2019年09月01日

ロケットマン/愛していたと言ってくれ

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オフィシャルサイト

もういいかげんやめにしようやと言ってカートが吹っ飛ばしたセックス、ドラッグ&ロックンロールというスターダムとファンダムの共同幻想を、今の気分にデオドラントした上で絵に描いたような話として復活させたのが『ボヘミアン・ラプソディ』の勝因であったのだろうと思いつつ、やはり絵に描いたような話であった今作と決定的に異なるのは『ボヘミアン・ラプソディ』が「絵」に描いたような話であったのに対して『ロケットマン』は絵に描いたような「話」であろうとした点にあったように思う。だって映画だろう?映画のエは「絵」のことだろ?とすっとぼけては、あくまで正史としての「話」を描こうとしたサシャ・バロン・コーエンを一蹴した歴史修正主義者ブライアン・メイの強権は正しかったのだなあとあらためて恐れ入った上で、そうした現場処理にそれなりのほぞを噛んだであろうデクスター・フレッチャーにとって今作はある意味逆襲というか復讐というか、そうした熱量を内燃させて走らせたのは確かであったとは思うものの、そうやって描きあげた「絵」に描いたような「話」のバランスは、結果として「絵に描いたような話」に均されてしまったように思えたりもしたのだけれど、逆にそれがクリシェのオリジンとしての凄味につながっていたのは、祀られるためには(ブライアンの手によって)偶像の中に閉じ込められるしかなかったフレディに対し、そこから下りることで手に入れたエルトンの解放感がこの映画を撮らせたのは明らかで、なにしろこの映画のタイトルは『ロケットマン(Rocketman)』であって『僕の歌は君の歌(Your Song)』でなかった点においてさらに明らかだろう。そんな風にエルトン自身の完全なコントロール下で仕上げられたシナリオなだけに、トラウマというと聞こえはいいけれど彼がいまだ根に持ち続けていることがいろいろと明らかになっているのが愉しくて、『僕の歌は君の歌』誕生の微笑むようなエピソードよりは、トルバドールでお披露目ステージを大成功させてママ・キャス邸のパーティに招かれるという当時の界隈においてまさにスターダムへの扉が開いたその夜に、それを分かち合うことなくナンパした女性としけこんだバーニー・トービンを恨めしげに睨むエルトンの図が忘れがたいのも至極当然で、そこにつけこんだジョン・リードについて、絵に描いたような悪徳マネージャーというわけでもない陰影と愛憎をしのばせた点もエルトンの自虐史観の表れとして物語の強度を支えることとなる。そしてそれはソダーバーグの『恋するリベラーチェ』を観た時に感じた、人目を喰って生きる者の暴力性を当然のように思い出させることとなって、フレディ・マーキュリーもまたそれをまとい続けざるを得なかった人であったことを思ってみれば、それを無理やり脱がせてしまったブライアン・メイの罪深さをワタシはどうしても思わずにはいられないのだ。となれば、両者にとってのジョーカーたるジョン・リードのメランコリーを描く者はいないのかと思ってしまうのが人情というものではなかろうか。もちろんそれはマーティン・フリーマンに演じてもらうとして。
posted by orr_dg at 03:17 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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