2018年07月18日

ブリグズビー・ベア/映画は撮らせてくれる

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ブリグズビー・ベアが新しい世界を独り歩きすればするほど、茫洋と広がる世界と渡り合うだけの知識と社会性とをジェームス(カイル・ムーニー)に蓄えさせたコンテンツ「ブリグズビー・ベア」をゼロから築いた仮親テッド(マーク・ハミル)の偏執的な天才とそれを支えた愛情とに気を取られてしまう。世界を再構築して規定し直すためには古い物語を終わらせるための新たな物語が必要であることにジェームスが思い至るのも、世界を投影するスクリーンとしての物語を信じたテッドの「教育」がもたらした成果であって、けれども分水嶺を超えて世界に侵食した物語によって人生を囚われ続ける男マーク・ハミルがテッドを演じることを皮肉と映すことをせず、物語ることへの肯定と祝福を唱え続けることへの決心こそがこの映画の野心であったということになるのだろう。かつてはテッドが一人二役で演じていたブリグズビーとサン・スナッチャーの、ブリグズビーを継承したジェームスがサン・スナッチャーを撃退するラストはそのまま父殺しの物語となるわけで、これこそはマーク・ハミルにとってついぞ果たされることのなかった結末ということになるのではなかろうか。『ワンダー 君は太陽』がそうだったように現実世界でジェームスの存在そのものを脅かす悪意が登場することはなく、ことさらに負のスイングで見かけの奥行きを作ることをしないのは予定調和の破壊でもあるわけで、当たり前の感情を抱いて当たり前の行動をつなぎ、当たり前のように自分の世界を手に入れることを描くのがラディカルに映ってしまうワタシ達の身の回りこそがいかににっちもさっちもいかなくなっているか、エラーと困難を引き換えにしないと希望や幸福は得られないのだという出所不明のしたり顔にいい加減でうんざりしている正気の人たちにこそ寄り添いたいとワタシは思う。テッドのみならず、ホイットニー(ケイト・リン・シール)の救済もまた優しく綺麗に行われるのがとても良い。いささか唐突だった施設収容は『カッコーの巣の上で』な逃亡シーンをやりたいがためだった気がしないでもないけれど、そうやって自分たちの「映画」を撮っていたデイヴ・マッカリーやカイル・ムーニーこそが劇中の彼や彼女たちそのものでもあったのだろうと思えばこそ、この映画が既にノスタルジーのような気分を獲得していることの理由が分かる気がしたのである。それは、二度とこんな風には撮れない最初で最後の映画だから。
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2018年07月14日

パンク侍、斬られて候/日本の猿なめとったらどついたるぞ!

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「曖昧な欲望しか持てず、曖昧な欲望を持て余す」「おまえの頭を開いてちょっと気軽になって楽しめ」「すべてが終わった後で何が残るか俺は知らない俺はおまえを正確にやる」「俺はのうのうとしてきた奴の子孫を傍観して俺の屈辱をたたき込みたい」「俺はおまえを夢の中にひきずり込みたい」「俺の存在を頭から打ち消してくれ 俺の存在を頭から否定してくれ」「一口飲めばスカッと地獄 全てを忘れてあんた最高」「俺の方から不安と恐怖に何時でもやったんぞ」「偽善の快楽と安らぎが少しだけ欲しいなら俺の家に来い」「むしろ異常なのはおまえ自身むしろ環境とはおまえ自身お前が退屈なのは当然」「ええ加減にせんと気い狂いて死ぬ」とまあこういうことである。INUである。この国屈指のパンクアルバム「メシ喰うな!」の映像化である。闘争どころか遁走のパンク、スキゾ・キッズの冒険、ベイビー!逃げるんだ。逆噴射家族、突如80年代の亡霊が憑依した石井聰亙(やっぱりこっちの方がしっくりくる)が復活の逃げ足で、そんなつもりは毛頭ないパンクアンセムを目眩ましに、考えるために考えるなら考えるだけムダ!と走り去る。この映画の既視感というよりは、三つ子の魂百まで的な胎内回帰の気分は主にその逃げ足の光景によるのだろう。とは言え石井聰亙がまだこんな脚を残していたことには正直言って驚かされたし、何より石井聰亙ですらない石井岳龍に大金(けっこうかかってるよね)をぶちこんだ慧眼というよりはキチガイ沙汰にこそ喝采をおくるべきで、これほど勇猛果敢に金をドブに捨てる姿を目にしたのは果たしていつ以来だったのか、今いちばん足りていないのはこうした街場のバカによる撹乱であることをあらためて痛感したのだった。永瀬正敏vs浅野忠信の因縁はまたしても決着つかずということで、虚空に消える永瀬正敏と虚空に囚われる浅野忠信は、まんま『ELECTRIC DRAGON 80000V』の変奏であったよ。原作未読につき宮藤官九郎の脚色がどれくらいジャンプしたかは不明ながら、役者がみな口も身体もやたらと気持ちよさそうに動かしていたのは間違いがないように思えた。それにしても、今の時代にまだこんなでたらめ(=punk)が可能だったことに少しだけ沁み沁みしている。
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2018年07月13日

菊とギロチン/愛と幻想の内無双

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花菊(木竜麻生)の内無双がいつ炸裂するのかと、終盤のあるシークエンス以降はそればかり固唾を呑んで待っていたものだから、こうやって今に至るも我々は負け続けているのだ、と夢を見るなら夢から鍛えよとでもいう全方位へ立てられた中指の気概は受け入れるにせよ、だとするとそもそもがギロチン社と女相撲が共闘するにはそれぞれの蹉跌が質を違えていたように思ってしまうのだ。それはおそらく十勝川(韓英恵)の出自にまつわる暴力世界と中濱鐵(東出昌大)の満州ユートピアのクロスがバランスを崩していたからで、本来であれば女相撲が十勝川を守るシェルターとなったはずが、彼女をアナーキストの感傷に巻き込んでしまうことにより女相撲がいささか都合のいい背景となってしまった気がしてしまう。あくまで主軸は女相撲とした上で、巡業先で出会った中濱と古田(寛一郎)と交流する日々に、2人の屈託や不穏が徐々に滲み出て素性が晒されていくその感応によって、彼女たちもまた自身の闘いにフォーカスしていく物語をワタシは少し予見しすぎたのかもしれない。おそらく監督は、きれいに鉋をかけてしまうよりは、ささくれが手に刺さる痛みを残そうとしたのだろうし、出奔して気ままに死ぬ自由すら与えられない女性の時代にあっては、夫に内無双を仕掛けた花菊のその先の未来を夢想するよりも、古田という捨て石の残酷にかじりついて生きることを理解すべきだということなのだろう。概して女相撲の面々はみな完全に役柄へと没入していて揺らぎがないのだけれど、なかでも玉椿を演じた嘉門洋子の、肉体に精神が隙間なく張りついた佇まいの凄みに目を見張った。東出昌大は人たらしの色気が決定的に欠けてしまっているのがなかなか辛い。いつの時代も益体のない夢を見ては泣きじゃくる男たちと、見たくもない夢のおこぼれで涙をふく女たちが果たして「同じ夢をみて闘った」のかどうか、「同じ夢をみて闘うことを夢みた」映画だと思ったワタシは、またそこから始めるのかと何だか遠くを見た気分になってしまった。
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2018年07月08日

バトル・オブ・ザ・セクシーズ/やっちまいな

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これは『1973年のビリー・ジーン・キング』というタイトルがふさわしい、自身の野心に対する尊敬の念を曇りのない視点でみつめつつ、しかし自身のヴィヴィッドなゆらぎを慈しむように生きるひとりの魅力的なファイターが駆け抜けた時間の個人史であって、原題タイトルが連想させる闘争史による参照はどちらかと言うとこの映画の本意ではないように思う。テニスドレスが買えずに母の作ったテニスショーツを着た12歳のビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)が、それではみんなと一緒に写真は撮れないよと言われてムカついたその日から彼女はあくまで自分を不当に扱う世界を相手に闘って来たわけで、WTAの設立にしてもそもそもはその流れの中で起こしたアクションにとどまっていたのではなかろうか。そうした何者にも従属しないはずのビリー・ジーンがマリリン(アンドレア・ライズブロー)と出会うことでもたらされた覚醒によって、自分で自分を抑圧し続けてきたこととそれを強いてきた社会への怒りと恐怖を認識し、世界の悪意を粉砕する意志と力のある者はそれを行使する義務があるとでもいう大きな意志に衝き動かされたことで、自分のためだけではない闘いへと舵を切っていったのだろう。したがって、マーガレット・コート(ジェシカ・マクナミー)の惨敗を見届けたビリー・ジーンが意を決してひとり立ち去るシーンこそがこの映画のピークといってもよく、ほとんど手続きにすぎないボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)とのゲームよりはそれを取り巻く悪意の群れがことのほか執拗に描かれて、ビリー・ジーンが一敗地に塗れた時に群がるであろうジャック・クレイマー(ビル・プルマン)らハゲタカたちの醜悪な色付けにはまったくもって容赦がない。なかでも、中継のゲストに招かれたロージー・カザルス(ナタリー・モラレス)の肩にことさら庇護者よろしくねっとりと腕を回すハワード・コゼルの姿はフェミニストをはき違えた絶滅すべき恐竜に対する悪意以外のなにものでもないし、ボビーに負けるということはそれらすべてにひれ伏すことになるのだという死の宣告を突きつけられた闘いであることを承知していたからこそ、勝利の後のロッカールームでビリー・ジーンが流す涙は、喜びというよりは戦場を生き延びた安堵の嗚咽にしか映らなかったのである。神輿にかつがれた道化としてのボビーを強調するのは、敵はその後ろにいてしたり顔で腕を組む者たちであって、それを見誤ってはならないという念押しだったように思う。ビリー・ジーンが本当に愛しているのはテニスだけで、そこを邪魔でもしたらボクもキミもすぐに棄てられるさ、と“浮気相手”のマリリンに怒りをぶつけるでもなく諭すように語るラリー・キング(オースティン・ストウェル)はビリー・ジーンの野心に対する全面的な崇拝者であって、そうした愛の形を選んだ彼にうっすらとした哀しみを見て取ってしまうのは、それがワタシという人間の限界ということにもなるのだろう。涙をふいて歩き出したビリー・ジーンを抱きしめてテッド・ティンリング(アラン・カミング)が囁く言葉が、ほんの一瞬にしろこの世界を美しく均して遠くどこまでも見渡せたような気持ちになる。いつかありのままの自分でいられる日がくるだろう、そして誰でも自由に人を愛せるようになるだろう。少しうろ覚えではあるけれど、ビリー・ジーンはその日を願って独りコートで闘ったにちがいない。
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2018年07月07日

ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷/空室有り応相談

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サラ・ウィンチェスター(ヘレン・ミレン)とプライス医師(ジェイソン・クラーク)が面談するシーン、窓から差し込む日光だけが照らす部屋のはずがどのカットでも2人を燦々と照らす光源不明のヒプノティックな光に落ち着きを奪われる。巻き込まれるようにして異界に踏み込むプライスは定型のゴースト・ストーリーであれば異界へのカウンターとして機能するところが、ここでの彼は異界への同化があらかじめ運命づけられているわけで、定型であれば闇堕ちのような敗北として描かれてしまうそれは、プライス自身の喪失と再生をめぐる物語となっている。そんな風にしてプライスを往って帰すことにより、それを促したサラの振る舞いは狂気の沙汰から贖罪へと姿を変えていくことになるのだけれど、劇中で命を落とした2人(執事と大工頭)が共に彼女の贖罪を信じていなかっただろうことを思い出してみれば、彼女と屋敷が手にしたさらなる変質と力を窺わせるラストによって、やはりこれは感染する狂気の物語であったことに気づかされるのである。『デイブレイカー』にしろ『プリデスティネーション』にしろ、スピエリッグ兄弟がつけ回すのは自らを磔にする人の憂鬱と官能であるのは間違いがないだろう。描かれる感情自体はメロウであろうとそれがいつも躁病的に上気して息を切らしているようなのもこの兄弟独特のトーンであって、脇に回ったとは言えセーラ・スヌークこそがこの兄弟のミューズということになるのだろう。『ツイン・ピークスTHE RETURN』での、破壊的に底の抜けたクズっぷりで脚光を浴びたエイモン・ファーレンは、クローネンバーグ顔の怪優としてこのまま健やかに歩んでいって欲しいと思う。そもそもなぜウィンチェスター銃の製造を止めてしまわないのかと問われれば、そうしたらいつの日か犠牲者がいなくなって屋敷の工事を止めなければならなくなるでしょう?と真顔で返してきそうな壮大なるブラックジョークと弄るのもまた格別の趣き。
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2018年07月04日

オンリー・ザ・ブレイブ/燃える森の生活

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燃えるものがなくなれば火は消える、という真理というか事実というか取り決めというか、業火に対峙する男たちの内部にもそれは同じように適用されて、消したい者、消えない者、消してしまいたくない者たちはいずれにしろ火に支配されかつ魅了されている趣すらあり、妻アマンダ(ジェニファー・コネリー)が“消防士中毒!”と吐き捨てるエリック・マーシュ(ジョシュ・ブローリン)の場合、燃やすものがなくなる日々への畏れが火に向けた愛憎入りまじる忠誠を誓わせてもいるようにも思えるし、エリックはその美しさと怖ろしさを闇の中を火だるまで疾走する熊の記憶にうつして自身にとどめている。そうやって内部を喰われた者ゆえに可能なスペシャリティという点で『ハートロッカー』が頭をよぎったりもしたのだけれど、エリックが戻らずの河を渡ってしまわないよう頬を張り続けるアマンダの眼差しがこの作品の正気を象徴するだけに、ついにエリックが地に足をつけた瞬間に起こる無慈悲に向かっていささか紋切り型に崩れ落ちるアマンダの慟哭にも鼻白む隙などなかったように思うのだ。エリックが自身の過去を投影して手元に引き寄せたブレンダン・マクダノー(マイルズ・テラー)が、夫妻に対照するかのように、ある意味では子供の存在によって生かされたといえるのも酷薄な運命の仕業と言えるのだろう。劇中でどれだけ業火に巻かれようと不思議と熱さを感じることがないのは、ここに登場する人たちのふるまいひとつひとつがアメリカの根幹をなす自然思想とプラグマティズムの沈着な実践のようでもあったからで、人里離れた山の中で祈りのように軽口を叩き一心不乱の労働に明け暮れるグラニット・マウンテン・ホットショットの面々はどこかしら修道士のようにも思えたし、ピーター・バーグ的なアメリカン・イシューとはほど遠い地の塩的な原風景を見渡すような映画であったことに、どうにも虚を衝かれた。
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2018年07月02日

ハン・ソロ:スター・ウォーズ・ストーリー/粗にして野でも卑でもない

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※展開に触れています

ドライデン(ポール・ベタニー)の船に還ってきて以降、ハン(オールデン・エアエンライク)とチューイ(ヨーナス・スオタモ)、キーラ(エミリア・クラーク)が取る行動の、どうしてチューイはハンを裏切ったトバイアス(ウディ・ハレルソン)にさしたる理由もなくヒョコヒョコと付いて行ってしまうのか、ドライデンを倒したなら2人で手に手を取って逃げ出せばいいものをなぜハンはキーラと別行動をとることをあっさり受け入れてしまうのか、本来であれば苦渋の選択が決断を鈍らせて危機を招き、予期せぬ悲劇へとなだれこむクライマックスによってハン・ソロ・ライジングの仕上げとなるはずが、各自が段取りの消化としかいいようのない駒の動きをするにとどまって一滴の血も涙も通うことがないせいで、その後に起きる2つの裏切りにまったく血潮が逆流することもなく、キーラが乗った船を呆然と見上げるハンの、何だか一雨きそうだなあくらいに気の抜けた顔にはワタシの知るハン・ソロが身を沈めるシニックの鎧の一片も見てとれなかったように思うのである。そもそもが、ハンとキーラ、ドライデンの三角関係を正面切って物語の要素にする覚悟のない腰の引き具合からして鼻白むばかりだったし、その程度の切った張ったですらディズニー・コードに抵触したせいなのかどうなのか、おそらくロン・ハワードは想像を超えて自分ががんじがらめであることを知った時点で、師匠譲りの低予算早撮りモードへとあっさり自身を切り替えたのではなかろうか。愛をアドレナリンとチャージした若く無謀なカップルが、自分たちを捉えた運命を笑顔で引っかき回しならがバニシング・ポイントへと向かう『バニシング in Turbo』の狂躁をワタシはオープニングのシークエンスで見て取った気もして、欲しがったのがこれだったのならば監督交代もやむを得ないし、むしろキャスリーン・ケネディの慧眼だったのではなかろうかとすら思ったのだ。しかし唯一エゴが感じられたのはそのコレリアで繰り広げるスピーダー・チェイス・シーンまでで、それよりはカジノを2度、ドライデンの部屋を2度、と使い回すあたりの目端をこそ、クリエイティヴィティ?なにそれ美味しいの?とばかり製作陣は求めたとしか思えなかったのである。冒頭でふれたシークエンスで、同じカットを繰り返しては最初はチューイ、次はハン・ソロと自動ドアの向こうへ消えていく死んだ魚のような目をした編集の月曜ドラマランドっぷりにはロン・ハワードのあさってに向けた捨て身すら感じた始末で、かつてそうであった映像の実験場としてのスター・ウォーズの終焉を見た気もしたのだった。巷間囁かれてきたハン・ソロの出自やチューイとの出会い、ミレニアム・ファルコン入手の経緯、果てはケッッセルランに至るまですべてをハン・ソロ正史と取り込んではいるものの、それらすべてのエピソードがこの作品には役不足であったのは言うまでもなく、あなたのハン・ソロをハン・ソロとしてとどめておきたければ今作をスルーしたところで何の問題もないように思う。他の誰よりもウディ・ハレルソンこそがハン・ソロのスピリットを哀しい目と小さな微笑みでドライヴしていたよ。
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2018年06月29日

ワンダー 君は太陽/おまえもがんばれよ

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ダメージを背負った主人公が学校という新たな世界で理解者を得ることにより、自分の居場所を見つけて歩き出す物語としては、監督の前作『ウォールフラワー』とほぼ同じ見かけで語られていくのだけれど、実は主人公のオギー(ジェイコブ・トレンブレイ)はあらかじめ成熟した知性とユーモアを持ち合わせていて、人間を見かけで判断する愚かさへのカウンターとしてほとんど記号化された存在といってしまってもいいくらいオギーはオギーのまま頑としてあるのである。したがって、ここで描かれるのは彼よりは彼によって変化を促される人たちの成長譚であり、それは「オギーの見た目は変わらない。ならばわたしたちが変わればいいんだ」という校長先生の極めてプラグマティックな情動の実践ということになる。原作は未読なのでどのような脚色がなされたのかわからないのだけれど、オギーとの関わりで更新されていく人たちを「○○の場合」といった風に章立てした構成にもそれは明らかで、その点でオギーはほとんど狂言回しと言ってもよく、彼に対する同情や憐れみはそのままそれを向ける者へと反射されていくこととなる。母イザベル(ジュリア・ロバーツ)や姉ヴィア(イザベラ・ヴィドウィッチ)がオギーの家族となったことで舵を切り直したその人生も、オギーのいない場所で語られる衒いのない口調によってその笑顔に重ねられたレイヤーの模様をワタシたちは知ることになるし、オギーとヴィアそれぞれの親友であるジャック(ノア・ジュープ)とミランダ(ダニエル・ローズ・ラッセル)についてもそれは同様に、独り言のあけすけな口調でオギーという舵を語ることによって自身の道筋を確かめ直すわけで、この映画がことさらにウェットな感情を溜めてはそれを涙に絞り出すことをしないのは、そうしたある種の緊張が成熟した人間関係の証として張りめぐらされているからなのだろう。そうしてみた時、ではチャプターを与えてもらえなかったジュリアン(ブライス・ガイザー)がどんな風に自身を立て直したことで修了式の笑顔を見せていたのかを思うと、オギーへの暴力装置として描かれる彼が偏狭な両親の呪縛をどうやって断ち切ったのかを描かないのは、構成上ジャックとの重複が邪魔になるのは承知するものの、慈愛と理性に満ちた大人たちばかりのこの物語にあってジュリアンだけがバックアップされない不幸を思えば、それは少しばかりフェアではないだろうと思ったのである。オギーの父ネート(オーウェン・ウィルソン)と母イザベル、トゥシュマン校長(マンディ・パティンキン)、ブラウン先生(ダヴィード・ディグス)、ジャックの母(ニコル・オリヴァー)といったオギーを取り巻く大人たちはみな、自分がこうありたいと思う大人であると同時に、子供の頃に出会う大人たちはみなこうあって欲しかったといういずれの理想も満たす完璧な造型がなされていてほとんど夢見心地ではあるのだけれど、それはすなわち世界の正気を思い出す作業に相違ないわけで、ふだんのワタシたちがどれだけの狂気や邪気をあきらめ顔で受け入れてしまっているのか、その知覚の麻痺に一度愕然とするべきなのだろう。オギーを憐れんでいるつもりのワタシたちこそが、オギーにそっと憐れまれている。
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2018年06月26日

梅雨の晴れ間のケイジ祭り/「ダークサイド」「マッド・ダディ」

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ダークサイド

いつも通り益体のないケイジ映画を益体のない気分で観にきたつもりだったものだから、オープニングのクレジットにティム・ハンターの名前をみた瞬間、ん?え?本人?同姓同名?と思わずフガフガしてしまって、それならそれでそう言っておいてくれないと、だったらそういうつもりで観ちゃうけど知らないよと、とっさにギアを叩き込んでしまったのであった。というわけで以下、現場では本人確認の確証を得ないまま(結局本人)、ティム“リバース・エッジ”ハンターの監督作品として観た繰り言になるのだけれど、まず言ってしまうと、どうしてこの題材が主戦場をTVに移して久しい基本クソマジメな齢70の老監督に持ち込まれたのか若干理解に苦しむわけで、おそらくは脚本家のインスパイア元であろうゲイ・タリーズ「覗く モーテル 観察日誌」という大ネタを大ネタとしてまったく生かし切れていないのが何よりも致命的だったように思うのである。実際のところフーダニットについてはプロットも結末もまったく妙味がないわけで、ワタシとしてはというよりも益体のないすべての観客にとって、屋根裏の散歩者よろしく冥府魔道のピーピングトムと化していくケイジを三時のお茶よろしく嗜みながら、うっすら笑って小さくため息をつくことさえできれば誰もが幸せであったのは言うまでもない。だからこそ、あのシーンでケイジは夢精していなければならなかったわけで、一体何を言っているのか意味がわからないかもしれないけれど、それはご覧になった方であれば瞭然のはずで、何よりこの映画に必要だったのは妻の目から隠れてこそこそと自分のパンツを洗うケイジのポエジーとペーソスだったに違いないのである。フェラーラ版『バッド・ルーテナント』がいまだハーヴェイ・カイテルのアレに紐づけされるように、何よりその点でケイジ史に燦然と名を残すチャンスを逃したのが悔やまれてならない。



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マッド・ダディ

“MOM AND DAD”という原題からうかがえるとおり『ザ・チャイルド』の反転ではあるのだけれど、親が殺意を抱くのは我が子に限られるという点でいろいろな象徴性やらメタファーやらを投影しやすくなっているとってつけた思索感がいい塩梅にペラッペラだし、ケイジ安定のキレ芸も出し惜しみなく開陳される上に、ネタ切れになったらとっとと逃げ出すスマートな分のわきまえ方は85分という上映時間にも明らかで、ケイジ映画としての表面張力に特化した潔さというかヤケクソは称賛されるべきだろう。さすがに子殺しのシーンは基本的に直截的なカットを回り込んでしまっていることもあって、そちらからの新たな切り崩しを期待するといささか拍子抜けするかもしれないけれど、、ニコラス・ケイジvsランス・ヘンリクセンという血闘がそれを補ってあまりあるのは言うまでもない。ミッドライフ・クライシスに内部を喰われたケイジが地下室のビリヤード台をめぐって心情をデストロイに吐き出すシーンの焼身するような演技に、オスカー俳優の演技派レイヤーが透けて見えたりもして、他の追随を一方的に拒絶する漂泊のキャリアに思いを馳せたりもしたのだった。
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2018年06月23日

レディ・バード/今はこれでいい

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『フランシス・ハ』の前日譚とも言える私小説的な主人公にシアーシャ・ローナンをあてる監督の豪快な役得はあっぱれというしかなく、いっそ邦題は『グレタ・ガーウィグのレディバード』くらい振り抜いてしまってもよかったように思うのである。自分の居場所はここではないどこかにしかないとデラシネを気取りボヘミアンを夢見ては世界の中心でレディ・バードと叫ぶクリスティン(シアーシャ・ローナン)のしぐさや振る舞いは、自伝というにはいささか定型に過ぎる気がしてケリー・フレモン・クレイグのそれ(『スウィート17モンスター』)があちこちで記憶に蘇ったりもしたのだけれど、逆に言えばシアーシャ・ローナンの割には思いの外微笑ましく浅はかで間抜けであるという見立てこそが青春の不発をより煽った気がしないでもなく、『フランシス・ハ』にもみられた清潔な悲愴感という身の置きどころのなさこそがグレタ・ガーウィグの空気なのだとすれば、毅然とした面持ちで自爆するシアーシャ・ローナンの歯を食いしばる口元あたりを監督はあてにしたということになるのだろう。カイル(ティモテ・シャラメ)の書き割り然とした造型で明らかなように逐一フォーマットの反転がなされた場合、娘がなすべきは父殺しではなく母殺しということになるのだなあと、妖精の微笑みで母と娘の間をとりもつ父親の後方支援にワタシも過分に苛まれることなく心安らいで見物できた気がするのである。ただ、自分の物語ということで誇張や省略をわきまえ過ぎたのか、グレタ・ガーウィグの歩き方としてこちらが思い描いた道筋からさほどコースアウトすることもなく、身を乗り出すよりは達者だなあと腕を組んでしまうことの方が多かった気がしたのは正直なところで、青春の殴り込みとしては前述した『スウィート17モンスター』の通過儀礼がいまだフレッシュなままにも思えた。この映画の焦燥と衝動よりはどこかしらそぞろ歩きをするようスピードは、6フィート近い身長のグレタ・ガーウィグならではの視点と身のこなしが反映されたテンポによっているのだろうなとも思うわけで、それはおそらく、あごを上げるナタリー・ポートマンが決定してしまう事と同様なのだろうと考える。『ジャッキー』がどこかで真ん中の奥の方にタッチしてしまったのは、この視線が交錯した一閃にもよっていたのは言うまでもない。
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2018年06月20日

30年後の同窓会/生きのびたやつらはだいたい友だち

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自由の国アメリカを守ろうと身を投じた軍隊の、ならば自由への殉教者になれとばかり戒律のごとき軍規をふりかざす不条理やら矛盾やらを笑い飛ばしつつ、いつしか運命の涙がにじんでくる『さらば冬のかもめ』で描かれたアメリカの敗残兵を、しかし彼らこそがこの国の光と影を知る者ではあるまいかと、反戦ではあるけれど厭戦で睨め付けることをしない眼差しで、家に帰る彼らにそっと肩でも貸すかのようにリンクレイターは道行きを均していく。戦場で生命を奪った者は永遠に変質してしまい、かつて居た自分の場所に戻ろうとしてもそれは許されないことがどの兵士にも後出しで伝えられるものだから、生き残ったものは生き残れなかった者の分まで途方に暮れることを求められて身も心もすり減らしてしまうのだろうし、その感覚を共有できるのはやはり居場所を弾かれた者でしかないという「疎外感」こそは『スラッカー』からずっとリンクレイターが陰に陽に変奏してきた感覚に他ならず、それはおそらくアメリカという国の曖昧で茫漠とした広がりに脅える強迫観念的な帰属意識の副作用ということになるのだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』もこれもそうした内部の自家中毒こそがアメリカの原風景であることを告げるに他ならず、笑おうが唇をかみしめようが絶対値としては同じ数値を叩き出しているにちがいない。前作(とあえていう)では疎外された自分を知っていくことでメドウズはその逆へ走っていこうとしたのだけれど、今作ではワシントン(J・クィントン・ジョンソン)がこの3人と出会うことで自分に巣食う疎外感を飼いならす術を獲得していくサイドストーリーを成立させてもいる。ドクの息子ラリー・Jrと同じ部隊だったワシントンまでもがなぜイラクから帰国しているのかと言えば、それはラリー・Jrの最期を看取ることになった場所で大勢の民間人をも撃ち殺してしまった彼の精神的なメンテナンスの意味合いがあったのだろう。この旅においてワシントンは物言わぬラリー・Jrのある意味よりしろであったと言ってもよく、ラリーの家に泊まったワシントンが家の中に飾られたラリー・Jrの写真を見つめる時に彼もそのことに気づいていたように思うし、それによってはからずも、バグダッドで昏倒したワシントンの魂を寛解する旅となったようにも思うのである。ドク(スティーヴ・カレル)が懲役をくらう羽目になった30年前のベトナムでの出来事は最後まで詳細が語られることはないまま、その事件で命を落としたらしいハイタワーという兵士の母親をドクとサル(ブライアン・クランストン)、ミューラー(ローレンス・フィッシュバーン)の3人が訪ねるシーンがあるのだけれど、その出来事の詳細をあえて曖昧なままにしていることもあってか、名誉の戦死という欺瞞をドクの息子ラリー・Jrの死につきつけた勢いを借りてドクの重荷を解くと共に自分たちの贖罪をもなしてしまおうという風に映ってしまう点で、いささかこのエピソードの据わりが悪いように思ってしまうし、ラリー・Jrの時には死の真相を明かすことに抵抗したミューラーがここではサルの思いつきにあっさり乗ってしまうことや、そもそも母親を訪ねドアを叩くに際し彼らの間にドクを含め何の躊躇も悶着もなかったのはリンクレイターらしからぬ急ぎ足にも思えた。メドウズが盗んだ40ドルは軍隊の募金箱から盗んだ金だったけれど、この旅の費用は(おそらくは携帯の代金もふくめ)ドクのために軍の同僚が集めた募金で賄われていて、メドウズのささやかなリターンマッチにもなっている。
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2018年06月17日

万引き家族/そして凛となる

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「寒いなあ、雪でも降るんじゃねえか」と治(リリー・フランキー)が祥太(城桧吏)に言ったその言葉が本当になる頃、ではいったい何が嘘のままだったのかというその時間の移ろいを、世間という名前の下世話な予断を迎え撃つがごとくねめつけるように即物的な視線でこの映画は映し続けていく。そこに描かれるのは脱構築家族という監督が幾度となく綴ってきたテーマの極北ともいえる家族のシミュラクラであって、シェルターとして装ったはずのそれが十全に機能しつづけることで自我に目覚め、その結果として血は水よりも濃いという常套に刃向かわざるを得なくなっていく痛ましい純粋を、まるでデッカードを揺さぶるロイ・バティのような哀切で搾り取っていく。治が「それしか教えてやれることがなかった」と語る万引きという行為は、この家族を貫くすべての共犯関係を互いが確認し続ける目配せのような行為でもあり、それが祥太には家族の絆のように映って見えたからこそ、駄菓子屋の主人(柄本明)に妹にはそれをさせるなと優しく諭されたことで混乱し、それが車上荒らしという窃盗へと姿を変えた時に烈しく拒絶をしたのだろう。かつて車上荒らしの車内にみつけた幼い祥太も、りん(佐々木みゆ)と同じようにネグレクトの犠牲者だったのだろうし、そんな彼らを救ったセーフティーネットが救われた彼らの成長によって破壊される皮肉にこそ、あらかじめ機能不全すらを機能と備えた家族とシミュラクラとの悲劇的な差異がうかがえたように思うのである。りんの歯が抜けた朝に初枝(樹木希林)が息を引き取るのもその残酷な代償だったのかもしれない。しかし、社会から隠れた人間たちが社会から隠された子どもたちを陽の当たるところに連れ出したことは確かなわけで、祥太とりんのそれぞれが自分の目と足を頼りに行き先を選んだラストによってあの家に生きた者たちすべての救済としたことは間違いがないだろうし、治と信代(安藤サクラ)はその確信を抱くことによってようやく自らの罪を罪として向き合うことができるように思うのである。そんな中、ひとりだけ孤絶のレイヤーが異質な亜紀(松岡茉優)を投入することで不穏のバランスを崩す「お話」としての配分を厭わない抜け方も鮮やかで、社会を転げ走り回りながらもネオリアリズムの社会派映画として収束される気のない攻め方は図太いことこの上ない。念入りだった信代の化粧がことの後にはすっぴんになっているあたりとか、歯のない初枝が吸い付くようにミカンにかぶりつく姿とか、りんの口に煮込んだ麸が押し込まれる時の角度であるとか、そんなところから人間の質量は立ち上るように思うし、何より先に肉体をフェティッシュな解釈でとらえる視線が官能ともいえる生命の気配をあらわにするからこそ、言わずとも感情に血が透け始めるように思うのだ。初枝が産んだ女の子が信代に育つことは想像しがたいけれど、砂浜で信代に「ねえさんよく見るときれいだね」と言った初枝は、海辺の風に吹かれながらいっときそんな想像をしてみたようであったし、その夢想が初枝を底なしの寂寥へ永遠にとらえてしまったのかもしれないとも思ったのである。その瞬間の兆しとして「わあ、すごいシミ」という言葉を初枝に与えた監督には少し震えがきた。
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2018年06月14日

ビューティフル・デイ/死がふたりを穿つまで

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フロリダにあるモーテルの管理人ボビーは崖から落ちてしまわないよう子供たちをつかまえるキャッチャーだったけれど、ジョー(ホアキン・フェニックス)は不幸にも崖から落ちてしまった子供たちを奪回するファインダーとしてそこにいる。ジョーもまた、かつて崖から落ちた子供の一人だったのだけれど、そこで彼を捉えた絶望と恐怖が、崖を登る道筋を探りハンマーをピッケル代わりに崖を登りきる能力を、その極限で彼に与えたということになるのだろう。しかしそれは崖の下に幾度となく堕ちていくことで自分の過去と向き合い落とし前をつける作業であると同時に、その代償として崖の下の狂気に自らの正気を差し出す続ける行為でもあり、ともすれば深淵に身を投げ出すことでその苦行から逃れる誘惑に折れてしまいそうな日々を、母親への愛情と薬を頼りに息も絶え絶えとなりつつ何とかやり過ごしているに過ぎない。ニーナ・ヴォット(エカテリーナ・サムソノフ)は崖の下に捉えられつつも最終的な善くないものに喰われてしまわない力を自分の中に育てていて、”You Were Never Really Here(ほんとうのあなたはここにはいない)” という原題こそがその呪文だったように思うのである。そしてそれはかつてのジョー少年がクローゼットの中で無意識に唱えた続けた言葉だったのかもしれず、ジョーに奪回されたニーナが呪文の奥から出てきたのは彼の中にその共鳴を見たからだったのだろう。そうやって束の間、無痛の殻から足を踏み出していたからこそ、モーテルから連れ去られるニーナが叫ぶ「ジョー!」という声には心の底からの絶望と哀しみが込められていたのだろうし、母親を喪ったことでいったんは深遠に沈むことを選んだジョーを押しとどめたのがニーナの幻影であったのは、ジョーの中の深いところに彼女の叫び声が刻み込まれていたことの何よりの証だろう。この映画は、そんな風にして2つの魂が出会い結びついていくラブストーリーを極北のプラトニックで謳う一方、ニーナによって喉を裂かれ事切れた知事の死体を見たジョーは、あの時に父親を屠ることができなかった自分を責めては「おれは弱い、おれは弱い」と慟哭する寄る辺なき戦場の理性でバランスをとってみせさえするのである。それら清らかさと凄惨を繋ぐピアノ線の緊張を担うのがジョニー・グリーンウッドのサウンドデザインで、ほとんどセリフらしいセリフを喋らないにも関わらずジョーの内面に渦巻く激情と虚無を音響として奔出させることによって説明ではなく直観で観客を直撃するよう仕向けては強迫的に脳髄を一閃しようとする。ジョーが雑踏に踏み出した瞬間、人と車の織りなす喧噪がインダストリアルノイズの圧力と切っ先でスコールのように降りそそぎ、ジョーの耳には世界の音がこんな風に聴こえているのだろうかと、『クリーン、シェーヴン』の滴るようなノイズサウンドを想い出したりもした。今にして思えば『シクロ』で決定的に鳴っていたのはトム・ヨークの歌声というよりもジョニー・グリーンウッドの不意打ちで殴りかかるギターのアタックだったわけで、彼の創り出す音が映画に愛されるのは既に必然だったということなのだろう。自分が土手っ腹に風穴をあけた相手の隣に横たわり星条旗のウェットワークをメランコリーで共有しつつ「愛はかげろうのように」をレクイエム代わりにその死を看取るジョーは、既に崖の下の司祭のごときであった。
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2018年06月12日

