にキャロル・キングのアルバム(「つづれ織り」)ジャケットを飾っていたりもするわけで、観ているワタシもごく自然にアリーの目指すのはキャロル・キング的な自己実現なのだろうと思っていたし、ジャックの「君はそのままでいい」という言葉もアリーの容姿のみならず音楽のスタイルとしてのRAW&NAKEDを示していたように受け取ったものだから、それを互いが抱きしめあった2人の蜜月時代が音楽映画のエモーションとして最高潮であったのも当然ということになる。したがって、レズ(ラフィ・ガヴロン)のオファーにしっぽを振って飛びつくアリーに、私の面倒を見るのはあなた達でなくていいのかとジャック&ボビー(サム・エリオット)に気を使うこともなく、あるいは本当はそうしてほしいのにジャックとボビーの相克がそれを受け付けない悲しみが描かれることもないのにはなんだか拍子抜けしてしまったのだ。いまだ父親と同居しているという設定がそれを匂わせたりもするのだけれど、父ロレンツォのスターダムに対する憧憬といくばくかの屈託がアリーにスターダムを正解とする生き方を染み込ませてきたのも確かであっって、アリーという人の野心のありかがワタシには今ひとつピンとこなかったとなれば、彼女のスターダムへの駆け上がり方よりはジャックの階段落ちが映画を支配してしまったのもやむなしということになるだろう。ブラッドリー・クーパーについては、以前“そうありたくてもなれない自分への憐憫とその憐憫を餌に生きている自分に気づく程度には頭が回ってしまう哀しさの質で、この人は“〜くずれ”とでも言ったやさぐれ方がしっくりくるように思える“と書いたことがあったのだけれど、ここでの彼は既に何者かであることによりそのくずれ芸は封印せざるを得ないながら、メランコリーの目薬をたらしたかのような青い瞳の焦点をうつろに泳がせては、ストレートな転落芸を余裕のアレンジで演じきって圧倒的ではあるのだけれど、耳の病気や父や腹違いの兄との相克などあれこれパラシュートをつけてしまい転落のスピードが鈍ってしまったことにより、図らずも遠ざかるアリーのスピードまでもがスロウダウンしてしまった点で、この映画の自爆するセンチメントの爆風がいささかマイルドに収まってしまった気がしてならず、要するに誰もクズになりたがらなかったように思えてしまうのだ。そして何より、自分の愛するバンドやアーティストのライヴでフロントマンのガールフレンドにアンコールを務めさせるステージとか勘弁以外の何ものでもないし、それを美しい瞬間として受け入れるのは少しばかり難儀だなあと思ったのだ。ブルース・スプリングスティーンがパティに歌わせる、ポール・マッカートニーがリンダに歌わせる、といったアンコールを想像してみればそれなりに破壊的な状況であることが想像できるのではなかろうか。トム・ウェイツが無名のリッキー・リー・ジョーンズに歌わせたとしても果たして笑っていられるかどうか。
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2018年12月22日

マイ・サンシャイン/ぼくが殺した街、ぼくを殺す街

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ジェシー(ラマー・ジョンソン)が囚われた青春の蹉跌それ自体は、ロサンゼルス暴動が起きなかったとしてもいずれ彼を捕まえたかもしれず、あの時代のあの場所で彼や彼女たちがいかに薄氷の上で、ひとたびそれを踏み抜けば死まで真っ逆さまとなる日々をおくっていたか、ミリー(ハル・ベリー)という献身的で優秀なキャッチャーがいたとしてもそれが起こってしまうのが1992年のロサンゼルスだったということなのだろう。大人たちは良くも悪くも既に仕上がってしまっているし、分別とやらであきらめを知る方法もあるだろう、だからこそ未来の入り口に立ったばかりの子どもたちがそれを強要される醜悪や残酷を彼や彼女の代わりに私たちは、少なくともは私は語らなければならないと思う、というのがデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンの映画作家としてのマニフェストなのだろうと考える。したがって、ここでもジェシーやニコール(レイチェル・ヒルソン)、ウィリアム(カーラン・KR・ウォーカー)たちの屈託や焦燥は細やかかつヴィヴィッドに描かれていて、なかでも、若くしてミリーを補佐するキャッチャーとしての役目を背負い、法の正義を信じ暴力を否定し続けたジェシーを生贄として差し出す、その抱えた本質の重たさゆえに薄氷を踏み抜いてしまう悲劇の寄る辺のなさはデビュー作にして前作の『裸足の季節』に通底する視線であったのは言うまでもない。その一方、ミリーとオビー(ダニエル・クレイグ)という子どもたちのキャッチャーとなる大人についてはその役割以上の重さが与えられていないことで、彼女や彼が薄氷を踏み抜いてしまう人間であるかどうかがしっかりと描かれることがないまま、たどたどしいロマンスに終始してしまうのはどうしたことか。癇癪を起こしてはショットガンをぶっ放し、家具を2階から放り投げる男としてオビーは劇中では色づけされており、にもかかわらず姿が見えなくなった子どもたちがオビーの部屋にいることがわかった時のミリーがまったく警戒の色を見せないのは、彼の抱える屈託をミリーが正当に理解しているからこそなのだとしても、ワタシはそれを知る由もないし、ウィリアムが小さな子どもたちを万引きに駆り立て、盗品であろうTVゲームを家に持ち込んだことに対するミリーの反応が描かれていない点についても、あくまでもあのシークエンスをウィリアムと子どもたちの交情にとどめるのだとしたら、ミリーはそれら犯罪行為を許容範囲としてしまう人なのかと少しばかりモヤモヤしてしまうのだ。駐車場でのほとんど疑似セックスといってオビーとミリーのシーンにしたところで、オープンカーで地獄巡りを続けるジェシーとニコール、ウィリアムたちとのカットバックで天国と地獄を総取りしようと画策するも、前述したように大人2人のウエイトが足りていないせいで不発に終わった気がしてしまっている。果たして87分という短いと言ってもいい上映時間は監督にとっての何らかのチャレンジであったのか、オビーとミリーにそれぞれ5分づつ加えて(前作は97分)ウェイトを与えるわけにはいかなかったのか、おそらくは子どもたちへのフォーカスが散ってしまうことを嫌ったのだろうけれど、それが為されなかったことで映画の全体が散ってしまったような気がしてしまうし、前作に続いてニック・ケイヴ&ウォーレン・エリスの手による絶望と不安の中に差す光を慈しむようなスコアの沁み方に明らかなように、これがそういう映画であることがすぐ向こうに薄く透けているのが見えるだけに、大人たちの流す血も拭ってやることはできなかったのかといささか悔いが残る。何かに滑って足を取られたジェシーがそれは歩道を流れていく血であることに気づき、その流れを見やったその先で地面に突っ伏している死体に言葉を失い混乱にとらわれるシーン、戦場ではないいつもの街角で一人の少年の正気を失わせて追い込む手口の確かさと非情などみればなおさらそう思う。子どもたちの地獄は斯様にぬかりがないのだから。
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2018年12月20日

