2023年03月10日

フェイブルマンズ/きみを壊す夢を見た

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おっと地平線が真ん中にきちまった、とおどけた素振りでカミンスキーのカメラが地平線をフレームの底へ追いやるラストのハッピーエンドは、そいつを支配しろ、そうすれば世界はおまえのものだという神託を受けたサミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル)が、スティーヴン・スピルバーグというその名前自体が映画史をなす怪物として生まれ変わる瞬間を謳いあげてみせて、自伝というよりも映画とは衝突と均衡の苛烈な反発であるというマニフェストの独白であったように思うわけで、キュアロンの『ROMA』やブラナーの『ベルファスト』とは半ば言い訳のような郷愁や感傷の不在において決定的に根本を違えている。あなたは何より衝突=CRASHに魅入られているのねとサミーのオブセッションを看破した母ミッチ(ミシェル・ウィリアムズ)は、それゆえサミーの通過儀礼の生贄として差し出されることとなるのだけれど、“起きたことのすべてに意味がある(Everything happens for a reason)”という彼女の言葉はカメラの暴力的ともいえる即物性の翻訳にも思えるわけで、『リバティ・バランスを射った男』がその活劇にしのばせたジョン・ウェインとジェームズ・スチュアート、ヴェラ・マイルズの三角関係は、やがて父バート(ポール・ダノ)をジョン・ウェイン、ベニー(セス・ローゲン)をジェームズ・スチュアートとして母ミッチをめぐる関係をサミーの潜在から引きずり出すこととなり、前述した神託を授けたのがジョン・フォードその人であったことを思ってみれば、やがて芸術と家族がおまえを引き裂くだろうというボリス叔父(ジャド・ハーシュ)の予言めいた言葉もむしろ好ましい呪いをサミーに補強したように思うのだ。しかしカメラとフィルムが自分の中で交錯した瞬間にゆらめくデモニッシュな光と影の正体を見極め手なづける術を知らぬサミーにとってそれは忌むべき呪いに他ならないにしろ、彼のフィルムに捕えられた母はそれゆえ家を去り、同様に彼のフィルムに捉えられた少年は嗚咽しつつクラスメートを叩きのめして立ち去っていくその姿に彼は禁忌めいた愉悦を感じたのではなかったか。だからこそ、かつてロバート・ジョンソンがクロスロードで出会った悪魔と契約したように、神にして悪魔ともいえる存在と邂逅したサミーがその闇の先にこそ光差すことを確信するラストに多幸と万能が溢れ出たのだろう。母と妹たちが出て行って今は父子2人が暮らす手狭なアパートメントの中、あるシーンで穏やかに悄然とたたずむバートのまるでかげろうのような影が壁に映るショットの残酷もまたスピルバーグの揺るがぬ一面であることは言うまでもなく、わたしは映画がおそろしいことを誰よりも知るからこそライオン使いたり得るのだと、150分の閧サれを語るこの映画の真夜中の独白のような息づかいを過去の漂泊と振り返るにはあまりにも血が脈打ち目がぎらついていたのだった。
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2023年01月02日

happy new year 2023

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sometime somewhere somebody
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2022年10月10日

LAMB ラム/ 「佯」【音読み:ヨウ 意味:@いつわる。だます。みせかける。Aさまよう。】

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※いろいろと触れています

オープニング、クリスマスにして懐胎の夜(まあそういうことなんだろう)を睥睨する主観映像を網膜に刻んでおきさえすればこの物語を支配する理(ことわり)を見失うこともなかったわけで、「禁断(タブー)が、生まれる」という惹句の品のないミスリードのおかげでアダ誕生の瞬間になぜマリア(ノオミ・ラパス)はイングヴァル(ヒルミル・スナイル・グドゥナソン)の超自然的な不貞を疑うことをしないのかと、品のないワタシはいぶかしげな目つきを誘われたことに軽い苛つきなどおぼえたりもしたのだ。しかし、その後ごく緩やかに明かされていく夫婦の深く静謐な哀しみの理由を知るにつれ、夫妻が一も二にもなくアダをわが子と溺愛する姿も、人知れず手に取ったライフルでマリアがおこなった凶行も、アダという幸福の妖精による催眠的な酩酊のうちにいつしか囚われてしまうわけで、それに耽溺しきったワタシたちはラストで鉄鎚のごとくふりおろされる彼方からの理によってどんでん返しのように天地を逆転されてしまうこととなる。その理とは冒頭の主観映像の視点の主である羊男がその血を繋ぐために施す托卵の行為に他ならず、その半羊半人の成り立ちゆえ雌羊にはおぼつかない赤子の生育過程を人間に託して巣立つまでの時間を、そんなこととは露とも知らぬお人好しのワタシは同じようにつけこまれた夫婦と共にアダの時間として見守っていたわけで、羊男によるイングヴァル殺しはマリアによる雌羊(アダの母)殺しの代償ということになるのだろうし、マリアの命を奪うよりは彼女の愛する者を2人同時に奪い奈落の孤独へと突き落す母殺しの罰は、羊男の世界においては当然にして最上級に苛烈な量刑であったに違いない。にも関わらず意外なほど後味として鉛玉を食らった気がしないのは、羊男にとってはごく自然な摂理が人間の絶望や哀しみを一顧だにしないまま遂行されていく冷徹の清々しさに加え、なにより人間の卑しい好奇に晒されぬままアダが真の人生に戻っていく後姿にハッピーエンドを見た気もしたからで、この国にあって件(くだん)の悲しく呪われた運命を知る身としてそれはなおさらなのだった。
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2022年09月07日

NOPE/ノープ/そんな目でおれを見るなよ

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ストレンジフルーツ・ホラーとでも呼べばいいのか、アメリカで黒人として生きることそれ自体がホラーなのだというその恐怖を悪夢のメタファーで描いてきたジョーダン・ピールが、それらにより暗喩の深度と洗練を施すことで、例えば『トレマーズ』的な表層で成立させることもスレスレで可能なラインを狙ったアクロバットによって、何かであって何かではない全体性の領域に図らずも近づいたあげく、禁忌の香る時空の裂け目を縫い付けて閉じるラストにはこれまでにない清々しさが満ちていたように思うのだ。OJ(ダニエル・カルーヤ)は、ビジネスのため白人相手にへりくだる父オーティス(キース・デヴィッド)に交錯した感情を抱いていたのかもしれず(あらかじめ目にコインが突き刺さると言う完璧な死者を見つめるオーティスの透徹)、必然的に白人が雇用主となる職場で相手の目を見て話すことをしないOJのそれは処世術であると同時にある種のレジスタンスにも思えたわけで、見なければ喰われないというGジャン(ジュープの言葉を借りるなら"the Viewers")に対する対処法をOJがいち早く手に入れた流れと、しかし見ることをしなければ倒せないというジレンマを妹エメラルド(キキ・パーマー)のピンチを救う咄嗟の行動で乗り越えて以降、この兄妹のコンビネーションがGジャンを退治するまでのストレートなガッツと熱量はジョーダン・ピールの新たなナラティヴにも思えたのだ。一方、その視線の呪いにおいてOJと対比して描かれるジュープ(スティーヴン・ユアン)は、かつて自分が見たあまりに圧倒的ゆえ世界の絶対値として映った暴力、それも人間以外の存在によって施されたがゆえ理解のブレーキの外れた純度の高い一発に自分の人間の奥底を破壊された男として生き続け、生と死が交錯した瞬間の絶望とはほど遠い昂揚と恍惚の正体を"the Viewers"(あの時ヴィニールクロスの向こうから彼を見つめたチンパンジーを彼に呼び起こしたのは言うまでもない)に見つけようとしたのではなかったか。しかしジュープはその動機と視線のよこしまにおいて逆襲され葬られなければならない運命にあるわけで、その姿は幸福な殉教者として描かれるホルスト(マイケル・ウィンコット)との対比においても念押しされジョーダン・ピールの切り裂くような潔癖の証左に映った気もしたのだ。近年の『すべてが変わった日』や『イエローストーン』『アウターレンジ』などにおいて、愛と暴力に裏打ちされた現代西部の正義をネイキッドなアメリカの再定義と試みる潮流が確実ある一方、決して牧場主にはなれない有色の者たちが周辺で馬を調教し代替えとしてのテーマパークを興すその姿をジョーダン・ピールはアメリカのエレジーとして綴ってもいて、だからこそ生き残ったOJには笑顔を、生き残れなかったジュープにはほんの一瞬の安らぎ(ああ全てはそういうことだったのか)を最期の瞬間に与えたように思うのだ。小さかったころ熱を出すたび、布団のような四角いものが次から次へと飛んできては自分に覆いかぶさってくる悪夢を見たことを、最終形態のGジャンが憤怒であらわにした口吻を見て久しぶりに思い出し、昨日見た夢も覚えていないのにそんな数十年前の夢をずっと忘れずに覚えているのは、自分の記憶の中で走馬灯のための取捨選択は既に終わっているのかもしれないなと、この映画の後味と相まって切なくも澄んだ気持ちになったりもしたのだった。
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2022年08月16日

ジュラシック・ワールド 新たなる支配者/あれ、おめえヘソねえじゃねえか

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脱出をはかるべく即席の松明をかかげて坑道を進むグラント博士(サム・ニール)が、その松明の火が思いのほか長く伸びて自分に届こうとした瞬間に小さく顔をそむけて身をよじるその姿の、リアルではあるけれど演技とはいえない、かといってNGテイクにもならない益体もない時間がいまだ記憶に残っているくらい、遺伝子操作という禁断の領域に手を突っ込んだ人間がその罪と罰として在る恐竜たちとどう決着をつけるのか、このフランチャイズが全6作を経てたどりつくその答えを予感させた前作ラストの荘厳は跡形もなく消し飛んで、この映画の目的がスタジオへの納品であることを隠しもしない取ってつけたような時間だけが神経症的なひたむきさで切り貼りされていたのだった。原作からすればかなり後退したとはいえパーク3部作にはうっすらと通底した、生命の進化の歴史から消えた恐竜を召喚することでそれを人間の行き過ぎたエゴの象徴とする自己批判のトーンは、ワールドのリブートに至ってあっけなく霧散して大恐竜アトラクションの精度を高めることに躍起となるばかりで、それでも『ジュラシック・ワールド 炎の王国』でバヨナがなんとか画策しようとした“フランケンシュタインの怪物としてのインドミナス・レックスとその鏡像としてのラプトルという構図のメランコリー”すらもどこ吹く風と“共存というおためごかし”で逃げ切りをはかる志の低さというか欠落には途中で何度か腕時計を見る始末で、かつてジョン・セイルズとウィリアム・モナハンが「4」のシナリオに設定した人間と恐竜のハイブリッドこそがメイジー(イザベラ・サーモン)ではなかったのかと、そもそもが納品仕事のために雇われたに過ぎないコリン・トレヴォロウにこのフランチャイズの幕引きなどできるはずのないことは『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』から彼をパージしたルーカスフィルム&ディズニーの判断にも明らかだったように思うのだ。スティーヴン・スピルバーグ、ジョー・ジョンストン、J・A・バヨナといった幻視に焦がれる監督たちからすると、トレヴォロウは撮らずにはいられないショットも語らずにはいられない物語も持ち合わせていないわけで、それは例えば、今作でオープニング(共存前)とエンディング(共存後)にインサートされる恐竜のいる風景にいったいどれだけの違いがあるのか、その間に繰り広げられた140分の旅がワタシをどこへも連れて行ってくれないものだから恐竜たちを見つめるワタシの視点が更新されるはずもなく、恐竜は人間が人間を断罪するツールの役割しか与えられていない。それどころか今作において黒幕となるルイス・ドジスン(キャンベル・スコット)の足元をすくうのは恐竜どころか黙示録気取りのイナゴであったという、無い袖を振る男トレヴォロウの愚策はそこにこそ極まっていたように思うのだ。明らかに『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』のヴァネッサ・カービーをなぞったと思しき闇商人ソヨナ・サントス(ディーチェン・ラックマン)も今作のキーワードとなる“とってつけたような”キャラクターとして冷やかな目に晒されたまま、誰の記憶にも残らないまま忘れ去られていく。そんな“とってつけたような”人々の群像にあって唯一一貫しているのはエリー・サトラー博士(ローラ・ダーン)で、人生の最終パートナーとしてロックオンしたグラント博士を我が物にするあけすけな貪欲だけが恐竜に太刀打ちできることを、30年を経て見事に証明してみせている。葬られたジョン・セイルズのシナリオを基に、次第に人間離れしていくメイジーがシーザーとなって王国を築き、年老いたウー博士を血祭りにあげるエピソード7をマット・リーヴスが撮る日を今は待ちたい。
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2022年08月07日

ブラック・フォン/ハローハロー、ハウ ロウ

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ソリッド・シチュエーション・スリラーとしてそのほとんどはフィニーが地下室に放り込まれて以降の時間で推移するジョー・ヒルの原作に、スコット・デリクソンとC・ロバート・カーギルが書き加えたブレイク家の物語、特に姉から妹へ書き換えられたグウェン(マデリーン・マックグロウ)の造形とその獅子奮迅の活躍によって、まるでスティーヴン・キング原作であるかのような必殺の泣き笑いで走り抜けるメメント・モリを手に入れたことで『デビルズ・バックボーン』にも通じるゴースト・ジュヴナイルの傑作へとたどり着いている。状況のエッヂを立たせるよりは状態のテクスチャーを敷き詰めるにおいて才を発揮するスコット・デリクソンにあっては、このジョー・ヒルからスティーヴン・キングへの脚色は狙ったというよりはスタイルの成立が連れてきたごく自然な結果に思われつつ、「パートリッジ・ファミリー」「悪魔のいけにえ」「燃えよドラゴン」「ティングラー」「チーチ&チョン」といった時代のシグネチャー使いもいつしかキングのセンチメントを息づかせて、そもそもこのジャンルに殉じた者でキングの子供たちでないものがいるのかというリスペクトフルな問いかけにも思えたりもしたのだ。一見したところ自身の屈託をアルコールと虐待に吐き出すタイプにも思えた父テレンス(ジェレミー・デイヴィス)も、彼が核兵器工場で働いていることや、彼の読む新聞の軍人年金に関する記事のインサートによって、復員兵としての過去とその影が彼や今は亡き妻にしてフィニーとグウェンの母を覆ってしまったのかもしれない背景をしのばせたあたり、共闘する兄妹が子供たちの敵に復讐する物語の悲観と楽観の余白として有効に作用したのではなかろうか。その行為以外に背景めいたことが描かれないグラバー(イーサン・ホーク)を、トム・サヴィーニ謹製のマスクをかぶりフィニーが罠にかかるのを待って椅子でうたたねする時のはだけたシャツからのぞかせた邪悪のみっちりとつまった腹の、しかし滑稽な曲線の一発で人外の底知れぬ始末の悪さだけを底上げする監督と俳優の企みに顔もほころんだし、かつては蛇蝎のごとく嫌われるその爬虫類性で忘れがたかったジェームズ・ランソンもここしばらくはヒールから転じたところで彼の本質に沁み入ることも多かったのだけれど(たとえば『囚われた国家』)、ここではコメディ・リリーフとしてあちらとこちらをノンシャランに行き来することで、子供たちが痛めつけられる物語の陰鬱を絶妙に晴らしてみせて影のMVPとなっていたのは間違いないだろう。そして何より、この世界から連れ去られ消えていく子供たちの魂を鎮めるために、すべての子供たちの復讐を請け負ったフィニーがグラバーを叩きのめすその姿を爽快な熱情で描く勧善懲悪の昂揚があるからこそ、イーサン・ホークは両義性の言い訳などない純然たるヴィランに身を任せたのではなかったか。その手を封印したかと思われたところで炸裂するジャンプスケアに思わずくぐもった声が漏れたその瞬間、MCUで縛られた両手両足を存分な自由で振り回すスコット・デリクソンの浮かべる満面の笑みが透けたように思えたのだった。繰り返すけれど傑作。
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2022年08月06日

X エックス/この道はいつか逝く道

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私にふさわしくない人生を私は認めない、と呪文のように繰り返すマキシーン(ミア・ゴス)の、単なる上昇志向というよりはここではないどこかを手に入れることの性急な希求へ何が彼女を駆り立てるのか、物語の最後に彼女がキリスト教原理主義者の宗教二世であり、そこからの逃亡者にして反逆者であることが明かされつつ、老婦人パールが次第に隠さなくなるマキシーンへの執着が、世界がふりかざす不可抗力によって人生を狂わされたことへの屈託と怒りにおいてマキシーンに感応したパールの暴走する共鳴であったことが告げられていく。レモネードのシークエンスでパールがマキシーンを認めて以降、カットバックやスプリットによって二人が潜在的な鏡像であることを、あくまでパールの妄想の産物として観客に示すことでテラーとサスペンスを維持しつつ、なぜマキシーンはああまで苛烈なやり方でその鏡像を破壊しなければならなかったのかを最後のワンカットでバラし、これって(パパも言ってる)聖なる干渉(Divine intervention)ってやつよねと口元をほころばせるマキシーンに、『パール』をプリクエルとする3部作のシークエルを見ることはたやすいだろう。どちらかといえば一撃で屠られるクルーの面々に対し、嬲るように息の根を止められる監督のRJ(オーウェン・キャンベル)はジャンルムーヴィーをアートムーヴィーに再構築(という名の偽装)するお題目を掲げた間抜けなスノッブと描かれて、そんなあてこすりをA24作品に刻印しつつひたすらスラッシャーに徹する一方で、怪物の深淵をのぞかせてはその呪いを解こうとする試みによって、老いさばらえたかつてのファイナル・ガールと若くして自覚なきファイナル・ガールがいつしか不倶戴天の敵として激突するラストに至っては、タイ・ウエストの新たな野心とその更新の高みとして諸手を挙げて讃えるしかなかったのである。すでに『パール』も傑作の予感しかしない。
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2022年07月22日

グレイマン/すずしい顔してババンバン

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※内容に触れています

義理や矜持のナルシスティックな奴隷に堕さないダンディズムと、しかしそのために破滅するだろうことを人生のある時期に受け入れているニヒリズム、そして何を考えているのかうかがわせないながら彼は答えを知っているにちがいないと確信させる不穏な信頼と全能の感覚。それらライアン・ゴズリングの眠狂四朗/市川雷蔵的な資質が、ルッソ兄弟の極めて硬質でタクティカルなアクションを白光と白熱の炎で照らしてみせている。『ウィンター・ソルジャー/シビル・ウォー』においてその清冽な合理性を快楽としていた白兵戦や市街戦が、ここでは物語の要請という枷を外されたことでさらに異常な精度の殺傷能力を兼ね備えていて、わけてもプラハの市街戦はシエラ・シックス(ライアン・ゴズリング)をある一点に釘づけにして三つ巴の大乱戦を彼の視点でスイッチすることで、今何が起きているのかをまったくストレスなく観客に理解させながら、シネマスコープを十全に生かした左右からの切り込みと水平の疾走によるその一つ一つがクライマックスとなるような見せ場をシームレスにつるべ打ちする銃声と爆発と跳弾のハーモニーはいつしかドラッギーですらあったのだ。血は流しても汗もかかない冷ややかな顔色のまま、致命傷を寸止めしては死地を脱するシックスの粋といなせ、色恋の気配にすら唾を吐く目つきとガンさばきでシックスに貸しを作るほど暴れまくるダニ・ミランダ(アナ・デ・アルマス)、最凶を示しつつ義理と矜持に生きる殺し屋として今後のキーパーソンになるだろうアヴィク・サン(ダヌーシュ)のアンサンブル誕生を謳う名刺代わりは、俺たち007撮れるんだけどというプレゼンも兼ねるルッソ兄弟のぬかりのなさ。ダニに助けられたシックスが、「ケガは?」と聞かれて「おれのエゴが少し傷ついたよ」というボンドごっこも、ここを起点に完全イーヴンでダニとシックスの猛烈な共闘が始まっていく。これを撮った君らは最高だが、スクリーンに忠誠を誓わないところは少し気に入らないねと、目だけは笑っていないトム・クルーズの笑顔が目に浮かぶ。
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2022年07月19日

エルヴィス/ぼくもプレスリーが大好き

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レイス・ミュージックであったブルースと、アイルランド/スコットランド移民から生まれたカントリー・ミュージックの融合が生み出したロックンロールを爆発させたエルヴィス・プレスリー(オースティン・バトラー)が、そもそもその最初から、黒人と移民という外縁からの未知で新鮮な刺激をエスタブリッシュが消費する搾取のシステムに囚われていたことをその悲劇としつつ、爆発するロックンロールの体現者としてのエルヴィスとグロテスクなシステムの体現者としてのトム・パーカー(トム・ハンクス)を契約された父子として描く試みは、たとえ一面的なカタルシスを手放すことになったとしても、それはエルヴィスの人生に対して尊敬と忠実を手放さないための誠実な回答であったように思うのだ。尋ねれば、おれはあの日聴いた「ザッツ・オールライト・ママ」を、あの日見たアーサー・クラダップみたいに歌いたかっただけなんだと答えるだろうエルヴィスがアメリカの宿命である父殺しを果たせるはずもなく、それを見抜いていたパーカー大佐もまた自身の境遇ではたどり着けるはずもないアメリカンドリームの欺瞞を知ればこそバックドアをくぐり抜ける術に長けるしかなかったわけで、世界中から責め立てられたパーカー大佐が絞り出した、私が彼を殺したわけではないという独白の苦渋に同情はしないけれどそれを理解はしたいとワタシは考える。パーカー大佐に命じられた“政治的な”対応への回答に窮したエルヴィスが思わず足を向けたメンフィスのビールストリートで、まるで凱旋した地元のヒーローを迎えるように色めき立つ黒人たちからの「きゃあ!エルヴィス」「よお、エルヴィス」といった声に気の置けない風な身のこなしで応えながらBBキングのいるクラブ・ハンディへと向かうエルヴィスの、おそらくは劇中で最も颯爽と軽やかな足取りこそが彼の幸福な真実の姿であったことをバズ・ラーマンは伝えたかったように思ったし、彼にとって人種は越えるべき壁でも渡るべき分断もでないその屈託のなさこそが彼にスペシャルをもたらしたと同時に、壁や分断をシステムとする人々にとっては底知れぬ脅威であったこと、そして彼はその両者が出くわしたクロスロードにひとり立って歌っていたことをもっと人々は知るべきだとも考えたのだろう。エルヴィスが夭折した1977年は大西洋の向こうのイギリスでセックス・ピストルズが彼の死から3ヶ月後にファースト&ラストアルバムをリリースした年であって、エルヴィスがRCAと契約して「ハートブレイク・ホテル」「ハウンド・ドッグ」「ラヴ・ミー・テンダー」などを片っ端からチャートの1位に送り込んだ1956年から20年の間にビートルズから何から「いろんなことが同時におこった(ボブ・ディラン)」そのあとで「ロックは死んだ(ジョン・ライドン)」ことにされたのは果たして偶然だったのか、誰が言ったのだったかロックとは疲れた身体に宿る昂揚した精神のことだという言を借りるなら(レニー・クラヴィッツはそれをA burning heart and tired eyesと歌っていた)、最期となったステージでピアノに磔となり冷たい汗をしたたらせながら恍惚とした眼差しで「アンチェインド・メロディ」を絶唱し終えたその時をもってロックは死んだのだと、陳腐で薄っぺらいばかりに思えた物言いに熱く赤い血が漸くにして通った気がしたのだった。
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2022年07月16日

リコリス・ピザ/走る夢をしばらく見ない

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フィリップ・マーロウを名乗るエリオット・グールドが深夜にキャットフードを買いにか、あるいは郊外のウェイド邸を目指してか、リンカーン・コンチネンタルをサンフェルナンド・バレーに転がした1973年のロサンゼルスを、かつてフェリーニが愛と幻想のローマを『フェリーニのローマ』や『甘い生活』でとらえたように、ポール・トーマス・アンダーソンは憂鬱なハッピーと狂騒のペシミスティックを偏執的な編み目でつづれ織っていく。始まってものの数分で、「ぼくは結婚したいと思う女性と出会ったんだ」と弟グレッグ(マイロ・ハーシュラグ)に告げるゲイリー(クーパー・ホフマン)は、5時の鐘が鳴っても家に帰らないアメリカの無垢とメランコリーの象徴として成長を求められない永遠の15歳を手に入れていて、もしここに推進されるべき物語があるとすればそれは、そんなボーイにミーツした10歳年上のガールとしてのアラナ(アラナ・ハイム)の目覚めということになる。ここでPTAが小骨を取り除くように避けたのは、成長という傲慢の香りする二文字を自らが謳う愚であって、相対を参照する生き方を強いられてきたアラナが、ゲイリーに振り回されながらサンフェルナンド・バレーで繰り広げられる、人種、政治、セレブリティ、マイノリティ、そして石油危機をめぐるささやかな地獄めぐりをすることで、自身の絶対性を手に入れるその姿をPTAは自身の投影としていたように思うし、その時の気持ちのまま今も自分は世界を見つめているだろうかという確認の時間がここにはあったようにも思うのだ。だからこそゲイリーとアラナは、かつてPTAがシネマスコープのスクリーンを手に入れた時の喜びを確かめるかのように、笑いながら息せき切ってシネスコの横長を右から左へ、左から右へとサンフェルナンド・バレーの通りを走りつづけるのではなかったか。そうやっていつしか映画の中で映画に溶けていくアラナ(「それって事実なの?ただのセリフなの?」)がその世界に殉じることで手に入れるハッピーエンドの永遠こそはPTAが映画を撮り続ける理由であり、ワタシが映画館で映画を観続ける理由なのだろうと、とても大切で決定的な答えを笑顔であっさりと手渡されて少しばかり茫然としてしまう。生まれ育った街に、屈託を飼い馴らす餌の手に入る映画館やレコード店や本屋があったことの僥倖をあらためて感じつつ、それを語ることがもはや遠い日の感傷や憧憬にしかなり得ない静かな憂鬱を知るからこそ、これまでずっと革新を更新してきたやアルフォンソ・キュアロン(『ローマ』)やケネス・ブラナー(『ベルファスト』)、クエンティン・タランティーノ(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』)といった監督たちがある種の終活でもあるかのように自らの三つ子の魂を映像化する熱情にうなずけもするわけで、だからこそ断絶や喪失を嘆くよりはその先でなお自らを鼓舞するPTAの青春プレイバックが眩しく愛おしくてたまらなく思えるのだろう。ニヤけた女たらしに思われたランス(スカイラー・ギソンド)が「ぼくはユダヤ教の家に生まれたユダヤ人ですが、自分の意志として無神論者となりました。この痛ましい世界に神がいるとは思えないからです。だからこの席であなたたちと共に祈ることはできないのです」とディナーに招待されたアラナの家で彼女の父親に言い放つガッツが好きだ。
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2022年05月31日

トップガン マーヴェリック/地球に飛んで来た男

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エスタブリッシュメントでオール・アメリカン・ボーイな、わけても『タップス』の役柄のその先でアメリカの国威発揚を引き受けた(ように見えた)トム・クルーズと、ケニー・ロギンズがひたすらデンジャーな機能美をシャウトする主題歌もあって、“太陽は僕の敵”だった1986年のワタシの射程に前作が入り込む余地があるはずもなく、誰だったか友人の家でTV放映の吹き替え版を断片的に見た程度で特段の思い入れもないまま今に至り、今回きちんと正対して見直したとて、かつて敬遠した自分を責める理由も特に見つからなかったのが正直なところに思えたし、この時はまだ、トム・クルーズという俳優が若きジョン・ウェインとして星条旗のマスコットとなるキャリアを一蹴し、作家性の強い監督をチョイスしてはその要求に応えることで自分の上限と下限と押し拡げながら、アートとビジネスを両輪に映画を人跡未踏の地へと走らせる馬力とスピードを手に入れる存在となることなどうかがい知れるはずもなかったのだ。そんな類の観客が今作を観てまず思うのは、前作でトム・クルーズを燦々と照らした太陽は今や西へと翳って悔恨と感傷の影を作り出すに過ぎず、しかしトム・クルーズはその太陽の角度も影の濃度も深度もすべてを把握して計算した上で、完璧なメランコリーをアクション映画としてデザインするという高みに挑んでそれを間違いなく達成したように思ったのである。ところでこれが戦闘機乗りの物語である以上敵は確実に存在するわけで、そのあたりの思想や信条については前作に引き続き曖昧にはぐらかしはするものの、今作において極めて重要な役割を果たすF-14がなぜアメリカから遠く離れたあの地にあったのか、前作が公開された1986年に全米を揺るがしたイラン・コントラ事件を思い出してみれば、その皮肉がアメリカに向けられていることに気づかされることにもなるわけで、これがその壮大で茫漠とした国を挙げての徒労の中で命を散らし続けるアメリカの若者たちに捧げたレクイエムとしてあるからこそ、マーヴェリックはチーム全員を帰還させるために我が身を差し出すことも厭わなかったのだろうし、ジョセフ・コシンスキー監督の前作『オンリー・ザ・ブレイブ』もまた“アメリカ”に殉じた者たちへの静謐で荘厳なレクイエムであったことを思いだしてみれば、トム・クルーズによって半ば封印されていたこの続篇がコシンスキーの手に委ねられた理由がうかがえる気もしたのだ。自分もまたいずれ消えゆく存在であることはわかっている、しかしそれは今ではないと、そのプライドと挟持をマーヴェリックに語らせたトム・クルーズではあったものの、それと同時に、夕暮れのサーキットの最終コーナーに突っ込んでいくキャリアのゴールを初めて意識させたそのメルクマールが黄昏を黄金のように輝せてなんだか切なくて仕方がないまま、あの笑顔に目が眩む。
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2022年05月24日

夜を走る/飲んだら殺るな

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何か決定的な分水嶺があったとしたらそれは、連絡先を教えてくれませんかと秋本(足立智充)が橋本(玉井らん)に尋ねた瞬間であったように思え、それまで描かれてきた秋本の像にはまったく似つかわしくないその積極性はそれだけ彼の決死の覚悟ともいえる一歩であったにしろ、望まねば裏切られまいという選んだつもりもないのに選ばされた生き方の中でずっと息を殺してきた秋本が、灯りとすら言えない光明に目を向けた瞬間、すべての均衡が狂い始めることとなる。洗車機に入った車それ自体は動かないものの、ゲート式のブラシが前から後ろへ移動することで車内からはまるで車が動いているように思える錯覚は谷口(玉置玲央)の幼い娘が口にしたそのままで、それは劇中で唯一秋本が自分の考えを自分の言葉で吐露した「自分は何も変わらないのに回りがどんどん変わっていく」というセリフの言い換えであると同時に、その洗車機のシークエンスが最初と最後とで円環する構成からすれば、希望にも至らないほんの少し明るい方へ身じろいだ者に与えられる罰とそれを与えるこの国のディストピアが、善悪というよりは精神の高低もしくは大小によってその横顔を変えながらまるで洗車機のブラシのようにやって来ては消えていくのではなかったか。そうやって無慈悲と絶望のブラシで精神の表皮を削られ続けた秋本が知らず剥きだされた自分に無垢の一触れを受けた時、善く生きようとすることで本性を完成させようとする意志が人間を人間たらしめているのだと、既に手遅れとなった人生にうずくまりながら気づくわけで、何も知らぬまま無痛で消滅することすら許されない秋本がその後に示す遁走の空白がただひたすらに切なくて仕方がない。しかし、その先に絶望だけがあったとしても一瞬の反転がほどこされた秋本にくらべ、欺瞞を如才のなさと言い換えるだけの谷口を待ち受けるのは永遠に続く生き地獄であって、彼が知らぬままその欺瞞も如才のなさもあっさりと妻の美咲(菜葉菜)に更新されていることを知るワタシたちの目には谷口家が偽装する幸福の姿がどう映るのか、ヴィデオ撮りしたホームムーヴィーのように画質も色合いも皮相なラストショットがまとう昏睡した白昼夢の寄る辺のなさは、一介のホラーフィルムを軽々と凌駕したように思うのだ。映画でも現実でも善行は静的に悪事は動的に行われることわりから、殺人や暴力が映画のダイナミズムと相性が良いことは今さら言うまでもないにしろ、あらかじめ帰る家の用意されたお仕着せを一蹴するこの地獄巡りからどうしてこうも目が離せないのか。狂気のバタフライエフェクトが紡ぐ因果がいつしか地獄の底さえ突き抜けるラインを描くのは、ここで行われるすべての行為から自己憐憫と断罪を排除することを監督が自身のダンディズムとして貫いていたからであったように思うのだ。罪とか罰とか言えなくなったところから本当の地獄が始まることを、そしてそれがこの国の原風景となりつつあることを、この怪物の無邪気な寝返りのような映画はあっけらかんと捉えてしまっている。異形の傑作。
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2022年05月19日

