2019年09月08日

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド/夜をぶっとばせ

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オフィシャルサイト

※展開に触れています。

1969年8月がいかに紙一重だったか。8月9日に起きたシエロドライブの殺人を含む複数の殺人事件の犯人としてチャールズ・マンソンとそのファミリーが逮捕されたのはしばらく後の10月12日で、もし仮に現行犯に近いスピードで彼らが逮捕されていたならば、その6日後の8月15日から開催が予定されていたウッドストック・フェスティヴァルに地元自治体や住民とのカルチャーギャップに伴う軋轢で開催地の変更を余儀なくされた経緯があったことを考えてみれば、ヒッピーあるいはフラワーチルドレンの犯した凶悪で凄惨な事件の衝撃によって、ただでさえ緊張含みだった地元との関係は嫌悪や憎悪すらを巻き起こして開催が中止に追い込まれていたとしても不思議ではなかっただろう。その場合、ジミ・ヘンドリックスの国歌演奏が存在しなかったどころか、この世界に「ウッドストック」という概念すらが存在しないこととなるわけで、70年代以降のカウンターカルチャーの横顔はワタシたちの知るそれからは大きく修正されていたにちがいない。そしてタランティーノが幻視してみせたのは、その横顔を照らす光と影の違いこそあれやはり紙一重の世界であったのは言うまでもなく、シャロン・テートを救うことでハリウッドの甘くイノセンスな夢を生きながらえさせると同時に、チャールズ・マンソンという怪物の勃興を阻止したことでアメリカのカウンターカルチャーを救ってみせさえしたわけで、タランティーノがこれまで行ってきた歴史の修正がある極悪を叩き潰すことによってなされてきたことからすれば、この作品では叩き潰すのではなく救い出すという真逆の行為によって大きな転換の修正がなされたこととなる。この映画ではかつて片岡義男が“いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と解き明かしたその時間が、およそ120分を過ぎた頃までメランコリーと多幸感の強烈なないまぜとして描かれ、そして8月9日の逢魔時を過ぎてブールバードのネオンに灯がともり、ミック・ジャガーがベイビー、お前はもう時間切れだぜと歌い出した瞬間、さっきまで夢うつつに見ていたあれを守るためなら何だってする用意があることをタランティーノは宣言してみせるのだ。それまで執拗に繰り返されていた、存在の証をつなぎとめるように足元から全身をあおっていくショットは以降完全に封印され、ほとんどが黄泉の国の出来事でもあるかのような非現実の世界の中で、ヒッピーがハリウッドセレブを血祭りにあげるという構図は真っ逆さまに逆転し、シャロン・テート(マーゴット・ロビー)が「テス」の初版本を胸に抱いた世界は変わらぬままワタシたちの知らない8月10日の朝を迎え、この映画が存在する限りそれは永遠に続くこととなるのである。クリフ・ブース(ブラッド・ピット)は、本来リベラルの質を持った人間であったことがうかがえはするものの、グリーンベレーとして戦場のフィルターをくぐったことで無自覚で整理されていないリバタリアンとしてハリウッドを漂泊していて、ヒッピーやフラワーチルドレンに対する眼差しの暴力的な豹変もごく自然に行われ、それが何であれ思想への共鳴は優先順位のリストに入ることはなくその点においてリック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)よりは70年代をサーフすることの準備はできているように思われる。そうした佇まいもあってワタシにとっての主人公は終始クリフに尽きるということになり、1969年2月9日のクリフ・ブースはこの映画における最高最良であると言い切ってしまってもいいだろうと考える。なかでも、屋根のアンテナを直すべくリックの自宅に戻ったクリフが、ガレージの道具部屋から工具ベルトと作業グラブを取り出して針金をくわえ、劇中でたった一度見せるスタントマンの身のこなしで屋根にのぼり、アロハシャツとTシャツを脱いでタバコに火を点けるまでの一連はすべてのストーリーから解き放たれた完璧なモンタージュとして成立し、インサートされる回想シーンで彼のナイスガイが押しとどめている不発の気配を増幅した上で、その余韻をスパーン牧場の密やかな決闘へとつなげていくこととなる。ここでクリフが漂わせるのは、命のやりとりをして生き残ってきた者特有の倦んだようなアパシー、言いかえれば人殺しの匂いであって、それはランディ(カート・ラッセル)がクリフを忌み嫌う薄気味悪さの正体でもあり、車を停めてスパーン牧場におり立った瞬間、チャールズ・マンソンとそのファミリーが染みつかせた歪んだ精神の澱みに感応してリックの前では封印しているクリフのもう一つの顔が剥き出しにされていくわけで、ノンシャランなヒロイズムが暴力的なマチズモの領域に変質していく一連を物音一つたてず忍び寄る摺り足のシームレスで演じたブラッド・ピットには、息がつまるように圧倒されてしまう。それを日の下にさらけ出したその半年後、クリフのデーモンをいかにして解体し再構築してみせたか、“私たちに殺しを教えたやつらを殺すのよ”とナイフを振りかざす彼女たちに対し、でもまだこの殺し方は教えてないだろ?とさらなる暴力と殺人の新たな角度で世界を均していくタランティーノの、そうやって死を司ってきた者がここでは生を司ることすらを課したことによって今ここにいない者たちへの思慕が強烈に刻まれることとなり、それは例えば『甘い生活』のような、死の香りが立ち込める地獄めぐりを超えた天国めぐりの彷徨となることで、ついには生と死を円環する全体性を獲得していたように思うのだ。そうやってこの夜の紙一重をすりぬけた者たちが静かで親密に笑いながら退場していくラストは、図らずも神を気取ってしまったタランティーノの安堵のため息といくばくかの照れであったように思えて、ワタシまでもが疼くようにうんうんとうなずくばかりなのだった。テックス(オースティン・バトラー)が手にしていた優雅な銃身を備えたコルトはチャールズの愛銃バントラインスペシャルで、実際はこの夜2人の生命を奪い3人目にとどめを刺そうとして不発に終わっている。
posted by orr_dg at 03:29 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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