2022年05月19日

シン・ウルトラマン/そんなに人間は好きじゃないだろう、カラー。

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オフィシャルサイト

「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」ある局面でゾーフィがウルトラマンに投げかける言葉で今作のキャッチコピーにもなっているのだけれど、ウルトラマンが地球にやって来て以降の動向を注視していたゾーフィにしてウルトラマンがどうして人間にああまで入れ込むのか理解に苦しんでいるわけで、それはゾーフィならずともワタシも同様であって、ウルトラマンがよそで何を見聞きしたのかはわからないけれど、子供をかばって命をおとした神永(斎藤工)の自己犠牲より他にヒューマニズムの発露は見当たらず、あれがそこまでドラスティックな体験になるとは宇宙の美化委員を気取る光の星の人たちはそこまでナイーヴなのかと減らず口の一つも叩いてみるのである。その理由のおそらくは、いくつかのTV版エピソードをつまんでつなげたこの物語の構成がもたらしたもので、ウルトラマンで言えば全39話をかけて醸成された人間への感情や関係性を自明のこととして断りなく使い回してしまっているものだから、映画はここで何も育てることをしていないように思うのだ。それはウルトラマンと浅見(長澤まさみ)の関係にも顕著で、最期の闘いに向かうウルトラマンと浅見がそれを見送る屋上のシーンは、「ウルトラセブン」の最終話における“明けの明星”シーンをトレースする意志が明白だったにも関わらず、劇中では特筆すべき関係を育んでいないウルトラマン/神永と浅見の間にケミストリーが生じるはずもなく、血の通わないキャラクターで溢れかえる中いくばくかのカロリーが求められるたびに感情の要員として無茶振りへのリアクションを強要される長澤まさみが不憫でならなかったのである。そもそもが庵野秀明にしろ樋口真嗣にしろ、これまで「好き」が代弁する人間の絆や愛を衒いなく描けた試しがあったのかどうか、だからこそ手っ取り早く借り物に頼るしかなかったのではなかろうかと考えてしまうのだ。虚空に浮かぶゼットンの下、滅亡へのカウントダウンも知らないまま日々を過ごす市井の人々のショットなどそれらしくインサートはしているものの、例えば『世界大戦争』がたずさえた終末のメランコリーを真剣に欲したのだとすれば、禍特対のメンバーにおいて既婚者である田村(西島秀俊)や船縁(早見あかり)がそれぞれの家庭において、明かせぬ秘密を抱えたまま愛する人との時間をどう過ごすのか、透明な絶望を宿らせることはいくらでも可能だったように思うのだ。何ならある種の横断として田村のパートナーは女性である必要もない。そして何より、稀代のカルチャーアイコンを新たに更新するのではなく、ある種の人たちの感傷を慰撫するマーケットツールへ甘んじて転用した志には、それなりに慰撫されてしまった者としての後ろ暗さも相まって共感性羞恥を抱いてしまってもいる。地球における外星人の実存を問うやりとりがメフィラスとゾーフィと2度繰り返されるのもあまり上手くはないだろう。エスタブリッシング・ショットもないまま広角と仰角と俯瞰となめショット、すなわち実相寺アングルに明け暮れるドラマパートも思考の放棄をうかがわせて倦むばかり。それらすべてから解放されるファイトシーンだけずっと観ていたい。
posted by orr_dg at 16:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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