2022年01月29日

スティルウォーター/泣くのが怖い

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オフィシャルサイト

「竜巻がこの街をめちゃくちゃにしたのも今度が初めてってわけじゃないんだろ?」「でも住んでたらやつらはまた戻ってきてここに住むんだぜ」「アメリカ人は変化が好きじゃないからな」何気ないように思われた冒頭のメキシコ人たちの会話がどんな風にめぐりめぐってビル・ベイカー(マット・デイモン)の身にふりかかり、「人生は冷酷だ、すべてが変わってしまったようにしか視えないし、視えているものが何なのか何もわからない」と押し殺すように独白させたのか。かつて『扉をたたく人』で、911によって正気と狂気に引き裂かれたアメリカにその分断された世界の相対性を迎え入れる覚悟を求めて絶対性の愉悦に訣別を突きつけたトム・マッカーシーが、おそらくは幾多の絶望の末なのだろう、いっそうの寄る辺ない荒療治をアメリカ=ビルに施して相対性の地獄に放り込んでは、すべてを取り上げられた彼を混乱させ途方に暮れさせて、ゼロから始めるしかない場所までひたすら追い込むことただそれだけを映画に課している。自分の目に映るものと自分の手に触れるものを世界のすべてとして愚直に生きることしか知らず、それゆえ夫としても父としても他者=世界への想像力を圧倒的に欠くビルは取り残されたアメリカそのもので、しかしそこが言葉も通じない異国の地であったことで図らずも彼は大きな子供としてリスタートするチャンスを与えられ、親子が互いを尊重し責任を課すヴィルジニー(カミーユ・コッタン)とマヤ(リロウ・シアウヴァウド)との生活が彼の目と手に奥行きと思慮を育てて疑似家族すらを可能にすることとなる。しかし、ビルがそれを構造的に理解していたとは言わないまでも、アリソン(アビゲイル・ブレスリン)をめぐる事件の一連において自分の娘にもまた差別と分断のまなざしが宿っていたこと、そしてそれが引き起こしたことによって自分はヴィルジニーとマヤと巡り合い最後には引き裂かれたことを、ラストシーンのビルはいまや知ることができてしまうわけで、前述した「人生は冷酷だ、すべてが変わってしまったようにしか視えないし、視えているものが何なのか何もわからない」というビルの言葉は成長痛のようにその胸へと突き刺さり、世界と相対的に向かい合うということは少なからず政治的な生き物として自分を捉えなおすことで、それを成熟と呼ぶことをトム・マッカーシーはアメリカに求めていたように思うのだ。飼い主がいなければ生きていけない野生動物という矛盾を、それこそはアメリカそのものなのだけれど、終身刑の囚人にして模範囚であり続けるかのようなその背中にデザインしたマット・デイモンの肉塊が時として神々しくすらもあった。
posted by orr_dg at 11:24 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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