2017年02月21日

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う/裏も積もれば表となる

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※本来なら熱に浮かされるはずが、どんどんと微熱から平熱へと回復してしまったその理由を考えていたら何だか偏屈な感想になってしまったので、好きになれた方はスルー推奨

とくに寝落ちした記憶はないのだけれど、カレン・モレノ(ナオミ・ワッツ)がデイヴィス・ミッチェル(ジェイク・ギレンホール)の人生に拮抗し、そこに介入するに足る事情と理由がいつまでたっても自分に説明できないまま、ああこれはメタファーだけでどこまで映画は成立するかという実験作なのだろう、だからワタシがいるこちらの現実が紐づける制約や制限、限界のラインは一度手放してしまわなければいけないのだ、そうやって現実逃避した浮世離れに頭を撫でられるアイソレーション・タンクの中で見る夢なのだ、カレンもクリス(ジュダ・ルイス)もデイヴィスが奥底で切望した家族のメタファーなのだ、だからあの母子が抱えている深刻さがどうも明らかにならないまま、あなたの正直が羨ましいとリベラルな身のこなしで大麻をふかして微笑んではいっしょに砂浜をはしゃぎまわってくれるタフなシングルマザーも、アメリカの中東派兵をシニカルに笑い、セクシュアリティを真顔のユーモアで語り、共に銃を撃ち、クラシック・ロックで心を交わす12歳の見てくれで21歳のようにふるまう15歳の息子も、デイヴィスがそうありたかった世界のメタファーなのだ、そこでは彼がルールとなる世界のメタファーなのだ、それを構築することによって彼は超えていかなければならない世界の境界を知り、喪の仕事を完了するのだ、とまあそんな風に得心してはみたのである。ただ、これではデイヴィスの道行きが安穏すぎるということなのか、彼の心地よいリハビリに冷水をかけるような亡妻ジュリア(ヘザー・リンド)の秘密が明かされるのだけれど、正直言ってこの試練は必要なのだろうかと訝しんでいたところが、終盤のおしつまった墓前のシーンにおいてまるで卒業試験でもあるかのように伏線は回収されることにより、どこへ出しても恥ずかしくないデイヴィスとなるわけで、再び回りだしたメリーゴーラウンドこそがそれまで解体と破壊にいそしんできた彼がついに再生へと足を踏み出したことの最終的なメタファーとなるのだろう。と思っていたら、まだその先で子どもたちに交じってボードウォークを満面の笑みを浮かべて走るデイヴィスの姿を目にするわけで、ああ、これは幼い頃に駆けっこで一番になれなかった屈託からの解放となるメタファーなのか、念には念を入れるのだなと感心して息を吐いた瞬間、一瞬のストップモーションを経て暗転したスクリーンにデイヴィスのヴォイス・オーヴァーが「心をこめて、デヴィッドより」と追い討ちをかけ、この映画そのものが彼のつづった手紙、言い換えれば世界のあちこちで喪失につまずいては寄る辺のない日々を生きるワタシたちに向けた再生への処方箋なのだという、皆がそのつもりで客席に座っていた100分間のタネ明かしを念押してくれるのである。もちろん映画=メタファー(暗喩)であるのは今さら言うまでもないのだけれど、ここまですべてを噛んで含めるような喩え話で語られると、どうも少しばかりバカにされているのかなという気にもなってくるわけで、そこに隙のない誠実な語り口を加味すると慇懃無礼などという厭な日本語などうっすら浮かび上がって来る気もするのである。義父フィルが立ち上げたジュリア基金にデイヴィスが抱く欺瞞と偽善を匂わすために用意された、いけすかない水泳選手のくだり(「胸さわってもいい?」)に至っては、そこまで曲解を怖れるのかと鼻白みつつ苦笑いなどしたのである。それと邦題として引用された劇中のあの言葉は少々意訳(If it's rainy, you won't see me, if it's sunny, you'll think of me)が過ぎるのではなかろうか。晴れた日くらいは私のことを思い出してねっていう茶目っ気と皮肉を効かせた妻からのメッセージであって、少なくともあんな風な仄かに明るいメランコリーで上を向いた日本語ではないし、そもそも“君を想う”の主語がデイヴィスなのだとしたら、雨だろうが晴れだろうが変わることなく向き合わなかったからこそ取り返しのつかない悔いを残したのではないかと、少しわけがわからないでいる。
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2017年02月19日

たかが世界の終わり/ストレンジャーズ・ホエン・ウィ・ニード

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ルイ(ギャスパー・ウリエル)が「怖くたまらない」のは、自らの手で行う喪の仕事に対してではなく、かつて否定した自分の一部と向き合うことに対してなのだろう。そしてそれはアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)にとっても同様で、暴力なのかタフな仕事のせいなのか、拳に傷を絶やさぬような男がその握り拳を引き絞ったまま泣いているのである。アントワーヌにとってルイは自分たちを否定した世界の象徴であり、他の家族にしたところで、シュザンヌ(レア・セドゥ)はルイの不在がもたらした自身の欠落を笑顔でなじり、母マルティーヌ(ナタリー・バイ)にいたっては、アントワーヌとシュザンヌが抱える屈託を言い当てた後で「やはりあなたを理解できない(けれど、愛している)」と言い放つ。特に母マルティーヌがルイの到着する前にこぼす「ゲイは美しいものが好きなのよ」という軽口や、場をとりなすつもりで「なにかゴシップを教えてよ、誰と誰が寝てるとかそういうの」とルイを焚き付ける哀しいまでに無邪気な無神経は、ルイがどうして家を出なければならなかったのか12年を経ていまだその理由に思い至らない、まさにその無自覚さゆえルイは家を離れたことをあらためて告げていたように思うのである。しかしそうやって一方的にサンドバッグとなることをルイが自らに課しているのは、もし死の事情がなかったとしたら、ひたすら血を遠ざけるこの関係を自分が見つめ直すことがなかっただろうことを知っているからなのと、12年を経て気づくことのなかった、家族とは全員が被害者であると同時に加害者である関係なのだという理解にほんの数時間で到達したショックにもよっているのだろう。そしてその理解の先にあったのは、これまでずっと血にかまけてきた自分たちは、こうやってあきらめと絶望を分かち合うことでしか新たな関係を始められないのだという答えだったのでなかろうか。そのことに、わけてもルイがたどりつくことができたのは血で濁ることのないカトリーヌ(マリオン・コティヤール)のまなざしがあったからこそで、彼が携えてきた重荷にたった一人気づいた彼女は哀しみをこらえながら裂けた傷口をふさごうと走り回る戦場の衛生兵のようにも思え、「あと、どれくらい…?」というそれとてダブルミーニングのセリフ以外、その表情、しかもほとんど目の変貌だけでルイと交感するマリオン・コティヤールの超絶には息をするのも忘れるほどで、アントワーヌが単なる粗野で卑屈な男として片づけられないのは、これほど誠実な知性をもった妻を持つ夫としての側面がどこかしらついて回るからで、自分たちを否定して出て行ったあげく成功を収めた弟を認めたら、自分たちが何かを間違ったことになってしまうという怖れによって忌避と愛情に引き裂かれる苦悩の、しかしその偽りのなさゆえザンパノの哀しみすら漂わせるヴァンサン・カッセルの背中もまた、マリオン・コティヤールの瞳に負けず忘れがたかったのだ。作られる料理の、ご馳走の装いではあるのだけれどほんの少しだけくすんでしおれたような活気のなさがこの家の密かな沈鬱をそっと一言で伝えて、ドランの映画を支配する血圧の、動脈のたぎりと静脈の昏睡をあらためて思ったりもした。それにしても、ルイとカトリーヌの間でかわされる敬語の、やわらかな緊張と慈愛のニュアンスがつかめないのは本当に残念としか言いようがない。
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2017年02月16日

マリアンヌ/わたしの名は。

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あの夜マックス(ブラッド・ピット)がベッドで読んでいたのが「ブライトン・ロック」だったことで、ああスティーヴン・ナイトが持ち込みたかったのはピンキーとローズが踏み抜いた薄氷の物語なのだなあと理解したし、ならばエピローグにおけるマリアンヌ(マリオン・コティヤール)からの手紙はピンキーのレコードとなるわけか、とさすがにハリウッド的大団円がグリーンのカトリック的ペシミズムなど受け入れるはずがないにしろ、この映画の偏平さを呼んだのがそうしたスティーヴン・ナイト成分のスポイルだったのではなかろうかと勘ぐるには十分だったのである。となるとピンキーとローズの関係はマリアンヌがピンキーとなる逆転が必要となり、すなわち主役はマリアンヌになるわけで命がけの打算と計算によってマックスを夫とするストーリーが次第に変奏していかなければならないのだけれど、戦時下の悲恋ものの“戦時下という側(がわ)”に夢中になった絵描きとしてのゼメキスにとってそれらは必要のない余白だったのだろう。オープニングからして既にこれが絢爛たるはりぼての世界で綴られる物語であることが謳われて、ゼメキスが要求するのはあくまでデザインされた感情の質感なのだけれど、そうした中にあってマリオン・コティヤールは不定型という感情すらを精緻にしたためて、それは彼女のフィルモグラフィーを見れば瞭然なように幾多の修羅場をくぐってきたことで最適化された切り札によっているのは言うまでもなく、そうしてみた時、明らかに役者としての場数がここ数年足りていないブラッド・ピットは正直言ってでくにすら映るわけで、本来がノンメソッドでミニマルな演技で切り抜けてきた彼の地肩の弱さがマリオン・コティヤールに圧倒されてしまうなかなかに残酷な瞬間を目撃することになったのである。マシュー・グードの扱いからして、皆がマリオンにかしずく映画であるのは間違いないにしろである。したがって、邦題はたいへんに正しい。
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2017年02月14日

グリーンルーム/ラスト・ボーイ・ストラット

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ヴァンに貼られたFUGAZIのステッカーとパット(アントン・イェルチン)の着るマイナー・スレットのTシャツ。そして楽屋の壁に掲げられた南軍旗を見たパットはスキンヘッドたちを前にデッド・ケネディーズの“ナチ・パンクス・ファック・オフ”をぶちかます。その後で彼や彼女を待ち受ける責め苦はそのストレート・エッジな思想が直截的にもたらしたわけではないのだけれど、ダーシー(パトリック・スチュワート)配下のスキンヘッドたちがダーシーの都合と思惑によって雑然と命を散らしていくのとは対象的に、必死に生きようと死んでいくバンドのメンバーたちを一瞬包む刹那の光はどこかしら青春の失敗のようにも描かれて、その混乱と混沌の中でパットもまたアメリカの暴力と不条理に溶けていき、ラストショットで並んで座り込むパットとアンバー(イモージェン・プーツ)の、まるでナチパンクのカップルにしか見えないその姿はアメリカが嘲笑う残酷な皮肉のようにも映る。そしてその意味合いこそ違え、『ブルー・リベンジ』に引き続き主人公が髪を切り銃をとるというトラヴィスの系譜が繰り返される一方、ここで殲滅すべき集団もまたスキンヘッドをユニフォームとしているわけで、ここに至ってイアン・マッケイらが体現したストレート・エッジなハードコアと、そのスタイルを醜悪に援用するネオナチとの代理戦争の様相すら呈し、それら命がけで闘う者と無表情に闘わされる者との決着にバッド・ブレインズが完璧な凱歌を奏でてくれるのである。それにしても、この監督が組み立てる命名できない感情の瞬間というか、観客であることによって予測してしまう正解をいかにはぐらかすか(そもそもワタシたちは正解を知らずに生きている)、そうやって間違った答えを重ねながらたどり着いた場所にどのような正当性を見出すことが可能かというフィクションならではの挑戦は、『ブルー・リベンジ』からより直接性を増してノンストップの情動に身を任せつつ、しかし同時にすべてのタイミングを監督の鼓動としてコントロールするアクロバットを可能にしていたように思うのである。なかでも楽屋に籠城したバンドが常軌を逸したテンションの中で思考の容量を超え感情の上下左右を失っていくあたりの“しでかし”こそは監督の面目躍如となる瞬間だろう。加えて特筆すべきは屠られる人々の破壊描写で、特に銃創以外の刺し傷と切りつけ傷および噛み傷の、まるでそれらの傷自体が意思表示であるかのように語りかけてくる表情に目を見張らされることになる。替え玉となるチンピラ2人が証拠のナイフ傷を残すため刺しつ刺されつするシーンでの、白く痩せた身体に寄る辺なく口を開ける荒涼とした刺し傷が実は一番震えが来たし、もう引き返せないことを誰にともなく宣言するアンバーのナイフ一閃を可能にしたエフェクトはこの映画で最高となる芸術点を叩き出した瞬間だろう。リース(ジョー・コール)がジャスティン(エリック・エデルスタイン)を再度絞めにかかったら、瞬きせずに目を凝らした方がいい。怒りにしろ哀しみにしろその上澄みを透かすことのできるアントン・イェルチンの資質によって、どれだけ血を吸おうとも映画は自重でふらつかないわけで、そんな風なマジックをもう目にすることができないのは本当に残念でならない。まあでも、やるだけやったじゃないかと肩を叩きたくなるような映画を最後に観られて少しだけ救われた。
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2017年02月09日

ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男/神様、もう脱ぎません

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ニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)に備わったはずの血肉はオープニングのシークエンスを最高潮に、物語が進むに連れ事態の狂言回しとなってどんどんと透けていくように思われる。オレは大義に殉じるのだと妻セリーナ(ケリー・ラッセル)と幼いわが子を狂信めいたあっけらかんで放りだし、その後は2人の消息を特に気に留めることもないまま、ある時思い出したようにかつての我が家を訪ねては、当たり前のように空っぽになった家から持ち帰るのは1冊の綴り方読本でそれとてレイチェル(ググ・ンバータ=ロー)との新しい関係を築くツールに過ぎず、何より驚かされたのはその後ようやく再会したセリーナと息子を前に涙の一滴も流さないどころか、2人の面倒を見ることが何か寛大さの現れでもあるかのように描かれていたところで、あてにならない夫を見限って家を出たのはどういうわけかレイチェルの失策とされていたのである。それともう一つ、沼地で逃亡奴隷モーゼス(マハーシャラ・アリ)たちと過ごすに日々にかつての僚友ジャスパー(クリストファー・ベリー)ら白人が合流してコミューンが拡大していく中、その活況につれモーゼスたち黒人が隅に追いやられてくことにまったく映画は無頓着で、自分を立て直す手助けをしてくれた彼らに払うべき敬意をニュートンがいつ白人の新参者たちに告げるのかワタシは気をもんでいたのだけれど、それがようやくなされるのが食べ物をめぐる小競り合いの仲裁というわかったようなわからないようなエピソードだったことにも少なからず落胆したのである。そんな風にしてマシュー・マコノヒーのチャームを頼りにするばかりのステレオタイプに、もちろんここで初めて知る事実と歴史については好奇心と敬意が止むことはないけれど、教会でフッド大佐(トーマス・フランシス・マーフィー)がニュートンに向かって言う「お前のオヤジを知ってるぞ」という台詞が気になって調べてみれば、彼の父ではなく祖父がかつてジョーンズ郡で最大の奴隷所有者の一人であったことなどけっこうな驚きと共に知るわけで、140分を費やしておきながら彼の動機の最も重要な陰影となる事実をなぜオミットしてしまうのかまったく理解しかねたのである。ここで描かれている戦いが終戦などしていないことなど誰もが知るところなのに、それを念押しするかのようなフラッシュフォワードに割く中途半端な時間があるならば、なぜ彼が妻子を捨ててまで地べたに近い方に立つ人だったのかを描くべきだったのではなかろうか。オープニングでの先祖返りしたオマハビーチのような戦闘シーンや切り株が呻く野戦病院、葬儀の場を一転して壮絶な銃撃戦に変転させる黒衣の女性によるヘッドショットなど、切り出されたボディには終始胸を弾まされただけに、それを駆動するエンジンの馬力が足りなかったのがどうにも悔やまれる。マシュー・マコノヒーは何かノブリス・オブリージュ的な行いとして恵まれない企画に身を投じているのかわからないけれど、それも手伝ってか、ビタースイートを半身のグラマラスでかわす綱渡りが『インターステラー』以来影を潜めているのがとても気にかかる。ストーナーコメディらしいハーモニー・コリンの新作を待ちたい。
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2017年02月06日

ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち/スメルズ・ライク・ティム・スピリット

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ぼくと世界はどんな風にすれちがってしまっているのか、その時世界はどんな風にぼくを悲しませたのか、かつてのティム・バートンはその蒼い苦渋をガソリンに点火していたはずなのだけれど、ジェイク(エイサ・バターフィールド)のそれはオープニングでほんの数分だけとってつけたようなスクールカーストの残滓として描かれるだけで、ジェイクが抱える屈託とそれをなだめるために彼が育てるバランスは放っておかれたままだったように思うのである。したがってこの映画でなにがしかの反発がおこなわれることはないわけで、これが他人の筆による原作脚色であるにしろ、もう自分はレベルな時期を過ぎてしまったから昔のように思春の異議申し立てを代弁することはできないんだという、それは果たして誠実なのかあきらめなのか、しかし大人になるとはこういうことなんだよという訳知り顔だけはすまいとするその決意だけで、何とかティム・バートンは撮りきっていたように思うのだ。だから、その反映とも言えるジェイクのピーターパン的な最終選択も、彼が棄て去った時間の重みが感じられなかったことで通過儀礼のメランコリーが今ひとつ染まらないままということになってしまう。未だにこんなないものねだりを垂れ流すワタシのような客はティム・バートンにとって迷惑なのは重々承知しているけれど『PLANET OF THE APES 猿の惑星』で外にある大きな世界との対決に臨んで無残にも一敗地に塗れたティム・バートンは、それまで勝ち続けたその戦い方ゆえ、その敗け方ですらこちらに傷を残したわけで、言ってみればあの時ティム・バートンはワタシたちを代表して敗けたと思っているからこそ、その後のティム・バートンがたどった世界への服従と時折の密かなリハビリを追い続けざるをえないのだ。そうした意味においてここには服従もリハビリも見当たらず、だからといってティム・バートンがようやく新たな語り口にたどり着いたのかと言えばそういうわけでもなく、アルゴリズムに沿って人工知能が描いたティム・バートンのダーク・ジュヴナイル・ファンタジーとでもいう手続きの産物に思えたわけで、『フランケンウィニー』『ビッグ・アイズ』と続けた後のこの無表情が寛解の終わりとならないことを祈るしかないように思っている。モンスターというよりはモダンホラー的なクリーチャーでしかないホローのデザインにもそれを憂いている。
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2017年02月05日

マギーズ・プラン/しくじるなよ、マギー

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出だしというかきっかけは「ガープの世界」あたりを思わせるのだけれど、マギー(グレタ・ガーウィグ)のそれはフェミニズム的な変奏というよりは、男性と継続的なパートナーシップを築けない事情による非常手段であって、ではなぜマギーはいつもそうなってしまうのか皆さんにお見せしましょうというお話の、その余禄または必然としてマギーに転ばされるスノッブたちのドタバタを笑うことになるわけで、観賞前は贅沢にもジュリアン・ムーアとイーサン・ホークを配したマンブルコア的な展開を思っていたのだけれど、手ざわりとしてはどちらかといえばシットコム的に記号化された配置に近い。いかにもなNYスノッブのジョーゼット(ジュリアン・ムーア)とジョン(イーサン・ホーク)がからかいと笑いの対象となるからと言ってマギーが正解者であるかというとまったくそういうわけでもなく、みんな一人一人がそれぞれのシャボン玉の中に入って生きてるのよ、と愛娘に語りかけるマギーは、でもあなたはお母さんと一緒のシャボン玉の中にいるけどねとは言わないわけで、それを都市生活者の透明で密やかな孤独として染めてしまわないためにわざわざマギーにクエーカー教徒(それぞれに内なる光を求めよ)の設定を与えているし、シングルマザーであった母との生活を想い出して懐かしさに涙ぐむあたり、彼女は自身の生活においてそれを再現しようとしているだけなのかもしれないという考えが頭をよぎった瞬間、実はマギーの闇が一番深くて厄介なのではなかろうかと笑いの質が少しばかり変わったように思えたし、したがって、新しい計画を思いついてほころんだマギーの顔で締めるラストも、ハッピーエンドというよりはどちらかといえば新たな犠牲者ガイ(トラヴィス・フィメル)への同情にも似た作り笑いで見送ってしまうのである。それにしてもである。ジョーゼットに、あなたは純粋だけれどもちょっとバカよねと一刀両断されるがごとく、総身に知恵がまわりかねるかのように曖昧な時間差で動き生きるマギーを演じるグレタ・ガーウィグの、これはほとんど彼女のアテ書きだろうというナチュラルな憑依はさすがにジュリアン・ムーアとイーサン・ホークを刺身のつまとするだけのことはある、その磨きのかかった無垢と無意識のコメディエンヌっぷりに一人遊びをする犬を見るような慈しみが自然にと湧いてきてしまうのは、今後果たして彼女のレッテルと枷になってしまわないのかどうなのか。所詮「ダンシン・イン・ザ・ダーク」を歌い踊る夫婦だもの、お里が知れるわと「ルーディたちへのメッセージ」のダンディ・リヴィングストン版オリジナルでマギーを一人踊らせるレベッカ・ミラーのたちも相当に悪い。
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2017年02月02日

マグニフィセント・セブン/イングロリアス・エイト

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監督フークアがデンゼル・ワシントンを扇の要に据えた時点で、晴れ渡った青空に小さく笑いながら自爆する60年版のセンチメントを再現する気など毛頭ないことは自明だし、内戦によって分断されたアメリカの憎悪を手管に市井を蹂躙する外道な資本家に唾する男たちの闘いにおいて、正義の遂行者ですらが憎悪と復讐の暗黒連鎖に堕ちていくのを絶ちきったのが一人の女性であったこと、そしてこの聖戦において生き残ったのが黒人とメキシコ人と先住民族であったという、まるで2017年のアメリカを見通していたかのようなフークアの選択に少なからず驚かされたのである。そうした意味で、この映画はタランティーノによってジャンルを換骨奪胎されたいくつかのレヴェル・ムーヴィーの構造に非常に近い。従って、復讐の寡婦エマ(ヘイリー・ベネット)に雇われた7人は個々のストーリーというよりはその関係性によって立体性を保ち、それについては必ずしもすべてが上手く行ったとは思わないけれど、大陸横断鉄道敷設に投入された苦力の影を匂わすビリー・ロックス(イ・ビョンホン)とデラシネの屈託を共有するグッドナイト・ロビショー(イーサン・ホーク)、マンハンターであるジャック・ホーン(ヴィンセント・ドノフリオ)と先住民族レッド・ハーベスト(マーティン・センスマイヤー)、グリンゴとしてのジョシュ・ファラデー(クリス・プラット)とメキシコ人ヴァスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)といったところの関係が、サム・チザム(デンゼル・ワシントン)とバーソロミュー・ボーグ(ピーター・サースガード)の血で血を洗う因縁を下支えすることになるわけで、タランティーノであれば言うまでもなくこの構築に160分を要求したであろうことを考えると、そのつづれ織りの目が粗いのはある程度致し方ない気もして、現代の風向きにおいて分の悪い西部劇という足場をアメリカの原風景とあえて選んだその意図と意思と志だけでまずは十分すぎるくらいだし、殺戮の現場としての西部がガンファイトの過剰な致死性で描かれる昂奮は近年類を見ないのではなかろうか。このヘイリー・ベネットをみていると、やはり肉体の激情こそが理性を心底から慟哭させるのだなと、ナタリー・ポートマンとあの映画に欠けていたものの正体を図らずも浮かび上がらせてしまっていたようにも思え、それくらいヘイリー・ベネットの骨と肉は、誰よりも暴力的にそびえ立っていた。
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2017年02月01日

ドクター・ストレンジ/魔法にかけられ過ぎて

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スコット・デリクソンという人は、中盤あたりまでをトップギアに恐怖をはりつけ緊張をはりめぐらして、その麻痺と疲弊とでおぼつかなくなった足取りとうわずった赤い目の充血でエンディングに這っていく姿にうっとりするところがあるので、例えば『地球が静止する日』のようにコースの決まったオペレーション仕事ではなかなか本領を発揮しづらいこともあるからそれなりに危惧はしていたのだけれど、しかしこれが、屈託を必要としない主人公が屈託につかまりそれを手なづける話であった点で下手の考え休むに似たりを裏返した真面目な顔のバカ話に思いのほか歩調が合っていたように思って、他人事ながら何だかほっとしたのである。内ゲバが悪を呼び込むというMCUの手癖自体は少々うんざりなのだけれど、どちらかというと前述したようなバカ話をやりたいがためにここでは枠だけ借りて知らんふりをしたといった方がふさわしく、諧謔で動くことのできる俳優としてベネディクト・カンバーバッチをキャスティングしたのも、ロケンロールとしてのMCUで端緒を開いたロバート・ダウニー・Jrをロールモデルにしたところがあったからなのだろう。ドクター・ストレンジとエンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)およびカエシリウス(マッツ・ミケルセン)による、ノンシャランとプラグマティストと原理主義者のポジショントークも最後まであさっての方向を向いたままであって、しかしそれがいい具合の目眩ましになったというべきなのか、最近のMCUで飽和気味の内省する鏡像の自己破壊ドラマからの解放と、まあとにかく今回は映像を観て帰ってよという製作陣のニヤニヤがすべてであった気もするのだ。そのトリップショットも『2001年宇宙の旅』的ポストモダンではなく『ミクロの決死圏』的サイケデリックの、超人でもミュータントでもない魔法使いといういっそうの荒唐無稽にふさわしいこけおどしに満ち満ちて、どうせなら今自分が観ているのは何の映画なのか分からなくなるまで放り込んでおいて欲しかったとも思ったわけで、となれば、キミはサウロンかとつっこまざるを得ないドーマムゥの顔かたちはいささか野暮が過ぎたようにも感じてしまうのだけれど、その脱力バトルも含め最後の最後までバカを貫いた気概はやはり買うべきだろう。取り沙汰されたティルダ・スウィントンのキャスティングは、彼女のゆうに2倍はあるベネディクト・カンバーバッチの顔面との対比でパースを狂わせて不安定を誘うためであったことも理解した。慧眼である。傷んだ肉体の微に入り細に入る描写はスコット・デリクソンのフェティッシュか。
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2017年01月29日

トッド・ソロンズの子犬物語/クスリとスリルと腹痛

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ウィンナーみたいだからウィナードッグ(原題”WIENER-DOG”)とあまりに身もふたもない呼ばれ方をしてしまう(ことを初めて知った)ダックスフントが、戦火の馬ならぬ戦火の犬としてアメリカ市井のコンバットゾーンをよたよたヘナヘナと走り回っていく。オープニングの2カット目で犬の視点からケージ越しの空を捉える以外は犬を擬人化したアクションは一切ないまま、犬はただそこにいる犬として人間様の都合でいいようにあしらわれては、犬がいなくても起きたであろう出来事について、スイカに塩をかけると甘味が増して感じられるように、そこに犬の愛嬌があることでよりいっそう寂寥感を増すはたらきとなっている。どうして犬を撫でる優しい手つきで世の中をかき分けて行けないのか、どうして犬を呼ぶ優しい声で世の中に呼びかけないのか、根っから悪いやつなんてアントン・シガー以外そうそういないわけで、自分の内と外の分断や断絶にはまって身動きがとれなくなっていく人たちの悲哀を、少なくとも僕だけは看取ってあげるよとトッド・ソロンズは肩を抱きながら背中を押すのであり、ナナ(エレン・バースティン)ならずとも自分の最期の時があんな風に総括されたらたまったものではないわけで、こんなのイヤ!と叫んだその身代わりとしていったい犬がどんな目に遭ったか、ナナからゾーイに渡った1万ドルはファンタジーによってあのラストのために費やされたのか、だとしたらナナはあのまま旅立った方が幸福ではなかったのか、死ぬよりマシか死んだ方がマシか、トッド・ソロンズの生き地獄である。幸福に手がかかったかに思えるドーン・ウィナー(グレタ・ガーウィグ)にしたところでブランドン(キーラン・カルキン)の左腕にまだ新しい注射痕を見ているわけで、ドーンとブランドンによるその後のドールハウスの物語にしたところで、既にこのカップルが生き地獄のとば口に立っているのは言うまでもない。そもそもが下痢と癌とで円環するような映画である。
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2017年01月26日

沈黙 −サイレンス− /アイ・アム・ノット・ユア・ファザー

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殉教から遁走し続けるキチジロー(窪塚洋介)は神のために死ねない自分を弱いと泣く。それはもちろん、死ねばパライソ(天国)で自身の苦しみから解放されると信じて死んでゆくのは果たして殉教といえるのだろうかという自問の末でないにしろ、デウスは大日なのだと看破せざるを得なかったフェレイラ(リーアム・ニーソン)の言葉を借りるでもなく、パライソ信仰はよりオールマイティな浄土信仰ではないのかという疑問とつかず離れずしてしまうのも確かなのである。しかし、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)が最終的に直面する、眼前で苦しむ教え正しいとは言えぬ潜在的異教の人を救済するために己の信仰はどこまで有効かという信仰の極北を乗り越えたのは、キチジローという存在がまるで神の恩寵でもあるかのようにロドリゴの保つべき正気の合わせ鏡となっていたからなのだろうし、最後にロドリゴからキチジローに向けられる原作にない言葉はその現れということになるのだろう。そして、ロドリゴが最後に掌中にするのが自身のクロスではなくモキチ(塚本晋也)が作り託したそれであったことからも、沈黙の声とは自ら境界を超えていくことでしか耳にすることは叶わないのだというスコセッシのたどり着いた答えがうかがえるように思うのだ。これほど原作に喰らいつくように映像化されてしまうと映画の感想なのか原作の感想なのか自分でも曖昧になってしまうのだけれど、スコセッシが獲得して託した答えはその同時代性において否が応でも突き刺さってくるし、ワタシたち観客がそれをロドリゴの旅の仲間として共に喜び怖れ打ち震える体験を可能にした映像のデモニッシュな美しさと幻想的な寄る辺の無さは、それと引き換えにスコセッシが差し出したであろう魂の息づかいを思わせてやむことがない。井上筑後守(イッセー尾形)については、通辞(浅野忠信)がロドリゴに言う「井上様は現実的なお方であって、ただ残酷というわけではない」("He is only a practical man, Padre, he is not a cruel one.")という台詞における "practical" のモンスターとして少々戯画化して描いてはいるのだけれど、トモギ村でイチゾウ(笈田ヨシ)、モキチ、キチジローたちが戦略的に踏み絵をしてみせた時とキチジローがクロスに唾した時に見せる彼の表情は、後にロドリゴに告げる「日本とはそういう国だ。どうにもならぬ」という言葉に潜む彼の徒労もうかがわせ、絶対悪を据えてしまうことで構造が矮小化することを回避しようとするスコセッシの演出にはため息とともに唸らされてしまう。 常々思うことだけれど映画の洋邦で目につく差はやはり「黒」の階層で、時間、要するにお金をかければかけるほど「黒」はそれが絢爛な漆黒であっても殺伐の闇であっても魔法のように美しくなることを目の当たりにした映画でもあったし、生きたまま人が燃やされ、十字を切る間もなく斬首される瞬間へ一瞬の隙なく踏み込むカメラの獰猛は、やはり紛うことなきスコセッシの映画だなあとどうにも昂奮してしまう。 当初日本人俳優の情報が入ってきた時は、てっきり塚本晋也がキチジローだと思っていたのだけれど、キチジローをロドリゴにとっての救済者とするために穢れの奥にも無辜の光をたたえる目をスコセッシは窪塚洋介に欲したのだろうし、そのヴィジョンを十全に理解した彼によってもたらされた清冽がこの映画自体の救いとなっている。
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2017年01月23日

ザ・コンサルタント/お前はもう監査されている

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顧客の農場に闖入した殺し屋2人を返り討ちにし、それを呆然と見守る農場主夫婦の前から立ち去りかけて、あ、忘れてたとばかり小さく手を上げて別れの挨拶をするクリスチャン・ウルフ(ベン・アフレック)の可笑しみにひそむ、俺は挨拶をしなけりゃならない時としなくてもいいだろう時の判断がうまくつかないから、だったらいつもすることに決めておけば少なくとも失礼はないだろうと考えている、とする経験則的な知恵に漂うどこかしらの哀しみは、俺は生まれた時から世界ってやつにドアを閉められちゃってて、でもそのドアに寄りかかってないと転んじゃうんだよねという目は笑っていない苦笑いによっている気もして、だとしたらそんな風に歯を食いしばった朴念仁のメランコリーを踏みにじってキックにする話はあまり愉しそうではないなあと思って身構えていたものだから、終盤になってどたばたと底の抜けていく展開も、だってもともと彼には足元の確かな底なんて与えられてないんだから関係ないよね!と何とも晴れやかで涼やかな気分のままいられたのである。そしてそれは、かつて自分を門前払いした世界を逆恨みしないどころかその行動の動機が種々の友情によっていることも手伝っているのだろうし、それはすなわちクリスチャンにとっての善きことに対する切ないまでの忠誠とも言えて、デイナ・カミングス(アナ・ケンドリック)との予期せぬ交歓もほとんど騎士道といってもいいフェアネスの遂行がロマンスを寸止めしてしまうのである。結果としてクリスチャンを中心とするネットワークを構成することになるデイナ、レイモンド・キング(J・K・シモンズ)、メリーベス・メディナ(シンシア・アダイ=ロビンソン)といった人たちがみなそれぞれに痛みを知る人たちであること、そしてクリスチャンがコンマ単位の躊躇も見せず排除するのが痛みを与える人たちであることも、単なる勧善懲悪ではないこの映画ならではの風通しを誘っているのだろう。完全なネタバレになるのである2人の名前については伏せておくけれど、その関わりと顛末はちょっとした奇蹟を見るような気分であって、まさかこれだけ綺麗な気持ちで劇場を後にするとは思わなかったし、クリスチャンが宝物とするアレが、ベン・アフレックが自身の資質を照合して役者としての突破口を見つけたあの作品に繋がっていることも含め、予期せぬ血の通い方に胸のざわつきが止むことのない映画だったのである。だってあそこで弟が笑うんだもんな。
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2017年01月18日