おとなの恋は、まわり道/泣くより簡単

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80年代半ばにこの世界へ囚われて以降、共に様々な喪失を経ながら四半世紀を生き延びてきた2人が、たとえば空港前のベンチに座るキアヌ・リーヴスがほとんど例の“ベンチのキアヌ”であったりするような、スクリーンの内外で語られる虚実を織り交ぜたある種のメタ構造といってもいい朴念仁とエキセントリックのミッドライフ・カップルを、イーサン・ホークとジュリー・デルピーからはほど遠い益体のないとしかいいようのない甘噛みの応酬の後で、そんな簡単に生き方は変えられないけど、ほんのちょっとした人とのつながりがあればなんとかなるもんだよね、というささやかでさわやかな幸せに着地させていて、ここには恋愛を定義するアフォリズムやひらめくような人生のヒントはないけれど、キアヌ・リーヴスとウィノナ・ライダーという2人の役者とスクリーンごしに歳を重ねて来た人間にしてみれば、肩をたたいて苦笑いさえすれば起きたことのすべてを肯定できるような気分にもなってしまうわけで、いつもはどちらかと言えばノイズですらある感情移入の罠に進んで捕らわれる心地よさは、ほとんど戦友に抱くそれに近いのかもしれないなと思ったりもしたし、そういう錯覚すらもむしろ好ましい、迷子たちが家へと帰るために手に手を取り合う真顔と笑顔がひきつった全身のロマンスをリバース・エッジでヘザースな貴方に。
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2018年12月19日

マダムのおかしな晩餐会/私はあなたのメイドではない

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まさかのロッシ・デ・パルマを泣かせては下層からの一発を誘うアイディアが秀逸で、本来なら黙っていても身を置くところなどない彼女の心身の厚みを身の置きどころのない感情で揺らしつつ、その身ぶるいが次第に砂上の楼閣を崩していく時のマリアが、ついには「たとえ私が、お盆にのせた紅茶をマダムにお持ちする人間だとしても、私にはマダムと同じ価値がある。なぜなら私たちは同じ人間なのだから」と言い放つスノッブ上等な足取りでアン(トニ・コレット)の元を去るラストの爽快なメランコリーが、その始まりからいかに遠くまでジャンプしてみせたかをてらいなく告げていたように思うのである。スタイルとしてはコメディで述べられている以上、マリア以外の人間は片っ端から滑稽なクズとして描かれてはいるものの、パリの浮き草として上っ面を漂うアメリカ人とイギリス人とフランス人に対するスペイン人移民という図式のそれなりな露骨に加え、男に寄生して成り上がるサヴァイヴァーとしてのアンにはかなりあけすけな筆使いでスノッブが貼りつけられるばかりか、奪った者はやがて奪われるという因果でとどめを刺すことすらも厭わず、しかしアンに彼女の言い分としての空虚を許すあたりの手綱さばきは、生粋のクズである男たちとそれに合わせて自身のクズを選ぶ女たちの哀れみまでも連れてきて、その辺りの真綿で首を絞めかけるようなチクチクするレイヤーは女性監督ならではの絶妙で巧妙な仕上げであったように思うのだ。マリアが初めてアンに正面から中指を立てるシーン、からくりを知らないマリアがデヴィッド(マイケル・スマイリー)の愛は真実の愛だとムキになるにつれ、「あなたがどうやって彼をたらしこんだのか知らないけれど、あなたは家政婦であって売春婦ではないでしょう?いいかげん身の程を知りなさい」とアンのボルテージも上がっていくのだけれど、かつてボブ(ハーヴェイ・カイテル)をたらしこんで奪い取った彼女にとってすべては人生をかけたゲームでありそのプレイヤーであるという本質が問わず語りに暴露されることになり、しかしそのゲームで彼女の犯したミスによって10年来の有能なメイドを失うと共に新たなプレイヤーによっていつしかボブも奪われていくのである。一方、それまでとは打って変わったシックな装い(アレではない黒いパンプス!)で歩いていくラストのマリアが手に入れたのは抑え込まれていた自尊心とプレイヤーとしての野心であり、それは夢物語ではないハッピーエンドをマリアが書き換えた瞬間であったようにも思え、監督が示したこの解放は現在のこの世界において非常にスマートかつアグレッシヴに感じられたのだ。ロッシ・デ・パルマと抜き身で渡り合うトニ・コレットの、神経を鞭のようにしならせて打ちすえる佇まいは今が彼女の黄金期であることを朗々と謳い上げているかのようだし、なにより長編2作目にして素晴らしい猛獣使いであることを証明したアマンダ・ステールという監督/脚本家の名前を記憶しないわけにはいかないだろう。緊張に耐えかねたような邦題はいまひとついただけない。
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2018年12月14日

