2019年10月24日

ボーダー 二つの世界/もう靴下は履かない

border_01.jpg
オフィシャルサイト

なんだ、私はこれでよかったのだ、孤絶していたのではなくあまりにも独立していただけなのだ、自由はすぐそこにあったじゃないかと気づかされたティーナ(エヴァ・メランデル)の束の間の安息の後で襲いかかる驚天動地は、新たな彼女が彼女(便宜上「彼女」とする)であるがゆえ逃れることのできない引き裂かれるような生き地獄でありながら、そこから手を伸ばしてくる憎しみの連鎖への誘惑を払いのけた彼女が最後にたどりつくのは「わたしは誰も傷つけたくない」という強く静かで美しい言葉だったわけで、原題(Gräns/Border/ボーダー)は“境界”に阻まれた者、ティーナとヴォーレ(エーロ・ミロノフ)がその“一線”を超えていく時の姿を謳っていたと同時に、この映画はその姿を、現実と非現実のさらなる境界を行き来させることで永遠につかまらない者として祝福したようにも思えたのである。ティーナとヴォーレが歩を進めるにつれそれまで視えなかった世界が顕わになっていく時、それはワタシたちのためのメタファーであるどころか一切の共感も共有も拒絶していて、それゆえその世界への畏怖にも似た感情がワタシたちの様々な罪深さを無効化するどころか、その意味すらも奪ってしまったようにも思え、それはすなわち世界から見捨てられたということになるわけで、それくらいこの映画の中からワタシたちは跡形もなくいなくなってしまうのだけれど、おそらくはそれゆえに純化した視線を最後には与えられた気もしたのである。まるで頁を繰るように積み重なっていく重層に沈む昂奮は文学にまみれる時の愉悦のようで、テキストでは可能な、説明をしないための説明という矛盾がここではすんなりと視覚に落ちているのは、ティーナとヴォーレの美醜を行き来するその容貌が奏功しているのだろう。美醜でいえばあきらかに醜いという印象を植えつけながら劇中では基本的にそれゆえの日常的な差別描写をしない一方、犬たちはティーナに対して、ティーナの家で飼われている犬ですらが彼女に対して狂ったように吠えかかり牙をむくわけで、社会的な表面と非社会的な内面の対比がより根源的な差別の残酷さを示していて秀逸に思える。物語があくまでこの容貌であることを譲らないのはやがてそこに真実の意味合いが生まれるからで、美醜のラインですらが次第に無効化されていくあたりもこの映画の実験的な醍醐味であるといっていいように思うし、何しろ最終的にはワタシたちの審美眼など及びもつかない世界までぶっ飛ばされるささやかな爽快すらも手に入るのだ。オープニングでティーナが掴まえた虫がラストではどうなるか、その遠くて近く、哀しくて力強く、優しくて荒ぶったひとつの魂の旅を、むしろありったけの予断を持って観ることをお勧めしたい。予断を持てば持つほどそれが粉砕された破片が突き刺さる傑作である。
posted by orr_dg at 19:43 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: