2020年02月05日

リチャード・ジュエル/ドーナツの穴があったら入りたい

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オフィシャルサイト

リチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)が犯人でないことなど観客であるワタシたちは百も承知であるにも関わらず、監督はワタシたちが彼に対して苛立ちや侮蔑の気持ちを抱くよう、まさにその一点のために微に入り細を穿つ手管を駆使して止まないのである。もちろんそれは、キャシー・スクラッグス(オリヴィア・ワイルド)による記事が喚起し醸成していくリチャードへの悪意を観客までも巻き込んで再現していく試みであるのは言うまでもないのだけれど、ここ最近のイーストウッド作品の、主役以外はみんな書き割りで済ませてしまう憑き物の落ちたような執着のなさもあって、いきおいリチャードの情動のみがこちらを直射し続けることとなり、してみるとそれはもはやメディア論であるとか衆愚の時代であるとかいった告発の筆というよりも、社会に追い詰められた人はそれが偽物/偽者だと心の奥底でわかっていても信じるふりを許してくれるものを信じてしまうのであって、その上っ面をもってそうした人々を蔑んだり理解を止めてしまうことの愚かしさを今さらながら説いているようにも思え、そんな風な映画を撮って大統領選を控えた年に公開することの意味を、それを知るべき人々は知るべきであるというイーストウッドのメッセージに思えたりもしたのだ。リチャードに訪れるエスタブリッシュと訣別することで独立した個人となる瞬間は、リバタリアンとしてのクリント・イーストウッドの揺るぎない信念にちがいなく、30〜40代の低学歴の白人という現在のアメリカで下層に追いやられる人たちのプロフィールを集約したようなリチャード・ジュエルが主役となる題材を選んだのも、その投影としてコントロールしやすいキャラクターだったからなのは間違いがないだろう。では、本来であればトランプの支持層となるはずのリチャード・ジュエルがリバタリアンとして覚醒したあとでどこに向かうのか、まずはアメリカの「リチャード・ジュエル」を正面から理解しようと務めることだと、めずらしくイーストウッドがお節介を焼いているようにも思えたのだった。書き割りとしての機能のみを要求された助演たちの中でオリヴィア・ワイルドは見事に役回りを全うしたものの、それが見事であればあるほど貧乏くじを引かされることとなり気の毒なほどである。一方でクライヴ・オーウェンの失敗したクローンのようなジョン・ハムはその木偶っぷりで役得。アメリカの無謬と誤謬を肥大した体内でシェイクし続けるポール・ウォルター・ハウザーについては、痩せたら負けという過酷なキャリアを道連れにしたネッド・ビーティ的な横断を末永く見守っていきたいと思わされた。でもこれが2010年代の事件だったらイーストウッドは本人をキャスティングした気がしないでもなく、果たして役者の振れ幅をあてにしているのかどうか、常に中央値を見つけて並べていった結果の完璧なメディアンという少々薄ら寒さすら感じる透徹した叙事はどこか彼方で流れる水のよう。
posted by orr_dg at 23:48 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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