暁に祈れ/もっとでもいいんだぜ

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ジョー・コール演じるビリー・ムーアによる自伝の映画化ということなのだけれど、ビリーがタイに来た理由や既に彼が身につけている荒廃の事情などバイオグラフィー的な背景がとくに語られることもないまま、彼が収監されたチェンマイの刑務所内に蠢く囚人たちの、入れ墨と薄ら笑いと罵声と怒声、殺した数や犯した罪、覚醒剤、闘魚、強姦、すなわち死ぬまでの暇つぶしがむせ返るように描かれていく。そんな中、緩慢に生への執着が断ち切られていく雑魚寝の無間に沈み始めたかに思えたビリーは、中途半端なボクサーで中途半端なジャンキーでしかなかったその生来の曖昧さがここでも彼を中途半端な死者にとどめたことで、生への執着が彼にムエタイという命綱を投げてよこすこととなるのだけれど、ただ、映画の惹句として“ムエタイでのし上がることに成功したイギリス人ボクサー”と語られた時の違和感が最後までぬぐえないのは、ビリーにとってのムエタイは刑務所内の地獄のカーストを這い上がっていくツールというよりは、剥き出しの拳を叩き入れ蹴りを打ち込み膝を突き刺し、剥き出しの肉体に叩きつけられる拳と打ち込まれる蹴りや突き刺さる膝によって、刀工が刀を鍛えるように自身の輪郭を形作っていく作業であったように思うのだ。ラストで誰にも見咎められず病室から抜け出したビリーが結局は戻ってきてしまうのも、高きであれ低きであれ中途半端ではないくっきりとした自身の輪郭を識ることで、あのまま逃げ出すことが自分にとっての自由ではないことに気がついたからなのだろう。この仏人監督の前作『ジョニー・マッド・ドッグ』でも感じた、悲しき熱帯的もしくはロバート・フラハティ的エクスプロイテーション(モンド映画ともいう)風味は相変わらずながら、そうしたビリーの成長というよりは変貌、もしくはビリーが勝った最後の試合のフィニッシュブロウが何であったかなど、今作では脚本から手を引いたこともあってだろう、それなりのドラマツルギーが書き加えられたことで映画としての救いは手に入ったように思うのである。(宗主国にとっての)辺境にしかリアルを見いだせない監督のスリルジャンキーが救われたかどうかはともかくとして。
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2018年12月13日

パッドマン 5億人の女性を救った男/きみはちっとも悪くない

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きみの笑顔が見たいだけさ、という幸福の追求がかくもアナーキーなシステムの更新を成し遂げる物語の、まずはその不幸なシステムが西暦2000年を過ぎて横たわっていたことに驚きはするものの、その笑顔を阻み続ける魑魅魍魎がいまだこの国を含めた世界中に跋扈している様は毎日嫌でも耳に飛び込んでくるわけで、ラクシュミカント・チャウハン(アクシャイ・クマール)が狂人扱いされればされるほどそれを促す側の狂気が浮かび上がっていく寓話の饒舌は、それら不幸で残酷なシステムの存在を笑顔で糾弾しているに他ならない。そうやって一念岩をも通すなぜなに坊やラクシュミが成し遂げたのはフェミニズムの革新がそのままフェアトレードのシステムを確立させていく弱者の産業革命ともいえるもので、そのドミノ倒し的な痛快と爽快こそは、この世界がそれをいかに待ちわびていたか、そして本来あるべきものが今までずっとそこになかったことの証ではあるのだけれど、劇中でラクシュミを率先して嘲り嫌悪するのが女性であったことや、彼女たちにそうさせる恥の概念を植えつけてきた歴史を考えてみた時、ラクシュミがパリー(ソーナム・カプール)のもとを去ってガヤトリ(ラーディカー・アープテー)のところへと戻る理由、すなわち、これからのインドの女性はもう泣かなくていいこと、生きるのを恥じる必要はないことをそれそれが目の前の1人に伝えるところから始めねばならないというその責任を観客に託していたように思うし、聡明に開かれたパリーが目に涙を浮かべながら言う「彼はこのままここにいたらつまらない男になってしまう」という言葉は、歴史の罪を負うべき人としての男性に向けたメッセージでもあったのではなかろうか。道化を演じるラクシュミの陽気なコメディの振る舞いはしばしば笑いの不発を誘っているように映るのだけれど、そもそもこの映画が奮闘しているのは笑えない状況を笑顔で伝えるその一点にあることを思い出してみれば、希望と絶望が交互するその泣き笑いの表情こそがこの映画の息づかいであり、彼を笑い飛ばせるほどワタシたちは無傷ではないことに次第に気づかされていくように思うのだ。ガヤトリの対照として在るパリーを演じたソーナム・カプールの、ジェニファー・オニールを思わせるモダンでスマートでしかしそれを嫌味としてはならない美しさがこの映画を一方で引き締めている。
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2018年12月11日

