2019年11月08日

マチネの終わりに/愛とは決して反省しないこと

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空間をケチらないロケーションや的確にデザインされた陰影をとらえるカメラ、ハイプなキャスティングもなくアンサンブルのラインも真摯に維持される中、蒔野聡史を演じる福山雅治だけがどこかしらリハーサルの風情のままもう一段(二段かもしれない)腰を落とす気配がないものだから、こちらはいったいどこまで真顔で追ったらいいのか最後まで遠巻きにしたままだったのである。深淵で怪物に喰われかける表現者の喪失と再生を刹那の愛に託すという筋立ては非常にわかりやすいものの、そのプロットの実践が演出者と演者とで決定的に乖離したままどうして映画が完成してしまったのか、その道程が理解しがたいというよりは純粋に興味すらおぼえたわけで、ある種の躁病的な饒舌という設定なのかと思った蒔野の軽さはそれが本質のまま覆されることもないものだから、蒔野が小峰洋子(石田ゆり子)を見初めるのは彼の勝手にしても、自分の人生をリスクに晒してまで洋子がそれに応える理由が何なのか、洋子の母(風吹ジュン)が言う「男の人に惹かれるのに理由なんかありゃせん」というセリフのままに洋子ですらがわからないそれをワタシが知る由などあるはずがなかったのである。それを取り繕うかのようにリチャード新藤(伊勢谷友介)は次第に精神の深みを欠いたいけ好かない人物として描かれ始め、そして何より、本来は蒔野と洋子とで拮抗した三角関係を成立させなければならない三谷早苗(桜井ユキ)にしたところが、予告篇で印象的だった「わたしの人生の目的は蒔野なんです!」という彼女のセリフの絶望的な自己矛盾によってプレイヤーとして土俵にあがるべきところを単なる泥棒猫のような悪人として描いてしまう始末で、重力を無視した蒔野の磁場が映画空間を狂わせていくその様はなかなかに圧巻である。原作は未読ながら三谷の造型に関してはさすがに脚色のエラーだろうとは思うものの、これを蒔野と洋子の凡庸で下世話な悲恋に収束させるつもりであったならかなり意図的な書き換えということになるし、その目論見は鮮やかに達成されたといっていいだろう。そもそも恋愛とかいう人間の実存的な行為に対する問いも答えも明快に存在するわけはないにしろ、だからこそそこに至るまでの手続きは合理的かつ実際的に行われる必要があるに違いなく、さすがにハネケやファルハーディの綿密や緻密までを求めることはしないけれど、それを余白の抽象のまま投げ出してみたり(『楽園』)、あるいは今作のように破綻を来すほど矮小化してみたり、その責を観客に負わせることが映画の問いかけだというポストモダンの信念がいまだ邦画には顕著な気がして、断定のダイナミズムによる混乱と騒乱を待っているうちに何だか疲れて眠くなってしまうのだ。というわけで、あの暗証番号が目に入った瞬間、ブランキー者はいったい誰だ?と目が冴えた瞬間がピーク。
posted by orr_dg at 19:05 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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