2021年01月18日

聖なる犯罪者/イエスはわかってくれない

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裁くことしか知らぬと思われたこの世界に、赦すことそれ自体を目的とするシステムを見つけたダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は一も二もなくそれに陶酔したのだろう。ダニエルのキリストへの傾倒が、必ずしも更生や改心によっているわけではないことはあらかじめオープニングで告げられていて、彼にとっての宗教はどちらかといえばドラッグに近いチャンネルとして開かれたようにワタシにはうかがえる。したがって、ダニエルを弟の仇としてつけ狙うボーヌスの挑発や暴力に少しだけ悲しそうな顔をして耐えてみせるその姿も贖罪というマゾヒズムの顕れに映らないこともなく、この時点でそれをダニエルに潜む光と影の二面性とみなすほどにはワタシは彼の光を信用してはいない。しかし、一度(少年院に入るほどの)罪を犯したものは神学校に入ることを許されないという規則によって、神父になり神の代理として赦すという行為を極めたいと願うダニエルの夢もしくは企みが打ち砕かれ脱線を始めた瞬間、ダニエルの車輪は別の線路を捉えてしまうこととなる。ここから先、ダニエルは神の恩寵ともいうべき様々な兆しをストリートワイズによって我がものとしては(そもそも司祭服をいつどこで手に入れたのか)、赦すという行為に手探りで耽溺し始めるも、ことキリストとそのシステムについてはいまだ原理の運用しか知らぬダニエルは野卑とすらいえるピュアネスで一点突破を図ることにより、彼を司祭とあおぐ村の閉塞と倦怠を少しずつ静かに揺らし始めていく。かつて村で起きたある悲劇によって村人から犯罪者のごとく苛まれる未亡人エヴァ(バーバラ・クルザイ)に寄せるダニエルの感情は、彼女を自分と同様に赦すことを許さない者たちに迫害される存在と見てとったのか、あるいはキリストをフルスペックで運用することの昂揚に衝き動かされたのか、いずれにしろここでダニエルがみせる、赦すことを許さない者を“赦さない”という攻撃的で破壊的なキリストのトレースによるショック療法がエヴァを苛む者たちを瓦解させ、最終的に彼女を救済してしまうのだ。服を脱ぎ刺青の入った上半身を会衆に晒して両手を掲げ自分の正体を明かすダニエルの姿は祭壇画の磔刑図に描かれたイエスのようでもあり、そうやって20歳の人殺しで偽司祭のダニエルはエヴァを苛む村人の罪を自らに負わせることで、赦すことを許さない者をも“赦す”という達成までも成し遂げてしまうのだ。しかしダニエルはエヴァが救済を獲得した瞬間を知ることもなく少年院へと連れ戻され、かつては頬を差し出すがごとくであったボーヌスを返り討ちにして血祭りにあげてしまうわけで、ラストのカッと見開いた目でこちらを見据える血まみれのアントワーヌショットに、誰も俺を赦さないのなら俺が俺を赦すことを受け入れろ、という聞こえぬ絶叫がこだましたようにも思え、かつて家業の大工を継がなかったある男のように、木工所の仕事を足蹴にしたダニエルがこの先の未来で何を語り何を説き、あげく何を従えることになったとしても、神の代理が投げ与える贖罪で生き延びるだけの世界はそれを受けいれるしかないことを覚悟しておくべきなのだろう。そしてワタシも、俗を喰らい聖をひり出す野生動物の無垢と狡猾をクリストファー・ウォーケンの眼で投射するバルトシュ・ビィエレニアを追い続けるしかなくなった。
posted by orr_dg at 21:13 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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