2020年05月31日

隣の影/#stayhome

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いったいどこまでが本気なのか測りかねているうちに、気がつけばのっぴきならない状況で身動きが取れなくなっていく両家の総力戦に『ロリ・マドンナ戦争』を思い浮かべてみたりもして、70年代初頭のテネシーのヒルビリーな片田舎だろうが、現代の幸福度ランキングで上位に名を連ねる福祉国家アイスランドのサバービアであろうが、人間はどこまでもやるせなく寄る辺のない生き物であることだなあという嘆息に今さらながら包まれてしまうのだった。どちらの作品にも共通するのはある人間の死がバランスを喪失する引き金になっていることで、『ロリ・マドンナ戦争』では馬の事故で亡くなったフェザー家の三男の妻が、今作ではコンラウズ(ソルステイン・バフマン)の亡くなった先妻がそれにあたるように思われる。インガ(エッダ・ビヨルグヴィンズドッテル)と隣家コンラウズの先妻との関係が直截的に描かれることはないものの、後妻としてやってきたエイビョルグ(セルマ・ビヨルンズドッテル)に対するインガの感情は劇中のトラブル以前から好ましいものではなかったことがうかがえて、それはおそらく、長男が失踪(実質的な自殺)した喪失にとらわれ続けるインガにとって、さほどの時をおかずして後妻を迎えた隣家コンラウズと早速の妊活に励む夫婦の姿はそうした自身へのあてつけのように映ってもいたのではなかろうか。『ロリ・マドンナ戦争』では息子の嫁の悲劇的な死によって屈託に捉われはじめた父親が土地の所有権争いによってその精神のバランスを決定的に失っていくわけで、対称/対照となる隣の芝生のその色が日々の地獄を悪化させる構図は、隣家や隣人を選ぶことはできない社会生活の地政学的なストレスへの暴力的な共感をうかがわせて、こうした題材への覗き見的な昂奮を禁忌のように誘いもするのだろう。そしてまた、『ロリ・マドンナ戦争』における三男と人質女性の恋模様がそうであったように、基本的には横並びのストーリーを立体的にするための縦軸として、インガの次男アトリ(ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン)の離婚騒動がインサートされていくのだけれど、彼の情けなさとだらしなさの理由を長男(=アトリの兄)の喪失に求めるあたりで、さすがにそれは都合の良い言い訳に過ぎるのではなかろうかと思わせたのち、いつしかアトリなりの諦念を浮かび上がらせたところであの幕切れが訪れることとなり、すべてが終わった後でふと気づいてみれば生き残った3人はすべて女性で、それに引きかえ男たちはまったく華々しいところのないまま無様に退場していくわけで、正真正銘のラストショットで待ちわびたあれがスッと現れた瞬間、日本語ではあの男たちの死にざまを犬死(!)と言うんですよと監督に伝えたい衝動で胸がいっぱいになったのだった。
posted by orr_dg at 02:03 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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