2019年07月17日

さらば愛しきアウトロー/サンダンス・キッドの冒険

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オフィシャルサイト

いつものようにひと仕事を終えて首尾は上々といった足どりで銀行を出てきたフォレスト・タッカー(ロバート・レッドフォード)の顔が、その次の瞬間にはどこかしら焦点の合わない昏さをその目に湛えてみせて、それはおそらく、追わせるために逃げ、逃げるために追わせる、その終わりのない繰り返しの中でしか安寧を得られない人が染まったオブセッションの色であることがだんだんと描かれていくことになる。仕事仲間とは言えテディ(ダニー・グローヴァー)やウォーラー(トム・ウェイツ)とタッカーが根本で異なるのは、タッカーには彼らのように人生のセンチメンタルにペシミスティックが沁みていない点で、永遠の繰り返しの中に生きるタッカーは囚われる過去をもたないことで失くしたものや捨て去ったものへの執着から自由でいられるのだけれど、それはすなわち様々な選択が生む責任とそれが促す成長を拒否することでもあるわけで、ジュエル(シシー・スペイセク)がタッカーに訝しげでありながら惹かれてしまうのは片っ端から枷を捨て去ったがゆえの彼の軽みが、どこかしら人生の浮力をつかんだ人の身のこなしにも映ったからなのだろう。してみるとそれは、ポール・ニューマンとの邂逅によってまるで自分の役割を定めたかのようにサニーサイドのリベラルを演じ続けてきたロバート・レッドフォードという役者がまとい続けたた善性の香りそのものだったようにも思えるわけで、同じ脱獄ものでも『暴力脱獄』と今作では依って立つところが天と地ほども違っていることにもそれは明らかだし、過去においてパトカーに追われるタッカーが駆っていたのが、そのラストで永遠へと溶けていった『断絶』でジェームズ・テイラーとデニス・ウィルソンが駆っていたシボレー150(タッカーのはセダンだったけれど)であった点で、どこへも行かないことを選んだタッカー=レッドフォードの微笑むような諦念があのシボレー150によってそよぐように晒されていたのではなかろうか。孤独や孤絶を不可侵の魂が放つ光ととらえてきたデヴィッド・ロウリーの描くアメリカは、サバービアからさらに遠くその日なたと草の匂いにはワイエスの光と影が宿りつつ、しかしそこに透けて見えるのは血の気の失せたエドワード・ホッパーのアメリカでもあるわけで、そうした両極が互いを憧憬することで生まれるメランコリーがこの映画の隅から隅までを埋め尽くすことで、何を撮っても撮るそばから「アメリカ映画」になってしまうその感情のデザインはまるで彼の敬愛するロバート・アルトマンのそれにも思えて、その「アメリカ」と「映画」を全問正解し続けた多幸感に酩酊しっぱなしだったのだ。このアメリカをワタシはずっと知ってきた。
posted by orr_dg at 22:31 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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