2019年04月26日

魂のゆくえ/神は騙されている

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オフィシャルサイト

※展開に触れています

メアリー(アマンダ・サイフリッド)の呼び出しに応えて2度目に彼女の家を訪れたトラー(イーサン・ホーク)が停めた車を、最初の時に比べればぞんざいと言っていいはみ出し方で捉えたカメラは既にトラーの転調を告げている。よりよく闘うこと、すなわちよりよく殺すためのコンディションを御心にて維持すべく神と国に仕える従軍牧師の家に生まれそれを継いだトラーは、アメリカ兵の死を神の言葉でなだめる一方、従軍牧師を“継がせた”息子の死に際してはそれを恩寵とする言葉を持つ術もないままあっけなく瓦解してしまい、果たして従軍しない従軍牧師に神の声は聞こえるのか、聞く資格はあるのか、ならば自分が仕えているのは誰なのか、おそらくは人生で初めてトラーは無垢の人として在ることで神をとりまく世界の悪意を目の当たりにし、もはやプロテスタントもカソリックもなく宗派のくびきから解き放たれたトラーは、メアリーを懐胎したマリアに見立てでもしたかのように一人十字軍の途をひた走り始める。メアリーにとって牧師は神の代理人として全能であって、そうした無邪気と無辜がさまよえるトラーを強迫することで彼を覚醒させることとなり、実際のところ終始彼女の手のひらで七転八倒するばかりのトラーは、というかイーサン・ホークという人は、ファム・ファタルのリードするダンスでボロ雑巾のごとく振り回され息も絶え絶えに身悶えする瞬間にこそ後光を放つ稀有な俳優であり、このシナリオがアテ書きであったことを明かしたポール・シュレイダーの酷薄なまでの慧眼には恐れ入るしかない。うっすらと目を閉じ歯をくしばりながら白く緩んだ肉体に有刺鉄線を巻きつける姿は、恩寵のもたらす快感に抗う行為それ自体を官能として待ち構えていたようでもあり、もしもメアリー=マリアによる救済(「エルンスト!」)がなければ光年の彼方まで逝ってしまっていたに違いない。夫がライフルで自分の頭を吹き飛ばしたばかりの寡婦と笑顔でサイクリングに興じ、最後の晩餐をきどって刺身で晩酌をするトラーの羽の生えたような卑俗もまたイーサン・ホークの為せる技で、堕ちながら翔びそして激突する人の面目躍如というしかなかったのだ。サイクリングのシーンでの、自動車ならたやすいが自転車のスピードをどうやって掴まえようかと考えたあげくのファーストカットに『はなればなれに』の自転車とかそういった風な可愛らしさが飛び乗っていて思わず2度見する気分であった。つっかえ棒を全部外したとして映画は立ち続けるのかという試みに挑み、立ち続けるどころかありえないダンスをさせた前作『ドッグ・イート・ドッグ』がワタシは大好きでその年のベスト10に選んだりもしたのだけれど、今作ではそのつっかえ棒が映画を腹から背まで、脳天から肛門まで串刺しにしてしまっていてしかもそれを、この打ち棄てられた世界をなお愛し続ける証とすることで新たな信仰の礎へと再生してしまっていたのである。ある側面におけるイーサン・ホークの到達点にしてポール・シュレイダーの最終覚醒を告げる傑作であり、スコセッシにとっての『沈黙』、塚本晋也にとっての『野火』となる弩級のメルクマールであったし、何より40数年の時を経てあの映画を脚本家自らが更新するスリルへと、悪魔のような笑みが誘っていたのは間違いようがないのだ。
posted by orr_dg at 20:55 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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