2021年01月08日

Swallow/スワロウ/Discharge/ディスチャージ

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セシリアがエイドリアンの家から脱走することで『透明人間』が開始されたように、ハンター(ヘイリー・ベネット)が豪邸を脱走する終盤にこの物語が隠し続けた真のスイッチが入ったように思え、視えない存在として付属品のように扱われてきた彼女たちが自らの意志で視えなくなることで「あいつら」に復讐し世界に復帰していくその姿において、ハンターとセシリアは異母姉妹のようにも見えたのだ。それが異食症と診断された瞬間、ハンターはトロフィーワイフから神経症の患者へとラベルが貼り替えられてしまうのだけれど、彼女が「あいつら」には想像もつかない何かを選んで口に運びそれを飲み下す瞬間の恍惚こそは彼女だけが知る勝利の愉悦であったのだろうし、それはハンターの異食症の加速する時間こそをこの映画の彩りが最も美しくなる瞬間として描いたことにもうなずけて、そしてなにより、戦争状態にある日常では精神を病む暇などない、と最初はハンターの症状を有閑の贅沢病のように見下したシリア移民のルアイ(ライト・ナクリ)が最終的にハンターの逃走を手助けすることになるのは、彼女を追い詰めるサバービアのネオリベラリズムに、母国シリアを「侵略」したアメリカというグローバル化の怪物を見たからこそのシンパシーだったにちがいないと思うのだ。逃走したハンターが実家の母親に拒絶された後でおこなう父殺しの地獄巡りで手に入れた「おまえのせいじゃない」というその一言が背中を押した彼女の最終選択は、もはや善悪の彼岸のその先で行われる母殺しの儀式であると同時に、世界に追い詰められたすべてのハンターたちに向けたエールであることが、エンディングの固定ショットが捉えつづけるレストルームの光景に謳われていく。悪い星に見つからないよう自分を視えなくするおまじないがいつしか呪いとなり、幸せなのか不幸せなのか迷子になって泣き笑いがはりついたままのハンターを完璧に解釈したヘイリー・ベネットは言うまでもなく、与えられたシークエンスはたった1つながら引きずり出された呪いを間にハンターと対峙してそれまで蒼ざめるばかりだった空気に赤い血を、しかしそれを静脈の憂鬱で送りこむウィリアム・アーウィン役のデニス・オヘアに思わず息を呑んでしまう。これが初監督作(兼脚本)ながら、テーマとジャンルの危うい綱渡りを悠然かつ陶然と渡り切ったカーロ・ミラベラ=デイヴィスおよび、白昼夢の苛みを神経症的な艶めかしさで捉えたカメラのケイトリン・アリスメンディ(ヴィルヌーヴ版『デューン』では第二班撮影監督を務めているらしい)の名前は、すぐさま記憶にたたき込んでおいた方がいい。ワタシはそうした。
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2021年01月05日

ミークス・カットオフ/オレゴン最終出口

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この西部劇における最初で最後の射撃はエミリー・テスロウ(ミシェル・ウィリアムズ)によって行われる。野営地の外れでネイティヴアメリカン(ロッド・ロンドー)と出くわした彼女は、青ざめた顔で幌馬車にとって返すと躊躇なくマスケット銃に弾をこめ点火して、仁王立ちのまま彼が立ち去ったとおぼしき彼方に向けてぶっ放すやいなや火薬の燃えかすを銃身からもどかしげに掻きだして次弾をこめ点火するも、銃を掲げる途中で暴発気味に弾は放たれて、そこでようやく正気に戻り立ち尽くすのだ。エミリーにとって銃は生活の道具の一つに過ぎず、それがもたらす殺戮と破壊もまた日々の風景にすぎない時代を当たり前に生きる女性であることがこの一連を描く長回しのテイクで告げられる。この物語の背景となる1840年代は、大西洋岸から太平洋岸へと繋がる大陸国家樹立の野心をアメリカが燃やし「神が与えたこの大陸を我々が拡大していくことは明白な運命(マニフェスト・ディスティニー)である」として領土拡張が神意であることを謳いつつ西部の侵略的な開拓を正当化した時代であって、その後やってくるゴールドラッシュとはこの西漸の意味合いが異なることは、劇中で小さな金塊を見つけたトーマス・ゲイトリー(ポール・ダノ)が「いくら金だろうと飲めなきゃ意味がない」と、水源を探す途上にあっては一顧だにされなかったことにもうかがえる。そうした時代にあって西に向かう開拓者の一団をガイドとして率いるスティーブン・ミーク(ブルース・グリーンウッド)の、砂漠と西の果てのすべてを知りつくした賢者のような物言いを疑うことなく信じた一団は、いつしか道を外れて目的地を見失ったにも関わらずミークの益体のないプライドが自身にミスを認めることを許さないため、いつしか一団はミークに対する不信と迫りくる飢えや渇きへの不安とでそれぞれが互いの軋轢を隠さなくなっていく。そうした折、エミリーと出くわしたネイティヴアメリカンを捕らえたミークがプライドの保持も手伝い彼を処刑しようとする一方、彼の不幸を招いた端緒が自分であることの後ろめたさなのか、次第に明らかになるプラグマティストとしての資質がそうさせたのか、ネイティヴアメリカンの土地鑑を頼りにミークではなく彼をガイドとすることをエミリーが主張することで、彼女とミークの対立がようやく映画の構造として頭をもたげ始めることとなるのだけれど、それは暴力の楽観性を盾に無謬を気取る無知な抑圧者に翻弄される被抑圧者の悲劇と憂鬱というアメリカのプロトタイプにほかならないながら、被抑圧者もまた抑圧者になりうる内部構造がその成立に加担することを同時に告げてもいて、単なる下剋上の快哉とは程遠いラストの言いしれぬ茫漠はそれこそがアメリカの正体であって、ワタシたちが自らつけた枷を外さない限りいつしか皆それに呑み込まれてしまうことを、気がつけばボンネットを脱ぎ捨てたエミリーの眼差しに映してみせたように思ったのだ。カサヴェテスには少し間に合わなかったけれど、ケリー・ライカートには何とか間に合ったのがとてもうれしい。
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2021年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

パーティどころじゃない、ディスコなんかもってのほか
バカ騒ぎなんかふざけんなって話
きみとダンスしたりいちゃつく暇だってない
そんな日々はもうどこにもない


デヴィッド・バーンが「戦時生活/Life During Wartime」で歌ったこの日々を
それぞれができるかぎりの想像力と思いやりで生きのびよう
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2020年12月30日

2020年ワタシのベストテン映画

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マザーレス・ブルックリン/Motherless Brooklyn


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屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ/The Golden Glove


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レ・ミゼラブル/Les miserables


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ナイチンゲール/The Nightingale


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囚われた国家/Captive State


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ペイン・アンド・グローリー/Dolor y gloria


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透明人間/The Invisible Man


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赤い闇 スターリンの冷たい大地で/Mr. Jones


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ブルータル・ジャスティス/Dragged Across Concrete


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燃ゆる女の肖像/Portrait de la jeune fille en feu

観た順。
映画館がなくなりませんように。
かわりにオリンピックがなくなってもかまいません。
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2020年12月27日

オールド・ジョイ/暗くて標識が見えない

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カート(ウィル・オールダム)は失敗したことに気がついているけれど、マーク(ダニエル・ロンドン)はそれに気づいていない。30の半ばを過ぎたヴァガボンドが、気がつけばしのびよる孤独の影に追い立てられて旧友を訪ねる物語を読み始めたつもりでいたのだけれど、それまでこの2人が育んだ友情がどのような背丈や色どりであったかはわからぬまま、変わらずいることを選んだカートと、自分がどう変わったのか知らぬままのマークがかつての友情の手癖だけで過ごす、うっすらとした緊張と弛緩のいりまじる時間が折り重なるに連れ、救われるべきはカートではなくマークなのではないかと次第に思い始めるのである。まだカートが現れる前、妻ターニャ(ターニャ・スミス)に「いつも私におうかがいをたててはみるけど、結局はそのとおりにしてしまうでしょ」と言われて黙ったままのマークは、言い返さないのか言い返せないのか、このあらかじめ諦めてしまったようなマークの表情や後ろ姿はこれから先、カートとのキャンプ旅行の中でもしばしば顔を出すこととなる。ぼくのじゃなく君の車で行くことにしようぜとカートに言われれば黙ってそれに従い、運転はマークひとりが受け持ち、スタンドでもマークが給油する間カートは犬のルーシーと遊んでいる。目的地への道順も曖昧なカートの言う通り車を走らせては当り前のように道に迷い、車から降りてボンネットに地図を広げて現在地を確認するマークを、カートは車の中でマリワナを巻いて吸いながら見ているだけでまったく手を貸そうともしないまま、助手席のカート越しにマークを捉えつづけるこのシーンのある種の執拗さに、これはカートのでたらめというよりはわざとそうしているのではないかとワタシは思い始めることとなる。そうやって目的地にたどり着けないまま日が暮れてテントを張った空き地で起こした焚き火を前にとりとめのない会話が続く最中、突然カートが「なんだか俺たちの間にはずっと壁があるように思うんだ」と言い出した後で「おれなんだかおかしかったな忘れてくれ、なんでもないんだ忘れてくれ」とうろたえて取り繕うその姿に至って、それまでの違和感が小さく爆発することとなる。それでもマークはカートのそれを否定も肯定もしないまま「大丈夫だよ」と、壁があると言ったことなのか、忘れてくれと言ったことなのか、何についてなのかわからない収め方をしてしまうのだ。そしてそのままやってくる翌朝のシーン、何事もなかったかのようにひとり先に起きて黙々としかし一心不乱といった風情で自分の寝袋をたたむマークと、あとからごそごそとテントから這いだしあくびをしながら数歩歩いた先で立ち小便をするカートの構図は、少なくともマークにとって「壁」があったとしてもそれは乗り越えるものではなく、間もなく父親になる自分はその責任へのモラトリアムとしてのこのキャンプに来ているにすぎないという無言の意志だけが感じられて、友情らしき感情の握手はここでも後回しにされたままに見える。その後マークがほんの一瞬でも饒舌になるのは、温泉に向かう森の中、自分がおこなっているヴォランティア活動のことを話す時で、それをカートに褒められて気を良くしたマークがキミにだってできると思うんだよとカートに言う、その会話の質量のなさは絶望的にも思えるのだけれど、おそらくマークはそれにも気づかないままなのだ。そんな時間を歩きつつとにもかくにもたどりついた温泉で、悲しみは使い古された喜びにほかならない(Sorrow is nothing but worn out joy)とタイトルにもつながる屈託の源泉を話すカートの声を聞いているのかいないのか、心ここにあらずといった表情で湯につかるマークにしてみれば、だってこの瞬間こそが旅の目的なのだからといった無関心(と言ってしまってもいいだろう)は変わらぬまま、突然自分の肩に触れたカートに一瞬たじろいではみせるものの、それがカートの言う壁なのかどうかそんなことすらも考えぬまま、森の奥で日の差す中、あたたかな温泉に身をほぐされる恍惚を貪ることだけを決めたようにワタシには見えた。キャンプの夜と同様、その先は描かれないまま次のシークエンスでは既に帰路につく2人にとって、いったいこの旅はどこかへ行き着くことがあったのか、それは行って帰ってくる旅であったのか、カートを送り車中で一人になったマークは旅の余韻を噛みしめるでもなくさっそくラジオをつけるのだ。それは前半でも、車内のラジオ音声としてインサートされていた「エア・アメリカ(Air Americaとクレジットにあった気がした)」のやり取りで、この左翼系放送局の番組で語られるリベラルの議論というよりは繰り言をBGMのように聴くマークの姿と対比してラストに描かれるのは、夜の街をひとり足早にしかしとめどのない感じで歩くカートが、通りすがりのホームレスに小銭をねだられ、一度は謝って断ったあとでポケットの小銭をさらって差し出すその姿で、この映画が2006年というリベラルが負け続けた時代の只中に撮られたことを考えてみれば、リベラルの男たちが陥り続けた陥穽とそこであがく彼らへの感傷と憂鬱が監督の筆を誘ったように思うのだ。そしてこの旅の行くすえはといえば、それは行ったきり帰ることのない旅であったことは瞭然だし、冒頭で述べたように失敗したことに気がついているカートとそれに気づかないままのマークを告げるラストを待たずとも、ケリー・ライカートはそのつもりでずっと彼らを描いていたことは言うまでもなく、そして何より、青春を終えると人は死ぬときに備えてどんどんひとりになっていく、そのチェックアウトを告げて夕方5時の鐘を鳴らすような物語にも思えたのだ。そろそろ帰り途を探しなさい男たち、と。
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2020年12月23日

ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!/父ちゃんのyeahが聞こえる

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アメリカ大統領選を機会にアメリカの歴史を少しだけさらってみてあらためて思ったのは、移民国家アメリカがその前夜に奴隷国家の暗闇で目覚めたその初手からすべての分断が始まっていたこと、そしてその分断の溝が埋められて一枚岩となった歴史などかつて一度もないことで、しかし偉大な社会=福祉国家を目指しつつ帝国主義に淫する二重人格をぬぐわないまま、建国以来飽くことをしない壮大な社会実験とその甚大なる犠牲が織りなす光と影のモザイクがアメリカという国の正体を目眩ましして、そのキメラの底知れなさゆえワタシたちはそこに自分の欲するファンタジーをいかようにも投影してしまうのだろうし、だからこそ、そうした分断のDNAが自分に埋め込まれていることすら知りそうにない白人マジョリティの高校生2人が「たがいに素晴らしくあれ(Be Excellent to Each other)」をキメ台詞にする不意打ちの潔癖が、この底の抜けまくったコメディシリーズをエヴァーグリーンに保ち続けているように思うのだ。例えば今作において、セオドア・”テッド”・ローガン(キアヌ・リーヴス)とビル・S・プレストン(アレックス・ウィンター)の2人に立ちふさがる障壁を、分断を誘うトランプ的な何者かにしてみせればそれなりの快哉を叫ぶことも手っ取り早いところが、彼らが目指すのはあくまで時空を超えた団結であったことや、前作『ビルとテッドの地獄旅行』での死神(ウィリアムズ・サドラー)とのゲーム合戦やデ・ノモロスを法の裁きに委ねたことなどこのシリーズが悪の殲滅を解決としてこなかったのは(ロボットを倒すのはロボットという周到な回避)、クリス・マスシンとエド・ソロモンのライターチームが貫き続けた矜持ということになるのだろう。そして何より、この30年近くをショービジネスのど真ん中で過ごしながらBe Excellent to Each otherな共助の人でいつづけたキアヌ・リーブスと、ヴィジョンを失うことなく誠実なキャリアを重ねてきたアレックス・ウィンターがサヴァイヴしていたからこそ、善いやつ過ぎて悪いことを想像できない主人公の物語を成立させることができたのは言うまでもないし、それを次世代の娘たち、ティア・プレストン(サマラ・ウィーヴィング)とビリー・ローガン(ブリジット・ランディ=ペイン)に手渡しさえしたのはほとんど奇跡にも思えたのだ。ジミ・ヘンドリックスのリハーサルをあんな風にいきなり目の当たりにしたら、たぶん泣いてしまうだろうなと思った。それはもう、どんなに悲しくても涙の出ないワタシですら。
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2020年12月17日

ミッドナイト・スカイ/ごらん、あれがよだかの星だ

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ジャンルを借りながらも、気がつけばそれをポスト○○的な漂泊/漂白で実存のメランコリーに染めてしまうジョージ・クルーニーが、そこでメッセージめいた何かを言っているとすればそれは、おれもやるからきみもやれということなのだろうけれど、そこに説教臭さが宿ることがないのは彼のいう「きみ」がワタシたちではなくノブレス・オブリージュを発揮すべき人たちだからで、彼の演じるキャラクターたちがどこかしら自罰的ともいえる自己犠牲に沈んでしまうのもその点でとても理解がしやすく、今作のオーガスティンもまたジョージ・クルーニーの忠実なアバターとして、北極の地で自らを苛みながら孤独の罰を求めるのである。原作は読んでいないので、ジョージ・クルーニーを始めとする製作陣のどのような意図によって脚色の取捨選択がされたのかわからないにしろ、オーガスティンのいる北極の天文台と、探査ミッションを終えて地球に帰還する宇宙船のシークエンスが並行して語られることで、その2つの間に働く引力がこの物語を牽引する構造となってはいるのだけれど、最終的にはオーガスティン=ジョージ・クルーニーの殉教を目指さなければならないためか、サリー(フェリシティ・ジョーンズ)やミッチェル(カイル・チャンドラー)の搭乗する宇宙船のパートが壮大な刺身のつまと化してしまっていて、オーガスティンの受難とバランスをとるべく艱難辛苦が彼らを襲いはするものの、例えばソラリス的な実存の脅威はオーガスティンに譲らねばならないこともあり、宇宙船や船外活動中のクルーを襲うデブリや氷片といった即物的で突発的な脅威が彼らにはあてがわれ、いきおいその描写も『ゼロ・グラヴィティ』あたりの既視感を振り払えないまま単なる手続きに終始していたのがなかなかに罪深くはあるものの、脚色を託したのが『レヴェナント』の脚本家であった時点で、ジョージ・クルーニーにしてみれば何をいまさらといった総取りではあるのだろう。にしては、北極の海に沈んだ深刻な基礎疾患持ちのオーガスティンが、焚き火もないあの場所で低体温症をいかにクリアしたのかといったサヴァイヴァル描写の甘噛みが興を削いだのは確かながら、私が描くのは観念としての受難であって生臭い死の匂いではないのだという監督の崇高にして高邁なささやきが取り付く島なくワタシを諭すのであった。ただ、この物語がいつしかまとう『渚にて』としての静謐なペシミズムと内爆するセンチメントは、どちらかといえばオーガスティンよりはミッチェルとサンチェス(デミアン・ビチル)の2人に託されやすいようにも思えたわけで、だからこそオーガスティンの殉教を妨げることのないよう彼方へ排出された彼らの最期を見届けるものはないままだったのだろう。オーガスティンの沈む孤独は、自分のヴィジョンに他人を立ち入らせることをしなかった若かりし日の自分(CGでの若返りではなくまったく別の俳優が演じているので想像力のトレースが要求される)への贖罪でもあるかのようにも描かれた後、ある出来事によって美しくしめやかに救済されてしまうこともあり、オーガスティン=ジョージ・クルーニーにとってのハッピーエンドがこの映画の目指した結末なのだとしたら、ずいぶんと欲張りなことだなあと思わないこともなかったのだ。おれもやるからきみもやれ、でなければおれは救われない。
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2020年12月11日

燃ゆる女の肖像/きみがわたしを知ってる

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「夢見ていました」「死を?」「走ることです」マリアンヌ(ノエミ・メルラン)とエロイーズ(アデル・エネル)が初めてかわすこの言葉と、やがて女性たちが語るオルフェとユリディスの物語とで、2人がいるのが死と生の緩衝地帯、すなわち冥界であることを告げた気もして、エロイーズがマリアンヌを振り返って始まった物語は、マリアンヌがエロイーズを振り返ることでその冥界の入り口が永遠に閉じられることとなる。劇中で多用される横顔のショットは、振り返るその顔を永遠の中間にとどめる試みであったようにも思われて、それが完全に振り返った瞬間、愛も思い出も互いがその半分を永遠に失うことを受け入れねばならないからこそ、マリアンヌとエロイーズ、そしてソフィ(ルアナ・バイラミ)の3人が過ごした10日たらずは、規律やしきたり、観念のくびきを離れた自由と解放の時間となって、そこでは生と死と愛がすべて並列で水平に横たわっていたのだろう。堕胎の床でまるで生まれてこなかった赤ん坊に慰められるかのようなソフィの泣き笑いや、その存在自体が許されない愛を必死に確かめるマリアンヌとエロイーズの刹那がやさしく柔らかな光に包まれるその時間は、男たちの采配する結婚と妊娠と職業からのシェルターとなり得たことでいっそうかけがえのない輝きと響きを放つこととなり、最後の日に台所でマリアンヌが絶望を思い出すのは、それが伯爵夫人(ヴァレリア・ゴルノ)の帰還というよりは、かつて3人で愛と夢を語らったそのテーブルに当たり前のように座る使いの男を目にしたからではなかったかと思ったのだ。ソフィの赤ん坊を流そうと浜辺に出た3人が過ごす無為とも倦怠ともつかない時間に『ソナチネ』の砂浜を想い出したのも、終わりのある永遠の強烈なメランコリーをそこに嗅いだからなのだろう。倒れた侍女のソフィに頓着なく手を差し伸べる屋敷のお嬢様エロイーズの図式もまた、既に社会が与えたルールが無効化されたことの証として描かれる。こんな風に笑ったのはひさしぶりだわ、一人だったら笑い合えないから、と伯爵夫人がつぶやいたように、自分の本質を見つけ識らせるのは自分ではないそれに気づいた誰かであって、一人は自由だけれど寂しいとマリアンヌに告げるエロイーズの言葉こそが、本質を求められることのない社会に生きる人たちの心の叫びであったのだろうし、この人はもしかしたら私を視てくれるのかもしれないと共鳴したからこその怒りと希望とで、エロイーズはNOとYESをマリアンヌに与えたように思ったのだ。そしてその企ては、本質を抽出しキャンヴァスに再構成する画家という仕事の自己更新をマリアンヌに促して、2人の角度は想像を超えて研ぎ澄まされた光と影を喚び起こし、視るものと視られるものが互いの本質をわしづかみにすることで抜き差しならない共犯関係を結んでいくこととなる。そして冥界の日々のおわりにエロイーズがマリアンヌに叫んだ、それまでの慎みをかなぐり棄てた「振り返ってよ!」というその言葉こそが2人の関係を永遠にしたことがマリアンヌの回想の最後に綴られて、後年彼女がエロイーズの姿を偶然、そして最後にみとめた劇場で、かつて2人を密やかに繋げたビバルディのヴァイオリン協奏曲「四季」を奏でるオーケストラの轟音(そんな風にミックスされる)に同伴者の姿もなくひとり包まれるエロイーズは、歯をくいしばるような貌つきでその音に向かいつつ一筋の涙を流し、しかしその後で小さく満ち足りた笑みをその貌の片隅に浮かべるのだ。互いにひとり座席に座りながらマリアンヌのその「一人」とは異なるであろうエロイーズの「一人」は、あの時あの場所であの絵と共に自身の本質を手に入れたエロイーズが、わたしにはわたしがいる、この音を聴けば、あの本の28ページを開けば、そしてあの絵を見上げさえすれば、いつだってわたしはわたしのところに戻れるのだ、そしてそこに誰がいるのか知っているのだという自由で透明な孤独の証に思えたし、そしてマリアンヌは、かつてエロイーズが言った「あなたは私を永遠のモチーフにするのよ」という言葉どおり彼女の記憶を作品に成り立たせ、あの時エロイーズが着ていたような青色をドレスに選んで彼女のことを想い出しながら、そんな自分を教え子たちにモデルとして視つめさせている。そしてこの物語がマリアンヌの回想によっていることを思ってみた時、孤島で流れた時間を捉えたすべてのショットに通底する、まるで画家が切り取ったように隅々まで緊張のはりつめた構図と、そこにたゆたう感情を透徹したレイヤーで重ねた官能的な深度の「絵画的」な到達は、それらがマリアンヌの筆で描かれることのなかった、あるいはこれから描かれることを待つ作品の生霊として現れたからではなかったかと考える。口数は少ないながらアフォリズムのようなセリフの応酬と偏執的かつ催眠的な細密でマリアンヌの記憶を幻視した監督と撮影監督、そしてミリ単位にすら思える存在の角度でそれに反応した俳優たちの成し遂げたのは、「血がデザインできるか、汗がデザインできるか、涙がデザインできるか」と石岡瑛子が言った「感情のデザイン」を掲げる最前線からの圧倒的な戦果だったように思うのだ。2020年の最高傑作。
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2020年12月01日

エイブのキッチンストーリー/大人は食べてくれない

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食わず嫌いという言い回しが英語にないのを不思議に思うくらい、そういう大人たちを12歳のエイブ(ノア・シュナップ)が諫めていく映画となっていて、パレスチナとイスラエルの最前線に双方の等しいハーフを立たせて一度無効化したところから始めるアイディアは一見無邪気ともいえる力技ながら、いわゆるWASP的な役柄を隅々まで排除した登場人物の配置にもユダヤ/カトリック系ブラジル移民の監督とパレスチナ系の脚本家チームの多様性に対する譲らぬ意識と意図がうかがえて、歴史の記憶でがんじがらめになった問題をシンプルかつポップにみせる手立てと矮小化の間の危険な綱渡りをなんとか渡り切ったように思うのだ。ユダヤ教もイスラム教もどちらも遠ざけようとする両親に、だったらぼくはミツバもラマダンもどちらもやればいいと思うんだ、とまわりの誰よりも現実的な答えを示すエイブをめぐる“食わず嫌い”の大人たちが繰り広げる“飯の不味くなる”代理戦争が行き着く先はどこだったのか、そうやって負債を若い人たちに押しつけてそれを歴史だと言い張ってきたのではないかというこの映画の言葉は、柔らかく笑顔のうちに語られはするものの、行き場をなくしたエイブがすがるのがいくつもの目に視えない境界線を越えなければならなかったであろうチコ(セウ・ジョルジ)であったこと、そしてエイブを呪いの継承者ではなくこれから大人になっていく一人の子供として扱うことを厭わない彼の姿が、フュージョンを恐れるあまりコンフュージョンし続ける大人たちに示された正答だったのではなかったか。あと10分ほど費やしてエイブの料理人としての成長を描く色気もあっただろうけれど、この物語で成長を求められるのはエイブではなく周囲の大人たちである、という揺るぎのなさこそが屈託のない12歳の笑顔を守ったということになるのだろうし、それは新しい教養が吹かせた風ゆえの爽快だったように思っている。
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2020年11月26日

Mank/マンク〜脚本家を撃つな!

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まじめになるのはふざける時だけさ、とうそぶくハーマン・J・マンキーウィッツ(ゲイリー・オールドマン)が皮肉交じりに吐き棄てた一言に、デスクの向こうでアーヴィング・タルバーグ(フェルディナンド・キングズレー)の口元が小さくほくそえんだ瞬間が『市民ケーン』誕生の萌芽となる。人々は映画館の暗闇で観たものを真実だと思ってしまうんだ、とシェリー・メトカーフ(ジェイミー・マクシェーン)にというよりは自身に言い聞かせるマンクであればこそ、元はと言えば自分の引いた引き金で一人の人間の政治生命と一人の映画人の生命を奪ってしまったこと、そして何より映画をその血で汚したことへの懺悔と慙愧を胸に秘めて、それら蹂躙のシステムに君臨する男に揶揄された“オルガンを弾く猿”としてのやり方でオーソン・ウェルズすらを利用しつつ私闘に挑むその姿が、政治と文化という一卵性双生児の父親である社会へ向けた父殺しの目つきへと映されていくわけで、しかしそれを燃やすのが正義や義憤だけであったかといえば、社会の公器たる映画が同時に社会の凶器たりえることを知るからこそ、その危うい綱渡りをするノンシャランの陶酔と恍惚、つまり映画という光と影の悪魔と取引をした男の見た夢の陽炎でもあったように思うのだ。この映画にノスタルジーが入りこむ余地のかけらもないまま、破滅の不穏と絶望の暗闇が終始居座り続けるのはそれこそが本質であるからなのだろう。しかしマンクは境界で綱渡りをしつつ、堕ちていく誰かをつかまえるキャッチャーとして在ることで光の正気を保ち続け、妻サラ(タペンス・ミドルトン)はそれを知るからこその同志愛でマンクの危険なハンドルさばきにそっと手を添え続けるのだろうし、ウィリアム・ランドルフ・ハースト(チャールズ・ダンス)が招いた客の前で、ハーストのダークサイドを無邪気に口にした気まずさに押されて部屋を出ていくマリオン・デイヴィス(アマンダ・サイフレッド)を気づかうマンクに、彼女のところに行ってあげて、と小さく促してみせるサラの胆力がなければ『市民ケーン』は存在しなかったとすら思えてしまう。マリオンを追って出た真夜中の庭園でマンクと彼女が繰り広げる、本当の君はこんな風に柔らかで軽やかな恋人を演じられる女優なのに、というエルンスト・ルビッチの灯りと、共和党の開票パーティでマンクが沈む表現主義的なフリッツ・ラングの暗闇はマンクが独り行き来する2つの世界を象徴的に映し出し、まさにそれこそは『市民ケーン』そのものではなかったかと、フィンチャー父子による正史がオーソン・ウェルズに脇役以上の言葉も時間も必要としなかった理由が明らかになった気がしたのだ。そしてフィンチャーは、作家が闘う理由と闘うことを厭わない理由、すべての闘った作家たちのそうした理由が映画を繋いできたこと、そしてそれは自分との闘いなどという闘いですらない闘いのことではないことを130分をかけて語ってみせて、そうした作家の闘いがどんな映画を生み出すのかをいまだ捕まらぬ殺人鬼の精妙さで教えてくれている。そしてそんな映画を、限定されたわずかな劇場においてのみスクリーンで観ることが許されるという捩れて倒錯した世界にワタシたちは生きている。
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2020年11月21日

ヒルビリー・エレジー −郷愁の哀歌−/私はあなたのレッドネックではない

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垂らされた蜘蛛の糸につかまったJ.D.(ガブリエル・バッソ)のために自分の手を離す母ベヴ(エイミー・アダムス)が、私にはもうこれしかしてあげられることがないのだと最後に残った愛情を振り絞るその姿にしか貧困と絶望の連鎖を断ち切る方法は見つからなかったことをJ.D.は告げていて、”Hillbilly Elegy”などという自虐めいたタイトルを自著に冠するくらいの醒めた視点で、分断を越境するために差し出した対価とその負債をアメリカに晒してみせようとしたのだろう(原作は未読だけど)。そうしたJ.D.の想いを海のこちらの部外者なりに理解したところで、この映画を咀嚼するのにどれだけの小骨が喉に刺さったかといえば、むしろ綿密に小骨が取り除かれた喉の障りのなさこそが気に掛かったわけで、それはおそらくエイミー・アダムスとグレン・クロースによる忠実な憑依と精密な解釈および、それを放し飼いにしないロン・ハワードの手綱が”Hillbilly Elegy”を字義通りに捉え収めて「忘れられた人々の声」とデザインし矮小化してしまう悪気のなさへの違和感だったように思うのだ。マモウ(グレン・クロース)とベヴおよびJ.D.の世代間闘争が絶え間なくフラッシュバックされるのは、離した手をそのままにモーテルを去るJ.D.の選択を「正当化」するための構造ではあるのだろうけれど、それもあってか、屈託に潰された役立たずな男たちを足蹴にし、我が子を育てるには自分を犠牲にするしかなかった2人の母親の物語が背景化してしまったのも空虚を誘う一因であったのだろう。辺境の白人家族のみぞおちを抉るように描いた『フローズン・リバー』や『ウィンターズ・ボーン』を撮ったのがいずれも女性の監督であったことを思うと、母性主義フェミニズムを突破できない限界が「彼ら」にはあるのだろうと思わざるを得ないのだ。少なくとも美しくかんなをかけるアルティザンの仕事ではないように思う。
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2020年11月18日

ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒/悪いが先を急ぐので

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ピノキオのようにいつしか人形に生命が宿って人間のように動き出す。そして生命に灯をともすのは小さな孤独の火であって、それまで自分を包んでいた孤独を自分の内にとりこんで心の一部とすること、そうやって自分の独りを知ることで世界と向き合う足場を得ること。物語の結末でそこに立つために、全身で泣いたり笑ったり怒ったりしながらいつしか生命を輝かせていくその姿こそがライカの映画の主人公たちであって、これまでずっと少年少女たちがその役を担ってきたのは、どこかしら通奏低音としてのピノキオがライカに潜んでいたからなのではなかろうか。しかし今作においてそうした方法論、というよりは理念をあっさりと手放してみせたのは、これをライカにとって自身の未来を見据えた通過儀礼とくさびを打ったからで、キャラクター的には主人公となるMr.リンク(ザック・ガリフィアナキス)は、孤独に苛まれる存在でありつつ既にそれを飼いならしたかのようにも映り、それゆえ終盤では排他的差別主義者に中指立てる役回りを嬉々として担ってみせて、となれば何らかの反転はいきおいライオネル・フロスト卿(ヒュー・ジャックマン)に求められることとなるわけで、進化論が社会を揺るがしたイギリスにおける保守的で傲慢な知識人の象徴ともいえるピゴット=ダンスビー卿が「我々偉大な人間こそが世界を形づくるのだ!」と吠えるに対し「我々が世界を形づくるのではない、世界が我々を形づくるのだ」と啖呵を切って、おお、よく言った!とアデリーナ・フォートライト(ゾーイ・サルダナ)が拍手するシーンこそが心優しき俗物ライオネルの成長として物語のピークとなったと同時に、どこかしらライカ自身が自らを戒めたセリフのように思えたりもしたのだ。ジュヴナイルの軽やかさから重力を意識したアクションへの舵の切り替えによるスラップスティックの圧倒的な愉しさは言うまでもなく、ライオネルの薄く尖った鼻を透過する淡く温かな光線がそうであるようにアルゴリズムを超えた光と影の奥行きもさらにアップデートされて目を瞠るばかりだったのだけれど、結果として批評家筋の高評価にもかかわらず北米では壊滅的といっていい興行の失敗を誘ったのが、ピノキオの乗ったローラーコースターが出てこないライカ新章への戸惑いだったとするならば、それが互いに根本的かつ譲れない理由であるだけに、突きつけられたこのNOがどうにも切なく思えて仕方がないままでいる。
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2020年11月16日

空に住む/わたしを起こさないで

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直実(多部未華子)がマンションのエントランスにいるオープニングショットが既に、これは高橋洋脚本とかそういうあれなのか?とでもいう、死を想え、ではなく死が想う世界の切り取りに視えたのだ。そしてそれから先のおよそ120分を徹底的に埋め尽くす空恐ろしいまでの他愛のなさは、人の意識がだんだんと薄れていく存在が、ああ俺もわたしもあんな風に生きてみたかったな、もし俺やわたしがあんな風だったらこんな風だったのかなという、記号ですらない人間ごっこが手探りのまま延々とくり広げられて、若手カリスマ俳優や成功した実業家とその妻、一軒家の日本家屋でグローバリズム何するものぞと和室の座敷に編集部をしつらえて家内制手工業で文化を担うロハスな出版社、といった舞台立ての中を「男も仕事もたくさんですわ」と満足げにつぶやいてみせる直実もまた死んだ目のフィロソフィカルゾンビと化していくのである。そんな彼岸の世界にあって愛猫ハルが炭鉱のカナリアの役目を担っていたことを知るも時すでに遅く、和室出版社の編集者直実は若手カリスマ俳優であるところの時戸森則(岩田剛典)から彼の「哲学」を引き出すというインタビューを恭しく執り行っては「好きな色は?」「ベージュかな、肌の色だから」とかいうこのご時世にあって際どくパンチの効いた「哲学」を引きずり出してみたり、ついには若手カリスマ俳優の言葉をそのままかっぱらって後輩編集者木下愛子(岸井ゆきの)を説教する始末なのである。”Wild is the Wind”というコピーだけが入った若手カリスマ俳優の巨大ビルボードや直実が部屋に貼っていたデヴィッド・ボウイのポスター、完璧に貌も髪の毛も仕上がった新生児、マジカルキャラとしてのコンシェルジェ(柄本明)とペットの葬儀屋(永瀬正敏)と連ねてみて、実は交通事故に遭ったのは直実の両親ではなく彼女だったのではないか、そしてこの物語すべては直実による昏睡のファンタジーなのではないかと考えてみれば、タイトルのいささか直截的なダブルミーニングがおのずと浮かんでくることになるし、となればラストで直実がようやくにしてみせる穏やかな表情がフラットラインそのものであったことは言うまでもないだろう。わたしは泣くことができないと直実が憂う瞬間ベッドで目を閉じたままの直実の目から一筋の涙が頬を伝う、そんなショットを補完しながらワタシは客席で自分の死んだ目をうっちゃっていた。
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2020年11月11日