シン・ウルトラマン/そんなに人間は好きじゃないだろう、カラー。

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「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」ある局面でゾーフィがウルトラマンに投げかける言葉で今作のキャッチコピーにもなっているのだけれど、ウルトラマンが地球にやって来て以降の動向を注視していたゾーフィにしてウルトラマンがどうして人間にああまで入れ込むのか理解に苦しんでいるわけで、それはゾーフィならずともワタシも同様であって、ウルトラマンがよそで何を見聞きしたのかはわからないけれど、子供をかばって命をおとした神永(斎藤工)の自己犠牲より他にヒューマニズムの発露は見当たらず、あれがそこまでドラスティックな体験になるとは宇宙の美化委員を気取る光の星の人たちはそこまでナイーヴなのかと減らず口の一つも叩いてみるのである。その理由のおそらくは、いくつかのTV版エピソードをつまんでつなげたこの物語の構成がもたらしたもので、ウルトラマンで言えば全39話をかけて醸成された人間への感情や関係性を自明のこととして断りなく使い回してしまっているものだから、映画はここで何も育てることをしていないように思うのだ。それはウルトラマンと浅見(長澤まさみ)の関係にも顕著で、最期の闘いに向かうウルトラマンと浅見がそれを見送る屋上のシーンは、「ウルトラセブン」の最終話における“明けの明星”シーンをトレースする意志が明白だったにも関わらず、劇中では特筆すべき関係を育んでいないウルトラマン/神永と浅見の間にケミストリーが生じるはずもなく、血の通わないキャラクターで溢れかえる中いくばくかのカロリーが求められるたびに感情の要員として無茶振りへのリアクションを強要される長澤まさみが不憫でならなかったのである。そもそもが庵野秀明にしろ樋口真嗣にしろ、これまで「好き」が代弁する人間の絆や愛を衒いなく描けた試しがあったのかどうか、だからこそ手っ取り早く借り物に頼るしかなかったのではなかろうかと考えてしまうのだ。虚空に浮かぶゼットンの下、滅亡へのカウントダウンも知らないまま日々を過ごす市井の人々のショットなどそれらしくインサートはしているものの、例えば『世界大戦争』がたずさえた終末のメランコリーを真剣に欲したのだとすれば、禍特対のメンバーにおいて既婚者である田村(西島秀俊)や船縁(早見あかり)がそれぞれの家庭において、明かせぬ秘密を抱えたまま愛する人との時間をどう過ごすのか、透明な絶望を宿らせることはいくらでも可能だったように思うのだ。何ならある種の横断として田村のパートナーは女性である必要もない。そして何より、稀代のカルチャーアイコンを新たに更新するのではなく、ある種の人たちの感傷を慰撫するマーケットツールへ甘んじて転用した志には、それなりに慰撫されてしまった者としての後ろ暗さも相まって共感性羞恥を抱いてしまってもいる。地球における外星人の実存を問うやりとりがメフィラスとゾーフィと2度繰り返されるのもあまり上手くはないだろう。エスタブリッシング・ショットもないまま広角と仰角と俯瞰となめショット、すなわち実相寺アングルに明け暮れるドラマパートも思考の放棄をうかがわせて倦むばかり。それらすべてから解放されるファイトシーンだけずっと観ていたい。
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2022年05月17日

マイ・ニューヨーク・ダイアリー/言葉に目もくらみ

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それまでサリンジャーを読んだことのなかったジョアンナ(マーガレット・クアリー)が、「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んだあとでダニエル(コルム・フィオール)の悲劇をどう捉え直したか、あるいは「フラニー」を読んだあとで、カール(ハムザ・ハクドン)やドン(ダグラス・ブース)を遠ざけるしかなかった自分を見つめる新たな角度を手に入れたのか、いずれにせよジョアンナは、サリンジャーは残酷だ、という結論にたどりつく。それが、どれだけ願ったとしても世界は君を一顧だにしないにも関わらず、君は世界の法則から逃れることはできない、そして君が聡明で純粋であればあるほどそのシステムが君において暴力的なまでに機能してしまうとしても、君はその聡明さと純粋さで希望を照らさねばならない、なぜならそこにしか私たちの自我は可能性を持てないからだ、というサリンジャーの孤高が険しいことを知るばかりだったからこその言葉だとしても、それを知った以上、もうそれまでの自分ではいられないのだという清冽な痛みを伴う訣別によって、上昇するキャリアの成長物語とは一線を画している。編集者ではなくエージェントとして書く人をサポートするマーガレット(シガニー・ウィーヴァー)の、書かない人として捉える世界がいささか紋切り型のまま推移してしまうせいでさらなる複層に手が届かない物足りなさはあるものの、サリンジャーをことさら神格化せず“ひょこひょこおじさん”としての後姿を見つめるジョアンナの視点を譲らなかったことで、サリンジャー=ホールデン・コールフィールドの呪いというよりはサリンジャーという機能が描かれたのは新鮮なアプローチに思えた。リアルタイムの若い読者より他が「ライ麦畑でつかまえて」への耽溺でサリンジャーを語るのは、いまだにセックス・ピストルズによってしかパンクを語れない思考の停止にも似てうんざりするばかりなのでなおさらそう感じてしまう。紆余曲折あって今に至るも「ハプワース16、一九二四」が単行本として出版されていないアメリカとちがい、発表された作品のほとんどが翻訳された日本で「ハプワース」まで見届けたライ麦畑の読者はどれだけいるんだろうか。
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2022年05月12日

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス a.k.a. スペル 2

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愛とか恋とかいうよりは無自覚な父性の感情に衝き動かされてある女性の側に立ち、その彼女のナヴィゲートによる地獄巡りを経ることで、男も彼女もそれそれが自身の呪いを解いていく話と言えば、そのあらかたが『ドライブ・マイ・カー』に思えたりもしたのだ。そんな喪失と再生の物語において、愛されたり愛したりすることを厭うわけじゃない、怖れてるんだというストレンジの独白こそは子供じみたMCUの男たちの行動原理であったのかもしれず、ならばその恐怖と向き合いなさい、と間髪入れず返したクリスティーンの毅然は、彼らの尻を蹴り上げ続けたMCUの女性たちそのものであったといえるのだろう。一方で、新しいフェーズにおいてサノスに匹敵する仇敵の気配もいまだ見えぬ中、かつて繰り広げた闘いに生き残った者たちがその代償として引き受けた呪いそのものが敵として立ちふさがるのは『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』も同様で、そうした自家中毒の矛盾としてのワンダを仮想敵とするリスキーな物語の要請に対し、MCUのというよりはあくまで“スコット・デリクソンが監督した『ドクター・ストレンジ』”の続篇として、呪いに胸を貫かれた怪物の愛と狂気を敷き詰めるために自分は駆り出されたのだろうとサム・ライミが理解したのだとすれば、スナップオンで組み立て可能なプラスチックモデルのようなMCUのモダンな軽やかさに比べ、アイリスやオーヴァーラップといったクラシカルな技法を接着剤にして隙間なく組み上げた鈍色の塊がいかに異質でありながらも確信的であったか、ラストガールとしてのアメリカ・チャベス(ソーチー・ゴメス)を生き残らせるためなら、ワンダだろうが誰だろうがすべてを焼け野原にするのは当然だろうと薄っすら浮かべた笑みさえ透けて見えた気もしたのだった。ファイギも笑っているかどうかはわからないけれど。
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2022年05月02日

カモン カモン/永遠なんかいらない

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「録音が好きなのはさ、このいろんな音が永遠に消えてしまわないようにできるからなんだ」とジョニー(ホアキン・フェニックス)がジェシー(ウディ・ノーマン)に問わず語りをした瞬間、「いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ」という片岡義男の言葉を想い出して、中年の大人と9歳の少年の関わりで避けがたく起きてしまう齟齬の芽は、ペシミズムに捉われた者といまだ自由な者とのコミュニケーション不全であったことに気づかされたように思うのだ。過去現在未来という時間の連なりを人生と学習した大人は、現在が失われれば過去も未来も壊滅してしまうという判断の切実さで、未来のために過去の経験を駆使して現在を維持しようと腐心するけれど、人生という概念とその維持という命題から自由な子供にそのロジックの理解を求めるのはほとんどエゴイスティックな行為ですらあって、劇中でジョニーのチームが行うアメリカの様々な子供たちのインタビューにおいて彼や彼女たちが精一杯語る誠実で懸命な言葉の数々に耳と心を奪われてしまうのは、それがペシミズムを寄る辺としない精神から湧き立ったものであるからこそ、もはやペシミズムから逃げることのできないワタシたちは憧憬に近い共感を無意識かつ無条件に抱いてしまうのではなかったか。してみれば、ジェシーとの邂逅がジョニーにもたらしたのが、たとえペシミズムと訣別できないとしてもその在りかを知りそれと向き合い飼い馴らす術であったことは、たとえ思った通りの未来にならなかったとしても(だからといってあなたの現在や過去を否定することなんかない)、ただひたすら先へ進めばいんだよ、さあ、わかった?というジェシーの言葉を啓示のように宿らせた点においても明らかだったように思うし、現実から色や温度を抜いて存在の意志だけをその濃淡で綴るモノクロームが生活の手触りよりは宗教的な静謐を誘い続けたのも、これがジョニーとジェシーを包んだ小さな宇宙で起きた全体性の物語であることを謳うためだったのだろう。いつの日か子供たちがペシミズムに捉われるのだとしても、それは彼や彼女が自らそれを知るべきでワタシたちがそれを継承させることだけは断じてあってはならず、ここに出てくる大人たちは必死にそれを持ちこたえていて、それはもうニューオーリンズのパレードの最中、熱気と寝不足と大音量の中で踊る子供を背負いながら練り歩き、ついには気絶してしまうくらいなのだった。
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2022年04月25日

アネット/騙されるな、それは愛だ

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ラストで刑務所の面会室に現れたヘンリー(アダム・ドライヴァー)の、短く切った髪と生やした口髭が容易くレオス・カラックスを想起させるまま、完膚なきまでにアネットから愛を拒絶されたヘンリーを自身に投影してみせるやり口は、かつてドニ・ラヴァンを依り代に元カノと今カノとをフレームの中で交錯させたカラックスの私小説的な渾然一体からすればいささか整理が効いて物分かりが良すぎる気もしたにしろ、愛がなければ生きていけないけれど、ひとたび手に入れたその愛は我が麗しき欠落(劇中では「深淵」と言い換えられている)をスポイルしてしまうに違いないというパラノイアを喰って生きる「私」という人間の告解を思わせる体をとりつつ、その実そんな「私」への全面的な憐憫に満ち満ちた今作は、前作『ホーリー・モーターズ』にあった底知れぬ苛立ちからすればカラックスとしての健康をうかがえたのは確かなのだ。ヘンリーを“フェミサイド”と糾弾しハラスメントを匂わす幻想シーンをインサートして彼を共感の不能へと突き落としておきながら、アン(マリオン・コティヤール)もまた伴奏者(サイモン・ヘルバーク)との関係を明かさぬまま妊娠をヘンリーとの関係に利用したのだと、あなたたち二人は自分たちそれぞれの都合のために私をいいように使ったではないかとその欺瞞をアネットに責め立てさせるに至って、世界を肯定するか否定するのかそのどちらかを選ぶことへの強迫観念に囚われた人々に向けたカラックスの仕草に、この作品はそのフィルモグラフィーで初めて観客の存在を意識して撮り上げたのだろうことを思ったし、とはいえモノローグでもダイアローグでもなくリフレインによって主題を定着させるための機能としてミュージカルというフォーマットを選んだあたり、これまで観客との信頼関係の一切を必要としなかったカラックスがいまだ観客を信用していないがゆえの、過剰ともいえる苦肉の策に思えたりもしたのだ。ヘンリーとアンが真夜中のタンデムで走り抜けていく時の圧倒的な移動の快感を最後にカラックスは幻視のエゴを鞘に収めて、それから後はひたすら言葉(=歌詞)を尽くしてワタシたちに、愛とはけっして後悔しないこととかいう戯言は忘れろと説いている。
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2022年04月11日

シャドウ・イン・クラウド/馬鹿と煙は高いところへ

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※展開と結末に触れています

おそらくは字面でバイアスがかからないよう「いかり肩」と表記されるのが概ねだとして、クロエ・グレース・モレッツの場合、童顔といかり肩のアンバランスがチャームを生む一方でそれを持てあます居心地の悪さとなっている気もするわけで、近作でいえば『グレタ GRETA』の場合、モンスターを打ち倒すラストガールの役割をマイカ・モンローに奪われ彼女は撒き餌にとどまってしまうのがもどかしくもあったのだ。果たして監督のロザンヌ・リャンもそんな気持ちでいたのかどうかはともかくとして、だったら「いかり肩」は素直に「怒り肩」でいいではないかという一点突破が、球形銃塔から機内を経て不時着後は機外へと、とりまく空間を獲得するにつれアクションに火が点いていくモード(クロエ・グレース・モレッツ)の姿は次第に枷が外れていくクロエ・グレース・モレッツという俳優そのものに映ったわけで、グレムリンが彼女の元夫を始めとする腐ったマチズモの象徴としてあったのは言うまでもないにしろ、ウィル・スミス以来で人外をベアナックルで一心不乱にボコ殴りにする彼女の姿は、ついに獲得した解放の雄叫びをあげているようにも見えたのだ。ラストでモードが赤ちゃんに授乳するシーン、3人の男性乗組員がそれに対して軽口をたたいたりしないのはもちろん、どぎまぎしたり目をそらしたりすることもなくごく自然な行為としてハッピーエンドの光景として描かれていたこともとてもスマートに思えたし、エンパワーメントをテーマにしのばせつつ、モードを一番口汚く罵っていたドーン(ベネディクト・ウォール)に赤ん坊を救うという見せ場を与える定石をきちんと残したあたり監督のヴィジョンの明確さと地肩の強さ、そして垣間見えるジャンルへの偏愛に敬意を表しないわけにはいかないのだ。それがなければ83分の映画など撮れるはずがない。
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2022年04月07日

TITANE チタン/E=mc2

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モーターオイルが体内をかけめぐりチタンのプレートが頭蓋から子宮へとクロームの輝きを増すにつれ、マンマシンもしくはサイバネティクスの宣言体に見えたアレクシア(アガト・ルセル)は、車への偏愛を失うと同時に殺人と暴力の衝動も手放していく。しかしそれは彼女が宿した母性の証というよりも、怪物的な愛情を災害的な肉体に宿したヴァンサン(ヴァンサン・ランドン)との出会いがもたらした変容であって、エンジン音とのハーモニー遊びにふけるアレクシアを彼女の父親が拒否することですべてが始まったことを思い出してみれば、頭蓋骨に埋め込まれたチタンは愛情を欠いたままの世界に彼女を閉じ込めたに違いなく、愛を自称する感情が自分に向けられた時、彼女が本能的かつ無意識に求め続ける愛とそれら感情との違和と軋轢がアレクシアにその感情は偽だと伝え破壊を促してきたのだろう。事故にあった時のアレクシアの年齢は特定されないながら、その年格好をヴァンサンの息子エイドリアンが行方不明になった時の7歳という年齢に重ねるのはたやすく思え、してみれば、かつて致命的に無償の愛を失ったアレクシアと無償の愛を与える相手を奪われたヴァンサンの邂逅は、もはや呪いと化した愛に苛まれては咆哮する2匹の怪物が絡み合い、それぞれの牙や爪を相手の鞘に納めて異形を閉じることで人間だった頃の幸福を想い出す再生の手続きともいえたはずで、ヴァンサンの元妻(ミリエム・アケディウ)が、エイドリアン=アレクシアの正体に気づきながらヴァンサンとアレクシアの関係をむしろ積極的に是認するのは、それがどれだけ行き先知らずであるとはいえ、その共依存の愛情にしか元夫の幸福は見つからないことを一瞬にして理解したからではなかったか。『RAW〜少女のめざめ〜』もまた、この世界でたった一点だけ曇りのない純度で存在する愛のありかにたどりつくハッピーエンドだったことを思うと、ここでジュリア・デュクルノーがアレクシアとヴァンサンに託した、愛とそれがもたらす人生を肯定することへの爆風のような飢餓と貪欲に吹き飛ばされる爽快は肉体的な快感すらを覚えるわけで、あえて名前をあげる無粋はしないけれど、それはジュリア・デュクルノーが血肉としたリファレンスを産み落とした監督たちがかつて掲げた、精神が肉体を変容するのではない、肉体が精神を変容するのだという宣言の最新の行使であったように思うのだ。そしてジュリア・デクルノーがここで捉えた、空間に占有する肉体の質量とそれが等価に交換するエネルギーの熱狂的な関係はアインシュタインが仮説した世界の法則を叫んだかにも見えたのだ。舌の根も乾かぬうちに先ほど書いた無粋をしでかすのは承知で、裏返った現実がもう一度裏返った時に極北で最適化される現実の目論見として、三池崇史『牛頭』がゆらっと立ち上がったことは記しておきたい。
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2022年04月04日

ベルファスト/月より遠くきみのとなりへ

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バディ(ジュード・ヒル)が知っているのはカトリックとプロテスタントは仲が悪いということで、ではその人たちは何が違うのかというとどうも告解をするかしないかのようだという9歳の少年の理解を答えに、不条理やメランコリーというあきらめの色眼鏡をかけずに眺める世界の囁くような息づかいや苛烈な身のこなしを一人の少年の発見と体験の記憶として描くことで、あの年のベルファストとブラナー家に流れた優しさも暴力もそのすべてが等しく均された時間はいつしか普遍を手に入れて、曖昧だった感情にまた一つ新しい名前がついた気もしたのだ。バディがTVで見ている『リバティ・バランスを射った男』や『真昼の決闘』といった西部劇の重層的な正義を貫く主人公は、アイルランドのアイデンティティよりも家族の幸福を最優先する父親の投影でもあったことは、『真昼の決闘』でやるべきことを為すため町に残るというゲイリー・クーパーにわたしは待っていられないと詰め寄るグレース・ケリーのシーンを、バディの父(ジェイミー・ドーナン)と母(カトリーナ・バルフ)が家族の行く末について電話でやりあうシーンに重ねたことにも見て取れる一方、カトリックの経営する雑貨店の略奪騒ぎに巻き込まれてわけもわからず商品の洗剤を持って帰って来たバディを、いまだ暴動の真っ只中にある店まで有無を言わせず引きずっていっては「今すぐそれをそこに返しなさい。今度こんなことをしたらお前を殺すからね」と烈火の如く怒鳴りつける母は、子供たちが日々の人生をまっすぐ健やかに歩くためにはいかなる献身も厭わない愛情の人として描かれて、かつて闘争の歴史において暴力と流血の代名詞となったベルファストにあの時生きていた人々が、いかにして愛を育みそれを慈しんでいたことか、自身にとっての揺るぎない過去であり記憶であり何より故郷であったベルファストを語り直すことで、ケネス・ブラナーはかつてそこに存在したすべての人たちを正しい時間に正しい場所に生きた人として鎮魂することを願ったのは、それを託す象徴として選んだ祖母(ジュディ・デンチ)の透徹した眼差しを捉えたしめやかで静謐なラストショットに明らかであっただろう。生活とは時間でそれは一方的に先へ先へと進むばかりでそれを受け入れるか抗うかを選択することしかワタシたちには許されておらず、時間をそこに止めおくことへの執着はペシミズムしか生み出すことはないわけで、「さあ行きなさい、ふりかえってはだめ」という祖母のモノローグと、その視線の先ですでにロンドンへと心が向いたかに見える車内のバディの無情にも映る対比こそは、ワタシたち人間が生きることの原罪のようにも思え、ジュディ・デンチのクロースアップがいまだ目に焼きついて離れないまま、あとどれだけ自分は前を向いて生きていけるだろうかとずっと自問を促されている。
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2022年03月29日

ナイトメア・アリー/この世界の穴ぐらで

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天賦ともいえる人たらしの才で、いつの間にか相手の懐に入りこんで信頼を手に入れては躊躇なくそれを利用しつつ、自らは誰一人として信頼を与えないことで非情と非道を操る術をストリートワイズとするスタントン・カーライル(ブラッドリー・クーパー)という男の、それでもある種の人間に時おり見せる損得抜きの共感が彼の内部のどこからやって来ていたのか、それは世界に流れ出すきっかけとなったある行いを実行した時に彼の中で宿った、おれはもうあらかたが死んだ人間なのだとあきらめてみることで希望や自尊の輪郭をもういちど夢見る試みだったのかもしれず、そうやって駆動した彼のピカレスクがついに息絶える瞬間、天啓のように彼を打つのは、自分はあの時に穴の中で一緒に死んだのではなかったかと記憶の扉を叩く音ではなかったか。これでようやくすべての呪いから解放されるという安堵とその先にある底なしの昏睡への微かな畏れがないまぜで押し寄せるスタンの表情に浮かぶのは、決定論と自由意思のあくなき闘争の果てに斃れる男がたどりつく仄明るい諦念の瞬間にも見て取れて、やがて顕れるだろう秘密の分身に本能を誘われたからこそスタンは野人に慈しみを示したのだろうし、リリス・リッター(ケイト・ブランシェット)はスタンの中に眠る分身を認めたからこそ、その暴発を自身の復讐に利用したように思ったのだ。精神的に無償の関係を他人に築けないスタンに「愛しているわ」と囁くことで揺さぶり瓦解させるリリスは自身の怪物性に自覚的な点で常にアドヴァンテージを保ちつつ、その診察室にたちこめる濃厚なメランコリーは彼女を襲った悲劇がファム・ファタールの怪物を生み出したことをうかがわせて、その恐ろしさは哀しみの背中にはりついてやってくる。精緻な細工が美しく施された青いガラス玉のような、それ自体は光が輝くことなくそこに世界を映すただそれだけのために磨き抜かれた、それゆえ世界のどこにも視点が合うことのないブラッドリー・クーパーの瞳を、何よりあのクロースアップのためにデル・トロは必要としたのだろうと、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のラストショットに磔られたロバート・デ・ニーロをいつしか想い出してみたりもしたのだった。珍しくも人間が人間を殺める陰惨な人死にを執拗に描くデル・トロは『クロノス』以来ではなかったかと、ブラッドリー・クーパーを殴り倒す盟友ロン・パールマンにうっすらと感傷を抱きつつ、これはデル・トロの原点回帰というよりは現在地の再確認。
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2022年03月21日

ガンパウダー・ミルクシェイク/フェミニストを撃て

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『オーシャンズ8』や『355』といったあたりの、界隈の刷新と更新を目指したはずの作品群が、功成り名遂げた俳優たちが気晴らしに集っては新春スターかくし芸大会(はたしてどの世代にまで伝わるかはともかく)的なノリではしゃぎまくるサロン系映画(ソダーバーグ・サロンやタランティーノ・サロン等々)の域を出なかったのは、手段の目的化という罠に落ち切実と必然を欠いた凡庸を誘ったからに他ならず、その点において監督/共同脚本のナヴォット・パプシャドは、すべてがうまく行ったとは言わないまでもこれは彼女たちにしか歩めないのだというその道筋を最後まで見失うことはなかったように思うのだ。それは、男性が行うことはあたりまえに女性も行うのだという書き換えというよりも、男性が行おうが行うまいが人間が行うことを私たちは行うし、それを塞ぐなら躊躇なく排除するというシンプルな原理であって、クライマックスのダイナーでサム(カレン・ギラン)の母スカーレット(レナ・へディ)が告げる「もう私たちは見ているだけでいるのはやめた。どちらにつくか決めることにするわ」というセリフと、そこから開始される大殺戮、すなわちバランスの破壊こそが冒頭にあげた作品に欠ける決定的な意志であったのは言うまでもない。アクションやその佇まいに散見されるクリシェやネオンカラーのポップとキッチュとグロテスクをシェイクしたオフビートの既視感にも関わらず、キャラクターたちが終始ヴィヴィッドな目つきと身のこなしを手放すことがなかったのは、そうした監督のヴィジョンへの信頼とその求心力によっていたことは間違いがないだろう。ラストシーンの車中で、運転してもいい?とねだるエミリー(クロエ・コールマン)をダメよとあしらったことで、母たちの世代からサムに継承された殺しの系譜をエミリーに及ばせるつもりのないことを暗示はするものの、8歳(と9カ月)の彼女が車の運転に味をしめるきっかけとなった地下駐車場でのサムとエミリーによる二人羽織のカーアクションにおいて、エミリーは知らないまでも(サムはエミリーに目をつむるように言う)追手の命を奪うという殺人の片棒を彼女にかつがせたのは、たとえそれがサムとワタシたち観客だけの秘密とはいえ少しばかり危うい道草ではなかったかと少しだけもやもやしたのは正直なところ。凄腕で不機嫌な女性の殺し屋という造型は「キリング・イヴ」のジョディ・カマーが登場と共にいきなり最高得点をたたき出してしまっていて、それをかわそうと意識すればするほど可動域を失う不利は、これから先いろいろなところで監督と俳優がそれを味わうのだろうなと少しだけ気の毒に思ったりもした。序盤で、ジョニ・ミッチェルやジャニス・ジョプリン(今作でもどこかで)に比べればほとんどインサートされることのない(『スーパーノヴァ』以来か)カレン・ダルトンの歌声が流れだした瞬間からワタシの点数は甘くなり始めたのだけれど、それをさほど引き締める必要のないまま幕を閉じたにおいて、カレン・ダルトンのハスキーがインサートされた映画にハズレなしという法則を、この先誰かがダメ押ししてくれることを願っておきたい。忘れるところだったけれど、クズにも質の良し悪しがあってだな、もちろん俺がどっちかは言うまでもないだろ、とはだけた胸元にクズの矜持をのぞかせたアダム・ナガイティスの分で星1つ上乗せしておく。
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2022年03月15日

ザ・バットマン/A Portrait of the Vigilante as a Young Man

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ゴードン(ジェフリー・ライト)の手引きで取調室を脱出したバットマン(ロバート・パティンソン)が屋上に通じるドアをあけて飛び出すとそこはもう高層の縁で、眼下の遥かな高さと背後にせまる警官たちとの間で、あろうことかバットマンがほんの一瞬とはいえ顔色を変えてダイヴィングを逡巡するのだ。すぐさま意を決してウイングスーツを展開して摩天楼を滑空するも、その逡巡を御しきれないままあちこちに激突しながらの着地は不時着といってもいい無様なダメージを伴うものであったのだけれど、いまだ感情にまかせたまま何者にもなっていないピーキーなバットマンを抽出する瞬間として、しごく忘れがたいように思ったのだ。ここでのバットマンはバットスーツという戦闘服を着たブルース・ウェインに過ぎず、いかにしてバットマンが自身のペルソナを獲得していくのか、その彷徨をマット・リーヴスは倦怠と高揚のないまぜで追っていくわけで、かつて地獄巡りに焦がれる青春のLowがパッケージされては消費された時代のBGMとして引用されるニルヴァーナは、その時代をその気分で潜ったことのある者にとってララバイの響きすらあり、この物語を終始支配する窒息寸前のアドレッセンスの震えをそのままカート・コバーンの歌い出すキーとすることなど手癖のようにたやすく馴染みだったのだ。してみると、監督が課した使命はブルース・ウェインをカート・コバーンの道行きから引きはがすことに他ならず、いずれそこに行きつくにしろ『ダークナイト』のアンチテーゼとしてバットマン/ブルース・ウェインが己の使命を光の騎士としたラストに、マット・リーヴスはもう一つの新しい未来を夢想することすら許したように思えたし、となれば世界に対する負債の量と質とで生き死にが決まるノワールの足かせを監督が選んだことにも得心がいったのだ。かつて命取りになった高潔の刃を抜き身で忍ばせながらゴッサムの裏通りを徘徊するブルース・ウェインに、いつしか原作版「L.A.コンフィデンシャル」のエド・エクスリーを重ねた身としては、ダドリー・スミスをJOKERに善悪問答ではない世界の負債をめぐるノワールの攻防をハードエッジなゴッサムで繰り広げることを願ってやまずにいる。あのペンギン(コリン・ファレル)の眼差しは、既に死闘の予感に身震いを隠さない者のそれではなかったか。
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2022年03月11日

ポゼッサー/はっきりしたのさ、愛はいらない

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ブランドン・クローネンバーグがそのラストネームから自由になることにそれほど頓着しているように見えないのは、彼の内部ではとっくにその幻視世界を棲み分けていることの自明と自負が、特にそのことを目的にするでもないまま築かれているからなのだろうし、それは例えば、愛はどこへ行った?と問われた場合、愛は最初からそこにずっとあってそのことしか私は語っていないと答える父に対し、どこへも行っていない、なぜなら最初からそれはそこにないからだと答えるのがブランドンであり、今作はそのマニフェストとして謳われたといってもいいだろう。タシャ・ヴァス(アンドレア・ライズボロー)にとって別居する夫マイケル(ロシフ・サザーランド)と息子アイラ(ゲージ・グラハム・アーバスノット)との絆こそが彼女が振るう暗殺の手腕を鈍らせかねないノイズであり、それに対処するための地獄めぐりこそを監督はサスペンスとして抽出し続けていて、彼女がたどり着きたかった場所とそこに至る葛藤の方向さえ見誤らなければ、マイケルとアイラを葬り愛や希望という名のリミッターをはずすことで、自身を奥底で駆動する感情の絶対値とそれがもたらす安寧を手に入れたタシャのハッピーエンドを祝福しないわけにはいられなかったのだ。かつて父がまみれた肉体とクロームが溶け合うオブセッションを、ブランドンはナイフや火かき棒といった無骨をひたすら直截に肉体へと突き刺すことでその出会いのロマンスを無効化してみせていて、かつて父が身をおいたフィールドをあえて追走しつつエピゴーネンやパスティーシュの跳弾を寸止めでかわすブランドンのニヒルは、今のところ非常に信頼に足るナイフさばきであるようにワタシには思える。血の照りと粘度へのフェティッシュもとても具合が良い。
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2022年03月06日

ゴヤの名画と優しい泥棒/絵に描いた餅を喰え!

