2021年10月27日

最後の決闘裁判/生きるとか死ぬとか神様とか

the_last_duel_05.jpg
オフィシャルサイト

第3章のみタイトルに付けくわえられた”TRUTH=真実”の文字。第1章にも第2章にも描かれなかった真実とはいったい何だったのかと言えば、それは藪の中の、藪の只中で寝台に抑えつけられたマルグリット・ド・カルージュ(ジョディ・カマー)の頬を伝い落ちた一筋の涙に他ならず、ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)にもジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)にも想像できるはずもないそれは、名誉とか誇りとかいった益体もない言葉遊びのずっと奥底で心臓の鼓動のように脈打つ人間の尊厳そのものであったに違いなく、自然を愛し文学を滋養としては自分がこの世界の理に連なっている手触りに確かめながら生きてきた一人の女性が、私は視えない人間ではないのだ、世界のここにいるのだと声をあげることで、顔色を変えた虚構と虚飾の世界がその口を押さえにかかる姿をワタシたちは何度目の当たりにしてきたことか。ここでは男たちがさして余白のない類型的な下衆として描かれる一方で、姑ニコール(ハリエット・ウォルター)や友人マリー(タルラ・ハドン)といった、声を上げたマルグリットによって声を上げない自らが脅かされたと感じる女性たちが後ろからマルグリットを撃つ姿の醜悪と哀れを繊細にとらえつつ、シャルル6世の妻イザボー(セレナ・ケネディ)やピエール2世(ベン・アフレック)の妻マリー(ゾーイ・ブリュノー)がふとした瞬間にみせる夫をとりまく世界への嫌悪をしたためることで、声を上げることのできない女性たちの屈託や怨嗟の諧調によって3部構成の物語がほどけてしまうことのないよう串刺しにしてみせていて、ともすればシナリオのコンディションに左右されがちなリドリー・スコットにあって二コール・ホロフセナー(『ある女流作家の罪と罰』)とベン・アフレック、マット・デイモンの仕上げたソリッドなオブセッションに満ちた脚本抜きにこの作品が成立し得なかったことは言うまでもないだろう。第2章でマルグリットが階段を逃げながら誘うように靴を脱いで裸足になったシーンは、第3章において慌てるあまり階段の角に靴をひっかけて脱げてしまうシーンへと書き換えられ、そうやって細部を催眠的に入れ替えながら三度繰り返してみせたあとで、その酩酊した頭のままなだれこんだ決闘場では、いつしか自分が目をぎらつかせ拳を振り上げる群衆の一人となって目の前の殺し合いに固唾をのんで身を乗り出していることに気づかされて、すべてが終わった後でマルグリットが馬上から夫と群衆に投げかける冷ややかで侮蔑し切った視線は図らずも人殺しを愉しんだワタシに向けられたようにも思え、あの不条理の極みともいえる空間を圧倒的な活劇の祝祭で抽出したリドリー・スコットのひんやりと暴力的な知性による剛腕に打ちのめされて二の句が継げないまま、真のサヴァイヴィーとなったマルグリットがこの世界で我が子だけに向ける笑顔に心の中で頭を垂れるしかなかったのだ。すべては頭の中で完成していて、あとはそれを汎用性のあるパッケージに移し替える作業でしかないとでもいうリドリー・スコットの、悪魔的とすらいえる澱みない解像度をいったいワタシはどれだけ認識できているのか胸に残るのは不安ばかりで、こんな風に何か自分が決定的な失敗を犯したような気分で映画館を送り出される監督が他に思い浮かぶことはない。ひとつ難をあげるとすれば、ピエール2世の倦怠と退廃がピカレスクとして成立してしまいそうなところか。ル・グリに邪な囁きを続けるルーヴェルを演じたアダム・ナガイティスをベン・フォスターの跡目として心に刻んだ。
posted by orr_dg at 14:34 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。