2021年11月22日

パワー・オブ・ザ・ドッグ/おれを殺すのは誰だ

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オフィシャルサイト

※原作未読。展開に触れています。

1920年代のモンタナで、イエール大卒にして古典を愛でつつ牧場主としてカウボーイの生きざまに世界の真実を見出しては社交の偽善と欺瞞をあざ笑うフィル・バーバンク(ベネディクト・カンバーバッチ)は、あたりまえのようにトキシック・マスキュリニティなセクシストとして登場し、牧場を共同経営する弟ジョージ(ジェシー・プレモンス)がフィルによる強権支配への反発の意も込めて一言の相談もなく決めた結婚相手ローズ(キルスティン・ダンスト)とその連れ子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)は、フィルのマチズモが支配する世界から弟を奪い去った盗人として燃えるような憎悪を向けられることとなる。フィルが言うところの、障害物は(乗り越えるのではなく)除去するのだという人生の指針からすれば、感情を内に秘め物腰はやわらかで社交に長けるジョージにとってフィルこそが障害物であったのは言うまでもないにしろ、ジョージの無邪気で無自覚なフェミニズムとリベラリズムの発露はフィルの憎悪をいっそうローズへと焚きつけるわけで、ではフィルという怪物化した障害物に誰が立ち向かい除去を試みるのか、物語はそのサスペンスを選ぶことでピアノ線のテンションをきりきりと絞り上げていく。と書いてみた構造のあまりの収まりの良さに対する違和感こそがこの映画の主題ともいえる気がするわけで、腺病質的な外見にミスリードされはするものの、総体としてのロマンチストであるフィルに立ちはだかるのが医学を志すプラグマティストとしてのピーターであったという構図は、物語の中盤からほとんど姿を消してしまうジョージとただひたすら被虐の人となるしかないローズにファイティングポーズすらとらせないことでより明確になっていく。ピーターを造形するある種の特異性が強化するのはあくまでプラグマティストとしての宣言であってその点で彼はブレのない一面的な存在としてある一方、ピーターとの邂逅によって、フィルのマチズモが生来というよりは1920年代のモンタナにおいて絶対に人目に触れさせてはならない自身の奥底に横たわる同性愛の資質を覆い隠すための鎧であることが暴かれていくわけで、それを感知したピーターは自身を餌にフィルを鎧を外した無防備へと誘い出すことで、なにより自身の未来を担保する母と継父にとって最大の障害物であったフィルを除去することにあっけなく成功してしまうのだ。文武に秀でつつ横暴な暴君として君臨した怪物フィルが、なぜかくも“あっけなく”斃れたのか。この世界の他の誰にも知られてはならない秘密を押し殺すためその反動をひたすら鍛えて叩き上げた強靭なカウボーイの鎧を脱いで、秘密を共有し世界のうつろいを語りあえる存在を目の前にした解放と昂揚のその致命的な錯覚こそが彼を斃したことを想ってみる時、マチズモの怪物が悲劇のロマンティストとしてその無垢をプラグマティストにえぐられ屠られる寂寥と哀切をぬぐうことが叶わない気がしてならず、自身の分かちがたいアイデンティティーがそのまま世界の障害物となる不幸と、たとえ他者にとって彼が除去されるべき障害物だったとしてもそのアイデンティティーに賢しらにつけ込むことで達成される幸福との釣り合いに生じる狂いこそが前述した違和感の正体なのだろうし、少なくとも自分の闇の奥と向き合うことで生きるための結論を出したフィルに比べると愛を与えることの無邪気と誠実を見極められないジョージもまたローズの障害物たりえることを予感させつつ、愛を信じることも必要ともしない、愛から最も遠くに立つピーターが世界を操ることを告げるラストのほくそ笑むような冷ややかさは、愛ゆえに怪物となり愛ゆえに斃されたフィルに捧げるレクイエムの変奏にも感じたし、トキシック・マスキュリニティを糾弾し葬り去るのではなくそれがどこからなぜやって来てしまうのか、この映画のもっとも静謐で美しい瞬間がどのシーンに与えられたかを想い出してみれば、危ない橋を渡るのは承知の上でジェーン・カンピオンがフィルの死と引き換えにそれを代弁したことは明らかだったように思うのだ。怪物の苦悶と嗚咽のように弦を震わせるジョニー・グリーンウッドのスコアを従えて、ベネディクト・カンバーバッチが近年では最良にして最凶の憑依と献身とで監督の荒ぶる野心に応えている。
posted by orr_dg at 19:25 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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