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ウクライナを舞台にした物語を想い出しているうちに、ユダヤ系ウクライナ移民の血筋にあるリーヴ・シュレイバーが監督した『僕の大事なコレクション』とその原作の「エブリシング・イズ・イルミネイテッド」が頭に浮かんで、やはりウクライナ移民の家系にあるユダヤ系アメリカ人の原作者ジョナサン・サフラン・フォアはその出自を補助線に、ウクライナとユダヤとナチズムの屈折した三重クロスをポップでシニカルなダイナミズムで解題してみせているのだけれど、自身の創作スタイルともなっている「ユーモアだけが、悲しい話を真実として伝えられる」という彼の言葉が、この映画を観たあとであらためて沁みわたったりもしたのだ。1961年のケンプトン(ジム・ブロードベント)が暮らすニューカッスルの街に活写される猥雑なヴィヴィッドに、『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』の冒頭スケッチで描かれるアンニュイ=シュール=ブラゼの街角が一瞬重なって見えて、コメディとスラップスティックの質は違えど「絵画」「反乱」「誘拐」の三題噺が連れてくる仄明るいメランコリーと、悲しみをくぐった者だけがたどり着く共助の風景に、図らずもウェス・アンダーソンの奥底までが垣間見えたようにも思えた。幸福が世界との同化だとするならば、悲しみは世界との余儀なき相対化とも言えて、そこで自分と切り離された世界(=あなた)をふたたび認識しない限り伸ばした手は空を切り続けるわけで、持たざる者のノブレス・オブリージュに邁進するケンプトンがなぜ「わたし」と「あなた」とを接続することに自らを捧げ続けるのか、悲しみの果てに幸福があることを信じつづけるのか、法廷で裁かれる彼の罪こそがその答えに他ならないという温かだけれど揺るぎのないサスペンスの、ずっとそこにあったのに誰も気づかずにいた手触りは清冽な驚きとなり、それを受け止めようと立ち上がり手を差し出しては、おもわず背筋を伸ばしてしまうのだ。あなたたちは知るまいが、私にも逃しようのない悲しみがあるのだと目をそらすことをしないグロウリング夫人(アンナ・マックスウェル・マーティン)が、ドロシー(ヘレン・ミレン)への共感とケンプトンとの共闘を茶目っ気たっぷりにこなして影のMVPとなっている。
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2022年02月20日

ウェスト・サイド・ストーリー/おまえだけのダンスを踊れ

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幸か不幸か主演俳優が沈んだことでトニーを視る目のあらかたが沈まざるを得ず、ワイズ版でも感じていたトニーの当事者意識の薄さがもたらす狂言回しとしての役割がより色濃くなったことで、スピルバーグが注力した対立と分断の構造がいっそう明確に浮かび上がったのはワタシにとって僥倖といってもよく、まるでステージライトのように人工的なぎらつきが暗闇から誘い出す禍々しさは、ミュージカルというスタイルの非現実を悪夢のレビューと誤読することに頷いてみせた気すらした。ワイズ版では単なる善人の域をでなかったドクをその妻ヴァレンティナ(リタ・モレノ)に書き換えたというよりは更新したことで、非武装地帯としてのドラッグストアでアニータを救う場面での、不良たちを破滅させるマチズモへの怒りと哀しみをあらわにする彼女の一喝は、今作がつづれ織る人種とジェンダーのレイヤーをあらためて解題してみせるし、ここでジェットガールズがアニータに手を伸ばす必死もまたワイズ版にはない補助線となっていたのは言うまでもないだろう。そしてもう一人、ワイズ版にくらべてメランコリーの細やかな陰影を描き込まれたチノは、劇中でただ一人未来を見据えて歩く人として現れながらやはりマチズモの犠牲者としてその役目を果たしてしまうことになるのだけれど、シャークスとジェッツを等しく脅かすものとしてジェントリフィケーションの足音をしのばせたことからもうかがえるように、スピルバーグは分断の悲劇を歌い上げるというよりは分断をもたらす背後の闇を見据えよと歌い示したわけで、ブロードウェイ&ワイズ版から半世紀を超える時を隔てて今なおそれを告げねばならない世界に住む者として、スピルバーグのそれは礎となってきた先達への懺悔にも似た歌声にも聞こえたのだ。そしてベルナルドのナイフに胸を貫かれてトニーの腕の中に倒れ込むリフが今際の際にみせる笑顔こそはこの物語で唯一行われた正気への反転であったと共に、この世界が目指すべきはあの笑顔でしかないのだとスピルバーグが告げた正解だったのではなかったか。いくどとなく『ウォリアーズ(1979)』のスワンに重なってみえたリフがいつの日かスワンのように生き延びることができるまで、同じ阿呆なら踊らにゃ損だぜと笑いながら数え切れないくらい何度も彼は死んでいくのだろう。
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2022年02月14日

クライ・マッチョ/盗んだベンツで走り出す

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ひたすら虚無を歩き続けた老境の木枯し紋次郎を藤沢周平が恬淡の筆で描いたかのような、漂泊の終りの思いがけない日ざしに思わず目をすがめてしまう。いろいろな人やできごとを見過ぎた俺はもうこれからは見たいものしか見ないのだとでもいう、老いらくのファンタジーが物語の底を踏み抜いていることはイーストウッドも百の承知の上で「おれたちが運び屋だとでも思ったか、この馬鹿が」とイーストウッド警察たるワタシたちを罵ってみせるばかりか、意味ありげに車のトランクから布きれをはみ出させては、これに気づいた誰かの連れてくるサスペンスでも期待したんだろ?え?とさらにおちょくせってみせるのだ。マチズモやミソジニー、ホモソーシャルの軸足を様々に入れ替えながら演じて撮ってきたイーストウッドが、マイクという老ロデオスターの言葉を借りて一人の少年を相手に伝えようとしているのは、マッチョであることには何の意味もない、人が彼をマッチョと呼ぶ時そこに見つけている勇気や闘志を何のために使うかが問題なんだ、マッチョと呼ばれることに人生の答えがあると思っているなら、お前がおれの年になった時、その手の中も胸の中も空っぽで何も残っていやしないよ、というどこか他人事ですらある醒めた悔恨の響きであって、孤高の背中なんぞにはとっくに興味も何もない、この手に何か手触りを与えてくれる人がいるなら俺はそこへと一目散に盗んだ車を走らせるよ、というラストの吹っ切れたような清々しさこそがイーストウッド91歳の心持ちなのだろうし、そんな風に生き延びた者の特権としてこの映画はあるのだろう。イーストウッドの中をさらさらと流れる水に浸した筆で描いた一筆書きのような登場人物たちは、相変わらず木偶の趣で奥行きの必要もないままただそこに居続けるばかりで、本当のことを言えばもう俺は実存のくびきとかそういうことすらどうでもいいのだとばかり、全ては全体性に均されて水のような感情に呑み込まれていくのだった。そして何より、そうそう誰にでも許されているわけではないこの異形(偉業ではない)の成果を目撃できるめぐり合わせを、ワタシは感謝したいと考える。それはまるで、ついには光に溶けて消えていった晩年のターナーのような越境にも思えたものだから。
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2022年02月09日

ブラックボックス:音声分析捜査/僕の音が聴こえるか

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ノエミ(ルー・ドゥ・ラージュ)はなぜグザヴィエ(セバスチャン・プドルース)ではなくマチュー(ピエール・ニネ)を選んで夫としたのか。自身の野心と上昇志向が時として苛烈に過ぎることを知る彼女は、いずれ繰り広げてしまうだろうグザヴィエとの殲滅戦よりは、人生の正気を確認するためにもマチューの私欲を欠いた安寧と愛情を必要としたのだろう。一方でマチュー・ヴァスールという男は、誰よりも聴こえてしまうという特性とそれを論理に帰結する能力の卓越が未来の安全を担保する点においてフェイルセーフの欠かせぬ一環をなし、私生活においても職務においても彼のあげる声が危機回避の予兆となる点で炭鉱のカナリアの役割を引き受けることとなり、そうした二重底の造形を彼に鍛えたことで、一人の男が揺るぎを知らぬ倫理の刃で運命の殺意に立ち向かう激情と哀惜が青い炎となって、冷酷なスリラーを燃やしつくしたのではなかったか。人為のAIへの置換が促すシステム管理者への権限と権力の集中はもはやそれ自体を目的としたアルゴリズムの支配にも思え、その象徴としてあるグザヴィエと刺し違えたのが一枚の基板というフィジカルであったことがこのモダンなスリラーに寓話の説諭を書き記した気がしたし、狂気の一歩手前まで精神を差し出したマチューの正義や善性というよりは真実の追求と遂行が連れ出すヒロイズムこそが、待ちわびて久しいアラン・J・パクラやコスタ=ガヴラスの気分だったことを思い出したりもしたのだ。マチューの甥が飛ばすドローンが目に映った瞬間、ああこれは『スティルウォーター』におけるサッカーのチケットだ、とブーストの予感に包まれて息をのみ、それからすべてがドミノ倒しのように雪崩を打って予感と思惑を呑み込んでいく昂奮と、それが求める生贄はいったい誰の匂いなのか、思想と感情を提出する作劇において常にフェアであろうとする監督の誠実さがさらに加速と発火を誘い、飛び去ったカナリアのメランコリーに嘆息することも忘れていた。
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2022年02月05日

フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊/世界の意図を伝えよ

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「私らは探してる。置き去りにした何かを」ネスカフィエ警部補(スティーヴン・パーク)がつぶやいたその言葉を記した原稿を丸めて棄てて没にしたローバック・ライト(ジェフリー・ライト)に、アーサー・ハウイッツァー・Jr(ビル・マーレイ)は編集長として、いやこれこそが肝だろうよと原稿のしわを膝の上で伸ばしながら言うのだけれど、その瞬間、ああ、ウェス・アンダーソンは手の内と言うか種というか何かそんなものを言葉で明かしてしまうことにしたんだな、と別に落胆とかそういった気分でもなくむしろ清々しい気分でそれを聞いてみたのだ。自分の意に沿って、あるいは意に反して目の前から消えてしまった人やモノへのメランコリーと感傷、そしてそれらがもたらす躁病的なペシミズム、ワタシたちの記憶のあらかたなどおおかたがそんなもので、そしてワタシたちの「ワタシ」を形づくっているのが記憶の集積だとすれば、ワタシたちの生きる理由と意味は置き去りにした何かを探すこと以外にあるのだろうか、といういささか明晰がすぎるセリフにも思えたわけで、編集長アーサー・ハウイッツァー・Jrの追悼号にして最終号を飾るカヴァーストーリーが、失われつつあるもの(「自転車レポーター」)、失われなかったもの(「確固たる名作」)、失われたもの(「宣言書の改訂」)を主題に変奏しつつ、冒頭の言葉を擁する「警察署長の食事室」がマニフェスト=宣言書の役目を果たす構造は至ってシンプルに思えたし、ジジの目がのぞき穴からとらえた瞬間パートカラーに変転するショーガール(シアーシャ・ローナン)の青い瞳もまた彼にとっての“置き去りにした何か”になるのだろうことを強烈にうかがわせて、ワタシですらもふたりのあの一連をどうにも忘れがたく思ってしまうのだ。しかし、そうしたあけすけがいつになく与えられたとは言え、いつもの箱庭療法的な神経症のスラップスティックが今作ではやけに親密でなじみのリズムに感じられるのは、もしかしたら否応なしに押し込められて久しい世界の閉塞にワタシが順応したことによっているせいなのかもしれないなあと、この2年間でワタシが置き去りにした何かにあらためて想いを馳せることを促された気もしたわけで、クレジットロールに添えられたバックナンバーのカヴァーに溢れる健やかな自由と諧謔の気分がいっそうそれを急きたてたのか、なんだか頭と胸が熱っぽくツンと疼いて仕方がなかった。
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2022年01月29日

スティルウォーター/泣くのが怖い

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「竜巻がこの街をめちゃくちゃにしたのも今度が初めてってわけじゃないんだろ?」「でも住んでたらやつらはまた戻ってきてここに住むんだぜ」「アメリカ人は変化が好きじゃないからな」何気ないように思われた冒頭のメキシコ人たちの会話がどんな風にめぐりめぐってビル・ベイカー(マット・デイモン)の身にふりかかり、「人生は冷酷だ、すべてが変わってしまったようにしか視えないし、視えているものが何なのか何もわからない」と押し殺すように独白させたのか。かつて『扉をたたく人』で、911によって正気と狂気に引き裂かれたアメリカにその分断された世界の相対性を迎え入れる覚悟を求めて絶対性の愉悦に訣別を突きつけたトム・マッカーシーが、おそらくは幾多の絶望の末なのだろう、いっそうの寄る辺ない荒療治をアメリカ=ビルに施して相対性の地獄に放り込んでは、すべてを取り上げられた彼を混乱させ途方に暮れさせて、ゼロから始めるしかない場所までひたすら追い込むことただそれだけを映画に課している。自分の目に映るものと自分の手に触れるものを世界のすべてとして愚直に生きることしか知らず、それゆえ夫としても父としても他者=世界への想像力を圧倒的に欠くビルは取り残されたアメリカそのもので、しかしそこが言葉も通じない異国の地であったことで図らずも彼は大きな子供としてリスタートするチャンスを与えられ、親子が互いを尊重し責任を課すヴィルジニー(カミーユ・コッタン)とマヤ(リロウ・シアウヴァウド)との生活が彼の目と手に奥行きと思慮を育てて疑似家族すらを可能にすることとなる。しかし、ビルがそれを構造的に理解していたとは言わないまでも、アリソン(アビゲイル・ブレスリン)をめぐる事件の一連において自分の娘にもまた差別と分断のまなざしが宿っていたこと、そしてそれが引き起こしたことによって自分はヴィルジニーとマヤと巡り合い最後には引き裂かれたことを、ラストシーンのビルはいまや知ることができてしまうわけで、前述した「人生は冷酷だ、すべてが変わってしまったようにしか視えないし、視えているものが何なのか何もわからない」というビルの言葉は成長痛のようにその胸へと突き刺さり、世界と相対的に向かい合うということは少なからず政治的な生き物として自分を捉えなおすことで、それを成熟と呼ぶことをトム・マッカーシーはアメリカに求めていたように思うのだ。飼い主がいなければ生きていけない野生動物という矛盾を、それこそはアメリカそのものなのだけれど、終身刑の囚人にして模範囚であり続けるかのようなその背中にデザインしたマット・デイモンの肉塊が時として神々しくすらもあった。
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2022年01月21日

ハウス・オブ・グッチ/アダム・ドライヴァーは二度死ぬ

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構造上2度ほど目にすることになる、自転車を漕ぐマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)の手放し運転の、わけもなく高揚した気分に思わずハンドルから手を放してはみたものの、やってみたらそれは自由でもなんでもなくむしろ無用の緊張を強いる行為であったという笑顔の行き止まりだけがこの物語で唯一目にした余白の瞬間であったという、すべての感情は映像でデザインすることが可能だと、特にダリウス・ウォルスキーのカメラと邂逅して以来それを信じて疑わぬサブテキスト殺しの御大が最適解を連ねた結果、絵巻物としては眼福ながらスマートで合理化されたフローチャートにタメや揺らぎはオミットされて、喜んだのはワタシの網膜だけだったという、ストレスフリーこそがストレスを生んでしまう御大の現代劇が時にきわどい陥穽のぎりぎりだったのが正直なところで、それが実録ものともなればなおのことサブテキストが生き延びる余地などなかったのだろう。問いが何なのかわからないままその完璧な答えだけを見せつけるのがリドリー・スコットの真骨頂だとすれば、“誇張しすぎた『ゴッドファーザー』”という問答をあからさまに許した上、本来であれば御大の作品であまり見かけることのない“怪演”をジャレッド・レトに与えたのも、ロドルフォ(ジェレミー・アイアンズ)という審美の恐竜が絶滅したことで転げ落ちたグリーディなトラジコメディをデザインする筆がいささかすべり過ぎたことの証ではなかったか。序盤でパトリツィア(レディー・ガガ)とボート遊びに興じるマウリツィオを見るドメニコ(ジャック・ヒューストン)の笑みにこそがグッチ家の命運が握られていたことを思い返してみれば、帝国の盛衰における彼の暗闘と暗躍にダイナミズムを見つけるのは容易いながら、いまの自分はアダム・ドライヴァーを殺すために映画を撮っているというオブセッションに御大は忠実であろうとしたようにも思える。必ずしもモデル本人に寄せたとも思えないジャレッド・レトの、とはいえアル・パチーノと絡んだときの妙な既視感がまさかのジョン・カザール寄せなのだとしたら、それはそれでもう何もいうことはないのだった。
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2022年01月16日

偶然と想像/ドライブ・ユア・オウン・カー

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※展開に触れています

第一話「魔法(よりもっと不確か)」で、芽衣子(古川琴音)とつぐみ(玄理)を乗せたタクシーのルームミラーにほんの一瞬映った、後部座席を見やる運転手の剣呑といっていい目つきには、芽衣子とつぐみの二人への、もしくはどちらか一人への、あるいはこれからこの物語に現れるすべての者たちへの感情移入を拒ませる気配がよぎった気がして、濱口監督にとってはおそらくノイズでしかないそれは、ここでさぁっとキャンセリングされることとなる。そしてその先で始まるのは全体性を回復する手始めとして自己肯定を入手するための物語で、この第一話の終盤で芽衣子にむかってズームするカメラは、偶然、といっても英題のWheel of Fortuneはもう少し芝居がかったそれだけれど、に翻弄されて溺れはじめた自分を想像でくい止める瞬間の切り返しであった気がして、間一髪で危うく命拾いをした者の安堵をみせる芽衣子がまずは露払いの役目を果たしてみせている。つづく第二話「扉は開けたままで」では自身が内部に呪ってきた過剰と欠落を、それこそがあなたの特質でありあなたの実存ではないかと瀬川(渋川清彦)に全肯定された奈緒(森郁月)が、それを刃とすることで佐々木(甲斐翔真)を的に瀬川の復讐を決意したその眼差しには、世界に向けた反撃の照準が絞られてピカレスクの予感で幕を閉じる。と、ここで視えてくるおおよそは、前述した感情移入を必要としない信頼できない語り手として現れた登場人物たちが、それぞれに手に入れた自己肯定によって自分だけが知る世界への語り口を見つける経過報告である気もして、偶然の果ての想像、偶然と想像の拮抗、と変遷する物語は第三話「もう一度」において想像が偶然を従え始め、私にぽっかりと空いたこの穴は記憶の中のあの人にも空いていていつかそれは繋がるにちがいないと想い続ける夏子(占部房子)が呼び起こした偶然は、知らない誰かであったはずのあや(河井青葉)に、自身の中でとっくに空いていた穴を気づかせて繋がることで円環する全体を手に入れてしまうのだ。そうやって過ごした時間の後であらためて「Wheel of Fortune and Fantasy」という英題を思い出してみれば、やはりこれは決定論(Wheel of Fortune)と自由意志(Fantasy)をめぐる密かな暗闘の物語であったことに気づかされるわけで、しかし映画が全身で伝えるのはその勝ち負けよりもそれらせめぎ合いの存在であったにしろ、そうした構造にこの国の中で想いを巡らせて見たとき、これら三話の主人公がすべて女性であり、第一話から段々とあがっていく彼女たちのライフステージにつれFantasyの強度と輝度も目盛りを増していく成り行きこそが監督の掲げた勝敗であったことは言うまでもないだろう。おそらく英語字幕だとあそこはmasturbateになるのだろうけれど、オナニーという和製英語化したドイツ語の人知れず親密でペーソスにあふれた響きは日本語ネイティヴの特権であることは言い切っておきたい。
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2022年01月11日

スパイダーマン : ノー・ウェイ・ホーム/ぼくがきみを知ってる

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※内容に触れています

今になってドクター・ストレンジは、というか大人たちは、ピーター・パーカー(トム・ホランド)が子ども(kid)であることに気づくのだ。決して望んでそれを手に入れたわけではないにも関わらず、大いなる力には大いなる責任が伴うという呪いをかけられた子どもが、その責任と引き換えに様々な喪失を受け入れつつ右往左往しながら彼の人生を獲得していく青春の残酷物語をようやくにして知ることになるのだ。そうやって生きるしかなかったピーター・パーカーであればこそ大いなる力というウィルスに侵されてしまったヴィランたちの悲劇を理解し、それゆえ彼らを駆除するのではなく治療(CURE)することに希望を見つけようとしたのではなかったか。そしてそれは同時にピーター・パーカーたち自身のキュアへとつながっていくわけで、かつて憎しみと復讐の連鎖にとらわれて親友親子の死に加担したピーター・パーカーがピーター・パーカーの前に立ちふさがることでその呪いをとき、セカンドチャンスを得たピーター・パーカーは今度こそ彼女の墜落に間に合うのだ。そうやってヒーローとしてのメランコリーに息がつまるほどとらわれ続けたピーター(トム・ホランド)が、しかしけっして感傷の愉悦に溺れてしまうことがなかったのは、かつてメンターとして交差したトニー・スタークの自己犠牲は手段であって目的ではない(キャプテン・アメリカとの訣別の理由でもある)という説教を心のどこかにピンで留めていたからなのだろうし、だからこそ、最後にピーターが遠くを見る人の澄んだ目で運命を選択するその姿にトニー・スタークが重なって見えた気もしたのだ。だからこそ「金を貰わずに人を殺すのは、そりゃただの人殺しだ」という中村主水のセリフが言い当てたヴィジランテの憂鬱を全身タイツに閉じ込めることで、青春の屈託をヒーロー哀史として書き換えたサム・ライミと訣別し遁走するために、泣きべそで解決しない世界のことわりを超えていく蒼い血の逆流が青春のデッドエンドをぶち抜くには、ジョン・ワッツが渾身で叩きこむギアチェンジが必要だったのだろうし、透徹した孤独をまとい街の守護者にして監視者として生きるピーターのラストは『ダークナイト』のそれに手を伸ばした気すらもしたのだ。今度はドクター・ストレンジたち大人が、たとえどれだけ無様にのたうちまわろうとその責任を果たさねばならないのは言うまでもない。
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2022年01月02日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

健康な身体と想像力をポケットに入れて、歩ける間はどこまでも
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2021年12月31日

2021年ワタシのベストテン映画

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観た順で。

聖なる犯罪者
カポネ
水を抱く女
プロミシング・ヤング・ウーマン
すべてが変わった日
ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結
最後の決闘裁判
マリグナント 凶暴な悪夢
パワー・オブ・ザ・ドッグ
ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男

[アナリスト]羊みたいに飼いならされた人間がいなくなることはないよ。彼らは自由もエンパワーメントも望まない。彼らはコントロールされたいんだ。変化なんかこれっぽちも望んじゃいない。
[ネオ]そういうことはどうでもいいんだよ。
[トリニティ]だってこれから世界を作り直すところだし。
[ネオ]まずはちょっとしたことからね。
[トリニティ]たとえば虹の出た空を描いてみるとかそんなこと。

そうやって描かれた空のような映画を10本。
posted by orr_dg at 03:10 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月30日

ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男/奴らを黒く焦がせ!

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ハッタリやケレンの口八丁手八丁とは無縁の、物腰もおだやかに正攻法の足取りで突破する論理の人に思えたロバート・ビロット(マーク・ラファロ)は劇中で二度だけ感情を爆発させる。一度は自分の子供の前でデュポンの嘘にまみれたやり口をfucking evilと吐き棄て、もう一度は官民挙げての裏切りにThe system is rigged!(システムは糞だ)と妻サラ・ビロット(アン・ハサウェイ)に抑えることのできない叫びをぶつけてしまう。有名な法律事務所のパートナーに名を連ねるまでにキャリアを高めたビロットがけっしてエスタブリッシュメントの出自でないことを彼の闘いの背景にしてしまうのは安易に思えるけれど、同僚ですらが彼の学歴をジョークにし、敵対するデュポンの弁護士フィル・ドネリー(ヴィクター・ガーバー)には田舎者が!と罵倒されるその背中に彼もまた彼なりのアメリカの分断を生き抜いてきたことを見るのは避けられず、してみれば、世界のともした灯りに照らされることなく漂い離れてしまう人たちを描いてきたトッド・ヘインズが、そんなビロットを旗頭に灯りを正しくともすべく世界を告発する、彼にしては直截に思える物語を選んだことにも当たり前のようにうなずけるのだ。かといってビロットの一面的な英雄譚を描くのではなく、かつては「女性弁護士」だった妻サラが専業主婦として夫と家庭を支えることの屈託を添え、事務所をあげてデュポンと事を構えることに対してまだキャリアの浅い黒人の弁護士が、おれはあんたらの正義のヒーローごっこのためにここまで這い上がってきたわけじゃない、といった風に疑義を差し挟むあたり、トッド・ヘインズは闘争のカタルシスもまた目眩しとなることを最後まで自分に言い聞かせながらビロットの戦いと併走してみせている。こうしてシステムの巨悪に立ち向かう人々を実話ベースで描く物語が映画史で途切れた試しはなく、マーク・ラファロにしたところで『スポットライト 世紀のスクープ』の記憶はいまだ新しいし、ある意味でストーリーは類型化してしまうジャンルでありながらなぜ幾多の監督たちがチャレンジし続けるのか、やつら(システム)がそれを止めないのであればこちらもそれを止めないだけのことだという、シンプルにして絶対的な答えをこの映画のラストでビロットが告げていたように思ったわけで、そんな腹のくくり方で自浄するシステムもまた存在するアメリカとアメリカ映画にないものねだりを煽られて悶々とするところまでがワタシの馴染みのエンディング。
posted by orr_dg at 04:02 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月25日

マトリックス レザレクションズ/飛ばない夢をしばらく見ない

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これは『未来世紀ブラジル』へのアンサーなのかとうっすら思った1999年、偽装された夢=悪夢の中で勝利することで現実を変えていく闘いの、いまだサブカルチャーがポケットの中で握りしめたナイフの手触りを持ち得た時代、それら三つ子の魂を総動員して勝ちに行く姿は迷いなく溌剌として、未来が眩しすぎるからこそ彼らはサングラスをかけずにはいられなかったのだろうと、どこへ通じるのかはわからないながら突破口が開けたような気がしたのは確かだったのだ。だから『リローデッド』から『レボリューションズ』へと地の底に沈んでいくにしたがって、夢の中で手に入れたあの晴れやかな勝利はなんだったのか、結局は現実の戦いで勝利しなければ何も変わりはしないのだという分別臭さに何だか裏切られたような気分になったことも確かだったわけで、どうした理由でこのフランチャイズを再起動させたのかはわからないにしろ、ビルの屋上で彼方を見やるトリニティがマトリックスの空の美しさをつぶやきつつ、けれどもこの夢の終りのその先へ行く私たちはもう後戻りなどするつもりはないことをネオと確かめあうシーンからの手に手を取った跳躍と、2人が手に入れた夢のその先を告げるラストは『マトリックス』が手に入れることのできなかったすべての未来への高らかな呼応にも思えたと同時に、私はこうやってAnother Chanceを語り終えた、もう青い薬も赤い薬もない、跳ばないならそこがあなたの現実なのだから(とアナリストは最後にわざわざ説明してくれる)、とラナ・ウォシャウスキーは自ら夢の呪いを解いてみせたように思ったのだ。これで今度こそシークエルは必要ない。
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2021年12月17日

ラストナイト・イン・ソーホー/ボクたちもみんな大人になれなかった

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※展開や結末に触れています

兎にも角にも逃げ切ってみせた『ベイビー・ドライバー』でスキゾフレニーの青春を追い越したエドガー・ライトが、もうオレには未練たらしく昨日を眺めながら明日へと追いやられてはこけつまろびつする野郎どもは必要ないのだとばかり、輝く未来へ一歩を踏み出す女の子を主人公に据えてはみたものの、過ぎ去った時間に淫するあまりそこに囚われた亡霊に目をつけられてしまうエロイーズ・ターナー(トーマシン・マッケンジー)もまたエドガー・ライトのかわしきれない投影であったのだとすれば、その結果として彼女が紡いでしまうサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)とミス・コリンズ(ダイアナ・リグ)の妄執を過去から逃げ切れなかった者の不幸と描かざるをえなかった点で、そもそもエドガー・ライトは自身がつけるべき落とし前を持ち合わせていないのではないかと思ってみたりもしたわけで、グラインドハウス的なホラー・ムーヴィーとしての機能は十全でありつつも、もしかしたらそれを目指したのかもしれない傷ついた世界に手を差し伸べる身のこなしについては自分でも途方にくれてしまっているように見えたのだ。映画における女性たちの受難はその時々にして折々の世界が隠さない残酷の証であったことをエリーの幻視を通して参照しつつ、では現代に生きるエリーは何を証とすればいいのか、それはやはり半世紀の時を超えてミス・コリンズにふりかかる火の粉をはらい業火から引きずり出すことだったように思ってしまうし、「刑務所になんか行くつもりはないわ」という言葉で彼女の自尊心を記してはみせたものの、ミス・コリンズ=サンディが生き抜くことこそが彼女の死を望んで群がった者たちをさらなる地獄に突き落とすのではなかったのかと、どこを探しても焼け跡からミス・コリンズの遺体は見つかることはなかったくらいの逃げ道を残すことはできなかったのかと思ってしまうのだ。これまでのやり逃げから一変して組み立てたサスペンスの筋立ても、銀髪の男(テレンス・スタンプ)のミスリードにならないミスリードや、エリーの幻視の中でサンディが“殺された”ショットを見せてしまうアンフェアなど、描きたかったのは60年代地獄めぐりであってその辺は余禄だからとでも言いたげな底の抜け方にも悔いは残ってしまうし、どうしてもミス・コリンズを亡き者とする結末を譲れないのだとすれば、それには、かつてロンドンで自死したエリーの母親もまたグッジ通り8番のあの部屋に住みサンディの残留思念に感応したことでエリー同様に精神を追い込まれ、アレクサンドラが自分に仕掛けたようにその自死を偽装されたことを知ったエリーが母親の復讐としてかつてサンディを“殺した”アレクサンドラを葬りさえすればあのラストショットがハッピーエンドの仕上げとなったようにも思うわけで、無駄使いこの上ないテレンス・スタンプにしたところで、彼がかつて救うことが叶わなかった数多の女性たちへの贖罪としてエリーのサポートに身を捧げることで映画の重心をより沈められたように思うのだ。生来のスキゾ・キッズとしての資質が遁走する主人公にジャストフィットしたことで芯を食った『ベイビー・ドライバー』を通過儀礼として今作で大人の階段を上るかに思えたエドガー・ライトではあるけれど、それよりは残した逃げ足を食いつぶしもうこれ以上どこにも逃げることが叶わない場所で永遠に笑い叫ぶ姿こそが彼にとっての真の成熟である気もするわけで、してみれば次作に選んだのが『バトルランナー/The Runnig man』のリメイクであることにも頷けて仕方がないということになる。いずれにしろ、2020年に近い現代のハロウィンパーティでスージー&ザ・バンシーズをブチ鳴らしてしまう三つ子の魂をワタシもまた捨て置けるはずはないのだけれど。
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2021年12月12日

パーフェクト・ケア/とっくの昔に死んでいる

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※展開および結末に触れています

世界中の親を親とも思わないマーラ・グレイソン(ロザムンド・パイク)のゼロ地点らしき瞬間がほんの一瞬目をかすめはするものの、地獄の入口まで倫理の底をぶち抜くことで世界への挑戦権を手に入れたマーラが今さらそれを泣き言めいた言い訳にするはずもなく、そもそもこれが「老人」=ジェニファー・ピーターソン(ダイアン・ウィースト)、「女性」=マーラ、「ハンディキャッパー」=ローマン・ルニョフ(ピーター・ディンクレイジ)といういまだ社会的弱者のレッテルを貼られる3人が界隈の強者として激突し繰り広げる暴力と策謀の物語であることを忘れなければ、浅薄なピカレスク的共感がうるさそうに払いのけられるのも当然の話ということになる。監督/脚本のJ・ブレイクソン(『アリス・クリードの失踪』!)は、そうした属性の反転それ自体が主題とならないよう巧妙にノイズを取り除きつつ、ローマンが送り込んだ弁護士エリクソン(クリス・メッシーナ)に対しては「思い通りにならない女には、あばずれ呼ばわりしたあげく殺すぞって脅すわけよね」と余裕綽々で一蹴するマーラを描く一方で、ローマンとの命がけのやりとりでは「私はとんでもない金持ちになりたいの。でもって本当の金持ち連中がやるみたいにお金を棍棒にしてぶん殴るには元手が要るのよ、だから1000万ドルで手を打つわ」と本心を隠すことをしないわけで、ここで一瞬だけ交錯するローマンとマーラの眼差しに疼くアメリカなるものへの怨嗟こそが最終的に2人を結びつけたようにも思ったのだ。しかし、望みどおりの棍棒を手に入れたマーラが彼女の創造した暴力のシステムでアメリカを打ちすえたかに思えた瞬間、建国以来アメリカに取り憑いた暴力の象徴たる銃によって弾き飛ばされるマーラの、因果応報とすらいえない退場のあっけなさを目の前に、悲しみでも蔑みでもない倦んだ目つきでアメリカが屠った最新の獲物を眺めていたのだった。そもそもJ・ブレイクソンはなぜマーラを殺すことを選んだのか。必要悪でも義賊でもないピカレスクへの倫理的道徳的抵抗か、あるいはピカレスクのセンチメンタルな念押しだったのか。それよりは、すべてのアメリカン・ドリームに潜むアメリカン・ナイトメアを召喚する儀式の生贄として選ばれたマーラの、その人生は生贄を肥え太らせるための入念な手続きでしかなかったのだろうことを考えてみれば、マーラ・グレイソンという人間の一切の余白を拒絶するシャープなボブやソリッドなパワースーツは最期に彼女の眼へと宿った完璧な虚無を演出する記号的な意匠であったことにあらためて頷かされたし、晴れ舞台に身につけた真白なスーツを深紅に溢れ出す血のキャンヴァスに選んだJ・ブレイクソンに抜かりはない。
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2021年12月08日

ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ/R指定にゃ分かるまい

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“「うしおととら」として舵を切ってしまった以上、エディとヴェノムの掛け合い漫才によるリズムでアクションのスピードを煽っていくシナリオと演出の運動神経を磨かない限り失速するのは目に見えている”と前作に記したことを想い出してみさえすれば、クレタス・キャサディ(ウディ・ハレルソン)とフランシス・バリソン(ナオミ・ハリス)のサイドストーリーすらもどかしげに早送りして、気がつけば97分間にまで剪定したアンディ・サーキスの焦燥含みの思い切りにもうなずける気がしたのだ。前作同様に掘り下げるべきキャラクターも見当たらないまま、起承転結のうち承(カーネイジの誕生)と結(カーネイジvsヴェノム)しか求められないストーリーの、しかも『デッドプール』のお下劣もガン版『スーサイド・スクワッド』の肉体破壊も取り上げられたとあっては、これ以外アンディ・サーキスに何ができたのか同情しきりなのは言うまでもなく、ほんのお気持ち程度とはいえ添えられる心象のほとんどがエディ(トム・ハーディ)というよりはヴェノムの独白であったのは、図らずも二人羽織の陰として名を馳せたアンディ・サーキスが隠さない共鳴の徴ではなかったか。そんな負け戦に何かしらのフレッシュがあったとすれば、使える今カレというありそうでないキャラクターとなったダン(リード・スコット)を忘れるわけにはいかず、アン(ミシェル・ウィリアムズ)とダンのカップルが交錯した瞬間に生まれるやけくそなスウィングこそを脚本家も監督ももう少し当てにすべきだったのではなかろうかと、ポストクレジットシーンを見るにつけ、そもそもがパズルの大きなピースになることしか求められていなかったのだろう不遇を承知の上、真顔でケチをつけてみたりもするのだ。少なくとも、ウディ・ハレルソンという一回きりのカードをユニバースのここで使ってしまう覚悟はどこにも見当たりはしなかったし『マリグナント』のガブリエル無双こそが正統なカーネイジそのものであったよ。
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2021年12月06日

