2020年01月27日

マザーレス・ブルックリン/バース・オブ・ザ・フール

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オフィシャルサイト

ローラ・ローズ(ググ・バサ=ロー)がライオネル・エスログ(エドワード・ノートン)の背中からそっとすべらせたその手でうなじを慈しむように撫でてみせては彼を母親の記憶に恍惚と染めていく、その伏線と回収の切羽づまったような生真面目さこそが1957年のニューヨークという鈍色のソリッドな時代に4ビートの赤い血を通わせていく。原作での“マザーレス・ブルックリン”はライオネル、トニー(ボビー・カナヴェイル)、ギルバート(イーサン・サプリー)、ダニー(ダラス・ロバーツ)の4人の孤児を総称した“おふくろのいないブルックリン”だったけれど、エドワード・ノートンはそれを、ロバート・モーゼスをモデルにしたであろうモーゼス・ランドルフ(アレック・ボールドウィン)ら権力者が弱者を蹂躙することで産み落とされる“私生児としてのブルックリン”へとさらに解題し、アメリカという国と人が抱える闇と業を普遍と捉える物語とすることでその複層の交わるところを発熱させては運命のメランコリーを疼かせてみせる。終盤にかけて拍車がかかっていくローラの反転に『チャイナタウン』のそれがよぎるだろうことを監督は隠しもしていないし、となれば目指したのはノワールのゼロ地点、せいぜいが振り出しに戻るだけの倦怠が麻痺させる昂揚であったのは言うまでもないだろう。しかし監督はラストのゼロ地点をほんの少しだけらせん状に立ち上らせていて、孤児としてあり続けたライオネルと今や孤児となったローラが互いに寄り添うことで“私生児としてのブルックリン”と新しい家族を築くであろうラストの予感は原作からの正気と希望に満ちたジャンプとなっていたし、原作では最後の一文となった「話は歩きながらしろ(Tell your story walking)」からこの映画が始まっていたことを考えると、エドワード・ノートンはこの物語を変奏した続篇として描いた気もしてくるわけで、ならばほとんど20年を要したそのアクロバットをワタシは完全に受け入れた上で、なお原作に抱くのと変わらぬ愛情でこの映画を胸にとどめようと思うのだ。そして、トランペット・マン(マイケル・K・ウィリアムズ)としかクレジットはされないものの、明らかに「カインド・オブ・ブルー」誕生前夜のマイルス・デイヴィスとしか思えないトランペッターとの忘れがたい邂逅や、ライオネルを救うために彼が台無しにしたトランペットがまるでディジー・ガレスピーの愛器のように映るあたりもまたエドワード・ノートンが内部に育てていた偏愛の表れに思えたし、この物語にどれだけ取り憑き、あるいは取り憑かれ、一転してそれを醒めた目で解いた後にいかにして自分の物語として語り始めたのか、そんな風に世界でたった一人彼だけがあきらめることなく過ぎていったいくつもの夜があったのだろうことを想うとなおさらこの映画が愛おしくなってしまうのだ。ライオネルが叫ぶいくつもの”IF!”は、エドワード・ノートンがこの映画と共にあった日々に浮かんでは消えていった数え切れない可能性への鎮魂のように響いて仕方がなかった。立てたピーコートの襟がニューヨークの屹立を透かすように睨みつけている。
posted by orr_dg at 16:27 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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