来る/まっかなケチャップになっちゃいな

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祖母志津(ヨネヤマママコ)の彼岸の人のような佇まいに、何しろここから始まるわけだからな!と予告篇のころから感じ入っていたこともあり、志津が夫に仕掛けた苛烈な復讐とその哀切な動機および、孫の秀樹(妻夫木聡)にまで祟り続けるその呪いがなぜ普遍であり得るのかというそれら一切がないものと脚色されていたことには少なからず驚いたというか落胆もしたわけで、それはおそらく「ぼぎわん」をその由来や姿かたちで語ることよりは、人の心の昏さが生み出すイドの怪物的に乱反射する思念の存在として描くことに決めた監督の采配によっているのだろう。映画の大半は秀樹と香奈(黒木華)の2人が自分たちの作り出した生き地獄に呑み込まれていく様を描くことに費やされて、ぼぎわんはその手続きとして存在するに過ぎず、それについてはおおよそ原作の構成を踏襲しているのだけれど、脚色されたぼぎわんに最低限必要となる失われた子どもたちの総体という記号に呼応するかのように、原作のある設定が180度変更された野崎(岡田准一)もまた自身の生き地獄に放り込まれることになる。前述した志津の復讐とその動機を一切カットしたのは、おそらく中島哲也という監督が既に死んでいる人間はもう死ぬことがないという理由によってその物語には関心を抱いていないことの表れで、もっぱら目の前にある生き地獄を捕らえては飼い慣らすことにのみ愉悦を見出しているかのようであり、もはや琴子(松たか子)とぼぎわんの最終決戦すらを省略する切り捨てにはそうまで自分に確信してしまうのかと恐れ入ったし、造り自体はドシャメシャではあるけれどそのあたりの脱構築はA24系を中心とするポストホラーの流れによって解釈可能にも思える。ではその生き地獄の味わいはどうだったかと言えば、妻夫木聡が自己啓発系ナルシストの凡庸な悪を虚ろな躁病の広がりで完璧に演じきっていてこの映画での最良だったし、そのネガとポジとして狙い撃ちした悪に陰鬱な作り笑いを貼りつけた黒木華は、例えば『永い言い訳』で監督に“シャツのボタンをいちばん上まで閉めている女性のいやらしさが欲しかった”と言わしめた爛れの全開に惚れ惚れと見とれるしかなかったのである。比嘉姉妹は共にシャープな造型でジャンルムーヴィーとしてのハレのバランスを豪腕で支えていて、終盤で琴子(松たか子)が繰り出すノーモーションの右ストレート一閃には思わず頬が緩んだりもした。とは言え、せっかく秀樹という極上のクズを妻夫木聡が仕上げたのだから、やはり原作で志津が秀樹に諭す「優しゅうしたりな、ずっと、面倒見たらなあかんで」「(女の人が)耐えてもええことなんかあらへんからな」という言葉に唾したその最上級の報いとして、秀樹はぼぎわんに屠られて欲しかったなあと思うのだ。そのとばっちりもあって、まさかのビルドゥングスロマンを背負わされた野崎も困惑したのではなかろうか。オムライスの国を知紗(志田愛珠)の経験値で描けるお山の表出としたバッドエンドは、雨が降ろうが槍が降ろうが正面切ることのできない監督の苦肉の策にも思えて心がなごむ。
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2018年12月07日

ギャングース/ギュードン・コーリング

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町並みに埋もれるような一軒の牛丼屋にああまで優しく暖かい光が差し、何ならそこに聖性すら漂わせてみせたあのラストこそこの映画が目指した場所であったのは言うまでもないのだけれど、本来ならばこの映画に泣き笑いすべき人たちはおそらく映画など観る状況にないのだろうことを思えば、3人が並んだカウンターの背後で知ったような口ぶりの高説を垂れるサラリーマン、しかしあれが世論として大手を振る吐き気のするような界隈がこの国にはあるわけで、に中指を立ててむかつきをおぼえる観客を一人でも増やすことがこの映画の可能性なのだろうと、少しだけ遠い目などもしてしまうのだ。いったい誰に届けようとしているのか薄気味悪いほど顔の見えてこない、青空に祝福され栄養の行き届いた青春映画の裏通りで一杯の牛丼に涙を流す若者たちのピカレスクはあまりにも馬鹿正直でそれゆえ不発でもあり、しかしそれでも傷だらけで笑い続けるサービス精神が痛々しくて愛おしくて仕方がなく、臭いもののふたを蹴破ってデオドラントされた世界にリアルな臭いをぶちまけることを自らに課した原作から一本の映画へと幸福な着地をすればするほど沁みてしまうメランコリーこそを、映画を観たワタシたちは自分のものとして持ち帰らねばならないのだろうと考える。ゆらゆら揺れる青白い炎のような原作の輪郭を実写の輪郭に息づかせたサイケ(高杉真宙)、カズキ(加藤諒)、タケオ(渡辺大知)の造型はすでにそれだけで勝利だし、さすがに3人ほどの深掘りは叶わないにしろ安達(MIYAVI)や加藤(金子ノブアキ)といった敵役にも可能な限り言い分を与えていたのも原作の理解あってのことだろう。その分、原作ではカズキたちを金と人情でバックアップする魅力的な存在だったチャイニーズマフィアのヤンくんまで手が回らず、高田(林遣都)あたりにそのキャラクターが吸収されてしまったのはやむを得ないところではあるのか。砂を噛むような風景の中で血の味を口に感じながら立ち尽くしたまま、それでも遠くを見続ける者たちへの共感と救済を使命感のように描き続ける入江悠監督がロードサイドや河川敷に灯す明かりが吹き消され辺りが真っ暗になってしまわないよう見守るのはワタシたち観客の責任であるに違いない。それにしても、そんな風な映画ばかり観てきたワタシは、最後にダンプが牛丼屋に突っ込む光景が一瞬ちらついたものだから慌ててそれをかき消したりもしたよ。
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2018年12月05日

