2021年02月03日

花束みたいな恋をした/東京都下ラブストーリー

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「僕の目標は絹ちゃんと過ごすこの日々の現状維持です」非の打ちどころのない100%の祝福をうけて出会った麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が育む物語は、2人が同棲を始めたアパートのベランダで麦がそう告げた瞬間、現状維持のためにはお金が要る、しかしお金を得るためには現状維持を一時保留しなければならない、というキャッチ=22に麦と絹は、なかでも麦がことさら囚われていき、ブラック・ロジスティック、幻冬舎、フリーランス買い叩き、パズドラ、コリドー街、ITヤンキー、圧迫面接という傍若無人な定量化のアルゴリズムが2015〜2020年安倍政権爛熟の季節に重なって、いつしか2人は互いを部屋の隅へと追いやっていく。両親の広告代理店的なメンタリティを嫌悪する絹は、そうしたアルゴリズムへの警戒心が植えつけられているからこそ麦の言う現状維持に執着するのだけれど、田舎の旧弊な価値感と都会のスノビズムとのそれぞれから遠ざかろうと接近したポップカルチャーの場で交錯した2人に内在する眼差しが次第に遠ざかっていくのは、あらかじめ決められた道行きでもあったのだろうし、2人が口々に答え合わせする固有名詞ですらが界隈から一歩も足を踏み外さないアルゴリズムに依っていることもうかがえた気もして、かといってその功罪を問うことをすべきかといえばそれこそがこの時代の関係であったという証なればこそ、監督と脚本家は2人の育てた物語に健康的といっていい死を用意した気もした。そしてこの2人の物語に死をもたらすのが不治の病でも恋のさやあてでもない世界を規定するシステムそのものであったこと、そしてそれが、まずはお金の問題という姿をまとって2人の前に現れるのを新たなリアルの形とした点にうなずきはするものの、では月5万円の仕送りがなくならなければ現状維持は可能だったのか、そもそも学生が同棲を始めるにあたり、引っ越しや賃貸契約、家財道具の買い入れといった費用はどこからひねり出されたのか、何しろそれらが、麦の考える“生きることの責任”が世帯主=家父長的な意識へと直結して2人の物語を殺すことになるパラダイムシフトの手始めであっただけに「お金」の収支をシビアに詰めるお花畑の裏側も必要だったように思え、気分の醸成で寸止めしてしまう限り、一人暮らしをして曲がりなりにも生活の様々なサイズを知る麦とずっと自宅住まいだった絹という線引きがされてしまう危惧とすれすれだったようにも思えてしまう。カラフルで瑞々しいショットや主演2人のきらめきが覆い隠してはいるものの、2人が口にした様々な固有名詞たちが繰り出した世界に対するカウンターが青春の麻疹のような気分に消費されてしまうこと、変わってしまった麦に絹が無理やり“観せる”のがカウリスマキの『希望のかなた』であったというその視点の密かな傲慢など、悪意とは言わないまでも2人とその世代をどこかしら見切った感覚は、この物語をうっすらとした感傷とペシミズムでうっちゃってしまえるワタシも含めた世代―おそらくそれらは坂元裕二の射程にないのだろうけれど―ならともかく、麦と絹を等身大に映してしまう世代からしたら、刺されたあとでふと我に返り腹が立ったりはしないのだろうかと少しだけお節介な気持ちになったりもした。文庫本はちゃんと啓文堂のカヴァーでした。
posted by orr_dg at 18:48 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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