2021年11月03日

キャンディマン/なめたらいかんぜよ

Candyman_02.jpg
オフィシャルサイト

『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』がジェントリフィケーションという名の搾取が生み出した幽霊屋敷の呪いを断ち切る物語であったとするならば、これは失敗したシカゴの公営住宅プロジェクト「カブリーニ・グリーン」にかけられた呪いがジェントリフィケーションによって呼び覚まされる物語であり、オリジナル版『キャンディマン』においてその呪いを断ち切ろうとしたのが白人であった一方、今作がその続篇というより鏡像として在る(それは既にオープニングのユニヴァーサルロゴに見てとれる)のは、黒人自らの手で継承されたその呪いが新たなキャンディマンを誕生させたラストにおいて明らかだし、かつての「カブリーニ・グリーン」で白人警官によって生贄にされたシャーマン・フィッシャーズと円環するように、新たなキャンディマンとなったアンソニー(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)が白人警官を片っ端から血祭りにあげるその姿は彼が黒人の守護天使としてあることを謳い上げすらしてみせるのだ。『ゲット・アウト』や『アス』同様、得体の知れない存在を実在のものへと形作っていくことで恐怖の質を現在地に接続する構造はこれまでのジョーダン・ピール節ながら、キャンディマンという既存のキャラクターを据えたことで恐怖の移動がドライヴしない点については、主人公アンソニーを恐怖に対峙する者ではなく恐怖の源泉そのものに変質させることでその道行きのサスペンスを共有する仕組みを成立させてはいる。ただ、せっかくジェントリフィケーションの先兵(ジェントリファイヤー)としての芸術家アンソニーを依り代としながら、アート業界による簒奪や欺瞞がスプラッターシーンのフックとして用意されるにとどまるのは勿体ない気がしたし、その舵の切り方が性急なこともあってスプラッターの撮れ高が不足したのかバスルームの大殺戮はいささか通り魔的に過ぎてとってつけたようにも思え(このシーンでアジア系の学生が先に帰って殺戮を逃れるのは、キャンディマンの呪いが向けられるのが非黒人なのかあるいは白人のみなのかというルールの回避にも映る)、直截的なテラーというよりはクリーピーな催眠性で首を絞めるジョーダン・ピールの話法からすると、監督のニア・ダコスタがそのいずれにも対応する気配をみせていただけに、おまえたちがおまえたちである限りその恐怖が止むことはないという実存ホラーのさらなるデモニッシュな幻視で「カブリーニ・グリーン」の呪われた登記簿を塗りつぶしてしまうことも可能だったように思わないこともないのだ。監督がそのあたりのフェティシズムに興味がないからなのだろう、いくつかある痛覚を刺激するシーンがさほどのえぐみを残さない点はやや食い足りないように思う。一線を越えていくホラーでは悪趣味とエレガンスは両立する。
posted by orr_dg at 17:52 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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