2019年06月11日

誰もがそれを知っている/血は争える

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オフィシャルサイト

戸口に立った聡明で美しい妻ベア(バルバラ・レニー)と、彼女の向こうに広がって見える緑の農園を見やるパコ(ハビエル・バルデム)を捉えたショットは、やがて彼が失うことになるそれらへの予感めいた郷愁であったのか、彼もまたファルハーディ作品の主人公が引き裂かれてきた“永遠の最悪”と“最悪の最後”の選択を迫られることになるのだけれど、その選択の果てにベッドにひとり横たわったパコがうっすらと浮かべる笑みは、それによってすべてを失い周囲を不幸にしたとしても彼の中には小さく光る幸せが灯ったことを告げていて、そんな風に世界と刺し違えながらも救いを手に入れた人間がこれまでファルハーディの作品に見当たらなかったことを思って見る時、犯人の正体を知ったあの2人がその秘密にどう向き合うのか、“永遠の最悪”として胸の内にとどめるか“最悪の最後”として断罪してみせるのかファルハーディとしかいいようのないラストへとやや強引に舵は切られ、それが新たな“Everybody Knows(原題)”という呪いとなってあの一族を苛むだろうことを予感させるて幕は閉じられる。『別離』以降、実存の不安を夫婦という血の繋がらない「家族」の闘争と決壊で描いてきたファルハーディが、ここでは夫婦という縦糸に血族という横糸を織り込むことで「家族」というさらなる地獄を彫り込むことに挑んでいて、完全な非イラン圏の物語としてスペインのある田舎の一族を舞台にしたのもいっそうの普遍性を求めてのことだったのだろう。群像劇のアンサンブルを紡ぐ手さばきは既に『彼女が消えた浜辺』でその手管を見せつけてはいたものの、これまで測ってきた孤島のような都市生活者の距離感を手放して懐にもぐりこむ土着のステップを、しかも異国の風土で獲得するのはさすがにファルハーディと言えどもいささか荷が重かったのではなかろうか。ラウラ(ペネロペ・クルス)の義兄の知人で事件が起きるまでは家族と縁もゆかりもなかった元警官ホルヘ(ホセ・アンヘル・エヒド)の突然の介入によって絞り出すサスペンスには正直言って苦戦の跡がうかがえたし、血縁の外部で行われる地主と小作人の階級闘争的な斬りつけも縦糸と横糸に絡まったまま不発に終わってしまっていたように思うのだ。そしてこれは言っても詮無いことなのだけれど、これまでは普段知ることのないイランの俳優たちが演じることで成立していた匿名性ゆえのいつ誰からどんな刃(やいば)が飛び出すかわからない緊張感に比べると、ペネロペ・クルスとハビエル・バルデムというよく知った俳優たちが備える刃の切れ味や美しさが良くも悪くも調和の内にあることで、こちらが感情のありかを先回りしてしまうのも、本来ならば精緻で微細に描かれていく波紋が意図通りに広がっていかない一因となっていたようにも思ってしまう。しかし、人間の孤独と絆が絡まり合う「家族」という天国と地獄の間を、まるで山田太一の志を継ぐかのように描き続けるファルハーディにとって今作はあくまで習作にすぎず、その歪さはあらかじめ織り込み済みであったようにも映るわけで、なかでも救済の底に触れて戻ってくるパコの姿は今後の新基軸となるようにも思っている。劇中ではある仕掛けとして公然と用いられはするものの、ドローン撮影によって手に入れた鳥の目の誘惑からはファルハーディですら逃れられなかったのだなあと、らしくない浮力を感じたりもした。
posted by orr_dg at 23:56 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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