2020年03月15日

レ・ミゼラブル/大人たちを夜露死苦

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オフィシャルサイト

ワールドカップの優勝に歓喜する人々を、その感情の奔流に同調するでもなく見つめるカメラと、つかの間解放された肉体の群れを不穏に彩る音楽とで捉えたアヴァンタイトルが、あそこにいた幻想としての「フランス国民」と現実との分断を既に告げていたようにも思え、あの群衆に内在する暴力的な矛盾を抽出して純度を高め、それをたった一人の少年に射ちこむラストへの苛烈な円環を為すすべもなく茫然としかし目をそらさずに見つめることを要求する監督の、せめてこれを第一歩としない限り誰もどこへも行けないのだという祈りにも似た悲痛な願いだけが、この映画にほんのわずかながら残された救いの余地ということになるのだろうか。もはや分断のバランスそれ自体が機能不全という機能として存在していることの象徴が市長(スティーヴ・ティアンチュー)であって、彼にとっては分断を煽ることで生じる隙間こそがビジネスであり、ムスリムとしてコミュニティを精神的に束ねるサラー(アルマミ・カヌーテ)を敵視するのはその障害であるからだし、自嘲気味にピンクの豚を自称する白人警官クリス(アレクシス・マネンティ)は白人vs非白人の構図に骨の髄まで倦んでしまっている一方、彼のラインに乗って分断を泳いでいくしか警官として生き延びる術がないことへの諦めと抵抗とで実は溺れる寸前でもあるグワダ(ジェブリル・ゾンガ)の、それゆえの曖昧と不安定が分断のバランスを破壊してしまう点においてこの状況の地獄のような救いがたさがいっそう浮かび上がってくることとなる。分断を悪しきことと断罪し善性の光で照らそうと砕身するステファン(ダミアン・ボナール)の、倫理と常識が打ちのめされ怒り悲しむ姿にぬぐえない無力感は彼がワタシたち観客の視点としてそこにいるからであって、ロマのサーカス団長がイッサ(イッサ・ペリカ)を彼なりの愛情をこめて手荒くしつけるシーンで、余裕なく縮み上がり拳銃を抜いたステファンへの嘲笑に感じる居心地のわるさは、それがロマの知る境界の向こうを何も知らない能天気な“善い人”に向けられたもの、すなわち彼を通してワタシたちに向けられていたからこその気恥ずかしさであったようにも思うのだ。ならばあのラストで、さあお前はいったいどうするつもりだと決断を突きつけられるのが市長でもクリスでもグワダでもないステファンであった点で監督がワタシたちを逃がすつもりなど一切なかったのは言うまでもないし、年端もいかない子供に自分たちが今までしくじってきたすべてのツケを回し、なおかつ悪魔的で残酷な精算を迫る大人たちに対してすべての子供たちから下された鉄鎚を避けるすべなどあろうはずもなかったのだ。子供のノンシャランで日々をやり過ごしていただけのバズ(アル=ハッサン・リー)が、大切なドローンを失ったことで淡い恋までも失ったことを知る青い寂寥をたたえたシーンは、分断の場所に生まれたというそれだけで否応なしに政治的な存在になってしまう子供たちの呪いをたったワンカットで語ってみせて、エピローグで引用される「レ・ミゼラブル」の一節とともに、すべての人種も政治も宗教も超えてこの世界のすべての恐怖と悪意と憎悪から守られるべき弱者が誰なのか、殴ってでもわからせるつもりで監督はこの映画を撮っている。
posted by orr_dg at 22:33 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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