2019年09月20日

荒野の誓い/マダムと軍人

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相変わらず手を汚さない監督だなあという印象は『クレイジー・ハート』『ファーナス』『ブラック・スキャンダル』からずっと一貫していて、個人の情念を社会背景で強化することで主人公が何だか崇高な理念を手に入れたように映るのだけれど、実はその互いが互いを借りものとしているものだから、本来避けては通れない救いがたさが露悪されることもないまま、やさぐれたハーレクインロマンスがマニュアル車でテクニックを競うようなハンドル捌きで繰り広げられることとなる。冒頭、ロザリー・クウェイド(ロザムンド・パイク)が後家となった瞬間から、あとはジョー・ブロッカー(クリスチャン・ベール)といかにして手に手を取り合うかという手続きが、先住民に対するジョーの罪と罰という障害によってなだめすかされつつ幾多の犠牲者の血を吸うことによって、その蒼ざめた顔に血の気を通わせていくわけで、早々とロックオンしたロザリーが煮え切らないジョーにしびれを切らしてテントに誘い、ついには殺戮の火ぶたを切る銃弾を自らぶち込むことでジョーの尻を蹴りあげることとなり、結果としてこの物語は疑似家族となる3人以外をいかに排除するかというその達成のために善悪のくびきを溶かしていくその腐心を奥行に変えていたように思える。なんと言ってもこの監督の才能はキャスティングを含めた座組みに尽きるともいえ、マサノブ・タカヤナギのカメラに加えて今回はマックス・リヒターの劇伴まで手に入れた布陣もあって、あとは馬なりに流してさえいればハイエンドなドラマが手繰り寄せられていくという寸法はさらに磨きがかかり、中盤で投入されるチャールズ・ウィルス(ベン・フォスター)にしたところで、それがベン・フォスターであるがゆえにジョーの漆黒の胸像として対峙するように映りはするものの、役割としてはジョーの手下を人減らしするだけの機能性の人でしかないという贅沢は、ここまでで既にティモシー・シャラメ、ジェシー・プレモンス、ロリー・コクレーンという手練たちを死屍累々と積み重ねることで死のインパクトを借り続けるそれにも繋がっているのは言うまでもない。作品ごとに時代と風土を変えてこの監督が描いてきたアメリカの原風景が、傑出したキャストとスタッフのパフォーマンスにも関わらずどこか芯を食っていないように感じてしまうのはなぜなのか。やはり俳優出身の監督としてこれもやはりシンガーを主役に据えた初監督作をものにしたブラッドリー・クーパーと比べて見た時、ブラッドリー・クーパーの描いたのが、そうならざるを得ない人生の半ばあきらめにも似た確信であったのに対し、一見したところ同じ諦念を漂わせたようでありながら、スコット・クーパーの描く諦念は、叶わなくても仕方がない、なぜならこれは俺の願望に過ぎないのだからという退路が透けて見えるからこそ、そこには地獄が透けて見えることがないように思うのである。だから御大イーストウッドやデヴィッド・ロウリーの映画を観た時のような、“なんだか困ってしまう”感覚がついてまわることがないのだ。イーストウッドになれなかった男という点では世界中の誰しもと横一線ながら、例えばブラッドリー・クーパーになれなかった男と呼んでみた時、その屈辱と屈託が彼に地獄の蓋を開けさせることになるのだとしたら、誰かがそう言ってやるべきだとワタシは考える。と散々な言いようながら、おそらくはその完璧な座組に絆されて次作も観てしまうのは間違いがないのだけれど。ロザムンド・パイクだけが本能的にはみ出そうとしていたように思う。
posted by orr_dg at 22:22 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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