友罪/夢罪

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藤沢(夏帆)の部屋で猫を見つめ、白石(富田靖子)と待ち合わせたデパート屋上に遊ぶ子供たちを眺める鈴木(瑛太)に向けるワタシたちの訝しむような視線を瀬々監督は否定しない、というかむしろそう誘い込むように撮っている。それは殺人という罪よりもそれをどう行ったかという行為に対する私刑のような視線であるのは間違いがなく、山内(佐藤浩市)の息子が犯した過失による交通事故死が贖罪の道筋で語られることの対照となっている。山内の息子は車を運転さえしなければ再び同じ罪を犯すことはないのだけれど、鈴木の場合、鈴木という内部そのものが罪であるという存在の怪物化がワタシたちの視線を無意識の石つぶてへと変えていくわけで、鈴木の内部に彼の飼うものの気配を知るためには白石のように自分の内部すらを犠牲にしたある種の同一化によってようやく深淵を覗き込むことが可能となるという、そうした視点を社会が共有することの不可能は、その達成と引き換えに白石が失った家族の絆がつきつける不幸によって裏書きされることとなる。ここに登場する全ての悼むべき人たちが告げるのは一度壊れたものが元に戻ることはないという絶望のようなあきらめであり、たとえ戻ったようにみえたところで内実の決定的な変質を目の当たりにするものにしてみれば、では戻ったことにして生きていこうとする社会をあげての欺瞞がさらに彼や彼女を壊し続けていくことになるわけで、前述した一度壊れたものが元に戻ることはないという一文へさらに付け加えるとするならば、一度壊したものが元に戻ることはないという加害者の絶望もそこにあるわけで、この映画が喪失と再生という気楽で都合の良い呪文を忌避し続けるのはその峻険こそを描こうとしていたからであるように思うのだ。他人の命を奪った者が、しかしそれを踏まえた上で今の自分は生きてみたいと思うんだという言葉は身勝手な矛盾にとどまるのか、そうした意志が水平に並ぶ場所はこの世界にあり得ないのか、この映画は鈴木と益田(生田斗真)をその世界の陰と陽とすることで今ここにはないそこを夢想してみせたのではなかろうか。そしてそれは、そんな世界があったらきみはどう生きるつもりだ?という日本のどこかにいる少年Aというたった一人の観客だけに向けた監督の問いかけだったように思うのである。それだけに軽重のバランスとしてメディアの描写など外部の装置が記号的に均されたのは諸刃の剣といったところか。しかし、いつも所在なさげな瑛太に鈴木の無痛が憑依したかのようなこの棒立ちはキャリアハイだし、夏帆は早足で被虐をかいぐぐる人として『予兆』の先へ歩み出した。感情の省略ではない慟哭を生田斗真は打ち鳴らされる鐘と響かせたように思う。ゲロがあんな風に心を溶かすのは初めて観たかもしれない。
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2018年06月10日

海を駆ける/シーバウンド・エクスカーション

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突然現れた正体不明の闖入者が日常に投じた波紋がやがて巨大な渦を巻き起こして日常の意味そのものを変えていくといった定型にのっとってはいるものの、たとえば『南東からきた男』のように闖入者の正体がこの世ならざる者であるかどうかという境界をうかがうサスペンスを担保しつつ、そこからいかに遠ざかってみせることが可能かというアクロバットそれ自体を試みる映画であった。ラウ(ディーン・フジオカ)という男(そもそも男と特定していいのかということもある)の行動を人間の論理で語らずに語ること、しかしその尺度を人間の論理とした時点で常に人間の論理が強烈に意識されてしまうという矛盾を、ならばそれをそのまま描いてしまえばいいのではなかろうかという野心が、ホラーでもSFでもない明るさと昏さ、希望と禍々しさの同居する、しかし死の在りかだけはしたたかに提示し続ける奇譚として最期には小さなあぶくを悪戯めいて破裂させてみせさえもする。劇中でラウは直接的もしくは間接的な描写として6人の命を奪い、2人の病気を治癒する。もちろんそこに人間的な善と悪の認識はあるはずもなく、もしもラウの姿が透明であったならそれらの死は事故や病気、大往生といった運命の所作として呑み込まれたにすぎないわけで、人智を越えた存在に触れた時、果たして人は絶望するのか解放されるのか、それがなぜか青春のバカヤロー!とクロスして語られる不可思議なヴィヴィッドは、しかしそれも裏を返せばメメント・モリの影であったかもしれないわけで、『淵に立つ』のラストを染めた“人間などはなから考慮されない道理のひと触れ”そのものを監督は描こうとしたのだろうかと、海へと消えていくラウのブラックホールのような笑顔を見せられてようやく思いが至ったのである。相変わらず芹澤明子氏のカメラは怜悧で透明で禍々しく、フィクスになるたび四隅や空白を目で追っては凶兆を探す黒沢清のモードへと強制的に切りかわってしまうのだった。左にサチコ(阿部純子)の佇む崖上のトーチカ、右にはタカシ(太賀)の泳ぐ海を配置したショットの拮抗した調和ゆえ、何かが何かを思いあぐねているかのようなショットに首筋はちりちりと胸はざわざわと慄えたのを自覚した。
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2018年06月07日

デッドプール2/ライアン!ライアン!

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全身タイツでどれだけカッコつけたところで所詮生き恥を晒すだけであることを身をもって知るライアン・レイノルズは、絶え間なく全方位的に自虐と加虐のジョークを雨あられとぶちまけてはすべての現実を液状化させつつ、かつてスティーヴン・キングがそうしたように膨大な固有名詞で武装することでポップカルチャー=リアルのテクスチャーをそこかしこにスクラップして映画を子供部屋の居心地へと変えていく。さらに今作では監督がデヴィッド・リーチに交代したことでドタバタの過剰なキレが上積みされて、誰もが心おきなくサーカスの観客のように呆けた顔で手をたたき足をバタバタさせながら退行するのが許されることになり、その澱みと衒いのなさは最早エレガントとすら言えるほどであると同時に、今のこの世の中で何ものにもつかまらず逃げ切るにはここまで針を振り切らないとエンジンはブーストされないのだというオーヴァーキルに、いったいお前は何と闘っているのだという正体不明な事態の深刻ささえ嗅ぎ取ってしまう始末なのであった。とはいえ上下左右を完全に取っぱらった情動の絶対値だけを見てみれば『アべンジャーズ』や『ウィンター・ソルジャー』と数値そのものは変わらないのではなかろうかと考えてみた時、ライアン・レイノルズが己の全存在を賭けた逆張りには強迫観念とすら言える執念を見てしまうわけで、それは劇中でどさくさ紛れに遂行される過去の亡霊たちの抹殺によってさえ浄化が追いつかないほどのどす黒いメランコリーが突き動かす、トラウマに向き合うプライマル・スクリーム療法にも思えたのである。ニコラス・ケイジしかり、ロバート・ダウニー・Jrしかり、実人生の屈託、すなわち自分の糞をキャリアに向かって投げつけ晒すことを厭わない役者の愛され方には無尽蔵なところがあって、ここにライアン・レイノルズもその倶楽部に晴れて入会したといっていいのではなかろうか。そこではオスカーよりはラジー賞が勲章だったとしても、永遠にゴズリングのいない世界であることは間違いがない。
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2018年06月05日

犬ヶ島/きみが吠えればキャラバンは進む

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あけすけに言ってしまえば、『グランド・ブダペスト・ホテル』を観た時に書いた“前作『ムーンライズ・キングダム』でも顕著だったシンメトリーのフィクスによる緊張と横スクロールによる緩和、感情を記号化したキャラクターのミニマル、夢の記憶を彩色したような色彩”“これは前作(『ムーンライズ・キングダム』)でも感じたことだけれど、この映画のすべてが『ファンタスティック Mr.FOX』ばりのストップモーションアニメに置き換え可能である”という感想メモから特に更新されたこともない、結果として見事に置き換えられたストップモーションアニメだったのである。「悲しき熱帯」的な揶揄をねじ伏せる強迫観念的なディテイルの躁病的な奔流に、特に日本人であればその度外れた幻視に驚愕しないわけにはいかないし、人間の最良の友たる犬たちを中心に据えることでたやすくあけっぴろげに距離を詰めてくるのも確かではあるものの、何しろ今の日本で生きる者には小林市長が見せる改心に裏打ちされた公平さへの性善と楽観こそがこの映画最大の絵空事に思えてしまう点で、何だかうなだれざるを得なかったのである。結果的にはこれがイノセンスによる革命であったことが告げられるエピローグで寓話は完結するのだけれど、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』から『ファンタスティック Mr.FOX』まで続いた「父帰る」のテーマを完了して以降、大人の教科書、あるいはユニヴァーサルな知育絵本として、美しく明かりの灯る人生のルールを忘れがたい挿絵のようなフィクスで焼き付けるポスト構造主義的な方法論の洗練にウェス・アンダーソンは殉じ続けるのか、もはや『ホテル・シュヴァリエ』の沖に流された孤独は役立たずの自家中毒でしかないのか、正直に言ってしまうとワタシはそれがちょっとだけ寂しい。
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2018年06月04日

ゲティ家の身代金/世界を視てから死ね

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老境のうつしみと終焉の予感がもたらす、物質主義の手ざわりへの尋常ならざる執着という『エクソダス』以降見え隠れする御大の死生観は、ジャン・ポール・ゲティ役がクリストファー・プラマーに交代されたことでよりあからさまになったのではなかろうか。その結果、すべては映像化されうると信じて疑わぬサブテキスト殺しの御大が、それゆえ体温が立ちのぼらぬ者たちが低温火傷でのたうちまわる、その映像の殺傷能力だけで撮りきったとすら言える極北のサスペンスとなっている。それはすなわち冷血であればあるほど怜悧に光輝くという御大の法則が存分に発揮されたということであって、となればやはりお蔵入りしたケヴィン・スペイシーのヴァージョンに涎が出るのを止めることはできないにしろ、前述した死生観の発露に限って言えばクリストファー・プラマーの破壊される老人こそが御大の心持ちにジャストフィットしたということになるのだろう。したがって、体温など一度も測ったことのないゲスとして颯爽と登場するフレッチャー(マーク・ウォルバーグ)が、なぜか感情を規範に行動し始めるに連れどんどんと阿呆のようになっていくのは当たり前で、変温動物であればこそ唯一ゲティと正面から渡り合ったゲイル(ミシェル・ウィリアムズ)の奮闘が、サスペンスとしては明らかにバランスを失したこの映画をあくまで異形の屹立として送り届けたのは言うまでもない。それにしても『プロメテウス』で組んで以降スピルバーグにとってのカミンスキーと言ってもいいくらい御大の右目と左目と化したダリウス・ウォルスキーの、ハイパーリアリズムのような質感で現実と非現実を溶かしてしまうカメラは叙事殺伐な御大の肌によほど合うのだろう。今作ではまるで『列車の到着』のようにあらわれた蒸気機関車の煙がフレームの内部を埋め尽くすかのように充満していくショットの突発にやおら押し込まれたし、男たちに抑えつけられる3世よりも医者が自分の脱いだコートとジャケットを首尾良く壁のフックに掛けるまでの動きに視点を誘導する牽制球のようなカメラが、これから起きるルーティーンのひんやりとした凄惨を予感させて3世と共にこちらをも抑えつける。そんな風な演出家とカメラマンの仕業とあって相変わらず食べ物が暴力的に美味そうでないのは言うまでもなく、あの死骸のような分厚いステーキは3世の心を折るに十分であった。
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2018年05月30日

ファントム・スレッド/いいと言うまで動かずに

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約束の場所にレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)が乗りつけたブリストル405のドアを自分で開けて乗り込んでしまいそうになった一瞬、アルマ・エルソン(ヴィッキー・クリープス)はハッと手を引いてレイノルズが開けてくれるのを待つことになる。この瞬間、オートクチュールという美の儀式を亡き母に捧げ続ける妄執のモンスターたるレイノルズの手中に、海辺の小さな町で暮らすおぼこいアルマが新たな生け贄として堕ちたと思わされたワタシ達とレイノルズは、アルマの目を逸らすことをしない笑顔にひそむ愛とは常に共同正犯であるという確信と野心の刃など知る由もなかったのである。レイノルズがアルマを最初に連れ出した夜のレストランでおかまいなしに食い気をほとばしらせるアルマをレイノルズは優しく黙殺する。初めて自室にアルマを呼び入れた次の日の朝、朝食の席でアルマのノイズをレイノルズは叱責する。レイノルズが倒れる日の朝食で、アルマはノイズを出すことなく静寂をコントロールしてみせている。ハネムーンの旅先での朝食、何らはばかることなくノイズを出すアルマをレイノルズは苛立ちを押し隠しながら黙殺する。こうして都合4回あるレイノルズとアルマの食事のシーンを追ってみると、ただ一度ノイズを出さなかったのは彼女の仕立てた策略の内であったことを思いだしてみれば、最初から「むしろ面倒を歓迎するわ」と言い放ちノイズを出し続けるアルマは「わたしはいつだってここにいる」と自らを揺るぎなく変えないことによって状況を逆転していったわけで、してみると自分を誘うだろうことを見透かしてあらかじめメモをしたためていたアルマに声をかけた時点でレイノルズは彼女の軍門に下ってたということになるし、食いしん坊さん!とレイノルズを子供扱いしたようなメモの走り書きはやがて2人が獲得する異形の関係が既にここから始まっていたことを告げてもいる。確かにアルマがレイノルズにしたことは道義的あるいは倫理的に道を外れるかもしれないけれど、アルマはレイノルズと一つ屋根に暮らすうちに彼が奥底にくゆらせるオブセッションの源泉を見抜いていたのかもしれず、ハウス・オブ・ウッドコックにおいては異物であるはずのアルマがシリル(レスリー・マンヴィル)にとって排斥の対象とならずにいることや母親の幽霊ですらがアルマとの代替わりを促すかのように消えていく様子からするに、アルマがレイノルズを救うだろうことを女性達は深層で知っていたようにも思うわけで、レイノルズが新たに呪いを更新する必要があったとするならばアルマこそがその守護天使であったということになり、キノコを料理するアルマの姿を押し黙って凝視するレイノルズが、のたうち回りながら女性たちに仕えていくことが自身の宿命であることを確信として悟りつつ「倒れる前にキスしてくれ」という酷く美しい言葉でそれを受け入れる覚悟を示すクライマックスの愛の形は前人未踏であるだけに怖ろしくはあるものの、そこに踏み出していく2人の昂揚を確かに光が照らしたようにも思えたのだ。たとえそれが地獄の業火の照り返しだったとしても、問わず語りにその愛の彼岸を夢想するアルマはむしろそれを望んでいるようですらあるのは言うまでもない。では果たしてレイノルズのクリエイティヴィティは彼方への片道切符として差し出されたままなのか、この一連がやがてくる享楽のスインギング・ロンドンに向けてレイノルズが忌まわしきシックを超えていくための通過儀礼であるならば、清冽で硬質な屈託をヒールの音に重ねて歩くシリルの揺るがぬ眼差しがそれを受け入れたようにも思えたわけで、それは完璧主義者の人体実験としてもひどくロマンチックであることに変わりはない。ヘンリエッタがハウスを離れたのは、彼女に仕立てたドレスをショーでアルマが完璧に着こなしたことを知ったからではなかったのか。ヘンリエッタとてバーバラと同じ穴の狢なのだろう。レイノルズの駆るブリストル405のリアからルーフ越しの疾走ショットはまるで御者台から馬を捉えたかのような荒ぶるむき出しであった。アスパラガスの夜が明けてキノコの朝を迎える瞬間のまるで水の中で爆発音を聴いたように圧縮された不穏のサウンドデザインに、ため息のような鳥肌が立つ。完璧な平凡が完璧な非凡を喰いつくす倒錯はポール・トーマス・アンダーソンの自罰と自虐の白日夢でもあるのだろうか。より騒がしく水を注ごうとアルマが高く掲げた水差しが電灯の傘を揺らした瞬間、新たな世界の法則が回復されるのを見た。
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2018年05月28日

ランペイジ 巨獣大乱闘/そうなるようにできている

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最近は隙あらばこちらと刺し違えようとするような映画ばかりピリピリしながら観ている気がするので、ここまでノーガードで棒立ちになっていると逆に虚をつかれて殴りつける気も起こらないのである。それがたとえ、動物をこよなく愛するオコイエ(ドウェイン・ジョンソン)がその皮を剥いでなめしたジャケットを着て登場したとしても、そいつがそれをやったら一番正当性が保てなくなって困るはずのヤツがいくら人非人であるとはいえ生物学的な人間を喰っちゃったとしても、至近距離から土手っ腹に銃弾くらったはずのオコイエが、でも急所を外れたから大丈夫!と笑顔でハードワークにいそしんだとしても、火を怖がる動物が火を消そうと火元に突進するはずがないように低周波を嫌がるのならその本能としてより遠くに逃げそうなものであったとしても、である。すべてはひたすら、大きいことはいいことだ!および、馬鹿と煙は高いところに上りたがる、の2点を目で追うことだけを考えてデザインされて、おそらくは字幕がなかったとしてもそのあらすじの伝言ゲームが可能であったという点では、ほぼサイレント映画といってもいいユニバーサル仕様だったわけで、ブロックバスターですらがいかに自分は丸腰ではないかというアピールで差別化を図る昨今において、逆に丸腰であることを高らかに謳いあげる底抜けの開き直りが、ああ今のワタシは伏線にがんじがらめになることも我が身を苛むことも、いっさい何も負うことがないのだという一瞬の解放をもたらしては人々の心をざわつかせたということになるのだろう。そして前述の2点をもはやエレガントとすらいってもいい身のこなしで体現するのがドウェイン・ジョンソンであることは言うまでもなく、超高層ビルで八面六臂の大活躍をするのだろう新作の予告に彼を待ち受ける真の黄金時代の到来を見たのはワタシだけではないだろう。今さらながらではあるけども、ワールドトレードセンター倒壊の映像が映画制作に底知れぬ影響を与えたのは言うまでもなく、あの日の映像から数値化されたのだろうアルゴリズムによる高層建築倒壊のシミュレーションプログラムの最新処理をここで確認することも可能である。あの日あの時を喚起させる映像もいつの間にか解禁されて、とっくに誰も気にしなくなっているようではあるけども。
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2018年05月26日

レザーフェイス―悪魔のいけにえ/ジェド・ソーヤーのぼうけん

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※一応言っておくとネタバレ気味

基本的には訊かれてもいないことを答えたがるのがプリクエルであることに違いないし、そりゃソーヤー家に生まれ堕ちたならババ=ジェディダイアがああなったところで仕方がないわな、とすでに呑み込んでいる大方へのおせっかいであるのは承知ながら、状況の犠牲者という若干の感傷はしのばせつつも、トリヴィア的には彼の被るマスクは誰の人皮であったのかというその程度にとどめた点で、負け戦にも関わらずヤケを起こさなかったモーリー&バスティロの自制心は称賛されるべきだと思うし、トビー・フーパーのラストクレジットとしてその敬意が損なわれることもなかったように思うのである。構造としてはハートマン保安官(スティーヴン・ドーフ)とソーヤー家の十年戦争として展開されるのだけれど、ソーヤー家を蛇蝎のごとく嫌悪するハートマンを一家の不倶戴天の敵とするには因縁を業に書き換える手続きがいささか弱いように思われて、確かに彼の娘は一家によって惨殺されるのだけれど、一家の主たるヴァーナ(リリ・テイラー)とジェッドのそれに比べてみた時、ハートマンと娘との親子関係がまったく描かれていないこともあり、彼女の死が単なるモブのオープニングヒットとしてカウントされるに過ぎない気がしてしまうせいでハートマンまでが記号の域を出ないように思えてしまうのだ。このあたりについては、これまで監督作では必ず自ら脚本をしたためていたこのコンビが、今作では他人の脚本で撮らなければならなかった事情がマイナス要因となっているのだろう。しかし、ジェッド(サム・ストライク)に若き日のブラッド・ダリフの横顔が映し出される精神病院のパートでは『カッコーの巣の上で(1975年)』的な精神の牢屋を、その後は掃き溜めヴァージョンによるどん詰まりの『地獄の逃避行(1973年)』を、と言った具合に『悪魔のいけにえ(1974年)』の精神背景に寄り添おうと監督コンビは懸命かつ真摯に参照をつとめるわけで、そのことがもたらすいささかの散漫や冗長を認めつつも、そうしたことの貢献によって今作からチープなノヴェルティ感が取り除かれていたことは記しておくべきだろう。そして、どうやら今作のハートマンは『飛びだす 悪魔のいけにえ レザーフェイス一家の逆襲』に登場するハートマン町長の父にあたるらしく、してみると『飛びだす〜』においてなぜあれほどハートマン一家がソーヤー一家に憎悪の炎を燃やしたのか、ここに来ていきなり辻褄が合うことになるわけで、当時そのことで思い悩んだ記憶など一切ないにしろ、せっかくの後出しジャンケンなのだから勝てる勝負を勝ちに行く姿勢には素直に拍手を送りたい。いかにも首だけ出してます!的な特殊メイク愛の手ざわりが溢れるハートマンの最期にも点が甘くなる。
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2018年05月23日

モリーズ・ゲーム/私の名前で私を呼んで

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感謝の言葉を告げるモリー・ブルーム(ジェシカ・チャステイン)に「娘のステラなんだ、きみを弁護するようにと頼んだのは」と返す弁護士チャーリー・ジャフィー(イドリス・エルバ)は「きみの本を読んだ娘はきみを自分のロールモデルだと思ってる」とさらに付け加える。非常に聡明な子供として描写されるステラがなぜそれほどまでにモリーを全肯定するのか、それはおそらくアメリカ的な家父長制にけつまずいてクラッシュしたモリーが、逆にそれを利用することでその呪縛から脱出した上にマチズモの偽者やフェミニズム的な中指としてではなく、明晰な頭脳が導き出した街場の論理によってしなやかに労働倫理を実践しようとしたその企みの清冽な直截性が、人種であるとか厳格な父であるとかいった十代の彼女にとってのガラスの天井の向こうに透けて見えたからなのだろう。したがってモリーはこれまでアーロン・ソーキンが描いてきた、あらかじめ悪魔と契約して、そしてそれを誰にも知らされないまま生まれてきた人間とは異なるからこそ、彼女の債務はそこに発生しているわけではないし、父との和解や弁護士にすがることが彼女の独立性を脅かすこともないのである。そうしてみるとジェシカ・チャステインが今まで演じてきた様々なキャラクターは、「女性」の苦しみや悩み、絶望とされがちな感情や運命を付帯事項のない「人間」のそれへと書き換えていく存在でもあったことに気づかされるわけで、悪魔と天才の両義性を手放すことが映画のケレンを弱めることを承知の上で、モリーというひとりの人間がその喪失と再生をいかに可能にしたのかを衒いなく正攻法で描くことを自身の初監督作に課したアーロン・ソーキンの誠実というか馬鹿正直が思いがけず心に沁みてきたし、それは言わば、悪魔と契約した人々のギャンブル中毒を癒やす阿片窟を運営するモリーの、その一方で彼らの正面から目をのぞき込む思いやりや共感に通じるようにも思えたのだった。トニー・ギルロイにも感じたのだけれど、透徹した感情を抽出してきた脚本家ほどその監督作では情動の湿気が増すように思うわけで、それまで叙事に殺され続けてきた己が叙情の復讐なのかどうなのか、スケートリンクから父(ケヴィン・コスナー)の告白に至るあたりの、息を切らしたまま見つめ合う視線のらしからぬ性急さに驚いてみれば、そんな勘ぐりにもどこかしらうなずけてしまう気がするのである。かつてここまで正面切ってジェシカ・チャステインをくどいた男がいただろうかというクリス・オダウドの泣き濡れるクズもまた、アーロン・ソーキンがほくそ笑んだように思えた。
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2018年05月19日

孤狼の血/いつかギラギラした日

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大上(役所広司)と別れた夜にやさぐれた日岡(松坂桃李)が押しかけた時の岡田桃子(阿部純子)が、最初の夜の純白の下着とはうって変わったけばけばしいブラジャーをしていたのはなぜなのか、それはラスト付近で彼女が日岡に告白することの物言わぬヒントだったのだけれど、そんな風にしてこの映画は端正かつ律儀に爆裂しようとするわけで、署を出る日岡が突然の雨に空を見上げるシーンを丁寧に(ご丁寧にも、と言ってしまいたくなる)ハイアングルでとらえるショットといい、特に日岡まわりは丹念に抜かりのないように描かれていて、「荒磯に波」から始まる冒頭の数分でこの映画が腹に一物あることを宣言した後からすると、それは意外と言ってもいい身のこなしにも思えたのである。そんな風にしてエクスリーとダドリー、あるいはジェイクとアロンゾといったひりついた拳の相克をかわしては善悪の彼岸を這いずり回るビルドゥングスロマンへと舵を切るこれはあくまでも警察映画であって、『県警対組織暴力』に色目を使うにはヤクザが暴力装置としての分をわきまえ過ぎている気がしたし、日本人が鼻でもかむように映画を観ていた時代にさんざめいたプログラムピクチャーのやり逃げが刹那のスピードとマッチしたヤクザ映画はすでに彼方にあることをあらためて念押しされた気もしたのだった。やり逃げの意味も知らぬ客を待つためにそのスピードを殺してみせた『アウトレイジ』が賢明な亜種だったことは言うまでもなく、そうしてみるとアクセルを踏み込んだままギリギリでカーヴを曲がり切ろうとした白石監督のハンドリングとアクセルワークにはいちいち感嘆するしかないし、藤原カクセイ氏の死体仕事を含め人間のボディに関わることはとことん見せようとするサービス精神も含め、今できるすべての手を打ち尽くしたメランコリーの気分までもが充満するスクリーンに終映後ワタシは小さく一礼したのも確かなのである。とはいえ、反体制とか対権力とかいった青春の麻疹が若い衆の嗜みから失われた昨今、ピカレスクへのロマンがなかなか抱かれづらいのだろうことも実感しているわけで、「ヤクザが出ている映画」と「ヤクザ映画」の断絶はもう言っても詮無いことなのだろうことも、この映画を観たことによる最終的な確信だった気がしてしまうのだ。それらはおそらく、何かを足蹴にして垂直を登攀する征服の時代の徒花でもあって、最早後戻りすることはない水平性が誘うステイタス・クオーの再発見がそれを積極的に受け入れるはずもなく、その曖昧で茫洋とした横断を松坂桃李は実に的確に演じていて、それはすなわち更新されたその先がないことの最後通牒だったようにも思うわけで、その製作陣の真摯さゆえに図らずも「ヤクザ映画」の最期を看取る機会を得てしまった気分の複雑さがワタシの正直なところ。そんなつもりで観に行ったんじゃないのに。
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2018年05月16日

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法/虹のふもとでつかまえて

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キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビー(ウィレム・デフォー)である。遊びに夢中になった子どもたちが崖から落ちてしまわないようにつかまえる、ライ麦畑でたったひとりの大人である。ならば崖の近くで遊んじゃだめだと言ってしまえばいいのに、崖の近くでしか遊ぶことを許されていないことを知っているボビーは、笑わない目をして笑いながら子どもたちに目を配っている。もちろん子どもたちにはいろいろな子どもが混じっているわけで、最大限の譲歩としてボビーはヘイリー(ブリア・ヴィネイト)もできるだけキャッチすることに決めていて、ではなぜ崖の縁に柵を作らないのかといえば、それがアメリカという国の流儀なのだというジレンマをボビーに体現させてもいる。そうやって、ここまではいいがここからはだめだ、という「ここ」のせめぎ合いこそが現実に他ならないという、この映画ではそれが呪いのように終始絶えることがないわけで、ボビーが子どもたちに対しては「ここ」のくぐり抜けを大目に見ているのは、アメリカの罪深さになりかわった贖罪の気持ちでもあるのだろう。くわえてボビーは、ヘイリーがマジック・キャッスルの部屋で売春をしていることを知っているにも関わらずそのくぐり抜けすらも大目に見ていて、もちろん管理人としての家賃欲しさなどでは毛頭なく、それもまた崖の近くでしか生きられない人たちへの苛むような共感であったのは言うまでもないにしろ、そのことが招き寄せた結末にしたところでおそらくはボビーにとって最初の悲劇というわけでもないのだろう。しかしどれだけ絶望や諦念が深まろうと、キャッチャー・イン・ザ・ライとしてのボビーはまた同じように大目に見てしまうしかないわけで、夕暮れにひとり煙草を吹かすボビーの寂寥に、ウィレム・デフォーという崖の近くを飄々と歩いてきた男がそれを演じることによって「ボビーというアメリカ」の内部に結晶化された幾重もの虚無が透けたようにも思えたし、「大人が泣くときはわかるんだ」などと6歳のニヒルをかざしたムーニー(ブリックリン・キンバリー・プライス)はそれを見透かしていたからこそ、だけど自分が泣くときのことなんかわかるはずがないよ、と決壊した瞬間に駆けつける先がボビーあるはずもなく、大人は判ってくれない、と確信した彼女が同志と選んだジョンシー(ヴァレリア・コット)と2人で崖から飛び出し夢の国へと駆けていくそのうしろ姿の、いったい2人は泣いているのか笑っているのか希望と絶望が手を取り合って絶唱するラストは『明日に向って撃て!』のブッチ&サンダンスにも重なって見えたのだ。書き割りの街でやり逃げの気配を浴びて生きていく子どもたちの、まるでZ級映画の血糊のように色付けされたジャムを、これって今まで食べた中で一番美味しいジャム!とうっとりする笑顔はそのままに、でもいったいどこへ連れ出すことができるのかわからないワタシたちはボビーのようにキャッチャーでいることを課し続けるしかないのだろうけれど、でもあんたが思ってるよりもけっこうキツイぜ、とその途方にくれた笑みに刻まれた皺が語りかけてきて、ワタシはさらに途方に暮れるしかなかったのだ。ヘイリーは最後までムーニーのキャッチャーであろうとあがき続けたし、ヘイリーに殴りつけられ無惨に腫らした顔でムーニーを抱きしめるアシュレー(メラ・マーダー)も、それがどんな場所であろうと生きることの尊厳と品性を手放さないジョンシーのおばあちゃんも、それぞれがキャッチャーであろうと必死であったにちがいないのだ。せめてあそこへと駆けていく2人が笑っていてくれたらと思ってやまない。
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2018年05月11日

アイ、トーニャ/同情するなら点をくれ

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もちろんナンシー・ケリガン襲撃事件もリレハンメルでの涙のアピールも憶えているのだけれど、ライバルを襲って潰すとかマンガみたいな騒ぎを起こしたわりには8位入賞とか往生際の悪いどっちつかずのオチだったなあと思ったのを憶えている。そんなこんなでこの映画は、まちがいなく天賦の才を与えられたトーニャ・ハーディングというフィギュアスケーターが(もし彼女がナンシー・ケリガンと同じトレーニング環境にいたらメダルなど朝飯前だったのだろうか)、どういうわけであんな凡庸なラストを迎えることになったのか、ここはひとつ腰を据えてトーニャ(マーゴット・ロビー)の言い分を聞いてみようや、と言っているわけで、それはすなわち、まあアタシは悪い星の下に生まれたっていうただそれだけ、とことさら悪びれることもないトーニャの笑うその悪い星を描くことに他ならず、何よりアメリカは、アメリカンドリームを夢見る人間と夢見る必要のない人間にあらかじめ分別される国で、アメリカンドリームを照らすために例の悪い星の輝きが欠かせないことを、ホワイト・トラッシュの希望たるトーニャを狂言回しにファンキーな自虐と諧謔のスピンでリアリティショーの狂躁をダンスしていく。しかしこの映画がルサンチマンと自己憐憫の自家中毒を起こすどころかピカレスクの痛快に転じているのは、あたしにとって良い風が吹いてないのは知ってるけど、とにかく私はやるべきことをできる限りやってやるのだというピューリタンの労働倫理にも似たあらぬ方向への猪突猛進が清々しくもあるからで、競技会の後で審査員を呼び止めて「あなたたちがあたしを嫌いなのは知ってるけど、スケートをどれだけ上手くやってもダメなのはどうして?」と自分を抑えて行儀良く穏やかにたずねるトーニャの健気に対するあまりにも残酷な答えは、家族の愛やら絆やら知るはずがないトーニャにオールアメリカンファミリーの一員を演じることを求めてくるわけで、にも関わらず彼女なりに知恵をめぐらしては母親をたずねて家族の真似事をしてみたあげく当然のように自爆するその姿には、実は自己評価の低さゆえ世界を盲信してしまう者のピュアネスが痛々しくもあるほどで、ではいったい何を信じているのかと言えば、それは彼女を足蹴にし続けるアメリカなるものに他ならないのが何とも切ないペーソスを湛えてしまうところではあるわけで、暴力をふるい続ける夫ジェフ(セバスチャン・スタン)との共依存と重なるその二重性に納得したりもするのである。母ラヴォナ(アリソン・ジャニ)と夫ジェフについては人でなしの目盛りで測れるにしろ、何より笑いと驚きが止まらないのがショーン(ポール・ウォルター・ハウザー)であって、実質的な事件の首謀者でありながらいくら何でもこのキャラクター造型は底が抜けすぎだろうと思われることをあらかじめ察したのか、ショーン・エッカート本人にインタビューした当時の映像がインサートされているのだけれど、そこに居るのはまさに劇中で演出されたショーンと一言一句違わないサイレント・サイコパスだったわけで、さすがアメリカではこのクラスが野放しになっているのかとあらためて感銘を受けたのだった。そんな面々に交じってなかなかに忘れがたいのがコーチのダイアン(ジュリアンヌ・ニコルソン)で、白木葉子の側(がわ)に丹下段平を潜ませた彼女はあくまでトーニャのスケートにのみ共感を示していて、トーニャを取り巻く人間の中で唯一のプロフェッショナルなわけである。そうしてみると、アメリカのイノセンスというのはアマチュアの奔放と無責任の裏返しとでも言えるわけで、プロフェッショナルとは自制と責任を自らに課す挟持を備えることでイノセンスを喪失した先にある精神なのだろう。それはすなわち、前述したアメリカン・ドリームを夢見る人間と夢見る必要のない人間の違いでもあって、アメリカン・ドリームはアマチュアが見る夢なのだと考えてみると今のアメリカでむき出されている感情の説明になるのではなかろうか。しかしアメリカをアメリカたらしめているのはその永遠のアマチュアリズムゆえであるというアンビヴァレンツが社会と文化を更新するダイナミズムとなっているのは言うまでなく、だからこそその分水嶺を滑落していくトーニャを同情ではなく敬意をもって描くことを監督は努めたように思うわけで、たった一人、泣き顔を笑い顔へと作り変えていくメイクアップのシーンこそがトーニャの言う”that's the fucking truth!”であったのは間違いないはずである。監督はそう撮っている。
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2018年05月08日

君の名前で僕を呼んで/恐怖を笑い欲望に震えろ

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ロータスの果実にかぶりつく若き神々がまどろむ夏の午後、とでもいう滴る感情をぬぐうこともしない理性の甘噛みには彼岸の香りすらがしたのだけれど、すべてをだしぬいて自転車をこいでは笑顔で走りぬけていくスピードの浮世離れはいつしか死の気配すらも振り切って、無知や誤謬を生け贄としない青春の滑らかで正しく美しい動きをただひたすら追う恍惚だけをとらえ続けるルカ・グァダニーノの幻視は、ある映画における「純粋で、途方もなく、モラルに外れた、そういう欲望こそが僕たちを生かしてやまないのだから」というポール・ダノのセリフの新たな実践にも思えたのである。しかしそれは、終盤で父(マイケル・スタールバーグ)が息子エリオ(ティモシー・シャラメ)に、夢を見続けるためには夢の理由を知っておいた方がいい、と語りかける父殺しをしない通過儀礼の静謐と豊饒を拡げるのに必要な時間だったことが明かされると同時に、オリヴァー(アーミー・ハマー)が自身の疎外された生を(「君の家ではぼくは義理の息子のような気分だったんだ。うちの父親だったらぼくは刑務所=correctional facility行きだよ」)エリオに明かすことによって、あの夏はむしろオリヴァーにこそかけがえのない時間であったことが告げられるわけで、エリオの涙はオリヴァーという想い出を失う哀しみに加え、エリオにとって自由の眩しい道筋にも思えた彼がずっと殺してきた内部の奥と、これからもそれを殺していかなければならない世界の悲嘆に感応したエリオ自身の奥から湧き出していたように思うのである。夏の日差しから一転したイタリアの冬景色とエリオを塗りつぶすメランコリーは、やがて聞こえてくるエイズの足音と、彼らが否応なく巻き込まれていく社会と政治に吹き荒れる嵐の予兆だったのかもしれない。この映画が『おもいでの夏』タイプの定型ににおさまらないのは、エリオにとってのオリヴァーと同じくらいオリヴァーにとってもエリオでなければならなかったその伸ばした手の切実さがそうさせるわけで、何度となく水辺で体を慣らした2人の、その6割は水分でできているとされる肉体が互いを浸透圧のように移動して均質になっていくその感覚と確信を、オリヴァーは”Call Me By Your Name”と口にしたのだろうと考える。ある種の解放区を現実的に設定した上でそこにのみ息を継ぐ人を解き放っては、彼女や彼らのブラウン運動のような動きをつかまえていく監督の筆致は前作『胸騒ぎのシチリア』にも連なる部分で、その不可思議なゆらぎには、いったい何が映画を決定するのかという問いかけを無効化する催眠性があって、主人公が境界線上で磔になるラストの香しい手癖も含め、ヴィルヌーヴがステージを上がってしまった今となってはこの悪い夢から醒め続ける夢を見るような中毒性のキックを手放すわけなどないのである。1984年にサイケデリック・ファーズをよみうりホールで観た日は東京で38度を超えた猛暑日だったことをいまだに憶えていたりもするものだから、地下室にくぐもるようなリチャード・バトラーの歌声を真夏の夜のパーティチューンにインサートするグァダニーノに、なにより一方的な共感を覚えてやまないのだった。
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2018年05月06日

ザ・スクエア 思いやりの聖域/芸術はサービスだ!

