2019年05月22日

アメリカン・アニマルズ/いつも同じ時間に退屈になる

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オフィシャルサイト

「彼らは楽をしようとしたのでしょう。成長のために経験を積もうという考えが彼らにはなかった」とベティ“BJ”ジーン・グーチ(アン・ダウド)が語る言葉こそが、この無様で滑稽な4人を断罪するにふさわしいのは重々承知の上で、どうしていつもいつもこの世界は世界のままなのか、何をすればその顔がほんの少しでも歪むのかと言いがかりのように苛ついた身の覚えのせいなのか、彼らを笑うことなどできるはずがないどころか同族嫌悪とも言える吐き気すら覚える始末だったのだ。バイト先の倉庫から肉の塊を盗み出し警備員を振り切った程度の逃げ足で「アイム・アライヴ(今おれは生きてる!)」と満面の笑みを浮かべるスペンサー(バリー・コーガン)とウォーレン(エヴァン・ピータース)にとって、1200万ドルの稀覯書はせいぜいがより高級な肉の塊に過ぎないわけで、美大生であるスペンサーがオーデュボンの版画に対する芸術的なアプローチの一切を見せないあたりに彼の死にっぷりが否でも窺えて、君は作品で何を表現したい?君は芸術家としてどうありたい?と質問されて答える言葉を持つことのないスペンサーの死んだ目こそがこの映画のトーンを決定したといってもいいだろう。そのあたり、運動部の奨学金で入学しておきながらスポーツ馬鹿ばかりだと毒づいてチームの一切にケツを向けるウォーレンもまた同様で、このすべては死人を自覚する彼らが自らに施した電気ショックにすぎないことを思えば、BJの言葉と彼らが100万光年を隔ててすれ違うのはやむなしとすら思ってしまう。そのうち当の本人たちがカメラの前に現れてかつての自分たちを自ら断罪するに至り、すべてを否定された2004年の彼らはまるで集団リンチを受けるように追い詰められていくこととなるわけで、どこかしらオフビートなピカレスク風に語られるこの映画を苦笑いとしてすら笑えなかったのは、その善悪や正誤に関わらず彼らなりに切実であった世界との接続がすべては身から出た有害な錆でしかなかったというその逃げ場のない痛々しさによっていて、「老人はこの社会では視えない存在なんだ」としたり顔でうそぶきつつ徒党を組んだ4人の老人が学生たちの只中に現れて浮きまくる笑えないコント、アムステルダムのバイヤー(よりによってウド・キアー)やクリスティーズの鑑定人といった楽をしてこなかった大人たちの前に現れた時の彼らがまとう圧倒的な借り物感と未熟さの惨めさ、などといった彼らが真顔でいればいるほど傷口に塩をすり込んでいく残酷な回想はいつしか2018年の本人たちへの不信すら呼び覚ました気がして、好むと好まざるに関わらず2004年の自分とそれ以外の自分との二役を永遠に演じていかねばならない彼らにいつしか憐れみや蔑みを抱かされている自分に嫌気がさしてしまう。NYの車中でチャズ(ブレイク・ジェンナー)に万死に値する致命的なミスをなじられて、どうして自分は今このまま消えてしまうことができないのか、むしろそのことの方がおかしいじゃないかとでもいう風に顔をゆがめ身体を捩らすスペンサーに憑依したバリー・コーガンが言葉を失うほどに凄まじい。揃いも揃っていなたいチェック柄のシャツを着た集団のバカ騒ぎに苛立って、彼らに殴りかかるエリック(ジャレッド・アブラハムソン)もまたチェックのシャツを着ているという底の抜けた哀しみにも引き裂かれる。レナード・コーエンの“Who by Fire(火に焼かれるのは誰だ)”が流れる中、踏みこんだFBIに次々と逮捕されていく彼らをスローモーションで捉えるシーン、頭に浮かんだのは「3年B組金八先生」で中島みゆきの“世情”が流れる中、機動隊に連行される加藤優の姿なのだった。なんというか加藤くんには申し訳ないのだけれど。
posted by orr_dg at 21:50 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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