2022年07月16日

リコリス・ピザ/走る夢をしばらく見ない

Licorice_Pizza_01.jpg
オフィシャルサイト

フィリップ・マーロウを名乗るエリオット・グールドが深夜にキャットフードを買いにか、あるいは郊外のウェイド邸を目指してか、リンカーン・コンチネンタルをサンフェルナンド・バレーに転がした1973年のロサンゼルスを、かつてフェリーニが愛と幻想のローマを『フェリーニのローマ』や『甘い生活』でとらえたように、ポール・トーマス・アンダーソンは憂鬱なハッピーと狂騒のペシミスティックを偏執的な編み目でつづれ織っていく。始まってものの数分で、「ぼくは結婚したいと思う女性と出会ったんだ」と弟グレッグ(マイロ・ハーシュラグ)に告げるゲイリー(クーパー・ホフマン)は、5時の鐘が鳴っても家に帰らないアメリカの無垢とメランコリーの象徴として成長を求められない永遠の15歳を手に入れていて、もしここに推進されるべき物語があるとすればそれは、そんなボーイにミーツした10歳年上のガールとしてのアラナ(アラナ・ハイム)の目覚めということになる。ここでPTAが小骨を取り除くように避けたのは、成長という傲慢の香りする二文字を自らが謳う愚であって、相対を参照する生き方を強いられてきたアラナが、ゲイリーに振り回されながらサンフェルナンド・バレーで繰り広げられる、人種、政治、セレブリティ、マイノリティ、そして石油危機をめぐるささやかな地獄めぐりをすることで、自身の絶対性を手に入れるその姿をPTAは自身の投影としていたように思うし、その時の気持ちのまま今も自分は世界を見つめているだろうかという確認の時間がここにはあったようにも思うのだ。だからこそゲイリーとアラナは、かつてPTAがシネマスコープのスクリーンを手に入れた時の喜びを確かめるかのように、笑いながら息せき切ってシネスコの横長を右から左へ、左から右へとサンフェルナンド・バレーの通りを走りつづけるのではなかったか。そうやっていつしか映画の中で映画に溶けていくアラナ(「それって事実なの?ただのセリフなの?」)がその世界に殉じることで手に入れるハッピーエンドの永遠こそはPTAが映画を撮り続ける理由であり、ワタシが映画館で映画を観続ける理由なのだろうと、とても大切で決定的な答えを笑顔であっさりと手渡されて少しばかり茫然としてしまう。生まれ育った街に、屈託を飼い馴らす餌の手に入る映画館やレコード店や本屋があったことの僥倖をあらためて感じつつ、それを語ることがもはや遠い日の感傷や憧憬にしかなり得ない静かな憂鬱を知るからこそ、これまでずっと革新を更新してきたやアルフォンソ・キュアロン(『ローマ』)やケネス・ブラナー(『ベルファスト』)、クエンティン・タランティーノ(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』)といった監督たちがある種の終活でもあるかのように自らの三つ子の魂を映像化する熱情にうなずけもするわけで、だからこそ断絶や喪失を嘆くよりはその先でなお自らを鼓舞するPTAの青春プレイバックが眩しく愛おしくてたまらなく思えるのだろう。ニヤけた女たらしに思われたランス(スカイラー・ギソンド)が「ぼくはユダヤ教の家に生まれたユダヤ人ですが、自分の意志として無神論者となりました。この痛ましい世界に神がいるとは思えないからです。だからこの席であなたたちと共に祈ることはできないのです」とディナーに招待されたアラナの家で彼女の父親に言い放つガッツが好きだ。
posted by orr_dg at 13:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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