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「それはだね、きみのバッグが美術館に展示してあったらそれは果たしてアートかどうか、ということだよ」というとっさの苦し紛れにも思えたクリスティアン(クレス・バング)の答えが、言うまでもなくそれはデュシャンの「泉」に由来するアートという行為の脱構築論であるけれど、結果として日常と非日常、虚構と現実、本音と建前、といった二重性をトートロジーで弄ぶスノッブの本質を自ら宣言していたことに気づかされていくのである。すべては現実を解題するコンセプトとして相対化する大喜利に過ぎず、後出しジャンケンの関係性の中でしか生きられない者の滑稽と悲哀を揶揄するというよりは救済するかのような慈しみと共に描くことで、笑い飛ばすつもりでいたこちらの居心地を次第に奪っていくその手つきは前作『フレンチアルプスで起きたこと』からいっそう露悪を増していて申し分ない。トゥレット障害の観客によるトークショーの蹂躙、クリスティアンとアン(エリザベス・モス)が繰り広げる言ったら負けのマウンティング、オレグ(テリー・ノタリー)による相対性晩餐会の破壊、そして黒髪の少年によるクリスティアンのあくなき糾弾、といったシーンにおける映画の叙述としてはバランスを失しかねない切り上げの悪さは明らかに観客を蝕むためのやり口で(そりゃあ151分にもなる)、そうやってクリスティアンに誘い出されたあなたたちは自分が今どこにいるか気がついているのかな?と言いながら、ワタシたちの苛立ちや蔑み、咎め立てをニヤニヤと笑いながら監督は集めて回っていたのではなかろうか。劇中では展示された正方形の中に足を踏み入れた観客の描写はないのだけれど、クリスティアンの娘が出場するチアリーディングの大会で、四角く囲われた競技エリアの中でチームが発揮する協調と信頼は、いまだ相対化の怪物と化していない子供であればこそ可能な精神の発揮であることを告げているかのようだし、別居した妻との間の2人の娘がクリスティアンの生活に登場して以降、クリスティアンの墜落をぎりぎりで押し留めていたのは子どもたち(2人の娘と黒髪の少年)であったようにも思うのだ。嘘をついてはいけません、お友達をいじめてはいけません、困っている人を助けなくてはいけません、自分がされて嫌なことは他の人にしてはいけません、と散々偉そうな口調で子供に諭してきたにも関わらず片っぱしからそれを反故にしている大人を叱るにはどうすればいいのか、つまりはこの映画はそういうつもりで耳に痛くて煩わしい言葉を執拗に散布し続けるわけで、そうしてみるとあちこちで子供が事態を撹乱しては「カオス」を呼ぶハネケの意図があらためてクリアになった気もするのである。もちろんリューベン・オストルンド監督がハネケへの傾倒と崇拝を公言しているのは言うまでもない。
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2018年05月03日

アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー/おまえがいないと宇宙が広い

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※ネタバレあり

ガモーラに引き金を引いたスターロードに「気に入ったよ」とつぶやいて去っていくサノスは重篤な自己犠牲の虜と化していて、それがタイタンの失敗によるものなのかあらかじめ狂っていたのかは明らかにされないものの、ヒーローをヒーローたらしめる自己犠牲の呪いでスイングするアベンジャーズは、まさにそれゆえサノスの飼う自己犠牲の狂気に喉元を屠られ一敗地に塗れることになる。知識に呪われた男としてサノスがスタークに示す共感は、かつてサノスも世界の困難を知識で解決できると信じていたことによるものなのか、すべての理想が潰えた急進的リベラルがニヒリズムを経て暴力的でアナーキーな実践に至る姿には自罰的といってもいい過剰な自己犠牲への渇望が溢れ出し、「誰よりも今のお前を理解できるのは私だ」とヴィジョンを失わせたワンダを慰めては当たり前のように「あなたにわかるわけがない」と吐き捨てられはするものの、いやそれが彼には分かっているんだよと知らずワタシはお節介をしてしまうのだ。一つの生命を生かすために一つの生命が失われるサノスの言う完璧な調和の下での自己犠牲の、その失われる生命を少しでも減らすための営為が文明であるのは言うまでもないにしろ、その収束に抗い続けることの疲労と倦怠が、何かを得るためには何かを差し出さなければならないという自己責任へと自己犠牲を拡大解釈していくのも裂けられぬ営為であることをワタシたちは身に沁みているわけで、そうやってサノスに抱いてしまう昏いシンパシーの危うさを次作でどう鎮めてみせるのか、避けるわけにはいかない新たな責任をアベンジャーズは抱え込んだようにも思うのである。誰も彼もが「ダークナイト」のように責任をとるわけにはいかないのだよと大空に飛び立ったトニー・スタークのポップな遁走から10年目、宇宙の果てで途方に暮れるその姿が一瞬胸をついたりはするものの、この10年間それを食って過ごしてきたワタシは、因果は巡るよどこまでもと鼻歌まじりでその肩をたたいては、いつか社長もサノスのように笑える日が来るさと慰めてみるのであった。すべての登場人物に理由と必然を与え、なおかつそれを彼方へと燃やすシナリオと演出の精密さには舌を巻きっぱなしなのだけれど、それはひとえに、言わずもがなと言わずと知れた、皆まで言うな、によって何をどこまで刈り込んで削ぎ落とすことが可能なのか、その見極めにかかっていたとも言えるわけで、何よりそれを可能にしているのは観客との信頼関係および共犯関係であって、DCに決定的に欠けているのがそこに成立する視点であることにも気づかされるのである。とは言え、ファイギこそがその視点に他ならない点においてDCにとっては永遠のないものねだりであることには違いないのだけれど。
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2018年04月29日

タクシー運転手 約束は海を越えて/走っても走っても

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この世界で何より大切な一人娘との約束はおろか、自分が生きて娘のもとに帰ることすら危い状況に首まで浸かったキム・マンソプ(ソン・ガンホ)が自己犠牲の天秤を一人娘と光州の人々との間に掛ける苦渋は、それが活動家としての思想やジャーナリストの使命感という大義に裏打ちされない分だけ残酷なまでに現実的で下世話な判断をつきつけて、つい数時間前で疑いもしなかった世界が自分と自分のような人たちを躊躇なく殺す殺人鬼に変貌したその姿への、理解が現実に追いつかない混乱と衝撃を卑近にたぐり寄せては何とか呼吸だけを続けてきた彼がついに天秤を逆転させる瞬間は、カタルシスというよりは悲痛と哀切の幕が正式に切って落とされたにすぎないわけで、フィクショナルなアクション映画からはすくなくとも30分は遅い彼の変わり身はそれゆえ深刻でやるせなく、それまでの卑屈な愛想笑いと強がりが一気に反転していく取り返しのつかなさが、じゃあいったいお前ならどうする?と胸ぐらをつかんで泣きながら詰め寄ってきたのだった。そしてそれを知識や思想ではなく、血と泥にまみれたスニーカーと娘の土産に買ったピンクの靴、差し入れのおにぎりと遁走の道すがらのおにぎり、といった手ざわりの変奏によって更新する手続きは最後にマンソプがリボンを結ぶシーンの円環によって完了されるわけで、それは光州の人々がなぜああして自らを顧みず立ち上がったのか、そのたどたどしくも身を切るような代弁でもあったように思うのである。しかし、そうやってマンソプの重力が効けば効くほど、記者ピーター(トーマス・クレッチマン)のそれが拮抗し得ていないことに気づかされてしまうわけで、ピーターの動機がいったいどのように変遷していったのか、冒頭の日本パートからすると倦んだ屈託を燃やす機会を狙ったように映るピーターが一線を越える覚悟と葛藤をどう自分に課したのか一人称的な視点で叙述されることがないため、もちろんそこには言葉の壁があるにしろ、最後まで記号の枠をはみ出すことがなかったように映ってしまうのである。それと気になっているのが、最後の検問でトランクをあらためる兵士がソウルナンバーのプレートに気づきながら知らぬふりをするシーンで、他の兵士とはいささか異なる文民の風情を彼に漂わせた点で軍の非道に対するカウンターとしての役割を与えたのは明白であるにしろ、となればマンソプやピーターの生存のみならず光州の真実を伝える決定的な役割を果たしたのはこの名もなき兵士だったという「都合の良さ」がどうにも引っ掛かってしまうのである。これがピーターのモデルとなったユルゲン・ヒンツペーターの証言をもとにした事実であるならば、すべての成否がこの兵士にかかっていたという点で全体のバランスが少々危うくなる気もするわけで、この行動が兵士自身の破滅を招いたであろうことを想像してみれば、なぜ彼はああした行動に出たのかというサイドストーリーが物足りなく思えてしまうし、この後に続くカーチェイスのための完全なフィクションだったとすればその手続きはいささか雑に過ぎたと言われても仕方がないように思うわけで、やはり実話ベースであった『アルゴ』での家政婦サハルを物語の要請として使い捨てる扱いなど思い出したりもした。光州の人々が軍の銃弾に斃れていくシーンのスローモーションは、無慈悲に散らされていく生命があげる最後の叫びとでもいう詩情に溢れて一瞬ペキンパーのスローがよぎったし、理不尽な世界に蹂躙され翻弄される小市民マンソプを演じたソン・ガンホには、やはり運転手を演じた『世界大戦争』のフランキー堺が重なって想い出されたりもした。
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2018年04月26日

レディ・プレイヤー1/夢を見ろ、空を見ろ

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「長いものに巻かれるな」「生きていく手ざわりは現実にこそある」たったこの2つを言うためにここまでド派手な花火を打ち上げてスマホにうつむく顔をふりむかせては、まるで子供にひらがなの口調で言い聞かせるような映画を撮らなければならなかったスピルバーグの切実に、どこかしら『ペンタゴン・ペーパーズ』と背中合わせになった性急さを感じたりもしたわけで、高みからしたり顔でビラを撒くのではなく相手の陣地で同じ目線に立ってそれを可能にするスピルバーグの五感がやはり尋常ではないことをあらためて実感するのだけれど、だからこそスピルバーグは昏く変容していく世界に対し誰にも増して怒りや苛つきと共に感応し、その反撃として最も得意な方法で異議申し立てをすることを決めたのだろう。スラムと言ってさしつかえないスタックされた集合住宅の描写を含め、オアシス外の世界がスピルバーグにしては平坦というかことさらディストピアを強調しないのもこれが階級闘争の図式に閉じ込められてしまうのを嫌ったためだろうし、あくまで向き合う相手は自分自身であることを念押ししたかったということになるのだろう。そしてこの映画でクロスオーヴァーするとめどないキャラクターたちに邪気なく反応するであろう世代を考えてみれば、いったいこの映画が誰に向けられているのか、それは少なくともウェイド(タイ・シェリダン)やサマンサ(オリヴィア・クック)のような若者でないことは言うまでもないし、それら世代に対して「長いものに巻かれるな」「生きていく手ざわりは現実にこそある」と言わねばならない現状に、大人になることを要求されなかった大人たちに抱くスピルバーグの危惧と懸念が透けた気がしたのである。したがって、イースターエッグに触れて涙を流すウェイドを目の当たりにして銃を下ろす改心するヴィランとしてのソレント(ベン・メンデルソーン)こそが実はこの映画の主人公だったとも言えるわけで、美味い飯が食えるのも現実こそがリアルだからなんだよなと小さく笑って消えていくハリデー(マーク・ライランス)も含め、君ら大人が正気であってこそ若者がクリエイティヴでいられるんじゃないかというスピルバーグの檄が意外なほど刺さってきて、この国においては今作と『ペンタゴン・ペーパーズ』が立て続けに公開される僥倖をあらためてかみしめてみたのだった。それにしても『レゴ ®バットマン ザ・ムービー』でも今作でも驕った文明の犠牲者キングコングがヴィラン扱いされるのがどうにもしっくりこないわけで、いっそのことメカニコングなら良かったのにと、あのメカなんたらなど足下にも及ばない超絶クールなデザインを世界に知らしめる機会を失したのがいささか悔やまれる。とはいえ、アルテミス=サマンサが投げつける手榴弾がまさかのマッドボールだった瞬間に軽く帳消しにはなったんだけど。


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2018年04月24日

アンロック 陰謀のコード/私は冗談の通じない女

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ノオミ・ラパスがCIAの尋問官を演じるとなれば、『4デイズ』のサミュエル・L・ジャクソンにリターン・オブ・リスベットとしていったいどこまで迫れるものかと胸はずませてしまうのが人情というものだろう。とは言え人情というものはそれぞれに事情があるようで、アリス・ラシーン(ノオミ・ラパス)にとっての尋問官はあくまで側(がわ)に過ぎず、彼女が放り込まれるのは精神を切り刻む神経戦というよりも諜報は踊るとでもいう狂騒曲の流れるダンスフロアであって、そこでは誰もが落ち着きのないステップで息を切らしては趣もへったくれもなく喘いでいたのである。何つうか人を殺しすぎたっていうか、テロとかそういうのはなんかもういいんじゃね?と急進的なイスラム教指導者が言い出したことでMI5とCIAを巻き込んで発生する泥縄のマッチポンプはその底抜けと悪趣味でほとんどコメディの領域に近づいた気もして、イギリス系モロッコ人ラティーフ(エイメン・ハムドゥーチ)と中東からの移民アムジャッド(トシン・コール)というそれなりにキャラクターの陰影を育てたはずの2人が、どちらかといえばアリスのエラー含みであっさりと殺されてしまう躊躇のなさと後腐れのなさ、およびそれを当事者のアリスですらがさほど気に留めた風もないまま、ラストにおいて彼女の前線復帰を告げるCIAヨーロッパ支部局長(ジョン・マルコヴィッチ)の車に乗り込んだアリスの表情には死屍累々の悔恨や屈託は清々しいほど見当たらないわけで、特にアムジャッドについては彼の幼い子どもまで含めた背景をそれなりに描いたあげくの使い捨てにも等しい退場への、それはいくらなんでもそれはいくらなんでもと思わず声も上ずる違和感に、そもそもが寄る辺なき諜報の世界に正気の者などいるはずがなかろうよと鼻で笑われた気もしたのである。してみると、いささかオーヴァーアクトとも言える身のこなしでフィクションを助長し続けたジョン・マルコヴィッチはこの映画を真顔で演じることの不粋をはなから見抜いていたわけで、彼にとってはさすが余裕の暇つぶしであったというしかない。としてみれば、オーランド・ブルームもトニ・コレットもマイケル・ダグラスでさえもどこかしら半笑いの風情を終始漂わせていた気がしないこともなく、ひとり悲壮な面持ちで密室の尋問劇とはまったく関係ない撃って殴って捕まえてのアクションを孤軍奮闘繰り広げたノオミ・ラパスが、劇中と同様ドッキリを仕掛けられた犠牲者にも思えてきたのである。いかなるサイズの映画であっても観客の手の届く範囲に縦横高さを縮小しては親密な手ざわりを届けてくれる彼女のB級力はワタシの頭にピーター・ウェラーのそれをよぎらせたりもするわけで、それはそう誰にでも許されていない希有な能力であるのは間違いがないところであって、今作でも新宿ミラノ感、あるいはシネパトス感といった共犯関係を存分に確認させてもらったのであった。うらぶれた駐車場に降り立ったトニ・コレットの緊張に溢れたバストショットを捉えたカメラが引いていった瞬間、目に飛びこんでくる膝丈やや上のフレアスカート姿の凛とした颯爽がベストショット。まるでアニー・レノックスのようにクールかつバウンシー。
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2018年04月22日

女は二度決断する/海へ往く

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おそらくあの鳥も死ぬことになるのだろうと、そのイメージが頭に浮かんだ瞬間、カティヤ(ダイアン・クルーガー)はいったん復讐の憎悪を正気の鞘に収めるのだけれど、憎しみの連鎖を絶ちきるという説諭の気分を目的とするならば、ここで仄明るくも曖昧な余韻と共に目を伏せる手もあったはずである。したがってそこから先で起きることはカティヤにのみ有効で普遍性のない私闘の産物であって、事件のショックでしばらく止まっていた生理が突然来たことに虚を突かれ、身体が自らを修復して立ち直るように、いつしかその記憶と感情が自らを修復してヌーリとロッコを忘れてしまうことに恐怖したカティヤが、ならば今この記憶と感情のまま消えてしまえばいいのではないか、とまず思い立つことになる。そもそもが監督は巧妙なずらし方をしていて、カティヤは夫と子供を殺したのがネオナチだから復讐を決意したわけではなく、仮に相手がマフィアだったとしても何らかの行動に出ていただろうことは劇中の彼女を知れば知るほど想像がつくわけで、レイシズムに関していえばトルコ系移民である夫とその家族に対するカティヤの母親の視線は刑事が抱く予見という偏見につながっているし、家族3人の幸福を築き上げるにおいて彼女がとっくにレイシズムと闘っていたことは言うまでもない。それがトルコ系移民の両親を持つファティ・アキン監督がレイシズムに対して抱く極めてリアルな記憶と感覚であることを思えば、その絶望的な異議申し立てがネオナチという醜悪で唾棄すべき存在によって矮小化されてしまうことへの拒絶こそが、カティヤに最後の決意をさせたように思うのだ。私はネオナチだけが憎いのではない、彼らが存在することを許す世界を憎悪しているのだ、だから私を知るすべての人間の悪夢となるべく、私は最悪の方法を選ぶことにする、いつか忘れ去られるとしても、一分一秒でも長くその悪夢が続くよう、最悪の方法を選ぶことにする、しかも私は最愛の家族の記憶に全身を満たされたまま消えていくことができるのだ、あなたたちの悪夢が今の私にとってのハッピーエンドなのだ、バイバイ、というモノローグを、キャンピングカーに向かう歩みへのヴォイスオーヴァーとしてワタシは再生してみる。幸福と絶望と諦念と執念、と四方に裂かれ続ける感情を哀しいほど誠実かつ精緻に刻みつけたダイアン・クルーガーの表情が今もって忘れられない。『追想』を悪意の時代にアップデートした祈るような傑作。
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2018年04月19日

パシフィック・リム・アップライジング/わたしはデル・トロをゆるさない

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イェーガーやKAIJUそのものにはストーリーを背負わせないという舵の切り方それ自体は悪くないと思うのだけれど、やるならやるでニュート(チャーリー・デイ)を帆場瑛一に仕立てつつ押井パトレイバーを横目に見るくらいすべきだし、となれば当然これはニュートとハーマン(バーン・ゴーマン)の物語となるわけで、『バトルシップ』の冒頭をトレースするにしてはいっこうにスイングしないジョン・ボイエガの凡庸な偽悪っぷりと、父親から肝心要のシニカルを譲り受けなかったスコット・イーストウッドのツートップでは胸騒ぐ物語に至らないのも、既に厨房での冷え冷えと悲惨な掛け合いで瞭然だったように思うのである。かといってハーマンと袂を分かったニュートの闇落ちを描くにはこの2人が抱える屈託を理解できる脚本家が必要だっただろうし、まあそれがル・トロということになるのは言わずもがなとして、すべてが段取りとその処理に汲々とするあまり、情動のスイッチにふさわしい森マコ(菊地凛子)の退場も、ジェイクの朴念仁を助長する造型と演出のせいで曖昧な関係性のまま単なるイベントのように終わってしまうし、しかしそれについては全員が朴念仁のまま終始しているとも言えるわけで、未知のものどもを観客に魅せる喜びに溢れていた前作を受けて、予算の都合もあったのだろうその足し算はあきらめた上で「人間模様」でドライヴすることを選んだにしては無い袖を振りすぎたと言うしかなく、その無謀がブレイクスルーを呼ぶこともごく稀にあるにしろ、それは自分が無い袖を振っていることを重々承知したうえでの果敢であって、その傲慢は、一介の訓練生にとっていきなりの修羅場となる初陣に際し、死への恐怖と使命感とのせめぎ合いに感情の針が振り切れる瞬間がほんのワンカットでも浮かばないデリカシーのなさにも見て取れて、KAIJUに攻撃を受けた基地で応戦したイェーガーのパイロットが渾身の抵抗をみせたあげく一蹴されるシーンを直前で見せておきながら、それを彼や彼女らがどう自分に置き換えたのかそういったひとつひとつが全く描かれていなかったものだから、大変申し訳ないが誰が死んでも困りようがないのである。せっかくアマーラ(ケイリー・スピーニー)とヴィク(イヴァンナ・ザクノ)のねじれを仕込んでおきながらそれが振りほどかれることで感情が弾ける見せ場が見当たらないことなど杜撰と呼んでも差しさわりがないだろう。青空を背景にした仰角の冴えるバトルシーンはかなり健闘していただけに、大人たちの失敗の甘き香りおよび青いメメント・モリを忍ばせるシナリオおよび演出の失敗が足を引っ張っている点で、ハードルを下げていたにもかかわらずやはりそれなりに鼻白んだりはしてしまう。健闘したとは言え、ロボットは人間のように動くのではなく人間のようには動けないことで色つやがのってくるわけで、そうした意味ではフェティシズムに欠けて健康的すぎたこともあり、どれだけ彼らが破壊されようが昏い昂奮が湧いてこなかった点でもなお鼻白んだのである。みそっかすの女王としてのジン・ティエンはすこぶる健在で、大人の事情に追われる彼女の逃げ場のなさはある意味ロボットよりも哀切であった。
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2018年04月18日

ワンダーストラック/きこえないよね、メイジャートム

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42丁目のポート・オーソリティ・バスターミナルに降り立ったベン(オークス・フェグリー)が、西81丁目のブックストアに向かってずんずんと北上しながら通り抜ける1977年夏のヘルズ・キッチンあたりをギラついたファンキーで活写したシーンを観ていたら、かつて映画で知ったニューヨークの原風景ともいえる熱くたぎる坩堝感にくらくらしてきて、『エデンより彼方に』『キャロル』からつづく偏執的時代考証シリーズの最新作として、あっさりとOKを出してしまう。言ってみればこの映画はまるごとが、50年の時を経た原風景を重ね合わせることでそれまでそこにいなかった人たちを浮かび上がらせる騙し絵のスペクタクルになっていて、前半の時空を超えたカットバックの向かう先が『オーロラの彼方へ』タイプのファンタジーになるのだとしたら、果たして乗り切れるものかどうか自信がないなあと思っていたので、ワンダーストラックなたたみかけとは言え極めて現実的な仕草で着地していく終盤に実は安堵したりもしたのだった。1927年と1977年のルックをあれだけ丁寧に磨いたこともあってのことだろう、その合間の1964年を実写ではなく手作りの人形劇スタイルで描いたアイディアも、話して伝えることが叶わないローズ(ジュリアン・ムーア)のしたためた手書き文字から立ちのぼる「お話」をベンが頭の中に投影させた幻視であったことを考えてみれば、たどたどしくもいきせくように自分に言って聞かせる少年の語り口が実にヴィヴィッドにフィットしていたように思うし、話して聞かせればただのフラッシュバックで再現されたであろう物語が、2人の関係性ゆえに特別な風景を生み出していくあたり、トッド・ヘインズはそのアイディアからすべてを逆算させたのではなかろうかとも思ったのだ。ラストで自然史博物館の屋上に並ぶローズ、ベン、そしてジェイミーの3人はみな母親を失った者たちで、そこを生き抜いたかつての子どもとこれから生き抜いていかねばならない子どもたちが大停電の夜空に浮かび上がる星に思いを馳せる姿に、”We are all in the gutter, but some of us are looking at the stars”(おれたちはみなドブの中にいる。でもそこから星を眺めるやつだっている)という魔法の言葉が唱えられた気がして、弱くて小さいものを慈しみ勇気づけるジュブナイルにトッド・ヘインズの原風景が透けて見えた気もしたのだった。1927年ではローズの母リリアン・メイヒュー主演のサイレント映画が上映されるブロードウェイの映画館を、1977年では”CAPTAIN LUST”なんていうポルノ映画が上映される場末の映画館をそれぞれ時代の気分としてフィルムに収めていて、70年代ニューヨークの猥雑とポルノ映画館を結びつけたのはやはり『タクシードライバー』なのだろうなあと思いつつ、スコセッシの諸作以外にも『重犯罪特捜班/ザ・セブン・アップス』『ウォリアーズ』『ジャグラー ニューヨーク25時』『セルピコ』とかいった、ぎらついた目つきとくすんだ屈託が塗り込められたNY映画をあれこれと想い出したりもした。それと『刑事コジャック』もかなりニューヨークの私的原風景になっている。
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2018年04月16日

ラブレス/罪と罰?

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タイトルがあらたかたを語ってしまっていることで映画に裏切りはないにしろ、ほとんど軍隊並に組織された民間の捜索ボランティア団体のとりつくしまのないプロフェッショナル感は少しばかり異様に思え、一介のボランティアであるはずの女性が施錠された門扉の向こう側へと斥候の動きで入り込んでみたり、合理的かつ支配的な上意下達による有無を言わせぬ指揮系統など、あのレベルまで鍛えあげられるほどロシアでは失踪人の捜索が常態化しているのかと、それすらも薄ら寒かったのである。その薄ら寒さの「薄」は酷薄の「薄」でもあるわけで、愛情、思いやり、責任感といった社会の体温を決定するそれぞれがおそろしく「薄」である様を、血の気の「薄」い映像が引きずるように倦んだ足どりで冷ややかなため息と共に告発していく。ボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)がそれぞれ新しいパートナーとセックスに励んでいるまさにその頃、やはりセックスをすることで生まれてきたアレクセイはこの世界から独り彷徨い出してしまっているわけで、物質主義と即物性の刺激にしか反応しないパブロフの犬として2人を描く筆致の容赦の無さはこの元夫婦を現代ロシアの病巣として描くただそれだけを目的にしているようですらあり、自分教の教祖たる自身を偶像=アイコンとする供物であるかのようにセルフィーをアップロードし続ける姿にはセルフィーという行為に抱く監督の蔑みと憎悪すら感じられて、ボリスとジェーニャにかけられた永遠の呪いを示唆したラストは、もはや許すも許さないもないのだという穢れた世界に吐きかけられた唾のようにすら思えたのだ。しかしこれがロシア固有の状況や問題でないことくらいワタシ達の誰もが気づいているはずで、ワタシが最初にセルフィーという言葉を知った時はセルフィッシュからの派生かと思ったくらい一方的な自意識の新たな登場に思えたし、セルフィーに耽溺し執着する人間と以外の人間の断絶は様々な断絶のパターンに重なるような気すらするものだから、悪魔を憐れみながら悪魔に魂を売った人々の象徴的な行動として監督が選んだことは至極当然だったのではなかろうか。そういった風に徹頭徹尾が呪詛でしかないにも関わらず、鈍色の鉄塔のように繁る木々や正気だった世界の墓石のような廃墟のひっそりと孤絶した美しさのせいでクズの蠢きにどこかしら神性が宿っているかのようであるのも強烈な皮肉としていっそう罪深い。それにしても、その社会が経てきた歴史や主義思想と関係なく、たがが外れた人間の閾値はなぜこうも一定に収束していくのかその迷いのなさはいっそ清々しくもあり、おそらくはそこにある種の感銘を受けた監督による生き地獄上等にはハネケやファルハディにはない闊達さすらを感じて、さすがドストエフスキーを国民的アイドルと押し戴いた国の人であることよと、人なるものを研究者の手つきで小突き回し観察者の偏執的な視線で睨め回すその地肩の強さに感嘆しつづけたのである。実際のところはSelf Networking Serviceとも言うべきそれらSNSは、ナルシシズムにすら至らない空白に自分の形をしたドーナツの穴を作り続けているようにも思え、永遠に埋まらないその中心にアレクセイは消えていったのだろうとワタシは考える。
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2018年04月13日

ヴァレリアン 千の惑星の救世主/すました顔してバンバンバン

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この映画はこういう風に、ただただお互いがにっこりできるようなポップで転がっていきますよっていうオープニングと、「スペース・オディティ」のヴィヴィッドで必然性のあるインサートにボウイの歌声を思いがけず堪能して顔がほころんでしまう。それから約130分の間、ほころんだ顔のみけんにシワが寄ったりまぶたと顎が落ちたり瞬間もないままめでたしめでたしで幕を閉じたものだから、いったいどうしてこの映画がヨーロッパ・コープの屋台骨に蹴りを入れたのか皆目見当がつかないのである。確かにこの映画は父殺しの通過儀礼も骨肉の争いもポリティカル・コレクトネス的なメタファーのこれ見よがしな参照も見あたらない、一見したところはノンシャランな恋人たちのスペースオペラではあるけれど、冒頭で謳い上げる握手の歴史を足蹴にする者は許さないというただそれだけで十分な背骨ではあるし、ローレリーヌ(カーラ・デルヴィーニュ)とヴァレリアン(デイン・デハーン)の、「男勝り」や「女々しい」とか言った形容詞を溶かしていくユニセックスな双子のような関係それ自体が十分フレッシュな言い分に思えたのである。惑星ミュールはほとんど「ファンタスティック・プラネット」のアップデートに思えたし、マーケット自体をひとつのガジェット化するアイディアなど、何よりドラマではなくヴィジョンで前に進んでいく物語にスター・ウォーズが手放してしまったセンス・オブ・ワンダーを感じて、現実につかまらずにどこまで逃げ切れるかという逃げ足でははっきり言ってSW8など圧倒していたといってもいい。バブル(リアーナ)のパートは、その最期をきちんとした自己犠牲で閉じてあげさえすれば印象もまったく変わっただろうにとは思うものの、それくらいの湿気さえ嫌ってしまうのもベッソンらしいと言えばらしいわけで、言ってみれば今作はベッソンの目指したものが作品として寸足らずだったから失敗作とされたわけではなく、現在のマーケットに対して目配りを一切しなかったがゆえのすれ違いだったというべきで、現代はジャンル映画においてすらほぼ常套である家族愛や友情、あるいはその相克といったフレームを提供しなかったことが瑕疵とされてしまう不幸をくらったとしか言いようがなく思えてしまうのだ。したがって、今回に限ってはともすれば情動の奴隷を強いてくる世界への負け戦を挑んだベッソンに全面的な肩入れをしたいと思っている。ただジンクスとしては、『ジョン・カーター』の例もあることだし、今後馬鹿をやりたい監督は高速で突進する巨大なブルドッグを投入するのは控えたほうがいいかもしれない。
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2018年04月11日

ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書/うそがほんとにならないように

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権力を監視する第三者機関としてのマスコミが保つべき挟持の鼓舞と再確認は言うまでもないにしろ、エンディングで暗示される例の大事件の最中に「それを記事にしたらおたくの社主のケイティ・グラハムはかなりまずいことになると伝えておけ」と元司法長官に名指しで脅されるくらいの目の上のたんこぶへと至るキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)のライジング・ストーリーが、国民の視点、とりわけ女性たちの視点を切り開く闘いにも重ねられることでなお映画の体温が上昇した気がしたのである。「ペンタゴン・ペーパーズ」そのものをめぐる事件を史実的に追うのであればワシントン・ポストよりはニューヨーク・タイムズを主戦にするのがふさわしいわけで、いささか類型的に放課後ボーイズクラブのガキ大将のようなヒロイズムとマチズモで描かれるベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)が、主にキャサリンの当て馬としてあるのもそうした意図によるところが大きいのだろうし、単なるジャーナリスティックな反撃というよりは、銃後の女性としての怒りと勇気および責任感によってその一歩を踏み出したキャサリンの決断の重大さをベンに気づかせたのが彼の妻トニー(サラ・ポールソン)であったことなど、戦争ごっこが好きな動物としての男たちに対する女性たちがあげる声なき声の代弁者としてのキャサリンをこの時代と事件の象徴としたことは、最高裁判所から出てくる彼女を静かに微笑む女性たちが無言で迎えるショットにも雄弁だったように思うのである。戦場のタイプライターで打ち込まれたヴェトナムの記憶と記録が文書となることで実体化し、監禁された場所から連れ出され飛行機に乗って然るべき場所にやって来る一連は、まるでひとりの生き証人をめぐるサスペンスのようで、ここでスピルバーグはマクナマラ(ブルース・グリーンウッド)をして「ケネディもジョンソンも確かに手強くてしたたかだった。でもニクソンは、あいつは正真正銘のサノヴァビッチなんだ!」と絶叫させ、執拗に漆黒のシルエットと肉声を使いニクソンを悪の黒幕として容赦なく仕立て上げることで、生き証人としてのペンタゴン・ペーパーズを取り扱うその一つ一つの手続きに手の震えや小さなつまずきを塗してはポリティカルスリラーの蒼白までも呼び出している。最初にメッセンジャーボーイがタイムズ社屋に入るシーンを見せておいたことによって、その後でポストのインターンがタイムズの社屋に潜入するコースを観客に拡げておく段取りなど、些細なことではあるけれどそうした積み重ねの丁寧さがノイズやストレスを取り除いていくのだなあと、小さくため息なども出たのであった。ベンの子供じみた尊大さをやんわりとたしなめつつ、突然おしかけた来客たちの人数を瞬時にカウントしては、人数分のターキーとローストビーフのサンドイッチを作って差し出すトニーの万能も称賛されて然るべきだろう。ただ、そんな風にして少々キャラクターに依存したこともあって、往き来する映像の擦過による発熱が控え目だった点で、スピルバーグにしてはいささかローカロリーだったようには思うのである。悪に対する悪意を燃やすよりはキャサリンに光差す祝福をトーンにしたこともその理由なのだろうけれど、とどめは『大統領の陰謀』に任せるよという意味でのあのラストだったということになるのだろう。それが名場面であればあるほど、固定電話、とりわけ公衆電話が過去を強力にするための装置となってしまったことをあらためて実感した。ネットと携帯電話が街角のサスペンスを消していく。
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2018年04月09日

