2021年09月22日

ドライブ・マイ・カー/カーヴをまっすぐ曲がる人

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オフィシャルサイト

文章では家福と表記される“かふく”を口にしてみればそれは禍福となるのが何より自然でふさわしく、「禍福は糾える縄の如し」と言ってみるその縄の虜であり続ける家福悠介(西島秀俊)がその縄を解くに至る物語としては原作短編を逸脱したと言い難いにしろ、文章上では黄色のサーブ900コンバーティブルの車内で金言と箴言を駆使した超絶カウンセリングで家福を寛解へと導く、かつて家福が亡くした娘が生きていれば同い年であった23歳の渡利みさき(三浦透子)から村上作品ではなじみのマジカル二グロとしてのマジカルウーマンという衣装を恭しくはぎとっては、家福の心配よりきみはきみの心配をするべきだと濱口竜介は全力で彼女のバックアップにまわるのだ。近年映像化された村上春樹作品のことを少し思い出してみると、『ハナレイ・ベイ』ではラストの大胆と言ってもいい書き換えによって主人公サチに再生の光をもたらし、『バーニング 劇場版』では原作において漆黒の塗布にとどめた世界の断絶を暴力で裂いて光を招き入れる試みを告げていて、そのどちらも監督自らが脚色したことを考えてみる時、原作のその先、もしくはその周辺あるいはその下層に村上春樹が隠し埋もれさせたものを彼らの解釈として抽出したのだとすれば、漂泊する女性たちの救済と原初的な暴力への憧憬こそを彼らはそれと決定したわけで、言い換えればそれらを原作からこぼれ落ちた(こぼし落とした?)色合いと手触りとして特定していたように思うのだ。してみると、今作ではその両者をみさきの救済および高槻(岡田将生)との邂逅として脚色したことは至極納得がいくわけで、村上作品を映像化する場合それらが拡張というよりは新たな補填や補完として現れるのは、それらをテキスト上の特徴的な欠損として捉えたからに他ならないだろう。ここでの家福からは致命的な傲慢や悪意は魚の小骨のように取り除かれて、せいぜいが高槻の配役をアーストロフではなくワーニャに変更することで彼の間男を締め上げるにとどめ、この世界にあらかじめある暴力の発火と発熱については高槻にすべて任せてしまっているものだから、みさきの発火装置として涙を流し仮初めの娘に再生のやり方を導くことが彼の役割として次第に浮かび上がり、親と子が互いを救い合うことで生き延びるという村上作品ではついぞなし得ない地点に映画の真っ赤なサーブは到達するわけで、映画にとって主題など邪魔なだけでさほど興味はないし、それよりは作品のナラティヴそれ自体をぼくは愉しんだ、とかいった村上春樹のコメントなどを妄想してみるのだった。境界でゆらぐ緊張の解放と圧縮をシームレスにつなぐ四宮秀俊のカメラは『へんげ(2011)』から『きみの鳥はうたえる』『人数の町』といった作品と共に10年を経て、現状最強といえる芹澤明子氏の座るテーブルについたように思われる。端正と抑制が透徹した彼岸を映す今作にあって、高槻を送ったホテルから離れていくサーブのリアウィンドウに、エントランスで仁王立ちになってこちらを凝視する高槻を認めた瞬間、世界のフレームが瓦解するかのようにガクガクッと揺れるカメラの凶度に、『寝ても覚めても』を観た時の濱口竜介はいつか正面切ってホラーを撮るべきだという願いにそれも四宮秀俊のカメラでという新たな願いを加えてみたのだった。
posted by orr_dg at 02:17 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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