へレディタリー 継承/ごめんで済んだら母親はいらない

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ハネケやファルハディ、最近だとオストルンド作品を観ていて、これはもうほとんどホラーだな…とつぶやいてほくそ笑む、ほとんどホラーなその先の薄昏い角を曲がっていっそホラーにしてしまえば、もっとしたたるような「他人の不幸は蜜の味」が搾り取れるに違いないとアリ・アスター監督もまたほくそ笑んだかどうかはともかくとして、私が私であるがゆえ逃れられない存在の激痛に催す吐き気のような神経戦に、その激痛をもたらす“もの”を具体化して絶望をなお直截的にするホラーの語り口を外科手術の緻密で縫い合わせることで、ロウブロウとハイアートを横断し折衷した新種の昂揚(まさにあのラスト!)に触れた怖気を持ち帰ってきた気がずっとしているし、それを切らしたくないという思いに囚われている気もずっとしているのである。したがって、この映画の怖さというのはメメントモリ的な死の脅威というよりは、世界の法則から外れた人間がどのように変質していくのかを無慈悲に見つめ続ける視線にこそあり、オープニングでアニー(トニ・コレット)の作るドールハウスに侵入していくカメラは、これが忌まわしく大いなる意思によって俯瞰され導かれ作り上げられた物語であることをその視線で告げることとなる。起こったことがドールハウスで再現されるのか、ドールハウスで作られたことが起きるのか、既にアニーがある種の依り代となっていることは、冒頭の葬儀シーンで紋章のペンダントをしていることもうかがえるわけで、母親に精神支配され続けた娘がその呪縛を打ち払いつつ刻み込まれた自身の狂気とも闘い、しかしついにはそれらに呑まれ敗れていくその哀しみがホームドラマとしてのこの物語を透明で硬いペシミズムで覆うことでホラーのハシゴを外したとしてもそのまま成立する強度を持ち得たようにも思っている。対象にフォーカスした同一ショット内に霊体の気配を配置し、しかしその存在は観客にしか視えていないというJホラー的なショックシーンを排しつつ、しかしある一点でここぞとばかりに繰り出したケレンには小さく声が出たし、視えているのに視えていないショット、例えば授業中にいきなり振り向いてピーター(アレックス・ウルフ)を凝視するブリジット(マロリー・ベクテル)や遺族の集まりで一つだけ空いた椅子、ピーターの部屋の窓越しに見えるいつも灯りのついたツリーハウス、といったあたりの漂わせ方で知らず毒が回っていく。また、アニーがジョーン(アン・ダウド)の家に向かうシーンやピーターが学校で授業を受けているシーンなど、家の中のシーン以外ではほとんど同一のショットを繰り返すことによって全体の閉塞が緩むのを絶妙に回避もしている。おそらくアリ・アスターという監督はことさらホラーの文法で綴っては観客を怖がらせようとする意識もさほどないまま、状況を反映させる感情を忠実にデザインした結果がこうなったに過ぎず、さすがに家族同士が字義通り首の刈り合いをする物語を着地させる術が手持ちにないためその点を悪魔に頼ってみたのだろうし、一番怖ろしいのは人間であるという今さら陳腐でしかない物言いを衒いなく言ってしまえるのも、妹チャーリー(ミリー・シャピロ)の首を飛ばした翌朝のピーターを襲う、死んだ方がマシなのに死ぬことすらできない僕はすべてが夢だったことに賭けてみたがそれもあっけなく潰えた今この瞬間、死ねない僕を誰か殺してくれないかそれも核ミサイルの人災や大地震の天災によって、という薄ら寒い希死念慮であったり、それを口に出したらもう引き返すことはできなくなるその一線をアクセルべた踏みで破壊的に超えていく食卓のシーンであったり、といった人外によるアタックとはまったく無関係なシーンこそがこの映画のピークで針を振り切っていたことに明らかで、おそらくこの監督のフルスペックはホラーのくびきから離れたところでこそ世界に轟くのだろうと考える。あけすけなドールハウスショットで展開する、オマエが燃えるんかい!の爆発的な緊張と緩和の達成が知らしめる監督の浮世離れした暗闇を指さして、やっぱりこの人は悪魔だった!とほくそ笑む未来をワタシは待ち望んでやまない。
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2018年11月30日