レッド・スパロー/なんでもお前の意のままに

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ホテルのバーでドミニカ(ジェニファー・ローレンス)がユスチノフ(コンラッド・クリストフ)に問わず語りした野心と自尊心の覚え書きこそは、実はこの物語でドミニカが吐露した唯一の本心であったようにも思え、冒頭の楽屋裏でそのユスチノフにむき出しの背中を撫でまわされながらもその表情をピクリともさせなかったドミニカは、その程度のことあるいはそれ以上のことも、野心の達成および自尊心を育ててくれた母親に報いるため、感情を殺して乗り越えてきたのだろうし、だからこそ自身からバレエを奪い取った2人への復讐が凄惨なオーヴァーキルであったように、愛する母親を人質にとることで自尊心を粉砕した国家と野郎どもへの復讐が、コルチノイ(ジェレミー・アイアンズ)をメンターに壊滅的な方法で為されていく将来を謀ったのだろう。寄る辺なきエスピオナージの世界ですらその御託にヒューマニズムを並べてみせるネイト(ジョエル・エドガートン)は著しくアメリカ代表であり、全体主義の権化としてのマトロン(シャーロット・ランプリング)や現大統領ワナビーとしてのワーニャ(マティアス・スーナールツ)はいかにもなロシア代表として代理戦争を行うわけで、その書き割りの図式の中で一切の思想信条を足蹴にするドミニカの孤独な闘いが真っ赤な血と怒りの色を帯び始めると共に、やはり鳥の名前をニックネームに持つカットニスという少女が、肉親の身代わりに自らを殺し合いの場に差し出しつつ最後には全体主義のシステムを打ち倒す物語のR指定変奏が奏でられていたことに気づかされるのである。とは言え、ポテンシャルが加速度的に開花しつつあるとは言えこの世界においてはアマチュアに過ぎないドミニカが、いかにして酷薄な手練たちと渡り合ったかといえば、それは肉を斬らせて骨を断ち血みどろで寝首をかく正面突破であり、ドミニカが自身の内部に眠る昏い衝動に気づくシャワー室でのカップル襲撃から既に、この映画はさらけ出された肉体がよじれて呻くその震えをもって余白をしたためてきたわけで、ことさらビルドアップされないドミニカとネイトの内臓のつまったズタ袋としての肉体がいかに雄弁であり続けたかは言うまでもないだろう。そのクライマックスはあの皮剥きの夜だったとしても、即座に破壊してしまわないようクッションをあてがっては破壊的な打擲をドミニカに放つ尋問の、共振による内部破壊で少しずつ精神にヒビを入れていく永遠とも思えるその悠長さがワタシは何より怖ろしかった。基本的には売られた喧嘩を買う話なので仕掛けを急くと冷めた料理を食べさせられることになるのだけれど、ロングレンジの得意な監督だけあってきちんと助走した上での遠投がよく伸びて、どのショットも肉体の全体性を十全に捉えている。『コンスタンティン』もあれで120分を要したことを考えてみれば、唯一あきらかな失敗だった『アイ・アム・レジェンド』の敗因がこの監督に100分しか与えなかった点にあるのは明らかで、なれば140分を確保した今作ではオープニングを運命のクロスカッティングでスタートするなどの野心も見せつつ、全体主義国家とシンメトリーの親和性を背景にウェイトの乗った重心の低いミドルキックを粛々と繰り出し続けるこの映画の、倦みきってどこへもいくつもりのない殺意に、こうした見返りのない無為を飼い慣らすことこそが本当の贅沢なのではなかろうかと、シャーロット・ランプリングとジェレミー・アイアンズのツーショットに心の中でそっと手を合わせてみたりもしたのであった。
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2018年04月07日

ザ・シークレットマン/大統領の凡庸

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『大統領の陰謀』を観る限りにおいて、ディープ・スロートはウッドワードにとってのメンターめいた水先案内人として、タイプライターの手ざわりと電話の息づかいが鼓舞し続ける事実と真実をめぐる闘いの中で、それを求める者の目にのみ映る象徴的な存在であり続けたように思えたものだから、その実体と正体が映画として描かれることで魔法が解けてしまうのはある程度しかたがないだろうなと覚悟はしていたのである。しかし、ここに描かれていたのは、自身にとってのアメリカそのものであるFBIという組織への忠誠と、その全身全霊がもたらす倦怠と屈託によって内部を食い尽くされんとしているほとんど幽鬼と化したマーク・フェルト(リーアム・ニーソン)というひとりの男の彷徨であって、素っ気ないと言ってもいいくらい物欲しげな素振りをしないピーター・ランデズマン監督(『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』)の黙りこくったモノローグのような語り口が地下駐車場の暗がりの中にディープ・スロートをいつまでも立ちつくさせていて、組織防衛や自身の処遇への鬱屈といった角度も残されてはいるものの、自由と独立の精神を侵したニクソンおよびその仲間たちと刺し違えた男の挟持を冠したという点で、『大統領の陰謀』の嫡子とも言える風向きは保ってみせたにしろ、ウッドワード&バーンスタインのそれがゼロから始まる明日への闘いだったのに対しフェルトのそれはゼロへと引きずり戻すための暗闘であって、編集部を煌々と照らす蛍光灯の光と地下駐車場の闇という対比はそのままこの作品の役割を示していたように思うのである。政権の息のかかった人物を中枢から役所のトップへ送り込むことで行政を政治の支配下におくという現在進行系の既視感には驚くというよりはいい加減うんざりしているのだけれど、これはもうどのような主義体制であっても普遍的に起きる図式なのだろうことを思えば、権力の外部からそれを監視し告発するシステムを我々は維持し鍛えておかねばならないという戒めを新たにすべきなのは言うまでもなく、それを衆愚に忘れさせないよう神はあちこちへ定期的に外道を送り込んでいるのではなかろうかとすら思えてくるのだ。妻錯乱(『クロエ』2009年)、妻喪失(『THE GREY 凍える太陽』2012年)、息子喪失&妻別居(『サード・パーソン』2013年)、娘死別&離婚(『フライト・ゲーム』2014年)、妻死別(『ラン・オールナイト』2015年)と、2009年に彼の人生を襲った悲劇以来、喪の仕事でもあるかのように家族の不幸に搦め取られる男を演じてきたリーアム・ニーソンもそろそろその仕事を終える頃合いかと思いきや、ラストのテロップが告げる苛烈すぎる事実に、彼はもう自分の最期までこれをやめるつもりがないどころか、むしろその哀しみが薄れ忘れてしまうことを恐れているのだろうとすら思えたのだ。私は不幸なのではない、幸福でないだけだというトートロジーが大きな背中にはりついている。
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2018年04月04日

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男/たった一日だけ僕たちは英雄になれる

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「ヒトラーから世界を救った男」とか「ダンケルクの戦いを制し」たとかいった惹句の脳天気なやり逃げに少々げんなりしつつあらかじめ眉に唾しておいたこともあり、動けるデブとして闊達に走り回ってはひとりローズヴェルトに泣きを入れる姿など、基本的には「愛すべき」という前置きでチャーチルという人間の聖と俗を忌憚なく活写することで、政治家はつらいよ、とでもいう愚痴と泣き言を非常に流麗かつドラマチックに語ってみせては、政治家としては毀誉褒貶烈しく、チェンバレンやハリファックス同様ヒトラードイツ台頭の責を免れるはずもないチャーチルを憂国の英雄として描く情動にポピュリズムの誕生を見た気もして、それはワタシ自身をも含め意外と容易いものではあるのだなとあらためて感じ入ったのだった。ともすればウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)がアップになる度、ほっぺたやあごの下のぷにゅぷにゅを擦り、ぽわぽわの髪の毛を撫でてみたいとそんなことばかり考えていたし、A・J・P・テイラーがハリファックスについて「第二次世界大戦の起源」の中で記述した“ハリファックスは特異な才能を持っていた ―いつも事件の中心にいながら、どういうわけか事件とは関係のないような印象を残すことが出来た。”“彼は何かというと否定ばかりしていた。彼の政策の目的は ―彼がもっていた限りでは― 時をかせぐことであった。もっとも、これをどう利用するかについては明確な考えはなかったのだが。”“ハリファックスは一貫してチェンバレンに忠実であったが、その忠誠のあり方は、チェンバレンが熱心にしようとしたことの責任をすべて彼に負わせるというものであった。”というあからさまな悪意を裏づけるような、遠くのヒトラーよりも近くのハリファックスとでもいう悪役としての描き方、チャーチルの精神的参謀としての妻クレメンティーン(クリスティン・スコット・トーマス)がしなやかにあやつる飴と鞭、英国王ジョージ6世(ベン・メンデルソーン)が一人くすぶらせる鈍色の屈託、といった虚実織り込んだ造型の行き交うジョー・ライト史観によって「ダンケルクの戦いを制し」「ヒトラーから世界を救った男」としてのゲイリー・オールドマン版チャーチルが新たに誕生したのは間違いがないところだろう。してみれば、やはり英国政治史に名を残す政治家の光と影を描いて主演とメイクアップでオスカーを受賞した『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を当然のように想い出したりもするのだけれど、あの映画がいささか都合の良い回想形式によるその功罪の免罪符的なファンタジーに妥協していたことからすれば、その人生最良の瞬間に吹いた風の最大風速を捉えるケレンにのみ注力したジョー・ライトの半ば開き直ったかのような演出が正鵠を射たのは間違いない。それにしても、ひとたび口にされた言葉が書記のペンによって記録されるか否か、それだけでサスペンスが成立するくらい言質(=人質とされた言葉)としての文書は絶対的な信が置かれる存在であるはずで、その約束が打ち捨てられた場所で意志決定がなされる昨今の、悪魔の所業にあらためて慄然とするばかりであった。
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2018年04月02日

ちはやふる −結び−/ひかりの子

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やはり神々の憂鬱を青春のニヒルとして描く視線の不平等がずっと心地よかったのだろう。今作では遅れてきた神としての真島太一(野村周平)を仕上げるメンターとして、青春の影ばかり見ているきみはその影を生み出す光を見つめることをまずはするべきだ、一瞬の光が永遠となる瞬間を知らなければ影に向き合う術を知ることもないのだから、と告げる周防久志(賀来賢人)が自身のメランコリーと刺し違えすらしてスリリングであったし、高みで生きるしかない倦怠と抗えぬ運命へのあきらめにつかまった自身を若き神に託す修練が帯びる発熱は、このジャンルの邦画ではついぞみかけない独善と傲慢の疼きにも思えたのである。月下の棋士でいう猖獗の映像化も見目麗しく、3人の神々の捨て石となる者たちのマゾヒスティックですらある泣き笑いといいこれくらいひたすら本能に忠実な物語が可能なことを知ってしまうと、今後は友情とか仲間とかいった共同幻想に安住するにしろ、新たに更新された手続きが求められることになるだろう。すべての叙情を叙事として刻んでしまう広瀬すずの装置としての達者はやがて自身の内部をも結晶化してしまうのではないかといらぬ危惧すらして、すべての役柄をアテ書きと思わせる精密な車幅感覚をレオパレスですらアジャストする能力は好嫌の彼岸を超えた怪物の眼差しにも思え、まるで鵜匠のようなアンサンブルで居る時の彼女のフレームにワタシは少し気持ちが張って落ちつかなくなってしまうものだから、彼女につながれていない松岡茉優がフレームに入ってくるとようやくホッとしたりもするのだった。美しく磨き抜かれたガラスを通過する光が照らす上気した白日夢のような映像は日常の息づかいをシャープに非現実化してみせて、このトリロジーが湛える透明な白熱が今後は青春のスタンダードとなっていけばいいなと思う。まるで月曜ドラマランドのような予告篇を劇場で立て続けに見せられたこともあって、この映画の孤軍奮闘が切なくすらあったものだから、なおさらそう願う。いちいち胸が詰まって仕方がない机くんを運命の瀬戸際で背中から捉えたカメラが、ワタシのベストショット。
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2018年03月30日

素敵なダイナマイトスキャンダル/ほとんどビョーキで超ゲージツ

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80年代(昭和55〜64年)、すなわち昭和の終焉とともに、何より日本から消えてなくなったのは劇中で末井昭(柄本佑)が何度か苦し紛れの存在証明として持ち出す「情念」であったことよと、ノスタルジーでもセンチメンタルでもなく再確認させられたのだった。高度経済成長の時代に無理やり社会的な生き物としてしつけられた日本人が、自分の内部で置き去りにされる未整理で未成熟な衝動のはけ口として弄んだのが「情念」というやつで、当時を生きた人間が他人事のように思い返してみた時、パンチの効いたとしか言いようのない昭和の文化はほとんどがこの「情念」をガソリンに燃やされていたように思うわけで、結果的に末井昭が突破口として見出したのは「情念」のポストモダン的再構築とでもいうセックスのアヴァン・ポップな意匠化で、やはり同時期に山本晋也が「トゥナイト」で展開した日本のセックス事情探訪と相まって、はからずもメディアミックス的に横断されることで浮力のついた日本のセックスは表現の動機に関する限り「情念」から追い出されていったように思うのである。などと能書きはたれてみたものの、「写真時代」の廃刊騒動がスルーされていることからも分かるように、そうした思想の変遷を読み込む映画というよりは、母親のダイナマイト心中が象徴する「情念」を都合よく操るトリックスターとして昭和の終わりを転がっていった末井昭の奇天烈な逃げ足を描くことで界隈の正史へと置き換える乱暴さそれ自体への憧憬(監督の世代からしてみれば)に溢れた、間に合わなかった青春への明るい怨念を綴ったラヴレターのような映画に思えたのである。となれば、アングラの鼻歌のように忍び寄ってくる劇伴がサブカルチャーのノンシャランを封じ込めていたのも当然か。尾野真千子、前田敦子、三浦透子といった女優陣がみな切羽づまった笑顔を忘れがたくふりまいて、冨永監督の女優指南は相変わらず鈍色に艶々としている。
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2018年03月27日

LUCKY ラッキー/モンタナ行き最終急行

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殺されてしまったり放っておかれたり、ただそこにいるだけだったりずっと疲れたままだったり、まったくラッキーとはいいがたい役柄をそれが当たり前であるかのような顔で風に吹かれるように演じてきたハリー・ディーン・スタントンだからといって、これは人生の上がりを目前にした男の飄々としたラッキーで転がっていく姿をそのフィルモグラフィと反語的に描いて座りのいい締めくくりとするような、あてがいぶちのタイトルロールなどではまったくない。それどころか、演じてきた役柄の男たちのセリフにすらならない内心の投影であるかのような、そっちの勝手で始めておいて終わらせるのもそっちの勝手かよ、と取り付く島も寄る辺もない人生にニヒルを覚えつつ、すべてを取り上げられたあとで一つだけできることがあるとすれば、それは自分の全存在を肯定して微笑んでみせることだよ、と今となってはまるで墓碑銘のように刻まれるハリー・ディーン・スタントンという在り方そのものがフィルムに焼き付けられていたのだ。場当たり的な気まぐれとは程遠い静かで淡々としたルーティーンによってラッキーの生活が営まれていることを伝えるオープニングから始まって、変わり映えのしない、というよりはさせないその日々の築き方は世界の虚無に対するラッキーなりの抵抗でもあったのだろう。しかし、ある日突然訪れた最大にして最強の虚無である「死」のサインに戦術の変更を余儀なくされたことで、ルーティーンが隠していた負けるが勝ちとでもいう新しい光景にラッキーの内部は更新されていくことになる。いつしか澱のようにたまっていた執着を捨てることの理解と確信を代弁するハワード(デヴィッド・リンチ)と彼の愛するリクガメのエピソードはビザールな味わいと慈しみにあふれたシナリオの忘れがたいピークの一つでもあるし、それを聞かされることでラッキーが自身の舵を切る契機となる太平洋戦争時の沖縄の少女のエピソードはハリー・ディーン・スタントンの当地への海軍従軍経験を織り込んでいることは言うまでもなく、そんな風にして観客がラッキーに役者本人を投影することを拒まない虚実の行き来にいつしかワタシはハリー・ディーン・スタントンその人と会話をしているような親密さの虜となって、もしも今ラッキーにタバコを勧められたら25年を超える禁煙をきっと解いてしまうだろうなと要らぬ心配をしていたのだった。誰かを演じるために存在する俳優が最期には自分自身を演じることの皮肉ではなく奇跡。その奇跡というのは、彼が選んだ自身の断面と色合いがワタシたち観客が長いことずっと彼に託してきたそれと寸分違わなかったことであり、それは彼がたどりついたすべての肯定がワタシにも許されたような気もしたものだから、なんだか感極まって笑うしかすることがなかったのである。撮れば撮るほどハリー・ディーン・スタントンがハリー・ディーン・スタントンになっていくのだから、ジョン・キャロル・リンチも撮っている間ずっとそんな風に笑っていたに違いないし、ほとんどすべてのシークエンスにハリー・ディーン・スタントンがいるにも関わらず、一人の人間の道行きがパーソナルというよりはスペクタクルの足取りと広がりに映るのはそうやって監督も一緒に解放され続けていたからなのだろう。そしてラッキーが「Volver Volver」をひとり静かに歌い出した瞬間から約2分半のあいだ、演じるということへの問いかけに対するハリー・ディーン・スタントンからの秘めやかで揺るぎない答えをワタシたちは目の当たりにすることになる。傑作。
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2018年03月23日

ハッピーエンド/海辺のアルバム

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かつて自らの内に潜らせた「死」によって内部が震え続ける老人と、「死」をこの世界のルール以上に実感しない少女とが、欺瞞と偽善でつづれ織った「生」に身を隠すことで「死」すらも手なずけた風な顔をして行き交う世界に中指を立てようと、ある晴れた日の海辺で二人だけの蜂起をする。庭で大きな鳥が小さな鳥を屠るのを見た時のことをエヴ(フォンティーヌ・アルドゥアン)に話すジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)の意図が自然の摂理に関する説諭などではなかったのは言うまでもなく、13才の孫娘を介錯人に仕立てるその企みをグロテスクとするか合理のきらめきとするか、エヴがある手段によって震えの訪れを回避するであろうその術を見越してのことだったとするならば、その成就はともかくとしてエヴはその期待に応えることとなる。ハネケの新作ということ以外、たいした情報も入れずに観たものだから、かつてジョルジュが重病の妻を窒息死させたことをエヴに告白するくだりで思わずのけぞったのだけれど、ここでは『愛、アムール』で妻の名前だったアンヌを娘(イザベル・ユペール)に、同様に娘を演じたイザベル・ユペールの役名エヴァを孫娘エヴへと似せてみては、もう私に愛は無理だと崩れ落ちたジョルジュの過去を変奏することにより、この家が愛を決定的に失ったことで無関心と不寛容を呼び寄せたことを示唆してみせるのである。してみると、この家系の最新型としてあらかじめ愛を失った存在で現れるエヴはジョルジュの隔世遺伝とも言えるわけで、エヴが父トマ(マチュー・カソヴィッツ)に対し執拗に愛の不在を問い詰めるのは、自身にかけられた呪いに対する彼女の怒りと恨みの顕れでもあったのだろう。結局のところ近代的自我などというものは他者の下支えによる精神的植民地主義によって成立しているにすぎないというハネケの嫌悪と喝破は、スマートフォンのカメラフレームやPCディスプレイを現実からの逃避と忌避のシェルターと捉えることで、SNSがその閉鎖性と独善性を煽ることを最新の付帯事項としている。そして、旧弊なリテラシー世代であるトマがその秘密をあらかじめすべてがある世代のエヴにあっけなく突破される滑稽と哀しみは、アンファン・テリブルでもバッドシードでもないネットの水平性が産み落とす集合知の怪物のような世代に対するハネケの俯瞰がなされている証しでもあるにしろ、わたしのママを捨てたようにいずれこの人は同じことをするだろうと父親のクズを見抜きつつも「パパが遠い」と涙を流すエヴには、ハネケなりの希望が託されていたように思うのだ。ラストにおいてはっきりと提示されるエヴ&ジョルジュ組vsアンヌ&トマ組の構図は、世界に疑いを抱いてしまったものとそこに貪るように浸り切るものとのさらなる闘いを予感させるのだけれど、それが闘いであることを知らないものが勝てるはずなどないことをハネケはハッピーエンドと締めくくっているのだろう。この、寓話にハンドルを切らないまま現実の壁に激突する総体としてのメタファーが鹿殺しには決定的に欠けている。いつものえぐるように厭味な長回しは若干控えめで、工事現場の土砂崩れとピエール(フランツ・ロゴフスキ)が殴打されるシーンがサービスショット。土砂崩れはもちろんCGだろうけど(実写なら実写で狂ってる)、何てことはない日常のフレームがいきなり異化される瞬間はJホラーのアタックに近い。
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2018年03月22日

リメンバー・ミー/天国の入り口、地獄の出口

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ビバ!メヒコ、あるいはアステカフォーエバー!といった祝祭のうちに語るメメント・モリを脱「悲しき熱帯」として描くという意味では、期せずして『ブラックパンサー』と足並みが揃ったという気もしていて、民族主義的なメッセージのことさらな強調よりは圧倒的な意匠そのものをメッセージとする点でも共鳴していたように思うし、地球上の全人類をマーケットと見据えるディズニーにしてみれば至極当然とも言える分断の気配に対する横断の目配りということになるのだろう。したがってこれはあくまで内部的な(ミゲルの家族の)物語ということであって仮想敵も物語の要請として登場するに過ぎず、現実の乱反射でこちらを刺しに来るノイズも巧妙に取り除かれることもあり、ただただ極彩色の洪水に巻かれながらハッピーエンドへ向かって流されていく快感に身を任せていれば、幸福な観客として求められた役割を文句なく全うすることになる。とは言え劇場が明るくなってから考えてみれば現世と死者の国の関係などそれなりに引っかかるところはあるわけで、死者の国に入ることすら叶わない死者のことを思えば、これはあくまで、それはヘクターでさえ、幸福な死者の物語ということで線を引いて観るべきなのだろうし、極楽浄土や天国のように一度リセットされた先の平安とは根本が異なる点でも、新たな死生観としてワタシがそれを識ればいいだけの話に過ぎないのだろう。そしてそれは、おそらく「リメンバー・ミー」と「フォゲット・ミー・ノット」の違いのような気もするわけで、いずれもが死者の傲慢だとしても、あなたの外にあるわたしを想い出すように告げることと、あなたの内部にわたしを忘れずにいるよう願うことでは呪いのかかり方は異なるだろうし、死は表裏ではなく隣人であるというメメント・モリとしてワタシは腑に落ちたように思うのである。いずれにしろ、想い出してほしいことも忘れないでほしいことも今のところ持ち合わせていないワタシは、あちら側のどこにも行けないまま幽霊にもなれずに消えていくのだろうなあと思っている。アレブリヘのペピータは「エルマーのぼうけん」のりゅうみたいで、なれるならあれになりたいと思った。
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2018年03月19日

悪女 AKUJO/泣きなさい、殺しなさい

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ギミック感満載のFPSショットを名刺代わりに幕開けするものだから、完全にそういう飛ばし方で置き去りにされるのだと思っていたところが、あくまでアクションはドラマに隷属すべきであるというわきまえがエンジンブレーキとなった気もして、アクション畑出身の監督ほどそうやってことさらドラマを欲しがるのは何かしらのコンプレックスでもあるのだろうかと、『アトミック・ブロンド』でも感じた不要の疲労感を覚えてしまったのが正直なところで、スクヒ(キム・オクビン)とジュンサン(シン・ハギュン)が愛憎の果てに不倶戴天の敵として血と涙の肉体言語で綴っていくラブストーリーだけを力任せに凝縮してみるだけでよかったのではなかろうかと思ってしまうのは、アクションを繰り出すエクスキューズとしてのヒョンス(ソンジュン)やセオン(チョ・ウンジ)の定型がさほどの陰影もないまま平板に重なっていくドラマにつきあって行くのが段々と面倒な気分になってしまうからで、本筋のドラマがようやく浮上して来たときには少々待ちくたびれてしまっていたのである。スクヒの娘を文字通りの起爆剤にする容赦のなさも、ヒョンスも含めそこに至る書割りの幸せに終始する味気なさも手伝って絶望が針を振り切ったようには映らないし、寄る辺なき世界の光と影としてスクヒに対照されるべきセオンに至っては完全な無駄死にとしかいいようがない。アクションとドラマが互いの反動で共振しては叫び続けるグリーングラスのボーンや、アクションからの緻密な逆算でドラマを隷属させるトム・クルーズのMIが優雅に狂っていられるのはやはり強靭なシナリオあってのことなのだなとあらためて思ったし、スクヒとジュンサンの凝視と対峙が叩き起こす圧倒的に狂ったアクションの他に何も覚えていないにしては、やはり120分は少しばかり長すぎた。
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2018年03月17日

聖なる鹿殺し/セカイはご機嫌ななめ

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聞き分けの悪いスティーヴン(コリン・ファレル)に向かってある実演をしてみせた後で「これでわかった?メタファーだよ、象徴的だろ?」と噛んで含めるように諭すマーティン(バリー・コーガン)の言葉を借りるまでもなく、今作に限らずランティモス作品がメタファー地獄、メタファー上等、メタファー絶唱な語り口で成り立っているのは言わずもがなだけれども、マーティンのセリフは果たして監督の自虐なのか自嘲なのか、少々自家中毒気味であった『ロブスター』の反動にも思える聞きわけの良いメタファーに終始していたように思うのである。あなたの過失のせいでぼくは父親を失ったからその代わりにあなたが父親になってくれ、それができないならぼくの家族が1人損ねられたようにあなたの家族の誰か1人をあなたの手で損ねて欲しい、それができないなら1人が2人、2人が3人と全滅していくよという、脅しと言うよりは世界のバランスを回復することをマーティンは望んでいるに過ぎず、そういうぼくをつかまえて人殺しとか言うのはおかしな話でさ、どちらが人殺しかと言えばあきらかにあなたなんだけどね、と無表情にしかし澱みなく解説するマーティンのヒプノティックな口上や、エドワード・ホッパー的な彼岸の日差しで染め上げたミニマルやキューブリック的なシンメトリックによる不穏のつるべうちもあって、ならばいっそのこと『赤い影』のニューロティックホラーにでも振り切ってしまえばお互い楽になりそうなものを、あくまでも近代的自我の機能不全をドーナツの穴のように描く欧州伝統芸への忠誠と殉教を棄てるつもりはないのだなあと、このままでは行き先が限られてしまいはしないかと少しばかりやきもきしたし、不協和音だけをひたすら重ねているうちにいつしか協和音になってしまうアベコベを回避する上でもひしゃげたユーモアによるブレイクは必須だと思うのだけれど、デビュー作から前作、前作から今作と、その激突と流血のユーモアを手放しつつある点でもその懸念を増してしまう。過去作で成立させた、境界の完全で完璧な中央に立ってそれからどちらに倒れ込むか一切の予断を許さないラストも今作ではやや不発に終わった感もあるし、前述したメタフィクション的な開き直りなど見るにつけ、次作ではそろそろスタイルを変えてくるような気がしないでもない。崩壊したルーティーンのとしてのスパゲティは『こわれゆく女』『ガンモ』の系譜として秀逸。
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2018年03月15日

ダウンサイズ/天遠く、地に近く

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高校の同窓会でポール(マット・デイモン)が何とはなしに見やった壁に貼られたバナーの言葉が気になって調べてみたところが、"The door to happiness opens outward"(幸せへの扉は外に向かって開く)と "The best way to find yourself is to lose yourself in service to others"(自らをよく知るには、他人への奉仕にその身を捧げてみることだ)というそれぞれキルケゴールとガンジーが遺した言葉であったようで、結局のところ、常に挫折する男ポールが何とかハッピーエンドにたどりつけたのも成り行きとは言えこの言葉を実践したからということであったのと同時に、それは手を替え品を替えではあるもののドゥシャン(クリストフ・ヴァルツ)の生き方に通じていたのも言うまでもなく、地下の方舟へと消えていくアスビョルンセン博士(ロルフ・ラスゴード)率いるコミューンに向かって「ありゃカルトだろ?」と一顧だにしないのも、ポールのメンター足り得るドゥシャンにしてみれば至極当然な吐き棄てに過ぎないのだろう。これまでアメリカの真空地帯に放り出されては立ちつくす中年男を描いてきたアレクサンダー・ペインの筆はここでもにこやかに容赦なく、このポールという男の無邪気な茫洋は自分が途方に暮れているのかいないのかすら明らかにできないわけで、ドゥシャンのパーティーできらびやかな音と光と女性に見とれて呆けるその顔はノルウェーのコミューンで即席のラヴ&ピースに感化され夕陽をみつめて呆けるその顔と何ら変わりがなく、事ここに至っても夢を見たがるポールがようやく我に返ったのが地下の方舟にたどり着くには11時間歩かねばならないことを知らされた瞬間であったという勤勉な愚者としてのギリギリのチャームは、これまでになく突飛な設定とのバランスが要求したカリカチュアでもあったのだろう。その分だけ真顔で身につまされる瞬間を手放しがちであったとは言え、ノク・ラン・トラン(ホン・チャウ)のアンバランスをポールのバランスが包んでいく愛あるファックのまとう清潔な官能はそれゆえに成立したともいえるわけで、新たな話法を模索したアレクサンダー・ペインが首尾よくそれを獲得したと捉えるべきなのだろう。それによって『サイドウェイ』『ファミリー・ツリー』『ネブラスカ』と続いてきた、立ち尽くしていた中年男性が血相変えて走り出すシーンも手放してしまうのかなと思っていたところが最後の最後でやはりポールは走り出すわけで、幸福とは走りだす理由がある人生ことのであるという何だか知ったような口調で締めくくってしまいたくなるような、気がつけば独り言が鼻歌へと変わっているいつものアレクサンダー・ペインなのであった。
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2018年03月11日

15時17分、パリ行き/あなたが人生の物語

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1人の男が駅の中を列車に向かうオープニングで、これが3人の若者の物語であることを知っていればこそ、そのたった1人の思いつめた足どりに暴力の予感をしのばせつつ、一転した映画は、走り抜けていくオープンカーの座席で爽快な表情を風に流すスペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラーの3人をアンソニーのナレーションで紹介し始めて、この物語が回想のスタイルで語られることを告げた勢いで一気に3人の少年時代へ遡っていく。学校に呼び出されたスペンサーとアレクの母親が担任と面談する時間が午後3時15分であったことがまず曖昧な符合として頭に残りつつ、3人の子供時代が描かれる中で時折インサートされるフラッシュフォワードは10年後の列車内なわけで、回想の中の未来という時制の目眩ましによる全ては同時に起きているという軽い酩酊に、ああ、もしかしたらヘプタポッド語によって紡がれる時間はこうした感覚の先にあるのかもしれないなあと考えたりもしたのだ。仮にテロリストの銃で弾詰まりが起きずスペンサーが命を落としたとしても彼の時間は変わらずそこに在るわけで、3人がただ笑いふざけながら過ごすローマ、ヴェネチア、ミュンヘン、アムステルダムの旅が不思議なくらい光に溢れた時間であり続けるのも、それが生と死の円環につながった全体性を獲得していたからであったように思えてならないのである。イーストウッドがいったい何をどんな風に確信した上でこんな風変わりとも言える時制の編集をしたのか分からないけれど、列車内のあの瞬間を消失点としてフィクショナルに崇めることでこぼれ落ちてしまう時間への懺悔、すなわち過去と未来をスイッチバックしていくその振幅にこそ真に語られるべき物語があるのではなかろうかと、おそらくは『ハドソン川の奇跡』を撮ることで生まれた問いへの回答を自ら示して見せたように思ったのである。そうした意味で近年まれに見るイーストウッドのエゴが炸裂した映画に仕上がっていて、正直に言ってしまえばポストヒロイズムの論であるとかよりは『メッセージ』あるいは『シルビアのいる街で』を引いてしまう誘惑にかまけているだけでワタシは言うことなく充分なのであった。
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2018年03月08日

シェイプ・オブ・ウォーター/近ごろ溺れる夢を見ない

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※展開にふれています

「男ってやつは信用できないねえ」と、にやつくイライザ(サリー・ホーキンス)の理由を知ったゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)が彼女を茶化すシーンで、ゼルダがどれだけ深いイライザの理解者であったとしても、イライザの「彼」に対する感情がシンパシーを超えた性愛を伴う恋愛感情へ進展していたことに1ミクロンほどの戸惑いも見せなかったゼルダに対し、さてゼルダにとっての「彼」の異形が溶かされるシーンがどこかにあっただろうかと逆に戸惑ってしまったのである。そこで気を取り直して、といっても既に終盤へと駆け込むあたりだったのだけれど、ああこれはどこかにB.R.P.D.(超常現象捜査防衛局)があるアメリカの物語なのだろう、だからネコを助けたヘルボーイの異形に腰を抜かすよりは拍手をするように、クリーチャーをひとつの人種として鼻先でシャッターを下ろしてしまったりはしない世界なのだ、とデル・トロが精緻に創り上げた箱庭の中に最初からいたことにようやく気がついたのである。その洗練された変奏と人間たちが手前で動き回るステージングに目眩ましされてはいたものの、アール・デコにスチームパンクをかけ合わせた美術も、切ない異種愛も、そしてはたまた水の中の青い人も、かつて心奪われたデル・トロの刻印にあまりにも間近で埋もれていたせいで、ずっと地上からつま先が浮いたままの遠近を見渡せていなかったのだろう。それは言ってしまえば、感情もあらかじめそのB.R.P.D.世界の仕様にデザインされていたということで、だからこそイライザが「彼」とセックスすることにゼルダが動じるはずなどないに決まっているのだ。となれば、エイブとヌアラの悲恋を繰り返すはずのないデル・トロだからこそ、イライザと「彼」の道行きもジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)の仄暗い夢想のとおりハッピーエンドで問題があるはずなどなく、むしろワタシはもう一人のモンスターであるストリックランド(マイケル・シャノン)の仁王立ちする憂鬱に気を取られ胸がざわつくばかりだったのである。1950年代のゴールデンエイジから冷戦期へ突入したアメリカを覆う、ベトナム戦争前夜の暗い影が産み落としたストリックランドは、マチズモの敗残兵でありサバービアの亡霊というウィリー・ローマンの怨念に突き動かされているわけで、美しい妻に可愛らしい子供が微笑むモダンな我が家にはもはや自分の黒く腐った屈託がいる場所などないのだと傷物のキャディラックの運転席にひとり沈み込む彼もまた、イライザやゼルダ、ジャイルズ、ホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)と同様にYou'll never knowな一人だったということになるのだろう。すべてが終わった後で(陸の上の)イライザ、ストリックランド、ホフステトラー博士は命を落とし、ゼルダはおそらく夫を棄て、ジャイルズは最良の隣人と最高の理解者を同時に失い、1人の未亡人と2人の父なし子が残されることになるわけで、生き残った者たちは皆さらなるYou'll never knowと向き合うことを余儀なくされることになり、果たして死は払うべき代償なのか、手に入れた解放なのか、慈悲なのか無慈悲なのか、その成就のためには血の酷薄を厭わないデル・トロの愛が実は畏しいまなざしに捉えられていることを久々に思い知らされた気がしたのである。こうして手癖の極北に到達した後で、これからいったいどこへ向かうのかいささか不安ではあるけれど。
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2018年03月06日

ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ/寝る子は育てる

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「だったらどうしてアメリカに来たんだよ」と、パキスタン式に生きることを譲らない両親に向かってクメイル(クメイル・ナンジアニ)は決定的な一言を吐いてしまうのだけれど、おそらくそれを言った瞬間クメイルは、その言葉がブーメランのように自分に突き刺さったことを自覚したに違いなく、彼にとってのビッグ・シックとも言えるその淵からはい上がるための通過儀礼はアメリカ映画の王道ともいえるわけで、今となっては笑い話だけどね、とそれぞれがくぐり抜けた死にそうな日々を笑い飛ばしてみせる点でコメディの体裁はまとっているものの、人種や文化の壁をブレイクしていく物語を非白人の視点で描くことを可能にした新鮮さに、こうした問題を語ることの成熟と新たな可能性を同時に感じたように思ったのである。エミリー(ゾーイ・カザン)が自分との関係をその別れにいたるまで、喜びも悲しみもふくめ自分の両親に話していたことは初対面の母ベス(ホリー・ハンター)が全てを知っていたことにうかがえて、エミリーのことを両親に隠したままでいたクメイルと対照的な関係であることが知らされると同時に、エミリーの母ベスと父テリー(レイ・ロマーノ)の結婚が必ずしも周囲に祝福されたわけではなかったことを、昏睡するエミリーを看病する日々を通した夫婦との交流でクメイルは知っていくわけで、移民として生きることの格差や偏見を当然のこととして、それを上手くやり過ごすのがスマートな処世術であるかのようにふるまうクメイルが、夫婦のてらいのないそれゆえ山も谷もあるあけすけな関係にこそアメリカに来た理由を再発見していく姿は、アメリカという国へのささやかなラブレターのように思えてくるのだ。とは言えそんな風に行って帰ってくる典型の物語がどうしてこうも息を弾ませ続けるのか、それはクメイルを取り巻く人々がお見合い相手の一人に至るまで、生きている人の証としてそれぞれの揺らぎを丁寧に描いているからであって、ドライブスルーのハンバーガーショップの店員ですらが見過ごせない佇まいでクメイルとすれ違ってみせるのである。とりわけエミリーの両親と過ごす時間の中で、クメイルは誰もがそれぞれの物語を持っていてそれが人と人とを結びつけることにあらためて気づかされていくわけで、NYに旅立つ日に父親に別れを告げるシーンのある会話によって、かつて両親も自分と同じ時間を過ごしたであろうことに想いを馳せては新たな記憶を内にとどめ、それを自分の物語に書き込んでいくのである。様々な問題をメタファーや寓話に投影する物語のマクロ的な機能性は日々洗練されていくけれど、あくまでそれは、誰もが持っている物語をミクロ的な直截で語ることで生まれる溌剌な息づかいが片方にあってのことだなあと、朝風呂にでも入ったように頭も身体も目が覚めた気分になったのであった。クメイルにはあえて冴えないをギャグあてがい、それをホリー・ハンターとレイ・ロマーノの夫婦漫才が蹴散らしていくシナリオの妙といい、オスカーノミニーを惹句にした都合とは言え、この時期の激戦区に埋もれさせてしまうのは本当にもったいないなと思う。
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2018年03月05日

ブラックパンサー/速く正しく騒がしく


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ああ、1992年から始まるんだと軽く肩透かしをくらってはみたものの、ほどなく登場するエリック・キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)の黒と青のいでたちや、遠目にはベレー帽でもかぶっているように見えないこともないその髪型に60年代ブラックパンサー党の投影を嗅ぐことはやぶさかではないし、10項目の党綱領の10番目「我々は、土地、パン、教育、住宅、衣服、正義、平和を欲する(We want land, bread, housing, education, clothing, justice and peace.)」が実現された理想郷こそがワカンガであったのは言うまでもない。ヴィランであったはずのエリックがティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)の腕の中で最期を看取られるのは、彼の存在に象徴されるかつて必要とされた思想と行動が役目を終えたことへの敬意であったのだろうし、ティ・チャラの2度目のハーブ巡礼で父である前国王を烈しく糾弾するのも、自らの手で引き起こすパラダイムシフトの激震へと向かう彼にとって必要な父殺しの儀式ということになるのだろう。この映画が手を伸ばしているのは、黒人の、黒人による黒人のための幸福の追求は可能だけれど、それが生み出す壁に激突死する世界の光景を絶やせないうちはその幸福を真に享受しているとは言えないのだというそれは、博愛というよりは不可知の合理性とでもいう新たな実験精神の提示であって、その象徴として知性を蛮性のエンジンとし蛮性で知性をクルーズするシュリ(レティーシャ・ライト)こそが、実はこの映画の主役だったのではなかろうかとワタシは思っている。したがってティ・チャラとエリックの煮え切らないそれよりは、過去や歴史の囚人として登場するエリックを完全に殺しにかかるシュリとのバトルにこそ昂奮したのも当然ということになるし、ポストクレジット・シーンで「知らなきゃならないことがあなたにはたくさんあるわ」とバッキーにささやく彼女の清冽とたおやかさこそがワタシは忘れがたいのだ。この映画にエラーがあったとすれば、ブラックパンサー=ティ・チャラの通過儀礼と覚醒のスピードが映画の確信に追いついていなかったことで、『クリード』でも顕著だった理詰めで可能性を拡げたり潰したりしていくアクションの愉悦に決定的に欠けるという点でも、ティ・チャラのパートにおける停滞を誘っていたように思うのである。それだけに新しい人としてのシュリが纏うリズムとスピードとまなざしが革新として映るわけで、将来的に彼女が自作のパワードスーツに身を包んだとしてもまったく驚かないし、むしろそうなって欲しいと願っている。
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2018年03月01日

The Beguiled /ビガイルド 欲望のめざめ〜誰も寝てはならぬ

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冒頭、シーゲル版ではエイミーに助けられたマクバニーが森で南軍の追っ手をやり過ごすシーンで、エイミーが彼らに声をかけないよう12才の少女の口にキスをして塞いでしまうのだけれど、年の離れた若い女性との恋愛というイーストウッド作品の潜在的なモチーフの萌芽としてはともかく、マクバニーという男が生き残るためには手段を選ばない男だということを一瞬で伝えることで ”The Beguiled” というタイトルの意図するところを早々に念押ししてみせている。続く劇中でも、マクバニーが女性達に自分は厭戦の者であって戦争の犠牲者なのだと告げるたび、それを打ち消すような彼の戦場での姿がフラッシュバックでインサートされ、彼の策略が進行していることによって発生するサスペンスを醸造していく。そうしたシーゲル版はあくまで男性視点による状況の解釈であるとしてソフィア・コッポラは新たな視点から解題していくわけで、前述したエイミーへのキスも真のマクバニーのフラッシュバックも見当たらないのは、必要なのはマクバニー(コリン・ファレル)の表層であって彼にビガイルドされたかどうかは問題ではないという解釈によっているからなのだろう。従って、女性達がマクバニーに懐柔される弱みとなりそうな要素はシーゲル版からきれいに取り除かれていて、校長マーサ(ニコール・キッドマン)は実兄との近親相姦の過去をオブセッションとはしていないし、エドウィナ(キルスティン・ダンスト)はマーサの庇護に依存するおぼこではなく、ここから出ていきたいという意志を早々に明らかにしてさえいる。それに加えて、南北戦争という背景を立体的にする役目を背負っていた黒人の召使いハリーまで取り除くことで、学園内の無垢と欺瞞という二重性すら消し去ってしまっている。そうやってマクバニーを根っからの悪人というわけではなく戦争という状況の生んだアクシデントの王子とすることで、自分たちは必ずしも一方的に籠絡されたわけではないのだという視点を獲得することを目指したことを否定はしないけれど、それによって肉体の蒸気と舌なめずりの目つきが館内に立ちこめる精神的肉弾戦のサスペンスがきれいにデオドラントされてしまった点で、特にシーゲル版の鑑賞者にとっては死とセックスという不可分が分断され去勢されてしまった後退のみが目についてならなかったのである。そして最期の毒キノコに至る様々な伏線も解除してしまうことで、互いをビガイルドしつつ絡まり合っていくはずのラストが、たった一度女性達が繰り出したビガイルドによって男性を打ち負かすという構図へと収束というよりは収縮してしまい、シーゲル版の101分に足りない8分間はただひたすら目をつぶりたかっただけの時間に思えてしまうのだ。そうやって切断のシークエンスですらが丸々オミットされる代わりに、エドウィナのドレスからはじけ飛ぶボタンは嬉々として追ってみせるわけで、手が汚れるのが嫌ならば手袋をするか何も触らなければいいのにと思ってしまうのだけれど、その手袋の繊細で美しい意匠を見せつけたかったのならばそれはそれで致し方ないのだろう。それにしても「欲望のめざめ」とかいうサブタイトルをソフィア・コッポラは知ってるんだろうか。
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2018年02月27日

早春/クール・イン・ザ・プール

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およそ映画が折り返す頃、客としてマイク(ジョン・モルダー・ブラウン)を訪ねてきた元同級生キャシーからことづかったチップをくすねたスーザン(ジェーン・アッシャー)が、それで買ったであろうコーヒーフロートのアイスクリームをなめながら、いつものように会計係(エリカ・ベール)をからかうべく通路をふらふらと現れた時、その背後にやおら現れたペンキ塗りが緑の壁を真っ赤なペンキで塗り始め、オープニングで滴らせた血の色を忘れていなかった向きへはお待ちかね、忘れてしまっていた向きにはお忘れなく、とばかり、この映画が今際の際に血を流すことをいささか得意気に予告してみせる。かつて『出発』において青春を殺すのはセックスであることを告げたスコリモフスキが、ここではより直接的な変奏によって思春のネクロフィリア絶唱を幻視することで、その罪と罰を永遠に猶予し続けるためにこの映画があることをあらためて告げてみせるのである。しかし、そのモラトリアムの水中をマイクと共に永遠に漂い続けるスーザンの罪は思春を弄び屠ったゆえなのかと考えてみれば、彼女は男たちの欺瞞と傲慢を知り尽くすことで逆襲的に生きる術を実践していたとも言えるわけで、体育教師(カール・マイケル・フォーグラー)を完膚無きまでに袈裟斬りする啖呵こそが彼女の本質であったのと同時に、ダイヤモンドを取り戻した後で立ち去ることも出来たにも関わらず、優しく身を横たえてマイクを抱きしめたのも彼女の本質だったのだろうし、ある一人の女性が時代の進取として持ち得たその振幅の烈しさゆえ彼女は綱渡りから転落したとも言えるように思うのだ。最初のうちは、背伸びして大人びた振る舞いをすればするほど子供じみてしまう滑稽と哀しみでマイクを慈しんでいればよかったところが、スーザンにペットとして翻弄され続けてノーガードの脳が揺れ続けることでいつしか少年の動物が大人の理性を足蹴にし始め、しかし有効な手管を持たない幼さゆえ檻の中をうろうろと行ったり来たりする動物のようにただやみくもな反復に感情をぶつけるしかないまま、スーザンと婚約者をクラブまでつけ回すシークエンスでは、なすすべもない焦燥で同じ建物へ出たり入ったりドアの開け閉めを繰り返し、あげくにそのループの中で同じ屋台のホットドッグを6個食べる羽目になるスラップスティックは、その先の地下鉄での狼藉によって既にマイクが子供でも大人でもないアウトサイダーと化したことを告げたあげく、深夜のプールにおけるネクロフィリアの予行演習へと歩を進めることとなる。さらに続く、自分がドロップアウトした学校のマラソンレースへの乱入からスーザンの婚約指輪のダイヤモンド紛失騒ぎの中、ほとんどブラウン運動的な躁病で転げ回るマイクが駐車場を走り抜けるシーンで、それが演出なのかアドリブなのか、特にそうしなければそこを通れないわけでもない停められた車の開いたドアを走りながらジャンプして蹴りつける後ろ姿の、社会性の未熟な回路がついに焼き切れたことによる解放の血走った高揚を見て、白も黒もグレーも知らぬ15才の狂気が混じり気の無い分だけなおさらグロテスクに思えて仕方なかったのである。それだけに、絶望的な未遂で一敗地に塗れたマイクが虚ろな目で「ママ...」と絞り出した瞬間、既にカタストロフの秒読みは開始されていたのだろうし、もはや青春の不発と言うよりは男性の不発とも言うべき女性不信のオブセッションはこの後『ザ・シャウト』や『ムーンライティング』でも主人公を蝕んで崩壊に導いていくことになるわけで、15才の少年をその鋭角で思い切り殴りつけて永遠に春を奪ったその物語に『早春』と名づける地獄のセンスにあらためて戦慄する。
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2018年02月23日

羊の木/船の上ならおれが強いぜ

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原作既読。最低限の外枠だけで、登場人物および展開、結末などほとんどが脚色されている。ワタシたちがそうであるように、人殺したちにも唯物やら唯心やら腹の中の黒さやら白さやらグレーやら様々な濃淡の質があるだろうと考えてみた時、では人殺したちが日常で無作為に出くわしたなら、いったいどのような彼らなりの「社会性」が生まれるのか、そしてそれはその本性においてワタシたちとどうすれ違うのかという実験を娑婆の箱庭で行ったのが山上たつひこの醒めたグロテスクであり、そのあけすけによって暴力の気分が全体に均されていく群像劇がたどりついた、日々にかけられる薄暗い呪いによる諦念こそがワタシたちの本性なのだろうと思ったのである。というのはあくまで原作の話であって、ここでは宮腰(松田龍平)に向こう側の人間を代表させるために彼と同世代に若返らせた月末(錦戸亮)と対照させているのだけれど、それが『桐島、部活やめるってよ』での桐島と菊池、『紙の月』での梨花と隅といった、圧倒的に異化された他者への捻れた愛憎の構図にもみてとれるがゆえ、最終的には怪物の断末魔と共に手持ちの理解に収めてしまう几帳面さは『紙の月』でも感じたもどかしさでもあったのだけれど、その奥底で決定的に変質した日常にたゆたう倦怠で閉じるラストにおいて、前述した原作のかざした呪いと諦念へと手を伸ばしたようには思ったのだ。月末との対照によってあらかじめ壊れたものの哀しみをフォーカスすることで、見てはならぬ神様として畏怖される「のろろ様」に忌避される自分を重ねたのかもしれない宮腰の行く末は結果的に共同体へのあらたな呪いを更新することになりはしたものの、それよりは、お前らのように人を殺さずに生きていける人たちの断罪にしたがって罪は贖ってみたところで結局オレはオレでしかなかったよ、だから本当にオレが罪深いのかどうかお前らの神様に決めてもらおうじゃないか、と「のろろ様」に神託を乞うたと考えた方が、善悪問答の果ての無力感よりは変形のピカレスクとして退廃が深まるように思ったりもした。そのあたりの振り切れなさを先ほど几帳面としたわけで、いっそのこと宮腰が月末にとってのタイラー・ダーデンとなってもワタシはかまわなかったのだ。のろろ祭りは『ノロイ』の鬼祭以来の説得力を持つ奇祭描写だったこともあって、ならばもう少し原作寄りに装置として機能させればいいのにともったいなく思った。あのバンドでPILを引用したらキース・レヴィンにぶん殴られると思う。エヴリマンとしての錦戸亮のなで肩はとても虚ろで良いのだけれど、通じないものとしての松田龍平はそろそろお腹いっぱいな気がしないでもない。
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2018年02月21日

ぼくの名前はズッキーニ/きみの話をしよう

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「子供に意志なんてない」カミーユの叔母さんのこの捨てゼリフこそが、フォンテーヌ園の子供たちのみならず、愛されることをあきらめきれないすべての子供達に涙を流させているのだろう。だからこそ、大人たちがその意志を見誤り見過ごすことのないよう人形たちの目は大きく訴えかけるようこちらを見つめてくるのだろうし、それは子供たちの正面から話しかける大人たちとそれをしない大人たちという構図によってワタシたちへの問いかけとなっていたのではなかろうか。スキー場の夜にポール先生がDJをして子供たちと踊りまくるシーンの、子供も大人も一緒になって同じ愉しみに身を任せる姿にこそ胸が揺さぶられるわけで、何よりこれが子どもたちへの共感や憐憫を免罪符にするのではなく、大人たちが水平な視線と公平な愛情を自然で当たり前に持つことがどんな風に可能かを伝える映画であったからこそ、子供たちだけがひそやかに交わす優しさと強さを知ってそれに応える術をあなたは持ち得るかと突きつけられた気がしたのだ。おかあさんは空にいるというズッキーニのその口からこぼれ出る、僕はおかあさんを殺したという言葉の重たさや、どれだけ強がってみせようと眠った姿で親指を口にくわてしまう壊れものとしてのシモン、迎えに来たおかあさんに対するベアトリスの行動は、フォンテーヌ園で過ごしたことでおかあさんだけではいかんともし難い何かおそろしい(人種差別の)圧力が外の世界にあることを知ってしまったがゆえの拒絶だったのだろうし、そうやって子どもたちはワタシたちがそうであるように世界の二重性をかいくぐりながら生きているわけで、それは「子供に意志なんてない」という冒頭の言葉がいかに残酷で犯罪的であるかということの実証にほかならない。あなたが生きていて哀しいように子供たちも哀しいのだ、あなたが生きていて苦しいように子供たちも苦しいのだ、あなたが生きていてやりきれないように子供たちもやりきれないのだ、体が小さいからといってそういう気持ちが小さく取るに足らないことなどないのだ、とわずか1時間ほどのフィルムがどれだけ精一杯に語り続けたことか。この映画を観る子供たちはズッキーニとカミーユの希望を、大人たちはそれを見届けたシモンが自ら門を閉める孤独をそれぞれが我がものとしつつ、大人たちは子どもたちという存在の独立を知るために自らの独立を確かめ試されることになるのだろう。「凧を揚げてもいいぞ」とワタシも言えるように。
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2018年02月19日

ダークタワー/ぼくとクリスティーンとオーバールックホテルで

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角川版(第4部まで)のみ既読。言いたいことがいろいろ湧いてくるかなあと思いきや、わりとそうでもない。本来であれば『ロード・オブ・ザ・リング』レヴェルのプロダクションが投入されて然るべき、というかそうでもしなければ描ききれないキング畢生のハイ・ファンタジーではあるのだけれど、既に邦題からナカグロすらが抜けてしまっているように、こちらから何かお願いするなどもってのほかではありますが、一つだけ無礼をお許しいただけるのであれば、紛い物ではございませんが似て非なるものとしてご鑑賞いただければ幸いですというただそれだけをお伝えさせていただきたく存じます、という平身低頭を足蹴にするには親の躾が効きすぎているのであった。ナカグロがないどころか、そもそも尺が95分しかないなどとこれだけの白旗を掲げられれば誤射のしようもないわけだし、この1時間半を暗闇で共に過ごすことによってストックホルム症候群にも似た共感と好感に包まれていたことをワタシは否定しないのである。黒衣の男ウォルター(マシュー・マコノヒー)をフック船長、ガンスリンガーであるローランド(イドリス・エルバ)をピーター・パン、中間世界をネヴァーランドと夢想することで孤独な少年ジェイク(トム・テイラー)の喪失と再生と描いてみせたどころか、ローランドもまた父を喪った者であることを忘れなければ、ジェイクとローランドが父となり父とすることで父性が世界を更新する光差すキングの王道にすら手が届いていたのを忘れるべきではないだろう。しかもこの物語では中間世界をさまようジェイクが当たり前のように腹を空かせたあげく、その空腹を満たすシーンがきちんと描かれているのである。劇中で食物を摂るシーンが一切ないままアドレナリン全開で疾走し続けるでたらめな映画が溢れていることを考えてみれば、この誠実は賞賛されて然るべきだし、NYでジェイクがガンスリンガーにホットドッグを食べさせる対称まで描く周到には舌を巻く。いや、巻かないけれどどこかで巻かないことには映画が終わってしまうのである。何しろ95分しかないわけで、マイケル・ベイならジェイクはまだカウンセリングを受けている時間にちがいない。
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2018年02月18日

霊的ボルシェヴィキ/さあ、ご一緒に

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「結局一番怖いのは人間ってことなんじゃないんですか?」などと、したり顔で言い放った安藤(巴山祐樹)の額を鬼の形相の霊媒師宮路澄子(長宗我部陽子)がステッキで打擲した瞬間、「結局一番怖いのは死んだ人間ってことなんじゃないんですか?」と無言のうちに正された空気に、そうだったそうだった「幽霊は狂っているから怖い(黒沢清談)」んだった、そして人を狂わせるほどに死は怖ろしい(黒沢清談)のであって、幕開けの三田(伊藤洋三郎)の話はまさに生きたまま死の扉を開けたことのある人間が自らの死に恐怖する話であったことにあらためて戦慄したのである。それから後、この廃工場で何が行われて何が起きたのか、それこそは霊的ボルシェヴィキ、生きた人間にとっては狂気、しかしその成分は純然たる宇宙的全体の上澄みであり、それを絞り出すべく奮闘する唯物論的セクトの前衛ではあったものの、結局は幾多の先達が失敗したように生きている人間は死んだ人間の軍門に下るしかないという幽霊連勝記録がまた一つ伸ばされたのであった。しかしそれこそは人間のなすべき営為といってもよく、メメン・トモリ、死を想うことこそがすべての想像力の源となることを告げては、四角四面な喜怒哀楽のアウトサイダーたる恐怖こそがこの世の原資であることをあらためて謳ってみせるのである。顔を上げ振り向く瞬時に日が沈み、すり足で近寄る裸足の爪先は禁忌に震え、地底の哄笑が骨伝導で脳髄を揺らす。そうした濃密で超然とした太古の時間に間断なく浸けられた彼や彼女らが、死者に圧倒され屈服し生きている自分に絶望するのは自明の理であり、ならば我ら全員の総量と引き換えにこの世界を恐怖で照らし給えと願い、叶えられた祈りが裸足の子をひとり放つのであった。災厄であり救済であるその子に名前はまだないけれど、名状しがたき者というそれが名前になるはずである。『予兆 散歩する侵略者』で、椅子に座った東出昌大と夏帆がひりつく緊張と静寂に窒息しそうな空間の中で対峙する名シーン、そのオリジンはこちらであろう。待ち望んだ『悪夢探偵2』の韓ちゃん再びでワタシはたいへんに喜ばしい。
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2018年02月15日

THE PROMISE 君への誓い/ある放蕩息子の墓碑銘

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トルコ政府によるアルメニア人虐殺の歴史を訴えかける映画というとアトム・エゴヤン『アララトの聖母』を思い出したりはするものの、その虐殺にアルメニアとオスマン帝国との錯綜し愛憎渦巻く歴史を反映させるには映画の時間が舌足らずにならざるをえず、代弁者としてあらかじめデザインされた人物の投入で語られるドラマがややもすれば紋切り型に陥るのは仕方がないところなのだろう。今作においても、アルメニア人サイドにすれば今さら言うまでもないにしろ、虐殺が開始されるメカニズムは検証というよりも既に事実として描かれることもあり、何らかの形でドイツが関与しているのだろうなという類推こそしても、なぜ彼らが突然迫害され強制移住の道筋をたどるのか、残酷ショウに顔をしかめさせる上滑りの共感ではなくその痛みに寄り添って歩を進めるには、そこに駆け寄るための時間や手続きがいささか簡略化されてしまっていたように思うのだ。そこでその補助線として投入されるのがミカエル(オスカー・アイザック)、アナ(シャルロット・ルボン)、マイヤーズ(クリスチャン・ベイル)によるラブストーリーということになるのだけれど、本来がそうした装置でしかないだけに、なぜ彼でなければならないのか、なぜ彼女でなければならないのか、という交錯に今ひとつ陰影が乗らない三角関係よりは、トルコ人富裕層の子弟でありながら、軍隊とかマジでダサすぎだろ、というノンシャランを貫いたエムレ(マーワン・ケンザリ)に全力で共感と賛辞を送ってしまうし、自分がいま生きていることのすべてがエムレの死によっていることなど知るよしもないまま、愛した女を失って涙にくれるマイヤーズの脳天気に『アルゴ』におけるイラン人家政婦のことなど思い出し、ほんとアメリカ人ってやつは…、と鼻白んだのだった。それに加えて、イスタンブールに着いてアナを見た瞬間、君への誓い(THE PROMISE)をころっと忘れ去るミカエルの変わり身も実はそれなりにノイズとなって貼りついたまま、情に厚いプラグマティストという使い勝手の良い八方美人的な造型にオスカー・アイザックも空回り気味だったように思えてしまう。映画の体裁をかなぐり捨ててまで糾弾と断罪の刃で刺し違えることを選んだ『デトロイト』を観た後では、そうした時代であったとは言えこの漂泊のメロドラマは少しばかりクラッシーに過ぎて語り手が満ち足りていやしまいか。
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2018年02月14日

RAW〜少女のめざめ〜/ミート・イズ・ノット・マーダー

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真っ赤な”RAW”というタイトルをハネケやノエがそうするようにスクリーンへと貼りつけた時点では、実存がオブセッションを甘噛みするフェティッシュ殺伐を思ったりもしたのだけれど、それよりは塚本晋也的な精神と肉体の変容を思春のかぐわしい徴とでもするように上気した足取りが途切れることのないまま、しかしインモラルへの集中と凝視にもかかわらずジュスティーヌ(ギャランス・マリリエ)に終始疎外感がつきまとうことがないのは、これが彼女の羽化を見守る物語だったからなのだろうとラストで吹き抜けた風の存外の颯爽に彼女ならずとも心健やかな気分だったのである。「姉さんは悪くない。おまえも悪くない。」という父(ローラン・リュカ)の言葉に、うつむいた顔をあげたジュスティーヌの目に飛びこんだのは何だったか。いまだ色気よりは食い気が優るジュスティーヌに、お前がこれからするべきことは「私」を探すことだ、お前がアドリアン(ラバ・ナイト・ウフェラ)に答えた「深刻さ」の答えがこれなのだ、食ってばかりのうちはまだいい、やがてそれは理解と共鳴を求めるようになるし、それを愛と呼ぶとすればお前は目の前のこの愛の姿に臆してはいけないしそうする必要もない、お前がするべきことは「私という愛」を探すことだ、姉さんが不幸だったとすればそれは「私」がいなかったことなのだ、という父親の鼓舞がアウトサイダーの涙をそっとぬぐうわけで、あるシーンでジュスティーヌが「深刻な」失敗として食いちぎってしまう部位とラストでカメラが指差す父親の欠損を結びつけてみれば、母と父が自らの運命的なロマンス再びとあえてジュスティーヌの発現を促すような環境に放り込んだ切実といってもいい目論見がうかがえるようにも思う。劇中では語られないながら父はいかにして母の昏くて熱い欲望を手なづけているのか、いまだ母のイゴールとして仕えているのではなかろうかという想像すら可能な血族の物語によって、たとえば『ワイルド わたしの中の獣』のように世界のくびきを離れ幻想の荒野へと消えていくことを許さないリアルがこの姉妹の青春を甘く切ない苦痛で締めつけて、監督の誠実ゆえに避けがたい悪意をとても好ましく感じたし、切り落とされた指を拾って食べるジュスティーヌを見つめる姉アレックス(エラ・ルンプフ)が流す、やっぱりあんたもか、という安堵と哀しみの入り混じった涙のたった一滴で映画の血液を逆流させるメロウとクールネスに、できれば監督には流血する精神だけを撮り続けて欲しいと願わずにはいられなかったのである。その指を食べるシーンでパーカーのフードをかぶったまま下を向いてしまい、ずっとそのままでいた六本木の彼女は大丈夫だっただろうか。もう「食べる」シーンはないよと言ってあげられればよかったのだけど。「食べちゃった後」はともかくとして。
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2018年02月11日

スリー・ビルボード/善人はときどきいる

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ウィロビー(ウディ・ハレルソン)に向かって「あなたは自分の娘が殺されても、手詰まりでどうしようもないんだなんて言える?」とミルドレッド(フランシス・マクドーマン)は言わないし、アン(アビー・コーニッシュ)に向かって「でもあなたの娘はまだ2人も生きてるじゃない?」とも言わない。ディクソン(サム・ロックウェル)はミルドレッドに向かって「おれがビルボードを燃やしたと思ったんだろ?」とも言わないし、ロビー(ルーカス・ヘッジズ)はミルドレッドに向かって「母さんのせいで姉さんは死んだんだ」とも言わない。なぜ言わないのかといえば、それを自分が言うのはフェアではないと知っているからで、血と炎と暴力が句読点を打ち続けるこの物語がそれでも最終的な正気を失ってしまわないのはその矜持が最後の砦となって食い止めているからだし、性善ともちがうどこかしら浮世離れした愛と暴力の潔癖は監督が『セブン・サイコパス』でも描いていた光源だったようにも思うわけで、ないものねだりへの飽くなき共感を映画の目的とするならば、ワタシにとってはほぼそうでしかないけれど、ラストでくたびれたフォードの運転席に差し込む穏やかに倦んだ優しいあきらめの光は、そこでかわされる生きた人間の言葉をついには正解と祝福していたように思うし、それは愛と怒りを両翼にもつ天使のようだったウィロビーですらが世界との繋がりを断たなければ言えなかった言葉の獲得であり、ワタシたちの輪郭は言わないことと言えないことでできているのだとするその哀しみの共有でしか人は繋がれないという、ペシミズムを逆説的に肯定する強さこそを愛と呼べとする啓示のようでもあったのだ。それは折々で「なかなかいない善人」として現れるペネロープ(サマラ・ウィービング)が言葉を曇りなく信じる人であったことにもうかがえて、分断されるアメリカを解体し再構築するキューがもう一度自分の言葉で自分が何者かを語れという相互理解すら幻想しない提案であったのは、マーティン・マクドナーがアメリカを外から視るがゆえにかわした自家中毒のワクチンという気もしたのである。そして何より、自分だけが知る自分があるように誰もが自分だけの自分を抱えていることを知ること、そうやって語られない物語に思いを馳せてその糊しろで世界を貼り合わせていくこと、それには常に想像力の風を吹かせていること、という祈りにも似た筆使いによって、母への愛憎に顔をしかめながらも暴力をかざした元父チャーリー(ジョン・ホークス)の喉元へ瞬時にナイフをあてがったロビー、怒りにまかせてひっくり返したテーブルを自ら直す元父チャーリー、ディクソンの隠された屈託を知りつつそれをことさら狙わないママ(サンディ・マーティン)、そのママがテレビで見ている『赤い影』もまた娘を亡くした父親が世界から彷徨い出す物語であったこと、といった端々のつづれ織りが世界の全体性を獲得していたように思うのだ。そして行き着いた「あんまりそうでもない(Not really)」という永遠の寸止めこそが、今日よりは明日、明日よりは明後日と、生きることを固定されたワタシたちが誰にも明かすことのない奥底の本心なのではなかろうか、だからこそこれほどまでに懐かしくも切なく胸かきむしられるような想いでミルドレッドとディクソンを祝福してしまうのではなかろうかと震えてしまったのである。『断絶』のラストの先を走る映画がようやく撮られたのだと思う。ところで、レッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)が読んでいたオコナーは、ページの進み具合からして「人造黒人」あたりだろうか。
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2018年02月04日

ジュピターズ・ムーン/重力と恩寵

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アリアン(ゾンボル・ヤェーゲル)の重力をあやつる能力はそれを獲得したというよりは、ラズロ(ギェルギ・ツセルハルミ)の放った銃弾が、彼をというか人間をこの世界にしばりつけている重力の鎖を断ち切ったという方がふさわしいように思ったのである。前作『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』では地面を這う犬が世界を見上げる視線と、それら這うものを見下ろす人間の視線が交錯する瞬間に喪失と再生の希望を託していたのだけれど、今作における見下ろすものと見上げるものの逆転は、なお希望を失うばかりで光の気配を持たない世界に憐みを見出す物語へと、前作の犬たちが北風であったなら今作はアリアンを太陽と見上げるその眼差しに救いを見出すことを、憎悪の銃弾が啓示を呼び覚ます恩寵によって促していたようにも思うのだ。とは言えこれが届かぬ陽の光に手を伸ばし焦がれる人たちの物語であるだけに囚われた世界の下衆と苛烈はいっそう容赦がないばかりか、コーネル・ムンドルッツォ監督の深まる鬼才が主にその活写へと注ぎ込まれたこともあり、恐怖を塗布し神経を圧迫する緩急と跳躍の長回しに心奪われる瞬間がこの映画を説諭の口調から解き放っていて、その衒いのなさはあえてのSFというジャンル映画への拘泥というか、優れたSF映画が社会的な意匠を暗黙のうちにまとってしまうそちら側からの切込みにみてとれて、ワタシはうなじが熱っぽく疼きっぱなしであったのだ。冒頭の越境からの脱出シーンで森の中を地を這うように逃走するアリアンに、潜水のごとく息を止めたままどこまでも執拗に並走するカメラの横移動にこちらの息も続かなくなった果てで垂直に起きる秘蹟の禁忌にも近い衝撃や、終盤のカーチェイスにおけるまるで車の意志がカメラに乗り移ったかのように食らいつくカメラは、ある瞬間のちょっとした出来事によってドライヴァーの憎悪と悪意が車そのものと同化していることを告げてみせて、まだカーチェイスにこんな追い方が残されていたのかと座席で足を踏ん張ってしまっていた。3年前の前作では1匹の雑種犬が雑種であるがゆえに負わされる悲劇と受難を、その理由を国籍や、人種、宗教、ジェンダーといった言葉に置き換えて余白で語ることも何とか可能だったのが、今作ではもはや現実にメタファーが追いつけない事態に陥っていて、アリアンの浮遊の奇妙な生々しさは現実世界が既にSFもマジックリアリズムも喰い尽くしてしまったがゆえ、奇跡すらが後光もなく剥き出しに引きずり出される寄る辺のなさによっているのだろう。ラストでラズロがアリアンを撃ち落とせなかったのは、かつて自分が放った銃弾が目の前で宙に浮くアリアンを生み出したフラッシュバックによって、次の銃弾がいったいアリアンを何に変えてしまうのか恐怖させられたからなのだろう。自分が信じた者に殉じて死んだシュテルン(メラーブ・ニニッゼ)の法悦にも似た表情と、世界が信じ始めた者に背を向け畏れるしかないラズロの表情とがつきつける選択の直接性と性急は、届く人にだけ届けばいいというアートの傲慢をかなぐり棄てたメッセージでもあり、それはカウリスマキが最新作でも隠すことをしなかった追い立てられるような焦燥であったようにも思うのだ。考えているよりもほんとうにまずいことになっている現実にワタシは追いつけていない。

サブタイトルに書名を借りたので、あわせてシモーヌ・ヴェイユの重力に関する見解を。
重力。一般に、われわれが他者に期待するものは、自身のうちなる重力の作用により決定される。われわれが現実に受けとるものは、他者のうちなる重力の作用により決定される。ときに両者は(たまたま)一致するが、たいていは一致しない。
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2018年01月31日