ネオン・デーモン/ブラックハニープラムパッションピーチーキーン

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※展開に触れています

アタシに股開く度胸もないくせに「ママはあたしを危険な子って言うわ」とか中二ってるんじゃないわよ、ムカつくわこいつ!と怒髪天を衝いたルビー(ジェナ・マローン)を実質的な主役に、彼女と彼女のゆかいな仲間たちのバビロンな日常をヘネシーのCMにおいて更にあからさまなケネス・アンガーへの偏愛と崇拝の証として描いてみせては、ペダンチック?なにそれ喰えるの?とニヤニヤしながらホントに喰ってしまったものだから、ならばこれは『オンリー・ゴッド』を観て心中を宣言したワタシへのご褒美かと恭しくいただいておいた次第である。冒頭のメイクルームからして、フィクスのままフォーカスの切り替えで会話ショットを切り返すこれみよがしが走り出し、ジェシー(エル・ファニング)にはなかなか拭えない血糊をルビーはさっと拭き取ってしまうあたりの初球のコントロールから始まって、◯(月)から△(ネオン)、そしてルビーの描く×への移ろいはそのままジェシーのカウントダウンとなり、ルビーが月に向かって血を捧げる満願成就への一本道は、言いたいことは特にない幻視家レフンがようやく『ドライヴ』の呪縛から抜け出した証であるようにも思ったのである。したがって、ハンク(キアヌ・リーブス)に呼ばれたマイキー(チャールズ・ベイカー)がバット片手に部屋の奥から現れて階段を昇っていく時の疼くような昂揚、ジェシー襲撃において最初に突っ込んでいくサラ(アビー・リー)が繰り出すパンチの角度および、プールサイドでジェシーを追う彼女のまるで『エクソシスト3』の横切りのような死神の早足、眼前で腹にハサミを突き立てて果てるジジ(ベラ・ヒースコート)をあっけにとられるように凝視するサラの半開きの口の端で歪んだ数ミリの虚無、といった忘れがたいいくつかはやはりダイアログとは無縁の瞬間ということになり、16歳のレクイエムやら審美の王国などと言ったレフンがまことしやかに明かすサブテキストを手探ってみてもどのみち寸足らずに終わるのは目に見えているわけで、結局のところニコラス・ウィンディング・レフンという人は、世界はあまりにも自由で人は暴れざるを得ないという認識をもとに、その“を得ない”と書かれたページの挿絵を描き続けているように思うのだ。リンチが名づけた "Wild at Heart" とおそらく底はつながっている。
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2017年01月13日

人魚姫/チャウ・シンチー・イズ

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広川太一郎の吹き替えを思わず脳内変換するような蒸し暑い香港ギャグを塗りたくったオープングのシークエンスがいったいラストのどんな場面で回収されたか、それ一つ取ってみても、笑いながら暴れる人チャウ・シンチーの緊張と緩和、すなわちゲロと笑顔をいちどきにぶちこんでいく手並みはほとんどウルトラバロックといってもいい過剰の果ての洗練にすらあるように思うのである。前述したオープニングの脱力を経て、シャンシャン(ジェリー・リン)、リウ(ダン・チャオ)、ルオラン(キティ・チャン)の3人が順次なごやかに顔見せを済ませた後で、人魚族の棲み家へ戻ったシャンシャンはリウの会社による環境破壊で傷を負った少年の人魚に薬を与えるのだけれど、全身に負ったその損傷がコメディ映画で何もそこまでやらなくてもというくらいリアルでえげつなく描写されていて、しかしこれもまたチャウ・シンチーにとっては喜怒哀楽の爆風で客の首根っこをつかんでふりまわし、余白から日常が透けて見えるような興ざめなど恥と思えというサービス精神に相違ないわけで、もう後は推して知るべしという百花繚乱であり、武装チームによる人魚族への、排除でも捕獲でもないもはや殺戮としかいえない暴力の噴出も、人魚族長老による逆襲の一撃で壁にボロ雑巾のように壁に叩きつけられる彼らの死に様も、破れたハートで目に涙を浮かべながら水中銃でリウを貫く(しかも3発)ルオランの暴走する純情も、銛を撃ち込まれバズーカが直撃し美しい尾ひれは裂けなめらかな肌も切り刻まれた瀕死のシャンシャンがその力ない視線の先にいったい何を見たのかも、すべてはチャウ・シンチーがお客様のために精魂込めて手配したサービスに過ぎず、しかも全体としては現代中国の深刻な環境破壊への警鐘を鳴らす素振りのうちにあるという狂い咲きだったのである。それはすなわち『ツイン・ピークス』『エイリアン』『ブレードランナー』という前世紀の亡霊がいまだ待望される2017年の、永遠に更新されることのない終わらない日常をほんの100分足らずでも忘れさせてくれるのは狂気と言う名の正気であったという正論に他ならず、そんな映画をIMAX3Dで観ることが叶わない身の不幸を正月から嘆いたりもしたのである。いつの日かチャウ・シンチーとトム・クルーズがタッグを組んでくれないものだろうか。
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2017年01月09日

ピートと秘密の友達/セイントたちのいるところ

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アメリカのイノセンスは孤独を知った魂に宿る、とデヴィッド・ロウリーが再び宣言してみせる。そしてその魂が共鳴する響きこそがアメリカのグッドネスなのだという語りかけが、インディペンデントなクライム・ムーヴィーから、緑色をしたCGのドラゴンが空を舞うディズニー映画へと続く一本の道をあたりまえのようにつなげたことに何だか胸のつまるような疼きをおぼえたのであって、ピート(オークス・フェグリー)を探して夜の空を息せき切って舞うエリオットが、灯りのともった窓の向こうで見知らぬ人間に囲まれて微笑むピートを見つけて目を伏せる姿に、思わずあの夜のケイシー・アフレックを重ねてみたりもしたのである。そして黄金の陽光に向かう逆光のショットは世界を世界たらしめるものへの畏敬を込めたアメリカの原風景となり、リベラルであるとか保守であるとかいった分岐の上流へ向かう懐古というよりは回帰の自然な足取りに思え、おそらくそれはテレンス・マリックがかつて歩んでいながら見失ってしまった道筋のようにも思えるのだ。『セインツ』に続き監督とタッグを組んだダニエル・ハートのストリングスとブルーグラスのスコアも恩寵の調べのような荘厳とたおやかさを寄り添わせ、ボニー・プリンス・ビリーからレナード・コーエンまでをコンパイルした挿入歌のハイセンスにも唸らされる。その中でSt.ヴィンセントがカヴァーしたディノ・ヴァレンティの "Something On Your Mind" についてはやはりカレン・ダルトンのヴァージョンがとっさに耳に忍び込んでくるのを拒めず、となると失われたアメリカーナの歌姫カレン・ダルトンの物語をいつの日か誰かに紡いでほしいという願いがまたしても頭をもたげてくるわけで、ルーニー・マーラ、あるいはジェニファー・ローレンス(『ハンガー・ゲーム』の歌は素晴らしかった)をカレン役に据えたデヴィッド・ロウリー監督作を夢見ることにしたいと思うのだ。大きな笑顔と小さなメランコリーをまきちらすピート役のオークス・フェグリーとナタリー役のウーナ・ローレンスの子役2人がとりわけキラキラとして忘れがたく、特に『サウスポー』でギレンホールの娘役を演じたウーナ・ローレンスの、どこかしらケヴィン・ベーコンを思わせる風情に思わず顔がほころぶ。ディズニーのドラゴン映画ということでスルーを決め込んでしまうのはほんとうにもったいないし、とりわけ『セインツ−約束の果て−』に撃ち抜かれた人であれば絶対に観ておいた方がいいと思う。

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2017年01月07日

ワイルド わたしの中の獣/主に鳴いてます

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アニア(リリト・シュタンゲンベルク)のラストショットに、ああこれは断裁工場からの帰り途、ボリス(ゲオルク・フリードリヒ)の運転するヴァンの助手席で、窓を開けて風を受けながら目を閉じるアニアの見た一炊の夢だったのではなかろうかと、ふだんなら鼻白むであろう夢落ちをむしろ積極的に受け入れる気分になっていたわけで、それくらいこの映画には、ここではないどこか、ここにはいない誰かへの切実な夢想が、夢判断なら舌なめずりしそうなセックスのオブセッションとして溢れかえっていたように思うのである。そのあたりは「赤ずきん」における狼を引き合いにだすまでもなく、そのどちらかと言えば類型的な関係性と、潜在的な抑圧者としての祖父(は「赤ずきん」で言えば狩人か。射撃も祖父に手ほどきされたことをうかがわせる)とその死による解放が彼女の内面を放つことによる承認欲求の復讐といったストーリーが、アニアがダイヴした狂気を整理してしまう気もするわけで、それよりは、ホテルの部屋に閉じこもった2人が精神も肉体も頽廃していく『愛の嵐』の変質を、あの荒涼としたマンションの部屋で狼とともに選んで欲しかったなどと思ってしまう。アニアが現実のくびきから離れていくに連れ、映画が神経症的なミニマルから怠惰な長息を露わにしていく変更には時おりうっとりとさせられはするものの、暴力とセックスの投げやりがなだれ込んでこないのは、たとえば匂いが臭いになかなか書き換えられてかないあたり、監督は奥底でフェティッシュの人ではないのだろうなという清潔な精神が、アニアを新しい人とする妨げになっていた気がしてしまうのだ。むずかる狼の首に縄をつけてマンションの廊下を引きずる姿の、アニアにとっては恋人たちの逃走というロマンスも端から見れば底の抜けた狂気の沙汰なのだというおかしみをふりまいて、ああ、そもそもこれは『クリーピー』的な拉致監禁スリラーとして観るべきだったかと一瞬後悔したりもしたわけで、してみれば「まだまだ行くぞ〜」と彼岸を幻視するアニアのラストも存外に腑に落ちたかもしれないのだった。
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2017年01月03日

アイ・イン・ザ・スカイ/ドローンは踊る

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結局この戦いにおいて西側が戦うのは宗教や民族ではなく自分たちのシステムにほかならないという徒労と絶望は、紛うことなく『4デイズ』の既視感につながっている。生命は地獄の底までも等価であるべきだと謳う世界を目指す戦いにおいて、その合理は生命の軽重を計算することでリファインされるという皮肉なマッチポンプというか自家中毒というか、それに蝕まれていくパイロットの姿を描いたのが『ドローン・オブ・ウォー』であったことを思い出してみても、これが終わらない戦いであるどころか永遠の負け戦であることすらを前提にシステム化されている気がしてくるのである。この映画に時折漂うどこかしら底の抜けた苦笑いは、視えない戦争の洗練が進むにつれ当事者ですらそれが視えなくなってしまっているディック的な悪夢のスラップスティックによるものなのか、そういう醒めきった俯瞰がメランコリーにまみれた『ドローン・オブ・ウォー』と対照的なのは、これが南ア出身の監督による非アメリカ映画というポジションということもあるのだろう。しかし最後にフランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)は、軍人は視るのが仕事であって視えていないのはおまえたち文民の方だと斬って捨てるわけで、彼にナイロビの少女と同じ年頃の子供がいることを告げながら作戦遂行の意志を微動だにしないその姿は、どれだけデオドラントされようがお前たち文民が始めたこれは殺戮によって歩を進める戦争であって、俺たちみんな戦時体制に首まで浸かっていることをお前らはもう一度よく考えてみるべきだろうとする通牒であったように思うし、作戦が成功したにも関わらずネヴァダとロンドンで流された涙は、既に決定的に変質して元に戻ることはない世界への絶望的な思慕であったのは言うまでもないだろう。そんな風にして戦場には泣かない者と泣けない者が残されて、それが新たな合理を生み出していくに違いないのである。個人がどのような思想を持とうがそれを否定するいわれはないけれど、ヘレン・ミレンについて言えば自身でもこの役柄には存外にフィットしたのではなかろうかと考える。トランプにとって最大最高となるオバマの置き土産はドローン戦争のシステムであったことはおそらく間違いないだろう。『4デイズ』で日和ったエンディング(寄る辺なきヴァージョンは日本公開版のみ)を採用した北米の腰抜けをせせら笑う黒くて硬いガッツに溢れた傑作。
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2016年12月30日

2016年ワタシのベストテン映画

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イット・フォローズ
キャロル
コップ・カー
SHARING
或る終焉
クリーピー 偽りの隣人
淵に立つ
エブリバディ・ウォンツ・サム!!
最後の家族
ドント・ブリーズ

すなわち、わけのわからぬ言葉は理解できないというのが、言葉の本質なのだ。それは人間の知性の自己防衛である。ところが、ある光景はたとえはっきりと説明はつかなくても、明瞭であり、理解することができる。そしてそのことが我々の髪の毛を逆立たせるのである。
− ベラ・バラージュ


とでもいう映画が10本。並びは観た順。それにしてもいつにもましてメメント・モリな映画ばかりが揃ってしまったなあという感じ。本来映画はそういうツールだと言えばその通りだけれども、とうに人生の折り返しを過ぎた無意識がそうさせるのだとしたら抗っても仕方がなかろうということで、日々映画によってそれを仮想し予行し粛々と備えていけば、たぶんハッピーエンドが待っているにちがいない。では皆様、良いお年を。
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2016年12月27日

MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間/ウィ・ウォント・チードル

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マイルス・デイヴィスという人が、例えばチャーリー・パーカーやチェット・ベイカーのような破滅型ではないどころか、むしろ凡人を寄せつけない超高圧の理性によってすべてを可能にしてきたことはワタシごときの聞きっかじりがいまさら言うまでもなく、そうしてみると天賦の才を獅子身中の虫と悶え苦しませるべく凡人が天才を自分の陣地に引きずりおろすドラマなど本来マイルスに関してはあてにできないわけで、ならばと隠遁期の空白をいいことに、チェットの映画同様“そうあって欲しいマイルス”を凡人にも理解可能な下世話なハンドルさばきでドン・チードルがドライヴしてみせたわけである。『ブルーに生まれついて』が“そうあって欲しいチェット”を可能にするためにジェーンという女性を作成したように、ここでは音楽ジャーナリストのデイブ・ブレイデン(ユアン・マクレガー)と若きトランペッターであるジュニア(キース・スタンスフィールド)をマイルスの人生に付け加えている。特にジャーナリストであるデイブについてはナット・ヘントフ的なジャズの崇拝者の役割を与えるどころか、自叙伝の中で「オレの物書きへの不信感は、会ったほとんどの連中が気に入らなかったこともあるし、特にでたらめな嘘ばかり書きやがった連中へのそれは強い。言うまでもないことだが、そのほとんどが白人だった」と書いてあることへのジョークのようにも思える薄っぺらの山師としていて、要するに伝記映画でありながらこの映画には信頼できる語り部が存在しないということになるわけで、そこまでしてタガを外さなければならなかったのは、どれだけどん底にいようと、なお我々には及びもつかない現人神マイルスのウルトラさ加減はこうでもしないとわかるまいというドン・チードルの妄執に近い思いがあったからなのだろう。確かにすべての先駆者であったマイルスが、ギャングスタ抗争についても先駆けていたことはわかったのだけれど、それ以上に忘れがたいのはフィッツカラルドにも似たドン・チードルのマイルス愛という狂気で、黒塗りした大泉洋にも似たドン・チードルが身も心もマイルスになりきって演じるその姿は次第にワタシの苦笑いすらを封じ込めていき、ラストシーンのステージでついに現実世界に躍り出てウェイン・ショーターとハービー・ハンコックを従えるに至っては、思わず神をも畏れぬ不届き者と呟いて、おそらくはポール・ハギスに『クラッシュ』で貼りつけられた“途方に暮れた善良な仮面”がようやく剥がれ落ちたように思ったし、「目や手なんかと一緒で、トランペットはオレの身体の一部だった。だから、いつでもその気になりさえすれば、再び吹けることはわかっていた」と言うマイルスがあそこまで惨めに吹けなくなった自身の描写を見たら怒髪天を衝いたにちがいないわけで、それを真顔で演出した監督ドン・チードルおよび真顔で演じたドン・チードルを心底恐るべしと思ったのである。ところであのオルガン・テープは "GET UP WITH IT" ってことでいいのかな。時系列的には遡っちゃうけども。
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2016年12月24日

ドント・ブリーズ/デトロイト最終出口

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「神の不在さえ受け入れれば、人は何だってできる」この箴言とでもいうフレーズはこの夜の闘いで生き残った者において実証され、それが繰り広げられたのが神に見棄てられた街デトロイトであったことでさらに寄る辺なく補強されることになる。盲人(スティーヴン・ラング)とロッキー(ジェーン・レヴィ)による激突の、神の不在を受け入れた者=正当な絶望者はこの世を縛る理性のくびきから既に自由であるというイーヴンが次第に被害者と加害者の関係を曖昧に溶かしはじめ、どれだけ銃声が響き渡りマズルフラッシュが輝こうと誰一人それを知る由もない漆黒のサバービアで繰り広げられるサヴァイヴァルは、奪われた者どうしが互いを引っぺがす内ゲバの陰惨とそれがたどり着いた極北にほのかに聖性すらを宿す始末だったのである。監督のフェデ・アルバレスは『死霊のはらわた』リメイク時に、「(リメイクの理由は)オリジナルの映画が完璧ではなかったから」「現代社会の中に潜む恐怖の要素を入れようと思ったのさ。麻薬の要素を入れたのも、それが理由だ」といった発言をかましたあげく、このジャンルでは0点よりも始末が悪いジャスト50点としかいいようのない凡庸なリメイクを仕上げていたこともあってまったく記憶の彼方の人であったのだけれど、やはりこの人は背景や動機づけからはじめてきちんと設計図を引くタイプであって、『死霊のはらわた』のようにとりとめのないジャムセッションの生み出すフレーズとグルーヴに身を任せるタイプではなかったのだろう。ただ、その前作において唯一刮目したバスルーム戦は計算された不随意が炸裂する忘れがたいシークエンスだったのだけれど、言ってしまえば今作ではそれが全篇に渡って展開されていたわけで、一軒家という空間をフルに利用した高低と奥行きが煽るサスペンスとしては、私的傑作である『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』を思い出させて秀逸だし、盲人が聴覚を頼りに距離を詰めていく感覚の予測できない不穏と不安に、犬による直線的なアタックのコンビネーションをミックスしたアイディアにもまんまと唸らされる。中盤以降、突如隕石のように激突するケッチャム的鬼畜とキング的知恵比べについては口をつぐむけれど、『イット・フォローズ』といいこれといいなぜデトロイトにアメリカは恐怖するのか、ついにはサバービアが転落のフロントラインとなりつつあるその衝撃によっているのだとしたら、ではいったいその先のどこへ逃げればいいのか、これはその混乱と絶望による阿鼻叫喚の遅すぎた始まりである気もするのである。そしてそのすべてを88分におさめたフェデ・アルバレスにはあらためて土下座をしておきたい。ようやくゴースト・ハウス・ピクチャーズにサム・ライミ以外の果実が実ったのではなかろうか。
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2016年12月19日

ローグ・ワン/渚にて

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情報提供者を無表情に屠ったのはともかく、ジェダ・シティの市街戦で帝国軍と抗戦するゲレラの兵であろうと状況のためには躊躇なく撃ち殺すキャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)をみて、サーガ屈指のメメント・モリがたちこめるこの作品の実質的な主役に彼を追うこととしたのである。熟慮の末に選択したわけではない、自身が口にしたようにたまたま6歳の少年が出くわしたに過ぎない大義をよすがに暗闇で両の手を血に染めてきた彼が、ついにその大義を鮮明な旗幟と掲げて燦々と降りそそぐ光の中へ殉じていくその姿に、ジン(フェリシティ・ジョーンズ)よりは彼の物語としてその墓碑銘が刻まれたように思うのだ。そんな風にしてこの映画は、というかギャレス・エドワーズは、帝国と反乱軍の戦いを大義の光が届かない殺し合いと諒解した上で未来に手を伸ばすための踏み台が屍の山でできていることを告げようとしていて、ソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)の死をローグの導火線に、ゲイレン・アーソ(マッツ・ミケルセン)、K-2SO(アラン・テュディック)、ボーディー・ルック(リズ・アーメッド)、チアルート・イムウェ(ドニー・イェン)、ベイズ・マルバス(チアン・ウェン)と繋ぐ死屍累々のリレーはそれがゴールにたどり着くまではと、足を止めて嘆くメランコリーすらワタシ達に許そうとはせず、たとえば爆風に吹き飛んだゲイレンの体はジンとの愁嘆場にふさわしくしめやかに横たわっていたかと言えば、神経が途切れたその体の手は縮こまり足はねじれて転がっていたわけで、そうした溜めのない死からするとチアルートとベイズの死はどこかしら特別扱いに思えてしまったのである。そうやってスター・ウォーズの表舞台ではオミットされてきた寄る辺のなさは、今までずっと不思議だった帝国の巨大建造物や巨大戦艦を可能にする資源と労働力についてもその一端を明かしていて、鉱山やそこに投入される労働資源としての強制労働収容所の存在を垣間見せてもいる。物足りなさがあるとすれば、それはクレニック(ベン・メンデルソーン)がまみれた屈託が燻らなかったことで、正直に言ってしまうとワタシは主人公としてのジンにさほど魅力を感じておらず、それよりはキャシアンとクレニックの反共鳴を見たかったなどと思ってしまうのだ。巷間あれこれ囁かれているけれど、あの終末の恋人たちとでもいう最期はギャレス・エドワーズのロマンチシズムそのものだったと思いたい。ところで、チアルートがトルーパーに向かって言う「彼らを通してやれ」がマインドトリックネタのギャグだったのかどうなのか、いまだにわからないのだけれどどうなんだろう。
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2016年12月17日

誰のせいでもない/Nobody's Fault but Mine

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自身にとって呪いの象徴となったフォークナーのペーパーバックを、そのページを破っては暖炉にくべながら「あなたはフォークナーは好き?」と訊ねるケイト(シャルロット・ゲンズブール)にトマス(ジェームズ・フランコ)は「好きでもきらいでもない、他の作家には興味がない」と答えるのだけれど、かつてヨーロッパ的独我論の彷徨から抜け出すためにアメリカを目指したヴェンダースが『パレルモ・シューティング』での写真家に続いて今作では作家という、普遍性を担保するにはいささか近道をしたような設定と造形に、アメリカ期のヴェンダースであったなら好きかきらいか主人公にはっきり答えさせたのではなかろうか、ああ、またこの霧の中から始めるのかと少しばかり面倒な気分になったのが正直なところだったのである。とは言え、独善と偽善を霧散させるのではなくそれらをままに俯瞰することで道を歩きだすトマスの変形そのものは興味深く、ある人物によるその正体/実像を暴かんとするサスペンスが不穏を煽るあたりはハネケやエゴヤンへの舵を一瞬思わせたりもするのだけれど、ヴェンダースが世界を修復しないはずはないのであって、非常にぎごちなくはあるけれどそれは果たされたように見えるのである。しかし、ある不幸な出来事によって半ば強制的に深淵をのぞき込まされ、それによって新たに変形した精神の奥行きを手に入れるという筋立てだけを取ってみれば『永い言い訳』を思い浮かべたりもするのだけれど、あの映画で幸夫と大宮一家が過ごした時間をこの映画はトマスとクリストファーが語り明かした一晩に凝縮させつつ、そこで語られたことについては明かされないままなのである。そもそもトマスは、特に事故の後では肝心なことについて時には不誠実とも思える態度で押し黙ってしまい、おそらくそれは失われた生命への贖罪というよりも、その出来事によって変形したことで新たにつながったシナプスが手に入れた思考をふりかざす作家としての欲求と、その入手元に対する呵責の板挟みによっているのだろうし、サインを求めてクリストファーが差し出す自著のうち ”Nowhere Man” と ”Lucky” のタイトルだけがこれみよがしに映されることで、クリストファーもそれに気づいていることを告げていたことを考えると、あの夜をトマスにとっての告解と理解するのが自然ではあるのだろう。ただ、憑き物が落ちたような翌朝の表情からは、その夜を経ることでトマスが作家として手放したものと一人の人間として手に入れたものの収支は判別できないままではあるにしろ、それをジェームズ・フランコという俳優が醸す誠実から背を向けるのもまたひとつの生き方なのだという佇まいがざわっと揺らすことで呼び込んだ不思議な清冽に、やはりヴェンダースは正直を譲れない人なのだなあとあらためて感じ入ったのである。現象ではなく感情の奥行きを増幅する装置としての3Dが“隔てられた向こう”の幻視を拡張していて何度か小さくため息が出た。そしてやはりのエドワード・ホッパー・ショット。とは言えRealDはやはり絶望的に暗すぎて、そのことがいっそうのメランコリーを誘っていたのでなければいいのだけれどと思う。
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2016年12月12日

最後の家族/世界の終わりとハードボイルド・ポーランド

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ポーランド映画祭2016

18歳にしてMITの正教授となりアンドリュー・ゴロタ(ポーランドの狂犬的ヘビー級ボクサー)と空手黒帯の強さを同時に兼ね備えたアリシア・シルヴァーストーンに、腹を蹴り上げられ頭に2時間ほどまたがられて顎を締め上げられた後、腕と足をへし折られてはその都度絶頂に達し、最後には痙攣して絶命するメタ・リアリティのヴィジョンを嬉々として語っては、分厚いハンバーガーにかぶりつく75歳。それがズジスワフ・ベクシンスキーという画家のまとうなんらかの特異性の一端であるとするならば、劇中で自身が言及したゆるぎない恒常性がそれに該当することになるのだろう。それは内部と外部、あるいは空想と衝動の完全な調和と同居とでもいえばいいのか、彼は一切の外部ドーピングを必要とすることなくあの損壊と決壊の痕跡が結晶化したマニエリスムを日常のありふれた作業として作品化して過ごしていて、闇と光が互いに侵食する前線にのたうち回ることであの心象を生み出しているわけではまったくないのである。この映画はそのベクシンスキーを家長としたホームドラマなのだけれど、前述したように完璧な恒常性をたたえたベクシンスキーが自らのアーティストエゴでヒステリックに家族をなぎ倒すシーンなどこれっぽちもないどころか、良き父、良き夫、良き子として、精神の不安定な息子トメク、最愛の妻ゾフィア、同居の実母と義母に対して献身的といってもいい日々を淡々と送り続けるのである。しかし、たった一度だけその家庭内のバランスがクラッシュする瞬間があって、母ゾフィアが掃除したばかりの息子トメクの部屋を何やら癇癪を起こしたトメクが完膚無きまでに滅茶苦茶にしてしまうシーンで、例えば机の上を掃除するにしても、そこに載っているすべてのあれこれをどかして綺麗に拭いた上で以前の配置を精確に再現し直す神経症的な段取りに、この家庭ではトメクの引き起こす緊張が日常に収れんされていることがうかがえるのだけれど、この時、そうした厄介な掃除を終えて一人煙草をくゆらすその目の前でトメクによってその成果を壊滅させられたゾフィアは、それまでに見せていたすべては起こるべくして起こったことだから仕方がないといった顔を捨てて、初めて怒りを顕わにしながら倒れた家具を引き起こし復旧につとめるのである。その時ベクシンスキーは何をしているのかと言うと、入手して以降、記録魔のように片時も手放すことのないヴィデオカメラでそれを撮影し続けているわけで、しかしそのことを咎め立てするでもないゾフィアは彼のメタ・リアリティに自分たちが存在していないことをおそらく知っていて、一方のベクシンスキーはといえば自分以外の人間に生じるリアリティとメタ・リアリティの内輪差を興味深く意識することはあってもそれを自身に顧みることをしないのは、その内輪差を自身に認めたことがないからなのだろう。義母、実母、妻、息子とまわりの人間が命を落としていなくなっても、彼はその恒常性によって瞬時に自律し取り乱すそぶりさえ見せないわけで、もちろんそれら諸々をもって彼を精神の怪物と糾弾し非難するいわれはこれっぽっちもなく、彼の作品(=メタ・リアリティ)に頻出する最後の世界における最後の一人への願望がリアリティを呼び込んでいく孤絶のメランコリーがとてつもなく哀しいと同時に、にこやかにそして飄々と地雷原を歩いて行く姿にはどこかしらのおかしみを感じたりもしたのである。彼の結末については悲劇的なアクシデントとして知ってはいたけれど、この道行きの果てに訪れた出来事として考えてみると、すべての家族を失った彼がやはり恒常性の鎧で守られようとした瞬間、ではこういうリアリティはどうだね?と差し出される何かしらの采配であった気もしてしまうわけで、めった刺しされるナイフを力なく避けようとかざされる彼の腕のはかなさと頼りなさをリアリティと生きるしかないワタシたちの凡庸と滑稽をあらためて突きつけられた気もしたのである。エンドロールで流れるThis Mortal Coil "Song to the Siren" の 'Did I dream you dreamed about me?' というフレーズが残響し続ける有終の傑作。
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2016年12月10日

聖の青春/羽生のように舞い、村山のように刺す

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村山聖という将棋指しの伝記物語には違いないのだけれど、事実の叙述的な再現というよりは村山聖(松山ケンイチ)と羽生善治(東出昌大)という駒を盤上に叩く音の震えを記録することを目指したような、与えられた持ち時間を焦がすように格闘する緊張に満ちた覚え書きであった。基本的には座った人間が喋ったり押し黙ったりするばかりの映画であるにも関わらず、気がつけば熱の疼きが急くようであったのは、まるで熱暴走するCPUのような村山のみならず、怜悧の人と描くかと思われた羽生が孤高ゆえの屈託を負けじと燻らせていたからで、全体として俯瞰するバランスを少々欠いてなおこの2人が互いを鏡像に恍惚と微笑み慄然と立ち尽くす物語を貫いた点で、村山聖の29年が闘うことと分かちがたい人生であったこと、しかしそこには病魔との闘いだけではない幸福な闘いがあったことを記憶しておいて欲しいという願いが溢れていたように思うのである。ただ、誰もがその結末を知っている展開に加え、メインとなるのが端から仕上がっているキャラクター達であるがゆえ上昇や下降の段差がつけづらいこともあるせいなのか、何者にもなれなかった棋士の総体として江川貢(染谷将太)というフィクショナルなキャラクターが用意されていて、闘いを止めることがそのまま人生の死を意味する村山の、闘いをあきらめた者に対する怒りや侮蔑をぶつけられるサンドバッグになったりその普通ゆえ将棋のルールから遠い観客の視点を請け負ったりもするのだけれど、さすがに染谷将太であれば空気を乱すわけなどないにしろ、江川の紋切りは空気を停滞させてしまうことにもなり、村山聖の対照物としては寸が足りないこともあって少しばかり策に溺れた気がしてしまうのである。ワタシは若き神々の黄昏だけを見つめていればそれで充分だった。
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2016年12月08日

ブレア・ウィッチ/振りかえらずに俺を見ろ

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密室芸の人アダム・ウィンガードとしては、「森」を囚われの密室に見立てることでこの負け戦ともいえる続篇に勝算を見出したのだろう。ただ、無邪気な若者たちが知らない間に少しずつ「森」に喰われていく姿の残酷ショーがBWPの真骨頂だったことを考えると、「森」が自分たちを喰うことを彼らもワタシたちも知ってしまっている不利は否めないわけで、ならばとドローンやGPSをはじめとするテクノロジーのアップデートで合理が不条理を迎え撃つ展開に持ち込むことで、例えば「エイリアン」と「エイリアン2」の展開のように徹底して開き直ってしまえばよかったようにも思うのだけれど、この映画の目的があくまでも「家」であった点で「森」が手続きにしかなり得なかったのが序盤の停滞を呼んでしまったのではなかろうか。木に引っかかったドローンを取ろうとしたアシュレイ(コービン・リード)の指が、突然回り始めたそのプロペラによっててっきり切断されるものだとばかり思っていたワタシをそういったゴアはこの映画のマナーに反するとばかりたしなめるようないなし方には少々萎えたりもしたし、せっかくキャンプに監視カメラを設置したのだから、魔女ではないにしても使い魔的な何かがうごめく様子ををチラとでも映しておけばこの映画が『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』ではなく『ブレア・ウィッチ』へと舵を切った意味がはっきりとしたようにも思うのだ。とは言え、そうやって何とか「森」を抜けた後で現れる「家」の真打ち感は格別で、轟音で流れる時間の奔流に呑まれてボロ雑巾のように時空の壁に叩きつけられながらも姉へザーを求めて一歩も怯むことのないジェームズ(ジェームズ・アレン・マキューン)の「このために来たんだから!」という絶叫にはどこかしらの崇高さすらおぼえたし、一方で時空のねじれに囚われたリサ(カリー・ヘルナンデス)の地下通路大脱出は閉所恐怖症気味のワタシにとって責め苦以外の何ものでもなく、作劇としての機能とは別筋ながら心臓を鷲づかみにされつつ鼻と口を塞がれた気分の、これがなお続くようだったらもう目を伏せるしかなかろうというところまで追い込まれたのである。閉所恐怖症についてはいったい何に起因するのか心当たりはないのだけれど、中学生の頃に教科書で見た産業革命時代の炭坑で働く少年の図版がセットで頭に浮かぶことだけは確かなのだった。そして最後の最後、なぜあの「家」の中に居る者は部屋の隅で壁の方を一心不乱に向き続けるのかその理由が明らかにされるわけで、正直言ってそれについては知りたくもあり知りたくもなしといったところではあって、とは言えそれを告げる覚悟があったのならばそこに至る道筋でBWPへの忠誠をかなぐり捨ててしまっても良かったのではなかろうかと、いささかの悔いが残るのは確かなのだ。人智のルールがまったく適用されない「家」の絶望が残した爪跡が、名状しがたい深さをえぐっていただけになおさらそう思ってしまう。密室芸の人アダム・ウィンガードへの信頼度はいっそう増したのだけれど。