斬、/悪い人たち

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※未見の方スルー推奨

暗転した途端、身構える間もなく石川忠渾身のインダストリアルビートに打突され、その響きは次第に烈しい間合いで刀工が鉄を打ち据えるハンマービートへとなだれ込んでいく。内臓の深いところまで易々と響くそのリズムとそれに踊る灼熱の炎、そして叩かれるほどに生命を獲得していく鋼の塊が喘ぐように放つ、官能といってもいい芯からの光に魅了されることで、人を斬り、殺すためにこの世に送り出される刀という武器をあっさりと受け入れるに至る監督の悪魔のような手口によって、ワタシたちはのっぴきならないところから歩を進めることを余儀なくされてしまい、ああこの炎は『野火』のラストで田村が暗闇に見る炎だったのかと気づくのは、何度か反芻してみた後のこととなる。そんな刀の一本が都築杢之進(池松壮亮)という若い浪人の手に届くも、肉体的には人を斬る準備が十二分に仕上がってはいるものの精神として人を斬る術を知らぬ彼は肉体の昂ぶりをしばしば放ってやらねばならず、それは自分に課した日々の鍛錬が行き着く先は人を殺すことであるというその理を見失わないための儀式であるようにも映る。澤村次郎左衛門(塚本晋也)と素浪人の果たし合いを見ていた杢之進が、一瞬の交錯の後で素浪人の右手のひらが深々と割られ肉が覗いているのを確認するやいなや決着を見届けず立ち去ったのは、その眼力で勝負を見切ったのと同時に、刀が肉体を破壊したことの小さいけれど確実な衝撃にもよっていたのだろうと考え、ここで既に杢之進のナイーヴが始まっている。物語としては杢之進のイノセンスを澤村のギルティが犯そうとにじり寄っていくのだけれど、両極でスイングすることの多い塚本作品ではめずらしく、「俺たちは悪いやつにしか悪いことしねえよ」とうそぶくイノセンスとギルティを混濁させた源田瀬左衛門(中村達也)という浪人が杢之進と澤村の拮抗を崩す者として登場し、ある意味で澤村の思惑通り杢之進を破壊していくこととなる。命のやり取りをするに及んでなお真剣を取らず木の棒を掴む杢之進に「てめえ、なんだそれ」と哀しげとも言える怒声を浴びせる源田は、一周することで人を殺めることの意味と理由を我が身に染み込ませてきた男で、役回りとしては同様にイノセンスとギルティを内在させながらそれを意識していないゆう(蒼井優)とはその立つ場所が螺旋状に異なっている。そしてすなわち、ワタシたちとしてのゆうは無垢と無知ゆえ状況に対しては犯罪的とすら言ってもよく、けっして澤村のギルティだけが最期に杢之進という怪物を生み出したわけではないことを忘れぬよう、監督は残酷を承知でゆうを当て馬としたように思うのだ。倫理的な説諭が目的であれば当然のごとくギルティはイノセンスに敗れ去るはずが、ここで描かれるのは怪物が誕生するプロセスとそこに加担した人々の振る舞いで、しかもそれぞれの人物像は誤解のないよう両義性すらがきちんとデザインされて提出されており、その直截性にワタシは塚本晋也監督の苛立ちのようなものを感じたりもしたのだ。それはおそらく自分の内部に発生し居ても立ってもいられぬ焦燥と、自分を取り巻く世界との乖離がそうさせている気がしていて、その世界にはもちろんワタシたち観客も含まれているに違いないと思うのだ。これでもまだ分からぬかということである。監督のすぐ側でそれを嗅ぎ取ったであろう池松壮亮、蒼井優という傑出した俳優は、自身のフィルターの目を微細に研ぎ澄ますことで解像度と透明度を高めつつ、ワタシ達はもう武器を手にして変質してしまい善いものではなくなっていることを知らねばならない、そしてこれ以上悪いものにならぬよう、悪いものを生み出さぬようまずは自身を押しとどめねばならない、と伝えることに全身全霊を傾けていてそれはもう愛おしく切ないほどであり、彼や彼女の流す血と涙で濡れそぼった映画の艶めかしさはすべてから独立した一匹の生き物のようにすら思えた。杢之進に割られた腹からこぼれ落ちる澤村のはらわたを、おそらくは手の込んだ造型とギミックを仕込んでおきながらコンマ数秒のカットで使い捨てる透徹したダンディズムに思わず歎息が出る。そして全篇が石川忠へのレクイエムとなっているのは言うまでもない。
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2018年11月27日

イット・カムズ・アット・ナイト/地獄へ道連れ

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※妄想を書き散らしているため未見の場合ノイズになるはずなのでスルー推奨

弱いものから狙われていくのだとしたら祖父の次にトラヴィス(ケルヴィン・ハリソン・ジュニア)が絡め取られていくのがホラーの常で、日々に費やすすべての理由が今日を生き延びることでしかないとすれば、では自己の実現や達成は見果てぬ夢でしかないのか、そもそも自分は何のために生をうけてここに在るのか、そんな大それた命題でなくとも、いったい自分の未来に恋愛やセックスは存在するのかどうかは17歳の少年にとって何よりの一大事だし、となればキム(ライリー・キーオ)のTシャツに薄っすら浮かんだ乳房ですらが驚異であり脅威となる夜がいつしかトラヴィスを手中に収め噛み砕いたとしても、その運命に何ら不思議はないだろう。さして謎解きに意味はないとは言え、父ポール(ジョエル・エドガートン)があるシーンで口にした夢遊病という言葉が耳に残ったことや、劇中で幾度となくそれもわざわざスクリーンサイズを変えてインサートされるトラヴィスの悪夢のことを思い出してみた時、夜の森に愛犬スタンリーを探しに行き、感染したスタンリーを持ち帰って赤いドアの部屋に置いたのは夢遊病のトラヴィスではなかったかと思っている。そうしてみると、その夜半に起きた騒ぎの辻褄、記憶がおぼろげに戻ってきたアンドリュー(グリフィン・ロバート・フォークナー)が犬を運んでいたのはトラヴィスであることを両親に話し、トラヴィスの感染を知ったウィル(クリストファー・アボット)とキムは慌てて家を出ていこうとする、が合うように思うのだ。ただそのこと自体はとりたてて重要というわけでもなくて、ワタシたちの破滅はいつだって自滅に他ならないことを淡々と突きつけてくる自虐と被虐とが手を取り合ったような口調にかわりはなく、ハネケはホラーであるという点においてこれは得も言われぬホラーであり、光年の彼方へ断絶するエンディングの完璧さには思わずクカッとかいうおかしな笑いが漏れたのだった。ここ数年で顕著なポストホラー系ムーヴィーに共通する90分や100分でかわせる恐怖など恐怖ではないという恐怖の永続性は、恐怖の源がワタシ達の在り方そのものと切り離せないことを告げているように思え、いつの時代もホラームーヴィーが現実のサンドバッグとなってきたことを考えてみれば、それはこの世界で生きていること自体が恐怖に他ならないという時代の顕れであり、好きな人とのキスもセックスも知らずに逝ったトラヴィスの怨念がまた少し世界をどす黒くしたことをワタシ達は覚悟するしかないのである。
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2018年11月25日

