2020年05月08日

チャーリー・セズ マンソンの女たち/世界は終わらない

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オフィシャルサイト

あの時ほうきを投げ捨てて階段をほんの少し駆け降りさえしていれば、私の髪は長いままだったのではないか…、という叶わぬ妄想を叶えてみせたのが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だったことを想ってみれば、1969年8月はサマー・オブ・ラブの終焉というにとどまらないアメリカのイノセンスが永遠に昏睡した瞬間としていつまでもあり続けるのだろう妄執をあらためて知らされることとなるわけで、ここではシャロン・テートを救いだす代わりに、父親たちの支配する国アメリカで繰り返される父殺しの企てと、その敗北がもたらす怨嗟の犠牲となる女性たちの地獄が産み落とした私生児としてのマンソン・ガールズをメアリー・ハロンは取り上げてみせる。悪魔(=チャールズ・マンソン)崇拝の殺人者ではなく環境の犠牲者としての彼女たちに向き合うカーリーン・フェイス(メリット・ウェヴァー)は、ルル=レスリー・ヴァン・ホーテン(ハンナ・マリー)を突破口に彼女たちの洗脳外しを試みるのだけれど、エド・サンダースの著作「ファミリー」をベースにレスリーの視点を通してチャールズ・マンソンのポートレイトが描かれる回想シーンが、無垢の蹂躙をエゴからの解脱と幻想させるマンソンの手口とその生贄としてのレスリー、という計算された(もしくは手垢がついたといってもいい)構図をはみださないこともあって、現在地で対峙するカーリーンとレスリー、ケイティ=パトリシア・クレンウィンケル(ソシー・ベーコン)、セイディ=スーザン・アトキンス(マリアンヌ・レンドン)との間に生じる関係もまたカーリーンが“犠牲者”に抱くメランコリーに覆われたままその中へ仕舞われてしまう点で、1969年のレスリー・ヴァン・ホーテンがどこからやってきてどこへ消えていった女性なのかがお仕着せのまま終始したように思えてしまうのだ。中盤、スパーン・ランチに連れてこられた名もない女性が、バスタブから全裸で立ち上がって出迎えるチャーリーに「下品だ、あんたみたいな男に近づくなと父親に言われた」と吐き棄てて「豚みたいな顔をしたその女をパパのところへ送り返せ」と追い払われるシーンは、チャーリーが新顔の女性を籠絡する時にたびたび口にする、自らを「新しいパパ」とするイメージとの交錯において印象的なのだけれど、映画はそれ以上分析的になることもないまま、チャーリーに追い払われた女性とレスリーとを分けた“環境”を、カーリーンにとっては環境の犠牲者であるはずの彼女たちに見出すそぶりもなかった点でいささかもどかしくもあったのだけれど、レスリー・ヴァン・ホーテンのプロフィールを調べさえすれば容易に知り得る彼女があらかじめ備えた喪失と欠落からすれば、劇中の彼女にデザインされたマンソンの無垢なる生贄としてのイメージは、カーリーンがというよりはメアリー・ハロンによるいささか感傷的でファンタジックな設計がそうさせたということになるのだろう。そうやって筆を進めるにつれマンソンに囚われ始めたのか、マンソン・ガールズを彼に拮抗させるためのストーリーがやや強引かつ類型化し始め(例えば鹿革のくだりなど)、それに連れ現在地のカーリーンがストーリーから弾かれて舵を与える余裕がなくなっていった点でメリット・ウェヴァーの役不足を思わざるを得ないし、マンソン史観の更新よりはカーリーンとマンソン・ガールズとの神経戦にフォーカスされた物語こそを見たかったのにと口を尖らせてみたくもなったのだ。それだけに、メアリー・ハロンによるチャールズ・マンソン(マット・スミス)の仕上げには特筆すべき巧みさがあったものの、それがストーリーにおいて機能し始めた途端、理解可能な怪物として矮小化されてしまうことでマンソン・ガールズはもちろん彼女たちに対峙するカーリーンの屈託までもが共感可能な存在へと後退してしまうわけで、結局のところ彼女たちがなぜ凄惨な殺人を行うに至ったのか、理解できないということを理解したというトートロジーへの抗いとして、レスリーの抱くオルタナティブな悔恨で幕を閉じるしかなかったのはメアリー・ローハンの誠実な白旗だったのだろうと思っている。
posted by orr_dg at 23:58 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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