2021年10月20日

DUNE / デューン 砂の惑星 : Part1 砂の中のナイフ

dune_06.jpg
オフィシャルサイト

過去と未来が交錯する母と子の物語を怪物の咆哮とともに岩と砂の大地へと刻みつけ(「灼熱の魂」)、つきつけられた切っ先を運命と呼ぶならば、真の救済は運命を受け入れることではなくその刃渡りをしてさらに運命の先へ向かう人にこそ訪れることを告げつつ(「プリズナーズ」)、見間違えようもなく見ればわかるものを撮りながら、それが組み合わさった瞬間に意味は霧散し観客はそこに取り残される不安への恍惚とともに自らの経験と認識を頼りに彷徨を始め(「複製された男」)、運命論的な選択への諦念ではなく決定論に対する自由意志的な決断の疼きを確かめてみせ(「メッセージ」)、実存のパースを曖昧に狂わせ続ける巨大建造物へのフェティシズム(『渦』における巨大ダム、『複製された男』におけるトロントの高層ビル群)がより洗練されたシグネイチャーとして脱走を阻むかのように神経を塞ぎつづけるこの映画をヴィルヌーヴが現時点での集大成として撮り上げたことは言うまでもなく、おまえのいる世界を全身で知覚しろと常に語りかけてきたその作品こそがワタシたちの意識を拡張するスパイスであったことにどこか感傷すら覚えながら思い至ってしまう。ワタシたち人間が「個」であろうとすればするほどその「差」はいつしかシステムの強度を要求して政治を生み出し、しかしワタシたちは「個」であるがゆえそれと闘わなければならないというその「個」と「差」のメランコリックで暴力的な関係こそが「世界」であることを、ワタシの知る限り『渦』からずっと描き語り続けてきたヴィルヌーヴ自身の光と闇を潜った奥底からの心象であったからこそ、この映画はパーソナルフィルムのような密室性で砂漠すらを捉えつづけたように思うのだ。『プリズナーズ』において、常に備えよ(Be Ready)、すなわち世界の不安定を理(ことわり)で杭打つ存在であれと父親に育てられたケラーが偶然と必然の十字路でその祈りを拒絶されたことを思い出してみれば、そうした役割を予知し自認して生きてきたポール(ティモシー・シャラメ)が他者の生命を奪うことで殉教を拒絶し祈りを破壊した行為は、「個」と「差」を繋げる鎖としての暴力が未来を切り開くことを告げてもいたわけで、それこそがヴィルヌーヴ作品にまとわりついて離れない仄暗い不穏の正体であることを明かす瞬間をこのパート1のクライマックスに据えた点においてその確信を解き放つ覚悟と野心がうかがえたのではなかったか。そんな風にしてヴィルヌーヴによる記憶の宮殿といってもいいその一部屋一部屋に飾られた絵画のようなショットの連続でできあがったこの映画からワタシが一枚を選ぶとしたら、裸で椅子に沈みこんだ瀕死のレト公爵(オスカー・アイザック)を眺めながら食事を貪るハルコンネン男爵(ステラン・スカルスガルド)をまるでベラスケスのようにソリッドな光と闇で描いた題名「公爵と男爵」一択となるのは言うまでもない。今こうして『ヴィルヌーヴのDUNE』を観終えてみると、『メッセージ/Arrival』の一卵性双生児にも思えた『最後にして最初の人類』はヨハン・ヨハンソンが夢想したアラキスに他ならないことに気づかされ、彼の不在がかけた呪いにおいてこの映画は永遠の欠落を背負うことになった気もしている。
posted by orr_dg at 23:55 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。