2019年03月31日

サンセット/私という名の謎に

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オフィシャルサイト

サウル・アウスランダーがそうであったようにワタシはレイター・イリス(ヤカブ・ユーリ)だけを見ていればいいのだと、ネメシュ・ラースロー作品専用の本能が察知する。すべてのシークエンスに居るイリスが目にするものを強迫的に伝えるカメラは、偏執的と言ってもいい身のこなしで彼女の体ごしにあちら側を覗こうとまとわりついていき、となれば前作がそうであったように状況を俯瞰し説明するショットなど望むべくもなく、彼女が知る由もないことはワタシも知る由がないまま、ただ一つオープニングで宣言されたように、これはイリスがヴェールを上げることで始まる物語であること、そしてそれを一度上げた後では後戻りすることなど命の限りにおいて叶わないことだけを確かに、歴史の濁流がまき散らす暴力と死のメランコリーに陥穽され翻弄され、混乱し困惑し、しかし私はそれらを傍観し受け入れてしまうわけにはいかないのだ、なぜならそれらの一部は私で私の一部はそれであるからだと、イリスはその道行きで知っていくのである。そしてついにはカメラの呪縛を振り切り追いすがるそれを正面から見据えるラストにおいて、彼女がどこで何をしている人間となったかを知る時、ウィーンから来た男を殺せという囁き、王宮へひた走るブラッドハーレーの馬車、そして避けられぬテロルの季節と帝国の終焉が告げる世界秩序の崩壊に呼応すべくイリスが獲得した彼女自身の秩序を映画は告げてみせるのだけれど、塹壕の彼女が身を置く大量破壊の奔流がやがて『サウルの息子』を産み落とす運命を既にワタシたちが知ってしまっていることを想う時、歴史と刺し違えるべく身を投げ出した記憶を持つ世界中のイリスに向けたしめやかなレクイエムのようにこの映画は響いたのだ。主人公の体験する世界の瞬間をその知覚した光と影であふれるように伝えつつ、しかしそこに内省を補助するセリフやカット、インサートをいっさい与えることをしないイデアとしてのショットに対する絶対的な崇拝に、まるで祈りのように終始止むことのない長回しが捧げられ、それはスクリーンが導くことの傲慢よりはいっそ誤解を受け入れようという観客への信頼を自らに課しているようでありつつ、そこにはうっすらとした絶望も透けて見える気がするからこそその野心の敬虔に共感するに違いなく、それは精緻を極めつつもそこに信頼や絶望を必要としないキュアロンの『ROMA/ローマ』とは対極にあるようにも思うわけで、強圧的な映画の成功体験を浴び続けることでいつしか被る不感症に処方された劇薬にして傑作と、この映画のことを考えたい。こういうのがないと少し困る。
posted by orr_dg at 20:39 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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