※これが例の産業革命哀史
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2016年12月06日

マダム・フローレンス! 夢見るふたり/キジも喚けば撃たれまい

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フローレンス・フォスター・ジェンキンスという女性については、名著「ソングス・イン・ザ・キー・オブ・Z 〜アウトサイダー・ミュージックの巨大なる宇宙」の中で、ザ・シャグス、ヤンデック、ダニエル・ジョンストン、ザ・レジェンダリー・スターダスト・カウボーイといった殿堂入りの面々と肩を並べつつ語られていたこともあり、“勇敢にルールを破るのではなく、ルールの存在すら知らない”人たちの一人として最初に出逢ってしまっていたものだから、牙が抜かれたフローレンス(メリル・ストリープ)の人情喜劇に矯正されていたら残念だなあと思っていたのだけれど、そこはそれ、さすがのスティーヴィン・フリアーズであって、彼女を世情の無菌室でしか生きられないプリンセスとすることで、彼女にかしずくシンクレア・ベイフィールド(ヒュー・グラント)やコズメ・マクムーン(サイモン・ヘルバーグ)といったナイトたちが一人の女性の性善を守るべく奮闘する忠誠と奉仕によって、皆に救いが降り立つ物語へと、鮮やかに舵を切り替えてみせている。いつものヒュー・グラントであれば、フローレンスの財産を目当てに寄り添っているうちに彼女のピュアネスによって心を入れ替えるような役回りを定形とするところが、彼の演じるシンクレアはシェイクスピア俳優としての挫折という自身の屈託を見え隠れさせながら公認の愛人キャサリン(レベッカ・ファーガソン)との二重生活を行き来し、しかしその人生をフローレンスのバックアップに全身全霊で賭した男のうかがいしれない奥底を絶やさぬ笑顔につつんでみせて、この英国男子の暮れなずむダンディズムは今後のさらなる黄金期を予想させる。おそらくシンクレアは、コズメ・マクムーン(サイモン・ヘルバーグ)の中に自身に通じる屈託の香りをかいだことで戦友に引き立てたのだろうし、上流階級の有閑とタカをくくっていたコズメがフローレンスの無手勝流ながら絶やされることのない真摯な衝動に琴線が弾かれる瞬間を泣き笑いのようにとらえたサイモン・ヘルバーグが、メリル・ストリープとヒュー・グラントという怪物と互角に渡り合ってみせたことは特筆されるべきではなかろうか。レベッカ・ファーガソンは『ガール・オン・ザ・トレイン』に引き続き想定の範囲内のさざ波といった感じで、出番の少ないアグネス・スターク(ニナ・アリアンダ)がその一喝だけで場をさらったのに比べると、使い勝手のいいスーパーサブという印象につかまり始めているのが気にかかる。
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2016年12月05日

エヴォリューション/スペイン坂でつかまえて

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散りばめられる静脈の青と動脈の赤、骨のような白い家、器官としての母、そして少女なき世界で子宮となる少年。追い立てられるように羽化させられては社会的な生き物となるよう要求される女性の怖れを結晶化した『エコール』の、これは逆転というよりは進化(=Evolution)と言えばいいのか。繁殖の哀しみ、記憶への憧憬、生の欺瞞と死の正当、それらが誘うここではないどこかへの脱出は、『エコール』同様に少年を城壁の外へと連れ出すのだけれど、新たな城壁としてそびえるスカイラインは未来が後ろ手に隠し持つ悪意を予感させて、羽化よりは青虫の猶予を切望する男性へのささやかな呪いであった気もしたのである。そしてそれは、リンチ、クローネンバーグ、塚本晋也、ラブクラフトといった幻視者たちへの正統な忠誠を誓うことで監督が手に入れた、世界の舞台裏へ向かう扉の鍵と鍵穴の睦み合いであったようにも思え、その鍵穴から覗く眼差しこそは、最近観た映画の紐づけで再読した本の中で著者が引用したジョージ・スタイナーの“解釈のプロセスに自らの存在を投入している”表現者による“それらが属する継承およびコンテクストについての、解説的考察と価値判断を体現している”行為であって、その結果として生まれた“芸術作品の最良の読解はすなわち芸術である”この作品だったのではなかろうか。観ている間、監督の幻視の記憶を通してまるで胎内回帰でもしたかのような安寧にずっと包まれていた気がするのはそうした理由によっているのだろうし、そうやってどこまでも三つ子の魂を遡上しているうちに、その行き着く先はセゾン文化が伝播したポストモダンであって死ぬまでそこからは自由になれないことを再認識したのである。それだけに、シネマライズに間に合わなかったことの悔いが残る。
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2016年12月02日

ブルーに生まれついて/愛より高くて遠い音

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チェット・ベイカー(イーサン・ホーク)とジェーン(カルメン・イジョゴ)が互いを引き寄せるシーンは、明らかにウィリアム・クラクストンの撮ったチェットとハリマのポートレイトをモチーフにしているにも関わらず、ではなぜ彼女はハリマではなくチェットの人生には実在しなかったジェーンという女性に置き換えられていたのか。それはおそらく、チェットの人生にはジェーンに象徴される、彼の母を更新する母性としての女性が決定的に欠落していたことが彼にとっての不幸のいくばくかであったことを告げているように思え、ハリマではなくジェーンという存在を書き加えなければこのチェット・ベイカーのパラレルなファンタジーは成立し得ないということになるのだろう。そうやって虚構を入り乱れさせてまで監督が語りたかった物語というのは、ジャズという剥き出しの随意が直結した(と幻想される)音楽においてチェットのトランペットと歌声はなぜその随意を欠きながらも純粋な空気の震えとしてこうまで世界が忘れがたく成立しうるのかという疑問、それを口さがなく言い換えてみた時の、結局彼は「天からの才能を授かっただけの、単なるろくでなし」に過ぎないのだというジャッジへの、彼が内在するブルーズを描きその回答とすることで繰り広げる反論であったように思えるわけで、バードランドの楽屋において彼のデーモンとしてのワンショットを胸が張り裂けそうに哀しくてやりきれない言い訳として描いてみせたことに、それは明らかすぎるほど明らかだったのではなかろうか。チェットにあの誘惑を断ち切れるはずなどないことを嫌というほど知っていながら、あえてそのサスペンスを映画のクライマックスにあてがった監督の、チェットはジャンキーというよりは精神のダイバーだったのだとすら言いたげな口ぶりにはもはや降参するしかないだろう。そういった監督のどこか遠い目をした狂気に共震するかのように、青白い炎で焼きを入れたメランコリーで世界を辻斬りしていくイーサン・ホークは卑屈にもこれだけ甘美な角度があることを諭すかのようでもあり、こちらをじっと見つめ小さく笑いながら深淵に沈んでいく気高さはまさに独壇場であったとしか言いようがない。いつどんなタイミングでかはわからないけれど、トム・ウェイツを演るのもイーサン・ホークであるのだろうことも確信した。
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2016年11月30日

シークレット・オブ・モンスター/ライオンは寝ていた

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※ネタバレ気味なので未見の方スルー推奨

プレスコット(トム・スウィート)がおねしょした夜に見た夢が予知夢めいた啓示であったことは最後のシークエンスではっきりと告げられており、ということは既にその時点でプレスコットの未来は決定されていたことになるのだけれど、それにしてはセックスのオブセッションめいた環境決定論的な散らかしが少々常套に過ぎないかなあと思っていたところが、大人になったプレスコットのヘルムート・バーガーめいた怜悧な美貌など待ちかまえていてみればまさかの!によって、すなわちプレスコットはそういう子供であったのだと告げられた瞬間、呪われたセックスの子として父と母の爛れに中指を立て「もう祈りなんか信じない!」と絶叫するプレスコットの反逆がきりもみしながら腑に落ちたのである。そうしてみると「或る独裁者の幼年時代(THE CHILDHOOD OF A LEADER)」という突き放したような原題の方が好みではあるにしろ、ある一面のケレンを押し出した邦題もあながち的はずれというわけでもないわけで、とは言え、例えばロウソクの炎が燃え移りそうで燃え移らないシーンの、一度動き出した歴史は善にしろ悪にしろ見て見ぬふりをするものだというメタファーの饒舌は、前述したとりつく島のないオチへのアリバイめいたデコレーションにも思えてしまい、到達した飛距離のわりにその快哉を叫びづらいのはその測定方法のややこしさゆえである気がしないでもないのである。自分が匂わせたい香りがきちんと客席に届いているのだろうかという心配性と貧乏性が余白にまで香りをつけてしまっているように思えてしまい、監督の敬愛するミヒャエル・ハネケの完璧にデザインされた余白と、それによってワタシたち観客が逃げ場なく支配下におかれる被虐を愉しむには、この監督は切羽詰まり過ぎているのではなかろうか。ただ、ショットの深度や角度は相当デリケートに計算されて達成をみているので、スコット・ウォーカーの呪術的と言ってもいいエクスペリメンタルなオーケストレイションとの交歓を映画館のサウンドシステムで体験するだけでも確実に料金の元はとれるわけで、この映画が「OK!始めよう」というスコット・ウォーカーのかけ声から始まることを考えれば、むしろそうした愉しみ方がもっと喧伝されて然るべきだとすら思うのだ。それにしても、いったい何かの煮込みなのか何なのか、あの顔色の悪い料理は餌としか言いようのない絶望を漂わせて、プレスコットがぐれるのもやむなしと思える逸品に見えた。母(ベレニス・ベジョ)の理不尽な癇癪で馘になった家政婦モナの、ご一家を破滅させることに残りの人生を懸けます、という鈍器のような捨てゼリフをいつか機会があれば使ってみようと心に決めた。
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2016年11月26日

この世界の片隅に/わたしの名前を告げる声

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原作未読。お兄ちゃんの代わりに海苔を納めるおつかいに出たすず(能年玲奈)が、船に乗っている間下ろしていた風呂敷の荷物を背中に背負う船着き場の場面、別にこのシーンのないまま石段を上がって行く後ろ姿につないでしまったところで何の問題もないのだけれど、8歳の子供が大きな荷物を一人で背負い直すにあたり、石垣に荷物を自分の背中の高さに押しつけておいて、その力を緩めずに自分の背中をあてがいながら胸の前でしっかりと風呂敷の端を結わえてみせわけで、この一連から『風立ちぬ』の二郎が製図台に向かうシーンの異化作用など思い出して、こちらの胸ぐらをぐいとつかまれて引き寄せられた気分になる。と同時に、すずの仕草は非常に危なっかしいながら大方の期待に反して失敗することなく一人で荷物を背負ってみせるわけで、そんな風にただでさえ危なっかしく見えるすずが、なお危なっかしくならざるを得ない時代をかいくぐるには感情も体も何しろ動かさねばならず、何よりその違和をコントロールするアニメーションの生みだすサスペンスにおいて快感と愉悦をおぼえたのである。しかしその紙一重の寸止めはいつしかすずの頬をかすめることになるわけで、精神と肉体の一部を失ってなお、でも生きていて良かったというあきらめにこちらも染まりかけた瞬間、良かった?良かったってどういうことだよ、良いことっていうのは好きな絵を描いて家のみんなが笑っていれば過ぎていく日々のことだろう、そうやって良いことを奪っていくのは悪い何かでしかないし、いったいこのことの何が良かったのか。すずは直ちにその正体を戦争と名付けることはしないのだけれど、自分や大切な人たちを傷つけ破壊しようとする感情や意思の存在を現実として知ることで、それまですべてを肯定して生きてきたすずが否定を宿してしまう悲劇と絶望を戦争のミクロとして描いているのは間違いないにしろ、今となっては戦争や戦時が正気でないことなど既に承知の我々にとって、悪を悪と吐き捨ててひととき気を晴らすよりは蹂躙への本能的な吐き気で酩酊させる中毒がより有効であったのは、この映画がサイケデリックともいえる変性による後引きが生む余白を狙ってメッセージを転写していたことに明らかに思え、そうやって手段と目的が際どいところで時折入れ替わるスリルを映画の昂奮としたのがワタシの正直なところであったのである。孤児との出会いを導くシークエンスの凄惨はほとんど「アシュラ」のそれで、劇中で描かれるあの最初で最後の死体(道端にしゃがんでいた彼があの時点で亡くなっていたかどうかワタシにはわからない)が描かれないけれど亡くなったすべての人たちの代弁であったことを思えば、その怒りと無念を焼結したような容赦ない描写にもうなずけるし、そうやって最後の最後でつきつけるメメント・モリが“死ななかった人たち”を“生きる人たち”へと描き換えていたのではなかろうか。「呉のみなさん、がんばってください」というラジオアナウンスの無責任こそが戦争であった。
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2016年11月23日

ガール・オン・ザ・トレイン/わきを締め、えぐりこむように刺すべし

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※おそらく結末を予想させるので、鑑賞予定の方スルー推奨

わたしたち3人がいなかったらあんたなんてただの哀れなインポ男じゃない!と彼女が叫んだ瞬間、レイチェル(エミリー・ブラント)、メガン(ヘイリー・ベネット)、アナ(レベッカ・ファーガソン)の3人が、それまでの信頼できない語り部から真実の贖いを要求する刺客へと一気に血を逆流させていくこととなる。誰が彼女を殺したかという犯人探しのサスペンスについては、どでもいいと言ったら言い過ぎだけれどもどちらかと言えばオマケのようなもので、人生に操られる木偶として他者を求め依存してきた女性たちがどん詰まりからの失地回復を目指すにおいて、その地獄めぐりで流す血と涙をぬぐう姿の寄る辺なさこそがこの映画の動脈として脈打っていたのではなかろうか。それだけに、狂言回しとして終始這いずり回るレイチェルの狂態はまるでエミリー・ブラント版『失われた週末』のごとき様相を呈していて、この映画のほぼ2/3はブラックアウトによる時制の酩酊そのままに目の縁を赤く染めてタッチ&ゴーを繰り返し、『ボーダーライン』でもそうだったようにこの人は逃げ場なく追い込めば追い込むほど被虐で瞳が濡れそぼつように思うのである。レイチェルが酩酊に抗うことで、彼女の譫妄の存在としてのメガンとアナは実体を伴い息づかいを露わにし始め、それによってある殺人の記憶が意識の泥沼から犯人をサルベージするというニューロティックな構造はなかなか刺激的ながら、それゆえフーダニットが開示の手続きにとどまってしまうことでミステリとしての歩留まりは少々控えめにならざるを得ないわけで、それよりは永遠に勝どきをあげることのない夕闇の『デス・プルーフ』として、3人の女性が自身の立つ風景と刺し違えていく姿が胸を衝くことを監督は望んだのではなかろうか。この3人の対極で仁王立ちするライリー刑事(アリソン・ジャネイ)が共闘にしろ嫌悪にしろ、その造型に反して踏み込みが甘かったのは少しばかりもったいない。ヘイリー・ベネットは『ギフト』のころのケイト・ブランシェットを思い出させるメランコリーと、ジェニファー・ローレンスの肉厚との危ういアンバランスで、この映画で屈指の飛距離を叩き出していたように思う。同じブロンドのレベッカ・ファーガソンはその分だけ割りを食った。
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2016年11月18日

エブリバディ・ウォンツ・サム!! /きみのハートを名古屋撃ち!

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ついこのあいだの水曜日、何十年もの間アメリカから生まれた映画を観て音楽を聴いて本やマンガを読んできたくせに結局オマエは何もわかってなかったってことだよなと言われて、ハイそうですとうつむいて答えるしかなかったものだから、いずれ自分の足で立ってどこかへ向かうことが国民の義務というか強迫観念となっている人々の“だからこそいま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ(片岡義男)”という気分が嘆息するメランコリーの、しかしそれを拒絶するばかりの怒りや憎しみでかき乱すことをしない、青い空のような上澄みをすくってはぶちまけて歩くこの映画に心底救われたのである。彼らはスクールカーストでいえば最高位のジョックスでありながら、その優位性と役得は充分に自覚しつつも彼らはこれが人生の単なるいっとき、モラトリアムに過ぎずやがて終わりの来ることを知っていて、それゆえこの時間を慈しむようにしゃぶり尽くそうとするわけで、それに忠実である限り他人を否定も差別もしないのである。そうやってことさら敵を定めることなく自己批評のじゃんけんでグルーヴしていくあたりが80年代的というかリンクレイター的であって、それをナードではなくジョックスにやらせるというアイディアが、シニカルだけどユーモアを忘れず、女の子には敬愛の笑顔で迫り、ディスコもカントリーもパンクも食わず嫌いなく身を任せ、髪を伸ばし髭を生やし、屈託をけとばし、そしてなおかつ野球が上手いという、ありそうでなかった青春無双のファンタジーを可能にしたんだろう。コステロとかトーキング・ヘッズはどうよ?ディーヴォとカーズもいいよな、って言ってる彼のレコード棚にはニール・ヤングのベスト盤もちゃんとあるわけで、そういう筋の通ったロック少年の純情もいちいち愛おしい。60年代の『アニマル・ハウス』から80年代のここを経て、果たして2000年にこの桃源郷が受け継がれているかどうか考えてみると、ネットが接続したものと分断したものが否が応でも浮かび上がってくるように思うのである。ああ、もう一度観たいというよりは、もう一度あいつらに会いに行きたい。たぶんこれが最愛のアメリカ。今年のベストテン入り決定。
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2016年11月17日

われらが背きし者/哀・アマチュア

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『ジャック・リーチャー』でも気になったのだけれど、追う側がとりつく島のないほどの手練れであることによってサスペンスが成立する逃亡劇の場合、逃げる側のリーダーかそれに準じる者、要するにプロフェッショナルが周囲のアマチュアに対して携帯やクレジットカードの使用を禁じるよう縛りをかけておくのは基本中の基本であって、あらかじめそうした描写さえあれば、そのルールを破ることによる状況の破綻がドラマのエモーションにつながることもあるだろうけれど、この映画における終盤の破局を呼んだある行為が、仮にもMI6の要員が指揮する非常時においてザルのような底抜けで行われてしまう杜撰に鼻白んだのは言うまでもないわけで、合理と感情のせめぎあいから滴る血の涙でエスピオナージと綴るのがル・カレなのではないかと、それは詰問口調にもなろうかというところだったのである。いやこれは、寄る辺なき世界の暗闘が流す血の愉悦によって中年夫婦の倦怠が救われるメロドラマなのだと言われればそれまでで、血で汚れた金で豪奢を尽くした男ディマ(ステラン・スカルスガルド)が口にする信義という言葉の欺瞞に思いを巡らすこともないまま、思春期の少年少女のように高揚して走り回ってしまうペリー(ユアン・マクレガー)とゲイル(ナオミ・ハリス)の間抜けさと愚かさを指差していればいいのだけれど、ル・カレの映画でそれをやる意味がワタシには理解しかねるのである。ロングリッグ(ジェレミー・ノーサム)に唾するヘクター(ダミアン・ルイス)の私闘とも言える非正規の作戦にルーク(ハリド・アブダラ)とオリー(マーク・スタンリー)はなぜ身を投げ出すのかについては一切描かれず、初めて人を殺した(しかも射殺である)ペリさーの呵責も(『わらの犬』的な)昂奮もまったく手つかずのままだし、となればゲイルの心情も実に都合よくペリーに寄り添っていくばかりの書割りに過ぎないのである。どれだけ手管に長けた脚本家とカメラマンをセコンドにつけたところで自分の殴る相手が誰なのか監督が分かっていなかったら、いくらファイティングポーズをとったところで意味のないことの何とも残念な証明であった。
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2016年11月15日

ジャック・リーチャー NEVER GO BACK/きみがよければそれがいい

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もはやトム・クルーズとヒロインはハグすらしないのだけれど、トム走りをする自分の傍らをターナー少佐(コビー・スナルダーズ)に一度ならず走らせて、その息の合わせ方が大人のプラトニックここに極まれりと言う感じで、とても気分のいい追い風に乗っていたように思ったのである。トム・クルーズという人は、自分がスクエアなハンサムであることの俳優としてのメリットよりはデメリットをいち早く承知した上で、たとえばミッション・インポッシブルシリーズにサイモン・ペグを準主役扱いで投入し、かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろうと自虐し笑い飛ばすスラップスティックを書き加えることでフランチャイズのマンネリと硬直をみごとに回避してみせたのは言うまでもない。一方このジャック・リーチャーシリーズは、その手管に味をしめたトム・クルーズがかっこいいことはなんてかっこ悪いんだろうという金言を踏まえた上で、その先であえてかっこいいことをやってみたらいったい何が生まれるのだろうという実験的な試みに挑戦しているわけで、前作『アウトロー』ではばらまかれた画鋲の上を裸足で疾走しては悶絶するネジの外れたアナーキーを生んでいたのだけれど、今作では「パパと呼ばないで」型の疑似と人情の家族アクションへといきなり針を振って父性を足枷とされたジャック・リーチャーが悪戦苦闘するという意表のつきかたで、若い若いと思っていても考えてみれば花嫁の父くらい演じてもあたりまえな年齢ではあるのだなあと、ラストでスクリーンに大写しになったその顔の、50男らしい疲れと翳りをさらけだしながら静かに微笑む善き人が、西日のように眩しくて何だか切なかったのである。というわけで、闇の処刑人水戸光圀漫遊記のようなシリーズになるかと思いきや闇の処刑人フーテンの寅としての奥行きも可能なシリーズであることがここに自明となったことを思えば、俳優トム・クルーズのドキュメントとしてもこのフランチャイズが続くことをなおさら願ってやまないのである。それにしても、オルガ・キュリレンコ、エミリー・ブラント、レベッカ・ファーガソン、コビー・スナルダーズと並べてみた時の、凛とした眼差しのヒロインをチョイスするトム・クルーズの審美眼は特筆されるべきで、この分野最強となる塚本晋也監督には及ばないにしろ、お前はオレかと今作も唸らされたのであった。
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2016年11月11日

溺れるナイフ/あまりおれを悲しませるなよ

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長谷川航一朗(菅田将暉)、望月夏芽(小松菜奈)、松永カナ(上白石萌音)、大友勝利(重岡大毅)という4人の少年少女の物語でありながら、序盤の放課後以降、4人が顔を揃えることはないのである。その教室のシーンで4人を行き交うカメラの痙攣するようなリズムはその後の激情を予感させるに十分で、夏芽と航一朗が奏でる魔術的な幻想、夏芽と大友の身の丈が揺らす日常、その両者を巫女の眼差しで行き来するカナ、といった三すくみを幾度も綿密に重ねたリハーサルの後の一発撮りのような熱っぽいヴィヴィッドで切り取っては、あたし達は最強で負けるはずなどないけれど、果たして今はどれくらい勝っているのだろうかと、全能の100と失意の0の間を50の大凡など経由しないピーキーなコース取りとスピードで疾走していく。中盤以降、二度目の火祭りを消失点に定めたことでそれまでの無軌道があたりに気をめぐらし始め、まあそれもやむなしかと思っていたところが、16歳のヒロインが血を求めてヒーローに絶叫する祭りの夜に横っ面をはられたのである。夢うつつの夏芽は祭りの音に意識をなぶられながら、1年前の夜にかけられた呪いが解かれつつあることに全身で感応していき、その儀式を完遂するかのように一心不乱で憑かれたように踊る航一朗との呪術的なクロスカットには、自分が今どんな映画を観ているのかこの際どうでもいいと思わせる催眠性を感じて、一瞬、航一朗のかざす松明の火に目を焦がされた気すらしたのである。その数十分前、大友と夏芽が触れるようなキスをするシーンに客席のあちこちで小さくキャッと声をあげた彼女たちがこの強烈な異化をどう受け止めたのか知る由もないにしろ、監督が終始煽りまくっているのはワタシのようなオッさんではなく夏芽のクラスメートのような彼女たちの青い倦怠であるのは、美しくかしずく発火装置として誂えられた航一朗や大友を見るに明らかで、『殺してええ!』という夏芽の絶叫と血の付いたナイフに昏い疼きが発火したとすれば、監督の目論見どおり青春の妙味も増すというものなのではなかろうか。息を詰めるような長回しで幾度となく繰り広げられる夏芽と航一朗の追いかけっこは、どこかしら不機嫌なピーターパンとウェンディのようで忘れがたく、中でも最初の火祭りの夜を経て航一朗とすれちがったまま高校生になった夏芽が、通りで見かけた航一朗の後を静かにひたひたと追うシーン、長回しのカメラは最初の橋を渡り二番目の橋に向かって小さくなって行く夏芽を追い続け、橋を渡ろうとする夏芽は最短距離を急くあまり欄干かそれらしきものにぶつかるのだけれど、本来カメラからの距離であれば聞こえるはずもない衝突音が大きくはっきりとダビングされていて、もしかしたら最後の最後でそこにぶつかるように監督は夏芽に指示していたのかと少し吐息が漏れたのである。監督のフィルモグラフィーを見ると同世代の共有者よりは手練れのカメラマンと積極的に組んでいるようで、今作ではかつての黒沢組である柴主高秀と組むことによりハプニングではない感覚の計算が行き届いたショットと色彩が決め打ちされていて、夏芽と航一朗が二度目に会った鳥居の海を染める青と白はまるで浅黄幕のようで、いったいそこまでやるのかとワタシは早々に降参してそのままだった。
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2016年11月09日

ジュリエッタ/ロッシ・デ・バレタ

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見知らぬ男の死によって始まったジュリエッタ(エマ・スアレス&アドリアーナ・ウガルテ)の旅はショアン(ダニエル・グラオ)の妻、自らの母といった人たちの死によって導かれ、ショアン(ダニエル・グラオ)の死によって歩を止めることとなり、その後のジュリエッタの人生は、その幕引きに加担した代償として一人娘アンティアが取り上げられてしまったのかと自問自答するばかりであったのだろう。しかし、アバ(インマ・クエスタ)の死によってロレンソ(ダリオ・グランディネッティ)と巡り会うことで知らず彼女の旅は再開されることとなるわけで、と書いてみると死の匂いのたちこめるばかりの映画に思えるけれど、そもそもジュリエッタが車窓からみた牡鹿は黄泉の国への見送りだったように思えてならず、となればマリアン(ロッシ・デ・パルマ)はその門番であったのかなどとしてみれば、赤の現実と青の過去による浮遊する死のイメージは曖昧な生の代用にも思えてしまうことで、最後まで死は後ろ手に隠されたままなのである。そしてその最後の最後、スイスのアンティアへと車を走らせるジュリエッタとロレンソをロングショットで捉えたタイトルバックにインサートされる ”julieta” という文字の色は果たして何色であったか、赤の現実と青の過去、残された三原色である黄色に託されたのは未来であったのではなかろうか。しかしこの腑に落ち方の快感よりは、なじみの手癖だけで撮られたようなアルモドバルの執着の薄さの方が気になってしまうのが正直なところで、アンティアではなくジュリエッタの視点から母娘の地獄巡りを果たしたのは、既に実母との別れをすませたアルモドバルの年代的な成熟によるものなのか、誰もが持つであろう墓まで持って行く秘密に対するアプローチが丸みを帯びつつあるのも、この映画が激情を遠ざけたことの理由であった気もするのである。戦友ロッシ・デ・パルマの変わらぬ勇姿に気持ちが戦ぐ。
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2016年11月08日

手紙は憶えている/PLEASE DO NOT DISTURB

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※結末および展開に触れているので未見の方はスルー必須。

霧の立ち込めていた記憶が無慈悲な光に照らされた瞬間、ゼヴ(クリストファー・プラマー)は “Remember” 原題)の意味するところが“忘れるな”ではなく“思い出せ”であったことを了解し、なすべきことをなすのである。その時ゼヴの表情によぎった絶望と悔恨と慚愧こそがマックス(マーティン・ランドー)の追い求めるすべてであり、それはもはや復讐とか善悪の彼岸とかいう話ではなく世界の収支バランスをゼロに戻すための債務整理にも思え、無垢の保証人がどれだけ破滅的な巻き添えを食おうともそれは避けることのできない道筋なのだとする常軌を捨てた合理の怪物におののきつつ、しかしその怪物を生み出したのもまた醜悪な合理をかざした怪物であったことをワタシ達は“思い出す”ことになるのである。ワタシが何にも増して忘れがたいのは、進退窮まったルディ・コーランダー(ブルーノ・ガンツ)が本当のゼヴと自分は何者でどんな罪を犯してきた人間なのかを告白した瞬間にルディとゼヴの家族が見せた驚愕と嫌悪と困惑の表情で、おそらくワタシもまたそれに似た表情をスクリーンに向けていたようにも思うのだ。この道行きにおいてゼヴが見知らぬ人たちから受ける親切や思いやりが、ひとりの善良そうな老人に向けられて然るべきものだったのは言うまでもないのだけれど、もし仮にゼヴの正体を知っていたならば、列車で知り合った少年の父親は足早に立ち去っただろうし、モールの警備員はグロックをバッグに忍ばせたゼヴを即座に拘束したのではなかろうか。一方で記憶のくびきから離れたゼヴが示す、ドイツ人でありながら同性愛者ゆえアウシュビッツに囚われた老人に対する慈愛と共感、ナチスへの共感を隠さない移民二世への嫌悪と恐怖は心の底から湧き出したものであったろうし、だからこそ人間が逃れることのできない光と闇の両端に翻弄されたゼヴの選んだ、それらから自由になるたったひとつのやり方への、やりきれなさを追いかけるようにだんだんと滲んでくる安寧をふりはらうこともできないでいるのだ。ゼヴとルディは退場し、マックスも早晩彼らの後を追うだろう。しかし、彼らの記憶は継がれるのである。遺されたゼヴとルディの家族が育んだ記憶は奪い取られ、その空っぽへ否応なしに継がれていくのである。ゼヴと観客をもろともにミスリードするトリックとして一分の隙もないかというと、そこここにほつれを認めはするものの、それがゼヴのあわいと相まってデモニッシュな夢うつつを呼び出すのはアトム・エゴヤンの神経症的な緩急が巧みに奏功しているからで、ともすればドーナツの穴を撮ることにかまけてしまうこの監督が賞味期限を70年も過ぎて当たれば血の出るほどの鈍器と化したドーナツを投げつけてくると言えば、これがどれほどのっぴきならない物語であったかわかるだろうか。
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2016年11月05日

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件/フォゲット・アス・ノット

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東京国際映画祭2016

四半世紀前に一度観たきりの3時間版との対照など叶わないにしろ、クライマックスで起きることの青春の蹉跌的なイメージよりは、どちらかと言えば総合小説の全体性をつかみ取ろうと苦闘する4時間であった点で、いっそう新鮮でスリリングに思えたのである。序盤、ケガをしたミン(リサ・ヤン)の足がクローズアップになった時の、その足に残るおびただしいと言ってもいい虫刺されの跡は彼女が振りはらわねばならぬ呪いの印のようでもあり、自分の屈託をもてあそぶことに気を取られてばかりのスー(チャン・チェン)がそれに気づくはずもないことを思えば、この2人の道行きとそのたどり着いた先から逃れる術など最初からなかったことに早々と嘆息してしまうのだけれど、ただこれが単なる青い嫉妬がもたらした悲劇にとどまるのであれば、その顛末には100分もあれば充分だったわけで、この映画が必要とした時間237分は、殺した理由が満ちてくるのと同様に殺されなければならなかった理由が満ちてくるのを待ち続けたことによっているのだろう。スーの父親(チャン・クォチュー)は外省人であるがゆえの閉塞と知識階級特有の理想主義の狭間で屈託を育てざるをえない人であり、息子のスーはその屈託を借りることで思春期のよろいとして傷つくことをかわしていて、自身で獲得した手立てをいまだ持っていないスーにとって、撮影所でくすねた懐中電灯が彼の暗闇を照らす灯りとして象徴されていくことになるのは、夜の通りを走る戦車の隊列をミンがそれで照らしてははしゃいだことや、台風の夜にそれが何を照らしたか、その所在と扱いに明らかだろう。一方で病弱な母親を庇護者として頼れないミンは、周囲の男たちを無意識の庇護者としてネットワークしていくのだけれど、それは悪女あるいは小悪魔的なたぶらかしというよりは極めて本能的な判断である点で無慈悲を感じさせ、精神的な庇護と現実的な庇護の采配はそれが無意識であるだけに、劇中の誰よりも危うい綱渡りをしなければなかった14歳の足取りが悲痛を誘ってやまない。理想に殉じるしかないまま瓦解した父親および自分の空虚を埋めるにはその父の教えに頼るしかなかったスーと、理想など最初からなかったのだと目の前の現実をかきわけて生きていくことを選ばざるを得なかったミンは、両極端ではあるけれどデラシネとして生きるしかなかった台湾のある人々の姿に相違なく、事件当時14歳だったエドワード・ヤンもまた自身の中の引き裂かれた部分に気づいていたからこそ、なぜあの少年は自分ではなかったのかとずっと考えつづけていたのだろう。劇中でスーの姉がプレスリーの "Are You Lonesome Tonight?" の歌詞を聴き取るシーンで、長兄が 'Does your memory stray to a brighter sunny day?' のフレーズのおそらくはbrighterをこれは(本来brightであるはずで)文法がおかしいのではないかと訊ねるのだけれど、 あの日はいつだって君の記憶の中ではより明るく晴れた日であり続けるんだろう?というニュアンスでのbrighterなのだろうし、そう考えてみるとこれを引用した英語タイトル "A Brighter Summer Day" に込められた取り返しのつかない夏の日々の記憶にいっそう胸が締めつけられてしまうのである。そして思い出すのは "Days of Being Wild" と名付けられやはり全体性に殉じる野望を隠さなかったあの映画のことで、その後のウォン・カーウァイが導入するアメリカン・ポップスのアンセム使いはこれが源泉なのだろうとワタシは勝手に確信した。リサ・ヤンが見せる刺すような毅然に中野良子を見たのは時を経ても変わらず。
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2016年11月02日

ジェーン/泣いたら負けだと知っていた

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ジェーンという名の女性が主役にすわる西部劇ということで何とはなしにカラミティ・ジェーンあたりを勝手に想像していた上に、これがブラックリスト入りしていた脚本の映画化であることを知るにつけ、なかなか語りがいのある物語になりそうだなと思っていたものだから、巷間伝え聞いた紆余曲折がどれだけのエッジを削ってしまったのか知る由もないにしろ、とにかくこの映画については完成させることが目的であるとする着地で手を打ったかのようにこじんまりした技の難度と、そうやって撤退戦を戦わざるをえなかったナタリー・ポートマンの抱いた野望との対照がいささか切なくもあったのである。本来であればジェーンはある種のファム・ファタールとして、あごを上げ背筋を伸ばしたガンさばきで男たちの愛と欲望をすり抜ける女性ではなかったのかとも思うわけで、かつての婚約者ダン・フロスト(ジョエル・エドガートン)に毅然として助けを請うあたりにはその名残も感じられたりもしたのだけれど、彼女と行き交うダン・フロスト、ジョン・ビショップ(ユアン・マクレガー)、ビル・ハモンド(ノア・エメリッヒ)という男たちとの反射によって彼女の複層を描くにしては、彼らと差し向かうシークエンスが寸足らずというか甘いというか、98分という長さが果たしてこの映画の実寸であったのかと、そんなところにも強いられた妥協の影を見てしまうのである。それとやはり、ナタリー・ポートマンは死んだ目が似つかわしくないところがあるせいか、なかなか裏返ることが難しい気もして最初から仕上がっているように見えてしまうこともあり、ならば売春宿のシーンは尊厳を奪う苦痛に満ちた時間としてもう少し爪を立てておくべきだったようにも思うし、本来メガホンをとるはずであったリン・ラムジーであればそのあたりはもう少し仮借がなかったのではなかろうか。男たちの刺し違えにおいては否応なしに冷たい緊張を走らせるギャヴィン・オコナーが、ジェーンもまた男性として扱うことでその渦に巻き込んでしまおうとした意図は理解できるのだけれど、ナタリー・ポートマンがそれに忠実に応えすぎたことで、原題 "Jane got a gun" に込められた女性と銃がクロスする逆襲の宣言が高らかに叫ばれなかったように思ってしまうのである。その達成のためのリン・ラムジー起用であったことがプロデューサーであるナタリー・ポートマンの意図として深くうかがえるだけに、2人のタッグが瓦解してしまったことが本当に悔やまれる。当初ダン・フロスト役にキャスティングされていたもののスケジュールの都合で離脱したマイケル・ファスベンダーが直後に出演した西部劇『スロウ・ウェスト』における、かつてのイーストウッドを彷彿とさせるクールな拳のガンマン姿を見た(であろう)ナタリー・ポートマンにしてみれば、いくら悔やんでも悔やみきれないのが本心だろう。ちなみにその『スロウ・ウェスト』はマイケル・ファスベンダー、ベン・メンデルソーン、コディ・スミット=マクフィーといったキャストがまったくムダ使いされることなく生と死の青春寓話を不思議な明るさで照らして、正式に劇場公開されなかったのがもったいないとしか言いようのない出色の西部劇となっている。

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2016年10月30日

ザ・ギフト/まごころを君に

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※内容に触れています

無垢の犠牲者かと思われたロビン(レベッカ・ホール)ですらが逃れられない罪深さは、クズをクズと見抜けなかったこと、あるいはそれと知りつつ人生の打算として相殺することでクズを増長させたことにあって、彼女もまたゴード(ジョエル・エドガートン)からの贈りものを受け取ったであろうことを匂わせる結末のけっこうな寄る辺なさも、ピアノ線のようにはりつめた伏線のめぐらし方とそれがキリキリと絞り上げるその回収に膝を打たされたことで、最終的にはどこかしらピカレスクと言ってもいい達成感がそれを更新したように思うのだ。それは本来、被害者であったはずのサイモン(ジェイソン・ベイトマン)の二面性が暴かれることで悪役のはずのゴードとの立場が次第に逆転していく構造が見事成立した証しでもあり、マウンティング国家アメリカにおいて他人から奪い取ることで勝者となってきたサイモンが、逆に与えられることで自滅していく自業自得への溜飲がそれを後押ししたのだろう。そうした意味では、人生における善いことは悪いことがあってこそのものだから、悪いことはある意味ギフトのようなものだと思うようにしている、というゴードの言葉は、皮肉と言うよりはそう信じ込むことでしか生きのびることができなかった敗者の悲痛で破壊された哲学であったようにも思うのだ。一人過ごすロビンの肢体を執拗になめ回すカメラは、ゴードの視線というよりも次第に窃視の強迫観念に蝕まれていくロビンの神経を剥き出しにしているようにも思え、サイモンとゴードが繰り広げる神経戦の跳弾をくらいながら見知らぬ土地で衰弱していく姿は『ローズマリーの赤ちゃん』的な授かりものの恐怖で別ルートから震わせたりもする。そんな風に単にシナリオを消化するにとどまらず、幻視を立体的に組み合わせることで空気を圧迫するジョエル・エドガートンの、すべてを額面通りにも、すべてをミスリードにもなし得る確信的な手さばきと、サイコスリラーのジャンルを借りたある種の階級闘争に、映画人としてのしなやかな指先と屈強な背骨を感じて、この人のフィルモグラフィーに通底する下から突き上げる拳にあらためて惚れ直したのである。犬はねえ、ちょっと驚いた。
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2016年10月29日

31/ユナイテッド・クラウンズ・オブ・アメリカ

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これが仏作って魂入れず、の字義どおりであることは、そりゃ仏に魂なんかねえだろ、でもって何だか知らんが俺をピエロとか思ってなついてんじゃねえぞ、俺がここにいるのはお前の惨めったらしい人生を終わらせて仏にするためなんだよ、というドゥーム・ヘッド(リチャード・ブレイク)のうっとりするような長口上に明らかである。相変わらずロブ・ゾンビは世界に接続される水平性にひたすら尻を向けては、お前らに差し出すものなんかないねと、輝ける垂直性の70年代に執着し崇拝し続けている。俺はその垂直性の狭間に囚われて転落したり押しつぶされたりするような、酷いことの起きる瞬間を確認してるんだよ、なぜならこの国で一番酷いことをするのは自由って名前のやつで、しかもそいつがこの国の神だからだ、言っておくがただアホみたいに拡がっていくことだけが目的の水平性が自由だなんて思っちゃいないぞ、トランプみたいな垂直性の排泄物を後生大事に生かしてるのは水平性の下水道だってことにいい加減気づいてもいいころだろうよ。と、嫁ゾンビと2人、白塗りのマルコム・マクダウェルまで引っぱりだしては、出でよウルトラ・ヴァイオレンスとばかり古き良きアメリカのオーセンティックな自由を啓蒙してみせたのであった。そんな風なとりつく島もない引きこもり方にどこかしら既視感があるとしたら、それはおそらくニコラス・ウィンディング・レフンであって、レフンが年々隠すことをしないアメリカというよりはアメリカ人への憧憬は、垂直性の住人としてのアメリカ人に対するそれなのだろうなあと、何の使い途もない解を手に入れた気がしたのである。それにしても、小人ナチスの殺し屋とか極東産のワタシのどこにそんなDNAがあるのかと思うくらい根っこのところで沁みて沁みて笑ってしまうほどであったし、沁みたと言えば、夢を見ろ、夢を見続けろと絞り出すスティーヴン・タイラーのシャウトが次第に、これが夢なら醒めてくれるなと響いた気もして、それこそがロブ・ゾンビの偽らざる叫びだったようにも思うのである。世界が片づけられていく。
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2016年10月25日

スター・トレック BEYOND/パヴェル・チェコフの優雅な長旅

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22年振りの新曲で "All for one, one for all. If we take a stand, we shall not fall" とストーン・ローゼズが歌ったその言葉を胸に抱いたような闘いで、進軍ラッパはローゼズではなくビースティではあったにせよ、リブートシリーズ3作目にしてようやくクルーたちは宇宙を舞台に知恵と勇気をブーストさせて独裁と全体主義の群れを蹴散らしていったわけで、映画2本を費やしてカーク(クリス・パイン)とスポック(ザカリー・クイント)の関係性も何とか落ち着きを見せたこともあって、マッコイ(カール・アーバン)とスポックの漫才もふくめようやく「宇宙大作戦」としてのチームワークが定まったように思うのである。JJ版2作では、敵は自身にありという青春の屈託を燃やしておけばドラマの陰影はついたところが、今回はまだスピードとアクションの影に隠れて少しおずおずとしていたにしろ、これから先は本来の社会実験としてのSFに舵を切ることの宣言もうっすらと見受けられたわけで、それをビッグバジェットのフランチャイズで行うことの困難を知るJJが続篇をどう転がすのか、などと心配していたら次作ではクリス・ヘムズワースが再登板らしく、ということはまたぞろタイムワープものなのかあるいは平行世界ものなのか、いずれにしろ正式な父殺しを終えるまでは一人前と見なさないというカークの丁稚扱いはまだまだ続くということなのだろうか。それにしても、ミッション・インポッシブル、オマケでスター・ウォーズと、メガフランチャイズを制覇したサイモン・ペッグの獅子奮迅たるやというところであって、かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろうという正統派ヒーロー受難の時代においてはコミックリリーフが成否を分けることは言うまでもなく、サイモン・ペッグの備える熱いノンシャランがチームの緩衝とヒーローの感傷を共に引き受けることを見抜いた上での、トム・クルーズとJ・J・エイブラムスという傑出して機を見るに敏なプロデューサーたちによる起用はやはり慧眼としかいいようがない。そうしてみると、ようやくクルーの一体感が生まれてきたところでのリトル・スコッティとも言えるアントン・イェルチンの不幸は大打撃としか言いようがないのだけれど、新クルーとなるであろうジェイラ(ソフィア・ブテラ)がせめてもの救いであって、哀しみが鍛えたふてぶてしさと豪快はこれまでのクルーに欠けるキャラクターであったし、艦長席にこともなげに座る身のこなしだけで彼女を今作のMVPとしてしまいたい。果たして制服が似合うかどうかだけが気がかりである。たぶんチェコフは平行世界にいると思う。
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2016年10月23日

永い言い訳/毛はまた伸びる

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その日から髪を切ることをしない幸夫(本木雅弘)と真平(藤田健心)。やがて自分でハサミを入れる灯(白鳥玉季)。自分は散髪しておきながら、子どもたちの髪の毛には気が回らない陽一(竹原ピストル)。そしてこの物語を彼方から支配し続ける幸夫の亡き妻にして美容師の夏子(深津絵里)。といったように髪の毛が生き方の執着と屈託の場所を示す図式で描かれる喪の仕事は、『蛇イチゴ』からずっと変わることのない、自爆する男性に対するニヒリズムとメランコリーがないまぜになった西川監督のファンタジーが、そうは言っても人なんてそう簡単に根っこが変わるもんでもないし、と大人げのない者たちをとりつく島もなく、かといって見放すこともない引率者のような視線に見守られることで、散りばめられた居心地の悪さの勝手知ったる風に安心感すらをおぼえてしまったのである。それは本来であれば目付役となる夏子たち女性陣を早々に退場させたことで、幸夫と陽一という男性陣の珍道中を観察する視線に徹したことが影響している気もするのだけれど、結局のところ幸夫も陽一も終始記憶と幻を相手にしているだけに、その補正も含めどこかしら常に都合が良いのである。それについてはある時点で、幸夫のみならず観客のワタシに対しても冷や水を浴びせる強烈なカウンターが夏子から放たれるのだけれど、それを悔い改める相手を持たない幸夫は真平と灯にそれを発揮し続けるするしかないわけで、それをあえて『アバウト・ア・ボーイ』で済ませるかのような通過儀礼も含めその都合の良さを泳がし続ける目つきが逆に薄気味悪くすらあり、定型であれば幸夫と陽一の関係はミスマッチの衝突から始まるところが、例えば真平と灯の世話を小説の題材としていることやTVドキュメンタリー番組に自分たち親子が“利用”されることに陽一は感情的な反発をするどころか、それらがストーリーのフックとなることもなくスイスイと喪の仕事は進展して、新しいお母さん候補鏑木(山田真歩)という最難関すら呆気なく越えてしまうわけで、この脚本演出が男性によってなされていたら、いい加減目を覚ませと横っ面張られる評判が飛び交って止まないに違いないだろう。しかしその張本人が自爆男マニア西川美和であることを思い出してみれば、もしかしたらこれらはすべて額面通りなのではなかろうかという答えにも行き着くわけで、ならばこの優雅で微笑ましい男やもめのファンタジーは西川美和の極北と言って差し支えないようにも思うのである。夏子も福永(黒木華)も鏑木も、みな嫌味なほど現実を知りかつ正しいことで、彼女たちは揃って幸夫を悲しませているではないか。岸本(池松壮亮)も真平も、幸夫を肯定し続けるのは彼らばかりではないか。ただ、ワタシが一番ひんやりとしたのはラストで鏑木を連れた陽一の姿で、冒頭で触れたように陽一は子供の髪には気が回らないながら自分の坊主頭は維持する男であり、留守電のメッセージを消去したことでまるで伸びた髪を切るかのように亡き妻への執着を笑顔で乗り越えてしまったわけで、陽一はともかく真平と灯の兄妹の葛藤すら不要とした早送りにこそ西川監督の揺るぎない幻視を見たのである。したがってワタシはこれを、寝技に持ち込んではフィニッシュホールドとする師匠是枝に対する、ならば私は立ち技だけでケリをつけようかという弟子西川の挑戦および訣別と考える。子役転がしにしたところでとっくに余裕だし、という西川美和の笑顔に戦慄せよ。
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2016年10月19日

ダゲレオタイプの女/ゴースト・ゲイト・ドライヴ

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無言で自分を問いただす者たちに「もういい、ずっとそうやってろ」とブチ切れるステファン(オリヴィエ・グルメ)にかつてミイラを怒鳴りつけた男のことなど想い出し、彼女たちがどこからやってきてどこへ消えていくのか、その境界を共に越えながら取り残されたものの変質と哀しみは世界の法則に触れた証でもあるのだという透徹した絶望を、最後にジャン(タハール・ラヒム)の「楽しい旅だった」というつぶやきによって一滴たらしたその水紋にはどこか懐かしさすらおぼえたのである。とは言うものの、あらかじめ精神や感情の湿気が異なる場所にあっては、除湿の作業に余計な気を取られることもないまま、例えば、リサイクルの水銀からジャン(タハール・ラヒム)とトマ(マリック・ジディ)の出会いに至る道筋の、ちょっとした贅沢が昼下がりの牡蠣へと自然に向かうような、黒沢清が夢想するパリの若者のスノッブな横顔は、例えばこれが日本であったらいくばくかの余禄を懐に向かう牡蠣の代わりはせめて回転寿司ではなくカウンターの寿司屋なのだろうか、という軽いあきらめを嬉々として飛び越えたようにも思え、そもそもが駅への列車の到着を撮るところが曇天のパリのメランコリーに気もそぞろとなったオープニングからして羽目を外していたようにも思うのである。これまでであれば、あえての代替による記号化で除湿を果たしてきたところが、代替の必要なく本来あるべきものがあるべきところにある世界において、ついには記号が脈打ち始める時の静かな驚きと喜びを監督と観客が共有する僥倖がこの映画を成立させているわけで、マリー(コンスタンス・ルソー)の細動する眼球にいたっては、それを知ってのキャスティングであったのかどうかはともかく、気がつけば彼女のクロースアップを待ちわびている愉悦もまたこの映画のビンゴとなったのである。にも関わらず閉ざされた部屋に風はそよぎ、暗闇に光がゆらぎ、車を走らせるたびに事態が抜き差しならなくなっていく世界の恩寵にすがるワタシたちに、早くこちらに来るようにとカーテンは誘い続け、生まれたての幽霊マリーは、そのカーテンのこちらから母ドゥーニーズ(ヴァレリ・シビラ)のいる向こうを眺めては、でも今が一番好きとうなじをめぐらすのであって、それは母のようにやがて写真のむこうから漂い出るしかない人となる運命を知りつつ過ごす彼女にとって最後の自由な青春だったのだろう。かつて自分の額に流れた血をぬぐったジャンの手から父ステファンの血を優しく拭き清めるマリーの姿は、獲物をくわえて帰ってきた猟犬の頭をなで喉元をくすぐる主人の慈愛で狩りの終わりとジャンとの訣別を告げる儀式のようにも思え、幽霊との別れという黒沢ロマンスの静謐で秀麗な翻訳が綴られている。自身の資質が求めてやまぬ先がこうした限定的な形で示され(てしまっ)たことは果たして幸福なことなのかどうなのか、ほんの一瞬気がかりだったりもしたのだけれど、この映画の後に撮ったのが『クリーピー』であったことを考えてみれば、この映画は黒沢監督にとって解放というよりは新たに自身を拘束するルールと快感の手がかりになっていたにちがいないことはいまさらワタシ風情が言うまでもないだろう。ジャンと幽霊のファースト・コンタクトのシークエンスで、階段を登った幽霊が回廊を回り込んで一度消えてから再び現れるシーン、言い換えれば、幽霊は人が視ていない物陰もきちんと移動しているということになり、漂うようにすり抜ける幽霊よりもそういう幽霊がワタシは怖い。『回転』『叫』の幽霊たちにくわえ、ひさかたぶりにステーキまでが登場していた。
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2016年10月16日

高慢と偏見とゾンビ/と空騒ぎ

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原作未読。本家については通りいっぺんの記憶ながら、むしろゾンビが刺身のつまであるくらいの本歌取りだったのに意表をつかれる。とはいえ、例えばここでのゾンビを革命勢力に置き換えてみれば恋と闘争のロンドンという大河ドラマに再構築することも容易なわけで、ただそうした場合、ほとんど艶笑スラップスティックと化した本歌の骨子を踏まえてみれば支配者階級目線のそれなりに鼻持ちならない話になってしまうわけで、やはり仮想敵としてのゾンビの使い勝手の良さにあらためてうなるばかりである。淑女の嗜みどころかサヴァイヴァリストを目指して中国で修行をしてきたベネット家の姉妹や、ヒールながら策士ぶりが光るウィカム(ジャック・ヒューストン)と比べると、『Mr.&Mrs. スミス』ばりの大乱闘を見せるエリザベス(リリー・ジェームズ)への求愛シーン的な変拍子をもっと期待していただけに、ロマンス要素のためとは言えどうにも奥行きのないダーシー(サム・ライリー)の造型が物語の停滞を招いてしまったのがどうにももったいない。また、アイパッチが惚れ惚れするキャサリン夫人(レナ・へディ)が見せるゾンビ狩りの勇姿が最後まで用意されなかったのも原作偏重の弊害なのか、わりと納得がいかなかったことの一つではある。とは言ってもリリー・ジェームズの不機嫌そうなあごのラインや、長女ジェーンを演じるベラ・ヒースコートに敬愛するヘザー・グレアムの面影を見ていれば時間はあっという間に過ぎていくし、何よりベネット家の姉妹が闘うその姿は、ベイビーたちがみなザック・スナイダーのために闘わされていた『エンジェル・ウォーズ』のひとりよがりな退屈とは天と地ほどもかけ離れて、まさに自分がここに在ることを知らしめるべくドレスの裾を散らしていたように思うのである。カンフーを繰り出しての姉妹喧嘩や、エリザベスがみせる宮本武蔵ばりの蝿キャッチ、孫子の兵法、ダーシーが振り回す日本刀など、戦士の矜持として示されるオリエンタル風味もいい按配にくすぐったい。メディアミックスのケレンを含め、まるで往年の角川映画のようだった。
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2016年10月14日

淵に立つ/闇より昏くて静かなところ

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ある衝撃の事実に打ちのめされてなけなしの気力を失い、机につっ伏す章江(筒井真理子)にむかって「なんだ、眠いのか」と、突き放すでもなく気づかうでもなくただ目の前のできごとに虫のような朴念仁で反応する利雄(古舘寛治)がそれに続ける告白にひそませた、俺が殺人の共犯であろうとなかろうとつまらん話だと斬って捨てつつ、第一おれたちはとっくに罪を背負ってるんじゃないか、だからできることと言えばあとは罰を受けることしかないだろう、だからあの時に俺もお前も等しく罰を受けることでようやくほんとうの夫婦になれたんじゃないのか、という凍てついた達観は、冒頭で蛍が口にして利雄の頭に引っかかった母蜘蛛のエピソードを問わず語りに引き寄せる。我が身を餌と子蜘蛛に差し出した母蜘蛛は慈愛の象徴のようであるけれど、その母蜘蛛にしたところがかつては自分の母を喰っていたにちがいなく、ならば結局はみなそろって地獄に行くはずだという天啓が利雄のフラットラインを誘いだしたのだろう。八坂が見つかったところで何も変わらないのだからもうやめようと、どれほど章江に懇願されようと利雄が八坂(浅野忠信)の消息を追い続けることを止めないのは、あの時あの場所で八坂と蛍の間に何があったのか、おそらく利雄はそれが不慮の事故というよりは八坂の殺意によるものであったことを確認したかったからなのではなかろうか。でないと正当な罰は完成しないからである。そもそも自分の過去を知る八坂を同じ屋根の下にとどめたり、ひいてはプロテスタントの妻とステンドグラスのある家に暮らす利雄ははっきりと意識的に自罰を求めてるのだろうし、八坂と章江の関係を知っていながら放っておいたのもその痛みや苦しみを必要としたからなのだろう。そうしてみると鈴岡家は既に精神的な一家心中がなされた家に違いないのだけれど、それだけに、利雄が生きる意思への全面的な降伏を露わにするラストで水中から戻ってきたその姿はまるで洗礼のようにも映り、その結果、罪が清められることで利雄にとっての罰は精算され、それは同時に子蜘蛛を地獄に行かせない手立てとしても成立する離れ業で幕を閉じるのである。自分たちが何かしら真ん中の部分を無くしたことに気づき、ではいったいそれをどこに求め探すのか顔を上げた瞬間、その答えを後ろ手に隠すかのように映画は終わるのだけれど、その答えは正解というよりは最適解といった方がふさわしく、しかしそれは残酷とか寄る辺ないとかいうよりはもはや人間には関係ない道理とでもいうひと触れに近いがゆえに、すまし顔ですっと入り込んでくるようなのが本当に怖ろしい。罪とか罰とか天啓とか洗礼とかいった言葉で語ってきた上に、自身の罪を吐露した後で自らの頬を繰り返し張るまるで告解のようなシーンも2度あるけれど、プロテスタントには告解のシステムがないことからもわかるようにことさら宗教を原理的に語る物語ではないのは言うまでもなく、あくまで人間が生きるよすがを外部に求めた場合の普遍としてそう動くに過ぎないわけで、結論として使った“怖ろしい”という言葉がふさわしい極めて現代的で日常的なホラーとして、ハネケやファルハディのようにワタシは吸収したし、イドの怪物と化した八坂のとあるシーンに至ってはカーペンターオマージュ炸裂ですらあったのである。劇伴があったことを覚えていないくらい日常の音を“障る音”としてミュージック・コンクレートのごとく取り込んでいたことや、常に対象に対してよそよそしいショット、赤以外は何か途中のような色、といった設計の端正で抑制された意思は美しい文章で書かれた弔辞のようにも思えたのである。8年後の章江は体型すら変化して曖昧で茫洋とした輪郭の変化が彼女の壊滅を示していたけれど、あれは補正なんだろうか、実際なんだろうか。薄皮を剥がすような精神の変質に『降霊』の風吹ジュンを想い出した。
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2016年10月12日

ジェイソン・ボーン/少し休め、みんな疲れてる

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※若干内容に触れています

ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)は弱くなった。ただそれは加齢や消耗による肉体の衰えというよりは、たとえば『ボーン・スプレマシー』におけるナポリの拘束シーン、取調室で沈黙のうちに最適解を計算し、あくまでも合理性に基づく最短距離で可能性を広げたり潰してはそれを実行していく彼の行動には情動による誤差が一切ないわけで、それを可能にしていたジェイソン・ボーンという人工人格と、デイヴィッド・ウェッブという旧人格の支配率によって閾値が変化したことがボーン/ウェッブの実行精度を低下させているのだろう。したがって、この映画に感じる混乱と混沌はそのままボーン/ウェッブの反映でもあったわけで、ワイヤーに足を取られて宙づりになったり、不意打ちとはいえ素人の一撃を浴びてしまったりする姿がノイズになったとしても、そもそもこれが、デイヴィッド・ウェッブという社会的人格を取り戻すにしたがってジェイソン・ボーンとしてのデモニッシュなパルスは失われていくというジレンマをまとったリブートであることを忘れてはならないわけで、ポール・グリーングラスやマット・デイモンはそうした負け戦を覚悟のうえでジェイソン・ボーンをゼロから再生し成熟を目指す物語を選んだということになるのだろう。それに伴ってなのか、かつてのクロースアップで俯瞰するようなアクロバットの昂揚は身を潜め、どちらかというと躁鬱的な抽象画に沈み込んでいくようなIMAXスクリーンでの没入感にはドラッギーな彩りすら覚えたし、それらを隙あらばの神経症的なズームと組み合わせることによって、ボーンをむしばみ続ける実存の吐き気を体感させるかのような悪趣味を感じたのである。とは言え、ボーン/ウェッブの重層による感情の共鳴が彼の通り過ぎる世界を無慈悲に誘爆していたかというと、このシリーズで初めてトニー・ギルロイの手を離れたシナリオはせいぜいが彼のつぎはぎに過ぎないドラフトレヴェルに思え、特にへザー・リー(アリシア・ヴィカンダー)をパメラ・ランディの後継に据えたいがための拙速で彼女の造型がどうにも安定しないのがストーリー上のノイズにさえなっているわけで、ロバート・デューイ(トミー・リー・ジョーンズ)射殺時のそれが激情にかられた挙句の行動であったような表情は、アーロン・カルーア(リズ・アーメッド)の意味ありげな邂逅とクロスする彼女の因縁によるものかと思いきや、その後の展開からは野心達成のために障害を排除したに過ぎないニュアンスにとどまってしまい、あの瞬間彼女もまた“河を渡った”ことにしたかったのだとしたら、彼女の使用前使用後があまりに平坦過ぎて、このあたりは血の涙を流す寄る辺ないロマンチシズム、すなわちギルロイの刻印がないことによって暴落したシナリオの軋みがさらけ出されていたように思うのである。したがって、このフランチャイズが今後も続くのだとしたらジェイソン・ボーンを撮れないけれど書ける脚本家と、撮れるけれど書けない演出家が再度タッグを組むしかないのではなかろうか。そのために人がポンポン死ぬようなヤバいファイルを、オフラインですらない他人のPCで無造作に開くボーンはもうボーンではない。
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2016年10月09日

アイ・ソー・ザ・ライト/ぜんぶ流れて出ちまった

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みんなが抱えてる小さな闇みたいなもんをさ、そういう、怒りとか惨めさ、悲しさやこっ恥ずかしさを俺が歌ってやると、少しはみんなの闇が晴れるんだろうよ、と問わず語りでインタビュアーに吐露したようにハンク・ウィリアムス(トム・ヒドルストン)は、自身の歌がそれを聴く人々の闇を浄化するからこそそれに金を払ってくれるのだろうことを正確に認識している。それはジャンキーがジャンキーを、酔っぱらいが酔っぱらいを最もよく知るように、ハンクは闇と深く関わり過ぎたせいでそれを手なずける生き方を選ばざるを得なかったのかもしれない。母親との関係や種々の中毒、それらによって総合的に破壊された社会性と刺し違えることで与えられたかのような天賦の才、と書いてみればチェット・ベイカーの先駆とでも言う異能の自爆者であるし、先天的な脊椎の異常がもたらし続けた激痛は、フリーダ・カーロにとっての痛みがそうであったように彼だけが知る世界の酷薄な意匠として在ったのかもしれない。ただ、直前の文末2つをいずれも“かもしれない”で閉じたことからもわかるように、この映画はそれをなかなか告げてくれないのである。序盤、自宅玄関前の階段にひとり腰掛けて、ひらめいた歌詞を邪気なくノートに書きつけるハンクの顔には、大江慎也風に言えば“フェンスに腰かけ 明るい空の下 考えているところ これから何をやろうかな”とでもいったこの映画で唯一といってもいい彼なりの健全なやり方で世界とつながっている幸福が浮かんでいるのだけれど、それはあっという間に妻オードリー(エリザベス・オルセン)と母リリー(チェリー・ジョーンズ)の彼をめぐる綱引きに蹴散らされ台無しにされてしまい“せっかくここでうまいことやってたのに”と愚痴をこぼすのである。そんな風にしてハンクの日々は、彼の飲酒と女性達との関係破綻による自業自得としてそのメランコリーを与えられるばかりで、なぜ飲まずにはいられないのか、なぜ女性を愛しきれないのかを問いかけることで彼の中の深淵に闇を探し、そこから彼がメロディと言葉を浚ってくる悪魔的な瞬間の共犯となる意志が見当たらなかったように思うのである。ロンドン生まれのトム・ヒドルストンによるアラバマ生まれのカントリーミュージシャンへの窒息しそうな沈み込みを見るにつけ、命じれば彼は角と尻尾すら生やしたのではないかと思うだけに、理解と同情が可能な哀しい怪物にとどめた筆足らずが何とも悔やまれる。アクセルをベタ踏みする気満々のエリザベス・オルセンもアイドリングだけでゴールしてしまう余裕が不本意に思えてしまうし、要するに監督/脚本のマーク・エイブラハムだけが腹をくくれていなかったということで、罪作りとはこういうことを言う。
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2016年10月08日

ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK/週に八日は泣いている

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どこかで誰かが言ったことを読んだのか聞いたのか、あるいは自分で思ったのか今となっては定かではないけれど、ビートルズを聴いたことによってある田舎の中学生の胸の内にはメランコリーという感情の場所が新たに生まれたわけで、それは片岡義男が「10セントの意識革命」の中で綴った、

時代がその底にたたえている、言いようもない悲しさを、できるだけたくさんの人たちに伝える作業にビートルズはむかい、たいへんな成功をおさめた。1960年代のなかばには、文明はすでにまちがった方向へ曲がりこんでいた。おかげで、絶望は、はっきりしたかたちでつかまえることはできなかったかもしれないが、その時代のごく基本的な色とかにおい、あるいは音として、時代ぜんたいをおおっていた。ビートルズはそれを「悲しさ」としてすくいあげ、ビートルズという存在と音楽という体験の土台にしたのだった。初期のロックンロールの、「いやだ!」という単一な叫び声は、ビートルズを通過することによって、全時代的な悲しさの表現へと変化していった。この変化は、いいことだった。

という文章に後押しされるし、このフィルムの中の少女たちが、憧れの存在を目の前にしていながら全身で泣き叫ぶのは、その「悲しさ」の直撃をグラウンド・ゼロで受けとめていたからなのだろう。そしてまた、ビートルズに気をとられるばかりで、いつもスーツを着たまじめくさった人でしかなかったブライアン・エプスタインのパーソナルを知るにつけ、彼もその「悲しさ」において彼らと決定的に共鳴したのだろうと確信してしまうのである。偶然にハリウッド・ボウルの客席でカメラが捉えていた13歳のシガニー・ウィーバーの「悲しさ」のかけらもない笑顔もまた、そのかけがえのなさゆえに切なく思えて仕方がない。
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2016年10月07日

SCOOP !/そっとピンぼけ

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腰を浮かせ思わず身を乗り出すような言ったもの勝ちなアイディアの、それが金に変わればなお良しという昭和のRAWなたぎりはその一点突破のやり逃げゆえであったのだろうと多分な想い出補正込みで考えてみれば、「むずかしいことはわかんないって言ってるじゃないですか!」という野火(二階堂ふみ)の啖呵こそがこの映画のマニフェストだったように思うのである。昭和が終わり景気の日も暮れてみんながいったん家に帰ったあとでは、再び遊びに出るにはそれなりの理由や目的を告げなければならなくなり、仕方なく“むずかしくてわかんない”ことを下手の考え休むに似たりとひねり出すうちに自家中毒を起こしてもはや遊びに出ることすら叶わず、そうこうするうちにインターネットが下手の考えを肩代わりし始めて、だったらもう外に遊びに行かなくてもいいんじゃね?と日がな呆ける現在地への焦燥に近い苛立ちが監督を駆り立てているのではなかろうか。それは、大根仁(47歳)、福山雅治(47歳)、リリー・フランキー(52歳)、川辺ヒロシ(49歳)という昭和の残党が、二階堂ふみ(22歳)の平成世代にバトンを渡すと言うよりは自分たちにくすぶるルサンチマンを引火させる物語であったことにうかがえるわけで、その仲介役としての静(福山雅治)はノンシャランな適任であったように思うのだけれど、一方で野火が抱く彼女の世代の屈託を溶かすのが昭和の炎であったという手続きについて、“むずかしいことはわかんないけどムカつく”野火が自分は何者なのかをフォーカスし、静への愛すらも成長痛としていくヒリつきが、徹底した虚飾こそが映画のリアルであるという極彩色のファンタジーにいささか呑まれてしまっていたように思えてしまうことで、結果として静が取り持ってくれた悪魔との取引において、実は縦横にはりめぐらされた批評性の網をカモフラージュするための、不随意的な条件反射を装う“むずかしいことはわかんないけどムカつく”ドラマから悪魔がこぼれ落ちてしまっていた気がしてしまうわけで、それについては終盤で寄る辺なく激変する映画のトーンがもたらす功罪でもあり、それまでを静と野火のどちらにひきずられていたかによって印象は異なってくるようには思うし、世界が野火を直撃する時の身勝手を清冽な更新の一手と捉えるにはワタシもまたあきらめの悪い感傷に支配され過ぎてしまっているのだけれど、野火が受け継いだ静のベンツ・ゲレンデには当然ピカレスクも同乗していることを願うのは言うまでもないのである。そしてついにというかようやくというか、ピエール瀧が『凶悪』においてそうであったように、リリー・フランキーがスウェットパンツを正装に初めて“演じて”みせていて、前述した終盤の転調をたった一人内股で支配している。ブラパン付きのベッドシーンや静の血糊はあえての様式美で、ここまで正面切ってやられると逆にぐうの音も出ない。少年漫画誌(『バクマン』)から写真週刊誌と来れば、次はエロ本としての『沙耶のいる透視図』あたりでもおかしくないのだけれど、さすがにそれだとハードルが高すぎるだろうから、いっそ「さらば雑司ヶ谷」へと舵を切って盛大なサンプリング&オマージュ合戦の金字塔を打ち立てることを願ってやまないのである。
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2016年10月04日