ストックホルム・ケース/わたしの悪い噂

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往々にしてオリジンは素っ気ないもので、とはいえこの症候群が1973年以前に存在しなかったかといえば、フィクションとは言えその究極とも言える『キング・コング』がリファレンスしたように修羅場の本能が発動する死んだふり攻撃でもあるわけで、なればこそ、例えば『コンプライアンス』が行ったような心理実験としての怜悧な神経戦がそのメカニズムをあらわにする試みなのだろうと思いこんでいたのである。しかしこのロバート・バドローという監督はイーサン・ホークとの初タッグとなる『ブルーに生まれついて』において、「天からの才能を授かっただけの単なるろくでなし」としてのチェット・ベイカーを深淵に飛び込んでブルーズを採ってくる精神のダイヴァーに見立てた前科があるわけで、事実は小説よりロマンチックとつぶやきながら彼方を見やる視線はここでも揺らぎのないまま、その意を汲んだというよりはどこかしらの諦めとやけくそを隠さないイーサン・ホークが、死線をくぐるハーレクインロマンスの片棒を半べそをかきながら担いでいたのだった。しかしそうした情動でしか駆動しない監督なのであれば、この映画はなおさらビアンカ(ノオミ・ラパス)を真ん中に据えるべきで、銀行員にして妻にして母であるビアンカのラース(イーサン・ホーク)に対する視線と距離がどのように変質していったのか、それを確保しさえすればイーサン・ホークとマーク・ストロングがひたすら奇矯に転げ回る新春スターかくし芸大会のような茶番(かつら設定のイーサン・ホークと同じ見ばえで地毛設定のマーク・ストロングのかつら…)を少しは回避できた気もしたのである。そしてなにより『ブリット』でマックィーンが乗っていたマスタングをよこせといいつつ、GT390とは似ても似つかない佇まいのまま誰からもツッコミが入ることなく銀行前に放置された71年型モデルこそが、この映画のどっちつかずを最後まで愚痴っていたのではなかったか。プレスリーの代わりに歌ったことにされたディランも、さぞかしふんだくって使わせたに違いない。
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2020年11月09日

おらおらでひとりいぐも/この宇宙の片隅に

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日本のプロダクションにしては凝ったオープニングロゴだなあと思っていたら、いつの間にか映画が始まっていたという映画オリジナルのプロローグによってラストの円環がほんの少し壮大に吹きあがる仕掛けはもちろん監督の意図であったにちがいなく、孫娘の中に引き継がれる「おら」に地球46億年の生命の記憶を重ねてみせることで、孤独のもやを払い仄かな明かりの中に歩を進める桃子(田中裕子)のミクロコスモスを展開した原作からマクロコスモスの拡がりへと照応させる映画脚色によって、監督は慰めや共感ではなく「老い」を肯定し我がものとする術を探ってみせたように思ったのだ。原作ではあくまで桃子さんのケースであったそれを普遍にぶちこむには、では子供や孫がいなかったらワタシたちは終わってしまうのかという強引さをぬぐえないこともあるけれど、ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を変奏してみせたと考えてみれば、原作タイトルが引用した「永訣の朝」が生命の行き来によって紡がれていたこととの地続きが腑に落ちた気もしたのである。自由になるんだ!といって田舎を飛び出した桃子が75歳になってふとあたりを見渡してみると、一生を共に過ごそうといってくれた夫には先立たれ、庭付き2階の一戸建てにはもはや子どもたちの賑わいもなく2階への階段を上がるのは今や時折遊びに来る孫娘しかいない。ただそれが一方的に淋しいのかといえば、私だけにそよぐ不思議な風の心地よさもあるわけで、もし夫がいまも生きていたらその風を頬に感じることができただろうかという逢魔時のような気持ちが桃子を連れ出す、過去への仮想地獄巡りが支配する終盤でギアが入った時、田中裕子と蒼井優という、際を調節できる体幹の強い女優を配したのがさらなる大上段で太刀打ちしてもらうためだったことに度々うなずかされる事となり、こうしていろいろ想い出してみても私は局面を自分で選んで生きてきた積み重ねで今ここにいるのだという、あっけらかんと抜けの良い諦念に着地できたのもは彼女たちの精確な解釈あってのことに違いなく思ったのである。感情の過ぎた寄せを求めない代わりに、すべての場所に陽が当たる角度をそっと差し出す監督の筆使いが晒してしまうものをメランコリーととるかクラリティととるか、人生の過ぎた時間によって色合いが変わるだろう穏和で食えない沖田映画であった。
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2020年11月05日

ザ・グラッジ 死霊の棲む屋敷/ここではお静かに

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オリジナルの『呪怨』は、いわゆる小中理論では禁じ手とされる幽霊POVや幽霊ナメをがんがんぶち込んだ、Jホラー原理からすればいささか異端の作品であって、しかしカヤコやトシオを幽霊と言うよりはクリーチャー化させつつそれらを屋敷でも廃屋でもないその辺の路地を曲った先の“住宅”に解き放ったことで、半径5メートルの日常で逃げ場を失い追い詰められる恐怖の、ある種の親密さこそが取り返しのつかなさを誘っていたように思うわけで、アメリカンハードなホラーの視線からすればその慄えのミニマルこそが新鮮な恐怖に映ったのではなかろうか。言うまでもなくその点に自覚的だった清水崇は『THE JUON/呪怨』においてもデフォルテの設定を貫いてはみたものの、日本家屋で右往左往するコーカソイドの図がエキゾチックな幽霊屋敷譚に陥ってしまった点はおそらくサム・ライミの本意ではなかったのだろう。というわけでほとんど意地になったサム・ライミがリメイクと言うかリマッチに挑んだ今作では舞台をアメリカに移しつつも、オープニングで佐伯家および洋子の日本パートを引いていて、物語の支柱として『呪怨』の種火を貰う必要があったとはいえこの時点で家憑きの前提を自ら断ってしまっているわけで、それから先はあくまで種火レベルの『呪怨』の側(ガワ)だけが、何の必然も切実もないまま凡庸なジャンプスケアをひたすら繰り返すにとどまって、結論から言えばサム・ライム惨敗なわけである。ではなぜ完全なリブートとしてペンシルベニアのあの家をオリジンとせず、佐伯家の残滓を必要としたのかといえば、やはり前述したミニマルな慄えの源泉をアメリカの皮膚感覚には見つけることができなかったからこそ、2004年版の続篇としてナンバリングしなかったにも関わらず(どちらも原題は”THE GRUDGE”)、佐伯家の力を借りざるを得なかったように思うのだ。もしサム・ライミがいまだあきらめることなく返り討ちを狙っているのであれば、恐れ多くもワタシから言えるのは、まずは日本語を勉強して「嫌」ではない「厭」という漢字を認識し、その佇まいから立ち上る穢れの空気を吸ってみることから始めるしかないということである。いったいお前は何様だという話だけれども、それ以外にハリウッドが『呪怨』を解題する方法はないように思うのだ。アンドレア・ライズボロー、デミアン・ビチル、ジョン・チョー、リン・シェイ、ジャッキー・ウィーヴァーという場違いとすらいえる手練れを揃えつつ宝の持ち腐れとした点で、監督/脚本のニコラス・ペッシェを筆頭に製作陣の寸が足りてないのは誰の目にも明らかだろう。というか、正直もうあきらめれば?
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2020年11月03日

ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ/家はどこへ行った

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ジミー・フェイルズ(ジミー・フェイルズ)の祖父がフィルモア地区の邸宅を自ら建築した年として劇中で二度三度セリフにのせられる1946年という年が、この物語を霧のように覆って晴れることのないメランコリーを送り出していたようにも思うのだ。サンフランシスコのこの地区に数多く住んでいた日系人が第二次大戦の勃発により強制収容所に送られた後、終戦後も主の戻らないままだった多くの空き家は競売にかけられたか、権利も曖昧なまま事後的に占有されたと想像するのはたやすく、ジミーの祖父もまたその時期に何らかの段取りであの邸宅を手に入れたということになるのだろう。父であれば知るその事実をなぜ我が子ジミーに伝えることなく、父(ロブ・モーガン)は家族の物語を書き換えたのか。かつて住んだ家を訪れた父は邸内に据え付けられたオルガンを弾きながら「おれがこれを弾くと親父は嫌な顔をした」とつぶやきつつ、自分の父親が独力でこの家を建てたことを他の来客に自慢するのだ。それはもしかしたら、自分たちと同じマイノリティで、収容所に送られて戻ることのなかった日系人の持ち主の圧倒的な美意識への祖父の屈託でもあったのか、そしてそれを見て感じ育ったジミーの父はこの家を始祖にフェイルズ家の物語を始めるべく邸宅と家族との物語を語り直したのではなかったか。かつて戦争が日系人たちをこの街から追い出したように、1990年代の地区再開発による土地価格の高騰とそれに伴う固定資産税などの急激な上昇が今度はこの地区の黒人たちを追い出して、ジミーの父もこの邸宅を手放すことを余儀なくされたとするならば、ジミーの執着は家そのものというよりは父が筆を折った物語の続きを綴ることにあったのだろうし、その物語の中にしか自分の居場所はないのだという彼の切実が次第に強迫観念へと姿を変えつつあることに気づいたからこそ、モンゴメリー(ジョナサン・メジャース)は友情を失うことすら覚悟してジミーを幽霊屋敷の呪いから解き放とうとしたように思ったのだ。背負わされた歴史の宿命として、物語を持たない/持つことを許されてこなかった黒人がお仕着せの“たいしたニガ”という一面的な物語の枠に自分から収まっていくことで未来や希望を失っていく悲劇がコフィ(ジャマル・トゥルーラヴ)という身近な生贄をさらったことで、語られなかった物語こそがこれから綴られる価値と意味のある物語なのだとあらためて理解し得たモンゴメリーはそれらお仕着せを喝破して打破し、それを友情の証と識るからこそ、ひとりジミーはゴールデンゲートブリッジからその先へとボートを漕ぎだして、自らがファーストブラックマンとなる物語へと向かったのではなかったか。では、そんな風な現在地のつかみにくい物語に観客をどう落ち着かせるか、屈託のない少女のアップから彼女の見上げた先のデフォルメされたリアルを受けてストリート・プリーチャーがマニフェストをアナウンスする中、マイケル・ナイマンの吹かすしめやかで神経症的な風を受けてスケートボードに2人乗りしたジミーとモンゴメリーがベイエリアを滑っていくそのスピードを追っていくうちに、ワタシたちもいつしかフィルモア地区のあの家の前にたどり着いてしまうそのオープニングのシークエンスにいきなり映画の運動のピークを持ってくる涼しい顔のアイディアには圧倒されてしまったし、前述したマイケル・ナイマンはじめ、あそこでのジョニ・ミッチェル、そしてセグウェイに乗ったジェロ・ビアフラがツアーガイドとしてやってくるというヒップホップからのかわし方もまた、決め打ちされた“たいしたニガ”の物語からのしなやかな逸脱なのだろうとどきどきしながら胸がつまりつつも、いつしか胸よりはむしろ脳があたたまってしまったものだから、上気した知恵熱を冷ますような気持ちで、ジミーのボートを揺らすサンフランシスコ湾の水面をじっと見つめていたのだった。
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2020年10月28日

ストレイ・ドッグ/わたしをゆるさないで

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善悪を無効化した絶対値のみを有効とするガンさばきで世界に負債を返し、ゼロを夢見ては消えていく人たちの行き来をノワールと呼ぶにおいて、自己愛の腐臭も自爆するセンチメントもその一切をあてにしないエリン(二コール・キッドマン)の道行きはもはや生きている者のそれではないようにも思え、棺桶から這い出るように車から降り立ったエリンが繰り広げる、石鹸台で用心棒を叩きのめし、殴りつけたグロックで弁護士ディフランコ(ブラッドリー・ウィットフォード)の頭をかち割り、かつての仲間ペトラ(タチアナ・マズラニー)を血まみれに潰して車のトランクに放り込み、娘シェルビー(ジェイド・ペティジョン)にまとわりつくジェイ(ボー・ナップ)を盗んだ金と引き換えに追い払い、クリス(セバスチャン・スタン)の仇サイラス(トビー・ケベル)を命乞いの間もなく射殺するサーチ&デストロイは、犯した罪に囚われて無間地獄を彷徨い続ける幽鬼の所業にも思えたのだ。復讐と贖罪の別すら手放して手当たり次第をゼロへと均し、そうすることで自分がこの世に生きた痕跡までも葬っていくエリンが最期にたった一つだけ自分に赦した記憶が何だったか、シェルビーもまたそれを赦してくれたからこそその光を見ながらエリンは消えていったのではなかったか。バーのカウンターで一瞬うつつを失ってグラスを倒し、あわてて我に返りショットの外にいる視えないバーテンダーに「ごめんなさい」と謝るシーン、たとえばカウンターから落ちて割れるグラスにエリンの刹那を託すよりは小さな正気の灯りが彼女の苛烈を煽ることを識るカリン・クサマの手さばきに息を呑みつつ、共に17年間を緩慢な死の中に過ごしてきたペトラとの、キャットファイトという言葉に喧嘩をふっかけるような凄惨で寄る辺のない潰し合いを、ローギアでアクセルをべた踏みするような回転数で追いまわすシーンには知らずワタシも歯を食いしばっていた。そして何より、それらすべての暴力を白日の下に晒して血と怒りの滾りを直射日光に乱反射させ、LAノワールの更新を得たジェリー・カークウッドのカメラの、消失点を光のなかに求めるような感覚はまるでアメリカン・ニューシネマの再構築とその継承への意志にも思えたのだった。銃創ではない肉体内部の破壊で徐々に死んでいくエリンに『サンダーボルト』のライトフットが重なったのも(共に車内に座って死んでいく)、これがあの時代のアメリカ映画の喉元に食いついてぶら下がっては、うっすらと笑みを浮かべながら揺れ続けていることの証なのだろうと考える。
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2020年10月23日

アウェイデイズ/ロマンスのシステム

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ストーリーからすれば「かつて遠征していたころ」とでもなるのか、”Awaydays”というその原題が既にすべてを語っている気もして、それは裏を返せば自分の居るべき場所(ホーム)から離れて生きる日々のことであったにちがいなく、プチブルと揶揄される中産階級でアートスクールをドロップアウトしたカーティ(ニッキー・ベル)と、フーリガンの労働階級でドラッグディーラーの顔も見え隠れするエルヴィス(リーアム・ボイル)が、互いの中にここではないどこかを見たことでその日々が交錯するも、互いが追うほどに遠ざかるすれちがいはその瞬間に始まってしまっていたのだろう。カーティはエルヴィスの暴力に倦んだ姿に成熟した屈託を誤認したことで、暴力を追い生の実感を手に入れようと躍起になり、一方、暴力で裂けた傷口をなめあうフーリガンの動物的な不良性を嫌悪するエルヴィスは、しかしそこに属するしかない絶望を抱えつつ、暴力を遠ざけたしなやかな屈託をカーティに見つけ、それを垂らされた蜘蛛の糸とすることで必死に手を伸ばし続けたのではなかったか。ひたすら青く欲望の達成に忠実なカーティよりは、彼を汚さないためには暴力から遠ざけるしかないことを知りつつも、彼とのつながりを絶たないためにはその欲求を受け入れるしかないエルヴィスの引き裂かれる感情こそがこの映画のハートであって、1979年のこの物語でエルヴィスの部屋にメメント・モリの象徴として吊るされた首吊用のロープは、程なくして起きるイアン・カーティスの悲劇の昏い予兆にも思えたのだ。エルヴィスが呪文のように繰り返すベルリンへの脱出も、分断された恋人たちをボウイが歌って以来、ある種の租界として夢想されたその響きを知ればこそその切実をワタシも理解する。目に映るのものを破壊しまくったパンクの焼け野原に立ち、帰る場所すら失い途方に暮れた若者が内省の中にそれを探したのがポスト・パンクだと監督が解釈したのであればワタシはそれを支持するし、パンクがいったい何を破壊しなければならなかったのかリアルタイムでは併走できなかったワタシに立ち込める靄の中でただただ彷徨することを赦したポスト・パンク〜ニュー・ウェイヴの、その終わらない日々に沈み始めたもう一つの1979年をここに重ねてみる時のあまりの容易さに、未だ自分がその靄の中にいるのかもしれないことを気づかせて郷愁というよりは少しだけ狼狽えた気分になってしまう。そしてこの1979年という年はマーガレット・サッチャーが労働党を打ち破って政権を取り、新自由主義を謳いつつ公営企業の民営化と規制緩和、消費税の大幅引き上げを断行した年であったのは言うまでもなく、この先ストリートカルチャーはサッチャーと保守党を敵と見据え政治の季節へと突入していく。インサートされるポスト・パンクのチューンにほぼ異論はないにしろ、うかがえるのは監督のウルトラヴォックスに対する偏愛で、”Just For a Moment”をほとんど心象表現の代替えとして序盤とラストで2度インサートして円環させたのはともかく、カーティ役のニッキー・ベルにはジョン・フォックスの面影キャスティング疑念すら湧いてくる始末だけれども、そういうのはまったくもって嫌いではない。
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2020年10月21日

スパイの妻/さようなら世界夫人よ

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「金庫の番号は?」「もう覚えました」この会話が符牒でもあったかのように新たな世界の法則が発動する。それに呼応するかのような津森泰治(東出昌大)の出現を受けて大陸へと渡る福原優作(高橋一生)はそれから起こる暗闘を予期していたかのように、世界の法則を手繰り寄せるべく自らの変質を促し複層をまとう人として帰国する。その優作にとって聡子(蒼井優)は果たして地獄の同志足り得るのか。開錠の番号を知る聡子の目の前でノートを金庫に仕舞う優作にとってそれはひとつの賭けであったのか。動かされたチェスの駒を見て急いた手つきで金庫の扉を開けた優作の表情の、何か決定的な感情を宿していながら、してやられたのかしてやったのか、それを微塵もうかがわせないここでの高橋一生こそは特筆されるべきで、この先に繰り広げられる愛と大義をめぐる聡子と優作の神経戦をピアノ線の緊張で拮抗させるこのゼロ地点にこそすべての成否がかかっていたといってもいいだろう。この映画をおおうすべての得体の知れなさに対し、観客にとって理解と共感が可能な唯一の存在である聡子をそのイノセンスゆえ生贄に捧げる苛烈はそのままワタシたちに向けられた眼差しでもあるわけで、戦場の恋人たちの風を装ってはヒールで地雷原を走らせながら、最終的に愛は感情の一つに過ぎないとにべもなく聡子を凝視する砂浜のショットこそはゼロ地点の恐るべき回収にも思えたのだ。劇中、聡子がいるシークエンスで何度か風の音が重ねられ、中でも旅館たちばなに文雄(坂東龍汰)を訪ねたシーンでは窓外の葉がまったく揺れていないにも関わらずか細い風の音が止むことはなく、それと同じ音がワタシたちと聡子に再び聴こえるのが1945年の精神病院でベッドに佇む彼女のシーンであったことを思い出してみれば、それがあの時以来彼女をずっと捉えていた虚無の音であったこと、そしてそれこそが世界の法則と渡り合う優作がまとった鎧なのではなかっただろうか。街角に貼られた『大空の遺書』のポスターの前で身を寄せ合う優作と聡子の姿が忘れがたくその映画について調べてみたところが、偵察に飛び立ちそのまま戻ることのなかった或る日本海軍パイロットの妻による手記の映画化という、まるですべてを解題したような内容で、そもそもが聡子の行く末はあの自主映画にすべて明かされていたではないかと、映像は世界のおそろしい分身であるというその確信とそれを手にする覚悟が謳われた点においてまごうことなき黒沢清の映画であったことに何度も首をうなずきつつ、監督にここまで射程の定まった映画を撮らせてしまう“現在”という世界の禍々しさこそをワタシたちは正当に恐怖すべきにちがいないと、コスモポリタンならずとも柄に手をかけた気持ちではあったのだ。あれが聡子の心象であったとはいえボブ登場シーンの照明や空間はまるでマイケル・マイヤーズにしか映ることがなく、黒沢版『黒い太陽』パートにしろ、いろいろと制約もあったであろう完全アウェイのプロダクションにおいて思わずその手が止まらなくなったところなのだろうと頬がゆるむ。シナリオにはない監督の付け加えたエピローグの字幕が一瞬仄かな救済をうかがわせるも、ワタシの頭をさっとよぎったのはアデルと化した聡子の姿であった。
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2020年10月20日

博士と狂人/演じるな炎じろ

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90年代後半以降、ブロックバスター化したニコラス・ケイジを「彼はアクターではなくパフォーマーになってしまった」と揶揄したのがショーン・ペンなのだけれど、それから四半世紀ほどが経った今、分裂症的なフィルモグラフィーの中で時折『マンディ』『カラー・アウト・オブ・スペース』のように覚醒した狂気で比類なくバーストする姿を届けてくれるニコラス・ケイジと今作でのショーン・ペンがどれだけ異なる地平にいるのか、ワタシには甚だ疑問に思えてくるのである。ニコラス・ケイジのそれがあくまで映画の要請としてスタートしつつ気がつけば後戻りできない場所まで映画や観客を連れ出してしまうのに対し、ここでのショーン・ペンは果たしてそれを初メガホンの監督は望んだのかという狂人のメソッドをリードに、アンサンブルよりは自分のソロをフリーキーな大音量で吹きまくるそのパフォーマンスの罪深い自己陶酔が映画のモードから逸脱していたように思ってしまったわけで、さすがにメル・ギブソンだけはショーン・ペンのソロを受け取って自分のパートに接続することが可能だったにしろ、そうやってメル・ギブソンが自分のポジションを意識するあまり、本来であれば博士にして狂人という二重人格性ゆえ共鳴するジェームズ・マレー博士(メル・ギブソン)とウィリアム・チェスター・マイナー(ショーン・ペン)の邂逅が博士と狂人という文字通りの関係から一歩もはみ出すことがないままだったように思うのだ。リチャード・ブレイン博士(スティーヴン・ディレイン)が新たな精神治療への野心を抱く者なのか単なるマッド・プロフェッサーなのか判然としないままなのも、ショーン・ペンが振りまくマイナーの狂気を増幅する役目を無理強いされて割りを食ってしまったからではなかったか。そうやってメル・ギブソンがショーン・ペンのセコンドから手を離せないせいか、妻エイダ(ジェニファー・イーリー)の理事会での演説やファーニバル(スティーヴ・クーガン)の口利きなど常に周囲の誰かが突破口を開いてしまうこともあってマレー博士が溺れる言葉の大海がもう一つの地獄と化すこともないわけで、ならばこれをウィリアム・チェスター・マイナーの数奇な人生として物語ってしまった方がいろいろと割り切りがついた気がしないでもない。いろいろと手が足りなくなるせいで、”Art”という言葉の持つ語義と使用法の変遷を語ることによって、そこに表現者としての意思表明が重ねられていくのかと思いきやあっさり肩透かしをくらったのにもいささか拍子抜けがした。いっそのことメル・ギブソンが自分で監督してしまえば丸く収まる問題もあったのにとも思うわけで「あのさショーン、ぼくがメリンできみがリーガンてわけでもないからね」って言えるのなんて他に誰もいないでしょ。
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2020年10月18日

シカゴ7裁判/おとなだろ、勇気をだせよ

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@シネ・リーブル池袋
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政治裁判だ!といきりたつアビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)に向かって「裁判には民事と刑事しかないんだよ」と話す弁護士クンスラー(マーク・ライランス)はまるで分別のない子供を諭すかのようであるのだけれど、そうやってあくまで法の下で闘う法廷闘争の勝算を図っていた彼が、政権の暗躍によって治外法権となっていく法廷で次第に分別の綱渡りを厭わなくする姿に、スピルバーグなら彼をメインにその対照として検事シュルツ(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)をすえて、その感情の移動を真ん中に据えたのかもしれないなと思ったのだけれど、アーロン・ソーキンはそうしたドラマの滋養や奥行よりも、行われた間違いと悪いことを福蔵なく描くことでそれを打ち負かす正義のありかを衒いなく謳い鼓舞することを選んでいたように思うのだ。それはいきなりアクセルを踏み込むトップギアのオープニングに明らかで、時代背景と登場人物の位置関係を当時のフッテージをインサートしつつ(キング牧師が暗殺時に追悼するボビーから頭をぶち抜かれたボビーへのつなぎ!)観客に俯瞰させながら、50年という時間を一気に遡っていくロックンロールの躁病的なビートこそがソーキンのマニフェストであったに違いない。サシャ・バロン・コーエンの演じるアビー・ホフマンとエディ・レッドメインが演じるトム・ヘイデンを観ながら、時代が時代ならそれぞれがエリオット・グールドとドナルド・サザーランドだっただろうなあと妄想したのも、この映画に通底する権力への嫌悪と諧謔と昏倒するロマンチシズムにロバート・アルトマンへの憧憬を嗅いだりしたせいなのかもしれない。リベラルはなぜ敗けるのか、それはリベラルもまたポピュリズムである以上、いつか捉われる自家中毒から逃げ切ることができないからだとしても、民主主義という壮大な実験において権力=定説を検証する仮説を繰り出し続けるためにリベラルは在らねばならないし、もしそれを負け戦のセンチメントと呼びたくて仕方がないのなら、まずは一度でも闘ってみてから煮るなり焼くなり好きにしてくれと土下座しながら叫んでいるような、そうまでされたら首を縦に振るしかないような映画だった。
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2020年10月14日

星の子/コーヒーをください

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善と悪、正と誤、常識と非常識、正気と狂気の境界線を背筋を伸ばしまっすぐ前を見据えてひとり進むちひろ(芦田愛菜)の歩みがいつしか鬼気迫る。すべては自分から始まったことなのだというちひろの覚悟が促すのは、境界線をはさむ争いが散らす火の粉を両親にふりかけることだけはしてはならないという決意であり、この物語の目的が宗教の欺瞞を暴くことでないのは言うまでもないにしろ、両親の愛こそが自分にとっての礎であり揺らぐことのない真理であると知るちひろの姿こそが、信仰に殉じた人の真の姿なのではないかという突きつけが、ちひろと家族をとりまく思惑をいつしか無効化していたのは確かだろう。そしてこの物語もまた決定論と自由意志をめぐる世界のあり方に気持ちをめぐらせていて、ちひろに決定論の小さな揺らぎを見て取った昇子(黒木華)がそっと残酷な揺さぶりを仕掛ける終盤から、ちひろの「信仰」を裏切ることのない両親の眼差しをあらためて見つめるラストに至る切なくも仄かな明かりの灯る感情のさざめきは、それまで繰り広げられてきた疼くような神経戦を優しくなだめつつも、寄り添う孤絶の色がひとときの儚さを誘い、あの星空の夜がちひろに残る最後で最良の家族の記憶となったであろう気もしてしまうのだ。南先生(岡田将生)から生まれて初めて大人の暴力的な悪意を逃げ場なくぶつけられたちひろをなべちゃん(新音)と新村くん(田村飛呂人)が彼女たちなりのやり方で慰める長回しのシーン、芦田愛菜をハブとしつつ間といいトーンの上下といい絶妙のアンサンブルで推移して、過去シーン以外ほとんどのシークエンスで出ずっぱりとなる芦田愛菜の透明な抑制の利いた求心力をもたらす、常に余白と余韻を残しながら映画を丸ごと背負う剛腕と知性のスイングこそが見ものだと言ってしまってもいいだろう。不幸を恐れるあまり幸福までも恐れ始めたらそこにはもう宗教も信仰も存在しないとだけは思う。
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2020年10月11日

エマ、愛の罠/産めよ燃やせよ

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これまでは、実在する人物を召喚してはその神話/実話の虚実を巧みにつづれ織ることで、彼や彼女が遂行したマージナルな反乱や革命の記憶を普遍へとすげ替える手続きにその天才を発揮していたパブロ・ララインが、今作ではエマ(マリアナ・ディ・ヒローラモ)というフィクショナルなキャラクターにその任を与えることで、より直截的で本能的なヴィジョンを塗りたくってみせていて、真夜中の信号機を火焔放射機で火だるまにするエマのオープニングがそれを宣言している。恣意と暫定とルーティンで麻痺したルールを一度亡きものとして肉体と精神をセットで再起動してみろという、システムに向けたというよりはそこにぶら下がって揺れるワタシたちに向けた原初的なアジテーションを、髪の先から爪先まで剥きだされた肉体の可動と機能の極限を理解することでそこに脅迫めいた畏怖を装填するダンサーという人間に託した点において、その意図は見間違えようのないところだろう。『NO』の主人公を最初に蹴り上げたのは別居中の妻であっただろうこと、『ネルーダ』で唯一ネルーダに、私は14歳から共産党員だけど共産主義の社会になったら私もあなたたちブルジョワのようになれるの?と問い詰めたのが清掃婦の女性だったこと、『ジャッキー』ではその神話のためにアメリカの寡婦となった彼女を幽鬼と描いたことなど思い出してみれば、エマとはパラダイムだ、と答えるララインがこれまで狙ってきたその機会を一気に浮上させたと捉えるのが自然でスムースな道行きだし、教師にして放火魔、そしてアナキストであるエマが妻にして母親、恋人にして愛人、姉にして妹という女性性を横断して獲得したのが母系共産体ともいえる家族であったのは、エマをイドの怪物として生み出したこの世界に向けた皮肉抜きの回答ということになるのだろう。ワタシがレゲトンの勃興と制圧に疎いせいで、エマの夫ガストン(ガエル・ガルシア・ベルナル)の主催するコンテンポラリーダンスをエスタブリッシュとするストリートとの対比に持ち込めなかったのがいささか悔やまれる。それくらいエマとレゲトンのチームをララインが洗練とクールのうちに捉えてしまっていたということでもあるのだけれど。
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2020年10月08日

ハースメル/ズ・ライク・ティーン・スピリット

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いつの頃からかベッキー(エリザベス・モス)には、俺の分け前をよこせとやって来るかつてクロスロードで契約した悪魔の影が視界にちらつき始め、やがてそいつがバンドのメンバーやマネージャー、元夫、母、そしてついには娘の姿を借りて現れては自分を苛むことで、彼らを信じたい善いベッキーと信じられない悪いベッキーとに彼女は叩き割られていく。第1幕として用意された終演後のバックステージでは、Riot Grrrlのパンクパンド、SOMETHING SHEのフロントウーマンであるベッキーの深刻な分裂とその悪夢に直撃される人々のさらなる悪夢が、周到かつ偏執的にのたうちまわるカメラとそれを煽りつづけるデモニッシュな色彩とサウンドデザインによって即席の地獄と化していく様子を名刺代わりに映してみせて、ああこれは良い意味で良くない映画だとこちらもポジションを修正することとなる。映画は5幕構成となっていて幕間にはバンドやベッキーが幸福だった頃をとらえたホームヴィデオの映像がインサートされつつ、第2幕でバンドメンバーのアリ(ゲイル・ランキン)とマリ(アギネス・ディーン)、第3幕で母(ヴァージニア・マドセン)との正面切った激突によるベッキーの喪失を経た後で再生を目指す幕開けへと向いはするものの、ベッキーが破滅型ロックンローラーのクリシェを終始かわし続けるのは、彼女をモンスターとして「狂気の愛」の淵に投げ込むのではなく「狂気」と「愛」の人に引き裂かれる断末魔を捉えつづけたからに他ならないからで、第4幕以降、狂気と狂騒から身を遠ざけつつも自分の愛を信じられないベッキーの脆さを狂気との完全な地続きで演じるエリザベス・モスの憑依と没入を見れば、『透明人間』での彼女ですらまだ手を余らせていたようにも思えてしまうのだ。オープニングへと円環するようにステージへの帰還を果たしたラスト、アンコールを求める観客のノイズも、それを促すマネージャーのハワード(エリック・ストルツ)や娘タマの言葉も受け流した上で「これで全部、これで終わり」とつぶやいてタマを抱きしめて目をつぶり壁にもたれるベッキーの姿と、そこからパンをしたカメラがとらえる”HER Smell”のネオンサインが、彼女が失くして探したその匂いを手にした今、彼女はもう自分のために歌うこともギターを弾くこともないのだという青春の終りを告げてみせ、成熟は死だとささやく世界の苛烈をなお傷跡に擦りこんだ気がしたし、オープニングのライヴシーンでのジ・オンリー・ワンズ、スタジオでかき鳴らすチャールズ・マンソン、娘のために切々と歌い上げるブライアン・アダムスという、局面でベッキーが奏でるのがすべてカヴァーであり分裂症気味に散らかったチョイスとなっていた点もこの映画のウィアードを誘った上に、観客がベッキーにコートニーの意匠を見ることをまったく厭わない監督と女優の確信犯ぶりがさらに果敢かつ誇大妄想的で、この映画への忠誠を最後まで忘れさせることをしなかったのだった。不意打ちの一発。
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2020年10月05日

マティアス&マキシム/きみの名前がぼくを呼んだ

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その度に世界と刺し違えては青ざめた貌で赤い血を流す季節は終わったのだと、外の世界を汎用的に借りることで内の強度を鍛える筆使いを普遍と定めるそれを、ドランにおいてはそれを成熟といってもいいのか、前作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』ではその性急がどこかしら自罰的にも思えたセルフパスティーシュがほとんどやけくそのように片っ端から女性たちを母殺しの十字架にかけていったことを思うと、あくまでその視線は一歩引いて冷静を失わないまま、自罰と他罰のつづれ織りにくるまって窒息する試みはもう必要ないのだとばかり、喪失から再生にいたる風の通り道は澱むことなく確保されて最後にそれは然るべきところへと爽快に吹き抜けたように思ったのだ。マキシム(グザヴィエ・ドラン)の抱える屈託とマイナスの記号としての顔の痣は、彼と仲間達のコミュニティにおいては視えないものとして扱われつつも、しかしそうした庇護の下で一生を過ごすことの閉塞こそがマキシムをここではないどこかへと旅立たせるのだろうし、それは同時に母親と刺し違えることなく彼方へ脱出するという裏を返せば母親を見棄てる決断であったにしろ、ようやくにして通過儀礼を終えた作家グザヴィエ・ドランがその青春の終りをメランコリックな楽観主義を頼りに謳ってみせた一篇ということになるのだろう。そうやってマキシムがこれまでの言葉が通じない場所へ旅立つことを思い出してみれば、その語り口が一変したとしても、というかむしろ一変することをドランは自分に望んだのだとすれば、マティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)のマジカル彼女としてのサラ(マリリン・キャストンゲ)の自らを開放した人の眼に湛えられた孤絶の色をそっと添えたその手触りにおいて、将来的には彼女たちの歩き方までも物語るドランをみることも可能なのだろうと考えたりもした。
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2020年09月23日