ダーク・アンド・ウィケッド/悪魔が憐れむ歌

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「信じるかどうかは問題じゃない。人間にあれは狼だと思われようが思われまいがそんなことはあいつらにはどうでもいい話で、きみたちは獲物だってだけのことだ」無神論者だった母(ジュリー・オリヴァー=タッチストーン)が悪魔の存在を示唆しつつ錯乱していく様子が綴られた日記の不可解をぶつけるルイーズ(マリン・アイルランド)とマイケル(マイケル・アボット・Jr)に牧師(ザンダー・バークレイ)は淡々と言い放つわけで、もしそんなものが必要であるならば、牧師のこの台詞を物語の解題とすれば手っ取り早いだろう。その年のベストテンにも入れた2009年の傑作『ストレンジャーズ 戦慄の訪問者』で文字通り戦慄のデビューを飾ったブライアン・ベルティノは、そこで『ファニー・ゲーム』のホラー・リミックスとすら言える純然たる悪意の抽出を行っていて、果たして原初の存在としての悪意に理由や動機が必要なのか?という胡乱にも思える眼差しでスラッシャーというジャンルを蹂躙しつつ脱構築していたのだけれど、今作はある意味でそれを裏返してみせた鏡像となっている。存在の不安が恐怖の源泉となる実存ホラーが現在確かな潮流となっているのは言うまでもなく、かつてスラッシャーという定型のジャンルを実存の拳で袋叩きにしたブライアン・ベルティノは、今作において実存ホラーという前線のスタイルをジャンプスケアに代表されるショッカー描写で胸倉をつかんでは揺さぶりをかけるという天の邪鬼ともいえる試みに挑んでいて、それを象徴するのがあのエンディングということになるのだろう。本来の実存ホラーであればひたすら分厚く「脅かす/おびやかす」ことで退路を断って袋小路に追い込んでいくところが、ここではそれに加えて「脅かす/おどかす」ことを厭わないジャンプスケアを躊躇なく多用していて、ラスボスを倒せば終わるスラッシャーの悪夢とは異なり私が私である限りその恐怖が止むことはない実存ホラーの終わらない日常を襲う掟破りの乱れ打ちは、ほとんど偏頭痛的な直截性で精神をなぶり続け、その愚直な着実さにこそ心底辟易させられていつしかワタシの目つきは死んでしまう。今作では95分、しかしそれを120分なり180分なり費やしたところで、物語の顔色をうかがい悪意の理由や原因の特定およびその正体の排除へと舵を切った瞬間、それはワタシたち人間の卑小な脳みそがようやく働く地平に引きずり降ろされてしまうわけで、ブライアン・ベルティノが『ストレンジャーズ 戦慄の訪問者』と今作で真っ先に手放したのがその手続きであったことを考えてみれば、人間の尊厳など一顧だにしない存在への飽くなき憧憬と畏敬がこれら異形を可能にしたことは言うまでもないだろう。深い森の中でたった一人、狼に出くわしそれに屠られるまでの数秒に見た胡蝶の夢の95分の狂い咲き。マイケルの妻ベッキー(ミンディ・レイモンド)の絶望のあまり自らに突きたてるナイフのような絶叫が色艶ともに絶品。お聞き逃しのなきよう。
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2021年11月26日

アイス・ロード/幸福の黄色いトラック

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氷の道はニトロの代わりにはならないことを脚本家兼監督はどの時点で気がついたのか。とりあえずはどうすればマイク(リーアム・ニーソン)にさらなる負荷をかけることができるのか無い知恵を絞った脚本家兼監督は、イラク戦争の帰還兵でPTSDと失語症に苦しむ弟の面倒を見ながら謎の殺し屋と闘わせるだけではまだまだ全然足りないとばかり、そもそもローレンス・フィッシュバーンがチームにいたらこんなミッションなど楽勝で達成してしまうことに遅ればせながら気づいた脚本家兼監督は『ディープ・ブルー』のサミュエル・L・ジャクソンを更新する勢いであっけなくストーリーから彼を消し去ってしまうのだ。となれば、路肩から転落し大破したピックアップから殺し屋トム・ヴァルナイ(ベンジャミン・ウォーカー)が無傷のまま這い出したところで不思議でもなんでもないどころか、種火を切らしたら負けだとばかり本来はマジカルな救世主枠の弟ガーティ(マーカス・トーマス)の命すらを薪にしてくべてしまうわけで、ことあるごとに立ち尽くしては確かめた感情を心ゆくまでやりとりするマイクとその仲間たちはとっくにタイムサスペンスの縛りや煽りもどこ吹く風で、それでもやけくそを擦り続けさえすれば発火はするもんだなあと感心半ばの半笑いでエールを送っていたのだ。そして思わずスリムクラブ真栄田の声色で「毎晩お話ししてくれたでしょう、この世で一番強いのはウィンチだって」とつぶやいてしまうくらい、いつしか主役はウィンチにすり替わっていたわけで、ジム・ゴールデンロッド(ローレンス・フィッシュバーン)の命を奪ったのも、ガーティを最初に殺しかけたのもすべてウィンチの仕業だったことを思い出してみれば、手なずけたつもりがいつ牙を剥くともしれぬウィンチこそがマイクにとって最大の脅威だった気すらしてしまうのだ。ただ、この脚本家兼監督がブライアン・ミルズの誘惑に最後まで抗った点については評価すべきで、終盤の氷上で繰り広げるヴァルナイとのタイマンでは、なぜ一介のトラックドライヴァーがプロの殺し屋とそこまで渡り合えるのかはともかくとして、少なくともCIA元工作員の体術ではないブチ切れた素人の大暴れにリーアム・ニーソンをとどめようと心を砕いていたことは見てとれたのだ。だから、橋が落ちてしまったにも関わらず後続のマイクはいったいどうやってあの場にかけつけて息絶えた弟の頬を撫でることができたのか、もうそんなことまで考えている余裕がこの脚本家兼監督にあるはずもないことを知るワタシはあえて詮索などしないのだ。そんな風にして特にどんでん返しの必要もない勧善懲悪に落ち着いた物語は、ケンワースの新車と独り身の自由を手に入れたマイクの軽やかな旅立ちで幕を閉じつつ、坑内の残り少ない酸素を節約するために重傷者の間引きを言い出したあの口髭の鉱員にとって、全員救出というハッピーエンドこそが彼の生き地獄になるという悪意の表出をこの脚本家兼監督がまったく気に止めない野放図が今もワタシをもやもやさせるのだった。いい加減で機は熟したように思うので、そろそろリーアム・ニーソンとニコラス・ケイジの共演をピーター・バーグあたりの監督脚本で画策してもらいたい。
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2021年11月22日

パワー・オブ・ザ・ドッグ/おれを殺すのは誰だ

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※原作未読。展開に触れています。

1920年代のモンタナで、イエール大卒にして古典を愛でつつ牧場主としてカウボーイの生きざまに世界の真実を見出しては社交の偽善と欺瞞をあざ笑うフィル・バーバンク(ベネディクト・カンバーバッチ)は、あたりまえのようにトキシック・マスキュリニティなセクシストとして登場し、牧場を共同経営する弟ジョージ(ジェシー・プレモンス)がフィルによる強権支配への反発の意も込めて一言の相談もなく決めた結婚相手ローズ(キルスティン・ダンスト)とその連れ子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)は、フィルのマチズモが支配する世界から弟を奪い去った盗人として燃えるような憎悪を向けられることとなる。フィルが言うところの、障害物は(乗り越えるのではなく)除去するのだという人生の指針からすれば、感情を内に秘め物腰はやわらかで社交に長けるジョージにとってフィルこそが障害物であったのは言うまでもないにしろ、ジョージの無邪気で無自覚なフェミニズムとリベラリズムの発露はフィルの憎悪をいっそうローズへと焚きつけるわけで、ではフィルという怪物化した障害物に誰が立ち向かい除去を試みるのか、物語はそのサスペンスを選ぶことでピアノ線のテンションをきりきりと絞り上げていく。と書いてみた構造のあまりの収まりの良さに対する違和感こそがこの映画の主題ともいえる気がするわけで、腺病質的な外見にミスリードされはするものの、総体としてのロマンチストであるフィルに立ちはだかるのが医学を志すプラグマティストとしてのピーターであったという構図は、物語の中盤からほとんど姿を消してしまうジョージとただひたすら被虐の人となるしかないローズにファイティングポーズすらとらせないことでより明確になっていく。ピーターを造形するある種の特異性が強化するのはあくまでプラグマティストとしての宣言であってその点で彼はブレのない一面的な存在としてある一方、ピーターとの邂逅によって、フィルのマチズモが生来というよりは1920年代のモンタナにおいて絶対に人目に触れさせてはならない自身の奥底に横たわる同性愛の資質を覆い隠すための鎧であることが暴かれていくわけで、それを感知したピーターは自身を餌にフィルを鎧を外した無防備へと誘い出すことで、なにより自身の未来を担保する母と継父にとって最大の障害物であったフィルを除去することにあっけなく成功してしまうのだ。文武に秀でつつ横暴な暴君として君臨した怪物フィルが、なぜかくも“あっけなく”斃れたのか。この世界の他の誰にも知られてはならない秘密を押し殺すためその反動をひたすら鍛えて叩き上げた強靭なカウボーイの鎧を脱いで、秘密を共有し世界のうつろいを語りあえる存在を目の前にした解放と昂揚のその致命的な錯覚こそが彼を斃したことを想ってみる時、マチズモの怪物が悲劇のロマンティストとしてその無垢をプラグマティストにえぐられ屠られる寂寥と哀切をぬぐうことが叶わない気がしてならず、自身の分かちがたいアイデンティティーがそのまま世界の障害物となる不幸と、たとえ他者にとって彼が除去されるべき障害物だったとしてもそのアイデンティティーに賢しらにつけ込むことで達成される幸福との釣り合いに生じる狂いこそが前述した違和感の正体なのだろうし、少なくとも自分の闇の奥と向き合うことで生きるための結論を出したフィルに比べると愛を与えることの無邪気と誠実を見極められないジョージもまたローズの障害物たりえることを予感させつつ、愛を信じることも必要ともしない、愛から最も遠くに立つピーターが世界を操ることを告げるラストのほくそ笑むような冷ややかさは、愛ゆえに怪物となり愛ゆえに斃されたフィルに捧げるレクイエムの変奏にも感じたし、トキシック・マスキュリニティを糾弾し葬り去るのではなくそれがどこからなぜやって来てしまうのか、この映画のもっとも静謐で美しい瞬間がどのシーンに与えられたかを想い出してみれば、危ない橋を渡るのは承知の上でジェーン・カンピオンがフィルの死と引き換えにそれを代弁したことは明らかだったように思うのだ。怪物の苦悶と嗚咽のように弦を震わせるジョニー・グリーンウッドのスコアを従えて、ベネディクト・カンバーバッチが近年では最良にして最凶の憑依と献身とで監督の荒ぶる野心に応えている。
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2021年11月16日

マリグナント 狂暴な悪夢/ワン、ジェームズ・ワン

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おまえがおまえである限りこの恐怖は続くのだとする実存ホラーの対極にあって、自らまき散らした恐怖の終わらせ方に誰よりも心を砕き世界の法則を取り戻して愛に包むジェームズ・ワンはいつも優しい。その愛こそが恐怖を生むのだというジェームズ・ワンのロマンチストは『死霊館』から一貫した通奏低音となって、ロレイン夫妻のオール・ユー・ニード・イズ・ラヴをたった一人で姉マディソン(アナベル・ウォーリス)に叫び続ける妹シドニー(マディー・ハッソン)の勇猛果敢をこそ衒いなく描くジェームズ・ワンに、どんなジャンルを借りようと最終的には愛についての映画を撮ってしまうスピルバーグの屹立を見たとすら言いきってしまいたい。トリッキーな俯瞰ショットのモダンと恐怖を増幅するアンサンブルとしての小中理論との融合でギアをファーストからセカンドへとゆるやかにシフトアップしつつ、中盤でヤング刑事(ケコア・ショウ)が遂行するいつ終わるともしれぬ執拗な追跡シーン(そういえば『狼の死刑宣告』でもケヴィン・ベーコンをサディスティックなまでに走り回らせていた)によって恐怖の正体をスクリーンのあちらとこちらで正式に共有して以降、瞬時にトップギアへとブチ込んで繰り広げる肉弾戦というよりは舞踏とすらいえる貫通と切断の残虐絵巻はジェームズ・ワンの集大成ともいうべき創造の奔流となって渦を巻き、しかしその最後をオフビートなギャグで締めてしまうそれは緊張と緩和というよりはいくばくかの照れに映ったりもしたわけで、その侘び寂びにも似た引き算の奥ゆかしさこそがジェームズ・ワンのホラーに恐怖の手触りを親密かつ、のっぴきならなく宿らせることをあらためて知らされることとなる。ここ数年、地べたにはりついた人間が繰り広げる実存ホラーの閉塞する水平移動に慣らされた目からすると、ジェームズ・ワンのデザインする上昇と下降の必然、ジャンプと転落による空間移動のスペクタクルは華麗かつ圧倒的にそびえ立ち、終盤のあるシーンに用意された突発的な落下が一瞬で空間的な伏線を繋げてしまう暴力的といってもいい回収はほとんどコントの体すらをなして思わずおかしな笑い声すらが漏れる始末で、実はこのアイディアからすべてが始まったんだよと言われたとしても激しくうなずくしかなかったのだ。ジェームズ・ワンには、ハリウッドの大作仕事の気晴らしでもアイディアの実験場でもかまわないからエクストリームな一発をこうして時々は届けて欲しいと切に願う。毎夜涙のかわりにじくじくと血で枕を濡らす女性の映画など他の誰にも撮れるわけがないのだ。そしてゾーイ・ベルにゾーイ・ベルとしか言いようのない登場をさせてゾーイ・ベルとしか言いようのない退場をさせてほくそ笑む映画も。
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2021年11月11日

エターナルズ/生きているからかなしいんだ

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かつてモノリスのような宇宙船で地球にやってきた人類の庇護者を自認する神々の代理人たちが、実のところ自分たちは生命が宿った存在ではない木偶だからこそ永遠であることを知り、地球と人類への愛おしさはともかく、自分たちを人間だと思い始めた木偶が仮初とはいえ自らの実在を形づくる過去とその記憶を守るためセレスティアルズによるグラウンドデザインの破壊を目指して立ち上がる、と捉えられかねない点でかなり危うい物語ではあったように思うのだ。それはエターナルズと光と影の鏡像をなすディヴィアンツの虐げられた悲しみを一顧だにすることもないどころか、むしろ忌まわしい記憶として封印するかのように殲滅するエゴの清々しさにも見て取れて、これが人間に焦がれた木偶の神々が人間らしく人間臭い生き方を模索する物語であればこそ、最低限の自我をエターナルズとかわす人間がカルーン(ハーリッシュ・パテル)の他はほぼ不在であるという歪さにもうなずけるのだ。だからこそ、エターナルズが人類に見出した美徳を自身に反映させる行動や感情には嘘いつわりがないわけで、“出現”を食い止めることよりは、忠実なセレスティアルズの木偶であるイカリス(リチャード・マッデン)をヒューマニティのもとへ転向させた瞬間こそがこの物語の到達点であったことは言うまでもない。“人類に見出した美徳を自身に反映させる行動や感情の嘘いつわりのなさ”を、剥きだされた地球の風景を背景にエターナルズに宿していくクロエ・ジャオは、それこそを求めたのだろうケヴィン・ファイギの期待に応えて十全ではあったものの、その密やかで細やかなうつろいがMCU的なスペクタクルとシームレスに同居する新しい文体が獲得できていたかといえばそれは既視感につかまっていささか鼻白むものであったのは正直なところだし、いかなるジャンルからフックアップした監督であっても一定以上のMCUクオリティを成立させてしまうパッケージシステムの功罪と限界は、DCが舵を切った破れかぶれの作家主義とはきわめて対照的に思えてそこに帝国の倦怠を感じないこともなかったのだ。それにしても、自らの呪われた運命を知ることで完全体へと近づいた瞬間、まるでそのためだけに存在したかのごとくセナ(アンジェリーナ・ジョリー)に瞬殺されるディヴィアンツのリーダーのなんという哀れよ。
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2021年11月08日

ひらいて/ラヴレター・フロム・彼方

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原作未読。あらかじめ破綻して開始されたとはいえ三角関係の体裁をとりながら、終盤の或るのっぴきならない状況まで木村愛(山田杏奈)、西村たとえ(作間龍斗)、新藤美雪(芋生悠)の3人が同じフレームにおさまることはなく、しかも3人の誰もが望んだわけでもなくもたらされたその状況で美雪のとったある行動に烈しく虚を突かれつつも、この物語が曲乗りする不穏と不安と不条理のバランスは、愛ではなく美雪が中心点だからこそ成立したのだなとようやくにして理解することとなる。抱えた持病がもたらすハンデを飼い馴らすために美雪が手に入れた、私は誰かのために生きるのだという一見したところの利他は、そうすることで他人に寄りかかる重さを相殺することでしか私は立っていられないからという内爆する蒼い覚悟のあらわれにも思え、それが美雪を密やかで優しくも世界への透徹した目つきを持つ無垢と無自覚の怪物へと変貌させた気もしたのだ。まるで手紙にでもしたためるように、隙なく推敲された美しく間違いのない言葉を怒りも哀しみも喜びも驚きもそのすべてを紙片に並べるような水平で紡ぐ美雪の言葉は怪物の甘美で不吉な一噛みにも思え、美雪と母の泉(田中美佐子)が父の不在となった食卓で夕食に用意された鍋を前にかわす会話の、たとえが東京の大学に受かったこと、だから私はたとえに付いて東京に行くのだという決心ですらない報告を、夕食が好きな鍋で嬉しい気持ちとたとえの合格を喜ぶ気持ち、そしてそれがもたらした自分の気持ちの昂りをまったく同列に連ねて言祝ぐかのように母に告げる美雪の仄明るい違和を、その話はお父さんがいる時にまたしましょうねと軽やかにかわす母のルーティーンワークめいた笑顔が裏づけたようにも思ったし、単身赴任なのだろうやはり父親の不在のもと同じように食卓でかわされる愛と母親(板谷由夏)のやりとりの他愛のなさは新藤家の食卓との健康的な差異を色づけしているのだろう。だからこそ、美雪というフラットの怪物の水のような感情が揺らいだ冒頭に述べたシーンで、たとえの父(萩原聖人)に対峙した美雪が一瞬で体勢を立て直し、凍りついてうつむくたとえと愛をよそに、たとえの父に出されたかまぼこを押し頂くように口に運ぶその姿には、いったい自分は何を観ているのか、これは高校生の少しばかりエキセントリックなだけの恋愛映画なのではなかったのかと息をひそめて居住まいを正さずにはいられなかったし、なればこそ、この物語の幸福な着地が愛もまた美雪の怪物に一噛みされてひざまづくラストであったことは十全の帰結に思えたのだ。原作の愛や美雪がどのような彼女たちであったのかわからないけれど、木村愛の不発する青春が炸裂するまでを本筋とすれば座りが良いのだろうことは承知の上で、ワタシは首藤凛監督が解き放った新藤美雪という世界をことごとく均す怪物こそがこの作品の真価だと思ってやむことがなく、それをほとんど憑依でもしたかのように捉えた芋生悠の怪物からも一時たりとも目を離せすことができなかったのだ。勢いのまま原作を読んでみようかとも思ったけれど、この美雪が美雪のままでいてくれそうもない気がするのでやめにした。
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2021年11月03日

キャンディマン/なめたらいかんぜよ

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『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』がジェントリフィケーションという名の搾取が生み出した幽霊屋敷の呪いを断ち切る物語であったとするならば、これは失敗したシカゴの公営住宅プロジェクト「カブリーニ・グリーン」にかけられた呪いがジェントリフィケーションによって呼び覚まされる物語であり、オリジナル版『キャンディマン』においてその呪いを断ち切ろうとしたのが白人であった一方、今作がその続篇というより鏡像として在る(それは既にオープニングのユニヴァーサルロゴに見てとれる)のは、黒人自らの手で継承されたその呪いが新たなキャンディマンを誕生させたラストにおいて明らかだし、かつての「カブリーニ・グリーン」で白人警官によって生贄にされたシャーマン・フィッシャーズと円環するように、新たなキャンディマンとなったアンソニー(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)が白人警官を片っ端から血祭りにあげるその姿は彼が黒人の守護天使としてあることを謳い上げすらしてみせるのだ。『ゲット・アウト』や『アス』同様、得体の知れない存在を実在のものへと形作っていくことで恐怖の質を現在地に接続する構造はこれまでのジョーダン・ピール節ながら、キャンディマンという既存のキャラクターを据えたことで恐怖の移動がドライヴしない点については、主人公アンソニーを恐怖に対峙する者ではなく恐怖の源泉そのものに変質させることでその道行きのサスペンスを共有する仕組みを成立させてはいる。ただ、せっかくジェントリフィケーションの先兵(ジェントリファイヤー)としての芸術家アンソニーを依り代としながら、アート業界による簒奪や欺瞞がスプラッターシーンのフックとして用意されるにとどまるのは勿体ない気がしたし、その舵の切り方が性急なこともあってスプラッターの撮れ高が不足したのかバスルームの大殺戮はいささか通り魔的に過ぎてとってつけたようにも思え(このシーンでアジア系の学生が先に帰って殺戮を逃れるのは、キャンディマンの呪いが向けられるのが非黒人なのかあるいは白人のみなのかというルールの回避にも映る)、直截的なテラーというよりはクリーピーな催眠性で首を絞めるジョーダン・ピールの話法からすると、監督のニア・ダコスタがそのいずれにも対応する気配をみせていただけに、おまえたちがおまえたちである限りその恐怖が止むことはないという実存ホラーのさらなるデモニッシュな幻視で「カブリーニ・グリーン」の呪われた登記簿を塗りつぶしてしまうことも可能だったように思わないこともないのだ。監督がそのあたりのフェティシズムに興味がないからなのだろう、いくつかある痛覚を刺激するシーンがさほどのえぐみを残さない点はやや食い足りないように思う。一線を越えていくホラーでは悪趣味とエレガンスは両立する。
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2021年10月30日

スターダスト/David Bowie is?

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NYでヴェルヴェッツのステージに出くわしたボウイ(ジョン・フリン)は、そのフロントが脱退したルー・リードの後釜のダグ・ユールであることにも気づかないまま自身のヒーローたるルー・リードへの想いを昂奮のままにぶつけては、みんなダグに騙されるんだよなとオーバーマン(マーク・マローン)に軽くからかわれるのだけれど、そこで何ら悪びれることなくボウイが返した「ロックスターとロックスターの真似をする誰かと何が違うのかな?」という言葉を捉まえた時点で、この映画がボウイの神話を担う最新であることに胸を張ったとしてワタシは何の異見を挟むこともしないのだ。たった一人アメリカという茫漠とした不条理と虚無の中を彷徨することで、ボウイは自分の中に潜む狂気と向き合いそれをさらけ出すことがアーティストの務めであり宿命であるという無垢な強迫観念と、しかしそうやって身を切りながらその奥底にダイヴし続けることで兄テリー(デレク・モーラン)のように狂気に食い尽くされてしまうのではないかという恐怖とを分離して抽出し、その狂気に別のペルソナを与え名づけることでデヴィッド・ジョーンズが致命傷を負うことなく表現を成立する術を見出していくわけで、ことさらボウイに似ているとも思えないジョン・フリンの起用や、ボウイの楽曲を使用する許可が下りなかったことなど、監督にとってどこまでが計算でどこからがアクシデントなのかは不明だけれど、ジギー・スターダストという空前絶後のペルソナを手にする前夜のいまだ何者でもないデヴィッド・ボウイが不安と混乱のうちに立ち尽くす姿としてはそのジョン・フリンの曖昧さこそが望外に奏功していて、アメリカでの演奏シーンがブレヒトなどのカヴァーにとどまるのも、ボウイのルーツをあぶりだしつついまだ盤石のボウイ・ナンバーは手に入れていないことの停滞と閉塞をまぶしてたように見てとれたし、だからこそラストのステージシーンではボウイ・ナンバーでないにも関わらずあれほどの確信とカタルシスがあふれたのではなかったか。それに加えて、レジェンダリー・スターダスト・カウボーイの名前をそっと添えてちゃんと仁義を通していたりもするからなおさら点は甘くなるのだった。
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2021年10月27日

最後の決闘裁判/生きるとか死ぬとか神様とか

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第3章のみタイトルに付けくわえられた”TRUTH=真実”の文字。第1章にも第2章にも描かれなかった真実とはいったい何だったのかと言えば、それは藪の中の、藪の只中で寝台に抑えつけられたマルグリット・ド・カルージュ(ジョディ・カマー)の頬を伝い落ちた一筋の涙に他ならず、ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)にもジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)にも想像できるはずもないそれは、名誉とか誇りとかいった益体もない言葉遊びのずっと奥底で心臓の鼓動のように脈打つ人間の尊厳そのものであったに違いなく、自然を愛し文学を滋養としては自分がこの世界の理に連なっている手触りに確かめながら生きてきた一人の女性が、私は視えない人間ではないのだ、世界のここにいるのだと声をあげることで、顔色を変えた虚構と虚飾の世界がその口を押さえにかかる姿をワタシたちは何度目の当たりにしてきたことか。ここでは男たちがさして余白のない類型的な下衆として描かれる一方で、姑ニコール(ハリエット・ウォルター)や友人マリー(タルラ・ハドン)といった、声を上げたマルグリットによって声を上げない自らが脅かされたと感じる女性たちが後ろからマルグリットを撃つ姿の醜悪と哀れを繊細にとらえつつ、シャルル6世の妻イザボー(セレナ・ケネディ)やピエール2世(ベン・アフレック)の妻マリー(ゾーイ・ブリュノー)がふとした瞬間にみせる夫をとりまく世界への嫌悪をしたためることで、声を上げることのできない女性たちの屈託や怨嗟の諧調によって3部構成の物語がほどけてしまうことのないよう串刺しにしてみせていて、ともすればシナリオのコンディションに左右されがちなリドリー・スコットにあって二コール・ホロフセナー(『ある女流作家の罪と罰』)とベン・アフレック、マット・デイモンの仕上げたソリッドなオブセッションに満ちた脚本抜きにこの作品が成立し得なかったことは言うまでもないだろう。第2章でマルグリットが階段を逃げながら誘うように靴を脱いで裸足になったシーンは、第3章において慌てるあまり階段の角に靴をひっかけて脱げてしまうシーンへと書き換えられ、そうやって細部を催眠的に入れ替えながら三度繰り返してみせたあとで、その酩酊した頭のままなだれこんだ決闘場では、いつしか自分が目をぎらつかせ拳を振り上げる群衆の一人となって目の前の殺し合いに固唾をのんで身を乗り出していることに気づかされて、すべてが終わった後でマルグリットが馬上から夫と群衆に投げかける冷ややかで侮蔑し切った視線は図らずも人殺しを愉しんだワタシに向けられたようにも思え、あの不条理の極みともいえる空間を圧倒的な活劇の祝祭で抽出したリドリー・スコットのひんやりと暴力的な知性による剛腕に打ちのめされて二の句が継げないまま、真のサヴァイヴィーとなったマルグリットがこの世界で我が子だけに向ける笑顔に心の中で頭を垂れるしかなかったのだ。すべては頭の中で完成していて、あとはそれを汎用性のあるパッケージに移し替える作業でしかないとでもいうリドリー・スコットの、悪魔的とすらいえる澱みない解像度をいったいワタシはどれだけ認識できているのか胸に残るのは不安ばかりで、こんな風に何か自分が決定的な失敗を犯したような気分で映画館を送り出される監督が他に思い浮かぶことはない。ひとつ難をあげるとすれば、ピエール2世の倦怠と退廃がピカレスクとして成立してしまいそうなところか。ル・グリに邪な囁きを続けるルーヴェルを演じたアダム・ナガイティスをベン・フォスターの跡目として心に刻んだ。
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2021年10月20日

DUNE / デューン 砂の惑星 : Part1 砂の中のナイフ

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過去と未来が交錯する母と子の物語を怪物の咆哮とともに岩と砂の大地へと刻みつけ(「灼熱の魂」)、つきつけられた切っ先を運命と呼ぶならば、真の救済は運命を受け入れることではなくその刃渡りをしてさらに運命の先へ向かう人にこそ訪れることを告げつつ(「プリズナーズ」)、見間違えようもなく見ればわかるものを撮りながら、それが組み合わさった瞬間に意味は霧散し観客はそこに取り残される不安への恍惚とともに自らの経験と認識を頼りに彷徨を始め(「複製された男」)、運命論的な選択への諦念ではなく決定論に対する自由意志的な決断の疼きを確かめてみせ(「メッセージ」)、実存のパースを曖昧に狂わせ続ける巨大建造物へのフェティシズム(『渦』における巨大ダム、『複製された男』におけるトロントの高層ビル群)がより洗練されたシグネイチャーとして脱走を阻むかのように神経を塞ぎつづけるこの映画をヴィルヌーヴが現時点での集大成として撮り上げたことは言うまでもなく、おまえのいる世界を全身で知覚しろと常に語りかけてきたその作品こそがワタシたちの意識を拡張するスパイスであったことにどこか感傷すら覚えながら思い至ってしまう。ワタシたち人間が「個」であろうとすればするほどその「差」はいつしかシステムの強度を要求して政治を生み出し、しかしワタシたちは「個」であるがゆえそれと闘わなければならないというその「個」と「差」のメランコリックで暴力的な関係こそが「世界」であることを、ワタシの知る限り『渦』からずっと描き語り続けてきたヴィルヌーヴ自身の光と闇を潜った奥底からの心象であったからこそ、この映画はパーソナルフィルムのような密室性で砂漠すらを捉えつづけたように思うのだ。『プリズナーズ』において、常に備えよ(Be Ready)、すなわち世界の不安定を理(ことわり)で杭打つ存在であれと父親に育てられたケラーが偶然と必然の十字路でその祈りを拒絶されたことを思い出してみれば、そうした役割を予知し自認して生きてきたポール(ティモシー・シャラメ)が他者の生命を奪うことで殉教を拒絶し祈りを破壊した行為は、「個」と「差」を繋げる鎖としての暴力が未来を切り開くことを告げてもいたわけで、それこそがヴィルヌーヴ作品にまとわりついて離れない仄暗い不穏の正体であることを明かす瞬間をこのパート1のクライマックスに据えた点においてその確信を解き放つ覚悟と野心がうかがえたのではなかったか。そんな風にしてヴィルヌーヴによる記憶の宮殿といってもいいその一部屋一部屋に飾られた絵画のようなショットの連続でできあがったこの映画からワタシが一枚を選ぶとしたら、裸で椅子に沈みこんだ瀕死のレト公爵(オスカー・アイザック)を眺めながら食事を貪るハルコンネン男爵(ステラン・スカルスガルド)をまるでベラスケスのようにソリッドな光と闇で描いた題名「公爵と男爵」一択となるのは言うまでもない。今こうして『ヴィルヌーヴのDUNE』を観終えてみると、『メッセージ/Arrival』の一卵性双生児にも思えた『最後にして最初の人類』はヨハン・ヨハンソンが夢想したアラキスに他ならないことに気づかされ、彼の不在がかけた呪いにおいてこの映画は永遠の欠落を背負うことになった気もしている。
posted by orr_dg at 23:55 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月12日

007 ノー・タイム・トゥ・ダイ/最後にして最初のスパイ

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血にまみれた『スカイフォール』の手続きを経てMajestyでありMotherであるMを退位させたボンドは、まるで失われた青春を取り戻しでもしたかのようなその横顔で閉じられた『スペクター』で寄る辺なき世界からの逃走を成功させたのではなかったのか。冒頭、ヴェスパー・リンドの墓前で爆殺されかけたボンドは生涯の伴侶とすら思えたマドレーヌ(レア・セドゥ)をほとんどパラノイアにも思える激情で責めたてたあげくに打ち棄ててしまうのだけれど、この滑り出しはかつて愛しながらあるいは愛したふりをしては利用してきた女性たちの亡霊に深層で囚われつづけるジェームズ・ボンドの呪いを明かすことで、クレイグのボンドが最後に立ち向かう敵は自分自身であることを宣言したように思ったし、その寄る辺なき深淵にボンドをいかに誘い映し出すか、キャリー・ジョージ・フクナガを起用した理由がそこにあるとすればそれは慧眼であったように思えたのだ。駅でのマドレーヌとの別れまでは。しかしそれ以降、サム・メンデスが『スカイフォール』で行ったダークナイト的脱構築と、脱構築をさらに推し進めた『スペクター』が記号化した表層の狭間とで右往左往するジェームズ・ボンドは、旧友フィリックス・ライターから仇敵スペクターに至る彼の実存を裏付けるすべてを奪い取られるばかりか、彼に未来があったとすればその唯一の希望である存在すらが手の届かぬところへ追いやられてしまうのだ。そしてその死には優雅で感傷的な自己犠牲が許されるどころか、おそらくはジェームズ・ボンド史上初めての完全な敗北によって生還をあきらめるという、007というブランドの失墜すら招きかねないある種の無様で幕を閉じることとなる。しかし最期に彼がその表情にはりつける泣き笑いの表情こそは、かつてMが与えた人殺しの目つきと矜持との交換に差し出した素顔であったのかもしれず、すべてのジェームズ・ボンドたちがしでかした無邪気と無慈悲と乱痴気とそれらがもたらした恍惚とその詭弁への代償を払い続けたクレイグのボンドは、最期の瞬間に人間の復権を赦されながら、しかしその瞬間この世界から消えていくのだ。したがって、この映画が意味あることを語ったとすればそれは冒頭とラストの数10分のシークエンスに過ぎず、ジェームズ・ボンドを亡きものとするというこれまで誰も成し遂げなかったミッションを与えられたキャリー・ジョージ・フクナガがその間のおよそ2時間をどうしていたかといえば、口ごもったかと思えばどなり散らし哄笑したかと思えば泣き叫ぶ、ジェームズ・ボンドの躁鬱的な混迷と混乱をそのまま隠すことなく晒し続けたわけで、このシナリオが抱えるプロットの機能不全をそのままジェームズ・ボンドのそれへと照射する選択を、あらかたの開き直りといくばくかのあきらめとともにキャリー・ジョージ・フクナガは受け入れたのだろう。とは言うもののノーミ(ラシャーナ・リンチ)の実質的な007剝脱をわざわざ自主返納に言い換えるくだりだけは、これだけの手練たちが集まってなおあれほどの手抜きを許してしまうのかと、MCUの偏執的なブラッシュアップなら見過ごすことはしないだろう不完全に落胆はしたものの、その失敗の香りにうながされてようやく受身の準備をとれたからこそ、すべての元凶のはずのM(レイフ・ファインズ)がいったいどの面を下げてボンドを悼むのか心底理解に苦しむあのシーンですらも、ボンドもきみたちもすべてワタシと同じく失敗の産物なのだからと慈愛の気持でやり過ごすことができたのだろうと考える。たぶん世界は救って欲しくなどなくて、思い上がったものはこうして罰を受けるのだ。
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2021年10月07日