ハドソン川の奇跡/体勢を低くし、衝撃に備えよ

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オープニングの悪夢シーンでこれが単なる英雄譚の再現ではないことを宣言するあたりの手さばきと、IMAXカメラが捉える冬のNYの清潔な殺意とでもいうはりつめたエッヂによって、『アメリカン・スナイパー』に引き続きイーストウッドはヒーロー神話の解体を試みている。アメリカという幻想国家のケツ持ちを拒絶し、あくまで個人の尊厳と自由意志を謳うためのその噛んで含めるような語り口は、例えば『ボーン・イン・ザ・USA』さえも愛国唱歌と取り込んでしまう怪物相手の冷静なファイティングポーズなのだろう。結果的にサレンバーガー機長(トム・ハンクス)が体現することとなる、システムがワタシたちに奉仕するのであって、ワタシたちがシステムに奉仕するのではないという信念がリバタリアニズムのそれなのは言うまでもなく、そうしたイーストウッドの透徹した愛国心は、ヤンキードゥードゥルなアメリカ人のアイデンティティへの憧憬にも似た無垢で駆動するスピルバーグに比べるといっそう寄る辺なく伏し目がちで、やはりトム・ハンクスが主演した実話ベースの『ブリッジ・オブ・スパイ』がてらいなくウィ・キャン・ビー・ヒーローズであったこととは見事なまでに対照的であり、トム・ハンクスの起用は意図的だったのではなかろうかと思ってしまうほどである。事故後に乗り込んだタクシーの運転手との無邪気なやりとりから、後に軟禁状態のホテルを抜け出して入ったバーのバーテンダーとの下世話なやりとりに至るまでの間に、ヒーローはいつしかシステムに捧げられる生け贄となっていくわけで、そうした目眩ましを切らさないことでアメリカン・ドリームというシステムは成立しているのだろうし、イーストウッドがアメリカを描いた時の映画の抜けが往々にして悪いのはそうしたシステムへの嫌悪をスパイスとしているからなのだろう。仮にイーストウッドが『ブリッジ・オブ・スパイ』を撮ったならパワーズに当てるスポットが増えていたようにも思うし、そうした意味で今作ではサレンバーガーの全能感を希釈する存在としてスカイルズ(アーロン・エッカート)に細やかなゆらぎを与えていて抜かりがない。それにしても、こんな風にマーケティングやファンドをすりぬけて自分の立っている場所をメインストリーム映画で示すことのできる監督がこれから先どんどんその数を減らしていくように思ってしまうことには、それこそが「アメリカ映画」という作家性だと当たり前のように考えて映画を観てきた世代からすると若干のあきらめにも似た感慨があるわけで、そうしてみるとやはり、作品の善し悪しとは別の話として、息抜きや気晴らしに映ってしまうような映画を撮っている時間があるのだろうかという観客としての焦燥をスピルバーグに抱いてしまうのが正直なところなのである。一切の迷いがないイーストウッドの語り口の、しかしそれが頑迷で意固地であるかというと、そこには清冽な水を飲み干すような心地よさと居合いの一閃による緊張がもたらす痺れるような快感が備わっているわけで、いったいこの道に誰が続くことができるのか気が気ではなくなってきている。
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2016年09月30日

FAKE/悪魔もすなるケーフェイといふもの

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※ネタバレしてます

彼のした(とされること)によってワタシが損害を被ったわけでもないから、彼に対する怒りや恨みなど当然あるはずもなく、したがってその断罪とかいうよりは、真贋の綱渡りをする危ういスリルをこそ愉しみにするただの野次馬にすぎず、監督もまた世間や世評に徹底して逆張りすることによって綱をあちらからこちらに揺らしつつ墜落の予感を煽っていた点では同じ穴のムジナだったように思うのである。あれだけ光を嫌い、昼なお暗いマンションでのたうち回っていた人間が記者会見ではカメラのフラッシュを全身に浴びつつ微動だにしなかった姿を見て、かつて自分に課したあれこれの設定は禊として捨て去ったんもんだと思っていたものだから、上映が始まってそれらもろもろがまたぞろ復活しているのを見た瞬間に、ああ彼も監督のサーカスに乗ってみることにしたのだなあとほとんどワタシも話半分な気分でいたものだから、喧伝される“衝撃のラスト12分”においてまさにうなじがチリチリと焦げかけたのである。もちろん(もうネタバレしてもいいだろう)、再び作曲という行為に向き合った彼が作り上げた(とされる)音源をシンセで再生するシーン(あくまで再生であって彼が鍵盤を弾いているわけではない)については、そこに至る道筋に監督が掟破りの介入をしたこともあって相変わらず話半分な気分であったのは変わらないのだけれど、ワタシのうなじが焦げかけたのは、それまで一心不乱に糟糠の妻としての姿をカメラに見せていた彼女の、本来であれば彼の一発逆転的な勇姿に涙の一筋を頬に伝わらせてもおかしくないところを、それが善いものなのか悪いものなのかは問わずとも、人を人たらしめている深淵に沈めた錨のようなものに背いた人間がいったい何と化すか、それこそがおそらくフィロソフィカル・ゾンビなのではなかろうかという、虚無を超えた先の絶対無とでもいうその表情への本能的な畏れによっていたのは間違いないように思うのである。これが演出であれば、この瞬間だけ森達也は黒沢清を超えたとすら言っても過言ではないし、そうやって音楽が流れる間、彼の右足だけを延々と撮り続けるカメラの、キミらは音楽に合わせてつい彼の右足がリズムを取ってしまうことをヨダレをたらして待ち望んでるんだろう?というおぞましさの歓待と合わせてみれば、やはりこれは極めて優秀なPOVホラーとして評価されるべきだと考える。ではその見極めを誤り虚実の海に溺れかけたとき、ワタシたちは何を現実とのよすがとすればいいのか。それは猫である。猫だけがこの世界のリアルなのである。途方に暮れたら猫を見ればいい。
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2016年09月27日

コロニア/リコンストラクション・ベイビーズ

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※いささか結末に触れています

意地悪でも何でもなく、イデオロギークラッシュというよりは第三世界のかくれんぼと鬼ごっこにようこそというスリルとサスペンスは『アルゴ』と同様の割り切りであって、レナ(エマ・ワトソン)が愛の名のもとに遂行する命がけの遊戯の、その危うい潔癖症的な一途の正義と尊厳がパウル・シェーファー(ミカエル・ニクヴィスト)と彼のコロニーのグロテスクなシステムに対峙する勧善懲悪ものとして存分であったのは間違いない。ただこれが『ミッシング』『サンチャゴに雨が降る』あるいは『NO』に系譜されるかというとそこは少々曖昧なところがあって、例えばラストにおけるドイツ大使館から空港に至る脱出シーンでのドイツ人大使館員の裏切りは、コロニーに派生するカルト的なコネクションというよりは当時のピノチェト政権を支持していたアメリカを始めとする西側諸国の政治的な判断の表れであったのだろうし、そうしてみれば強行離陸はしてみたものの果たしてフランクフルト空港でいったい何が待ち構えているのか、もちろんこのレナとダニエル(ダニエル・ブリュール)の2人が実在したわけではないにしろ、レナの私闘としての色を濃くして国家の犯罪としての側面を端折ったことで、前述した作品群と共に史実を解釈するだけのスケールや奥行きを持つに至らなかったのは正直なところだろう。それだけに、物語の滋養を充分に与えられたレナを我がものとしたエマ・ワトソンの、私はここに居るわ!という宣言は高らかかつ深々と観客の胸に届いたはずで、正解を探して傷つくのではなく、正解を知っているからこそ傷つかずにはいられない譲れぬ眼差しの人として、自分の資質と世界の認識がこの作品で幸福に出逢ったように思うのである。かつて落合信彦がナチス残党の拠点としてチリにその実態を追ったエスタンジア(農場)の正体がこの「COLONIA DIGNIDAD」であったことは佐藤健寿が既に明らかにしているのだけれど、パウル・シェーファーをはじめとするコロニーの再現を愛でることがワタシの目的でもあったわけで、それらモンド界隈の好事家には見逃すわけにいかない作品なのではなかろうか。そういうことを言うとエマ・ワトソンに蔑むような冷たい目で睨まれるのは必須であるにしろである。まあそれはそれでゾクゾクするにちがいないけれど。
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2016年09月24日

エル・クラン/死を紙袋に入れて

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かつて血の掟の執行人として世界を切り刻む官能を蓄えた男が、その愉悦忘れがたく血の絆を鞭のようにしならせては界隈を切り刻んでいく。俺は恐怖と愛情が支配と名のついた同じ裏口から出てくることを知っている。だから俺はそれを等分にお前たち家族へ与える。なぜなら俺はこのクラン(=一族)の王で、お前たちは俺を蹴り出した世界と闘わなければならないからだ。世界を支配せよ。身代金は戦利品である。というわけで、なめていた。明らかにミスリードを誘う日本版予告と製作のアルモドバルの名前から『人生スイッチ』あたりの黒みがかったオフビートコメディとたかをくくっていたところが、『アニマル・キングダム』『悪魔のいけにえ』『マーシュランド』といったあたりが記憶を撫で回すどす黒い悪意と茶色い狂気に満ち満ちて、ふいに被せられたズタ袋に視界と呼吸を奪われて遠のく意識が最後に視る悪夢のような走馬灯に、こちらの逃げ場すらが奪われたあげくのブラックアウトである。そうやって虜に堕ちたワタシにすれば、人間としての解釈と理解がほぼ不可能なモンスターとしての父アルキメデス(ギレルモ・フランセーヤ)にはもはや惚れ惚れとするしかなく、それが何であれ生き方のブレない人間には一定の尊敬が与えられて然るべきであると考える。したがって最も残酷な悲劇は餌と屠られるだけの人質にではなく、モンスターの子として生まれモンスターに孵化することを運命づけられたアレハンドロ(ピーター・ランサーニ)に訪れるわけで、実際のところこの映画は家族の犯罪を告発するというよりはこの父と子の吐き気がするほどグロテスクな相克を背骨としていて、父がモンスターとして際立てば際立つほど子の正気が破壊されていく神経戦の、その容赦なく苛むような図式を甘く見ていると跳弾でこちらまでやられてしまうに違いないほどであって、その関係を断ち切るため最終的にアレハンドロが選んだその決着の、わずかに残った正気に賭けて自由へ向かった悲愴と、なによりそのシーンの生み出す唖然とした昂奮を知るだけでもこの映画を観る意味があるように思ったのである。ワタシたちが視えているものは視ていないかわりに、ワタシたちに視えない何かを視るようにいっさいのまばたきをしないアルキメデスの、しかしその見つめる先の虚空はアレハンドロに繋がっているのではなかろうかと思わせるアレハンドロのフラッシュフォワードな白日夢のシーンや、カーセックスをするアレハンドロと人質をなぶるアルキメデスをカットバックでつなぐシーンでの弾けるようなアルゼンチンポップ、暴力が噴出するシーンにインサートされるCCRやデヴィッド・リー・ロスという悪食の食合せが、ブエノスアイレスのストリートをマジックリアリズムへと誘う合図となって、ワタシともども悪酔いの酩酊に引きずり込んでいく。そうやってワタシたちが聴かされるキンクスはじめロック・チューンのあれこれが、実は監禁部屋の人質があげる叫び声をかき消すために大音量で鳴らされるラジオから流れてくる音声であったことに気づかされるシーンの至極当たり前のような薄ら寒さも含め、こんな風に天国と地獄のぐうの音も出ない振幅はもはや南半球(と南半球出身)の監督にしか描けないようにすら思うのである。死は選択的ではない。
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2016年09月21日

BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント/BIG FART GROOVE

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ロアルド・ダールの原作は未読。孤児ソフィー(ルビー・バーンヒル)を主人公とする児童文学の映画化ではあるけれど、最終的に彼女がつかむ幸福はビルドゥングスロマン的な学習と成長のご褒美というよりは目端の利く現実主義者としての才覚によるものであって、それを可能とする子供の誇大妄想的な言い分をナンセンスなホラ話として愛でる分には文句なしに愉しい。機転と度胸でピンチを切り抜け、優しさゆえに気の弱いBFG(マーク・ライランス)を叱咤激励してはイギリス女王(ペネロープ・ウィルトン)まで巻き込んだあげく悪い巨人をやっつけてしまう大団円は冒険譚としても痛快だし、宮殿で繰り広げる『ブレージング・サドル』的なスラップスティックはこれこそがこの映画の隠す裏の顔でもあるわけなのだけれど、問題なのは表の顔であるはずの孤独な少女と心優しい巨人のタッグが、ソフィーがストレートで屈託のない子供らしさを発揮すればするほど重要な主題でなくなってしまう点にあって、おそらくは夢使いとしてのBFGがソフィーの小さな空っぽに夢を吹き込んでやるようなファンタジーをスピルバーグは探したのだろうけれど、ソフィーはそんな助けなど必要ないくらい溌剌と立ち回っては何も差し出すことなく現世的な幸せを手に入れてしまうのである。ただ『タンタンの冒険』の時もそうだったけれど、スピルバーグはことこのジャンルにおいては例えばスコセッシが『ヒューゴの不思議な発明』で色づけたような個人的な介入に興味がないように見えることを思えば、やはり今回はメリッサ・マシスンの脚本に対する敬意を最優先にしたということになるのではなかろうか。原作ではどの程度の描写なのか分からないけれど人食い巨人といいつつそうした描写も一切ないわけで、レイティングの問題はあるにしろ劇中の彼らはBFGを虐める暴れん坊というだけで、ソフィーを追い回すにしろ人食いとしての脅威は前面に描かれていないのである。しかし、ソフィーより以前にBFGに連れて来られて結局は人食い巨人に食われてしまった男の子が住んでいた小部屋の、彼がどんな男の子でどんな風に日々を過ごしたのかを告げる跡形にかぶった埃の薄ら寒さが告げる主の永遠の不在に、この男の子は生きたまま巨人に食われて死んでしまったのだとぐいぐいねじ込んで来る寄る辺のなさにスピルバーグの真顔がうかがえたりもしたわけで、そのあたりのもどかしさはそもそもがスピルバーグにこそ充満しているのではないかと、封印されたデモニッシュにやはりワタシは焦がれてしまうのである。結局この映画をいちばん愉しんだのは『タンタンの冒険』がそうであったように自在を与えられたヤヌス・カミンスキーということになるのだろう。それにしても、巨大な人形(ひとがた)が人間をわしづかみにするシーンをみるとどうしてこうも胸がざわざわしてしまうのか。キングコング、サイクロプス、ガイラとその源泉をたどっていくと、最終的にはワタシが劇場で初めて観た映画『大魔神』に行きつくはずで、武神から魔神に変身する憤怒の形相にワタシが泣き叫ぶあまり父親は幼児のワタシを連れて途中で劇場を出たらしく、なぜマイファーストムーヴィーにそんな映画を選んだのか尋ねても覚えていないというばかりなのだけれど、何かしらの原初的な昂奮が刷り込まれているのは間違いがないわけで、三つ子の魂百までとは本当によく言ったものだと感心するしかないのである。茫洋とした巨人のヴィジュアルや使い古された感動アピールに辟易されたのか劇場はすっからかんらしいけれど、実存めいた問いかけさえすればドラマを手に入れられると思っている最近のブロックバスターに顕著な押しつけがましさも結果として霧散してしまっているし、特に前述した『ブレージングサドル』の豆食いのシーンをイギリス女王で再現していると聞いて色めき立つような方は観ておいて損はないように思う。そもそも映画なんて損をしなかったと思えば御の字のはずが、得をするのが当たり前と思ってるから不幸になるんだと思うけどね。

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2016年09月19日

オーバー・フェンス/泣くには空が高すぎる

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原作の聡は白岩が精神を復旧するための予備電源とでも言おうか、どちらかと言えば都合のいい女として描かれていて今ひとつ顔の見えない女性であったのだけれど、ここでの聡(蒼井優)は白岩(オダギリジョー)にとって都合の悪い女であり続けることで、そこに生まれる軋轢が、自身と白岩を覆い尽くし身動きを奪う血の味のする鉄さびを削ぎ落としてくれるかもしれないという可能性に渾身で賭けていたように思うのである。代島(松田翔太)や森(満島真之介)が白岩に対してひそかによすがを託そうとするのは、白岩の内部が喪失に食い尽くされていないことを既に食い尽くされつつある者のうっすらとした恐怖が気づかせているからで、こと代島においては彼だけが知る自身と聡と白岩の三角関係がそれがいっそう明らかにしている。したがって、「俺はなくすもんなんて何もないから(もう、あてにしないでくれ)」という代島への拒絶が白岩から聡への正式な求愛を後押しすることにもなったわけで、それまでに費やされた聡の周辺に関するマジックリアリズム的な描写や振る舞いはこのシーンを成立させるためにあったのかと、実を言えばそれらの色使いとワタシの相性にまったく問題がなかったと言えないこともあり、ここでようやくストンと腑に落ちた気がしたのである。とは言え、これは別れた妻の洋子(優香)と対比させる意味と必要があってのことなのだろうけれど、中篇『黄金の服』の登場人物アキのシルエットを引用してまで(特にあの夜の「静かにしてよ、父も母もいるから」から始まり「これをしないと身体が腐る気がする」という言葉まで含めた沐浴の儀式と精神安定剤の服用に至る描写まるごと)聡を病質の人とした設定の窮屈については、山下監督の差し出してきた語らずとも知らしめる空気の醸成を好物としてきた身にとって若干ノイズであったことは否めないのは正直なところで、前述のアキの場合、その失調と薬への依存それ自体が彼女の在り方として物語の運命に関わっていた必然性からすると、聡に病質を背負わせてまで闇の奥に堕としておくことが果たして必要だったのかという収まりの悪さが未だに残ってしまっていて、聡が病状としてああであった人に思えてしまうのが何だかモヤモヤしてしまうのだ。昼の時間である職業訓練校についてはその笑うに笑えないしゃちほこばった切実は山下監督の独壇場であったし、最終的には聡が夜の時間から昼の光の中に歩み出すことで両者が邂逅するラストは三部作の掉尾を飾るにふさわしい眩しさにあふれていただけに、やはりワタシにとっては名手高田亮のフィルダースチョイスに思えてならないのである。聡が白頭鷲にむかって逃げろと叫ぶくだりでブランキーの「皆殺しのトランペット」が頭のなかで再生されて思わずどくんと脈を打った瞬間、いろいろなことがその時のためにあるのだなとどこかの誰かに感謝した。
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2016年09月18日

グッバイ、サマー/する子は育つ

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そのタフな家庭環境を含め、ダニエル(アンジェ・ダルジャン)にとって自分のコレジャナイをすべて持ち合わせているテオ(テオフィル・バケ)を、彼のイマジナリーフレンドのような存在としてワタシも思い始めていたものだから、終盤に向かうあたりで初めて勃発する諍いでテオがダニエルに向かって言う「きみはいつも自分のことばかりじゃないか、一度でもぼくのことを質問したことがあったかい?」というセリフに、ああこれは“ミクロ&ガソリン”(原題)の物語であると同時に“ガソリン&ミクロ”の物語でもあるに決まっているじゃないかと気を引き締めてみれば、その後のテオの運命が切なくのしかかってくるばかりであって、テオが何の屈託もなく笑えたのはこの夏が最後だったのではなかろうかと、『小さな恋のメロディ』でもダニエルとメロディの行く末よりは親友を失ってしまうトムに気が気ではなかったことなど想い出したりもしたのである。だからこそラストシーンでダニエルはローラ(ディアーヌ・ベニエ)をふり返ってはならなかったわけだし、それはそのまま彼の通過儀礼の最終試験となっていたようにも思うのである。試験の結果についてはダニエルの後ろ姿に向けてローラがつぶやくある言葉がその合否を告げることになるのだけれど、残酷なまでにテオの影の一切を振り払う新たな思春のフェーズを予感させるその一言によって、完璧なひと夏のオブセッションはシミひとつないまま永遠に真空パックされることになるわけで、これを自伝的追想と語りうるミシェル・ゴンドリーの尋常ならざる思春のきらめきがワタシにはむしろ畏ろしいほどだし、こうした発露から世界に踏み出したミシェル・ゴンドリーが大西洋の向こうのブロンクスの青春(『ウィ・アンド・アイ』)をその息づかいのフィクショナルまで捉えてしまう縦横無尽に、あなたは一体誰なんだ?と皮肉をとっぱらって尋ねてみたいと思ってしまうのだ。いつの間にか中学生の母を演じるステージとなったオドレイ・トトゥのマイルド・ヒッピーっぷりが絶妙。あるシーンでアジア系の女性が話す日本語セリフのネイティヴな語感がやたらと新鮮で、カタナさんもあんな風だったらよかったのにと思った。
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2016年09月15日

アスファルト/一人でもニンゲン

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宇宙飛行士ジョン・マッケンジー(マイケル・ピット)が知らず持ち帰った混じりけのない孤独が、いまだ名前を持たぬあちらやこちらの屈託に“孤独”と名前をつけてゆく。ただその孤独は、孤絶や孤立といった世界との断絶のサインというよりは自分の精神のサイズを確認することでこの世界のどこにフィットするのかを知る作業のようにも思え、結果として彼女のもてなしが、マッケンジーが高純度の孤独で自家中毒を起こさないためのやわらかなケアとなるマダム・ハミダ(タサディット・マンディ)をリーダーとでもするかのように、高校生シャルリ(ジュール・ベンシェトリ)は女優ジャンヌ・メイヤー(イザベル・ユペール)の、看護師(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)はスタンコヴィッチ(ギュスタヴ・ケルヴェン)のメンターとして孤独への軟着陸を優しく静かに誘ってみせる。一見したところの立ち尽くし系悲喜劇はカウリスマキの系譜にも思えるけれど、押し殺した無表情の誘爆で笑わせるというよりは、その無表情が良きにつけ悪しきにつけ崩れていく瞬間を委ねているので、感情はそれぞれに意外なほどカラフルでほとんど人情といってもいい立ち入り方をしてきて、マダムとマッケンジーの孤独に関する禅問答をブリッジに、孤独を知ることで新たな訣別を団地の部屋に選んだジャンヌと、つながりを求め団地から踏み出したスタンコヴィッチの、シニカルをくぐったあくまで肯定的な描き分けは、幸福には成熟した孤独も必要なのだという監督の確たる想いの反映になるのだろう。ラストで明かされる「音」の正体の、孤独の不穏とか不安の理由なんてわりかしそんなもんだよというあっかんべーはなかなかギリギリの寸止めではあるけれど、その食えなさこそがこの映画の真顔であったことで孤独が清々しく弾んだのではなかろうか。ジャン=ルイ・トランティニャンの孫の切っ先はけっこうしなやかで鋭い。
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2016年09月12日

スーサイド・スクワッド/EVIL WAR

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人様をぶっ殺しておいてぐっすり眠れるようなやつが愛とかほざけるわけないだろ?とニヒルをきめこんでおきながら、盗人にも三分の理と唱えるその理こそが愛にほかならないという無い袖のは振り方は、ディズニー(とその傘下のマーヴェル・スタジオ)には到底撮れないし撮るつもりもないであろう行き先知らずのセンチメントを暴発させてはその残滓を叩きつける、まるでアクションペインティングのような出たとこ勝負のコラージュとなって、当然のこと脇は甘いし見通しはでたらめではあるのだけれど、万人が共有できる(というか共有を求めてくる)ような正解探しの自問自答を放棄したある種の潔さはもしかしたらこの夏いちばん沁みたようにも思うのである。してみると、これまでもそんな風にして割り切れないものは割り切らないままウェットワーク国家アメリカの憂鬱を描いてきたデヴィッド・エアーに脚本とメガホンを一任した慧眼は、ようやくDCが自らのファイトスタイルを自覚したあらわれでもあるのだろうし、それはエピローグにおいてジャスティス・リーグの胎動を告げたあの人の昏い目に明らかだったように思えたのである。となれば、正しい答えはディズニー(とその傘下のマーヴェル・スタジオ)に探してもらうとして、こちらは正しい誤答を振りまきながらこけつまろびつしていけば、時々は真実を踏みつける余禄もあるだろう。もちろん合言葉は“下手の考え休むに似たり”であるからして、いまだ自分が下手だとは認めないザック・スナイダーからはそそくさと実権を取り上げて、ベン・アフレックをケヴィン・ファイギの対抗馬に据えるべきである。それにしてもラスボスのシークエンスはいささかゴーストバスターズ&破壊神ゴーザの既視感が過ぎないかと思うにしろ、まあそれを言ってしまえばそもそもが『ニューヨーク1997』でもあったわけで、とは言えデヴィッド・エアーがジョン・カーペンター越しにジョン・フォードやハワード・ホークスを仰ぎ見る人なのだとすればそれは至極まっとうなラインに思えるし、男女の別なく矜持に生きる人間のメランコリーをいつもの鈍色から極彩色に染め上げてみせた点で、何よりデヴィッド・エアーの新作としては充分だったように思うのである。ニック・フューリーには絶対不可能な外道を涼しい顔でやってのけては修羅を行くアマンダ・ウォーラー(ヴィオラ・デイヴィス)がMVP。そして彼女と密約を目配せするあの人のまとう暗躍の香りたちこめるはきだめの活路が、なお暗がりへとついに開けてゆく予感にうなじが少し疼いた。
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2016年09月06日

ミュータント・ニンジャ・タートルズ:影<シャドウズ>/叱られたくて

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必ずしもこれが敗戦であったというわけではないにしろ、その離脱によるジョニー・ノックスヴィル不敗伝説が図らずも維持された気がしてしまうのは、兄弟ゲンカをさせるためとはいえ、カメをやめて人間になるか否かなどというけっこう大上段なネタをもてあそぶあたりの真顔が面倒くさいなあと思ってしまったことや、先だっての『ゴーストバスターズ』の友情問題のように、ストーリーのフックとしてであるにしろ何かしらの“正解”を求めるような素振りは他の映画でやってくれればいいのにと、そういえばこれもまたニューヨークを襲う脅威を土地っ子が救う物語であったなあと、何だかこじんまりとした気分の正体がそうした既視感であったことに思い至ったりもしたのである。やはりナンセンスとは正しい誤答であるべきで、折々の正解を見据えてはそこに足払いをしかけていくものであって正解を輝かせる露払いとしての悪ふざけではないのである。せっかくのローラ・リニーも自爆させないままではただの朴念仁ではないか。してみるとやはり、ジョニー・ノックスヴィルの危機回避能力とその嗅覚はさすがであったとしかいいようがない。もっとディズニーがやらない/やれないことをやるべきだろう。誰も彼もが省みなければならないわけでもあるまい。
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2016年09月04日

セルフレス〜覚醒した記憶/誰かの涙がとまらない

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もう石岡瑛子はいないのだ、もう彼女の紡ぐ気高い悪夢を着ることはできないのだ、ならば悪夢となる人間を文字通り着せてしまえばいいのではないかとする一か八かの未練が呼び出したのは、結果として『ザ・セル』『落下の王国』に連なる入れ子が揺らす救済と再生の物語であって、やはりターセム・シンは深部で感応する記憶と喪失のオブセッションを探り続けていくべきだろうとあらためて思ったのである。石岡瑛子が捉えていたある種の禍々しさは、気が狂うほどの永遠に閉じこめられた記憶の水晶化した憤怒にも思え、かつてその解放と鎮魂をテーマとしたターセム・シンにとって、それが無慈悲に透徹すればするほど達成の跳躍を稼ぐことが可能であったのは間違いがないわけで、してみると、ダミアン(ベン・キングズレー)が慈愛にあふれたマーク(ライアン・レイノルズ)の記憶に触れることで自身を顧みることを進めたのは“記憶”を追いつめて切り刻むことで幻視を獲得してきたターセム・シンによる、石岡瑛子との別離を区切りとした上での懺悔であったようにも思うし、マークとダミアンが共に選んだ自己犠牲がもたらした結末を照らす灯りにその曙光を求めたのだろう。そうした舵取りもあって、異形の輪郭が整然とうごめくあの世とは思えないこの世の禁忌に嫌悪する快感は失われているけれど、ニューオーリンズでの躁病的な享楽をたたみかける編集の超絶リズムや、時折あらわれる夢うつつのように物憂げなカメラのパン、実はタイトでケレンにみちたアクション演出が可能であることなど、象徴やメタファーよりは感情のレイヤーを手前にしてみせたことで現代劇としての奥行きに息づかいを感じさせて、例えば近年のアンドリュー・ニコルによる匿名近未来モノと比べると、そのヴィジュアリストとしての矜持とミニマルな手練手管の実践には感嘆せざるを得ないように思うのである。燃えさかる炎さえあれば状況を完成してみせるとでもいう、燃える車、燃える家、燃える人のメランコリーに胸がざわっとするのだ。冷熱のマッド・サイエンティストとしてまばたきを忘れたかのようなマシュー・グードの凝視も、ようやくそう来たかというレプリカントのエレガントであった。
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2016年09月02日

ライト/オフ〜太陽が眩しかったから

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レベッカ役のテリーサ・パーマーはどちらかというと横顔の方がかっこいいショットが生まれやすいなあと思っていたら、何度となくそれを生かすショットに出くわしたりして案外こんなことで監督との肌は合ってしまったりもするわけで、『ババドック』ほどキリキリと神経を苛まず『オキュラス』ほどがっぷりと理詰めではないその塩梅の、だからといって中庸や凡庸とは異なるホラーマナーの心地よさは、言ってみれば助手席に座った時のアクセルとブレーキのストレスフリーなタイミングに近いかと。それもこれも“闇”に対するワタシ達の恐怖と“光”に対するダイアナの恐怖がなぜ背中合わせに成立するのかという設定の妙がヤリ逃げを許さないことで、ストーリーの重心が次第に低くなっていくシフトワークが闇の濃淡を見極めることを誘ってくるからに他ならず、前述した理詰めの甘さはその攻防よりも奥底の濃淡を愛でることを求めた結果であったということになるのだろう。この重心のキープについてはレベッカのボーイフレンドであるブレット(アレクサンダー・ディペルシア)の描写が思いのほか奏功していて、レベッカにかけられた呪いによる典型的な生け贄として登場しつつ、レベッカに対する誠実さによって局面を良い意味で裏切っていくことでストーリーの圧力が低下するのを未然に防いでいたのではなかろうか。ダイアナがイドの怪物であることが告げられ始めた時点でその打破と結末が薄々思い浮かぶにしろ、それゆえあの呆気ないといってもいいソフィー(マリア・ベロ)の選択がより哀切を誘うことになるわけで、くどくどとした口上もスローモーションもない強い感情によるあしらいの潔さはさすがワンの穴の門下生といったところである。闇を愛するのではなく、そこでしか存在が許されない非業のヒロインであるダイアナを生み出したエリック・ハイセラーの脚本こそがそれらジェームズ・ワンの刻印となっていたことは言うまでもないけれど、すべてを見渡しながら歩を進めるこの監督の含み笑いのようなモデラートを生来の歩幅だとジェームズ・ワンが見抜いたからこそのフックアップなのだろうし、既に『アナベル2』のメガホンを任されていることなど知ってみれば、今作は紛うことなき合格の印であったということになるのだろう。81分という上映時間にあと10分足して少女時代のソフィーとダイアナのフラッシュバックをシークエンスに深める手もあったとは思うけれど、カットバックせずにワンカットでいないいないばあを見せては思わず膝を打たせる快感の余韻を手放さないための選択としては、やはりこちらが正解だったのだろう。なぜキミたちアメリカ人の大好きなマグライトを使わないのだ、とは思ったけれど。

Lights Out - Who's There Film Challenge (2013)
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2016年08月30日

イレブン・ミニッツ/犬は往ぬ

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「現在の映画では、ものを言うのはテクノロジー、テンポの速さ、細切れに編集されたカットの数々ということになってしまっているけれども、個人的にはとてもじゃないが耐えられない。こんなものがスクリーン上に真実をもたらしてくれるわけがない。真実は、長く続く穏やかなショットの数々にこそ到来する」「現代映画は万華鏡みたいなものだ。刹那的な結びつきを要求しながら、映像の大群とともに押し寄せてくるわけだ。そして観客の心のなかに、混沌と空虚を残していく」とかつて語ったスコリモフスキが、まさにそうした映画を豪腕で撮りあげてしまっているのだけれど、5時11分過ぎのワタシをつつんでいたのがまさにその混沌と空虚であったことを想い出してみれば、監督の目論見は完璧に達成されたことになるのだろう。運命とは、ワタシ達のすべてが時間というシステムに相乗りせざるを得ないことによる喜劇であり悲劇であり、それらに対する形ばかりの抵抗として倫理やらモラルやらで空虚の穴を塞いでいるにすぎず、しかしそれらは滑稽なまでに無益な抵抗でしかないし、生死をわけるのはワタシ達の生き様でもなんでもなくエントロピーの増大がもたらす無秩序がかざすひと触れに過ぎないという、寄る辺ない真実の仮説をスコリモフスキは真顔でちゃぶ台返しを再現してみせることでぶちあげてみせる。しかしそうやって天の配剤を鼻で笑っておきながら、どこかしら天の介在をを示唆するような象徴を意味ありげに弄ぶ食えなさは、いっそこれらをコメディとして笑い飛ばしてしまえればいいのにという捻れたオプティミズムすら匂わせるのだけれど、『アンナと過ごした4日間』や『エッセンシャル・キリング』に通底した、本質とはかくも滑稽で無様なものであり我々はそれを隠蔽するために社会や制度といったすべてのシステムをまとっているのであって、私が行っているのはそのスカートめくりのようなものであるという大上段の余裕は、ここではあまりに性急な直接性に取って代わられていて意外なほどで、ニヒルすら突き抜けたその焦燥は果たして黒点から逃走する疾駆の足取りであったのか、追うものが追われる者になった恐怖を77歳にして知った歓びがこの映画を撮らせたのだとしたら、すべての逃走者が向かった果てのカタストロフを殴りつけるような官能で幻視する愉悦に誰あろうスコリモフスキが打ち震えていたことにワタシは打ち震えたのである。そして言うまでもなくサウンド最凶。ナグラ持ってジュールのようにぜんぶ録ってしまいたい。
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2016年08月27日

