2022年02月14日

クライ・マッチョ/盗んだベンツで走り出す

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ひたすら虚無を歩き続けた老境の木枯し紋次郎を藤沢周平が恬淡の筆で描いたかのような、漂泊の終りの思いがけない日ざしに思わず目をすがめてしまう。いろいろな人やできごとを見過ぎた俺はもうこれからは見たいものしか見ないのだとでもいう、老いらくのファンタジーが物語の底を踏み抜いていることはイーストウッドも百の承知の上で「おれたちが運び屋だとでも思ったか、この馬鹿が」とイーストウッド警察たるワタシたちを罵ってみせるばかりか、意味ありげに車のトランクから布きれをはみ出させては、これに気づいた誰かの連れてくるサスペンスでも期待したんだろ?え?とさらにおちょくせってみせるのだ。マチズモやミソジニー、ホモソーシャルの軸足を様々に入れ替えながら演じて撮ってきたイーストウッドが、マイクという老ロデオスターの言葉を借りて一人の少年を相手に伝えようとしているのは、マッチョであることには何の意味もない、人が彼をマッチョと呼ぶ時そこに見つけている勇気や闘志を何のために使うかが問題なんだ、マッチョと呼ばれることに人生の答えがあると思っているなら、お前がおれの年になった時、その手の中も胸の中も空っぽで何も残っていやしないよ、というどこか他人事ですらある醒めた悔恨の響きであって、孤高の背中なんぞにはとっくに興味も何もない、この手に何か手触りを与えてくれる人がいるなら俺はそこへと一目散に盗んだ車を走らせるよ、というラストの吹っ切れたような清々しさこそがイーストウッド91歳の心持ちなのだろうし、そんな風に生き延びた者の特権としてこの映画はあるのだろう。イーストウッドの中をさらさらと流れる水に浸した筆で描いた一筆書きのような登場人物たちは、相変わらず木偶の趣で奥行きの必要もないままただそこに居続けるばかりで、本当のことを言えばもう俺は実存のくびきとかそういうことすらどうでもいいのだとばかり、全ては全体性に均されて水のような感情に呑み込まれていくのだった。そして何より、そうそう誰にでも許されているわけではないこの異形(偉業ではない)の成果を目撃できるめぐり合わせを、ワタシは感謝したいと考える。それはまるで、ついには光に溶けて消えていった晩年のターナーのような越境にも思えたものだから。
posted by orr_dg at 01:45 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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