死霊館 悪魔のせいなら、無罪。/愛と幻想のエクソシスム

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ロレイン(ヴェラ・ファーミガ)とエド(パトリック・ウィルソン)のウォーレン夫妻にとって真の恐怖とは呪われた人形や悪魔や幽霊に生命を脅かされることではなく、自分ひとりを残して相手がこの世から去ってしまうことに他ならないにも関わらず、自分のこの力(ギフト)は絶望の淵に佇む人たちを救うために与えられたのだと確信するロレインのノンブレーキで疾走するノブレス・オブリージュ的な使命感と、それをいっさい押しとどめることなく必死の笑顔で併走するエドが繰り広げる命がけの婦唱夫随こそが死霊館ユニヴァースをハイカロリーで駆動するエンジンであることを、ここで今あらためて心高らかに宣言してみせている。これまでも夫妻はユニヴァースの欠かせない存在ではあったけれど、あくまでも怪異それ自体を主人公にそのサイドキック的な役割を担ってきたわけで、してみると既にオープニングからこの物語の責を負って夫妻が登場する今作は、例えば夫妻が出会ったなれそめのフラッシュバックなどパーソナルに迫る瞬間など垣間見せつつ、ロレインの能力が抱える両刃の剣としての危うさと、彼女の従者として我が身を省みずその切っ先に身を投げ出すエドの即死スレスレのコンビネーションこそをサスペンスの真っ赤な彩りに選んでいて、ジェームズ・ワンがマイケル・チャベスに託したこの新たな舵は、たとえばMCUが次第にアベンジャーズの物語へと収束していったようにウォーレン夫妻をユニヴァースの幹に据えるため、これまでのように怪異のキャラクターによって変化せざるを得ない話法を均す試みであったように思えたりもした。秘密は床下にあるとあたりをつけて、躊躇なくたおやかなブラウスとスカートのまま潜りこもうとするロレインに、そんなところに入ったら服を汚しちゃうよと心配げなエドを振り返り、だってあなたは心臓発作を起こしてステントを入れる手術をしたばかりでまだ歩くのにも杖をついてるでしょ?と言わんばかりの笑顔で、ちゃんと私のバッグを持っててちょうだいねとだけ言い残して四つん這いで暗闇に消えていくシーンのこまやなか愛情の溢れさせ方にワタシは頬がゆるんだし、CM出身の監督にしては抑制のきいたトーンを正当な手続きで積み重ねてレイヤーの色合いを決定していくマイケル・チャベスの正攻法(『ラ・ヨローナ〜泣く女〜』の愚直なまでの正面突破はジェームズ・ワンの与えた課題だったのかもしれない)は、人間様に軸足をおいた今作の重心を打つために必要な起用だったのだろう。もし今後、ウォーレン夫妻の活躍をより前面に打ち出していくのであれば、今作で密かに八面六臂であったドルー・トーマス(シャノン・クック)をよりアクロバティックに機能させてくれると心霊タスクフォースとしての痛快がいっそう増すのではないかと愉しみにしている。
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2021年10月03日

レミニセンス/死ぬまでROMってろ

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フィルム・ノワールやファム・ファタールの意匠を思う存分借り出してはいるものの、実際のところはニック・バニスター(ヒュー・ジャックマン)という屈託をためた一人の男の自爆するセンチメントが右往左往するに過ぎず、メイ(レベッカ・ファーガソン)にしたところが劇中で文字通り演じさせられるファム・ファタールの衣装をいったん脱ぎ棄てた時、では彼女は世界のどこからやってきていったい何を許して何を憎み、どのような血の轍にはまって抜け出せなかった人なのかが深彫りされることのないまま、ただただニックの追い求める妄想と理想の女性へと矯正されていくばかりだったのだ。しかし、その全てがラストで昏睡したままタンクに浮かぶニックが投影し続ける最良の記憶なのだとしたら、そもそもノワールの行きつくゼロ地点への胴体着陸を期待するのは無理筋というものだし、それよりはむしろ『ジェイコブズ・ラダー』のフォルダに放り込んでしまった方が収まりがいいように思うのだ。リサ・ジョイがショウランナーとして采配した『ウエストワールド』で記憶と実存をめぐる物語を吐き気がするような執着で描いた反動なのか、ここでの記憶はすべて劣化した記録映像として腰が軽く慰みものになるばかりで、もしかしたら水没都市のメランコリーも、乾ききった西部の大地で延々と彷徨し続けたことの反動だったのかもしれず、タンディ・ニュートンはともかくとしてアンジェラ・サラフィアンにまたしても薄幸をまとわせたあたり、年齢が邪魔さえしなければエド・ハリスをニックにすえたパラレル・ワールドの幻視を試みたようにも思ったのだ。それにしても、ここまで舞台を仕立てながら干潮と満潮によって晒される世界と覆われる世界を陰陽の理へとおとしこむ執着がリサ・ジョイにもジョナサン・ノーランにも見当たらなかったのが惜しまれる。
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2021年09月26日

モンタナの目撃者/This Land Is Not Your Land

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銃と暴力で脅せば当然のように相手を支配できるつもりの相手にいい加減しびれを切らして「さっさと撃って殺せ、胸張って死んでやるよ(I’m just gonna keep my dignity)」と、強がりでもなんでもなく逆切れするイーサン・ソーヤー副保安官(ジョン・バーンサル)は、結果として生まれてくる我が子の顔をみることなく消えていってしまうのだけれど、もし彼が父親になっていたら『ウインド・リバー』のコリーのように、アメリカの土地に生まれた者は生命と呪いを背中合わせに生きなければならないことを悲劇ではなく諦念として受け入れなければならないのだと、我が子に伝えるその姿を想像するのはいともたやすく、彼の妻アリソン・ソーヤー(メディナ・センゴア)が生き延びるために何度となく下す瞬時の判断もまた、生命と呪いの境界をすり抜ける生き方をしてきた者の冷徹を借りていて、ここに登場する者たちはオーウェン(ジェイク・ウェバー)とコナー(フィン・リトル)のキャサリー親子と、そのバトンを継いだハンナ・フェイバー(アンジェリーナ・ジョリー)は言うまでもなく、果てはパトリック(ニコラス・ホルト)とジャック(エイダン・ギレン)の殺し屋兄弟に至るまで、アメリカの原罪とその償いに囚われた憂鬱とそれを引き受ける矜持に衝き動かされていたように思ったのだ。特にハンナとアリソンの場合、アリソンはコナーとの関係が『グロリア』の母性を動機としてしまわないようそのキャラクターの背景が執拗に念押しされているし、アリソンは妊婦である点をアクションのデメリットとして一切斟酌しない演出で、観客が抱くバイアスをことごとくうっちゃっている。現状、アメリカの土着と土俗の風景を描く最良と思われるテイラー・シェリダンとデヴィッド・ロウリーのいずれもが、サバービアからランドへとカメラを持ち出しているのは偶然ではないだろう。『すべてが変わった日』が捉えたのもそんなアメリカの時間と場所だったし、クロエ・ジャオの描く荒野がその最新にして最右翼なのは言うまでもないだろう。分断の再興とその侵攻によって辺境が最前線と化している。
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2021年09月22日

ドライブ・マイ・カー/カーヴをまっすぐ曲がる人

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文章では家福と表記される“かふく”を口にしてみればそれは禍福となるのが何より自然でふさわしく、「禍福は糾える縄の如し」と言ってみるその縄の虜であり続ける家福悠介(西島秀俊)がその縄を解くに至る物語としては原作短編を逸脱したと言い難いにしろ、文章上では黄色のサーブ900コンバーティブルの車内で金言と箴言を駆使した超絶カウンセリングで家福を寛解へと導く、かつて家福が亡くした娘が生きていれば同い年であった23歳の渡利みさき(三浦透子)から村上作品ではなじみのマジカル二グロとしてのマジカルウーマンという衣装を恭しくはぎとっては、家福の心配よりきみはきみの心配をするべきだと濱口竜介は全力で彼女のバックアップにまわるのだ。近年映像化された村上春樹作品のことを少し思い出してみると、『ハナレイ・ベイ』ではラストの大胆と言ってもいい書き換えによって主人公サチに再生の光をもたらし、『バーニング 劇場版』では原作において漆黒の塗布にとどめた世界の断絶を暴力で裂いて光を招き入れる試みを告げていて、そのどちらも監督自らが脚色したことを考えてみる時、原作のその先、もしくはその周辺あるいはその下層に村上春樹が隠し埋もれさせたものを彼らの解釈として抽出したのだとすれば、漂泊する女性たちの救済と原初的な暴力への憧憬こそを彼らはそれと決定したわけで、言い換えればそれらを原作からこぼれ落ちた(こぼし落とした?)色合いと手触りとして特定していたように思うのだ。してみると、今作ではその両者をみさきの救済および高槻(岡田将生)との邂逅として脚色したことは至極納得がいくわけで、村上作品を映像化する場合それらが拡張というよりは新たな補填や補完として現れるのは、それらをテキスト上の特徴的な欠損として捉えたからに他ならないだろう。ここでの家福からは致命的な傲慢や悪意は魚の小骨のように取り除かれて、せいぜいが高槻の配役をアーストロフではなくワーニャに変更することで彼の間男を締め上げるにとどめ、この世界にあらかじめある暴力の発火と発熱については高槻にすべて任せてしまっているものだから、みさきの発火装置として涙を流し仮初めの娘に再生のやり方を導くことが彼の役割として次第に浮かび上がり、親と子が互いを救い合うことで生き延びるという村上作品ではついぞなし得ない地点に映画の真っ赤なサーブは到達するわけで、映画にとって主題など邪魔なだけでさほど興味はないし、それよりは作品のナラティヴそれ自体をぼくは愉しんだ、とかいった村上春樹のコメントなどを妄想してみるのだった。境界でゆらぐ緊張の解放と圧縮をシームレスにつなぐ四宮秀俊のカメラは『へんげ(2011)』から『きみの鳥はうたえる』『人数の町』といった作品と共に10年を経て、現状最強といえる芹澤明子氏の座るテーブルについたように思われる。端正と抑制が透徹した彼岸を映す今作にあって、高槻を送ったホテルから離れていくサーブのリアウィンドウに、エントランスで仁王立ちになってこちらを凝視する高槻を認めた瞬間、世界のフレームが瓦解するかのようにガクガクッと揺れるカメラの凶度に、『寝ても覚めても』を観た時の濱口竜介はいつか正面切ってホラーを撮るべきだという願いにそれも四宮秀俊のカメラでという新たな願いを加えてみたのだった。
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2021年09月13日

シャン・チー/テン・リングスの伝説〜いつもトニーから始まる

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MCUのTVシリーズ展開にあまり興味のないワタシのような観客にとって今作は『エンドゲーム』以来のMCU新作となるわけだけれど(『ブラック・ウィドウ』は『エンドゲーム』ではその死が偲ばれなかったナターシャの通夜語りだろう)、アベンジャーズを賄うために極限までインフレーションされた「悪」の生贄としてサノスを捧げる狂熱の儀式もしくは祭りの後の虚脱をどのように浄化して新たな清新から歩み始めるのか、それまでの物語をまずは根本から裏返して北米からすれば辺境であろう彼方を舞台に、アングロサクソンを完全なモブ扱いにする力技と悪=敵がいなければ成立しないMCU世界の忌まわしき呪いをその存在の色艶として両立させるアクロバットをトニー・レオンに託し切った慧眼に、恐れ入ると言うよりはその透徹したクリエイティヴィティの切れ味に背筋がひんやりとすらしたのだった。善悪のあわいで途方にくれたように立ち尽くす人の悔恨と自棄を夕暮れの儚さで灯して立ちはだかるウェンウーの障壁が高ければ高いほど、そこを超えていくシャン・チー(シム・リウ)にはヒーローの血肉がいつしか備わっていくわけで、神話の父殺しというよりは道教的な魂の救済にも思えるそれはそのままシャン・チーというヒーローにたおやかさと高潔の色を施したように思うのだ。しかしシャーリン(メンガー・チャン)について言えば、共闘にしろ反発にしろいま一つ機能として交錯しないことで、本来であればシャン・チーより歪んだ屈託を抱えたはずの彼女がいささか物分かりが良すぎる点、というか物分かりが良くならざるを得ないへの不満(ポストクレジットシーンがその穴埋めをするとはいえ)は、トニー・レオンがみせたミラクルの功罪という気がしないでもない。ウェンウーとイン・リー(ファラ・チャン)の出会いからやがて想いを募らせるロマンスを流麗なアクションで紡いでいくシーンが、かつてアン・リーが『グリーン・デスティニー』で魅せた官能的とすら言える剣術の交感を継承していることは、シャン・チーのメンターとして登場するミシェル・ヨーの凛として揺るがないたたずまいに明らかだろう。今後トニー・レオンは、シャン・チー絶体絶命のピンチ、もしくはシャーリンとの致死的な兄妹喧嘩にスピリットとしてあらわれて、にこやかに兄妹を救ってやって欲しいと切に願う。おそらくケヴィン・ファイギは何かのシナリオのどこかをトニー・レオン仕様にリライトすべく既に指示しているように思っている。
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2021年09月09日

アナザーラウンド/死ぬには少し酔いすぎた

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「朝起きて気分が非常にブルーになってると、そういう時に面白いもの書こうと思えばアップさせなきゃいけない。だから3合くらい日本酒を飲む。そうするとやっと普通の状態になって書けるようになる。」中島らもが徹子の部屋に出演したとき、こんな風にキックとしての酒をわかりやすく淡々と黒柳徹子に語っている。中島らもの場合、酒がキックで済まなくなったことで依存症の泥沼に沈んでいくのだけれど、この映画はアルコールやその依存症への糾弾や擁護の色を分けるわけでも、それをことさらに笑い飛ばしたり揶揄したりするわけでもなく、中島らもがいうところの“ブルー”の彩りを酒で濃くしたり薄めたりしてできる模様が今はなくしてしまったけれど自分の大切だった何かに似てはいやしないかと、人生を折り返した男たちがその帰り途で焦燥にとらわれながら落しものを探すその肩に、メランコリーの上着をそっとかけてやっていたように思うのだ。いつだったか大槻ケンヂが言っていた、薬を飲むだけで簡単に上がったり下がったりするんだとしたら後生大事にありがたがる「本当の自分」なんてものはそもそも幻想なんじゃないかといったことや、酒に自分の心を支配されている感覚になるから絶対に飲まないという蛭子能収の言葉を思い浮かべてみる時、ワタシたちは「本当の自分」という幻想に囚われて自分で自分の首を絞めているのではないかという考えを振り払うことができないでいるし、「本当の自分」と「現実の自分」の乖離の淵で彷徨するマーティン(マッツ・ミケルセン)は、好むと好まざるに関わらず社会との関係性において生きることを要請されるワタシたちそのものであるからこそ、彼の失敗はどこまでもワタシたちの後を付いてくるのではなかろうか。だからこそ、アルコールのキックによって社会的な動物としてつながれた首の鎖を永遠に解くことを選んだトミー(トマス・ボー・ラーセン)がその自爆によって仲間達の失敗に煙幕を張ったことや、最期にマーティンに託した、お前がお前について考えることなど何のあてにもなりやしない、それよりはお前が手を伸ばして触れたものの手触りを大事にしてそれを手放すなというメッセージが悲痛なまでに胸を打つわけで、妻からのメッセージを見たマーティンに宿った、ああこれでもう俺にはトミーの選択を追うことは叶わなくなったという安堵とあきらめの目元からの、未来に対する盲目的な希望にあふれた学生たちの前で泣き笑いするかのようにトミーへのレクイエムを踊り狂い海に飛び込むマーティンのストップショットは『大人はわかってくれない』のそれにも似たその先への止揚の突きつけに思え、その一瞬マスクの息苦しさが今さらながら耐えがたくて仕方がなかった。
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2021年09月07日

オールド/きみへ渚にて

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もしビーチに行かなかったとしたら、プリスカ(ヴィッキー・クリープス)はトレントとマドックスが成長した姿を目にすることなくこの世から若しくはカッパ家から去っていただろうし、ああしてガイ(ガエル・ガルシア・ベルナル)と終世を共に添い遂げることもなかっただろう。様々な基礎疾患を抱えた彼や彼女にとって、はじけ飛ぶように加速する人生の真の恐ろしさは、老化と死への恐怖はもちろんのこと、本来は緩やかであったかもしれない痛みや苦しみが高濃度に凝縮されて打ち込まれるオーヴァードーズのそれであって、わけても統合失調症と低カルシウム血症をそれぞれ患うチャールズ(ルーファス・シーウェル)とクリスタル(アビー・リー)の夫妻を襲う容赦のない断末魔を念入りかつ執拗に描くシャマランの麗しい趣味には惚れぼれするしかなかったし、ラストに用意されるツイストの意外な収まりの良さを思うと、今作はその錐揉みよりはそこに至る真空状態の酩酊こそを愛でるべきで、導入部分で6歳のトレントが出会う人に片っ端から職業を尋ねるシーンなど、通常の手続きで人物の相関を探り合うのももどかしく、私は一刻も早くビーチに行きたいのだ、行って人々をそこに放り込みたいのだというシャマランの焦燥にすら思えたわけで、なにしろ今回のシャマランはカメオというには少しばかりしつこく、しかも監視者/窃視者という役回りでスクリーンに現れ続けるのだ。物語はそれが行き着く場所ではなく運び続ける足取りを語る意志そのものを指すのであり、それを信じる者は救われるのだ、というかつて『レディ・イン・ザ・ウォーター』で明かしたマニフェストはいまだ誇らしげに掲げられ、ハッピーエンドとバッドエンドが互いを相殺するゼロ地点に着地する勇気は、イーストウッドをして晩年に到達した境地そのものであるようにも思え、監督への畏敬の念はいよいよ増すばかりなのだった。ホテルのマネージャーの甥っ子がトレントのIFもしくはスーパーナチュラルな存在だったらどうしようと少しだけドキドキしたけれど。
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2021年09月05日

孤狼の血 LEVEL2/ヒロシマ・モナムール

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昭和という戦争を抱えた時代ゆえ持ち得た生と死のもつれ合う刹那のスピードが撮らせた「やくざ映画」と、それを批評的な憧憬で追尾する「やくざが出てくる映画」の避けがたい断絶それ自体を松坂桃李が曖昧かつ茫洋とした横断で的確に演じ切った前作で、とっくに皆は気が済んだものだとばかり思っていたものだから、彼の演じる日岡を主人公にオリジナル脚本の続篇が撮られることを知った時、それは菊地刑事をメインに据えた『その男、凶暴につき2』なのではないかと、負け戦の香りが一瞬漂ったのは確かだったのだ。前作では色濃かった『県警対組織暴力』の構造はすでに出がらしとなり、ではどこに勝機を見出したのかといえばそれは、市中に放たれた上林成浩(鈴木亮平)という怪物をやくざと警察が血まみれで狩りたてることで超暴力を描写する言い訳を成立させるというモンスター映画としてほとんどやけくそで開き直るその一点にあったはずなのである。はず、と言ったのはワタシにはその目論見がいささか志半ばであったように思えたからで、さすがにそのストレート・アヘッドでやり逃げるには腰が引けてしまったのか、主に日岡の陰影欲しさに彼の周囲へとドラマを巡らす誘惑に屈してしまっていて、その好演は別として近田幸太(村上虹郎)のパートは停滞とプロットホールを誘うだけにしか思えず、幸太との関わりによって上林が過去に捉われるに至ってはアントン・シガーや大友勝利にフラッシュバックが必要か?とその湿度がノイズになったのは確かだったのだ。そうした点で、冷やかな暴力装置として尾谷組の花田優(早乙女太一)が白石映画には稀有な色艶を残したこともあり、できれば上林と薄ら笑いで激突して鶴の首でもへし折るように屠られる様を妄想したりもした。ラストの駐在シークエンスは明らかに『県警対組織暴力』エンドを想起させつつその執行は別の人物に向けられて日岡は原作通り命をつなぎ、もし原作に復帰してのLEVEL3を睨んでいるのなら、そこでは柚月裕子氏をシナリオチームに迎えて薬莢の鈍色に哀しみを映す筆を請うべきだと考える。
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2021年08月31日

FUJI ROCK FESTIVAL'21 雑感

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昨今の状況を鑑みれば決して褒められた選択でないのは重々承知の上で、まずは邦楽アーティストのみの出演というドラスティックな決定から始まった紆余曲折の中、行く行かないという選択肢が頭をよぎったことは一度もなかったように思う。それは苗場皆勤を途切れさせたくないわけでも、もう自粛はうんざりだ好きなようにやらせてもらうぜと中指を立てたわけでも、いま苗場で見ておかねば死んでも死にきれないというアーティストがいたわけでも、思い上がった使命感があったわけでもそのいずれでもなく、では何なのかと尋ねられても「それを造れば、彼が来る(If you build it, he will come)」的なうわ言にささやかれとしか言いようがなく、それについては申し訳ないとひたすら頭を下げるしかないのだ。そんな中、8月21日の深夜にホテルの部屋でNHKBSシネマが放映する『ゾンビ ディレクターズカット版』を見ながら、去年の春からいまだ続く籠城戦と撤退戦の最中にいるワタシたちはゾンビの脅威から逃れてモールに立てこもるピーターやフランそのものだなあと思いつつ、いやどちらかと言えば生前の記憶に衝き動かされてモールにやってくるゾンビがふさわしいのかもしれないと、何度見たかわからないこの映画に新鮮な親しみをおぼえたりもしたのだった。ワクチンは2回目がぎりぎりで間に合わないままだったのが心残りながら、出発前は一週間前から毎朝検温し、送付された抗原検査キットや所定のアプリへの対応およびCOCOAをアクティヴにし、シャトルバスは避けてタクシーで行き来することなど策定しつつ、東京で過ごす消毒と昏睡の日々を極力再現することを肝に銘じて苗場に向かった。

1997年に行われた第1回の天神山(ワタシは不参加)は台風の直撃で観客が半ば遭難して野戦病院と化し、その責任に対し運営が集中砲火を浴びたことで第2回は同地区での開催が叶わず、1998年は本来のコンセプトからは外れる都市型フェスとして一度体制を立て直した後(ワタシはここから参加)で、1999年の第3回から苗場に居を移すことになるのだけれど、天神山の惨劇で世間を賑わせたフジロックがやってくるという事態に当時の地元は受け入れに対して一枚岩であったとは言い難く、苗場開催のアナウンスがあってからほとんどドキュメント的にその経緯を知ってきた者たちは、運営はともかく自分たち客が決定的なエラーを犯したらこの場所も取り上げられてしまうのだというある種悲壮ともいえる決意で苗場に足を運び、とにかく地元に迷惑をかけてはいけない、粗相があってはいけないというそのストイックさがクリーンなフェスとしてのフジロックを築きあげていくことにもなったわけで、ワタシの胸の内を支配する何かがあったとすれば、この1999年のフジロックに臨むそれであったように思えたりはしたのだ。

そうやってゲートをくぐったいつもの苗場は、楽観と悲観、虚無と笑顔、静寂と爆音が水平に同居する彼岸の景色にも似て、百戦錬磨の甲本ヒロトをして「ああ、久しぶりでだんどりがわからなくなっている……」と手につかないハーモニカを嘆かせ「BEGINとしてのライヴはこれが2021年最後かもしれない」と吐露した比嘉栄昇はその後に「開催に賛成する人も反対する人も、その先に望むことは一緒のはずなんだから対立しても仕方がない。道筋を決めなきゃならないのは専門家の人なんだよ」と言葉を連ね、あの向井秀徳がステージでただの一滴もアルコールを口にせず、坂本慎太郎は「できれば愛を」で始めたステージを「ツバメの季節」で締め、電気グルーヴですらが驚くほどに音量を落として祝祭をなだめてみせていて、非常に身勝手な言い方をしてしまえば、ワタシが見たすべてのステージに通底したのは、「業」と言い換えることのできる人間の尊厳であったようにも思ったのだ。もちろんその「業」を「罪」に置き換えることをワタシは否定しないし、そうした意味では観客もアーティストも主催者もすべてが共犯であったことは言うまでもなく、これから先何らかの罪を負わねばならないとしてその誹りを受けることから逃げるつもりはないという決意を告げるべく、ワタシが見たすべてのアーティストはそのステージから観客席へと空気を震わせていたように思っている。帰宅後に受けたPCR検査でワタシは陰性だったけれど、東京都であれば無料で受けられる場所があるので参加者はその責任として査を受けて欲しいと思う。どんなことより優先すべきはあなたとあなたのまわりの人たちの生命である。


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2021年08月18日

ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結/盗人にも五分の魂

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※ある展開に触れてしまっています

凶悪なヴィランとしての決定的な欠落や危険な過剰がいっさい見当たらない、開きっぱなしで焦点の合わない瞳孔とみすぼらしくすり切れた体毛に身をつつんで、実存が一度でも彼に宿ったことがあったのだろうかという呆けた風でただそこに居て宙を見つめ、ではいったいその中にどんな特異能力を宿しているのかと言えばそれを誰も知らぬまま、子供を27人殺したという最悪のプロフィールだけが紹介され、あげくに洋上潜入作戦(しかも囮チーム)に徴集されながら彼が泳げないことを誰も知らず投下された水中で溺死したウィーゼル(ショーン・ガン)の、劇中ぶっちぎりで救いようなくバカでクズでゲスな扱いにはそれなりに気を惹かれはしたものの、その後くり広げられるバカでクズでゲスたちがいつしか救われていく鬼畜大宴会に少しだけ涙ぐんだりしているうちに、薄汚れたイタチのことなどすっかり頭からけし飛んでいたものだから、打ち上げられたウィーゼルの溺死体を映すポストクレジットシーンに何でいまさらこいつが?と訝しんだ瞬間、海水をげふっと吐いて蘇生したウィーゼルは虚空に通じる両眼をかっと見開いてやおら起き上がり、テケテケトコトコと砂浜を密林に向かって小走りで消えていったのだ。既に政府のデータベース上では死亡扱いとなっているウィーゼルは図らずも自由の身となったわけで、ああジェームズ・ガンはそうやってウィーゼルに自身を投影していたのだなあと、ドブネズミが世界を救う物語を爽快かつ痛快に語り終えて満場の拍手喝采をもらった後で、それを宣言しておかずにはいられなかったジェームズ・ガンの一つ二つ三つねじれた矜持を見たようにも思ったのだ。バカでクズでゲスだった自分への報いは甘んじて受けるし、悔い改めるために必要なことは何でもしよう、ただ俺から映画だけは取り上げないでくれないか、それがなかったらそのまま俺は溺れ死んでしまうから。俺を嫌いなあなたが俺のつくる映画を嫌いになるのは仕方がないし、それは当然だ。でも俺には、もう一度あなたが好いてくれるような映画を撮り続けることしかできないから、死の淵から蘇ってひとり走り去っていったウィーゼルがまた子供たちを殺しまくるのか、今度は子供たちを笑わせるのか、今はその先の彼にチャンスを与えてやってはくれないだろうかと俺はお願いしたい、という懇願に耳を貸すのも、かつて彼を断罪した人たちのその行為に生じる責任の一部だとワタシは考える。何よりこの映画は、ハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)もブラッドスポート(イドリス・エルバ)もラットキャッチャー2(ダニエラ・メルシオール)もポルカドットマン(デヴィッド・ダストマルチャン)もキングシャーク(シルベスター・スタローン)もフラッグ(ジョエル・キナマン)も、そしてピースメイカー(ジョン・シナ)でさえも、すべてその譲れない矜持をめぐる物語であったからこそ、呆けたように笑いながらも気がつけば少しだけ胸がつまっていたのではなかったか。ジム・キャロル「ピープル・フー・ダイド」が爆音で鳴らされた瞬間、いったいいつ以来だったのか全身を吹き抜けたライトタイム/ライトプレイスの至福に、泣かないワタシがぐらついた。
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2021年08月14日

すべてが変わった日/我らは廃馬を撃つ

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※知らない方がよい内容に触れています

マーガレット・ブラックリッジ(ダイアン・レイン)とブランチ・ウィボーイ(レスリー・マンヴィル)の2人の女性について言えば、陽の光を当然のものとしてそれが照らす道を生きてきたのか、それは求めなければ与えられないものだったからいつしか必要としなくなったのか、その違いに善と悪、正義と狂気という付箋を貼り付けてしまうのはあまりフェアとは言えない気がしている。それよりはここで行われたのが互いの正当性をめぐる激突であったこと、そしてそれら正当性が共に在ることを赦しているアメリカの混沌が彼の国の成熟を妨げ続けてきたことを、寓話と言うにはあまりに逃げ場なく苛烈に語ることに監督&脚本のトーマス・ベズーチャは憑かれてしまっている。彼が脚色した原作が同じ道をたどっていたのかどうかはわからないけれど、ここにあるのはコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で見通した、暴力が初めにあったとするならばそれは神の創造物にちがいなく、ならばそれを私たちは崇拝しなくてもいいのか、というアメリカの原風景に連なる光景だったように思うのだ。物語の性質としてブランチの内部は短く凝縮して描かれているけれど、マーガレットの密やかだけれど烈しい屹立については、冒頭で孫を沐浴させるローナ(ケイリー・カーター)から赤ん坊を半ば強引に奪いとってうっとりと湯浴みをさせるその表情と、その背後で冷ややかに義母を見つめるローナのカットにしのばされているし、そもそもがそんな風にしてブラックリッジ家におけるローナの序列を隅へと追いやったマーガレットの独善が、ローナの不幸な再婚を呼び寄せたことは言うまでもないだろう。ピーター(ブーブー・スチュワート)に対する理解と愛情の示し方にも明らかなように、マーガレットにとって他者との関係は馬を馴らすことと変わらぬ力の伝達であって、その力の絶対値においてマーガレットとブランチは鏡像の関係にあったともいえるように思え、マーガレットにショットガンで吹っ飛ばされるブランチの最期の言葉が「どうしてなのよ(Why?)」であったのも、あんたとあたしは交わるべきじゃなかったのになんであんたは一線を越えたのよ、という断末魔の疑問符だったに違いないと思うのだ。イノセンスの無自覚な暴力性が世界を泥沼にひきずりこんでいくアメリカの修羅をマチズモのくびきから逃れた地平で捉えなおす野心とその震えるような達成を果たしてこの監督がどこまで確信していたのか、それぞれに罪深きものたちが互いを潰しあって生き残った蠱毒がアメリカのスピリットをずっと更新してきたことを告げるラストの、硝煙と返り血が彩る寂寥こそをアメリカのポートレートと綴る、S・クレイグ・ザラーもそこに浮き沈みする潮流へトーマス・ベズーチャが合流したのは間違いのないところだろう。ケヴィン・コスナーの右手指が手斧で切断される映画がいまだこの世界に存在しうるのだ。
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2021年08月11日

明日に向かって笑え!/気分はもう闘争

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フェルミン(リカルド・ダン)が感情の発火装置としてある一方、生まれついてのアナキストを自称するアントニオ(ルイス・ブランドーニ)は「われわれはこうしてアナキズムの父ミハイル・バクーニンの夢を追いかけている。個人は国家とその制度を超越するのだ」と、これが復讐ではなく正当な闘争であることを絶えず謳い続け、ファン・ペロンの時代にひととき労働者の楽園を夢見たロロ(ダニエル・アラオス)は飼いならし続けた屈託をペロン主義への憧憬として静かに解き放ち、そもそもの発端が農家の保護と雇用の創出を目的とした農協の再建であったことを思い出してみれば、政府の下部組織としてではない独立した共同体の再構築に伴う闘争の物語として、トーンは違えど『バクラウ 地図から消された村』に通じる“無政府主義の季節”が見て取れた気もしたのだ。もちろんここに『バクラウ』の血なまぐささはないけれど、最小限に止めるはずだった発電所の爆破が、雑ででたらめな作戦のため発電所のすべてを吹き飛ばしてしまっていて、嵐の夜に市中の全域を復旧不可能な停電に陥れた結果として予期せぬ不幸に堕ちた人間は果たしてどこへ消えたのか、この集団がいつしか纏ったのかもしれない薄っすらとした狂気も含め笑い飛ばすのが、特にアントニオにおけるマナーではあったのだろうし、物騒な手段に訴えるのは問題外として、アティテュードとしてのアナーキズムで自衛すべき時代の只中にいることを実感させられてばかりの世の中にあっては、それが健康的にすら思えてしまうのだ。とはいえアントニオがバールを振り回す代わりにいったい何をしたか、あれはこちらのそんな物騒を見透かした上でのクールダウンだったのだろう。俺の敵は国家でも政府でもない、あんたら益体もない大人たちだよ、とエルナン(マルコ・アントニオ・カポニ)が冷ややかに見舞う正義と悪のうっすらと苦い中和がカウンターで効いている。
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2021年08月05日