ダーティー・コップ/他人(ひと)より嘘が上手いだけ

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ああ、きみがイライジャか。何か最近はこっち側でたのしくやってるみたいじゃないか。まあ今後のこともあるからこのあたりで一回、本物の茶番がどういうもんか見て知っておくのもいいんじゃないか。これで飯食ってくのも傍で見るより楽じゃないんだよ。まず言っておきたいのはここじゃメソッドはクソの役にも立たないってことだ。メソッドはプロットを殺しちまう。いいか、プロットの邪魔をするな、プロットに乗れ、それだけを考えろ。内面とかそういう益体のないもんはしまっとけ。哀しい時や困ったときは眉毛を八の字にしろ。怒った時はそれを逆にすればいい。そしてプロットの鍵になるセリフを言う時は、いくらか体を半身にして、ええとキミは右利きか?そうか、そしたら半身にして右手で相手を指差して三白眼ぎみでツバ飛ばしてまくしたてろ。そうやって決めつけちまえ、プロットどおりにな。それと、キミのはそれ自毛か?ああそうか、それはそれとしてカツラもガワ作りにはかなり有効だからハゲても気にするな、むしろ自由度が増す。そういえばむかしショーン・ペンに、もうお前はアクターじゃなくてパフォーマーだとか嫌味を言われたことがあったけど、例えば今のあいつの『ザ・ガンマン』な。あの素晴らしい原作をどうにも凡庸で煮え切らないフィルムにしちまったのはあいつがパフォーマーに徹してプロットに殉じてないからなんだよ。オスカーなんか獲っちまうと自分で自分を演じ始めたりするから始末に終えないし、あいつはまだそれをわかってないんだよ…。それじゃとりあえず、金庫の中のブツがやばすぎて、これは自分たちの手に負える相手じゃないと気づいたキミが勝手に金庫を閉めちまったあげく、メモった解錠の番号も俺に見せずに消しちまったシーンをやってみよう。激昂した俺がキミの胸ぐら掴んで金庫の扉に叩きつけてそれを開けるようにつめよるところな。「開けてくれ!」「できないよ…」ドガシャン!「開けろ!ジム!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!」さあ、俺はいま何回 “開けろ!”って言ったと思う?ん?どした、泣いてんのか?
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2016年08月23日

ゴーストバスターズ/ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ビーム

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意味のないものに意味を与えると、それが進んで意味を脱ぎ捨てていたとなればなおさらのことおせっかいで説教臭い窮屈に顔をしかめ反発してしまうのだけれど、この映画は気まぐれとでたらめと無責任が組み上げるモラトリアム、すなわち5時の鐘が鳴っても家に帰らず遊び続けるには、1日の終りによって積み重なっていく人生の意味を考えたりしなければそれにつかまることもないのだ、と得意気に開き直るオリジナルのハナタレ頭をよしよしと撫でつつも、でもあなたたちには遊ぶ相手がいたでしょう?それすらなかった私たちには友情こそが人生の意味なのよ、だからこうやって一緒に遊べるのが愉しくてしかたないのよねという解放感と多幸感のおかげでいっさい顔をしかめることのない笑顔あふれるリブートとなっていたのは確かなのである。ただ、ローワン・ノース(ニール・ケイシー)のパートがともすれば煮え切らないというか足が止まってしまうのは、友情というテーマで彼の孤独をバスターズの対称軸とするにしては彼を追い込む残酷を手加減していたからであるようにも思え、その曖昧さが『ゴーストバスターズ2』のヤノシュを思い出させてあまりありがたくないオマージュとなってしまった気がしないでもない。これはポール・フェイグとの相性の問題でもあるのだけれど、デバージでホルツマン(ケイト・マッキノン)が踊るシーンの80年代的ダレ場感などそこまでトレースしなくてもと思ったし、テーマの足腰を強くするために個々のキャラクター描写に時間を割きすぎたせいでなかなかバスターズの映画にならないこと、そして何より終盤の対決シーンをあまりにもCGで塗りたくってしまったことで、もっとドタバタが活かせたであろう4人の体技がいささか不発であったのがけっこうな不満に思えたのは正直なところであって、あろうことかその最中に一瞬とはいえ寝落ちすらした始末である。ケヴィン(クリス・ヘムズワース)のセックストークン的な扱いは笑っていればいいだけであるにしろ、あれをもってアーニー・ポッツの裏返しとするのは少々彼女に失礼ではなかろうかと思ってしまうし、そこまで徹底的に性を裏返すのであれば市長も市長補佐も女性にした上で、なおかつ市長補佐をバスターズに敵意を燃やす間抜けとするべきだし、彼女も加えてのああいった打ち上げ気分は少しずるいだろうよと拗ねてみたりもしたのである。好き勝手に遊び回ったしっぺ返しとして結局は厄介者扱いされるオリジナル・バスターズに比べると彼女たちの門出は少し祝福されすぎな気がしないでもないのだけれど、まあそれはそれでご祝儀として懐におさめておけばいいのだろう。それはともかく、これだけ律儀に仁義を切ったのだから次作はもっと好き勝手に底を踏み抜いてしまってもいいはずだし、第一ワタシにすれば男性が演じようが女性が演じようが本当にどうでもいいわけで、ガラクタな空想科学vs幽霊という胸躍るナンセンスが観たいだけなのである。No-Ghostサインを掲げてバスターズを名乗れるのは世界中にこの映画だけなのだから。
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2016年08月18日

ジャングル・ブック/けものに交われば狡いと為す

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キング・ルーイの家来サルの群れに仁王立ちのまま覆いつくされるバルーは、まるでソルジャーレギオンとガメラのようであったし、バルーとシア・カーンのファイトはまさに殺し合いと呼ぶにふさわしい爪と牙の応酬で、そういった擬人化のくびきを離れる瞬間こそがこの動物絵巻最大の醍醐味だったように思うのである。とはいえメインとなるのはモーグリがおのれを知るに至る道行きであって、それを支えるのは昨今のディズニーが自らへ積極的に課するダイバーシティの視線となるのだけれど、動物たちのガワが見紛うことなくそのものであればあるほど、ジャングルにおいては人間と一線を画すその掟と生態系が野暮な説明を求めてくるように思うわけで、カメラの陰でバギーラはインパラを食すのだろうし、モーグリとて「ネズミと捕りに行こうよ」というグレイのさりげない一言からうかがえるように、狼の子として育てられている以上彼らが組み込まれた食物連鎖から自由であるはずはないだろう。そしてそのことをあまり考えさせないためなのか、動物同士の闘いにおいてその獣性をあからさまに咆哮するのは冒頭でもふれたように主にバルーにまかされており、しかし事前にバルーの好物がハチミツであることをくどいくらいに告げておいたおかげで、彼はやむを得ずああして爪を立て牙を剥いているだけなのだと屠る者としての素性が免除されるようになっていて、それはモーグリの親代わりとなって育ててきたオオカミたちが獣性を極力明らかにしないのとは対照的で、劇中でモーグリが唯一口にするのが果物である点もそのあたりの煙幕だったのだろう。楽園(ジャングル)からの追放、大蛇カーとの邂逅と併せてみれば知恵を手に入れてしまった者の末路が、モーグリの目には“赤い花”が象徴するデモニッシュな世界と映る人間社会に向かうことはある意味腑に落ちるのだけれど、いくらワタシが野暮とはいえそこまで寄る辺のない話を求めているはずもなく、しかしシア・カーンの脅威が去ったとはいえジャングルにとどまるモーグリは自身の知性が発露していくのをどこまで抑えることができるのか、あのラストは束の間の楽園をとらえたようにしか思えなかったのである。また、シア・カーンは虎としての自身に忠実であっただけなのではなかろうかと思ってしまうのも、彼が“掟破りで遊び半分に狩りをする”ことを描写しないがゆえであって、擬人化によるリアルとリアリティの(どちらかと言えば都合のいい)混濁、人間の言葉は話すけれど思考が人間のそれと異なるとすれば虎であるシア・カーンの行為を快楽殺人と裁くわけにもいかず、ではモーグリのそれは果たして人間の理性が発する言葉なのかという回りくどさにとらわれたワタシは、野暮の極みとは知りつつ神なき世界の成り行きを真顔で追っては何だか疲れてしまっていたのである。そういえば血を流したのはモーグリだけであった。
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2016年08月15日

栄光のランナー 1936ベルリン/晴れた日に永遠が撮れる

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偉人の人間宣言的な浮気パートが、というかそこに至るまでがほんとうに眠たくて、ゲッベルス!ゲッベルス!リーフェンシュタール!リーフェンシュタール!と箸で茶碗を叩きたい気分だったわけである。だいたいが「きみの成績なら引く手あまただったろうに、どうして俺のところに来たんだ?」と訊ねるラリー・スナイダー(ジェイソン・サダイキス)に「ライリー・コーチがあなたを薦めたんだ」と答えるジェシー・オーウェンス(ステファン・ジェームズ)のセリフに突然名前の出てくるライリー・コーチって誰なんだよと思って調べてみれば、ジュニアハイ時代のコーチで実質的にオーウェンスを見出した人らしく、彼に道筋を与えたという意味ではバイオグラフィー的にはかなりの重要人物であるにも関わらず劇中にはそのセリフ以外まったく登場してこないわけで、恩師について語らずとも彼の浮気についてはまだるっこしく時間を割くことにより、これは彼の人生ではなく人間としての彼を描くのだということを告げているのだろうけれど、正直言ってこちらが待っているのは彼がどんな風にヒトラーとナチスドイツをコケにしたのかというただそれだけなのである。したがって、役者が揃ったドイツ・パートからの複層的に加速するスリルに明らかなようにこの映画は『アルゴ』タイプのポリティカルサスペンスを狙うべきだったように思うわけで、全米体育協会会長エレミア・マホニー(ウィリアム・ハート)とアメリカオリンピック委員会会長アヴェリー・ブランデージ(ジェレミー・アイアンズ)の暗闘を前哨戦に、トラックのオーウェンスは痛快かつ爽快に、ゲッベルス(バーナビー・メッチェラート)とブランデージ、ゲッベルスとリーフェンシュタールといったその舞台裏をキナ臭く描くことで、原題(”RACE”)のダブルミーニングがより立体的になった気もするし、オーウェンスとルッツ・ロング(デヴィッド・クロス)の純粋な交流ですらが、さらに切実で抜き差しならない色を帯びることになったように思うのである。リーフェンシュタールにしろブランデージにしろけっこうなキメ打ちをしていることを思えばネタ本あっての脚色映画化というわけでもなさそうだし、フェアネスを描くのに手段もフェアである必要がないことくらい重々承知であるはずのこの監督にしては人生の徳を積もうとするのはまだまだ早すぎるように思うのだけれど、『プレデター2』を撮った男よりはジェシー・オーウェンスの生涯を描いた男として爪あとを残したいのだと言われたらそれはそれで為す術がないのも仕方がないところなのである。酔狂はつらいよ。
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2016年08月13日

X-MEN:アポカリプス/つよくただしくかしましく

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それでも『フューチャー&パスト』には、マシュー・ヴォーンに蹂躙された非現実の王国を奪還しようとするブライアン・シンガーの息が乱れ頬の紅潮する昂ぶりが感情を引き裂く瞬間があったし、それにはエリック(マイケル・ファスベンダー)をマシュー・ヴォーンの落とし子とみなすことで格好の仮想敵足りえた僥倖も働いていたわけだけれども、いざ非現実の王国を掌握しヴィヴィアン・ガールズを指揮する将軍として君臨してみると、セックスと死の香りを忌み嫌うシンガーの潔癖症はエリックをどう扱っていいのか傍目にも気の毒なくらい混乱してしまうわけである。となれば、シンガーの傀儡として動くチャールズ(ジェームズ・マカヴォイ)の、彼がそうあって欲しいと願うエリックの記号にはめ込むことがせいぜいでしかないわけで、結果として、かつてピカレスクの色香によって善悪のくびきを波打たせていたエリックの身のこなしは完全に失われ、シンガーへの反逆罪に問われた罪人として完膚なきまでに去勢されてしまっている。残念ながら。したがって、真打ち登場ともいえるアポカリプス(オスカー・アイザック)にしろエリックを跪かせるための道具立てに過ぎず、誰に何ができて何ができないのかがあまりにも杜撰なまま放っておかれるものだから、できないことをカヴァーするためにできることを組み合わせるタスクフォース的な妙味もへったくれもないまま、最終的にはジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)をスペシウム光線にそそくさと幕引きをはかることになるわけで、結局のところシンガーが撮りたいのは“恵まれし子らの学園”を舞台にした非現実の王国版「ビバリーヒルズ青春白書」でしかないように思うし、MCUとDCEUのニッチを狙うとしたら、むしろそれしかなかろうという気さえするのだけれどいかがだろう。雪山に消えていくウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)の背中でむせび泣いたエレジーだけが忘れがたく、あとはずっとジェニファー・ローレンスにMind your own business!と言われ続けているような気分であった。それはそれで密かに疼いたりはするのだけれど。
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2016年08月09日

ハイ・ライズ/ぜんぶ、サッチャーのせい

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予告篇を見て、少し口数の多い映画だなあとあらかじめ気持ちを抑えておいたので、特に肩を落とすこともないままその貧乏性を淡々と確認してきたといったところである。口数の多いと言ったのは、原作の様々なシークエンスを映像化するにあたってそのイメージの達成に躍起なあまり、室内にしろエントランスにしろスーパーマーケットにしろプールにしろジムにしろ屋上庭園にしろその他もろもろをその都度完璧にキメこもうとしすぎることで、その集積としての超高層マンションがいっこうに有機的な総体として浮かんでこないということである。上層、中層、下層という居住階をそのままヒエラルキーとすることで、本来(というか原作)であればその内部における上昇と下降の移動により階級闘争が勃発するところが、では食料のライフラインとなるスーパーマーケットや、その占有をめぐって騒ぎの起きたプールはそもそも何階に位置するのか、下層の者がプールに行くには上昇せねばならぬ、上層の者がスーパーマーケットに行くには下降せねばならぬ、といった運動のダイナミズムを意識させることをまったくしないせいで、それぞれのシークエンスはそこに連続する力学が反映されないままぶつ切りの羅列にとどまり、その衝突が生み出す蛮性が日々を侵食し住人を魅了していく様を伝えることに失敗してしまっている。したがって、ではなぜ住人はマンションを出て行かないのか、なぜ警察を呼ばないのかというきわめてシンプルな問いへの答えを伝えそこなってしまっているのではなかろうか。そうした高低の意識に無頓着なのは住人の転落シーンに明らかで、そもそもあれを自殺にアレンジした点でも鼻白むのだけれど、ロングショットで捉えることで彼が失う高さを意識させるどころか、激突の瞬間をスロウで見せて悦に入る勘違いに軽く絶望すらしたのである。転落した彼はどこかしら超高層マンションの歪によって惑わされた犠牲者のように描かれているけれど、原作では蛮性の発露としての殺人が匂わされているわけで、その他にも、ラング(トム・ヒドルストン)の姉アリスがばっさりとカットされていることでその近親相姦的な接近も排除されているし、ヘレン(エリザベス・モス)に至っては妊婦として登場したあげくその出産が何か再生の象徴のようにすら描かれる始末である。そもそもバラードは、テクノロジーの粋をこらした超高層マンションがもたらす新しい自由によって人々が様々な抑制から開放されることで手に入れる新しい秩序を幻視してみせたのではないか。そこに風刺や皮肉はあったにしろ、少なくとも原作においてそれは仄暗い多幸感を伴っていたわけで、それを象徴するのがオープニングと後に円環するベランダのシーンで、ロイヤル(ジェレミー・アイアンズ)の飼犬であった白いジャーマン・シェパードの肉を焼くラングの満ち足りた表情のはずである(それすら焼くばかりで食うことをしない腰の引け方であったけれど)。だからこそ、最後に引用されるマーガレット・サッチャーによる資本主義賛美の演説(もちろんサッチャー政権以前に発表された原作にあるはずもない)の浅薄な皮肉が念には念を入れて映画をぶち壊していたとしか思えないわけで、結論としては監督の妻による当世風めいた脚色がどこまでも罪深かったとしか言いようがなく、役者もみなその凡庸に忠実であったというイメージにとどまるのみである。やはり脚本リチャード・スタンレー(『ハードウェア』監督脚本)と監督ヴィンチェンゾ・ナタリのプロジェクトで完成させておくべきであったのではなかろうか。ジェレミー・トーマスによる火中の栗拾い案件としては十全であるにしろである。
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2016年08月08日

アンフレンデッド/わたしのためなら死ねるはず

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図らずもブレア(シェリー・ヘニッグ)視点による83分間のワンシーンワンカット・ムーヴィーを達成している。図らずもというのは、あくまでそれは余禄に過ぎないからで、マルチカメラによる同時線形とでも言えばいいのか、カットをつなぐのではなく敷き詰めることで、目まぐるしく変わる登場人物の関係性のさざ波のような伝播を、ネットの暴力的な水平性の醍醐味として活き造りにしている。したがって、ローラ・バーンズ(ヘザー・ソッサマン)の復讐一つ一つについてはチャプターを区切るような段取り感が生まれてしまうこともあり、正直言ってスラッシャーとしての妙味はいささか退行してしまっているのだけれど、掃き溜めに捨てられたどす黒い孤独がイドの怪物と化して互いを食い尽くしていく様は、まさにSTAND ALONE COMPLEXが供給する幻想としての全体性に中毒した者の断末魔であったわけで、しかしそのプラットフォームから外れて生きることもまた恐怖であるとするならば、行くも地獄行かぬも地獄という現代の青春の蹉跌それ自体をホラーとして幻視したとしても何の不思議もないのである。ラストについては、あの動画がアップロードされたことで生殺しという選択がなされるかと思ったこともあり、ならばそこから永遠に解放されたブレアにとってはむしろハッピーエンドだったのではなかろうかとすら思ったわけで、これもまた、あらかじめオンラインされた世代にとっての新たな生き地獄との闘いということになるのだろう。この映画に関してはその特性としてPCモニター上(できればノートブック)でひとり観賞するのが最適な臨場感を生むのは間違いないにしろ、それゆえ好事家の方々はこの新たなブレイクスルーをあえて劇場で目撃しておくことが肝要なのは言うまでもないし、サーバーを漂流する永遠に消えない記憶が責め立てる、一度吐いた唾を呑めない世界に自分を人質に差し出すことで参加する最新型のチキンレースが撒き散らす躁病的なデカダンスに、知らず自分も巻き込まれていることを知っておいて損することはないはずである。
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2016年08月07日

ロスト・バケーション/生きて帰るまでが遠足

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『ジョーズ』のファースト・ヴィクティムとなるクリッシーが生き残るとしたら彼女がどんな人間で何が必要だったかとでもいう、どちらかと言うと動物パニックものというよりはソリッド・シチュエーション・スリラーに近く、なおかつ『老人と海』的な人生の寓話もまぶしてみせてジャウマ・コレット=セラらしいスマートな小品に仕上がっている。スリップストリームな題材を主戦場とするセラだけれども、最終的には心理的な采配で勝負をつける人なので、直截的に痛覚を刺激するようなアクの強い描写を尖らせてきていないこともあって、麗しきブロンドがサメに食いつかれ岩礁を裸足でふみ抜き毒クラゲに刺される姿の苦痛と苦悶を舌なめずりするフェティシズムがないのが物足りないと言えば言えないこともなかったのである。縫合のシーンはアプローチがスムース過ぎてアイディアの遂行にとどまってしまったのが何とももったいなく、肉と神経の反作用をもっとえぐってほしかったけれどセラの品の良さはそうしたグロをあてにしないのだろう。ただ一つ、かつてフジロックの初日に会場で買ったかちかちのカンパーニュを無造作に噛みちぎった瞬間前歯の一部を持って行かれ、残りの会期中を大変な不便で過ごした身としては、以後その種の食べ物に対する病的な及び腰につかまっていることもあって、ナンシー(ブレイク・ライブリー)がウェットスーツを事もあろうに歯で引き裂くショットに思わずうなじがぞわっと逆立ったのである。クジラの死骸がまとう禍々しさが捨ておけなかっただけに、できれば岩礁ではなくあの上に乗って漂流するナンシーが、飢えに苛まれてクジラの腐肉を口にしては嘔吐に耐えて悶絶するシーンなどをどうしても夢想してしまうのだ。それもこれも、最後まで医学生には見えなかったことはともかく、美しいボロ雑巾としての一人芝居に耐えうるブレイク・ライブリーの肉体言語が饒舌であったからなのは言うまでもないし、それはおそらく、出がらしのようなリメイク企画にパリス・ヒルトンをあてがわれたデビュー作でさえ、誠実にアイディアを注ぎつつ丹念な演出でパリスを生かしてみせたセラの映画製作に対する根性を、彼女が深いところで理解したことによっているのだろう。役者といい采配といい、なんとも小股の切れ上がった86分であった。
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2016年08月04日

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男/パパ グレてるゥ!

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「学校にお弁当を持って来られない子がいたらおまえはどうする?」「わけてあげる」「自分で働けとは言わないで?」「言わない」「お金を貸してあげるとも言わないで?」「言わない」「じゃあお前も立派な共産主義者だね」娘ニコラ(幼少期=マディソン・ウルフ)にパパやママは共産主義者なの?と聞かれたトランボ(ブライアン・クランストン)のやりとりに、ん?となったのはご多分に漏れずで、それが富の再分配の比喩であったのかといえば、『ヘイル、シーザー!』のカリカチュアを思い出してみても、知識層の認識がせいぜい社会主義と共産主義のいいとこ取りあるいはノブレス・オブリージュ的な施しにしか思えないわけで、そういったこの映画の「甘さ」、脇の甘さやビタースウィートのスウィート的な部分は、これが醜悪で殺伐とした魔女狩りの時代を描くというよりは、ダルトン・トランボという人間のチャームを描くことを掲げていたことによっているのだろう。そんな風に資本主義のアンチテーゼに端を発した苦難であるからなのか「お金」が随所で袖を引く物語でもあるわけで、スタジオのスタッフの賃金問題支援や、エドワード・G・ロビンソン(マイケル・スタールバーグ)による裁判費用カンパのための所蔵のゴッホ売却、もちろんトランボ家の生計を支えるためのゴーストライトは言うまでもなく、ルイス・C・K(アーレン・ハード)の遺児への思いやりが借金の棒引きにこれみよがしだった点では、実際のところはどうだったのかはともかく、ルイスの病状への無関心や今後の子供たちの生活に対する憂慮の言葉すらなかった点で、その後エドワード・G・ロビンソンからトランボに浴びせられる辛辣な言葉に彼が返す言葉などなかったのも当然であったし、名を捨てて匿名のひとりとして埋没しギャラを再分配する日々こそが彼の欲した共産主義的な献身ではなかったのかと、最後に名前を取り戻して終わる物語にいささかの皮肉を感じたりもしたのである。したがってこれはあくまでもトランボ家の物語として評価されるべきであって、ダルトン・トランボという男の物語としてはやや気分が良すぎるものだから、授賞式のスピーチ会場で独り涙をにじませるエドワード・G・ロビンソンの苦渋が何となく上の空になってしまうのを惜しむことにもなってしまう。ダイアン・レインは歯を食いしばって笑顔で燦々と立つ大きなアメリカの母親になった。
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2016年08月02日

シン・ゴジラ/会議は小躍る

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そういえばかなり昔の2ちゃんねるに「押井守がゴジラを撮ったら?」とかいうスレッドがあったなあと思ってキャッシュを探してみれば、案の定、実存としてのゴジラをメタ構造的に描くみたいなレスが続く中、2011年3月21日(月)に“押井とは関係ないが、今回の原発事故がまさにゴジラ退治だった”という書き込みがあって、このレスを書いた人はどんな気分で今作を観たのかなあと少しばかり遠い目などしてみたわけである。ただ、このレスが慧眼であったというよりは、このタイミングでゴジラを再び立ち上がらせるとすればそこを避けて通れないのは自明であって、もちろんギャレゴジとてそこを通過していたのは言うまでもないけれど、やはり我々には精神的にも物理的にも取り除きようのないフッテージが組み込まれているわけだし、それを当事者としての責任とクリエイターとしての仄暗い昂揚とによって新たなモニュメントを築いた点で、勝ち負けに意味はないとしても新作ゴジラとしてギャレゴジを圧倒したのは確かだろう。“押井とは関係ないが”の部分については、劇中で語られるスクラップ&ビルドのスクラップの意味合いが2011年以降決定的かつ永遠に変わってしまった点で、お台場は一度沈んだ方がいいと言い放った「都市」と「破壊」という押井的命題が無効化されてしまったのはやむをえないところではあるにしろ(2020年東京オリンピックによる再開発にどこかしら他人事な気分が漂うこともその一端ではなかろうか)、都市の存亡に踊るシヴィリアン活劇としてのフレームは特に劇場版パトレイバー1&2からの引用において明らかに思え、牧博士=帆場暎一であるとか、ほとんど符合と化したテクニカルタームの奔流で叙事を武装する手立てはともかく、『機動警察パトレイバー the movie』における久保商店2階シゲさんの下宿部屋は『ガメラ2レギオン襲来』では水野美紀の実家薬局の2階に引き継がれ、未曾有の危機における梁山泊としてのそれを今作において巨災対(=巨大不明生物特設災害対策本部)として花開かせたのは、今作で破壊されるランドマークが終着地としての東京駅であったことなど踏まえてみれば、東京を破壊するにあたっての庵野監督による押井守への仁義と敬意にあふれた引導であったようにも思えるわけで、ワタシはエヴァとそれに派生するもろもろと完全にすれ違ってきた人間ということもあり、主に庵野監督による兄殺しとしてこの映画を愉しんだくちである。とはいえこの映画の決定的な発明はゴジラ第二形態であって、直立歩行する生物に対する擬人的な同調と感情移入をノイズとして完全に断ち切るための方法としては思いも寄らない奇策であったし、そこに何が映っているのか考えるだけでおぞましいあの目には何か根源的な忌避や嫌悪があって、その人を人とも思わぬ災厄と狂気の嬉々とした行進には何かクトゥルフ的な神々しさすら宿っていたように思ったのである。それともうひとつ、ここのところの鶴見真吾が漂わせていた既視感の正体がイーサン・ホークであったことが腑に落ちてすっきりした。
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2016年07月31日

ブルックリン/私は克己心の強い女

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「忘れてたわ、ここがそういう町だってことを。あなたは何もわかってないだろうから教えといてあげる。わたしの名前はエイリシュ・フィオレロ。ブルックリンの女よ。」最後の一言はワタシの勝手だけれど、しびれるような啖呵である。ただその一言が「やっと気がついたわ」ではなく「忘れてたわ」であるように、この映画は単なるビルドゥングスロマンにとどまっているわけではない。あらかじめ世界の絶対性と闘う聡明なファイターとして登場するエイリシュ(シアーシャ・ローナン)が、自身の未熟さや愚かさによって人生の奥行きを知るドラマというよりは、正面を見据えあごを上げて行くべき道を闊歩する姿を活写するスリルを映画の輝度とすることで、性差や人種を超えたところで生まれるアメリカの理想的なダイナミズムを移民であるエイリシュに投影していたように思うのである。フィオレロ家に招かれたディナーの席でトニー(エモリー・コーエン)がふと口にした“俺たちの子供”という言葉に抱いたかすかな懸念と戸惑いの正体に、エイリシュならずともワタシたちは女性の背負う家庭とキャリアの問題を嗅ぎとるのだけれど、エイリシュにとってその両立と自立は背中合わせの自明であるとでも言うかのように、自身にある人生への野心に対してトニーがどれだけ誠実でいてくれるか、それさえ確認できればその他のオプションはさして問題ではないという豪胆は、もしかしたらデラシネとしての自分への倫理的な恐怖の裏返しだったのかもしれず、そうしてみるとまったく同じ時代の物語ながらアメリカのデラシネへと向かった『キャロル』との交錯が興味深いのだけれど、共に世界の絶対性から自身を奪還し相対化を試みる女性の物語としてみれば、その鏡像として互いがより鮮明に映し出されるように思うのである。ニック・ホーンビィの脚色はエイリシュを光とすることでそこに生まれる影も細やかに描き出していて、洗面所でのエイリシュとの会話の後でひとり鏡を見つめるシーラ(ノラ=ジェーン・ヌーン)を捉えるメランコリーや、冒頭のエイリシュの啖呵の後で寄る辺なさにつかまるケリー(ブリッド・ブレナン)の姿が、エイリシュとこの映画が楽観主義の産物と捉えられることに首を振っているのは言うまでもない。シアーシャ・ローナンは、何だか若い頃のヒラリー・クリントンにも通じるフリークとしての優等生の凄みも手に入れたかのようで、美少女からの脱出に肝っ玉を選択したのが完全に吉と出た。登場するたびに胸がざわついたのはエイリシュの上司となるフロアマネージャーを演じたジェシカ・パレで、エイリシュのメンターとして水着選びまでもプロフェッショナルにこなすクールな姉御肌にやはり『キャロル』を夢想したりもした。
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2016年07月19日

シング・ストリート/ロックよ、愚かに流れよ

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背伸びした分だけ伸びていくコナー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)の背筋と髪と歌声は確かに眩しくて煌めいているのだけれど、観ていて抜き差しならなくなったのは「ロックンロールはリスクだ!」という蠱惑に囚われたブレンダン(ジャック・レイナー)であって、すべてを見通していたつもりがその一歩を踏み出すほどにはリスクに殉教しきれなかった世界中のブレンダンの亡霊に、今さら成仏を迫るような役どころはなかなか酷に思えたのである。主人公の脳天気な弾き語りから始まるあたりは『FRANK』など思い浮かべたりするのだけれど、そこでのジョンとFRANKの関係にあった現実的な痛みは、デペッシュもジョイ・ディヴィジョンも知らないおぼこなコナーとロック原理主義者ブレンダンとの関係において清々しいほどに反転していて、ボスキャラとして必要なバクスター神父(ドン・ウィチャリー)より他は祝福されたバンドに立ちふさがるものはなく、地元の英雄であっただろうU2のUの字もないままアイデンティティの相克は極力手控えられファンタジーが維持され続けることで、あのラストからかつてアントワーヌのラストショットに立ちこめた悲痛や悲愴を取り除くことに見事成功している。青春が夢見がちでいったいなにが悪いんだ?という開き直りというよりは闘争宣言の強度を高めるためであったにしろ、ブレンダンがコナーにぶつける屈託の苛烈はそれが大人気なければないほどブレンダンの悔恨とジレンマにえぐられるようで、そのどこかしらの他人事でなさは、コナーのファンタジーへの反作用にとどまらずいくばくかのノイズになりかけたほどである。そしてそれは、暴力をふるうアル中の父を持ち、いつだって一人だものねと母親に揶揄され、ロンドンでレコードの契約とって俺たちをこの掃き溜めから連れ出してくれよと笑わない目で告げるエイモン(マーク・マッケンナ)へのやるせない共感にもつながっていくわけで、しかしロックンロールが斃れた屍の上を転がっていく音楽である以上そうやって流れ去っていく風景が新たなリズムとメロディを生み出していくのは言うまでもなく、兄と別れバンドを振り切り、おそらくはラフィーナ(ルーシー・ボーイントン)とも離れ離れになるであろうコナーの正しさはすなわちロックの正しさであるはずで、なぜなら浅井健一が歌ったように、どれほど自然に/真剣に誰かを愛しても、僕たちは永遠に一人きりだということを知るのがロックの解だからなのである。ところで、当時ジョー・ジャクソンとザ・ジャムとザ・キュアーの愛聴者がホール&オーツを聴いていた記憶になじみがないものだから、フィル・コリンズを聴いてるような男を好きになる女なんていない!と言い切ったブレンダンが「マンイーター」をチョイスするのはありなのかと?が浮かんだのだけれど、今になってみればそういうセクト主義が自分で自分を生きづらくしていたことに容易に思い至ったりもすると同時に、85年と言えばタイガースが日本一になって代々木でスプリングスティーンをみた年であったにもかかわらず何だかその頃は下ばかり見て歩いていた記憶しかなくて、そんなこんなをいまだにノスタルジーで済ませることが叶わない自分にいい加減うんざりしているのも正直なところで、そんなつもりもなく観たこともあって何だか奇襲をくらった気分である。敵はどこにもいないのに。
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2016年07月16日

疑惑のチャンピオン/ジェシーよ銃をとれ

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フロイド・ランディス役のジェシー・プレモンスが『ブラック・スキャンダル』につづき無心の共犯者を演じていて、その無心ゆえに主犯者を告発することになる運命や共に実在の人物に準拠する物語である点など構造は非常に似通っている。そしてまた、その無心を罪に染めることでしか示せない忠誠が尽きた時、我が身の明日なき虚ろを知った青春の捨て身が主人の大罪と刺し違える復讐と浄化の物語を待ち望みつつ、それがついに果たされることのなかった悔いこそが作品の印象となってしまう点でも似通ってしまったように思うのである。ジョニー・デップがそうであったようにここでのベン・フォスターも、ランス・アームストロングはそうしたのだろう、あるいはランス・アームストロングならそうしたのだろうというその輪郭を超える解釈を目的としなかったこともあり、共感にしろ拒絶にしろの奥行きに欠けるのは否めないところで、だからこそ並走する共犯者としてのジェシー・プレモンスが口寄せしたザ・ライズ・アンド・フォール・オブ・ランス・アームストロングを観てみたかったと思ってしまうわけで、『フォックスキャッチャー』が図抜けていたのはチャニング・テイタムとマーク・ラファロを口寄せとすることでスティーヴ・カレルの異形の輪郭を口述していたからなのは言うまでもない。ランスについてはガンとの闘病の如何にかかわらずどのみちドーピングに突き進んでいったであろうことを疑いなく描いていて、いつしか肉体的なトレーニングと分かちがたく融合していくドーピングのプログラムそれ自体に人生を捧げるかのような手段と目的の逆転はある種のアディクトにも思えるほどで、鬼気迫るその姿の奥底に潜むものの正体がほんの一瞬あらわになるのが、カムバック後の現実を突きつけられ“3位だってよ”と自嘲気味に笑うシーンで、第四の壁気味にこちらを見据えて笑うと言うよりは崩れるように変形する顔の異様はほとんどホラーであって、スーパースターの栄光と引き換えに餌を与えてきたモンスターにその内部を喰い尽くされていることを断罪した怖ろしいカットであったとしかいいようがない。とはいえそれ以外は良く言えばジャーナリスティック、言い換えれば分別くさい視線のままなものだから、前述したフロイド・ランディスが介入する時のモンスターとすれ違う危うさが宝の持ち腐れに思えてしまうのは仕方のない事だし、もはや人外と言ってもいいあの笑顔を観たあとではいっそピカレスク仕立てでもよかったのではないかとすら思ってしまっている。どうせ射殺されるのであれば好きなだけ暴れさせてやればよいではないか。マット・デイモンがいる限り永遠の共犯者でありつづけるジェシー・プレモンスを当てはめたように、それを気兼ねなくするためのベン・フォスターではなかったのか。
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2016年07月13日

