2022年01月21日

ハウス・オブ・グッチ/アダム・ドライヴァーは二度死ぬ

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オフィシャルサイト

構造上2度ほど目にすることになる、自転車を漕ぐマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)の手放し運転の、わけもなく高揚した気分に思わずハンドルから手を放してはみたものの、やってみたらそれは自由でもなんでもなくむしろ無用の緊張を強いる行為であったという笑顔の行き止まりだけがこの物語で唯一目にした余白の瞬間であったという、すべての感情は映像でデザインすることが可能だと、特にダリウス・ウォルスキーのカメラと邂逅して以来それを信じて疑わぬサブテキスト殺しの御大が最適解を連ねた結果、絵巻物としては眼福ながらスマートで合理化されたフローチャートにタメや揺らぎはオミットされて、喜んだのはワタシの網膜だけだったという、ストレスフリーこそがストレスを生んでしまう御大の現代劇が時にきわどい陥穽のぎりぎりだったのが正直なところで、それが実録ものともなればなおのことサブテキストが生き延びる余地などなかったのだろう。問いが何なのかわからないままその完璧な答えだけを見せつけるのがリドリー・スコットの真骨頂だとすれば、“誇張しすぎた『ゴッドファーザー』”という問答をあからさまに許した上、本来であれば御大の作品であまり見かけることのない“怪演”をジャレッド・レトに与えたのも、ロドルフォ(ジェレミー・アイアンズ)という審美の恐竜が絶滅したことで転げ落ちたグリーディなトラジコメディをデザインする筆がいささかすべり過ぎたことの証ではなかったか。序盤でパトリツィア(レディー・ガガ)とボート遊びに興じるマウリツィオを見るドメニコ(ジャック・ヒューストン)の笑みにこそがグッチ家の命運が握られていたことを思い返してみれば、帝国の盛衰における彼の暗闘と暗躍にダイナミズムを見つけるのは容易いながら、いまの自分はアダム・ドライヴァーを殺すために映画を撮っているというオブセッションに御大は忠実であろうとしたようにも思える。必ずしもモデル本人に寄せたとも思えないジャレッド・レトの、とはいえアル・パチーノと絡んだときの妙な既視感がまさかのジョン・カザール寄せなのだとしたら、それはそれでもう何もいうことはないのだった。
posted by orr_dg at 03:17 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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