返校 言葉が消えた日/バック・トゥ・ザ・トーチャー

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過去を語ることを怖れるあまりそれを亡きものとしようとする時、葬られんとする過去がそうはさせじと現在を道連れにする。そんな時代と精神の暗闘が生み出す恐怖の在りかをえぐり出す必然をホラーというジャンルに託した野心と、なによりその当事者性こその哀切と痛切と使命感に傍観者の胸の奥が揺さぶられる。地政学上の継子として翻弄されてきた台湾を想う時、この白色テロの時代が日本の統治から連なるうねりの先にあることは言うまでもなく、その悲劇とワタシたちとの距離をいったいどう掴めばいいのか、その時代に生きた人たちが未来や希望を求めては打ちひしがれていく作品を見るたび、傍観者としてのワタシはことさら心が乱れてしまう。自由の闘士として曇りなく描かれる読書会のメンバーに心ならずも引鉄を引いてしまうファン・レイシン(ワン・ジン)だけが彼女を覆う鬱屈の背景をその家庭に描かれていて、社会に石を投げる前に自分と闘わなければならない18歳ですらが否応なしに巻き込まれていく政治の季節がいかに容赦がなかったか、殉教の蒼い恍惚すら知らないまま贖罪を果たさねばならなかったファンの屠られた青春がそこかしこに打ち棄てられていた時代を新たに語り継ぎその鎮魂としたことで、永遠に一人で目をさまし続ける放課後の教室からファンを解き放ったラストに、ひと時とはいえワタシまでもが救われる。原作のゲームをプレイしてないのでその構造はわからないけれど、ここではファンが囚われた煉獄を学校に置き換えて視覚化し、その中を彷徨する彼女に立ち昇るフラッシュバックをゲーム内の実写ムーヴィーとしてちりばめながら、それをファンが串刺して時間軸の再構成をすることでサスペンスを抜き差しならない角度へと尖らせていく寄る辺のなさにおいて、ゲーム原作の実写化としては『サイレントヒル』の達成を思い浮かべたりもした。『怪怪怪怪物!』がそうであったように、恐怖=テラーは社会の忌まわしい反映であるという大前提を死守しつつ、そこに巣食う深淵の怪物を繊細かつ匂い立つ露悪で娯楽に幻視する確信と志の高さにおいて台湾ホラーが開拓しつつある未知がワタシは眩しくて仕方がない。
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2021年07月30日

最後にして最初の人類/星が継ぐもの

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未来から過去へ向かって放たれるメランコリーの在り処を、『メッセージ/Arrival』の一卵性双生児としての今作に探して見つけた気がしてしまう。最後の人類として、既に人間としての個別の感情を超えた存在であるはずが、それをワタシたち最初の人類に伝えようと意識を翻訳していく中で次第にこみ上げてこぼれ落ちる喪失への悲嘆は、最終的にワタシたちは存在を運命づけられた生命であることの独白でもあったように思える。石化した結晶のように映るスポメニックは果てしなく巨大な宇宙船の遺骸のようでもあり、そうしたミクロとマクロの交錯によって意識の正規化が真空の静けさのうちに行われていく。ヨハン・ヨハンソンの手がけるサウンドトラックが、感情の増幅ではなくそれを結晶化してその内部に共振する揺らぎでショットを覚醒していたことを考えると、この作品世界こそが彼の原風景であったようにも思え、ユートピアよりはこの宇宙に終焉があることを想像するのだというヨハン・ヨハンソンの幻視ならぬ幻音の永遠なる欠損が、この世界のバランスを少し狂わせたのだとティルダ・スウィントンが囁いた気がしてならないのだった。
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2021年07月23日

プロミシング・ヤング・ウーマン/たったひとつの冴えたXXかた

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※未見の方スルーを強く推奨

ポール・カージーでもハーレイ・クインでもない、カサンドラ/キャシー・トーマス(キャリー・マリガン)は“極めて前途有望な若者”だったからこそ、キャシーをキャシーたらしめるその豊かな知性と細やかな感情が、傾いだ世界の矯正係として送り狼を狩りたてるハンターへと彼女を仕立てたのだろう。しかし、復讐の呪いと狂気の快楽の間を危うく行き来しながらそのどちらにも喰われてしまうことなく、内部の激情を倦怠に隠しながら綱渡りするキャシーのメランコリーは、ほとんど崇拝といってもいいニナへの思慕というよりはサヴァイヴァーズ・ギルトのそれにも思われて、自罰の証明としての実質的な自殺とそれによってアル・モンロー(クリス・ローウェル)をニナへの供物とする究極のトラップをキャシーに発動させたのが、一度は彼女を救済するかに思えたライアン(ボー・バーナム)にすらぬぐえない男性性の歪みであったことを考えてみた時、むしろキャシーにとってそれはグリーン弁護士が言うところの啓示だったのではないかと、山奥でたった一人灰となって土に還ったキャシーにそよぐ風の静謐が、ようやく訪れた彼女の安寧を祝福した気もしたのだ。しかしこの物語は、カサンドラ・トーマスというかつて前途有望だった一人の若い女性がなぜああして人生の幕を閉じねばならなかったのか、その最期の日々を描いたのはもちろんのこと、それを追うことで施される呪いの話でもあるわけで、ダンスフロアで男たちが踊りくるうオープニング、カメラはその男たちがチノパンに隠す下半身を執拗にクロースアップし続けて、これはお前らとお前らがそこに隠すそれにまつわる物語であってできればあたしはそのすべてを無効化したいと考える、というキャシーの宣戦布告であったことが時を追うに連れ忘れがたく付いて回ることとなる。そしてキャシーの最期を見届けた今、ワタシたち男に刻印されたのは、自称いいやつ(I am a nice guy)はわるいやつ(a bad guy)というシンプルにして強力な呪いであり、その無自覚で無邪気な傲慢によって自身をa nice guyにロンダリングし続ける男たちの罪深さを知れば知るほど、キャシーが放ったこの呪いが彼らの悪性を晒していくのだろうことを考える。エメラルド・フェネルが手がけた『キリング・イヴ』のシーズン3とケイト・ショートランドによる『ブラック・ウィドウ』が共に放蕩娘の帰還と過去の清算であったことを思ってみれば、世界の自浄をあてにしない勢力が既に破壊から再構築に向けた新しいフェーズに足を踏み入れた気もして、この風が追い払った雲の向こうに広がる光景の輝度と硬度をワタシは待ちわびようと思うのだ。この映画の鏡像として『狩人の夜』を映しこむ目配せも芳しく、おぉとなって息を少し深く吸った。
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2021年07月17日

ライトハウス/ケロシン&シガレッツ

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※ネタバレといえばネタバレな記述があります

わしがお前の想像の産物だとは考えないのか。わしもこの島も、カナダの森で膝まで雪に埋もれて凍えながら吹雪の中を彷徨い歩くお前の頭の中の想像の産物だとは考えないのか。とトーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)ががなりたてては、これを胡蝶の夢などと愛でるつもりの勢力に先回りして冷や水をぶっかけるとともに、おれの名前はトーマス・ウェイクだ、トムと呼んでくれと独りごちた瞬間、むさくるしい髭がふちどる異形の相貌とあいまってトム・ウェイクをトム・ウェイツと空耳したこともあって、イーフレイム・ウィンズロー/トーマス・ハワード(ロバート・パティンソン)と二人してくり広げる狂気に関する禅問答のようなやりとりが、ゴシックホラー版『コーヒー&シガレッツ』とでもいうニューロティックなオフビートコメディとして懐に落ちていく気がしたのだ。閉所恐怖症的なフレームの仕掛けよりほか、ここにはこちらを脅かし蝕む実存の深刻はさほど見当たらず、ただひたすら狂気のプロフェッショナルがアマチュアを弄び甘噛みする露悪のスラップスティックを光と影の悪魔的な移ろいが催眠していくばかりで、それを高みの見物とばかり桟敷席で酩酊する居心地が悪かろうはずがないのである。屹立した燈台は言うまでもなくセリフにちりばめられた男性器に関する卑語や隠語が指し示すのは、イーフレイムを捉えて離さないオブセッション、それは彼のホモセクシャルというよりはより直截的なソドミーへの渇望と嫌悪にも思え、イーフレイムは何ゆえ本物のイーフレイム・ウィンズローを殺さねばならなかったのか、そのフラッシュバックにおいて美しい光の中で煌めくように描かれる彼の殺したイーフレイムの姿には深夜の告白が明かさない理由が潜む気もしたし、人魚の妄執を手助けにイーフレイムが発散させ続けねばならなかったリビドーの正体はたった一度ウェイクとのニアミスとして描かれて、彼を生き埋めにすることでそれを封じ込めはするものの、他に見咎めるものもいなくなったことでついにそびえ立つ灯台のてっぺんに昇ってしまったイーフレイムは、まるで宇宙の深淵からほとばしるかのような光の精に貫かれて目を焼かれ半死半生で恍惚と岩場に横たわり、それが本懐でもあったかのように片目のカモメとその群れがついばむにまかせるように肉体を差し出してみせるのだ。ただ、あのラストショットに悲痛や悲惨の影が差さないのは、理性と野生、自然と文明の境目がまだまだ荒削りで、うっかりそこに立つとこの世の真理が超高速で頭をかすめていく時代だったからこそ、イーフレイムですらが薄汚れたイカロスとしてたった20メートルとはいえ墜落の栄誉にあずかったように思ったからで、まあそういうことってあるよね、と思わず象さんのポットを真似てみたりもしたのだった。生き埋めにされるウェイクが次第に顔面が土に埋もれつつ長広舌の長回しでイーフレイムにプロメテウスの呪いを吐き続けるシーン、口の中にあとからあとから土が入りながらそれをもぐもぐと咀嚼すらしながら朗々とセリフは澱みなく、実はあのクロースアップで顔にかけられるのは微細に砕いて土くれに固めたチョコレートか何かではないのかとあたりをつけながら観てみればウィレム・デフォーの顔が心なしか嬉しげで、ああこの土がチョコレートだったならと心を飛ばすその益体のなさこそがいつしか人を灯台に昇らせるのではなかろうかと、それだけは確かに理解した。
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2021年07月09日

ゴジラvsコング/ただちに東京を破壊せよ

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“最後にラドンがみせるあのしぐさをギリギリのラインにとどめて欲しいのが正直なところではあって、その巨大さと破壊の力に神々しさを宿らせておくためにも人間臭さなるものは可能な限り排除してもらいたいと考える”などと前作につけおいた注文が開口一番笑い飛ばされてはいるものの、しかしそれは、こんな底の抜けた便所の落書きみたいなシナリオでケツを拭かなきゃならないのであれば、手っ取り早い擬人化でドラマをショートカットして逃げ切るしかないと判断して私は今ここに立っています、というアダム・ウィンガードの誠実なマニフェストでもあったわけで、既に今季は「ゴジラS.P」で滋養あふれるゴジラ成分を摂取した余裕の身とあらば、かまわぬ良きにはからえといった気分でそれに手を叩くことも厭わないのである。それでもアダム・ウィンガードの爪痕を見つけるとするならばネオンカラーで彩った香港摩天楼と、あの子が乗っていやしないかと船内をのぞいて確認した後にHEAVEをぐしゃっと潰すコング、そして白目をむいてプルプルと震える小栗旬といったあたりで、人間ドラマは主役2人にまかせてあとは全員モブでいこう、といった低予算映画的な刈り込みがモンスターバース最短の113分というランタイムにも現れて、ジャンルへのノンシャランが絶妙な軽さと爽快を誘った点で、三池崇史が怪獣映画を撮ったらこんなだろうなとそのアルティザン的なドシャメシャに思いがけず肌が合ったのだ。それにしても、レジェンダリー案件ゆえなのか日本とアメリカの間をとってのことなのか、最終決戦の場が香港であったこと、そしてその摩天楼が壊滅的に破壊されるのをこの目で視ることの胸のざわつきは、ワタシたちは好むと好まざるとにかかわらず社会的な生き物で、その結果として政治から逃れることは困難であるという現実を不意打ちされたせいだったのだろうし、あそこで暴れているのが核と黒人奴隷の歴史が産み落としたイドの怪物であることを思い出してみれば、彼らが共闘して滅ぼしたあの不細工な金属の塊はワタシたちそのものだったに違いないのである。それよりは、主人の顔色をうかがって風向きを読むことに長け、涼しい顔で遁走に羽ばたき姿すら見せぬラドンこそがワタシたちにふさわしいのかもしれないけれど。
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2021年07月06日

スーパーノヴァ/誰がきみを一番愛してくれるのかわからない

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「なくなってしまうのが悲しいのなら、それは善いものだったということだ」「年老いた星は最期に巨大な花火のように爆発して粉々に散り、長い長い時間をかけて宇宙を旅したその星の欠片が私たちを形づくっていく」というタスカー(スタンリー・トゥッチ)のセリフと、残り数分にしてようやくスクリーンにあらわれる“SUPERNOVA”のタイトルがこの物語の公式な感情を伝えつつ、美しい光を放って夜空に輝くあの星が既に存在しないことをぼくは知っているけれど、それが輝く限りその光と欠片を集めてはぼくだけの星を押し頂いて生きていくのだというサム(コリン・ファース)の悲愴な決意は、「いまや僕は(人生の)乗客であって乗客ではない、なぜならその行先はぼくが行きたい場所ではないからだ」と冷静に知覚するタスカーの声にどこかしら耳をふさいだようにも思え、「愛の挨拶」を弾くラストシーンのサムは世界でたった一人タスカーのためだけにその旋律を紡ぎつつ、果たしてその時のタスカーにサムの音色やタッチが届くことがあるのかどうか、ほとばしる感情を倦んだ眼差しで押し殺すサムもまた彼岸の彼方を歩んでいるように映ったのだ。もうそこには君がいないとしても、ぼくには息をする君が在りさえすればいいのだとすべてをかなぐり捨てて懇願するサムのわななきは、かつて最愛の人を失って「ネクタイはウインザーノットで」と遺書までもしたためたある男が憑かれた孤独(シングル)のオブセッションを知ればこその狂気じみた切実であった気もするし、サムへの愛ゆえ尊厳を棄て文字通りの我が身を差し出すことを受け入れたタスカーの決断もまた新たな極北にあって、さっと冷ややかにうなじを撫でられる。そうしてみると、この映画がどこかしら起伏を失っているのはこれがサムとタスカーの死出の旅、すなわち二人で世界から消えてしまおうかという心中の道行きであったからなのだろうと、彷徨の果てにNYの片隅に消えたカレン・ダルトンの歌声がレクイエムのように誘いかけた瞬間に確信し、あとはもう生き霊のように透けていくばかりの二人なのだった。
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2021年06月29日

グリード ファストファッション帝国の真実/ボノの歌を聴け

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グローバリズムと名乗る搾取の構造について言えば、ここで語られるのは誰もが知った気でいるその内実とさして変わらない念押しに過ぎず、とうことはおそらくこうした実態で間違いはないのだろうし、そこにあらためての新鮮味が見つかることはない。たとえばダニー・ボイルであれば、その下降するらせんのてっぺんとどん詰まりをポップな露悪で衝突させるマニックで病質を絞り出してぶちまけたかもしれず、しかし今さらそれをしたところでスコセッシ(『ウルフ・オブ・ウォールストリート』)の二番煎じでしかなかろうよと目端をきかせて手を出すことをしないそのテーマに、マイケル・ウィンターボトムはなぜ愚直と言ってもいい構えで斬りつけていったのか。そしてポップな露悪で衝突させるマニックをなぜ不発のままにしてみせたのか、それはこの物語が最終的にてっぺんのリチャード・マクリディ(スティーヴ・クーガン)の世界とどんづまりのアマンダ(ディニータ・ゴーヒル)の世界が揺るぎなく継続することを告げるラストに見てとれた気もして、ではその2つの世界の間で揺るぎ続けることで物語を推進させたのは誰だったのかを考えてみた時、監督が真の主役に据えたのはライターのニック(デビッド・ミッチェル)であったことに思い至りさえすれば、この物語の煮え切らなさと露悪に由来しない居心地の悪さの理由が腑に落ちる気もしたのだ。マクリディの伝記をまとめるライターとして彼の虚像を仕上げることに手を貸す一方、その偽善と搾取のシステムの直接的な被害者であるアマンダへの思いやりを失うことはなく、しかしその思いやりがマクリディと彼の世界への怒りに変換されることのないまま、俺は魂を売ったかもしれないが魂を売ったと言うことを知っている俺は本当に魂を売ったわけではないし、俺は手を汚して闘うことはしないけれど手を汚した人の秘密を黙っていることで俺も闘ったことになると考えたい、と安全地帯から目つきだけを変えてみせるニックこそは、揺るがぬてっぺんとどん詰まりの間で揺るぎつづけることでその2つの激突を吸収しながら支え続けるワタシたちそのものであることを監督は告げたのではなかったか。てっぺんのやつらが心を入れ替えることも、どん詰まりの人たちにそれをひっくり返す力などないこともよくわかっただろう、だからもしこのシステムを転覆させる可能性があるとしたら、それは無自覚の共犯者であるあなたたちにしかないのだと毎日が知った風な顔と口ぶりのワタシたちに突きつけながら、とはいえ自分もまたこの世界のニックたちの一人に過ぎないけれどというブーメランが誘う負け戦のメランコリーにマイケル・ウィンターボトムの黄昏を見るワタシもまた、いつからかその黄昏に包まれて気がつけば途方にくれている。
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2021年06月24日

クワイエット・プレイス 破られた沈黙/ものすごくうるさくて、ありえないほど優しい

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アヴァンタイトルのDAY1シークエンス、ドラッグストアの棚におかれたスペースシャトルの玩具が前作のアヴァンとの残酷な対比をなすことで、リーガン(ミリセント・シモンズ)の塞がらない傷口に塩をすりこむその痛みをワタシたちにすら呼び覚まし、それは取りも直さず彼女がシークエルの牽引者であることを新たな沈黙のうちに告げることとなる。この世界では何がセーフで何がアウトなのか、冷徹なはずのホラーサヴァイヴァルをドラマの熱情で恣意的に解凍する腰高にいささか鼻白んだ前作からしてみれば、弟を自らの過失(とリーガンは考えつづける)によって失い父は自分を守って命を散らし、ならばそうやって生き延びている自分にできることは何なのか、ホラーはあくまで発火装置としてセットしつつ喪失の呪いを贖うためにわが身を投げだすリーガンと、その同じ呪いに囚われたエメット(キリアン・マーフィー)を投入することで、運命に逆流する血のたぎりへと針を振り切ったジョン・クラシンスキーの渾身が胸を焦がす。そのリーガンとエメットのコンビネーションとて、擬似父娘としてしまえばたやすく発火できるところをあくまで対等なパートナーもしくはエメットをリーガンの従者とすることで(キリアン・マーフィーの青い目にかしずく者のメランコリーを見てとったキャスティングは慧眼と言える)、困難と無秩序の世界でアパシーと獣性に陥った大人たちに理性と知性こそが希望をつなぐことをつきつけるリーガンを烈しくそして健やかに掲げてみせている。そしてついに監督が物語への点火を解き放つラストシークエンス、海をはさんだむこうとこちらでリーガンとマーカス(ノア・ジュープ)の姉弟が繰り広げる死闘を串刺す火の吹きでるようなクロスカッティングは、まるでピンボールマシンの2つのバンパーの間を猛烈に行き来するボールが叩きつけるようにハイスコアを獲得して世界を更新する熱狂と覚醒の瞬間を捉えて離すことがない。不条理かつ暴力的に音を奪われた世界、それはリーガンが生きる世界そのものであったに違いないのだけれど、自分より他のすべての人たちにその奪われた音を取り戻すこと、それを成し遂げることでリーガン自身が世界の拠りどころとしての”A Quiet Place(静謐な場所)”となることを予感させて、ジョン・クラシンスキーの構想するトリロジーとしてこの物語が完結するとしたら、次なるシークエルでリーガンは喪失の呪縛を解き放った証として裸足を捨てて靴を履くのだろうと考えている。メクサムファッキンノイズ。
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2021年06月18日

Mr.ノーバディ/殺るか殺られないか

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「この素晴らしき世界/What A Wonderful World」が流れ始めた中盤、正直言って食傷気味なインサートだなあと思っていたら、普通なら最初の2つの有名なVerseで切り上げるところが、そのまま“空にかかった素敵な虹の色が、道行く人たちの顔にもあふれているよ”と始まるBridgeまでこの反戦歌は流れつづけ、それを歌うルイ・アームストロングの声を聴きながらカメラは虹ではなく真夜中の月を見上げてみせて、寄る辺なき修羅の世界を生き抜いてきたハッチ・マンセル(ボブ・オデンカーク)にとって美しい月明かりだけが彼の世界を照らしていたことをそっと告げた気がしたのだ。とはいえ、普通の幸福を手に入れて愛する人たちと普通の人生を過ごす日々は確かに愛おしいけれど、俺が一番上手く踊れるのは底抜けに気のふれた悪党を相手にした時なんだよと、次第にハッチの方こそがユリアン・クズネツォフ(アクレイセイ・セレブリャコフ)に執着していくその姿に見つかるのは、かつてウェットワークに手を汚した自身への悔恨というよりもそうした過去ゆえに陥る歪んだミッドライフ・クライシスを打破するためのスリルジャンキー的な渇望で、そうした狂気の徴があればこそハッチは暴力の理由としてのメランコリーに喰われることなく逃げ切ることが可能だったのだろうし、バスでひと暴れして帰って来た夜、なんだか昔を思い出さないかとささやくハッチの脇腹に開いたナイフの刺し傷を接着剤を使って慣れた手つきでふさぐベッカ(コニー・ニールセン)もまた、地に足のつかない過去の激情を内部に飼う人間であることをうかがわせて、そのまなざしは流血する世界を優しく寛容に見つめる術を知っているかのように見えたりもしたのだ。身も蓋もなく言ってしまえば一人の男のオーヴァーキルな気晴らしにすぎないこの話を、俺には血も涙もあるけれど、そうした叙情よりは暴力の叙事にこそ平等と品性をみつけてしまうのだと、洗練のガンさばきとハンドルさばきで血と涙を振り切るダンディズムのそれに書き換えてしらを切れるのはボブ・オデンカークの逆流するペーソスのノンシャランあってこそで、それゆえか、これがコメディであることをガイダンスする役割を負った父デビッド(クリストファー・ロイド)の造型を少しばかりうるさく感じてしまうのが悔やまれることとなって、あえてタイプキャストを外したマイケル・アイアンサイドの持ち腐れを考えると、この2人が入れ替わったキャスティングを思い浮かべてみたりもしてしまう。カーチェイスシーンでチョイスされるパット・べネターが、全力で叩き出されるイージーの真骨頂となって血が頭に沸き昇る。
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2021年06月08日

アメリカン・ユートピア/天国に行けないあなたに

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「リメイン・イン・ライト」リリース時に渋谷陽一が張った植民地主義的なかっぱらいの論陣をおよそ30年前のロッキングオン読者は懐かしく想い出しもするのだけれど、そもそもロックが黒人音楽からどれだけのかっぱらいを働いてきたのかを冷静に考えてみれば、どちらかといえば渋谷陽一の批判は運命共同体としてのバンド幻想、あくまで自分たちのバンドのギタリストやベーシスト、ドラマーが手に入れたグルーヴこそを掲げるべきで、そうやってロックは突破してきたのではないかという苛立ちだったことがうかがえるし、その後たどったバンドの足取りを知ってみれば、決して民主的な運営が為されていたわけではないトーキング・ヘッズというバンドの楽曲を、いまや無敵のコスモポリタンとしてのデヴィッド・バーンが歌い上げる姿に何周かした後の皮肉をうっすらと感じたりもしたのである。都市生活者の憂鬱をスノッブ上等と痙攣して自虐するポストモダンが、アメリカの囚われ人としての上着を脱ぎ棄てるために必要とした裸足のポストコロニアルが世界を巡って帰還したアメリカでユートピア幻想を歌うその足元に、それはもうお見事としかいいようがなかったのだ。そして唯一手持ちに欠けた時代性をスパイク・リーとジャネール・モネイにあけっぴろげで頼る屈託のない完璧な風通しにはぐうの音も出ないわけで、これはもう皮肉でもなんでもなく、周到かつ綿密な戦略で遂行しなおかつそうと悟られない闊達をまとうスマートの凄味にひれ伏したのは言うまでもない。しかし、デヴィッド・バーンとスパイク・リーの共犯がもっとも辛辣かつ容赦なく行われるのはそのラストで、デヴィッド・バーンを先頭に客席を練り歩く楽隊に歓声をあげる、けっしてたやすくは入手はできないであろうチケットを手に詰めかけた白人客たちの自分たちは完全にデヴィッド・バーンの側にいることを信じて疑わない多幸感に包まれた表情は(もちろんスクリーンのこちらのワタシとてそこに接続されている)、ジャネール・モネイのカヴァーである「hell you talmbout」演奏時にインサートされる犠牲者たちの遺影と悪趣味とすら言える残酷な対比をなしていて、今ぼくがキミたちを連れ出したこの場所この瞬間こそがアメリカン・ユートピアなんだよねと笑わない目でにこやかに踊るデヴィッド・バーンがハーメルンの笛吹にも見えたのだった。
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2021年06月02日

ファーザー/私は誰だった

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見当識を失えば失うほど腕時計とフラットへの執着が妄執と化していくアンソニー(アンソニー・ホプキンス)に、時間と場所という座標軸を失った人間がいかにして寄る辺なき存在になっていくのか、認知症は死の恐怖を緩和する麻酔薬であるといった言説に否定や肯定を下す術など持たない自分ではあったものの、いつ終わるとも知れぬ走馬灯の暴走に蹂躙されるその間は死を怖れることすらままならないという点において有効な考えではあったことを、おそるべき彼方から知らされたように思ったのだ。父のことを想うアン(オリヴィア・コールマン)が現実に介入すればするほどアンソニーの記憶はさらなるシャッフルとカットアップに切り刻まれて氾濫するモザイクと化し、しかしアンは自分が波紋となって父が囚われるヴィジョンやサウンドの一切を識ることが叶わないという断絶が、これまでであればアンの哀しみと困惑の視点で描かれた物語の向こう側にアンソニーが彷徨する漆黒の宇宙空間の恐怖と混乱が存在する構造を成り立たせ、オープニングに代表されるアンの一人称と、フラットを漂うアンソニーの一人称が切り分け不能に思えるのは、その2つがたとえば『インターステラー』の並行世界のように互いを串刺ししていたからで、かつて父に注がれたアンの愛情は時空を超えてアンソニーを包み続け、彼が特異点へと向かう後ろ姿を見守り続けたのではなかったか。最期に自分が誰の名を呼んで家に帰りたいと泣くのか、それを知る術がないことに悔いは残るけれど、一片となって虚空に消えていくラストがああして訪れてくれるのならばそれだけでありがたいと考えている。ワタシの一番好きな色もブルー。
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2021年05月25日

MORTAL モータル/マイティ・ソーの解剖

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wowow視聴

これまでトロールや魔女を、超自然というよりはワタシたちが暮らす世界の理=バランスに接続される存在として描くことで新種の驚異/脅威を産み落としてきたアンドレ・ウーヴレダルが、今度は北欧神話の雷神トール(いうまでもなくソーである)を現代のノルウェーへと放り込んでみせはするものの、そこに描かれるのはあくまでトールの力の原初的な絶対値に過ぎず、エリック(ナット・ウルフ)に宿ったその力は神の気まぐれですらない破壊と奇跡を背中合わせに世界を貫いていくばかりで、『マイティー・ソー』をあざ笑うかのような混沌として途方に暮れたプロトタイプの強烈なメランコリーだけがここに記されている。本当に神の力を持った者が現れたらキリスト教やイスラム教のシステムが崩壊する、そしてアメリカはそのような事態を受け入れることはしないという決断が誘った悲劇に、神となることを拒否して世界に力を解き放ったエリックはテロリストとして追われ、そして彼を祀るカルトの誕生を伝えるラストのMCUでは決して描かれることのない這いずるような現実の照射は、これがウーヴレダルがアメリカに招かれて撮った『スケアリーストーリーズ 怖い本』の次作として本国ノルウェーで撮った作品であることを考えてみれば、これまでそれをチャームとしてきたジャンルムーヴィーへの真摯な偏愛がもたらす上気したまなざしを手放した上で寂寥と荒涼の荒野に踏み出す変質をウーヴレダルの成熟と考えてみた時、一切のクリーチャーもモンスターも現れることのないままヒーローが誰とも闘うことのない物語は、さらに重心を低く足腰を鍛えるため自らに課した斤量であったようにも思ったのだ。そしてそれは、いつの日かワタシたちがスクリーンで目にするであろうリチャード・バックマン=スティーヴン・キング「死のロングウォーク」のためのトレーニングなのだろうと考えている。
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2021年05月22日

ブラインドスポッティング/ラストホワイトマン・イン・オークランド

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オフィシャルサイト ※wowow視聴

レイダース(=侵入者、掠奪者)と名乗るアメリカンフットボールチームを擁する街オークランドに進行するジェントリフィケーションを、その地に根付いていたコミュニティの破壊と主権の簒奪、すなわち植民地化の新たなヴァリエーションとしつつ、その蹂躙に対抗するアイデンティティーの先鋭化と暴力化を、土地っ子の黒人コリン(ダヴィード・ディグス)と白人マイルズ(ラファエル・カザル)を縦糸と横糸とすることで、その避けがたい怒りと哀しみをアメリカの普遍につづれ織っていく。しかし、その普遍にまだ幾ばくかの「正気」を嗅ぎ取れるのはこれが2018年時点での普遍だからで、生まれ育った街でありながら白人であるがゆえ“名誉ニガー”のそしりを振り払えないマイルズの苦悩ばかりか、黒人を射殺した白人警官(イーサン・エンブリー)の崩壊しつつある家庭と人生までも、ブラインドスポット=盲点という一面的な視点から自由になれないワタシたちの不幸の証として描くその「正気」こそは、2020年5月のフロイド氏殺害以降さらに一点突破の運動へと変質したBLMが手放すことを余儀なくされた在り方の大きな一つであったようにも思え、ジェントリフィケーションや銃とアイデンティティーが錯綜する世界はこの作品世界の2018年から引き続き有効であるにしろ、あの白人警官のサイドストーリーをもう一つの感情の余地として匂わす可能性と説得力を2021年において示すことの困難にこそ思いを馳せてしまう。拳銃を武器として携行する人間に訪れる自業自得とは決定的に異なる家庭内の誤射という悲劇がどのようにして起きるのか、それはこの物語の中で最も恐怖にみちた瞬間であったに違いなく、それまでオフビートなコメディとして刻まれたステップは突如オンビートでのめり気味にふらつき始め、もうそれまでの自分のまま生きていくことが不可能になったこと、すなわちアメリカで、そしてオークランドで生きていくことそれ自体が政治的でありそこから逃げることはできないと知ったコリンとマイルズに見つける希望と共感の、しかしそこに危うさと脆さが勝ってしまうのはこれを見ているワタシが2021年の住人だからなのだろう。この物語の先に接続されるTVシリーズではマイルズが投獄されるところから始まるらしい。
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2021年05月06日

象は静かに座っている/その気になれば泣くこともできた

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オフィシャルサイト ※wowow視聴

「おれの人生はゴミ箱だ。いくらきれいにしてもすぐにゴミがたまる。」ユー・チェン(チャン・ユー)はそれを嘆くでも自嘲するでもなく、しかし一度はそれに抗って敗れた絶望に餌を与えて飼い続ける忠誠心が彼を駆動させていて、その軌道が自分を世界から遠ざけ続けることを不思議そうな目で他人事のように眺めながら彷徨い続けている。ウェイ・ブー(ポン・ユーチャン)、ファン・リン(ワン・ユーウェン)、ワン・ジン(リー・ツォンシー)の3人はチェンの彷徨う軌道の住人で、劇中で彼らが口にして語る満洲里の象はその世界のマイルストーンのような存在として座り続けていて、かつて『欲望の翼』でレスリー・チャンがテネシー・ウィリアムズから引用した脚のない鳥の一節を想い出させたりもする。その最終形を知ることはなかったとはいえ香港の『欲望の翼』と、台湾の『牯嶺街少年殺人事件』という「総合小説」の表現を目指して達成した先達がどれだけフー・ボーの頭にあったのか今となっては知る由もないけれど、その2作にあって、というよりはウォン・カーウァイとエドワード・ヤンにあってフー・ボーが持ち得なかったものこそがこの作品を4時間弱のあいだ推進していたように思うのだ。そしてそれは、ウォン・カーウァイとエドワード・ヤンが作品に託した美しい時代の美しい時間とその喪失がもたらした強烈なペシミズムの決定的な不在であったに違いなく、今この瞬間が永遠に続けばいいのにと請う時間はこの234分の間ラストに至るまで一瞬たりとも存在することがないまま、最期の最期にようやく天啓のような瞬間が訪れるのだけれど、中国第六世代の著名な監督にして今作のプロデューサーをつとめたワン・シャオシュアイ(『在りし日の歌』)とのラストをめぐる意見の決定的な相違を知ってみると、資本主義と物質主義が食い散らかした残飯の捨てられたゴミ箱の時代のみを知るフー・ボーが最期に求めた仄かな救いにリアリズムを嗅ぎとれなかったワン・シャオシュアイへの、あなたたちが持ちうる時代の感傷もメランコリーも自分たちには存在しないのだ、そしてそのことを描くために撮ったこの映画をついにあなたは理解しなかったという断絶がフー・ボーを追い詰めたことも、その夭折の顛末を知ってみると想像に難くないように思ってしまうのだ。すべてがワンシーン・ワンショットのみで構成されるスタイルもまた、カットによる省略や誘導を作為として排除する潔癖のあらわれに思えはするものの、永遠に終わることのない日常を相手に逆流する血の契約をすることで、泥のような倦怠と意識の遠のく窒息を手に入れたのだろうと考える。おれはすべての他人が嫌いだし、弟も嫌いだとうそぶくユー・チェンが、弟殺しの犯人ブーと邂逅していくつかの言葉をかわすうち、もしかしたらあったかもしれない弟への感情をブーの中にみとめて知らず微笑んでしまう瞬間から先、暮れていく夜に灯る街の明かりがそれまで蒼白だったこの物語にうっすらと血を通わせて、ここがどんなゴミ溜めだろうと自分たちはここから始めていくしかないことをフー・ボーは宣言したのではなかったか。世界が刑務所なのだとしたら脱獄を勧めよう。
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2021年04月26日

