2019年09月16日

タロウのバカ/生きてないやつは死ねない

tarounobaka_01.jpgオフィシャルサイト

あたりまえのように「イワンのばか」を思い浮かべるのだけれど、自己肯定の怪物イワンに対するタロウ(YOSHI)は肯定や否定をする自己というやつがまずわからない自己不定の怪物として、こちらは自己否定の低空飛行で地面に腹をすりつけてはいつも血まみれなエージ(菅田将暉)と自分の中の自己肯定感をかきむしるように苛立つばかりのスギオ(仲野太賀)と共に、おれたちは今ここがここでないことだけを要求するという破壊衝動だけを絆に繋がっている。その絆について言えば、よく言われる登場人物への共感による感情移入など映画にまったく必要のないことを告げる好例ともいえるのだけれど、そうやってピカレスクの光すらを拒否するただひたすらの悪意と暴力によるダンスは、せっかく太陽がお前を照らしてくれているのだから上を向いて自分を肯定しろと迫る世界への、だったらお前が照らすせいで目に入るこのごみクズを先に何とかしろという徹底抗戦にも思えたし、そのダンスに魅惑されるかどうかというよりは、物語という体裁を拒否したそのあまりのやめなさ加減において次第に混濁していく善と悪とか生と死とか朝と夜とか昨日と明日とかいった感覚こそが、この3人の生きる日常なのだとただそれだけをこの映画は告げていたように思ったのだ。となれば踊れなくなった者から死んでいくのも当然と言えば当然で、ついに自己が内側を食い破って出てきたことで肯定と否定の決断を迫られることになったタロウが、グラウンドでサッカーをする少年たちを見て慟哭するその姿に、海を見てこの絶望から始めることを決意したアントワーヌの姿が浮かんだ気もした。避けられぬこととして暴力はふんだんに塗されているのだけれど、最初の殺人は拳銃によってなされねばならないという縛りもあってか、例の如く金属バットで滅多打ちされても人間は死なないという事例が多発していて、それはもう下着をつけたままのセックスシーンと同じくらいフィクションを意識させられてしまうわけで、人が死ぬにはその一閃で十分であることを晒してしまった「その男凶暴につき」の罪深さは海よりも深いままである。そして、彼らがどれだけ往来で人を破壊し襲っても警察が介入してこないのは、この悪い夢が覚めてしまわないための舵の切り方をしているからなのだろうと言い聞かせつつ観ていたところが、終盤でインサートされるある幻視によって時間はすでに夢とうつつのあわいに在ることを念押しのように告げていて、このアリバイは功罪すれすれで映画の救いとなっていたように思う。俳優として最初で最後のマジックを使いきったYOSHIの永続する一瞬を背骨とする危うさが監督の覚悟をうかがわせて冷汗が出続ける。ピザ屋のバイクを弄ぶくだりは、カットがかからなければ誰もいなくなってもあれを続けるのではなかろうかとすら思った。
posted by orr_dg at 21:33 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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