2021年10月12日

007 ノー・タイム・トゥ・ダイ/最後にして最初のスパイ

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オフィシャルサイト

血にまみれた『スカイフォール』の手続きを経てMajestyでありMotherであるMを退位させたボンドは、まるで失われた青春を取り戻しでもしたかのようなその横顔で閉じられた『スペクター』で寄る辺なき世界からの逃走を成功させたのではなかったのか。冒頭、ヴェスパー・リンドの墓前で爆殺されかけたボンドは生涯の伴侶とすら思えたマドレーヌ(レア・セドゥ)をほとんどパラノイアにも思える激情で責めたてたあげくに打ち棄ててしまうのだけれど、この滑り出しはかつて愛しながらあるいは愛したふりをしては利用してきた女性たちの亡霊に深層で囚われつづけるジェームズ・ボンドの呪いを明かすことで、クレイグのボンドが最後に立ち向かう敵は自分自身であることを宣言したように思ったし、その寄る辺なき深淵にボンドをいかに誘い映し出すか、キャリー・ジョージ・フクナガを起用した理由がそこにあるとすればそれは慧眼であったように思えたのだ。駅でのマドレーヌとの別れまでは。しかしそれ以降、サム・メンデスが『スカイフォール』で行ったダークナイト的脱構築と、脱構築をさらに推し進めた『スペクター』が記号化した表層の狭間とで右往左往するジェームズ・ボンドは、旧友フィリックス・ライターから仇敵スペクターに至る彼の実存を裏付けるすべてを奪い取られるばかりか、彼に未来があったとすればその唯一の希望である存在すらが手の届かぬところへ追いやられてしまうのだ。そしてその死には優雅で感傷的な自己犠牲が許されるどころか、おそらくはジェームズ・ボンド史上初めての完全な敗北によって生還をあきらめるという、007というブランドの失墜すら招きかねないある種の無様で幕を閉じることとなる。しかし最期に彼がその表情にはりつける泣き笑いの表情こそは、かつてMが与えた人殺しの目つきと矜持との交換に差し出した素顔であったのかもしれず、すべてのジェームズ・ボンドたちがしでかした無邪気と無慈悲と乱痴気とそれらがもたらした恍惚とその詭弁への代償を払い続けたクレイグのボンドは、最期の瞬間に人間の復権を赦されながら、しかしその瞬間この世界から消えていくのだ。したがって、この映画が意味あることを語ったとすればそれは冒頭とラストの数10分のシークエンスに過ぎず、ジェームズ・ボンドを亡きものとするというこれまで誰も成し遂げなかったミッションを与えられたキャリー・ジョージ・フクナガがその間のおよそ2時間をどうしていたかといえば、口ごもったかと思えばどなり散らし哄笑したかと思えば泣き叫ぶ、ジェームズ・ボンドの躁鬱的な混迷と混乱をそのまま隠すことなく晒し続けたわけで、このシナリオが抱えるプロットの機能不全をそのままジェームズ・ボンドのそれへと照射する選択を、あらかたの開き直りといくばくかのあきらめとともにキャリー・ジョージ・フクナガは受け入れたのだろう。とは言うもののノーミ(ラシャーナ・リンチ)の実質的な007剝脱をわざわざ自主返納に言い換えるくだりだけは、これだけの手練たちが集まってなおあれほどの手抜きを許してしまうのかと、MCUの偏執的なブラッシュアップなら見過ごすことはしないだろう不完全に落胆はしたものの、その失敗の香りにうながされてようやく受身の準備をとれたからこそ、すべての元凶のはずのM(レイフ・ファインズ)がいったいどの面を下げてボンドを悼むのか心底理解に苦しむあのシーンですらも、ボンドもきみたちもすべてワタシと同じく失敗の産物なのだからと慈愛の気持でやり過ごすことができたのだろうと考える。たぶん世界は救って欲しくなどなくて、思い上がったものはこうして罰を受けるのだ。
posted by orr_dg at 16:23 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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