2019年05月06日

芳華-Youth-/わたしたちが軍人だったころ

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オフィシャルサイト

青春を知らされぬ者を青春が庇護する者たちの楽園に放り込む酷薄な仕打ちは、ホー・シャオピン(ミャオ・ミャオ)とリウ・フォン(ホアン・シュエン)の2人を観客がわが身へと焼き付けることの、ほとんど脅迫にも似た念押しにも思える。模範兵の憂鬱と政治に踏みつけられた者の薄倖が特権階級のノンシャランにとってかわる因果応報的な逆転は最後までないまま、祝福された過去を今に繋げる術などない者は漂泊し続けるしかないことをシャオピンとリウ・フォンが互いの中に認めるラストの哀切こそが監督の視点であり、この物語を現代に語ることの意志であったのは間違いがないだろう。それにしても、なぜリウ・フォンのように清濁の曇りない眼を持つ者が、持って生まれた幸運に無自覚なまま微笑むリン・ディンディン(ヤン・ツァイユー)に惹かれてしまうのか、それはシャオピンが彼の恋愛対象にはなり得ないことの裏返しにも思え、政治的なマスコットとして英雄を生きねばならないリウ・フォンにとって、リン・ディンディンが生きる時の人生の霞を食うような無邪気は彼の屈託に差しこむやわらかな光にも思えたのだろうし、シャオピンの思いつめたような清廉はそれが強くて善い生き方によるのだとしても、リウ・フォンにとっては自家中毒をおこしかねない感情だったのではなかろうか。シャオピンの重ねての不幸は彼女が自身のために踊る術を持たなかったことで、父を失いリウ・フォンが去った後ではもはや彼女にとって踊ることは意味を失い、その後で暴走するかのように突き進む献身のふるまいが彼女を破壊してしまうその運命はどうにも不可避だったようにも思うのだ。何も持たぬゆえただただ善く生きようとした者、と言ってみればそれこそが人民の美徳であったはずが、それゆえに背負ってしまう苦難と果てのない流転を容赦なく叩きつけるこの作品はそうした人々への鎮魂であるのか自己批判であるのか、前半で描かれるきらめくような青春の楽園と、楽園を追われたものが地獄へと堕ちていく後半の、ほとんど別の映画とすら言える変転が観る者の退路を絶っていく監督の鬼気迫る筆さばきは寄る辺ないまでに容赦がない。シャオピンとリウ・フォンの地獄巡りで描かれる戦場や野戦病院におけるあけすけな人体損壊描写を目にして、どこか儚げに描かれてきた白血病のイメージに冷水を浴びせるがごとく死斑の浮いた土気色の徹底的にリアルな描写で臨終を描いた『サンザシの樹の下で』を思い出し、これが大陸の気風なのかはともかく、ショッカーとしてのゴア描写ではない物質としての肉体に対するプラグマティックな対峙が素晴らしく映画的に奏功することを再認識したのだった。そして一つ、高原地帯での慰問でシャオピンが代役として急遽ステージに上がるシーンがあるのだけれど、そこでシャオピンがいったいどのような踊りをしてみせたのかが描かれていないのである。実はこのシーンを含め146分版からいくつかのシーンがカットされた134分版をワタシたちは観ているのだけれど、ここで彼女が圧倒的なパフォーマンスを示すことで、このステージを最後に踊ることをやめてしまうシャオピンがどれだけかけがえのないものを棄ててしまうことになるのか、そもそもシャオピンとは誰だったのかを映画が叫ぶ抜き差しならないシーンになり得たに違いないと思うものだから、この点において画竜点睛を欠いたとしか言いようがなく思ってしまっている。
posted by orr_dg at 03:19 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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