2019年05月17日

ラ・ヨローナ 〜泣く女〜/水でも飲んで落ち着け

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オフィシャルサイト

『グリーンブック』では豚に真珠、もしくは掃きだめに鶴と崇められて映画の良心となったリンダ・カーデリーニが、ここでは主にサスペンスの発生装置としてやらかしては転げまわっている。ラ・ヨーロ誕生の哀しい経緯を現代(といっても舞台は1973年だけど)のネグレクトに関わる問題に絡める着想はタイムリーだし、主人公アンナ(リンダ・カーデリーニ)をそうしたケースを扱うソーシャル・ワーカーにしたことで、彼女を渦中に放り込む手筈も整っていたように思うのである。冒頭で彼女が担当する家庭の子供が不審死を遂げることでその母親がネグレクトを疑われ、その究明を進めるアンナも次第にその母親と同じ状況に追い込まれていく、というのがこの映画の神経戦としての構造となるのだけれど、ラ・ヨローナの脅威から子供たちを守る行為の特異性とその消耗が周囲には彼女によるネグレクトに映ってしまうという逆転があまりうまくいっていないことで、神経症的に苛まれる側面が霧散してしまっていて、たとえば修羅場の中で食事をつくるどころではなくなりTVディナーのような夕食となる場面があるのだけれど、アンナの息子を診察した医師が子供の腕に残るラ・ヨローナの徴を見てネグレクトを疑い、通報を受けたアンナの同僚とその刑事がアンナの家を訪ねることになるのだけれど、そのタイミングをなぜ子供たちがTVディナーを食べている場面にしなかったのか、それが育児放棄と映る格好の場面だったのにとその意図を疑うわけである。それともう一つ、アンナが巻き込まれるきっかけとなる母親が子供をラ・ヨローナから隠した部屋の扉の一面に描いた護符のような「目」の意匠は、その母親と同じ立場に追い込まれるアンナもまたそれを描くことになるとばかり思っていたものだから、それは『CURE』のうじきつよしの部屋を例にあげるまでもなく、恐怖の実体が自分に向かってくることを厚塗りする常套手段をなぜ手放してしまうのか、せっかくの伏線をなぜ活かさないのかもったいなく思ってしまう。とは言え、この神経戦の構造を維持するのが難しいのは、ラ・ヨローナのアタックが憑依型のそれではなく完全に肉弾戦を挑んでくるからで、ブヴァァァァという出囃子と共に現れてはただひたすら追い回して物理攻撃を仕掛ける猪突猛進はここのところのポスト/ポストモダンホラーの潮流からは完全に道を外れたモンスターのビックリ箱であって、そのドシャメシャが舞いあげる風が一瞬心地よかったのも確かではあるにしろ、本来はメランコリーに食い尽くされた化け物であるはずのラ・ヨローナさんが、いつしかキャシー塚本のように爆裂し暴走するその姿は彼女の本意であったのかといらぬ心配などもしてしまうわけで、死霊館シリーズ(The Conjuring Universe)において、前述したポスト/ポストモダンホラーの潮流とは異なる「見れば分かる」“ニューライン・シネマ”ホラーを新たな手口で研ぎ澄まし続けるジェームズ・ワンにとって、このスピンオフシリーズはある意味で実験的なアプローチの場であり、この直截性はあくまで一周回ってきた結果によっていると思うのだけれど、「見たまんま」と「見れば分かる」のカミソリ一枚ほどの違いをスリリングに感じるにはラ・ヨローナさんが少しはしゃぎ過ぎであったと、相応の呪いを覚悟で苦言を呈しておきたいと思う。
posted by orr_dg at 14:54 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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