2022年03月21日

ガンパウダー・ミルクシェイク/フェミニストを撃て

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オフィシャルサイト

『オーシャンズ8』や『355』といったあたりの、界隈の刷新と更新を目指したはずの作品群が、功成り名遂げた俳優たちが気晴らしに集っては新春スターかくし芸大会(はたしてどの世代にまで伝わるかはともかく)的なノリではしゃぎまくるサロン系映画(ソダーバーグ・サロンやタランティーノ・サロン等々)の域を出なかったのは、手段の目的化という罠に落ち切実と必然を欠いた凡庸を誘ったからに他ならず、その点において監督/共同脚本のナヴォット・パプシャドは、すべてがうまく行ったとは言わないまでもこれは彼女たちにしか歩めないのだというその道筋を最後まで見失うことはなかったように思うのだ。それは、男性が行うことはあたりまえに女性も行うのだという書き換えというよりも、男性が行おうが行うまいが人間が行うことを私たちは行うし、それを塞ぐなら躊躇なく排除するというシンプルな原理であって、クライマックスのダイナーでサム(カレン・ギラン)の母スカーレット(レナ・へディ)が告げる「もう私たちは見ているだけでいるのはやめた。どちらにつくか決めることにするわ」というセリフと、そこから開始される大殺戮、すなわちバランスの破壊こそが冒頭にあげた作品に欠ける決定的な意志であったのは言うまでもない。アクションやその佇まいに散見されるクリシェやネオンカラーのポップとキッチュとグロテスクをシェイクしたオフビートの既視感にも関わらず、キャラクターたちが終始ヴィヴィッドな目つきと身のこなしを手放すことがなかったのは、そうした監督のヴィジョンへの信頼とその求心力によっていたことは間違いがないだろう。ラストシーンの車中で、運転してもいい?とねだるエミリー(クロエ・コールマン)をダメよとあしらったことで、母たちの世代からサムに継承された殺しの系譜をエミリーに及ばせるつもりのないことを暗示はするものの、8歳(と9カ月)の彼女が車の運転に味をしめるきっかけとなった地下駐車場でのサムとエミリーによる二人羽織のカーアクションにおいて、エミリーは知らないまでも(サムはエミリーに目をつむるように言う)追手の命を奪うという殺人の片棒を彼女にかつがせたのは、たとえそれがサムとワタシたち観客だけの秘密とはいえ少しばかり危うい道草ではなかったかと少しだけもやもやしたのは正直なところ。凄腕で不機嫌な女性の殺し屋という造型は「キリング・イヴ」のジョディ・カマーが登場と共にいきなり最高得点をたたき出してしまっていて、それをかわそうと意識すればするほど可動域を失う不利は、これから先いろいろなところで監督と俳優がそれを味わうのだろうなと少しだけ気の毒に思ったりもした。序盤で、ジョニ・ミッチェルやジャニス・ジョプリン(今作でもどこかで)に比べればほとんどインサートされることのない(『スーパーノヴァ』以来か)カレン・ダルトンの歌声が流れだした瞬間からワタシの点数は甘くなり始めたのだけれど、それをさほど引き締める必要のないまま幕を閉じたにおいて、カレン・ダルトンのハスキーがインサートされた映画にハズレなしという法則を、この先誰かがダメ押ししてくれることを願っておきたい。忘れるところだったけれど、クズにも質の良し悪しがあってだな、もちろん俺がどっちかは言うまでもないだろ、とはだけた胸元にクズの矜持をのぞかせたアダム・ナガイティスの分で星1つ上乗せしておく。
posted by orr_dg at 03:13 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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