2020年01月17日

フォードvsフェラーリ/おれの車にのりたいか

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オフィシャルサイト

レオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)がキャロル・シェルビー(マット・デイモン)に向かって「マイルズは、あれはビートニクだ…」と吐き棄てた瞬間、フォーカスがクリアになる。「フォードvsフェラーリ」というよりは「シェルビーvsビーブ」という構図に終始するこの映画でキャロルがレオと闘い続けたのは、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)という自らの肉体をラボに人間復権の臨床実験を行う男の、すなわちビートニクの体現者への憧憬と同志愛のなせるわざであったのは言うまでもなく、すでにケネディは斃れ、ヒッピーという大量生産されたビートニクの気配が忍ぶこの時代は、身体ひとつでシステムを打ち負かすアメリカの騎士を描くことのできる最後の時代でもあったのだろう。7000回転の向こう側へフリークアウトしたマイルズが疾走するミュルサンヌ・ストレートの真空のような静寂は、たとえば『断絶』のラストでドライヴァーが溶けていく虚無を想い起させつつも、しかしマイルズはそこから引き返すことを選ぶわけで、それはついに見るべき風景を見た達成感であったのか、シェルビーへの友情と仁義であったのか、あるいは永遠に思われた思春期の終わりであったのか、いずれにしろビートの天使マイルズはその翼を差し出して他者の幸福を願うことを選んだのであり、となれば、あのシフトダウンはいずれ彼を襲う悲劇のカウントダウンがスタートした合図ということにもなるのだろう。イノセンスの喪失とはすなわち死を想うことであり、本来なら映画一本が費やされるそのテーマをセリフもないたった一つのシークエンスで抉りだしてしまうクリスチャン・ベイルに、いったい役者というものはどこまで可能なのかと、自分が何の映画を観ているのか覚束なくなるくらいワタシも向こう側へと溶かされた気がして胸がこわれそうだった。スピードとは時間で、時間は生命あるものすべてを支配することを思えば、スピードに抗う者たちは束の間ドライヴァーズシートで神を演じることが可能であると同時にそれを求められることとなり、そのためには下界の合理を棄て去る必要があることを識らなければならないわけで、そのキャリアをドライヴァーからスタートさせたエンツォがフォードを醜いと言うのはそこに神の合理が宿るにふさわしいシートを持ち得ていないからだし、してみればシェルビーがフォード2世をドライヴァーズシートに縛りつけてスピードの只中に放り出した荒療治に涙を流したフォード2世はそこに神の気配を感じたのだろうし、激闘を終えたマイルズとそれを見つめるエンツォの視線が交錯する時の昂揚に絡みつく、いささかの倦怠の正体が神々の憂鬱であったことは言うまでもないだろう。妻モリー(カトリーナ・バルフ)のみならず息子ピーター(ノア・ジューブ)もまた家族というよりは同志として描くさわやかな緊張感が神話にさらなる聖性を与えてやまない。不幸な天才の屈託と苛立ちを半ば嬉々として演じるマット・デイモンがクリスチャン・ベイルと取っ組み合いをする姿に『グッド・ウィル・ハンティング』の20歳が重なって見えた瞬間、アメリカ映画という在り方になぜ心惹かれてやまないのか、それは楽観も悲観も引き受けた上で世界の最善性を問い続け試みる生き方の証明だからなのだろうと、腑に落ちる音が聴こえた気すらした。
posted by orr_dg at 01:32 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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