死霊館 エンフィールド事件/愛という名の悪霊

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ホラー映画のやさしさというのは、つまるところ人は死なないためなら何でもするという身も蓋もなさを諸手を挙げて受け入れてくれるところにあるのだろうなとあらためて思ってみたりもしたのである。それは柳下毅一郎氏の言う「広義には、すべての映画はセックス映画だとも言える」にも通じる人間の根っこのところにある欲望というか本能の追認でもあるのだろうけれど、それが“夫婦愛、親子愛、姉妹愛を一筆書きのように描けてしまえるホラーというジャンルの奥深さ(前作鑑賞時のメモ)”を可能にしているのは言うまでもない上に、少々そのことに拘泥しすぎたのかもしれないなと自省した監督がそれを『インシディアス』のデモニッシュなファンタジーでバックアップしたことによって、全方位への攻撃と防御をほぼ可能にしたホラー無双に開いた口がふさがらなかった次第である。クラシックなホラースタイルのアップデートを目指した『死霊館』シリーズでは、恐怖を与える直截的な対象はあくまでも登場人物であり観客を直接いじるドンガラドンのさらなる更新は『インシディアス』に任せてこちらでは切り札にしないというスタンスであったのが、今作ではまるで自身が開拓したホラーマナーを総括でもするような縦横無尽をみせていて、数年前に監督が公言した、もうホラー映画は撮らないよという宣言が頭をよぎってしまうほどの集大成に思えたのである。ドンガラドンの打ち上げ花火的な強度に拮抗させるためなのだろう、同一ショットですべてが起こるためのフレーム設計はさらに磨きがかかり、特にジャネット(マディソン・ウルフ)をめぐるショットでの彼女のぽつねんとした置き方とその空間の忌まわしさはジャネットの絶望を哀切に呼び続けていたし、『エクソシスト3』に端を発すると思われる横切り芸については『インシディアス』経由の積み上げがなかったのは残念だけれども、その代わりに一斉に家を飛び出したホジソン家が道を横切ってノッティンガム家に駆け込むショットの奇妙な祝祭感を見つけられたのは幸いだったのではなかろうか。(この際よその子のことなんかどうでもいいから)お願い行かないで!と泣き叫ぶロレイン(ベラ・ファミーガ)に、ごめん、後悔したくないから行かなけりゃならないんだ!と応えるエド(パトリック・ウィルソン)とのドア越しのシーンは、愛こそが恐怖を生むことを知らしめてロマンチストたるジェイムズ・ワンの面目躍如であったのは間違いない。それにしても、おもちゃの消防車が走ってくるだけでなぜあれだけ禍々しく鳥肌が立つのか、映画を映画たらしめるのはストーリーではなくストーリーテリングであることの格好の証となる名シーンだったのではなかろうか。エドのもみ上げが何に由来するのかまでタネ明かしされてしまうと、もしかしたら監督の脱ホラー宣言がいまだ有効なのかとそれだけが心配で心配で仕方がない。どこかしらジャック・ワイルド風なマディソン・ウルフ嬢がアメリカ娘であったのはちょっと意外な気もしたけれど、噛み締めた奥歯で涙をせき止めた彼女が実質的なMVPであったことは揺るぎがないのであった。
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2016年07月09日

ウォークラフト/汝、星くずの守護者となりて

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こんなカッコいいグリフォンは『シンドバッド黄金の航海』以来だなあとか、ほとんど伝統芸と化したベン・フォスターの転向クンっぷりとか、ぶっ潰してたたっ切る鉈のような重量の白兵戦とか、何だか意外とグルダン嫌いになれないなとか、ローサー(トラヴィス・フィメル)の喰ってる肉おいしそうだなとか、おお、そこで◯◯をぶっ殺しちゃうなんて豪気だな!とか、自家中毒みたいな内省や葛藤でドラマを偽装するよりは、こうやって騎士道の矜持が連れてくるプライドと尊厳の物語にした方が闘わざるをえない者たちの追い風としては健やかだなあとか、そもそもハイ・ファンタジーに現実の反映による共感とか持ち込むのは野暮だろとか、全米がコケた的な喧伝にそれなりの?はついたわけである。とはいえ、あらかじめトリロジーが約束されていたLOTRに比べると、スタートダッシュでタイムを稼いでおかなければ次のランナーにバトンを渡せないという足かせがあったことで少しばかり駆け足が過ぎたのは確かなところだし、特にガローナ(ポーラ・パットン)の人間とオークに引き裂かれた過去の陰影を十分に浸透させないままアゼロス側に寄り添わせたことで、続篇があるならば明らかに彼女が物語の主役を担うであろうことを考えた場合、彼女の苦渋の決断と偽りの女王としての葛藤(おそらくタリアとの対称となるはずである)がそれにふさわしい重荷となるには彫り込みが浅いままであったように思えてしまうのは否めない。そして、精神性も行動もその重荷を受け止めるためにあるのかと思われたデュロタンを退場させたのはシナリオ上のブースターとしては有効ながら、彼とローサーが種族を超えた絆を紡ぐまでには至っていなかったこともあってローサーの仕上がりは一面的なままだし、生き残った者たちが果たしてどれだけの恩讐を紡ぐことができるのかと言うと少々心許ない気がしてしまうのが正直なところなのである。ただ、撮影期間中の監督の父親と妻をめぐるタフなプライベートのことを思うと、絶対的な悪や闇といった存在を手近に置きたくなかったのではなかろうかという推測は可能だし、その細やかで柔らかいあくまでパーソナルな物言いにはブロックバスターで筆が荒れるのではないかという危惧とも無縁だったことに安堵はしているのである。荒んでいるのは生け贄が血を流すストーリーを欲しがってしかたのない客の方なのではなかろうか。
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2016年07月08日

葛城事件/愛はなくとも家は建つ

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いったい俺は何をしてきたのだと見回した焼け野原に愕然としながら、しかし自分の手にあるのはくすぶるマッチの燃えさしであることに気づきつつ、それを手のひらに握りしめ隠してみてはその熱さと痛みにうめいてみせる父性の、と書いてみれば何やら『セールスマンの死』とでもいう敗残の物語が沁みるようでありながら、ほんの少しだけ脇をくすぐってやればクスクス笑いだして『松ヶ根乱射事件』に転がってしまいそうな気がするのは、三浦友和と新井浩文による負け癖の父子再びという既視感はともかく、葛城清(三浦友和)によるマッチポンプの滑稽を押し殺すように現れる入れ替わり立ち替わりが次々に底を踏み抜いていく様がスラップスティックですらあったからで、しかしそれを正統に笑い飛ばせるのは次男の稔(若葉竜也)ただ一人だけであるというオチがすべてを台無しにする底意地の悪さによって、清はウィリィ・ローマンになるチャンスをあっけなく奪われてしまうのである。その徹底ぶりは清に弁明の場を一切与えることもしないわけで、たとえばこの映画では清の父と母が言及されることはほとんどないまま、かろうじて彼が父の金物屋を継いだというたった一度のセリフきりだし、回想シーンにおいても念願のマイホームに招かれているのは両親ではないのである。清は父から継いだ金物屋を家業として息子に継がせるつもりは一切ないどころかむしろそれを断ち切ろうとしていることから、彼の思い描いた人生は町の金物屋の親父ではなかったであろう屈託はにじみ出ているし、それが彼をことさら偏狭な人間にしたことは、例えば父がいつも座る店先から表の通りを見た保(新井浩文)の目に映るその世界の窒息しそうなほどの狭苦しさが残酷に告げているわけで、そうやって自分を偽って過ごした人生であるにも関わらず家を建て子供を育て上げたという自負が、清を自己否定と自己肯定に引き裂かれた惨めで哀しい妄執の怪物へと育て上げてしまったのだろう。したがって彼が自分以外の人間に求めるのは自分に対する全面的な肯定であり、それをより強固にするために世界は常に否定されるべき存在としてなければならないわけで、保や稔、妻伸子(南果歩)が著しくバランスを欠くことになるのは清によるそうした精神と感情の搾取によっているのは言うまでもない。しかしそうやって保や稔、康子が屠られた生け贄としての定型に収まってしまう一方、稔と獄中結婚した星野順子(田中麗奈)もまた自身の背景を閉じこめたまま現れてきては葛城家における愛の不在を一方的に糾弾するのだけれど、稔との最後の面会時に自身の愛に関する無垢な想い出を語っては一人で浄化を果たしたように泣き濡れる姿に、彼女もまた愛に躓いている人であることが語られて、結局ここに登場する人たちは皆が皆、誰かを愛したいのではなく愛されたいという欲望の肥大に押し潰された人たちであることが浮かび上がってくるように思うのである。幸か不幸か生き延びてしまった清と順子が立ち尽くすラスト、3人殺せば俺の家族になってくれるのか、要するに俺にも愛をよこせと迫る清に頭がおかしいんじゃないの!と怒鳴りつける順子の図は、2時間をかけてたどり着いたのが結局はここであるという点で呆れ果てはするものの、その馬鹿さ加減にどこかしら心安らいだのも確かであって、すべての問題は愛に関する需要と供給のバランスを欠いていることによるのだなあとしたり顔などしてみるものの、人類が歴史を綴ってこの方そもそも愛が足りたためしなどあったのだろうかと、したり顔のまま思案顔などしてみればそれは何となく笑い顔になっている気もして、とろろ蕎麦をすする音に夏の訪れなどを感じたのであった。通り魔誕生のメカニズムを暴く話ではないです。
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2016年07月04日

裸足の季節/ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・サン

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囲いの中に捕えられた野生の馬(”MUSTANG”)が、人間を乗せるように、というよりはまさに字義のごとく男たちを乗せるよう調教されていくグロテスクの(競りのお披露目すらある)、しかしそれは『エコール』のように寓話めいたファンタジーであるどころか、それを習わしとして形作られる世界で5人の少女が一人ずつ屠られていく日々を誰が生き延びることができるのかという監禁ホラーですらあったといってもいい。オープニングから息苦しいほどに活写される、奔馬として生まれた者たちが世界に求める分け前が正当であればあるほど、それを奪われ続けることで緩慢に死んでいく彼女たちへの仕打ちはもはや殺人に近く、終盤の異様に張り詰めたサスペンスを生んでいるのは冤罪で死刑を宣告された少女たちによる脱獄の物語にほかならず、そこにあるのは『ヴァージン・スーサイズ』が告げたような実存の危機どころか既に生命の危機ですらあったことで、こちらまでが首を絞められるような強迫に苛まれることになる。とはいえこれが、差別や隷属のイズムは表出のパターンに過ぎないといってもいい悲劇的に入り組んだ問題であるのは、祖母(ニハール・G・コルダシュ)のように悪意のない善人や叔父エロル(アイベルク・ペキジャン)のような悪意を悪意と知ることのない罪人、要するに世界には中心があると考えてそこに躊躇なく依存する者と、それぞれを無数の中心にして繋がることで世界は在ると考える者の断絶によっているからで、最終的には同性への連帯よりも世界にかしずいてしまう祖母のような女性や、長髪=ゲイ扱いされる社会で髪をなびかせトラックを運転するヤシンや、密かに事情を汲んでくれる産婦人科の医師のように少女たちを援護する男性の配置にそれは端的に象徴されている。しかし最後にラーレ(ギュネシ・シェンソイ)がその胸に飛び込んだのがそうした垂直と水平の交錯について先鋭であろうディレク先生であったことによりこの一瞬のハッピーエンドが一気に現実の解を求めはじめることで、笑顔もガッツポーツも宙に浮いたままこわばってしまうのを止められないように思うのだ。その割り切れなさは、この断絶が人種も宗教も超えてイギリスやアメリカのシビルウォーの根底にあるものと共通するようにも思えるからで、したがってこの映画を評する補助線としてMMFRを用いるのは、その昂ぶりは理解するものの監督や作品に向かう歩みを止めてしまうようにも思えてしまい、少しばかりわだかまりを感じてしまうのが正直なところである。ルーレや彼女の戦友に肩を貸すように包み込むウォーレン・エリスとニック・ケイヴによるスコアは常に凛として優しいのだけれど、いつしかそれがレクイエムのように聴こえてきてしまうのがこの映画の抱えるハードな状況のどうにも避けがたい反映なのだろう。『コップ・カー』の疾走から百万光年離れた衝突に少しだけ泣きそうになった。
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2016年07月03日

日本で一番悪い奴ら/エース・オブ・ススキノストリート

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『ヒメノア〜ル』やら『クリーピー』の観客が喧しい底の抜けた警察描写もこの映画を観ればさもありなんとうなずくような馬鹿の動物園っぷりが、今さら善悪の彼岸や権力の腐敗にメスを入れて勝った気になって負けるよりは指差して笑っといた方がなんぼか生産的だろうという一点突破に蹴り上げられて、何と言っても自分の不手際のような何かをいっさい反省する気がない点で頭を垂れて信用したのである。反省する気がないということは、そもそも自分が社会からどのようにはみ出してしまっている人間かをまったく分かってないということで、主人公諸星要一を演じるのが例えば山田孝之であったなら分かっていてあえて踏み越えてしまう人間の陰影がついてしまうところを、まったく何もわかっていないからこそ行くところまで行けてしまう鉄砲玉というよりはパチンコ玉を演じるには、綾野剛の浮ついた腰高としゃちほこばった背骨の硬さが呼ぶキレッキレのノンシャランが必要だったのだろう。それだからこそ、何の覚悟も持ち合わせていないハッタリだけの人間が考えなしに手を出したシャブのもつ絶対的な極北に激突した衝撃がああまで言語道断に激烈だったわけで、オーバードーズの境界を猛スピードで行き来する鼻水まみれの綾野剛がいったい何を参考にしたのかわからないけれど、それはそれは珠玉の顔芸だったのである。意外とあっさり離脱する村井(ピエール瀧)の昭和グルーヴィを残念に思ったりもしたのだけれど、たとえば『トレーニング デイ』のデンゼル・ワシントンのようにメンターとして諸星要一を支配しにかかると、馬鹿が戦車でやって来る底抜けがチャームで武器の諸星に余計な知恵がついてしまうことを考えれば物語の要請としてその退場は仕方なくはあったのだろう。とはいえスーツを着たピエール瀧のマイケル・マドセン感は予告篇をみて思い描いたとおりで何とも贅沢な使い捨てだなあなどと思ってしまうくらい、果たして瀧がこれほど順風満帆で着実でいいのだろうかと若干訝しんだりもするわけで、来年あたり調子に乗って「おじいさん先生 ザ・ムービー」などぶっ放すことで盛大にすっころぶ姿など期待しておきたい。猥雑で無責任で天に唾する泣き笑いは東映エクスプロイテーションへのオマージュなのは言うまでもなく、とにかくセリフではなく動くことでリズムを叩き出そうとするあたりも、往事の作品など観るととにかく役者がみなバネ人形のようにはじけ飛ぶ(健さんもキレッキレである)アクション(=演技)への、まずはそこから始めねばという決意によっているのだろうし、白石監督におかれては事実ベースの実録風エクスキューズで遊ぶやんちゃとオッパイの路線をぜひともこのまま邁進していただきたい。そして今作をご覧になった関係各位は、両者合意の濡れ場においてはオッパイを隠さないことでどれだけ奥行きが生まれるか今さらながら痛感されたのではなかろうか。もちろんそれはオッパイを見なければ死んでしまうからではなく、各種フェティッシュを除いては人間がコトに及んで正対すればオッパイが映り込むカットが至極自然であるからに他ならず、かつて艱難辛苦の時を経て浴びるシャワーで生の実感を取り戻す生命力に溢れたシーンですら、ジュリアン・ムーアがその肉体で歓喜をあらわしたその陰で何かそれが罰でもあるかのように乳房を隠し続けた某女優のことなど思い出してみれば、その不自然が後ろ指すら誘うノイズとなりうることなど百も承知のはずであろう。そもそもオッパイを綺麗でカッコ良く撮れない監督など何を撮ったってロクなことになるはずがないのは言うまでもないにしろである。
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2016年07月01日

帰ってきたヒトラー/待たせたな

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もっとパイソンズ的なコメディかと思っていたらある種の社会実験みたいな生真面目さもあって、タイムスリップものにお約束のカルチャーギャップで笑わせたりはするものの(質は良くないけど)、どちらかというとどれだけ眉をひそめるかで観客のアレルギーテストをしているような不愉快というよりは不快を隠そうとしないところに、おためごかしのあざとさはさほど感じなかったのである。したがってヒトラー(オリヴァー・マスッチ)その人についてはトリックスターとしての記号のまま特に新解釈もアップデートもないのは当然で、女性TV局長カッチャ・ベリーニ(カッチャ・リーマン)をヒトラーがレニ・リーフェンシュタールに喩えたように、ポピュリズムの片棒をかつぐメディアの愚かさとそれにやすやすと踊らされる民衆の滑稽を数珠つなぎにすることでヒトラーのいう「いいかね、私を選んだのは普通の人々だったのだよ」という衆愚のシステムを再現してみせて、それはどうしたってアーレントの言う“悪の凡庸”に行き着くことになってしまうのではなかろうか。劇中でヒトラーへの嫌悪を顕わにするのはドイツ人の年配者が主で、移民とおぼしき人たちや若者は完全にポップアイコンとして愛情すら示しているわけで、特にドキュメンタリー部分のそうした意図的な編集は製作陣が感じた違和感を増幅した結果であるのだろうし、フランツィスカの祖母がみせる至極正当な怒りがことさら過剰で苛烈に映るのもそうした断絶の象徴だったのだろう。メディアが欲望に淫してはいけないという自戒と自嘲、そして何よりもメディアを丸呑みする者は阿呆だという突きつけに、コメディの質をうんぬんする以前になかなか笑う気分になれなかったのが正直なところで、それもこれもイギリスとアメリカで起きたことや起きている現実がやすやすとこの映画を凌駕してしまっていることと無縁ではないように思うのである。何度も同じ間違いを繰り返すのはワタシ達が馬鹿だからなのだろうし、となれば馬鹿にできることといえば馬鹿なりに愚直に自分の頭で考えることしかないのではなかろうか。耳に心地良い言葉を聞いたなら、ではなぜそれが今まで達成できなかったのかを考えてみればいいし、そうしてみればそれがハッタリや甘言であることに気づくかもしれず、おそらくそれはポピュリストがもっとも嫌がることのはずである。それにしても、そのハードコアな自然回帰主義に優生学の香りをかいで緑の党に共感するヒトラーなど党関係者は笑うに笑えなかっただろう。ボリス・ベッカーもけっこう間抜けなタイミングで名前を出されてたけど彼の国ではそういうポジションの人なんだろうか。彼の国の事情などそんな程度にしか知らないながらなかなか正面切って笑い飛ばせないのは、これが足元に埋もれたヒトラーの地下壕の上に生きる国ゆえの、それを踏み抜いてみたいという欲望と誘惑をつついてさらけ出したポルノグラフィーにも思えるからなのかもしれない。
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2016年06月26日

貞子 vs 伽椰子/あの人、バケモノじゃありません。

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とりわけ貞子が、人間風情の浅知恵で駒あつかいされるのは何だか切ないなあと思っていたのだけれど、そこはミスカトニック大学卒の白石監督だけあって我々賤民は支配されてなんぼというわきまえが被虐の歓喜にうち震えるラストを捧げていたのである。そもそも常盤経蔵(安藤政信)のプランAがゴジラ対エビラ、プランBがエクソシストというボンクラファンタジー全開なわけで、湿気を抜いたJホラーのオカルトポップな昂揚感は期待通りに期待を裏切った上に、抑えきれない衝動としてのナイアルラトホテップ的意匠でとどめを刺すあたりのドサクサに、思わず正解っ!と内心で叫んだ次第である。とは言えラストガール候補として気丈にふるまってきた有里(山本美月)の、己が運命を悟って井戸の底で流す走馬灯の涙はあくまで切なくて美しく、いったい誰にとってのハッピーエンドなのかをダメ押しするそのカットがあればこそ、その後で開く地獄の門が神々しくすら映ったのではなかろうか。森繁先生(甲本雅裕)の全身ガッツポーズには思わずイリーナ・スパルコの「ぜんぶ知りたいの!何もかも!」など思い出したものだから、あのあまりにもあまりな非業に切なさと苦笑が十倍増しであったし、そんな具合に愛情とか善性などといった人の因果などおかまいなしに片っぱしから蹴散らされていく点で監督の筋が一切ぶれることがないのは、監督もまた人間以外の存在に焦がれ奉仕する一人だからに違いなく、それはある意味『クリーピー』にも繋がるところがあるなあと、そう言えばあちらもまたバケモノにはバケモノをぶつけていたことに膝など打ったりしてみたわけで、となればやはりこの2本ははしごすべきだったかと軽く後悔などしているところである。夏美役の佐津川愛美(『ヒメノア〜ル』!)は小動物系のノイジーでポジションをぶんどっていく人かもしれない。次は『貞椰子(さやこ)vs悪夢探偵』が観たい。
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2016年06月24日

クリーピー 偽りの隣人/まだまだ行くの?

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冒頭、取調室の窓にはまった格子の隙間に「西島秀俊」「竹内結子」「香川照之」のクレジットが隙間一つに漢字一つといった按配ではめこまれていく端正と几帳面にうつつを抜かしかけた頃、「監督 黒沢清」のクレジットがまったく格子をはみ出してふっとあらわれる変調に心はざわめいてしまうわけで、そもそもが現実の面会室に即したセットを組むことなどいくらでも可能なところが、陽のさんさんと降り注ぐ開放的とすら言ってもいい空間を取調室と言い張る上に、野上(東出昌大)がオートマティックを取り出す保管庫はもはや廊下におかれた靴箱にしか見えず、黒沢作品では既になじみと言ってもいいこの“警察署のような何か”を続けざまに浴びせられた時点で既に気は遠くなっている。何より今作において明白なのは、ワタシ達がいつもながらにコレジャナイと呟いた世界の様相を涼やかに留保することなく、そう、世界はコレジャナイんだと返答していたことで、黒沢清の見立てた世界はこれほどまでに傾いでいて、しかしすべての主人公達はこれまでずっとその世界を必死になって時には命がけで立て直そうとしてきたことを、その答えが高倉康子(竹内結子)の世界を絶縁するような絶叫だったとしても、まったくあきらめることをしないからこそ地獄に堕ちる時ですら切なさを宿しているのだということを、だってそれ以外に人間ができることなどないじゃないかと問わず語りに告げていたように思うのだ。したがって、今作は傾いだ世界をいかに自明とするかという注力が清冽ですらあるわけで、草木はいつにもまして風向きの読めぬ風にねぶられ、仮初めの境界たるカーテンやビニールシートはいつになれば我が身が定まるものかといっそう烈しく身悶える一方で、ガラスの向こうで繰り広げられる音のない喧噪はこちら側こそが彼岸であることを映しているかのようである。「あれは鬼です。一見ふつうに見えるけど人の心は持ってないですよ」と高倉(西島秀俊)に告げ口する田中を背後から睨む西野家の門柱は一瞬憎悪に身じろぎすらしたように見えはしなかったか。その直截的なメタファーなど思い出してみれば、西野の差し出す拳銃の銃身を両手で慈しむように包み握りしめる康子の破滅的なエロティックは黒沢作品の更新ではないのか。「これがあんたの落とし穴だ」という高倉(西島秀俊)の捨てゼリフがまったく痛快も快哉も呼ぶことをしないのは、自身も含めた全員がとっくに穴の底へ落ちていることに気づいていないからだし、高倉が傾いだ世界の角度を見ぬいたつもりでいられるのは、自身もまた西野のように傾いだところのある人間だからに過ぎず、康子があきらめていたのはその傾いだ角度に自分を修正する試みであったことに他ならない。地下室における康子の背信はそのことにどこまで行っても気づくことがない高倉(「たまにいるんだよ、あんたみたいな人」)への愛と絶望の両極が仕向けた捨て身であったからこそ、クッキーを高倉の口元に運ぶ康子は一瞬とはいえ満ち足りたひとときを得たのではなかろうか。言うまでもなく黒沢作品において世界を立て直す試みに我が身を捧げるのは女性たちであり、康子もまたその闘争に殉じた一人なのは間違いがなく、ひとり結晶のような静謐に閉じこもった西野が去ったことで康子は声を取り戻したけれど、その声でいくら自分が叫んでもそれは傾いだ世界の漆黒にずれた隙間に消えたまま夫には届かないその絶望が絶叫を呼んで、少しくらい世界に悲鳴をあげさせないと君たちは自分の足下を確かめないだろう?と監督は少しだけ得意気に微笑んだように思うのである。それにしても藤野涼子である。幾度となく香川照之の直撃をくらって吹っ飛んだり立ち尽くしたりしつつ、出演2作目の16歳がそれにことごとく受け身をとっているのである。そしてこの女優は死体を真空パックすることの意味と都合を“わかって”動いている。しかもその作業に手慣れてしまった透明の哀しみすら漂わせてである。彼女のハードボイルドな資質は都市型の監督から今後もてはやされはずだし、遅かれ早かれ塚本晋也の作品に出ることにもなるのだろう。広瀬すずの圧政に苦しむかと思われた日々のまさにジャンヌダルクである。怪優モードを嬉々として遂行していた香川照之がラストのシークエンスで屋上から望遠鏡で次の獲物を物色するシーン、CGを使わずにあれほど人の顔は歪むのだという事実に感動すらおぼえたことも忘れず記しておきたい。謎の炒め物、謎のシチュー、謎のクッキーも最凶。
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2016年06月22日

10 クローバーフィールド・レーン/きみのためなら痩せる

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※別の映画を観に行ったらいきなり自分からネタバレしてくる映画など最早どうでもいいとは思うけれど、念のため観賞予定の方スルー推奨

日本版の予告篇がアレを見せてしまっていたことで、信頼できない語り部としてのハワード(ジョン・グッドマン)がある一点、とはいえ重要きわまりない一点だけは真実を述べていることを事前にバラしてしまっている不始末については100歩譲って大目に見るとして、ではその侵略者たちの足下で繰り広げられる監禁スリラーの神経戦がどうも今ひとつピンと来ないままだったのは、生殺与奪の権を握る男ハワードが果たして監禁者なのかサヴァイヴァーなのかというサスペンスを、実のところ彼は監禁者にしてサヴァイヴァーであったのだというどんでん返しにおとしこむにしては、ハワードという男をあらかじめグレイゾーンにとどめる手順に濃密なスリルを欠いていたことによるのではなかろうか。ジョン・グッドマンという不穏な善人のキャラクターを頼りにしすぎたせいで、本来であれば主人公ミシェル(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)の直感や行動によって明らかになっていく怪物性が意外性を欠いてしまうのに加え、プロットの穴埋めとして存在させたとしか思えないエメット(ジョン・ギャラガー・Jr)の曖昧な歩幅のせいで、彼がまみえることで生まれるはずの三角関係が緊張をもたらすどころか拡散させてしまっていたことも、怪物とサシで対峙することで覚醒するはずのミシェルの足を引っ張ってしまっている。『プリティ・イン・ピンク』を観ながらハワードはあの三角関係の中の誰に自身をなぞらえていたのか、エメットを葬った後で髭を剃りこざっぱりとしたシャツを着てにこやかにミシェルに語りかけるその笑顔の狂気こそを通奏低音にするべきだったのにと悔いは残るばかりである。男から逃げるために車を走らせていたミシェルが、今度は知らない誰かのために闘う道を選んで走っていく円環を『マッドマックスFR』的な成長譚と読む人がいたとしてもそれを否定するつもりはないけれど、だからこそミシェルの覚醒がより鮮烈であるためにシェルターの怪物は生き地獄そのものであって欲しかったと思うのだ。ちなみにシャマランなら、ハワードの正体を宇宙人とした上でVサイン出して地球を救っていたはずである。シャマランをあまりなめない方がいい。
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2016年06月20日

二ツ星の料理人/かっこいいコトする時の為のクーパー

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いろいろなあれこれに、それはなぜならブラッドリー・クーパーだからという以外の理由や動機が見当たらない点ではほとんどアイドル映画といってもよく、王の帰還としてことさら険しい段差もないマッチポンプのとっぽいナイーヴについては先だっての『サウスポー』とは兄弟分といってもいい。“「七人の侍」って映画を見たことがあるか?俺はああいうふうにしたいんだよ”とアダム・ジョーンズ(ブラッドリー・クーパー)に語らせることで、最強のシェフチームを作り上げるタスクフォース的な昂揚をサブプロットに煽るのかと思いきや、勘兵衛を気取りながらも実は菊千代のアウト・オブ・コントロールにもがくアダムが最終的には勘兵衛たり得る道筋として引用したに過ぎないし、いかにしてブラッドリー・クーパーを神輿に担ぐかというアイドル映画のルーティーンに、交錯するアンサンブルの陰影を封じられつつもアダムを下支えする人たちの行き来によって彼を照らすスティーヴン・ナイトの筆は露悪や偽悪をことさらフックとしないという縛りを自らに課していたようですらあり、それもこれもすべてはブラッドリー・クーパーの青い瞳をひたすら輝かせるためであったようにも思えるのである。そのためには子供からシングルマザーからゲイクラッシュまで使えるものはなんでも使うというなりふりのかまわなさはいっそ爽快ですらあって、憎まれ役に身を差し出すことで王様が同じ過ちを繰り返すことを防いだミシェル(オマール・シー)の男気はともかくとして、ではいったいトニー(ダニエル・ブリュール)はこれからどうやって彼の人生に折り合いをつければいいのか、脇役の事情など知ったこっちゃないと投げ飛ばしてしまうあっけらかんはこちらが気をもみすぎて落ち着かなくなってしまうほどだったのである。肝心の料理について言えば、こうした映画で想像が追いつくことのできない料理になかなか生唾は宿らないのは『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』のキューバサンドウィッチがいかに破壊的な説得力を持っていたかを例に出すまでもないのだけれど、そうした意味ではリース(マシュー・リス)がサッと作ったオムレツのおいしさをアダムと観客が共有した瞬間を彼の再生とするアイディアはなかなかスマートだったのではなかろうか。パリ時代の顛末をスティーヴン・ナイトがフルスロットルで書き上げたら『ディナーラッシュ』を狙えたかもしれないのにという悔いは残るにしろである。
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2016年06月19日

ノック・ノック/キアヌはそれを我慢できない

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オリジナル版『メイク・アップ』のラストを踏襲しなかったことで、あそこにあった(文字通り)事故にでも遭ったような災難という意味合いがあらかた拭われて、仕掛けのひとつとして残されたペドフィリア狩りが『ハード・キャンディ』的ヴィジランテ・ムーヴィーの色合いをサッと塗りたくってみせたようにも思わせる。ただ彼が繰り返し「俺はいい人間だし、いい夫なんだ!」と弁明するように、エヴァン(キアヌ・リーブス)は女性にだらしない男でも、もちろんペドフィリアとして描かれるどころか、愛する家族と共に経済的にも社会的にも満ち足りた生活をおくる非の打ち所のない男として登場し、ある一つのしかし決定的なミステイク以外は善人としての筋を必死に通し続けるわけで、同情はしつつもいつしかその情けなさを意地の悪い目で見ることを誘ってくるその腹蔵のなさを狙ってのキアヌ・リーブスであったのだとしたら、やはりイーライ・ロスのどす黒い慧眼が冴えたとしかいいようがない、木偶ゆえの哀しみに満ち満ちた残酷ショーとなっていたのである。いったいどうして15歳で客室乗務員になれるんだ?と真顔で問い詰め、だって二人でしゃぶられたらもうどうしようもないじゃないかと絶叫するキアヌの、これがライアン・ゴズリングやジョージ・クルーニーだったら成り立つはずのない(ベン・アフレックだったら可能性はある)ハリウッド最強の朴念仁っぷりが満遍なかったこともあって、オリジナル版では主役だったプレデターコンビのジェネシス(ロレンツァ・イッツォ)とベル(アナ・デ・アルマス)が、パンケーキシロップ一気飲みなど随所であさっての根性は見せるものの主役の座をあっけなくぶん捕られてしまったことで、本来のフェミニズム・エクスプロイテッドなお仕置きムーヴィーが暖簾に腕押し気味な脱力オフビートを誘ってしまっていたのは、自作となると衝動よりも批評が勝ってしまう人であるイーライ・ロスの資質ゆえといったところなのか。それはともかく犬が無事でよかった。まあ、殺したら別の映画になってしまうのだけれども。
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2016年06月13日

