2021年05月06日

象は静かに座っている/その気になれば泣くこともできた

Elephant-Sitting-Still_01.jpg
オフィシャルサイト ※wowow視聴

「おれの人生はゴミ箱だ。いくらきれいにしてもすぐにゴミがたまる。」ユー・チェン(チャン・ユー)はそれを嘆くでも自嘲するでもなく、しかし一度はそれに抗って敗れた絶望に餌を与えて飼い続ける忠誠心が彼を駆動させていて、その軌道が自分を世界から遠ざけ続けることを不思議そうな目で他人事のように眺めながら彷徨い続けている。ウェイ・ブー(ポン・ユーチャン)、ファン・リン(ワン・ユーウェン)、ワン・ジン(リー・ツォンシー)の3人はチェンの彷徨う軌道の住人で、劇中で彼らが口にして語る満洲里の象はその世界のマイルストーンのような存在として座り続けていて、かつて『欲望の翼』でレスリー・チャンがテネシー・ウィリアムズから引用した脚のない鳥の一節を想い出させたりもする。その最終形を知ることはなかったとはいえ香港の『欲望の翼』と、台湾の『牯嶺街少年殺人事件』という「総合小説」の表現を目指して達成した先達がどれだけフー・ボーの頭にあったのか今となっては知る由もないけれど、その2作にあって、というよりはウォン・カーウァイとエドワード・ヤンにあってフー・ボーが持ち得なかったものこそがこの作品を4時間弱のあいだ推進していたように思うのだ。そしてそれは、ウォン・カーウァイとエドワード・ヤンが作品に託した美しい時代の美しい時間とその喪失がもたらした強烈なペシミズムの決定的な不在であったに違いなく、今この瞬間が永遠に続けばいいのにと請う時間はこの234分の間ラストに至るまで一瞬たりとも存在することがないまま、最期の最期にようやく天啓のような瞬間が訪れるのだけれど、中国第六世代の著名な監督にして今作のプロデューサーをつとめたワン・シャオシュアイ(『在りし日の歌』)とのラストをめぐる意見の決定的な相違を知ってみると、資本主義と物質主義が食い散らかした残飯の捨てられたゴミ箱の時代のみを知るフー・ボーが最期に求めた仄かな救いにリアリズムを嗅ぎとれなかったワン・シャオシュアイへの、あなたたちが持ちうる時代の感傷もメランコリーも自分たちには存在しないのだ、そしてそのことを描くために撮ったこの映画をついにあなたは理解しなかったという断絶がフー・ボーを追い詰めたことも、その夭折の顛末を知ってみると想像に難くないように思ってしまうのだ。すべてがワンシーン・ワンショットのみで構成されるスタイルもまた、カットによる省略や誘導を作為として排除する潔癖のあらわれに思えはするものの、永遠に終わることのない日常を相手に逆流する血の契約をすることで、泥のような倦怠と意識の遠のく窒息を手に入れたのだろうと考える。おれはすべての他人が嫌いだし、弟も嫌いだとうそぶくユー・チェンが、弟殺しの犯人ブーと邂逅していくつかの言葉をかわすうち、もしかしたらあったかもしれない弟への感情をブーの中にみとめて知らず微笑んでしまう瞬間から先、暮れていく夜に灯る街の明かりがそれまで蒼白だったこの物語にうっすらと血を通わせて、ここがどんなゴミ溜めだろうと自分たちはここから始めていくしかないことをフー・ボーは宣言したのではなかったか。世界が刑務所なのだとしたら脱獄を勧めよう。
posted by orr_dg at 02:57 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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