2021年08月14日

すべてが変わった日/我らは廃馬を撃つ

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オフィシャルサイト

※知らない方がよい内容に触れています

マーガレット・ブラックリッジ(ダイアン・レイン)とブランチ・ウィボーイ(レスリー・マンヴィル)の2人の女性について言えば、陽の光を当然のものとしてそれが照らす道を生きてきたのか、それは求めなければ与えられないものだったからいつしか必要としなくなったのか、その違いに善と悪、正義と狂気という付箋を貼り付けてしまうのはあまりフェアとは言えない気がしている。それよりはここで行われたのが互いの正当性をめぐる激突であったこと、そしてそれら正当性が共に在ることを赦しているアメリカの混沌が彼の国の成熟を妨げ続けてきたことを、寓話と言うにはあまりに逃げ場なく苛烈に語ることに監督&脚本のトーマス・ベズーチャは憑かれてしまっている。彼が脚色した原作が同じ道をたどっていたのかどうかはわからないけれど、ここにあるのはコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で見通した、暴力が初めにあったとするならばそれは神の創造物にちがいなく、ならばそれを私たちは崇拝しなくてもいいのか、というアメリカの原風景に連なる光景だったように思うのだ。物語の性質としてブランチの内部は短く凝縮して描かれているけれど、マーガレットの密やかだけれど烈しい屹立については、冒頭で孫を沐浴させるローナ(ケイリー・カーター)から赤ん坊を半ば強引に奪いとってうっとりと湯浴みをさせるその表情と、その背後で冷ややかに義母を見つめるローナのカットにしのばされているし、そもそもがそんな風にしてブラックリッジ家におけるローナの序列を隅へと追いやったマーガレットの独善が、ローナの不幸な再婚を呼び寄せたことは言うまでもないだろう。ピーター(ブーブー・スチュワート)に対する理解と愛情の示し方にも明らかなように、マーガレットにとって他者との関係は馬を馴らすことと変わらぬ力の伝達であって、その力の絶対値においてマーガレットとブランチは鏡像の関係にあったともいえるように思え、マーガレットにショットガンで吹っ飛ばされるブランチの最期の言葉が「どうしてなのよ(Why?)」であったのも、あんたとあたしは交わるべきじゃなかったのになんであんたは一線を越えたのよ、という断末魔の疑問符だったに違いないと思うのだ。イノセンスの無自覚な暴力性が世界を泥沼にひきずりこんでいくアメリカの修羅をマチズモのくびきから逃れた地平で捉えなおす野心とその震えるような達成を果たしてこの監督がどこまで確信していたのか、それぞれに罪深きものたちが互いを潰しあって生き残った蠱毒がアメリカのスピリットをずっと更新してきたことを告げるラストの、硝煙と返り血が彩る寂寥こそをアメリカのポートレートと綴る、S・クレイグ・ザラーもそこに浮き沈みする潮流へトーマス・ベズーチャが合流したのは間違いのないところだろう。ケヴィン・コスナーの右手指が手斧で切断される映画がいまだこの世界に存在しうるのだ。
posted by orr_dg at 02:17 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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