2019年10月29日

楽園/地獄は足りているか

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ここではないどこかを夢想せざるを得ない人々の希望と絶望をつづれ織りに仕立てた群像劇という意図と狙いは紛うことなく理解できるし、役者陣もそれぞれの役柄に真摯な血を通わせていたことは言うまでもないのだけれど、ではなぜ、今連ねたような言葉の上っ面をこの映画はすり抜けていってしまうのか、二つの独立した原作短編をより合わせることでさらに強靭な普遍を呼び出そうとした試みが感情のサイクルを少し急きたて過ぎたことはともかくとして、『菊とギロチン』の時にも感じたのだけれど、シナリオはすでに叫びであって機能と合理で引かれた設計図ではないとでもいうその熱量をどう受け入れるかによって評価は真っ二つになるのではなかろうか。ただ、その熱量にしたところで、あらかじめ決められた不幸と絶望のレールを歩いていく人たちの裸足の足裏を熱するばかりな気もするものだから、それぞれの運命を襲う筋の通った不条理という矛盾それ自体の露悪にとどまった気もしてしまうのだ。要するにそれは「為にする」というやつであったと言えばいいのか、豪士(綾野剛)と善次郎(佐藤浩市)の生き地獄を紡(杉咲花)が串刺しにすることで彼女を「楽園」という主題の担い手にするための手続きにそれが顕著で、原作ではどのような比重の人物なのかわからないけれど、彼女を光の方へ覚醒させる触媒としての広呂(村上虹郎)という青年の扱いに戸惑いと言うよりは鼻白むのを避けられなかったわけで、そこに至る経緯も首をかしげざるを得ないのはともかく、同郷の2人が東京の青果市場で共に働くこととなるのはまあ仕方ないにしろ、いつしか広呂が病に倒れ(おそらく癌なのだろう)その頭髪やまゆ毛が抜けた風貌からすればそれなりの抗がん治療を受けた後なのだろうけれど、それほどの時間が経過するまで紡は広呂の病気のことを知らないまま、まるで交通事故にでも遭ったことを今しがた知ったかのような風情で病室にかけ込んでくるのだ。その後しばらくして、思い出しでもしたかのように紡に広呂から退院のメールが送られ彼の生存率を知ることで喪失と再生の種が紡に播かれるのだけれど、そもそもが広呂と紡では故郷を飛び出した動機と理由の質がまったく異なるにも関わらず、何の前触れもないまま広呂は突然「おまえが楽園を作ってくれよ」などと紡に言い出すわけで、ワタシはもしかしたら広呂は紡のイマジナリーフレンズなのかとすら思ったのだ。ならばと事態を巻き戻してみると結局は事件当日を描いたオープニングにまで至るわけで、ここで描かれる紡と愛華の関係がまずは消化不良のまま、紡の愛華に対する屈託がその場限りの子供の気まぐれなのか、それにしてはそれが紡の構造上の問題であるかのように思わせぶりなショットの落とす影はフーダニットのサスペンスを撹乱する意図であったのか、結局それは紡の人生をむしばみ続ける罪悪感を下塗りしていたに過ぎないにしろ、一事が万事この調子で逆算するものだからこちらの感情がなかなか併走していかないのだ。前述したように役者陣による入魂の演技によって折々の棘は刺さるのだけれど、それが抜かれることもないまま次の棘を刺されるものだから、その痛みがどの棘によるのものなのか次第に麻痺してしまうのも茫洋とした混乱を誘うことになる。特に邦画で気になるように思うのだけれど、脚本に綿密な整合性を持たせることでまるで余白や余韻が消えてしまうかのように、「描かない」ことを目的とするその筆致が観客であるワタシに負荷をかけているわけで、そしてその「描かなさ」によってワタシは「考えさせられる」のではなくワタシに「考えさせる」ことを求めてくる全体として説諭的あるいは教条的な口調に反発してしまうのだろうと、あらためて自分を把握したところである。セリフももっと字面から自由になればいいのにと思うし、書かれた言葉と話される言葉が互いの手を放してしまっていてワタシにはどうも他人事に聞こえ続けてしまった。ニュースのLIVE映像で故郷の事件を知った紡がすぐその最中に駆けつけられるくらいには東京から近い生き地獄だったのかと、もうひとつだけ意地の悪いことも言っておく。『二十歳の微熱』の時からずっと好きなので、一緒に時間を過ごしてきたような片岡礼子が観られたのはとても嬉しい。
posted by orr_dg at 19:22 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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