2019年06月23日

ハウス・ジャック・ビルト/ジャックはジャッキを持っていない

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オフィシャルサイト

自身のミソジニー的な振る舞いが、底知れぬ未知を抱える存在としての女性に対する恐怖心に因っていることを分析し、『アンチクライスト』からこちら、自らをシャルロット・ゲンズブールに仮託することでそうしたオブセッションを鎮めるべく画策し、彼女に「人間の特性なんてたったの一言で言い切れるわ、それは“偽善”よ」と叫ばせたことで憑きものでも落ちたのか、「なんでいつだって男が悪いんだ?女はいつも犠牲者で男はいつだって犯罪者なんだ」とぼやくジャック(マット・ディロン)に「でも君の話からすると君に殺される女性たちはみな馬鹿に思えて仕方ないんだが、そうやって彼女たちに優位に振る舞うことで君は昂奮してるんだろう?」とヴァージ(ブルーノ・ガンツ)がまぜっ返せば「いやいや女性たちの方が概して殺されることに協力的なんだよ」と真顔ですっとぼけさえしてみせるのである。それもこれもすべては神聖なる芸術に殉じるためで、その証として俺は完璧な一軒の家を建てねばならないのだとうそぶきつつ、次第に家のことなど忘れていくジャックは俺が現れ殺す処すなわち芸術なりとマニフェストを書き換え始め、そのスラップスティックで引き攣った道行きは今さら言うまでもないにしろコメディに相違ないわけである。そしてそれは計算されたコメディというよりは現在のトリアーが抱える躁病的な病質そのものといった方がふさわしいようには思うのだけれど、ジャックの語る物語に書き込まれる赤いヴァン、赤いジャッキ、赤いキャリーケース、赤い電話、赤いキャップ、赤いローブを血の徴にメメント・モリとするのはあまりにも楽をし過ぎではないかと躁病の目の粗さをいぶかしんでいたところが、その赤が意味するところは果たして何だったのか、それが明かされるラストの、諸君、安心したまえ、言うまでもなく俺は地獄に堕ちる人間で俺もそれをよく分かっているよというトリアーの最後っ屁とも言える開き直りがほんの一瞬とはいえ清々しくさえあったし、それについては、確かに不埒な殺人と死体にあふれた懺悔であったとはいえ、トリアーに通低するセックスも死も肉体のある状態にすぎないというフェティシズムの無縁も手伝っていたように思うわけで、その特殊な乾き方もあってか露悪が沁み込んでくる嫌悪感は巷間ささやかれるほどではなかったようにワタシは感じたのだ。それは第3の件での例のあれこれにも同様で、そこに至る道程からすれば彼らが赤いキャップをかぶった時点でそれは予期されたし、彼らにしたところがジャックにとってはワンオブゼムに過ぎないというある種の公平さがワタシにとっては生理的な嫌悪感を抑え込んでいたわけで、では先だっての『ハロウィン』のように直截的な描写さえなければ行為そのものの禁忌は免れるのかといささか口を尖らせてみたりもするのである。ちなみに母親へのとどめの一撃は弾着のタイミングがほんの微細ながら早すぎはしなかったかと、ワタシはそんな風に観ている観客ではある。かと思えば第2の件では絞殺された死体に添えられるのが失禁(『アメリカン・アニマルズ』のような)ではなく目尻から流れる一筋の涙であったりもするわけで、狂人には狂人なりのわきまえがそこにはあることを描いてはいたように思うのだ。おそらくは自他が認知する病質を抱えたままトリアーは可能な限りの社会性を総動員して映画を仕上げているのだろうことを思ってみた時、ある側からしてみればどの口がそれを言う?とでもいう「愛もまた芸術なのだ」「愛がなければそれを芸術とは言わない」などの言葉をトリアーが心の底から信じていることがうかがえたりもするし、トリアーが自身を生かしている理由がグレン・グールドのピアノでありリチャード・ククリンスキーの人生であり、デヴィッド・ボウイのプラスティックソウルであるとするならば、何のことはないワタシも彼と変わりがない人間ではないか。観ていると何だか笑えて仕方がないのは、鏡に映った自分への照れ隠しであったに違いない。
posted by orr_dg at 01:49 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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