クリシャ/チキンを落としただけなのに

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クリシャ(クリシャ・フェアチャイルド)が乗りつけた薄汚れたピックアップトラックの運転席側のドアからはドレスの裾がはみ出していて、全体として彼女が“そういう人”であることを開口一番告げている。しかし、車から降りたクリシャは、「ちゃんと呼吸をして、だいじょうぶ、だいじょうぶ、ちゃんとやれる、落ち着くのよ」と自分に言い聞かせながら戦場にでも赴くかのような目つきで呼び鈴を押し、10年ぶりに再開した一族の妹やら義弟やら甥やら姪やら何やら血の繋がりがあるものないものたちとハグをかわしては「汗臭くてごめんなさい」と謝り続け、ここまでワンカットで描かれるアヴァンタイトルの最後、トレイ(トレイ・エドワード・シュルツ)とハグをしてこちらに向き直ったクリシャに浮かぶ希望や怖れ、緊張と倦怠がないまぜになったクロースアップから、そのすべての感情を失ったラストショットのクロースアップへと円環するまでの80分間、クリシャがいかにしてそれらを手放したか、もしくはそうせざるを得なかったか、その自暴と自棄の事情が薄皮を剥いで滲んだ血の文様で浮かび上がっていくこととなる。何とか自分を成り立たせておくための薬を飲んでは服用の記録をノートにしたためるクリシャに闖入者の不埒はないどころか、むしろ社交と礼儀を失すまいと懸命に細いロープを渡ってどこかへたどり着こうとするように思えるのだけれど、既に青年の年齢であるはずの甥たちが繰り広げるバカ騒ぎの嬌声や、義弟はじめ男親たちのところ構わぬ思いつきによる微細な秩序の崩壊がもたらす精神的なノイズがクリシャの自制と集中を静かに容赦なくそぎ落としていく。そうやって内部のアンサンブルを乱した最中、おそらくはクリシャにとってこの帰郷の目的の一つだったのだろう、ある事情から妹夫婦が彼女にかわって育ててきた実子トレイとの関係修復を決定的にしくじってしまうことで、それまで何とかクリシャをクリシャたらしめていたギプスは弾けとび(ある欠落を覆い続けた右手人差し指の包帯にそれが託される)、かつてクリシャだった何かが感謝祭のフェアチャイルド家を蹂躙し始めるのだ。しかしクリシャをモンスター化して語ることにさほど積極的になれないのは、それまでずっと自分に対してなんとかファイティングポーズを取り続けるようと苦闘するクリシャの姿を見ていたからに他ならず、いつしか思い浮かべずにはいられなかったメイベル(『こわれゆく女』)にあってクリシャになかったのが彼女の無私なる味方(メイベルにとってのニックと彼女の子供たち)であったことを考えれば、それを引き寄せたのもまた彼女であったとはいえ、誰も手を差し伸べないままクリシャが蟻地獄のように沈んでいく血のわだちこそがフェアチャイルド家にとり憑いた恐怖の根源であったように思ったのだ。クリシャが酒を飲もうが飲むまいがいずれ彼女はそこに沈められたにちがいなく、そうやって人間を停止させられた者の貌がスクリーンいっぱいに拡がるラストに、人間がホラー映画を撮り続けそれを見続ける理由が一瞬よぎった気もしたのだ。自分の人間にいい加減うんざりした者の心を、この貌は洗ってくれる。
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2021年04月22日

パーム・スプリングス/なんだかずっと眠いんだ

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※結末に触れています

「すみません、どこかでお目にかかってましたか?」というナイルズ(アンディ・サムバーグ)の返事に、サラ(クリスティン・ミリオティ)の計画がうまくいったことを知ったロイ(J・K・シモンズ)が小さく微笑むアフタークレジットシーン、ループに入らなかった場合、もしくは入る前のナイルズには、ワタシたちの知る傍若無人すれすれのあけっぴろげも人懐こさもないどころかむしろ真逆な結婚式のゲストとしての真っ当さをスーツとネクタイにまとっていて、このナイルスがアロハシャツに短パンで結婚式に乱入することを屁とも思わぬナイルスに変貌するまでの道のりにまずは想いを馳せてしまう。限定的とはいえ永遠の命と永遠の無罪を手に入れたことを知った人間がいつしか繰り広げる善いことと善くないことのTOP100リストと、それを制覇することで突き抜ける善悪の彼岸で得た明鏡止水が俗世にあっては得も言われぬオフビートを誘うわけで、それを愉しんだワタシたちからすれば11月10日をプールで迎えるあのエンディングでも十分だったところが、わざわざ使用前のナイルズを見せる種明かしで冷や水とは言わないまでも日なた水のプールに突き落としてみせるあたり、うっすらと意地が悪くてなおのこと好ましく思ったのだ。とはいえ、このシーンがもたらす最大の呪いがロイであることは言うまでもなく、愛憎半ばするとはいえたったひとり「話」の通じる人間だったナイルズのいなくなったあの世界で、永遠に繰り返される11月9日の牢獄にたった一人で耐えきれるのか、サラがどれだけ詳細な方法を彼に伝えたのかはわからないながら、ある夜全身にプラスチック爆弾を巻きつけて砂漠を歩くロイの姿を思い浮かべるのは容易いことのように思えはするものの、J・K・シモンズの一線を越えた笑顔が妻と子供たちを洞窟に誘う最悪がよぎったことも否定できないのだ。もちろん11月10日を迎えたナイルズとサラの2人が吊り橋理論を確認するにとどまる未来もまた気怠げに横たわっているわけで、そんな風にメランコリーとペシミズムは後味にまわして躁転の時間だけを徹底的に90分間抽出した知能犯と愉快犯の、マックス・バーバコウとアンディ・シアラという名前を覚えて追い回そうかと思っている。
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2021年04月19日

21ブリッジ/街で聖者になるのはたいへんだ

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アンドレ・デイヴィス刑事(チャドウィック・ボーズマン)によるマンハッタンのロックダウン、マンハッタン島に通じるすべての橋と鉄道を完全に封鎖すべしという桁外れな要請が拍子抜けするほどたやすく認められた理由が、ラストシークエンスでのマット・マッケナ警部(J・K・シモンズ)の長広舌からやがて浮かび上がってくる。命がけの仕事に精神をすり減らし狂ったバランスが自身および家庭生活をその犠牲に飲み込んでいく警官たちの不幸を解決するために、お前にとっては汚職でありお前以外にとっては互助となるシステムを私たちは現実的なビジネスとして機能させたのだというマッチポンプのプレイヤーにとって、閉鎖され密室と化したマンハッタンを丸ごとブラックボックスとする以外、致命的な自家中毒の夜を乗り切る術がなかったに違いなく、ひとつだけ彼らに誤算があったとするならば、アンドレがあらかじめ幸福を失った男でありかつその奪回への幻想を持ち合わせない男であったことだろう。製作陣の中にルッソ兄弟の名前を見るとき、ある一つの図式に思いが至るのを避けられないわけで、善悪を無効化することで還流するグローバリズムによって肥え太るアメリカに抱く拒絶と憂鬱こそがアベンジャーズを駆動させたことを思う時、ここで描かれたNY市警の醜悪なマッチポンプもまたそのミクロなアメリカとしてあったとも言えて、善悪の彼岸を超えた場所から彼らに鉄槌を下すアンドレの姿には自己犠牲を突き抜けたアベンジャーズの虚無が重なった気がしたし、アフガニスタンからの退役軍人であるレイ・ジャクソン(テイラー・キッチュ)とマイケル・トルヒーヨ(ステファン・ジェームス)をウィンター・ソルジャーになぞらえてみた時、警官殺しのはずの彼らに寄せるアンドレの憎しみ以外の感情にもそれが見て取れた気がしたのだ。アンドレとレイの攻防に巻き込まれて撃たれ横たわるホテルの従業員を一顧だにしない冷やかさが、ここには善と悪も正義と悪徳も存在しない、敵の視えない世界であることを告げていて、単なるエネルギーの交換として描かれる徹底してソリッドな銃撃戦がそれを饒舌に代弁している。『セルピコ』のナイーヴも『プリンス・オブ・シティ』の苦悩ももはや存しない昏睡した殲滅戦の終りなき水平を、すべてに通じる男アディ(アレクサンダー・シディグ)はたった一言 "coolhand" と名づけていた。
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2021年04月15日

ザ・スイッチ/振るか拭くかがちがうだけ

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2人だけになったロッカールームで、獲物を品定めするブッチャーの目つきをミリー(キャスリン・ニュートン)のモーションと受け止めて、ほんの一瞬たじろぎながらも「あら、あなたがそうならわたしはかまわないわよ」とそれまでの高慢ちきなガードを緩めるライラー(メリッサ・コラーゾ)や、いきなりジョシュ(ミシャ・オシェロヴィッチ)にキスをしては黙ってろよとすごむジョックなど、いずれブッチャー/ミリーに血祭りにあげられるとはいえアルファなスクールカーストの抱える憂鬱をさらり匂わせつつ、ジョシュやナイラ(セレステ・オコナー)をもはやマイノリティの揺らぎを一切必要としないキャラクターと据えることで、ミリーを含めた白人こそを寄る辺のないモブとする構図を組み立てた2020年の最新型によるストレスフリーの清々しさが、ある種ミリーの復讐譚ともいえる下剋上の痛快を蹴り上げながら駆け抜けていく。ブッチャー(ヴィンス・ヴォーン)が帰還するラストシークエンスで彼の言う「お前の体に入ってみて、なんでそんなにお前がみじめで弱っちいのかよくわかったよ」というセリフによって、ブッチャー/ミリーが血祭りにあげる相手が必ずしも手当り次第ではなくミリーの天敵リストの上位ランカーであったその理由が、ミリーの潜在意識の為せる業であったことは言うまでもないのに加え「死んだオヤジの思い出にしがみついてるせいでお前はそんなに惨めったらしいんだろ?酔っぱらいの母親のいいなりでお前の人生もどうしようもねえもんだな、まあいいさオレが叩き直してやる」とブッチャーが続けた瞬間、ケスラー家のキッチンではブッチャーを父親とする疑似家族が束の間できあがることとなり、ならばとミリーと母コーラ(ケイティ・フィナーラン)、姉シャーリーン(ダナ・ドロリ)が力を合わせてブッチャーを撃退することで、ケスラー家の女性たちは亡き父親の呪縛をようやく解いてみせたように思ったのだ。と書いてみると何やら再生と自立の光差す物語のように映りはするものの、冒頭から金持ちの坊っちゃん嬢ちゃんが切り刻まれるポップなゴアは、ミリーを虐めることに生きがいを燃やす木工教師(アラン・ラック)とブッチャー/ミリーの対戦における、スピリットはスラッシャーながら肉体は脆弱なままのブッチャー/ミリーが不敵なガッツで教師を血祭りにあげるその姿に喝采を叫ぶ瞬間をピークに、どうせブッチャーのやったこととして処理されるなら、片っ端から漏れなく殺っちまいなと肩入れするそのテンションでスラッシュするリフが最後まで煽りつづける、お仕着せでないラストガールの後ろ姿にはディアブロ・コディの『ジェニファーズ・ボディ』を思い出したりもしたのだ。黄金期がない代わりにシルヴァーとブロンズを鈍色に飾り立てるヴィンス・ヴォーンが、お望みとあらばとにこやかなサンドバッグになって新しいやり方をバックアップしている。
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2021年04月11日

水を抱く女/溺れたいのに

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冒頭、別れを切り出したヨハネス(ヤコブ・マッチェンツ)に「行っちゃだめ、あなたを殺すはめになる」と、脅すというよりは諭すようにウンディーネ(パウラ・ベーア)が告げたオープンカフェのテーブルをその数分後に隣の建物から見下ろすとき、彼女がそこで待つようにと言ったテーブルと一人そこに座るヨハネスはまるごと、先ほどよりも建物の壁際へと何食わぬ顔で移動していて、それではヨハネスの左側、すなわちウンディーネの右側から2人を捉えていたカメラはどこにいたのかと、ワタシの場合ここから位相がずれ始める。そんな風に運命のさざなみに気もそぞろなウンディーネのはずが、ガイドとしてベルリンの歴史をレクチャーする都市開発住宅局の見学者ツアーでは、“ベルリン”がかつて沼地であったことがその都市名の由来であることや、本来は西のはずれにあった王宮が都市エリアの発展に伴いいつしかそこが中心部となったこと、東ドイツ時代の都市計画とその建築物への濃密な共感の記憶などを、そこにいてすべて自分の目で視てきた者の感傷と郷愁の饒舌で繰り広げ、あなたを殺すと囁いたばかりの女が語るベルリンの都市論に、さらに位相がずれていくわけで、この後で起きるクリストフ(フランツ・ロゴフスキ)との出会いの時点で自分がどこにいるのか既に覚束なくなっている。人間の姿を借りた水の精ウンディーネは、クリストフとの出会いによって己の運命に倦んでいる自分を知り、最終的にはその運命に屈したとはいえ、束の間でもそれに抗ってみせた時間を新たな記憶に刻んだことを告げるのがあのラストであったということになるのだろうし、それはベルリンという未来に目を伏せ過去を継ぎ接ぎした歴史都市に憑いて離れることのできないウンディーネの、静かな諦念を揺らす希望のさざ波であったようにも思ったのだ。ウンディーネとクリストフが出会って以降の、水没したベルリンの水中に恋人たちを追うような重力と空間を曖昧に消失した酩酊はえら呼吸をする生き物のそれであった気もして、ヨハネスはそれに魅せられてしかし恐怖したのかもしれないと、最後には少しだけ彼の不憫を感じたりもした。水の中では何でも起こるのに視えない。
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2021年04月05日

ノマドランド/道はだれがつくったんだろう

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ファーン(フランシス・マクドーマンド)はヴァンがパンクしてもタイヤ交換をすることができないし、故障したヴァンの修理費も自分で賄うことができず姉ドリー(メリッサ・スミス)から借りるしかない。にも関わらず彼女は、借りた金の出どころである不動産業者の義兄に、人々に借金をさせて家を購入させることで金を稼ぐ偽善を説くのである。その後でファーンと姉の二人きりの会話から浮かび上がってくるのは、リスクを承知で人生の異なる側面を探らずにはいられず家を飛び出していった若きファーンの、遅れてきたビートニクのような(姉の言葉によればエキセントリックな)生き方は彼女生来のものだということで、必ずしもファーンが経済システムの犠牲者として選択の余地なくノマドの暮らしを送っているわけではないことを監督は誤解なく告げているし、「私はホームレスではない。ハウスレスだ」というもの言いにその矜持を宿らせてもいる。その一方で彼女はVANGUARD(先頭、先陣)と名付けたヴァンの中で、かつての「家」の生活にあった物や者の記憶に想いを馳せることを続けていて、誤ってデヴィッド(デヴィッド・ストラザーン)が昔なじみの皿を割った時には、烈火の如く怒ったあとで接着剤を使い修復すらして物に託した記憶への執着を隠すことをしないのだ。漂泊に誘われ続けるデラシネというには引きずったままの錨が背中に重く、しかしそれを断ち切った時の自分を手の内に実感できないでいるファーンは路上の先達たちとの邂逅を通して、手段でも目的でもないノマドとしての生き方がどこまで自分の本質を参照することが可能か否かを見つめていくこととなる。しかし、ファーンが路上で出会うリンダ・メイやスワンキーたちの駆るRVがドライヴァーと分かちがたくカスタマイズされ、まるでそれ自体が一つの思想であったように、ノマドという処し方を互換性のある概念としてとらえることの危うさは常について回るわけで、例えばビートニクがそうであるように、物質的および精神的な孤絶に自身を剥き出すことで実存と肉体が互いを定義し合う思想の状態であるのか、郊外の都市生活者ドリーが言うような、かつて開拓者たちが荷馬車で西部を目指したアメリカの伝統としてのスタイルを許容するのか、あるいはそうしたオプションすら許されないまま路上にはじき出された人たちの最後の縁(よすが)なのか、そのいずれでもありいずれでもなく混然としたこの物語はあくまでファーンというノマドの誕生を伝えたに過ぎず、次第に透徹していく名優フランシス・マクドーマンドの眼差しと、人間の思惑などお構いなしに荒涼かつ峻烈と横たわるアメリカの大地がつきつける普遍への誘いに目がくらみはするものの、なぜ劇中の彼や彼女らはみな白人なのか、もしもファーンがアフリカ系アメリカ人であったならガソリンスタンドの女性マネージャーは車中泊を見逃したりしただろうか、もしもそうしたさらなる底をファーンが見透かしていたとすれば、かつて最愛の人と過ごした「家」の裏庭からフェンスを通り過ぎ、果てしない砂漠の彼方へと透明な光差す絶望をまとって歩き出すショットで閉じるエンディングが監督によぎることはなかったのだろうかとも考えてしまう。あまりにも完璧なファーンのフェイドアウトに虚を突かれ心を乱した監督が、自身をなだめようとあのエンディングを書き加えたようにワタシにはみえた。
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2021年04月02日

ミナリ/汝、夢を祈るなかれ

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人里離れた山の中、一家を乗せたステーションワゴンはその「家」を目指す。かつて誰かが暮らしたその「家」で夫は次第に自らの野心の虜となり、妻は夫を愛しながらもいつしかその両手は我が子を抱きしめて離さず、息子は新たな「家」と土地の光と影に感応し、一人の老人がその知恵と奥底の力で一家を覆う影を祓うべく刺し違えてわが身を捧げる。とこの物語の連なりを解いてみると、新天地に向かうはずのオープニングからつきまとって離れない不穏と不安と緊張の正体が『シャイニング』の構造であったことに気づかされ、中盤でデヴィッド(アラン・キム)が友達の父親から聞かされる「家」にまつわるある出来事の残留が、「家」の中のある場所に反応する祖母スンジャ(ユン・ヨジョン)とポール(ウィル・パットン)の警戒と恐れによって知らされることとなる。してみると、スンジャの行為によってジェイコブ(スティーヴン・ユァン)があの部屋の隅へと引っ張られることなく清められたのだろうことは言うまでもなく、それはデヴィッドと2人セリを摘む彼の憑き物の落ちたような静謐に見てとれるのだけれど、自分の母親が夫に仕向けた不幸の顛末をその性質としてモニカ(ハン・イェリ)は決定的な負い目に背負ってしまうのではないかという、その先が描かれないことに少し気持はざわついたままなのだけれど、この物語において救うべきは、ジェイコブとデヴィッドという男たちが夢見たアメリカというマチズモの呪いだったのだとすれば、神話は往々にして残酷で寄る辺なくはあるものの、過去を断ち目の前の現在に拘泥し続けたジェイコブがダウジングに譲歩するのも大地の物語への宥和としてあったわけで、神話を持ち得た者にのみ許される言葉と声を手に入れた、孵化場の同僚の言う「それが嫌でここに来た人たち」が、その先で新たな物語を紡ぐ予感を頼りに祝福すべきなのだろう。しかし監督はあの同僚の、淵へと誘うような倦怠を切り捨ててしまっていたわけでもなく、それは、移民という「それが嫌でここに来た人たち」の連なりとして自分が負うべき視線のアウトサイダーの自負とインサイダーの覚悟によっているのだろうし、分断の裂け目から見つめるそのマージナルな視線に晒された移民国家アメリカの、約束の地を失った時代の新たな神話への切実がこの物語を呼び覚ましたようにも思った。役柄としては貧乏くじを引かざるを得なかったモニカ役を、決壊寸前の堤防の緊張と祈りとで演じて内爆するアンサンブルを支えたハン・イェリにこそ讃辞を贈る。
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2021年03月30日

テスラ エジソンが恐れた天才/世界の代わりに泣いている

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モルガン財閥の創始者J・P・モルガン(ドニー・ケシュウォーズ)の娘アン(イヴ・ヒューソン)を語り部とするこのバイオピックが終始いびつで奇妙な傾きを抱えている理由はといえば、これがニコラ・テスラ(イーサン・ホーク)という稀代の天才発明家のなした偉業のプロセスよりは、いかにして彼が自身の不遇を呼び込んだかというその足取りを、なぜならそれは彼が私を愛することをしなかったからなのだというアンの断罪で語っていたからに他ならず、それは例えば、愛を分けた人と行う幸福の追求は発明の才を曇らすのだというテスラのストイックな言い分と、彼がサラ・ベルナール(レベッカ・デイアン)に向ける即物/俗物的な愛とを冷ややかに等分する彼女の視線が、ニコラ・テスラという人の被虐を誘う諸刃の剣としての天才をそのナイーヴへの感傷とともに検証してみせている。世界の法則を解き明かすことで新たな強度と角度を備えた物質を本位とする時代にあっては、法則から物質を生み出すエジソン(カイル・マクラクラン)のある種山師的な目端こそが市場から求められたに違いなく、法則を解き明かし原理を手にすることで恍惚とするテスラの清貧とすらいえる思想が一敗地に塗れるのは当然の成り行きで、そうしたテスラの才と質を見抜いていたからこそ、アンは自分への愛と引き換えに彼のパトロン兼マネージメントを引き受ける野心を隠さなかったように思うのだ。アンのそれが、既にエジソンを取り込んでいた父親に対するある種の反発であったのかは分からないながら、そのエジソンにしてみても終盤のあるシーンで描かれるロマンティストとしての思いがけない一瞬に、この2人のヴィジョニストに対する監督マイケル・アルメレイダの共感というよりは跪いた思慕が伺えたりもして、アンという語り部を立てたのもテスラへの一方的で過剰な美化や憐れみを回避するためと考えればそれなりに得心が行くし、だからこそワタシたちは、テスラの受難を我が事のように言祝ぎながら言葉をつまらせるイーサン・ホークから立ち上る、極上にして鈍色の被虐を心ゆくまで味わえたのではなかったか。モルガンに大見得を切ったプロジェクトが立ち行かなくなり資金を絶たれたテスラが郊外の屋敷にモルガンを訪ね、テニスコートのモルガンにその継続を請うシーン、もはや招き入れられることもないまま植え込みの隙間からフェンス越しに泣き出しそうな子供の目で憑かれた早口で話し続けるも既にモルガンはにべもなく、ようやく振り返ったモルガンの目に入るのは植え込みの向こうに立ち尽くすテスラのズボンのひざ下だけで、もはやお前には言葉も顔も要らぬ、そのひざ下だけで十分だという嗜虐にイーサン・ホークの被虐は打ち震えたままテスラを抱えてどん底に堕ちて行ったにちがいなく、そんな極北の加虐プレイを目にした後では例のカラオケ絶唱とてチルアウトの調べに過ぎなかったのだ。捨て犬の濡れた目で、イーサン・ホークが声を殺して鳴いている、泣いている。
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2021年03月23日

ビバリウム/家を見に行くつもりじゃなかった

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アメリカ的な物資主義の墓場としてのサバービアというよりはシステムの牢獄としてのそれにデカダンスの爛れはなく、そうした囚われが生み出すのは無表情で無感情な人間もどきに過ぎないといういささか牧歌的な比喩と、侵略ものとしては「それ」1人というか1匹というか1体の生育に人間2人を消費して地味にマイナスを重ねていく悠長さが終わらない日常の倦怠と絶望の尻尾をつかまえてはいるものの、その終わらなさの質が完全に変わってしまっている2021年においてはどうにも他人事の手慰みにとどまってしまう点で、互いに運が悪かったというしかないように思えてしまう。人間しぐさを刷り込ませるにおいて、持家の購入を検討するライフステージにある男女を社会的に機能する人間のサンプルとして抽出し托卵させるマーティンたちの目のつけどころはなかなか秀逸で、成長したマーティンがトム(ジェシー・アイゼンバーグ)とジェマ(イモージェン・プーツ)に向ける視線が冷ややかかつ蔑むように変わっていくあたりに、これほど脆弱で卑しい存在に寄生しなければならない我が身への自己嫌悪をほのかに匂わせて、それは人間様の完コピもたらした人間性ゆえの帰結なのかマーティンとしての本質に芽生えたそれなのか、いずれにしろそれを成長の終わりとして、冒頭でトムがそうしたように穴は埋められてマーティンは町に帰っていく。システムを懐疑してそこから「自立」し「自由」であろうとした男女が最期にはそこに呑まれ喰われてしまう物語にあるのは、教訓と言うよりは巧妙なシステムのめぐらされた世界の反映に思え、だからこそルードボーイ賛歌としてのロックステディ「Rudy A Message To You/ルーディたちへのメッセージ」と「007(Shanty Town)/シャンティ・タウン」をわざわざオリジナルヴァージョンでインサートすることでその敗北を痛切にしてみせたわけで、ならばラストの1曲がなぜザ・クラッシュの「Rudie Can't Fail/しくじるなよ、ルーディ」でなかったのか、これがどれほどの画竜であったかはともかくとして点睛を欠いたのは間違いがないように思ったのだ。もちろんXTCには何の恨みもないけども。
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2021年03月17日

ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実/善き人のための戦争

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ウィリアム・H・ピッツェンバーガー(ジェレミー・アーヴァイン)は、なぜデズモンド・トーマス・ドスたりえなかったのか。苛烈な戦場における死力を尽くした自己犠牲にも関わらず、なぜピッツェンバーガーにはドスが授かったアメリカ軍人最高の栄誉である名誉勲章が授与されなかったのか。その始まりとなった1966年4月11日のベトナムのジャングルにおけるピッツェンバーガーをめぐる顛末を、その作戦に参加した部隊の生き残りであるトム・タリー(ウィリアム・ハート)、レイ・モット(エド・ハリス)、ビリー・タコダ(サミュエル・L・ジャクソン)、ジミー・バー(ピーター・フォンダ)、ケッパー(ジョン・サヴェージ)たちのフラッシュバックによって再構成する手際の明らかな停滞、同じシークエンスを角度を変えて繰り返しながら、それが必ずしも羅生門的な事実の乱反射を目的とするわけでもない意図の曖昧さがピッツェンバーガーの英雄的な行動の昂ぶりを抑え込んでしまうのを、デズモンド・ドスの献身を描いた『ハクソー・リッジ』が隠すことをしない愛国の直線的なヒロイズムに対する意図的な回避として捉えるか、あるいはそれから32年後のワシントンで、キャリアへの野心を隠さないペンタゴンの官僚スコット・ハフマン(セバスチャン・スタン)にとっては貧乏くじでしかない再調査の仕事が、戦争を知らない子供たちとしてのハフマンにとっての地獄巡りとなっていくその彷徨がもたらす覚束なさであったからなのか、もしくは単なる不手際か、そのいずれであるにしろベトナム戦争にまつわるすべての記憶と同様に終始歯切れが悪く口ごもったままの語り口が映画の通奏低音となっていく。この映画のミステリーとしての側面を補強する冒頭に述べた謎は、ピッツェンバーガーの使命感あふれる行動と対極をなすある卑俗な理由によっていたことがハフマンの尽力で明らかになり、ピッツェンバーガーの年老いた両親であるフランク(クリストファー・プラマー)とアリス(ダイアン・ラッド)が息子にかわって名誉勲章を受け取ることとなるのだけれど、監督/脚本のトッド・ロビンソンにとってそこに陰謀論的なサスペンスを塗すことが主眼にないのは、あくまで感情のまま粗雑と言ってもいい組み立てにおいて明らかで、それらいくつもの揺らぎやブレが、ベトナムとピッツェンバーガーの記憶に苛まれたまま年老いていく復員軍人たちとの邂逅を通してアメリカの記憶に触れていくホフマンの混乱や困惑と、それが次第にピッツェンバーガーの精神の継承へフォーカスされていく足どりに重なったその一点突破において、この映画は肉を切らせて骨を断つことを可能にしたように思うのだ。そして何より、アメリカ映画を支えてきた錚々たる俳優たちそれぞれの慟哭や告解がそのまま戦争国家アメリカの鎮魂歌となったのは言うまでもなく、図らずも今作が遺作となったピーター・フォンダとクリストファー・プラマーのうち、かつてのキャプテン・アメリカであったピーター・フォンダがシェルショックに苛まれるヴェトナム復員軍人を演じる帰結がその響きをいっそう忘れがたくしている。そんな彼らと比した自らを精神も肉体も小さく着痩せすることで、彼らを看取る存在としてかしずくセバスチャン・スタンの密やかな自在にも目を瞠る。
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2021年03月12日

野球少女/おおきく振りかぶらないで

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契約金の額を提示されたスインの母(ヨム・ヘラン)が、それを支払わなければスインは契約をしてもらえないと勘違いしてうろたえる姿に、持つ者が持たざる者からさらにむしり取る社会の仕組みとそこで痛めつけられてきた彼女が身に付けざるを得なかった、夢なんてものはそれを買える人のためのものだという諦めとそれが導く哀しい処世術の理由が明かされた気がして、それまで憎まれ役としてスインに立ちはだかり続けた母の姿が音をたてて崩れ落ちていく。スインにとって自分がプロ野球選手を目指すのは、自分は他の選手よりうまくプレイできるからその先のステージに進むのだという極めてシンプルな動機によるもので、そこには母がおびえる夢の幻影やガラスの天井を蹴破る理想の達成といった、マウンドとボールの手触りのない感情の入り込む余地はなく、それゆえ周囲の人々はコーチから友人、球団オーナーに至るまでが彼女の揺るがないピュアネスに映った自分を見て、なぜ自分はスインを阻もうとするのだろうという自問自答へと誘われてしまうのではなかろうか。一つだけスインにもたらされた新しい覚醒があったとすれば、速くて強いボールを投げなければいけないという力勝負へのオブセッション、それは常に肉体の優位を誇る男性を相手にすることで宿してしまった呪いでもあるのだろうけれど、そうした野球のマチズモ的側面を利用するプレイへの理解と実践を手に入れたことで、最初は野球部員にも痛打されたストレートで現役のプロ野球選手をピッチャーフライに打ち取ったピッチングでそれを伝えて見せて、題材の割にはそれをメインとしないプレーシーンのクライマックスをそこに凝縮させた監督の意図とその手腕はとてもスマートに思われる。正直に言ってしまえば、スインの体格と投球フォームで130km/h超えのボールを投げられるかといえばいささかの疑問符もついてしまうわけで、いくらCGで投球の軌道を描けるとはいえ、ワンカットで投球がキャッチャーミットにおさまるシーンが少なくほとんどの投球シーンをカットで割っているのもそうした理由があったように考えるのだけれど、それを不満に思わせないのは、マウンドに上がるまでのスインが起きてから寝るまで、おそらくは眠っている間でさえどれだけの視えないボールを様々な相手に投げ続けてきたかワタシたちが知っているからなのだろう。そして何より、そちらに振ろうと思えばいくらでも振ることができたロマンスを踏みとどまることで、スインに吹く孤高の風を捉え続けるそれ自体を目的とする清冽が遠くを見やることを可能にしていて、夜の職員室でひとり仕事を続けるキム先生(イ・チェウン)を目にしたジンテコーチ(イ・ジュニク)が声をかけようとしてためらい帰っていくシーンにすら、ここまで来てすべてを台無しにするつもりかと要らぬサスペンスすら生まれる始末で、だからこそ精一杯の譲歩としてジョンホ(クァク・ドンヨン)とスインの関係を爪保護のマニキュアに託した友情の甘酸っぱいゆらぎがことのほか愛おしかったのだ。スインの背番号が新たな「42」になる未来が待ち遠しい。
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2021年03月07日