アウト&アウト/この娘の代わりに泣くか、死ね

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暴力の扱いに長けているだけで暴力を喰って生きているわけでもない矢能という男の、しかし暴力から離れたところで生きる自分を想像できない/しないあきらめと倦怠を、自分に対する仏頂面と親代わりの栞(白鳥玉季)に向ける真顔との間を少しだけ面倒そうに往き来しながら遠藤憲一が演じている。いまだにワタシは、ほうっておくとBE-BOP-HIGHSCHOOL ビー・バップ・ハイスクール』を撮ってしまう人というイメージがきうちかずひろ監督にはあって、あの寄る辺のない陰惨さが本質なのだろうと思っているので、19年ぶりのメガホンでみせるこんな風に暴力を情で抑え込む時の軋みによって映画を絞り上げていく舵の切り方に少し驚いたりもしたのだ。そして矢能には緊張と緩和の余分なサービスをさせないよう、その周囲をファンキーで愛すべき取り巻きが敬愛と冷やかしの顔つきで練り歩く構図を用意した上で、最終的には全員でよってたかって広げた風呂敷をぐいと縛ってみせる手口のたたみかけるようなスピード感には爽快さすら感じたのである。そして「語尾とか多少変えてもいいですか」と聞く遠藤憲一にそれを許可した監督が、、撮影開始3日目にして「もうアイデア出すのやめてくれ。やりたいことやっていたらキリがない。時間も予算もないんだから」と前言を翻す話、「ジョン・カーペンター読本」の冒頭で黒沢清監督がしたためた「遊星からの物体X」論にして素晴らしいジョン・カーペンター論にしのばせた“映画はこの程度でいい”という一言が頭に浮かんで、なんだか清々しい気持ちになったりもしたのだ。久々の本業でニコリともせずフルスペックを発揮する遠藤憲一はともかくとして、成瀬正孝から中西学まで軽重を使い分けるキャストと弾き方も見ものである。きうちかずひろ作品においてハードボイルドもしくはハードアクションと言う時のハードは、“激しい”ではなく“硬い”であることをあらためて認識したし、1から10までを見せつけずに切り上げるアクションのダンディズムもいっそう滋味深く、深夜ドラマもしくはPCやタブレットの液晶画面ではなくスクリーンでそれを観る僥倖を知らずにいるのは何とももったいない話だなあと思う。
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2018年11月23日

ライ麦畑で出会ったら/ぼくはたぶん間違ってない

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今ここでセックスしたらぼくはホールデンでなくなってしまう!というジェイミー(アレックス・ウルフ)の笑うに笑えないイノセンスの蹉跌を救うのは、実はJ・D・サリンジャー(クリス・クーパー)その人というよりはディーディー(ステファニア・ラヴィー・オーウェン)だったわけで、おそらくはビート・ジェネレーションであろうヒッピーライクな両親によって自由闊達な精神を育てられた彼女こそが、ホールデン・コールフィールドの過剰摂取によるジェイミーの自家中毒を解毒していくことになる。何しろ彼女の造型が愛おしいほどにタフでチャーミングなものだから映画が彼女を頼りすぎて少しばかり楽をし過ぎたきらいはあるけれど、ホールデンが憑依したジェイミーが求めて叶わなかった愛情のあらかたを与えるためには彼女くらいマイティな存在が必要だったのだろう。そして少し驚いたのはサリンジャーが一人の独立した人格として物語に関わってくることで、もちろんクリス・クーパーの相貌はマッチしていないのだけれど「ホールデンもフィービーも私のものだ」という彼の強固な拒絶は、ジェイミーまたは世界中のジェイミーに向けた「きみはきみ自身のホールデンをみつけるべきだ」というメッセージの裏返しであることをこの映画は伝えようとしていて、隠遁した神としてのサリンジャーではない、真摯な一人の表現者としてのポートレイトを誠実に描いてみせたように思うのだ。そんな風にサリンジャーはその言葉で、ディーディーはその息づかいで、肝心なのはスタイルではなくアティテュードであることをジェイミーに告げていて、その普遍ゆえ物語の収まりとしてはステレオタイプとなるのはやむを得ないにしろ、ことさらにカウンターを求めて感情を乱反射させることのない綺麗な一本の筋を保とうとする密やかな緊張が心地良いし、何と言っても16歳の男の子と女の子が自ら車を運転して約束の地を目指すロードトリップなどアメリカの神聖な儀式以外の何ものでないに決まっているのである。しかしその早熟こそは誰もを世界の頭数としてカウントするアメリカがけしかける平等と責任による避けがたい呪いでもあるわけで、サリンジャーの描いた透徹したイノセンスこそはそれらに向けて立てた中指であったことをあらためて考えてみたりもして、思いがけず忘れがたい映画になった。
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2018年11月22日