デトロイト/アルジェの戦い

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一人の痩せて背の高い黒人が足もとの石を拾って商店のウィンドウにやおら投げつけた瞬間こそが号砲ということになり、文字通り彼が一石を投じたわけである。とは言えいつか起きるはずのことがこの夜に起きたというだけで、正気の黒人を狂気の白人が狩り立てるという図式自体に新たな解釈を見つけるわけでもなく、たとえばこれが一昨年あたりにアメリカのどこかで起きた事件をモチーフにしていたとしてもスクリーンにないのはスマホくらいなもので、ではキャスリン・ビグローが燃やした野心が何だったのかと言えば、もはや黒人の迫害があたりまえの日常と化して麻痺した酩酊の迎え酒として、さらに強烈な度数のアルコールを頭をおさえつけ口に突っ込んだ漏斗から注ぎ込む蛮行ともいえるショック療法をただひたすら施すことだったように思うのである。その装置として警官クラウス(ウィル・ポールター)は、まとった悪もいまだ稚拙で幼い見習いの悪魔として滑稽なまでに戯画化され、クラウスとその仲間たちの悪辣と非道と阿呆を際立たせるためなのか、同じデトロイト市警の殺人課刑事はレイシズムを憎むリベラルとして描かれる始末でにわかには信じがたい部分もあるのだけれど、この夜を境に運命をねじ曲げられていく黒人たちの時間が血と涙と吐き気とで丹念に彩られていくのに対し、監督は明確な悪意を持って白人を役立たずの木偶として描くにとどめ、この夜を彼らの欠席裁判とするためその発言をほとんど認めていないというか必要とすらしておらず、唯一認めたのはクラウスとその仲間たちが自分たちのしていることの違法性を終始認識していたことを明かす一点でしかない。したがってあの夜アルジェ・モーテルで何があったのかという検証と構築のドラマとしては客観性とバランスを欠いているし、ラリー(アルジー・スミス)の苦難と救済という筋以外は群像劇としてもまとまりを欠いたまま投げ出されてもいる。しかし監督は、かつて先住民を駆逐した白人によるマンハント=人間狩りの歴史の連なりとしてこの夜があることを告げさえすれば、そしてそれらアメリカの黒歴史がいまや正史として開き直りつつあることに唾を吐き中指を立てることの意志を告げさえすれば、その苛烈の切っ先を均さないためにはむしろ荒ぶった剥き出しのまま「映画の完成度」と刺し違えることを望んだのではなかろうか。この暴動の10日ほど前にこの世を去ったコルトレーンを、その才をヘロインによってスポイルしたと言ってラリーは憐れみと怒りとで語るのだけれど、そうやって彼が隠すことをしない黒人社会を構造的に蝕むドラッグへの嫌悪はその後彼が選び続ける行動の揺るぎない裏づけでもあるし、この映画が最後にしのばせる救済と恩寵の場に彼がいることこそが、光に向けて監督が唯一託したメッセージでもあったのだろう。白人にかけられた呪いを抱えたままその呪いの源に触れざるを得なかったことでディスミュークス(ジョン・ボイエガ)は自家中毒を起こし吐いてしまうのだけれど、その横断を常に黒人の側に頼らざるを得ない身勝手への嘆きはどこかしらオバマ時代への懺悔にも思えてならない。その名の由来を知らなけれど、アルジェ(Algeri)と聞いて思い浮かべるあの映画がスクリーンからとどろかせた爆風を精神的支柱に、キャサリン・ビグローはこの最前線のような映画を撮ったに違いないと考えている。
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2018年01月30日

ルイの9番目の人生/この世のものとは思えないあの世

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もちろん誰かしらは死んでいるものの、それら人間が死ぬ瞬間のストーリーを料金の内としてきたアジャにしてみればそれなりにチャレンジともいえる封印をしてみせて、状況としての生き地獄を活写するというよりは、よすがとしての生き地獄を蠱惑する嗜みは前作『ホーンズ』からさらに沖の方へと舵を切っていたように思うのである。『ベンジャミン・バトン』的なチャームを匂わせる予告篇を観て、アジャもそろそろお年頃かと知った風な気分になってはいたのだけれど、フタを開けたそこにあったのは主人公ルイ・ドラックス(エイダン・ロングワース)と母ナタリー・ドラックス(サラ・ガドン)がお互いをピアノ線のような絆で締め上げることでしかその結びつきを知ることのない命がけの根性試しだったわけで、生と死を幾度となくくぐり抜けることで神経を過剰な鋭敏で研ぎ澄ませたルイがいつしか母親の愛情と偏執の正体に気づいた時に受け入れた運命を、アジャはいまだ汚れを知らぬ透明な生き地獄として幻視してみせている。どんなに絶望的に底の抜けたグロテスクを描いてもアジャの映画から品格が失われないのは、それはピラニアに食い殺されるビキニのブロンドに至るまでキャラクターを安普請の憐憫で描くことなく常に敬意と忠誠を忘れないからだし、それによってルイの造型にヴィヴィッドな少年の浮力とシニカルな老成の沈鬱を口数少なく同居させることで、一見したところの残酷極まりない悲劇をルイにとってのハッピーエンドとするアクロバットにも成功したように思うのだ。ただそうやってルイという少年の空中散歩に夢中になるあまりなぜルイは崖から落ちたのかというそもそものミステリーが稀薄になっていくのは否めないにしろ、次第にルイの独白が奇想の輝きを放ち始めるに至り、これもまたアジャが反復するサヴァイヴァーの物語であることに気づかされていくわけで、『ホーンズ』を受け継ぐような異形の救済にたどり着いてみせたアジャにストーリーテラーとしての深化をうかがって舌を巻いたのである。生と死の波間を孤独を知った老人の笑顔で泳ぐ少年ルイを演じたエイダン・ロングワースをはじめ、彼岸のファム・ファタールとしてのサラ・ガドン、文字通り最期までルイを愛し続ける父ピーターを演じたアーロン・ポール、大きな子供の茶目っ気と洞察でルイに独白の言葉を与えるペレーズ医師を演じたオリヴァー・プラットなどなど俳優陣の配置も絶妙だったのだけれど、『キスト』で演じたたおやかなネクロフィリアがいまだ忘れがたいモリー・パーカーの尊顔に接することができたのが何より僥倖であった。最近はニュースも聞かなくなったけど、アジャにとっての『コブラ』がデル・トロにとっての『狂気の山脈にて』にならなければいいなあと思う。
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2018年01月25日

パディントン 2/善い熊はなかなかいない

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パディントン(ベン・ウィショー)の誰に対しても変わらぬ親切や礼儀正しさにどうして鼻白むことがないのかと言えば、それがあらかじめ備えたイノセンスの発揮や性善のひらめきに頼っているのではなく、たとえばルーシーおばさんの言葉としてたびたびパディントンが口にする「他人に親切にするとそれは自分に返ってくる」という教えにうかがえる戦略的ふるまい、すなわちマナーということになるのだけれど、それがルーシーおばさん(イメルダ・スタウントン)を先生として学習によって身につけた文明社会へのパスポートとして、身体ひとつで異国の地を生きる異邦人の切実なサヴァイヴァルツールにも思えるからなのだろう。そしてそれをある種の手続きと踏まえた上でパディントンは、でもそうやって世の中や他人の明るいところを見つけて生きた方が、「赦すのはたった一度でいいんだよ、でも腹を立てたらそれを一日中、毎日、ずっとそうしていなきゃならないからね」という某映画のセリフにもあったように、愉しくて快く毎日を過ごせる上だいいち誰も損をしないじゃないか、と告げてみせているのである。もちろんそれを言うのは容易いし、何よりその踏み出す第一歩の“無償”を誰が負うかというチキンレースこそが成熟しきった文明社会の倦んだ悪癖でもあるわけで、眼をキラキラさせながらその一歩を痛快に踏み出すパディントンに心を揺らされるばかりのワタシたちは、個人主義というよりはもはや孤立主義と言ってもいいその泥沼に足をとられていることにあらためて気づかされるのではなかろうか。そしてポール・キング監督は、その一歩に躊躇を感じさせて映画の気分がふさいでしまうことのないよう、顔がほころぶ程度に躁病的な多幸感を絶妙なさじ加減でふりまき続けてみせるわけで、とりわけグルーバーさん(ジム・ブロードベント)のお店でパディントンが飛び出す絵本を開いた時にかけられた魔法によって、これから先この映画では愉しいことも哀しいこともすべては善いこととして起こるに違いないことを確信させられてしまうのである。この魔法をスラップスティックなリズムで刻み続けるやり方についてはウェス・アンダーソンを師と仰いでいるのは言うまでもなく、本来であれば停滞しがちな刑務所のシークエンスにおいてそれはほとんど夢見心地に奏効している。してみると絶対的な悪という存在をなかなか描きづらい中、フェニックス・ブキャナン(ヒュー・グラント)の憎めない狡猾をヒュー・グラントその人を利用して戯画化しつつ、いつしかお人好しの子グマと狡いキツネの追いかけっこへとファンタジーを描き変えてみせることで罪とか罰とか言った興ざめをかわすやり方については、ブキャナンを善人へと改心させることなく着地するラストに見事だったように思うのである。とは言え、ゴジラと子グマとイーサン・ホークと半魚人に笑顔で渡りあうサリー・ホーキンスこそがやはり最強。
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2018年01月20日

目撃者 闇の中の瞳/Always Crashing in the Same Car

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※展開に触れています

割れたサイドミラーのひびの数だけびっしりと蠢く眼、眼、眼の、これが複眼の視座で語られる藪の中案件であることを告げるにしてはあまりに禍々しく忌まわしい厭らしさに、なんだそういうつもりの映画なのか!と初っぱなで身が引き締まったのである。したがって、ミステリーとして決してフェアとは言えない視点の乱立を瑕疵とするのは野暮というもので、最期には誰が死んで誰が生き残るのかを思い返してみればこれが一種の蠱毒としてあることに気づくはずだし、シャオチー(カイザー・チュアン)はサイドミラーの向こうに在るこの世ならざるものに見初められ、あの世がこの世を蹂躙する傀儡=くぐつとして契約するに足る者かを試されていたように思うのだ。それにシャオチーがどうやって抗いつつ最終的にはどんな音を響かせて心を折ったのか、折るべき心を持ち合わせないウェイ(メイソン・リー)のあっけない脱落と土壇場で勝ち抜けたシャオチーにあの世の真意がうかがえるわけで、この世で一番恐ろしいのは自分が人生をかけて信じたものにまったく意味も価値もないことを知らされることだけれども、今の自分はそれを世界に知らせる者として在る幸福を獲得したのだとするピカレスクをワタシは勇敢なハッピーエンドとして讃えたい。前述した藪の中の構成については、角度によってはこう視える、あるいはそう視ざるを得ないというよりは意図的な偽りを挿入している点で成立しているとは言い難いのだけれど、そうした独白以外の地の文においては、誰が何を視ていて何を視ていないのかといった視線の交錯を丹念かつ緻密に描くことで主人公シャオチーの知らない手がかりをきちんと観客に与えていることもあり、例えば序盤でマギー(シュー・ウェイニン)がシャオチーに向ける眼差しはその後ずっと喉に刺さり続ける小骨のようでもあるし、「目撃者」(原題ママ)というタイトルを常に意識してシャオチーが視たものと自分が視たものをつなげていくことで、謎解きのサスペンスというよりはシャオチーがあの世に見出されていく魂の変遷をスリラーとして体感できるのではなかろうか。あそこであんな美しいダルマを映してダメを押すような監督をワタシは信頼しないわけにはいかない。
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2018年01月13日

ブリムストーン/神がベッドで建てた国

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玉ねぎの皮を一枚一枚剥くようにして折り重なった時間を遡っていく手つきはそれなりにエレガントで目を引くわけである。しかし、すべての皮を剥き終えた時そこにあったものはといえば、それは空っぽ(empty)というよりは空(vacant)というべきで、空虚とか虚無とか言った失われた存在が生み落とした闇というよりは、単に何かを入れ忘れたかのようながらんどうだったように思うのだ。もちろんワタシが言っているのはこの物語の芯と祀られる牧師(ガイ・ピアース)のことであり、リズ(ダコタ・ファニング)が玉ねぎの皮を剥く存在にとどまってしまい彼女が彼女の物語を語り得なかった点でこの映画は行き場を失ってしまっている。“これは愛と暴力と信仰を巡る、壮絶な年代記(クロニクル)。”という惹句に照らしてみれば、その時代背景といいワタシはコーマック・マッカーシー「ブラッド・メリディアン」を重ねて観るべきかとすら思っていたのである。暴力も戦争も初めから我々と共に在ったものだ、言うなれば神がお造りになったものだ、それをお前たちは崇拝しないでいいのか、と言いつつすれ違いざまに世界の風景を一変させていく判事をガイ・ピアース演じる牧師に重ねて観るべきかとすら思っていたのである。あるいは『狩人の夜』においてすべてのイノセンスが見る悪夢として現世にさまよいでたロバート・ミッチャム演じる偽牧師を重ねてみるべきかとすら思っていたのである。してみれば「私は呪われた人間だ。救済も届かない。だから何も恐れるものはないのだ」と開き直ったペドフィリア&インセストの変態ダブルコンボでしかなかったこの牧師にワタシが抱く殺意はきわめて真っ当で正当であったといってかまわないだろう。もちろんリズが牧師に対して抱いたそれとは月とスッポンほど相容れないドス黒さであることは言うまでもない。そのリズにしたところで「彼女は戦士だった。その時代、生きのびるにはそうでなければならなかった」というオープニングのナレーション(この声が誰のものであったかについては展開上一応伏せておく)がどこかしら上滑りに感じてしまうのは、リズという女性が銃口を向けるのは女性たちを慰みものと忌むべきものとしか扱わぬ男たちの社会に向けてではなく単に窮鼠猫を噛む行動としてそうしているだけで、女性という運命の枷を断ち切って自由を手に入れるべく命を散らした戦士はむしろ娼婦仲間のエリザベス(カリラ・ユーリ)がその名にふさわしいように思うのだ。そうやって牧師に象徴される記号とクリシェでしつらえられた強者と弱者の絵日記において俄然監督の筆が走り出すのは女性が嬲られいたぶられ苛まれるシーンであって、リズが家を飛び出した日のベッドに忍び寄るカメラがシーツをクロースアップするうんざりするような卑近で愚直な説明ショットは、それをそう映したことで得られるものと失うものの均衡すら彼方に飛ばしつつこれを撮らないでどうすると凄む監督の狂気を照らしたホラーの瞬間であったように思うし、それは“そういう人間と獣の契る時代”を描きたかったからだという監督の飢えた情動が荒野を一人歩きする様はこれが『マンディンゴ』の系譜に連なるエクストリームショウであることを誰の目からも隠すことをしていないどころか、むしろ見せつけることに恍惚としていたとすら言っていい。ならばなおのこと、あまりにも雑なリズの縄抜けには落胆してしまうわけで、自分の身体で試してみればわかることだけれど自ら肩を外さない限りあの動きは不可能だし、それまで特にリズの肩関節に関する伏線もなかったこともあって、自分で自分の舌を切った過去も含め「痛み」に対する耐性を獲得しなければ生きられなかった彼女の象徴として行われる行為でもあるのかと思ったものだから、絶叫のあと両肩を外した状態での両手ぶらり戦法でいかに牧師と闘うのかワクワクしていたところが、なんと何事もなかったかのようにあっさりとライフルをかまえてぶっ放してしまうのである。その時のワタシの唖然茫然悄然がご想像いただけるだろうか。つまるところ反逆する生贄は監督の視野にないというそういう映画なのであった。避けたい人は避けた方がいい。無理する必要はまったくない。
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2018年01月11日

ジャコメッティ 最後の肖像/デッドラインでさようなら

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芸術家は何をもって最後の一筆として今回の試みはここに達成されたと宣言するのか、といった興味などあてにしつつ観ていたところが、それはもう洒脱というよりはあっけらかんと肩透かしをくらうわけである。他の芸術家はともかくジャコメッティ(ジェフリー・ラッシュ)について言えば、それは要するに私は対象を見切ったという傲慢の徴と言えるのではないのかね?自分も対象も日々うつろっていく人間である以上、その両者の間で決定され固定される関係など弱気で都合のいい幻想に過ぎないのではないのかね?とでもいった、生きている以上すべては不確定に未完成なままだし私のしていることはその点においてのみ意味があるというマニフェストをウィンクしながら宣言していたように思うのだ。だからといって彼は霞を喰う世捨て人というわけではなく、むしろ人生の手ざわりを謳歌しながらも人生を狩りの場とすることはしないキャッチ&リリースの眼差しが時に周囲の理解を阻んだりはするにしろ、スタンリー・トゥッチはそこにジャコメッティならではの人生に対する慈愛と畏怖を見つけることに成功しているし、人生にそう都合良くクライマックスなど訪れてはくれないのだという“外し方”は既に『シェフとギャルソン、リストランテの夜』でその終わらなさへの愛憎と共に語られていたとおりである。行きつけのカフェで、言わずともテーブルに運ばれるゆで卵とハムとパンをナイフとフォークでかちゃかちゃとやっつけながら赤ワインをぐいっとあおれば絶妙のタイミングでギャルソンがお代わりを注ぎ、これまた何も言わずとも2杯のカプチーノが運ばれてきて1杯はロード(アーミー・ハマー)の分なのかと思いきやその2杯を立て続けに飲み干し、ポケットからしわくちゃの札を出してテーブルにそっと置いて立ち上がるこのワンカットの滋味が人間ジャコメッティのヴィヴィッドに平坦な生を活写してみせて、ああ、今度も卵料理がカットを締めるんだなと『リストランテの夜』ではうつろう日々の中で数少なく確かに在るものの象徴として焼かれたオムレツなど思い出したりもしたのである。「きみの顔は正面から見ると凶悪犯に見えて、横から見ると変質者に見えるな。いずれにしろ、刑務所か精神病院行きだ。」といじられては「光栄です」とたおやかに返すロードを演じたアーミー・ハマーの、邪気のない背筋が控え目な補助線となることでこの映画の端正を保ち続け、やはりこの人はわざわざ汚れたり捻れたりしない方が静かで緊張感のある光が差すように思う。それはもうジェフリー・ラッシュとあっさり自然と拮抗するほどに。クレジットロールで見かけたスティーヴ・ブシェミの名前に、そう言えばこの音楽を手がけたエヴァン・ルーリーはブシェミの初監督作『トゥリーズ・ラウンジ』でもクレジットされていたことなど思い出し、実存の手がかりではない自由への憧憬としてのボヘミアン礼賛にニューヨーク・コネクションの目配せが滲んだりもしてこの贅沢で闊達な諧謔に一も二もなく組み伏せられてしまい、90分の短い夢が醒めてしまうのが少しばかり腹立たしくすらあった。愛人カロリーヌ(クレマンス・ポエジー)に買い与えた赤いBMWのカブリオレでジャコメッティとロードとカロリーヌの3人でドライヴするシーンに流れるフランス・ギャルの「ジャズ・ア・ゴー・ゴー」が、この映画にしのばされた目は笑っていないノンシャランにダメを押す。
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2018年01月07日

キングスマン:ゴールデン・サークル/バカが作るんだ、人間を

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あら?こうやって倒れてるだけでいいのかしら、涙みたいに血を流したり鼻や口から血がダダ漏れにならなくてもいいの?、ほら、あのエボラウイルスか何かの患者みたいにズタボロになるんでしょわたし、あら、そうなの、グチャドロのメイクでスチル撮ってもらっおうと思ってたのに、な〜んだ残念。とズバコ〜ンなジュリアン・ムーアなら嘆いたに違いないはずだし、カウンターの向こうを覗き込んだワタシもまったく同じように嘆いてみたりもしたのである。キャラクターによって軽重をつけない人死にがニヒルよりはポップを生むやり口は相変わらずながら、前作を駆動させた下克上を駆け上がるエグジー(タロン・エガートン)のスピードとリズムをあてにできないこともあって、わざわざ船頭を増やしてみせた上で船頭多くして船山に登ることのないよう片っぱしから船頭を殺していく子供じみたマッチポンプはいかにもマシュー・ヴォーンであったわけで、行って帰ってくる物語などはなから諦めたようなこの映画が最終的にどこへたどり着いたのかというと、それはマリワナ礼賛であったというどうにも底の抜けたノンシャランだったのである。ティルダ王女(ハンナ・アルストム)が吸うジョイントもリアム(トーマス・ターグース)がくゆらすパイプも劇中で映し出されるブツはすべてマリワナであって、(あなたみたいな糞野郎のために)日に20時間休みなく働いてればそりゃ薬も要るわよ、特に私みたいな善良な人間ならなおさらね!とエミリー・ワトソンに切らせた啖呵こそがこの映画で唯一マシュー・ヴォーンが挙手して述べた心情だったようにも思え、ポピー(ジュリアン・ムーア)がつきつけた完全な合法化による市場のコントロールという条件の持つどこかしら真顔な説得力の正体もそんなところからやって来ていたように思うのだ。したがって、夢うつつで遊んでは蝶々を視ていたハリー(コリン・ファース)が自身を素面に戻すのもそれはヤク中を救うための崇高な自己犠牲に他ならず、行って帰ってくる物語ということで言えば最後に用意されていたのは善良なるヤク中が無事に家へと帰っていく大団円であったわけで、言ってみればこれはマリワナ解禁に立ちふさがりつつあるトランプ政権に向けたマシュー・ヴォーンからのファックサインということになるのだろうし、へらへらとだらしなく脇の甘いところだらけで誰も聞く耳を持っていないようなのが哀しくはあるけれど、そうしたチーチ&チョン的側面からワタシはこれを支持したいと考える。そうしてみれば、ウィスキー(ペドロ・パスカル)の最期はいくらなんでもオーヴァーキルではないかという向きもあろうかと思うけれど、おそらくは原理主義者たるビジランテの象徴としての報いということになるのだろう。製作のタイミングからしてこれが前述したようなトランプ政権へのあてつけでないのはもちろん言うまでもないのだけれど、現実がすべてのカリカチュアを無効化してしまうという意味でやはり恐るべき状況にあることをあらためて痛感したのは事実だし、もはや『マーズ・アタック!』のジャック・ニコルソンも『デッド・ゾーン』のマーティン・シーンも『マチェーテ・キルズ』のチャーリー・シーンも現実の貧弱なパロディに過ぎないわけで、服なんか着るやつは阿呆だと得意げな相手に向かって、王様は裸だ!と叫ぶ敗北感を今ワタシたちは歴史上初めて味わっているのは間違いない。それにしても、これでPG12というのはなかなか画期的ではあるので、スクリーンいっぱいに映し出される生殖器官内部に目を凝らすなどして若い衆は豊かな情操を育んでいただきたいと思う。
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2018年01月02日

バーフバリ 王の凱旋/指は四本で手首を返しえぐりこむように射つべし

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他人が見た夢の話にはその内容の如何にかかわらず、なぜ身を乗り出す気にならないのか、それが映画や本や音楽の話であれば、じゃあワタシもちょっとそれを、と共有することも可能だし、実際に体験した出来事であれば事実は小説より奇なりだねえなどと驚いてみることもやぶさかではないのだけれど、そもそもが本人にしか意味を持たない性癖のようなものを語られたところで肯定も否定もしようがないという点はともかくとして、映像を言葉に換えるときに借りる物語の体裁によってあらかたがこぼれ落ちてしまうその失敗加減にいたたまれなくなるというのが正直なところで、それは埴谷雄高ですらが自分の見た夢を散文に刻み溶かした実験作「闇の中の黒い馬」に至ってようやく体裁をなすという過酷にして峻険な作業であると言わざるをえない。などと、いったい何をくどくどともってまわった物言いをしているのかというと、まさにこの映画はスクリーンに投影された夢のような時間であって、それがいかに異形でありつつしかし一瞬たりとも目を離せないスペクタクルの奔流として目の前を怒濤のように流れていったのか言葉で伝える術が見当たらない言い訳をしているのである。ストーリーとしては典型的な貴種流離譚でそれ以上でも以下でもなく、そこに一切のサブテキストもないまま、ひたすら網膜が受容する信号の刺激を待ち受ける以外ほとんど阿片窟でまどろむジャンキーと化して呆けたまま瞬きもせずまどろんでいく廃人化の快感を告白するしか、この映画の魅力を伝えようがないのだ。重力とエントロピーの法則が異なる惑星で撮られたこの映画を、いつものつもりでキャッシュして咀嚼などしようものならあっという間にオーバーフロウしてしまうのは間違いないし、年末に観ておきながらこれを2017年のベスト10にリストするかどうか迷いすらしなかったのは、そもそもこれをどう扱えばいいのかわからなかったからである。できれば片っ端から他人に薦めまくってワタシが味わった混乱と恍惚の渦に巻き込んでしまいたいのはやまやまなのだけれど、どういう惹句を叩き込めばいいのかすら頭に浮かんでこない始末で、そんな腰の引けた状態で何とかひねり出せるのが、『ミスト』のラストでベヒモスの霞んだ頭頂付近の高みを飛ぶ鳥に忘我した人に向けた、この映画に比べれば『グレート・ウォール』など厨房に入ったばかりの新米が初めて任されてしかもダメ出しくらったあげく投げ棄てられた賄い飯に過ぎないという、萎れた与太にしかならない自分が痛々しい。批評を生業にしていなくて本当に良かった。
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2018年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

爆弾と竜巻と物質主義をくぐりぬける
犬には犬のための犬の愛が犬にある
しっぽまく うすら汚れる とぼとぼ歩く
途方に暮れる 犬とよばれる でも 生きてゆく

きょうは犬だから

ー「I AM A DOG」矢野顕子
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2017年12月30日

2017年ワタシのベストテン映画

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沈黙
ジャッキー
午後8時の訪問者
パーソナル・ショッパー
ジェーン・ドウの解剖
ドッグ・イート・ドッグ
ありがとう、トニ・エルドマン
ウィッチ
ブレードランナー2049
パーティで女の子に話しかけるには

観た順番。寛容と不寛容をめぐる争いからは映画界も無傷ではいられないことをあらためて突きつけられた年であったとは思うものの、ずっと前から突きつけられていたであろうその切っ先に対してワタシたちが無神経で鈍感であったことの裏返しとも言えるに違いなく、それが仮に顧客のボリュームゾーンへのマーケティング的な目配せだったとしても、年の終わりにディズニーが肉を切らせて骨を断つべく最強のキラーコンテンツにしのばせた世界寛容宣言が、年初にワシントンで打ち立てられた世界不寛容宣言に対する回答でありカウンターになるべくしてなったという決して偶然ではない帰結に明らかなように、既に世界の法則は書き換えられつつあるのだろう。それが気に入らなければ他のしけた砂場で遊んでもらうしかないというただそれだけのこと。すべてが間違っている、とルークもあなたに告げたではないか。
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2017年12月28日

MR.LONG /ミスター・ロン 〜 ポケットの中には小四のナイフ

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ロン(チャン・チェン)が、逃げ込んだ廃住宅の台所で蛇口をひねった瞬間、ああ、水が出ちゃうんだと思ったのである。この映画はここで水が出なければ始まらないのは言うまでもないのだけれど、電気も止められた住宅の水道の元栓がなぜ閉じられていないのか、地下水の汲み上げだとしてもそもそも電気が止まっているし、とそれまでの密やかに潜航するノワールがここで観客の善意をたよるような物語へと急激に舵を切って座礁したように思うのである。観客の、というのが姑息であればワタシの、と言い換えても良い。そもそもSABU監督の映画というのが、そういった善意をあてに良きに計らえとすっ飛ばしていくそのスピードを体感するところからスタートしていたし、ワタシが観たいのはその風景や光景であってスピードを味わいたいわけではないんだけどな、といくつかの映画で乗り切れなかったことなど思い出したりもした。サイドエピソードをバカ正直に突っ込んでしまうのも相変わらずと言うか、ナイフの因縁だけのためにリリー(イレブン・ヤオ)の過去をフラッシュバックで丸ごと延々と語ってしまうロンちゃんの置いてきぼりはともかく、すべてが均等に並べられてしまうことで8月30日をデッドラインとするタイムサスペンスも機能せず、それもあってロンの葛藤も十分に育たないまま、あの修羅場によって自動的に台湾へと戻されてしまっただけのように見えてしまうのはあまりに分が悪い。これはちょっと言葉の使い方が難しいのだけれど、かつての角川映画が旬のアイドルや俳優を起用して撮ったプログラムピクチャーとしての「アイドル映画」とみるならば、終始のチャン・チェン無双はまず申し分なく機能していたように思うわけでワタシのあてこすりは無粋ということで片付けてもらってまったくかまわないとは思うのである。ただやはり「どうしてこうなった?」とボソリつぶやくチャン・チェンの押しつぶされたような可笑しみがそれから先どこへも枝分かれしていかなかったのがもったいないなあとは思ってしまうのだ。だから、牛肉麺の原料費は一切支払わないまま続けるつもりだったのだろうか、とか出生届すら出していないジュンがどうやってパスポートを取得したのか、とかそういったあれこれはただの戯言として聞き流してもらえれば幸いである。水が出続けた瞬間にギアを入れ損ねたワタシがあたふたと追いかけているうちにロンちゃんは帰ってしまったというただそれだけのこと。
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2017年12月25日

ビジランテ/盗まれた町

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そこに至るまでに2度ほどあった、ゴミ屋敷のごとく足の踏み場もなく荒れ果てた実家の畳にあがる時の一郎(大森南朋)と三郎(桐谷健太)がごく自然に躊躇なく靴をぬぐカットの溜めが最終的にはどんな風な使われ方をしたか、そのありふれて陳腐と言ってもいい爆発こそがこの物語で唯一正当に思えた血の反抗だったわけで、疑似家族としてのビジランテ、ここでの自警団とは利益と権利を追求するために家族のマイルールを世界にそのまま適用していく遂行者たちのことで、兄弟による血の抵抗はその矛先が終始それらへと向けられていくこととなるのだけれど、この物語が神藤サーガの体裁を借りつつもマルケス「百年の孤独」や阿部和重「シンセミア」といったサーガの語りと決定的に異なるのが、野生動物としての神藤サーガがビジランテという外部からの狩猟者に屠られていく様を綴っている点にあって、忌まわしくさえある共同体の因習ですらが、さらに得体の知れない存在によって駆除されていく薄気味の悪さをビジランテという言葉に集約した監督の意図は非常に現代的な示唆だったように思うわけで、前述した“自警団とは利益と権利を追求するために家族のマイルールを世界にそのまま適用していく遂行者たち”という定義がそのまま見知った国政のレベルにあてはまってしまうことを考えれば、暴力的な空気をはらむ自警団の足どりがさらに上から下へ押し寄せる懸念と危惧がこの映画には充満しているように思うのである。したがって、一郎や三郎のように反抗に加わらなかった二郎(鈴木浩介)が裏切り者であったかといえば、彼は自分にできるやり方として神藤の血を残すことを選んだわけで、彼の涙ながらの挨拶はそれまでの自分を決定的に変質させるために自らを追い込む決意表明だったのだろう。おそらく彼は暴力を飼い始めることになるように思う。そうした状況にあって三郎は、ビジランテに関わるすべてのことを遮断するという最も勇気のいる決断を下すわけで、それはもちろん最悪の不幸を呼ぶことになるとはいえそれゆえこの物語がどん底で備える美しさのほとんどは三郎のいる光景の中にあって、そこで血が出るほどに歯を食いしばりながらメランコリーを叫び続けた桐谷健太のパフォーマンスは名演と言うべき震えをものにして、それに比べると手癖でおさめる余裕がまだ役柄に残っていた大森南朋は、泣き笑いがいつしか肺活量を鍛えていた鈴木浩介と比べてもやや分が悪かったかもしれない。暴力のはらませ方については非常に細やかに行われていたように思うのだけれど、痛みについてのフェティッシュはなかなか感覚を共有するのが難しくて、例えば焼肉店でのアレにしてもせっかくあそこまで念入りに貫いたのであれば、いくら悶絶しつつとはいえ素手で引き抜いてしまうのはあまりにもったいないと思うわけで、ワタシが観たいのは、腰を抜かせた店員にペンチを持ってこい、ペンチだよ、ペンチを持ってこい早くしろ、と怒鳴りつけ、持ってこさせたペンチでそれを挟んでぐいっぐいっと小さく左右に揺らし脂汗と血と絶叫にまみれながら少しずつ引き抜いていくショットであって、それが長回しであったならなお素晴らしく思ったにちがいない。ワタシも北関東の小さな市の出身ではあるけれど、外に出て久しい身からすればこの忌避感はカウフマン版『ボディ・スナッチャー』の絶望感に源泉が近い。
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2017年12月23日

オレの獲物はビンラディン/形而上のニコラス、形而下のケイジ

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『グラインドハウス』のフェイクトレーラー「ナチ親衛隊の狼女」においてフー・マンチューを演じたテンションで、愛国の怪人というか罪人というか、とにかく埒外でひとり笑い続けるゲイリー・フォークナーというおそるべきことに実在する人物を、本来ゴミ箱に棄てられたはずの啓示を受け取ってしまったかのような一切報われることのない全身全霊でトレースするニコラス・ケイジがいつしか現代アメリカのポール・バニヤン的フォークロアの人物に見えてくるわけで、監督の狙いとしてはゲイリー・フォークナーを憂国のドン・キホーテとして笑い飛ばすつもりが逆に目ン玉ひんむいて笑われてしまう始末で、これはニコラス・ケイジが己のポテンシャルをどれだけのリミッターで抑え込んでいる俳優なのかみくびったことで、火をガソリンで消すことになってしまい大爆発させたラリー・チャールズの明らかな失策といっていい。したがって、真の愛国者とは国を愛することにひたすら殉じる者であり、他国を排斥することには目もくれないのだという逆説を心ならずもゲイリー・フォークナーに体現させたことで愛国の人を賛美してしまい、そうやってニコラス・ケイジの爆風がすべての批評を無効化してしまう徒労がさらにペーソスを誘うのだった。それにしても、映画監督たちは自作の主演がニコラス・ケイジだと知った瞬間、いったい何を思うのだろうか。望むと望まざるにかかわらず、映画をのっとられるという抵抗や恐怖は感じないのだろうか。それともオレなら飼い慣らしてみせると一度は野心を剥き出しにするのだろうか。そして案の定ケイジの顔面だけが記憶となる映画を仕上げてしまった後で何を思うのだろうか。そうしてみると、ああ、このケイジは飼い慣らされていると思ったのは『バッド・ルーテナント』が最後となり、あとはほぼ顔面に蹂躙された記憶だけが死屍累々と重なっているわけで、にもかかわらず主演作が引きも切らないのは、スクリーンに大写しになったその顔面を消失点とすることで世界のパースを確認するワタシのような人間が世界中に溢れていることの証拠なのだろうと考えている。したがってヴェルナー・ヘルツォークは映画監督としては実に見事であったものの、ケイジ映画の監督としては失敗作を生んだということになるのである。となれば何が言いたいかもうお分かりだろう。この映画は傑作である。
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2017年12月20日

スター・ウォーズ/最後のジェダイ〜すべてが間違っている、わけではない

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いともたやすく監督の首をすげ替える製作陣がというかキャスリーン・ケネディがよくこれを許したなあとは思いつつ、いやむしろ尻を蹴り上げてこれを撮らせたとでもいうべきかと、カイロ・レンがレイに向かって叫んだ「幻想にしがみつくのはやめろ!」というセリフの余韻がことのほか響き続けたように思うのである。それくらい、この映画はかつてあったものの退場と失敗だけでできあがっていて、帝国軍にしろレジスタンスにしろ老いも若きもそのすべてがやることなすこと無様に転び続け、自由を得たものといえばカジノの惑星でレース用に飼われていたファジアーという動物とベニチオ・デル・トロの記憶しか残らない始末である。ただ、そうやってことごとく作劇上のカタルシスを潰しにかかっていながら、小さな誘爆が延々と続くような昂奮が途切れることのなかったのは、のちのち後悔して再び舞い戻ることのないよう退路を断ち続ける意志に逆流する血潮をそこに感じたからで、それくらいの決意がなければジョージ・ルーカスの個人史ともいえる物語との完全な訣別など不可能だという覚悟があったのだろう。ではそこまでして果たさなければならなかったのは一体何なのかと言えば、それは間違いなく物語の解放であり、端的に言ってしまえば父殺しをしなければ更新されない世界を鎮めることだったように思うわけで、強大な父を乗り越えるために要求される男らしさ=マチズモの支配する枠組みを解体するために、今作では男たちの暴走を女性がくい止めるという構図が少々強引とすら思える適用でなされているし、それは何よりフォースの持つ破壊と再生という側面を最後の父殺しレンと殺すべき父を持たないレイに分け与えるラストで清冽に宣言されていたように思うのである。その意味でルーク・スカイウォーカーは光と闇の葛藤(conflict)にこそ生じる力を信じた最後のジェダイであり、その境界を歩き続ける物語の困難と疲弊を一身に背負った存在ということになるのだろう。したがって、先述した物語の解放はそのままルーク・スカイウォーカーの解放となって、かつて辺境の惑星タトゥイーンで彼方を想って見つめた2つの夕陽に照らされた最期は、歴代のジェダイでも最上の慈愛に満ちていたように思うのだ。だからといってこれまでのすべてを葬ってしまったわけではないことは、ヨーダによって燃やされたジェダイの木からレイによって密かに持ち出されたジェダイの書物がその証となっていて、それがレイの光によって照らされ続けるであろうことを間違いなく示唆している。物語を永遠に縛り続けるかと思われた枷が外れたことで、思想や思考は自由になるのか逆に不自由となるのか予断は許さないけれど、とにもかくにも血の相克で呪われ続けたフォースはここに解放されたわけで、宇宙のあちこちで星を見上げる厩舎の少年少女を未来の希望とするエンディングを、他人事の王たるJJがいったいどう受け止めて星の光とするのか、一世一代の物語を紡ぐ意地と覚悟を見せてもらえれば幸いである。一つだけ、アクバー提督だけは花道が欲しかったかなあ。
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2017年12月17日