あのこは貴族/私はあなたのココロではない

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幸一郎(高良健吾)が2度目に華子(門脇麦)の頭を撫でた時、華子は頭を振ってそれを拒否し、幸一郎はそれに一瞬戸惑いながらも無言のまま部屋の奥に消えていく。この直前、自分には夢なんかない、この家を継ぐように育てられてきてそうするだけだ、と初めて内面らしき欠片を吐露した幸一郎の言葉に、たとえ自分がここではないどこかをおぼろげな夢として思い描いたとしても、それが叶うはずもない現実をおそらく華子は人生で初めて面とむかって突きつけられている。そんな風にして自分より巨大な異物と出会って初めて知る違和感の正体を、そののち華子は美紀(水原希子)の部屋でとらえることとなる。人生とはこちらから手を伸ばして探し求め手に入れるものであったにちがいなく、しかしすべて与えられたもので出来上がった自分のそれは、私の人生というよりは「わたし用」に用意された人生と呼ぶ以外に言葉が見つからず、それを生きるしかないことを幸一郎はとっくに知っていたからこそ、夢などという言葉を持ち出した自分を哀れんだのではなかったか。そうして華子は、自分の結婚が失敗だと分った時にそこから逃げ出す足腰を私は今から鍛えておくのだと、かつて逸子(石橋静河)が自分と美紀の前で言ったことの意味をようやく手に入れることとなるわけで、わたしたちって東京の養分だよねと、健やかに自嘲する美紀と里英(山下リオ)の言葉通り、それを摂り込んで芽を出した華子は囚われの幸一郎を見つめる慈愛の眼差しすらをついには湛えてみせるのだ。おそらく遠くない未来、美紀と里英の立ち上げた会社が企画したイベントでヴァイオリンを演奏する逸子とそれを袖から見守る華子の姿をワタシたちは見ることになるのだろう、そうやって階段を降りてきた2人と昇ってきた2人は踊り場で出会って4人は友だちになるのだろう。そして東京を笑いながら走り抜けていくのだろう。ワタシが好きなのはそんな彼女たちのいる東京だ。というわけで、自分で手に入れたものと与えられたものの象徴としてある「東京」をいまだ東京タワーに託すしかないのは、4人が自分たちだけの東京をまだ発見していないことの顕れということにしておきたい。美紀の部屋でジノリでもロイヤルコペンハーゲンでもウェッジウッドでもないただのマグカップを手にとった華子は、なんかいつまでも経っても捨てられないものってあるよねと美紀に話しかけられながらも、自分の愛着や執着で生活を染めたことのない華子はきょとんとして言葉につまってしまうのだけれど、それに応える美紀の、わかんないかぁという言葉には蔑みや卑下のかけらもなく、それよりは今この場所であなたと話をしているそのことが、なんだか新鮮で楽しくて気持ちが明るいのだという浮き立つような喜びが愛おしく感じられて、なんだかこちらまでおめでとうと祝福したい気持ちでいっぱいになったのだ。原作を読んでいないので監督が何を生かして何を捨てたのかはわからないけれど、これを階級闘争として幸一郎を追い詰めることを目的としなかった監督のたおやかな視線は曇りなく頼もしい。
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2021年03月03日

カポネ/お前はおれを忘れるから

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はだけたローブからオムツをのぞかせて金色のトミーガンで目に入るものを片っ端からなぎはらった後で、健康のため葉巻代わりにくわえさせられたニンジンをペッと吐き棄てたつもりのそれは、情けなく弱々しい軌道でボタッと足もとに落ちていくばかりなのだけれど、この葉巻代わりのニンジンこそがここで描かれるアル・カポネ(トム・ハーディ)であったようにも思え、自身の過去が召喚した、葉巻をニンジンへと変える呪いに喰われていくその姿を、混濁して萎縮し夢と現の境界が決壊していくカポネの意識が映す緩慢な走馬灯として、ジョシュ・トランクはそれを悪意というよりは観察者の眼差しで追いまわしては垂れ流すように描いていく。垂れ流すようにと言ったのは、彷徨するカポネの意識と対比されるべき現実世界のフロリダまでもその足元があちこちで怪しくなっているからで、地の文のつもりで読んでいたらそれもまたカポネの独白であったというその侵食はバイオピックとしての使命を放棄しているように映りはするものの、梅毒に犯された体で小便と糞便を漏らしては襲い来る卒中の危機をかわしつつ過去と現在のあわいで茫漠とした時間を漂うカポネの姿に、濾過された狂気の上澄みがスッと透徹する瞬間を見つけるスリルは確かに存在したように思うのだ。1000万ドルともいわれるカポネの隠し財産の在りかをめぐって、病気の進行によって認知が緩みその隠し場所を思い出せないカポネのふるまいは果たして詐病なのか、それを見極めんとする家族や仲間、そしてFBIの思惑が交錯する神経症的なサスペンスの痕跡が認められはするものの、それをジョシュ・トランクの失敗とするのか、あるいは計算された幻視の目くらましとするかで評価が反転することを考えてみた時、批評家筋の評価からすればあらかたは前者であったのだろうこと、それに加えてジョシュ・トランクの業界的風評がマイナスのバイアスを誘ったことは瞭然であるのだけれど、唸り声以外ほとんどまともなセリフのない破壊されたカポネをトム・ハーディに託して創り上げた己と俳優への確信と、それを解き放った悪魔的な幻視のなめらかに震える催奇性をワタシは断然支持したいと思っている。そのキャリアを干されるどころか、トム・ハーディ、マット・ディロン、カイル・マクラクランといった界隈のスターをキャスティングし、カメラでリンチ組のピーター・デミングまでも招集した製作陣にはローレンス・ベンダーの名前も見てとれて、彼らもまたジョシュ・トランクの才能がスポイルされることを望まなかったのだろうことがうかがえた気もしたのだ。何はともあれ、ほとんどパントマイムといってもいいトム・ハーディの離れ業だけでも観ておくことをお薦めする。
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2021年02月25日

世界で一番しあわせな食堂/料理みたいな恋をした

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寂れた町にふらっと現れたよそ者が、女主人の切り盛りする店とそこに集まる町の人々の表情に明かりを灯すべく立ち上がる、と言ってみればまるで西部劇の幕開けのように思えるのだけれど、ここにはよそ者が打ち倒すべき敵がいないのだ。ワタシたちが思い浮かべる常套であれば敵が出てくるに違いないシーンのことごとくで、よそ者は笑顔と礼儀とで迎えられ、よそ者が町を救うというよりはむしろ町がよそ者を救おうとすることにより生まれる正のスパイラルがよそ者と町の人々の人生を祝福して幸福を高めていくわけで、とはいえそれが確信的な性善説の桃源郷として鼻白むことがないのは、これが30年間をブラジルで過ごしたミカ・カウリスマキが彼の地で目にした分断と負のスパイラルへのカウンターとなる実験にも映ったからで、それは弟アキが近作でついには流血する希望へ踏み込んだ後に筆を置いてしまったことへの呼応に思えたりもした。カウリスマキ兄弟の映画を観ていると他人に優しくすることがいとも簡単に思えてしまうのだけれど、この作品を観てあらためて思うのは、ことさらに優しくしなくても嫌ったり憎んだり遠ざけたりしなければ、そうする理由を探すことさえしなければ人間は自然と繋がるように造られているのだなあというただそれだけであって、この映画をともすれば寓話やおとぎ話と片づけてしまいたくなるのは、防弾ベストのように重ねたそれら理由を手放して丸腰になることへの照れというよりは怖ろしさがそうさせるのだろう気が我ながらしている。チェン(チュー・パック・ホング)とニュニョ(ルーカス・スアン)の主人公親子が中国人ということで、人種や文化が前景となるシーンではそこに始まるクリシェを予想して思わず身構えてしまうのだけれど、こちらのそうした反応を見透かすように監督は、それを衝突や軋轢ではなく新しい出会いへと軽やかに筆を走らせてみせて、その度にワタシは自分が益体もない知ったような顔の分断に毒されていることを知らされてどぎまぎしてしまうのだけれど、それを見透かしでもするようにチェンとシルカ(アンナ=マイヤ・トゥオッコ)やヴィルブラ(ヴェサ=マッティ・ロイリ)、ロンパイネン(カリ・ヴァーナネン)の交流とそこから生まれる更新がだんだんとワタシの毒を抜いていくわけで、冒頭でこれが西部劇だとしたら倒すべき敵がいないのだと書いたその敵は、何てことはない、実はワタシであったのだ。おれはお前の分断を知っているとミカ・カウリスマキは言っていて、しかし、気づいたならそれでいいとも言ってくれていて、このロハスでスローフードな邦題も、お前らにしちゃなかなか冴えたブラックジョークじゃないかと言ってくれるにちがいないと思ったりもした。
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2021年02月19日

すばらしき世界/空を見たかい

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※結末に触れています。

前科十犯、人生のおよそ半分ともいえる二十八年を刑務所で過ごしそこを生き抜いてきた男が、刑務所を出所してから一年もたたずして、撃たれたのでも斬られたのでも刺されたのでもなく、アパートの畳の上でひとり死んでしまうのだ。あの日、沸騰し逆流する血を脈打つ脳や心臓に抑えつけながら絞り出した「……似てますね」というその一言が、三上(役所広司)の時限爆弾にスイッチを入れたことをワタシたちは知っている。もし三上があの瞬間、見つめた裁ちばさみに誘われるがまま手に取っていたなら、その右手にコスモスではなく裁ちばさみを握りしめていたなら、三上の時限爆弾は解除されてあの夜を生きながらえただろうことを知っている。そして残りの人生をどこか刑務所の中で積み重ねただろうことを知っている。少なくともあの嵐の夜に、雨風が吹き込む畳の上で目を開いたままどこかへ消えてしまわなかっただろうことを知っている。三上はワタシたちに、ワタシたちの分身の津乃田(仲野太賀)や庄司勉(橋爪功)、庄司敦子(梶芽衣子)や松本良介(六角精児)に言われたとおり、全てに真っすぐ突っ込んでいくことをやめていい加減に、必要なこと以外は切り捨てて耳をふさいで逃げ、人生を損得勘定で生きようとしたあげく死んでしまったことを知っている。吉澤(長澤まさみ)が三上に言う、不寛容な社会にあって私たちははみ出た人間を許すことができずにいて、しかしそれを知りながら排除されるのが怖くて声を上げることをしないのだという言葉は、彼女がビジネスと打算の象徴のように描かれることもあり三上を丸め込む機嫌取りの甘言としてその場では響かせるのだけれど、結局は彼女の指摘した“ワタシたち”が三上を殺してしまったことをあのラストショットが告げていたように思うわけで、三上を自分たちの考える真人間へとけしかけた人たちが立ち尽くし座り込むアパート前のショットから上へ上へと向かうカメラが虚空を捉えた瞬間、そこに立ちのぼる「すばらしき世界」のタイトルにこめられた監督の皮肉を超えた悪意はこれまでになく直截かつ酷薄で、もはやこの世界にあっては自爆して立ち尽くす人間のセンチメントに普遍を彩ることは叶わないという自罰の徴にすら思えてしまったのだ。だからこそ、三上に対して彼の何者かを抜きに人間の言葉を話しかけたのがいったい誰だったか、リリーさん(桜木梨奈)、下稲葉マス子(キムラ緑子)、阿部(田村健太郎)、そして西尾久美子(安田成美)というそれぞれに抜き差しならない事情でレールを外れた人たちにしのばせたセリフとまなざしに、監督の置いた軸足の角度と重心が映し出されていたことは言うまでもないだろう。どのシーンにおいても三上を最後まで見届けて念を押し、余白でふっと切り上げて空気を抜かないショットは彼が囚われた世界の閉塞であった気もしたし、幾度となくインサートされる空のショットは放置され三上の視線と絡みつくことのないまま、マス子のいった娑婆の空はラストでようやく三上のその上へとやってきたのではなかったか。最初は遠くに霞む灰色のスカイツリーから、逃げるように福岡へ飛ぶ夜行便から見た東京タワーの他人事のようなきらめきをはさんで、最期の夜に久美子と繋がった電話で「死ぬわけにはいかんけん」と話す視線の先でやわらかく灯りのともったスカイツリーは、旭川でも福岡でもないその真ん中の東京に生きることを受け入れた三上に宿ったはかなくも確かな希望の光だったのだろうし、三上の脳裏を最期によぎったのが久美子の声とあの明かりであってくれたらと祈りながら、あんたみたいのが一番何も救わないのよ、と吉澤が津乃田を切り捨てた啖呵を思い出していた。
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2021年02月15日

私は確信する/それでも彼はやってない

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実在しないトミー・サンダースという警官を作り出して散らばった断片を彼に投影することで、あの日の出来事を串刺しにしてピーター・バーグが高々と掲げたのが『パトリオット・デイ』であったように、今作の主人公ノラ(マリナ・フォイス)も監督の創造物として生を受け、その意を受けて実話のストーリーを撹乱し続ける。という成り立ちをワタシは鑑賞後に知ったのだけれど、ある女性が失踪しその夫と愛人がその関与を疑われた事件という冒頭のテロップだけを手持ちに臨んだ時、これがある局面の打開に決定的な役割を果たしたノラという女性の物語であることを露とも疑うはずもないまま彼女に併走したわけで、後になって彼女が実在しない存在であることを知らされてみれば、では監督は現実の記録/記憶のどの部分を新たに駆動すべく彼女を手足として使い続けたのか少々困惑してしまったのだ。これが完全なフィクションであれば、失踪した女性の夫ジャック(ローラン・リュカ)の無実を信じ彼を冤罪から救うべく奔走するノラが、その無実を立証する新たな証拠を精査するうちジャックの関与をほのめかす事実にたどりついてしまい、その限りなく黒に近い灰色に法律のアマチュアである彼女はどう立ち向かうのか、次第に真実と現実との挟間に堕ちていくその姿を司法制度の欠陥に重ねることでジャックと彼女の地獄を描くことが可能だったように思うのだけれど、実話に基づいた今作では“失踪した女性の夫ジャックの無実を信じ彼を冤罪から救うべく奔走するノラが、その無実を立証する新たな証拠を精査する”ことで“司法制度の欠陥”めいたやり口を再考証する駒として彼女が投入された表向きしかワタシには映らないわけで、ならばずいぶんと回りくどいことをしたものだなあとけっこうな肩透かしを食った気がしてしまったのだ。ワタシが知らないだけでジャックに関する限り元々が冤罪の色濃いケースであって、それを覆す新たな傍証および解釈の提示を監督が狙ったのであれば、特にジャックと縁やゆかりがあるわけでもないノラの、いささか首をかしげるほど一方的な彼への肩入れも理解はするのだけれど、あらためてフィクショナルなキャラクターとしてのノラを追ってみた時、シングルマザーの彼女が仕事を失ってまで通話記録の解析にのめり込むその姿はあくまでジャックの無実を信じるがゆえなのか、もしくは真実という麻薬に溺れるジャンキーとして堕ちていく地獄の日々であったのか、彼女の暴走を見かねてデュポン=モレッティ弁護士(オリヴィエ・グルメ)が諭す「法廷のプロセスは検察と弁護側それぞれの仮説のどちらを選ぶかという手続きに過ぎない」という言葉を思い出してみれば、乱反射する真実の欠片に魅入られて一人息子との生活までも危険にさらしていくノラの姿をある陰謀論者の誕生と重ねてみることも可能ではなかったかと、ワタシがノラに見たのはむしろパラノイアの軌跡だったように思ってしまうのだ。しかしそんな風にワタシの切った舵で泥舟は桟橋に激突することも浅瀬に乗り上げることもなく、気がつけば静かに横づけされた泥舟からワタシ以外の誰もが泣き笑いで抱き合いながら下船しては、みな粛々と家に帰っていくばかりなのであった。惹句のヒチコックは、ジャックがやけに真面目くさった顔で『バルカン超特急』と答えるシーン以外、清々しいほどにただの惹句でありつづけ、しかしそれくらい許してやらなければ他に何を言いたてることができたのか、その危うい丸腰を知っているワタシは別段腹を立てることはしないのである。せめてフィンチャーのように、通話記録を空間にタイプするくらいのケレンがあったらなあとは思うけど。
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2021年02月13日

わたしの叔父さん/生きているからこわいんだ

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クリス(イェデ・スナゴー)の起床から始まるオープニングからしばらくの間、彼女と叔父さん(ペーダ・ハンセン・テューセン)がふたりで暮らす日々の仕組みがサイレント映画のように描かれていて、それはふたりに会話がないままに成立する生活とその日々であることの説明でもあるのだけれど、儀式と言うには穏やかでやわらかいそれは、ふたりの以心伝心だけが紡ぐことのできるルーティンであり、14歳で母を亡くし高校生の時に兄を失い、その後を追った父の自殺によってひとり残されたクリスを引き取った叔父さんが、彼女とふたり時間をかけて作り上げたシェルターのような、時間と空間のグリッドでもあったのだろう。それは、ここにいる限りこれを過ごしている限りお前は大丈夫だ、わたしは大丈夫なのだという密やかな祈りのような生活でもあって、これがいつまで続くのか、いつまで続けなければいけないのか、それが永遠であったとしてもかまわないと思いつつ、すべてに避けられない終りがあるということは、これが様々な終りによって始まった生活であることを忘れる由もないふたりに常についてまわる呪いであり、それに向かう祈りの原理主義者としてことさらにクリスは跪くことを続けていて、それがこの物語を支配する静謐と仄かな不穏を連れ出している。それでもクリスは祈りと呪いのバランスを変えるべくわずかながら変化を目指すのだけれど、それはあくまで前述したグリッドの範囲を拡げる試みでしかなく、健康的(と言ってもそれは彼女の孤絶の外にいるワタシたちにとってだけれど)なやり方で彼女をグリッドの外へ連れ出そうとする獣医師ヨハネス(オーレ・キャスパセン)や合唱隊の若者マイク(トゥーエ・フリスク・ピーダセン)に対し、結局はNOと言ってグリッドの中にいることを選んでしまうのだ。ではその間、叔父さんはどこを向いていたのかといえば、わたしたちには死ではない終わりがあること、そしてその終わりがクリスにとっての始まりになることを、彼女を否定も支配もせず日々のあわいに沁み込ませるように告げていて、彼女が選んだ考えや結果を淡々と受け入れながらほんの少しずつ光の差す方へ向きを変えていく、自然を相手に生きてきた農夫の手つきと足どりがクリスを鎮めていくわけで、同じショットを繰り返しながらそこに映る微細な異なりをふたりの息遣いに変えていく語り口は監督がその影響を公言する小津安二郎への敬愛でもあるのだろう。ただ、そうした叔父さんの試みはあるアクシデントによって灰燼に帰してしまうのだけれど、ラストでは小さな終わりを告げるある出来事が食卓のふたりに訪れて、果たしてそれが天啓となるのか否か、ラストショットで初めてみせる監督の直接的な介入がもう一度クリスにチャンスを用意した気がして、もう頃合いだろう、幸多からんことを、そしてマイクと仲直りをと思わず祈ってしまったのだった。あんな風な拒絶のしかたはいくら意地悪な小津でも思いつかなかったに違いないから。
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2021年02月08日

ダニエル/地獄で会えたぜ、ベイビー

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ルーク(マイルズ・ロビンス)が乱射犯シグペンの実家を訪ねてある確証を手に入れることでオルター・エゴとしてのダニエル(パトリック・シュワルツェネッガー)をなぞるラインをあっさりと消し去り、躊躇なく退路を断ったその先で待ち構える地獄の泥仕合においてSpectreVision謹製のサインがほくそ笑むように輝き始める。直近でいえば『ジョナサン−ふたつの顔の男−』が抑制の利いたメランコリーで畳んでみせた風呂敷の折り目にくらべてみた時、せっかく広げたそれを後生大事に畳むくらいなら、いっそそいつを体に巻きつけて血と涙と涎の染みをつけてやるぜ!と吠えまくる哄笑があるかなきかの地平を突破していくわけで、それなりの巧妙さで配置してきた母クレア(メアリー・スチュアート・マスターソン)や精神科医ブラウン(チュク・イウジ)の神経症的な伏線を一気に台無しにしたあげくチャンバラからの肉弾戦でケリをつける最終決戦に至っては、この手のジャンルであれば闇を祓って光を抱く役目のキャシー(サッシャ・レイン)すらが意味ありげで意味なしげというそれはそれで斜め上に筋を通す職人のこだわりで、たとえばスキゾフレニアを実効的に解体する戦略としては『ジェイコブズ・ラダー』の縁遠い嫡子といってもいいだろうし、実際にいくつかのヴィジョンにその自覚としての相似がうかがえもする。中盤での全方位的なツイストもあって、イマジナリー・フレンド/オルター・エゴの設定およびそこから派生するルールが縛るはずのサスペンスが無効化されてしまうせいでいきなり道端に投げ出されはするものの、この映画が本領を発揮するのはその先の赤黒く沸き立つ乱戦にほかならず、はたして夜中に起きたあれは悪夢だったのか現実だったのか、できれば夢であってくれとうつつのままに目を覚ましたルークの意識を追うカメラがパンして部屋の中を映していく一連に「へレディタリー」のあの朝を思い浮かべたし、Clarkの神経症的なミニマルとクラシカルなケレンが躁鬱的に乱反射するエレクトロニカに追い立てられるように、前半でせっかくしつらえたニューロティックなサイコスリラーの意匠をひっくり返して台無しにしながら逃げ騒ぐインシディアスな終盤は一粒で二度おいしく思えたりもしたのだった。そしてなにより、爬虫類の偏執で低温火傷を誘うパトリック・シュワルツェネッガーが喝采すべきこの映画のでたらめを最後までたった一人踊るように支えていて、あれほど凶悪な地獄の魂をなぜああまでたやすくドールハウスに閉じ込めることができたのか、なぜそのまま大人しく囚われていたのか、それなりに決定的なレベルのでたらめを看過したのも酷薄にチロチロとねめつける彼の青白い眼差しに心を奪われていたからに違いなく、ついぞ父親が持ち得なかった2世ならではの純粋培養されてくねるような色艶を抽出した製作陣の慧眼を讃えるに全くもってやぶさかではないのだった。
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2021年02月03日

花束みたいな恋をした/東京都下ラブストーリー

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「僕の目標は絹ちゃんと過ごすこの日々の現状維持です」非の打ちどころのない100%の祝福をうけて出会った麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が育む物語は、2人が同棲を始めたアパートのベランダで麦がそう告げた瞬間、現状維持のためにはお金が要る、しかしお金を得るためには現状維持を一時保留しなければならない、というキャッチ=22に麦と絹は、なかでも麦がことさら囚われていき、ブラック・ロジスティック、幻冬舎、フリーランス買い叩き、パズドラ、コリドー街、ITヤンキー、圧迫面接という傍若無人な定量化のアルゴリズムが2015〜2020年安倍政権爛熟の季節に重なって、いつしか2人は互いを部屋の隅へと追いやっていく。両親の広告代理店的なメンタリティを嫌悪する絹は、そうしたアルゴリズムへの警戒心が植えつけられているからこそ麦の言う現状維持に執着するのだけれど、田舎の旧弊な価値感と都会のスノビズムとのそれぞれから遠ざかろうと接近したポップカルチャーの場で交錯した2人に内在する眼差しが次第に遠ざかっていくのは、あらかじめ決められた道行きでもあったのだろうし、2人が口々に答え合わせする固有名詞ですらが界隈から一歩も足を踏み外さないアルゴリズムに依っていることもうかがえた気もして、かといってその功罪を問うことをすべきかといえばそれこそがこの時代の関係であったという証なればこそ、監督と脚本家は2人の育てた物語に健康的といっていい死を用意した気もした。そしてこの2人の物語に死をもたらすのが不治の病でも恋のさやあてでもない世界を規定するシステムそのものであったこと、そしてそれが、まずはお金の問題という姿をまとって2人の前に現れるのを新たなリアルの形とした点にうなずきはするものの、では月5万円の仕送りがなくならなければ現状維持は可能だったのか、そもそも学生が同棲を始めるにあたり、引っ越しや賃貸契約、家財道具の買い入れといった費用はどこからひねり出されたのか、何しろそれらが、麦の考える“生きることの責任”が世帯主=家父長的な意識へと直結して2人の物語を殺すことになるパラダイムシフトの手始めであっただけに「お金」の収支をシビアに詰めるお花畑の裏側も必要だったように思え、気分の醸成で寸止めしてしまう限り、一人暮らしをして曲がりなりにも生活の様々なサイズを知る麦とずっと自宅住まいだった絹という線引きがされてしまう危惧とすれすれだったようにも思えてしまう。カラフルで瑞々しいショットや主演2人のきらめきが覆い隠してはいるものの、2人が口にした様々な固有名詞たちが繰り出した世界に対するカウンターが青春の麻疹のような気分に消費されてしまうこと、変わってしまった麦に絹が無理やり“観せる”のがカウリスマキの『希望のかなた』であったというその視点の密かな傲慢など、悪意とは言わないまでも2人とその世代をどこかしら見切った感覚は、この物語をうっすらとした感傷とペシミズムでうっちゃってしまえるワタシも含めた世代―おそらくそれらは坂元裕二の射程にないのだろうけれど―ならともかく、麦と絹を等身大に映してしまう世代からしたら、刺されたあとでふと我に返り腹が立ったりはしないのだろうかと少しだけお節介な気持ちになったりもした。文庫本はちゃんと啓文堂のカヴァーでした。
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2021年01月29日

KCIA 南山の部長たち/シルエットや影が革命を見ている

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パク大統領(イ・ソンミン)が何かを催促するように左手を宙で軽く揺らす。一瞬ののち、キム・ギュピョン大韓民国中央情報部部長(イ・ビョンホン)はそれが煙草を催促していることに気づき、部屋の向こうのテーブルにおかれた煙草を取りに歩いたあとで、大統領に背を向けたまま思わず煙草を箱ごと握りつぶしてしまう。おそらくそれはキム部長が最初に気づいた自分の揺れだったのだろう。煙草の火を点けるのであれば、それは大統領が自分の目の前にいるということになるけれど、大統領は遠くのあちらに行って煙草を取ってこいという。いつからか大統領は足が動かない人になってしまった。足が動かない人は心も動かなくなる。心が動かない人はまわりの動きが見えなくなっていく。だからそういう人はクァク警護室長(パク・ヨンガク)のように心の動かない人間しか見えなくなってしまうのだ。ここから先、遠ざかる大統領を我が身を切り刻む血糊で貼り付けるキム部長を、その代償として精神と肉体の軋みと乖離がむしばみ始め、様々な判断が最初はミリ単位で遅れ出す。実際のところ狂気の渦に捉えられているのはパク大統領でありクァク警護室長であり彼らがしつらえたシステムなのだけれど、その渦にあっては歯をくいしばり流れに抗うキム部長にこそうっすらとパラノイアが上気していくようにも思え、この青瓦台においては狂っていないということが狂っているということなのだという裏返った悪夢の中で、大統領を狂気の渦から救い出さねばならないという使命がキム部長のオブセッションとして脈打ち始め、撫でつけた髪の乱れることが次第に目立っていく。原作のノンフィクションを読んでいないのでそれぞれの人物へのスタンスがどれほど脚色されているのかつかめないのだけれど、ここではキム・ギュピョン=キム・ジェギュへの寄せ方として正気の人であり続けたからこそ境界を越えるしかなかった人と描いたように思え、そうした彼の蒼ざめた静脈の疼きに耳を澄ませるために、徹底して神経症的にソリッドな画作りを監督は徹頭徹尾必要としたのだろう。実録ものとはいえ歴史の見当識がキム部長の時間の中へと溶けていく極私的な酩酊は、青瓦台の権力闘争の中で彼だけがあの日からずっと革命闘争の中にあったことを記すための語り口であったのだろうし、だからこそ革命の達成ではない完全な終焉としてあの人物の視点によるラストで閉じなければならなかったのだろう。夕暮れにひとり途方に暮れる子供のようなキム部長を、泳がんとする目元をきっと締め上げ、わななかんとする口元を食いしばり、その軋みで正気を失わないよう背筋をぎりぎりと伸ばし、しかし心の内の半べそを透かすように創り上げたイ・ビョンホンがほとんど神がかっていて、返り血をあびて走り去る車中、靴下のままの足を見ておれの靴はどこだ、おれの靴はどうしたとうろたえるその姿は、上履きを隠されうろたえて涙がこみあげ始める子供にしか見えなかったのだ。
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2021年01月26日

パリの調香師 しあわせの香りを探して/友達以上友達未満

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折返しも過ぎて映画の体温にもなじんだあたり、いくつかの不発もあってジャンヌの誕生パーティーを中座したアンヌ(エマニュエル・ドゥヴォス)が突然ギヨーム(グレゴリー・モンテル)に「ホテルでも行く?」と声をかけ、はぁ?とギョームが振り返った瞬間、ワタシをふくんだ満員の客席は、いやここまできてそれはちょっといくらなんでもありえないだろう勘弁してくれと体温が引いたのか上がったのか、いずれにしろその直後にアンヌが「冗談に決まってるじゃないの、ほら、私が冗談を言っても誰も笑ってくれないのよ」と自らの朴念仁をさらっと自虐してみせた瞬間、小さな安堵の吐息がそれぞれのマスクをくぐった気がしたのだ。それくらい、ここに至るアンヌとギョームの関係には愛もセックスも、そもそもがそれを促す性差の手続きが清々しいほどに取り除かれていて、かつて栄光を手にした調香師と娘のために生活を立て直す必要に迫られた運転手が、互いの居場所からことさら上ったり下りたりすることなく、それぞれが自分の抱える問題を相手に委ねはじめる信頼と尊重の自然で親密な歩みよりがハイでもローでもなくコンテクストの鎖を静かで穏やかに解いていて、その神経戦こそがドラマなのだ!という昨今のトレンドへの成熟したカウンターにも思えたのだ。だからこそ、浮世離れしたアンヌと浮世をかき分けていくギョームが互いをあげつらい否定するのではなく、自分の知らないことに対して好奇心で心を開き、それを知る相手に敬意と新鮮なまなざしを抱いていく足取りは綿密かつ誠実に描かれねばならなかったし、そうやって生まれる互いへの慈しみがなじみのラブストーリーではなく新しい扉を開けていくライフストーリーを語り出す眼差しが、斜に構えるばかりの訳知り顔に思いがけず清冽に沁みたのだ。無償の血の証としての友情ではない、互いの人格を識ってそこに宿る灯りを好ましく感じ、それが消えてしまわないように思いやる気持ちをそう呼べるならこれは紛れもなくアンヌとギョームの友情の物語であって、コンテクストの鎧をまとって斬りつけ合うドラマの全盛において、この一点突破にはささやかなラディカルを感じたりもした。中盤までかなり念入りに描かれていた、ギョームにとっての幸福は娘の幸福と共にあるという彼のモチベーションはどこへ行き着いたのだろうかと思ったところで、そんな大事なことを忘れるはずがないだろうとばかり差し出されるラストにも爽快にしてやられる。ギョームと関わることで自分の偏りに苛立ったり開き直ったり悲しくなったりしながら、しかしそれに向き合うことを選んだジャンヌの密やかな冒険と、立ち止まって嗅ぐ香りに世界と自分の成り立ちがあることを知るギョームの穏やかな覚醒とを新しい色で塗り替えていく、主演2人のそぞろ歩きするアンサンブルに今よりは正気だった世界の記憶が香った気がして、どこまでワタシたちはあそこに帰れるのかと少しだけ気持ちが泳いだりもした。
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2021年01月18日

聖なる犯罪者/イエスはわかってくれない

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裁くことしか知らぬと思われたこの世界に、赦すことそれ自体を目的とするシステムを見つけたダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は一も二もなくそれに陶酔したのだろう。ダニエルのキリストへの傾倒が、必ずしも更生や改心によっているわけではないことはあらかじめオープニングで告げられていて、彼にとっての宗教はどちらかといえばドラッグに近いチャンネルとして開かれたようにワタシにはうかがえる。したがって、ダニエルを弟の仇としてつけ狙うボーヌスの挑発や暴力に少しだけ悲しそうな顔をして耐えてみせるその姿も贖罪というマゾヒズムの顕れに映らないこともなく、この時点でそれをダニエルに潜む光と影の二面性とみなすほどにはワタシは彼の光を信用してはいない。しかし、一度(少年院に入るほどの)罪を犯したものは神学校に入ることを許されないという規則によって、神父になり神の代理として赦すという行為を極めたいと願うダニエルの夢もしくは企みが打ち砕かれ脱線を始めた瞬間、ダニエルの車輪は別の線路を捉えてしまうこととなる。ここから先、ダニエルは神の恩寵ともいうべき様々な兆しをストリートワイズによって我がものとしては(そもそも司祭服をいつどこで手に入れたのか)、赦すという行為に手探りで耽溺し始めるも、ことキリストとそのシステムについてはいまだ原理の運用しか知らぬダニエルは野卑とすらいえるピュアネスで一点突破を図ることにより、彼を司祭とあおぐ村の閉塞と倦怠を少しずつ静かに揺らし始めていく。かつて村で起きたある悲劇によって村人から犯罪者のごとく苛まれる未亡人エヴァ(バーバラ・クルザイ)に寄せるダニエルの感情は、彼女を自分と同様に赦すことを許さない者たちに迫害される存在と見てとったのか、あるいはキリストをフルスペックで運用することの昂揚に衝き動かされたのか、いずれにしろここでダニエルがみせる、赦すことを許さない者を“赦さない”という攻撃的で破壊的なキリストのトレースによるショック療法がエヴァを苛む者たちを瓦解させ、最終的に彼女を救済してしまうのだ。服を脱ぎ刺青の入った上半身を会衆に晒して両手を掲げ自分の正体を明かすダニエルの姿は祭壇画の磔刑図に描かれたイエスのようでもあり、そうやって20歳の人殺しで偽司祭のダニエルはエヴァを苛む村人の罪を自らに負わせることで、赦すことを許さない者をも“赦す”という達成までも成し遂げてしまうのだ。しかしダニエルはエヴァが救済を獲得した瞬間を知ることもなく少年院へと連れ戻され、かつては頬を差し出すがごとくであったボーヌスを返り討ちにして血祭りにあげてしまうわけで、ラストのカッと見開いた目でこちらを見据える血まみれのアントワーヌショットに、誰も俺を赦さないのなら俺が俺を赦すことを受け入れろ、という聞こえぬ絶叫がこだましたようにも思え、かつて家業の大工を継がなかったある男のように、木工所の仕事を足蹴にしたダニエルがこの先の未来で何を語り何を説き、あげく何を従えることになったとしても、神の代理が投げ与える贖罪で生き延びるだけの世界はそれを受けいれるしかないことを覚悟しておくべきなのだろう。そしてワタシも、俗を喰らい聖をひり出す野生動物の無垢と狡猾をクリストファー・ウォーケンの眼で投射するバルトシュ・ビィエレニアを追い続けるしかなくなった。
posted by orr_dg at 21:13 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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