2020年03月20日

ジョン・F・ドノヴァンの死と生/ぼくの次に世界が幸せになりますように

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オフィシャルサイト

ラストシーンでの無邪気と言ってもいい憧憬にあふれたタンデムに、ドランがこれまでの作品でしたきたように自分を切り刻んで投影させることよりはフィクショナルな主人公の行動と感情によって翻訳された物語を綴ること、すなわち外の世界を借りることで内の世界の強度を高める汎用的な作家性の獲得を先駆者ガス・ヴァン・サントをモデルに果たそうとする視点を見たようにも思えたし、そう考えてみればこの映画の外と内、青と赤、冷静と熱狂の歪なバランスの理由が納得できるような気もしたのである。いつになくプロフェッショナルな記号をまとった役者を配置してその側(ガワ)によって虚構を均しつつ、しかしそれをコントロールしてしまう自分を自分で信用できないせいなのか、ところどころそれを自ら踏み荒らさずにはいられない自分に向けた意地の悪さが映画をあちこちで断ち切ってしまっていて、とりわけ、ジャーナリストであるオードリー・ニューハウス(タンディ・ニュートン)が成人したルパート・ターナー(ベン・シュネッツァー)にインタビューする現在パートの座りが最後まで落ち着かないままで、本来は政治がメインの“シリアス”なジャーナリストが、ハイプなショービズ絡みの仕事を見下して気乗りのしないまま彼に向き合うという設定が既にオードリーの不利を誘っていて、その瞭然を当然のように見抜いたルパートが、個人の尊厳が踏みにじられるという点であなたが取材してきた世界の格差と僕のこの話のいったい何が違うというんだとここぞとばかり責め立てるわけで、このあたりは、これまで極めてパーソナルな表象としてそうした差別と断絶を描いてきたドランの鬱屈をぶちまけていたように思えてしまうし、ジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)とルパートに立ちふさがるのが、ジョンの母グレース(スーザン・サランドン)や彼のマネージャー(キャシー・ベイツ)、ルパートの母サム(ナタリー・ポートマン)、そしてジャーナリストのオードリーといったみな女性たちであって、これまでずっと母殺しとしての母親との関係が作品の背骨となってきた定型に対する批評からの指摘に向けた回答なのか開き直りなのか、そのいささか偏った対立構造が、目指したはずの普遍化を妨げてしまっているようにも思えてならない。しかもこれに加えて、出演パートがすべてカットされたジェシカ・チャスティンまでが女性連合に加わっていたわけで、彼女の役がルパートやジョンのどちら側にどんな風に立つ人なのかはわからないけれど、どうせ破綻するのであればそのさらなる爆風に吹かれてみたかったと思ってしまう。すべてはオードリーを前に自分とジョンの過去を語るルパートの回想であることを思ってみると、果たして彼は信頼できる語り手なのかという疑念も湧いてくるわけで、このすべてはルパートがそうあって欲しいと願い再構築したジョン・F・ドノヴァンの死と生の物語だとすれば、女性たちのいささか一面的で図式的な描かれ方にもうなずける気がするし、ジョンをある種のイマジナリーフレンドとすることで自身の尊厳を維持し続けたルパートの旅立ちと訣別の物語だと考えてみると、外の世界に向けて走り出す幸福の予感だけに彩られた明快なラストに拍子抜けすることもないわけで、それはおそらく、自分には開かれたハッピーエンドを語ることが可能なのだろうかというドランの実験結果ということになるのだろうし、ならば必要なデータは充分採ったように思う。ほとんどセリフすらあたえられないジョンの仮初めの彼女はその傷を誰が癒やすのか。ドランがすべての人たちに血を通わせてしまう分だけ残酷は捨て置かれる。
posted by orr_dg at 14:58 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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