2021年04月05日

ノマドランド/道はだれがつくったんだろう

nomadland_03.jpg
オフィシャルサイト

ファーン(フランシス・マクドーマンド)はヴァンがパンクしてもタイヤ交換をすることができないし、故障したヴァンの修理費も自分で賄うことができず姉ドリー(メリッサ・スミス)から借りるしかない。にも関わらず彼女は、借りた金の出どころである不動産業者の義兄に、人々に借金をさせて家を購入させることで金を稼ぐ偽善を説くのである。その後でファーンと姉の二人きりの会話から浮かび上がってくるのは、リスクを承知で人生の異なる側面を探らずにはいられず家を飛び出していった若きファーンの、遅れてきたビートニクのような(姉の言葉によればエキセントリックな)生き方は彼女生来のものだということで、必ずしもファーンが経済システムの犠牲者として選択の余地なくノマドの暮らしを送っているわけではないことを監督は誤解なく告げているし、「私はホームレスではない。ハウスレスだ」というもの言いにその矜持を宿らせてもいる。その一方で彼女はVANGUARD(先頭、先陣)と名付けたヴァンの中で、かつての「家」の生活にあった物や者の記憶に想いを馳せることを続けていて、誤ってデヴィッド(デヴィッド・ストラザーン)が昔なじみの皿を割った時には、烈火の如く怒ったあとで接着剤を使い修復すらして物に託した記憶への執着を隠すことをしないのだ。漂泊に誘われ続けるデラシネというには引きずったままの錨が背中に重く、しかしそれを断ち切った時の自分を手の内に実感できないでいるファーンは路上の先達たちとの邂逅を通して、手段でも目的でもないノマドとしての生き方がどこまで自分の本質を参照することが可能か否かを見つめていくこととなる。しかし、ファーンが路上で出会うリンダ・メイやスワンキーたちの駆るRVがドライヴァーと分かちがたくカスタマイズされ、まるでそれ自体が一つの思想であったように、ノマドという処し方を互換性のある概念としてとらえることの危うさは常について回るわけで、例えばビートニクがそうであるように、物質的および精神的な孤絶に自身を剥き出すことで実存と肉体が互いを定義し合う思想の状態であるのか、郊外の都市生活者ドリーが言うような、かつて開拓者たちが荷馬車で西部を目指したアメリカの伝統としてのスタイルを許容するのか、あるいはそうしたオプションすら許されないまま路上にはじき出された人たちの最後の縁(よすが)なのか、そのいずれでもありいずれでもなく混然としたこの物語はあくまでファーンというノマドの誕生を伝えたに過ぎず、次第に透徹していく名優フランシス・マクドーマンドの眼差しと、人間の思惑などお構いなしに荒涼かつ峻烈と横たわるアメリカの大地がつきつける普遍への誘いに目がくらみはするものの、なぜ劇中の彼や彼女らはみな白人なのか、もしもファーンがアフリカ系アメリカ人であったならガソリンスタンドの女性マネージャーは車中泊を見逃したりしただろうか、もしもそうしたさらなる底をファーンが見透かしていたとすれば、かつて最愛の人と過ごした「家」の裏庭からフェンスを通り過ぎ、果てしない砂漠の彼方へと透明な光差す絶望をまとって歩き出すショットで閉じるエンディングが監督によぎることはなかったのだろうかとも考えてしまう。あまりにも完璧なファーンのフェイドアウトに虚を突かれ心を乱した監督が、自身をなだめようとあのエンディングを書き加えたようにワタシにはみえた。
posted by orr_dg at 22:44 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: