2021年02月13日

わたしの叔父さん/生きているからこわいんだ

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オフィシャルサイト

クリス(イェデ・スナゴー)の起床から始まるオープニングからしばらくの間、彼女と叔父さん(ペーダ・ハンセン・テューセン)がふたりで暮らす日々の仕組みがサイレント映画のように描かれていて、それはふたりに会話がないままに成立する生活とその日々であることの説明でもあるのだけれど、儀式と言うには穏やかでやわらかいそれは、ふたりの以心伝心だけが紡ぐことのできるルーティンであり、14歳で母を亡くし高校生の時に兄を失い、その後を追った父の自殺によってひとり残されたクリスを引き取った叔父さんが、彼女とふたり時間をかけて作り上げたシェルターのような、時間と空間のグリッドでもあったのだろう。それは、ここにいる限りこれを過ごしている限りお前は大丈夫だ、わたしは大丈夫なのだという密やかな祈りのような生活でもあって、これがいつまで続くのか、いつまで続けなければいけないのか、それが永遠であったとしてもかまわないと思いつつ、すべてに避けられない終りがあるということは、これが様々な終りによって始まった生活であることを忘れる由もないふたりに常についてまわる呪いであり、それに向かう祈りの原理主義者としてことさらにクリスは跪くことを続けていて、それがこの物語を支配する静謐と仄かな不穏を連れ出している。それでもクリスは祈りと呪いのバランスを変えるべくわずかながら変化を目指すのだけれど、それはあくまで前述したグリッドの範囲を拡げる試みでしかなく、健康的(と言ってもそれは彼女の孤絶の外にいるワタシたちにとってだけれど)なやり方で彼女をグリッドの外へ連れ出そうとする獣医師ヨハネス(オーレ・キャスパセン)や合唱隊の若者マイク(トゥーエ・フリスク・ピーダセン)に対し、結局はNOと言ってグリッドの中にいることを選んでしまうのだ。ではその間、叔父さんはどこを向いていたのかといえば、わたしたちには死ではない終わりがあること、そしてその終わりがクリスにとっての始まりになることを、彼女を否定も支配もせず日々のあわいに沁み込ませるように告げていて、彼女が選んだ考えや結果を淡々と受け入れながらほんの少しずつ光の差す方へ向きを変えていく、自然を相手に生きてきた農夫の手つきと足どりがクリスを鎮めていくわけで、同じショットを繰り返しながらそこに映る微細な異なりをふたりの息遣いに変えていく語り口は監督がその影響を公言する小津安二郎への敬愛でもあるのだろう。ただ、そうした叔父さんの試みはあるアクシデントによって灰燼に帰してしまうのだけれど、ラストでは小さな終わりを告げるある出来事が食卓のふたりに訪れて、果たしてそれが天啓となるのか否か、ラストショットで初めてみせる監督の直接的な介入がもう一度クリスにチャンスを用意した気がして、もう頃合いだろう、幸多からんことを、そしてマイクと仲直りをと思わず祈ってしまったのだった。あんな風な拒絶のしかたはいくら意地悪な小津でも思いつかなかったに違いないから。
posted by orr_dg at 02:40 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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