TENET テネット/きみはぼくを忘れるから

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キャット(エリザベス・デビッキ)がセイリングヨットの船上で「ライジング!」と叫んだ瞬間それが蜂起の合図でもあったかのように、時間を神に押し戴く映画という決定論の世界でそれに抗う自由意志はいったいどこまで可能なのかとする異議申し立てを、この世界で繰り広げらるそれの代理戦争でもあるかのように闘ってきたクリストファー・ノーランの、その極北とすら言える闘いの幕が切って落とされることになる。その闘いにおいて時間に刃向かうことを選んだものはエントロピーの幽霊と化し、消失点を目指すかのように後ずさりながら逆回転の言葉で呻き続けるのだ。起きてしまったことは仕方がない、ならば起きなかったことを起こしてみれば未来を変えることができるのではないかというアイディアに点火すること、それはもう自己犠牲と言う名のやけくそとにも思え、二―ル(ロバート・パティンソン)にしろキャットにしろが最期には何をかなぐり捨てて決定論に挑んだのか、リクルートされたばかりの名もなき男(ジョン・デイヴィッド・ワシントン)に逆転世界についてレクチャーするバーバラ(クレマンス・ポエジー)の「考えるのではなく、感じなさい」というアドヴァイスにして結論である自由意志が打ち破るその姿を知らしめるために、ノーランは幾度となく世界の理を引きずり出してはワタシたちのまわりにめぐらしてきたのではなかったか。そしてキャットvsセイター(ケネス・ブラナー)の闘いに自由意志vs決定論の暗闘を見たからこそ、名もなき男はキャットの誠実にして忠実な下僕となり、二―ルもそれに従ったのではなかったか。「それがこの世界の運命だとしても、だからといって何もしないことの言い訳にはならない」「運命?」「好きなように呼べばいい」「だったらきみは?」「現実さ」という名もなき男とニールのラストにおけるやりとりこそが、この映画の、そしてノーランの動機にほかならないことは言うまでもなく、なにしろこの2020年という時にあっては冒頭のオペラハウスで満員(!)の観衆が空気中の物質によってバタバタと意識を失って座席に沈んでいく姿の忌まわしい象徴性が、なおさらその動機を発熱させていたに違いないのである。しかしその震えが上気すればするほどこの映画のエントロピーはそれを消滅しにかかるわけで、冒頭でふれたまるで黄泉の海上のようなシーン以降、幽霊と刺し違えつつ闘うこの映画が、目指すというよりはそこから逃れられないゼロ地点で拮抗し続ける内爆がカタルシスの不発と映らざるをえない点で、勝負に勝って試合に負ける、それはまるで決定論と自由意志のあくなき闘いのようですらあったし、それと無縁ではないノーランの巨大建造物に向けられたフェティシズムは自分を覆う世界の巨大に抱く畏怖と官能による愛憎の証なのだろうこともIMAXの巨大スクリーンに見てとれた気がしたのだった。ジャンボジェットも、巨大風車も、そしてエリザベス・デビッキも。
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2020年09月17日

幸せへのまわり道/わたしはあなたのロバになりたい

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まるで「トワイライトゾーン」や「アウターリミッツ」のように、ではこれからロイド・ヴォーゲル(マシュー・リス)というひとりの男の人生をのぞいてみましょう、といった風なオープニングから始まり、彼がフレッド・ロジャーズ(トム・ハンクス)という人間と出会うことでその人生観が歩みを変えていく姿を、ポジティヴシンキングや神のご加護といった教条主義的なおためごかしを排除したところで、ぐうの音も出ない知性と合理性によってなされるカウンセリングのもたらす幸福な成果を、それを導くフレッドがまとう人智による戦闘の最前線とでもいう薄っすらとした不穏の気配をサイドキックに描いていく。ロイドの抱えた父殺しというマチズモの発火装置を優しくそして辛抱強く解除していくフレッドは、言葉にできるものは対処できる、という方法論の下でロイドの深層が欲する言葉をそこにダイヴしてはすくいあげ、彼を包み込むタペストリーと編んでいくわけで、君が正しいことと間違ったことを見極める信念の人であることをぼくは知っている、だけどその信念を形作ることができたのは君とお父さんとの関係があったからこそで、それはお父さんが手助けしてくれていたんだよ、とロイドを揺らした後で、1分だけでいいから自分を愛し育ててくれた人のことを想ってみてはくれないか、ほんの1分でいいんだ、と穏やかだけれどしなやかな強さでたたみかけるチャイニーズレストランのシーンは、トム・ハンクスとマシュー・リスによる慈しむような神経戦の応酬も相まってまさにその真骨頂といってもよく、その1分間を言葉の比喩としてではなく実際に腕時計で計って終わりを告げるその姿には臨床医の冷徹すら漂ったのだ。このシーンで瓦解するより以前、いまだフレッドを訝しげな視線で見るロイドに、大勢の人たちの問題を受け止めることはあなたにとって重荷ではないのですか?と問い詰められたフレッドは、それを重荷だと認めるとも認めないとも言わないまま冗談めかした口調で、感情と折り合いをつけるにはプールで思い切り泳いでみたりピアノの鍵盤の低音のところをボン!ボン!と叩いてみるのもいいかもねとやり過ごすのだけれど、やがてそれらはそのまま他のシーンとは打って変わった静謐でダークなトーンで描かれて、誰もいないプールで黙々と泳ぎながら頭の中でロイドの家族の名前を一人一人祈るように呟き、収録を終えスタッフがいなくなったスタジオでひとりピアノを弾いては突然低音部分の鍵盤を叩きつけるように手を振りおろし不協和音を奏でるフレッドの姿は、彼の妻ジョアンヌ(メアリーアン・プランケット)の「聖人呼ばわりされるのは彼も私も好きじゃない」という言葉の奥の彼を同情や憐憫をはねつけるように描くと同時に、ポップでカラフルに描かれるミニチュアワールドにロイドの父ジェリー(クリス・クーパー)の家が加わったのを見た瞬間、ああこれはレクター博士の記憶の宮殿なのだ、フレッドにとっての永遠なる”ご近所さんとの素敵な日(A Beautiful Day in the Neighborhood)”なのだと、長老教会の牧師という背景を持ちながら感嘆符的なGod以外には神を引用する言葉でいっさい導くことをしなかったフレッドの、精神と肉体の存在をまるごと捧げた殉教者としての孤絶が否応なしに迫ってきては、ロイドに差した木漏れ日の温もりがさっと引いたような気がして少しだけ慄えた気がしたのだった。
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2020年09月13日

人数の町/リンゴ・キッドの帰還

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いつ頃だったのかビッグデータというワードが取りざたされ始めた時に感じた、集合知的な側面よりは全体主義的な回帰のサイクルに囚われることへのうっすらとした忌避感の向こうにちらついたのは、ビッグブラザーという名前で刷り込まれたディストピアの影であったことを今さらながら想い出してしまっている。この人数の町というシステムを考えた人間は、ビッグデータを自ら作り出しコントロールすることでビッグブラザーとして世界に君臨できることに気づいたのだろう。そしてそれを可能にするテクノロジーと経済のシステムを文明の発達という題目のもとに生み出し続ける人間は自分で自分の首を絞め続けているようなもので、では自分の首を絞めたくない人間はどうすればいいのか、それは他人の首を絞めればいいというその分断のラインがあのフェンスに象徴されていたのだろうし、フェンスを越えようとする彼や彼女を襲う激烈な脳内ノイズによって、彼らは自身が死ぬまで首を絞め続けられることを遅まきながら知らされると同時に、食欲と性欲、そして睡眠欲の三大欲求を無条件で満たしてやれば人間は容易に家畜化しうるというその証明がこの人数の町そのものでもあるわけで、一見したところ頼りなく曖昧なフェンスが象徴するかつてないほどのディストピアとユートピアの接近がこの映画に禁忌と不穏の香りをなお誘うこととなっている。もはやどちらがフェンスの「外」なのか「内」なのか、民意という意思決定もまた幻想であるという手の内の開陳といい、トラブルの予測と収束のシミュレーションを含め“人数の町”というシステムをフランチャイズ展開するにあたってのプロモーションビデオとしてこの映画は充分すぎるほどその任を果たしているように思われ、終盤で蒼山(中村倫也)と木村紅子(石橋静河)の繰り広げる逃避行がまるで早送りされたようにスキップされるのも、そうした人間性テストのようなドラマはそれら本題に影響を与えるものではないという怜悧な確信によっているのだろう。そんな風に感情移入を物欲しげに情動をなめすのではなく思想の輝度と硬度を磨くことに躍起になりつつ、メジャー感と実験性のポジティヴな同居を狙う爽快さに、新しい武器を手に入れた気がして少し胸が弾んだりもした。おそらく監督にとっては余白の残った部分をスッとデザインしたポール役の山中聡が、体制のにこやかで饒舌な暴力と懐柔を慈しむように演じてピカレスクの楔を打ち込む助演。この国で今この瞬間に確認されるのをこの映画は待っている。
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2020年09月08日

mid90s ミッドナインティーズ/夢みるように転びたい

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「おれの人生は最悪だけど、ほかのやつらを見てるとまだマシなのかなと思う」とスティーヴィー(サニー・スリッチ)に語りかけるレイ(ナケル・スミス)の言葉からいかにして自己憐憫の涙をぬぐい取りそこに血のクールを通わせることができるか、これは自伝的な物語というわけではないとしつつ、靴下すら買えない少年であったはずもないジョナ・ヒルが、あの時代にあそこにいたすべての十代を肯定し相対化することで普遍の存在とする賭けに出たあげく涼やかな勝ちをおさめた瞬間であったように思ったのである。スケートボードという独立と連帯を同時に叶える水平の夢がどれだけの不幸から子供たちを救ってきたか、ジョナ・ヒルにとってその傷だらけの多幸感こそが90年代アメリカの記憶であり世界との距離を測る物差しだったのだろう。そうした中、当時彼が見た風景のどこかにいた誰かとしてのサニーの兄イアン(ルーカス・ヘッジス)もまたジョナ・ヒルにとって描かねばならないメランコリーの一片だったようにも思えたのだ。男の出入りが激しかった母さん(キャサリン・ウォーターストン)はお前が生まれてから変わったよとサニーに言うイアンは、たびたび母親が男を連れ込むその家でたった一人の自分をそこから切り離すためにあのヒップホップの砦を作り上げてそこに潜むことにしたのだろう。イアンの不幸はその砦の中で身動きがとれなくなってしまったことである一方、サニーの僥倖はイアンというストリートカルチャーの無自覚なメンターのおかげでストリートへの接続がごく自然におこなえたことで、イアンがたびたび見せるサニーへの暴力は、自分が孤独の闇と引き換えに手に入れたファンタジーを無邪気に享受することへの苛立ちだったようにも思えたし、それだけに、Motorの面々とたむろするサニーに通りで出くわし、サニーの兄と知らないファックシット(オーラン・プレナット)にからかわれて追い払われるイアンの姿を見るにつけ、それもまたウェストLAの白人エスタブリッシュの家庭に育ったジョナ・ヒルが抱いた屈託ではなかったかと、その背中に塗された容赦のない痛々しさになお想いを馳せてしまうのだ。そしてサニーを見舞うため病室にグループが集まったラスト、フォースグレード(ライダー・マクラフリン)の撮ったムーヴィーが見せつける失われてしまった幸福に輝く時間からにじみ出す甘くて苦いペシミズムが彼らを包み、今だけを生きることで逃げ切ってきたそのスピードが初めて立ち止まってしまうその瞬間は、この先に行くには一度ここに立って自分の目であたりを見回してみるしかないという通過儀礼の瞬間でもあったわけで、みんなのその背中を押した、靴下すら買えない極貧にも関わらず手に入れたハンディカムをどんな時でも手放すことなくいつか映画を撮りたいんだと夢見るようにつぶやくフォースグレードもまた、ジョナ・ヒルのぬぐえぬ一片であったように思ったのだ。レイティングさえ気にしなければ13歳のセックス、ドラッグ&ロックンロールが可能なのも映画という虚構のシステムの懐の深さであることをあらためて知らされつつ、それがPG12でスルーされるこの国の無邪気と鷹揚をラッキーと13歳の彼や彼女は今すぐ駆けつけて一緒に転がってみるべきだろう。mid90sに13歳だった遠い目の大人よりは、今の13歳のうなじをこそ落ち着きなくチリチリさせる気がするものだから。
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2020年09月04日

ブルータル・ジャスティス/死ぬ、埋める、忘れる

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かつてコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で、それはその初めから我々と共にあったものだ、言うなれば神が創ったものだと検証した、暴力という私たちの特長かつ特徴にして特質であり特性の、その発現によって生命を奪われ召されていく者たちへのレクイエムをS・クレイグ・ザラーは故人の生前を偲ぶような語り口と遠くを見るような目つきで彼岸の光景として描いていく。したがって、生命を奪う者よりは奪われる者においてザラーの筆は厚く、『トマホーク ガンマンvs食人族』がそうであったように奪われる者たちの尊厳を念押しする一挙手一投足の連綿とした描写に比べ、今作における食人族であるヴォーゲルマン(トーマス・クレッチマン)とその手下の黒装束たちはあえて記号の枠に押し込まれたままあり続け、彼らがその生命を粉砕するケリー(ジェニファー・カーペンター)にこそ贅沢な時間が与えられるにおいて更にその意志が明確となっている。と同時に、暴力それ自体が神の思し召しである以上、その断罪を我々のこしらえた善悪によってなされることがあってはならないというザラーが自らに課した戒めを体現するかのように、ブレット(メル・ギブソン)とトニー(ヴィンス・ヴォーン)、分けてもブレットは暴力によって善悪を横断しつつ家族の幸せを夢想する男として最期の時まで神の子供としてあり続けるのである。ザラーの作品における暴力の描写がその容赦のない直接性にも関わらずどこかしら超然としめやかにあるのは、ザラーがそれを神のひと触れ、もしくは恩寵と捉えた上で施したからであったように思うし、そんな風に偏執的で一方的な論理をどこまで拡張することが可能であるのか、レイシストにして職務を逸脱した悪徳警官にして強奪犯となる男を主人公にモラルの荒野に差す光はワタシたちの網膜をいかに透過するのか、ザラーがシミュレートしているのは善と悪の支配するそれ以前に開けていた原初の風景であったのではなかろうか。そうやって世界の法則を取り戻す者たちが皆そうであるように、ザラーもまた長回しによって世界の角度と速度を執拗に再測定し続けていて、すべての時間が逃げ場を失って膠着する瞬間に開く扉を待ちわびるその姿の一途は宗教的とすら言える気がしたし、ワタシもそれに連なるにおいてまったくやぶさかではないのであった。高邁にして高潔な傑作。
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2020年08月31日

赤い闇 スターリンの冷たい大地で/きみの国がきみを殺す

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※できれば知らない方がいいある一点をかすっているので鑑賞予定の方は留意を。予定になかった方へは不意打ちされた傑作と伝えたい。

ガレス・ジョーンズ(ジェームズ・ノートン)はソビエトの地で三度の饗応を断り、四度目にして初めてそれを受け入れることとなる。そしてそれがこの映画で起きたすべてだと言ってしまってもいいだろう。1933年、スターリン体制下のソビエト連邦に渡ったジョーンズはロイド・ジョージの(元)外交顧問という肩書もあって、体制側の人間より3度の饗応を受けるのだけれど、世界恐慌の嵐の中で一人勝ちを謳うソ連の経済実態を調べることを目的とするジャーナリストとしてのジョーンズは、取材対象からの供与におもねることをしないのである。その3度のうちのひとつはニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長にしてピューリッツァー賞受賞者ウォルター・デュランティ(ピーター・サースガード)によるものなのだけれど、彼の自宅で開かれるパーティーのいかにも西側的な堕落と退廃の倦んだ空気の異様さに、なにしろホストのデュランティはビキニパンツ一つの姿でジョーンズを迎えるのだ、ジョーンズはジャーナリストとしてのデュランティに対し本能的に敵対することとなる。取材対象である政府に寄り添い同化することで情報を引き出すという名目もいつしか失ったデュランティは、求められる忖度によって西側を情報でコントロールするツールとなることと引き換えにモスクワで利益と便宜の供与を受けており、ひいてはソ連の対西側外交の裏側でフィクサーめいた役割すらを果たしているわけで、このあたりは先日放送された渡邉恒雄氏のインタビューで、取材対象の政治家の懐に夜討ち朝駆け的な感情で入り込むことによって距離を縮め情報を得るという手法と、その結果政治家の持つ光と闇、白と黒の線引きが混然となったグレーの中で共に泳ぎ回ったからこそ今の自分があることを、実際に政治の舞台裏でフィクサーとして動いたことも含め氏が自ら滔々と語るその姿の違和感に、現在のメディアが権力から独立した意志と矜持を持てないまま成熟を手放したのは、戦後の政治記者たちが多かれ少なかれ渡邉恒雄氏をロールモデルにしてきたからなのではないかと考えたその癒着と腐敗の構造そのままであったことに、驚くというよりは至極当然と腑に落ちたりもしたのだ。モスクワでの動きを封じられたジョーンズは、デュランティのスタッフでありながらグレーに染まることへの忌避を隠さないエイダ・ブルックス(ヴァネッサ・カービー)の助けを借り、政府の監視を振り切って疑惑の鍵であると同時にかつて彼の母親が暮らした地でもあるウクライナへと潜入していく。ソビエト連邦にとって黄金の穀倉地帯であったはずのウクライナは、華々しく喧伝された五カ年計画による農業の集団化の失敗でモノクロームの荒涼に覆われた飢饉と飢餓の生き地獄と化しており、道端に死体の転がるウクライナの地を衝撃と混乱の中で彷徨するジョーンズは、彼もまた行き倒れる寸前に貧しく幼い姉弟に差し出されたスープの椀を初めて受け取りそれを口にするのである。しかし、それまで饗応された豪奢な料理とは似ても似つかないそのスープに入っていた肉片はいったい何だったのか。フィクショナルな構築があるとはいえ実在の人物が実際に辿った壮絶な地獄めぐりの記録は、ワタシにそれらの予備知識がまったくなかったこともあっていつしかジョーンズの絶望と分かちがたく同化したあげく、ワタシはいったいどこまでこの風景の中を歩かねばならないのか、空調の効いた映画館の客席で途方に暮れて押しつぶされそうですらあったし、そうやってガレス・ジョーンズという一人のジャーナリストが観客に憑依することで彼の清廉と怒りと絶望と哀しみを知り、その知性と理性をある状況におけるひとつの理想とすることをアグニェシェカ・ホランドが求めたとするならば、この映画の原題がなぜ“Mr.Jones”であったのか理解できるようにも思ったのである。史実の枷を少しだけ弛めたジョージ・オーウェルとのクロスオーヴァーも、彼の「動物農場」がなぜ普遍たりえたのかその背景をよりクリアにして物語の刃渡りが増した気がした。ジェームズ・ノートン、ヴァネッサ・カービー、ピーター・サースガードが三様の速度と角度で鉈を払い互いに近づけないままうっ血していくアンサンブルが張りめぐらす疼くような虚無。2020年の日本、Mr.Jonesはどこに消えた?
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2020年08月28日

ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー/飛ぶのが遅い

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ミシェル・オバマとRBGの写真が見守る中、成功者のマントラを流しながら自身をフォーカスする儀式を済ませたモリー(ビーニー・フェルドスタイン)は、迎えに来たエイミー(ビーニー・フェルドスタイン)とそれが彼女たちにとってのハカでありチアなのであろうロボットダンスを踊り始め、彼女たちはそうやってハイスクールの毎日を闘い抜いてきたのだろうことを、しかしそこには血も汗も涙も、とにかくあなたたちに憐れんでもらうような理由などまったくないのだと、それはもう惚れ惚れするような手さばきで宣言してみせつつ、そのマニックの鎮魂がこの映画の行き先であることをそっと窺わせたりもするのである。これまで自分が仮想敵としてきたスクールカーストは自分の独り相撲が生み出したイドの怪物に過ぎなかったことを知った時、自分を憐れむでも恥じ入るでもなくそこに順応しなければと瞬時にシフトチェンジするモリーの姿は新たな強迫観念に捉われたようにも映り、既に性的指向をカミングアウトして世界との繋がりを再構築したエイミーに比べてみた時、相対の鬼としてのモリーはエコーロケーションでしか自分を認知できない病の中にいるわけで、映画としてはバディムーヴィーのスタイルをとってはいるものの、ラストでエイミーがモリーに言う「明日からはこのボルボを1人で運転するんだよ」というその言葉がオープニングに円環しつつ上昇するらせんとなる点において、一晩の地獄巡りをすることで自己肯定の呪縛から解き放たれた自分自身をモリーが世界にカミングアウトするその姿に監督は新しい自由の風を託したということになるのだろう。とはいえ製作陣にウィル・フェレルとアダム・マッケイの名前があることからもうなずけるように、そうした真剣さの照れ隠しかつ弱者からの一撃としての下ネタが爽快に飛びかいつつ(とはいえPG12)、しかし監督と脚本家たちに渦巻くのは、対称性で語るのは勝手だけどあたしらをあんたたちの悲劇と一緒にするなよ、というかいつまでもあたしたちを悲劇とかいうなよ、という笑いながら怒る人の凄味であって、何よりまずやるべきはわたしたちを壁の花へと追いやってきた壁をぶち抜くことで、そうすればそれが支えてきた例のガラスの天井とかいうあれも顔色が変わるにちがいなかろうよというひらめきと確信がオリヴィア・ワイルドとそのチームを怒涛のごとく駆り立てたように思うのだ。とはいえモリーに託したそれ以外がコメディで冗談めかされてしまうのはこのスタイルを選んだ功罪で、『スーパーバッド』あたりがたやすく参照されてしまう危うさははらんでいる気はするものの、なにより『スウィート17モンスター』のその先で世界と渡り合うためには、毒を食らわば皿まで舐めまわしあげくはそれを噛み砕くことすら厭わないのだというこのマニフェストが、ダン・ジ・オートメイターのどこまでも歩き続けるようなブレイクビーツで接続されて世界のどこかにいつも掲げられることを夢想している。
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2020年08月26日

グッバイ、リチャード!/ジョニーは戦場へ行った

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成熟なんてもんはずっと呑み込んできた惨めさの言い換えにすぎないんだよ、と吐き棄てるリチャード(ジョニー・デップ)に、俳優ジョニー・デップの毀誉褒貶を重ねてみることはいとも容易い。容易いだけに、リチャードが学生たちに向かってキミらが闘うべきは凡庸さだと煽るその言葉がそのままブーメランとなって突き刺さってしまうこの映画は、しかしそれが成立するのは彼がジョニー・デップだからこそであるという抜き差しならない構造となっているものだから、『いまを生きる』や『死ぬまでにしたい10のこと』のパスティーシュに過ぎないストーリーすらも、こういうのがいいんだろ?的な観客に対するあてつけと嫌がらせに思えてくる始末であって、それはジョニー・デップという俳優が2005年を分水嶺にスターシステムのてっぺんでサーフすることを、おそらくは権威主義へのあてつけとして選んだそのねじれたセルアウトのツケであり後遺症であるのは間違いないにしろ、果たしてそのどこまでをジョニー・デップは想定の内としていたのか、自らの野心に忠実なキャリアをある意味健康的に築いてきたレオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットに比べてみた時、この映画におけるリチャードの開き直りと言い訳がましさはあながちフィクションの自虐というわけでもなかったのかとも思ってしまうのだ。フェミニズムを論拠とする学生を、それは本当に自分をそこに潜らせてみた上での考えなのか?と足蹴にしつつカサノヴァ的な放蕩をおおっぴらにするリチャードのアンチPC的な露悪のふるまいや破綻した結婚生活が役者本人のトレースであることは言うまでもないし、終身教授のポジションに安泰することで自らをスポイルしてきた英文学者リチャードが死ぬまでに一つは自身の筆による傑作をものにしたいのだと語るシーンに至っては、それをショーン・ペン言うところのアクターではなくパフォーマーに身をやつしたジョニー・デップ自身の告白と捉えられることも既に承知の上なのだろう。となると、冒頭のセリフすらもデップがオルターエゴを装って吐きだした言葉だとすれば、2005年の変節は彼の盟友ティム・バートンがかつて『PLANET OF THE APES/猿の惑星』で行ったイノセンスとの訣別にも似た通過儀礼ということにもなるわけで、そのバートンによる非コスチュームプレイの『ビッグ・アイズ』ではデップに声がかかることなく“アクター”のクリストフ・ヴァルツが起用された時、彼は自身のナイーヴを思い知らされたのではなかろうかと邪推もしてしまうし、してみると今作はジョニー・デップという成熟を誤算したペルソナの清算であったようにも思うのだ。ではそんな異物を抱え込まされた映画が果たして監督本来の意図の達成であったかと問われればそれは怪しいとしか言えないながら、俳優ジョニー・デップによる告解の物語としては、むしろその凡庸さゆえの真摯に胸が打たれた瞬間があったことも確かだし、この稼業についてまわる曖昧で漠然とした危機を上手く切り抜けたレオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットに比べてみた時、曖昧で漠然とした幸福を信じ続けたジョニー・デップの失敗をむしろ近しく感じてしまうのだ。そんな風に30年経って気がつけば、もうお互い取り返しのつかない年齢になっていたことに今さらながら驚いた。
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2020年08月20日

ポルトガル、夏の終わり/幸せは優しくない

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今では他人と呼ばれるふたりに 決して譲れぬ生き方があった ―大貫妙子「風の道」

いつの頃からかイザベル・ユペールと大貫妙子を好きな理由が重なるような気がしていて、その生きる社会においては大きくない背丈を共にすっと伸ばし口元に緊張を遊ばせながら相手をゆるがぬように見据え、かといって人嫌いというわけでもない柔らかな光を目の片隅に湛えつつ孤独というよりは孤高の人としてそこに立ち、自らを律するその動作が自然と世界を手懐けてしまう佇まいはワタシにとって理想の輪郭にも思えるわけで、この2人が同い年というのはほんのたまたまであるにしろ、イザベル・ユペールの映画を観て帰った日に気がつけば大貫妙子のアルバムを再生してしまうのは何かしら必然の気配があるからなのか。最初の引用は、大貫妙子の書く透徹したラヴソングの強度とエッセンスを最上に抽出したフレーズだと思っていて、悲観と楽観、過去と未来、そして生と死のその精密な真中に立つ現在地でたずさえる、静かで穏やかな、それでいてもうどこにも後戻りをすることのない諦念はほとんどハードボイルドといってもいいように思える。そして映画女優フランキー(イザベル・ユペール)もまた、青空に永遠を透かすそのハードボイルドなまなざしで、自分がこの世から消えてなくなっても、あそこにいる彼や彼女たちはそれぞれに新しい生き方をしていくだろう、それはうまくいくかもしれないしうまくいかないかもしれない、でもそのすべてが愛おしく思える時がくることをあなたたちに知っておいて欲しいと私は願っている、とその笑みを小さく風に飛ばすラストのその一瞬のためだけにこの映画を設えた監督の潔さとイザベル・ユペールへの敬愛をワタシは称賛したい。それにしても、アイリーン(マリサ・トメイ)に袖にされるスクエアなリベラルのゲイリー(グレッグ・キニア)のやんわりと意地の悪い描き方といい、監督/脚本のアイラ・サックスはスピルバーグに何か含むところがあるのだろうか?個人的なあげつらいではなく、スピルバーグ=ハリウッド的な能天気への揶揄だとしたら今さらで、あまりスマートには思えないのだけれど。
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2020年08月15日

ディック・ロングはなぜ死んだのか?/馬鹿をポケットに入れて

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※ほんのちょっと肝心なところに触れています

「わたしパパを困らせてる?」自分が見たこと聞いたことをまっすぐな瞳で大人たちにしゃべるシンシア(ポピー・カニンガム)は、嘘にすらならないその場しのぎのでたらめや言い訳をあっけなく突き崩されてうろたえるパパのジーク(マイケル・アボット・Jr)に向かって、すまなそうにそう言うのである。それに対して、そんなことないわと言うママのリディア(ヴァージニア・ニューコム)にかぶせるように、そうだよ!とジークは言い放つのだけれど、よくよく思い出してみれば、劇中でジークが自分の家族に対して暴力や暴言といった暴な感情に振れるのはこの時だけで、自分の蒔いた取り返しのつかない種をリディアになじられ平手打ちをくらいながらも、彼女の逆鱗に触れて硬直したジークは、おぉ、とか、うぅとか呻きながら立ちつくすばかりだし、どつぼに嵌って進退きわまり感情が内爆した時ですら彼は電気スタンドを殴って壊す“フリ”をするだけで、その後ついに自らガラスを殴りつけて自爆はするものの、彼は窮地の只中であってもウェイトレスに対するアール(アンドレ・ハイランド)の失礼なふるまいを諌める男だし、最後に修羅場から遁走したジークがどこに向かって何をしたか、本来の彼は愚直なまでにピースフルな人間で、彼とアール、そしてディック・ロング(ダニエル・シャイナート)に共通するその愚直を超えた愚鈍と無邪気のためにディックは命を落とすにしろ、死ななかった2人が得た呼称は“人殺し”ではなく“変態”であったことが、全体にわたって振り上げた拳の行き場のないこの映画の途方に暮れっぷりを象徴していたように思うのである。そしてしその振り上げた拳は、町にいられなくなったジークとアールが場末のモーテルでニッケルバックの「ハウ・ユー・リマインド・ミー」を、自己憐憫する変態のテーマ曲としてがなりたてた瞬間、何とも情けない呆れ顔で夜空へと消えていくのである。もちろんジークという人間は、ステーションワゴンはゲイっぽいからいけてない、とかいう言葉を自分を棚に上げつつさらっと言ってしまうくらいには社会に対して無知で無頓着な男だし、―もちろんここでカメラは警官ダドリー(サラ・ベイカー)の表情をうかがうことを忘れない―、彼らにとって馬と姦ることは、大麻を吸ったりピンク・フロイトとかいう冴えない名前をつけたバンドでミュージシャンのマネごとをすることと変わらない人生のあるかなきかのアクセントに過ぎないにしろ、モラルや倫理のハードルの著しく低い彼らですらが慌てふためいて秘密にすることで、その行為の異常性というよりは彼らの尊厳に対するワタシたちの寛容が試されている錯覚すらしてしまうし、彼らを微罪にしか問えないことにいきり立つダドリーをやんわりとなだめるスペンサー保安官(ジャネール・コクレーン)の言葉は、どこかしらキャンセルカルチャーに対する鷹揚としたディフェンスであったようにも聞こえたのだ。しかしながら、感に堪えぬようにダドリーが口にする「人間って計り知れないものですね」という言葉に甘えてこの奇人変人ゴングショーを苦笑いで閉じてしまいそうになるところを、その計り知れない人間を夫として愛した妻たちの悲劇を忘れるなとばかり、ディックの妻ジェーン(ジェス・ワイクスラー)の慟哭を今作で最も美しくも切ないショットに仕立てて監督はインサートするのである。『スイス・アーミー・マン』がそうであったように、楽園などそこから追い出されるためにあることをいい加減キミたちは知るべきだとでもいう親切めいた口ぶりで全員を地獄へ向けて蹴り出す監督ではあるけれど、最期の時が来るまで自分たちが地獄にいることに気づかないであろうジークとアールにとって、楽園からの追放は新たな楽園に向かう旅立ちですらあるというどこか救済めいたエンディングに、ならばもうこの監督の性根を信じるしかあるまいと次はどんな風に不謹慎な死体を連れてくるのか手ぐすね引いて待つことにした次第である。それにしても、自分たちの曲があんな風に使われることにニッケルバックはよくOKを出したもんだと感心すらしたのだ。だってニッケルバックだものと言われればそれまでにはちがいないけども。
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2020年08月10日

悪人伝/その男、頑丈につき

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ピカレスクやアンチヒーローなどと言ってみるよりは悪漢といった方がより滋養が滲むというか、ことマ・ドンソクのアイドル映画とあってはそれがふさわしいように思うのだけれど、白石和彌が局所的に踏ん張っているとはいえ、プログラムピクチャー的なやり逃げの爽快と痛快を伴う邦画にはとんとお目にかからなくなったなあと、特にマ・ドンソクの大暴れする映画を見るたびに思うことたびたびなのである。政治にしろ社会運動にしろ韓国からのニュースでしばしば感じる転覆の気配とそのダイナミズムがもたらすのが、世情の不安定なのかあるいはパラダイムシフトによる活性化なのかそれは様々であるにしろ、そうしたオプションのない社会が当たり前のように馴らされてきたこの国では、悪漢がアンチヒーローとして跋扈する世界観というのはファンタジーとしての大きな目盛りが必要になって、それを回す手間ひまは娯楽にふさわしくないと判断されてしまうのだろう。だからワタシたちが、かつて存在したノスタルジーとしての悪漢ではない、今のこの世の中で大暴れする悪漢を見て快哉と昂奮を叫ぶとするなら、マ・ドンソクを一発打ちこむのが効き目といい即効性といいまず間違いがないということになる。今作では三すくみのアンサンブルに自らを押しこんでいるようでいながら、基本的には“気は優しくて力持ち”のバリエーションでのしあがってきたマ・ドンソクが、ここでは気は優しくての部分を侠客の矜持で、力持ちの部分を刺されようが轢かれようが起き上がる不死身の肉体で代弁する役得、そして何より人間としての度量をその肉体の輪郭と質量にトレースする造形の完璧さで、語るというよりは魅せるためのストーリーが幾重にも踏み抜く奈落の底を支え続けてみせるわけで、現状ではマ・ドンソクの気は優しくて力持ちマーケットを脅かす競合がいないことおよび、その卓越した自己プロデュース能力を考えると、彼の独り勝ちはこのまま続いていくことになるのだろう。マッシヴな突進で蹴散らすばかりかと思いきや、殺人鬼(キム・ソンギュ)が逃げ込んだカラオケ店のブースを探す中、怯えながら歌う客を小窓から見つけ、身ぶりで彼女たちに退避を促しながら奥のドアをぶち抜いていく静から動への細やかなアクションも存外に魅せて惚れ惚れとするし、面影に大和武士を想い出した刑事役のキム・ムヨルはじめ、ホッピー神山のようなサンドの副官など、たぎる者はたぎり続け、卑しい者はひたすら卑しく狡猾な者は地獄の底まで狡猾に、見ればうなずく劇画機能的な貌の面々にも唸らされることとなる。ドンスがナイフの刃を鷲掴みにして殺人鬼の動きを止めるシーン、松竹セントラル前での北野武vs白竜戦を想い出して少しだけ目をすがめたりもした。
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2020年08月05日

カラー・アウト・オブ・スペース -遭遇- /宇宙からの啓示

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中心的な驚異に関して、登場人物は現実の人生で人がそういう驚異に示すのとおなじ、圧倒的な感情を示すべきです。驚異が当然のものとうけとられることはないのですから。”―「怪奇小説の執筆について

これはラヴクラフトがしたためた自身の小説作法の中の一節で、この前段には“驚異の存在そのものが、登場人物や出来事の影を薄くさせるはずのものなのです。”という一文と共に、主題としての驚異を描写するためには、それ以外の部分において注意深く現実主義を維持しなければならないことを念押ししているのだけれど、ではそうしてみた時、ニコラス・ケイジという異物はミスキャスト以外の何物でもないのではなかろうかという当たり前の疑問が生まれることになるだろう。しかし、ある種の記録文学の体をとったがゆえ、だいたいにおいてラヴクラフト作品はそうだけれど、ラヴクラフト言うところの現実主義的描写で驚異の出し入れを精密な客観性でコントロールした原作を映像化するには、登場人物の主観描写としてその驚異を直截的に描くというハードルをクリアしなければならないわけで、“最大の力点は微妙な暗示に置かれるべき”とするラヴクラフトが自ら傑作としたこの原作のアトモスフィアをスポイルすることなくそれを行うために、原作では最期まで正気を持ちこたえたネイハム(劇中ではネイサン)を、「驚異」の翻訳者、もしくは増幅器、あるいはハブとすることでそれを観客にリレーするために、ニコラス・ケイジというあらかじめの劇薬を投入したのだろうと考える。それは、今作において正気と狂気の狭間で闘い続ける実質的な主人公をラヴィニア(マデリン・アーサー)と描いてることにもうかがえて、ネイサンを『シャイニング』におけるジャックとしてとらえてみれば、なぜネイサンがニコラス・ケイジでなければならなかったのか腑に落ちる気もしてくるわけで、この脚色のアイディアとキャスティングこそが今作最大の勝因であったと言ってもいいだろう。そして何より、テレサ(ジョエリー・リチャードソン)とジャック(ジュリアン・ヒリアード)の名状しがたき融合体がロブ・ボッティンのモンスターを烈しく想起させるのも、『遊星からの物体X』の原作「影が行く」がジョン・W・キャンベルによる「狂気の山脈にて」へのオマージュであった(とする論にワタシは与する)ことへのアンサーであったことはもちろん、ネクロノミコン片手に虚しい抵抗を試みるラヴィニアといい、ラヴクラフトに対するリチャード・スタンリーの深く捻れた愛情と敬意の念がそこかしこにうかがえたことは言うまでもない。手塩にかけて育てたにも関わらず名状しがたき野菜と成り果てたトマトに怒髪天を衝いたニコラス・ケイジが、スラムダ〜ンク!と叫んで跳び上がりながらそれをゴミ箱に思い切り叩きつける後ろ姿に、自分の居る猟場とそこで何を狩り立てればいいのかを熟知した猟犬の矜持と薄っすらとした孤独を見た気がして、緩んだ頬がほんの一瞬戸惑った気もしたのだった。その背中は、わたしは第68回アカデミー賞主演男優賞受賞者、誰の演出でも受けてみせると言っていた。
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2020年08月01日

ブラック アンド ブルー/できれば私はそうしたい

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ナオミ・ハリスをオスカーノミニーへと推し上げた『ムーンライト』の原作が”In Moonlight Black Boys Look Blue”であったこと、彼女の演じたアリシア・ウェストが身につけた防弾ベストの下の身体はおそらく青あざだらけ(Black and Blue)であっただろうこと、そして何より黒人にして警官(Blue)であったこと、良くも悪くもそれら全てが焦燥と切迫のうちにぶちこまれることで、それが正しい場所に刻まれたかどうかはともかく、この映画それ自体が一つの見過ごせない爪跡と化している。ハリケーンと貧困が人々を食い尽くしたニューオーリンズのある街を飛び出したウェストは、軍隊に入ってアフガニスタンへ従軍し現地で幾多の戦闘を経て除隊した後で、かつて自分が飛び出した街へ新人警官として戻ってくる。着任間もないある夜のパトロール中、踏み込んだ廃墟で市警麻薬課の刑事マローン(フランク・グリロ)とその部下が闇取引の相手である麻薬の売人を口封じに銃殺する瞬間を彼女は目撃し、それは同時に彼女の防弾ベストに装着されたボディカメラ(警官の行動を可視化するための記録装置)にも録画されることとなり、それが明るみに出れば身の破滅となるマローンとその仲間は自らもウェストを追い詰めると同時に、黒人の売人殺しの罪をウェストに被せることで黒人ギャングにも彼女を追わせるよう画策し、ウェストはボディカメラを胸に正義の遂行を賭けた一晩のサヴァイヴァルをニューオーリンズの夜に繰り広げることとなる。といったメインプロットからは『トレーニングデイ』を連想するのが容易いし、実際この映画のサスペンスはあらかたがここから発生していて、しかもその醸成と維持が巧みでスリリングなあまり、中盤でウェストが言う「私は良い人間と悪い人間の対立よりも、もっと人間そのものと向き合うために軍隊より警官を選んだのだ」という言葉がともすれば行き場なく宙に浮いてしまうわけで、かつて自分が捨てた街で警官として生きる彼女のBlack and Blueなアイデンティティに反発する黒人コミュニティとの断絶と理解の物語は、主に彼女と旧友マイロ(タイリース・ギブソン)およびかつての親友ミッシー(ナフェッサ・ウィリアムズ)の間において、彼女の逃亡劇のオプションとして語られるにとどまってしまうのがやや物足りなく思えるのは否めない。特にマイロに関しては、序盤で白人警官にジョージ・フロイド氏のケースを彷彿とさせる強圧的なマウントを取られ恐怖と屈辱のあまり涙を流すシーンが彼のスタートとして用意されていて、当初は事なかれのスタンスでウェストを遠ざけていた彼が、正義の遂行に身を賭してのぞむ彼女の姿に当事者意識が点火され、最終的に彼が警官相手に何をしてみせたのかというそのゴールへの物語が用意されているだけに、街を出たウェストと残ったミッシーとの対比も含め、ウェストという清冽な劇薬によるコミュニティの再生という全体像をよりクリアにするには、既に自身の中に答えを見つけているウェストに更なる試練を与えるよりは、彼女を中心にスイングする群像劇の構造をより徹底すべきだったように思うのだ。とはいえそれもこれもダンテ・スピノッティ(『ヒート』『L.A.コンフィデンシャル』)のソリッドに不穏を扇情するカメラの疾走するメインプロットが圧倒的に仁王立ちしていたからで、劇中のあるセリフのように「あちらにつくか、こちらにつくか」どちらか一つを選べと言われた選択の結果であればそれもまたやむなしと思えてしまうくらい、ウェストが生き延びた夜にかかげられた血と銃弾と絶叫のタペストリーを否定する術はワタシにしたところで持ち合わせてはいなかったのである。アメリカの白人外道を一手に引き受けるフランク・グリロが、あまりにも迷いなく一途にクズで既に神々しい。
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2020年07月28日

海底47m 古代マヤの死の迷宮/わたしたちが水中だったころ

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※誰それの生死に関する点に若干触れています

本来ならそこでは死んでいるはずの人間が背中のボンベだけで生かされている、いわば仮死状態で漂う黄泉の国の静寂をかき乱す者として彼女や彼らはあるわけで、下界では居場所のない主人公がその境界を越えることで喪失を再生に変えながらも、そこには多大なる犠牲が伴うことを容赦なく告げる監督のオブセッションは前作「海底47m」からより苛烈に更新されることとなる。予兆としてのオープニング、姉妹の相克、意志にそぐわぬ越境、それら報いとしてのサメ、そして屠られ捧げられる者、彼女が世界から分捕った居場所と失ったすべてとの地獄のバランス、という一度語られた物語を倍増された予算でさらに語り直す監督の妄執は、実際に死の祭壇をしつらえ、倍増どころではない数の生贄を捧げるその熱狂に強化されたあげく、ミア(ソフィー・ネリッセ)に沁み込んだ死の匂いに蹴散らされ目をそらし身をそらすキャサリン(ブレック・バッシンジャー)をとらえるミアの視線の、私が二度と戻ることのできない世界の住人であるこいつ、から、しかし私にとっては既に道端の石ころでしかないこいつ、への刹那のスイッチこそをミアの暴力的な覚醒の証とし、それが彼女にとっては幸福なのか不幸なのか、前作では描かれなかったそのラストの先のフェイドアウトの真空にまで監督は手を伸ばしたように思ったのだ。9割方を占める海中シーンにも関わらず、音と光の炸裂をストーリーに焚きつけるアイディアによる単調さの回避、幽鬼のような盲目サメのデモニッシュな造形と質量の彼岸のたゆたい、プロフェッショナルではないアマチュアゆえの全身を賭した闘い、そしてこれらをパッケージする幻視の悪夢のようなケレンと書き連ねてみれば、異形の傑作『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』の続篇を正攻法で押し切った地肩の強靭さにもうなずけるわけで、今後ヨハネス・ロバーツという名前を界隈で見過ごすわけにはいかなくなったのは言うまでもない。盲目サメに背中のボンベを捉えられ、このまま喰われるかボンベを捨てて自死を選ぶかという究極の選択を迫られたアレクサ(ブリアンヌ・チュー)の最期は、かつてこれほど切ない溺死があっただろうかと心震わされて個人的なピーク。一方では、もしやマヤ/アステカ文明の遺跡に寄せるためなのかというアズテック・カメラ(AZTEC CAMERA)による導入および凄まじく状況説明的に響き渡るロクセット、にも関わらず「愛のプレリュード」については水中での響きを考慮してあえてカーペンターズとは異なるヴァージョンを選んだというインサート曲への奇妙な執着が絶妙に収まりの悪さを誘っていて、その全体を見渡してみれば、このジャンルにおける『ディセント』以来の洞窟スリラーの傑作という称号までも合わせて獲得したことを伝えておかねばなるまいと思っている。ぜひ劇場で。
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2020年07月24日

レイニーデイ・イン・ニューヨーク/たどりついたらいつも雨ふり

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当時82歳の監督兼脚本家が孫のような年恰好の俳優たちに「これが現実さ」「現実なんて夢をあきらめた人のものよ」と諦念と達観を語らせたあげく、美しい主演男優(ギャツビー/ティモシー・シャラメ)は、ぼくは一酸化炭素の香りとタクシーの騒音、そして灰色にくぐもった空の下でなきゃ生きられない都会のバガボンドだと宣言し、もう一人の美しい主演女優(アシュレー/エル・ファニング)をおぼこなカントリーガール扱いをしては、慇懃無礼にほっぽり出すのである。そしてアレンは、1930年代のNYにうっすらと死生観を湛えた『カフェ・ソサエティ』、1950年代のコニーアイランドを愛と幻想のアサイラムと描いた『女と男の観覧車』と再び私小説のタガを外し始めたその仕上げとして、ティモシー・シャラメをピーターパンに、セレーナ・ゴメスをティンカーベルにあつらえることでマンハッタンをネヴァーランドと幻視しては、君たちがこれを昏睡の夢と思うならもうそれでかまわないと居直ってみせてすらいる。したがって、ネヴァーランドの住人となることを許されないアシュレーに施されるはりぼてのスノッブ描写には当然悪意が漂うわけで、『女と男の観覧車』におけるケイト・ウィンスレットといいブロンドの白人女性へのネガティヴな執着に加え、今作のセレーナ・ゴメスの黒髪を見るにつけその役回りに託した黒い屈託をアレンはすでに隠す気すらないわけで、プロットを探りシナリオを仕上げ、撮影編集すべてのプロダクションを経てなお希釈されるどころか洗練すらされるその「悪口」に陶然としてしまうのをワタシは否めない、というか否むつもりもないのだ。アレン史上、もっとも眉目秀麗な彼のヴァージョンとなったティモシー・シャラメのどこまでもヴィヴィッドな猫背のノンシャランは、いかにもリアル・アレン的なブラウンコーデですらを洒脱に着流して、ほとんど腹話術の人形的なやり過ぎすら感じさせるのもアレンの止まらぬ執着ということになるのだろうし、分割されたアルターエゴとしての映画監督ローランド(リーヴ・シュレイバー)と脚本家テッド(ジュード・ロウ)にはさらりと自己憐憫の場も与えつつ、などと書いてみればいかにも神経症的なスラップスティックに辟易しそうなものだけれど、前作で狂気の光と屈託の影で煽りまくったヴィットリオ・ストラーロのカメラは一転して、既にすべては赦されたのだとでもいう柔らかな光と影のあわいでギャツビーを押しいただくだけにたちが悪く、そしてそれは映画でしかなし得ない口上のたちの悪さであると同時に、ウディ・アレンにしかなし得ないたちの悪さであるからこそなおのことたちが悪いのだ。ちなみにワタシは、今のところはそうする判断ができるほどの手持ちがないのでアレンを断罪する側に回っていないし、彼の問題に限らず「彼の本を買わなければいいし、映画に行かなければいいし、音楽を聴かなければいい。金を投じなければよい。」というスティーヴン・キングのスタンスに準じることにしている。
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2020年07月21日

パブリック 図書館の奇跡/STAY HOME STAY FREE

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「私は図書館という公共機関を行き来する情報の自由を守るために人生を捧げて来たんだ。この国では公共図書館こそが民主主義の最後の砦なんだよ、それをお前らみたいな悪党が戦場に変えやがったんだ!」と館長のアンダーソン(ジェフリー・ライト)がブチ切れた瞬間こそ、悪党呼ばわりされたラムステッド刑事(アレック・ボールドウィン)と地方検事デイヴィス(クリスチャン・スレイター)を悪役とする構図が浮かび上がりはするものの、一般市民(The Public)を虐げる公僕をとっちめて溜飲を下げることが監督・主演・脚本をつとめたエミリオ・エステヴェス(スチュアート役)の目的でなかったことは、それゆえ時おりふらついてしまうプロットにも見てとれて、監督がこの物語を通して謳い上げたのは、人種や階級など人々の平等を妨げるすべての問題に関係なく一般市民(The Public)には情報を公開したり利用する自由があり、言うまでもなくそれは言論の自由であり基本的な人権でもあること、そしてそれが実践される公共図書館こそが民主主義の砦であるとしつつ、その「情報の自由」が脅かされつつある現在のアメリカを一晩の寓話に圧縮してみせたということなのだろう。アンダーソンのセリフにもあった「情報の自由」はけっして装飾的な言葉として使われているわけではなく、1966 年に制定された情報自由法(Freedom of Information Act)を承認したジョンソン大統領の『民主主義は国家の安全が許す限りにおいて、すべての情報を国民が知る時に最もうまく機能する』という言葉の最前線の実施機関として公共図書館が在ることの宣言でもあるわけで、例えば劇中で来館者が「ジョージ・ワシントンのカラー写真が見たいんだけど」と尋ねるシーンも、それはけっして図書館員はつらいよというオフビートな緩和というよりは、情報を見たい知りたいといういかなる類のアクセスをもまずは尊重するべきなのだという姿勢のあらわれであるのだろう。前述したように物語上の対立要素としてラムステッド刑事と地方検事デイヴィスが描かれはするものの、寓話としての楽観性や性善を維持するために彼らがふるう法と秩序の鉄槌もあいまいな腰砕けに落ち着くしかなく、それは現在のアメリカで実際に起きている苛烈な軋轢からすればいささか夢見がちであるのは否めないにしろ、それを冷笑するよりは、ともすれば見失いがちな正気を確認するためにどこまでも正論が愚直に遂行される姿を新しい記憶の一つとして留め置くべきだと考えたいし、最後のバスの車内でひとりだけ浮かぬ顔を隠しきれなかったスチュアートに、何よりシニカルを抑え込むことこそを目指したエミリオ・エステヴェスの隠せぬ徒労が影とよぎった気もしたからこそ、ワタシは彼も映画も信用するのだ。

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2020年07月16日

透明人間/もうあなたしか視えない

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※若干展開にふれています

キッチンでコンロのフライパンを焦がすシーン、シドニー(ストーム・リード)の部屋に向かうセシリア(エリザベス・モス)がカウンターを離れた瞬間、彼女が置いた包丁がひらっと舞いあがって姿を消し、それから次第にコンロの火力があがって炎が立ち上り、水をかけようとしたセシリアを制したシドニーが消火器でその炎を消して一応は事なきを得たようには見える。このシークエンス以外では追いかけ回り込み切り込む神経症的なカメラワークがセシリアの心象を煽り続けるだけに、ここでのフィックスの長回しシーンは一種異様な静けさを湛えていて、劇中で数度インサートされる監視カメラのモニター映像がそうであったように、すべての感情や意思が排除された場所で永遠に記録され続ける世界の禍々しさ、それは例えば光などとうに届かない深海でカメラの眼が捉える人間の意志など介在したことのない世界への畏れにも似つつ、何も見ていないがゆえすべてを映してしまういわば死者の眼とも言えるカメラの眼に人間の眼を重ねることで生じる禁忌の震えとでも言えばいいのか、しかもそこにはカメラが映すことのない存在があることを先だっての包丁によってワタシたちは暴力的に知らされているわけで、カメラが視つづければ視つづけるほどそこにないものが脳内に膨らんでいく時の、その乖離の淵に投げ出されるような言い知れぬ不穏と不安においてこのシーンが映画のピークとなることで、以降はその余韻が、セシリアを襲う視えない恐怖の通奏低音として映画を支配し続けていくこととなる。そうやって、セシリアが攻勢に転じて以降、存在が視認されることで恐怖が失速しないために打ち込まれたくさびとしての機能は、綱渡りをする恐怖ではなく綱渡りを見る恐怖を塗りたくるにおいて傑出するリー・ワネルの面目躍如にも思えたのだ。前作『アップデート』でも顕著だった、脇のキャラクターに不可避の陰影をつけつつもそれらのストーリーを最低限しか主人公に交わらせないことで遠近を際立たせ、物語が止まっているときでさえ推進するスピードの感覚を手放さない手管はより洗練され、物欲しげな語り手であればマーク(ベネディクト・ハーディ)をセシリアの新たなロマンスの相手とすることで嫉妬の血祭りにあげられるシークエンスに手を出してしまうところを、エイドリアン(オリヴァー・ジャクソン=コーエン)でもジェームズ(オルディス・ホッジ)でもない、外部の世界がセシリアの備えるチャームを認知する目としてすれ違うにとどめ、これがセシリアという一人の女性がみずからを開放していく物語であることを考えてみれば、このシーンを踊り場をしたことの意図も自然とうなずけてくるのだ。姿の視えぬストーカーに悄然とし、どうしてわたしなの?と打ちひしがれてつぶやくその答えを、限界を超えて追い詰められたセシリアは知性と勇気と思いやりを武器に闘うことで明らかにしていくわけで、セシリアの内部に眠る汚れのない輝きを見抜きそれを弄び飼いならし屈服させるにおいて発揮されるエイドリアンの醜悪で歪んだサディズムは、それゆえ彼女を欲し続けたにちがいなく、ついに事切れたエイドリアンから颯爽と顔を上げて歩き去るセシリアの、威風堂々とすら言える佇まいこそが本来そうして世界にあるべきセシリアという女性その人だったのだろう。だからワタシは、この先の彼女がガラスの箱に閉じ込められた女性たちを救う視えない闘いに身を投じたとしてもなんら驚くことはしないのだ。
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2020年07月13日

SKIN/スキン〜首輪のない犬

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『SKIN』(短編)も今作も劇中に登場する黒人はあくまで物語上の装置としてあって、行って帰る旅、もしくは行ったままの旅に出るのは白人なわけで、一人相撲をとっては右往左往するばかりのその姿を見るにつけ、黒人問題というのは結局のところ白人問題に過ぎないということがあらためて突きつけられる気がした。それを少し乱暴に言ってしまえば、白人にとって黒人が共存すべき存在でないのは、黒人がもはや共生のための存在となっているからで、優生思想の成立が劣った種を求めるように、白人至上主義者が至上を謳うためには非白人の存在が不可欠で、自身の確立だけでは為し得ない彼らのアイデンティティの脆弱と不安定こそが白人問題であって、ブライオン(ジェイミー・ベル)が身を投じるのは、レイシズムの洗脳を解く以前にまずは自律した社会的存在として立つための苦闘であり、人生の選択を与えられなかった人間がそれを勝ち取るという点において、ブライオンが知らず辿るのもまた尊厳の抑圧とその解放をめぐる物語となっていくわけで、One Peoples Project(OPP)の活動家マイク・コルター(ダリル・ラモント・ジェンキンス)が急進にはやる若者をたしなめて説くのも、そうした白人問題に黒人がいかに向き合うことが可能かというその場所へ行きつかざるを得ないことを知っているからなのだろう。ブライオンの養父であるシャリーン(ヴェラ・ファーミガ)とフレッド(ビル・キャンプ)のクレイジャー夫妻が疑似家族としてピューリタニズム的家族愛を鎖とすることで白人至上主義カルトを運営していくやり口の狡猾とえげつなさは、問題の根深さをより顕わにするし、フレッドが拾って来たギャヴィン(ラッセル・ポスナー)やジュリー(ダニエル・マクドナルド)の娘デズリー(ゾーイ・コレッティ)に対するシャリーンの蛇のようなアプローチは、たとえ彼女に後にあかされる過去があるとはいえ、かつてのブライオンもおそらく同様だったのだろう犠牲になるのが不幸を抱える子供である点において、より醜悪の度合を増していくように思うのだ。とはいえ、そうした事実に派生する背景と状況の描写を優先したこともあって、ブライオンとジュリーの関係も含め造型されたキャラクターの感情の行き来がいささか不自由であったことや、寓話としての『SKIN』(短編)が補完していた肌の色とタトゥーが交錯する呪われた意味性を欠いてしまうことなど、あくまで秀逸なレポートとしての機能で高止まりしてしまったのが惜しくもあったのだけれど、『SKIN』(短編)における監督の貫くような幻視を見る限り、今作では伝えるべきことを伝えるというその役割に徹して自身のエゴを収めたのだろうと考えておきたい。
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2020年07月10日

アングスト/不安〜殺人鬼には手を出すな!

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『ザ・バニシング−消失−』にしろ『ヘンリー』にしろ80年代のある領域に生息した映画のまとう文学的と言ってもいいロマンチシズムは、深淵の怪物に対する未知の憧憬とでもいえばいいのか、探究者の抱く上気した情熱から発熱していたように思うのだ。そしてこの映画もまた、傑出した先達の眼差しを頼りに殺人者に憑依することによって、怪物の内面を辿る冷熱の航海へと乗り出していくわけで、主人公(アーウィン・レダー)をK.と名付けた魂胆に素直にのってみさえすれば、K.にとっての不条理な世界を彼の視点で偏執的に描くことでミクロからマクロへの突破を図るその野心の、予想を超えた達成にはしめやかに敬意を捧げるしかなかったのだ。ステディカムらしきカメラをいったいどのようにセットしているのか、主人公だけが確固として立つ周囲を背景が曖昧に揺れ続けるショットや、ひとたび彼を離れるや縦横の動きで彼の行動を監視し始めるクレーンショットは、全編にわたる彼のモノローグおよび、リンチもかくやという超絶クロースアップとクロスすることで異様な立体感を醸しだしていくこととなり、それらカメラの自由が奪われる室内シーンでは彼にのしかかる殺人の徒労がただただひたすら逐語的に描写されていくことになる。ここでの、現実とは異なる計算尺をもった人間が行う弛緩した(ように映る)演算の無駄と無理とムラは、90年代を迎えて先代の探究者たちの成果をもとに実を熟した、シャープな陰影とエッジの効いた色彩でアーティフィシャルにレイアウトされた解剖学的なゴア(『セブン』『羊たちの沈黙』)では真っ先にデオドラントされた悪食で、それゆえマーケットの口には合ったにしろ、実は誰もその正体を知らないがゆえの始まりも終わりもない本質の曖昧さや不穏、茫漠をかすめたという点において、K.の繰り広げる人間の合理を打ち棄てた動きのすべてとそれを捉えたカメラの虚飾を排した崇高さに、否応なく心が動かされてしまうのだ。人生のオプションに殺人を備えてしまうことや、そうした人間をトレースする妄執といい、人間はなんと、何でもしてしまうことか。それにしても、血の色がほんとうにいい。
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2020年07月07日

カセットテープ・ダイアリーズ/都会で聖者になれなかったわたしたちに

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1980年代、一緒にレコードを買いに行ったりキュアーとかバニーメンとかスタイル・カウンシルとかビッグ・カントリーとかジュリアン・コープとかサイケデリック・ファーズとかペイル・ファウンテンズなんかのライヴに行ったりして、それが何かを生み出すでもなくダラダラ過ごした5〜6人の友だちはみな基本的に聴く音楽はUK一辺倒だったのだけど、どういうわけか全員がスプリングスティーンが好きで、中でもその一人のO君は、その頃既にジャベド(ヴィヴェイク・カルラ)のようなボス麻疹にかかった時期はとうに過ぎていて(とはいえ彼がジャベドのように浮かれ騒ぐ姿はちょっと想像できないのだけど)、O君のスプリングスティーンに対する穏やかな愛情と理解はアーティストと作品に対する理想のファンの姿のようにも思えたのだ。O君の信頼できる審美眼の基準は“えらそうでないこと、いばっていないこと”で(たぶんザ・スミスのシングルを仲間内で最初に手に入れたのも彼だったかもしれない)、シニカルでありながらもそれで世界を断罪しない腹の座ったノンシャランとでもいう佇まいもふくめワタシはO君のファンでもあった。そんな中、85年の来日も仲間内では当然のように一大イベントとなったわけで、年が明けたころから出回り始めた来日の噂が確定事項になっていき、ワタシたちはチケット確保の算段をし始めることとなる。当時は外タレの場合、チケットぴあ以外にプロモーターでも直売りをすることが多かったので、おそらくウドーもそうするだろうことを見込んで、2月下旬あたりから順番で新聞販売店が近くにある仲間内のアパートに泊まっては、まだ夜も明ける前トラックが配達した朝刊を買って来日公演の告知をチェックし、その日が来たら始発で青山のウドーに向かい整理券を手に入れる体制をとっていて、そうした努力の甲斐もあって全員が4日分のチケットを手に入れることができ、その時は、あとは心配なのは直前のケガとか病気、身内の不幸だな、などと浮かれた気分で言い合っていたのだ。そして初日の4/10を間近に控えたある日の午後、ワタシはO君の部屋でCISCOかどこかで買ってきたばかりの新譜かなにかを聴いたりTVを見たりしていつも通りのんびりとしていたのだけれど、そこで1本の電話がO君の実家からかかってくる。電話で話すO君の口調が親に対するぶっきらぼうからだんだんと真剣な口調に変わり、電話を切ったあとで「なんだかおふくろが事故にあったらしくて、詳しいことはまだわからないみたいけどまったくこういう時に困ったもんだ」みたいに冗談めかして笑ってみせたりもしていたのだけれど、それからしばらくしてまた電話がかかってきて、手術中らしいけれどかなりまずい状況とのことで、自然とワタシも口が重くなり、その時つけっぱなしのTVでは女子プロレスの中継でダンプ松本が暴れていて、「こんなもん見てる場合じゃないな」とぼそっと言ったO君のその声を今でも思い出す。結局、その後の3度目か4度目の電話でO君の母親が亡くなったことが告げられ、「わるい、これからすぐ帰るわ」と立ち上がって、とりあえずスーツ着ないとだめだよなと、それでも取り乱すこともなく淡々と身支度をしていたO君が、「だめだわ、手が動かなくてネクタイ締められないから締めてくれないか」とワタシの前に立ち尽くし、それからはお互い口をきくこともなく彼のアパートを出て、手持ちがないから近くの親戚のところに寄って新幹線代を借りる(ワタシもその場で貸してやれるほど手持ちがなかった)というO君と別れ、考えれば考えるほど大変な状況だったのに何もしてやれず言ってやることもできなかったなと情けない気持ちで家に帰った記憶を、今でもさっと思い出すことができる。その後、ワタシが受けたのか誰が受けたのかは忘れたけれど、おれは行けないと思うと連絡があって、一番その場にいるべき人間を欠いたままスプリングスティーンとEストリート・バンドは来日し、今のところ最初で最後のバンド・ツアーは「ボーン・イン・ザ・USA」で幕を開け、まあ現金なものでワタシは追加公演を含め5日間を熱狂と共に見届けることになるのだけれど、その後なんとか都合をつけたO君は最終日に上京し、その日のチケットが5日間のうちで一番アリーナ前方の良席だったワタシは、彼のチケットと交換することで少しだけ罪ほろぼしをした気持ちになったのだ。人の数だけブルースはいる。
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2020年07月03日

はちどり/ベネトンとキム・イルソンとミチコロンドン

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※未見なら知らずにいた方がいい、あることについて触れています

「いまのこの時間は不思議な気分だね」と、ウニ(パク・ジフ)がボーイフレンドのジワン(チョン・ユンソ)に公園で語りかける。そうだねと答える彼に、ジワンはどんな感じ?とウニがたずねてみれば、「寂しい(って感じ)?」と答えるのだ。この映画に登場する男たちの例にもれず、身勝手で腰の座らないジワンが思いがけず口にする「寂しさ」という言葉に思わずハッとしてしまうのは、相手に気持ちを寄せれば寄せるほど、どこまでいってもわたしはあなたに近づき切れないことに、わたしはあなたになれないことに、わたしはあなたではないことを思い知らされて、しかしそれらを知ることでワタシたちは、寂しさ(loneliness)から孤独(solitude)へと世界から独立した自身の輪郭を意識することを促され、やがてはその不可侵の魂が放つ光が照らす道を歩き始めるその第一歩こそがジワンの口にしたその言葉であったからなのだ。物語は、ウニの前に現れたヨンジ先生(キム・セビョク)がウニの中に孤独の原石を見出して以降、彼女をメンターとすることでウニは日々の出来事を新たなまなざしで見つめることを知っていく。なぜわたしたちは世界に対してファイティングポースをとらなければならないのか、この世界は不条理だからこそ、あなたはあなたを世界に明け渡してはいけないのだ、だからあなたは殴られてはいけない、殴られたら黙っていてはいけない、立ち向かっていかなくては、と伝えるヨンジ先生は、そうすることでかつて自分が打ち破れた喪失に向き合っているかのようにも思えてならず、誰もいない一人だけの教室で自分の体をぎゅっと抱きしめたその背中には、ウニたち世代に対する責任にも似た悲痛な覚悟すらをまとった気がしたし、彼女が塾を辞めたのはウニと向き合うことで新たな再生の予感を自身に感じとったからなのだろうと考えてみる時、その結果もたらされる彼女の最期はウニの独り立ちへの力ずくの最終試験にも思えたのだ。突然自分を裏切る親友を、流血の夫婦喧嘩の翌朝に笑いながらTVを見る父と母を、あれほど血が流れていた父の左腕の白いガーゼを、街中で呆けたように歩き去る母親を、病院の廊下で自分の病気を想って人目もはばからず泣く父親を、知っていると思っていた人たちがふとした裂け目から垣間見せる知らないその人を、ただひたすら見つめては立ち尽くすばかりだったウニはそれにどう応えたのか、「あなたが顔を知っているたくさんの人たちの中で、その心の中がわかるのは何人いる?」というかつてヨンジ先生が投げかけた問いかけを心の奥底で反芻するかのように、ラストシーンで自分のまわりのクラスメートたちを静かに顔を上げて見つめるウニの視線が湛えるのは、孤独を知った人の優しさと厳しさのないまぜになった静謐ではなかったか。そしてそれら感情の流転を監督はその余白の隅までもミリ単位の感覚とすらいえる精緻な筆でデザインしていくわけで、映ってしまうものの蓋然性に対する潔癖症的な嫌悪を漂わせつつ、しかしそれが観客を一切圧迫することのない光と影の恍惚とした溶かし方は中毒性すらを帯びるわけで、突発的に完璧なショットが目の前に現れる時の震えはどこかしら黒沢清を想起すらさせ、例えば、塾が始まるまでの時間を建物の前の広場で潰すウニが一人遊びのように段差を駆け下りては昇るその運動をロングショットでとらえたシーン、とっさに立ち上ったのは『岸辺の旅』で深津絵里が道路を斜めに横切ってやにわに駆け出すその後姿だったのだ。そしてなんといっても、ウニという少女の感情を発火する回路を組み立てるパク・ジフの理解と解釈と表出が傑出していて、ウニが自身を襲う不条理に出くわした時、監督はカットを割ることなく変転するウニの表情と仕草だけでほとんどサイレント映画のように文脈を語ってしまうのだけれど、それに対して完全かつ幾ばくかの余韻まで加えて応え続けるパク・ジフのパフォーマンスを観ているだけで知らず映画体験の幸福に捉われてしまうし、138分の間ずっと地雷原を歩き続ける少女の物語でありながら、それが不穏や不安の残酷ショーに陥らないのはある高みの映画だけが放つ愉悦や快感が最後まで途切れることがないからなのだろう。半径5メートルの日常がその向こうに茫洋としてある社会や政治と分かちがたくあることを今のウニは無意識の感覚として知り始めていて、ならばそこに生きる自分はどうすれば世界と自分を見失わないでいられるのか、それは目を開き心を開き、自分を知るように相手を知ることで起きる出会いこそが世界と自分を繋げてくれることを確信したからこそ、かつて海辺でアントワーヌを捉えた孤独のその先で、既にウニは世界を見渡すことを始めていたに違いないと思うのだ。ワタシではない、新世紀の10代に差し出されたマスターピース。
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2020年07月01日

ワイルド・ローズ/夢でもくらえ

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歌が上手いやつなんてこの世にいくらでもいる、では聞くがおまえのその上手な歌はいったい何を伝えようとそこまで空気を震わせるのか、という真実の問いかけにローズ=リン・ハーラン(ジェシー・バックリー)が巡り合うための物語であって、本当の才能とは出口を見つけるためではなく正しい入口を知るために備わっているにちがいなく、才能と表現の出会いを分けるその一線を、彼女はナッシュビルで潜りこんだライマン公会堂のステージで知ることとなるわけで、この映画を凡百のサクセスストーリーと分けているのは答えではなく問いを探すその七転八倒に彼女のリアルを見つけたからなのだろう。元をたどれば海のこちらから持ち出されたものだとはいえ、グラスゴーでカントリーという脈絡のなさ(そしてそれが説明されることも特にない)も、ロックあるいはパンクというジャンルで観客の訳知り顔がノイズになることを阻止すると同時に、ワタシたちもスザンナ(ソフィー・オコネドー)と同じ初見の視線でローズと彼女の音楽への距離を詰めることに奏功したように今となっては思うのだ。とはいえ、エルヴィス・コステロがカントリーソングのカヴァー・アルバムを”Almost Blue”と名付けたことや、劇中でローズが「カントリー&ウェスタンじゃない、カントリーなんだよ、そしてカントリーはスリーコードが奏でる真実なんだ(Three chords and the truth)」と叫んだことを思えば、日々のメランコリーをレベルソングに書き直す挑戦がカントリーであることを知るべきなのだろうと考えたりもしたのだ。それもこれも、アテレコなしで豪快かつ繊細に歌い上げるジェシー・バックリーの頭抜けたパフォーマンスこそがこの映画を可能にしていたのは言うまでもないし、何より彼女と彼女のバンドが鳴らす大音量のサウンドに琴線を揺さぶられることで、精神の自粛を強制され萎縮して過ごすこの数ヵ月で自分がどれだけ不健康に強ばってしまっていたのかをあらためて知らされた気がしたし、自分の居場所を再確認して新たな中指を立てるためにも今一番「必要な」映画なのかもしれないと思ったりもした。ツアー出られるよね彼女と彼女のバンド。
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2020年06月29日

ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語〜シャラメのシャはノンシャランのシャ

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少女のグレタ・ガーウィグは、ジョーの結婚を認めることも許すこともできなかったのだろう。良き伴侶とめぐりあい良き家庭を築くことを女性のゴールとしない生き方、すなわち自分という人間をそのままでは不完全なピースと見なす世界に対し蜂起したはずのジョーが、なぜいともたやすく軍門に降ったのか、オルコットが自分を騙したのか、オルコットもまた世界のからくりに騙されるしかなかったのか、そうすることで成り立つ世界との落とし前をつけることで私はジョーの復讐をするのだ、というガーウィグの闘争宣言が「若草物語」に交錯する光と影のうつろいを、欠かせぬ真実の奥行きとして描き加えることを可能にしていたように思うのだ。したがって、それまでの清冽なアンサンブルからすればジョー(シアーシャ・ローナン)とベア(ルイ・ガレル)のゴールインがほとんどやけくそのように描かれるのは、既に心ここにあらずのオルコットやガーウィグにとってあれが真実のジョーではない証ということになるのだろう。そうやって虚実の構造を行き来することを求められるジョーが最終的にはどこかしら記号化してしまうのに対し、経済としての結婚を否定して彼女なりの通過儀礼を果たすことでローリー(ティモシー・シャラメ)の愛を手に入れるエイミー(フローレンス・ピュー)は真実の愛の覇者のように映るのだけれど、それは画家として生きる表現者の自分に見切りをつけることの代償として与えられたとも言えるわけで、最終的にはジョーの総取りというハッピーエンディングの露払いとしてありはするものの、ピューリタニズムの欺瞞とモダニズムの予感との間で苛立つ直感の存在としてロマンスの血肉が通ったのはエイミーであったという、いささか皮肉な着地となった気がしないでもない。ローリーがジョーに言う「ぼくらがいっしょになったら殺し合いになるからね」というセリフは啓蒙主義から個人主義へとうつろう時代の予感でもあり、来たる20世紀はまさに両者殺し合いの世紀となっていき、世紀を超えて膠着したワタシたちはといえば、過去を振り返ってはこうして想いを馳せている。
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2020年06月24日