マネーモンスター/金は天下の回し者

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※展開に触れているので鑑賞予定の方スルー推奨

カイル(ジャック・オコンネル)をサル=ジョン・カザールにするつもりは最初からなかったのだなあと、いったい時給14ドルでどうしろっていうんだよと叫ぶカイルはリー・ゲイツ(ジョージ・クルーニー)とパティ・フェン(ジュリア・ロバーツ)のミッドライフクライシスを蹴り上げる劇薬にすぎなかったことに、何だかほのぼのとしたラストカットを観ながら少しがっかりしていたのは確かなのである。清濁併せ呑みつつパーティで踊り続けてきたにしては、リーがジョージ・クルーニーであった時点で彼のナイーヴな反転はあらかじめ約束されていた気もして少しばかりイージーに感じるし、ダイアン・レスター(カトリーナ・バルフ)の矜持が反旗を翻す手続きの粗雑や相変わらずのハッカー無双など、ウォールストリート版『狼たちの午後』で民意による転覆と断罪を描くにしては、95分というコンパクトな上映時間がいささかの拙速を誘ってしまっていたのではなかろうか。やはりこんな風な、チンピラな世界とすれ違いざまに肩をぶつけては捨てゼリフを吐く映画は、ある程度の連続性の中にいてすれっからしを装えないと欲望のダイナミズムが流す冷や汗や血の涙を汚れたハンカチでぬぐい取れないのではなかろうかと、全体としてどこまでジョディ・フォスターの十全であったのか訝しく思ったし、それをことさら「セルロイドの天井」問題と紐づけてしまいたくはないけれど、『フローズン・リバー』という傑作をものにしたコートニー・ハントでさえその次作があてがいぶちのような作品になってしまったことなど知れば、その意図が端々にうかがえるだけに監督ジョディ・フォスターの新作というだけで諸手をあげて受け入れてしまう気にもなれないのである。下克上の物語としては、カイルが使い捨てであったことやリーに至っては自身の内的な復権でしかなかったことからすれば、愚かなシステムとそれを操るゲスな男たちへの正当な怒りを携えるダイアンこそが逆襲のメルクマールとしてパティと共闘するべきであったところが、それにしては彼女の彫り込みが少しばかり足りないせいでどこかしらお人形の反乱として記号化されてしまったのが残念に思えてならない。ところで、そもそもカイルを撃つことができないという設定がサスペンスを牽引していたはずなのに、なぜああやって閉じてしまうことが可能でそれを良しとしてしまうのか戸惑ったままなのである。寝落ちした記憶はないのだけれど何か決定的な描写を見落としてしまっていたのなら申し訳ないけど。
※ああ、あれはカイルの自殺だったのかとようやく思い至った。それにしたところで、何だか手仕舞いが雑だなあという印象しか受けないのは、カイルとリーしか知らないあの爆弾の秘密を監督ですらが前提とした演出の弛緩のせいなのかもしれない。
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2016年06月11日

ヒメアノ〜ル/人はみな、刺すと血が出る

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原作未読。
やはりこの世のいじめられっ子たちの怨念と妄念が生んだイドの怪物が世界を執拗に切り刻んでは勝ちどきをあげる物語としてしまうと、パッケージとしてのすわりがあまりよくないということなのかと少し残念な落とし前には思えたのだけれど、それでも虐めが引き起こした精神の疾患として悪意を飼うことを許した建前は精一杯の答えであったようにも思うのである。とは言えそれが、そうやって丸めることを認める代わりに、世界を切り刻むことを認めてくれはしまいかという手打ちの結果であったとすれば監督は冷静で正確な判断をしたということになるはずで、青春残酷物語を後回しにしてスラッシャーとしての森田正一(森田剛)を愛でるに注いだその器量において監督は勝ちをおさめたといってもいいのではなかろうか。それら森田の活躍においていくつか目を見張るシーンがあったのだけれど、中でも久美子(山田真歩)撲殺時における彼女の失禁は、自殺者ではなく殺された人がむくろと化していく時の文法としてはアングル共々に目新しく、このシークエンスで2つのアパートをつなぐカットバックにはやはり後背位はその律動性ゆえ画になるのだなあと『お葬式』など思い出したりもしたのだった。マンガ的な描線の岡田進(濱田岳)と安藤雄次(ムロツヨシ)に比べ、森田に与えられた劇画の陰影は、それゆえ彼の精神の陥没と傷跡が織りなすまだら模様をまるで世界地図のように映し出して、そこでしか生きられない人の孤絶を子供のように口を尖らせながら宣言してみせる。俺が俺の世界でどう振る舞おうと知ったことではない、なぜならおまえたちが俺を送り込んだその世界には俺以外誰もいるはすがないのだからというその宣言を彼以外の人は悪意と呼ぶのかも知れず、彼にとって悪意が世界そのものであればそれに理由などあるはずもなく、それを認めてしまうわけにはいかない人たちはそれに憐憫と名づけて理由の代わりにするのだろう。しかし憐憫が許されるとしたらそれは森田自身によってなされるべきだし、ワタシ達が必要とする理由はその告白の中にしかないはずなのである。それと、これは原作でどう扱われているのか分からないけれど、森田は性交が可能な人であったのかどうか、阿部ユカ(佐津川愛美)を襲うシーンの端々にうかがえたネクロフィリアの気配をあの山中のシーンから育てていたとするならば森田正一はなお完璧であったのではなかろうか。この映画には彼の自慰シーンこそあれ性交シーンがないことから察しろというならば、ワタシとしては嬉々として察するにやぶさかではないのだけれど。森田の運転するライトバンがアレをどう轢くか、おそらく轢くにはちがいないけれどどう轢くか、そんなことばかり考えては一喜一憂した映画の、それがかなりの高打率で満たされていた点ではほとんど僥倖といってもよく、あちこちでいくつか目をつぶったとしても血だらけのお釣りがかえってくるサービス精神はさすが塚本組出身の監督である。未来はわりかし明るい。
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2016年06月09日

或る終焉/ゼロで除算をしました

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走る車を車内ショットで捉えた長回しから始まるのは『父の秘密』と同様。そしてそれを運転している男の漂泊が後戻りの叶わないところまでたどりつくラストもまた同じなのだけれども、このデヴィッド(ティム・ロス)という看護師の、その職業倫理は突き詰めるほどにまっとうなのに、どこかしら人をはみ出てしまっているような佇まいのせいなのか、世界に吹く昏くて重い風を浴びせ続けてルドヴィコ療法のように目を閉じさせなかった前作に比べると、人でない生き物が懸命に人であろうとする世界の奇妙で哀しい記録(たとえば『アンダー・ザ・スキン』のような)から目を離すことができなくなる感覚が今作では強い。それはもしかしたら終末期の患者という、次第に人から離れていく存在に寄り添うための擬態なのかもしれないけれど、例えばエイズの末期患者サラ(レイチェル・ピックアップ)との関わりにおいてデヴィッドは彼女の肉親すらをコントロールしていて、その時の彼が自らを彼女の夫に擬態させていたことは彼女の死後、あるエピソードで明らかになるわけで、このあたりから彼はどこかしら信頼できない語り手となっていく。そして、サラの次に彼が関わる脳梗塞の患者ジョン(マイケル・クリストファー)のケースでは、おそらくは永年連れ添ったパートナー(同性愛的な要素を多分に含む)としての擬態に患者の家族が嫌悪を抱いたことでセクハラの抗議を受け、デヴィッドは看護師の派遣元から解雇されてしまうのである。こうした患者との日常と平行して、離れて暮らす娘と思しきナディア(サラ・サザーランド)との関わりにおいて彼の過去は少しずつ肉付けされていくのだけれど、デヴィッドが意を決してナディアの前に姿をあらわすシーンにおける、いかに彼が生者の世界から漂ってしまっているかを明らかにする長回しの、それは父と娘であるはずなのに世界の歩き方が決定的に異なってしまっていることを告げる寄る辺のなさのあまり、いつしかホラー化するカメラは中盤の白眉と言っていいだろう。自分はまだ死んでいないことを確認するかのようにランニングマシーンで汗を流すスポーツジムでスタッフから渡されるタオルに対するデヴィッドの潔癖症的な反応と、患者の排泄物や吐瀉物に対する献身的な反応との落差を思い出してみると、患者の人生の最終カーヴから急速に併走するための前述した擬態は彼の熟練したスキルによるものなのか、患者の死に喰われてしまわないための無意識の鎧なのか、とにかくこの映画は断定をはぐらかすことそれ自体に意味があるとでもいう綱渡りによって極度の緊張を持続させるのだけれど、末期ガンの患者であるマーサ(ロビン・バートレット)のある頼みを聞き入れることで、それまでうっすらと提示されていた彼の源泉が亡くした息子をめぐる自罰とつぐないにあることが明かされて、してみるとやはりあのラストは、それが果たされた以上自分がこの世界にいる理由は既にないという総仕上げ、すなわちすべての絶望も哀しみも消えたバニシングポイントだったように思うのである。感情の無重力を漂っているようで実はその足には重い錨がくくりつけられている役柄を、昼と夜のどちらにも染まらないグレーの緻密なグラデーションで演じ切ったティム・ロスが圧巻。隙あらば首を絞めにくるこの監督の長回しはほんとうにろくなことが起きないのだけれどと嬉しそうなワタシは、うっ血した目の夢心地でエンドロールに沈み込んだまま、こういうことをされると家に帰るのが面倒になるんだけどと一人ごちていたのである。世界はワタシたちに何も負っていない、と監督は解放する。傑作。
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2016年06月06日

サウスポー/俺らが人を殴る理由

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36戦全勝28KOという強打の世界ライトヘヴィー級チャンピオンにして、その粗暴な気質ゆえたびたび暴力沙汰を起こし、ついには拳銃の不法所持で実刑を課せられ投獄を目の前にする男、といえば『クリード』においてアポロの息子の敵役となるリッキー・コンランその人に違いないのだけれど、彼にしたところで必ずしも恵まれた生い立ちとはいえない中、おのれの拳ひとつで世界に居場所を作った男なわけである。現役の世界チャンプに課せられた7年間の懲役は実質的に選手生命を閉ざしたに等しく、そんな彼がまだ幼い息子にしてやれるのは世界チャンピオンとしての勇姿をその記憶に焼き付けること以外に何があろうかという悲痛な決意のもと彼はラストファイトのリングに上がり、死闘の末にチャンピオンベルトと息子をリングで抱きしめるのだった。というのが『クリード』に隠されたサイドストーリーなわけで、実際ワタシにとってはそうしたリッキーの動機の方が心に刺さる瞬間もあったことなど思うと、まさにそのリッキー・コンランを主人公に据えたと言ってもいいこのボクシング映画を嫌いになれるはずなどなかったのである。何よりこれが怒りと痛みについてのポエジーであったのは、アントワーン・フークアがボクシングを深々と愛していることのあらわれに思えたし、痛みをもたらす相手を理解した上でそれを怒りへとすり替えるボクシングの合理性は恩讐と無縁な男の意識を10秒間奪うための理由として絶えず磨きをかけられ、しかしそれがひとたび人目に触れた瞬間、そこにあるのは殴り合いという蛮性にほかならないという劇症ゆえボクシングに魅了され続けているわけで、その合理性と蛮性の間に描かれた溝が深くて昏いほどボクシング映画は魅力的で成功するように思うのである。『レイジング・ブル』がいまだ圧倒的なのはその溝への墜落だけを描くことでボクシングという在り方の独自と特異を浮かび上がらせていたからで、その段差を人生の一発逆転や返り討ちに利用するだけのボクシング・ドラマとは永遠に一線を画し続けるはずである。この映画の面白さはその段差の行き来をビリー・ホープ(ジェイク・ギレンホール)のボクシングスタイルによって表しているところで、ただひたすら痛みをガソリンに怒りを燃やしていた男が、立ち止まってあたりを見回したことでどんな武器を手に入れたのか、観終えてみればいささか直截的に思えたタイトルは彼が成し遂げた再生の象徴でもあったわけである。そうした構成上ビリーという個人の造形に起伏が足りなくなってしまいそうなところを、妻モーリーン(レイチェル・マクアダムス)が彼の共犯者にしてミューズとなることで鮮烈に彩っていて、あらかじめ退場が約束される役柄にレイチェル・マクアダムスという手だれをキャストした意図は十全であったし、彼女と入れ替わるように登場するティック・ウィルズ(フォレスト・ウィテカー)のドライな必然性にもなるほどとうなずけたのである。ワタシたちが観るボクシングは基本的にTV中継の画面を通してであることを考えれば、ボクシング中継に関しては世界最高のスキルを持つであろうHBOのカメラ・クルーを引き入れたのはまさにフークアの慧眼で、例えば『クリード』にあった長回しのような映画的愉悦よりは、この高密度でパッケージされた臨場感による圧倒的なケレンこそをワタシは推すし、だからこそ土壇場でギャラクティカマグナムのごとくぶっ放されるアレがすべての落とし前をつけることで浄化すらを果たしたように映ったのである。ボクシングによって人生を試すのではない、ボクシングが我々を試しているのだというフークアはまったくもって正しいし、それはすなわち、ジョイス・キャロル・オーツの“人生は、多くの不安定な点で、ボクシングに似ている。だが、ボクシングは、ボクシングにしか似ていない”という言葉の新たな裏書きであったように思うのだ。黒いショーツ一丁にガウンを引っ掛けたまま旦那と娘をちゃきちゃき仕切るレイチェル・マクアダムスがいなせでチャーミングで、彼女を殺さずに済む方法はなかったのかと少しだけフークアを恨めしく思った。
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2016年06月05日

デッドプール/Nothing Compares 2 U(s)

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『ダークマン』の直系(そして『ヘルボーイ』もそうだったことに気づいた)、すなわち『オペラ座の怪人』の嫡子となれば、俺ちゃん(ライアン・レイノルズ)に言われるまでもなくこれは紛うことなきラヴストーリーであって、どれほどコロッサスにアメとムチで口説かれようと、おれはヒーローではないゆえX-MEN入りなどご免こうむる!と逃げ回る俺ちゃんの闘いには他人を省みる余裕もつもりもないわけで、むしろ俺ちゃんと化す以前のウェィド・ウィルソンの方がよっぽどヴィジランテであったことを思えば、そうやってスーパーヒーローからダークヒーロー、そしてアンチヒーローへと観客からどんどん逃げ去るフットワークのスキゾレフニー的無責任が、正義に関する禅問答とそのインフレにいささか食傷気味なワタシも含めたお友達のハートを捉えたがゆえの予期せぬ大儲けだったのではなかろうか。それくらいここにはいっそ清々しいほど何もないわけで、とは言えそれが空虚とか虚無とかいうニヒルで語られることすらも全身で拒否する明るい殺気だけが満ち満ちていて、歴史はないけど暇だけはある国アメリカがひりだした永遠の暇つぶしとしてのポップアートの最新にして最良であったように思うのである。しかし、そんな掃きだめの日陰者が、現状ではR指定にもかかわらず直近1年公開作品中4位の国内興収(上にいるのはSW、JW、CW)を叩き出しているわけで、いったいアメリカ人はどれだけやけくその宿便を抱えているのか、思想信条がどうのとかいう話は別としてドナルド・トランプを支持する人間が物理的な総量としてあれだけ存在していることの不可思議ともしかしたらどこかで通じていたりはしないのかと、そりゃあ確かに某キャップのような親子丼もどきの語るジャスティス頼りよりは四つんばいになって国際女性デーを祝う俺ちゃんリベラルに挙手したいのはやまやまだし、だとすると俺ちゃん大ヒットがリベラル勢の潜在的危機感のなせるわざだったのだとすれば、アメリカ人のピュアで奇天烈なバランス感覚には恐れ入るばかりだなあとあらためて思う次第なのである。どこかに支持政党でクロスした観客データとかあれば面白いのに。分からない小ネタはいろいろあったけれど、コカイン116キロっていう端数にモヤモヤしてる。
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2016年05月31日

神様メール/残された夏あと何回?

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かつて『ありふれた事件』のやはりブリュッセルで、神のごとく世界を語っては、いいか、けっきょく俺はオマエなんだよと自罰と他罰を行き来しつつ片っぱしから人を殺してまわっていた男(ブノワ・ポールヴールド)が、またぞろろくでなしの神を演じては玉座を追われる姿の念の入った自業自得にも、神様がひどい目にあえばあうほど世界は善くなっていくのだというペーソスを忘れなかった監督のウィンクするような奇想は、エアのリクルートした使徒たちがそうやって顔をあげたように、生きることは身を縛ることだと刷り込まれたワタシたちへ他罰を棄てよ自罰に泣くなとけしかけるためであったのは言うまでもない。とは言えそうした奇想が走り過ぎないのも、自分の余命がわかってしまったら当然そちらに振りきれるであろうセックスと殺人の問題を、あからさまでなくやんわりと言い換えることで全体としての父性から母性へのスウィッチに巻き込んだ思想あってのものだし、容易に寓話のファンタジーへと退却してしまわないための俗物性を神様に押しつけた逆転を生かしていたのもその腹があってのこととなるのだろう。現実のなりすましとして用いられるCGにはいい加減食傷してしまっているけれど、ありえないことをあったことにする奇想の援軍としてはまだまだ愉しみのあるツールだなあと、思わず鳥の群れを操る夢想に思いを馳せたりもしたのである。この映画が露悪や偽悪やもちろん偽善からも自由なうちに“今日もいいニュースばかり”を告げることができたのは、ただやみくもに虎の尾を踏んで笑い飛ばしているのではなく、踏まれた方も痛いだろうけど踏まずにはいられないんだよときちんと舌を出しているからで、それはもう、JC(Jesus Christ)と聞いて、え?ジャン=クロード・ヴァン・ダム?と聞き返す真顔からして明らかだったように思うのである。それにしても、こんなクセっ毛だらけの映画までシネコンにぶん取られたら単館が店じまいしなけりゃならなくなるのは仕方がないなあとあらためて思ったけれど、浅掛けしないマダムのふんわり盛られたヘアをかきわけて覗き込むル・シネマとかル・シネマとかを思えば、何よりワタシは快適に映画を観たいだけなので既に感傷などどこ吹く風というところなのであった。
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2016年05月29日

海よりもまだ深く/台風一家

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篠田良多(阿部寛)のひりつく幼児性、篠田淑子(樹木希林)の甘噛みするスポイル、白石響子(真木よう子)の頑なな倦怠、といった、定型による家族再生の物語であれば容易な動機になりうるそれらの色合いがいつまでも同じ色のままこびりついていることで次第に落ち着かない気分になっていく。結局のところその違和感こそがこの元家族が果たせなかった夢の残滓そのものなわけで、それでもまだ『歩いても 歩いても』では穏やかな諦念のように響いていた“いつも少しだけ間に合わない”というつぶやきが、ここでは橋爪功までをもああした悪質な使い方をすることで、わたしたちは間に合わなかったことをここに正式に認めます、そしてそれが敗戦処理であろうと人生は続いていきます、と最早観客にファンタジーなど与えるつもりなどさらさらないデイリー殺伐は、それならそれでいっそ気が楽にもなろうかというケツのまくり方に思えたのである。一夜が明けたあとで元家族がみせる足どりは一見したところ憑き物でも落ちたように映るのだけれど、それはひとえに、人生は落ち着きのない嘘と容易ならざる本音のつづれ織りで、人はその模様だけを判断して生きているしかないのよという淑子の水のようなニヒルが染み込んだに過ぎないことの証しであったように思うのである。良多が受賞したのが島尾敏雄賞であることや姉千奈津(小林聡美)との会話からは彼の作品が私小説に分類されることがうかがえるのだけれど、おそらくそれは父親を対象の中心に据えた家族の物語であったのだろうし、そうやって自分が直接見聞し体験したことしか散文化できない良多が新たな著作をものにできないのは既に手持ちを使い切ってしまったからなのだとしたら、良多に残された方法は自分を生け贄に差し出して書くことしかないわけで、それはすなわち台風の夜に公園で過ごしたあの時間をクライマックスとする物語、要するにこの映画が紡いだそれということになるのだろう。では良多がそれによって自身を更新する未来を告げていたのかというと、淑子が押入から引っぱりだしてきた亡き父の白い開襟シャツを着た良多の姿が『歩いても 歩いても』における良多そのものであったことを思い出してみれば、喪失と屈託の無限ループから彼を解き放つつもりがないことは瞭然なわけで、それは良多三部作(『歩いても 歩いても』『そして父になる』『海よりもまだ深く』)に共通するやや相対化の過ぎる散文性がもたらす閉塞感などみるにつけ、もはや良多を監督の投影とする私小説と判断して差し支えないという告白なのだろうと思ったし、してみれば良多というキャラクターによって共感よりは言い逃げを決め打ちしてきた寄る辺のなさがようやく腑に落ちた気もするのである。だからこそ、思わず気持ちが添ってしまった時の居心地の悪さと言ったらないわけで、ひとまずは湿潤温暖型ハネケとしておけばいいのだろうと考える。
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2016年05月26日

ディストラクション・ベイビーズ/No Country for Young Men

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おそらく芦原泰良(柳楽優弥)には泰良なりの合理性を持ったルールがあるはずで、アントン・シガーがそうであるようにその合理性が暴力となって噴出する回路をどこまで素知らぬ顔で保てるか、その一点に成否がかかっていたとすれば、芦原将太(村上虹郎)や北原裕也(菅田将暉)らのそれに理解可能な意味や理由を与えることで、泰良の暴力を透明な孤絶に高めるやり口はかなりうまくいっていたように思うのである。泰良は憎しみや怒りこそを打算のない感情と決定し、それらの込められた拳を打ち込まれることでそれを暴力へと精製し、その供給と引き換えに憎しみや怒りを手に入れる破壊の永久機関へと変貌していくわけで、そのことを肯定も否定もしない視線の獲得とそれを維持する足取りのメランコリーをどこかしら苦笑いのようにすら扱う退廃は、戦前の予想として結局はヴァイオレンスな青春の蹉跌なんだろうとたかをくくっていたこともあって、何だか奇妙に新しい発見のようにも思えたのである。ではそんな風に泰良の精製した暴力はいったい何を破壊しにかかったのか。近代合理主義的自我(ハネケ)なのか、神のシステム(ノーカントリー)なのか、マテリアリズム(ファイ・トクラブ)なのかと考えてみた時、そのいずれもが唾棄すべきシステムとして意識されないこの国において立ちふさがるのは、そのモールで遠巻きに写メを撮り続け、いっぱしの言葉を並べてはシステムの外側で断罪を気取る烏合の衆ということになるのだろうか。そう考えてみると、これだけ暴力にあふれたこの映画のどこかしらの風通しの良さは、イドの怪物としての泰良による陽気で楽天的な逆襲によっていることにあらためてうなずけたりもするのである。それだけに、泰良の「どやった?どやった?」という那奈(小松菜奈)へのセリフは泰良を限定してしまうノイズであったようにも思われるし、言ってしまえば那奈は必要だったのかという気分にもなってくるわけで、泰良の暴力を通過した人間のサンプルとしては類型的すぎるし、裕也を葬る装置としての入り用であれば、裕也が那奈を犯そうとして犯しきれない描写のいくらかは添えておくべきだったのではなかろうか。抑圧された不能者としてコンプレックスに塗れた裕也を演じた菅田将暉の哀しい下衆が、しばしば斉藤陽一郎を彷彿とさせて出色に思えたこともあり、逃避行のトライアングルに拘泥したことで魔法が緩んでしまったのが少しばかりもったいなく感じてならなかったのである。それはそのまま暴力のインフレにもつながって、泰良の他による暴力がチープに収束してしまうことで次第に手続き化して痛みが奪われてしまっていたことも高望みによる悔いとしておきたい。それはそのまま泰良=柳楽優弥というクリーチャーを見ているのが愉しくてしかたがなかったということでもあるのだけれど。
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2016年05月23日

ちはやふる ー下の句ー/わたしと踊れ

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自らをハブに差し出しては、みんなつながれ!と叫ぶヒロインの徹底した空虚はその役割ゆえなのだとしても、それをニュートラルと言わず空虚と呼んでしまうのは千早にもそれを演じる広瀬すずにもおそらくその自覚がないように思われるからで、上の句でも感じたその攻撃的な八方美人の記号は下の句においてさらに純度を高めることで、千早は確かにそこにいるのにいない人として、ある意味では桐島のように実存ではなくなっていく気すらするのである。したがって、千早がフレームに入った途端に生じるよそよそしさは、彼女が他者からの反射によってしか自分の輪郭を確認できないタイプゆえ、その輪郭を常に意識させられてしまうことによっているのだろう。そしてそれは広瀬すずのレオパレス感とでもいう、すなわち求められる感覚を常に先回りする達者にもよっていて、そこに彼女のエゴの欠片はどこにもないのである。したがって、若宮詩暢(松岡茉優)や須藤暁人(清水尋也)といった自前の輪郭を持つ者と絡み合った時ほど千早が実存として浮かび上がってくるのは当然の話で、この物言わぬ/言えぬヒロインのために太一や机くん達がいちいち余白の言葉を口にしなければならない不利をかこつのもやむを得ないということになるし、それでもカヴァーしきれないサブテキストの弁士として原田先生(國村隼)が在るのは言うまでもない。広瀬すずのカウンターパンチの当て勘が優秀なのを認めるのはまったくやぶさかではないのだけれど、こうした構造の映画ではそうした資質が重宝されると同時に諸刃の剣になることも確かであって、完全にファイタータイプである松岡茉優とはその点において対極であり、ならばワタシはやはり撲殺の可能性を一も二もなく選んでしまうのである。そしてもう一人特筆すべき清水尋也は『渇き。』『ソロモンの偽証』の両作品を真逆に振り切ったように、彼の正統派シックボーイとしての爪跡はこの年代においてかなり貴重であるように思える。そう言えば、千早がリタイアした団体戦の敗退がやけにあっけらかんと語られていたけれど、須藤のプライドにおいて貸し出された門外不出の北央学園データブックの件があったにも関わらず、東京代表を継ぐ矜持の問題としてそんなことでかまわないのだろうか。何だかものすごく気になった。
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2016年05月22日

心霊ドクターと消された記憶/哀しいのはお前だけじゃない

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永遠のデラシネ体質を手癖のように操っては“楽をしている“タイプのエイドリアン・ブロディ映画としては問題なく機能しているし、90分という時間には似つかわしくない重層の仕込みもそれなりにお得感はあるものの、ではそれを90分のエイドリアン・ブロディ映画と言ってみた時の感覚を柳腰とするか腰砕けとするか、はなから狐に化かされるつもりで行ったつもりのワタシには、いずれにしろそれをどうこう言う理由は何もないのである。とはいえうまいこと化かしたつもりでニヤニヤされるのもいささか癪なところはあるわけで、たそがれてばかりでなかなか腹をくくらないピーター・バウアー(エイドリアン・ブロディ)に業を煮やした幽霊が、イライラのあまり首を絞めたりするのはまあ分からないのでもないのだけれど、最後の踏切のシーンで父ウィリアム(ジョージ・シェヴソフ)に可視化された幽霊が物理的なアタックをしてしまうのは、やはり完全にアウトなのではなかろうか。それができるなら最初から父親のところに化けて出て追い詰めてしまえば済む話で、そもそもピーターにしか視えないことで成立する話であって、望まずとも視えてしまう人が湛えるメランコリーを通奏低音にしなだれてきた柳腰が、その瞬間、なんとも無粋に腰砕けしてしまって興ざめとしか言いようがなかったのである。なぜか体を動かすことができずに焦りまくる父をみつめるピーターの目には、幽鬼のごとく父にしがみつくエリザベスの姿が映っていたとなるのがやはり真っ当だったのではなかろうか。そもそも自分の父親がシリアルキラーであったという衝撃的すぎる事実のわりにそこをまったく掘り返すことをしないのは、ピーターの喪失と再生を描くにとどめるはずのストーリーを、自身の血の贖罪を求めるサイドストーリーが転覆させかねない懸念によっていたのだろうけれど、ウィリアムを演じたジョージ・シェヴソフの長身痩躯と倦んだ鷲鼻がエイドリアン・ブロディの父親としてあまりにはまりすぎていたこともあり、この親子の虚ろな相克をすっぱり切り捨てて立ち読みで読み飛ばす快感を選んだ判断を物足りなく思ったのが正直なところだったのである。とはいえ、エイドリアン・ブロディ案件というだけで最低限の品位が保証された気分になってしまうこの不可思議なバイアスで、寡占状態のニコラス・ケイジ市場に殴り込みをかけてみるのも愉しいかもしれないと思ったのも確かだし、主演男優でオスカーを獲っている点においてその資格はすでに十分すぎる上に、何より負けず優雅な八の字眉を描いているのであった。
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2016年05月17日

ヘイル、シーザー!/スタジオを讃えよ!

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共産主義と同性愛と水爆。アメリカのイノセンスを脅かす敵に立ち向かうのは映画の持つ夢見る力なのだというマニックス(ジョシュ・ブローリン)の美しい猪突妄信はどこかしらキャプテン・アメリカを思い出させて、もちろんこの時代に想いを馳せるような記憶のないワタシがノスタルジーを抱くはずもなく、やはりアメリカが帰りたがるのはこの場所なのだなあという、二項対立が二律背反にのしかかられる前夜の話である。もちろんトラブルシューターとしてのマニックスがハリウッド・バビロンとしての実態を知らないはずはないのだけれど、光りたる映画こそがこの世で唯一価値のある存在であり、俳優や監督から脚本家、スクリプトガールに至るまで、お前らにいくらかでも価値があるとすればそれは映画に仕えるというその一点にしかないし、もしお前らがそれを全うするならば俺はお前たちにかしずくことも厭わないというのが彼の哲学であり職業倫理なのだろう。そうしてみるとやはりキャプテン・アメリカには、なにより職業軍人として自分がアメリカ合衆国とその国民に仕える存在であることの矜持が決定的に欠けているのではなかろうか。二項対立の牧歌の中に眠りにつき、もはや二律背反どころではない混沌の中に目覚めたキャプテン・アメリカが、ウェットワークスに身をやつしたアメリカの軍隊といったいどう折り合いをつけたかが描かれないうちは、新ヴィジランテ宣言にいかなる説得力もあるはずがないのである。いったい何を書いているのかわからなくなってきたけれど、要するにマニックスは“わかっている”男であり、コーエン兄弟が憧憬するとすればそれは、マニックスのような男が守るに値した映画の時代についてということになるのだろう。そしてそのマニックス的世界は、イノセンスの象徴として映画の補助線をキープし続けたホビー・ドイル(アルデン・エーレンライク)に「複雑なんだよ(It’s complicated)」と言わせたことでその終焉を予感させると共に、クレジットロールに残る波の音とサイレンは、やがて赤狩りがハリウッドを侵していく夢の終わりを告げていたのだろう。そうしてみるとこの全体が陽気なレクイエムであったような気もしないことはないし、大統領選挙の年にこうしたアメリカの自家中毒体質をつついては、俺たちは自分で思うよりもけっこう間違ってしまうよねとやんわり釘を刺すこの兄弟の食えなさや、こうした映画を撮らなければならない世界の理由とのしなやかでぶれることのない戦い方は、それをハリウッドの兵法としてジョージ・クルーニーやブラッド・ピットらがこの兄弟の轍を歩んでいることを思ってみれば、彼らの映画の魅力はそれを正解として身を委ねることへの誘惑とそれが十全に果たされる恍惚にあることをあらためて感じ入ったりもしたのである。アルデン・エーレンライクは前提としてすべての出演者が腰の軽さを装備させられる中、マニックスと共に正解者のメランコリー、すなわちコーエン兄弟の投影を飄々と湛えてみせて、コッポラの慧眼はさすがであったとしか言いようがない。その人工のあわいにおいてコーエン作品のプロダクションデザインが傑出してるのはいつものことだけれど、中でもベアード・ウィットロック(ジョージ・クルーニー)が軟禁されるマリブのビーチハウスのフランク・ロイド・ライト(クリントン・ウォーカー邸)オマージュがその住人のスノッブを絶妙にあぶりだしていたことに惚れ惚れとした。
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2016年05月15日

追憶の森/いつかキラキラする日

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むしろ終着の気分が悪くないことに驚くくらい、そこに至る寄り道や抜け道や近道が実はまったく寄っても抜けても近くもないままだった道中にヤキモキしたり首をかしげたりしていたのだけれど、自殺の名所としての青木ヶ原の風評を霊場に間借りすることで、ある男の喪失と再生をスピリチュアルな奇跡/軌跡で描くというアイディアだけを聞いてみれば特に突飛なわけでもないのである。そう考えてみると、やはりアイディアを血肉化するに際してのシナリオが窮屈だったり目が粗かったりするのが問題だったように思うわけで、製作にも名を連ねるクリス・スパーリングというスリップストリーム系の監督/ライター(『リミット』等)によるシナリオの、こうしたいからこうした、のではなく、こうだからこうした、という斬って捨てるたたみ掛けの手癖のせいか、波紋が波紋を呼ぶことによる共鳴がなかなか余韻となって響いてこないように思うのである。例えば、というかおそらくこれが最も厄介なこの映画の瑕疵なのだけれど、なぜアメリカ在住のアメリカ人が死に場所を日本の青木ヶ原に求めたかというくだりである。スピリチュアルな展開との陰影をつけるためだろうキャリアウーマンと科学者という表向きのプラグマティストを装う夫婦を突然襲った妻ジョーン(ナオミ・ワッツ)の病と、その弱気ゆえ妻が口走った言葉が直接的なきっかけになるにしろ、やはりアーサー(マシュー・マコノヒー)に海の向こうの極東の島国へと足を運ばせるにはあらかじめ "a perfect place to die" としての青木ヶ原に取り憑かれていく妄執の描写が必要だったのではなかろうか。その手続きを適切に行うことで、青木ヶ原という場所に馴染みのない日本人以外の観客に、フジヤマという日本のシンボルのスピリチュアルなダークサイドとしてその意味性を浸透させることができたはずなのに、ググって即決したあげく、衝動と確信に苛まれた夢想の中にあるはずが、パスポートを準備して飛行機に乗り、誰に尋ねることもなく青木ヶ原入口に降り立ってしまう様には、やはり手続きの乱雑さへの誹りはやむを得ないところだろう。そしてそのとってつけた乱雑、すなわち大オチから機械的に逆算された他の伏線も、鉋もかけられないまま滑らかさを欠いて(結局アーサーは妻のPCにあった『巴里のアメリカ人』の画像を最後まで思い出さないし、葬儀屋は唐突に故人が童話好きだったことをアーサーに告げる)、凸凹に放置されてしまうのである。にも関わらず(キイロ、やフユは日本人ゆえの違和感として気にしなければ)、冒頭にも書いたように終着の気分は、半死半生を演じきったマシュー・マコノヒーやナオミ・ワッツの奮闘(渡辺謙はあまりにもティピカルなキャラクター造型によって割を食った)や、キリストを介在しない自律性の死生観もあってその光の射し方にことさら鼻白むことはなかったのである。それだけに、三歩進んで二歩下がるような周到と綿密をシナリオにしのばせることができなかったことを何とももったいなく思ってしまうのだ。そういえば、自殺者の魂が煉獄を口にするのは宗教的な皮肉なのか、あるいはただの呑気なのか判じかねたりもした。てっきり鶴見真吾だと思った俳優がまったく知らない別人であったことにハシゴを外された気分になったのはまったくワタシの言いがかりでしかないのだけれども。
posted by orr_dg at 20:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする