2019年04月23日

ビューティフル・ボーイ/ローリング・ダッド

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オフィシャルサイト

彼ら(ジャンキー)は、泣きごとを言っても身動きをしても無意味だということを知っていた。もともと人間はだれも他人を助けられるものではないということを知っていた。他人から教えてもらえるような秘密の解決法などありはしないのだ。
― ウィリアム・S・バロウズ

両親の離婚、スタイルの英才教育、ブルジョアジーの憂鬱、などなどニック(ティモシー・シャラメ)が堕ちた中毒の理由などいくらでもドラマタイズできそうなところだけれど、それらを救済の口実として自身を慰めることなく、最愛の息子がジャンキーになったという寄る辺のない現実を理解し受け入れるために自身を更新し続けた点において、この映画とデヴィッド(スティーヴ・カレル)は極めて誠実だったように思うのだ。ジャンキーは病質ではなく、退化でもなく進化でもなく、ここからどこかへ変質した存在であること、そしてその変質は永遠であって帰還は一時的なものに過ぎないことを、ジャンキーへの偏見ではなく認識として持つに至るまでの道行きは、ドラッグとは切り離せないカウンターカルチャーの只中を生きてきたデヴィッドにとって季節外れの通過儀礼でもあったのではなかろうか。これがティモシー・シャラメであればこそ、どう転んだとしても画は維持されるにしろ、ニックの言動やパターンはこれまで見知ってきたジャンキーのそれと違わぬステレオタイプとしか映ることがないまま、ゾンビがみなゾンビとしてふるまうようにジャンキーはみなジャンキーとしてふるまうようになってしまう張りぼての哀しみを知らされることになる。継母カレン(カレン・バーバー)がニックとローレン(ケイトリン・デヴァー)の車を追いかけながら流す涙は愛情の通じない相手に対する怒りと悔しさのそれで、逃げ足のニックが見せる、罪の意識など光年の彼方にあって自分の不都合と不利から逃げ切ること以外何の意識も感情も持つことのない動物のような自我の残りカスに背筋がざわついて、これほど哀しくてどこへも行けないカーチェイスを今までに見たことはないと思った。劇中とクレジットロールで2度ニックによって朗読されるブコウスキーは、ニックが求めた人生の均衡を代弁すると共に、そのアディクトはバロウズ的なビートニクのダイヴが連れてきたことを匂わせてニックの物語としては理解と収まりを可能にする一方で、デヴィッドにとってはその実験精神を肯定せざるを得ないというジレンマに囚われるに違いなく、それはジョン・ゾーンをネタにスクウェアを笑うヒップな息子に育てた父親が受けてしかるべき報いであったといったら少しばかり意地が悪すぎか。
posted by orr_dg at 20:26 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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