否定と肯定/嘘をつくとき笑うやつ

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法廷ドラマのスタイルを借りつつも、例えば『女神の見えざる手』のような爆風をラストに吹かせるわけにもいかないとなれば、このドラマのどこにスリルとサスペンスをしのばせればいいのか。それは、判事に向かってついにはお辞儀をするに至るデボラ・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)の上昇と下降の日々にあったように思うわけで、自らの内なる声だけを良心として生きてきたリップシュタットの危うさもまた他者の否認を呼び寄せているのではなかろうかと、善や悪、快や不快といった感情の両論併記が事実の両論併記へとすり替わるシステムの危険を知るランプトン(トム・ウィルキンソン)の賢明がアウシュビッツの歴史とリップシュタットを救ったことを考えれば、観客と彼女の二重のメンターとしてこの映画の真の主人公はランプトンということになるように思うのである。その活躍によってデイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)の愚劣を暴く快哉は確かにあるものの、問題なのは彼が成立しうる世界もまた存在していることであるのは言うまでもなく、イギリスにおける名誉毀損の訴訟では被告側に立証責任があることへの原則に「推定無罪の原則はどうなっているの!」と叫ぶリップシュタットの憤りこそがポスト・トゥルースの時代の困難を象徴していたように思うわけで、事実を語ろうとする者は両論に乗じるマイナスをゼロに戻す徒労と非生産性への責も負わねばならず、この事件の当時からすでに四半世紀近くが経ってさらに拡張する世界の水平性がもたらす弊害として「凡庸な悪」すらもそしらぬ顔でテーブルに同席してしまうことへの積極的かつ効果的な対策がみとめられないことへのもどかしさ、それこそはリップシュタットの苛立ちなのだけれど、それを抱えたまま劇場を出る砂を噛むような気持ちは、映画としては不発を誘うものの現代に生きるワタシたちのリアルで正直な感情ということになるのだろう。善くあろうという存在が、世界にとって善くあろうとするのか自分の都合にとって善くあろうとするのか、それを傲慢と偏見を超えて見極めるランプトンの知性と冷静を持ち得ること、そうした突きつけにおいてこの映画は成功している。となればこそ、世にあまねく卑俗で狡猾なレイシストの象徴として小さな屍鬼をあますところなくデザインしたティモシー・スポールが今作のMVP。ああいう人達は皆あんな風に滑稽で間抜けで惨めでみすぼらしく、いてもいなくても誰も気に留めない人のように見えている。
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2017年12月15日

南瓜とマヨネーズ/と福山雅治でマッシュドパンプキン

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原作未読。安原(光石研)がお金を払ってツチダ(臼田あさ美)の肢体を愛でるのも、稼いだお金でせいいち(太賀)を世話しては私のために曲を書いて歌ってとせまるのも、考えて見れば同じ穴のムジナだよねとツチダが気づいたかどうかはともかくとして、もはや青春で担保されない人たちの恋愛はいったい何で担保されるのかといえばそれは生活、もっと言ってしまえばお金だよねという世知辛くも身も蓋もない話が、しかしそれと常に背中合わせになっているのは、結局のところどう生きたとしてもワタシたちは他生の縁に袖触れ合ってしまうのだというゆるやかな諦念で、ここに登場する者たちはその点において無邪気なほど正直この上ないのだった。しかしどちらかと言えば手あかのついたそんな話から90分の間どうして目が離せないのかといえば、恋愛と生活という二人羽織の無様と滑稽とそれゆえに避けられない残酷を、嘲りも憐れみも非難もなくすべてをあるべき場所にある感情として、それこそが望むべきダンディズムの発露なのだとでも言う恭しい手つきで差し出しているからで、存在自体が唾棄すべきクズであるはずのハギオ(オダギリジョー)の説くクズの正論にすら強度と磁力が宿ってしまう魔術は、『ローリング』において権藤に最敬礼させたのと同じ呪文によっていたようにも思うわけで、それを唱えさせるのは夕闇から蒼い夜へと向かう逢魔時のメランコリーへの共感と耽溺によっているのだろうし、監督が映画を撮る時にいつも向かいたいと思っている場所はそこにあるのだろうと考える。曖昧な影の中で自分の見せたいところだけをひけらかし、相手の見たいところだけを目で追い続ける。「そこ」を気持ちよさそうに泳ぎ続けるハギオと、溺れることへの嫌悪で日々のスランプに掴まるせいいちは対照として描かれているように見えはするけれど「そこ」を知ってしまっているという点で共に埒外の人であり、「そこ」でしか息を継げないツチダが2人同時に感応してしまうのもそれゆえの哀しみということになるのだろう。したがって、せいいちが「そこ」から出ることで書けた歌は日の光を存分に透過して、それを聴いたツチダが日の光を直接見てしまったかのように涙を流し始めるラストは至極当然の出来事にも思え、それを一方的にハッピーエンドと呼んでしまうには、監督の描いた「そこ」にワタシは未練をおぼえ過ぎてしまっている。監督の前作『ローリング』でも感じたセリフの耳当たりはさらに艶と磨きがかかり、もちろん録音やミックスの手際が秀逸なこともあるにしろ、発語としてのセリフをトータルサウンドとして解釈する監督の耳が今回も冴えまくっていてそれだけで会話の緊張がいや増して耳が離せなくなってしまうし、ツチダのなまくらな鋭角、せいいちの滑りやすい曲面、ハギオの鈍色の湾曲、とそれぞれの声が絡み合いながら踊っている。人としての重しをはずした浮力でノンシャランにたゆたうオダギリジョーは『ゆれる』以来の絶対クズを実に心地よさそうに演じていて、やはりこの人はナイーヴなナイトよりもたがの外れたピンプで先鋭が香るように思う。もう冨永昌敬監督は何を撮ってもこうなってしまうのでなかろうか。
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2017年12月12日

オリエント急行殺人事件/あたしゃ許さないよ

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本心としたら "POIROT - Murder on the Orient Express" くらいのタイトルにしてしまいたかったのではなかろうか。それくらいフランチャイズへの欲望を隠すことをしない欲しがりなポアロだったわけで、シニカルをウィットで包みこんでシュッと背筋を伸ばして体技に優れ想い出の君の写真を持ち歩くだけでは飽き足らず、本来は乗客たちの隠された人生のドラマをその灰色の脳細胞の明晰さゆえ白日の下にさらしてしまう役どころであるはずが、ある新たな脚色によってポアロも当事者として関わりをもたせることでそのドラマに割って入らせては、その罪と罰に一緒になって苦悩してみせるのである。それはすべて、クリスティにとってはミステリを解くための装置であるはずのエルキュール・ポアロを映画の屋台骨を背負うだけの血肉を備えたヒーローに仕立て上げるための脚色であり、見せ場を作るためにはポアロにしてアクションすらも厭わないなりふり構わぬ貪欲さなのである。したがって、慇懃無礼な物腰で細部を責め立ててはその違和感から矛盾を見つけ出すやり口も今回のポアロには似つかわしくないと判断したのかやけに淡々と流されるばかりだし、何かというと状況的にも感情的にも外へ出たがることもあり、ほとんど会話劇と言ってもいい密室殺人の物語であるはずが神経戦の妙味はかなり薄まってしまっている。クライマックスの謎解きに至ってはもはや客車でおこなわれることすらなく、それもこれも監督が物欲しげな構図を欲しがったに過ぎないことは見ての通りだし、そこで見せるポアロの目つきはディテクティヴというよりはほとんどプライヴェート・アイの血走りすら見せてしまうわけで、やはり対『SHERLOCK』として名乗りを上げるにはここまで下世話に立ち回ってみせる必要があったのだろうことが容易にうかがえてしまう。ルメット版におけるミステリーの予習を観客に促すスマートで手際の良いオープニングが今作ではポアロのマニフェストに置き換えられていたことからも、今作の主眼がミステリーそのものではなくエルキュール・ポアロというキャラクターを宣言することにあったのは言うまでもないし、それはラストにおける来たるフランチャイズへのあけすけな欲望へと引き継がれることになるのである。こうなったら将来的に『SHERLOCK』とクロスオーヴァーしたとしてもまったく驚かないな。興味もないけど。何でもかんでもシュッとすればいいってもんじゃあない。
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2017年12月10日

希望のかなた/ヘルシンキ・ホームシック・ブルース

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フィンランド人のネオナチがシリア人カーリド(シェルワン・ハジ)に吐き捨てる「ユダヤ人野郎が!」という言葉にこそ、レイシストに対するカウリスマキの怒りを通り越した侮蔑と絶望が込められていたように思え、その人種も宗教すらも知らぬもはや思想ですらない憎悪の排泄行為に知性はいったいどこまで有効なのか、親が子供に優しく噛んでふくめるような理性と人情(というのは見返りを求めない自己犠牲だろう)の1+1で希望を倍にするやり方を、せめて話せば分かる人たちは試してみてはくれまいかという監督による懇願のような映画だった。人間が社会という連なりで生きていれば何かと戸惑い困ってしまうことは避けがたく、その理由を突き詰めていけば結局は自分以外の人間は自分ではないという答えに行き着くようにも思われるのだけれど、それは言うまでもなく自分も他人にとっての困惑の種であるということであり、だからこそカウリスマキは困っている人を劣っている人として区別したり差別したりしないわけで、カウリスマキの映画に通底するまなざしは多分そうした考えによって可能となっているのだろう。今作では、そうした他者性を自覚しないことで成り立つ存在に向けられる敵愾心はこれまでになく露骨にさらけ出されていて、市井の人々はカーリドを助けるべくそれぞれのやり方で官僚/警察組織やネオナチといった恥知らずたちに刃向かうのである。一方ヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)もまた、酷くすり減った自分への困惑と危機感から当人以外に投げやりな妻を棄てた男であり、彼のカーリドに対する共感と献身は、選択の余地なく国を棄てざるを得なかった男がなお胸を張って相手を見据える正統な自尊心への敬意であったようにも思えるし、彼が再び妻を迎えに行ったのはカーリドとミリアム(ニロズ・ハジ)の再会が彼に今一度自身を顧みることを求めた結果によっているのだろう。ネオナチおよびシステムの代理人として現れる以外のすべての個人は、この世界でいわれなき迫害と困難を浴びせられる人の代表であるカーリドに一切の躊躇なく手を差し伸べて、それがミリアムとの再会という奇跡をあっけなく呼び寄せるのである。ヴィクストロムのように持つ者が身銭を切らなくても、収容施設の女性職員(マリヤ・ヤルヴェンヘルミ)がそうしたようにドアを開けてやりさえすれば、路上の彼らがそうしたようにネオナチの頭を空き瓶でどついてやりさえすれば、空のトラックで女性を一人運んでやりさえすれば、それぞれがイエスと思ったことをやってみさえすれば希望は奇跡へとつながることを、カウリスマキは、悪いクセでそう見えるかもしれないがこれは冗談ではないと真顔で告げていて、傷を負ったカーリドを映すラストショットは密やかなハッピーエンドのらしからぬ留保でもあり、その希望と不穏のないまぜにこそ、今回は満ち足りて帰ってもらうだけでは足りないのだというカウリスマキの切迫した本気がうかがえた気がしてならないのである。「竹田の子守唄」までもが越境し、収容施設のベッドでカーリドがつま弾く伝統楽器サズがそれを震わす蒼茫のブルースに、最近観たばかりの映画で耳にした「パンクはブルースの最終形」というセリフが浮かんではカウリスマキですらが立てざるを得ない中指が突き刺さって、いつものように笑ってばかりもいられなかったのだ。近寄ってくる犬のコイスティネンにうっすらと微笑むカーリドの傷からにじむ赤い血は痛めつけられる世界の象徴としてスクリーンに配置され、流血する希望という非常事態を余白の余地なく突きつける初めてのカウリスマキとなった。
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2017年12月08日

全員死刑/バカはオバケで泣く

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最初にぶっ殺われるショウジの言う「みんな自分よりバカな奴を見て安心したいんですよ」というセリフこそが監督のテーゼなのかなあと考えながら、酷薄な思いつきと凄惨な行動にあけくれる一家が一瞬たりとも実存の極北など照らしてしまうことのないよう、ほとんど動物映画のチャームで感情移入を求めてくる媚びと痴態を愉しんだのである。その意味では、誰がどうみても貧乏クジをひかされっぱなしのタカノリ(間宮祥太朗)を底辺のバカとしてどれだけ最後まで維持できるかという点が命運となり、実録ものとして既に成功と失敗の道行きが知らされているとなれば、倫理の痛覚をいっさい持ち得ないはずのこの男の本能が、外圧と内圧のバランスで軋み悶える姿にこそサスペンスを求めることとなるわけで、しかしこれが動物映画である以上内省する自我をサブテキストで描けるはずもなく(実際に字幕で説明してしまう)、ではいったいそれを作劇としてどう解決したかというと、その悲鳴を上げる軋轢をフィロソフィカルゾンビのような黒い人影として可視化させていたのである。それはタカノリの精神を反映させたようなひどく幼稚な出来損ないの姿ではあるのだけれど、駐車場で目の前に現れたそれがタカノリとの同化を欲して歩を進めてくる瞬間こそは唯一タカノリが一家のペットとしての鎖を引きちぎるチャンスであったということになり、この逃げ方というか攻め方はとてもスリリングに感じたし、自動販売機前での老人(ジジ・ぶぅ)とのやりとりを通してタカノリのまとい始めた死の臭いを告げてみせるなど印象に残るのがぶっ殺うシーンの他に多かったことなど思うと、内部からの露悪をさらに描けるはずの監督がそれを前面に出すことをしなかった作戦(とあえて言う)が少しばかり食い足りなかったなあと思ってしまうのだ。それはすなわち「事実は小説より奇なり」の“事実“ではなく“奇”の部分にフォーカスしデフォルメして晒す露悪を選んだということで、福岡で起きた事件にも関わらず袖ヶ浦ナンバーの車が走り回ったり、首塚家の室内にべたべたと貼り付けられた格言の書かれた半紙が醸す電波感であるとか、最初の犠牲者ショウジをYouTuberとした設定など、現実につかまってしまわないよう絵空事の強度を高める方策については理解するものの、それによって緊張よりは緩和が常に優ってしまうことで、例えばワゴン車の運転席に体を押し込んだタカノリの尻がクラクションを鳴らしてしまうシーンのように緊張と緩和のリズムが不発になってしまったり、おそらくは緊張の補填のためであろうダッチアングルの多用も、逆に形式の窮屈を呼んでしまった気がしないでもない。いささか冗談めかした風な出たとこ勝負で行われる最初の殺人(ショウジ)から、パトラ(睡眠薬&絞殺)、カツユキとオカダハルキ(銃殺及び刺殺)へと進むに従って陰惨の度合いが増していく計算はうなずけるものの、動物が動物同士殺し合っても外部には脅威とならないわけで、意志が通じず一切の葛藤がない生き物が自分に向かってくる姿が容易に想像できた瞬間こそがスリラーでありホラーとなることを考えれば、何だか体よくお預けを食った気分のままだったように思うのだ。バカを見て安心したいわけじゃなくて、あらぬ手口でおびやかされたいんだよね。
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2017年12月04日

パーティで女の子に話しかけるには/アナザー・ガール、アナザー・プラネット

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パンク。直近に打ち倒すべきものも見当たらない北関東の中学生にとってパンク=パンクロックでしかなく、そのアティテュードを透かしてみる切実やノーフューチャーなニヒリズムなど持ち合わせていたはずなどないわけで、トム・ロビンソン・バンドすらもゲイのアイデンティティを掲げたROCK AGAINST RACISMへの共感には程遠く、魅力的なパワーポップ系のパンクバンドとして夢中になっていたようなお気楽者だったのである。当時彼らのことを教えてくれたOクンはリリースの予定について東芝EMIに電話するほど彼らに夢中になっていて、今にして思えばその切実さには彼なりの理由があったことにどこかしら気がついたりもするのだけれど、とにかくそんな風なノンシャランのせいで、どれだけパンクロックのレコードを聴こうと何者へも化けることなどないまま日々をくすぶっていたのである。インターネットが繋げる世界など誰の頭にも思い浮かぶはずのない、距離がそのまま距離として彼方に横たわっていた時代、70年代後半の思春をニューヨークやロンドンから遠く離れて過ごした彼や彼女たちがまずは自身が育てた妄想のパンクの中を泳がざるを得なかっただろうことは言うまでもなく、だからこそ当時を知る当事者の筆さばきでこんなふうにあの頃を描かれてしまうと、まるで自分の記憶のように甦ってきてしまうのがやたら始末が悪いわけで、それはもうオープニングのザ・ダムド「ニュー・ローズ」で一気にノスタルジーとファンタジーの白日夢へとなだれこんでいってしまうこととなる。とはいえ、ザン(エル・ファニング)がエン(アレックス・シャープ)にとって単なるパンクミューズで終始しないのは、パンクのデストロイに共鳴しつつもその先には再生がなければならないことをエンに伝える役割を彼女が担っているからで、リーディングのような導入から次第にエンとの掛け合いへと登りつめる昂ぶりがまるでパティ・スミスとレニー・ケイの“ロックンロール・ニガー”のようなパンクチューンを繰り広げるステージで、ザンはエンと感応(コズミックセックス!)することで自身に芽生えつつある新たな息吹の正体が母性であることを知り、ノーフューチャーの先の視界をエンに促すのである。一方でボディシーア(ニコール・キッドマン)こそはノーフューチャーなパンクガールを貫く存在として登場しつつ、それを貫かざるをえないメランコリーを「パンクはブルースの最終形なのよ」というセリフに託しながらも、かつて手放した母性の奪還になぞらえるかのようにザン奪還のためエンに手を貸すわけで、エンにとってはパンクな父親がそのパンクな衝動のうちに消えた後でシングルマザーとして彼を育てる母親も含め、パンクが打ち壊した瓦礫を片付けて明日を始めるために母性がなさねばならぬことを知るのがエンにとって最初の通過儀礼ということになるのだろう。そんな中で「12回も中絶したのに何も見返りなんてなかった」と自嘲気味に吐き捨てるボディシーアの、しかし自己憐憫を押し殺してサーベルかざして進む(byちわきまゆみ)姿には、エンに対するノスタルジーや感傷の投影とは異なるジョン・キャメロン・ミッチェルにとって同志としてのリアルな共感が見て取れる気もしたのだ。エル・ファニングの、“エル・ファニング”という特殊で特別な生き物として話し、走り、弾み、笑い、叫び、舐め、吐き、眠り、歌って踊る姿はそのまま個体としてMOMAに永久展示しておきたいほどで、かつては独立した生き物のように息づいていたその首がついには全身を支配したように思えてならず、形而下的にはここが一つの到達点とすら言ってしまいたい。何度となく書いた記憶があるけれど、僥倖に恵まれればその首をそっと両手で甘締めしてしまうのはおそらく必至なように思われる。それにしても、今さらパンクに早く行けと尻を蹴り上げられるとは思わなかった。家に帰るまでがパンク。
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2017年11月30日

ジャスティス・リーグ/金ならあるが答えがない

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彼方からやってくる侵略の脅威に晒されるのは限りなくチェルノブイリなロシアの寒村に住む4人家族に限定され、あとはステッペンウルフ撃退の舞台裏全部見せます!という楽屋オチだけで120分を押し切る開き直りというか素知らぬ顔はいっそ清々しくもあったのである。自分たちのあれこれに手一杯で世界のことまで手が回らないという本末転倒をオフビートにまとめるのはジョス・ウェドンの得意とするところで、やっていることは基本的にアヴェンジャーズと変わりがないにもかかわらず、あらかじめ仕上がったキャラクターを転がしておけばそれなりに恰好がついたMCUに比べると、中年の危機を抱えた金持ちとデビューまもない女神、海のものとも山のものともつかぬ(海のものではある)神様を含むルーキー3人、そして残すのが病み上がりの宇宙人という手駒とあっては裏打ちのリズムに即興で息が合うはずもないわけで、オフビートのつもりのオンビートでシャンシャンと立ち尽くしながら展開する棒立ちの会話劇にはいつしかカウリスマキのペーソスなど滲んだ気もして、これが新たなポスト・ポストヒーロー宣言であるならそういうつもりでつき合わねばなるまいなどと思ったりもしたのである。したがって、スーパーマンを囲んでの立ち話に夢中になるあまり、そもそもキミらそのために雁首つき合わせてるんじゃなかったっけ?という世界の命運を握るはずのボックスをほったらかしにしたあげく、あっという間もなく奪われて口あんぐりの脱力コントは賞賛されこそすれ瑕疵になるはずもないわけで、何より宇宙人は非常に寝起きが悪いという定説を『プロメテウス』に倣った点でも好感が持てるし、スーパーマンを朴念仁の怪物としてホラーマナー(彼が叫んだように『ペットセメタリー』である)で昇華させる手口には大きな緑色の暴走がちらついたりはするものの、ついこの間まで神と崇めた御方のいじり方としてはおおむね斬新といってよいのではなかろうか。そもそもの成り立ちとして、先行者の背中ごしに見える風景を丸パクリしたはずがなぜか寸足らずのメランコリーにまみれてしまうシミュラクラの哀しみは永遠にセブンイレブンに焦がれ続けるファミリーマートのようでもあり、そうやって敗れ続けることで得る身の丈もあるのではなかろうかとワタシに宿った出所不明の優しさが、ジェシー・アイゼンバーグのいつか見た得意気な笑顔に対して、もうそういうのいいからと理由もなくささくれた気持ちをなだめたりもしたのである。しかしあの3つの箱を今度はどこにどんな風に封印したのかくらいは、いくらマクガフィンとは言え教えておいてくれてもよかったのではないかとも思うにしろ、もしこれが、アヴェンジャーズのアレと間違えてジャスティスな一同が大騒ぎする未来への布石なのであればそれはそれで愉しみにおとなしく待つことにしてみたい。ロシアの少女がまるで狂気の山脈に咲き乱れるようにドラッギーな花々に向かってまあきれい!とばかり笑みをこぼすシーンがまったく意味不明で忘れがたく、もしかしたらこんなところに突破口があるのかもしれないと思ったのである。もうクトゥルフと闘え。
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2017年11月29日

KUBO/クボ 二本の弦の秘密〜ライカじょんがら節

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開始早々、大波に呑まれた母親が海底の石に顔面を激突させるカットとそのグォンという鈍く寄る辺のない響きに、かつてコララインがバスルームでいきなり虫を素手で握りつぶした名刺代わりなど想い出しては、ライカの新作を観る昂揚へと一気に包まれていく。『パラノーマン ブライス・ホローの謎』ではノーマンのイノセンスをことさら担保するためか、彼を安全地帯に置きすぎたミスにワタシは致命的な引っかかりをおぼえてしまい、ライカのいちばん大切な通奏低音であるメメント・モリがぞんざいに扱われた気がして今ひとつのれなかったのだけれども、今作の主人公クボ(アート・パーキンソン)はあらかじめ体と家族の一部を奪われた者として登場し、その欠落した物語の結末を彼自身の手で綴るべくそれに必要な責任と勇気を旅の中で育てていくことになる。そのラスト、かつてクボの大切なものを奪った者が、今や孤独で無力な者となって彼の目の前に立った時に果たして彼がどうしたか、すべての物語には結末がありワタシたちの人生という物語においては死をその結末としていることは言うまでもなく、ならば復讐による死によって物語を閉じることも結末の一つであったに違いないのだけれど、クボは他者を生かすことで自分と世界を生かす物語を選んでみせて、これは物語のはじめにカメヨ(ブレンダ・ヴァッカロ)がクボの昏く青い生硬に向けた「(物語に)笑いは必要よ、残酷なのもほどほどに」という言葉への返答に見て取れると同時に、それこそはライカのコードとトーンであったようにも思えるのだ。そしてこのシーンにおいて、クボの力に敗れ自身の物語(=記憶)を失ってしまった男に対し、彼の暴虐によって自分たちの村を破壊された人々がまるで着るものや食べものを差し入れるかのように物語を考えては分け与えるのである。舞台となる刀と着物の時代の日本は単なるエキゾチック欲しさに選ばれたわけではなく、物語の余白や行間こそに秘めた想いがあることを伝える精神に満ちた時代としてふさわしいがゆえであることは、ライカの視点を通した日本が細部に至るまで物語の血肉となっていたことにもうかがえて、となれば前述した村人の行動もライカによる日本人観の反映ということになるのだろうけれど、毎日気の滅入るようなニュースや出来事が引きも切らないこの国に暮らす者としては何だか恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになったりもしたのだ。ストップモーションによるライヴアクションという字面だけ見ると矛盾したようにも思える手法は、一瞬の生の連続によって生命は脈打つのだと人形に命を吹き込む行為それ自体がメメント・モリの表裏となるわけで、ライカの作品に色濃い死の気配はその必然ということになるのだろうし、そうやって仮初めの生命を宿した人形たちがアルゴリズムではなく重力の支配のもとで生を全うしようとする姿が一途であったからこそ、いつしかその営みに抜き差しならない感情が繋がってしまうのだろう。それはモンキー(シャーリーズ・セロン)の脇腹を抉る鎖鎌の冷たい激痛を我がものとし、椀の汁に沈んだ具を探る愉悦でもあったのと同時に、もはや一切の動きを禁じられた人形という人間が演じる死ではない本当の死を目撃する瞬間でもあったのである。一つ悔いが残るとすればエンディングの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」の歌詞訳が字幕にならなかったことで、まるで書き下ろしかあるいはこの歌詞にインスパイアされて映画が出来上がった気すらすることもあって、この曲をよく知る人もそうでない人もみんなが共有できればいいのになと少しだけ残念に思ったりもした。
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2017年11月24日

ネルーダ 大いなる愛の逃亡者/おれの船に乗りたいか

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私は14歳のころには共産党の闘士で、11歳の頃からあなたたちブルジョワの清掃婦をしてきたわ。教えてちょうだい。共産主義の社会になったら、みんながあなたのようになれるの?それとも私のままなの?と、酒場で挑むように絡みつく女性に、ネルーダ(ルイス・ニェッコ)は「みんな私のようになれるさ」と、真顔でうそぶいてみせるのである。果たしてそれは嘘か真か、彼を執拗に追い続ける警官ペルショノー(ガエル・ガルシア・ベルナル)の道行きは、次第にその答えを追い求めるそれへと知らず変質していくこととなり、最期にたどり着いた場所でペルショノーが待ちわびたものはいったい何であったか、それを受け取ることでペルショノーはネルーダの一部、言葉のひとひらとなっていくわけで、チリの失われた愛人としてのネルーダを神話の怪物と称える手続きは伝記というよりは伝奇というにふさわしく、今作と同じ年に撮られた『ジャッキー』がやはりオールアメリカの寡婦としてジャクリーン・ケネディを神話に葬る儀式であったことなどすぐさま思い出してみれば、パブロ・ララインが求めたのは彼や彼女を識るというよりは精製された生の瞬間に感応することであったことが否が応にもうかがえるのである。したがって、既に死んだ人間に生を与えるという、映画だからこそ可能な魔術とそれが許される不遜や傲慢がここには溢れ出していて、『ジャッキー』におけるジャクリーン・ケネディとジャッキーとしての二重の死がもたらす死の通奏低音に対し、今作ではチリという国とネルーダの生に対する正当な貪欲とその理由が革命の記憶として憧憬されることとなり、劇中で一瞬だけ登場する若きピノチェトの終焉が描かれた『NO』など思い出してみれば、レネ・サアベドラは転生したペルショノーではなかったのかなどという、益体もない妄想すら許される気がするのである。スマートながら生まれと育ちの良くない役柄を演じる時のガエル・ガルシア・ベルナルはそのメランコリーが実によく沁みて、身長すらも武器に翳してみせている。ほとんど幽鬼のようであったジャッキーと、カリギュラのごときブルジョアの怪物ネルーダというキャラクターの切り出しとそれを悠然と維持するマジックリアリズム的な幻視はほとんどパブロ・ララインの独壇場といってもよく、特に今作における黒沢清もかくやというスクリーンプロセスの多用による脱構築的なノワールの手さばきとその夢うつつのままなだれこむ雪山の追跡におけるフレアまみれの幻想は、この映画全体がネルーダの詠う「詩」に他ならないことを告げていてその爽快で豪快な前衛には昂奮するばかりで、パブロ・ララインならマイケル・オンダーチェの「ビリー・ザ・キッド全仕事」の映像化が可能なのではないかとあらためて夢想などしてみるのだった。虚を突かれた傑作。
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2017年11月21日

ローガン・ラッキー/欲張りは泥棒のはじまり

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血と汗と涙でラストベルトがこれ以上錆びてしまうのは勘弁な、とばかりキング・オブ・デオドラントとして小粋に名乗りを上げたソダーバーグの面目躍如というか、遥か彼方の前作『サイド・エフェクト』でもアメリカという共同幻想へのらしからぬコミットを深めてみせたこともあったにしろ、その自嘲のステップから共感のコーラスへと振リ切った思い切りはソダーバーグなりの現状に向けたエールあるいは布告だったようにも思うのだ。この世界、とりわけアメリカは詐病とプラシーボでひりだした幸福の幻想に生きるジャンキーの国であることをエレガントな諧謔と皮肉で告げ口してきたソダーバーグのスマートからすれば、もはや仮想敵ですらない敵が日々視界と射程に入り続けるとあっては、そうした方法論自体が既に有効ではないという判断もあるのだろう。したがって、もうピカレスクでしか生きられないなら俺たちみんなピカレスクでいいよな、でもエスタブリッシュにはいつも気をつけてろよという一言を忘れないラストも、口調は親身で優しいけれどあくまで予断は許していないのだ。それにしてもである、説明的でも舌足らずでもないストレスフリーで雄弁なショットと、それをまるで物語の朗読のようなシームレスでつなげていく編集は、以前もソダーバーグを観る愉悦として書いたのだけれど、美しい紙に美しい万年筆で美しい文字が描かれていくのを見る快感としか言いようがなく、その手際をスクリーンで味わう快楽に再びまみえる喜びもひとしおではあるのだけれど、その過剰に的確な奏功が負け犬たちのピカレスクというメランコリーすらも超均質かつ細密にデザインしつくしたことで、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」をオリジナルアレンジで演奏するトーキング・ヘッズとでもいう奇妙な味わいが、まあそれはいつものことであるにしろ、最終的に生活の真実よりは大いなる詐病の誘いへと再びつんのめっていたように思うのである。3本脚の犬はジミー(チャニング・テイタム)のアンダードッグなサブリミナルで、クライド(アダム・ドライバー)の黒い左手はルークの輝く右手へのアンサーで、メリー(ライリー・キーオ)のマニュアル上等は手を動かさなくなった男たちへの中指か。兄妹の誰よりもスマートでタフでありながら、それをくすぶらせて生きるしかないメリーの目つきが彼女のシーンを寄らば斬るような苛立ちで染めあげるたびに惚れ惚れと見とれ、結果彼女がワタシのMVPとなって、丸腰でカメラ担いだザ・ワンマン・フィルム・アーミーのスクリーン帰還に華を添えた。
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2017年11月16日

彼女がその名を知らない鳥たち/おいしく食べるキミが好き

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※展開に触れています。結論から言えば傑作。

ついには陣治(阿部サダヲ)がジェルソミーナと化したのである。さあ種明かしをしますよと言われて見せられた種明かしがそうしたのである。となれば十和子(蒼井優)は当然ザンパノである。しかしイル・マットの不在により、ザンパノを惑わす者としての水島(松坂桃李)と黒崎(竹野内豊)の笑みすらさそう非道っぷりがこの映画を暫定サイコホラーへと引きずり込むわけで、『道』が降りてくるラスト数分まで誰もが誰にも感情移入など一切認めるはずもないまま、ちぎっては投げちぎっては投げ、いったい何を投げるかというとそれは糞であったというクズどもの動物園をサファリバスに乗って巡り続けるうち、いつしか俗は聖へと寝返りをうって、ああそういえば陣治の枕元には今もあの水槽があったなあなどとすべてのピースが啓示のように降り注いでは、宙に舞った陣治をキャッチした天使たちが明るい方へ明るい方へと飛んでいく光景すら見えた気もしたのだ。それもこれも陣治のジャンプに至る助走の、その背中を蹴り足を掛け首を絞め唾を吐きかける観衆の下衆が神々しいまでの歓喜に満ちていたからで、それを誰よりも煽動する十和子(蒼井優)でありながら、しかしその助走を止めることなど私にできるはずがないのだという譫妄と血の香りがする共依存の生み出す、これはもう誰も無傷で帰ることなどできそうもないというサスペンスの予感が煉獄の日々を撫でさすっては震わせ続けることになるのである。今作では白石監督の張りめぐらしたこの撫でさする感覚の厭わしさが主役といってもいいくらいで、それを充填した陣治、十和子、水島、黒崎が互いをまさぐって蠢くさまは俗の極みにおいてエレガントですらあり、ここまで余白や担保なく糞を描ける監督の地肩には惚れ惚れするとしか言いようがなく、十和子の髪を鷲づかみにしてダッシュボードに叩きつけ、トーキックで肋骨を粉砕する黒崎には竹野内豊の愉悦が、水際の遊歩道で十和子を跪かせてチャックを下ろす水島には松坂桃李の恍惚が滲んだようにも思えるし、何より阿部サダヲと蒼井優という、スペックの圧が強すぎてアンサンブルではそのコントロールに甘んじるように見受けられる2人が知らずそのリミッターを外したかのように映る爽快感こそが特筆されるべきで、この2人の生理的ホラー感があってこそ成立する作品などそうそうお目にかかれるはずがないように思うのだ。今作に限ったことではなく、善とか言う仮想敵を必要としないその凡庸に均された悪の世界、善い人のいない、悪い人たちと悪くない人たちが角突き合わせる世界をニヒルも絶望もなく生き生きと描く白石監督の颯爽をワタシはこれからも頼りにしていきたいと確信した。阿部サダヲと蒼井優の名前で高をくくった人にこそ薦める傑作。
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2017年11月14日