ペイン・アンド・グローリー/ヘロイン・アンド・グルーミー

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かつて自分を精神の奥底まで決定づけた、そしてそれゆえ人生を共に進めることのできなかった恋人が30余年を経てある日突然自分を訪ねてくるその瞬間、果たして彼はどれだけ変わってしまっているのか、そして自分は彼の目にどれだけ変わった姿と映るのか、期待と畏れに苛まれながら戸口でフェデリコ(レオナルド・スバラーリャ)を待つサルバドール(アントニオ・バンデラス)の、至福の苦痛すらを待ちわびる数秒に溢れる恍惚と倦怠、楽観と悲観、要するに生と死の両側に均しく足をおろした者の生命が剥きだされて香り立つ瞬間、押し寄せる全体性の波にこちらまで呑まれてしまいそうになる。過去は死んでしまった時間なのか。だとしたらこの激痛は棺桶の蓋を打ちつける釘が我が身をえぐるのか。なかば贖罪でもあるかのように痛みと共生するサルバドールは、その痛みと引き換えに手に入れた美術品によって装甲した自宅で籠城戦を戦っているかのようだ。しかし彼は、ある過去が彼に追いついたのを、それを待っていたかのごとく追いつかれるままにそこへとたゆたっていくわけで、それを謳うかのようにプールに沈むオープニングから、精緻にして巧妙な回想(しかしその仕掛けがラストで明かされる)で母への思慕と自身のヰタ・セクスアリスを描いては、愛憎半ばする盟友アルベルト(アシエル・エチュアンディア)に託した戯曲で自身とフェデリコの愛と苦痛の日々を告白し、それら過去の記憶を現在のサルバドールの茫漠としたメランコリーとめくるめくような語り口でクロスさせながら、しかし物語は確実に喪失から再生の物語へだんだんと顔をあげながら歩を進めていくのである。その足取りはまるで、かつて片岡義男がしたためた“現在とその延長としてのこれから先、というものだけにとらわれていると、人はほとんどの場合、過去を亡きものにしてしまう。過去を葬れば、現在が道連れにされる。”という一文が照らす道を歩くようにも思えたし、そしてなにより、ポン・ジュノが引用したスコセッシの“最も個人的なことは、最もクリエイティブなことだ”という言葉の明晰で熱を帯びた実践に恍惚と眼も心も奪われてしまうのだ。ヘロインを手に入れるためサルバドールが訪れた裏通りで知らない男が刃物で斬りつけられ脚から血を流すシーン、ヘロインに引き寄せられて劇中で唯一自分の陣地から外に出たサルバドールに吹く暴力の風を一筆書きのように描いてみせて、そのスケッチすらが滴るように完結して少しだけ震える。そして何より、執着と諦念の間で地上からほんのわずか浮いたように漂泊するアントニオ・バンデラスがキャリアハイといってもいい表出で終始の圧倒。アルモドバル作品では今作に限ったことではないのだけれど、原色を中間色のように感じさせる色彩設計の妙が爛熟したポップの倦怠や退廃をつかまえてため息しか出てこない。ワタシがこの映画にどれくらい喰われたかといえば、それは『シングルマン』を異母姉妹としてしまいたいくらい。傑作。生きてさえいれば、また会える(「愛の行方」大貫妙子)
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2020年06月16日

ハリエット/ニューゲーム、ニュールール

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ナルコレプシーときけば色川武大の名前が浮かび、ひいては「狂人日記」にしたためられた幻覚と実存がひとりの人間の内部で繰り広げる共食いの極北を想い出してしまうわけで、してみるとナルコレプシーがそんな風に都合の良い天啓で事態を済ませてくれるものだろうかと訝しんでみたりもするものの、しかしついにはコロンブスまでもが粛清される時代とあっては新しい神話が可及的速やかに求められるのもむべなるかなと物分かり良くふるまってみたりもするのである。映画的神話としてはハリエット・タブマン(シンシア・エリヴォ)がまだミンティだった最初のエスケープをピークにすべてのスリルとサスペンスは“神懸かり”にとって代わられ、脅威の目と鼻の先でそんな悠長に愁嘆場を繰り広げてる場合じゃなかろうよと幾度となく気をもむも、ハリエットは次第に偉人伝の舗装道路をすいすいと進み始めていくわけで、その見晴らしを良くするためには、一見したところ複層的なキャラクターも他の邪魔にならないような単色でベタ塗りされてあるべき風景の中に調和するよう配置されていくわけで、ジャネール・モネイでさえがきわめて忠実かつ贅沢に一介の要員の役をこなして死んでいくのだ。そんな中、この神話が最後まで扱いかねたのが奴隷ハンターのビガー・ロング(オマー・ドージー)であったように思われて、農場主ギデオン(ジョー・アルウィン)に、そんなに稼いでおまえなんかが何に使うんだ?と皮肉を言われれば、白人の女を買って抱くんだよ!とやり返す当たり前の屈託を秘めつつも、なぜ彼が同胞を追い白人に差し出す稼業に身をやつしたのかといった彼の物語はかけらも語られることのないまま単なる醜悪な裏切り者として死んでいくのである。しかもその最期はマリーの復讐としてハリエットの手にかかることすらなく、ハリエットへの執着に憑かれたギデオンの手によって虫けら同然の退場を余儀なくされるわけで、おそらくそれは聖人ハリエットの手を同胞殺しで汚すわけにはいかないのだという舵取りによっているにしろ、自由か死を!とつきつけるハリエットの前にあってはその屈折した瞳の翳りなど言い訳にすらならなかったのだろう。ジョン・トールのカメラによる繊細かつ流麗な抒情と、テレンス・ブランチャードの静謐で神々しくすらあるスコアがハリエットのアジテートを力業で御言葉へと響かせて、今も昔も神は死を厭わないのである。
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2020年06月08日

ルース・エドガー/ファニーゲームU.S.A.

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「おれだって黒人だよ」「お前は大丈夫だよ、“ルース”だから」と交わされるルース(ケルヴィン・ハリソン・Jr)と白人の友人オリッキー(ノア・ゲイナー)の何気ない会話ですらが、おまえのような白人に比べておれたち黒人は世界から簡単に弾き出されるんだよ、だから俺だっていつかそうした目に遭うかもしれない、いやお前は(黒人でもない、もちろん白人でもない)ルース(という記号)だから大丈夫だ、そんな目に遭うことはないよ、というあらかじめ分断された手続きに則って行われるわけで、多様性や水平性の遂行という白人の側から差し出された理念を非白人の側が戴くことで成立する自由がいかに危うくて脆い共同幻想に過ぎないか、戦火の国で生まれ暴力の胎動を聴いて育った少年を自由と平等の国アメリカがその理念の遂行者へと改造するその実験が成果をあげればあげるほど、ルースは自由で独立した精神の乱反射するモザイクが引き裂くフランケンシュタインの怪物とならざるを得ないのである。それは白人であることの罪悪感がもたらす変形したノブレス・オブリージュなのか、エドガー夫婦が辿った道程が具体的に語られることはないにしろ、図らずもピーター(ティム・ロス)がエイミー(ナオミ・ワッツ)につきつけた「代償」という言葉が白人リベラルの本音とそれが規定してしまう限界を晒していて、それを否定できなかったからこそエイミーは善悪をかなぐり捨てて自罰的ともいえる行動をとったのではなかろうか。一方で黒人リベラルとして賢明に歴史と併走してきたハリエット(オクタヴィア・スペンサー)はルースにもその従順な併走を求めるわけで、この両極のリベラルたちがそれぞれにフランケンシュタイン博士となることでルースは怪物の哀しみと怒りに引き裂かれ続け、それはそのままアメリカへの愛憎でもあるのだけれど、劇中でついぞ見せたことのない剥き出しの形相を貼りつけたルースは、そのラストシーンで彼だけが知る道をアメリカという父殺しにむけて走りだしたように思うのだ。自由と独立を勝ち取るため、立ちはだかる壁をいくつもぶち抜いていくうちにその手段が目的化してしまい、その手段の先鋭を競うことそれ自体を存在の証にそれぞれが孤絶と分断にひきこもる世界がひた隠す疑問符こそがルース・エドガーという青年そのものであり、彼を理想の怪物という矛盾の王たらしめたに違いないと考える。これだけセンシティヴで際どい題材を、バッドシーズものとしての演出とサウンドのデザインでジャンル映画としての消費すら厭わず成立させてしまう懐と確信の深さには、ジョーダン・ピールが展開する教育的指導ホラーに通じる流れを感じるのは言うまでもなく、しかしそれは、アメリカの病巣がより日常的にカジュアル化したことの顕れともいえるわけで、それを理解と認識が深まったとするのか麻痺が進んだとするのか、いずれにしろ角を曲がればそこに地獄があることを世界中が知っている今日とあっては、もはやこのサスペンスを維持する脅威から誰も逃げることができない世界に生きていると知るべきなのだろう。かつて別荘地に沈んだナオミ・ワッツとティム・ロスの夫婦は再びの壊滅でサバービアに沈み、道連れに消えるオクタヴィア・スペンサーの正しくも切ない断末魔。そして何よりケルヴィン・ハリソン・Jrの、もはやオバマは亡霊なのだと言わんばかりのあまりにもスマートな憑依に胸がざわつく。
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2020年05月31日

隣の影/#stayhome

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いったいどこまでが本気なのか測りかねているうちに、気がつけばのっぴきならない状況で身動きが取れなくなっていく両家の総力戦に『ロリ・マドンナ戦争』を思い浮かべてみたりもして、70年代初頭のテネシーのヒルビリーな片田舎だろうが、現代の幸福度ランキングで上位に名を連ねる福祉国家アイスランドのサバービアであろうが、人間はどこまでもやるせなく寄る辺のない生き物であることだなあという嘆息に今さらながら包まれてしまうのだった。どちらの作品にも共通するのはある人間の死がバランスを喪失する引き金になっていることで、『ロリ・マドンナ戦争』では馬の事故で亡くなったフェザー家の三男の妻が、今作ではコンラウズ(ソルステイン・バフマン)の亡くなった先妻がそれにあたるように思われる。インガ(エッダ・ビヨルグヴィンズドッテル)と隣家コンラウズの先妻との関係が直截的に描かれることはないものの、後妻としてやってきたエイビョルグ(セルマ・ビヨルンズドッテル)に対するインガの感情は劇中のトラブル以前から好ましいものではなかったことがうかがえて、それはおそらく、長男が失踪(実質的な自殺)した喪失にとらわれ続けるインガにとって、さほどの時をおかずして後妻を迎えた隣家コンラウズと早速の妊活に励む夫婦の姿はそうした自身へのあてつけのように映ってもいたのではなかろうか。『ロリ・マドンナ戦争』では息子の嫁の悲劇的な死によって屈託に捉われはじめた父親が土地の所有権争いによってその精神のバランスを決定的に失っていくわけで、対称/対照となる隣の芝生のその色が日々の地獄を悪化させる構図は、隣家や隣人を選ぶことはできない社会生活の地政学的なストレスへの暴力的な共感をうかがわせて、こうした題材への覗き見的な昂奮を禁忌のように誘いもするのだろう。そしてまた、『ロリ・マドンナ戦争』における三男と人質女性の恋模様がそうであったように、基本的には横並びのストーリーを立体的にするための縦軸として、インガの次男アトリ(ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン)の離婚騒動がインサートされていくのだけれど、彼の情けなさとだらしなさの理由を長男(=アトリの兄)の喪失に求めるあたりで、さすがにそれは都合の良い言い訳に過ぎるのではなかろうかと思わせたのち、いつしかアトリなりの諦念を浮かび上がらせたところであの幕切れが訪れることとなり、すべてが終わった後でふと気づいてみれば生き残った3人はすべて女性で、それに引きかえ男たちはまったく華々しいところのないまま無様に退場していくわけで、正真正銘のラストショットで待ちわびたあれがスッと現れた瞬間、日本語ではあの男たちの死にざまを犬死(!)と言うんですよと監督に伝えたい衝動で胸がいっぱいになったのだった。
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2020年05月23日

ザ・ハント ナチスに狙われた男/そして私が逃がした男

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「こういう時こそ心で行動するのよ」息も絶え絶えのヤン・ボールスルド(トマス・グルスタッド)をかくまったグドゥルン・グロンヴォル(マリー・ブロックス)は、関わり合いになるのを嫌がる家族に向かって毅然と言い放ち、この映画で描かれたノルウェーの人々が示したレジスタンスのスピリットを代弁してみせるのである。ナチス占領下におけるノルウェーの破壊工作員ヤンは、12人の仲間と共にナチスの拠点破壊の任を受けるも失敗し仲間たちが捕らえられた中、ただ1人拘束を逃れ中立国スウェーデンへの脱出を試みる。では破壊工作に失敗し、かといって何らかの機密事項を手に入れたわけでもないヤンをナチス親衛隊の少佐クルト・シュターゲ(ジョナサン・リス・マイヤーズ)はなぜ執拗に追跡するのか、それまでノルウェー工作員の破壊工作を圧倒的に制圧してきた少佐にとって、ヤンは上手の手から漏れた水であり彼の完璧主義を傷つける道端の石ころなわけで、それすなわち裏を返せばノルウェーの人々にとってヤンはナチスの非道と傲慢を嘲う自由の象徴にちがいなく、ヤンが無事スウェーデンに逃げ切ることは彼らにとっての勝利に他ならないということになる。過酷な雪山を身体一つで逃げ続けるヤンが次第に消耗し、壊疽の始まった足を抱えて身体の自由が利かなくなっていくにつれ、行く先々で出会うグドゥルンの様な人々が彼をまるで自由を照らす松明のように掲げてはリレーしていくわけで、手を貸したことがナチスに知られれば命も危ういにも関わらず、我が身の危険をかえりみることなく手を差し伸べる人々こそが真の英雄であったことを、彼や彼女たちのその無私の微笑みを、戦争では善い人から死んでいくのだという苛烈なサスペンスへと変換しつつ、そこに暮らす雪の白さに反射する光のきらめきを希望へと映すことで描いていく。と書いてみると、何やらヒューマニズムの火照りが雪をも溶かすドラマのように聞こえはするものの、ヤンを松明とするため彼の自由を削いでいく容赦のない手続きは時折ホラーの様相を呈したりもするわけで、雪崩につかまって叩きのめされるシーンや壊死し始めた足の指を自分で切り落とすシーン、遠く離れて捕虜になった仲間が拷問を受けるシーンなど折々で体感温度を下げる作業を監督が怠ることはなく、それはヤンを狩り立てる親衛隊少佐シュターゲの描き方にも見て取れて、塩分濃度ゆえ水温が氷点下に達するフィヨルドに逃げた人間が果たして生命を維持できるのかどうか、それを知るため捕虜を片っ端から水中に追いやるも衰弱した人間ではその判断がつかないと見てとるや、シュターゲは時計片手に自ら水中に足を踏み入れていくわけで、そんな風にしてヒトラーに捧げることでしか持ち得た合理と知性を発揮できない男の狂気と哀しみが、この追跡劇に絶対零度の奥行きを書き加えていくこととなるのである。これがフィクションならば、回復しグロンヴォル農場を訪れたヤンの姿とそれに気づいて瞬時に顔をほころばせるグドゥルンのショットで幕を閉じるところが、エピローグに流れる「グドゥルンが結婚したのは20年後だった(Gudrun eventually married 20 years later)」というテロップが現実の素っ気ないままならなさを伝えては、彼女の微笑みとまなざしが切なく思い出されて仕方がなかったのだ。もしそれを「結局は」と訳すなら、”eventually”という副詞にしのばされた彼女の物語がこの映画を少しだけ淡く哀しく染めている。
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2020年05月15日

第三夫人と髪飾り/あした殺られる前に

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「どうか私に息子を授けてください。この家で最後の男の子を。」14歳にして地主の第三夫人となったメイ(グエン・フオン・チャー・ミー)は、ありったけの知覚と本能とを動員して導いた答えを、そのまま呪いともいえる願いとして仏堂に祈るのである。しばしばインサートされる蚕は、子供を産むこと、それも世継としての男子を産むことを求められる彼女たちの、人生を共にする一人というよりは替えの効く匿名的な妻としてのみ存在する、二の矢三の矢としての一夫多妻制が示す一方的で酷薄な合理性の象徴ともなっている。それと同時に、最初の結婚が社会的力学の結果として行われた場合、夫にとっての人生の彩りとして新たな妻を迎える側面もあるのだろうことは、第一夫人ハ(トラン・ヌー・イェン・ケー)の長男ソン(グエン・タイン・タム)の悲劇的な婚姻にも見てとれて、そうやって他者の感情を粉砕する経験の積み重ねが主人ハン(レ・ヴー・ロン)のまとう茫漠としたアパシーの厚みを増していくのだろうことがうかがえる。この主人を記号的な悪人と描いて観客の感情を誘導しなかったのは、監督にとっては物語の綴りよりも全体的な女性性の搾取のシステムを浮かび上がらせることが本意だったのだろう。水と光と植物の織りなす生命の息吹は同時にメメント・モリの企みでもあり、トラン・ヌー・イェン・ケーの佇まいと、エンドクレジットで目に止まる美術監修トラン・アン・ユンの名前に、土着を漂白することでノスタルジーやセンチメンタリズムを現代の地続きへと再構築するモダンの正体が見てとれた気がしていて、監督のこれら題材への直情に批評性をもたらす手管を貸している。とはいえ、それによってフォーカスされたものとスポイルされたもののバランスという点で、デビュー作ゆえの暴走と遁走がもたらす爪跡は少しばかり甘く優しいように思ったのが正直なところ。『青いパパイヤの香り』にあったざわめくような「手つき」への官能が、その料理シーンの実践も含めフェティシズムを欠いていたのもその要因か。さすがにトラン・ヌー・イェン・ケーだけはそれを分かっていて、彼女の手だけは一匹の生き物のように這いまわっていた。
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2020年05月08日

チャーリー・セズ マンソンの女たち/世界は終わらない

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あの時ほうきを投げ捨てて階段をほんの少し駆け降りさえしていれば、私の髪は長いままだったのではないか…、という叶わぬ妄想を叶えてみせたのが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だったことを想ってみれば、1969年8月はサマー・オブ・ラブの終焉というにとどまらないアメリカのイノセンスが永遠に昏睡した瞬間としていつまでもあり続けるのだろう妄執をあらためて知らされることとなるわけで、ここではシャロン・テートを救いだす代わりに、父親たちの支配する国アメリカで繰り返される父殺しの企てと、その敗北がもたらす怨嗟の犠牲となる女性たちの地獄が産み落とした私生児としてのマンソン・ガールズをメアリー・ハロンは取り上げてみせる。悪魔(=チャールズ・マンソン)崇拝の殺人者ではなく環境の犠牲者としての彼女たちに向き合うカーリーン・フェイス(メリット・ウェヴァー)は、ルル=レスリー・ヴァン・ホーテン(ハンナ・マリー)を突破口に彼女たちの洗脳外しを試みるのだけれど、エド・サンダースの著作「ファミリー」をベースにレスリーの視点を通してチャールズ・マンソンのポートレイトが描かれる回想シーンが、無垢の蹂躙をエゴからの解脱と幻想させるマンソンの手口とその生贄としてのレスリー、という計算された(もしくは手垢がついたといってもいい)構図をはみださないこともあって、現在地で対峙するカーリーンとレスリー、ケイティ=パトリシア・クレンウィンケル(ソシー・ベーコン)、セイディ=スーザン・アトキンス(マリアンヌ・レンドン)との間に生じる関係もまたカーリーンが“犠牲者”に抱くメランコリーに覆われたままその中へ仕舞われてしまう点で、1969年のレスリー・ヴァン・ホーテンがどこからやってきてどこへ消えていった女性なのかがお仕着せのまま終始したように思えてしまうのだ。中盤、スパーン・ランチに連れてこられた名もない女性が、バスタブから全裸で立ち上がって出迎えるチャーリーに「下品だ、あんたみたいな男に近づくなと父親に言われた」と吐き棄てて「豚みたいな顔をしたその女をパパのところへ送り返せ」と追い払われるシーンは、チャーリーが新顔の女性を籠絡する時にたびたび口にする、自らを「新しいパパ」とするイメージとの交錯において印象的なのだけれど、映画はそれ以上分析的になることもないまま、チャーリーに追い払われた女性とレスリーとを分けた“環境”を、カーリーンにとっては環境の犠牲者であるはずの彼女たちに見出すそぶりもなかった点でいささかもどかしくもあったのだけれど、レスリー・ヴァン・ホーテンのプロフィールを調べさえすれば容易に知り得る彼女があらかじめ備えた喪失と欠落からすれば、劇中の彼女にデザインされたマンソンの無垢なる生贄としてのイメージは、カーリーンがというよりはメアリー・ハロンによるいささか感傷的でファンタジックな設計がそうさせたということになるのだろう。そうやって筆を進めるにつれマンソンに囚われ始めたのか、マンソン・ガールズを彼に拮抗させるためのストーリーがやや強引かつ類型化し始め(例えば鹿革のくだりなど)、それに連れ現在地のカーリーンがストーリーから弾かれて舵を与える余裕がなくなっていった点でメリット・ウェヴァーの役不足を思わざるを得ないし、マンソン史観の更新よりはカーリーンとマンソン・ガールズとの神経戦にフォーカスされた物語こそを見たかったのにと口を尖らせてみたくもなったのだ。それだけに、メアリー・ハロンによるチャールズ・マンソン(マット・スミス)の仕上げには特筆すべき巧みさがあったものの、それがストーリーにおいて機能し始めた途端、理解可能な怪物として矮小化されてしまうことでマンソン・ガールズはもちろん彼女たちに対峙するカーリーンの屈託までもが共感可能な存在へと後退してしまうわけで、結局のところ彼女たちがなぜ凄惨な殺人を行うに至ったのか、理解できないということを理解したというトートロジーへの抗いとして、レスリーの抱くオルタナティブな悔恨で幕を閉じるしかなかったのはメアリー・ローハンの誠実な白旗だったのだろうと思っている。
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2020年05月02日

ある女流作家の罪と罰/わたしを許さないで

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逃げ続けるストリート・スマートとしてのジャック・ホック(リチャード・E・グラント)と、破滅的なブック・スマートとしてのリー・イスラエル(メリッサ・マッカーシー)がニューヨークの街角でほんの一瞬踊った叶わぬ夢は、それが恋愛のざわつきから完全に解放された2人であっただけに、最期にたどり着いた友情の欠片はそこに映されることを世界が望むような静かでやわらかなカタルシスを湛えてみせて、なんだか『真夜中のカーボーイ』のことなど想い出してみたりもしたのだ。おそらくは自分の物語を解き放つことの怖れから他人の人生を間借りして物語の代用としてきたのだろう伝記作家としてのリーにとって、手紙の偽造という行為はいつしか、実際には書かれなかった人生の物語のその先を夢想する行為へと手段と目的が逆転していくわけで、数百通にもおよぶそれら犯罪行為が、それが彼女のセクシュアリティによるものなのかその根っこを描くことはしないものの、彼女を苛み続けた様々な不安障害を癒すセラピーとして機能していく皮肉と希望の精密なバランスが、頭ごなしではない多様性が祝福する人間賛歌としての余韻を隅々まで沁みわたらせていたのは間違いない。そんな風にしてこの映画がオフビートなピカレスクにとどまらないのは、リーが闘わなければならない自分自身のメランコリーを俎上にのせて切り刻むことを避けないからで、古書店主アンナ(ドリー・ウェルズ)とのディナーが初デートの色を帯びていく時の逡巡と混乱、そしてリーがリーであるがゆえの拒絶が染めるアンナの哀しみと、かつてのパートナーであるエレイン(アンナ・ディーヴァー・スミス)が突きつけるこれもまたリーがリーであるがゆえの拒絶がとらえるリーの哀しみが織りなすハーモニーが、孤独をよく知りつつも孤絶が時に耐えがたい人生のままならなさに淡く美しい陰影をつけていくわけで、法廷での最終陳述で自ら落とし前をつけてみせるリーにあふれだす、彼女がずっと内にしのばせてきた真の知性が人間の形をとっていく瞬間に差す浄化の光は神々しくすら映ったのだ。一見したところストック・キャラクターとしてのマジカルなゲイに陥るかと思われたジャックではあるけれど、彼が誇示するマイノリティの尊厳とプライドだけでなくその内部に隠す傷や痛みに共振することでリーが変質していく構造に、バディ・ムーヴィーとしての『真夜中のカーボーイ』が浮かんだのだろう気もしている。役者が役を求め、役が役者を求めた時の完全がここではメリッサ・マッカーシーとリチャード・E・グラントの2人に同時に起きていて、永遠の光が射したような別れのシーンはほとんど天上の出来事にすら思えた。ブライアン・フェリーで始まりルー・リードで終る挿入曲の配置に至るまで文句なしの何よりニューヨーク映画の傑作。
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2020年04月25日

ルーベ、嘆きの光/鞭の血

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ルーキーのルイス(アントワーヌ・レナルツ)に「犯罪者を見分けることができますか」と尋ねられた署長ダウード(ロシュディ・ゼム)は、「ああ」と即答し「彼らのように考えてみるんだ」と笑わない目をした笑顔で続けるのである。87分署シリーズのようにルーベ中央警察とそこで働く警官たちの日常を群像劇のように活写する前半から、ある老女殺しの捜査へとフォーカスされていく後半の流れの中で一貫するのはダウードのソリッドな屈託の立ち方で、光と闇、清と濁、そのどちらにも俺は首までつかってきたのだというプラグマティストぶりは、いかにもデプレシャン的な事物を断定しないことを断定するトートロジーの冷ややかな熱気をその目に帯びて、断片的に描かれる彼の背景に見え隠れする対人関係の不幸は、彼が唯一笑顔を向けるのが競走馬に対してだけであるというその描写が無言で裏打ちをするわけで、老女殺しの犯人を特定して追い詰め自白させ逮捕した終盤、子供と引き離されて収監されるクロード(レア・セドゥ)の蒼ざめた貌と、引き離されたクロードの名前を呼び続けるマリー(サラ・フォレスティエ)のショットから一変して、彼女たちの嘆きや哀しみは俺が今まで見てきたいつもの一つに過ぎないとばかりダウードが心を泳がせる競馬場のショットをラストカットにするデプレシャンのニヒルは、ダウードのやわらかく穏やかな物腰がそれを目眩ましながらも相当にとりつくしまがないのだけれど、原題の”Roubaix, une lumière”を「ルーベ、ひとつの光」とでもしてれみれば、不眠症のダウードはルーベの光と闇を采配する常夜灯ということになるのだろう。一方でルイスは、常夜灯が作り出す光と闇の境界を綱渡りする不安に苛まれる者として描かれるのだけれど、その一切をモノローグで描いてしまう手っ取り早さゆえなのか、ダウードへの批評的なカウンターに成り得ていない強度の曖昧さが惜しまれる。それとは対照的にクロードとマリーのカップルは、レア・セドゥとサラ・フォレスティエの強靭なパフォーマンスがファイティングポーズを維持しつつも、ダウードが均す地政学的ローカルの見せしめとして一蹴されてしまう点で役不足を否めずに終わってしまった気がしている。やはり地政学的ローカルの憂鬱を描いた『レ・ミゼラブル』とは真逆の文法で描くことで獲得された(ようにみえる)詩情は一見したところ希望の灯りのようにも映るけれど、ダウードに倦怠をもたらしているのは父権の垂直性に対する水平性の侵食にも思えてならず、となればあのラストカットの先に夢想するのはダウードの愛する馬がアクシデントで廃馬となる未来であって、そうした不健全な収支のメランコリーに囚われたダウードがデプレシャンそのものに思えた点においてこの映画は成功したと考える。
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2020年04月19日

殺し屋/お前を請け負いたい

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初めて部屋に来たソフィー(ファムケ・ヤンセン)が、おそらくは先立たれた亡き妻であろう写真を目にとめて「あれは誰?」と尋ねると、アッシャーはワイングラスを片手に目を伏せ「人生の犠牲者だ」とつぶやくのである。ちなみに「おれは料理をする。毎晩8時に料理を作る。明日は2人分作っておく。来ればうまいものが食える。」と口説いた末の話である。老境に入りつつある殺し屋アッシャーは、仕事の流儀のみならず日々の生活においてもストイックで洗練されたスタイルを好みつつ、殺し屋という職能と人生の翳りがクロスする時期を迎えおのれと向き合うことを余儀なくされるというその設定からすれば『ラスト・ターゲット』のような実存の苦味ばしったトーンに覆われてしまってもおかしくないのだけれど、なにしろここでアッシャーを演じるのがジョージ・クルーニーではなく、リー・マーヴィン・コネクション(トム・ウェイツ、ジム・ジャームッシュ、ジョン・ルーリー)の用心棒のような風体の、大型犬の人懐こさと所在のなさを持て余す歩く違和感たるロン・パールマンなものだから、前述したような鈍色の艶を持つセリフが抑制の効いたミニマルなショットの中でその口から吐き出される時のペーソスが親密なオフビートを自動生成するようにも思え、さすがにジョージ・クルーニーとまではいかなくても、相手役がファムケ・ヤンセンということなら仮にリーアム・ニーソンをそこにあてはめてみた場合とりとめのないクリシェと感傷に流れてしまうところが、ロン・パールマンがそこにいるだけでパースとビートが変調する仕掛けとなっているわけで、それもこれも、ロン・パールマンと言う俳優のパブリックイメージでアテ書きをしない造型と演出の徹底によっているのは明らかで、とはいえこれがプロデューサーに名を連ねるロン・パールマンが10年以上あたためてきた企画であったことを知ってみれば、本人は単にド直球の二の線でタイトルロールを演じてみたかったに過ぎずこのテイストは狙った着地ではないと考えるのが自然で、となればそこに名バイプレイヤーの業や屈託を見てしまった気もしたのであった。実はアッシャーを覆う落日のメランコリーに誰よりも共振したのが監督のマイケル・ケイトン=ジョーンズにも思え、手広い商いができなくなった分だけ職能の純度と輝度をコンパクトかつ高密度に仕立てた手さばきはまったく悪くない。おそらくロン・パールマンだけはそう思っていなかった泣き笑いのノワールに最後の最後で捉まるラストカットで星が1つ増える。
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2020年04月13日

ロスト・マネー 偽りの報酬/私はあなたたちの妻ではない

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これまでずっと男たちが、益体もない夢を見るロマンのうわ言やたわ言として繰り返してきた強盗という行為が、ここでは彼女たちそれぞれが一人の人間として独立と自尊心を手に入れるための手続きへとその質量を加速度的に変えていく。妻という立場に隷属することでずっと自らをスポイルしてきたこと、そしてそれを常に働きかけてくる世界に生きていること、彼女たちはアウトサイダーとして放り出されることで次第にそのくびきから解き放たれ、自分の足で立って歩き必要なら引き金を引かねばならない日々のスピードに、目つきを絞り拳を握ることで自分を乗りこなし急カーヴに突っ込んでいく時の身震いが、それぞれの殻を静かにひび割っていく。そうやってピカレスクをある種のビルドゥングスロマンに染めていく語り口は特にアリス・ガナー(エリザベス・デビッキ)の場合において鈍色に輝き、夫フロレック(ジョン・バーンサル)が設えたDVと共依存の鳥かごに生きる小鳥でしかなかった彼女が、そこから飛び出た自由に困惑しつつ次第に自意識とプライドが羽ばたき始めるその姿には、彼女がこの物語の実質的な主人公であったといってもよい血の逆流が透けてみえたように思うのである。リーダーとしての強面を演じるしかないヴェロニカ・ローリングス(ヴィオラ・デイヴィス)が心折れた瞬間、その生き方や教養においてそれまで自分を見下していた彼女を、わたしたちは共にこの社会に生きる女だからあなたの涙がわかるのだと優しく抱きしめるアリスの切羽詰まった覚醒にいっそう胸を打たれてしまうし、そうやって彼女たちが光を求めて反転していく決断と行動が、社会に潜む分断を引きずり出してはそれをそっと繋げたり完膚なきまでに断ち切ったりしていくわけで、このあたりの群像劇としての鮮やかな立体化と、最後まで独善に陥ることをしない弱者のひりつくような内爆は、それぞれスティーヴ・マックイーンの渇いたモダンなブルースとギリアン・フリンがしのばせる血の味の巧妙なブレンドがそれを可能にしていて、特にスティーヴ・マックイーンにおいて今作が最高傑作となったことは間違いないように思う。血だろうが涙だろうが、それが私を縛る鎖ならすべて流れ出してしまえばいいのだと歯を食いしばるヴィオラ・デイヴィス、ミシェル・ロドリゲス、エリザベス・デビッキ、シンシア・エリヴォの4人に圧倒されつつ、クズを演じるリーアム・ニーソンの半開きになった口元が卑しくてとてもうなずける。『オーシャンズ8』には視えなかった世界、もし視えていたとしても手の届くはずのない世界がすべてここにあったことを思えば、劇場公開を中止した20世紀フォックス(当時)の正気を疑うとしか言いようがない。
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2020年04月06日

囚われた国家/いつかどこかの誰かのために

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※展開に触れていますが、侵略SFものというヴィジュアルイメージの向こうにあるのは、監督が参照を公言した『影の軍隊』『アルジェの戦い』の系譜に連なる自由をめぐる闘いのヴィジョンであって、その2作の名前を上げたのが決してハッタリではないことだけは記しておくので、いろいろと困難な状況ではあるけれどチャンスのある人には是非にと薦めておきたい。

平和と団結、そして調和。為政者が掲げるこの言葉の甘美な響きがどれだけの自由と尊厳を搾取してきたことか。それらの示すところはあくまで目的への手段でしかないにも関わらず、真の目的であるはずの人間の自由と尊厳の獲得が全体主義の達成のため為政者に利用され打ち棄てられるディストピアが、目の前のスクリーンからこちらの世界線へと侵食してくる時の被虐めいた共感の昂ぶりに抑え込まれて気がつけば身動きがとれなくなっていく。狂信も狂熱もない昏い目つきをしたレジスタンスが押し黙ったまますべての感情を行動へと変えていくその姿を神経症的にストイックなカットで立体化していくそのヴィジョンには、いつしか切れば血が噴き出るほどのロマンが宿り始め、それは人間性の復権を賭けた、ここではないどこかへの夢想ではない、この先にあるはずの自由と尊厳の場所へ向かう礎となる覚悟と歓びであっただろうことが、ラストカットのウィリアム・マリガン(ジョン・グッドマン)のマスクに覆われた瞳の中に瞬きはしなかっただろうか。ジェーン・ドウ(ヴェラ・ファーミガ)の部屋に掛かった絵を見逃しさえしなければ、この物語にしのばされた片道切符の疼くような手触りに想いを寄せることで、支配する者と服従する者の爛れた共生にあってその埒外を死者として歩む生者のメランコリーが発火する焔に心奪われる愉悦も許されるように思ったのである。「マッチをすり、闘争に点火しろ」というスローガンが示すとおり鏡像としてのレジスタンスとテロリストという構造を借りつつ、ルパート・ワイアットはその闘争をテロリストの暴力ではなくレジスタンスの意志として描いていて、それまでの感情を徹底的に殺して抑制したトーンから、全体主義が蹂躙して亡きものとした自由への感傷が決壊する終盤のたたみ掛けは、為政者についた者たちとの分断はすでに埋めることが不可能だという認識を否定していない点で内戦の予感すらをうかがわせ、スマートフォンとアナログモデム、廃棄された巨大ロボットとCRTディスプレイといった過去と未来の混在する世界はSF映画というジャンルを借りた告発と警告の目くらましとなって、まるでこの映画自体が「フェニックス」の符号にようにも思えたし、その「未来」に向けてアクセルを踏みこんだルパート・ワイアットは、ブレーキを踏みたければそれはもう自分たちで作ってくれという確信を隠しもしていないのである。支配と服従のシステムが負の永久運動のように機能すればするほど服従者は自律した番犬と化すというそれが、人間の普遍的に持ちうる資質なのかもしれないことはあたりを見回せばうなずくばかりで、気がつけばこんな遠くまで来てしまっているワタシたちは、いつからかとっくに彼方へとアクセルを踏みこんでしまっていたのだろうか。『裏切りのサーカス』が東欧ディストピアで繰り広げた、銃もカーチェイスも爆破もまったく必要としない“所作”による攻防がたびたび頭をよぎるくらい神経戦のスリラーを堪能しつつ、そこには蛇蠍の如く嫌われないジェームズ・ランソンに沁み入るという望外の愉しみまでも可能なこの傑作を、不要不急な生を生き延びる人のために。もしいまもフィリップ・シーモア・ホフマンがいたならば、監督は彼をマリガンに据えただろうか。
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2020年04月03日

デッド・ドント・ダイ/死者には何もやるな

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スクリーンに、ビル・マーレイ、アダム・ドライヴァー、ティルダ・スウィントン、クロエ・セヴィニー、スティーヴ・ブシェミ、エスター・バリント、イギー・ポップ、サラ、ドライヴァー、RZA、トム・ウェイツといった名前が浮かんでいくオープニング・クレジットを観ているだけで、そういう言葉があるのかどうかは知らないけれど、Personal Correctnessとでもいう、これがワタシにとっての正しいもの、善いもの、間違いのないもの、迷ったらここに帰ってくればいいのだという感覚でなんだか胸がいっぱいになってしまう。それから先は、あくまでも自虐のシニカル、ミニマルで涼やかな諦念、優雅な引きつりと緩やかな軋轢を散りばめながら、それらを永遠の青春ともいえる清潔な屈託でつづれ織りにしていくわけで、その総称がワタシにとってのオフビートということになるんだろう。そのデビューからずっと、ジャームッシュに脈打っているのがビート・ジェネレーションのスピリッツであること、そのbeatとは当時のアフロ・アメリカンがbeaten down(=打ちのめされる)の意味で用いたスラングであったことなど思い起こしてみれば、beatをかわすという意味でのオフビートがより反逆の意匠として立ち上ってくるように思うわけで、ジャームッシュがほぼ40年に渡ってその闘いを続けてきたことに今さらながら勇気づけられて、ワタシにとって何ものにも代えがたいその一つの筋が先ほどのPersonal Correctnessということになるのだろうし、ジャームッシュの映画を観るということはその大切な感覚を自分の中に確かめる手続きであることをあらためて確認させられたのだ。それに加えて、まるでエヴァがあのまま健やかに年を重ねたようなエスター・バリントに心を絆されたせいなのか、セレーナ・ゴメスとオースティン・バトラー、ルカ・サバトたち3人の水平な佇まいがアップデートされた『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のトリオのようにも思えたし、通りを歩き始めたティルダ・スウィントンをカメラが横移動で追い始めた瞬間、思わずエヴァ!と胸の内で掛け声を飛ばしてみたりもしたわけで、こういう時だからなのか、そんな風に映画に甘えてみることの歓びが思った以上に身に沁みて、映画館の暗闇に身を沈めることが不要不急とされてしまう世界の不幸をいっときとは言えふりほどくことができたのは、実質的な主役といっていいゼルダ・ウィンストンという役名のティルダ・スウィントンのレポマン的無双が、追いすがるそれを気合いもろとも斬り捨てくれたからに違いないのだった。
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2020年03月30日

ナイチンゲール/わたしの鳥はうたえる

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※極めて真摯で誠実な映画ではあるけれど、女性や子供に対する苛烈な描写があるので注意は必要かと。

クレア(アイスリング・フランシオシ)にとどめを刺されるジャゴ(ハリー・グリーンウッド)が最期に絞り出した「お母さん」という一言が、子供を殺された母としてのクレアに、私はいまその「お母さん」の子供を殺して奪ったのだという事実を正確かく無慈悲に伝えることとなる。誰かを殺すということは、どこかの母親のその子供を殺すことに他ならないのだという成り立ちに復讐の引き金を引けなくなったクレアが、女たちと子供という存在の弱者を暴力の餌にすることで肥え太る男たちの象徴ホーキンス(サム・クラフリン)を銃もナイフも使うことなくむきだしの理性で告発するに至る道のりは、クレアのいる世界それ自体がビリー(バイカリ・ガナンバル)にとっては酷薄な暴力装置でしかないことを知っていく時間でもあり、その共感と理解から始まる物語こそがジェニファー・ケントの求めた答えだったのだろうし、そしてその代償もまた暴力で支払われるこの世界への怒りと哀しみを、絶望に陥ることなくどんな風な色や形にかえていくことができるのか、それこそがジェニファー・ケントにとっての映画を撮る動機に他ならないのだろう。クレアを襲う被虐の描写からは正視に耐えない瞬間を切り離せなかったりもするけれど、暴力の向こう側へ行くには暴力そのものをくぐっていくしかないのだという監督の歯を食いしばった決意が、その痛みや恐怖をも彼女の生として真摯に伝えていた点で、たとえば『ブリムストーン』の残酷ショウとは似て非なる時間であったことは言うまでもないし、復讐の快感がそれらを覆い隠してしまうことのないようクレアとビリーの道行きをホーキンスたちのそれと繊細かつ綿密に対照させていく中盤以降は、荒野の誘惑を光と影の両面から描くことで侵略者の罪と罰を浮かび上がらせて、その性と人種を断絶する支配の歴史と構造をクレアの眼差しに刻んだラストが、既に目撃者となったあなたたちは知らぬふりなどできないのだとを告げていたように思うのだ。そしてなにより、それらすべてを言葉の説明に頼ることなくすべての人物の相貌や眼差し、身体の角度や速度といった身のこなしで語っていく演出の雄弁が映像の芳醇を呼び出して、乳幼児が惨殺されアボリジニが吊るされる道行きでありながら、詩情とすら言えるひそやかな息づかいと静謐なゆらめきが終始途切れることがなかったのである。視なければわからないことを視ればわかるように成立させること、すなわちそれこそは映画の必然ということになるだろう。彼を育てたマチズモの鞭が裂いた傷から入った毒で、奥底まで腐ってしまった男を演じたサム・クラフリンが暗くて深い闇の底に触れていて、彼とアイスリング・フランシオシ、バイカリ・ガナンバルの三者が織りなす誘爆のアンサンブルを狂熱の目つきで下支えしている。
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2020年03月23日

テリー・ギリアムのドン・キホーテ/リドリー・スコットにならなかった男

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オリジナル版では17世紀にタイムスリップするはずのトビーをせいぜいが十数年前の記憶の中へ呑まれていくにとどめる改変に、コスチュームプレイをやりきる予算も自身の胆力も既にあてにならないがゆえ、そこで手を打つしかなかったのだという戦術的撤退が瞭然と透けてしまうし、トビーというよりは彼を演じるアダム・ドライヴァーの肉体とアクションの存在感を頼りに、シナリオにはトビー怒る、トビー困る、トビー笑う、トビーバイクに乗る、トビー歌う、トビー踊る、トビー走る、トビー殴る、としか書かれてないのではなかろうかと思ってしまうくらい、どんなカットにもギリアムの情報が記されてきた彼の作品にしてほとんどアダム・ドライヴァーの記憶しか残っていないことに、『バロン』を終わりの始まりとするテリー・ギリアムの緩慢な終焉の物語がついに幕を閉じた気もしてしまうのだ。もはや想像力で闘うことを鼓舞するよりは遁走をすすめるモードにあることは『ゼロの未来』でもうかがえたとはいえ、すべてはこの物語のための雌伏の時なのだろうと考えた時期もあっただけに、我々は昏睡に見る夢の中で生きて行くしかないのだとするラストが洒落や諧謔でない心情に映ってしまうのが、もう俺をあてにしてくれるなというギリアムからの訣別にも思えてしまったのはともかく、それを特に感慨もなく受け入れた自分とそれを意外に思わなかったこと自分に少しだけ驚いたりもしたのだ。本来がストーリーテラーというよりは幻視の人で、この物語の時代、しかもそれがポストを果てなく重ねて透け始めたモダニズムが実体化のために求めた側(がわ)の物語とあっては、ロマンチストたるギリアムが徒手空拳となるのは必至だし、それゆえの妄執にも似たドン・キホーテへのシンパシーを抱きつつもうどこにも先がないことを受け入れる負け戦のロマンを謳おうにも、哀しいかな肉が落ちて痩せぎすの映像は自虐のメランコリーにしか映らなかったのだ。これで憑き物が落ちたとして、ギリアムにとっては『ローズ・イン・タイドランド』がセルフパスティーシュに陥ることなく時代と折衷できる幻視のサイズだと思っているので、撤退するならそちら方面を目指してくれればとその幸福を願ってやまないのである。デ・パルマもそうだけれど、ロマンチストかつヴィジョニストにとっては受難の時代であることはまちがいないだけに。
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2020年03月20日

ジョン・F・ドノヴァンの死と生/ぼくの次に世界が幸せになりますように

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ラストシーンでの無邪気と言ってもいい憧憬にあふれたタンデムに、ドランがこれまでの作品でしたきたように自分を切り刻んで投影させることよりはフィクショナルな主人公の行動と感情によって翻訳された物語を綴ること、すなわち外の世界を借りることで内の世界の強度を高める汎用的な作家性の獲得を先駆者ガス・ヴァン・サントをモデルに果たそうとする視点を見たようにも思えたし、そう考えてみればこの映画の外と内、青と赤、冷静と熱狂の歪なバランスの理由が納得できるような気もしたのである。いつになくプロフェッショナルな記号をまとった役者を配置してその側(ガワ)によって虚構を均しつつ、しかしそれをコントロールしてしまう自分を自分で信用できないせいなのか、ところどころそれを自ら踏み荒らさずにはいられない自分に向けた意地の悪さが映画をあちこちで断ち切ってしまっていて、とりわけ、ジャーナリストであるオードリー・ニューハウス(タンディ・ニュートン)が成人したルパート・ターナー(ベン・シュネッツァー)にインタビューする現在パートの座りが最後まで落ち着かないままで、本来は政治がメインの“シリアス”なジャーナリストが、ハイプなショービズ絡みの仕事を見下して気乗りのしないまま彼に向き合うという設定が既にオードリーの不利を誘っていて、その瞭然を当然のように見抜いたルパートが、個人の尊厳が踏みにじられるという点であなたが取材してきた世界の格差と僕のこの話のいったい何が違うというんだとここぞとばかり責め立てるわけで、このあたりは、これまで極めてパーソナルな表象としてそうした差別と断絶を描いてきたドランの鬱屈をぶちまけていたように思えてしまうし、ジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)とルパートに立ちふさがるのが、ジョンの母グレース(スーザン・サランドン)や彼のマネージャー(キャシー・ベイツ)、ルパートの母サム(ナタリー・ポートマン)、そしてジャーナリストのオードリーといったみな女性たちであって、これまでずっと母殺しとしての母親との関係が作品の背骨となってきた定型に対する批評からの指摘に向けた回答なのか開き直りなのか、そのいささか偏った対立構造が、目指したはずの普遍化を妨げてしまっているようにも思えてならない。しかもこれに加えて、出演パートがすべてカットされたジェシカ・チャスティンまでが女性連合に加わっていたわけで、彼女の役がルパートやジョンのどちら側にどんな風に立つ人なのかはわからないけれど、どうせ破綻するのであればそのさらなる爆風に吹かれてみたかったと思ってしまう。すべてはオードリーを前に自分とジョンの過去を語るルパートの回想であることを思ってみると、果たして彼は信頼できる語り手なのかという疑念も湧いてくるわけで、このすべてはルパートがそうあって欲しいと願い再構築したジョン・F・ドノヴァンの死と生の物語だとすれば、女性たちのいささか一面的で図式的な描かれ方にもうなずける気がするし、ジョンをある種のイマジナリーフレンドとすることで自身の尊厳を維持し続けたルパートの旅立ちと訣別の物語だと考えてみると、外の世界に向けて走り出す幸福の予感だけに彩られた明快なラストに拍子抜けすることもないわけで、それはおそらく、自分には開かれたハッピーエンドを語ることが可能なのだろうかというドランの実験結果ということになるのだろうし、ならば必要なデータは充分採ったように思う。ほとんどセリフすらあたえられないジョンの仮初めの彼女はその傷を誰が癒やすのか。ドランがすべての人たちに血を通わせてしまう分だけ残酷は捨て置かれる。
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2020年03月15日

レ・ミゼラブル/大人たちを夜露死苦

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ワールドカップの優勝に歓喜する人々を、その感情の奔流に同調するでもなく見つめるカメラと、つかの間解放された肉体の群れを不穏に彩る音楽とで捉えたアヴァンタイトルが、あそこにいた幻想としての「フランス国民」と現実との分断を既に告げていたようにも思え、あの群衆に内在する暴力的な矛盾を抽出して純度を高め、それをたった一人の少年に射ちこむラストへの苛烈な円環を為すすべもなく茫然としかし目をそらさずに見つめることを要求する監督の、せめてこれを第一歩としない限り誰もどこへも行けないのだという祈りにも似た悲痛な願いだけが、この映画にほんのわずかながら残された救いの余地ということになるのだろうか。もはや分断のバランスそれ自体が機能不全という機能として存在していることの象徴が市長(スティーヴ・ティアンチュー)であって、彼にとっては分断を煽ることで生じる隙間こそがビジネスであり、ムスリムとしてコミュニティを精神的に束ねるサラー(アルマミ・カヌーテ)を敵視するのはその障害であるからだし、自嘲気味にピンクの豚を自称する白人警官クリス(アレクシス・マネンティ)は白人vs非白人の構図に骨の髄まで倦んでしまっている一方、彼のラインに乗って分断を泳いでいくしか警官として生き延びる術がないことへの諦めと抵抗とで実は溺れる寸前でもあるグワダ(ジェブリル・ゾンガ)の、それゆえの曖昧と不安定が分断のバランスを破壊してしまう点においてこの状況の地獄のような救いがたさがいっそう浮かび上がってくることとなる。分断を悪しきことと断罪し善性の光で照らそうと砕身するステファン(ダミアン・ボナール)の、倫理と常識が打ちのめされ怒り悲しむ姿にぬぐえない無力感は彼がワタシたち観客の視点としてそこにいるからであって、ロマのサーカス団長がイッサ(イッサ・ペリカ)を彼なりの愛情をこめて手荒くしつけるシーンで、余裕なく縮み上がり拳銃を抜いたステファンへの嘲笑に感じる居心地のわるさは、それがロマの知る境界の向こうを何も知らない能天気な“善い人”に向けられたもの、すなわち彼を通してワタシたちに向けられていたからこその気恥ずかしさであったようにも思うのだ。ならばあのラストで、さあお前はいったいどうするつもりだと決断を突きつけられるのが市長でもクリスでもグワダでもないステファンであった点で監督がワタシたちを逃がすつもりなど一切なかったのは言うまでもないし、年端もいかない子供に自分たちが今までしくじってきたすべてのツケを回し、なおかつ悪魔的で残酷な精算を迫る大人たちに対してすべての子供たちから下された鉄鎚を避けるすべなどあろうはずもなかったのだ。子供のノンシャランで日々をやり過ごしていただけのバズ(アル=ハッサン・リー)が、大切なドローンを失ったことで淡い恋までも失ったことを知る青い寂寥をたたえたシーンは、分断の場所に生まれたというそれだけで否応なしに政治的な存在になってしまう子供たちの呪いをたったワンカットで語ってみせて、エピローグで引用される「レ・ミゼラブル」の一節とともに、すべての人種も政治も宗教も超えてこの世界のすべての恐怖と悪意と憎悪から守られるべき弱者が誰なのか、殴ってでもわからせるつもりで監督はこの映画を撮っている。
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2020年03月12日

スケアリーストーリーズ 怖い本/書かずに死ねるか!

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アンドレ・ウーヴレダルという監督の、怪異はあくまで手段であって目的ではないというトータルのバランスを見通す視点の深度と強度があればこそ、ジュヴナイル・ホラーだからといって、オカルトで道に迷わせホラーで閉じ込めてテラーで破壊するその手順に手心を加えるはずもなく、永遠にイノセンスを失うことをアメリカが受け入れた1968年という年のハロウィンに、ステラ(ゾーイ・マーガレット・コレッティ)という少女のイノセンスの喪失と自立とをそこに重ねることで、通過儀礼の物語を未知への恐怖と痛みとで彩ってみせたのである。暗い時代への予兆を彼方にしつつ、夜を超えた自身への確信を胸に旅立つラストはどこかしら『アメリカン・グラフィティ』の刹那的なオプティミズムに通じる香りすら漂わせた気もして、懐古趣味を裏返して普遍に封じるあたりはギレルモ・デル・トロの気配も見て取れるし、そこまでを嗅ぎ取りつつ正統なジャンル・ムーヴィーに幻視する地肩の強さをウーヴレダルに見てとったデル・トロの慧眼はさすがとしか言いようがない。ウーヴレダルが備える正解の一つは遅さの認識だろう。それはナイフで切り刻むのではない鉈で断つ恐怖の追求といってもよく、なにしろ彼の映画ではメタファーではない恐怖がきちんと視えるというかそれを視せることで物語が疼くように変調をきたすわけで、それは恐怖を精確にヴィジョンし目眩ましのカットやスピードを必要としないからこそ可能なスペクタクルであって、今作のようなジュヴナイルでは特にその歩幅が十全に奏功したように思うのである。こけつまろびつしながら立ちはだかるかかしのハロルドの圧力や足指なしが廊下の奥から角を曲がってゆらり現れる時の溜めは言うまでもなく、今作のモンスターではいささか性急な気配のあるジャグリーマンについては、屋外に飛び出してラモン(マイケル・ガーザ)を追撃する瞬間、いったん引きのカットにしてシークエンスをなだめているし、その巨体ゆえ遅々としか動けぬ青白い女がチャックを追い詰めるシーンでは、軽快と言ってもいいカットバックを多用することでモンスターの圧力を絶望に変える新機軸を見せさえするわけで、まだこんなアイディアが残っていたのかと舌を巻きつつ、たいていの嫌な目には免疫があるはずが、こういう目に遭うのはちょっと嫌だなあと思いがけずワクワクした気分で没入(=ジャック・イン ©黒丸尚)したのだった。アンドレ・ウーヴレダルとマイク・フラナガンがいれば界隈の未来は明るいにちがいない。
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2020年03月10日

ドミノ 復讐の咆哮/世界は泣き別れている

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窃視の角度に据えられたカメラによって生贄がクリスチャン(ニコライ・コスター=ワルドー)であることが宣言され、サイドテーブルに置き忘れられた拳銃をカメラがズームすることで益体のないゲームがそっとスタートする。彼が追いつくか逃げ切るか、生贄となった彼にとってはその存在を賭けたゲームに他ならないにしろ、主催者にとってはいつもの暇つぶしでしかないわけで、ここはひとつ趣向を変えて君たちにも分りやすいドミノ効果を用いることで、ある一つの世界線を見せてあげようではないかと主催者は手ぐすねを引きつつ上昇と落下を螺旋にまぶし、分割した時間を得意げに敷き詰めては世界の成り立ちをその断面で二次元化していくのである。それが偶然か必然かなど無い知恵絞った頭のカスを片付けてから言いたまえ、時間を逆回ししてみればすべては一連なりであることが瞭然ではないかとうそぶく光と時間の支配者にしてゲームの主催者デ・パルマにあらかじめ選択肢を奪われた男クリスチャンは、世界にかしずく小市民の常として偽装された自由意志を燃やしては知らず誘導路をひた走り、ただただあの屋上を目指すのである。そうやって彼が成し遂げたことと言えば、ひとつの思惑を葬るかわりに新たな思惑の誕生を祝福することでしかなく、それをニヒルなどというのは君たち特有の感傷であって、世界は絶えずアップデートされていることになぜ気が付かないのだと、既にしてデ・パルマはその結末に興味を失っているのだ。いくつもの交錯する視点が身悶えするようにより合わされることで形をなす世界の変形と奇形をあげつらったところで、モルワイデ図法とメルカトル図法のどちらもが地球を投影していることに違いはなかろうよと意に介さない地図製作者の業こそが、デ・パルマを巨匠サロンから蹴り出したのは言うまでもないことは、テロリズムという縮尺で投影したこの世界地図の恍惚と酩酊とを見れば瞭然だろう。あれほど呆れ果てて立ち尽くすガイ・ピアースをワタシは見たことがない。
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2020年03月08日

初恋/みんな〜殺ってるか !

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開始早々のゴロリに放蕩息子の帰還を喜ぶというよりは、今さらこういう露悪をカムバックの証だと考えているのなら、少し肩透かしくらうかもなと思ったのも束の間、その直後、加瀬を演じる染谷将太の拗ねた天使のような顔つきを見たことで、ああこの役者がこのラインで進むつもりでいる映画なら望みのものに違いないと合点し、三池映画なればこそあふれだす度外視の時間を、懐かしさのその分を手練れの円熟としてその帰還を歓迎した次第となった。とはいえ、これくらい条件さえ整えばいつでも撮れるから単純に状況の問題だし、それを帰還とか言って俺があえて遠ざかってみたいにされるのは心外だけどな、とでもいう余裕と笑っていない目つきのないまぜを感じたのも確かなところで、むしろその不在に首をかしげるべきではあるのだろう。これ、やっちゃっていいんですね、という俳優の共犯性を匂わせることによる解放区の演出という、そうそう誰にでもゆるされない方法をなぞっては玉砕してきた死屍累々を散々目にしてきたとはいえ、この映画がその復権を謳い上げたというよりはどこかしら感傷めいた口ぶりを隠していないのは三池崇史の冷静な現状認識であった気もして、葛城レオ(窪田正孝)とモニカ/桜井ユリ(小西桜子)という若き逃亡者を助けるのが、権藤(内野聖陽)とチアチー(藤岡麻美)という実質的なアウトサイダーたちだけに宿る仁義という失われた矜持であったことに、撤退戦を生きるしかない世界の哀しみと閉塞を二重に捉えたように思ったし、だからこそラストシーンに差す仄かな幸福の明かりをハッピーエンドとする精一杯に誠実すらを感じたりもしたのである。かつてであれば、全面展開したであろう2度ほどあった頭部破壊はショットの影に隠れ、排泄とわいせつの露悪も狂乱の息づかいのうち!という悪ノリや悪ふざけも前述した映画のトーンを維持するために鳴りを潜め、かつてまみれた悪食の愉悦という点では退行に映るかもしれないけれど、たとえば自身のイメージで許されるイージーさを逆手にとった、例えば通りすがりの酔っ払った看護師に状況説明させてしまうでたらめによるオフビートの出し入れは巧妙だし、「おれの部屋に来るか」とレオがユリに言った直後にベッドシーンを想像させるシルエットのカットをインサートしつつ、実はそれがクスリを抜くユリの悶絶であったという意地の悪さなど、そんな風に真顔で嘘をついて舌を出すたちの悪さこそが、ワタシの思う三池崇史の嫡子たち、例えば白石和彌が手にしていない一点であるようにも思えるのだけれど、ここで三池崇史が久しぶりに見せた気兼ねのなさがクレジットに名を連ねるジェレミー・トーマスの豪腕のいくばくかによっているのだとしたら、では誰が未来のジェレミー・トーマス足り得るのかという別の行き先も示されてしまうわけで、それはそれで遠くを眺めねばならない気もしてしまうのだった。
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2020年03月04日

1917 命をかけた伝令/この血がきみにつかないように

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あるいはこうした僕の考え方も、すべてある憂鬱と狼狽にすぎないかもしれない。もしふたたびあのポプラの樹の下に佇み、あの葉のそよぎに耳を澄ますときは、ほこりのように飛んでいってしまうものかもしれない。” レマルクの「西部戦線異状なし」でパウルが戦場の漂泊の末にたどり着いた透明な虚無に思いを至らせるこのパラグラフを、映画のラストはそっと引用したようにも思ったのだ。ただ、ウィリアム・スコフィールド(ジョージ・マッケイ)にとって、この日の戦いはドイツ軍を相手にしたというよりはパウルが喰われた虚無との戦いであったに違いなく、大戦最大の激戦となったソンムの戦いを生き延びて勲功のメダルを与えられたスコフィールドが戦場で失ったものは、おそらく人間の尊厳でありそこから湧き出す光の感情であったのだろう。メダルなんか持ち帰りたくなかったからフランス兵が持っていたワインと交換してしまったよと吐き捨てるスコフィールドが最後まであの写真を取り出すことをしなかったのは、汚れてしまった自身の手でそれに触れることができなかったからであるようにも思えたし、彼が心の底から自身を賭けて走り出したのは、トム・ブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)がスコフィールドの手放した光を見る人であったがゆえ生命を落とした、その瞬間からであったのは言うまでもないだろう。したがって、ディーキンスのカメラがウォームアップを終えて解き放たれたステップを踏み始めるのはトムの死以降となるわけで、カメラはまるでトムの意志が乗り移ったかのようにスコフィールドを追走し回り込んでは彼を鼓舞し続けるのである。伝令の役目を果たしたスコフィールドが、トムの兄ジョセフを探し出して遺品を渡し握手した瞬間カメラはそっとジョセフの隣へと歩を進め、そこに至ることでトムは、家族の写真をその手にすることを自らに許したように思うのだ。ここには血で血を洗う戦場の凄惨はないけれど、戦争の虚無に喰われかけた男が浄化を果たし再び心に明かりを灯すに際し3つの生命を奪うことを求められそれに応えざるを得なかった背反こそが戦争という矛盾そのものであるわけで、カメラの解放というよりはさらなる抑圧でしかない長回しの呪縛こそがその苦々しさそのものであったのだろうと考える。やむをえないとは言え、ワンカットの技巧をことさら喧伝することが必要な映画ではないと思う。
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2020年03月01日

ミッドサマー/夜がこんなに暗いはずがない

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私が求めているのは共感ではなく理解なのだと、上滑りする世界との軋轢にすり減っていくダニー(フローレンス・ピュー)の生き地獄に、むしろ出発前のアメリカパートで口の中が乾ききってしまう。鏡越しの会話に明らかなようにダニーとクリスチャン(ジャック・レイナー)の関係はもはや破綻しているにも関わらず、別れを切り出した方が悪人になるというチキンレースが互いのささくれを増やしていくばかりで、のどに刺さった小骨をひとつピンセットで取り除いては別のところへまた一つそっと突き刺していくものだから、痛みは常に更新されて生々しいままでしかない。この共感と理解の殴り合いというのはSNSが明るみに出した虚しく苦しい闘いであるのは言うまでもなく、理解を譲らないことでクリスチャンの側からは徹底して面倒くさいやつとして描かれるダニーに、しかし被害者的な色合いを一切用いることをしないアリ・アスターの透徹した虚無が既に怖ろしい。そうなってくるともはや善か悪か正しいか正しくないかといった断罪よりは、どちらがどちらを潰すかという殲滅戦でしかないわけで、共感の野郎どもの只中に一人乗り込んだダニーが圧力に耐えきれず崩れ落ちたバスルームから飛行機のトイレへと転換した瞬間の先は、お前が私たちだけの共感に身を委ねさえすればあいつらを屠ってやってもいいが?という大いなる誘惑との駆け引きと葛藤の神経戦にも思えたわけで、ひとたび感情を爆発させるやいなや、無印良品のごとき彼や彼女が押し寄せて共に泣き叫んでは感情を無効化してしまう共感の総攻撃こそは今この世の中のグロテスクな病巣そのものにも見えたのだ。この界隈の作品をある程度見て知っていれば、ホルガ・パートの展開や描写それ自体にさほど殺られることもないように思うのだけれど、それよりは、理解不能な世界にそれでも立ち向かっては傷を負い続けるダニーを懐柔し虜にしていく光と笑顔に内在する、たとえどこまで降りていったとしても永遠に分かりあうことのないだろう光を喰らう漆黒の存在を、それを否定する理由があるならぼくに言ってみてくれないかとうっすら笑みを浮かべながら問いかけるアリ・アスターという人が、ベルイマンやハネケが常に見据えて超えることをしない、むしろ超えないための緊張を作品の強度とした一線の先にあらかじめ居る人なのではなかろうかという気もしてきたのである。もちろんそれは先進とかそういった意味ではなくあらかじめその領域に在る人であったということで、そことこちらとの行き来による振幅をあてにしない点で極めて特異な作家であるのは間違いのないところだろう。したがって、こちらの世界で全面展開するあちらを描いた前作『ヘレディタリー』および今作の出発前パートから、あちらの世界で展開するあちらへの全面移行を果たしたホルガ・パートはアリ・アスターにとってチャレンジだったのは言うまでもないのだけれど、それゆえの奇妙な調和がもたらす破綻のなさが、たとえば街中で時おり見かける、自転車を手放し運転する人の真顔のイージーに収束していた点である種の飽和点に至ったように思えたりもした。アリ・アスターは『回路』を観ていつかあれをこの手でと決めていたのだろうか。しかしそれよりは、うっすらと赤みさすジュースの恥じらうような禍々しさよ。
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2020年02月21日

屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ/影が光りを喰うところ

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これがブコウスキーであったなら「粗にして野だが卑にあらず」とでもいう屈託に沈む日の黄昏をメランコリーに綴る物語にもなり得たところが、このフリッツ・ホンカ(ヨナス・ダスラー)という男というか生き物は、目盛りの粗い日々に野良犬のごとき卑屈にまみれつつ野生動物の直截な本能に衝き動かされた結果、アルコールとセックスだけが彼を人間社会につなぎ止めていたようにも思われて、殺人という行為が、ホンカにとっては何の意味もない社会と彼との間に生じる存在の誤差に過ぎない点で彼に快楽殺人者の美学も切実も備わるはずもなく、ならば死体などシュナップスの空き瓶や汚れた皿、吸い殻の溢れる灰皿と同じ日々の塵芥に過ぎないわけで、最初は真夜中に人目を忍んで捨てに行ってはみたものの、その手間に嫌気がさしたあげく自宅収納としてしまうあたりの脈絡を丁重に描くことで、監督はホンカに人格を植え付けることに成功している。思わず丁寧ではなく丁重と書いてしまったのは、映画の原題(”Der Goldnene Handschuh=The Golden Glove”)となっているバー「ゴールデン・グローブ」に集う客たちの「粗にして野かつ卑」な精神と生態を水平に活写する筆さばきの細やかさと温もりのある光の当て方こそが監督のヴィジョンであったように思うからで、それはホンカを見る人、ホンカに見られる人、ひいてはホンカに殺される人すべてが人格を備えた存在として描かれることにより、最終的に「ゴールデン・グローブ」へとたどり着いた彼や彼女たちの人生を肯定していたように思うのだ。何も注文しないなら店から出ていけと言われた文無しのお婆さんに、自分にしたところでさして余裕があるとも思えない女性が飲み物を注文してやるシーンの穏やかな交歓や、決して一線を越えることのない客同士の打ちつけるような甘噛みは、そこに自虐や被虐、自己憐憫の情動は一切ないし、ジャングルクルーズの気分でバーを訪れたブルジョアな若者への痛烈なしっぺ返しは、おれと同じ人生を歩んでなお酒を飲む金を持っていたらここへ来るがいいという矜持の現れにも思えて、ホンカも含め第二次世界大戦が産み落とした私生児としての彼や彼女たちを、ファティ・アキンはこれまで彼が見つめてたきたのと同じ視線と視点の角度で生かしたり殺したりしていくのである。それだけに、一度は酒を絶ちまっとうな仕事についたホンカが、酔って人生の屈託を吐露する職場の女性ヘルガ(カティア・シュトゥット)に促されてついには酒を口にしてしまい、再び転げ落ちるように瓦解していくペーソスの救いのなさは残酷ですらあるわけで、バラバラにした4人の女性を部屋のあちこちに隠したまま粛々と日々を営む殺人鬼に対してすらそう思わせる世界の引きずりおろし方こそは、世界に負けを背負わされた人間の見る光景を翻訳するこの監督の真骨頂といってもいいだろう。何より殺された彼女たちはみな、殺されるその時まで確かに生き続けていたのだ。この映画を観ていて最初に頭の中で繋がったのは、Anders Petersenの”Cafe Lehmitz” という写真集で、1967年に当時20歳だったスウェーデンの若者がハンブルグの場末でカメラを抱えて彷徨した夜ごとを安酒場“Cafe Lehmitz”を舞台に焼き付けたモノクロームの覚え書きは、この酒場の外では一体どう生きているのか想像も難い真夜中の人々に向けた透明で均質な視線に貫かれ、深夜の気高さを纏った人々をしてまるで鏡でも見るかのようにカメラのレンズを覗き込ませていて、それはまさにこの映画が持ち得た眼差しをそのものだったように思うのだ。トム・ウェイツのアルバム「RAIN DOGS」でカヴァーとして使われたのがこの写真集の中の1カットで、ワタシもそこから遡って虜になったのだけれど、突然昔懐かしい知己に出会った気がして少しだけ脈が早くなってしまったりもした。おいそれとは薦められない空気と描写の映画ではあるけれど、『女は二度決断する』を観て血が逆流した人なら覚悟ができていると思うので是非。


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2020年02月14日

ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密/キャピタル・アメリカ:ノー・タイム・トゥ・ライ

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※当然のごとく展開に触れています

マルタ・カブレラ(アナ・デ・アルマス)は家政婦というわけではないけれど、『マダムのおかしな晩餐会』『ROMA』そして『パラサイト』と続く、持つ者が持たざる者の価値を決定する社会への中指をさらなる持たざる者としての女性がつきつけるサスペンスを解とするミステリに、かつてあったものの失敗と退場だけでできあがっていた『最後のジェダイ』のことがふと頭をよぎりつつ、希望とは善くあることを望むことだと皮肉や絶望を封じ込んだ『ルーパー』にまで思いを馳せてみれば、ライアン・ジョンソンと言う人が常に変わらぬ気分で彼方の光を見つめていることをあらためて確信したのだった。誰がなぜどうして?というミステリをミステリたらしめる要素それ自体は刺身のツマだと言わんばかりに早々と投げ出され、慇懃無礼な紳士探偵ブノワ・ブラン(ダニエル・クレイグ)は、マルタの備えたある重要な2つのポイントを頼りに彼女を補助線とすることで、謎解きというよりはいわば人間性テストの仕掛け人としてスロンビー家の寄生虫をあぶり出していく。とはいえ下衆をおちょくることに生きがいを見出しているかのようなこの探偵が途中経過的な素ぶりを中盤以降見せなくなることもあり、おそらくはこれをマルタの闘争とするためのさじ加減ではあるのだろうけれど、では伏線も使い果たした一本道のその裏でいったい何が進行しているのか、そもそもこの物語はどこへ向かおうとしているのか、その目隠しされたような曖昧がサスペンスを持続させるという摩訶不思議なミステリが展開されるわけで、本人いうところの“ドーナツの穴”に徹するこの探偵のややこしいチャームがあればこそ、まるで隣のレーンのピンを全部なぎ倒すような逸脱したミステリをアクロバットのように着地させた気がしたし、そのある種のでたらめさは原作脚色ものでは不可能な味わいと言ってもいいだろう。その最たるものと言っていい、嘘をつくとゲロを吐いてしまうというマルタの特性を思いついた時点でライアン・ジョンソンは小さくガッツポーズをしたのだろうし、おかげでマルタは4回にわたりゲロを吐くことになるどころか、目の前でいきなり植木鉢に吐くマルタを見て「文字通り吐くとは思わなかった…」と感嘆するブランの図から始まり、ついにはとどめのゲロをぶっ放すことで見事に円環を閉じる離れ業に、アカデミーはよくぞこの脚本をノミネートしたものだと、その闊達が『パラサイト』への底抜けの祝福を誘った気もしたのであった。それにしても、誰も殴らず銃も撃たず車すら運転しないアメリカの探偵となるとそうそう記憶になく、ホームズはともかくポアロまでがマッシヴなヒーロー化することで隠さないフランチャイズへの貪欲をせせら笑うようなこの探偵はそんな昨今にあっては新たな発明といってもいいのだろうなと思っていたところが、どうやらスタジオは探偵ブランの次作にGOを出したようなのだけれど、よくよく思い出してみればこの事態を解決に導いたのはマルタと彼女の善きゲロのおかげであったことに気づくわけで、ならばいっそのことマルタをワトソンにしてしまえばいいのではないか、彼女の能力を外部感応型に改良するくらいライアン・ジョンソンなら朝飯前だろうと煽ってみておくことにする。南部なまりでフレンチネームの探偵とプランテーションの地主のような屋敷、そしてスワンピーなストーンズとくれば、ラストシーンの逆転の構図がさらに味わいも増すわけで、そうやってアメリカを解放していくのだろう探偵ブランのさらなる活躍を楽しみに待ってみたい。
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2020年02月05日

リチャード・ジュエル/ドーナツの穴があったら入りたい

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リチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)が犯人でないことなど観客であるワタシたちは百も承知であるにも関わらず、監督はワタシたちが彼に対して苛立ちや侮蔑の気持ちを抱くよう、まさにその一点のために微に入り細を穿つ手管を駆使して止まないのである。もちろんそれは、キャシー・スクラッグス(オリヴィア・ワイルド)による記事が喚起し醸成していくリチャードへの悪意を観客までも巻き込んで再現していく試みであるのは言うまでもないのだけれど、ここ最近のイーストウッド作品の、主役以外はみんな書き割りで済ませてしまう憑き物の落ちたような執着のなさもあって、いきおいリチャードの情動のみがこちらを直射し続けることとなり、してみるとそれはもはやメディア論であるとか衆愚の時代であるとかいった告発の筆というよりも、社会に追い詰められた人はそれが偽物/偽者だと心の奥底でわかっていても信じるふりを許してくれるものを信じてしまうのであって、その上っ面をもってそうした人々を蔑んだり理解を止めてしまうことの愚かしさを今さらながら説いているようにも思え、そんな風な映画を撮って大統領選を控えた年に公開することの意味を、それを知るべき人々は知るべきであるというイーストウッドのメッセージに思えたりもしたのだ。リチャードに訪れるエスタブリッシュと訣別することで独立した個人となる瞬間は、リバタリアンとしてのクリント・イーストウッドの揺るぎない信念にちがいなく、30〜40代の低学歴の白人という現在のアメリカで下層に追いやられる人たちのプロフィールを集約したようなリチャード・ジュエルが主役となる題材を選んだのも、その投影としてコントロールしやすいキャラクターだったからなのは間違いがないだろう。では、本来であればトランプの支持層となるはずのリチャード・ジュエルがリバタリアンとして覚醒したあとでどこに向かうのか、まずはアメリカの「リチャード・ジュエル」を正面から理解しようと務めることだと、めずらしくイーストウッドがお節介を焼いているようにも思えたのだった。書き割りとしての機能のみを要求された助演たちの中でオリヴィア・ワイルドは見事に役回りを全うしたものの、それが見事であればあるほど貧乏くじを引かされることとなり気の毒なほどである。一方でクライヴ・オーウェンの失敗したクローンのようなジョン・ハムはその木偶っぷりで役得。アメリカの無謬と誤謬を肥大した体内でシェイクし続けるポール・ウォルター・ハウザーについては、痩せたら負けという過酷なキャリアを道連れにしたネッド・ビーティ的な横断を末永く見守っていきたいと思わされた。でもこれが2010年代の事件だったらイーストウッドは本人をキャスティングした気がしないでもなく、果たして役者の振れ幅をあてにしているのかどうか、常に中央値を見つけて並べていった結果の完璧なメディアンという少々薄ら寒さすら感じる透徹した叙事はどこか彼方で流れる水のよう。
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2020年01月31日

パラサイト 半地下の家族/下を見たらきりがない

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ギウ(チェ・ウシク)がトム・リプリー的野心を独りくすぶらすピカレスクロマンではもうどこへもたどりつけない世の中なのか、という判断よりは、巧妙に水平化された世界にあってはもはや階級闘争など骨抜きにされ、革命のロマンや感傷はカリカチュアの対象にすらないことを『スノー・ピアサー』で愚痴ってしまった監督にしてみれば、金持ちは世界に、貧乏人は金持ちに寄生するそのシステム自体を共生と呼ぶ以外何があるのか、というこれまでで最も寄る辺のない結論を、それはもうにこりともしない真顔のまま導いていたように思うわけで、下降するらせんとして円環するラストでのギウのモノローグがどこかしら遺書のように聴こえたりもしたのである。実際のところ、キム家の面々が追い落として取って代わる相手は見上げたブルジョアジーの面々ではなく自分たちと同じ分け前に生きる人間たちだし、父ギテク(ソン・ガンホ)がパク社長(イ・ソンギュン)にふるう刃は、おそらくは立志伝中の人であろうパク社長が(ギテクの匂いを臭いとして嫌悪するその言葉「切干大根のにおい」「地下鉄のにおい」からして、かつてその臭いの中にあったことがうかがえる)、ギテクのみならずパク社長を地下深くから敬愛するグンセ(パク・ミョンフン)までもその臭いで全否定する品性の下劣さに対し、お前も金持ち連中に寄生してきた一人ではないかとする怒りであって、そこにあるのはもはや内ゲバの陰鬱な内圧でしかなく、おそらくはブルジョアの家庭に生まれ育ったパク社長の妻ヨンギョ(チョ・ヨジュン)の“金持ち喧嘩せず”的な健やかさを褒めたたえ、自分が追い出した前任の運転手の行く末すら案じるギテクにとってパク社長の言動は許しがたい背信以外の何ものでもなかったのだろう。一方で、そうした怒りを外部に向かって持ち得ないギウにとって、それは家族の窮状を招くことになった「計画」を持ち込んだ己に対する自罰として向かうしかなく、俺たちは「計画」を持つこと自体が分不相応なのだと撤退戦を選んで生きる父ギテクに対する反抗というよりは捧げものとしての「計画」に家族が喰われてく絶望が、ギウに山水景石を抱かせて殺人を「計画」させもしたのだろう。しかしまたしてもその「計画」が破綻することで殺戮が殺戮を呼び、しかも当のギウは死ぬことすらを叶えてもらえないという残酷こそはギウの世代と属性がはまりこんだ先の見えない地獄の象徴に他ならず、だからこそギウが夢想する「最終計画」の哀れと儚さと透明な狂気こそがポン・ジュノの怒りと絶望の上澄みに思えてならなかったのだ。そうした社会において、なお女性であることの理解されないあきらめと苛立ちとを、汚水の逆流するトイレをフタして座り込みタバコを吹かすギジョン(パク・ソダム)のニヒル一発で焼き付けたポン・ジュノの殴りつけるような幻視にもひりついて、異物との邂逅によって変容した自身が世界に踏みとどまるために差し出す贖罪、というポン・ジュノのメインラインを時々見失いすらした。いいのかこの映画をこんなにもてはやして。
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2020年01月27日

マザーレス・ブルックリン/バース・オブ・ザ・フール

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ローラ・ローズ(ググ・バサ=ロー)がライオネル・エスログ(エドワード・ノートン)の背中からそっとすべらせたその手でうなじを慈しむように撫でてみせては彼を母親の記憶に恍惚と染めていく、その伏線と回収の切羽づまったような生真面目さこそが1957年のニューヨークという鈍色のソリッドな時代に4ビートの赤い血を通わせていく。原作での“マザーレス・ブルックリン”はライオネル、トニー(ボビー・カナヴェイル)、ギルバート(イーサン・サプリー)、ダニー(ダラス・ロバーツ)の4人の孤児を総称した“おふくろのいないブルックリン”だったけれど、エドワード・ノートンはそれを、ロバート・モーゼスをモデルにしたであろうモーゼス・ランドルフ(アレック・ボールドウィン)ら権力者が弱者を蹂躙することで産み落とされる“私生児としてのブルックリン”へとさらに解題し、アメリカという国と人が抱える闇と業を普遍と捉える物語とすることでその複層の交わるところを発熱させては運命のメランコリーを疼かせてみせる。終盤にかけて拍車がかかっていくローラの反転に『チャイナタウン』のそれがよぎるだろうことを監督は隠しもしていないし、となれば目指したのはノワールのゼロ地点、せいぜいが振り出しに戻るだけの倦怠が麻痺させる昂揚であったのは言うまでもないだろう。しかし監督はラストのゼロ地点をほんの少しだけらせん状に立ち上らせていて、孤児としてあり続けたライオネルと今や孤児となったローラが互いに寄り添うことで“私生児としてのブルックリン”と新しい家族を築くであろうラストの予感は原作からの正気と希望に満ちたジャンプとなっていたし、原作では最後の一文となった「話は歩きながらしろ(Tell your story walking)」からこの映画が始まっていたことを考えると、エドワード・ノートンはこの物語を変奏した続篇として描いた気もしてくるわけで、ならばほとんど20年を要したそのアクロバットをワタシは完全に受け入れた上で、なお原作に抱くのと変わらぬ愛情でこの映画を胸にとどめようと思うのだ。そして、トランペット・マン(マイケル・K・ウィリアムズ)としかクレジットはされないものの、明らかに「カインド・オブ・ブルー」誕生前夜のマイルス・デイヴィスとしか思えないトランペッターとの忘れがたい邂逅や、ライオネルを救うために彼が台無しにしたトランペットがまるでディジー・ガレスピーの愛器のように映るあたりもまたエドワード・ノートンが内部に育てていた偏愛の表れに思えたし、この物語にどれだけ取り憑き、あるいは取り憑かれ、一転してそれを醒めた目で解いた後にいかにして自分の物語として語り始めたのか、そんな風に世界でたった一人彼だけがあきらめることなく過ぎていったいくつもの夜があったのだろうことを想うとなおさらこの映画が愛おしくなってしまうのだ。ライオネルが叫ぶいくつもの”IF!”は、エドワード・ノートンがこの映画と共にあった日々に浮かんでは消えていった数え切れない可能性への鎮魂のように響いて仕方がなかった。立てたピーコートの襟がニューヨークの屹立を透かすように睨みつけている。
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2020年01月17日

フォードvsフェラーリ/おれの車にのりたいか

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レオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)がキャロル・シェルビー(マット・デイモン)に向かって「マイルズは、あれはビートニクだ…」と吐き棄てた瞬間、フォーカスがクリアになる。「フォードvsフェラーリ」というよりは「シェルビーvsビーブ」という構図に終始するこの映画でキャロルがレオと闘い続けたのは、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)という自らの肉体をラボに人間復権の臨床実験を行う男の、すなわちビートニクの体現者への憧憬と同志愛のなせるわざであったのは言うまでもなく、すでにケネディは斃れ、ヒッピーという大量生産されたビートニクの気配が忍ぶこの時代は、身体ひとつでシステムを打ち負かすアメリカの騎士を描くことのできる最後の時代でもあったのだろう。7000回転の向こう側へフリークアウトしたマイルズが疾走するミュルサンヌ・ストレートの真空のような静寂は、たとえば『断絶』のラストでドライヴァーが溶けていく虚無を想い起させつつも、しかしマイルズはそこから引き返すことを選ぶわけで、それはついに見るべき風景を見た達成感であったのか、シェルビーへの友情と仁義であったのか、あるいは永遠に思われた思春期の終わりであったのか、いずれにしろビートの天使マイルズはその翼を差し出して他者の幸福を願うことを選んだのであり、となれば、あのシフトダウンはいずれ彼を襲う悲劇のカウントダウンがスタートした合図ということにもなるのだろう。イノセンスの喪失とはすなわち死を想うことであり、本来なら映画一本が費やされるそのテーマをセリフもないたった一つのシークエンスで抉りだしてしまうクリスチャン・ベイルに、いったい役者というものはどこまで可能なのかと、自分が何の映画を観ているのか覚束なくなるくらいワタシも向こう側へと溶かされた気がして胸がこわれそうだった。スピードとは時間で、時間は生命あるものすべてを支配することを思えば、スピードに抗う者たちは束の間ドライヴァーズシートで神を演じることが可能であると同時にそれを求められることとなり、そのためには下界の合理を棄て去る必要があることを識らなければならないわけで、そのキャリアをドライヴァーからスタートさせたエンツォがフォードを醜いと言うのはそこに神の合理が宿るにふさわしいシートを持ち得ていないからだし、してみればシェルビーがフォード2世をドライヴァーズシートに縛りつけてスピードの只中に放り出した荒療治に涙を流したフォード2世はそこに神の気配を感じたのだろうし、激闘を終えたマイルズとそれを見つめるエンツォの視線が交錯する時の昂揚に絡みつく、いささかの倦怠の正体が神々の憂鬱であったことは言うまでもないだろう。妻モリー(カトリーナ・バルフ)のみならず息子ピーター(ノア・ジューブ)もまた家族というよりは同志として描くさわやかな緊張感が神話にさらなる聖性を与えてやまない。不幸な天才の屈託と苛立ちを半ば嬉々として演じるマット・デイモンがクリスチャン・ベイルと取っ組み合いをする姿に『グッド・ウィル・ハンティング』の20歳が重なって見えた瞬間、アメリカ映画という在り方になぜ心惹かれてやまないのか、それは楽観も悲観も引き受けた上で世界の最善性を問い続け試みる生き方の証明だからなのだろうと、腑に落ちる音が聴こえた気すらした。
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2020年01月10日

ロング・ショット/セックス、ドラッグ&ボーイズUメン

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理想を笑わずそして現実もあきらめない貪欲を清々しいとさえ感じてしまう時点で、ワタシたちはいい加減スポイルされてしまっていることに気づかされるし、それはグレタ・トゥーンベリが変人扱いされる世界の笑えなさとどこかでつながって、この映画から漏れ出す忍び笑いの多幸感はそんな時代を足蹴にする混じりけなしの正気をウォッカで流し込んで血管の隅々までめぐらせるその酩酊によっているのは言うまでもなく、すなわちこれが効かない相手は今後のアナタやワタシの人生から整理してしまっても差し支えないということになるだろう。どれだけ下ネタやドラッグネタでくすぐりを入れようとそれが露悪的にならないのは、そこを潜った上でどれだけ身ぎれいにして目は澄んだままでいられるかという2020年代の闘いの流儀としてそれらが描かれているからで、シャーロット(シャーリーズ・セロン)やフレッド(セス・ローゲン)の水平性と流動性が垂直性の支配に立てた中指なのは言うまでもないし、2人のロマンスを生餌に観客を誘いこむのは、すべてのシステムをカルチャーとして捉えなおすことで見晴らせる世界の広がりであって、政治もまたカルチャーであってビジネスではないと記した石つぶてをアゴを緩ませ開いた瞳孔で彼方へ雨あられと投げつけてみせる。フレッドはシャーロットによって狭量なセクト主義を、シャーロットはフレッドによってポピュリズムの轍を、それぞれがそれぞれを更新していく関係のそれゆえ避けられぬほろ苦さとそれがもたらす幸せの甘さは、この世界で人がよく生きるためのやり方が尽きることはないのだなあと、まさかこの監督&主演のコンビに人生の指針を示されるとは思ってもみなかったわけで、かつて最右翼かと思われたトッド・フィリップスがああやって一抜けしたとあっては、絶えて久しいチーチ&チョンの名跡がようやくのこと継がれた気もしたのだった。それがどれだかアメリカを痛めつけてきたかはともかくとして、ドラッグをカルチャーとして芽吹かせたその歴史こそがアメリカをアメリカという概念たらしめていることをあらためて思い知らされる。そこにとても冴えたやり方でさっと力を添えたシャーリーズ・セロンの頭抜けた嗅覚に相変わらずうっとりとしてしまう。笑う門には福来たるよ。
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2020年01月05日

テッド・バンディ/おまえももう死んでいる

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テッド・バンディ(ザック・エフロン)による凶行の犠牲となった女性たちが過ごしたであろう地獄の時間を、何らかの理由で彼に生命を奪われることのなかった女性たちは、しかしその生がある限り、引き延ばされたその時間を永遠の囚われの中で過ごさねばならなかったのだろう。なぜ自分は殺されないのか、それはテッドが私の中に彼と同じうごめきを見つけたからなのか、一度でも彼を愛した私はすでに彼と同じ悪に違いないのか、そうやって破壊を逃れた肉体の内側で精神が喰われていく緩慢な殺人をワタシたちはリズ(リリー・コリンズ)を通して追体験することとなり、既にテッド・バンディの犯した罪を知るワタシたちに、いったんそのことは頭から追い出してテッド・バンディに見初められた者の曖昧な生き地獄を共に過ごすことを強要しては、カワート判事(ジョン・マルコヴィッチ)がテッドに「きみはとても聡明な若者だし、ならば優れた弁護士としてここで私の前に現れてくれていたらと思っている」という言葉をかけた瞬間が、テッド・バンディの悪魔のような二面性とその呪いを図らずも強化してしまいさえするのである。果たしてテッドはリズを愛していたのだろうかと言えば、そもそもワタシたちの言う愛などという代物がテッドのそれを解題できるわけなどなく、それよりはお前を殺さないでいることで他の女性たちをもっとよく殺せるんだ、とでもいう彼なりのバランサーだったのだろうとワタシは考えていて、リズとの最後の面会で彼がとったある行動によって足もとから瓦解したリズを見つめるテッドの、もしかしたらおれはもう一人の女性も破壊できないかもしれないから、お前のその表情を人生のデザートにさせてもらうよとでもいうその貌に「テッド・バンディ」という記号が刻まれて完成するのをようやく見た気がした。そうやって冤罪と闘うテッド・バンディという狂気を徹底する手続きをとることで、この映画はリズやキャロル(カヤ・スコデラリオ)といった言わばバンディ・ガールズとくくられてしまう女性たちを、騙される方が悪いのではなく騙す方が悪いに決まっているのだと正当な犠牲者として描き、彼女たちの冤罪を晴らすことを願ったようにも思うのである。欲望が感情のフィルターで濾過されることなく行動に決定され、理性をその道具と従えた人間の亜種テッド・バンディを実物の倍増しのチャームで演じたザック・エフロンがほとんどキャリアハイのきらめきをみせていて、まるで洗練された教育とマナーで調教された千葉真一のようだった。『ザ・バニシング −消失−』のレイモンはある意味でバンディのコピーキャットだったことに今さらながら気づく。
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2020年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

僕に残されてる夏はあと何回?と歌う片寄明人の詞に込められた刹那の意味が、二ヒルの白熱ではなく瞬間を慈しむことなのだとようやく分りかけてきた今日このごろの、その気持ちで今年を過ごしていきたいと考えています。
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2019年12月31日

2019年ワタシのベストテン映画

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ミスター・ガラス
岬の兄妹
荒野にて
魂のゆくえ
オーヴァーロード
ガルヴェストン
ゴールデン・リバー
ゴーストランドの惨劇
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
ボーダー 二つの世界

観た順番。
秋口からあまり映画館に行けていなかったりして、劇場鑑賞数は例年より30本程度減少。でも、さほど悩むこともなく無理矢理でもなく10本が決まったのだから、今年は良い映画に恵まれた年だったんだろう。

私は通りすがりの映画館に入って目を酷使した。呼吸のざわめきや、いやなにおいをたてるぐにゃぐにゃと温かい皮膚にみたされ、たえまなしに色と音が変わりつづけているその闇にもぐりこんでいると潮のように迫ってくるものからしばらく体をかわすことができた。―開高健

なのに、そんな風に映画館に逃げ込んだ、なんだかあまり健康的とは言えない記憶が残る年になった気がしてしまっている。来年は、スクリーンの緊張に顔を上げて向き合える年になりますように。
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2019年12月26日

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け/死なばもろとも

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※もはやどうでもいいので思い切り展開に触れています

“見てみろ、この慌てぶりを。怖いのだ。怖くてたまらずに覆い隠したのだ。恥も尊厳も忘れ、築き上げてきた文明も、科学もかなぐり捨てて。自ら開けた恐怖の穴を慌ててふさいだのだ。”と大佐の言を引用してしまえばそれで済んでしまう気もしたのだ。センスはあってもそれはセンス・オブ・ワンダーになりえないことに絶望しワンダーを抹殺する人生に身をやつすことを選んだカイロ・レンの荒ぶるフラストレーションへと自身の屈託をしのばせたJJに、フランチャイズのリサイクラーとしてではない作家性を初めて垣間見た『フォースの覚醒』はその点においてスリリングですらあったし、強大な父を乗り越えるために要求される男らしさ=マチズモの支配する枠組みを解体するため、父殺しをしなければ更新されない世界を鎮めるべくフォースの持つ破壊と再生という側面を最後の父殺しレンと殺すべき父を持たないレイに分け与えた『最後のジェダイ』も、ならばとワタシは心穏やかに受け入れたのである。それがなぜ前作を恐怖の穴と唾棄し、応急処置のしかもマッチポンプとすら言えるつぎはぎで覆い隠したような、新たな地平を目指すつもりなど一切ない言い訳だらけの撤退戦に終始したのか、自ら産み落とした若者たちを信じることすらできず幾多の亡霊たちの力を借りては急場を凌ぐうち、亡霊その一のパルパティーンに至っては実体化をするどころかついにはレイの祖父すらを名乗り始める始末で、前作の「幻想にしがみつくのはやめろ!」というカイロ・レンの叫びがどれだけ虚しく響いたことか、ベン(カイロ・レン)とレイという均衡の双子かつ理力のソウルメイトにキスをさせるに至っては、JJの思春期朴念仁っぷりが『スーパー8』から何一つ成熟していないことすら晒してしまう始末ではなかったか。本来であればエピソードの半分は費やすべきレイの両親の出奔をほんの数カットで片づける逃げ足はまるで打ちきり漫画の最終回のそれとしか思えず「――すべて、終わらせる。」というのはまさに字義通りの意味だったのかと、四角な座敷を丸く掃く体裁だけの大掃除に、ああそう言えばほうきをスッと手繰り寄せたあの少年は今頃何をしているのだろうと彼方を見つめたりもしたのであった。とはいえ、そもそも語るべき物語などそれ自体が罪なのだとでもいう全方位マーケティングへの強迫観念的な奴隷労働こそは、キャンセル・カルチャーという時代の気分をヴィヴィッドに反映させた最前線の140分であったということになるわけで、ワタシたちの誰もが罪深いファントムメナスなのだろう。もはやストーリーに組み込むことすらあきらめたのか、昏睡するファンが今際の際に見た走馬灯にしか映らないイウォークを、ならばそっと後ろ姿にとどめおくことすらしない野暮がどこまでも念入りにとどめを刺してくる。
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2019年12月19日

ラスト・クリスマス/ルック・アップ・イン・アンガー

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※展開に触れています。

「普通」なんていうのは、他人を傷つけるだけの醜い言葉でしかない、と諭しつつも吐き棄てるように言うトム(ヘンリー・ゴールディング)の正体が明かされた瞬間、ああこれは分断が蝕む時代のクリスマス・キャロルでもあったのだなと、この映画が失わない清冽な灯りの理由がわかった気もしたのである。どうして私が、なぜ私だけがと人生の分け前にこだわるあまり、失ったもの(私の心臓)に屈託をぶつけるばかりで自分が生かされている理由(誰かの心臓)を省みることをしないケイト(エミリア・クラーク)にトムは、下ばかり見ていないで上を見てごらんとそっとアドバイスをする。そうやって上を見上げて背筋を伸ばし胸を張り、自分が気づかないだけでいつもずっとそこにあるものを知ることは新しい旅への第一歩であるに違いなく、ケイトの場合それはカタリナというもう一人の自分へと立ち還る道行きとなることで、自分はどんな連なりの最後尾にして最前線にいるのかを再確認しつつ今自分がここにいることの意味を知っていくこととなり、疑うことなく自分を「普通」だと考える人たちによって断ち切られた繋がりをもう一度結んでみることによって、かつて断ち切ったカタリナの輪郭がもう一度ケイトに重なっていったように思うのだ。大切なのは、ありもしない普通であろうとすることよりも自身の自然であることなのだというその眼差しは、離脱と分断の恍惚に焦がれるイギリスへの絶望よりは衒いなく真っ直ぐな希望に照らされた気もして、しかしそれは、シニックが有効なのは最低限の正気が担保された社会相手のことだったのだという、あきらめの先で行われる笑顔の逆ギレにも思え、すなわち現実がいかに救いがたいことになっているかというその証明であった気もしてしまうわけで、『ラブ・アクチュアリー』から15年経ったイギリスがこんなふうに真顔でクリスマスを迎える無常に想いを馳せたりもしてしまう。奇しくも自転車で事故った若者の物語でありながら、かたや大英帝国の誇りを歌い上げたあの映画の楽天性が犯罪的な鈍感としか映らなかったことも、今この世界の忠実な反映であったのだなあとようやくその役割に気づいた気もしたのだった。今作がクリスマス映画の新たなスタンダードになりますように。
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2019年12月05日

ドクター・スリープ/エンジンルーム、ボイラールーム

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キングが指摘していたように、キューブリックはホラー映画とブラックコメディの世界が接する境界線を認識して、ある一線を越えると恐怖と共に笑いが生まれることを理解しそれを実践していたわけで、『シャイニング』の計ったような「ホラー」のアプローチとアタックはほとんど幽霊屋敷もののパロディといってもいいくらい余白までも完全にデザインした表層でものにされていて、ジャックの間抜けな凍死体はそこまで引きずりまわした観客への見事なあっかんべえだったのだろうとワタシは思っている。してみると、まずは『シャイニング』を「ホラー」のジャンルに取り戻さねばならぬというキングの復讐を達成するために、ジャンルに愛と忠誠を誓ったプロパーを据えるという点において、かつキューブリックのヴィジョンを理解し再構築する視点と胆力を持ち合わせるにおいて、ホラーのヴィジョンで状況ではなく情動を語ることのできるマイク・フラナガンは正鵠を射た起用だったというしかないし、このメジャー作品においてもこれまで同様に脚本と編集を手掛けることを認めた点でも、どれだけキングの後押しがあったかは不明ながら製作陣の慧眼は称賛されるべきだろう。したがって、キューブリックが何より興味を示さなかった善と悪のあわい、すなわちキングがいうところの“エンジン”にフラナガンはガソリンを注ぎ続けたわけで、善の為すことと悪の為すことを常に対比的に描くことによって最終的にはキューブリックの描いたヴィジョンにすら血を通わせて(しまって)いて、ほぼ40年を経てダニー(ユアン・マクレガー)とジャックが対峙するゴールド・ルームのトレースといい、その一歩も退かぬ確信と勇気はほとんど感動的ですらあったのだ。と同時に、ダニーとアブラ(カイリー・カラン)の立ち向かうべき相手は「悪」であって「狂気」でないことを念押しするためには野球少年の断末魔も厭わない躊躇のなさは、キングの刻印であると同時にフラナガンの譲れぬ矜持にも思えたのである。そんな風にして、『オキュラス』を観た時に思った、この監督にとって恐怖の対義語は愛なのだろうというその定義がここでは見紛うことなく爆発していて、キングにキューブリックを赦すことを促してみせさえしていたし、何よりそれは『シャイング』の嫡子ともいえるポスト/ポストモダンホラーの虚空に放り出す流体が支配する現在において、恐怖で往き愛で還ってくる物語もまた守るべきホラーの牙城であることを明確に示してみせたのではなかろうか。ある意味、彼女に今作の成否がかかっていたと言ってもいいレベッカ・ファーガソンが、右目に野卑、左目にノーブルを宿した女王蜂をしなやかで揺るぎのない重心でいわゆる良識の人のかけらもなく演じていて、ユアン・マクレガーと共に欧州の幽かにささくれたソリッドがジャック・ニコルソンの狂情を跪くように鎮めてみせていた。
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2019年11月30日

アイリッシュマン/キラー・インサイド・ゴッド

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「この件におまえを引きこまないとお前に阻止される」とラッセル・ブファリーノ(ジョー・ペシ)がフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)に言葉を絞り出した瞬間、自由と平等の国アメリカがその表情を一変させ寄る辺のない取り立てがフランクに始まることとなり、少女のペギー・シーラン(アンナ・パキン)が父に見てジミー・ホッファ(アル・パチーノ)に見なかったもの、それはおそらく暴力に人生のみならず夢と友情までも借りたその負債だったということになるのだろう。その負債と資産が流動するバランスシートをアメリカの後ろ姿と描いてきたマーティン・スコセッシが、ここではペギーの視線を借りることでその背中に拭いようのない唾を吐いていて、ついにペギーから赦されないままたった一人でこの世から消えていくフランクのバランスゼロに向かう彷徨を描きながら、それでもその最期の時まで救いの訪れを待つようにドアを開けたまま眠るフランクへ向けるスコセッシの視線は、『ミーン・ストリート』から始まってロバート・デ・ニーロと共に過ごした半世紀近い旅の終わりを慈しんでいるようにも思えたのだ。そしてもうひとつ、ペギーがジミー以外の男たちを忌避するのは彼らがその奥底では女性を人生の勘定に入れない生き物であることへの押し殺した憤怒であった気もして、例えば冒頭のやりとりがかわされるモーテルの食堂で、フランクのボウルにコーンフレークを入れたラッセルがテーブルに置いたその箱の、はみだした内袋をそっと押し入れるフランクの細やかな仕草は長年連れ添った夫婦のそれとしか映らないわけで、ラッセルがフランクに贈ったリングが実質的な結婚指輪であることは言うまでもなく、彼らのいうファミリーにおいて女性たちは血と暴力のアリバイとしてその贖いの祭壇として存在するに過ぎないことをこんな風な内部告発の視線で描いてみせたこともスコセッシの清算であった気がするのである。したがって、ある限界がラッセルによって告げられて以降、あのモーテルでの朝食を起点にほとんど投げやりといっていいくらい醒めたショットと弛緩した時間(例えばできそこないのタランティーノのような車内)の果てに描かれる、ケネディ暗殺と対をなすようなアメリカ殺しは結局のところ自分たちすべての自死でもあったのだという諦念と懺悔の監獄に彼らを放り込んだわけで、赦されないことを知っている者たちがそれでも赦しを請わねばならぬ煉獄で幕を閉じるためにこそ、時間の感覚を無効化していく210分という倦んだ時間を必要としたのだろうし、これがパラマウント作品として市場を考慮した180分に収められでもしていたら懺悔の値打ちはストーリーのメランコリーとして機能するにとどまり、冒頭に掲げられた「お前は家のペンキを塗るそうだな」という言葉が、あるアイルランド人の気の利いた墓碑銘として刻まれるに過ぎない作品となっていたようにも思うのである。ディエイジングという特殊効果によって若返った貌に首から下の動きが応じていないシークエンスがないこともないのだけれど、このあらかたがフランクの回想によって語られる物語であることを想い出してみれば、むしろそのぎこちなさこそがフランクの愚直に行っては帰る人生の揺れや震えだったようにも思うのだ。してみれば『沈黙』を撮り今作を撮ったスコセッシが、それを撮る人間の人生が投影されない映画を果たして映画と呼べるのか、とまるで映画学科の学生のような苛立ちをマーヴェルにぶつけたのも、ドアをあけたまま終わる映画をついに撮りきった/撮りきってしまった昂奮と寂寥のなせる業だと思えばこそ、ワタシたちはそれにうなずくしかないのではなかろうか。ジョー・ペシがまるで即身仏のようだった。
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2019年11月27日

ゾンビランド ダブルタップ/生きてるだけじゃダメかしら

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リトル・ミス・サンシャインmeetsアドベンチャーランドへようこそ的な前作の残り香はほとんど見当たらず、というかマイケル・ルーカーをウディ・ハレルソンにあてがったような『ウォーキング・デッド』って実はどこかでオレのアレに背中押されてるよな?ってルーベン・フライシャーがニヤついたかどうかはともかく、どうせ刺身のつまにするならここまでやれよってな風に、ゾンビをほとんど飛んでくるハエの扱いへと解体するため映画の基準線をブリングリングなマディソン(ゾーイ・ドゥイッチ)に設定した喰えなさ加減に、やはりこの監督に『L.A. ギャング ストーリー』みたいな“喰える”映画は向いてないことを自ら証明したように思ったわけで、今どきのイデアやらメタファーやらに捉まることなく最後まで見事にかわした逃げ足は称賛されてしかるべきだろう。なかでも特筆すべきは、メインの4人の中で前作からの10年の間に一番遠くまで行って還ってきたエマ・ストーンの一瞬たりともとどまることをしない顔芸で、隙あらば余白にそれを撃ち込んでくる反射神経は最近では松岡茉優に同じ香りを嗅ぐ気もするわけで、ジェシー・アイゼンバーグのノーブレスなまくし立てがやや頭打ちであったことを思えばこそ、鼻につくモード寸前にまで一気に切り換えるそのスイッチに恐れ入ったのだった。もはやロメロの新作が望めないこの世の中でゾンビが生き長らえていくための方策としては『ウォーキング・デッド』よりもむしろこちらに未来と誠実を感じたりもするのは見事な仁義を切ったオープニングがあればこそで、ゾンビを屠る快感を抜きにした真顔でジャンルへの愛情表現は語れないことを今一度作り手は肝に銘じておくべきだろう。ゾーイ・ドゥイッチは母親のイメージもあって『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』のベヴァリー的にカジュアルなエマ・ワトソンが道筋かと思っていただけに、ここでのイージーゴーイングなピンキーは思いがけない役得ではなかったか。2019年にしていまだ尽きないNINJAへの憧憬もまたモンドセレクション金賞受賞のめまいする趣き。
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2019年11月21日

ひとよ/まだはくよ

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稲村こはる(田中裕子)が恐れたのは父(井上肇)が子供たちにふるう暴力はともかく、いずれ3人のうちの誰かが父親を殺してしまうことになるのではないか、というそのことであったようにも思え、この生き地獄を終わらせるためにはあいつを殺すしかないという母と子の奥底で頭をもたげつつある殺意を認識したこはるの、ならば私がその役目を引き受けてしまえばいいのだという昏いひらめきと決意が、あの夜の彼女に「母さんは(殺人を成し遂げた)いまの自分が誇らしい」と言わせた気もして(事後の処理を指示する言葉からして、あの夜の行動は衝動的ではなく計画的だったことがうかがえる)、大樹(鈴木亮平)、雄二(佐藤健)、園子(松岡茉優)の3人が抜け出せないままもがき続ける日々の屈託は、人殺しの子供となったことよりも、母親にそれをさせたことへの痛切な悔悟が色濃かったように思うのである。したがって、時折誰かが口にする贖罪という言葉は、こはるではなく子供たちの胸にしまわれた言葉のはずであって、「おかあちゃんは間違ってない」というこはるの奇妙な明るさと悪びれなさが、自分たちが世界に負った負債の正体がその贖罪であることを子供たちに告げていくこととなるわけで、それをいったいどう認めればいいのか途方にくれる子供たちが、母を救い父親を殴り飛ばすはずの夜がはからずも再現されそれを疑似体験することで、向き合うべきものの正体を知る結末の荒ぶりと昂ぶりは、暴力を、回避できない感情の切実なデザインと描いてきた白石監督の真骨頂と言ってもいいシーンだったように思う。それが内向にしろ外向にしろ、白石作品ではいつも役者が気持ちよさそうに演じているなあという印象は今作でもそのままに、とはいえそれは自然体のナチュラルというよりはアップデートされた昭和感とでもいうある種のバタ臭さに満ちたケレンであって、戦後に直結した時代の生と死のぎらついたメランコリーを現代の新しい言語として翻訳する監督の幻視は邦画において群を抜いているのは間違いがないだろう。ただ、これは今作に限ったことではなく邦画の問題としてあることだと思うのだけれど、たとえば『楽園』や今作での外部的な悪の描かれ方が、十年一日のごとく地方共同体の排他的かつ匿名的な悪意に終始せざるをえないのは、良くも悪くも日本と言う国の偏執的な均質性のなせる業なのか、悪意の反射が映画にもたらす光の角度が扁平で凡庸に思えてしまうのがそのまま邦画の限界につながってしまう気がしてしまい、人種や宗教、性的指向など個人的な属性の分断から距離を置いてきた国の宿命と呑み込むしかないのだとすれば、それはもちろん映画の外側でこの不幸を打破するところから始めなければならないことを再認識させられることとなるわけで、映画に感じ入れば感じ入るほどその負債に気づかされる複雑な面持ちの傑作であったというべきか。ところで、前述した『楽園』といい映画の中の落書きって同じ人が書いてるんだろうかと思うくらいに、説明的に崩し方が整っているところでいつも気持ちがスッと引いてしまうのもワタシにとって邦画の密かに厄介な問題点で、ダイイングメッセージでもあるまいし悪意のぶちまけなのだから字なんかハッキリと読めなくたってかまいやしないと思うのだけれども、その度に素面に戻ってしまうのがほんとうに厄介この上ない。
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2019年11月17日

グレタ GRETA/待つわ

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クイーン・オブ・オブセッション、もしくは暗黒妖精としてのイザベル・ユペールという、その怪優のエッセンスだけを抽出し続ける試みの、あまりにもあまりで誰もが頭から振り払ってきたそれをただひたすら衒いなく行ってみたらどうなるだろうと考えて、実際に行ってしまった二―ル・ジョーダンの英断と言うか蛮勇を讃えるべきで、監督やキャストの映画史的な格からハイブロウな神経戦を装いつつも、むしろサスペンスの徹底した底の抜け具合にこそこの映画の本領があることは、例えばマイケル・マイヤーズがすべての警官やヒロインの理性的な行動を無効化してしまうことを想い出してみれば、それが瞭然なのは言うまでもないだろう。相対する誰よりも小さな身長と曖昧な頭身の醸すイザベル・ユペールの不穏が、これまた年を重ねるにつれそのいかり肩に攻撃的な角度を増すクロエ・グレース・モレッツとクロスするスリルと、しかしこの映画を最終的に縦断していくのはファンキーでタイトなマイカ・モンローであったという女性たちの『ピアニスト』vs『キャリー』vs『イット・フォローズ』な三すくみに加え、探偵(スティーヴン・レイ)やフランシスの父(コルム・フィオール)といった男性陣の役立たずにおいて、二―ル・ジョーダンらしい小さくも固く引き締まった握りこぶしの物語であったように思うのである。と同時にらしからぬトリッキーで多層なショットはニール・ジョーダンが秘めたヒッチコック〜デ・パルマへの偏愛であったのか、前述した底の抜け方がこれらへの前奏であったと思えばこそワタシは重箱の隅をつつく一切をしないでのある。ではモンスターとしてのグレタを打ち倒すラストガールの役割を誰がどのように担うのか、その三すくみの力関係においてクロエ・グレース・モレッツの善性よりはマイカ・モンローのエッジーを買ったニール・ジョーダンのアップデートされた嗅覚はさすがであったというしかないにしろ、と同時にクロエ・グレース・モレッツ受難の時代をうっすらと予感させたりもして少々切なくはあったのだ。イザベル・ユペールを観るたびに大貫妙子が俳優だったらなあと益体のない夢を見たりしていたのだけれど、やはり今回もそんな夢を茫漠と見てしまったりもした。ノーブルで毅然と悪魔的なハチドリの視えない羽ばたきをする人の笑み。
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2019年11月14日

永遠の門 ゴッホの見た未来/晴れた日に永遠が描ける

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ジュリアン・シュナーベルはゴッホの人生の最期を、世界と刺し違える芸術家の彩りとしての自殺から救い出す。『バスキア』がそうであったように同じアーティストならではの批評性の一切を放棄したバイオピックは、世界が“視えてしまう”がゆえ埒外に弾かれる人に向けた彼の愛情とそれゆえの哀しみを衒いなく綴ったラブレターといってもいい。精神病院で聖職者(マッツ・ミケルセン)とゴッホが交わす、神の意志と表現者の仕事に関する会話こそはシュナーベルがゴッホに見出した芸術家の神髄で、目に見えるものではなく目に見えないものにこそ心を向けなさいという神の言葉を私は実践しているだけなのだ、というゴッホの言葉は奥底で聖職者を凌ぎさえして、神はもしかしたら少し時間を間違ったのかもしれず、私はいまだこの世に生まれていない人たちのための画家としてつかわされたのかもしれないとすら言葉を紡ぐのだ。もちろんこれは、後世で定まったゴッホの評価と業績から導かれた言葉であるにしろ、シュナーベルはゴッホの狂気が作品を産み落としたのではないことを、表現者としての無垢の魂こそがそれを成し遂げたことを愚直といってもいい寄り添いで描いていくこととなり、そればかりかゴッホ視点によるショットで時折あらわれる接写と素通しの混在した不思議な映像によって、ゴッホの視たであろう世界を追体験せよと働きかけさえしてくるのだ。ただ、そうやってゴッホの心象へと溶けていくには、ウィレム・デフォーのしわくちゃの赤ん坊のような喜怒哀楽のチャームにともすれば目と心が奪われてしまいがちではあったものの、画家ゴッホについてまわる「狂気の」という枕詞の払拭という点でシュナーベルの野心が達成されたのは確かに違いなく、それはおそらく芸術という精神の在り方に対する、世界の根底にある違和の健全性を問う試みであったようにも思うのである。自然の音とゴッホの音とがあわい光の中に溶けていく白昼夢のような瞬間はミュジック・コンクレートのようでもあり、実を言えばそれだけでも良かったと思わなくもない。
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2019年11月11日

IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。〜長くていいのは親の寿命

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ベヴァリーを捉えた恐怖の源泉となっている自らの女性性に対する怒りや困惑をいささか体よく使っていたり(原作でもフクナガ版の脚本でも薬局のくだりや日光浴のシーンにセクシャルなあてこすりはない)、彼女をルーザーズのミューズではなくお姫様と騎士という定型におとしこんだジュヴナイルへと刈り込んだ前作に今一つ乗り切れなかったこともあり、年だけを重ね大人になった彼女や彼らが真の通過儀礼を果たすための代償をペニーワイズに支払うその痛みと哀しみは、この大人篇においてようやく純粋な身の丈として沁み渡ったように思うのだけれど、死とセックスのオブセッションがイノセンスを殺していくアメリカの蒼ざめた神話をデリーという町の衰亡に重ねていくマクロコスモスを、こんな風にかいつまんでイベントムーヴィー化することの必然と切実が最後までワタシには見つからないままだったように思ってしまう。ホラー映画としてはなるべくペニーワイズを登場させねばならぬとはいうものの、ならば『ファンハウス/惨劇の館』で事足りてしまうよねという野暮を透かすように臆面もなく『レディプレイヤー1』ばりにホラーの断片を切り貼りするどころか、ミセス・カーシュのシークエンスではシャワーキャップの裸踊りなどほとんど『インシディアス』の瓦解する恐怖すらをまんま引用する豪快さ(ミセス・カーシュのあからさまなエリーズ寄せ!)が愉しくはあったものの、それぞれが儀式のアイテムを探すエピソードではさすがにネタ切れが否めないままこれが人数分だけ繰り返されることになるのかと、あろうことか『エンジェル ウォーズ』の宝探しイベントすらを思い出す始末で、ホラー映画にとって「弛れ」を越えた「飽き」はほとんど致命傷といってもよく、中華料理店あたりでの何かは知らぬが更新されそうな気分はここで霧散したといってもいいだろう。縦糸と横糸をありえぬ配色で偏執的に織り込むうち、ある瞬間ふっと予期せぬ文様がそこに浮かび上がって恐怖と希望が加速するのがキングの長篇を読む醍醐味なわけで、その文様だけを手に入れたところでそれは一匹の亀であり一匹の蜘蛛でしかなく、いずれ負け戦であるとするならばいっそキューブリックのように戦いのルールを変えてしまうくらいのヴィジョンで塗りつぶして欲しかったと思ってしまうのが正直なところだし、そしてそれは第一稿の時点で「頼むからワーナーはこれをこのまま映画にしてくれ」とキングに絶賛されたフクナガ版のシナリオと彼のヴィジョンであったのは言うまでもない。逃した魚は大きすぎた。
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2019年11月08日

マチネの終わりに/愛とは決して反省しないこと

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空間をケチらないロケーションや的確にデザインされた陰影をとらえるカメラ、ハイプなキャスティングもなくアンサンブルのラインも真摯に維持される中、蒔野聡史を演じる福山雅治だけがどこかしらリハーサルの風情のままもう一段(二段かもしれない)腰を落とす気配がないものだから、こちらはいったいどこまで真顔で追ったらいいのか最後まで遠巻きにしたままだったのである。深淵で怪物に喰われかける表現者の喪失と再生を刹那の愛に託すという筋立ては非常にわかりやすいものの、そのプロットの実践が演出者と演者とで決定的に乖離したままどうして映画が完成してしまったのか、その道程が理解しがたいというよりは純粋に興味すらおぼえたわけで、ある種の躁病的な饒舌という設定なのかと思った蒔野の軽さはそれが本質のまま覆されることもないものだから、蒔野が小峰洋子(石田ゆり子)を見初めるのは彼の勝手にしても、自分の人生をリスクに晒してまで洋子がそれに応える理由が何なのか、洋子の母(風吹ジュン)が言う「男の人に惹かれるのに理由なんかありゃせん」というセリフのままに洋子ですらがわからないそれをワタシが知る由などあるはずがなかったのである。それを取り繕うかのようにリチャード新藤(伊勢谷友介)は次第に精神の深みを欠いたいけ好かない人物として描かれ始め、そして何より、本来は蒔野と洋子とで拮抗した三角関係を成立させなければならない三谷早苗(桜井ユキ)にしたところが、予告篇で印象的だった「わたしの人生の目的は蒔野なんです!」という彼女のセリフの絶望的な自己矛盾によってプレイヤーとして土俵にあがるべきところを単なる泥棒猫のような悪人として描いてしまう始末で、重力を無視した蒔野の磁場が映画空間を狂わせていくその様はなかなかに圧巻である。原作は未読ながら三谷の造型に関してはさすがに脚色のエラーだろうとは思うものの、これを蒔野と洋子の凡庸で下世話な悲恋に収束させるつもりであったならかなり意図的な書き換えということになるし、その目論見は鮮やかに達成されたといっていいだろう。そもそも恋愛とかいう人間の実存的な行為に対する問いも答えも明快に存在するわけはないにしろ、だからこそそこに至るまでの手続きは合理的かつ実際的に行われる必要があるに違いなく、さすがにハネケやファルハーディの綿密や緻密までを求めることはしないけれど、それを余白の抽象のまま投げ出してみたり(『楽園』)、あるいは今作のように破綻を来すほど矮小化してみたり、その責を観客に負わせることが映画の問いかけだというポストモダンの信念がいまだ邦画には顕著な気がして、断定のダイナミズムによる混乱と騒乱を待っているうちに何だか疲れて眠くなってしまうのだ。というわけで、あの暗証番号が目に入った瞬間、ブランキー者はいったい誰だ?と目が冴えた瞬間がピーク。
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2019年11月06日

ジェミニマン/おまえもウィル・スミスにしてやろうか

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※通常フォーマットで鑑賞したので、映像面での評価はまるで反映されていません。

初期アン・リーの父殺しならぬ父助けの三部作を嗅ぎつけてのオファーであったのか、父の救済という視点による父子関係というアメリカ映画ではなかなかスイングしにくい題材ではあるのだけれど、序盤のヘンリー(ウィル・スミス)とダニー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)の会話におけるダニーと父親の関係や、息子のやらかしで学校に呼び出される担当官パターソン(ラルフ・ブラウン)の父親としての顔を物語の本筋とは別にそっとインサートすることで、この映画の骨子が父子の変奏にあることをアン・リーはサブリミナルのように埋め込んでいく。のだけれど、いつしかそんなサブテキストなどおかまいなしにヴァリス(クライヴ・オーウェン)とヘンリーによるジュニアをトロフィーとする父親レースが国家を巻き込んだ陰謀を巻き起こしていくわけで、ほとんどジュニアの意向などおかまいなしに父親面をしては説教をかます2人の鬱陶しさを味付けするにあたり、それをアン・リーに託した製作陣はその点においてそれなりに慧眼であったのか、俺はまだまだお前になんか負けないぞ、なんなら今ここで競走してみるか?ほら!とかいうラストの小芝居を見るにつけ判断は保留せざるをえないものの、あくまでウィル・スミスなりにではあるにしろしばしば遠い目などしては枯れた風な味わいなど漂わせていたし、傷を負ったジュニアを自ら手当てするヴァリスの撫でるように柔らかな手つきに歪んだ愛情を塗布するあたり、この映画が『ラ・シオタ駅への列車の到着』と化してしまわないための艤装はあちこち見てはとれたように思うのである。通常であればロマンス要員であったであろうダニーも、すでにヘンリーの愛情がジュニアに注がれているとあってはジュニア奪回のためのパートナーとして敬意を払われた上で銃弾を食らったりもするわけで、放っておくと独り者ヘンリーのメランコリーがウェットにまみれがちになるところを彼女のドライな馬力が程良く湿気を吸い取っていた点もアン・リーの的確な采配といっていいのだろうし、それに文字通り体を張って応えたメアリー・エリザベス・ウィンステッドこそがこの映画のMVPに相応しいのは言うまでもなく、ハードな追跡劇を繰り広げる最中、それが不可欠であるにも関わらずこの手の映画で飲食が描かれることがまずない中で(イーサン・ハントが何かをパクつくシーンを見たことがあるだろうか)、湿気たクラッカーを親の敵のように貪るダニーの姿に、何からは分らないながら救われた気分になったのだった。『ヴァレリアン』に続いて余白のある悪役となったクライヴ・オーウェンだけれど、いったんこの枠にはまりだすとメインから遠ざかる気もしてしまうのが、野卑とノーブルとを兼ね備えた大好きな俳優なだけにやや心配。それにしても、愛息へのなりふりかまわぬ親バカっぷりといい善き父親への強迫観念でもあるのではなかろうかというウィル・スミスへの皮肉めいたキャスティングを知ってか知らずか、そして父になるヘンリーを味わい尽くすような笑顔で演じる姿に、ジェイデンの内なる無事を祈らずにはいられなかったのである。
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2019年11月01日

真実/目薬をほんの一滴

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ファルハディの映画のように切羽詰まったタイトルを戴いてはいるものの、あぶりだされた真実が実存を苛んでいくというよりは、信じたことが真実となるように裏切らないことを私は貴く思う、というファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の演技論が人生論を呑み込んでいく時の楽屋落ち的な軽やかさとペーソスでカトリーヌ・ドヌーヴというジャンル映画を仕立てたように思ったのである。そうした構造が示すように、ファビエンヌとリュミール(ジュリエット・ビノシュ)の母娘がマノン・ルノワール(マノン・クラヴェル)という女優との邂逅によって、2人が奥底では共有するある喪失と折り合いをつけて再生を果たすという、場合によっては真実と刺し違える覚悟を求めるような筋立ても常に光の射す中で描かれることもあり、語るべきは劇中劇「母の記憶に」に任せるという二重構造によって、孤絶した精神がだんだんと世界から透き通っていく是枝作品のメランコリーは意図的に封印されることとなるわけで、それを理解しつつも生前のサラとファビエンヌ、リュミールの3人が繰り広げたであろう真実と愛憎の物語をどうしてもワタシは夢想してしまう。したがって、どちらかと言えばファビエンヌとリュミールの母娘をとりまく人たちに是枝作品のカラーが滲んでいて、リュミールの夫ハンクを演じるイーサン・ホークの阿部寛的なうっすらとした自虐は目に愉しく、映画の実質的な小さなエンジンとなるシャルロット(クレマンチヌ・グレニエ)の演技を超えた転がり方もまた馴染みに思えたりもした。撮影を終えた終盤、マノンとファビエンヌ、リュミールによるサラの弔いといってもいい交流はいささか性急な物分かりの良さが気になったのだけれど、それもまたあくまでウェルメイドに収めるための野心ということになるのだろうか。ラストショットでシャルロットが落とした黄色い帽子は、それを拾うマノンの姿を象徴的に予感させることで、シャルロットにおけるサラとしてのマノンという物語の未来を伝えたようにも思える。作品の感触としては『誰も知らない』の後で新たなフェーズに向かう前に、あえて決め打ちのジャンルに正面から向かうことでスタイルを整理した『花よりもなほ』に近いように感じた。ファビエンヌがブリジット・バルドーを斬り捨てるセリフと表情はドヌーヴと監督のなかなか際どい共犯行為に思えたし、そうした関係性が言わせる「それが暴力的だろうが日常的だろうが、映画には詩(ポエジー)が必要でしょう?」というセリフが、いくたびか捉えられたドヌーヴの横顔を超然と浮かび上がらせたようにも見えた。イーサン・ホークの偏執的といってもいい目盛りによる「卑」の調節については言うまでもなく。
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2019年10月29日

楽園/地獄は足りているか

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ここではないどこかを夢想せざるを得ない人々の希望と絶望をつづれ織りに仕立てた群像劇という意図と狙いは紛うことなく理解できるし、役者陣もそれぞれの役柄に真摯な血を通わせていたことは言うまでもないのだけれど、ではなぜ、今連ねたような言葉の上っ面をこの映画はすり抜けていってしまうのか、二つの独立した原作短編をより合わせることでさらに強靭な普遍を呼び出そうとした試みが感情のサイクルを少し急きたて過ぎたことはともかくとして、『菊とギロチン』の時にも感じたのだけれど、シナリオはすでに叫びであって機能と合理で引かれた設計図ではないとでもいうその熱量をどう受け入れるかによって評価は真っ二つになるのではなかろうか。ただ、その熱量にしたところで、あらかじめ決められた不幸と絶望のレールを歩いていく人たちの裸足の足裏を熱するばかりな気もするものだから、それぞれの運命を襲う筋の通った不条理という矛盾それ自体の露悪にとどまった気もしてしまうのだ。要するにそれは「為にする」というやつであったと言えばいいのか、豪士(綾野剛)と善次郎(佐藤浩市)の生き地獄を紡(杉咲花)が串刺しにすることで彼女を「楽園」という主題の担い手にするための手続きにそれが顕著で、原作ではどのような比重の人物なのかわからないけれど、彼女を光の方へ覚醒させる触媒としての広呂(村上虹郎)という青年の扱いに戸惑いと言うよりは鼻白むのを避けられなかったわけで、そこに至る経緯も首をかしげざるを得ないのはともかく、同郷の2人が東京の青果市場で共に働くこととなるのはまあ仕方ないにしろ、いつしか広呂が病に倒れ(おそらく癌なのだろう)その頭髪やまゆ毛が抜けた風貌からすればそれなりの抗がん治療を受けた後なのだろうけれど、それほどの時間が経過するまで紡は広呂の病気のことを知らないまま、まるで交通事故にでも遭ったことを今しがた知ったかのような風情で病室にかけ込んでくるのだ。その後しばらくして、思い出しでもしたかのように紡に広呂から退院のメールが送られ彼の生存率を知ることで喪失と再生の種が紡に播かれるのだけれど、そもそもが広呂と紡では故郷を飛び出した動機と理由の質がまったく異なるにも関わらず、何の前触れもないまま広呂は突然「おまえが楽園を作ってくれよ」などと紡に言い出すわけで、ワタシはもしかしたら広呂は紡のイマジナリーフレンズなのかとすら思ったのだ。ならばと事態を巻き戻してみると結局は事件当日を描いたオープニングにまで至るわけで、ここで描かれる紡と愛華の関係がまずは消化不良のまま、紡の愛華に対する屈託がその場限りの子供の気まぐれなのか、それにしてはそれが紡の構造上の問題であるかのように思わせぶりなショットの落とす影はフーダニットのサスペンスを撹乱する意図であったのか、結局それは紡の人生をむしばみ続ける罪悪感を下塗りしていたに過ぎないにしろ、一事が万事この調子で逆算するものだからこちらの感情がなかなか併走していかないのだ。前述したように役者陣による入魂の演技によって折々の棘は刺さるのだけれど、それが抜かれることもないまま次の棘を刺されるものだから、その痛みがどの棘によるのものなのか次第に麻痺してしまうのも茫洋とした混乱を誘うことになる。特に邦画で気になるように思うのだけれど、脚本に綿密な整合性を持たせることでまるで余白や余韻が消えてしまうかのように、「描かない」ことを目的とするその筆致が観客であるワタシに負荷をかけているわけで、そしてその「描かなさ」によってワタシは「考えさせられる」のではなくワタシに「考えさせる」ことを求めてくる全体として説諭的あるいは教条的な口調に反発してしまうのだろうと、あらためて自分を把握したところである。セリフももっと字面から自由になればいいのにと思うし、書かれた言葉と話される言葉が互いの手を放してしまっていてワタシにはどうも他人事に聞こえ続けてしまった。ニュースのLIVE映像で故郷の事件を知った紡がすぐその最中に駆けつけられるくらいには東京から近い生き地獄だったのかと、もうひとつだけ意地の悪いことも言っておく。『二十歳の微熱』の時からずっと好きなので、一緒に時間を過ごしてきたような片岡礼子が観られたのはとても嬉しい。
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2019年10月26日

イエスタデイ/微熱老人

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64歳を目前にしたダニー・ボイル(63歳)とリチャード・カーティス(63歳)がオアシスをなぶりものにして笑いをとりにいくこのコメディに、かつてザ・ストーン・ローゼズのデビューアルバムを聴いた渋谷陽一が「これってザ・バーズのコピーバンドじゃねえか」とか、口調はともかくそんな風なことを言ったか書いたかしたのを想い出したりもしたわけで、誰がどんなアレンジで歌おうが演奏しようがビートルズの作品がいかに無敵かというただそれだけを繰りごとのように綴るその挿絵としてスラップスティックなラブコメを添えてみましたという、仕事に飽きた演出家と脚本家による昼下がりの茶飲み話のような塩梅の映画であった。というわけで面倒な細部は周到に避けて通っているのは言うまでもなく、主人公が作品を再現するに際してのハードルは歌詞が思い出せないというレベルにとどめて天才たちの仕事としてのアレンジワークについては触れることがなく、たとえば「アイ・フィール・ファイン」のイントロをいかに再現するかといった、ジャック・マリク(ヒメーシュ・パテル)がそれなりのビートルマニアであったら直面する難題が描かれることはないのである。何しろこれだけふんだんにビートルズの作品を使用しておきながら、主人公の心情とマッチするドラマのツールとしてサウンド的かつ視覚的に機能するのが「ヘルプ」のみであったという点で、制作コンビがそれほどの知恵を絞っていないのは瞭然に思えたし、大団円でのウェンブリーにおける告白にしたところで、せめて「オー!ダーリン」でも熱唱してみれば場が持ち直すところを、とりとめのないセリフ語りと益体のないフラッシュバックでお茶を濁してしまう体たらくにワタシは態度を決めざるを得なかったのである。劇中で唯一フォーカスが合った気がしたのが、あの人の登場するシーンであったことを思うと、この演出家と脚本が本来すべきなのは彼らのアナザーストーリー、アナザーエンディングを夢想してみることだったのではなかろうかと思わざるを得ないし、ビートルズが存在しなかったらオアシスが存在しないどころか、そもそも喜びも悲しみも世界の気分そのものが斯様に押し広げられていなかったに違いなく、ビートルズの存在しないディストピアのエリー(リリー・ジェームズ)や誰も彼もがアナザーワールドの彼や彼女と寸分たがわぬ人々であったのがワタシはなんだか理解できないのだった。すべてのイギリス人はビートルズを好き勝手に弄り倒せるライセンスを持っていると言われればそれまでではあるけれど。というか、たぶん言うにちがいない。
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2019年10月24日

ボーダー 二つの世界/もう靴下は履かない

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なんだ、私はこれでよかったのだ、孤絶していたのではなくあまりにも独立していただけなのだ、自由はすぐそこにあったじゃないかと気づかされたティーナ(エヴァ・メランデル)の束の間の安息の後で襲いかかる驚天動地は、新たな彼女が彼女(便宜上「彼女」とする)であるがゆえ逃れることのできない引き裂かれるような生き地獄でありながら、そこから手を伸ばしてくる憎しみの連鎖への誘惑を払いのけた彼女が最後にたどりつくのは「わたしは誰も傷つけたくない」という強く静かで美しい言葉だったわけで、原題(Gräns/Border/ボーダー)は“境界”に阻まれた者、ティーナとヴォーレ(エーロ・ミロノフ)がその“一線”を超えていく時の姿を謳っていたと同時に、この映画はその姿を、現実と非現実のさらなる境界を行き来させることで永遠につかまらない者として祝福したようにも思えたのである。ティーナとヴォーレが歩を進めるにつれそれまで視えなかった世界が顕わになっていく時、それはワタシたちのためのメタファーであるどころか一切の共感も共有も拒絶していて、それゆえその世界への畏怖にも似た感情がワタシたちの様々な罪深さを無効化するどころか、その意味すらも奪ってしまったようにも思え、それはすなわち世界から見捨てられたということになるわけで、それくらいこの映画の中からワタシたちは跡形もなくいなくなってしまうのだけれど、おそらくはそれゆえに純化した視線を最後には与えられた気もしたのである。まるで頁を繰るように積み重なっていく重層に沈む昂奮は文学にまみれる時の愉悦のようで、テキストでは可能な、説明をしないための説明という矛盾がここではすんなりと視覚に落ちているのは、ティーナとヴォーレの美醜を行き来するその容貌が奏功しているのだろう。美醜でいえばあきらかに醜いという印象を植えつけながら劇中では基本的にそれゆえの日常的な差別描写をしない一方、犬たちはティーナに対して、ティーナの家で飼われている犬ですらが彼女に対して狂ったように吠えかかり牙をむくわけで、社会的な表面と非社会的な内面の対比がより根源的な差別の残酷さを示していて秀逸に思える。物語があくまでこの容貌であることを譲らないのはやがてそこに真実の意味合いが生まれるからで、美醜のラインですらが次第に無効化されていくあたりもこの映画の実験的な醍醐味であるといっていいように思うし、何しろ最終的にはワタシたちの審美眼など及びもつかない世界までぶっ飛ばされるささやかな爽快すらも手に入るのだ。オープニングでティーナが掴まえた虫がラストではどうなるか、その遠くて近く、哀しくて力強く、優しくて荒ぶったひとつの魂の旅を、むしろありったけの予断を持って観ることをお勧めしたい。予断を持てば持つほどそれが粉砕された破片が突き刺さる傑作である。
posted by orr_dg at 19:43 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月21日

クロール −凶暴領域−/シーユーレイター、バリーペッパー

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生き残れなかった者が受ける仕打ちに悪魔的な凄惨を叩きつけることでサヴァイヴァーの血みどろに聖性を宿してきたアジャが、ストーリーテラーとしての成熟や深化を手に入れることで映画の尺は次第に100分を超えはじめ、前作に至ってはついに人死にの瞬間でスイングする術すら手放してみせさえしたわけで、しかしそうした現状のステージに何らかの飽和を見てとったのか、ここにあるのは、果たして自分はまだ糞袋としての人間が片っ端から屠られていくサヴァイヴァーの物語を90分以内で撮り切れるのだろうかという挑戦とそれを征服していくことへの高らかな昂揚であったように思うのである。本来がアクロバティックなショットのケレンにこだわるよりは状況と情報の出し入れでリズムを作っていくセンスに長けた人なうえに、ここのところの緩急の手配を身につけた語り口も相まって、見せるものと見せないものの間にはりめぐらしたスリラーの質がとても豊かになっている。原題の”CRAWL”がダブルミーニングであることを早々に明かすオープニングからソリッドシチュエーションに捉まるまでの間に充分なドラマと感情を貯め込んでおいて、あとはそれを血のあえぎと共に途切れなく流し続けることでヴィヴィッドな息使いを失うことがないそのスリラーは、ヘイリー(カヤ・スコデラーリオ)渾身のカモンサナバビッチ!が魂の叫びとしてどれだけ響き渡ったかにも明らかではなかったか。アリゲイターを複数登場させることでモンスターとしてのキャラクター化を防ぎつつ、自分の尻ぬぐいだけでは済まされないヘイリーへの負荷のかけ方によってこれが最後までサヴァイヴァーの物語であることを見失わないシナリオも、躁病的でなく懐深いアジャのテンションに奏功していたように思う。いつのまにか楯突く側から楯突かれる側に移っていたバリー・ペッパーにメランコリーを滲ませつつも、父と娘の絆を最終兵器へと仕立てていく一瞬の狂気をコメディぎりぎりでドライヴさせるあたりのアジャには、やはりこちらがホームグラウンドなのではなかろうかと思わせる眼のきらめきが見てとれる気がしたし、とりわけ火事場泥棒のシークエンスは、湧き出すアイディアに小躍りしながら撮っているアジャの姿が目に浮かんだりもしたのだ。ヘイリーが手放さない手回し式の懐中電灯は、電池切れとかそんな雑なサスペンスに頼ったりするかよというアジャの自信満々のカウンターにも思えて、絶対絶命をはぐらかすようなキュルキュルキュルキュルという素っ頓狂な音が何ともチャーミングに鳴っていた。
posted by orr_dg at 22:33 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月19日

ジョン・ウィック :パラべラム/走っても走っても

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ウルトラバロックノワールとでも言えばいいのか、機能とか合理とかを一切無視した情動の残滓だけを壮麗に塗りたくった壁で世界を密閉しつつ、そこで淡々と行われるのは生死を振り分ける事務的な手続きであって、ジョン・ウィック(キアヌ・リーヴス)が殴りつけるように銃を撃つとき、まるで注射器が血を吸い上げるようにその弾道を生命が逆流していくのが見える気すらしたわけで、チャプターが進むにつれジョン・ウィックの重力だけがどんどんと重くなっていき、トム・クルーズの10分の1ほども膝の上がらないままもがくように走るその姿は、一度寄る辺なき世界を棄てたがゆえ奪った生命を排出することができなくなったその代償でもあるのだろうか、ジョン・ウィックの肉体は絶えず「遅い」のである。走るのも遅く、階段を昇るのも遅く、馬上の人となった時ですら馬は遅いでのある。しかしそれでも彼は愚直なまでに歩みを止めないわけで、どれだけ華麗に振りつけられたガンアクションや近接格闘が繰り広げられようとそこに爽快さは一片のかけらもないまま、どれだけ懸命に地面を蹴って走っても前に進まない夢の中の不快をワタシは共有するしかないのである。では、最愛の妻という生きるよすがを失った彼がなぜその歩みを止めることをしないのか、ジョン・ウィックは砂漠の果てで主席連合の長老に「自分が死んでしまったら妻の記憶、生きた証がこの世界から消えてしまうからだ」と答えるのだけれど、無垢を食い尽くすようなショウビジネスの世界で、決して器用な生き方をしているとは思えないキアヌ・リーヴスがそれゆえ成熟したフィルモグラフィー(たとえばソダーバーグ・クラブやタランティーノ・クラブとは常に縁遠い)とはすれちがいながら、なぜ第一線に居続けるべく不安定な更新を続けるのか、もしかしたらそこにはリヴァー・フェニックスへの想いがあるからなのではなかろうかとジョン・ウィックのセリフに思ったりもしたわけで、自分がここに身を置く限り世界が抱くリヴァー・フェニックスの記憶もまたそこに生き続けるのではないかと、かつて彼は考えそれを心に決めたのだろうと、あの砂漠のシーンでジョン・ウィックにキアヌ・リーヴスが重なって見えたのである。死亡遊戯的な階層の中、セセプ・アリフ・ラーマンおよびヤヤン・ルヒアンのシラット組と繰り広げる闘いは、『ザ・レイド』での彼らのアクションを知っていればこそキアヌの遅さが絶望的に映ってしまうのは否めないのだけれど、それを承知でキアヌはなぜああまでして骨をきしませ肉を打たせるのか、自分はこうしてここで生き続けるのだというキアヌの決意と覚悟がそれを裏付けしてみせた時、劇中で最も心えぐられる闘いへと装いを一変した気がしたのは確かなのだ。そして完璧なクリフハンガーで幕を閉じた今、ワタシの期待はルーキー・オブ・ザ・フィルムといってもいい裁定人(エイジア・ケイト・ディロン)が果たしてどれだけのアクションを仕上げてジョン・ウィックを待ち伏せるのか、その一点にかかっている。あれだけ偉そうにしておいて、闘わずして逃げるなんてことはしないと信じているよ。
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2019年10月17日

ヘルボーイ/言うほど猫が好きでもない

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異形の者への愛だなんだいうのは、自分がその対岸にいる者だっていう意識が言わせてるんじゃないのか?あん?とデル・トロに喧嘩を売ったわけではないにしろ、X-MEN的に角を落とした博愛の丸みに対してそれくらいの勢いで中指を立てなければリブートする意味などなかろうよという意味で、ワタシはこのニール・マーシャル版を歓迎したい。自らの異形と実存の問いかけを人間臭さとすることで共感を描いたデル・トロのコンセプトは赤銅のダークヒーローを翻訳する術として確かに有効だったけれど、ミニョーラの描く虚無のしんと冷えた感じを愛でてきた者からすればいささか物分りが良すぎる気もしたわけで、「おまえは小便みたいに黄色い素敵な目をしてるじゃないか」とヘルボーイ(デヴィッド・ハーバー)をねめつけるバーバ・ヤーガ(エマ・テイト)のセリフはデル・トロ版にはそぐわないながら、キャラクターではなく魑魅魍魎の跋扈する人外魔境の世界そのものを描くのだとするミニョーラにおいてはむしろこちらが日常会話にも思えるわけで、何で人間の側に立つかってえと悪魔とか化けもんとか何しろあいつら品がなくていけねえや、ってな与太を飛ばしつつ修羅をいくかのような倦んだ洒脱をヘルボーイの新たな造形と目指したように思うのである。その割に、ブルッテンホルム教授(イアン・マクシェーン)との関係にデル・トロ版のナイーヴが残ってしまっているあたりの詰めの甘さは巷間伝え聞く制作トラブルの残滓であった気がしないでもないし、二―ル・マーシャルにとって自ら脚本を書かない初の劇場作品であった点もマイナスに働いたのではなかろうか。おそらく製作陣は、全権を与えようものなら『ドゥームズデイ2』をやりかねないと危惧したのだろうけれど、実際のところ今作のチャームはその『ドゥームズデイ』的なニール・マーシャルのジョイパックフィルム魂が発揮された瞬間に宿っているようにも思えるわけで、俺たちは結局のところ糞袋に過ぎないという認識とその発露としてのゴア描写はこのご時世においてもっと称賛されてしかるべきだろう。まさか順撮りしたわけでもないにしろ、猥雑にあふれたルチャ・リブレのオープニングから擬似的なワンショットを多用した白昼の巨人戦あたりまでのナンセンスなドライヴが次第に法定速度に落ち着いてしまうのは、やはり誰かが踏んだブレーキによる気がしないでもない。そして何よりミラ・ジョヴォヴィッチのニムエ/ブラッドクイーンに妖しさと爛れが決定的に足りていない点でヘルボーイとのバランスを欠いてしまっていて、モニカ・ベルッチとは言わないまでもせめてレナ・ヘディあたりをキャスティングできなかったのかと「巨乳の女王にいかれちまったのか」というセリフに至ってはもう嫌がらせとしか思えない始末にも思えた。ミラ・ジョヴォヴィッチという俳優はいつどこで観てもまったく同じ顔をしているものだから、局面に現れるとどうも興を削がれてしまうところがあって、ならばいっそのこと役名もすべてミラ・ジョヴォヴィッチにしてしまった方がこちらもあきらめがつくようにも思うわけで、何を言っているかというと要するに言いがかりではあるのだけれど、映画をプラスチック化してしまうクィーンのその能力をそれだけ恐れている証拠なのは間違いがない。
posted by orr_dg at 20:25 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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