ア・ゴースト・ストーリー/俺が昔、幽霊だったころ

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『セインツ−約束の果て−』も薄く透けそうな影を彼岸に揺らす人たちの物語であったなあと、孤独や孤絶を不可侵の魂が放つ光ととらえるデヴィッド・ロウリーによるあらためてのマニフェストにも思えたのだ。愛であれ恐怖であれ、死者に思いを託すために生者が生み出した幽霊という、生命のくびき、言い換えれば時間の流れから放り出された存在が背負うのが喪失と孤独であったとするならば、幽霊たちの魂もまた光を放つのではないか、とその光に監督は想いを馳せたのだろう。そんな風にしてC(ケイシー・アフレック)の彷徨に連れられたワタシたちが見るのは、そこにあるのに誰も識ることのない時間の記憶であり、それは劇中においてLegacyという言葉で語られた継承される人間の営為とも言え、開拓時代の女の子が口ずさんだメロディや彼女が石の下にそっと隠したメモが時間を超えてCやM(ルーニー・マーラ)を串刺ししていたのは言うまでもないし、神も仏もいないいつかは消え去る運命にあるこの世界でなお営為を重ねずにはいられないのが我々人間なのだと滔々とまくしたてるウィル・オールダム(=ボニー“プリンス”ビリー!)を邪魔することなく耳をかたむけたCが過去と未来の永劫に身を任せ、すべてを目撃しては身投げすらする姿は厳かで怖ろしく、そして底知れぬ哀しみを湛えていて“いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と片岡義男が明かしたその正体は、ワタシたちを成立させているすべての時間の記憶による抑えきれないさざめきなのかもしれないと思ったりもした。まるでスナップショットを額装したようなスタンダードサイズのフレームも、薄れていく記憶の断片を投影しているかのようでメランコリーをかき立ててやまない。数分の間Mがただひたすらパイを食べ続ける、食欲を満たすと言うよりは嗚咽が漏れ出すのを抑え込むかのようにパイをえぐっては力任せに喉へと押し込むロングテイクでは、フォークが皿をつつく音の催眠的な響きとリズムがMからすべての味覚を奪ったかのように錯覚させ、まったく味のしない食べものを延々と食べ続ける気味の悪さに、ついに彼女が嘔吐したときにはほとんど安堵すらしたのだった。なかなか出演作品が日本公開されないウィル・オールダム(=しつこいけどボニー“プリンス”ビリー!)の勇姿を堪能できたのも望外の喜び。ワンシーンだけなのに誰よりもセリフ多いし。
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2018年11月19日

ボーダーライン : ソルジャーズ・デイ/命が邪魔だ

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マット(ジョシュ・ブローリン)の足下にビーチサンダルではなくクロックスを見つけた時の、どこかしら埒内につかまった違和が最後までついて回ることになる。暴力はすべての初めから我々と共に在ったもので、理性はその気まぐれな反動としてもたらされたに過ぎない、とコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で書いた(意訳)、その理性が屠られる場所で解き放たれた聖なる重力の象徴であったビーチサンダルは、神を自認するアメリカが天上からばらまくクロックスに取って代わられ、重力を恩寵としていたマットとアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)は浮力を失い俗世の地面に激突して流血せざるを得なくなり、その引き金となるのが失われたアレハンドロの娘の亡霊ともいえるイサベル(イザベラ・モナー)であった時点で物語は無間地獄の様相すら呈し始め、それはまるで荒野から追われたケイトの呪いでもあるかのように2人を狙い撃ちして国境に追い込みをかけていく。どこかしらマジックリアリズムの夢うつつですらあった前作の暴力絵巻は、直截のスペクタクルで生死の際を粗雑に投げ出しては麻痺した痛みを取り戻そうと躍起ではあるけれど、重力の失われた場所でなおステップを踏み続けるマットとアレハンドロのメランコリーは、絶望の底を踏み抜いても新たな絶望があることを知る者が弾切れや手傷の深さで世界を測る時の倦怠でしかないことは、マットがイサベルを、アレハンドロがミゲル(イライジャ・ロドリゲス)を抱き込むことで闘争の未来を告げるラストに明らかで、題をとる現実に対して誠実であろうとすればここで物語が終われるはずなどないことをテイラー・シェリダンはアレハンドロのセリフに託したのだろうと考える。時として現実のスピードと力に打ち負かされてしまうのはフィクションの宿命とは言え、その両者が運良く並走した時のスリルとしては最良の時間がここにはあって、この映画が色褪せるとすればそれは世界の安寧が果たされた時ということになるわけで、当初より3部作で構想されるこのストーリーの次作でケイトがどのような重力をまとって復帰するのか、イサベルとミゲルの交錯がどのような世界の法則を叩きつけるのか、その時マットとアレハンドロは息をしているのか、現実が追い越すか映画が出し抜くか、できればヴィルヌーヴとディーキンスでその先を見届けたいと切望する。
posted by orr_dg at 20:51 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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