ノクターナル・アニマルズ/愛のヴィジランテ

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※未見の方にはノイズとなるかもしれないのでスルー推奨

フリーキーでモンドなダイアン・アーバス的インスタレーションを背後にひとり腰を下ろし、心ここにあらずといった風で放心するスーザン(エイミー・アダムス)の瞳がその2時間後に何を見ていたか、その軌跡をたどる物語はあえてミスリードのカーヴに突っ込んでコース取りに終始してスリリングではあるものの、愛の忠誠を知る者がその責任を果たすべく選んだたったひとつの冴えたやりかたは、それゆえ残酷な賭けとも言える問いかけを伴うことになるわけで、結論から言ってしまえばスーザンは失敗するのである。エドワード(ジェイク・ジレンホール)がスーザンに送った小説「夜の獣たち」をスーザンがどう読み解いたのか、現実で小説を読んでいるスーザン、それを読むスーザンのヴィジョンが投影された小説世界、スーザン史観により回想される過去、による3つの様相が互いをマウントしながらスーザン・モローという女性の実存をえぐり出すように彫塑していくわけで、トム・フォードの開陳するこの罪と罰のあまりの容赦のなさには「シングルマン」にただよった甘美な自罰の香りは一切見当たらなかったように思うのである。スーザンの投影によって小説内の登場人物トニーはエドワードの貌を持ち、妻ローラ(アイラ・フィッシャー)と娘インディア(エリー・バンバー)にはそれぞれスーザン自身とスーザンの娘サマンサ(インディア・メネズ、偶然にしろインディは一致すらする)の面影をしのばせている。その回想においてスーザンが自身の母親アン(ローラ・リニー)を否定すればするほどその呪縛に陥っていく悲劇は、既にエドワードが君は自分で自分を封印してしまっていると指摘した通りであって、「夜の獣たち」という小説内でトニーが獣性を解放し正義と復讐を遂行するその姿こそはスーザンが自身の封印を自らの手で解くことの暗喩だったように思うし、もう失うものは何もないとトニー(=スーザン)の復讐に法の埒外で手を貸し続けるボビー・アンディーズ(マイケル・シャノン)こそはスーザンの従者としてのエドワードだったのではなかろうかと、「妻はいない、子供は遠くにいるが助けにはならない」と絞り出すように答えるその姿にだぶって見えたのだ。しかし、前述したトニー(=スーザン)に託した暗喩を現実のスーザンが我がものとすることでしか彼女の幸福はあり得ないのだとするエドワードの願いが果たしてスーザンに届いたのかどうかと言えば、小説の暴力性に現実が揺らされるほど震えおののいた彼女は、その筆致をかつて自分がエドワードに指摘した彼の「弱さ」の克服と捉えたにちがいなく、エドワードを棄ててその元へ走った夫ハットン(アーミー・ハマー)との空疎な夫婦関係に倦んだ彼女は結婚指輪を外してどぎついルージュをぬぐい、エドワード好みのスーザンを装っては自分の望む男へと変貌した(であろう)彼との逢瀬に向かうのである。しかし小説内でのボビーが癌を患って余命いくばくもない男としてトニー(=スーザン)の前から消えていく運命にあったことを思い出してみれば、それこそはエドワードがスーザンに問いかけた最終テストであったに違いなく、スーザンがエドワードの願いどおりトニーを我がものと読み解いていれば、火曜の夜あの場所にエドワードが現れるはずなどないことに当然思い至るわけで、かつてエドワードがきみの瞳はお母さんと同じ悲しい瞳だと指摘した、もはやこの世界のどこを見つめたらいいのかすらままならないその瞳をラストショットに磔としたトム・フォードの、愛を信じることをしなかった人への静かな憐憫と酷薄な拒絶には身の凍る想いすらしたのである。そうやって愛という信仰に背いた人の地獄巡りを描くエレガントかつソリッドなショットは、次第に突発する暴力すらを宗教画の啓示と語り出し、ハイ・アートとテキサスの出会う場所に赤いソファを沈めては地獄の底と見立てるわけで、しかし実はそれすらも小説を読むスーザンのヴィジョンに他ならないことを想う時(例えばスーザンの自宅に飾られたアートフォトの中で、荒野でライフルを向けられる男の相貌はルー(カール・グルスマン)そのものではなかったか)、このすべては、寄る辺なく相対化され続ける世界の犠牲者たるスーザンへ捧げられたレクイエムだったようにも思うのだ。冒頭の外世界でほんの1秒ほどその影を見せて消えていくエドワードこそは、喪い続ける世界に愛を手向ける人トム・フォードのイドではなかったか。この人は愛こそがすべてと絶望している。
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2017年11月10日

シンクロナイズドモンスター/酔った断った勝った

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『ヤング≒アダルト』ミーツ『パシフィック・リム』と言ってはみたところで曰くいい難い映画なのは間違いないのだけれど、『ヤング≒アダルト』の部分が執拗に誘う痛みのせいで『パシフィック・リム』的な激突、というか喧嘩に思いがけないライヴ感が生じてくるわけで、けっきょく最後に決着をつけるのは“大人になる”という必殺技だったということになるのである。まるでAI化したかのような世界がすべてを先回りしてお膳立てしてくれるおかげで、ワタシたちは大人になったふりをした大人として何となく生きて行けてしまっているわけで、ただそれを端から見た時に、果たしてワタシたちはどんな風なスポイルの怪物として映るんだろうねという自戒と自虐と自爆が、この映画を笑うに笑えないけれど笑うしかないコメディとして綱渡りさせていたように思うのである。自分に都合のいいセーフティネットを見つけてはそこに逃げ込んで責任を逃れる術だけが次第に手慣れていく姿はまるで他人事ではなく、ああして世界の真ん中に晒されることで自分が何者で誰を傷つけているのかをようやく知ることになる残酷ショーは、グロリア(アン・ハサウェイ)の鏡像としてオスカー(ジェイソン・サダイキス)を配置することでその痛みの応酬がグロリアの目を覚ます手助けとなって、最後にグロリアが彼方へと放り投げたアレこそが彼女に巣食う怪物に他ならなかったということになるのだろう。と言った具合に予告篇のノンシャランでファンシーな印象からすると、40超えた大人の通過儀礼とあっては次第に口数が減っていくのもやむ無しといったところなのだけれど、例えば今作のナチョ・ビガロンド監督(スペイン)や『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』のマイネッティ監督(イタリア)、あるいは『マジカル・ガール』のベルムト監督(スペイン)といったように、サブカルチャーネタをメタ構造のツールとしてではなく人生に直結する手がかりとする虚構の借り方はヨーロッパの監督に共通する意識や思想なのだろうかとも思うわけで、サブだろうとポップだろうと人間が考えだしたことならそれはリアルな全体性としてのアートではないのか?という前提は日本はもちろんアメリカ映画にもあまりない距離感で、ギレルモ・デル・トロの真っ赤な幻視とティム・バートンの真っ青な幻視の違いもそんなところにあるのではないかと思ったりもしたのである。してみれば、リュック・ベッソンの恐るべき無邪気と無節操も、本人にとってはそれがあくまでアートの達成であるという点でまったく筋は揺らいでいないようにも思うのだ。今作にしたところで、監督は当初ゴジラとマジンガーZでヴィジョンを組み立てていたらしく、劇中のアレはグロリアとオスカーの子供時代に市販されていたソフビ人形に過ぎないというコンセプトからすればうなずけるとは言え、それを公式の場でおおっぴらにアナウンスしたことで東宝に怒られたエピソードも含め、ワタシたちはいかに自分で自分に枷をはめてしまっているのか考えさせられて、観終えて残ったのはどこか清々しいとしか言いようのない気分だったのである。アン・ハサウェイも何だかそんな顔をしていたではないか。
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2017年11月08日

IT/イット“それ”が見えたら、終わり。の優雅で感傷的な始まり

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当初キャリー・フクナガがメガホンをとると知った時に、もはや日常がホラーでしかない少年少女たちの孤絶と友情の物語がすぐさま頭に思い浮かんだのは、『闇の列車、光の旅』で描かれた痛切に引き裂かれる青春がキャリー・フクナガという名前と分かちがたく記憶されていたからで、その後『ジェーン・エア』にしのばせたゴシック・ホラーの香りなども思い出してみればプロデューサーは素晴らしい選択をしたものだと感嘆したのを思い出す。その後スタジオとの“創造上の相違”によってフクナガ監督は降板してしまったけれど、彼が脚色したシナリオが今作の背骨になっているのは間違いないように思うわけで、ビル(ジェイデン・リーバハー)の青白い傲慢やベヴァリー(ソフィア・リリス)を引き裂く光と影、そして登場する大人たちがすべて彼らや彼女に立ちふさがる存在であることなど、残酷な試練に満ちた通過儀礼の片鱗はあちこに見て取れる。恐怖の質については、あくまでも彼や彼女たち少年少女の抱える恐怖の投影であるために、Jホラー以降の裏打ちよりは80年代ホラーの頭打ちのリズムを反映させたこと(劇中の映画館で上映されているのは『エルム街の悪夢5』)もあって、神経を蝕むというよりは直情的にアタックする仕掛けとなっているのだけれど、開始早々にある人体破損を見せつけて今回のペニーワイズがどこまで何をするかあらかじめ宣言することで、その通奏低音が恐怖を鳴らし続けるようデザインしてみせたのはスマートだったように思う。原作を読んだ人には言うまでもない映像化不可能なあのシーンのオミットについてその是非をあれこれ言うつもりなど全くないにしろ、ベヴァリーが抱く恐怖の源泉となっている自らの女性性に対する怒りや困惑がいささか体よく使われていたこと(フクナガ版の脚本では薬局のくだりや日光浴のシーンにセクシャルなあてこすりはない)、とりわけベン(ジェレミー・レイ・テイラー)がキスすることで昏睡するベヴァリーが正気に戻るシーンはやはりバランスを欠いてしまうように思うのだ。ベヴァリーの部屋に緑色の表紙の「かえるの王様」の本があったことがその伏線になっているのだろうけれど、原作ではその行為によって自身の女性性への拒絶を母性に捉え直すことで仲間を鼓舞し絆を一つにしたベヴァリーの捨て身を、まったく正反対の扱いにした意図がワタシにはよく分からないのである。ジュヴナイルの構造以外を極力刈り込むことで善悪の図式を単純化した意図や、それによって広範な娯楽性を獲得したことは理解するけれど、そのためにあの同志たちがお姫様と騎士という定型になってしまうのだとしたら、あの夏に彼らと出会ったことで一瞬とは言え牢獄から解き放たれたベヴァリーがあまりにも浮かばれないように思ってしまうのだ。正直に言ってしまうと、ワタシはやはり第一稿の時点で「頼むからワーナーはこれをこのまま映画にしてくれ」とキングに絶賛されたフクナガ版のシナリオで観たかったと思う。これこそがベヴァリーだろう。

[STUDIO DRAFT 3-18-2014 Written by Chase Palmer & Cary Fukunaga]
BEVERLY : Guys, stop it. Focus.
Everyone turns to Bev. Their muse. Their light.
SHE TAKES EDDIE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES STAN'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES RICHIE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES MIKE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES BEN'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES Will'S FACE IN HER HANDS
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2017年11月06日

マイティー・ソー バトルロイヤル/風雲!アスガルド城

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MCUフェイズ3の幕開けとなった『シビル・ウォー』で起こした自家中毒が思いのほか重篤だったとマーヴェル的にも診断を下したのだろう、続く『ドクター・ストレンジ』『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』『スパイダーマン:ホームカミング』ではそのリハビリにつとめるかのように“成長”をキーワードに通過儀礼を描くことで、行って帰ってくる物語の風通しによってひたすらユニバース内の洗浄をしていたように映ったのである。そして今作では、あらたに登場した生き別れの姉ヘラ(ケイト・ブランシェット)を黒幕とすることでこのシリーズならではの家庭争議を継承しつつ、あくまで家庭の事情以上の共感や理解を求めもせずに犬も食わない喧嘩の高みの見物にとどめた無責任こそを、その全快宣言としていたのではなかろうか。入り乱れるキャラクターを、内省=サブテキストに頼ることなくセリフと動きによって作用と反作用の関係性を描き分けてなおかつ浮力を失わない立体的な演出は、タイカ・ワイティティ監督の過去作『シェアハウス・ウイズ・ヴァンパイア』で見せた小回りの効いた大騒ぎそのものだし、作品のコンセプトを十全に生かす能力さえあればキャリアの大小など一切不問とするマーヴェル・スタジオの慧眼恐るべしといったところで、そうしたケヴィン・ファイギの思想がトップダウンで浸透しているのがDCとの哀しくも決定的な差異となっているのだろう。今作ではクリス・ヘムズワースのみならずマーク・ラファロまでもが沖から次々とやってくる波を嬉々として乗りこなしてみせて、何しろトム・ヒドルストンの繰り出す丁々発止を基本ラインとする躁状態が最後まで途切れることがないし、白い方との契約が満了にでもなったのか、黒いケイト・ブランシェットが世界を跪かせるべくウキウキと満面の笑みで浅野忠信を串刺しにしてこちらも眼福このうえない。しかし、神話にオフビートのテイストが有効であることを探り当てた最大の功績は1作目におけるカット・デニングスの神様いじりにあったことは言うまでもなく、そんなこともあってムニョムニョ(ムジョルニア)の退場が少しばかり切なかったりもしたのである。そんなこんなで観終えてみれば、意味不明なのはともかく調子に乗った景気づけとしての“バトルロイヤル”はさほど悪くない気もしたわけで、つまりは徹頭徹尾そういう映画だったということに他ならず、そもそもどでかいハンマーをもって雷撃をぶちかましながら笑顔で暴れまくる赤いマントの神様が主人公なのだからこれで正解なのである。というか大正解。
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2017年11月03日

ゲット・アウト/怪奇!悪魔のホワイトサバービア

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※ネタバレはしてないつもりだけれど、念のため未見の方スルー推奨

リベラルを自称しつつ黒人の使用人を雇う恋人の両親、そしてなぜか黒人の主人公に向けられる使用人の敵意、といった導入が『招かれざる客』を下敷きにしているのは言うまでもないにしろ、50年前に撮られた映画の設定がいまだ有効であるという事実こそがこの映画に悪意と諧謔のツイストをもたらすわけで、ダイバーシティ時代のブラックスプロイテーション映画として隅から隅まで敷き詰められた確信が、ああこういう逆襲の仕方もあるんだなあとやたら痛快だったのである。白人が黒人に抱く超肉体への幻想は劇中でヒトラーの名前を出すことにより優生思想へと接続されつつも、お前ら白人はいつまでたってもどうしようもなくてホント笑わせてくれるよな、と都市伝説的な与太話として笑い飛ばしてみせるわけで、「トワイライトゾーン」風に罪と罰を検分してはサッと切り上げるラストも、超肉体とは程遠い黒人ロッド(リルレル・ハウリー)が悪の白人組織壊滅に一役買うという皮肉がまた愉しい。とは言え、黒人が外部的もしくは内部的に閉じ込められた社会の二重性を象徴する「沈んだ場所」というヴィジョンこそがこの映画の芯なのは間違いなく、土壇場のクリス(ダニエル・カルーヤ)がソファから詰め物の綿(これについては言うまでもない)を引きずり出して耳に詰めることで「沈んだ場所」に彼をしばりつける催眠術をかわすあたりのたたみかけには唸るしかなかったのだ。前述の『招かれざる客』や例えばロジャー・コーマンの『侵入者』にしてもあくまでリベラルな白人の送り手によるものだったことを思うと、そのリベラルすらを血祭りにあげて笑い飛ばす真っ当なやり過ぎの平衡感覚はようやくにしてだなあという気もして、『ムーンライト』の対極でこうした映画も喝采を浴びる健康はやはり眩しく感じられてならないのである。あらかじめクズとして登場し、そこからさらに腐っていく時のスピードでグルーヴする新種のホワイト・トラッシュとして、その地位を急速に確立しつつあるケイレブ・ランドリー・ジョーンズが期待に違わぬ登場と退場っぷり。キャスリーン・キーナーのキム・ディール化が烈しい。
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2017年11月01日

ブレードランナー 2049/泣いたふりをして遊んだ

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それがどうあれ、1匹の犬があれほどの神々しさを湛えていた点で何はともあれ継承は果たされたように思うのだ。物語の骨子としては思いのほかピノキオ神話の系譜に連なって、メランコリーの質としては『A.I.』との親和性を感じたりもしたわけで、K(ライアン・ゴズリング)はじめレプリカントたちはその諦念のようなロジックが声なき断末魔の中で幻視した「共感」と「自己犠牲」という人間固有のコードへと誘われるように没入してはみるものの、それら「共感」と「自己犠牲」を手放すことで可能となる合理を礎に進化を図る人間世界との逆転が、レプリカントにとってのディストピアをさらに進行させることとなり、終始物語を支配する静けさは降りしきる雪のように積もり続けるメランコリーがその叫びや嗚咽を無表情に吸い込んでしまうからであるのと同時に、人間たちはみんなどこかへいなくなってしまったという寂寥の徴でもあったのだろう。したがって、この世界でどこにも行くあてのないレプリカント同士の闘いはそれが主人たる人間に対する「共感」と「自己犠牲」の証明となるだけに熾烈を極め、わけてもラヴ(シルヴィア・フークス)はウォレス(ジャレッド・レト)への絶対的な忠誠と、人間の揺らぎを垣間見せるKへの同族嫌悪ともいえる敵愾心によって、ウォレスを脅かす世界を憤怒の形相で切り裂いていくのである。しかし彼女を単なる敵役として捨て置くわけにいかないのはマダム(ロビン・ライト)殺害時に流したその涙に虚を突かれたからで、それは果たせなかったウォレスへの忠誠とはまた別の、レプリカントとして、しかも女性のレプリカントとして胸に宿したある希望がむごたらしく打ち砕かれたことへの怒りが流した涙であったようにも思え、既に息絶えたマダムの髪を鷲づかみにして顔認証させた後でゴミでも捨てるようにその頭部をデスクに叩きつけた激情は、ネクサス8のレジスタンスたちの抱くそれと果たして違いはあるのだろうかと、Kの鏡像としての彼女もまたピノキオに取り憑かれた一人であることを知らされて胸に忘れがたく、2人が雌雄を決するシーンでスクリーンを埋めつくした逃れようのない苦しさは、必ずしも窒息を迫る描写のその凄まじさだけではなかった気もするのだ。彼女もまた夢を見たに違いなく、それこそはままならぬ者がままならぬ夢を見るという人間そのものの営みではなかったのか。彼女こそは孤児院で生き別れたもう一人のKであったというメロドラマすらを一瞬ワタシは夢想した。一方でKはさらにままならず、彼が何らかのスリーパーであったとするならばサッパー(デイヴ・バウティスタ)解任がトリガーであったかのようにKは緩やかに逸脱を開始し、ホログラフィーの恋人ジョイ(アナ・デ・アルマス)との関係を深めるためにエマレーターを購入しつつ、人間の上司ジョシ(ロビン・ライト)の誘いをやんわりと拒絶して、レイチェルとデッカードの関係を憧憬するかのようにジョイを抱きしめてみせるのである。Kはその優秀さゆえデッカードまでたどりついてしまうのだけれど、今作で明かされるレイチェルとデッカードと“タイレル”の関係(これには座席に座ったまま腰がくだけた)からすればKもまたデッカード同様に操られた男ということになり、カーヴを曲がりきれずスリップする男性性というヴィルヌーヴのラインをそこに見ることができる。ジョイの巨大ホログラフィーを見上げるKがすべてはままならぬ夢であったことを悟るシーンの、確かに哀しいけれどそれは君たちが考えているような哀しみではないとでもいいたげな笑わぬ笑みこそはライアン・ゴズリングの真骨頂だろう。ポップアイコンとしてのハリソン・フォードにもあらためて楔を打ち込まれる。今作において書き下ろしとなる外LAの光景、なかでも廃墟ラスヴェガスの創造はシド・ミードの手によっているようだけれど、スピナーから降り立ったKが彷徨う赤茶けた死の街はまさにベクシンスキーの描いた死滅した終末世界そのものであったし、既にヴィルヌーヴと切り離せない巨大建造物へのフェティシズムは実存のパースを曖昧に狂わせ続け、記憶の亡霊のように明滅するプレスリーやショーガールのホログラフィーにオーバールックホテルのボールルームが頭をよぎったりもしたのである。オープニングでクロースアップされる眼のショットに始まり、レプリカントに命を救われたデッカードは運命の女性に再会し、しかしそのレプリカントは降りしきる雨/雪の中で息絶えるというラストに至る2019年版への相似を信用するなら、これからデッカードは娘を連れて逃亡者となるに違いないはずで、もちろんその先の物語を求める気などさらさらないにしろ、ここまで歩みを進めたヴィルヌーヴの勇気ある挑戦こそは、35年前にリドリー・スコットを駆り立てた創造の闘いへのリスペクトであったに違いないと思うのだ。爆撃にえぐられる廃棄場で鈍色の空から降りそそぐ土塊を、スピナーを背に目を開けたまま見つめるKの視点ショットに宿った透徹した認識とそれゆえの完璧な虚無、それこそがこの世界の詩情だと描いたヴィルヌーヴの回答にワタシはうなずきたいと思う。でも、青いポリススピナーが翔ぶところは観たかったな。
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2017年10月27日

女神の見えざる手/アトミック・スローン

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エリザベス・スローン(ジェシカ・チャステイン)の怪物がもう一匹の怪物に喰らいついては躊躇なく喉笛をかっ切るサーチ&デストロイの、備えた暗闇に敵を引きずり込んではベアナックルとトーキックで殴る蹴るをためらわない理性と本能の神経戦はほとんどエスピオナージュとも言えて、そのあまりの寄る辺のなさに思わず「バケモノにはバケモノをぶつけんだよ」という名ゼリフを引き合いに出してしまいたくなる。したがってこの物語は、スローンの怪物の正体を描いて両義的な共感を引くというよりは、怪物の咆哮と蠢きによる畏怖と嫌悪という絶対的な感情を抽出して映画の強度を鍛えることにひたすら力を注いでいて、その怪物にして刺し違えることでしか突破口を見いだせないアメリカの怪物を可視化しつつミス・スローンの神話を書き記していくのである。エリザベスが生来の怪物なのか、深淵を覗いて生まれた怪物なのかその出自を知る由はないにしろ、怪物の牙と爪を維持する代償を払い続ける日々もまた神話の手がかりとして記されていくわけで、なかでも仕事の利害のはたらかないフォード(ジェイク・レイシー)を相手にくり広げる感情の殴り合いでは「わたしをマデリンと呼ぶのは母だけだった」「勝つためにはすべてを偽らなければならない」「だから普通で“まともな”生活など捨てた」と吐き捨てては、それを受け止めようとするフォードを、このまま自身の脈打つ内臓を晒し続けたら二度と怪物に戻れなくとばかり猛烈に拒絶するのである。エリザベス同様に自身を偽る職業でありながら劇中で唯一“まともな”血の通った人間として登場するフォードはその後もあるシーンでエリザベスの正気を下支えする働きをして、出番は限られながらもジェイク・レイシーが繊細に表したその孤独に伸びた背筋もまた忘れがたい。この映画がというか脚本が優れているのは、これをエリザベス・スローンの喪失と再生の物語、要するに行って帰ってくる雛形から蹴り出したところにあって、冒頭で女性の銃規制に対する風向きを変える仕事を名指しでオファーしてきたNRA(劇中では明示されていないけれど、まあそうだろう)の代表ビル・サンフォード(チャック・シャマタ)に対する破壊的な哄笑、それなりに私は自分の怪物を自覚してはいたけれど、そこまで破廉恥な案件を引き受けると思うほど私は下衆な怪物だと思われていたのか、と呆れるや何やらでおかしくてたまらないというバカ笑いが映画の最期でどこにたどり着いたのか、刑期を終え刑務所から出てきた彼女の、私はこの世界でたった一人自分だけを信用し自分だけを信頼することで闘いを勝ってきたし、それ以外に方法があったとは今も思っていないけれどなるほど世界に一人とはこういうことなのか、と諦めでも哀しみでも後悔でもない透明な孤独に吹かれる姿に、キリマンジャロの山頂6000メートル近くで凍りついていた豹の屍のことなど想い出したのだった。ほとんど彼女のペルソナにも思えるマデリン・エリザベス・スローンに向かうジェシカ・チャステインの憑依は、いったい役者として幸福なのか危険なのかそのラインからして既にスリリングとしか言いようがなく、やはり怪物を見たという以外にいまだ言葉が見当たらないままである。
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2017年10月25日

バリー・シール/オーバーワールドUSA

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トム・クルーズにもみあげが!そしてムーニングまで!とかいったレアなファンキーが跳ねまくってはいるけれど、ウェットワークによるマッチポンプを政治のダイナミズムとする集票と集金のシステムが国家レベルで構築されていくカーター〜レーガン時代の真っ只中で、バリー・シール(トム・クルーズ)がああやって人知れず散っていくのは時代の徒花として必然だったということになるのだろうし、パブロ・エスコバルを追いつめる実録映画『潜入者』で既に彼の末路を知っていた身としては、バリーをリクルートしたシェイファー(ドーナル・グリーソン)が差し出した最新鋭の小型機にクリスマスプレゼントをもらった子供のような目を輝かせた時点で、既にそのメランコリーは発動していたように思うのである。実際のバリー・シールはいろいろと毀誉褒貶の烈しい人だったようだけれど、ここではトム・クルーズが演じることによって、一度青春を終えた男が悪魔と契約することで再びファンダンゴの時間を手に入れるその罪と罰を狂躁の時代に重ねて見せつつも、まだまだ徒手空拳のピカレスクが可能だったRAWな世界をノスタルジックなファンタジーとして託したのが、トム・クルーズのもみあげだったのではなかろうか。妻への愛、子供への愛、アメリカへの愛、そして働くことへの愛、そうやって愛に溢れた人たちを、愛のない人たちが愛ゆえにと利用しては使い捨ててきたのがアメリカという国家であり、一方で愛こそがすべてと願い、愛なんて…とニヒルになれないでいるアメリカの、その馬鹿が付かない正直を一周した先の笑顔で演じるトム・クルーズには、顔で笑って心は真顔という倦怠がいい塩梅に滲んできたように思われて、いわゆる性格俳優的にではなくあくまで走りながら枯れていく前人未踏に今作でさらに踏み込んだように思うのである。そしてAeroplane StuntのクレジットにTom Cruiseの名前を見つけては、いったい製作費のうちトム・クルーズの保険にかかる費用はどれくらいなのだろう、邦画なら軽く1本撮れてしまうのだろうなと、狂気の沙汰と化したであろう現場にあふれるひきつりまくった笑顔の数々を想像してみるのだった。してみると、おそらく今作はさらに阿鼻叫喚の撮影となるであろう『トップガン2』で正気を失うための肩慣らしであったに違いない。今度はジェット機だ。
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2017年10月23日

アトミック・ブロンド/そのとき、私は…

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『裏切りのサーカス』ミーツ『ジョン・ウィック』とか、それってどえらいカッコイんじゃね?と広げた大風呂敷の気概は買うけれど、さすがに無い袖を振りすぎた感があるのは否めないわけで、もしエスピオナージュを本線とするならば、神経戦の圧力が最高に高まった瞬間、弁が吹っ飛ぶように炸裂するアクションこそがカタルシスを呼ぶのであって、それを最高の品質でやってのけた希有な例がグリーングラスのボーンなのは言うまでもなく、007がマクガフィン探しに徹しているのもあくまでアクションで大見得を切りたいからに他ならない。そもそもがダブルエージェントでも手に余るところをそれより先を欲しがるやんちゃっぷりには、はなから苦笑いで許してもらおうという魂胆が透けて見えていて、それはオープニングのニューオーダーから始まる脳天気な80sサウンドの乱れ打ち(ニューオーダーが脳天気というわけではないよ)にも明らかで、ア・フロック・オブ・シーガルズやリフレックスが壁崩壊前夜のベルリンにどうはまるのか、a-haが聴こえてこなかったのがいっそ不思議なくらいで、さすがにDAFとは言わないまでもデペッシュ・モードやソフト・セルにかすりもしない尻の軽さこそがこの映画の本線であることは早めに見抜いておいた方がいい。トビー・ジョーンズやジョン・グッドマンに涎を垂らしていると最後までおあずけを喰らうことになるのは間違いない。アクションに関しては、互いに疲労とダメージが蓄積していく消耗戦の描写、特にロレーン・ブロートン(シャーリーズ・セロン)がダニエル・バーンハードと室内を破壊しながら繰り広げる肉弾戦の息詰まる緩急にはさすが一日の長があって、デヴィッド・リーチが第2班監督であれば、せっかくの滋味溢れるアクションを監督が生かし切れてないのがなんとも残念、と斬って捨てたくなるくらいに、偏執的な長回しで生中継化するアクションは突出していたである。原作のグラフィック・ノヴェルを未読なので脚色については解釈しようがないのだけれど、正直言って回想形式が必要だったのかという疑問は残るわけで、おそらくそれはある理由によってジョン・グッドマンをある程度見せておかなければならないという事情もあるにしろ、ロレーンを信頼できない語り手として思わせぶりをコントロールしつつ、過去と現在の振幅をスリリングに増していく才まではこの映画に見当たらなかったように思う。しかし回想シーン最後でみせる黒髪のロレーンはほとんどイーオン・フラックスであったし、『ウォンテッド』『ソルト』といった香り漂う映画だとあらかじめ知ってかかればもう少し優しい気持ちで薄ら笑いをしていたのに、と悔いてはいないが少々愉しみそこねた気分ではある。トビー・ジョーンズ、エディ・マーサンといった名前、そしてベルリンという響きに夢を見すぎた罰にちがいない。しかし、あれだけ無節操に80sビートを塗りたくっておきながら肝心のこれが聴こえてこないあたり、やはりあてがいぶちのフェティシズムだなあと負け惜しみをやめることはないのであった。

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2017年10月22日

ブラッド・スローン/ジェイコブの剃刀

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ジェイコブ(ニコライ・コスター=ワルドー)が犯した唯一のミスといえば、運転中に後部座席を振り返ったそのほんの一瞬に過ぎなかったのである。しかしそれ以降、ジェイコブは刑務所でのサヴァイヴァルという負けたら終わりのトーナメントにおいて、生きのびるというその一点のため最適解とあれば殺人にも手を染め、地方予選からの連戦連勝の先にのみ甲子園の優勝があるように、状況の精確な判断とその実行能力において彼は勝ち続けるわけで、そのすべてが生きて家族の元に帰るのだという苛烈な動機から始まっていることを考えてみれば、そこにはどこかしら『ブレイキング・バッド』に通じるダーク・ビルドゥングスロマン的な側面も見てとれるのだけれど、ジェイコブがウォルター・ホワイトのごとく怪物化していないことは冒頭で獄中から息子に宛てた手紙に見てとれるし、何よりラストに用意された血のツイストは刑務所に収監されたその日からジェイコブの中身がまったく変わらずにあることを告げていて、すべてはただ家族のためにという彼の人生を賭けた想いを吸い込むサンタフェの高く遠い青空には、厳罰主義国家アメリカの虚無すらを見た気がしたのである。それは、もはや刑務所というコミュニティが社会と切っても切れない状況がもたらす犯罪の生活化とでもいう、法の番人としての警察すらも組み込まれた永久機関の憂鬱といってもいい。一度塀の中に足を踏み入れた人間は決定的に変質してしまい、もはや心は塀の外に居られないことをジェイコブは悟ったからこそ、家族を守るために究極の合理を弾きだしそれを実行したということになるのだろう。したがって、ジェイコブが食物連鎖の頂点に登りつめたとしてもそこにピカレスクの香りが一切しないのは、彼の装う怪物がすなわち家族を守る鎧になるという絶望的な皮肉によっているからに他ならず、怪物の装いとしてあえて全身に施した刺青の、胸元に並べた2つの名がかつての妻と一人息子のそれであったこと、そしてそれを2人が知ることは永遠にないことをワタシに告げては、では、お前ならどうした?と答えを聞く気などないまま問いかけてくるのだ。お前のいる世界が既に監獄だとしたら、理想を否定し現実を肯定する以外に道はないことを俺は証明した、反証を希望する、と脚本および演出を鋼の意志で完成させたリック・ローマン・ウォーが凍てつくような目つきで煽っている。
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2017年10月19日

アナベル 死霊人形の誕生/ユー・アー・ノット・マイ・サンシャイン

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※展開に触れていますので、未見の方スルー推奨

幽霊のファーストショットが白昼の暗闇であったというその宣言で、ああこれは大丈夫だと確信する。一番弱いものが狙われるというその寄る辺のなさと、その一番弱いものが逆転していくことによる奥底の屈託や憎しみの解放、などと言ってみればどこかしらキャリー・ホワイトの仁王立ちなど思い出したりもするわけで、納屋でビー(サマラ・リー)の貌をしたものに呑み込まれて以降のジャニス(タリタ・ベイトマン)は、その内部でかつてジャニスだったものが抵抗の素振りすら見せることのないまま、特にリンダ(ルル・ウィルソン)を弄ぶように追い回しては甘噛みするその半笑いに悪魔のというよりは思春の残酷を見た気もして、『ライト/オフ』をプロデュースしたジェームズ・ワンが有無を言わせずデイヴィッド・F・サンドバーグを今作に投入した理由に深々とうなずけた気もするのである。この監督は不協和音で不穏をつのらせるというよりは、光と影を倍音のように重ねていくことで、その濃淡のハーモニーに思わず気を許したこちらを光と影の落とし子たる闇へと誘い込む手管に長けていて、しかしそれを理詰めで追いつめない分だけ前作『ライト/オフ』などは冗長と捉えた向きもあったようだけれど、そのたおやかと言ってもいい手つきこそがこうしたクラシカルなゴシック・ホラーにあってはど真ん中で奏功したように思うのである。基本的にはチャッキーのような人形によるアタックはしないという前作『アナベル 死霊館の人形』のラインを踏襲していることもあり、光と影を駆使した予感と予兆によって悪魔と人形の二人羽織が真綿で首を絞めるように追いつめるやり口の妙については、これをある種の幽霊屋敷譚として名作『たたり(The haunting)』を参照していることを既に監督が公言しているわけで、たとえばスコープサイズの手前端に人物のクロースアップを置き、その反対側へと配置した背景奥に状況の変化をあるかなきかで映し出すショットなどそのオマージュとして麗しくも怖ろしく機能していたし、隙間から覗く、あるいは見えてしまうショットの多用も視る者の神経を知らずすり減らしていくこととなり、やはりホラーは削られてなんぼだなあと、目の奥の疼きと共に明るくなったスクリーンを見つめながら小さくため息などついてみたのだった。ジャニスを演じたタリタ・ベイトマンは、先だって観た『ヴェンジェンス』でもほとんどケイジを喰ってしまうような主役級の演技をタイトに凝縮した感情の出し入れによって見せていたのだけれど、ここでも遠い目と凝視、孤独と共感、無垢と邪の境界をたったひとり漂っては光と影の裂け目に消えていく役柄を嬉々として演じていたようですらあり、何だか小さなジェニファー・ローレンスを見ている気分にも思えたのである。ワタシはもう彼女の名前を記憶した。そう言えば母エスター(ミランダ・オットー)の部屋がまるで安藤忠雄であったよ。
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2017年10月17日

猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)/A Bathing Ape Shall Kill Ape

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原作に透ける政治的社会的な暗喩はともかくとして、オリジナルシリーズの猿が人間を支配する逆転世界のモンド風味を愛でる面白さに、エイプが完全な主人公となった今作でようやく手が届いたように思うわけで、このシリーズをあえてリブートするための言質で武装したようなドラマの重奏にこれまでいささか辟易としていたこともあって、これくらいの行き先知らずと出たとこ勝負がワタシにはちょうどいい湯加減となった気がするのである。しかし、正式ではないにしろプリクエル的なトリロジーを観終えた後でつくづく思うのは、結局エイプの進化というのは人間の「猿真似」なんだよねということで、オリジナルシリーズでは寓話的な入れ替わりに過ぎなかった社会性の獲得をこうやって真顔で説明されてみると、言語が思考を決定するという言語相対論(『メッセージ』で脚光をあびたサピア・ウォーフの仮説など)の適用がなされた結果(ある理由による人間の退化が言語の喪失から始まることにも明らかだろう)、人間の言葉をマスターしたことでエイプの思考はあくまで人間のトレースに収まってしまうのではないかという考えに至るわけで、単にガワが違うだけで感情も行動もまんま人間だよなあというエイプへの感嘆には、それは結局「猿真似」であってエイプ本来の性向をスポイルしてしまっているのではなかろうかという倒錯した気分もついてまわり、人間のような苦悩に人間のように悶々とするシーザーは既に一人の人間としか言いようがないことを思うと、オリジナルシリーズ『猿の惑星』におけるザイアスが何をああまで怖れたのかが今にして根本から理解できた気もするのである。だからこそリブートシリーズにおけるサブタイトルなしの『猿の惑星』が為すべきは「猿真似」から脱却した、まずは服を着ないエイプとその社会の成立であることに間違いないように思うのだ。リブートシリーズ中もっとも騒がしいケレンの中、その上滑りを抑えつけるようなシーザー=アンディ・サーキスの眼力は、かつて大物俳優としてスリップストリーム映画に先陣を切って名前を連ねたチャールトン・ヘストンの重厚をも思わせて、ウディ・ハレルソンと対峙するシーンの火花散るスリルにはオスカーノミニーもさほど非現実というわけでもなかろうと、思わず猿を忘れたのであった。それにしても、エクソダスの最中あの大群の胃袋を満たす水と食料はどうしていたのだろう。彼らの神が果物を降らせたりしたのだろうか。最早それならそれでかまわないとは思うのだけれど、前作冒頭にわずかばかり狩りのシーンはあったにしろ、北米の低中緯度地帯の植生でどうやって彼らが生きているのか、次作があるならこのシリーズが避けて通る食糧問題の答えを早急に提示していただきたいと思う。ワタシがずっと悶々としているのはその点なのである。
posted by orr_dg at 14:58 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする